2021年06月30日(水)

「神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って革袋に水を満たし、少年に飲ませた」創世記21:19



アブラハムは、奴隷ハガルによりイシマエルを得た後、サラが約
束の子イサクを出産した。するとイシマエルがイサクをからかい、
いじめるようになった。それを見たサラは、アブラハムに、イシマ
エルを追い出すよう要求した。アブラハムは、どちらも自分の実子
なので、非常に苦悩した。だが主に示され、それに従い、母子を出
した。

出された二人は、荒野をさまよい、食料も水も尽きた。ただ死を待
つばかりだった。この悲惨な絶望的な状況に、我が子を前に、どん
なに辛く、嘆きと苦しみだったろう。ハガルは、なすすべなく声を
上げて泣いた。その時、「神は少年の声を聞かれ」奴隷の子も、一
つの国民とすると語られた。主の助けの手が差し出された。

「神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた」子供に
水を与える事ができた。その時に井戸が掘られたのでなく、すでに
あった。ハガルは井戸のすぐそばにいたのだ。そばに井戸があった
が、見えなかった。私たちも学ぶ事ができる。信仰人生で数々の困
難に出くわすが、問題が問題なのではない。見えない事が、目が閉
じている事が、問題なのだ。

ハガルが叫ぶと、主がハガルの目を開かれた。すると井戸を見出し
た。絶望、不信仰の中では何も見えないでいる。真っ暗闇だ。主に
向く事が解決だ。そこに光がある。目の前の状況と自分だけを見て
いた目を、主に向いた途端、閉じていた目が開かれて、解決への糸
口を見い出す。そうであれば、私たちの祈りは、肝心な事は、目が
開かれる事だろうか。すぐそばに井戸が備えられている。
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深刻な状況も、霊の目で見るならこの世は全く違って見えるのでは
ないか。主のあわれみが支配し、主の恵みは何物にも妨げられず確
実に備えられている。目が開かれ、よりさやかに主が見えるよう祈
ろう。


2021年06月29日(火)

「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」Uコリント5:7



私たちの日常を振り返る時、どうだろう。目に見えるものに、大き
く影響されていないだろうか。見えるものには、甚大な影響力があ
る。突如の事態が起きると、目に見える状況に飲み込まれてしまう。
そして主が飛んでしい、すぐに主の約束から目が離れてしまう。病
気、けが、経済的苦境、辛い対人関係、仕事上の悩み・・目の前の
問題で、不安と思い煩いでいっぱいになる。

問題ばかりが大きく見えて、目には見えない、主と御言葉が見えな
くなる。又、心からの願いである、家族や親族の救いはどうだろう。
いつの日か、あり得るのだろうかと疑ってしまう。そんな時こそ、
目に見える状況でなく、主の語られる御声に耳を傾けよう。祈りの
中で、御言葉を聞く中で、主と交わる時に、語りかけて下さる。そ
して励まして下さる。

アブラハムは「サラによってひとりの男の子を与える」との言葉を
受けた。だが、自分はもう100歳であり、サラも90歳で子どもを産
めない胎になっていた。そのため、ハガルが産んだイシマエルが、
御前で生きながらえますようにと言うと、「いや。あなたの妻サラ
が、男の子を産む」と。その時、アブラハムは、目の前の状況と全
く相反する主の約束を受けた。常識でもあり得ない事だ。

彼は、肉の目には見えない、主の約束の方を信じる事を選択した。
そして感謝する事を選んだ。そして不信仰により、主の約束を疑う
事をしなかった。信仰がますます強くなり、主に栄光を帰し、主は
約束を成就される事を堅く信じた。するとその通りに成就した。主
の言葉は永遠に立つ。御言葉の方を信じ、握っておれるよう祈ろう。
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頭ではわかっていても、目の前の状況に反応し心はすぐに動揺して
不安になる。けれど祈りによって励まされ、御霊を通して慰められ
る。だから私たちはいつも心強い。御約束を握って待ち望もう。


2021年06月28日(月)

「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」マタイ7:3



「梁」は大きな丸太であり、屋根を支えるため、柱と柱の間に渡す
横木の事だ。「ちり」は非常に微少のもので、よく見えないほどの
ものだ。他人の極小のちりは見えるが、自分の目にある丸太は見え
ないと言っている。人のあら探しをし、裁く思いが丸太であり、そ
の思いは、目を見えなくしてしまう。

人を裁く思いが心にある時、正しく相手を見る事ができず、目が歪
んでしまう。相手には確かに不足があるかも知れないが、自分の裁
く心に比べるなら、相手のものはちりみたいなものだと。主は「見
なさい。自分の目には梁があるではないか」と。梁があると言って
いる。自分に相手を裁く心がある事を認めよと。

それは、自分は正しいとするので、裁く事になる。相手よりも、立
派な人間だと思っているので、相手の弱さを裁き、責める事になる。
又、例えば、私たちが、良く思っていない相手について、悪い情報
を聞いた時に、どうだろう。心密かに喜ぶ思いを持つなら、裁く事
になる。

嫌な相手、妬ましい相手が失敗した時はどうだろう。快感を感じる
なら、それも裁く事になってしまう。相手のちりを見る、自分に梁、
丸太がある事になる。どうすればよいのか。「まず自分の目から梁
を取りのけなさい」気づきが与えられる時に、裁く自分の姿を見せ
られ、へりくだらされる。悔い改め、主の赦しにあずかれて、主の
前に正しくされる。

そして今度は、相手のちりを取るために、主が用いられる。「はっ
きり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」自
分に梁が無いので、ちりもはっきり見えて、取り除くことができ、
そのために用いられる。
---------
人の間違いはすぐに見つけるが、自分の目の梁には気つかない。
裁く心に気づいたら主に悔い改めよう。人を裁く自分に気づき、
自分をまず裁けるのが何よりも感謝だ。主の赦しにあずかろう。


2021年06月27日(日)

「どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめ てください」詩篇51:2


ダビデは、姦淫と殺人の罪を犯して、それを隠ぺいしていた。王で
あり、自分の意のままだ。誰も何も言えない。しかし主は、何もか
もを見ておられ、介入された。預言者ナタンを遣わされ、ナタンは
ダビデに告げた。貧しい人が大切にしていた一匹しかない子羊を、
富んだ人が取り上げ、自分の客のために調理した。

するとダビデは「そんな男は死刑だ」と叫んだ。同時にナタンは
「あなたがその男です」と指摘した。ダビデは、真正面からの断罪
に打ちのめされた。「私は主に対して罪を犯した」と罪を認め、悔
い改めた。ダビデはトップであり、全権力を持ち、その権力で、す
でにウリヤを殺している。ナタンなど簡単に殺せる。

しかしダビデは悔い改めた。王が、人々の手前も関係無く、悔い改
めた。その瞬間、ナタンの言葉が臨んだ「主もまた、あなたの罪を
見過ごして下さった」。主は真実だ。どんな罪も、悔い改めるなら
赦して下さる。だが「人は蒔いたものを刈り取る」との通りにダビ
デも刈り取った。

実子アブシャロムが歯向かい、戦いをしかけ、家族間の争いやごた
ごたで、辛い刈り取りをした。しかし、ダビデは取り返しのつかな
い過失にかかわらず、赦され、義とされた。私たちも同様だ。罪を
抱えたままなら、平安を失い、苦しくてたまらない。隠ぺいすると、
嘘の上に嘘を塗り重ねて行く。そのまま主のもとへ行き、告白しよ
う。
「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは幸い、主が罪を認めない
人は幸いである」。罪がおおわれ、主は罪を認めないと。

・・・・・・・・・・・
罪が赦されるとは、何と驚くべき事だろう。一方的に与えられる恵
みに驚きと感謝しかない。悔い改めて、赦される度に主の愛を経験
し、知って行く。罪がおおわれ、主が罪を認めないと言われる。平
安が戻り、前に進んで行ける。


2021年06月26日(土)

「わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろがわたしと戦え ば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う」イザヤ27:4


ある人が職場で、上司から批判され、ガミガミ言われた。それが理
不尽で、なぜそんな事を言われるのか。全く納得が行かず、ひどく
傷ついた。更に、人の面前でもあり、プライドも傷つき、怒りが湧
いた。しかし赦せない思いは、相手でなく自分が苦しいばかりだ。
心に鉛があるように重く、悶々状態だ。

そんな状態で、しばらく後に、部署替えがあった。その上司とは、
会う事も全く無くなった。だが目の前にいなくなっても、憎しみは
消えず、辛くてたまらない。それなら赦せば良いのに、赦せない。
多忙な時は紛れているが、色々な瞬間に、ふとよみがえり、心に影
を落とす。楽しい時も楽しくなく、囚われの身だった。

辛くて、追いやられるように、主の前に行き、ありのままを打ち明
けた。苦しい事、赦せない事、しかし、自由になりたい事・・、葛藤
があったが、このままではいたくない。そんな時、もし主のとりで
に頼りたければ、「わたしと和を結べ」と。和を、主と結ぶように
と。この事は、相手ではなく、主と自分の関係の事だと知らされた。

それで赦す事を決意した。主と正しい関係でいたいからだ。「赦し
ます、助けて下さい」と、主に意志を向けた。すると、不思議が起
こり、心の重苦しさが消えて、楽になった。不思議だった。嬉しく
て感謝でならなかった。赦さない心は、相手との間でなく、主との
間に隔たりをつくっていた事に気づかされた。

・・・・・・・・・・・・
結局、状況や人でなく、主と自分の個人的な関係が問題だと言われ
ている。平安が無いのは、状況ではなく、主との関係による。そこ
でよく間違ってしまうが、どんなに苦しい状況でも、主との関係が
正しければ、心の底に不思議な平安、揺るぐ事のない平安を経験す
る。


2021年06月25日(金)

「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます」マタイ1:30



普通に日々を送っている中で、時に、突如として、不測の事態に出
くわす事がある。突然、御使いが現われたマリヤがそうだった。そ
して驚くべき事を告げられた。自分がみごもると言う。男児が生ま
れるので、名をイエスと付ける事、その子はダビデの王位が与えら
れる。かねてから預言されていた救い主だと。

マリヤの驚きと戸惑いはどんなものだったろう。しかしマリヤは、
御使いの言葉を受け止め、尋ねて行く。どうして処女の自分が妊娠
するのかと。すると、御使いは、聖霊が臨み、いと高き方の力にお
おわれると。不妊のエリサベツがすでに妊娠し、奇跡がなされてい
て、「神にとって不可能なことは一つもありません」と。

これらの言葉を聞いた時に、マリヤは「私は主のはしためです」と
へりくだり、「おことばどおりこの身になりますように」と。主に
自分自身を明け渡した。当時、結婚前に妊娠するなら、姦通罪で石
打ちの刑だ。お言葉通りにこの身になるなら、死刑であり、命をか
けた応答だ。

婚約中のヨセフに、聖霊によりみごもったなどと言っても、信じら
れるわけがない。この結婚は壊れるだろう。ヨセフをどんなに傷つ
ける事か。周囲からは白い目で見られるだろう。そんな何もかもを、
マリヤは主に委ねて、自分自身を主に献げた。マリヤの信仰だ。

私たちも信仰人生で、突如の事態が起きる。驚き、慌て、混乱して
しまうが、祈ろう。御心に委ねられるように、祈りを重ねよう。
ゆだねて従う時に、大きな恵みを受け、主のご計画があなたの身に
実現して行き、周囲も主のみわざを見ることになる。
--------------
突然の事態によって今までの生活ががらりと変わってしまう。その
時、出来るのは主に信頼し、行き先を主にお委ねする事だけだ。
こわがることはないと主が言われる。なんと心強い御言葉だろう。


2021年06月24日(木)

「ほむべきかな。主。主は包囲された町の中で、私に奇しい恵みを施されました」詩篇31:21



主の奇しい恵みを受けるのは、包囲された中とある。つまり絶対的
な窮地が、奇跡を見る機会であり、真に主に出会う機会だと。四方
八方ふさがり、追い詰められてどうにもならない中で、人のわざで
はない、主のみわざを見せられ、経験して行く。そうであれば、逆
に窮地は素晴らしい恵みであり、真に主を経験する機会となるので
はないか。

出エジプトを果たしたモーセと民も、この窮地を、絶体絶命を経験
した。後ろは軍の追っ手に、前は紅海。前進も後退も出来ず、民が
恐怖で叫ぶ。その中、祈っていたモーセに、主は「前進せよ」と言
われた。その言葉通りに従うと、海のまっただ中に道ができた。奇
しい恵みが施された。又、ヨシュアに導かれた、民のヨルダン徒渉
も、絶体絶命の中だった。

春先で、雪解けの水が川岸いっぱいに溢れる中、橋も船も無い。そ
の中、主の言葉通りに従い、祭司たちが契約の箱を持ち、ヨルダン
川に入り、足が浸った時に、川の水はせきをなして立ち、見事に水
はせき止められた。民は全員、安全にヨルダン川を渡りきった。カ
ナンに入った後、目の前にそびえ立つ、エリコの城壁を前にした時
もそうだった。

城門は堅く閉じられ、誰一人出入り出来なかった。なすすべの無い、
窮地だ。主は不思議な方法を告げられ、言われたその通りに従った
時に、城壁は崩れ落ちた。窮地は、主の好機だ。そこでこそ、主の
みわざが現わされる。よく耳を澄まし、主の御声に耳を傾けよう。
そして示された通りに従おう。
------------
困難は避けて通りたい者だが、進退窮まる状態で始めて主にすがり
つく。前進せよの声に従おう。この状況の背後に主がおられる。主
の栄光を拝し、主を見上げて歩む者に成長させられる。




2021年06月23日(水)

「あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」マタイ6:4



主は、人前で善行をするなと言われ、右手のしている事を左手に知
られないようにと言われた。施しは隠れているように。自分の善行
を人に知られてはならないと。なぜなら、天での報いが受けられな
いからと。だが同時に、あなたの光を人々の前に輝かせ、人々があ
なたの良い行ないを見て、天の父を崇めるようにせよと言われた。

一見、矛盾するように見えるが、これは動機がどうかだ。自分が誉
れを受け、自分の栄光のために、自分を喜ばせるために、している
のか。それとも主の栄光のため、主を喜ばせるためにしているのか。
自分の利得のための善行なら偽善という事になる。主はパリサイ人
の偽善を、人の前で自分を正しいとする者だと言われた。

しかし神は、心をご存じで、人間の間であがめられる者は、神の前
で憎まれ、嫌われると。人の前で、人の賞賛を求めて生きるのでな
く、主の御前で、絶えず主の目を意識して生きるようにと言われて
いる。目に見えるこの世は、凄まじい影響力があり、目に見えない
神よりも、目に見えるところで生きてしまう。

見えない神の愛より、目に見える人の愛や、人からの評価を求めて
しまう。肉の性質があり、サタンの強い誘惑がある。目に見えない
神を信じて生きる事は、信仰によるのであり、御霊の助けによる。
しかし、そこには主からの豊かな報いがあり、真の喜びと平安を経
験して行く。
-----------
人から良く思われるためにする行為は疲れて終わる。神からの報い
を第一に求めていこう。今、十分に報われなくても、神が全てをご
存知だ。神の喜ばれることに焦点をあてよう。




2021年06月22日(火)

「しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った・・それに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした」ヨナ1:3




ある若いクリスチャンが、ある時、多忙な母親を助けるよう、御霊
の促しを受けた。母親は仕事と家事をし、その日は来客の準備もあ
り、目の回るような忙しさだった。御霊の導きを感じるのだが、面
倒で、したくない。自分の好きな事に時間を使いたい。手伝った方
が良いと思うが、したくない思いとで、もやもやする。だが肉が勝
ってしまい、したい事があり、自転車で家を出た。

すると少し出たところで、何とパンクしたのだ。はっきりと主の御
手を感じた。主が止められ、御心へと返して下さった。家に戻り、
母親を手伝った。心は平安で、喜びがあり、主の関与に感謝した。
母親はことさらに喜んでくれ、感謝され、証しと用いられた。従え
なかった者に、尚も手を延べ、導いて下さった主の愛に触れた。

悔い改めて祈った時に、「従うことを知っていたよ」と言って下さ
った気がして、あわれみの主も感じた。ヨナが、主から、ニネベに
行き、宣教せよとの命令を受けた時に、敵国に宣教したくなかった。
行きたくなかった。それでヨナは「主の御顔を避けて」逃れようと、
別方向の船に乗った。

すると難波しそうなほどの大嵐が起き、ヨナは海に投げ込まれ、大
きな魚に飲み込まれ、その中で祈り・・紆余曲折の中で、結局ニネ
ベに行く事になる。肉は、主の御顔を避けて、自分の思い通りに歩
みたい。しかし、御心をそれた者をも、尚も愛し、導き返される。
この主に従えるよう祈ろう。
-----------
面倒なことや煩わしいことは上手に逃げてしまう者だ。それでもな
お、主は私たちに期待し、追いかけてくださる。主の呼びかけに当
事者意識をもって応えよう。主のご愛に応えよう。


2021年06月21日(月)

「みな謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」Tペテロ5:6



へりくだりと聞くと、「いえいえ、自分などは」「つまらない者で
す」と下座に座り、自己卑下する事のように思うが、そうではない。
単に、人前で腰を低くする事ではない。肉の謙遜は、肉の欲しいま
まの欲望に対しては、何のききめもないとある。「何も出来ない者
です」と言いつつ、心では高ぶっていたりする。

ある人が、主に仕える者としての訓練を受けるために、神学校へ入
った。その時に、自分はこの中で一番謙遜な者になろうと目指した。
謙遜のナンバーワンになろうと。パリサイ人の謙遜は人前であり、
人を意識して、人に見せるためであった。私たちの謙遜は、主に対
してであり「神の力強い御手の下に」へりくだる事だ。

へりくだるとは、自分の思いを捨てて、自分を捨てて、主の御心に
「はい」と言う事だ。自分が強ければ、従えないし、自分の思いを
通して行く。今、主のみ思いと、自分の思いの間で選択を迫られて
いるだろうか。神の力強い御手の下に、へりくだれるよう祈ろう。
主の御心を「はい」と、選び取って行けるよう祈ろう。へりくだる
者に、主の約束がある。

へりくだるなら、「神が、ちょうど良い時に、高くしてくださる」
と。自分で高くなるのでなく、主が高くして下さる。主はへりくだ
る者に恵みを与え、良きもので満たして下さる。水は低い方へ、低
い方へと流れる。恵みはへりくだる者へ、へりくだる者へと、流れ
込んで行く。
--------------
わかっているようで、なかなか自分から抜け出せず、自分で、自分
でと何処までも傲慢だ。それにさえ気づかない者だが、主は決して
見放さず、取り扱ってくださる。はいと素直に従うだけだ。


2021年06月20日(日)

「わたしも一言あなたに尋ねましょう。もし、あなたが答えるなら、 わたしも、何の権威によって、これらのことをしているのかを話し ましょう」マタイ21:24



主が宮で教えておられた時、祭司長・長老たちが「何の権威によっ
てしているのか」と詰め寄った。その前に、主が宮が汚されている
事を怒り、宮で売り買いする人々を追い出し、両替人の台や鳩売り
の腰掛けをひっくり返していた。そして彼らは自分たちこそ、教え
る権威と資格があると思っていた。それに対し、主は問われた「ヨ
ハネのバプテスマは天からか、人からか」と。

彼らは相談した。もし「天から」と言えば、ヨハネが主イエスは神
から遣わされたと証ししているのに、なぜ信じないかになる。又、
もし「人から」と言えば、群衆はヨハネを神からの預言者と認めて
いるから、恐いと。それで彼らは「わからない」と答えた。「天か
ら」と答えてもまずいし、「人から」と答えてもまずい。それで
「わからない」に逃げた。

すると主の答えは「わたしも話すまい」であった。彼らは、神に出
会えなかった。真摯に主に向き合う事も、正直に自分に向き合う事
も無かった。責任を取りたくないので、逃げて、真実に直面しない。
だから主も答えられない。本当に「人から」と思うのなら、そう言
えばよい。正直な真実な気持ちには、主は対応して下さる。そして
そこから次の展開がある。

私たちはどうだろう。責任を取りたくない、犠牲は払いたくない。
そのため避けていないか。心を探って頂き、ありのまま祈って行こ
う。
・・・・・・・・・・・・・
「もしあなたが答えるなら、わたしも話しましょう」繕う事なく、正直
に、ありのままを認め、主に向き合う時、主と交わりが生じる。主は
向き合って下さる。受け止め、導いて下さる。「したくない、出来
ない」事もありのまま告げよう。そうするならそこから導いて下さる。


2021年06月19日(土)

「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなた がたの耳は聞いているから幸いです」マタイ13:16


御言葉を聞く事は大切だ。しかしただ聞いておれば良いのではなく、
聞き方に注意せよと言われている。イスラエルは皆、モーセから神
の言葉を聞いていた。だが、聞いた言葉が信仰によって結び付けら
れなかった。そのため最後まで神を疑い、心定める事なく、結局、
不信仰のために滅ぼされてしまった。

モーセは神からの言葉を語った。しかし聞く側に問題があった。
「この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからだ
と。種蒔きのたとえで、種は御言葉で、土地は心だ。道ばたに落ち
た種は土が固く、心に入らず、悪魔が来て持ち去った。先入観や偏
見がある時、御言葉が入らない。

又、他人事として聞く態度だ。自分の事として聞かないので、通り
抜けて心に入らない。傍観者となり、他人事として聞いていないだ
ろうか。聞く態度は非常に大切だ。御言葉は自分への言葉として受
け取らない限り、心に入らず、何の益も無い。自分の事として受け
取る心こそが、良い地だ。必ず豊かな実を結んで行く。

岩の上に落ちた種とは、上部に薄い土があり、その下に岩がある。
薄い土があるため芽が出る。喜んで御言葉を聞くのだが、根が無い。
根ざして行かない。根を張るのは地中だ。隠れた主との関係が培わ
れていない。人の目には見えない祈りや、地道なデボーションの生
活が根だ。

茨に落ちた種は外側から伸びた茨にふさがれた。外部から生長が妨
げられた。世の事に心が奪われて、主の事がおろそかになってしま
う。流されて、信仰の事が二の次に、後回しになってしまう。御言
葉の聞き方はどうだろう。省みてみよう。

・・・・・・・・・・・・
荒野でイスラエルは皆、モーセを通して神の言葉を聞いたが、約束
の地カナンに入れ無かった。御言葉の聞き方を、御霊に探って頂こ
う。聞いてOKで、終了だろうか。従う事で、豊かな実を結んで行
く。今、従うべき事を示されているだろうか。実行しよう。


2021年06月18日(金)

「それで彼とユダの王アマツヤは、ユダのベテ・シェメシュで対戦したが、ユダはイスラエルに打ち負かされ、おのおの自分の天幕に逃げ帰った」U列王14:11



ユダ王アマツヤは、T万人のエドム人を打ち殺し、心は奢り高ぶっ
ていた。ヨアシュが、その栄誉に満足して、家にとどまっておれば
よいではないかと言った。なぜ争いをしかけ、わざわざ災いを求め
るのかと。あなたもユダも倒れる。自分だけでなく、周囲をも傷つ
ける事になると。

しかしアマツヤは聞かず、ヨアシュと戦った。アマツヤは言葉通り、
打ち負かされて逃げ帰った。エルサレムの城壁を400キュピトに渡
って打ち壊された。主の宮と宝物倉にあったすべての金銀、器具が
奪われ、人質を取られた。「その栄誉に満足」しないで、高ぶる時、
破壊的結果をもたらす。

災いを求め、罪をもてあそぶ事は、悲惨な結果を刈り取る。今、ど
うだろう。神から与えられている栄誉に満足し、貪欲に陥らないよ
う、自戒しよう。罪をもてあそぶなら、心の城壁が崩れてしまい、
更に罪から罪へと進んでしまう。そしてその結果は自分だけにとど
まらない。「あなたもユダも共に倒れ」とあり、家族も、周囲の人
々をも深く傷つけてしまう。宝物倉の金銀が奪われたように。

幸せな家庭や、信頼関係が壊れ、地位を追われ、非常な痛みを刈り
取る。決して罪をもてあそんではならない。罪から離れていよう。
いつも御言葉にとどまり、主との地道な生き生きとした交わりに生
き、罪から守られるよう、常に主に頼り、祈っていよう。
------------
心の中に罪を見つけたら正直に認め、すぐに悔い改めよう。生き生
きとした主との交わりや信仰生活の障害となるものに気づいたら、
焦点を当て主に祈ろう。信仰の戦いをりっぱに戦い抜こう。


2021年06月17日(木)

「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」ルツ1:16



ナオミ夫妻は、飢饉の際に、御心の場所にとどまらず、偶像の地モ
アブに移住してしまった。その地で、ナオミは夫と二人の息子を亡
くした。そして時を経て、帰郷を決意する。その時に嫁のルツが、
ナオミにつき従った。それはルツが、ナオミの神を信じたからであ
った。信仰による事であった。ナオミが実家に戻るように勧めるが、
ルツの堅い決心は揺るがなかった。

神を信じ、全く未知の異国の地へと、ナオミと共に移った。ナオミ
は、そんなルツの将来の事をよく考え、祈った事だろう。ルツは生
計のために、落ち穂拾いに出た。その時に、畑の所有者であるボア
ズが、丁度来合わせていた。ナオミは、そのボアズが、ルツに目を
留め、親切にしてくれている事を知った。

ボアズは遠縁で、誠実な人柄であり、彼こそが、ルツにふさわしい
と考えた。ナオミはルツに、ボアズの足元に寝て、買い戻しを願う
ようにと指示した。ボアズは誠実に対応した。更に近い親戚が放棄
するなら、自分が買い戻すと。ナオミはルツに、この事がどうおさ
まるか、わかるまで待てと言った。主が働かれるから、待つように
と。ナオミには確信があった。

そして結果的に、ルツはボアズとの結婚に至る。そして子どもオベ
デが生まれる。そのオベデの孫がダビデとなる。主を信じ、すべて
を捨てて、異国の地に来たルツは、豊かに報いられ、素晴らしい栄
誉を与えられ、祝福された。又、この箇所から、御心を示されたな
ら、御心を実行し、後は、主に委ねて、待つ事を学ぶ事ができる。
------------
主の備えを信じ、主に委ねて歩む道は、なんと心強く確かな歩みだ
ろう。不安定な環境に見えても御心の中だ。主はご計画もって導き、
支えていてくださる。


2021年06月16日(水)

「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか」ミカ6:6



罪を犯した時に、その罪が赦されるために、何が必要なのだろう。
一歳の子牛か、いやそれでは足らず、幾千の雄羊、幾万の油かと。
ミカはどこまで行なえば、受け入れてもらえるのかと言っている。
それでも足らずに、自分に生まれた子を献げるべきなのかと。罪意
識にさいなまれる時に、何とかしてとがめを消し去りたい。

そのために、子どもをいけにえにするところまで行き着いてしまう。
しかしそれは、「邪悪な良心」だ。邪悪な良心とは、神を認めない
事だ。キリストの十字架の贖いは、キリストの血潮は、罪を完全に
赦し、解決を与える。しかし、それだけでは赦された気がしないの
で、何かを足して加えようとする。行ないを足そうとする。

つまりは、神を認めず、神の赦しを信じない事だ。それなら主の十
字架は無駄で、無意味だと言う事になる。そうでなく、主の十字架
の贖いを信じ、罪の赦しを受け取り、赦された事を感謝して、感謝
して、主と共に歩んで行く事だと。

「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるの
か」、いけにえを献げて、受け入れてもらうのでなく、へりくだっ
て、主と人とに仕えて行くこと、主と共に歩むことを喜ばれるのだ
と。
-----------
自分が罪に対してできるのは、神の罪の完全な赦しの約束を、信仰
を持って受けとるだけだ。感謝しよう。神によって赦され生かされ
ている恵みに感謝して生きよう。


2021年06月15日(火)

「それから、イエスは弟子たちに言われた『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』」マタイ16:24



時々、他の人が、悩みや問題の中ににある時、よく「私、私、私・
・」の状態にあるのが、はたで見ているとよくわかる。とにかく自
分に強烈に固執していて、それこそがトラブルの原因である事が、
客観的に見ている第三者にはよくわかる。しかし、自分がその渦中
にいると、誰しもなかなかわからない。

皆は幸せで、自分は不幸で、かわいそうとの自己憐憫に陥る。自分
に注意を引くための自己主張、自己顕示、自分を認めて欲しい、自
分が評価されたい、とにかくすべての関心が、結局は「自分」なの
だ。「どうせ私の事など、誰もわかってくれない」となる。自分に
固執している限り、変わって行きようがない。最初から最後まで、
自分の事だけで、これは肉の性質だ。

それなら、生涯それだけで終わってしまう。それは幸せではない。
御霊の喜びもない。主は、十字架の血潮によって、その中から贖い
出して下さった。自己中心にしか生きる事のできない者に、新しい
性質が与えられた。主を喜び、主に従おうとする心がある。その新
しい性質は、主に従う度に成長して行く。自分の思いを置いて、御
言葉に従ってみよう。御言葉と、御霊の導きの方を選択しよう。

その時に、自分が変えられて行く。ここに救いがある。新しい性質
が成長して行く。常に選択だ。御言葉で判断し、御言葉を行なって
行く時に、自己中心な者が変えられて行く。これこそ奇跡だ。そし
て主を新たに知って行ける。何と嬉しい事だろう。
------------
主を信じてもなお問題や悩みの中にいるが、主の十字架によって、
新しいいのちを受け、主を感謝し、喜ぶ生き方へと変わった。古い
自分には解決できない。主の御言葉に従って生きよう。


2021年06月14日(月)

「しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた」詩篇106:13 



主は、私たちに「わたしに求めよ」と言って下さる。「求めなさい。
そうすれば与えられます」と。主は求めることを喜ばれ、私達は、
求める事ができる。しかし求める事において、注意する必要がある。
イスラエルの人々は、主の御心、主の栄光など全く無く、激しい欲
望にかられて、わがままに主に求めた。すると、主はその願うもの
を与えられたのだ。

あなたが、どうしても、どうあっても欲しいと執着し、身勝手に言
い張るなら、時として主は、願ったものを与えられる。しかし、魂
はやせ衰えると。激しい欲望にかられて求めて、手には入れたが、
心は決して満たされる事がない。返って心は虚しくなる。それほど
欲しいものを得たのに、心は平安も喜びも無く、空虚なのだ。

時に主は、私たちに学びを得させ、教訓を与えるために、私達によ
くないものであっても、どうしても言い張るなら、与えられる事が
ある。だが、自己中心にでなく、主の御心にかなったものを求める
方が、どんなに良いだろう。それが一番だ。自分の欲望でなく、主
の心に適ったものが、私達にとっても最善だからだ。主が私たちの
ために選んで下さったものだからだ。

手に入れても心満たされず、更に、心がやせ衰えるのは、辛いこと
だ。私達の求めを、主のお心に照らし、主の喜ばれるものか、主の
栄光が現れるものか、よく吟味してみよう。わがままな欲望ではな
いか、自分の栄光のためのものではないか。

・・・・・・・・・・・
手に入れたら満足で、すぐに次のものに心は動く。今、欲しいもの
は主の喜ばれるものだろうか。主の栄光が現される事を喜ぶ心を、
まず祈りたい。


2021年06月13日(日)

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御 前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」詩篇62:8


私達は、この世の価値観が根深く培われている。ハピーな事、喜ば
しい事は善で、不幸は悪との思いがある。だから、何か一見良くな
い事、病気やけが、不合格、倒産、経済的苦境が起きると、「な
ぜ?どうして?」とパニックになり怪しむ。一見、悪い事だからだ。
この世の宗教のように、信仰すれば、人生良いことづくめのはず、
との思いがないろうか。

しかし聖書はそんな事は全く言っていない。信仰人生、試練がある
と繰り返し告げている。おとぎ話のように、信仰するなら、めでた
し、めでたしで、最後は天国で終わるのではない。様々な試練が
次々に臨む。自我が強く、頑なな私達が造り変えられるためだ。

試練の意味は「今はわからないが、後でわかる」と言われ、後に、
多々教えて下さるが、しかし、天国へ行ってからわかる事もある。
それも踏まえていよう。1+1=2で、機械的にすべて割り切れる
世界ではない。

ヨブのように、時として理由のわからない苦しみが臨む事がある。
理由のわからない中で、尚も主の愛、真実、ご計画の最善を信じて
行く事、主を待ち望む事、これが「信頼」するという事だ。この中
でしか養われる事のない「忍耐」が養われ、このような中で初めて、
主との関係が培われ、深められて行く。

詩篇記者のように、心の内の苦しみ、嘆き、悲しみ、怒り、を何も
かも吐き出して、注ぎ出して、わからない中も、とにかく主の前を
離れず、主に向き続けよう。そうする事が御心に適った事だ。必ず
祝福される。

・・・・・・・・・・
自我が強く、頑固で、自分の思い通りに生きて行きたい者が、主に
頼るには、砕かれるほかない。岩が砕かれ、耕されることは祝福だ。
主に頼らず、自分で生きて行く者が、何のすべも無い時に、初めて
主に頼る。そして主の素晴らしさを味わう者とされる。


2021年06月12日(土)

「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理 解できようか」箴言20:24


スポーツ選手の大試合やオリンピック、又、入学試験や就職試験は
どんなに緊張する事だろう。試合や試験に向けて、一生懸命に努力
し準備する。これ以上出来ないほどの準備をしても、その成果がそ
の当日、必ず出るとは限らない。当日の体調や精神状態にもよるし、
想定外の状況が起きるかも知れない。

オリンピックなど、万全の準備のもとでも、余りの緊張で、本番で
失敗してしまう選手も、時々目にする。練習量や、自分の精神力、
自分の力だけではどうにもならない事を見せられる。人の歩みは、
まさに主によって定められるの通りだ。主と共に歩み、そこに主を
認める事のできる私達は何と幸いだろう。

私たちの進路、進学や就職、転勤等、目の前に起こる出来事、状況、
それらはすべて主が定められたものだ。それを、主が決められたも
のと受け取る時、揺るがない平安と確信を持って進める。今後も、
主は私たちの手を取って、御心の道へと導いて下さる。その妨げに
なるのが、自分の肉の思いだ。自分の強い願望、欲望があり、その
肉の思いは非常に強い。

自分の歩みは、自分で決めたい。誰にも邪魔されたくない。自分の
プランがあり、どうしても手放せない。強い自我がある。主は、す
でに最善の道を用意しておられる。自分の思いを明け渡す時に、平
安な道へと導かれる。目の前の状況を、主からのものと信仰によっ
て受け取り直そう。その時、道をまっすぐにして、心を平安にして
導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
人生で様々な事が起きる。病気になるし、けがもする。対人関係で
悩むし、経済的苦境にも陥る。しかしそれらすべてが主の支配の中
と知り、人の歩みが主によって定められることを知る時、何と幸い
で平安だろう。理解を超えていると言っている。信仰で歩もう。


2021年06月11日(金)

「今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく。あなたがたが悲しんで悔い改めたからです」Uコリント7:9


悲しみにも2種類あり、「神の御心に添った悲しみ」と「世の悲し
み」があると言っている。世の悲しみは、ただその事態を、悲しむ
べき結果を嘆くだけで終る。又、まずかった結果が、周囲に対し
て体裁が悪いので、後悔するばかりだ。しかし結果オーライならそ
のままだ。そこには、へりくだり、自分を砕いた悔い改めが無いの
で、必ず同じ失敗を繰り返す事になる。

神の御心に添った悲しみは、悲しみの中で、自分のあり方や、今ま
での自分の人生を振り返る。その時、高慢で自己中心な罪を示され、
心砕かれ、悔い改めに導かれる。御霊が働かれる悲しみだ。ある男
性が、結婚して自営業を始めた。しかし、なかなか軌道に乗らず、
経済的苦境に陥った。妻は夫と共に働きに働いた。

仕事は行き詰まり悶々状態の時、妻は育児の上に仕事で、過労で倒
れてしまい、入院した。その時、彼はこんな大変な時に倒れた妻を
責めたのだ。仕事も家庭もうまく行かず、ガタガタな現状を見た時
に、これは自分の姿ではないかとへりくだらされた。神の御前にへ
りくだった時に、「自己中心」の罪を示された。

自分の力を誇り、自分が、自分がと、自分が神になっていた。自分
の思い通りに、事を進めて来た高ぶりを示され、悔い改めた。妻に
も今までの自己中心を詫びた。仕事も家庭も新たにされ、新しい展
開がもたらされた。悲しみは、今までの自分のあり方を顧みる、神
からの機会だ。御心に添った悲しみは、必ず結実して行く。

・・・・・・・・・・・・
ただ悲しんで後悔するより、赦してくださる主に悔い改めよう。主
が失敗を全て負ってくださる。後ろ向きの後悔から、主と共に新し
い再生の道を歩める。


2021年06月10日(木)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


ある高齢の男性が、段々足腰が弱り、とうとう車椅子になった。人
の手を借りなければ、移動が難しくなった。礼拝出席も一人では不
可能だ。以前は、助けられる事に抵抗があった。人手を借りたくな
かった。プライドだった。だが信仰者となり、自分自身が変えられ
た。どうすればよいのか、祈りを献げた。するとその時、礼拝出席
のサポートの申し出が来た。祈りの答えと心から感謝した。

主からのものと受け取れた。以前なら拒否反応だったろう。受ける
事は、上下関係の下のように思えていた。そのため惨めに感じた。
プライドが高く、助けを求められない事が弱さであった。しかし今
は、主ご自身からのサポートと受け取れる。そしてその相手に心か
ら感謝でき、御霊の喜びと平安に満ちた。

ある人々にとって、受ける事、人にしてもらう事が難しい。素直に
受けられない。しかし主からのものと、受け入れる時に祝福され、
喜びと平安に満ちる。今、私たちも人の助けを、受け入れる必要が
あるだろうか。それも取り扱いかもしれない。自分に必要な時に、
人からの助けを受け取る事ができるのは、へりくだった人だ。

その人は祝福され、ふさわしい助けが与えられる。御言葉は一方的
にでなく、「互いに」と言っている。「互いに愛し合いなさい」
「互いに従いなさい」「互いに赦し合いなさい」「互いに仕えなさ
い」、受けたり、与えたりしつつ愛し合って行ける。

・・・・・・・・・・・・
する事よりもしてもらう事は難しい。何かをして返さないとと落ち
着けない者だ。ただで受けた主のご愛、赦しを思い、主に助けを求
めるように、素直に人の好意を受けとる事もまた主の取り扱いだ。


2021年06月09日(水)

「そこで王は言った『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか』しかし、彼は黙っていた」マタイ22:12


主はたとえを話された。王子の結婚披露宴を設けた王は、しもべに
招待客を呼びにやらせた。すると招待客は、次々断って来た。その
ため再度しもべたちを遣わした。だが、ある者は気にもかけず、又、
畑に商売に忙しいと。神の事に関心なく、地上の事に心奪われる。
王や王子の祝宴などより、畑や商売、この世の事の方が大切だ。

ましてやある者たちは、王のしもべを殺してしまった。何という事
だろう。招待客はふさわしくなく、王は、大通りで誰でも招くよう
命じた。片っぱしから呼び、宴会場は満員になった。するとそこに
礼服を着ていない客がいた。王は怒り、放り出した。突然招かれ、
誰も礼服など持っていない。礼服は主催者側で用意されていた。

つまり彼は、王の礼服を故意に着用せず、拒否した事になる。自分
の服の方が優れていると思ったかも知れない。彼は、招きは拒まず
に来たが、王の前に出る「礼服」は拒んだ。招かれる者は多いが、
選ばれる者は少ないと言われている。すべての人は招かれているの
だが、この客のごとく、自分の服で、自分を飾りたい。

どこまでも自分の力、自分の功績を捨てたくない。自分の善行、自
分の力で義と認められようとする事になる。主の考えより、自分の
考えを正しいとするなら、主を拒否する事になる。それは礼服を拒
む事だ。王の礼服、義の衣、主キリストを感謝して受け入れ、自分
の身に着て、主と一つとなり従って行こう。そして披露宴の大きな
喜びと楽しみにあずかろう。

・・・・・・・・・・・
天国には入りたいが、主を敬い、従う気持ちがないなら拒否と同じ
だ。裸になり、主の与えてくださった救いの衣を着せられ、義の衣
をまとう歩みへと進もう。


2021年06月08日(火)

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエルをエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10



モーセは40歳の時に、虐待されている同胞を救おうとして失敗した。
エジプト人を殺してしまい、ミデヤンの地に逃亡する事になってし
まった。エジプトでの華やかな王宮生活とは一転、荒涼たる荒野で
の遊牧生活となった。王子の地位も名誉も富も何もかも失い、一介
の羊飼いとなった。そこで結婚し家庭を持った。

荒野の羊飼いで、人生を終えるかと見えた頃に、「四十年たったと
き」「御使いが・・現われた」。神の時が満ちた。すべてに「神の
時」があり、時が満ちると、主のみわざが現われる。主が現われ、
モーセに、御心を知らせられる。私たちの信仰生活にも、神の定め
た「時」がある。

だからこそ、試練の真っ暗なトンネルの中でも、忍耐できる。トン
ネルは永遠に続かない。トンネルは必ず出る。時が満ちた時に、試
練は終わる。しかし、トンネルの中にいると真っ暗闇のため、これ
が永遠に続くように思えてしまう。まるでどこまでも行っても出口
が無いように感じる。しかしそうではない。

「私の時は御手の中にあります」、信仰人生における、私達の
「時」は主の御手の中だ。又「主がなさったことの結末」とあり、
試練には、「結末」がある。終わりがある。あなたは、今、真っ暗
な試みの中にいるだろうか。耐えられない試練はなく、脱出の道が
あり、結末がある事を覚えよう。時が満ちたなら、主がご自身の御
心を現される。「四十年たった時」だ。必ず、主の定めた時がある。
主を待ち、時を待とう。
・・・・・・・・・・・
明日を知らない私たちでも、結末を知っている主が今を導いておら
れる。必ず主に導かれここまで来たと感謝をささげる日がくる。理
解できない事の中で主を信じより頼もう。


2021年06月07日(月)

「神を愛する人々・・神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」ローマ8:28



私達は必ず失敗する。どんなに気をつけていても、間違ってしまう。
仕事上のミスをするし、入学試験や就職試験でミスをする。自分が
こんなミスをするなどと、信じられないと思うが、人間だからだ。
しょっ中、凡ミスもする。又、対人関係で、自分の不用意な言葉や
行為で、人を傷つけてしまう。つい激高すると、売り言葉に買い言
葉になってしまう。

失敗はどうしてもしてしまうが、大事な事は、その失敗から学ぶ事
だ。これが一番重要であり、主は、失敗したなら学べと言っておら
れる。私たちは、主によって、もう一度やり直す事ができる。幸せ
な結婚生活は、何と素晴らしいものだろう。しかし、幸せな家庭は、
互いの努力無しに有り得ない。

人は皆、わがままで、自己中心であり、放っておくと肉のままに自
分勝手な道に行く。「私たちはみなさまよい、おのおの自分勝手な
道へ向かって行った」と。良い関係を建て上げるには、努力が必要
だ。双方で「自分の利益を求めず」「自分にしてもらいたいことを
し」互いに自分を捨て、自分に死んで行く歩みだ。

ペテロも大失敗をした。主を否定し、裏切ってしまったのだ。もう
取り返しがつかないと思った事だろう。しかしそれで終ったのでは
なかった。ペテロは砕かれた。主の完全な赦しを受け取り、主によ
り、再び回復させられ、建て直された。私たちも失敗する。

その時、落胆して主を離れるのでなく、すぐに主のもとへ行こう。
豊かに赦しが備えられている。そして尚も益として、砕かれ、整え
られ主のために用いて下さる。「神を愛する人々のためには」、主
を愛している人のために、そうして下さる。

・・・・・・・・・・
大きな失敗から日毎にやってしまう小さな失敗まで主は益としてく
ださること、何という希望だろうか。落ち込んだまま主に向かおう。
初めから終わりまでを見ておられる主が整えてくださる。


2021年06月06日(日)

「イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上っ て行かれた」マタイ4:1


悪魔は、40日の断食を終えた主への誘惑で、石をパンに変えるよう
にと。しかし主は、自分の思いと力で石をパンに変えるのではなく、
神の言葉によって生きるという事で立ち向かわれた。すると、次は
悪魔も、それに乗っ取って攻撃して来た。「では、神殿の頂から下
に身を投げても、神が御使いに命じて支えて下さると書いてあるで
はないか」と。

御言葉を自分に都合良く勝手に解釈する誘惑だ。これに対しても、
主は、同じく御言葉を用い「神を試みてはならない」と退けられた。
詩篇91:11,12からの言葉だが、比べると「すべての道で」が抜けて
いる。ここで言っている事は、主の御旨に従い、御心の中にいるな
ら守られるとの意味だ。わがままな自分勝手な事をして守られるの
では無い。

悪魔は聖書を読む時に、私達を誘惑して、自分に都合の良い解釈を
させようとする。つまり御言葉を使って、自分の思いを正当化させ
ようとするのだ。それが御言葉なので気づかない。実はそれは主の
御心でなく自分の思いであり、自分の欲望になる。悪魔の罠だ。自
分の思いが強いと、よく気をつけなければ、自分の思いがフィル
ターとなり、御言葉を読み込んでしまう。

そしてそれは、自分の思いと合致しているので全く気づかない。主
の御心だと勘違いする。惑わされてしまう。ここにも悪魔が働く事
をわきまえ、自分の思いを、まず主に明け渡そう。右でも左でも、
白でも黒でも、御心に従いますとの態度に立つ時、正しく導かれる。
サタンに足場を与えない。

・・・・・・・・・・・
敵である悪魔がライオンのごとく、食い尽くすべきものを捜し求め、
獲物を狙っている事を、今日も覚えよう。自分の思いと自分の力に、
誘惑して来る。そこさえ狙えたら成功だ。自分の思いで動く時、自
分の力に頼る時、御霊の気づきが与えられるよう、祈っていよう。


2021年06月05日(土)

「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそ れを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白し ていたのです」ヘブル11:13



同じ信仰者に、正反対の結果が出ている。一方は目に見える勝利だ。
信仰の勇者達が次々と出て来る。主の介入による奇跡によって、危
機に救い出された人々だ。モーセによる民の紅海横断、ヨシュアに
よるヨルダン徒渉やエリコ城壁陥落、敵のペリシテを倒す怪力サム
ソン、強大な巨人ゴリアテを倒すダビデ、ライオンの口から救い出
されるダニエル・・皆、勇士であり大々的勝利だ。

しかし、一方では、奇跡的な事は何も起こらない。釈放される事を
願わず、拷問を受けて死んだ。他の人々は嘲られ、むち打たれ、鎖
につながれ、投獄され、石で打たれて死に、のこぎりで引かれ、剣
で切り殺され・・大々的な奇跡的は起こらず、殉教して行った。これ
らが同時に起きている。

信仰者だからといって、常に奇跡が起きるわけではない。これら正
反対の事はすべて神の御心による事だ。癌が奇跡的に癒された人々
もいるし、癌で天に召された人々もいる。これは、成功や幸せが、
この世の見方、価値観と全く違うという事だ。どちらの場合も主の
御心であり、主の最善だ。どんな状況の中でも、主が私達一人一人
に最善をしていて下さる。

それを信じよう。そして永遠が私達の見据えるべき目標だ。ある
人々は約束のものを手に入れることなく、信仰をもち、希望を持っ
て死んだ。私達はこの世では寄留者であり、すべての報い、結果は
天にある事を覚えよう。

・・・・・・・・・・・・
この世だけを見ていると、わからない事も多い。しかし、天に帰っ
た時に、総決算があり、すべてが明らかになり、賛美となり、主を
崇める事になる。人生を、今日のこの一日を、一つ一つの事を
天を見つめ、天に繋げて行こう。その時、どんな中でも希望を
見失なう事がない。


2021年06月04日(金)

「エリシャは、彼に使いをやって、言った。『ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります』」U列王5:10


ナアマンは、らい病を患っていた。捕虜の少女の進言により、らい
病をいやしてもらうために、エリシャを訪れる事になった。しかし
将軍自ら訪ねているのに、エリシャは会う事もせず、使いの者に伝
言したのだ。ナアマンはプライドをひどく傷つけられた。ましてや、
厳粛に手を置いていやのではなく、ヨルダン川で七回身を洗えと。

それを聞いて、ダマスコにもっと良い川があると怒った。王から重
んじられている自分が、こんなにも軽く扱われた事に、傷ついたの
だ。主はこのナアマンのプライドをご存じで、エリシャを通して、
砕こうとされた。自分はいっぱしと思い、人よりはかなりましと思
い、自分の思いに神を従わせようとする態度は、どうだろう。

人間のプライドは、神の恵みと相容れるところが全く無い。主はナ
アマンに、真の救いと真の癒しを与えるがために、あえて通された。
彼のプライドが取り扱われた。しもべ達がナアマンに言った。難し
い事なら、プライドが保てた。しかし簡単で、人々の目にさらされ
る状況にプライドが許さない。

だが、言われる通りしてみたらいかがかと。ナアマンは耳を傾け、
プライドを捨てて従った。すると癒された。あなたも今、プライド
を捨てて、御言葉に従うように促されていないだろうか。

・・・・・・・・・・・
神の命じておられる方法はただ信じて従うだけだ。何と不思議な方
法だろう。傲慢な心には絶対にわからない。妨げる自我を捨てて、
主の御言葉に従おう。


2021年06月03日(木)

「・・この女は、イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった」ルカ8:44



この女性は、12年間も出血が止まらない状態で、痛みも伴い、どん
なに苦痛と辛さの中にあった事だろう。律法によると不浄との事で、
礼拝にも出れず、宗教的にも社会的にも疎外されていた。経済的に
も悪徳医師の被害を受け、治療に財産を使い果たして、良くなるど
ころか、ますます悪くなった。無一文となり、これから先どうすれ
ばよいのか、心身もう限界で、絶望状態で、ぼろぼろであったろ
う。

わらにもすがりつきたいように、救いを求めていただろう。そんな
時、主の噂を耳にした。せめて着物にでも触れば必ず直ると思った。
瀬戸際の状態であった。主にすがり求めて触った時、血の源が枯れ
た事、ひどい痛みが直った事を感じた。誰にも知られずに、密かに
隠れて、そっとその場を去りたかった。しかしその時、主が「触っ
たのは誰か」と問われた。

後方で、群衆に紛れ潜んでいたが、隠しきれないと思い、恐れで震
えながら、主の前に進み出た。「イエスの前に出」たのだ。どんな
に勇気の要った事だろう。「すべての民の前で」イエスに触ったわ
けと、12年間のひどい痛みと苦しみが、癒された次第を話した。自
分を卑しめ、人からも隠れ、暗さの中にいたのが、主に導かれて、
従う事により光の中へと、導き入れられた。

あるがままを告白できた。それが出来たこと自体が奇跡だ。主は
「あなたの信仰が」と信仰を認め「安心して行きなさい」と。全き
安堵と平安を下さった。苦しみ、恐れ、不安、怯えから解放された。
身体だけでなく、心も癒し、全人格的救いを下さった。告白は彼女
自身のためであった。あなたにも、告白を求めておられるだろうか。
全き救いを与え、光の中へと招くために。

・・・・・・・・・
主との個人的な交わりがあるから、弱さを抱えたままでも光の中を
健やかに歩んでいける。密かに癒されたい何かがあるだろうか。主
に告白しよう。核心に主が触れてくださる。


2021年06月02日(水)

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい」ピリピ2:14



主から、何か御言葉を通して語りかけられる事、示されている事が
あるだろうか。将来のビジョンや働き、又、今、具体的に何かをす
る事だろうか。信仰告白やバプテスマの決心や、悔い改めかも知れ
ない。誰かに謝罪し、又は誰かを赦し、和解する事、誰かに証しを
する事、誰かをサポートする事、励ましの声をかける事・・だろう
か。

「あなたがたのうちに働いて志を立てさせ」とあり、主が志を与え
られる。思いが与えられ、祈り続ける中で、確かに主が導いておら
れるとの確信が来たなら、実行する事が大切だ。「すべてのことを、
つぶやかず、疑わずに行ないなさい」と。御心を行なう時に、心に
来るのが、「つぶやき」と「疑い」だと言っている。

「私に出来るのか?」「難しい」「絶対に無理」又「何で私がしな
いといけないのか」そんな思いが来る。そして実行する事に否定的
になり、尻込みしてしまう。しかし「自分が」でなく、「神が」志
を立てさせ、「神が」行わせて下さる、主語は「神」だ。自分では
ない。力は神から来る。ここで信仰を持って一歩踏み出そう。

そうするなら、神が、「行なわせ」「世の光として輝か」せて下さ
る。あなたが自分で行ない、輝くのでなく、あなたが御言葉に従っ
て行くなら、<神が>、あなたを光として輝かせて下さるのだ。だ
から、私達のなすべき事は、御言葉に従うことだ。御言葉を実行す
る事が、純真な者となり、神の子どもとなり、世の光と輝くことだ。
-------------
自分を見れば必ず否定的な感情がわいてくるが、輝かせ事を行わせ
てくださるのは神だ。与えられた志を大切に守り実行に移そう。
「私たちはぜひとも、上って行って、占領しよう。必ずそれができ
るから」だ。


2021年06月01日(火)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり」エレミヤ29:11



ある人に子供が生まれ、障がいと難病が発覚した。パニックで、涙、
涙で「なぜ?どうして?」「どうして私に?」「これが御心です
か?」「これからどうすれば」の悶々の日々だった。涙ながらに、
主に叫び祈って行った。祈りの中で、主は、時間をかけながら少し
づつ、現実を受け入れられるように、させて下さった。

やがて子供と関わるにつれ、自分が励まされ、力づけられ、喜びを
与えられている事に気づかされた。「不幸」「かわいそう」が、世
の価値観だ。しかし主の目から見ればどんなに尊く、愛され、慈し
まれているかを感じつつ、自分の肉の目でなく、主がどう見ておら
れるかに目が向いて行った。

この世界では不自由であるし、実際生きて行く上で、様々な苦しみ
や悲しみがある。しかし、神は公平な方であり、総決算は天に帰っ
てからであり、その永遠に目を向けながら、今の時を生きるよう、
心が変えられ、導かれて行った。そして、主に間違いはなく、何ら
かの特別なご計画があると、受け入れられるようにされた。そうで
きた事自体が主のあわれみであり、みわざだった。

私たちもどうだろう。今までの進路の選択にも、一つ一つの指針、
導きを与えられ、後で振り返ると、確かにこれで良かったと、確信
と平安を与えられる。思い煩う必要が無かったのだと、何度も繰り
返し経験させられて来た。そうであれば今回も、必ず守り導いて下
さると信じる事ができた。何より自分自身が主に愛され、絶えず目
を留めて下さり、成長させて下さっている事に気づけた。主に間違
いは無い。主を信頼していよう。

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現実にある困難や問題は深刻でも、全ては神からのもの、神に対し
ては望みを持つことができる。いずれは益と遠くに望みをつなぐだ
けでなく、一日、一日を越えてゆく忍耐も慰めも喜びも神は与えて
歩ませてくださる。