2021年05月31日(月)

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」Uコリント7:10



誰しも失敗した時に、落ち込み悲しむだろう。しかし悲しみに二つ
の種類があると言っている。主の御心にそった悲しみと、世の悲し
みだ。世の悲しみとは、自分が引き起こした事態の結果が、悪かっ
た事を嘆くばかりだ。目に見えるまずい結果が、人前に体裁が悪い
ので、後悔するばかりで悪いとは思っていない。結果オーライなら
そのままだ。

要するに、結果が問題なだけだ。結果が人の目に触れなければ、そ
のままだ。へりくだって、自分を砕く悔い改めが無いので、同じ失
敗を繰り返す事になる。主の御心にそった悲しみは、御前で、自分
のあり方や、今までの自分の人生を反省する。その時、高慢で自己
中心な罪を示され、心砕かれ、真の悔い改めに導かれる。御霊が働
かれるからだ。

ある男性が、結婚して自営業を始めた。だが、なかなか軌道に乗ら
ず、経済的に苦しんだ。妻は、夫を助けて働いた。行き詰まり悶々
状態の時、妻は過労で倒れ、入院した。その時、彼はイライラし、
こんな大変な時に倒れた妻を責めたのだ。夫婦の間に溝ができた。
仕事も家庭もうまく行かず、ガタガタな現状を見た時に、自分の姿
だと見せられた。

神の御前にへりくだった時に、「自己中心」の罪を示された。自分
の力を誇り、自分が、自分がと、周囲を支配し、自分の思いを通し、
強引に事を進めて来た。その高ぶりを示された。砕かれ悔い改めた。
妻にも今までの自分の非を詫びた。仕事も家庭も新しい展開がもた
らされた。

失敗し、心砕かれ、引き起こされる悲しみは、今までの自分のあり
方を省みる、主からの好機だ。主はあなたを愛しておられるので、
新たにし、成長させたいと願っておられる。

・・・・・・・・・・・・・
失敗をただ悲しんで終わるのではなく、私たちは主を知っている。
赦され悔い改めることができる。主のあわれみによって自分自身
が変われる。主が変えてくださる。


2021年05月30日(日)

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」マタイ14:27



心配性で、不安と思い煩いに悩まされている人は多い。ああなった
ら、こうなったらと、先に起こるかも知れない事を想像して、不安
になり落ち込む。不安材料をかき集め、まるで現実であるかのごと
くに、最悪のシナリオが出来上がる。しかしそれはどこまでも想像
であり妄想だ。現実に起こっていないのだから、主も、そんな架空
のものをどうにも出来ない。

思い煩いを選択している自分の問題だ。明日の事は、先の事は、私
達にはいっさいわからない。誰にも何一つわからず、見えない。し
かし、神を信じる私達は、明日に恐れと不安を見るのでなく、神の
愛を見る。弟子たちが湖上で嵐に会い、パニックになり、恐れと不
安の中にいた時に、主が湖の上を歩いて、弟子たちのもとに来て下
さった。

しかし、弟子たちは、大嵐の恐怖の中で、向こうからくるのを「幽
霊だ」と怯えた。だが主は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れる
ことはない」とご自身を現わされた。幽霊だと思ったものが、実は
主であった。私たちも同様だ。人生の向こうからやってものが、恐
い、不安でたまらない幽霊に見える。しかしそれは愛に満ちた、主
だ。

明日は主の愛に包まれ、主のご計画の中にあり、主の御手に堅く握
られている。見えない明日に、主の愛を信じる、これが信仰だ。明
日に、主の愛を信じて歩む時に、思い煩いや不安の亡霊に惑わされ
ない。

・・・・・・・・・・
心配症だろうか。何かあると、すぐに、ああでもない、こうでもな
いと、思い煩ってしまうだろうか。この先の事も不安で一杯だろう
か。「わたしだ」と主が目の前に。「恐れるな」と。このまま素直
に信じたなら、不安は平安と喜びに変わってしまう。祈りにより受
け取ろう。


2021年05月29日(土)

「モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼って いた・・神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが彼に、現われ た」出エジプト3:1



モーセは40歳の時に、虐げられている同胞たちを、救おうとして失
敗した。そのため命をつけ狙われ、ミデヤンの地に逃亡した。エジ
プトでの何の不自由もない、裕福で、華やかな王宮生活とは一転、
何も無い荒涼たる荒野での遊牧生活となった。王子の地位も名誉も
富も何もかも無くし、一介の羊飼いとなった。

そこで結婚し、家庭を持った。小さな幸せのもと、かつての栄華も
幻のごとく、荒野の羊飼いで人生を終わるかと思えた。そんな頃に、
「四十年たったとき」「御使いが・・現われ」。神の時が満ちた時に、
主は現われられる。そして御心を告げられる。信仰人生には、主の
定めた明確な「時」がある。だからこそ、試練の真っ暗なトンネル
の中でも、主を信じ忍耐できる。トンネルは永遠に続かない。トン
ネルは必ず出る。

主の時が満ちた時に、試練は終わる。しかしトンネルの中にいると
真っ暗なので、永遠に続くように思えてしまう。暗闇で、まるで出
口など無いように感じる。しかしそうではない。「私の時は御手の
中にあります」、信仰人生における、私達の「時」は、偶然の中に
あるのでなく、主の御手の中だ。

又「主がなさったことの結末」の通り試練には結末がある。終わり
がある。あなたは今、真っ暗な試みの中にいるだろうか。耐えられ
ない試練は一つとしてなく、脱出の道があり、結末がある事を覚え
よう。時が満ちたなら、主がご自身の御心を現わされる。「四十年
たった時」だ。主の時を待とう。

・・・・・・・・・・・・
試練は必ず来るが、その時にまずパニックになってしまうだろうか。
試練のトンネルの中は、真っ暗なので、この事態が終わりがなく、
永遠に続くように感じてしまう。しかし試練には結末があり、神の
時に試練は終わる。超えられない試練は無い。神を信じていよう。


2021年05月28日(金)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」Tヨハネ1:9


もし、私達が人に知られたくない、恥ずかしい失敗した時には、ど
うすればよいのだろう。それを隠ぺいして、無かった事にしてしま
いたい誘惑が来る。ダビデがバテシバと姦淫の罪を犯した時に、最
初は隠ぺいしてしまった。又、周囲に、責任転嫁をする誘惑が来る。
アダムが食べるなと言われた木の実を食べて、罪を犯した時に、エ
バのせいにした。エバは蛇のせいにした。自分は悪くない。

例えば、子どもが、床に置いたままのコップにつまずいて、水をこ
ぼした時に、こんな所にコップを置く者が悪いとなる。ここに置か
れていなければ、自分はこぼさなかった。又、人の言動にいら立ち、
怒りが沸く時、いら立たせる事を言う相手が悪い。相手が言わなけ
れば、自分は怒らない。万一相手が悪くとも、こぼしたのは自分で
怒るのは自分であることが、スルーされてしまう。

私達は、必ず失敗する。失敗しない人はいない。皆、弱さがあり、
間違った選択をしてしまう。罪を犯したくないが、犯してしまう。
その時の態度が大切だ。無かった事にし、無視するのか、その事を
認めないで、否定してしまうのか。又、人に責任転嫁するのか、主
は恵みの道を備えて下さっている。

「自分の罪を言い表わすなら・・その罪を赦し、すべての悪からきよ
めて下さる」。いっさいの言い訳と弁解をやめて、自分の失敗に、
罪に向き合う事が大切だ。それは失敗を認め、悔い改める事だ。そ
れが責任を取るという事だ。その時、光の中におり、完全な赦しを
受け取る事ができる。言い訳など必要なく、恐れる事も、逃げる事
も必要ない。その罪は赦され、真っ白にされるのだから。

・・・・・・・・・・
罪を認めないばかりか、自分の罪にも気づかない者だ。主の光に照
らされて本当の自分の姿がわかる。罪を赦される事は感謝だ。罪を
告白し、主の完全な赦しを受けよう。


2021年05月27日(木)

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」イザヤ30:21



神の御心を求める時に「示して下さい」と祈り、聖書をパッと開い
て、開いた箇所の目についた御言葉を取り「示された!」と言うな
ら、それは違う。危険だ。聖書は占いの本ではない。どの御言葉に
も前後関係があり、文脈があるので、それを無視して、1節だけを
取り出すのは、間違った、正反対の方向に進んでしまう。

又、人は主観が強いので、強い思いがあると、御言葉を自分の都合
のいいように取り込み、思い込んでしまう。聖書はタウンページで
はない。自分にピッタリの御言葉を探し出し、見つけて来て、これ
が御心としてしまう。都合の良い御言葉が欲しいと、無意識にもそ
れに反する言葉は退けてしまう。

御心を求める時は、よくよく祈る事が大切だ。主の御前に静まり、
自分に罪があれば悔い改めよう。主との正しい関係になければ、御
心はわからない。右でも左でもOKですと、自分の思いを明け渡す
事が大切だ。そして耳を澄まし、アンテナを張り、御言葉を待とう。
説教やデボーションや学び会から、信仰者との交わりから、様々な
ものを通して、主は必ず語りかけられる。

指導者の助言も有益だ。祈りつつ、御言葉を待ち望み、環境をじっ
と見ていよう。門が閉ざされたなら、御心でない。御心なら、必ず
主が環境を開かれる。ひとりでに門が開かれ、御言葉と平安与えら
れ、尚かつ祈るなら「確信」が与えられる。その時は、立ち上がり、
前進すべきだ。
・・・・・・・・・・
強い思いを祈りで主に明け渡していこう。自分の感じることが全て
になる過ちから守られる。これまで見えていなかった道を主は、様
々なことを通して教えてくださる。


2021年05月26日(水)

「・・神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」ローマ8:28



ある人が、急に、想定外の事情が生じて、まとまった費用が必要に
なった。そのため金融機関から借金をした。急ぐし、どうにもなら
ず、給料が入れば返せると、よく考えもせず、軽い気持ちだった。
ところが多額の利息に驚き、諸事情も重なり、それが返済できずに、
大変な事になってしまった。とうとうどうにもならなくなり、せっ
ぱ詰まってしまった。恥ずかしくて、絶対に誰にも言えなかった。

しかしどうにもならず、牧師に相談し、悔い改め、一緒に祈っても
らった。主は、見事に祈りに答えて下さり、奇跡をもって必要を与
えて下さり、とにかく無事完済できた。この失敗で、様々学ばされ
た。すぐに金融機関から借りずに、まず祈るべきであった。祈る事
をせずに、焦る余り、自分で動いてしまった。

主はふさわしい導きを与え、必要を与えて下さっただろう。主に委
ねること、主に信頼すべきこと、頭ではよくわかっていたが、自分
は信じていない事を、自分の姿を見せられた。主が成して下さる事
を、信じる事が出来ないから、自分の判断、自分の思いで行動した
事を認めざるを得なかった。主を信頼できない、不信仰な自分の姿
を知らされた。

非常に痛い、恥ずかしい失敗だったが感謝であった。この取り扱い
を通して、主のご愛とあわれみを、初めて頭でなく身をもって経験
した。痛い経験だったが、どんな状況であれ、祈り、主に頼るなら、
主は助けて下さると、信じる事ができるようにされた。自分が変え
られた、大きな一歩前進であった。失敗してしまったが、多くの
学びを得た事に心から感謝した。
・・・・・・・・・・・・
神は、神を愛する者とともに働いて、万事を益となるようにしてく
ださる。なんという力強い希望の御言葉だろう。苦しい試練もいず
れは神のご計画であったと喜べる日が来る。


2021年05月25日(火)

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」ヨハネ12:24


私たちの生まれつきの古い性質は、自分を中心に考え、行動する。
自分を中心に回る。物事に対応する時に、まず自分にとってのメリ
ットを考えてしまう。メリットの無い事に時間も労力も富も使いた
くない。だが、主を信じ救われると、新しい性質が与えられる。新
しい性質は主を喜び、主に従おうとする。主を第一にし、自分の
メリットが無くとも、損になっても、犠牲を払って、主の御心に従
おうとする。その従順は、豊かな実を結んで行く。

ある婦人が、姑とうまく行かなかった。後に振り返ると、誤解が誤
解を生んでいたとわかるのだが。自分で自分を追い詰めてしまい、
瀬戸際まで行ってしまった。辛い苦しい経験があった。夫は、姑と
距離を置くように配慮してくれた。そんな中、彼女は友人を通して
教会へ導かれ、主の救いを受けた。主の愛を生まれて初めて知り、
御霊の平安と喜びを経験した。

教会生活を送りながら、御言葉を学び、喜びに満たされていた。そ
んな時、夫の事情で、転職する事になった。有資格者で、どこでで
も働けた。転居先を考えた時に、夫は妻のために、実家近くは、は
なからはずしていた。その時に、彼女は主から語られた。前進する
ように、ヨルダン川を渡って、古い自分に死んで、新しい自分を生
きて行くようにと。

新しい地に行けと。主に従いたいと決心し、姑の近くに住みたいと
申し出た。夫は驚き、自分から教会へ行き、夫も救われた。新しい
性質により、主に従って行く時に、必ず御霊の実を結んで行く。

・・・・・・・
主を信じ救われ、御霊に導かれていくと以前には絶対にできなかっ
た選択をしている。自分を生かすことばかり考えてしまう歩みの中
でも、少しでも主の喜ばれることをと、祈っていこう。


2021年05月24日(月)

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」ヨハネ14:26



聖霊は、私たちの日々の信仰生活の助け主である。聖霊は、私たち
に関与し、ふさわしい、まさに打ってつけの助けを与えて下さる。
ある母親が証しした。、ある日、目覚ましが鳴り、寝不足の中、否
応なく起床した。疲れが溜まっているようだ。息子の部活の早朝練
習で、朝早くに出る。朝食と弁当作りを早い時間にしなくてはなら
ない。身体はだるくてたまらない。

心もだるく重くなって来る。面倒でたまらず、「何で、こんな早く
に」と内心つぶやきが出て来る。だが、その瞬間に突然「何をする
にも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさ
い」コロサイ3:23の御言葉が臨んで来た。驚いて、目が天に向き、
そうだった!自分はこの家事を、主のためにしているのだと、180
度心が変えられた。

主が受け入れて下さっているのがわかり、心嬉しく、喜びが来て、
不満のかたまりマルタ状態であったのが、変えられた。ある人は嫌
な相手がいて、友人との電話中に、その相手の批判が出た。激しく
同意したい思いにかられた瞬間に、キャッチホンが入った。その対
応をし、ワンクッション置くと、我に返れた。

「陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に
下っていく」箴言26:22悪口を言いたい肉、クリスチャンなので、
もろには言わないが、批判を聞いて、同意し溜飲を下げる肉。御霊
が罪を犯す事から、守って下さったとわかり、感謝した。

・・・・・・・・・・・・
主が御霊を通して教えてくださり、御心を歩めるようにと導いてお
られる事を折々に経験する。主は確かに共にいてくださると喜びが
溢れる。日々、主の御言葉を求め、主のお心を求めて生きよう。





2021年05月23日(日)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え・・」エレミ ヤ33:3



ある人が、責任を負っている仕事で、大きな問題が発生した。大変
な事になったと、パニックだ。心は騒ぎ、動揺する。いつも学んで
いるように、まず祈るのだが、心騒いでどうにもならない。祈って
いる最中も「どうしよう、どうしよう、どうすれば良いのか」と不
安で不安で、頭は巡り、対処法を懸命に考えている。これは祈りで
はないではないか。心が全く静まっておらず、立ってしまっている。

主に向いておらず、問題を見るばかりだ。そのため平安など全く無
く、不安でいっぱいだ。ああなったら、こうなったらと、最悪のシ
ナリオが浮かんで来る。恐れと思い煩いに襲われる。身体にも不調
が来て、苦しくてたまらず、自分でもどうにもならない。心底の助
けを求めて、主に叫んだ。その時、「何も思い煩わず」「やめよ。
わたしこそ神であることを知れ」「立ち返って静かにすれば、あな
たがたは救われ・・」と。

心騒いでどうしようもないのは、自分で何とかしようとしているか
らだと気づかされた。自分の力に頼っているから、何もかもが自分
の肩にかかり、苦しくてたまらない。自分で動くことをやめよ、御
前に静まれ、主に頼り、祈れ、と言われている事がわかった。

問題に飲み込まれてしまっていた自分に気づかされた時、心が落ち
着いた。突如の問題に襲われる時、パニックになってしまうが、主
はその問題もご存じで、共にいて下さる。主と共に問題に当たれる。
どうにも出来ない時は、主に叫ぼう。頼る者を必ず助けて下さる。

・・・・・・・・・
祈るのだが、形ばかりで、頭はあちこちと、対処方法を思い巡らし
ている。「やめよ」「静かにせよ」と立ち止まるよう言われている。
主に頼れず、自分が立ち回っている事をそのまま告げよう。ありの
ままを祈って行くと、不思議に心が落ちついて来る。


2021年05月22日(土)

「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度 も主に願いました」Uコリント12:8



時に私たちの思いと、主のみ心が大きく異なる事がある。主は私た
ちに、祈りをもって願えと言われ、祈りを喜んで下さる。そして御
心なら、祈った通りに叶えられる。しかし御心でなければ、叶えら
れない。祈りは、物事が、自分の都合の良いようになる事ではない。
私たちは自分の思い通りにしたいとの、肉の思いが強くある。自分
の願い通りに、叶えて欲しい。

しかし、しばしば主のみ思いは異なる。例えば、私たちは、病気が
あるなら、その病気が治ることが、癒しであり、祈りの答えだと思
ってしまう。しかし、もし、その病を持ったままでも、御霊の喜び
と平安、感謝に溢れた人生を送れるようにし、証しの人生にして下
さる、それが答えであるかも知れない。祈りが聞かれるとは、必ず
しも自分の思い通りになる事ではない。

障がいを負ったある人が、主に向き合い、長く祈りに祈った末に、
最後には、もし、このままの方が主の栄光が現れるなら、このまま
で良いです、御心のままにと祈るに至った。結局は、私たちの目標
は、神の栄光が現れることだ。パウロはトゲが取り去られるよう3
度も祈ったが、主は、それが無いより、有る方が栄光が現れると言
われた。

ある人はトゲが取られ、ある人はそのままにされる。どちらも主の
栄光のためだ。私たちの「なぜ?〃」と不満の部分を今一度、御霊
の光に照らされ、受け取り直そう。あるいは、主の栄光のためでは
ないだろうか。

・・・・・・・・・
時に、祈りに、主からの「ノー」の答えがある。自分の願いとは違
うが、主のご計画なら、更に良いものだと信じられる。祈りを積む
中で初めて「ノー」の答えもわかるので、とにかく祈りに持って行
こう。祈りの中で、答えも受け入れられるようにして下さる。


2021年05月21日(金)

「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」マタイ19:16



永遠のいのちを求め「どんな良いことをしたらよいか」と主のもと
に来た青年に、主は「良い方は、ひとりだけ」と答えられた。主が、
唯一の良い方を信じることを、言われたにかかわらず、彼は、行な
おうとの思いに満ちていた。それで主は、間違いを教えようと律法
を持ち出された。

律法は、自分の力で良い事ができないことを教えるためにある。青
年に、自分にはできない事を教えようとされた。「殺してはならな
い・・あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」しかし彼は「みな
守っている」と答えた。更に「何が欠けているのか」と。すると、
主はその財産を貧しい人に施すよう言われた。

もし、彼の言う通り、律法を守っているなら、隣人を愛しているは
ずであり、貧しい、困っている人々に喜んで施したはずだ。しかし、
できなかった。自分の力では、律法を守れない事を主は認識させた
かった。だからこそ「良い方」がおられて、成し遂げて下さること
を。その主に頼って欲しいと願われた。

しかし、彼は主に頼らず、財産を手放せず、主のもとを去ってしま
った。私たちも、財産=自分の力であり、自分でする良い行ない、
自分で律法を守る事を、捨てられないだろうか。自分を誇りたくて、
評価されたくて、認められたくて、プライドゆえに、自分の力で主
に従おうとするだろうか。その自分を捨てる時、良い方が、行ない
を与えて下さる。主のもとを去るのでなく「自分の力を捨てられま
せん」と主に頼ろう。

・・・・・・・・・・
まだまだ力不足でと言いながら、自分の力を頼みにしているなら気
づきたい。「何が欠けているのか」と御前に言い張っていく。御心
に叶う事は何もできない。へりくだり主に頼ろう。そこから希望が
わいて来る。


2021年05月20日(木)

「悪いことをする者は光を憎み・・光のほうに来ない。しかし、真理 を行なう者は、光のほうに来る」ヨハネ3:20



ある医師が、極めて厳しい困難な状況にある患者から、心の悩みの
相談を受けた。その時に、その医師は自分の専門外の事だったので、
率直に「ごめんなさい。自分にはわかりません。何も言って上げる
事ができません」と話した。うまくごまかしたり、繕ったり、適当
にあしらったりせず、正直に自らの無力を認めた、その医師は誠実
だった。

主は常に私たちを助けよう、助けたいと願い、待ち構えておられる。
しかし私たちの態度が問題だ。主の御前に、正直である事を喜ばれ
る。主に対してただ正直で、真実で、ありのままでありさえすれば、
主はどんな状態でも導いて下さる。どんなに自分で酷い状態だと思
っても、御前に正直でさえあれば、主は必ず導かれる。

「真理を行なう者は、光のほうに来る」。真理を行なうとは、主の
御前にありのまま、正直であることだ。正直な自分を認めることだ。
ありのまま認めるので、光の中にいる。光に照らされるので、罪が
はっきりとわかり、悔い改めることができる。そしてその罪は、完
全に赦される。そのため平安と喜びの中におれる。

罪を認めたくなければ、光のほうに来ない。それなら、やみの中に
いることになってしまう。「わたしは彼らを贖おうとするが、彼ら
はわたしにまやかしを言う」自分を繕い、ごまかしてしまう。あり
のままを認めて行く時、御霊の光に照らされる。光は心の隅々まで
照らし出し、裏表の無い人格を形造る。御霊に照らされる自らの姿
を認める事から始めよう。

・・・・・・・・・・・
自分の罪や弱さからは、目をそむけていたい。見たくないし、逃げ
ていたい。しかしそれなら闇の中だ。罪を持ったまま主のもとへ行
く時、心照らされて、罪がわかる。主のもとに赦しがある。主の赦
しを経験する時、主の愛がわかる。ますます愛を知って行ける。


2021年05月19日(水)

「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は 見えるということです」ヨハネ9:25



主は、盲人に不思議な事をされた。地面につばきをして、泥を作り、
その泥を盲人の目に塗られたのだ。そしてシロアムの池へ行き洗う
ようにと。シロアムの池はエルサレムから1キロほどだが、目の見
えない人が行くのは大変な事だ。もし初めての道なら、どんなに困
難だろう。更に池は下って行かねばならない。

「そこで、彼は行って、洗った」とあるが、いい加減な気持ちでは、
決して出来ない事だ。そんな事があるものかと信じないなら、まず
行かない。しかし彼は言われた通りにした、その時に奇跡が起きて、
見えるようになった。ここからが問題で、パリサイ人達が、安息日
にいやしたと、主を批判し、攻撃し、見えるようになった彼も連行
され尋問された。

彼らにありのままを話したが、彼らは主を信じない。だが、見える
ようになったという、目の前の事実は否定出来ない。「あの人を何
だと思うのか」と聞かれ「預言者」だと答えた。彼は、主が誰なの
か、よく知らなかったのだが、神に遣わされた人でなければ不可能
だと思った。

彼らは、彼の両親を呼び出して、本当に生まれつき盲人なのかと確
かめた。再度彼を呼び出し、主が罪人である事を認めるよう迫った。
が、彼は盲目であったが、今は見えるという事実に、神から出てい
なければ、そんな事は不可能だと言い切った。

会堂から追放された彼に、主がご自身を現わされた。彼は「主よ。
私は信じます」と信じる者にされた。そして主を礼拝した。霊の目
が開かれ、真の救いを得た。これこそが、神の栄光であった。

・・・・・・・・・・・
彼は、目が物理的に見えるようになっただけでなく、霊の目が開か
れて主の救いに入れられた。信仰が与えられた。私たちもそれぞれ
様々な動機で、主のもとに来たが、一つの事をはっきりと知ってい
る。以前は見えなかったのに、今は主が見える


2021年05月18日(火)

「神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3


生まれつきの盲人を見て、弟子たちが主に質問した。「彼が盲目で
あるのは、誰が罪を犯したからか、この人か、両親か」。主は「こ
の人でも、両親でもない」と答えられた。では、何のせいなのか。
それには答えられず、「神のわざが現れるため」と言われた。本人、
や親のせいでなく、どこかに原因が有る無しでなく、神の栄光が現
われるためであると。

古いこの世の価値観があり、何か苦しい事、負の事態が起こると、
バチが当たったと思う。因果応報だ。無意識に自分の素行と結びつ
けて、あの事、この事が悪かったのか。どの罪の結果なのか。そし
て「何で?」「何で?」と、心がおさまらず、犯人捜しをする。し
かし、そこに何の救いも解決もない。何も生まれない。

又、もし、仮りに本人が罪を犯したとしても、悔い改めるなら、主
の血潮のゆえに、全き赦しを受けることができる。そして親の罪の
責任を子に問われる事は無い。「父親が子供のために殺されてはな
らない。子供が父親のために殺されてはならない」と。その苦しみ
は、神の素晴らしいみわざを経験するためだ。どんなに救われる事
だろう。

その事が必ず益とされ祝福とされる。そこには絶望ではなく、希望
がある。今、目の前の試練は、あなたの祝福のためだ。「何を教え
て下さるためですか」と祈ろう。これらは、まず「主が盲人を見ら
れた」ことから始まった。主は、あなたを愛し、慈しみ、絶えず目
を注ぎ、目に留めていて下さる。じっと見つめて下さっている。

・・・・・・・・
どんなに苦しく辛い事があろうと、主がおられるので、どんな中で
も希望がある。何という救いだろう。そして苦しみに対して、犯人
捜しでなく、主の栄光が現われる事を信じるなら、どんなに平安と
期待に変わるだろう。何と嬉しい事だろう。


2021年05月17日(月)

「弟子たちはイエスを起こして言った。『先生』。私たちがおぼれ て死にそうでも、何とも思われないのですか」マルコ4:38



ガリラヤ湖は、時に突如の嵐が発生する。この日、主は「さあ、向
こう岸へ渡ろう」と言われ、弟子たちは、その言葉に従い舟を出し
た。主は疲労しておられ、乗り込んですぐに熟睡された。そんな時
に、突然嵐が起きた。凄まじい突風で、大波をかぶり、舟は水で一
杯になった。

今にも浸水し転覆しそうだ。嵐にも慣れているはずのプロ漁師です
ら、恐怖で、身の危険を感じたほどだった。しかし、主は、と言え
ば、この大騒動の中、いっさい動じる事もなく、熟睡しておられた。
弟子たちは、主が同船しておられるのに、それにもかかわらず、恐
怖でパニック状態だ。

状況に飲み込まれてしまい、主を前にして動揺し、右往左往だ。だ
が、主が乗っておられる舟が沈む事などあり得ない。100%無い。
その方が不可能だ。そしてはっきりと「向こう岸に渡る」と言われ
たのだから、向こう岸に着く。舟が沈む、沈むと、慌て、恐れ、怯
え、不安に飲まれるのは、私たちの姿かも知れない。

嵐に、厳しい試練に会うと、舟が沈んでしまう、何もかもがだめに
なってしまうと思い込んでしまう。ちょっと何かあると、自分の一
生はもうだめだ、仕事はだめだ、家庭はもうだめだ、子供はだめに
なってしまう・・。舟が沈むと思うと、恐怖でしかない。しかし主の
舟が、沈む事など有り得ない。

「どうしてそんなに恐がるのか、信仰が無いのはどうしたことか」
と。主は、私たちの内に、そして私たちの人生に同船して下さって
いる。その主を信じることを、その信仰を求めておられる。驚き、
慌て、恐れている事をそのまま告げて、信仰に立てるように、助け
を求めて祈って行こう。

・・・・・・・・・・
主は、嵐の問題でなく、信仰の問題だと言われた。嵐は問題ではな
いと。なぜなら、主が同船しておられる。主が乗っておられる舟が
沈む事など、100%有り得ない。しかしまさに心配しているのは、
その事だ。主の視点で、目の前の事態を見てみよう。


2021年05月16日(日)

「いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおり にしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます」Uコリン ト9:7


ある青年がバイブルキャンプの最後の集会で、大変恵まれ、心が満
ち満ちて、感謝が溢れ出た。何かをしたくて、最後の感謝献金の時
に、財布をひっくり返して、全部献げた。後のことは全く何も考え
ておらず、とにかく全部献げたかった。献げた後も、喜びと平安に
心は満たされた。集会終了後、帰りの交通費も無かった。

しかし不思議に不安は無く、心にずっと平安があった。すると、車
で来ていた人が、同じ方向だから、一緒に帰りましょうと誘ってく
れた。主の導きを感謝して、更に心に喜びが溢れた。

ある人は会堂建設時に、貯えを献げるよう御霊の促しを受けた。そ
うしたいのだが、出来ない自分もいて、悶々状態だった。どうして
も惜しむ心、渋る心があって、しかし、ありのままを祈りに持って
行った。するとその日に、とても不思議な夢を見た。それは泥棒に
入られ、全財産を盗まれてしまい、失意で茫然と立ちつくす夢だっ
た。

その翌日、何と自由意志で喜んで献げる事ができた。そして心に喜
びが満ちた。祈りに答えて、主が献げる事ができるようにして下さ
った事が更に感謝だった。ある人も不思議を経験した。礼拝の中で、
ずっと祈っていた事の答えを主からもらった。御言葉が与えられ、
主にまみえて平安が満ちた。

献金の時に、主に心からの感謝をお献げしたいと願い、財布の中身
を全部献げた。その帰りにあちこち寄っている間に、何と財布を落
としてしまったのだ。献金できて良かったと、心から主に感謝した。
そして何にも代えられない平安と喜びを味わい、心満たされた。

・・・・・・・・・・・・
少しだけ蒔く者は、少しだけ、豊かに蒔く者は豊かに刈り取るとあ
り、献げる時、豊かに祝福して下さる。何のために生きているのだ
ろう。貯えるためだろうか。御霊の導きのままに従う時に、何より
も主を新たに知って行けて、霊の喜びを経験して行く。


2021年05月15日(土)

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにし て、成熟を目ざして進もうではありませんか」ヘブル6:1


乳ばかり飲んでいる者は、幼子で、乳とは「キリストについての初
歩の教え」とある。幼子は固い物を消化できないので、乳を飲む。
生まれたばかりで、乳を飲むのは当然で、良い事で、すぐ固い物を
食べるなら、消化不良で逆に胃腸を傷めてしまう。しかし、大人に
なってもいつまでも乳だけを飲んでいるならどうだろう。乳から離
乳食、固形物へと移るのが普通で正常だ。

柔らかい乳の言葉だけを求めるのが、霊的幼子だ。固形物である義
の教えや、試練、訓練、鍛錬については耳が痛く、聞きたくない。
しかし主は厳しい訓練、患難、砕き、聖化を備えておられる。「あ
なたを苦しめ、あなたを試み」と。幼子は自己中心だ。自分中心に
世界が回っていて、自分の思い通りにならなければ泣きわめき、自
分を通して行く。

乳児は固い食物が食べられないように、従いたくない言葉は吐き出
す。自分が受け入れられ、認められ、ほめられ、評価されたいばか
りだ。又、問題解決して欲しいだけで、自分を捨てる事、自分を砕
いて従う事には、心が向かない。主を知ることや、何が主に喜ばれ
るのかに思いが至らない。どうだろう。幼児性は無いだろうか。

すべての人が大人へと成長する事が主の御心で、喜ばれる事だ。
主は必ず成長させて下さる。自分の都合に御言葉を合わせるのでな
く、御言葉に自分を合わせ、自分を従わせて行くことを祈ろう。自
分を砕いて御言葉に従う時、自分が変えられて行く。必ず一歩一歩
成長して行く。成熟を目指して進ませて下さる。

・・・・・・・・・・
自分の力で成長する事は出来ない。成長させて下さるのは、主だ。
御声に耳を澄まし、御声をよく聞いて、示された事に一つ一つと従
って行く時に、成長が与えられる。従おうとする事がすでに、古い
自分を捨てて、主の喜ばれる事を選んでいる。自我が砕かれて行く。


2021年05月14日(金)

「地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火 のあとに、かすかな細い声があった」T列王19:12 



エリヤは、バアルとの熾烈な戦いで、大勝利を遂げた。神の素晴ら
しいみわざだった。しかしその直後、激怒したイゼベルがエリヤ殺
害を命じた。するとあの勇敢に戦ったエリヤが、イゼベルの脅しに
怯えて逃亡した。霊的勝利の後は、特に危険と言われている通りだ。

特にサタンの攻撃と誘惑が臨んで来る。成功や勝利の後こそ、身を
慎み、へりくだって、いっそう神に拠り頼む必要がある。あの力強
い信仰と祈りで、雄々しく戦ったエリヤが、心身共に消耗しきって
いた事もあるが、恐れて逃げた原因は、イゼベルの言葉だった。

主の言葉よりイゼベルの言葉を受け入れてしまった。するとイゼベ
ルの言葉に支配され、動かされてしまう。どの言葉を受け入れ、ど
の言葉を捨てるかは極めて重要だ。私たちは心にどの言葉を入れて
いるだろう。主の言葉か、思い煩い、恐れ、不安をあおって来るサ
タンの言葉だろうか。

主はエリヤを眠らせ、食事を与え、十分な休息を取らせられた。ま
ず身体の回復を与えた後、ホレブの山に向かわせ、山上で主の前に
立つように命じられた。そこでかすかな細い声を聞かせられた。エ
リヤは、その小さな御声に、一心に耳を傾けた。主は、エリヤの思
い込みを訂正し、新たなる使命を授けられた。

死を願って、気力を喪失していたエリヤが再び、主の使命を遂げる
ために立ち上がる事ができた。スランプ、無気力から脱出するため
には、まずしっかりと心身休息の時を持つ事が必要だ。そして回復
したなら、主の御前に静まり、細い小さな御声にじっと耳を傾ける
ことだ。主との交わりから、新しい力が湧き上がる。主との交わり
がどうしても必要だ。御霊の力によって、もう一度、立ち上がるら
せて下さる。

・・・・・・・・・
主が御言葉により、私たちを導かれるように、サタンも同じ事をす
る。思いに働き、人の声により働いて来る。心に来る思いや外部か
らの言葉に惑わされないよう祈っていよう。平安が失せ、不安や恐
れ、思い煩いにさいなまれる言葉には注意しよう。


2021年05月13日(木)

「イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上っ て行かれた」マタイ4:1


主は40日の断食を終えられ、まさに限界ギリギリの空腹状態だった。
サタンは、その主に誘惑を仕掛けてきた。「この石をパンに変え
よ」と。神の子で何でも出来るのだから、目の前の石をパンに変え
る事ができる。自分でパンを作ればよいではないかと。「今、死ん
でしまうと、人類の救いも、何も無いではないか」「とにかくまず
命を保たなければ」「このままでは確実に死んでしまう、神はパン
を与えてくれるのか?」との疑いを吹き込む。

「神に頼るだけで大丈夫なのか?」「この危急の場面は自分で何と
かした方がよいのでは」と、「自分でしてしまえば、すぐ出来るよ。
それでうまく行けばよいではないか」。「自分でやった方が早いよ。
命を保つ事は、御心にかなった事なんだし」それこそ、ここで死ね
ば、元も子もない。どうあってもパンを食べて、とにかくは生き延
びねばと。

神に頼り続けるなら、あたかも餓死するかのように錯覚させる。
「自分で調達すれば?」神のためなんだからと、神を頼る場所から
離し、自分の判断で動き、自分の力で事を行なうように仕向けて来
る。サタンの巧妙な誘惑だ。肝心な事は、「神が」パンを与えて下
さるという事だ。

どこまでも神の言葉の下に自分を置いて、従うことが信仰だ。パン
が命を造るのでなく、神の言葉が命を造る。神への信頼を何とかし
て崩そうと攻撃して来る、サタンをわきまえていよう。

・・・・・・・・・・・
サタンは、とにかく自分で事を起こすようにと仕向けて来る。主に
頼らずに、祈らずに、自分の思い、自分の判断、自分の力で進むよ
うにと。「わたしを離れては、あなたがたは何をすることもきな
い」とあり、自分ですると御霊の実を結べない。主を仰ごう。


2021年05月12日(水)

「ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその 中にいた」ヨブ1:6


ヨブは、突然7人の息子と3人の娘を失い、雇人と家畜の全所有物
を、1日の内に失ってしまった。わけがわからず、誰でもパニック
になって当然の状況だ。しかしヨブは、地にひれ伏し、主を礼拝し
「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と受け止め
た。目の前の言葉も無い、打ちひしがれるような状況に、主を認め、
主の主権を認めたのだった。

その後、次にはヨブ自身に、足の裏から頭の頂きまで、全身に悪性
の腫物ができた。土器のかけらで、身をかきむしるという悲惨、悲
痛な状況だった。妻は、ヨブに神を呪って死ねとまで言った。極限
状態だ。だが、これらの原因はヨブではなく、背後にサタンの介入
があった。

サタンは、神にヨブを中傷し、ヨブが忠実に従っているのは、自分
の利得のためだと。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか」つま
り見返りがあるから、従っているのだと。サタンは告発者だ。兄弟
たちを中傷する。「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たち
の神の御前で訴えている者」だ。そのため神は、限界を定めた上で、
サタンの介入を許可された。つまりサタンの働きであった。

しかし重大な事は、サタンは働くが、尚もその背後に、サタンをも
支配する、神の絶対的な主権がある事だ。それはサタンも侵せない。
私たちもサタンの攻撃や誘惑に絶えず悩まされる。だがヨブの出来
事の、明らかにされた舞台裏を通し、サタンは主の定めた範囲内で
しか働けない事を見せられる。

苦しみの時、一見サタンにほんろうされているように見えても、限
界が決められている。耐えられない試練は無く、脱出の道がある。
そして忍耐の後、ヨブは2倍の祝福を受けた。試練には、必ず豊か
な祝福がある。そして必ず成長が与えられる。

・・・・・・・・・
次々と苦しみが臨むと、サタンにほんろうされているように感じて
しまうが、そうではない。背後に、サタンをも支配する、絶対的主
権者である主がおられる。そこに焦点を当てていよう。主が万物の
支配者であり、最初であり最後である方だ。


2021年05月11日(火)

「イエスは答えて、彼らに言われた『あなたがたは行って、自分た ちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい』」マタ イ11:4



バプテスマのヨハネが、ヘロデ王の不法を真正面から断罪、そのた
めに投獄された。ヨハネは正しい事をし、主は正義なる方、自らの
投獄は理不尽で、それこそ不法だ。何の罪も犯していない。神の御
前に誠実に歩んだのであり、主が、正しい対処をして下さるはずと
思ったに違いない。

しかし投獄されて、幾日が過ぎても、何の音沙汰もなく、何も起こ
らない。イスラエルの王国を打ち建てられ、王となられるのではな
いのか。牢獄の中でヨハネの思いは、どんなものであったろう。そ
れで、弟子たちに「おいでになるはずの方は、あなたですか。それ
とも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」と問わせた。

主はその時に、弟子たちに答えとして、「自分の聞いたり見たりし
ていることを報告せよ」と。目の前の「事実」を告げよと言われた。
「盲人が見、足なえが歩き〜」これは、救い主到来の時の預言だ。
つまりはヨハネが自分でわからない限り、わからない。人に幾ら説
得されたとしても、自分で受け入れようとしない限り、納得はでき
ない、

自分で御言葉を真剣に受け止め、真摯に向き合い、事実を見ようと
し、そして見た事実を認める時に、御霊の助けで真理がわかるよう
にされる。私たちも自分の思いや偏見、先入観があれば、神が見え
ず、神の事柄をつかめない。自分の偏見や先入観を除いて行く時、
正しく神が見えて、御心がはっきり見えて来る。目の前のこの事に
神を見、過去のあの事にも神が見える。

・・・・・・・・・
ヨハネが、弟子たちから見たり聞いたりした事を、聞く時に、主が
わかると言われた。私たちも主を見ようとし、聞こうとする時に必
ずご自身をわからせて下さる。求める者にご自身を現わして下さる。
ヨハネの問いに答えられた主に、私たちも問うて行こう。


2021年05月10日(月)

「弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩 して湯水のように財産を使ってしまった」ルカ15:13

彼は、父といるのが窮屈で、離れたかった。好きなように生きたか
った。それで財産を受け取り、父を足げにして、家を出た。遠国に
行き、好き放題、放蕩三昧をして、財産を使い果たした。その後、
我に返り、帰還した。

その時、父は「この息子は、死んでいたのが生き返り」とあり、息
子は死んでいたと言っている。彼は家を出る前も、父のもとにいた
時から死んでいた。父は、何があっても変わらない愛で息子を愛し
続けたが、息子の心は、父には無かった。それがわかっていた父は、
息子のしたいように、望むようにさせた。

息子は気ままに、好き放題をし、行き着く所まで行った。身を滅ぼ
し、どん底で我に返った。その時に、父のもとへ帰る決心をした。
私たちもどうだろう。御父のもとを離れて、自分で生きてしまう。
自分の思い通りにしたくて、欲望を遂げる。自我は、どこまでも好5
きなようにしたい。

そして罪を犯すと、なかなかすぐに帰れない。どんな顔で帰ればよ
いのか。誰もが思うのが、少しましになってから帰る事だ。しかし、
父は何を喜ばれるのか。息子が「帰る」ことだ。父は帰ることをひ
たすら忍耐し待ち続け、息子が帰った時には、父の方から走り寄っ
て、抱き口づけした。

父は、ただただ待つ。腕づくで連れ戻しに行かず、ただ待つ。息子
が自らの意志で帰るのを、ひたすら待つ。私たちは何度も主を離れ
る。しかし、私たちの弱さをご存じだ。何度でも立ち返ろう。御父
は待って下さっている。立ち上がって、愛なる父のもとへ帰ろう。

・・・・・・・・・・・
信仰生活で、罪を犯すと、とがめが来て、何となく主から離れてし
まう。そしてこのままではまずいので、少しはましになって、みも
とに行こうと思う。しかしこれが間違いだ。主の十字架をどこまで
も信じて、すぐにみもとに行こう。そこに豊かな赦しを経験する。


2021年05月09日(日)

「だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、 『君。パンを三つ貸してくれ』・・」ルカ11:5



ある人に、真夜中に友人が訪れた。あいにくパンを切らしていた。
それで隣家に行き、パンを三つ貸して欲しいと頼んだ。が、こんな
時間に迷惑だと、自分が動けば、子供が起きてしまうと断られた。
しかし空手で帰れず、借りるしかすべが無く、引き下がれない。尚
も執拗に求め続けた。

その結果、隣人は起き上がり与えてくれた。しかしその動機は、う
るさくて迷惑で、早く消えて欲しいからだ。愛情や親切からではな
い。しかし神は違う。御父は私たちを極みまで愛しておられるので、
迷惑でうるさいからではなく、愛ゆえに与えて下さる。

アウグスチヌスの母モニカの祈りは有名だ。放蕩息子のために、モ
ニカは何年も祈り続けた。ところが、祈れば祈るほどますます息子
は堕落して行った。見えるところ正反対だ。状況はどんどん悪くな
る。だが「涙の子は滅びない」と励まされ、更に涙と共に、主にす
がり、祈り続けた。そんな中、息子がローマへ行くと言う。大変な
歓楽街、取り返しがつかぬほど堕落してしまうのでは。止められる
よう切に祈った。

が、ローマへ行ってしまった。だが、まさにそのローマで、彼は悔
い改め、神に立ち返ったのだ。祈りは見事に答えられた。祈りの答
えに「神の時」がある。時が満ちると実現する。失望せずに祈り続
けよう。事態が悪くなって行くように見えたとしても、時が来ると、
必ず実を結ぶ。長い祈りの答えを見る。御心に適った祈りは、必ず
叶えられる。祈り続けよう。

・・・・・・・・・・・・
主が祈りに答え、願ったものを与えて下さる動機が、愛であること
が嬉しい。こちらも祈る時に、主に真心を向けて行きたい。祈って
いるのに、事態が好転せずとも、尚も忍耐を持って祈り続けよう。
祈りが答えられる一歩手前かも知れない。


2021年05月08日(土)

「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとす れば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです」へブル12:8


信仰人生における、神の祝福をしばしば勘違いする。受験合格は祝
福で、不合格は祝福されていないと思う。商売は繁盛で、家族は皆、
健康で、喜ばしい事、楽しい事が溢れている事が祝福だと。そして
最後は天国で、めでたし、めでたしで終わると。祝福とは、幸せで
楽しい事、問題が無く平穏無事、順風満帆の事だと、無意識に思っ
ていないだろうか。

だから、ある日突如として、倒産したり、リストラになったり、家
族が病気、受験失敗となれば、パニックになる。こんなはずではな
い。「何で?どうして?」神は祝福してくれるはずでは無いのか。
未信者の親族からは、そんな事では信心している意味がない、と冷
ややかに見られる。自分自身も不満が募り、爆発してくる。

しかし聖書は、そんな事は言っていない。信仰人生、順風満帆で問
題が何もないなどとは、一言も言っていない。約束していない。む
しろ多くの箇所に、試練、訓練、鍛錬、懲らしめ、刈り込みと沢山
出て来る。試練でいっぱいだ。それは祝福なのだ。

新生し、その新しい性質が主に似るようにと、成長のために与えら
れている訓練だ。「愛」も勘違いしていないか。暖かい嬉しい喜ば
しい感情的なもの、ハピーな、楽しい事が愛と。しかし、聖書は
「懲らしめは愛」だと言っている。

「主はその愛する者を懲らしめ」、必要な事は、根底の価値観を御
言葉に修正する事だろうか。試練、訓練は、神の愛だ。愛されてい
る証拠だ。愛されていないなら放っておかれる。私生児であって、
本当の子ではないと。

・・・・・・・・・・・
病気やけが、不合格、経済的苦境や別離、一見、負の出来事に会う
と、辛くて、落ち込み、心沈んでしまう。すると心寂しくなり、神
に祝福されていないと感じてしまう。その時に、自分の感覚を取る


2021年05月07日(金)

「私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私 を贖い出してくださいました」詩篇31:5


あなたも経験するだろうか。神の御心が成るようにと祈るのだが、
実は自分の思いでいっぱいで、口では御心〃なのだが、心では自分
の思いに固執していたりする。しかし反抗する気などなく、一応は
それが正しいので、御心が成るようにと思っている。それだけに自
分でも気づかない。

自分では御心を願っているつもりだが、後で振り返ると、委ねる事
の意味もわかっておらず、主を信頼もしていなかったとわかる。説
教で、学びで、主に委ねる事の大切さを教えられるので、それが大
事と思い、そうしている「つもり」だが、実は自分の思いを握って
放さない。しばしば、自分がそうあればよいと思う事を、実際そう
だと勘違いしてしまう。


反抗していればわかるが、逆らうつもりはなく、却って気づかない。
何かが漠然としているのだ。心に確信と満たしが無い。それで自分
でも、何かが違うと感じている。この問題点は、委ねることができ
ていないところにある。心を御霊で照らされる時に、委ねていない
自分を見い出す。しかし自分を明け渡すことは難しい。

この事を認めることが、前進のためのまず一歩だ。握っているもの
は何だろう。まず委ねられないと認めて祈ろう。主が「しかし、わ
たしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさって
ください」と祈られた。主にも思いがあられたが、祈りの中で、御
心を選び取って行かれた。主は愛して、理解もして下さっているの
で、一歩一歩を手を取って導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
御心を求める時に、自分の思いは強く、わかっているなら祈りに持
って行けるが、気づかない場合も多い。自分の強い思いがあると、
主の御心を求めるのだが、わからない。その時に、右でも左でも御
心に従いますと、思いを手放し、委ねると、御心がわかって来る。


2021年05月06日(木)

「偶像のために、みなわたしから離されてしまったイスラエルの家 の心をわたしがとらえるためである」エゼキエル13:5


私たちは、神以外のものに心を奪われ、執着すると、神が見えなく
なってしまう。太陽の前に10円玉を置くと、大きな太陽が全く見え
なくなるように。そして神の前に置いたものは、偶像となってしま
う。主を裏切ったユダは、主の前にお金を置いて、主が見えなくな
った。

金持ちになりたがるなら、「誘惑と罠に陥り、破滅と滅びへ向かう
欲に陥る」とある。「金持ち」とは金銭だけではない。地位、名誉、
賞賛、評価、人の上に立ちたい野心であり、自分が認められたい欲
望だ。その欲は、悪魔の誘惑と罠に陥るとある。信仰から迷い出て
しまう。そして迷い出ていて気づかない。

クリスチャンになれば、人の作った石や木の偶像を拝む事はない。
しかし偶像は目に見えないものでもある。泥酔やギャンブルならす
ぐわかるが、一見麗しい、喜ばしいもの、悪くなく、良いものであ
ると気づかない。「彼らの力とするもの、栄えに満ちた喜び、愛す
るもの、心に慕うもの」だ。あなたに握りしめて放さないものがあ
るだろうか。

神より大切になっているものだろうか。自分の内に偶像がないか、
御霊に探って頂こう。そのままにしておくと、ユダでないが命取り
になってしまう。主のもとに行き、主に告白し、偶像を主のもとに
持って行こう。主に渡せるように祈ろう。

きよめられ、主がはっきりと見えて来る。10円玉が除けられると太
陽がはっきり見えるように。その時、今までぼんやりしていた、主
の御声がはっきりと聞こえ、信仰に前進できる。

・・・・・・・・・・
主がぼんやりしている時、主以外のものが、心を占めているだろう
か。もし主を更に親しく知りたいなら、心を照らされるよう祈ろう。
自分でも気づかずに、偶像になっているものがあるかも知れない。
献げて行けるよう祈ろう。


2021年05月05日(水)

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでい なさい」へブル12:2


不信仰とは、信仰が足らない事ではない。不信仰とは主を仰がず、
自分の「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでい
なさい」へブル12:2
力、自分の判断、自分の知恵を信じることだ。つまり、主を
頼らず、自分を神として、自分の力で生きることだ。不信仰は、自
分の人生の全主導権を自分が堅く握って生きる。つまり、車の運転
席に自分が座っている。主は助手席だ。自分主導で思い通りに生き
て行く。

又、自分主導なので、問題に直面した時、すべてが自分の肩にかか
る。だから負いきれずに思い煩いでいっぱいになる。しかし、むし
ろ真面目に生きているつもりなので、気づかない。不信仰とは、自
分のための神であり、自分がより良く生きるための神、あくまでも
軸が自分であり、自我だ。見ているのは主でなく、いつも自分自身
だ。

不信仰とは、信仰の量の不足のように思うが、主を仰がず、主に頼
らないことだ。信仰とは、自分の思いを捨てて、主の判断、知恵、
主の心を求めて、主に頼って生きることだ。自分は助手席に座り、
主に運転席に座っていただく事であり、自分と自分の人生を、主に
明け渡して行くことだ。

主を仰いで、生きて行く時、必ず自分が変えられて行く。自分の損
得でなく、主の御心を求めるように、少しづつ変えられて行く。奇跡
だ。主の喜ばれることを求め、それが自分にとって不利益であり、
損になろうと従って行く。その時、御霊の喜びと平安、真の心の満
たしを経験する。そして御霊によって歩んで行ける。

・・・・・・・・・・・

自己中心に、自分のために生きて来た者が、主のために生きようと
するとは、何と感謝な事だろう。奇跡だ。自分が変えられている。
主を見ることが、信仰だ。溢れる愛で、愛し続けて下さっている主
を、見ていよう。目が離れている時は、気づかせて頂こう。


2021年05月04日(火)

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉 の欲望を満足させるようなことはありません」ガラテヤ5:16



人は自分の非を、認めたくないものだ。心には、二人の自分がいる。
そして、あらがい戦っている。一人は「人は関係ない。罪を犯した
のは自分だ。自分の罪だ」と言う。しかしもう一人は言い訳し、弁
解し、あれこれ理屈をつける。「相手が悪い。相手のせいで、自分
はこのようにした。相手がそうしなければ、自分はしていない。自
分は悪くない」自分を正当化し、罪を認めようとしない。

一人の自分の内に、異なった二人の自分がいる。罪を認める自分と
認めない自分だ。しかしどんな中でも、主に従って行こうとの思い
がある時、主は強情な思いを砕いて、悔い改めへと導いて下さる。
人は本心では、罪がわかっている。しかし自我があり、プライドによ
り、素直に認められない。

人に注意されたらどうだろう。頭でわかっていても、ムッと感情的
になる。指摘されるとプライドが傷つき、反発し、心を頑なにする。
自分の内の古い性質であり、自我だ。しかし、それではいけないと
の思いもある。新しい性質だ。肉が改良されて霊になるのではない。
肉はどこまでも肉、霊は霊だ。

「肉によって生まれた者は肉。御霊によって生まれた者は霊」の通
り。私たちは、この二つの間にあって選択する。肉を選ぶか、御霊
を選ぶか、御霊を選ぶなら御霊の実を結ぶ。御霊の方を選べる
よう助けを求めて祈ろう。失敗した時は、悔い改め、〃前進して
行こう。

・・・・・・・・・・・
御霊により、肉の欲はあるが、それを満足させないと言っている。自力
でなく、御霊によって歩む事が大切だ。そのために、自分自身を明け
渡して、御霊の示しに一つ一つ従って行くことだ。御霊の力が臨むの
で、助けられて、従って行ける。ゆだねられるよう、祈って行こう。


2021年05月03日(月)

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリスト の名によって父なる神に感謝しなさい」エペソ5:20



御霊の思いと肉の葛藤を日々に経験する。ある母親が、出勤しよう
とする時に、登校前の子供が、提出物のプリントが無いと騒ぐ。登
校時刻が迫ってる。母親も仕事に出なければならない。慌ただしい
朝に、家中探し回るが、無い。母親はイライラし、怒りが湧いて来
る。いつも前日に準備するようにと、口うるさく言っている。

「何で、昨日の内に準備しないのよ!」腹が立って仕方がない。時
間が無い。その間も時刻は迫る。子供は焦って、泣きべそをかいて
いる。母親は「すべての事について感謝しなさい」が、ふっと頭に
浮かぶ。この事も、信仰により感謝なのだと思う。しかし、一方で
は腹が立って、怒りがおさまらない。自我で、肉だ。心の内で子供
を責め立てている。

この事は感謝なのだという御霊からの思いと、片方では肉のいら立
ちが交錯する。いよいよ時間切れとなり、「神様!この事態を感謝
します!」と感謝を選択した。その途端、子供が「あった!」と叫
んだ。思いもよらぬ所から出て来た。主を感じた瞬間だった。一見
不都合な出来事の背後に、必ず主の素晴らしい取り扱い、ご計画が
ある。

感謝する事は、その事柄に主を認める事であり、信仰を献げること
になる。主はその信仰に働かれ、信じた通りになって行く。日々の
すべての出来事に主を認めて、感謝して行く時、主は信仰を成長さ
せて行って下さる。目の前の事態に主を認めることを求められてい
るだろうか。

・・・・・・・・・・・・・
感謝は、「すべてのことについて」とあり、良い、ハピーな事だけでなく、
一見、不都合な事も含まれる。そこに主を認めて行くことが信仰だ。
「あなたの行く所、どこにおいても、主を認めよ」とあり、不都合な事
に主を認めて行く時、それが祝福へと導かれて行く事を見る。


2021年05月02日(日)

「『主よ。この人はどうですか』・・『それがあなたに何のかかわり がありますか。あなたは、わたしに従いなさい』」ヨハネ21:21



私達は、古い性質があり、どうしても人の目が気になる。良い人に
見られたいし、好かれたい。そして嫌われたくない。主を知る以前
の古い価値観、この世の価値観では、ずっと人との比較の中で生き
て来た。人の目に、自分がどう映っているかを絶えず意識する。神
の御目でなく、人の目に映っている自分を意識して生きてしまう。

それは本当の自分ではない。絶えず「人の目に映る自分」を意識し、
見ているので疲れ果ててしまう。人によく見られようと、自分でな
い自分、自分以上の自分を見せようとする。比較からは必ず優越感
と劣等感が生じる。そこから妬みが出て来る。自分が欲しいものを
持っている相手を妬む事になる。

解決の道は、比較をストップする事だ。比較さえ無ければ、優越感
や劣等感、妬みから守られる。まっすぐに主だけを見ておれたら、
どんなに幸いだろう。しかしそれが出来ない。だが、神が備えて下
さった道がある。それは、比較する自分、人前に演技する自分、背
伸びをして、自分以上によく見せようとする自分、ごまかす自分、
それらをまず主の御前にそのまま認めることだ。

それが主の御前にへりくだる事だ。主に隠さず、自分の本当の姿を、
主に告白することだ。その時、主は受け止め、働いて下さる。人で
はなく、主を見上げるように助けて下さる。人の目に縛られている
自分が、変えられて行く。自分でどうにも出来ない事を、主がして
下さる。

・・・・・・・・・・・・・
主がありのままの私を受け入れ、受け止めていて下さるのは、どんな
に嬉しい、平安な事だろう。このままの私を愛して下さっている。絶え
ずそこに立とう。主と、私の間に、人が入ると、平安が失せて、主が
見えなくなる。心がざらつく時、立ち止まって、主に向こう。


2021年05月01日(土)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべて の武具を身に着けなさい」エペソ6:11


サタンは私たちの「思い」に攻撃して来る。「悪魔はすでにイスカ
リオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」と
あるように、悪魔が、ユダの心に、主を裏切る「思い」を入れた。
悪魔が持ち込んだものだった。ユダは、主を裏切る思いが、サタン
からのものである事に気づかなかった。力の限り、心を見張ってい
よう。

最初にサタンが私たちの心に、「思い」を入れる。だがその思いを、
受け入れるか、拒むかは、人間の側の選択だ。サタンからの吹き
込みを、拒否せずに、同意し受け入れた時に、「サタンが彼には
いった」と御言葉は言っている。ユダが拒まず、その思いを自らの
意志で選択した結果、サタンに支配されてしまった。

サタンからの思い自体は罪ではない。朝から晩まで一日中、様々な
思いを吹き込んで来る。それを選択し、同意し、受け入れる時に罪
となる。欲がはらむと罪を生み」の通りに、自らの強い欲望のある
ところに、サタンが誘惑を吹き込み、それを受け入れ、その思いを
妊娠させてしまう。妬みや憎しみ、恐れや思い煩い・・その思いに同
意し、受け入れてしまっているだろうか。

心が真空状態の時に、サタンは思いを吹き込む。賛美や御言葉、
祈り、主を思う時に、心は守られる。心を、力の限り、見張れと言
っている。心を見張る人などいない。そのためサタンが自在に働け
てしまう。心を見張っていよう。祈っていよう。

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絶えず、絶えず同じところにサタンは来る。執拗に来る、その根元
に何があるのか、祈ってみよう。その根にあるもの、苦い根を引き抜
いて頂こう。苦い根に気づく事は、祝福の第一歩だ。頻繁に、しつ
こく来る思いによって、サタンに気づける。