2021年08月31日(火)

「アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった」創世記16:1



主は、アブラムに、子供を与えると約束して下さった。しかし「カ
ナン入国10年後」とあり、アブラムとサライは待っても〃、子供は
与えられなかった。そこでサライは、自分は子供が産めないので、
奴隷ハガルによって子を得ようとした。当時は一夫多妻で普通の事
であり、人間的には良い考えであると思われた。

アブラムは信仰に立ち、断る事が出来た。が、当時の風習もあり、
サライからの申し出であり、サライの言いなりになった。だが御霊
によらない、肉の思いと方法であった。主から発した事と、肉から
発した事は、結果が全く違って来る。肉による行ないは、トラブル
と悩み、秩序の乱れ、争い、悲劇を生み出す。

それは、自分だけにとどまらず周囲にも害が及ぶ。肉の判断は、必
ず肉の結果を刈り取る事になる。まず祈りが必要だ。祈らなければ、
人の意見は、時に罠になる。人間的に最善と思える方法が、必ずし
も主の方法ではない。妊娠したハガルは高ぶり、サライを軽んじ、
見下すようになった。サライは激怒し、ハガルをいじめた。

ハガルは耐えきれず、逃げ出す。ハガルは奴隷であり、自分で選択
不可能な立場にあった。サライの命令は拒めず、服従のみだ。その
事には責任は無いが、自分の態度には責任がある。ハガルは、荒野
で主の語りかけを受け、力を得た。

自分に語られた主の名を「エル・ロイ =ご覧になる方」と呼んだ。
ハガルは苦しみの中で、ご覧になって下さっている主を知り、体験
した。主のあわれみは尽きず、ハガルと息子イシマエルをも豊かに
顧みられた。
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信仰をもって待とう。手近に良いと思う方法があれば、それを御心
だと思いたくなるが、問題の中に主を認め、よく祈ろう。平和と喜
びの結果を得よう。


2021年08月30日(月)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」Uコリント12:9



パウロには、とげが与えられていた。それは激痛を伴い、これさえ
無ければ、もっと主のために自由に働けるのに、これがあるがため
に制限されてしまう。だからもっと働けるために、とげを取って欲
しいと。パウロは切に祈った。すると主のみ思いは全く別にあり、
高慢にならないために、とげが与えられているのだと。とげにより、
高慢から守られていると。

その弱さを嘆くのでなく、誇れと言われた。私たちにも弱さが与え
られているだろうか。これさえ無ければ、どんなにかスムーズに人
生歩めるのにと。こうで無ければ良いのに、この弱さで絶えず足を
引っ張られる。それは何だろう。生い立ちや境遇だろうか、性格的
弱さ、病気や障がいだろうか、辛い環境だろうか。

しかし主は、わたしの恵みは、あなたに十分であると言われている。
主の恵みは、私に満ち足りていると。紛れもなく、その弱さにこそ
主の力が働くのだからと。だから主に在って、その弱さを誇れと。
こんな生い立ちでなく、こんな境遇でなければ、病身でなく健康で
さえあれば・・しかし、その弱さの中に、主の力が完全に現れるの
だからと。

パウロは、真剣に徹底的にこの事を祈った。苦しみを主に持って行
った。そして主から「ノー」の答えをもらった。取り除かないと。
主の御心を知る事ができた。どんなに平安だったろう。恵みは満ち
足りていて、絶えず主の力を見せられるのだから。
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克服できない弱さを覚えるとき、へりくだり主に助けを求めていく。
その時こそ主は最も近くにおられると思える。弱さの中に主を見て
いこう。必ず主は力を現してくださる。全てのことは恵みだ。


2021年08月29日(日)

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けま す。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果 てにまで、わたしの証人となります」使徒1:8



主は、「エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、地の果てまで、わたしの
証人となる」と言われた。それが、エルサレム以外に御言葉が伝え
られて行ったのが、「迫害」によってであった。エルサレムの教会
に激しい迫害が起こって、使徒たち以外の者は皆、ユダヤとサマリ
ヤの諸地方に散らされて行ったのだ。そして「散らされた人たちは、
みことばを宣べ伝えながら、巡り歩いた」。

主のご計画である、福音の拡大は、迫害によって進められて行った。
新しい働きが開始されて行った。迫害は、大きな苦しみ、痛み、試
練であり、辛い事だ。しかし、この苦しみを通して、主のご計画と
主のみわざは大きく前進して行った。主を信じる人々は、散らされ
て、主の証人として、人々の救いのために用いられて行った。

私たちもどうだろう。苦しい問題、辛い悩み、不都合な出来事、あ
って欲しくはない事柄が、困難となって、目の前に立ちはだかって
来る。しかし迫害こそが、福音の拡大となったように、一見マイナ
スの事態が、主に在って大きな祝福へと導かれて行く。

私たちの信仰人生に起きる負の事態こそが、実は、私たちをキリス
トのかたちへと造り変えてくれる。霊的成長、成熟へと導いてくれ
る。豊かな祝福とされる。「なぜ?」こんな事が?」と、わけのわ
からない苦しみに会うが、後に「苦しみに会ったことは、私にとっ
てしあわせでした」を実体験し、証しさせて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
迫害で福音が止まったのでなく、諸地方に散って行った事により、
どんどん拡大して行った。同様に、目の前の試練は主にとどまって
行く時に、豊かな祝福へと結果して行く。主に無駄は一つも無い。
私たちには、どんな時にも常に希望がある。主を信じていよう。


2021年08月28日(土)

「あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、 海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くよ うにせよ」出エジプト14:16



モーセに導かれて、出エジプトを果たしたイスラエルの民だが、す
ぐにエジプト軍の精鋭部隊の追っ手に迫られる。民は皆、恐怖で怯
えた。人々は戦いの訓練など全く受けていない。戦い方も知らない。
追っ手はどんどん迫り、とうとう背後にまで来た。そして目の前
は紅海だ。前進か後退が出来ればよいのだが、前にも進めず、戻る
事もできず、まさに絶体絶命であり、絶望的状況だ。

民は、非常に恐れて主に向かって叫び、モーセに文句をぶつけた。
エジプトにおれば良かった、なぜ連れ出したのかと。その時に主が
語られた。恐れるな、しっかり立って、主の救いを見よと。主が戦
われるから、黙っていよ。その場にいた彼らは、海が分かれて道が
出来るなど、そんな事は想像だに出来なかったろう。

しかし主は、恐れるな、主が戦うと。その時にモーセに「イスラエ
ル人に前進するように言え」と御声が臨んだ。「前進せよ」と。海
を分けて、イスラエル人に、海の真中の乾いた地を進み行かせよと。
私たちは、道が見えたなら、前進しようと思う。しかし逆だ。まず、
前進せよと言われた。その時道が造られているからと。

多くの人が経験する。先は何も見えず、何もわからないが、主の示
しの通りに、「一歩」を踏み出すと、必ず道が備えられていたと。
今、「前進せよ」と言われているだろうか。一歩踏み出した時に、
主の助けを経験する。主の真実を知り、主の栄光を拝し、主を知る
喜びに満ちる。

・・・・・・・・・・・
祈りを重ねた後、主の導きがわかっていながら、ちゅうちょしたり、
ぐずぐずしているだろうか。主は「前進せよ」と。御心を実行せよ
と。すべての必要は備えられていて、道なき所にも、道が造られる
ことを経験できる幸い。


2021年08月27日(金)

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東の方でその方の星を見たので、拝みにまいりました」マタイ2:2



ユダヤの人々は、旧約の預言から、救い主であるメシヤ到来を知っ
ていて、待ち望んで来た。長い間、どんなにか待ちこがれていたは
ずだ。星に導かれた東方の博士たちが、遠路を救い主を求めてエル
サレムに着いた。ユダヤ人の王が生まれた方はどこか、と問うた時、
ヘロデ王は恐れ惑ったとある。ヘロデが恐れるのは十分理解できる。
新しい王が来たなら、自分の地位は危うくなる。

そのために身内まで殺したヘロデだ。ヘロデはわかるが、エルサレ
ム中の人々も王と同様に恐れたとある。なぜ王でもない、ユダヤの
人々が恐れ惑うのか、不可解に思える。背景に当時はローマ帝国が
大帝国となり、地中海一帯を支配していた。ユダヤもローマに占領
されていたが、周辺一帯それなりの生活が保たれていた。

自分の生活も安全も、まがりなりにも保たれている以上、それが乱
されるのは嫌なのだ。今のままで良い。余計な事には拒否反応だ。
私たちもそうかも知れない。肉は変わりたくなどない。何が正しく
て真理で畏れなければならないかより、何が楽で、得で、まさつや
犠牲が少ないかに向かう。

とにかく安楽、問題無しの方へ流されてしまう。余計な事に心乱さ
れたくない。肉は、主のお心でなく自分の利得を計算してしまう。
今、選択に迫られていたら、主に向き、主の御心が一番大切である
事に立ち返ろう。御霊に導かれる時、損になっても、御心を行なっ
てゆける。そしてそこに真の喜びがある。
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主を心に向かえ入れ、王座を主に渡すとどうなるのかと、恐れが伴
うが、主で心か満たされ御霊に導かれて歩みたい。御心の真ん中が
何より幸いな場所だ。


2021年08月26日(木)

「しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた」詩篇106:13


主は、私たちの「求め」を喜んで下さる。「求めなさい」と言われ、
「そうすれば受けるのです」と。そして与えられた時に「喜びが満
ち満ちる」と。沢山のものを与えられているが、祈って答えられる
と、それは別物で、格別に嬉しい。天地を支配される主の主が、私
の祈りに答えて下さったという事だからだ。喜びが満ちる。

個人的に主との交わりが深められて行き、主を知って行く。だから
「求めよ」と。しかしイスラエルは「激しい欲望にかられて、神を
試みた」とある。民は、欲望にかられて、欲望のままに、わがまま
に求めた。主のお心や、主の栄光は無く、ただただ欲にかられた。
すると主はそのわがままに願うところのものを与えられたのだ。

どうしても〃と、何があっても欲求するものを、主はある時、与え
られる。しかし願うところを得たが、心は満たされず、更に虚しく
なった。「神は欲しがるものを与えられたが、彼らの心を空虚にさ
れた」と。本当に自分が願っていたものでは無かったと気づく。与
えられて、心が満ち満ちるのと何という差だろう。

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの願いをかなえてくださる」
とある。肉の欲望にかられて求めるのでなく、まず主を求めて行く
時に、「あなたの願いをかなえてくださる」と。主を求めて行く時
に、主の願いと、自分の願いが合致して行く。そしてその願いは叶
えられる。どんなに嬉しい事だろう。喜びが満ち満ちる。
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与えられたものではなく、与え主なる主を喜ぼう。御心にかなって
渡された祈りの答えは、何よりも嬉しく主への感謝に満ち溢れる。
そしてノーの答えも同じく感謝して受けとりたい。


2021年08月25日(水)

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」ピリピ2:4 


 
人が集まると、必ず揉めごとが生じ、関係がギクシャクする。ああ
だ、こうだと対人関係のトラブルが起きる。それは人間が、罪人だ
からだ。皆、罪人なので、互いの自我と自我がぶつかり合う。罪は
完全に赦されているが、まだ古い性質があるので、新しい性質とか
っとうしている。ピリピの教会にも問題があったようで、「人々の
中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者」「党派心を
もって宣べ伝える者」もいると。

そして投獄されているパウロを更に苦しめるつもりだと。人には肉
の性質があり、主の働きですら、敵対心や妬み、競争心ですること
もできる。自分の思い、自分の考え、自分の好み、自分の主張に固
執して行くと、主も、周囲も見えなくなってしまう。その結果、争
いや敵対心に支配されてしまう。

どうすれば良いのか、御言葉は「へりくだって」と言う。そして
「人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」と。なかなかそう思え
ない高慢があり、へりくだれない。そして自分のことだけでなく、
他の人を顧みるようにと。しかし自我があり、プライドがあり、へ
りくだれない。自分の思いを遂げたい。プライドが邪魔をする。肉
の性質だ。

そのまま主のもとへ行こう。愛して下さっている。主は助けて、取
り扱って下さる。主が、まず私たちのために、死にまで従い、十字
架の死にまでへりくだって下さった。自分には出来ないが、主が助
けて下さる。出来ない自分を、主に明け渡して行く時に、主が御心
に従わせて下さる。祈って行こう。
------------
多くの人に囲まれていても、結局自分しか見えていない者ではない
か。人を顧みている時にも自分が視野に入る。自分には出来ない事
を主はしてくださる。主に頼ろう。


2021年08月24日(火)

「イスラエルよ。もし帰るのならー主の御告げーわたしのところに帰って来い・・ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」エレミヤ4:1



忌むべき物を主の前から取り除き、いばらの中に種を蒔かず、耕地
を開拓せよ、そして心の包皮を取り除けと言っている。種を蒔く時
に、いばらがはびこっている地に蒔く人はいない。まずいばらを取
り除いて、よく耕して種を蒔く。いばらは、種蒔きのたとえで「こ
の世の思い煩いや富への惑わし」とある。

この世の様々な心配、思い煩いは、いばらのごとく、強い力でぐん
ぐんはびこり、御言葉をふさぎ、信仰をふさいでしまう。実を結ば
せない。そして古い性質には、主より、目に見える金銭に頼る心が
根深くある。主が、絶対に必要を与えて下さるのに、金銭が無いと
不安で不安でたまらない。金銭が生活を保障してくれ、楽しみを与
え、夢を叶えてくれると勘違いしてしまう。

金銭が神になり偶像になっていて、気づかない。まず、いばらを除
けと。御言葉が心に落ちても、それにまさる勢いで、いばらがおお
いふさぐ。それなら信仰人生に、実を結ぶ事が無い。「心の包皮」
は当時男子は皆、割礼を受けたが、主に従うなら割礼は意味がある
が、外側だけの割礼なら何の意味もない。実際には、心は主から離
れているのに、宗教的形だけ繕い、形骸化している。

そしてそこには、頑なな心がある、主は、いばらや包皮に気づかせ
て下さる。主から心が離れている事に気づかせて下さる。それを認
める時、悔い改めたり、除く事ができる。それらを除き、生き生き
とした喜び溢れる歩みへと導き入れて下さる。
------------
主を悲しませている様々な問題を、御霊を通して日々気づかされる。
御霊の促がしに従って悔い改めを祈ろう。心はどこに行っているのか、
帰って来いと言われる主がおられることは、何と有り難いことか。


2021年08月23日(月)

「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」マタイ19:16 



この青年は、若くして資産家で、役人であり、名誉も地位も富も持
っていた。彼は「どんな良いことをしたら?」と、主に質問した。
永遠のいのちは行ないでは得られないが、主は、愛をもって彼を導
こうとされ、そのまま受け止められた。「どんな良いことを」に呼
応して、十戒を提示された。「殺してはならない、姦淫してはなら
ない・・」と。

すると彼は「そのようなことはみな、守っている」と答えた。「何
がまだ欠けているのか」と。彼は、外側の行為だけを問題にしてい
た。確かに人を殺した事は無いし、姦淫もしていないし、泥棒もし
ていない・・。だからみな守っていると。しかし内側が問題だ。
「兄弟を憎む者はみな、人殺しです」「情欲をいだいて女を見る者
は、すでに心の中で姦淫を犯した」と。

「隣人をあなた自身のように愛せよ」も、みな守っていると言った
彼に、主は、出来ない事を教えようとされた。「あなたの持ち物を
売り払って貧しい人たちに与えよ」と。彼は、多くの財産を持って
いたので、とても不可能で、主のもとを去ってしまった。「何がま
だ欠けているのか」結局は、隣人を愛する事が出来ない事を、その
まま認めれば良かった。

誰も出来ないことを主はご存じだ。「良い方は、ひとりだけです」、
良いことは出来ない。ただお一人の良い方を信じるところに救いが
ある。主はそこに、彼を導こうとされた。青年は悲しんで去った。
ここから豊かな祝福が始まるのに、彼は去ってしまった。主のもと
にとどまろう。人にできないことが、神にはできる。出来ませんと、
正直に主に向かおう。そこからみわざを拝して行く。
------------
強がったり、出来なくて当たり前と開きなおったり、弱さをなかな
か認められない者だ。主は出来ない事を知っていてくださる。感謝
して受け止めてもらおう。そこから始めよう。


2021年08月22日(日)

「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行い が悪かったからである。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来 る」ヨハネ3:20


「人々はやみを愛した」とあり、人の古い性質は、罪を憎むのでは
なく、罪を愛するとある。したくないけれど、罪を犯すのではなく、
したくて罪を犯している。誘惑に乗ってしまうのは、誘惑を拒絶す
るのでなく、本当はその中にいたい。誘惑は甘く、心地良い。苦く
などない。もし罪が苦ければ、誰もこれほどまでに、罪に誘われな
い。

そこから出たくない。自分の内側には、やみを愛する罪の性質があ
る。「できない」のでなく「したくない」と認める事から祝福が始
まる。その時、光の中だ。私達は、自分はわかっていると思い、光
を拒んでいる。わかっていない事、見えない事を認めない。しかし
光を拒むなら、暗闇の中で見えるのは自分だけだ。自己中心の世界
の中で、自分は正しく、相手が、状況が悪いとしか見えない。

真理を行なうとは、自分の罪を、自分の姿をありのまま認める事だ。
やみを愛する者であり、自分を正当化する者であることを認めて行
く。その時、その人は光の中なので、神が見える。神が見えるので、
更に自分のありのままの姿がはっきりと見えて、悔い改める事がで
きる。

心のやみを照らし出すところの、御霊の光を決して拒まず、向き合
おう。いつも同じ罪を犯す原因はどこにあるのか、どの部分の弱さ
なのか、自分のどこに問題があるのか、光に照らし出されて行く時
に、成長して行ける。

・・・・・・・・・・・・
罪の性質は「〜出来ない」でなく「〜したくない」だと言われてい
る。「愛せない」でなく「愛したくない」だと。ごまかせずに、自
分の姿がはっきり見える。それを認める時、いつも前に進んで行け
る。主は次の展開を与え、一歩一歩進めて、成長へと導いて下さる。


2021年08月21日(土)

「・・わたしから離れ、むなしいものに従って行って、むなしいもの となったのか」エレミヤ2:5



「わたしの民は二つの悪を〜」とある。一つは「湧き水の泉である
わたしを捨てた」二つ目は「多くの水をためることのできない、こ
われた水ためを、自分たちのために掘った」と。当時、砦は水源の
ある場所や地下水が湧く所に作られていた。水は非常に重要であっ
た。日照りに備え、貯水用に、幾つもの大きな水ためが作られた。
雨季の雨水を水ために溜めた。

ところが幾ら水を溜めても、裂け目から水が、少しづつもれ出てし
まう。壊れた水ためだ。用をなさない。水ためを作ることは、悪い
事ではないが、真の湧き水である主を無視し、ないがしろにして、
自分たちで、自分たちの力と方策で、水ためを作るのなら、それは
悪だ。

「湧き水であるわたしを捨てて」、当時、民は偶像礼拝を行なって
いた。火の中を通して赤ん坊を献げるという酷いものだった。今、
私たちは、金や木の像を拝む事はしない。しかし目に見えない心の
偶像はどうだろう。主以外のものが大切になり、主を捨てるなら、
壊れた水ためから飲む事になると。それは少しづつもれ出て、溜ま
ってはいない。

溜まらないので、心は決して満足する事が無い。何によっても、満
たされることはない。主以外のものに、心を寄せているので、心が
何か虚しく、満たされないのではないか。主は湧き水だ。外側は関
係無く、内側から、喜びや平安が湧き出て来る。湧き水なので、決
して尽きる事がない。虚しいものを追いかけているなら、今一度湧
き水である主に、立ち返ろう。主と交わろう。

・・・・・・・・・・・
虚しいものに従うのは、壊れた水ために水を入れる事だと。幾ら水
を入れても、こぼれ落ちてしまう。虚しいものに従って行くなら、
自分も虚しい者になると言っている。今、主以上に大事にしている
ものが無いかどうか、御霊に探って頂こう。そして明け渡そう。


2021年08月20日(金)

「『ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません』イエスは言われた『それを、ここに持って来なさい』」マタイ14:17




多くの人は、生まれつきマイナス思考に傾くと言われている。悲観
的に考えが傾いて行く。ちょっと不安材料があると、思い煩いはど
んどん膨らんでしまう。そんなネガティブ思考は、信仰生活にも影
響する。「私一人ぐらいが、何かをしても、何になろう、何にもな
らない」「こんな微々たる献金をしても、何の足しにもならない。

しても、しなくても同じだ」「不信仰な自分が祈っても、聞かれな
いだろう」「自分は信仰が弱いから、何も出来ない」「自分一人が
証しをしても、こんな大勢の未信者の中で、微力で、何になろう」。
ある時、主が弟子たちに、大勢の群衆に食べ物を上げるようにと言
われた。するとヨハネが、少年が弁当を持っていますと、探し出し
て来た。しかし、少年の5つのパンと2匹の魚は、焼け石に水に思
われた。

「こんなに大勢の人々では、それが何になりましょう」と。しかし、
主は少年から弁当を受け取り、御父に感謝を献げ、人々に分け与え
ると、パンも魚も無くならず、何と全員が食して、満腹した。その
上、尚も余りが12のかご一杯になった。微々たるものでも、どん
なに小さくても、「それを、ここに持って来なさい」との主に
献げる時に、何100倍にも増やして、祝福して用いて下さる。

どんなに微量でも、問題無い。それが主の手に渡る事が重要だ。そ
の時に、思いも及ばない大きな素晴らしいみわざを見る事になる。
「あれが、これが出来ない、あれも、これも無い」でなく、手の中
にある、僅かなものを、主のもとに持って行き、お献げしよう。
----------
こんなものが何になろうと、自分の内から聞こえるとき、自分が計
画の最前線に立っていることに気づいていない。僅かな物は僅かに
しか見えない不信仰な者だが、主は何とかしてくださると持って行
ったヨハネに学びたい。


2021年08月19日(木)

「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木ぎれの煙る燃えさし・・に心を弱らせてはなりません」イザヤ7:4



ユダのアハズ王の時に、アラム王レツィンとイスラエル王ペカが、
エルサレムに攻撃をしかけて来た。だが、ユダに勝てなかった。主
がユダを守られた。しかし「アラムとエフライムが同盟した」との
報告に、「王も民も、林の木々が風で揺らぐように動揺した」。国
家的危機に、王も民も、恐怖でパニックとなった。混乱状態の中、
主はイザヤを通して、「静かにしていなさい」と「恐れるな、心を
弱らせるな」落ち着いて主に頼るようにと。

しかしイザヤの言葉も押しのけ、アハズは主に頼らずに、アッシリ
ヤ王を頼り、援助を求めた。結果的に、アラムとイスラエルは、ア
ッシリヤによって滅ぼされた。つまりユダは、主により守られた。
主がアッシリヤにより、アラムとイスラエルを滅ぼすとの計画があ
ったから、静かにせよと。アハズ王の不信仰にもかかわらず、主は
あわれみにより、ユダを守られたのだった。

しかし結局、アハズの選択はユダを破滅へと追いやり、アッシリヤ
に滅ぼされてしまう事になる。私たちはどうだろう。急遽の困難な
事態に、アハズのようにパニックになり、恐れで動揺し、主以外の
ものに、目に見えるものに頼ろうと、人間的画策をするだろうか。
主に頼るか、それとも主を押しのけ、方向違いに走るだろうか。

今、困難に直面しているなら、「気をつけて、静かにしていなさい」
が主の答えだ。「恐れるな、心を弱らせるな」と。まず落ち着いて、
主を仰ごう。主に信頼を寄せよう。私たちは、主の御手の中に置か
れている。まずは動かずに、主を覚え、主に祈ろう。
-------------
慌てて動き始めても心は不安定のままで、やがて座って主に祈る。
動く前にまず主に向かおう。恐れや不安は、ただの燃えさしでは
ないのか。動揺せず主の導きに耳をすまそう。


2021年08月18日(水)

「あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。無割礼の汚れた者が、もうあなたの中にはいって来る事はない・・もとの座に着け、エルサレム。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ」イザヤ52:1



イスラエルの民はバビロンに連行され捕囚となった。「お前たちの
神はどこにいるのか」と辱められ、侮られ、苦難の歳月だった。や
がてペルシャがバビロニアを滅ぼし。ペルシャ王から、捕囚の民に、
帰還許可が出た。囚われの身が自分達の故国へ帰れるのだ。何とい
う喜びであったろう。

だが現実は複雑な状況にあった。神殿は破壊され、エルサレムは廃
墟で、町は復興されていない。捕囚から50年、その地での生活がそ
れなりに確立し、むしろ豊かな者もいた。次世代にもなり、異国で
の暮らしが成り立っており、主の民であるとの意識も、主を礼拝す
る心も薄れていたかも知れない。それは諦めであったかも知れない。

そんな民に、主は「さめよ、さめよ。力をまとえ。シオン。もとの
座に着け」と励まされる。「エルサレムの廃墟よ。主が贖い、慰め
る。大声をあげて喜び歌え」と。真に主を知るようになり、主の救
いを見ると。無力な民は、バビロンやペルシャに、他国に翻弄され
ているかに見える。だが違う。見えるのは、大国の力関係だが、実
はすべての主権者である主が、主の民へのご計画を着実に遂げられ
ている。

捕囚は、主の民の偶像礼拝ゆえの、又、主の声を聞かないための試
練であった。しかし主の時が満ちると、戻して下さる。私達も様々
起きる出来事を、外側の状況でなく、主に焦点を当てて受け取ろう。
「わたしのはかりごと」は成就し「わたしの望む事」を成し遂げら
れる主は、愛と真実の主だ。
-------------
様々な道を通りそして主に出会う。その瞬間から新しい歩みが始ま
った。すべて主から与えられたご計画の中を歩んでいる。さめよ。
力をまとえ、と主は励まし導き続けてくださる。


2021年08月17日(火)

「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」マタイ22:4



王子の披露宴のために、王は客たちを招待した。しもべたちはその
客を呼びに行った。用意万端、すべてが整ったので、さあどうぞと。
招待された客はイスラエルであり、王のしもべは預言者達だ。キリ
ストの救いにより、神の豊かな祝福を受けるようにと、何もかも整
えられていた。しかし彼らはその招待を気にもかけず、無視した。
畑に、商売にと出て行った。

畑仕事や商売は、大切な披露宴の後でもできる事だ。主は救いのた
めに、何もかも整えられたのに、不要と拒否した。これはイスラエ
ルだけでなく、私達も同様だろうか。日々の生活はどうだろう。仕
事や勉強で多忙、家事や子育てで暇が無い、趣味に忙しい。いつも
主のための時間がない。しかし、主のための時間が無いのでなく、
何を優先するかの結果だ。このままなら、今後も主のための時間は
ない。

主はあなたを創造され、あなたには、主からの尊い使命があり、特
別な御心がある。今の場所に遣わされたのは、主だ。偶然でも、た
またまでもない。主のご計画の一環だ。あなたの境遇、使命、あな
たの将来を「さあ、用意ができた」「何もかも整った。宴会にどう
ぞ」と、まず救いを用意し、そして最善の人生を用意して下さって
いる。日々に喜びと祝福が備えられている。

「ところが、彼らは気にもかけず」主をないがしろにし、自分の思
いで過ごしているだろうか。主は、主のもとへと、主との交わりへ
と、あなたを呼び、招待しておられる。どうだろう。少しでも、主
のための時間を取れるだろうか。主に応えて行こう。
-----------
信仰が無いわけではないが、昨日のまま習慣化されている今日を歩
んでしまう。最善の人生に招かれた当事者として、喜びを自分のも
のとして味わおう。そして主のご愛に応えよう。


2021年08月16日(月)

「みなが食事をしているとき、イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります』」マタイ26:21



「ユダにサタンがはいった」とあり、サタンはユダに入り込み、ユ
ダは主イエスを裏切ってしまった。サタンは、ユダの意志を無視し
て、勝手に入る事はできない。自動的に入れるわけではない。ユダ
がサタンに心を開き、サタンの方を選択し、受け入れて行った結果
だ。ユダのメシヤ観、価値観が、主イエスとは相容れない事が、明
らかになって行ったのだろうか。

又、「彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、盗んでいた」
とあり、ユダは、ずっとサタンに足場を与えていた。主は、ユダを
愛し、何度も悔い改めの機会を与えられた。主は「あなたがたのう
ちひとりが、わたしを裏切る」と言われ、「まさか私では」と言っ
たユダに、はっきりと「そうだ」と言われた。

あなたがたは全身きよいが、皆がそうではない、と言われた。主の
深い愛による悔い改めの促しにも、ユダは応じなかった。主を裏切
った後も、悔い改める事がなかった。悔い改めは大切だ。どんな罪
も悔い改めるなら、完全な赦しが与えられる。何という測り知れな
い恵みだろう。しかし、罪を軽く見てはならない。サタンに足場を
与えてしまう。

日々、これ位とおろそかにしている罪はないだろうか。聖霊が悔い
改めを促しておられないか。罪を重ねて行くと、やがて取り返しの
つかない重大な事態に陥ってしまう。日ごとに悔い改めよう。赦さ
れ、心平安にされる。サタンに足場を与えないためにも。
-------------
自分の欲望に触れてくるものには弱く、徐々にハードルを下げてし
まう。主に頼らないで動いている時は、すっかりサタンを忘れてし
まっている。御霊の促がしに従おう。


2021年08月15日(日)

「そこでイエスは彼らに『さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行 って、しばらく休みなさい。』と言われた」マルコ6:31


主のもとには、絶えず群衆が押し寄せていた。教えを聞こうとする
人々、病気のいやしを求める人々、孤独で寂しく、慰めを求める
人々、五つのパンと二匹の魚の奇跡の時には、男だけで五千人、女
子供だと一万人以上だろうか。主は、四六時中、群衆に囲まれてい
た。

それも毎日のことであり、悪霊との戦い、病気のいやし、どんなに
霊的な力を使われ、心身消耗された事だろう。「向こう岸に渡ろ
う」と舟に乗られた途端、嵐の中も熟睡された事を見ても明らかだ。
そんな目まぐるしい日常の中で、主は、よく寂しい所に退かれた。
群衆や弟子たちからも離れ、御父と交わられた。どんなに疲労され
た次の朝も「朝早くまだ暗い内に起きて、寂しい所へ出て行き、そ
こで祈っておられた」。

主は、よく祈られた。御父との交わりが、主の力の源であった。
「わたしは自分からは何事も行なうことができない。聞くとおり
に・・」「わたしは自分から話したのではない」「父ご自身が、何を
言い、何を話すべきかをお命じになった」絶えず交わり、御父から
導きを受けておられた。

弟子たちも、絶えず群衆に囲まれていた。その弟子たちにも、独り
の時間を持ち、休むようにと。身体を休めると同時に、主と交わり、
霊を新たにされるようにと。私たちも喧噪の日々だろうか。仕事は
山積みで、へとへとに疲れ果てているだろうか。しばし仕事から、
人から離れて、身体を休めて、主と交わるようにと、主が語ってお
られる。主の御声に従おう。心身共にリフレッシュされる。

・・・・・・・・・・・
これは主と共に休息することが大切だ。主を忘れて、行楽に走るの
ではなく、行楽も主と共に。主と休むのは、ゆったりとした時間の
中で、主とゆっくりと交わるためだ。これは極めて大事だ。その中
で様々な気づきや、起きている事柄の意味が説き明かされたりする。


2021年08月14日(土)

「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪は無かった でしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と 言っています。あなたがたの罪は残るのです」ヨハネ9:41


主は、盲人をいやされた時に、「わたしはさばきのために来た。見
えない者が見えるようなり、見える者が盲目となるため」と言わ
れた。するとパリサイ人たちが「私たちも盲目なのか」と反発し、,
不快感をあらわにした。主は、盲目なら罪は無かったが、「見え
る」と言うから「罪は残る」と言われた。

安息日に病気治療をする事は、仕事と見なされ、パリサイ人たちは、
主が律法を守らないと断罪した。だから神から出たのではないと。
彼らは神の言葉でなく、人の言い伝えの方を重んじた。そのため神
の言葉が見えず、わからない。神の言葉に対して盲目だった。彼ら
が「見えない者です」と認められたなら、どんなに幸いだったろう。
主の大きな恵みと祝福にあずかれたろうに。

しかし彼らは、自分たちが盲目であると決して認めなかった。そし
て見えると言い張った。私達はどうだろう。見えない世界が見える
ようになるためには、何が必要なのだろう。まず、自分が見えてい
ない事を認める事だ。そのためには、へりくだらなければならず、
プライドが許さない。「見えません」と、ありのまま主の前に認め
る時に、主が目を開いて見えるようにして下さる。

「見えない者が見えるようになり」と。主ご自身が目が開かれた彼
に近づかれ「信じるか」と問われた。「その方を知りたい」と願っ
た時に「あなたと話しているのがそれだ」とご自身を現わされた。
彼は「信じます」と答え、霊の目が開かれる事となった。

・・・・・・・・・・・・
ありのままの自分、見えない自分を認めることは、自分を砕いてへ
りくだることだ。主を信じるからこそ、認めることが出来る。主へ
の信頼が無ければ到底認められない。自分が崩壊すると思ってしま
う。しかし広げられているのは、最大の愛の慈しみの御手だ。


2021年08月13日(金)

「彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した」ヨハネ9:38



主が、一人の生まれつきの盲人の目を開くというみわざをされた。
イザヤ書によると、盲人の目が開かれる事は、メシア到来のしるし
だった。「そのとき、盲人の目は開かれ・・」、それゆえ、この盲
人が見えるようになった事は、まさしく預言の成就だった。心開か
れていたなら、主イエスこそが救い主だとわかるはずだ。

しかしパリサイ人は、主が、安息日を破ったと非難攻撃をする。そ
の根は悪意であり、その目で、人を、物事を見るなら、すべてが攻
撃材料となる。邪悪な心だ。正当な非難だと言うが、実は根にある
敵意によるものだ。盲人に問いただすのだが、彼の言葉にも全く聞
く耳を持たない。盲人は身に起きた事を素直に率直に話しているに
かかわらず、頭から否定してかかる。

注意しなければ、自分は正しいとの位置に立つ時、私達も同じにな
ってしまう。このような状態に陥ってしまう。そんな中、盲人の彼
ははっきりと、的確に断言した「盲目であったのに、今は見える」
と。誰にも否定できない事実だ。彼は、物理的に見えるだけでなく、
霊の目が開かれて、神がわかるのだ。何という主のみわざだろう。

パリサイ人は自分の思いで、自分の目で見た。肉の目だった。「私
たちはあの人が罪人であることを知っているのだ」と。あの人はこ
うだと最初から決めてかかり、そういう態度である以上、どんなみ
わざを見ても信じる事はできない。自らの偏見、思いを捨てて、素
直に主に向き合うなら、「主よ、私は信じます」に必ず導かれる。
--------
自分が正しいとしか見えなければ闇の中だ。学ぶことも悔い改める
こともない。主の光を通して罪を知れることは感謝だ。真理は人を
自由にしてくれる。闇に陥り安いことを認めていよう。


2021年08月12日(木)

「予見者ハナニが・・言った『戦車と騎兵は非常におびただしかったではありませんか。しかし、あなたが主に拠り頼んだとき、主は彼らをあなたの手に渡されたのです』」U歴代16:8




ユダのアサ王は最初は、非常によく主に従った。偶像をことごとく排
除し、主の祭壇を新しくし、民に命じ、主を求めさせた。主の目にか
ない、アサ王の心は主と一つであった。クシュ人が100万の軍勢と300
台の戦車で攻めて来た時には、主に叫び求めて、拠り頼み、主がクシ
ュ人を打ち破られたので、大勝利をした。

しかしイスラエル王バシャとの間に戦いがあり、バシャによりラマと
いう所が奪われた。包囲状態となり、その時に、アサ王は主に頼らず
に、アラム王ベン・ハダデに頼り、同盟を求めた。多大な財宝を提供
してアラムに頼った。ベン・ハダデは聞き入れ、町々を打ち、ラマを
打ち取り、戦いは勝利し、大成功だった。しかし預言者ハナニはアサ
王に「あなたは主に拠り頼まなかった・・今から数々の戦いに巻き込
まれる」と告げた。

主は方向を間違っている時に、人を遣わし警告される。表面的には、
大成功をおさめたかに見えるが、主の御心から、大きくそれていた。
私達も外側は、うまく行っているかに見えるが、御心からそれてい
ないだろうか。その後、アサ王は重病にかかった。その時にさえ彼
は「主を求めないで、逆に医者を求めた」とある。そして死んでし
まった。

罪を悔い改め、方向転換したなら、どんなに幸いだったろう。でな
ければ、更に主から離れてしまう。私達も、今の状態はどうだろう。
主でなく、人に、富に、物に、頼っていないだろうか。御霊に示さ
れる事があるなら、今一度、軌道修正て、主を信頼して行こう。
---------
自分で決断して成功すれば、ますますあの手この手と主に頼らず迷
い込んでしまう。主の警告は感謝だ。私たちの行く道の全てを知っ
ておられる主に迷わないよういつも祈り、頼っていよう。


2021年08月11日(水)

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです」ルカ17:19 


当時、らい病は隔離されて、汚れた病気と扱われていた。人々に接
近禁止で、「私は汚れた者です」と自分で言わなくてはならなかっ
た。非常に辛い境遇であった。苦しい身体的病の上に、更に社会生
活も閉ざされ、精神的な苦痛も受けていた。10人のらい病人が、主
のもとへ来たのは、必死な思いであったろう。

声を張り上げて「どうぞ、あわれんで下さい」と叫んだ。主はあわ
れみ、彼らを癒された。すると10人の内、1人だけ主のもとへ戻り、
あとの9人は去ったままで、帰って来なかった。病気が完治し、社
会に復帰できて、自由に社会生活が送れる。生けるしかばねのよう
であった彼らから見れば、何と夢のような事だろう。

9人は、何と驚くべき幸運、ラッキー、万々歳と、世の中へ帰って
しまった。彼らにとっては、飛び切りのラッキーであり、全く偶然
の出来事であった。そこに神は存在しない。感謝するために戻った
1人は、神への感謝と賛美と喜びで一杯だった。そこに神を認め、
神を崇めたのだった。

彼だけに、全く新しい信仰の人生が始まった。「あなたの信仰が、
あなたを直した」と。彼は主に出会い、主の愛を知り、その主の愛
の中を生きて行く人生が始まった。何が肝要なのだろう。病気が治
る事だろうか。確かに病気が治る事は嬉しい。しかし、また病気に
なる。

更に素晴らしい人生がある。「世の終わりまでいつもあなたと共に
いる」と、愛なる方との共なる人生へと招かれている。いつも救い
があり、苦しみも喜びの中も、どんな時も、愛して下さっている主
と共に、生きて行けるとは何と喜びだろう。
------------
心がいつも主の愛に満たされているなら、たとえ困難に出会っても
そこに最善を見出す事ができる。結果がラッキーでも主を認められ
ないなら本当に空しい。主に出会えて、主と歩めることに感謝だ。


2021年08月10日(火)

「『あなたを罪に定める人はなかったのですか』彼女は言った『誰もいません』・・『わたしもあなたを罪に定めない』」ヨハネ8:10




パリサイ人や律法学者たちが、姦淫の女性を主のもとに連れて来た。
姦淫は死罪だ。そのため「石打ちの刑に」と訴えた。主はじっとか
がんで、何かを書いておられたが、余りにも急き立てて来るので、
主は彼らに「罪の無い者が、石を投げよ」と言われた。すると、石
を投げる者が一人もいなかった。全員が去ってしまった。つ

まり、彼らは、主の言葉により自分自身の内側が照らされた。自分
を見て、自身に罪を認めたのだ。真実が現わされようとしていた。
本当の自分の姿にきちんと向き合うのか、それとも逃げるのか。彼
らは、皆、逃げた。主に導かれて、自分の罪を見たのに、それに向
き合おうとしなかった。しかし女性は逃げずに、そのままそこにい
た。

さばきからも逃れようとせずに、どうなろうと主のもとにとどまっ
た。罪を認め、身をゆだねた。その時、主から「罪に定めない」と
の赦しを受け取った。私達はどうだろう。罪がわかるのは、御霊の
光が臨むからだ。その時に光の方へ進む事ができるし、心を閉じる
事もできる。光に向いて、突き詰めて行く事は大事だ。

なぜいつもこの罪を繰り返すのか、どこに弱さがあるのか、自分の
どこに触れているのか、祈って行く時、必ず一つ〃示し出し、成長
へと導いて下さる。逃げるならそのままだ。光の方へ向き、光の方
へ行こう。主のかたちに変えられて行く。
------------
見たくない自分の罪は、主が十字架で負ってくださらなければ無く
ならないと思う時、恵みと同時に、罪を甘く見過ごすことの恐ろし
さを覚える。逃げずに向き合おう。


2021年08月09日(月)

「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいがもし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」マタイ6:22



目が健全なら全身が明るく、健全で、正しくものが見える。主に喜
ばれるように、天に宝を積む事ができる。目が悪いと全身が暗いと
言っている。目が悪いと、地上の事しか見えない。欲に走り、貪欲
に陥り、どこまでも地上の富に、所有物に固執する。又、人がサン
グラスをかけると、見える景色は、そのメガネの色に見える。

セロファンを目の前に置いて、周囲を見ると、赤、青、黄色と、置
くと、それらの色に見える。そのように自分の強い思いがあると、
その思いがメガネやセロファンとなる。自分の思いの色で、物事を
見る事になる。自分の思いが、事実の前にふさがっている状態にな
る。自らの思いがおおいとなり、事実を正しく見る事ができない。

嫌な相手がいたらどうだろう。「偏見」というメガネがおおいとな
り、ありのままが見えない。又、強烈な願望があればどうだろう。
そのメガネで見て行くと、強い欲望に支配されてしまい、正しく見
えない。又、「ねばならない」の律法も、おおいとなる。辛く、苦
しくてたまらない。又、自己中心のメガネはどうだろう。自己中心
は、自分の損得で生きる。自分が第一で、自分の栄光を求め、栄光
を自らに帰す。

又、自らの非、罪を認めない事もおおいとなる。主に向き、様々な
おおいをそのまま主に告げよう。そして罪を悔い改める時、目のお
おいは取り除かれる。妨げが除かれる時、はっきりと見える。そし
て主が語られる御言葉がわかるようにされる。
---------
自分の心は目の前の状況に簡単に影響され、目におおいがかかって
いるかも知れないと、いつも覚えていたい。正しいと思い込みやす
い者だ。へりくだって主に祈り、主に尋ねていこう。


2021年08月08日(日)

「わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者た ちを早くからたびたび送り・・言ったのに、彼らは聞かず」エレミヤ 44:4


エレミヤのもとに来て、民は、主に聞き従うからと、歩むべき道を
教えて欲しいと、尋ね求めた。それでエレミヤは「ユダにとどまる
なら、あなたがたを救い出す」との主の言葉を告げた。しかし、彼
らの思いは決まっていて、エジプトへ行く事だった。エジプトへ行
きたかったのだ。そしてやはり、主の言葉には従わなかった。

結局、彼らは自分たちのの思いがあり、すでに決定した事柄である、
エジプト行きの承認と保証が欲しかった。承認して欲しくて、主の
言葉を求めたのであった。私たちも自分の計画のお墨付きをもらう
ために、都合の良い言葉を求める。結局、彼らは主の御声に従う気
はなく、自分の思いを通して、エジプトへ下って行った。

主に従わず、主に逆らい、不信仰へと突き進んで行ったのだった。
「平安がないのに、『平安だ』『平安だ』と言う」偽預言者が聖書
に出て来る。自分に甘く、自分の思いを遂げさせてくれる、それは
非常に心地良く、都合の良い言葉を選んで行く、私たちの内の肉に
要注意だ。

主の御声は、時に厳しく、非常に痛いかも知れない。自分の思いと
も異なるかも知れない。主の道は私たちの道より高く、主の思いは
私たちの思いよりも高い。しかし、主の愛は、本当の愛、真実な愛
だ。真に私たちのことを考え、最善を計り、義の道へ導かれる。そ
れゆえ、罪から守られ、間違いを矯正され、信仰に前進させ、聖め
てられる。見せかけでない、真の喜びと平安へと導かれる。

・・・・・・・・・・・・
自分の強い思いが、自我が、御言葉を聞く事を妨げてしまう。
しかし間違いを矯正し、御心の道へと導いて下さる、こんな真実
な愛はどこにも無い。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実で
ある」。耳を傾け、この真実な愛に応答して行こう。


2021年08月07日(土)

「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いこと を言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを 自分たちのために寄せ集め」Uテモテ4:3 


私たちの肉の性質は、自分に都合の良い事を言って欲しい。自分は
正しいと言って欲しい。自分のしよとする事は、聖書にかなってい
ると言って欲しい。進む道が、御言葉に沿っているとの後押しが欲
しい。一つ間違うと、御言葉を、自分のしたい事をするための、承
認印にしてしまう。

「気ままな願いをもって」とあり、聖書の中から、自分に都合の良
い御言葉を集めるなら、それはわがままだと言っている。聖書は、
欲しい言葉を探し出す、タウンページではない。どうしても思い通
りにしたいとの強い思いがあると、自分のプランを正当化する言葉
が欲しい。思いが強いと、無意識に都合の悪い言葉はスルーして、
欲しい言葉を探してしまう。意識していればわかるが、無意識なの
で気づかない。それなら、御心と反対方向へ行ってしまう。

「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現し
ないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜
にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない」との言葉があ
るが、御言葉が示されたと言いつつも、もしその言葉が実現しない
なら、主が語られた言葉ではないと言っている。自分が取ってきた
御言葉になる。

まず御心を求める時は、最初に自分自身を、自分の思いを委ねるこ
とが大切だ。右でも左でも、主の御心のままに進みます。御心のま
までOKですと。そして祈って行く時に、主のお心がよくわかって
行く。主のお心を求めていて、自分の都合を求めているのではない
からだ。自分を明け渡す時に、必ず導きを与えて下さる。導きを頂
かなければ、進めないのだから。必ず道を示して下さる。

・・・・・・・・・・・・
「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのこと
ばにおののく者だ」。み言葉への態度が、助けられるように求めよ
う。心を助けられて、御声を素直に受け取ることができるように
祈ろう。御声を聞く事こそが大きな喜びであり、心に喜びが来る。


2021年08月06日(金)

「主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は世々に至る」詩篇33:10


ある人が、自分の自由になる時間に、習い事をしたくて、教室に申
し込んだ。高い入学金と前期分は前納との決まりで払い込んだ。楽
しみで、わくわくしていた。するとそこに丁度、空き待ちで申し込
んでいた仕事が来て、曜日や時間がピッタリ重なり、習い事は取り
止めになった。すぐ費用の返却を問い合わせると、規約にあるよう
に、いっさい無しとの事。一度も通わないまま、大金も消えた。

大きなショックだったが、「あ!」と、気づいた。祈らないでした
事だった。いつも主と共に、主と相談しながら、祈りながら歩む事
をずっと祈っていた。それが、主を仰がず、祈らず、自分の思いで、
自分のしたいように動いてしまった事に気づかされた。主が取り扱
って下さった事が、むしろ嬉しかった。主の愛を感じ感謝した。

金銭的犠牲を払ったが、学びとされ、霊的な恵みを得て、主を近く
感じ、心は平安だった。別の人は、楽しみにしていた海外旅行を何
度も計画したが、その度に急な仕事や、はずせない用が入った。次
々と予約するのだが、ことごとくキャンセルになった。目の前で、
全く道が閉ざされるのだ。どんなにか楽しみで、がっかりしそうだ
が、しかし不思議に、心は平安だった。

主の御心が成っていて、一番良い時に与えて下さると、信じれたの
で、心は穏やかだった。その事が自分にとっては、主のみわざだっ
た。自分の計画でなく、主のご計画に目を向ける時に、心が平安に
守られる。
-----------
主の導きだと気づかされるのは感謝だ。不自由さを覚えるより、新
しい意欲と希望がわいてくる。御心の真ん中に戻っておいで、との
御父の愛に包まれるからだ。


2021年08月05日(木)

「国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる。しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、それは長く安定する」箴言28:2



国にそむきがある時は、多くの首長がいる、とあるが、多くの首長
たちがいると、意見は十人十色で、皆、違う。こんなに人は違うの
かと思うほど、思いはそれぞれで異なる。独自の強い思い、譲れな
いポリシーがあり、一致してやって行くのはなかなか難しい。日常
生活でも経験する事だ。

職場、学校、サークルでも、家庭でも意見がぶつかり合う。何かを
決めようとする時にそれぞれの主張がある。話し合いの結論はどの
ように着地するのだろう。一番押しの強い人の意見だろうか、誰に
も譲らない頑固で気の強い人の意見が通るのか。多数決なのか。同
じ事が、外側ではなく、私達の心の内側でも起きている。

一つの事を決める時に、様々な思いが、計算が、頭を駆け巡る。あ
あでもない、こうでもない、ああなるとこうなり〜、これが、いや、
あれが良い・・どれが自分に最善なのか。自分の心の中にも、多く
の首長たちがいる。その時、何をもってして決めるのか。根拠は何
なのか。損はしない得な道か、いや自分の好きな道か、一番楽な道
か、人から勧められた道か。

しかし「分別と知識のあるひとりの人」により、つまり主により、
神の言葉によって、目の前の事態を判断し、決定して行く時、自分
にとって最善の道に導かれる。それは周囲にも祝福となり、神の栄
光が現れる。多くの首長たぢで、様々な思いで、混乱する時、主の
もとへ行き、祈り、御声を聞こう。多くの首長達に振り回されてい
ないだろうか。
------------
主に御心をと祈っても多くの首長によって心は乱れ、主の御声が耳
に入らない。やかましい自分の中からいったん出てみよう。本当の
知恵と能力を持って導かれる主を認め、頼ろう。


2021年08月04日(水)

「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」イザヤ55:6



「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去
れ」「主に帰れ。そうすれば、主は豊かにあわれんでくださる」
「私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」と続く。「主が
近くにおられるうちに」とあり、主が呼んで下さる時、御声をかけ
て下さる時、御霊の促しや御霊からの志が与えられる時がある。

主が近く臨んで下さっている。それはずっと続くわけではない。促
しは大きな恵みだ。必ず応答しよう。ぐずぐずし、ないがしろにし
ていると、それは去ってしまう。逃さないで機会を必ず捕らえよう。
「今は」恵みの時、「今は」救いの日とある。時々証しを聞く。
「ある決心をするよう、心にずっと御霊の促しがありました。御心
だとわかりました。

でもぐずぐずして、促しが来ると、今で無くてもよいとの思いや、
自分には無理との言い訳が来て、ぐずぐずと決心できませんでした。
するとその強い促しが消えてしまったのです。底に、自らの頑なな
自我があったと思います」主の大きなあわれみにより、時を経て、
決心に導かれたと。

御霊の促しがあれば、「今」従おう。ぐずぐずと、そのままにせず
に「出来ません」と主に向かうなら、導いて下さる。「捨てて」と
あり、自分の思い、自分のはかりごとを捨てる事が大事だ。主は豊
かにあわれみ、赦し、溢れるばかりに祝福して下さる。
-----------
御霊の促がしと同時に、自分には駄目だ、の声も聞こえる。御霊の
促がしを大切に受け取ろう。サタンに主からの祝福を取られないよ
う、主に勝利の力を祈ろう。必ずできる。


2021年08月03日(火)

「なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」イザヤ55:2



私たちはどうだろう。「食糧にもならない物のために金を払い」
「腹を満たさない物のために労」しているだろうか。主、以外のも
ので、心を満たそうと走り回っているだろうか。仕事、趣味、娯楽、
人により・・空いた心を満たそうとしているだろうか。ザアカイは、
富が自分を満たし、満足を与えてくれると信じて、取税人になりト
ップに昇りつめ、資産を築き上げた。

サマリヤの女性は、男性が自分を満たしてくれると信じて、結婚と
離婚を幾度も繰り返した。ザアカイも女性も、決して満たされる事
は無かった。主の方から彼らを求めて下さって、彼らは救いに入れ
られた。初めて心の満たしを経験した。信仰者も経験する。主が大
好きだったマルタは、主のために、主をお喜ばせしようと、一生懸
命にもてなした。家をきれいに整え、美味しい最高の食事を準備し
ていた。

しかし途中で、主のための奉仕のはずが、不平と不満、愚痴でいっ
ぱいになり、主に当たって、主を責め、感情をぶつけてしまった。
同様に、主のための奉仕で、疲れているだろうか。油切れになり、
なめらかでなく、ギシギシときしみ、潤いも喜びも無く、心はカラ
カラで不満ばかりが募る。人々が救われて欲しい、そのために用い
られる事は喜びであったはずが、伝道が重荷になり、義務になって
しまう。

「わたしに聞き従い、良い物を食べよ」「脂肪で元気づく」主のも
とへ行き主と交わり、御声を聞こう。そこに解決がある。新しい力
と喜び平安が戻る。なすべき事が、重荷となった時は、まず主と交
わろう。新しい力が与えられる。
----------
渇いている者はみな、水を求めて出て来いと主は招いてくださって
いる。何を求めているだろう。主の水を受けよう。豊かな泉が自分
の内から沸いてきて、それは尽きない。


2021年08月02日(月)

「主よ。あなたの道を私に教えてください・・私を平らな小道に導いてください」詩篇27:11



「主のみわざに目を留めよ。主が曲げたものを、誰が真っ直ぐにで
きよう」との言葉があるが、時に、私たちは、主が曲げたものとわ
からず、真っ直ぐにしようと、何と戦う事だろう。しばしば、思い
通りに行きたいのだが、どうやっても思い通りにならない状況があ
る。又、対人関係で、思い通りでない相手に手を焼き、相手を変え
よう、変えようと戦う。

何とか相手を変えようと骨を折るのだが、相手は全く変わらない。
一人で悪戦苦闘して、もはや力尽きてしまう。どうにもならずに、
主にギブアップだ。その時に、主が立ちはだかっておられた事に目
が開かれる。主がその状況に、そのようにしておられるなら、受け
入れようとの姿勢に変えられる。受け入れた時に、状況は同じなの
に、心に平安が臨む。

あれだけ苦しい戦いをした心に何にも代えられない深い平安が支配
する。今、悪戦苦闘を続けていて、どうやっても道が開かれず、疲
れ果てているだろうか。目の前の状況から、目を上に向けて、主を
仰ごう。そこに主を認めて行く時に、あらがい続けた状況が違って
見えて来る。もし、主が道を閉ざしておられるなら、その事を受け
入れよう。

その時に、予想だにしなかった別の道が開かれて行く。そして、自
身の内側も照らされて、動機や内側にあるものに気づかされて行く。
主は、常に導きの主であり、平安の道へと導かれて行く。
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叶えられない祈りと格闘する中で、私にはこちらの方が良いとしか
思えないのですと主に叫び、尋ねてみよう。一歩一歩導き、主が教
えてくださる。新しい主の道を発見したい。新しく主を知りたい。


2021年08月01日(日)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこ ころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ・・」 ローマ12:2


この世と調子を合わせてはいけないのは「価値観」だ。信仰人生に
は喜び楽しみ、又、苦しみ悲しみが、どちらも来る。順境があり逆
境もある。出来れば、苦しみや試練は望まない。しかし主には無駄
は一つもない。私たちに必要だから、一つ一つ送られて来る。試練
の中でこそ多くの学びを得る。

突如の問題に会う時に、私たちの普段気づかない、心の底の価値観
があらわになる。何ら支障無く、うまく行っていた日々に、突然問
題が起きると、心暗く落ち込んで、且つイライラしてしまう。なぜ、
そう感じるかと思うと、実は「問題の無い人生、困難の無い人生が、
良い人生」「平穏無事が善」と思っているからだろうか。現実と相
容れない。

それは「思い通りに行く人生が善」との価値観だ。又、「何で?何
で?こんな事が起きる」とイラ立つ裏には、「信仰すれば良い事ば
かりで、人生スムーズに行くはず」との価値観があるだろうか。こ
の世では、平穏無事であるために信心する。培われたこの世の価値
観に気づかされ、そこを御言葉に置き換えて行く。

「いつも喜んでいなさい」「すべての事について感謝しなさい」
「試練に会うときは、この上もない喜びとせよ」「試練は喜ばしい
ものではなく、悲しいが、訓練された人々に平安な義の実を結ばせ
る」「益のため、ご自分の聖さにあずからせようとして」「苦しみ
に会ったことは、しあわせ。それであなたのおきてを学び」と。

心の底の価値観が問題だ。一つ一つ気づきを与え、御言葉と交換し
て下さる。

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御言葉の価値観とこの世の価値観は正反対だ。一方は天を目指し、
他方は地のものを目指す。天と地の差だ。培われた根深い価値観
に気づける事が感謝で、真逆の御言葉の価値観に変えられて行く。
御霊が気づかせて下さる。新しく〃造り変えられる。