2021年03月31日(水)

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリスト の名によって父なる神に感謝しなさい」エペソ5:20


ある人の父親は、しばしば泥酔した。飲酒すると人が変わってしま
った。そんな父親が変わってくれるように、ずっと祈っていた。祈
りに祈っているのだが、父親の飲酒は全く変わらなかった。ある時、
祈っている中で、父親を変えよう、変えようとしている自分に気づ
かされた。今の父親が、嫌で嫌でたまらなかった。心では軽蔑し、
責め、見下し、裁いていた。

そんな自分の内側を見せられて、心から悔い改めた。そして「すべ
ての事について感謝せよ」と導かれ、御言葉に従い、父親が与えら
れている事に感謝した。父親が飲酒を止められない事にも感謝した。
感謝し続けていると、不思議が起きたのだ。父親を裁く心が変えら
れ、いつしか父親を嫌悪し、見下し、軽蔑していた気持ちが無くな
ったのだった。父親を見る目が変わった。

すると、父親が教会へ来てくれるようになり、驚いた。父親を裁き、
軽蔑する事がますます飲酒に追いやっていた事に気づかされた。あ
る人は子供のために祈るのだが、「良い子になるように。言う事を
聞くように。出した物を片づけるように」あれこれ〃と注文つけて
祈っていた。そんな中で気づかされた。

日々絶えず、細かい事まであれこれと、子供を叱るばかりで、つま
りそれは「お前はダメ、不十分」と否定し続けている事だと。子供
を変えよう〃としている事に気づかされた。どんなに子供を損なっ
ていた事だろう。変わるべきは自分自身だった。まず、家族に感謝
する事を始めた。

妻を、子供を与えられている事、家庭が与えられている恵みに心か
ら感謝し始めた。そしてこの家族を幸せにするために、自分は何が
できるのかを祈り始めた。すると家の中の空気が一変した。暖かい
雰囲気になり、皆がリラックスできるようになった。

・・・・・・・・・・・
御言葉の通りに、すべての事について感謝して行くと、主のみわざ
を見せられる。驚くばかりだ。御言葉の真実を経験する。感謝には
本当に大きな霊の力がある。不満、不安、思い煩いを砕き、サタン
の足場を無くしてしまう。「いつでも」「すべての事に」感謝しよ
う。


2021年03月30日(火)

「すべての懲らしめは・・後になると、これによって訓練された人々 に平安な義の実を結ばせます」へブル12:11


私たちが望むのは、とにかく問題が無い事、平穏無事な事だろうか。
家内安全、商売繁盛、無病息災、五穀豊穣だろうか。生涯が、問題
の無いように、いつも安全な所に身を置いていたい。だが一生涯、
もし何一つ問題は無く、平穏であれば、何の必要も無いので、神を
求める事は決して無いのではないか。

順風の時は神無しで生きる事ができる。自分の力で問題なく生きら
れるので、神を必要としない。自分にはどうにも出来ない、絶体絶
命の窮地で、初めて人は神を求める。悩みや、困難は、私たちを神
に近づけてくれる。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意・・これらの
実はいつ結ぶのだろう。愛はどうだろう。漠然と抽象的になら、幾
らでも愛する事ができて、簡単に全世界を愛せる。

だが、現実の目の前の、嫌な相手を愛せない。どうしても愛せない
相手が置かれて、愛せない自分を知る。悩み、苦しみ、自らの限界
を認め、主に明け渡した時に、御霊の愛が与えられる。全く喜べな
い環境、感謝などできない状況に置かれて初めて、主の取り扱いに
より、御霊の喜びを知る。平安が全く持てない境遇を通らされて、
真の平安を知る。

寛容になれない状況、全く寛容のかけらすら無い自分に向き合い、
主によって寛容な者と変えられる。一つ一つの出来事を通り、醜い、
どうしようもない罪人である真の自分を知り、主の品性へと変えら
れて行く。窮地に陥り、御霊の実が与えられて行く。試練は望まな
いが、試練を通して成長させられて行く。試練は感謝だ。

・・・・・・・・・・・
試練に会う時、この上もない喜びと思えと。試練により忍耐が生じ
霊的に成長すると。成長は試練による。人は順境の時は、無意識な
がら自力で生きて行く。主を頼らずとも生きられるからだ。主から
の訓練は、真に主と向き合わせられ、必ず実を結ばせられて行く。


2021年03月29日(月)

「預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った『私の 夫が死にました・・貸主が来て私の二人の子供を自分の奴隷にしよ うとしております』」U列王4:1



エリシャは預言者の集団を従えていたが、その内の一人が亡くなっ
た。借金を残しており、貸し主が二人の子供を奴隷にしようとして
いると、妻が訴えて来た。彼女にとれば、夫の死、それに加え二人
の子供が奴隷にされようとしている、まさに窮地で、絶望状況であ
った。彼女はエリシャのもとへ来て叫んだ。彼女は正しい相手に求
めた。

エリシャは「何をしてあげようか」と「家にどんな物があるか」と
尋ねた。すると家の中には何も無く、油の壺一つしか無いと。エリ
シャは、近隣から空の器を借りて来るようにと言い、油をついで行
くように言った。彼女は、近所から多数の壺を集め、次々に油をつ
いで行った。その一つだけの油の壺から、油は幾らついでも、無く
ならず、器の数の分だけ出て来た。

そして、壺が無くなった時に油は止まった。それを売って負債分を
支払うようにと。主は必要を満たし、子供たちは守られた。私たち
も窮地の時はまず主に叫ぼう。主は「何をしてあげようか」と祈り
を受け止めて下さる。そして空の器が満たされたように、空の心を
満たして下さるお方だ。私達は、空の心を別のもので満たそうとす
る。

名誉地位、富、仕事趣味、人からの賞賛、自己実現・・だが決して
満たされる事はない。主に虚しい空の心を持って行く時に、御霊で
満たして下さる。又、器に、余分なものが入っていないだろうか。
それなら、主は満たすことができない。それらを明け渡そう。「空
の器」こそが満たされる。
-------------
空の器を自分で満たそうとして見当違いな努力をしてしまう。空で
あることを認めて、主に願おう。主と共に必要を満たしていける。
今、必要なものを主に叫ぼう。


2021年03月28日(日)

「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来ら れたときに、彼らといっしょにいなかった」ヨハネ20:24



弟子たちが恐れて隠れていた家に、よみがえられた主が、ご自身
を現わされた。そして「平安があなたがたにあるように」と。「弟
子たちは、主を見て喜んだ」とあり、どんなに嬉しかった事だろう。
興奮し、喜びに満ち溢れた。しかし、その場にトマスだけが不在だ
った。

自分がいなかったのだが、「自分がいない時になぜ?」「自分だけ
がいないのに?」と、不満な思いだったかも知れない。「私たちは
主を見た」と大喜びの弟子たちに、すねたように「その手に釘の跡
を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差
し入れてみなければ、決して信じない」と言った。

そしてその八日後、今度はトマスが一緒にいる、弟子たちの部屋に、
再びご自身を現わされた。主は、そのトマスに「あなたの指をここ
につけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに
差し入れなさい」と、トマスが言ったままを言われた。「決して信
じない」に対して「信じない者にならないで、信じる者になりなさ
い」と。

トマスの心の中をすべて何もかも見ておられ、そしてそれが受け止
められている。その主の愛に包み込まれた。自分で見なければ、決
して信じないと言ったそんな自分を受け止め、向き合って下さった
主。まさにそのトマスのために、現われて下さったような状況では
ないか。彼は、その主の愛に触れ、指を釘跡やわきに差し入れなか
った。しかし「私の」主、「私の」神と、信仰告白が溢れ出た。

・・・・・・・・・・・
主に会えなかったトマスは、自分で確かめなければ「決して」信じ
ないと言った。だがトマスは主の大きな愛に触れ、結果的に「私の
主、私の神」と最高の信仰告白をした。主はいつも、すべてを最善
に導かれる。私たちにも、今、目の前の事をそのようにして下さる。


2021年03月27日(土)

祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうす れば、そのとおりになります」マルコ11:24


祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信ぜよ。そうすれば、
その通りになると、素晴らしい約束が与えられている。しかし、次
に続く言葉がある。「恨み事があったら赦してやりなさい」と、赦
す事が強調されている。赦さない心は、祈りを妨げてしまうと。祈
りが聞かれない。主があなたを赦して下さったのだから、恨み事の
ある相手を赦しなさい、と。

私たちはよく失敗する。ミスを犯すし、罪を犯してしまう。しかし
主は豊かに赦して下さっている。罪を犯さないのではなく、罪は犯
すが、赦されて〃生きている。それだから私たちも相手を赦すべき
だと。日常生活でどうだろう。まず恨みや憎しみや赦さない心があ
ると、祈れなくなってしまう。主と私たちの間に距離ができて、平
安が無い。すると確信もった祈りができなくなる。

あなたも経験あるだろうか。ある人が、切迫した必要があり、主の
御前に祈っていた。しかし幾ら祈っても答えがない。尚も祈るが答
えが来ない。それで心探られる中、ある人に対し、心の底に恨みと
赦せない思いを根深く持っている事を示された。これが妨げである
事がわかり、心から悔い改めた。そして赦した。

その後、見事に祈りの答えを見た。密かな恨み、赦さない心は祈り
を妨げてしまう。妨げが取り除かれる時、主との間が正しくされる
ので、平安が与えられ、すでに受けたと信じる事ができる。そして
答えを得る。まず赦せない心を認め、主に告げて、赦せるよう助け
を求めよう。

・・・・・・・・・・・
祈りが答えられる事と、人を赦す事がセットになっている。赦さな
い心は祈りを妨げてしまう。恨みや憎しみの苦い根が心の奥にない
だろうか。御霊に心を探って頂き、悔い改めにより、苦い根を引き
抜こう。そして祈りの答えを頂いて、喜びに満たされよう。


2021年03月26日(金)

「自分の口と舌とを守る者は、自分自身を守って苦しみに会わない」箴言21:23



聖書には、舌について、多くの戒め、勧めが出て来る。普段どうだ
ろう。よく考えずに、思ったまま、感情のまま、言葉を発してしま
うだろうか。舌には十分注意をし、気をつけるようにと言っている。
外側から人に入って、人を汚すことのできるものは何もない。人か
ら出て来るものが人を汚すとあり、人の口から出る言葉が人を汚し
てしまう。

「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。知恵のある人の舌は
人をいやす」とあり、言葉は人を刺し殺すことも、人をいやして、
救い、建て上げる事もできる。両刃の剣だ。「軽率」に気をつけよ
う。自制無く、感情のままに発してしまい、人を傷つけてしまう。
特に売り言葉に買い言葉となると、思ってもいない事まで言ってし
まう。

「知恵ある人の舌は、人をいやす」、相手をいやす事ができたなら、
どんなに幸いだろう。「あざける者たちは町を騒がし、知恵のある
人々は怒りを静める」、知恵のある人は、人の怒りをも静める。そ
の知恵はどこから来るのか。「このキリストのうちに、知恵と知識
との宝がすべて隠されている」「しかし、上からの知恵は、第一に
純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い
実とに満ち・・」、

この知恵はキリストにあり、上からのものだ。人をいやすのは、主
からの言葉、上からの言葉だ。御霊に導かれ、発せられた言葉が、
人をいやして行く。まず自分自身が日々、主と交わり、御霊に従い、
導かれて行く時に、そのように用いられて行く。又、主との交わり
により、言葉の気づきが与えられる。
------------
失敗に気づかせてくださるのも主だ。自分の内には自制心も御霊の
実を結べる言葉も足らない。祈り心でいつも主と交わっていよう。
とっさの言葉も主が口と舌を守ってくださる。


2021年03月25日(木)

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる」詩篇34:18



主が私たちを用いられるために、砕きを通される。聖書の様々な箇
所で学ぶ事ができる。ヤコブの息子ヨセフもそうだった。父親のえ
こひいきにより、12人の息子の中で、特別に可愛がられた。そのた
め他の兄弟たちは、ヨセフをひどく妬み憎み、殺意へと及んだ。だ
が殺害を思いとどまり、奴隷として商人に売った。

家族から離され、一人異国の地へ。寂しさと孤独、不安、恐れだっ
たろう。しかし主はそこでヨセフを砕かれ、訓練され、整えて行か
れた。奴隷から囚人まで、波瀾万丈の時を経て、総理大臣に立てら
れ、結果的に飢饉の折りにヤコブ一族の命を救う事になった。紆余
曲折の中でヨセフは砕かれた。

モーセも王子として育ち、あらゆる学問を学び、文武両道、地位、
名誉、富、人脈、何もかもを手にし、自信に満ちていた。そのモー
セは逃亡の末、荒野で羊飼いとなり、40年の歳月を経た。モーセは
砕かれた。そんなモーセを主は、民の出エジプトの指導者として用
いられた。主は必ず器を砕き、訓練され、へりくだらされ、身を低
くさせられる。間に合う器に整え、そして用いられる。

しかしその時、自由意志を妨げられる事はない。強いられない。も
し従うならそのようにされ、拒むならされない。主の恵みの砕きが
ありながら、心を固くし、頑なになり受け入れない事もできる。そ
の時ますます心は固くなってしまう。様々な痛い事態は、砕きと受
け止めよう。必ず一歩一歩成長を遂げて行く。
---------------
前から来る問題を避けながら平安だと言う事もできるが、自分は何
も変わらない。いつまでも成長して行きたい。そしてダビデのよう
に、あらゆる時に主をほめたたえ、主の素晴らしさを味わおう。


2021年03月24日(水)

「イゼベルは・・『もしも私があすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように』」T列王19:2



エリヤは、バアルの預言者との熾烈な戦いで、主の奇跡により大々
的な勝利を遂げた。そのエリヤがイゼベルの殺害命令の脅しに、怯
えて逃亡した。あれほどの大きな戦いに勝利したエリヤが、どうし
てと思うが、霊的勝利の後は、特に危険と言われている。特別にサ
タンの攻撃と誘惑が来る。安堵しきって油断してしまうからだ。

勝利の後こそが特に身を引き締め、慎み、いっそう主に拠り頼む必
要がある。信仰と祈りであれほど、勇敢に戦ったエリヤが、恐れて、
自分の命を救うために逃げ出した。この恐怖の原因はイゼベルの言
葉だった。主の言葉よりイゼベルの言葉を受け入れてしまった。ど
の言葉を聞き、どの言葉を捨てるかは極めて重要だ。その言葉に自
分が影響受け、言葉で動かされてしまう。

熾烈な戦いで心身消耗しきっていたエリヤは、イゼベルの殺害命令
の言葉に反応し、恐怖に飲み込まれた。私たちはどの言葉を受け入
れているだろう。主の言葉か、サタンの言葉か。主はエリヤを眠ら
せ、食事を与え、まず十分休息させられた。まず回復を与え、ホレ
ブに向かわせ、山上で主の前に立つようにと。

大風、地震、火の後に細い声があった。エリヤはその御声に耳を傾
けた。主はエリヤの間違いを正し、新たな使命を与えられた。エリ
ヤは、再び立ち上がる事ができた。スランプから脱っするためには、
何より御前に静まり、御声に耳を傾けることだ。主との交わりから、
御言葉から、新しい力が湧き出る。無気力から立ち上がれる。
--------------
祝福を取り去るサタンの声は下へ下へと追い込む。警戒していよう。
純真でまっすぐな御霊の声をいつも求め、主の声に応答できるよう
に祈っていよう。


2021年03月23日(火)

「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する」イザヤ14:24



信仰人生で、時に、道が閉ざされる事を経験する。自分はどうして
も進みたいのに、目の前で閉じられてしまう。主からの「ノー」を
突きつけられ、現実と向き合わせられる。非常に厳しく感じる。入
学試験、就職試験、進路、日常生活、仕事上の事等、様々な事態で
直面する。自分の思いとは異なり、全く違う方向へ向かう事になる。

自分の思いは強く、それとは違うので受け入れられず、失望してし
まう。「ノー」は、単に進路だけでなく、自分自身が否定されたよ
うに感じる。何度も就職試験が不合格だと、人格まで否定されてい
るように勘違いしてしまう。だが主には、行き当たりばったりとい
う事が無い。最初から、完全な計画を持っておられる。あなたの強
い思いの道が、主の御心とは違っていたのだ。

主は、正しくあなたを御心の道へと導いておられる。人生の「ノー」
を主のご意志として、受け取ろう。更にふさわしい別の道が備えら
れている。その別の開かれた道を進めばよい。ある人は次々と道が
ふさがれた。進もうとすると、余りにも閉ざされる状況に、そのた
め祈りを変えた。自分のしたい事をとにかく横に置いて、主が、自
分にさせたいと思っておられる事が示されるよう、祈り求めた。

そのようにう祈りを変えた途端、なすべき事が示され、その道が開
かれたのだった。御心を確信し、その道に進む事が出来た。自分の
思いで進んでいた時は、しょっ中、挫折した。しかし、自分が始め
た事でなく、主が始められた事は、何があろうと、成し遂げられて
行く事を経験した。主のはかりごとだけが成就する。
------------
前に進まないときは、主のご計画の邪魔をしているのでは、と立ち
止まってみよう。ノーは失望ではない。新しい道が示される希望だ。
主の最善を信じて主に自身を委ねていこう。


2021年03月22日(月)

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道3:11



起こるすべての事に「神の定まった時」があり、そして神のなさる
事は、時にかなって美しい。「かなう」とは「丁度」「ぴったり」
「適合する」であり「時にかなって」とは「ちょうど良い時」「ピ
ッタリな時」「ジャストタイミング」だ。「美しい」とは。「調和
がとれていて気持ち良く、快く感じられ」「感動がある」という事
だ。

主のなさる事は、ピッタリのタイミングで、そこに秩序と調和があ
り、人に感動を与える。ユダヤ人絶滅の悪巧みがハマンによりなさ
れた際、そこにピッタリ、丁度のタイミングでエステルがいた。王
に救いを願う事は、エステルだけにしか、他の誰にもできない事だ
った。そしてエステルは命がけで従順に従った。自分にできる精一
杯の事をした。その結果ユダヤ民族は救われた。

飢饉のため異国に移ったナオミが、帰国を決意した時、ルツも姑に
従った。それが丁度、大麦の刈り入れ時だった。生計のための落ち
穂拾いが備えられていた。又、選んだわけではなく、たまたま足を
入れた畑がボアズの畑だった。又、丁度その時、ボアズが現れた。
まさに主のなさる事は、時にかなっている。

主に従い、故郷を捨て異国に来たルツは、豊かに報いられ、ボアズ
との結婚が備えられていた。今はわからなくても、いつか必ず「美
しい」ことが判明する。信じていよう。
-------------
主に信頼し素直に従っていく歩みは、理解できない困難にあっても
全てが主のご計画の中だ。闇のように思えても、主に手をとられて
美しいその時に向かっている。待ち望もう。


2021年03月21日(日)

「イエスはすわって舟から群衆を教えられた。話が終わると、シモ ンに『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい』」ルカ5: 3



ペテロは、この日、徹夜で漁をしたが、一匹も獲れなかった。身体
も疲れたが、家に持って帰る糧も無い。心身共に重い疲労感で、群
衆が聞き入る主の話を聞く事もなく、網を洗っていた。一刻も早く
帰って休みたい。そんな時に、主がペテロの舟に乗られ、少し出す
よう頼まれた。先生の頼みなので、ペテロはしぶしぶ舟を出した。

主は舟から群衆を教えられた。ペテロは早く帰りたいが自分の舟な
ので、仕方なく、しかし御言葉を聞いた。そして話が終わると、主
は「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と。だが昼
間は魚は深くもぐっていて、いない。それで徹夜の漁をする。魚は
獲れるわけがない。常識と自分の思いを通して、御言葉を拒むのか、
主の言葉に従うのか。ペテロはどうしたのか。

「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でも、おことば
どおり、網をおろしてみましょう」。これが信仰だ。最初にペテロ
は、夜通し働いたが、と言っている。でも主の言葉に従い、網をお
ろしてみると。洗った網をもう一度は、重労働だ。だが「お言葉通
り」と、自分の経験値や思いでなく、主の言葉に重心を移した。御
言葉に優先順位を変えた。

その時に奇跡が起きた。驚くべき大漁で、あり得ない事が起きた。
主の臨在に畏れを覚え、主の足もとにひれ伏した。私たちは自分の
やり方、自分の思いを捨てられないだろうか。今、見える所と、御
言葉が異なるだろうか。又、今まで何度やってもだめだったと、諦
めてしまっている事があるだろうか。主の言葉の方に従い、今一度
網を下ろしてみよう。主が沢山の魚を備えておられる。

・・・・・・・・・・・・・
ペテロは徹夜の漁で疲れていたし、常識的、物理的には、朝に魚は
いない。そして昨夜は一匹も捕れなかった。見える所では、捕れる
はずがない。「でも」が大切だ。ここが大きな祝福の分かれ目だ。
私たちも色々思いはあるが、「でも」御言葉に従ってみよう。


2021年03月20日(土)

「主はヨシュアに仰せられた『見よ。わたしはエリコとその王、お よび勇士たちを、あなたの手に渡した』」ヨシュア6:2



ヨシュアに導かれた民は、ヨルダン川を渡り、約束の地カナンに入
った。そこにはエリコの城壁がそびえ立っていた。難攻不落のエリ
コの城壁を陥落させるために、主は不思議な方法をヨシュアに示さ
れた。黙って、一日一回町を回り、七日目に七度回って、大声でと
きの声をあげよと。常識では考えられない方法だった。

しかしその通りに従い、最後に時の声を上げると、城壁が崩れ落ち
た。奇跡が起きた。、目に見える状況を見て、良い方法で対処する
のでなく、主からの言葉を受け取り、信仰持って、その通りに従う
と、主のみわざを見る。つまり、私達が主の奇跡を見るのは、自分
の思いと方法で、事をするのでなく、どこまでも御声を聞いて信じ
て従った時だ。

その時に主の栄光が現れる。サタンは目に見えるところを見せて、
恐れさせ、思い煩わせ、失望落胆させる。私たちは、見えるところ
を見て、飲み込まれてしまい、心、囚われてしまう。思い煩い、不
安にさいなまれ、落ち込む。しかし信仰は、目に見えるところでな
く、御言葉の方を真実とし、御言葉を選び取る。

御言葉の方を信じる。見えるところと正反対、常識に合わず、経験
値と違っても、「私たちは」御言葉に従うことだ。すると、「主
が」城壁を崩される。常識であり得ない事が実現する。今、示され
ている御心があるだろうか。御言葉を信じて、一歩を踏み出そう。
あなたの手に渡されている。

・・・・・・・・・・
主はすでに戦う前に、勝利を宣言され、勝利が定まっていた。不思
議な、理解出来ない方法だったが、従った時、勝利した。理解出来
なくても、示しに従おう。又、祈りにおいても、なかなか答えられ
ず、閉ざされいるように見えても、祈り続けよう。城壁は崩れる。


2021年03月19日(金)

「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」イザヤ53:5



ある夫婦の子供が、早産で生まれ、育たずに亡くなってしまった。
医療も今のように進んでいなかった。しかし夫は、後悔で、くずお
れた。大変若くして結婚したので、まだまだしたい事も多く、遊び
たくもあった。そのため妻の妊娠に拒否反応で、喜べなかった。夫
婦で楽しみにしていたあのスポーツ、この旅行、様々キャンセルと
なった。

数々の制約に欲求不満で、子供はいつかは欲しいが、しかしもっと
先で良かったと、ずっと不満だったのだ。楽しくなかった。そのた
め子供が亡くなった時、子供が死んだのは自分のせいと、自分をひ
どく責めて苦しんだ。後悔で涙が止まらなかった。

幾ら周囲に、あなたのせいではないと、慰められても、そのとがめ、
罪責感は無くならず、胸の痛みはどうにもならなかった。ずっと引
きずり、心に影を落とした。その後、主に出会い、苦しみ、後悔、
とがめ、思いの何もかもを告白して行った時、初めて心のいやしを
経験した。あんなに苦しかった心に平安が満ちた。

ある人は、辛い対人関係があり、余りに辛く当たられ続け、それは
恨みとなって心に積もった。心は憎しみで一杯で、重苦しく、辛く
てたまらなかった。主は、少しづつ〃手を取って導いて下さり、相
手はどうであれ、自分の憎しみや怒りは、自分の責任と受け止め、
悔い改めに導かれた。

その時に、あれほど苦しかった心に平安が臨んだ。この平安は何も
のにも代えられない平安で、感謝が溢れた。
-----------
苦しい時、主を呼ぶ以外に何が出来るだろう。何処にいても主は御
霊を通して教え、導き、満たしてくださる。あの苦しみがあったか
ら主と出会えたと心から言える日がくる。


2021年03月18日(木)

「・・実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」ヨハネ15:2




木々を育てる人々は、せん定の重要さを知っている。刈り込みが豊
かな実を結ばせる。枝から茂った葉に余分な養分が流れるのを防ぐ
ので、その養分が実に行き、立派な、豊かな実がなる。信仰生活も
同様だ。主は私たちを刈り込まれ、出っぱっている所を切り込まれ
る。それはプライドや虚栄心や自己中心、貪欲、高ぶりかも知れな
い。

はさみで切り込むので、必ず痛い。苦痛が伴う。プライドが強けれ
ば、プライドが傷つく事態が起きる。自分の思い通りに歩んでいる
と、思い通りにならない事態が起きて、行き詰まる。又、主、以外
のものに拠り頼んでいるなら、それを刈り込まれる。心に偶像があ
るなら、切り込んで下さる。

日々に、様々な出来事が起きるが、その時に、自分は何に反応する
のか、何に痛みを覚えるのか、自我にどう触れるのか、御霊に導か
れて探ってみよう。そこに何かがある。プライドか、偶像か。主は、
私たちを切り込み、砕き、聖めて、御霊の実を結ばせて下さる。刈
り込みこそが、豊かな実を結ばせて行く。

主にとどまる私たちは、「わたしがあなたがたに話したことばによ
って、もうきよい」、罪赦され、義と認められ、御前にきよい者と
して歩ませて下さる。そして内住の御霊は、様々な出来事を通して、
御言葉を通して、刈り取りの砕きにより、ますます聖めて行って下
さる。そして、生活に喜びと平安が溢れ出て来る。
----------
愛と目的をもって主は刈り込みをされる。思い通りに伸び放題の枝
ならばっさりと落としていこう。最近、何に反応して痛みを感じた
だろう。注目してみよう。


2021年03月17日(水)

「律法の専門家が・・イエスをためそうとして言った『先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか』」ルカ10:25



律法学者が主に質問をした。何をしたら、永遠の命を受けられるの
かと。しかし「ためそうとして」とあり、真摯な思いで質問したの
でなく、罠にかけ、主を試すためであった。この学者は答えがわか
っている。律法の専門家なのだから。すると主は、逆に質問された。

「律法には何と書いてあるか」そして「あなたはどう読んでいるか」
と。「あなたは」どうなのか。どう理解しているか、あなたの現実
はどうなのかと。学者は、神を愛し、隣人を愛する事と、模範解答
をした。そこで主は、では、その事を実行せよと、そうすればいの
ちを得ると。すると学者は「自分の隣人とは誰か」と質問した。

その動機が「自分の正しさを示そうとして」であった。自分を正当
化するという事は、何かやましいものがあって、繕わなねばならな
いという事だ。隣人すべてを愛せない事がわかっていたのかも知れ
ない。当時のユダヤ人は同胞は隣人で、外国人は隣人ではなかった。
同胞なら愛せても、それ以外は愛せない。

ありのままを主に告げればよかったが、自己正当化した。そこで主
は、良きサマリヤ人の話をされた。「誰が隣人になったか」と。隣
人は誰かではなく、隣人になる事が大事だと。そして、良きサマリ
ヤ人は、イエス・キリストであり、神を愛し、人を愛する事は、自
分の力では出来ない。到底不可能だからこそ、救い主が必要であり、
主が、神と人を愛せるようにして下さる。
-------------
煩わしい事があればすぐに身を引いてしまう者だと、愛せない事を
認めていたい。無いから主に求めることができる。主のために喜ん
で隣人を愛する者に主がしてくださる。


2021年03月16日(火)

「しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える民を、わたしはその土地にいこわせる」エレミヤ27:11



イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ捕虜として連行された。バビロ
ンが、そのアッシリヤを滅ぼし、国々を滅ぼし、ユダも、バビロン
捕囚の身となった。当時のユダは神から離れ、堕落し、偶像礼拝に
陥っていた。しかし預言者たちは、人に耳ざわりの良い、心地良い
言葉を語り、平安が無いのに「平安、平安」と言っていた。

そんな中、神の人エレミヤは、真っ直ぐに神の言葉をそのまま語っ
た。それは民には痛い言葉だった。バビロン捕囚のさ中、苦難の真
っ暗な中で、エレミヤは、それは一見「災い」としか見えないが、
「平安と将来と希望」のためのものだと告げた。すぐに解放にはな
らないので、その地で落ち着いて、腰をすえて生活せよと。

そして敵である「その町の繁栄を求め、そのために主に祈れ」と。
それは自分達の繁栄になるからと。私たちも苦しみの時に、一番欲
しい言葉は「即、悩みの解決」だ。苦しみから、即、解放されたい。
しかし、虚しい励ましは、更に傷を深める。私たちも、足かせの苦
しい現状を受け入れる時、主が共におられ、その中で主からの支え、
助け、導きにより生きて行ける。

現状を受け入れる事が大切だ。避けて、逃げるのでなく、受け入れ
る時に、主の平安と憩いを経験する。苦しみのままでなく、「70年
の満ちる頃・・帰らせる」。神の時に、かせから解放される。
-----------
問題が長引くと現実が重くのしかかってくるが、主が背後におられ
ることを知っている。現実の対処法を省みてみよう。受け止められ
るよう祈りを変えてみよう。置かれたところで神の時を待ち望もう。


2021年03月15日(月)

「自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、祝宴と喜びの日・・と定めるためであった」エステル9:22



ハマンは王に重んじられていて、家来たちは皆、ひれ伏した。しか
しモルデカイがそうしないので、ハマンは激怒した。怒りの余り、
モルデカイの民族を根絶やしにする事を画策した。狡猾に王を動か
し、ユダヤ民族皆殺しの、王の命令を取り付けた。背後で悪魔が、
この邪悪なハマンを用いて、神の計画を打ち砕き、阻止しようと
働いた。

その結果、ユダヤ民族根絶やしの殺害勅令が出された。モルデカイ
は着物を裂き灰をかぶり、叫び祈った。そして王妃エステルに、王
にあわれみを求めるよう伝えた。だが召されないで、王のもとへ行
く者は死刑だ。そしてエステルはこの30日間王に召されていないと。
しかしこの恐るべき危急の事態に、自分は命をかけるので、民にも
断食の祈りを要請した。祈りがなされた。

ハマンはモデルカイを殺害すべく柱を用意したが、主が介入された。
王を不眠にし、年代記を読むようにしむけ、モデルカイの手柄を見
つけさせた。結局、主が、ハマンが裏で仕組んだ邪悪な企みを、明
るみに出し、打ち砕かれた。モルデカイ殺害のための柱に、ハマン
がかかる事になった。邪悪な企みは自らの身に返った。悪魔の陰謀
は、主が阻止された。

主はモルデカイに知恵を与え、なすべき事を示し、民は祈りを献げ、
エステルは命をかけて行動し、その結果、悪魔は打ち破られた。私
たちにも、悪魔の攻撃は絶えずあるが、まず祈り、主に従い、示さ
れた事をして行く時、悪魔に勝利できる。危急の際には、何よりま
ず祈ろう。
-----------
悪魔の邪悪な企みにあっては何も見えない者だ。だからこそ主の御
心を探り求め助けを祈ろう。執り成しの祈りをしよう。主は最善を
される。求める者の手を決して離されない。


2021年03月14日(日)

「するとたちまち、足のくるぶしが強くなり、おどり上がってまっ すぐに立ち、歩きだした。・・神を賛美しつつ、ふたりといっしょに 宮にはいって行った」使徒3:8


ペテロとヨハネが、祈るために宮に入ろうとする時に、足のきかな
い男性が、彼らに、施しを求めた。この男性は、うまれつき足が悪
く、人々に施してもらうために、いつも宮の門に置いてもらってい
た。彼は、人に運んでもらわなければ移動できないし、施してもら
わなければ生きて行けない。それは人に依存した人生だった。無力
で自分ではどうにも出来なかった。そんな身の上を嘆き、諦めてい
たかもしれない。

その日もペテロたちに施しを求めた。するとペテロは「金銀は私に
はない」と言った。彼はがっかり落胆したかもしれない。が、その
次に想定外の言葉を受けた「しかし私にあるものを上げよう。イエ
ス・キリストの名によって歩け」と。つまりキリストを信じて生き
るようにと。

彼はキリストを信じた。無力だからこそ、信じる事が出来たかもし
れない。ペテロたちに手を取られ、立たせられようとした時に、足
とくるぶしが強くなり、おどり上がって真っ直ぐに立った。そして
跳ねて歩き出した。神を賛美し、ペテロたちと一緒に、祈るために
宮に入った。

彼は、生まれて此の方一度も歩いた事のない足が、いやされただけ
でなく、主を信じ、罪が赦され、救いに入れられた。足と共に、た
ましいのいやしをも与えられた。私たちも、いつでも主にすがり、
主の名により立ち上がる事ができる。そして御心を行なって行ける。

・・・・・・・・・・・
無力で、自力で動けなかった彼が、施しを求めた。が、キリストを
信じて生きるようにと。彼は信じた。そこに救いを求めてすがりつ
いた。それが彼に出来る事だった。彼は見事にいやされた。私たち
も弱さの中でこそ、主を知って行ける。主のもとへ行こう。


2021年03月13日(土)

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ 聞くだけの者であってはいけません」ヤコブ1:22



御言葉を聞いても、行なわない事について言っている。聞いた御言
葉をそのままにするなら、自分の顔を鏡でながめて、立ち去る人と
同じだと。すぐに忘れてしまう。例えば鏡を見て、髪が乱れたり、
自分の顔が汚れていても、ただ見るだけで、髪を直したり、汚れを
拭かなければどうだろう。髪の乱れも、顔の汚れも、すぐに忘れて
しまう。それなら、その人は何も変わらず、ずっとそそのままにな
る。

つまり、御言葉を聞いても、実行しないなら、これと同様だと。主
は、私たちを愛して下さっているので、御言葉を通して、悔い改め
を示し、矯正すべき事柄を示し、又、なすべき御心を示して下さる。
その示しに従わないなら、何も変わることがなく、成長が出来ない。
そうでなく鏡を見るのは、身づくろいのためならどうだろう。

顔が汚れていたなら、汚れを取り、髪も乱れていたなら、くしを入
れ、服も点検する。そのように対応する時、きれいに身づくろい出
来て行く。具体的に実行して行くなら、良いように変えられてゆく。
そして実行して行ける秘訣は、示された御言葉を一心に見つめ続け
る事だと。

ある人は、自分は御言葉を聞く事は、喜んで聞くが、実行する事が
無いと気づかされた。だからすぐに忘れてしまうし、自分は全く変
わらないのだと。そこが問題なのだと気づかされた。私たちはどう
だろう。「悔い改めよ」「赦せ」「謝罪し、和解せよ」「祈れ」・・
示しに従って行く時に、御霊はその力を与え、そして私たちは変え
られる。

・・・・・・・・・・・・
「実行」が大切で、核心で、重要要素だ。御言葉に感動し、御言葉
を喜ぶ。しかし実行しなければ、すぐに忘れてしまう。それを繰り
返しているなら、全く成長が無い。主のことがよくわからないまま
だ。今、語られる御言葉、示された御言葉を祈って実行してみよう。



2021年03月12日(金)

「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます」詩篇18:28



ある人が、念願であった海外留学が決まり、皆に、盛大な送別会で
見送られ、喜び勇んで出発した。ところが生活も軌道に乗って来た
頃、書類上の不手際が判明し、これ以上滞在が不可能との事態にな
った。自らのミスによるものであり、よく説明し、何度も交渉する
が、どうやっても継続滞在の許可が下りなかった。

主の御心だと思って来たのに、なぜ?こんな事に?自分の落ち度な
のだが、悶々状態で、どうすればよいのか、主の御前に必死に祈っ
た。その時に心の内が照らされた。どうしても帰りたくないのだが、
それは主の御心どうこうなどで無く、今、帰ると、人にどう思われ
るか、人に何と言われるか、笑われるのでは、それしか心に無い事
に気づかされた。

プライドであり、どこまでも人の目だった。人目に恥ずかしい、ど
んな顔で帰ればよいのか、人を恐れている自分を示された。それな
ら、表では御心、御心と言いつつ、主と、主の御心など無く、自分
の事だけではないか。心から悔い改めた。その時、あんなに悶々と
し、混乱していた心に、平安が与えられ、心がすっきりした。

主の平安さえあれば、人にどう思われようと構わない。恐れが消え
て、帰国の決心がついた。そうしていると驚くべき事に、突然滞在
許可が下りた。事情を知った現地の知人たちが、手を尽くしてくれ
たのだ。公的機関を走り回り、書類をすべて整えてくれた。だが、
何より主の取り扱いに心から感謝した。
-----------
主は私たちの道を完全にされる。心の内を照らされ、真っ直ぐにし
、真に主を賛美できるようにしてくださる。御前に助けを求めよう。
声は、御耳に届いている。


2021年03月11日(木)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互い に人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


中世は天動説だった。惑星の軌道が膨大に複雑で理解不能だったが、
コペルニクスが地動説を打ち立てた。天動説は、地球が中心で天体
の動きを見ていた。だから理解不能だった。しかし地動説は、地球
は、太陽の周囲を回る小惑星だ。地球が宇宙の中心なのではない。
そうすると、すっきりし説明がついた。私たちの霊的生活も同様だ。

世界の中心が自分で、自己を中心に置くと、次々と悩みとトラブル
にぶち当たる。対人関係でもギクシャクし、問題が起きて、あちこ
ちに頭をぶつける。自己中心から問題が起きている。周囲を思うよ
うに動かそうとし、つまり自分の思い通りに生きたい。そこにまさ
つが生じる。

そして問題が起きると相手が悪いと信じて疑わない。思い通りにな
らない相手を責めて行き、あの人、この人さえいなければ、人生快
適なのにと。だが、自己中心からあらゆる問題が派生している。怒
りが沸く時、妬みが起きる時どうだろう。そこに高ぶり、利己心、
自己愛があり、そこから罪が生じて来る。

どうすれば良いのか。自己中心の自分を、主に明け渡して行く事だ。
キリストが心の王座に来て下さる時に、主のお心はどうなのか、何
を喜ばれるのか、主はこの事をどう判断されるのか。自分の思いを
通すのでなく、主を求めて行く。主を第一にして行く時に、御心に
かなった歩みへと導かれる。そして心は御霊の喜びが来る。

・・・・・・・・・・
周囲とまさつが起きる時、自己中心ではないか、虚栄ではないかと
主の御前で、心を探っていただこう。御霊が心の奥に光を当てて気
づきを与えて下さる。悔い改めや、なすべき事を示して下さる。御
霊の示しに従おう。平安へと導かれる。


2021年03月10日(水)

「こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼ら はその町を建てるのをやめた」創世記11:8


創世の初めは、全地は一つ言葉だった。自由に意思疎通ができてい
た。シヌアルの平地に人々は定住し、石の代わりに、れんがを作る
技術が与えられ、れんがと瀝青で建築物を作ることができた。ス
ムーズに対話ができ、肥沃な地で、建築の技術も与えられ、すべて
は神の大いなる恵みであった。

しかし、その神の恵みに感謝し、神に栄光を帰するのではなく、人
間は、自分の名をあげ、自分の栄光、名誉、賞賛を求め、自分が神
にとって代わった。神の恵みで賜った能力を、自分の栄光のために
使うようになった。自分、自分、自分・・。これがアダムからの罪
だ。

「その内に」とあり、最初は良かったのだろうが、その内に方向が
狂って来た。「我々は、頂きが天に届く塔を建て」と。とんでもな
い事になって行った。主は言葉を混乱させ、意思疎通が不能にされ
た。その結果、塔の建築は不可能になり、中止になった。塔建築は
失敗した。主が阻止された。主は、御心をそれた高ぶりを止められ
る。

そして人々は全地に散らされた。原因は主への高慢だった。彼らの
塔建設は「われわれが全地に散らされるといけないから」という動
機からだったが、逆に全地に散らされる結果となった。この所で学
ぶ事ができる。互いに意思疎通ができない時、そこに「高慢」が潜
んでいないか。
自分が神になり、自己義、自己中心、自己主張、自分、自分・・。真
の一致は、主の御前にへりくだり、人の前にへりくだるところにあ
る。そこには必ず平安と喜びがあり、主の栄光が現われる。

・・・・・・・・・・・
高慢があるところに、意思疎通が困難になり、分裂が生じる。様々
な集まりや、対人関係で起きる。友人間、家庭の中、ギクシャクす
る時に、高慢がないか考えてみよう。逆に、へりくだるところに平
安と平和、和合、潤いが生まれて来る。


2021年03月09日(火)

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩編119:105



ある牧師の証しだ。大災害で、会堂も住居も失ってしまった。何一
つ持ち出す事も出来なかった。何よりも大切な聖書資料や学びの資
料、注解書、信仰書何もかも失った。何もかもすべてを失ったが、
とにかく避難できて、自分も家族も命が守られた。奇跡だった。避
難所に身を寄せ、身に起こった事を祈りに持って行き、切に祈った。
その時に御言葉が、まさに臨んで来た感覚だった。

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」。御言葉の
力を経験した。主が語られた。「私は裸で母の胎から出て来た。ま
た、裸で私はかしこに帰ろう」、真にその通りだと、「アーメン」
だと思えた。すべてを失い、先の事も見えないが、心は不思議な平
安で満たされた。

ある人は会社が倒産し、貯えもなく、途方に暮れた。どうしてよい
かわからない。とりあえず、懇意にしている親戚に、まとまったお
金を借りようと思った。昔からの信頼関係があり、貸してもらえる
だろう。しかし、いつも教えられているように、とにかくまずは祈
ろうと、祈りの時を持った。祈ると「神の国とその義とをまず第一
に求めなさい」と語られた。

「そうすれば、これらのものは与えられる」と。人に頼るのではな
く、主に頼るようにと。それで生活の必要が与えられるよう、切に
主に求めた。すると以前まとまったお金を貸していた友人から、や
っと返せるようになってと返済が来て、職が与えられるまで、必要
が満たされた。
-----------
御言葉の中に慰めと力があり何より安全がある。流されそうな状況
でも、ひとつの御言葉が与えられると、よろける足元は照らされ心
は立ち上がる。そして光を頼りに歩める。


2021年03月08日(月)

「サウロは教会を荒らし、家々にはいって・・次々に牢に入れた。他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた」使徒8:3



サウロは神のためと信じきって、熱心にキリスト者を捕えていた。
ステパノ殺害にも賛成していた。ステパノの御霊に満たされた証し
を目の前で見て、サウロは憎悪に燃えた。キリストを神とし救い主
とする、キリスト者は許しがたい存在だった。激しい怒りと敵対心、
憎しみは増幅し殺害の意を固くした。

ステパノの厳粛な殉教により、更に迫害は激しさを増し荒れ狂った。
サウロは教会を次々と荒らし、家々に入って、容赦なく人々を引き
ずり出し、投獄した。そのため信徒たちは、四方に追いやられ、あ
ちこちへ散らされて行った。皆が、散りじりバラバラになってしま
った。ではこの厳しい迫害の苦難で、信徒たちは絶望、意気消沈し
て、教会は壊滅して行ったのか。

ところが、そうではなかった。あちこちに、散らされた信徒たちは、
何と「みことばを宣べながら、巡り歩いた」。結果的に見れば、こ
の迫害による離散によって、返って福音が拡大して行く事になった。
信仰の火が消えるどころか、ますます燃え上がり信仰が強くされ、
福音が四方八方に拡がった。私たちも、形は違うが同様に、「なぜ
こんな事が!」「なぜこんな苦しみが?どうして?」との突如の事
態が起きる。

しかし一見、マイナスのその事が、理解を越えた大きな祝福へと結
実して行く。そして信仰が堅くされ、成長へと導かれる。目に見え
る所でなく、主を仰いで、信じて、苦しい中も従って行こう。ご計
画があり、その先に、思いを越えた祝福が用意されている。
------------
困難が自分の身に及んだら、マイナスはマイナスにしか見えない。
最悪の結果に怯えるばかりだ。それが自分の限界だと、悩むのをや
め、全てを支配しておられる主に信仰の目を向けてみよう。


2021年03月07日(日)

「神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ』と仰せられた。彼 は『はい。ここにおります』と答えた」出エジプト3:4


主はある時、人が高慢に陥らないように、人の計画を阻止される。
モーセはエジプトの王子だったが、40歳の時に、同胞が虐げられて
いるのを見て、救出を計画した。自分だからこそ出来ると。だが肉
の思いであり、肉の良かれと思う計画だった。主から発したもので
は無かった。

その時に看守を殺してしまい、失敗してしまった。そのためミデヤ
ンの地に逃れる事になった。何も無い見渡す限りの荒野で、40年間、
羊飼いの日々を送った。以前は世の栄華、地位、富と何もかもを持
っていた。能力があり、文武両道、人脈を持ち、脚光を浴び、何の
不自由もなく、輝かしい将来を約束されていた。

一転、全く何もない荒野だ。スポットライトを浴びる事も、かつて
の栄光も皆無だ。来る日も〃、羊を追い、刺激も変化も無い平凡な
日々が、40年だ。その中で妻を持ち、子供も生まれ、平凡な落ち着
いた幸せの中にいたかも知れない。しかしこの荒野こそが、実は主
のご計画であり、神のモーセへの訓練、整えの学校であった。

自信に満ちたモーセは砕かれた。もはや自分の計画でなく、主の計
画に従えるようにとの訓練、整えであった。主のわざは着実に進
められ、荒野の舞台でモーセを造り変えられた。80歳になった時、
主の時は満ちた。今更、何ができようと思ったモーセこそが、主に
はふさわしい。

民をエジプトから救い出す指導者として、召し出された。もし今、
こんなはずではない場に、置かれているなら、主はあなたを取り扱
い、砕き整えておられる。主の御手の中だ。ご計画があり、主の整
えの最中だ。目の前の事に忠実であり続けよう。

・・・・・・・・・
主はずっとモーセを握り、目を留め、造り変えて行かれた。信仰人
生で「なぜ?どうして?」との事柄が起きる。しかし無駄なものは
一つも無い。一つ〃の試練を用いて、砕き、練り、造り上げられる。
主の器として用いて下さるためだ。どんな時にも希望がある。


2021年03月06日(土)

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せな さい・・復讐はわたしのすることである」ローマ12:19


私たちは、誰かから非難、中傷、攻撃されたならどうだろう。肉は
怒りで、即、報復したい。やり返さなければ気が済まない。しかし
御言葉は、悪に対して悪をもって報いるな、と言う。肉は、やり返
すとスカッとする。傷つく事を言われると、こちらも言い返すと、
その瞬間はスッとする。やられっぱなしで、どうすると思う。しか
しあくまでも、それは肉がスカッとするのであり、新しい性質は違
う。

御心からはずれると、平安が失せる。誰しも経験あるだろうか。肉
で、怒りにまかせてやり返すと、瞬間はスッとするのだが、気持ち
は暗たんとする。平安が無くなる。それは争いの連鎖を生み出し、
相手も又、激高する。売り言葉に買い言葉となり、感情的になり、
思ってもいない言葉まで出る。傷つけ合い、取り返しがつかなくな
る。

主は「復讐するな」と言われる。では、やられっ放しではと思うが、
そうでなく「わたしが報いをする」と。主が復讐するから、私たち
はするなと。だから、私たちは、理不尽な攻撃であろうと、自分で
決して復讐せずに、主にゆだねる事だ。すべて主に任せよと。そし
て敵が飢えたら、食べさせよ。それは、彼の頭に燃える炭火を積む
ことになると。

相手は良心のかしゃくに、恥じ入る事になる。善をもって、悪に打
ち勝てと。肉は、悪をもって悪に報いたい。人にはできない事だ。
しかし人にできない事が神にはできる。自分にはできない事を認め、
主を求めよう。御霊が働き、御霊の力によって不思議を経験する。
祈りに答えられる。

・・・・・・・・・・・
攻撃を受けると、肉は報復したい。しかし主は報復するなと言われ
る。では、悪にやられっ放しなのか。主は正義の方であり、正しい
裁きをされる方だ。主が復讐されるので、私たちのする事は、自分
でせずに、主にゆだねる事だ。怒りも恨みも、主のもとへ持って行
こう。


2021年03月05日(金)

「義を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます」ヤコブ3:18


平和は、あるか、無いかのものではなく、「つくる」ものだと言っ
ている。平和はつくる事が出来て、つくる人は幸いだと。平和の使
者になるには、まず自分が平和を持っている必要がある。主によっ
て平安にされていることが大切だ。自分の内側が、赦せない思いや、
憎しみ、処罰感情、敵対心、復讐心で満ちていたらどうだろう。

人間は、自分の辛い状況を誰かのせいにし、その人を攻撃し、心を
落ち着かせようとしてしまう。怒りや不安をおさめるために、どこ
かに攻撃先をつくりたい。しかし、ますます自らを傷つけるばかり
だ。平和をつくるには、人との平和の前に、主との平和を持つ事が
重要だ。「もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を
結ぶがよい」。

主と自分の関係はどうだろう。妨げなくスムーズだろうか。妨げが
無いだろうか。悔い改めていない罪、御心に従う事を拒んでいたり、
又、ぐずぐずと従う事をなおざりにしている不従順はどうだろう。
自分自身がまず、主との関係を正しくされる事が大事だ。罪や不従
順は悔い改める事ができる。そして主は悔い改めた罪をいつでも豊
かに赦して下さる。

何という恵みだろう。赦されて、赦されて生きて行ける。罪が赦さ
れて、主との関係が正しくされると、通り良き管として主が平和を
つくるために用いて下さる。周囲を平和にして行ける。自分の力で
平和をつくるのではなく、主があなたを用いて、周囲に御霊の平和
をつくって下さる。
-----------
妬みや敵対心があるとつい自己主張したくなるが、逆に誇ってはい
けないと言われる。へりくだり主との交わりを通して知恵をいただ
こう。争いの多い世にあって平和の種を蒔く者になろう。


2021年03月04日(木)

「私は黙し、口を開きません。あなたがそうなさったからです」詩編39:9



ダビデは、苦しみの中で「なぜ、こんな目に会うのか」との思いで
いっぱいだった。しかし、舌で罪を犯してはいけないと、口には口
輪をはめた。だが、沈黙して抑え込んでいると、痛みは激しくなっ
て、今にも爆発しそうだった。鬱積の思いはそこにあって、抑え込
んでいるだけだからだ。

そこで自分の舌で、人にでなく、主に思いを吐き出した。気持ちの
洗いざらいを告げた。人生は、いかにはかなくて、虚しいかと。ど
んなに盛んであっても、全く虚しいではないかと。そんな虚しい人
生で、自分としては、何を待ち望めがばよいのか。そんな窮地の祈
りで、見上げた時に、神を見い出した。

「私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」と。
私の望みは主ご自身だと。そしてことごとくを祈りに持って行った
後、「私は黙し、口を開きません」と言った。今度は、罪を犯すか
ら、口を開かないのでなく、「あなたがそうなさったからです」と、
主をそこに認めて、受け入れたからだ。

その前と異なり、信仰に立っている。すべての事に主の主権を認め、
主のご計画がある事を認め、それを受け入れている。人から受ける
苦しみも、信仰によって、それは主からのものと受け止めた。苦し
みの中にも、そこに主を認める時に、「あなたのむち」「あなたの
手に打たれ」と、信仰によって受け止めて行ける。

するとそこには意味があり、むちも、打たれる事も、豊かな祝福へ
と導かれて行く。今、起きている事を「あなたがそうなさったから」
と受け止めて行こう。その時、「私の望み、それはあなたです」と
主に向かって行ける。更に主を知る信仰の成長へと導かれる。
--------------
自分の感情だけで時の流れを見れば、いつか爆発してしまう。苦し
みは主に告げよう。主は全き与え主だ、このことを通して成長の次の
一歩を待っていてくださる。


2021年03月03日(水)

「あなたに向かって、私は手を差し伸べ、私のたましいは、かわききった地のように、あなたを慕います」詩編143:6




ここでダビデは「私の祈りを聞いて欲しい」「霊が衰え果て、心は
内でこわばった」と言っている。そして「敵は、私のたましいを追
い詰め、私の命を打ち砕き、暗い所に住まわせた」と。非常に辛く
苦しい追い詰められた状況だ。心がこわばるとは、固くなり動かな
くなる事だ。余りにも辛い状況で、心がぼろぼろだ。

私たちも信仰人生で、打ちひしがれてしまい、身動きもとれない、
どうにもならない状況を経験する事がある。心が固まってしまい、
動かなくなってしまうほどの、大きな苦しみに遭遇する。ここでダ
ビデは霊が衰え果てた時に、どうしたかが記されている。昔の日々
を思い出し、主がなさった一つ一つに思いを巡らし、主の御手のわ
ざを静かに考えたと。

深い落ち込みの中で、以前の祝福、奇跡のわざ、主がされた事を思
い起こした。主と向き合って、静まる事、静かに考える事が大切だ。
以前受けた一つ一つの恵みに、必ず今一度、引き上げられて行く。
確かに感謝が生まれる。そして祈りが大切だ。「行くべき道を知ら
せて下さい」「あなたのみこころを行なうことを教えて下さい」
「私のたましいを苦しみから連れ出して下さい」と祈っている。

霊が衰え果てるほど苦しい時には、主の御前に静まり、祈りと共に、
これまでの主の恵みを、して下さった事を思い起してみよう。感謝
へと導かれ、喜びが戻って来る。そして御心を求めて祈る時、行く
べき道を示し、導いて下さる。
-----------
どうにもならない状況にあっても心の底には主の平安が静かに流れ
ている。主を求め、助けられ、試練の中にも慰めを受けた経験を御
霊は思い起こさせてくださるからだ。試練の時こそまず静まろう。


2021年03月02日(火)

「私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう」イザヤ37;20



ヒゼキヤ王の時に、アッシリヤのセナケリブがユダの町々を攻め取
った。彼はラブシャケを送り、ヒゼキヤや人々を脅し、自軍の強力
な軍隊を誇示した。そしてヒゼキヤは、主が救い出すというが、そ
んな言葉に騙されるな、信じるなと、揺さぶりをかけた。この危機
に際し、ヒゼキヤはどうしたのか。彼は衣を裂き、荒布をまとい主
の宮へ行き「祈った」のだ。

そしてイザヤにも祈りを要請した。私達に挑む、悪魔も同様で絶え
ず揺さぶって来る。経済的苦境、難しい対人関係、仕事の悩み、信
仰ゆえの戦い・・様々な問題に、自身の無力を見せつけて来る。祈
っても無駄だ、神を信じて何になる、何も変わらない・・。信仰に
立たせないように、諦めるように、失望するように、攻撃をしかけ
る。又、妥協して生きるように誘惑する。

サタンに従うなら、楽に生きられ、世の成功を手にできると。サタ
ンの攻撃だ。こんな時には「祈り」が対抗手段だ。ヒゼキヤもイザ
ヤも祈った。その時、主は奇跡を行なわれた。「彼はもと来た道か
ら引き返し、この町には入らない」「わたしはこの町を守って、こ
れを救う」と。そして、使いが出て行き、185,000人を討ち取った。

その結果、セナケリブは立ち去った。祈りが聞かれた。信仰に揺さ
ぶりをかけて来るサタン、今も耳元にささやいているだろうか。
「信じても無駄、祈っても無駄、何も変わらない、解決などない・
・」サタンの攻撃だ。対抗は「祈り」秘訣は「祈り」だ。「わたし
は聞いた」主は聞いていて下さる。
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サタンは、祈っても何も変わらない、それより行動を起こすべきだ
と思いを差し込んでくる。サタンに祈りを取られていると気づこう。
目を覚まし、御霊の助けを受けて、ことごとく祈ろう。


2021年03月01日(月)

「みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです」マルコ12:44



主が献金を投げ入れる様子を見ておられた。金持ちたちが次々と大
金を投げ入れた。そこに貧しいやもめが来て、レプタ二つを入れた。
極めて僅かなお金だ。しかし主は、この女性がどの金持ちよりも多
く献げたと言われた。皆は有り余る中から献げたが、彼女はあるだ
け全部を献げたからだと。

彼女は全財産として僅かレプタを二つだけ持っており、その内の一
つを献げても良かった。もう一つで何か買えたかも知れない。しか
し彼女の溢れる出る主への感謝は、全部を献げる行為となった。献
金とは献身だ。それは自分自身のすべてを主に任せる事であり、主
は明日からの必要も必ず与えて下さる事を信じたからだった。

主はその信仰を見られ、受け取られた。この世では、まず自分が第
一だ。まず自分を守らねばならない。何より自分が大切で、自分の
ために確保する。それだけでは不安なので偶像に頼る。まず自分を
第一にし、金持ちのように有り余る中から少しは献げる。しかし私
たちも、同じこの世の価値観があるかも知れない。神第一と言われ
るが、まず第一に自分を守ろうとする。

しかしそのために、どこまでも不安は尽きず、絶えず思い煩いにさ
いなまれ、平安がない。自分で何とかしようとするので、思い煩う
ばかりだ。まず神を第一にして行く時、秩序が正しくなり、すべて
の必要は備えられ、そして何より心は思い煩いから自由にされる。
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与えられば減っていく事を心配し、与えてくださる主より、与えら
れたものでいかに自分を守ろうかと考える。このやもめ女性の主に
委ねきっている姿は何とすがすがしいことだろう。