2021年07月31日(土)

「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあな たがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心 を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」ヨハネ14:27



主のよみがえりの後、弟子たちは、主が復活された事を、聞いて知
ってはいたが、ユダヤ人を恐れて、戸を閉じて、引きこもっていた。
しっかり鍵がかけられていた。弟子たちの心は、複雑であったろう。
不安や恐れ、戸惑いや混乱、主を裏切って逃げた取り返しのつかな
い、責め、とがめ・・ネガティブなものが様々混じり乱れていた事だ
ろう。

閉じられた部屋の閉塞感のようだ。そこに突然、戸が閉めてあった
のに、主が現われて、彼らの中に立たれた。ドアノックもなく、ド
アを開けようとする気配も無く、突如、目の前に来られ、そして言
われた。「平安があなたがたにあるように」と。

弟子たちは、びっくり仰天し、動揺し、慌てふためいただろうか。
その時に主は、その手とわき腹を彼らに示されたとあり、弟子たち
は、主を見て喜んだと。週の初めの日の夕方とあり、まだ3日前の
傷跡を見て、それこそが、自らの罪を負い。十字架で贖って下さっ
た傷跡だった。

この傷こそが、「平安があなたがたにあるように」との根拠だから
だ。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によ
って、私たちはいやされた」主の十字架により与えられる「平安」
だ。心のいやしだ。すべての罪が赦される。この平安は、何にも代
えられない平安だ。

信仰人生での、苦しい厳しい試練の中も、心の奥に確かに存在する
揺るぐ事のない平安だ。主の十字架によりもたらされた、「世が与
えるのとは違う」「わたしの平安」、主の平安だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・
主を知る以前は、心の奥に空洞があって、穴が開いていた。心は虚
しく、何によっても満たされる事は無かった。そこに十字架の贖い
により、罪が赦されたゆえの、平安が臨んだ。世には決して無い、
何にも代えられない、主が約束された平安だ。


2021年07月30日(金)

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」ピリピ4:4



楽しいハピーな時は、誰でも喜べる。受験合格、入賞や祝い事、昇
進、大好きな趣味、楽しいイベント・・しかし、ここで言う「喜び
なさい」というのは、単なるハピーな出来事による、ハピーな気分
なのではない。それなら、楽しい喜ばしい事柄があれば、喜べるが、
「いつも」喜ぶ事など不可能だ。有り得ない。

感情は状況によりコロコロ変わる。嫌な事があれば、暗くなり、心
はふさぎ、落ち込み沈む。又、人から批判攻撃されると、怒りが湧
き、敵対心や復讐心で悶々状態だ。又、不合格や病気や離別、悲し
い状況に遭遇する事もある。涙が溢れ出る。感情は、状況によって
激しくアップダウンする。厳しい状況の中で、喜んでなどいられな
い。

しかしここでは「状況にあって」喜べではなく、「主にあって」喜
べと言っている。喜べない時は、何を見ているだろうか。目の前の
状況や人や自分を見ている。目に見えるところを見ている。その目
を、そこから離して、主の方に向けよう。その主は、常に共におら
れ、弱い、ありのままの私を受け入れ、何があっても決して変わる
事のない愛で愛し、慈しんで下さっている。

痛い、辛い事があるが、無駄な事は一つもなく、主に行き当たりば
ったりは無く、綿密なご計画を持たれ、私の益のために与えて下さ
っている。砕き、訓練し、整え、成長させて下さるためだ。主には、
しようとする事があり、最善をして下さる。だから「主にあって」
感謝できるし、喜べる。
------------
いつも主にあって喜びなさいの御言葉は力だ。辛い中にあっても
主を覚え、落ち込まず不思議に上を向ける。主の最善の摂理を信じ
主には目的があると知っているからだ。喜んでいよう。


2021年07月29日(木)

「主イエスは『来なさい』と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った」マタイ14:29




有名なペテロの海上歩行の箇所だ。ペテロのすごい所は、主の言葉
があれば、主のお心であれば、海の上を歩けると信じたことだ。見
える所も、肉の判断も、常識も、すべて超えて、主には可能と信じ
た。そしてペテロは大好きな主のもとへ行きたいと願っただろうか。
「私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」
と。

すると主は「来なさい」と答えられた。まだこの時は、大変な嵐の
まっただ中だ。その嵐の中を、水の上に足を下ろし、歩いた。とこ
ろが主から目を離し、風を見た時に、恐くなり、ぶくぶくと沈みか
けた。主から目を離すと、恐怖しかない。自然界でも常識でも、有
り得ない事が起きている。自分は何をしているのか。

「主よ。助けて下さい」と叫ぶと、すぐに手を伸ばし、つかんで下
さった。叫ぶや、即、助けて下さった。人は二つのものを、同時に
見る事は出来ないと言われている。主を見ているなら、問題は見て
いない。問題を見ていたなら、主を見ていない。主を見つめる事が
信仰だ。ペテロは沈みかけたのだが、他の誰も、海上を歩くという
経験、すぐに主に助けられたという経験はしていない。

どうだろう。ペテロが、主の「来なさい」の言葉を信じて、前進し
たからこそ、誰も経験した事のない、大きな恵みのみわざにあずか
った。今、「来なさい」との示しがあるだろうか。他の何にも代え
られない、大きな祝福が備えられている。主を信じて、一歩踏み出
そう。
-------------
ペテロの弱さをご存知だったように、主は私たちの弱さもご存知だ。
その上で踏み出す勇気を喜んでくださる。主の来なさいに応答しよ
う。今、問題が大きく見えているならすぐに主を呼ぼう。


2021年07月28日(水)

「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか」ミカ6:6




若い時に、主を信じたある女性。主に献げて、信仰生活を送ってい
る中で、宣教師としての働きに導かれていると、感じ始め、それは
強いものとなって行った。しかし、どうしても決心がつかず、従え
ずに、結局、主の招きに応じることが出来なかった。やがて、時を
経て結婚した。子供が生まれ、夫の親の介護も必要となった。

家事と育児と介護に追われ、目まぐるしい日々に、心身疲労こんぱ
いだった。辛くて限界も感じ、疲れ果てていた。心にぬぐう事の出
来ない挫折感、どうにもならない虚しさに襲われた。あの時、従わ
なかったとがめで、今の辛く重い生活が、何か罰のように感じられ
るのだった。苦しくてどうにもたまらなくなり、主の御前に出た。

若い時に従えなかった事、ひきずっている事、今の重すぎる苦しい
状況、辛い事、虚しい事、何もかもを主に打ち明け、吐き出し、心
を注ぎ出して祈った。主は語って下さった。「何が良いことなのか。
主はあなたに何を求められているのか。公義を行ない、誠実を愛し、
へりくだって、主と共に歩むこと」なのだと。

今の場で、誠実に主と共に歩めと語られた。宣教師になるのでなく、
主と家族に仕えて行く事を、主は望んでおられ、喜ばれる事の確信
が来た。安堵と平安が広がり、喜びが来た。新たにされ、今の主の
御心の場に帰れた。若い時の後悔が、心に重く影を落としていた事
に気づかされた。
-----------
自分の今の状態、引きずっている古い問題など、自己吟味を迫られ
る時がある。主の御心は何処にあるのだろう。ただ主は心の痛んだ
者、弱い者の傍に立たれれている。へりくだり主と共に歩むだけだ。


2021年07月27日(火)

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにし て、成熟を目ざして進もうではありませんか」へブル6:1


堅い食物は大人の物であり、経験により良い物と悪い物とを見分け
る感覚を訓練されると言っている。クリスチャンにとっても、願い
が叶うことは、大変嬉しい事であり心地よい。辛い、苦しい事は避
けたいし、好きではない。思い通りの事態は大歓迎で、思い通りで
ない事柄はなかなか受け入れ難い。

しかし、思い通りでない事態により、私たちは練られ、鍛えられ、
大きく成長して行く。振り返る時、どうだろう。どうにもならない、
瀬戸際のギリギリの状況の中で、全身で主を叫び求めたのではない
だろうか。主に向かって心の底から叫び、拠りすがる事によって、
一歩一歩成長が与えられて来た。

言える事は、信仰人生で霊的成長を望むなら、痛い事を決して逃げ
るな、避けるな、という事だ。様々な痛み、苦しみによって、霊的
な感覚が訓練されると言っている。つまり霊的な感覚が鍛えられ、
養われ、培われて行くのは実地訓練、経験によると言われる。苦し
みの中で、あがき求める中で、御霊からのもの、悪魔からの誘惑、
肉の思い、これらのものがクリアにされて行く。

そして実地訓練によって、悪魔の働きを識別して行く事を学んで行
ける。経験によって身について行く。今までわからなかったものが
見えて来るのだ。頭の理解でなく、身をもって通る事によってだ。
苦しみを通して、見分ける感覚が鍛えられ、研がれて行く。霊的成
長を願うなら困難から逃げずに、主の取り扱いにあずかる時、一段
階、一段階、成長へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・
「堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物を
見分ける感覚を訓練」されると言っている。霊的な識別力を養われ
るためには、経験が不可欠だと。様々な苦しみや痛みを通して、成
長、成熟させて下さる。主と共に受け止めて行けるよう祈ろう。


2021年07月26日(月)

「それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った『いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません』」Tサムエル8:19



イスラエルの国は、主により治められていた。しかし民は、他国の
ように、自分たちにも人間の王が欲しいと求めた。サムエルはもう
老齢で、息子達は利得とわいろでひどい状態だ。敵の攻撃にも、王
がいれば自分たちを守り、戦ってくれる。そのため他国のように、
自分たちも王が欲しいと。サムエルは気に入らなかったが、祈りに
持って行った。

私たちも不都合な、気に入らない事柄が起きた時、サムエルのごと
く、まず祈りに持って行く事が大切だ。主は、民が、人間の王を欲
した時に、「彼らを治めているこのわたしを退けた」と。そして、
王の権利を知らせよと言われ、サムエルは、ことごとく民にどんな
犠牲があるかを知らせた。

息子は戦いに取られ、娘たちは働かされ、畑は取り上げられ、自分
の家来たちに与えられる・・そして苦しくて主に求めても、その日、
主は答えて下さらないと。しかし、それでも尚、民はどうしても王
が欲しいと言い張った。主は彼らに一人の王を立てよと答えられた。
人間が、主の警告を聞かずに、どうしても欲しいと主張し続けるな
ら、主は与えられる。

しかし願いが叶えられた結果、やせ衰え、虚しくなると。「そこで、
主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰え
させた」。自分の欲望を通して虚しくなるのでなく、私たちを愛し、
慈しみ、最善をして下さる主に従う方が、どんなに良いだろう。そ
れこそが真に満足できる、喜びと平安の道だ。
-----------
せっかく与えられた主からの答が後々、悔い改めに導かれるものな
ら悲しい。主の御心の中を歩むことが幸せだ。主の最善を求めて祈
りたい。


2021年07月25日(日)

「今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあな たに知恵の心と判断する心を与える・・その上、富と誉をもあなたに 与える」T列王3:12



ソロモンは、主に「あなたに何を与えようとか、願え」と言われ
た。
その時に彼は、民は余りにも多く、数える事も調べる事もできない
ほど、おびただしい数だと。そのため、そのおびただしい民をさば
くために、善悪を判断し、聞き分ける心を願った。その求めは主の
み心にかなったゆえ、願い通りの知恵と判断力を与えられた。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを
聞いて下さる・・」「神に願ったその事は、すでに叶えられたと知
る」の通りに。そして同時に、彼の願わなかった富と誉れをも与え
られた。なぜなら彼の求めが、主の御心にそっていたからだ。

「自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、自分のた
めに敵の命を求めたのではなかった」からだった。「自分のため
に」自己中心な欲望の求めではなく、主の心にそって求めた。な
ぜ、
御心にそった求める事ができたのか。それは、彼が主を愛し、主を
礼拝して生きていたからだった。

主を愛し、従おうとの心がある時、主の心にそった求めをして行
く。
主を愛しているからだ。主との平素からの親しい交わりが積まれて
いるので、主の心がわかる。主の心にかなった願いなので、必ず与
えられる事になる。何でも願いをかなえて上げようと言われたら、
あなたは何を願うだろうか。主に喜ばれる願いだろうか。

・・・・・・・・・・・・・
ソロモンは主を愛して、主に従いたいと願っていたので、自分の判
断でなく、主の判断が悟れる心を求めた。それは主のお心にかな
い、
喜ばれた。主を第一に求めるなら、それ以外のものも与えて下さ
る。
自分と主との関係はどうだろう。御霊に照らされ、導いて頂こう。


2021年07月24日(土)

「そして、ヨアブは民の登録人数をダビデに報告した。全イスラエ ルには剣を使う者が百十万人、ユダには剣を使う者が四十七万人で あった」T歴代21:5



ダビデはサタンに誘惑され、その誘惑に負けて人口調査の罪を犯し
てしまった。「サタンが、ダビデを誘い込んで」とあり、単なる国
勢調査をしたのではない。国内の人口を調べる事は悪くない。なぜ
罪となったのか。それは、兵力を、軍事力を調べるためのものであ
った。つまり主の恵みと主の力に拠り頼むのではなく、自分の力、
自分の兵力により組織し、戦いを進める事であった。

ダビデが「大きな罪を犯した」と言ったように、それは重大な罪で
あった。ヨアブは神に対する罪と悟り、ダビデに進言し、人口調査
を思い止まらせようとした。しかしダビデの思いは強く、ヨアブを
退けて、強行して行く。人の計算や、軍事力を使って行くなら、神
無しで歩む事であり。信仰は必要無くなる。

ダビデの心の奥に潜む、自分はどれほどの力があるのかとの思いが
あり、それを兵力で量ろうとする。そこに自力に頼む野心があり、
自分を誇る高慢があった。サタンの誘惑の根本は、主が王なのか、
自分が王なのかという事だった。アダムとエバに、エデンの園で、
サタンの誘惑が臨んだ。

その真の問題点は「それを食べると、あなたが神のようになり」だ
った。自分は神になれるのだと。つまり主に従うのではなく、自分
が主となり、自分の思い通りに、自分の好きなように生きて行ける
のだと。私たちにも常にこのサタンの誘惑、攻撃が来ている。肉は
自分の思い通りに生きたい。そこにサタンが乗じてくる。主を仰い
で、絶えず助けを求めよう。主を王として従えるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・・・
救われた後も、古い性質があり、肉はどこまでも自分の栄光が欲し
い。そこにサタンは巧みに誘惑して来る。祈りにより、御霊の気づ
きが与えられる。祈っていよう。心の王座に自分が座るのでなく、
主に明け渡して行けるよう祈ろう。そこに一番の平安と喜びがある。


2021年07月23日(金)

「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです」Uコリント11:13




にせ使徒、人を欺く働き人がいると言っている。クリスチャンに変
装し、使徒に変装する。サタンが不品行、好色、分裂、泥酔といの
形で来るのは、ストレートでわかりやすい。しかし別の面では、光
の御使いに変装すると言っている。つまりサタンは、神に形を変え
て偽装して来る。偽預言者、偽教師となって来る。

それは「羊のなりをして」来るので、私たちが思うような悪魔的な
ものではない。一見、邪悪そうな悪人ではない。それならすぐにわ
かる。そうでなく柔和な羊に姿を変えている。そのため非常に魅力
的だ。必ず良い人であり、親切で愛想良く、誰にも好かれ、優しく
感じが良い。だから、なかなかわからない。だが、なりすましであ
り、非常に、要警戒だ。

聖書もどきも持って来るが、似て非なるものだ。サタンの変装であ
って、人を欺くためだ。よくよく気をつけていよう。霊をみな信じ
てはならないと。「だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、
御子を告白する者は、御父をも持っている」と。又、サタンは、良
いものでクリスチャンを主から離そうとする。

仕事や趣味は、主が与えて下さった良いものだ。しかしそれら一辺
倒になると、知らず〃の内に、自覚が無いまま、主が後回しになっ
て気づかない。良いものだけにわからない。サタンは巧妙だ。狡猾
な悪魔の誘惑、攻撃が潜む。絶えず祈っていよう。主は祈りに答え、
堅く守り、御霊の気づきを与えて下さる。
-----------
何か身体に良いもの、役に立ちそうなものがあれば取り入れようと
するが、いつの間にかそれで身体が守られていると、主に感謝を忘
れている自分がいる。絶えず祈り、本当に良いものを堅く守ろう。


2021年07月22日(木)

「イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」ルカ10:38


主のための奉仕は尊いし、主の喜ばれることだ。奉仕する事自体は
良いことだ。私たちも、主のために労する事は、喜びであり、恵み
だ。しかしマルタは、主が飛んでしまい、恵みから出て、自分の力
で労し、目の前の仕事そのものに、目と心が奪われてしまった。主
を忘れるなら、何のための奉仕か、わからなくなる。形さえ整えば
良しと、心の伴わない義務感だけの奉仕になる。

主から目が離れると、自分中心にしか物事が見られない。すると、
自分だけが忙しい目をしていると、イライラし、周囲に怒りが湧き、
又、自己憐憫に陥り、何もしていない周囲を責め、裁いて行く。
主から離れ、恵みから出てしまうと、私たちも同様だ。恵みの下で、
御霊によって行なっていないので、非常に重い辛い仕事となる。自
分が辛い中、頑張って労しているので、何もしていない人を見ると
腹が立ってしまう。

なぜ、自分ばかりとイライラして、必ずさばく。恵みの下におらず、
律法の下にいる。奉仕はずっしりと重くて喜びも無い。働く前に、
まずは御言葉を聞き、主と交わるなら、平安と潤いをもって、労す
る事ができただろう。その時、人は関係なく、自分には平安と喜び
があるので、何もしていない人を見ても、さばく事もない。生き生
きと労せる。

しかし、まず主の御前に座するより、動き回る事の方が楽なのだ。
「マリヤはその良いほうを選んだのです」とあり、選択が必要だ。
選ばない限り、まず御前に座する事はできない。選んでいない自分
に気づく事から、祝福が始まる。
-----------
急いでいる時ほど、まず主の前に静まる大切さを失敗から学べる。
主が無ければ、ただ事に仕える仕事になってしまい、今日はでき
ても、明日はできない。第一のものを選ぼう。


2021年07月21日(水)

「私は声を上げて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる」詩編3:4



ある人が、定年を控えた時期に、重大な仕事がうまく行かず、失敗
してしまった。どうにも出来ず、行き詰まってしまった。又、自分
のせいで、人にも多大な迷惑をかけてしまった。落ち込み、立ち直
れなかった。悶々状態の、辛さの中で、辞職も考えた。そんな中、
余りの苦しみに、主の御前に行き、何もかもを、気持ちも、感情も
主に告げて祈った。

「わたしを呼べ。あなたに答え・・理解を越えた大いなる事を告げ
よう」と言われる主に。挫折感におおわれた。今までの人生は、一
生懸命にして来た仕事は、自分にとって一体何だったのか。虚しく
思えた。それらのことごとくを祈っていた時に「心の内で『この私
の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように
気をつけなさい。

あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力
を与えられるのは・・」との言葉が心に臨んで来て、今まで仕事を
築き上げる力を下さったのは、主、との確信が来た。自分の力では
ない。信仰によって、主により、これまで仕事をやって来れたのだ
と。心、平安にされた。

新たな力と喜びが与えられ、主と共に仕事の修復をして行けた。ど
んな悩み、苦しみの時にも、まず主に呼ばわろう。主に、心の内の
何もかもを告げて、導きを求めよう。主は、まず心に平安を与え、
そしてなすべき事を示して下さる。
-----------
行き詰まり主に祈ると、主はいつも御言葉を備え、導き返してくだ
さる。問題ばかり見ているところから瞬時に救いだして心を新たに
してくださる。主を呼ぼう。


2021年07月20日(火)

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」箴言18:12




ダビデは、高慢の罪から守られるように、それらに支配されないよ
うにと、絶えず日ごとに、主に求めて祈っていた。そのため、主は
ダビデの祈りに答えて、ダビデを高慢から守られ、主と人に仕えて
行けるようにされた。クリスチャンともなれば、恥ずかしい事なの
で、表だって偉そうにしたり、自慢したりはしない。

誰しもきっと「いえいえ、私などは」と腰を低くし、末席に座るだ
ろう。しかし、心の中はどうだろう。人と比較して心の中で、自分
はそのように愚かではないと、自分ならそのようにはしないと、裁
いたり、見下したり、自分を誇ったりするなら、これらは高ぶりの
罪だ。又、神の言葉に対してはどうだろう。「主よ。お話ください。
しもべは聞いております」と、「み声に従います」の姿勢で、へり
くだって、御言葉の下に自分を置いているだろうか。

都合の良い言葉、思い通りの言葉だけを取って来るだろうか。「自
分の都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって」
御言葉に対するなら、御言葉の上に自分を置くことになり、自分が
主人になってしまう。自分が御言葉を取捨選択し、都合の悪い御言
葉は捨てて、都合の良い御言葉は取って来てしまう。

又、御言葉をどのように受け取っているだろう。例えば、「わたし
はあなたを愛している」を「そう思えない、感じない」と受け入れ
ないなら、高慢だ。又、「必要をすべて満たす」を「状況はそう見
えない、思えない」と御言葉を捨てるなら、やはり高慢だ。あるが
ままを主に祈り、助けを求めよう。御言葉をそのまま受け取ること
が、へりくだることだ。祈って、受け取れるよう助けていただこう。
-------------
自分の足りないところを主は折に触れ教えてくださるのに、それに
すぐに高ぶり失敗をしてしまう。日ごとに主から知恵を受けよう。
へりくだり御言葉を求め、従おう。


2021年07月19日(月)

「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」マルコ14:36



信仰人生で大きな試練、厳しい試練、様々な試練に出会う。一つ一
つの試練は主によって与えられた杯で、御父が下さったものだ。目
の前の状況でなく、背後の主を見ることが必要だ。その試練に反抗
し、反発することは、剣を振り上げ向かって行くことだ。今、目の
前にある試練は主から来ている。

主イエスは、ゲッセマネの園で血の汗を流し祈られた。十字架を父
の御旨と厳然と受け入れられ、従われた。嫌々、しぶしぶ仕方無し
にではない。「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。
わたしが自分からいのちを捨てるのです」「自分から十字架の上で、
私たちの罪をその身に負われました」主は、罪を負い、自ら命を捨
てることを選択された。

受動でなく、能動であられた。だから、主は命を取られるのでなく、
自ら捨てられた。父の御心を行なわれた。だから、試練に飲み込ま
れるのでなく、試練の中でコントロールする事ができた。二つの選
択がある。嫌々の態度で、試練にほんろうされ、不平不満で一杯で、
苦しいばかりだろうか。

試練を受け止め、くびきに頭を入れ、しっかり負うなら、くびきは
辛く苦しいものでなく、心地よく平安を与えられるものとなる。試
練をしっかり受け入れるなら、誰も損なう事が出来ない。悪魔の働
く隙と足場が無くなってしまう。私達の姿勢はどうだろう。
-----------
試練を受け止める体勢で向かっていくならどうだろう。そのために
気をつけるべき事や有益なものは何かと、祈る課題も変わる。逃げ
る事に向かっていた思いを主に向け、主から学ぼう。


2021年07月18日(日)

「ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に 結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した」Tサ ムエル18:1



サウル王は、ダビデが連戦連勝で、女たちが笑いながら「サウルは
千を打ち、ダビデは万」と歌った事で、ダビデへの嫉妬、被害妄想
は、ダビデへの殺意となった。サウルは、息子ヨナタンと家来全員
にダビデ殺害を宣言した。それを聞いたヨナタンは、ダビデを何と
か助けようとする。

「自分と同じほどにダビデを愛した」と、ダビデがゴリアテとの戦
いに勝利した時に、ヨナタンは、単に好意でなく、信仰によりダビ
デの心と結びついた。二人の友情は、主を中心としたものであった。
サウルの殺害予告を知らせ、身を隠すように告げた。ヨナタンは、
愛する実父と愛する親友のはざまで、どんなに苦しかった事だろう。

しかし父親である王に直言した。ダビデはサウルに益となる事、良
い事しかしていない。彼に対して罪を犯さないで下さいと。どんな
に勇気が要っただろう。だがヨナタンは、その事が言える立場にい
た。そしてヨナタンは、ダビデの事をよく知り、良き理解者である
ゆえに、サウルにとりなした。

主の喜ばれることに従い、自分のいる場で、自分に出来る事をした。
逃亡の日々、死と隣り合わせであったダビデには、どんなにヨナタ
ンは力となり、慰めであったろう。主からの助けであり備えであっ
た。私たちも、ヨナタンから様々学ばせられる。又、自分が置かれ
た場で、自分にしか出来ない事が、主から与えられている。

・・・・・・・・・・・・
ヨナタンは、彼にしか出来ないことで、従った。自分の立場で、他
の人ではなく、自分にしか出来ない事を、主は備えられている。何
だろう。導きを悟れるよう祈ろう。そして、御心を示されたなら、
従えるように祈ろう。従うことは、主を愛することだ。


2021年07月17日(土)

「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」ヤコ ブ4:6


御言葉は、よくへりくだりについて言っている。へりくだりは自己
卑下ではない。自分の事を「いえいえ私などは」と、とにかく卑下
すればよいのではない。それが謙遜なのではない。「ことさらに自
己卑下をしようとし・・肉の思いによっていたずらに誇り」と、自己
卑下とは肉の誇りとあり、実際は人の前を意識した、人へのアピー
ルであり、自分のためなので、根は高ぶりになる。

謙遜を誇ることになってしまう。ある人が、自分は、誰よりも謙遜
になろうと思ったが、それこそ高ぶりだと示されたと。単に腰を低
くする事ではない。外側、柔和な物腰で、心では全く違ったりする。
パリサイ人は、祈ることも断食することも、人に施すことも、すべ
ては人に見せるためであり、自分のためであった。

へりくだりとは、自らの本当の姿を認める事だ。逃げないで、ふた
をしないで、正面から向き合い認めること。自分の肉の性質、古い
生まれつきの性質は、まさにパリサイ人そのものだ。古い性質が、
今もあるのだが、しかし、主は新しい性質を与えて下さっている。
主を喜び、主に従おうとする性質だ。

へりくだりとは、自分の思いに従うのでなく、御霊の導きに従うこ
と、どんな場合にも「はい」と従って行くことだ。「私を強くして
下さる方によって、どんなことでもできるのです」自分にはできな
いが、御霊の助けによって「どんなことでも」できると言っている。
祈りをもって、主を信頼して従って行こう。今、示されている事に
「はい」と言う事がへりくだりだ。従おうとする時に、主の力と主
の助けが臨む。

・・・・・・・・・・・・・
自分の思いを捨てて、主の御声に従い、御心を行なって行くことが
へりくだりだと言っている。強い自分の思いに気づくことから始ま
る。しばしば主を頼らず、主を認めず、自分で行なおうとしてしま
うj。行く所どこにおいても、主を認めて行けるよう祈ろう。


2021年07月16日(金)

「求めなさい。そうすれば与えられます」マタイ7:7



偶像を見て育った日本人は、くどくどと唱え、量を多く祈れば良い
と思ったりする。じゅずを持ち、時間をかけて唱え、拝む姿を見聞
きするので、それが祈りだと潜在意識にあるかも知れない。そして、
神よ、ああしてこうして、あっちへ行ってこっちへ来て、の祈りを
する。願いが聞かれないなら、違う神に移る。神を変える。欲しい
のは自分に都合のよい神だ。都合の良い願いを叶えて欲しい。

つまりは自分中心に、都合良く人生が回って欲しい。人生途上で、
主に出会ったクリスチャンも、長年培われた価値観が根深くあり、
あくまでも自分のための神だ。しかし主は、私たちを愛し、慈しん
で下さっているので、忍耐持って導いて下さる。最初は、自分のた
めにしか祈れないし、自己中心の祈りである事も、ご存じでいて下
さる。

とにかく、まずは祈りによって、主に向くことを喜んで下さる。そ
して最初の頃の、よくわからない中で祈る祈りに、よく答えて下さ
る事も経験する。最初は祈りもよくわからないし、誰もうまく祈れ
ない。しかし主は、祈りの実践の中で、祈りを訓練し、学ばせて下
さる。「ノー」の答えがある事も学び、時間をかけて祈り続ける祈
りがある事も学んで行く。

そして自己中心の祈りを、祈りの中で、矯正して行って下さる事も
経験して行く。段々と、御心に適った祈りが、答えられる事を学ん
で行く。祈りとは、御心に適った願いへと軌道修正されて行くもの
であると。とにかく主に向き、祈って行こう。主が教え、手を取り
導いて下さる。
-----------
主の最善は何かを求めるより、自分の最善ばかりを訴えていること
に気づかされる。主の御心を求めて祈ろう。ノーの答えの中にある
主の御心にも気づいていける。


2021年07月15日(木)

「神はアブラハムを試練に会わせられた・・『あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい』」創世記22:1



イサクは、アブラハムの大切な〃宝物であった。「あなたの子」と
あり、よその子ではなく、自分自身の実子、「あなたの愛している
ひとり子イサク」と続く。とても大事な、心底愛している子ども、
ひとり子であって後継者だ。神の祝福を受け継ぐ子であり、この子
から祝福が全世界に拡がって行く、この上なく重大な約束の息子だ。

そのイサクを献げたなら、約束はどうなってしまうのか。ある日、
突然の主の命令だった。そして「試練に会わせられた」とあり、こ
れはアブラハムへの試練だと言われている。どんなに厳しい試練だ
ったろう。信仰人生、最終章の大きな試みだった。しかしアブラハ
ムは従った。主ご自身が、全焼のいけにえである羊を備えて下さ
ると信じたのだ。

又「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、
と考えた」。もし全焼のいけにえとしてほふったとしても、主は
イサクをよみがえらせて下さると信じた。モリヤの地まで3日か
かる。命令を受けて、翌朝早く出た時から、彼の決心と信仰は変
わらなかった。現地に近づいた時、若い者たちに、そこで待つよ
うにと言った。「私と子どもとは、礼拝をして戻って来る」と。

「戻って来る」と言った。アブラハムも人間で、何度も失敗をし
た。しかし主に従い続け、主との信頼関係が培われて行った。私
たちは試練に会う時、とても自分には無理だと思う。だが自分の
力でなく、神のみわざであり、信仰も、従う力も主から来る。試
練を通して成長させて下さり、試練の度に、主との信頼関係が強
められ、深められて行く。試練は大きな祝福だ。
-------------
小さな問題でも主に頼り従う時に経験する様々な恵みを思い返す
なら、今回もきっと主は最善をしてくださると勇気が出る。すべ
ての心配を主に委ねて主の約束を信じて行こう。


2021年07月14日(水)

「しかし、アマツヤが聞き入れなかたので、イスラエルの王ヨアシュは攻め上った・・ユダはイスラエルに打ち負かされ、おのおの自分の天幕に逃げ帰った」U列王14:11



ユダ王アマツヤは、1万人のエドム人を打ち破り、心はおごり高ぶ
っていた。それで、イスラエル王ヨアシュに「勝敗を決めよう」と
迫った。ヨアシュは、アマツヤにその栄誉に満足して、家にとどま
っておれと。どうして、争いをしかけて、わざわざ災いを求めるの
かと。あなたもユダも倒れる事になると言った。自分だけでなく、
周囲の者も傷つける事になると。

しかしアマツヤは聞き入れず、ヨアシュと戦った。アマツヤは言葉
通り、イスラエルに打ち負かされた。それだけでなく、エルサレム
の城壁を400キュピトに渡って打ち壊され、主の宮と宝物倉にあった
すべての金銀、器具が奪われ、人質を取られた。その栄誉に満足せ
ずに、おごり高ぶる時、破壊的な結果をもたらす事になる。わざわ
ざ災いを求め、罪をもてあそぶと、悲惨な、取り返しのつかない結
果を招く。

罪を軽く扱ってはならない。今、主から与えられている栄誉に満足
し、貪欲に陥らないよう自戒しよう。そして祈っていよう。罪をも
てあそぶ時、心の城壁が崩れてしまい、罪から罪へと進む事になっ
てしまう。私たちが罪を犯す時、自分だけにとどまらない。「あな
たもユダも共に倒れ」、自分自身も、又、家族や周囲をも巻き込み、
深く傷つけてしまう。

宝物倉の金銀が奪われた通り、幸せな家庭や信頼関係が壊れ、地位
を追われ、痛みを刈り取る。へりくだって、御言葉にとどまり、誘
惑から守られるよう、罪から守られるよう、主に頼り、いつも祈っ
ていよう。
-------------
心が高ぶっているとそれにも気づかない。日々、主のかたわらで自
分の心を見張っていたい。自分では罪の力から逃れられない。へり
くだり主の守りを祈っていよう。


2021年07月13日(火)

「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」ヨハネ9:2



弟子たちが、「なぜ?」と思ったように、様々な苦しみや重荷を抱
えている時、「なぜ?どうして?」との思いがあるので、人は、そ
の苦しみの説明をつけようとする。その時、どうしても過去に、そ
の原因と理由を探そうとする。成育歴や過去に起きた事に行き着き、
誰かの、又、何かのせいにして、自分の心をおさめようとする。
誰かにぶつけざるを得ない。

しかし、あれが悪かった、これが悪かった、あの時ああであれば、
こうであればと幾ら思っても、後悔しても、過去は絶対に変える事
はできない。堂々巡りするばかりだ。何も変わらず、ますます苦し
くなるばかりだ。主は、その視点を全く違う方向へ向けられた。
今、盲目であるのは、本人の罪か、親の罪かの問いに、きっぱり
「ノー」と言われ「神のわざが現われるため」と。

旧約聖書によると、盲人の目を開ける事は、神のみがなしうる奇跡
であり、メシヤのしるしだ。実際、奇跡により目が開いたのだが、
更に大きな奇跡は、この人が、主がメシヤである事の証しのために、
永遠の昔から計画されて、今ここで用いられた事だ。神の大いなる
栄光が現わされた。

私たちが信仰人生で最も求めるものは、私たちを通して主の栄光が
現われる事ではないだろうか。どんな過去であれ、もしその事で主
の栄光が輝くのであれば、受け入れる事が可能なのではないだろう
か。主の視点と御心に立って、もう一度「なぜ、どうして」の過去
を受け取り直す事ができるよう祈ろう。
-------------
あの苦しみの時も挫折の時も、神の大きなご計画に取り囲まれてい
たのではなかったか。今そう言える。主を知り、罪を赦され、主と
共に歩める。主のご計画の中の恵みのプロセスだった。


2021年07月12日(月)

「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと・・」エペソ4:22



古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るべき事を教えられている。新し
くなるのは、つまりは古い人を脱ぎ捨てる事だ。ある古い工場が売
りに出されていた。ガラスは割れドアは壊れ、外装もはげ落ちてい
た。ところが買い手が現われ、大喜びした家主はガラスを替え、ド
アを修理し、外装を塗り直すと言った。しかし、買い手は一切無用
だと言った。必要無いと。

なぜなら全部取り壊して、さら地にし、全く新しい工場を作るから
と。私達の新生も同じだ。あちこちと部分的に修理するのではなく、
全く新しい建物が建て上げられるという事だ。新しい建物を建てる
ためには、古い建物を捨てて行かなければならないが、その古い建
物が、なかなか捨てられない。古い思考パタンや、考え方、又、欲
望が根強くて、捨てられない。

主を信じているのだが、価値観は生まれつきのままだったりする。
古い価値観や思考パタンの上に、新たな建物を建てようとする。そ
うであるなら、主の言葉より、自分の思いの方を信じ、目に見える
所や常識を信じる。御言葉は御言葉だが、それはそれとして、実際
は自分の思いでやって行く。その古い価値観を、脱ぎ捨てて行かな
いと成長して行けない。

御言葉を、その通りに受け入れようとしているだろうか。すべての
必要を満たすと言われて、どうだろう。目に見えるところで判断し、
そんなはずはない、有り得ないと思うだろうか。自分の思いが、御
言葉を受け取る妨げとなっているなら、気づかせて頂こう。
------------
御言葉は信じていても不安があればこの世の常識ではどうだろうと
保険をかけてしまう。どこまでも都合の良い弱さを持っている。弱
さのまま主に祈ろう。主に励まされ、新しい価値観に生きよう。


2021年07月11日(日)

「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さな いために。私の口に口輪をはめておこう」詩編39:1



この詩編記者は、病にあり、大変な苦しみの中で「なぜですか、な
ぜこんな目に会うのか」との不満が、うっ積していた。しかし、舌
で罪を犯してはいけないと、口に口輪をはめたと。だが、我慢して
黙していると、ストレスがますます高じて内攻し、まさに爆発しそ
うだった。

それを彼は人にではなく、主にぶつけた。心の中の本音を吐き出し、
気持ちをことごとく主に告げた。人は幻のように歩き回り、人生は、
はかなく虚しいと。心の内をことごとく、主に向かって吐き出した
時に、信仰が帰って来たのだ。この虚しい人生で、望みをかけられ
るのは何かと、「今、私は何を待ち望みましょう」と見上げた時に、
主を見い出した。

「私の望み、それはあなたです」と。そして、本音を主に何もかも
告げた後に、「私は黙し、口を開きません」と言った。言葉は同じ、
「口を開かない」だが、意味が全く違う。最初は口輪をはめ、押し
黙り、非常なストレスに陥ったが、その後は、「あなたがそうなさ
った」と、主がそうされたので、口を閉ざした。すべてに主の計画
がある事を認め、目の前の事態に主を認めて、それを受け入れた。
そしてすべてを主に委ねたのだ。

その時、我慢のうっ屈状態でなく、平安に支配された。心が平安に
満ちる。私達も、苦しみの中で、本音をことごとく主に告げて、祈
ろう。それをして初めて、主のご計画を認め、受け入れる事が出来
る。そして状況とは関係なく、心に主からの平安を経験して行く。

・・・・・・・・・・・・
受け入れられないような事態が起きた時、まず主に心の思いを、気
持ちを、感情を告げて祈ろう。祈って行く時に、心が落ちついて来
て、主にはご計画があると信じる事ができるようにされる。そして
心が平安にされる。


2021年07月10日(土)

「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」詩編3 0:5

信仰人生において、担いきれない重荷を抱え、どうしてよいかわ
からない、重苦しい暗い夜を経験する。心は押しつぶされて、もう
だめだと思いそうだ。苦しい試練の時だ。しかしずっと夜のままで
はあり得ない。夜は明けて、必ず朝が来る。これは何と慰めだろう。

試練には定められた期間がある。暗いトンネルは必ず出るように、
神が定められた時から1分たりとも延びる事はない。主が時を定め
ておられる。逆に、人は成功が続く時こそが危ない。莫大な遺産を
受け継いで人生を滅ぼした人は少なく無い。成功の中で、自らを律
っする事の出来る人はまれだ。サタンから来る高ぶりの誘惑にやら
れてしまう。

自分の力を誇って行く。又、順境で神を求めなくなる人も少なくな
い。人がひたすら求めるのは平穏無事だ。しかし、神無くして、や
って行けてしまうので、主から離れてしまう。それも高ぶりの誘惑
が来ている。主が送られる試みは、必ず私達の素晴らしい益だ。

試練の時は、何もかもが光を失い、真っ暗闇に思える。が、主のよ
みがえりを覚えよう。十字架で弟子達はつまづき、落胆絶望した。
万事休す、何もかもが終りだ。しかしその時に世界が一変した。死
から命へ、暗闇から光へ、悲嘆から溢れる喜びに変った。必ず夜は
明ける。今の苦しみは喜びに変わる。明けない夜は無い。必ず喜び
の叫びがある事を信仰により見つめていよう。

・・・・・・・・・・・・
涙の夜は明け、喜びの朝がある。幾度も〃も経験して来た。真っ暗
に見えるが、決してそのままではない。必ず暗いトンネルは出る。
よみがえられた主がおられるから。そのままにはされない。主を信
じていよう。夜は必ず明ける。問題は解決し、試練は終わる。


2021年07月09日(金)

「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」マタイ20:16 



あとの者が先になり、先の者があとになるとは、常識では測れない
不思議な状況だ。そこでは目に見える所でなく、見えない所が見ら
れている。主が見られるのは、心の動機や態度だ。この世では仕事
に動機を問われる事はない。結果が重要で、問われるのは成果だ。
だが神の国は異なる。ペテロは「私たちは、何もかも捨てて、あな
たに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょう」と言
った。

それを受けて、主は、あとの者が先に、先の者があとにと言われて、
ぶどう園の労務者のたとえを話された。すべてを捨てて従った、弟
子たちのその動機、働きの動機を見ておられる。ぶどう園で働いた
最初の者と最後の者達は、一日の終わりに、その動機があらわにな
った。5時の者が一デナリで、早朝からの者も同額であった時、
「一日中労苦と暑さを辛抱した」と不満を噴出させた。

主人のために働く事は、苦しく、辛い事であり、同じ一デナリと判
明した時には、怒り爆発だ。納得が行かない。自分達はもっともら
う権利があるとの立場だ。実は早朝から十分な報酬が保証されてい
て、安心して働けたとは何という恵みだろう。一日働けば、きちん
と報酬が入る。夕刻の人々は、その日の糧を待つ家族を思い、どん
なに不安と焦り、恐れであったろう。

そして思いを越えた報酬に驚き、どんなに感謝しただろう。私達は
どうだろう。信仰生活、感謝も喜びも無く不満タラタラ、主のため
に、人のためにしてやっているとの態度だろうか。動機はどうだろ
う。今一度、神の国は、恵みで成り立っている世界であり、主の恵
みに目を向け、そこに立ち返ろう。
--------------
思いをはるかに越えた恵みによって生かされているのに何かすると
自力で祝福を勝ち取ったように思える。気をつけていたい。いつも
感謝し主にあって喜んでいたい。全てが恵みによる世界だ。


2021年07月08日(木)

「おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする」箴言18:1



私たちは、様々な人間関係で悩む。しかし私たちを、その対人関係
の中に置かれたのは、主だ。今、ぎくしゃくしている相手があるだ
ろうか。たまたま出くわし、不運なのではなく、主がその相手をあ
なたの前に置いておられる。目の前の相手や、状況ではなく、主に
焦点が合って来ると、主の取り扱いが見えて来る。

性格が全く異なり、考え方や価値観の違う相手がいるからこそ、自
分の姿があらわになる。皆が皆、同じ意見、同じ考えであれば、ぶ
つかる事もなく、自分の本当の姿が現れる事もない。自分の出っ張
った部分が、相手と摩擦を起こし、自我がぶつかり合う。本来の自
分がいかに自己中心で、頑なで、罪深いかを知る。

ある婦人は結婚して、姑とうまく行かなかった。姑がひどく意地悪
だと思ったが、祈りの中で、御霊の光に照らされ、自分も意地悪で、
いかに愛が無いかを思い知らされた。怒りが湧き、わからないよう
に仕返しをしていた。主のもとへ行き、心の内を祈り、自らの罪を
認め、悔い改めた。姑への思いが変えられ、交流が楽しく思えるよ
うにされた。私達は目の前の人を通して、取り扱われる。

よく来る誘惑が、そこで自分を閉ざしてしまう事だ。しかし、自分
を閉ざすと成長が止まってしまう。うまくゆかない相手により、へ
りくだりを学ばされ、高慢が砕かれる。主に焦点を当てて、逃げず
に、心を閉ざさずに、主のもとへ行き、御霊の導きを求めよう。な
すべき事が教えられ、自らの姿を見せられ、学んで行ける。まさに
成長の機会だ。
-------------
避けられない人を主は置かれる。主に導かれたなら御声に従おう。
新たな展開などないと自分に閉じこもっているなら祈っていこう。
主が見ておられるように相手の事も自分の事も見ていきたい。


2021年07月07日(水)

「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ」詩篇23:2



私たちは皆、忙しい毎日を過ごしている。学生は勉強に忙しく、サ
ラリーマンは仕事に、主婦は育児や家事に、慌ただしい日々だ。
1日のスケジュールはビッシリで、為すべきことは山積だ。幾らや
ってもきりがない。疲れ果ててしまう。しかし、そんな中で、日ご
とに、静まる時を持つ事は極めて大切だ。日々追われて生活してい
るが、静まって、御言葉を前にし、祈ろう。

自分は御言葉に従って生きているだろうか、御言葉からそれていな
いか、目の前の忙しさに気を取られて、主の事がおそろかになって
いないか、心に罪は無いか、主の示しを受けながら、なおざりにし
ている事はないか、御霊に導かれて、よく探ってみることは必要だ。

主を意識する時を、自らの状態を振り返る時を、御前に静まる時を
持とう。でなければ、どこまでも流されてしまう。主の御心に、御
言葉にそれているなら、必ず平安が失せ、苦しみが来る。これは神
の法則だ。神に従うなら喜びと平安が満ち、罪を犯すなら平安が失
せ、苦しみと悲惨が来る。これは原則だから変わらない。

私達の今の日常はどうだろう。主の前に罪を清算しないまま、喜び
と平安を失い、重い暗い心で歩んでいないか。失望で落ち込んだま
まで沈んでいないか。ちょっとストップして、主の御前に行き、静
まろう。主の霊に触れるなら、必ず新たにされる。生き吹き返し、
喜びが返って来る。
-----------
忙しい毎日、さまざまな騒音を避けて主と交わる時、一筋の光が差
し込む。御霊を通して主は今の必要を導いてくださる。主を第一と
して、御前に静まる時を守ろう。


2021年07月06日(火)

「イザヤはヒゼキヤのところに人をやって言わせた『イスラエルの神、主は、こう仰せられます。あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた』」イザヤ37:21



ヒゼキヤ王の時代に、アッシリヤ王セナケリブがユダを攻め取った。
セナケリブは、ラブシャケを送り、ヒゼキヤや人々に脅しをかける。
大軍を伴い、挑んで来る。ラブシャケはユダの民に、ヒゼキヤは、
主が救うというが、そんな言葉にだまされるな、救えないと信仰を
動揺させる。これを聞いたヒゼキヤは衣を裂き、荒布をまとって主
の宮へ行き、祈りを献げ、イザヤにも祈りを要請した。

イザヤは祈り、アッシリヤ王について、主の答えを告げた。「彼は
もと来た道から引き返し、この町には入らない。わたしはこの町を
守ってこれを救おう」と。私達にも同様だ。サタンが攻撃をしかけ
て来る。経済的苦境や信仰ゆえの戦い、圧倒的な勢力を持つこの世
を前に、自分達の無力を見せつけて来る。祈っても無駄だ、神を信
じて何になる、しょせん無力だと、心を萎えさせる。

神を信じて立たないように、この世に妥協して生きるように誘惑す
る。そうすれば楽に生きられ、世の成功を手にできると。巧妙なサ
タンだ。このような時には祈りが対抗手段だ。ヒゼキヤもイザヤも
祈った。すると主は祈りに答え、奇跡を行われ、主の使いを遣わし、
アッシリヤの陣営を皆、打たせた。

その結果、アッシリヤ王は立ち去った。世に妥協させようとする、
耳元に来るサタンの誘惑に気づけるように。あなたにもこの誘惑が
来ているだろうかか。祈りによって立ち向かおう。
--------------
執拗に主に従わせないように働きかけるサタンの声を聞き分け、主
に祈ろう。御言葉を握って立ち向かう時、サタンは逃げ去る。わた
しは聞いたと言われる主が、祈りを聞いて導いてくださる。


2021年07月05日(月)

「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません・・心を弱らせてはなりません」イザヤ7:4



ユダのアハズ王の時、アッシリヤの脅威があった。アラムと北王国
イスラエルはアハズに同盟を求めるが、アハズがそれを拒んだため、
ユダに攻撃をしかけようとした。この時、アハズ王とユダの民は恐
れて「王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した」。
しかし、イザヤは、主から言葉を受け、「気をつけて、静かにして
いなさい。恐れてはならない。心を弱らせるな」と。

静かに主に頼るように、それは起こらない、あり得ない、落ち着い
ているようにと語る。だがアハズ王は、イザヤによる主の言葉に従
わず、主の言葉を退け、アッシリヤに頼り、援助を求めに走る。ア
ラムも北王国もアッシリヤによって、滅ぼされる事になるが、しか
しユダも滅亡への道をたどる事になる。

私達はどうだろう。揺らぎ動揺する、突然の事態が起きた時、どう
だろう。アハズのようにパニックになり、主から離れて、肉の知恵、
方策に頼り、方向違いに走るだろうか。今、動揺する事態が目の前
にあるだろうか。主の言葉はこうだ。「気をつけて、静かにしてい
なさい。恐れてはなりません。この事態に心を弱らせてはなりませ
ん」恐れないで、主を信ぜよ。

「信じなければ、長くたつことはできない」。まず慌てないで、静
かにすることだ。とにかくまず動かないで、落ち着こう。主が進む
べき道を、御心を示して下さる。主が示された道へ進もう。そこに
救いがある。 
-------------
見えている状況が確かかどうかもわからない。風で揺らぐように動
揺するが、戦いは御前でなされている。心を静めて主の守りの御手
を信じよう。その心を主は見てくださっている。


2021年07月04日(日)

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成 る」箴言19:21



人は誰しも、心の内で自分の道を思い巡らす。私達の心には「ああ
しよう〜、こうしたい〜」と様々な計画が、次々と思い浮かぶ。し
かし、それらのすべてが、必ずしも主の計画なのではない。主から
の計画があり、自分の思いによる計画がある。しかし、主の計画と
一致するなら必ず成し遂げられる。「人の心には多くの計画があり、
主のはかりごとだけが成る」。

もし主の御心で無いなら、その願いは成就しない。主の御心だけが
成る。しかし、私達の側とすれば「何も思い煩わないで・・願い事を
神に知っていただきなさい」とあるように、心にある願い事は、神
に知っていただくようにと。そして、願いの一つ一つを主に知って
いただいて、お委ねすればよい。

すると「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が・・」と
なり、平安が与えられる。結果、その願いが御心なら、その計画は
進んで行くし、御心で無いなら閉ざされる。自分では御心だと思い
込んでいるが、そうでない場合も時にある。人間は完全ではないの
で、間違うものだ。むしろ、思いの通りでなく、逆に思わぬ方に、
御心があったりする。

又「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人の
たましいの値うちをはかられる」自分では純粋だと思っている計画
の動機が、あるいは間違った動機による事がある。「人の歩みを確
かなものにするのは主」とあり、主はそれらも明らかにし、教え導
きながら、あなたの歩みを「確かなもの」として下さる。

・・・・・・・・・・・
自らの人生に、主の最善の御心が成される事を信じる時、平安に守
られる。自分の思いは多々あるが、主の計画でないなら成就しない方
がよいし、止めて下さる事が感謝だ。後の日に、わかる事があり、自分
の思いの方向を止められた事を、心からの感謝をもって見い出す。


2021年07月03日(土)

「なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。そ の人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないので す」Tヨハネ3:9


私達が「神の子」であることの根拠は何だろう。良い行ない、良い
態度だろうか。信仰的、霊的だから神の子だろうか。主の言われる
事に、きちんと従っているから神の子だろうか。だが、成長した、
霊的クリスチャンだから、神の子なのではなく、主イエスを信じ、
新生した瞬間にすでに神の子だ。

母親から生まれたから、その子供あるように、神から生まれたから、
神の子供だ。生まれの問題だ。雇い人なら主人の財産を相続する事
はない。しかし、子は親の財産を相続する。私達は、親である神の
相続人だ。すべてのものを相続する。キリストとの共同相続人だ。
何という恵まれた地位にいる事だろう。

父が、放蕩息子の兄に「私のものは、全部おまえのものだ」と言わ
れたように。御父と私達は、労使関係でなく、無条件で愛される親
子の関係だ。子であるなら親に似て行く。きよくなる事を求めて行
く。キリストにとどまる者は、罪の内を歩まないとある。これは、
全く罪を犯さないという事でなく、弱さのゆえに罪は犯すが、故意
に罪を犯し続けないという事だ。

罪を犯すと、心が苦しくなり、犯し続ける事ができなくなる。「な
ぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです」神の種
は、神の言葉だ。神の言葉が心の内にととまる時、罪を犯し続ける
事から守られる。神から生まれ、神の種を持っているからだ。サタ
ンにも、罪にも、打ち勝って行ける。

・・・・・・・・・・・・
生まれ出てしまったら、どうであれ元には戻らない。自分がどんな
にふさわしくないと思っても、すでに神の子だ。罪は犯してしまうが、
心が辛くなり、犯し続ける事ができない。神の子だからだ。御霊に
より悔い改めが与えられ続け、新たにされ続ける。何とく感謝な事
だろう。


2021年07月02日(金)

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい」ヤコブ4:8



神が遠く感じられたり、喜びや平安が失せていたり、神がぼんやり
する事があるだろうか。神から離れている感じがする。だが、神は
全く変わられない。変わらないご愛で愛し続けて下さっているし、
慈しんで下さっている。自分サイドに問題がある。忙しさの日々に、
神との交わりが途絶えているかも知れない。

この世の勢力は凄まじい。流されてしまっているだろうか。又、も
っと神に近づくべきだと思うのに、心に何かの隔てを感じているだ
ろうか。自分が握り締めているものが、神との間を妨げる。よく小
さな子供が、口の狭いキャンディボックスに手を入れ、中のキャン
ディを幾つもしっかり握り締めて、手が出ないと泣いている光景だ。

キャンディを放せばよいのだが、大事なものであり、絶対に放した
くない。私たちもこの状態だろうか。もし、本当に神に近づきたい
なら、神とあなたの間にある妨げを、隔てを突き止めること、そし
て、それを献げることだ。神と私たちの間に、多くの妨害物を入れ
てしまっている。それがあるために、神がぼんやりしてわからない。

握り締めている偶像を手放す時、神が鮮明になる。神は初めから、
全く変わられないが、握り締めている偶像のためにこちらの目が曇
っている。もし、神にもっと近づきたいなら、自分の内の傷害物を
御霊に探って頂こう。
------------
私たちが神に近づく時、神も近づいてくださる。すぐに流されてし
まう者だが、神が遠くに思えるとの気づきが感謝だ。それすら考え
るゆとりもなくなる前に、二心を認め、大切なものを選び取ろう。


2021年07月01日(木)

「もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる」イザヤ30:19



強敵アッシリアが攻めて来る時に、ユダは、主ではなく、エジプト
に頼ろうとした。「彼らはエジプトに下って行こうとするが、わた
しの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジ
プトの陰に隠れようとする」と。「しかし、パロの保護にたよるこ
とは、あなたがたの恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、
侮辱をもたらす」とある。

強大な勢力アッシリヤの包囲により、パンと水が乏しい状態に陥っ
た。困窮の厳しい非常事態にあり、今、必要なのは、とにかくはパ
ンと水ではと思われる。このままでは餓死だ。しかし食糧よりも、
何よりもまず第一に、神の言葉を聞いて行く時に、必ず神の助けと
守りがあることに目が向いて行く。まず主は、必ず「叫び声」に応
えて下さるお方だ。主はユダの民をあわれんで下さっている。

主は、恵もうと待っておられ、あわれもうと立ち上がられる。主は
祈りに答えて下さり、そして主の言葉を与えて下さる。「あなたが
右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。
これに歩め。』と言うことばを聞く」と。何と幸いだろう。

私たちも窮地に陥った時に、主は、叫び声に必ず答えて下さり、御
言葉を与え、主のお心を教えて下さる。指針を与え、導きを与えて
下さる。主のあわれみは尽きない。自分の知恵や方法に頼るのでな
く、まず頼るは主であり、主に祈ろう。
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主は恵もうと待っておられる。それでもあわてふためき、もがいて
しまう。主に助けを叫び祈ろう。有限で無力な自分から主に目が向
く。主から力をもらえる。


2021年07月1日(日)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこ ころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ・・」 ローマ12:2



この世と調子を合わせてはいけないのは「価値観」だ。信仰人生に
は喜び楽しみ、又、苦しみ悲しみが、どちらも来る。順境があり逆
境もある。出来れば、苦しみや試練は望まない。しかし主には無駄
は一つもない。私たちに必要だから、一つ一つ送られて来る。試練
の中でこそ多くの学びを得る。

突如の問題に会う時に、私たちの普段気づかない、心の底の価値観
があらわになる。何ら支障無く、うまく行っていた日々に、突然問
題が起きると、心暗く落ち込んで、且つイライラしてしまう。なぜ、
そう感じるかと思うと、実は「問題の無い人生、困難の無い人生が、
良い人生」「平穏無事が善」と思っているからだろうか。現実と相
容れない。

それは「思い通りに行く人生が善」との価値観だ。又、「何で?何
で?こんな事が起きる」とイラ立つ裏には、「信仰すれば良い事ば
かりで、人生スムーズに行くはず」との価値観があるだろうか。こ
の世では、平穏無事であるために信心する。培われたこの世の価値
観に気づかされ、そこを御言葉に置き換えて行く。

「いつも喜んでいなさい」「すべての事について感謝しなさい」
「試練に会うときは、この上もない喜びとせよ」「試練は喜ばしい
ものではなく、悲しいが、訓練された人々に平安な義の実を結ばせ
る」「益のため、ご自分の聖さにあずからせようとして」「苦しみ
に会ったことは、しあわせ。それであなたのおきてを学び」と。

心の底の価値観が問題だ。一つ一つ気づきを与え、御言葉と交換し
て下さる。

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御言葉の価値観とこの世の価値観は正反対だ。一方は天を目指し、
他方は地のものを目指す。天と地の差だ。培われた根深い価値観
に気づける事が感謝で、真逆の御言葉の価値観に変えられて行く。
御霊が気づかせて下さる。新しく〃造り変えられる。