2002年12月31日(火)

「ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です・・からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き」(ヤコブ4:5)

あるグループでの出来事だ。ある人がその場に
いなかった一人の人をちょっとした事で非難した。
その話はその場だけの事となっていたが、軽率
な口が部外者に話した。その部外者の悪意の
口が、他の人に話し、話が段々誇張されて伝わ
った。非難された当事者の耳に入り、非難した
人を責めた。軽率な口の人に苦情を言ったが、
その人は悔い改めるでもなく、返って敵対心を
持った。炎がどんどん燃え広がるように、思い
やりの無い、愛の無い言葉をあちこちで発する
クリスチャンは周囲に大きな破壊を与える火事
を起こしている。火の源だ。もし、誰かが御霊
に支配され、食い止めて行くなら、状況は修復
できるのだ。あなたは火事を起こす者か、それ
とも火事を消す者だろうか。


2002年12月30日(月)

「たまたま、祭司がひとりその道を下って来たが、彼を見ると彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った」(ルカ10:31)


 ある牧師の証しだ。車で帰宅途中、ふと
以前の教会員から、知り合いが今悩みの中
にあると聞いた事を思い出した。
ちょうどその家の近くを通りかかったので
思い出したのだ。聖霊の「訪問せよ」との
促しを、心に感じた。しかし、私はまだこ
れから何をして・・言い訳をし沢山の理由
を心に作っていた。しかし、隣人になりな
さいの強い御声に降伏し、ドアをたたいた
そして、牧師である事を告げると、相手は
泣き出して、心の苦しみを打ち明けた。
聖霊は私達を自由に用いられる。
私達が御霊に促しに従うかいなかにかかっ
ている。関わりたくない、私は忙しいと通
り過ぎるだろうか。しかし、心を開き御霊
に従うなら、神の大いなるみわざに共にあ
ずかる者とされるのだ。


2002年12月29日(日)

「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい」(エペソ5:8)

町のイベントで仮装大会があった。様々な仮面や
衣装をつけると、誰が誰だかまったくわからない。
ふと、日常生活で仮面をつけているのでは、と
考えた。良いクリスチャンという仮面、良い親という
仮面、良い学生の仮面、優しそうな仮面、良い人
の仮面、相手の話など聞いていないのに、その
振りをした仮面、その下の本当の顔は誰にも
見えず、わからない。しかし、隠した憎しみ、敵対心
嫉妬、プライド、陰険さ・・それらを聖霊様は気づ
かせられる。無視せず、避けず、逃げず、自分
の本当の姿と向き合う事だ。すでに神の豊かな
赦しの中にあるのだ。仮面の下の本当のあなた
を神は愛して下さっている。仮面をつける必要
がないのだ。


2002年12月28日(土)

「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」(マタイ7:1)

自分に対するものと、他人に対する物差しが違う
事に気づいているだろうか。人の世話を何くれと
自分が焼くのは「親切」、しかし他人が自分にそ
うしてこられるのは「お節介」。自分が家計を切り
詰め努力しているのは「倹約、節約」で、人がそ
うするのは「ケチ」。自分が意見を言うのは「積
極的」人がどんどん言うのは「文句」。人は皆、
他人には厳しく、自分には甘い。他人の欠点
はよく見えるが、自分の欠点は見えない。これ
は暗闇の中にいるからだ。光の中にいる時、
聖霊様に照らされ、自分の姿がよく見える。
人を量る量りが、自分がさばかれる基準になる。
厳しく人をさばいているなら、その全く同じ
物差しを自分に向ける事になる。他人は、その
人と神の関係の問題であって、あなたは何
の関係もない。自分の心が照らされるよう。


2002年12月27日(金)

「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避け。主の真実は、大盾であり、とりでである」(詩篇91:4)

 海岸に海水浴に行く時、湖畔で魚釣りを楽しむ
時、突然の嵐を経験した事があるだろう。
素晴らしい快晴だったのが、突然、雲行きが怪し
くなり、みるみる間に黒雲が空をおおい雨が降り
出す。その雨は土砂降りとなり、風も出て来る。
入り江の岩間に身を避け、嵐をやり過ごす。私達
の人生の中にも嵐が突然現われた事があるだろう。
愛する者との死別、家族の病気、倒産、経済的困
窮、別離・・人生の嵐に遭遇する時、主ご自身が
避け所だ。神の翼の下に避難する。そこは安全で、
荒れ狂う嵐のまっただ中で安らかだ。一人の婦人
が離婚の苦しみを通った時、まさに御翼の陰を体
験したと証しした。気の狂うような状況のまった
だ中で安らかだったと。
あなたも、この翼の下を知っているか。


2002年12月26日(木)

「私は、あなたがたに向かって、御霊に属す人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました」(Tコリント3:1)


 この世界には三種類の人しかいないと言われている。
未信者と肉に属するクリスチャンと御霊に属するクリス
チャン。この三種類だ。あなたが救われているなら、肉
に属するクリスチャンか御霊に属するクリスチャンかど
ちらだろう。肉に属する人の特徴は、妬み、争いだ。
物事を自己中心にしか考えられないから、思い通りにな
らないと人を責め、周囲に責任転嫁して行く。人が自分
より勝っていると妬む。人との比較で生きているので、
優越感と劣等感を行ったり来たり。
教会内のトラブルメーカーとなる。自己中心な幼子なの
だ。成長し御霊に満たされて行く事が、神のみこころ。
失敗した時「私が間違いました。責任は私にあります」
が、御霊に属する人の態度だ。御霊に一歩一歩従う事に
より主にある成人と成長する。


2002年12月25日(水)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現われるからである」(Uコリント12:9)

 青年たちを力強く導いていたリーダーがいた。
日常生活で、主は試練を与えられた。その厳しい
試練に打ちひしがれてしまい、自らの弱さを嫌と
いうほど知らされた。神の御前にへりくだらされ、
砕かれた。人を導く資格など真にないと感じた彼
は、バイブルクラスの指導を辞める事を考えてい
た。それを知った一人の青年が言った「決して辞
めないで欲しい。この期間、君は最高の導き手だ
ったよ。君から多くの事を教えられ本当に恵まれ
たよ。君を通して神様に触れる事が出来たんだ」
彼はその時、弱さの中に働かれる神を体験した。
一番弱かった時、一番恵みの中にいたのだ。
そのままで神のもとに行き、へりくだれ。神はへ
りくだった魂を大いに用いられる。
水は低い方へ低い方へ流れるように。恵みも同じ
だ。


2002年12月25日(水)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのはわたしの力は弱さのうちに完全に現われるからである」(Uコリント12:9)

青年達を力強く導いていたリーダーがいた。日常
生活で、試練が与えられた。その厳しさに打ちひし
がれてしまい、自らの弱さを嫌というほど知らされ
た。神の御前にへりくだらされ、砕かれた。人を導く
資格など無いと感じた彼は、バイブルクラスの指導
を辞めようと考えた。それを知った青年の一人は
「決して辞めないで欲しい。この期間、あなたは最高
の導き手だった。あなたから多くの事を教えられ、
恵まれた。神様に触れる事ができたんだ」彼は
その時、弱さの中に働かれる神を体験した。一番
弱かった時、一番恵みの中にいたのだ。弱くて
良いと言われる。そのままで神のもとへ行き、
へりくだれ。神はへりくだった魂を大いに用いられる。
水は低い方へ低い方へ流れるように。恵みも
同じだ。


2002年12月24日(火)

「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです」(ルカ2:10)

 御使いは「すばらしい喜び」を知らせに来た。
このすばらしい喜びを、今日の人々は勘違いして
いる。クリスマスで大騒ぎをし、クリスマス商戦
でにぎわう街に繰り出す。クリスマスツリーを飾
り、プレゼントの交換をする。しかし、真の喜び
の意味は何一つ知らない。にぎわいが覚めると虚
しさが残る。反対にこの時期が嫌いな人もいる。
街がキラキラにぎやかになり始めると、寂しくな
る。家族のいない独身の人や、共に祝う友のない
人々、周囲の賑わいにひどく孤独を感じる。
どちらも「素晴らしい喜び」の意味を知らない。
イエスを十字架につけるために、この世界に生ま
れさせられた神の御愛、殺すために誕生させ、
御使いにそれを賛美させた神の深いお心。
この世界の人々への愛にほかならない。神の愛が
この世界に現された。これが喜びの知らせ。


2002年12月23日(月)

「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた・・あなたを苦しめて・・あなたの内にあるものを知るため」(申命記8:2)

私達は皆、高慢な者だ。神を頼らないで自分の
力に頼る。自分の力を誇り、神の祝福とどめて
しまう。イスラエルはいかに頑なな者であるかを
荒野の中で学んだ。40年もの間、神は雲の柱、
火の柱で導き、マナを降らせ、支え続けられた。
私達も荒野を通らせられる。試練を与えられる。
試練に会う時、私達の内にあるものが暴露され
る。本性が出てくる。心の内にあるものがその
まま出るのだ。プライド、高慢、虚栄心、妬み、
自己中心、様々なものがあらわになる。試練
が無ければ、実際は内にあるがわからない。
自分の本当の姿を知る。試練は良いものだ。
それによって、砕かれ成長する。「あなたを
苦しめて」=「あなたをへりくだらせて」試練
によって、へりくだらせられる。



2002年12月22日(日)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)

これは、主に在る多くの人々の証しであり、経験
してきたところだ。厳しい、苦しい試練を通り、必ず
後の日に、苦しみに会ったことは幸せでしたと言え
るのだ。これは素晴らしい恵みだ。ある父親は難病
の子供を授かった。しかし、長年を経た後、この事を
通して夫婦の絆が不動のものとされ、家族が愛し
合い、いたわり合い、互いに思いやりを抱き、家族
間の愛が深められ、何より感謝な事は、家族がより
神に近づけたのだ。天の御父からの深い慰めを受け
ていた。苦しみに会ったことは、幸せでしたと確信を
持って証しできた。私達は自分の罪ゆえに、蒔いた
種を刈り取るかも知れない。又、人から苦しみを
受けるかも知れない。みこころを行なっていて、尚
かつ苦しみに会うかも知れない。しかし、どうであれ
その事ゆえに、幸せですと必ず言えるのだ。どんな
時にも希望がある。


2002年12月21日(土)

「神のみここに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます」(Uコリント7:10)

牧師秘書がある時、ミスばかりしていた。書類の
不備、コピーのミス、入力ミス・・。彼女は仕事中に
他の事を考え、集中していないせいだった。「すみ
ません、すみません」ミスの度に謝った。ある時、
牧師が「姉妹、謝らなくていいですから、変わって
下さい」と言った。主は私達が罪を犯す時、謝る
だけでなく、方向変換し、変わる事を望んでおられ
る。罪から180度転じて新しい歩みをするのだ。
コリントの教会の人々は罪を悲しみ、そこから熱心
が生まれ、弁明、憤り、恐れ、慕う心が生まれた。
処罰を断行し、断固とした行動へと発展して行
った。罪の悲しみが、変わろうとの意志にそって
導かれる時、新しい喜びがもたらされる。悲しむ
だけでなく、変えられて行く事が大切。それが
真の救いへとつながる。


2002年12月20日(金)

「もし、あなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく・・わたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎む」(ヨハネ15:19)


 昔の東西冷戦中、アメリカの宣教団体が欧州視
察旅行をした。その時、共産主義の東ドイツを通
った。国境では厳しく検問され何もかも調べられ
た。その時「東ドイツにアメリカ領事館はないの
だからパスポートや入国許可書は決してなくすな」
と言われた。自分たちは全く望まれていない所へ
入る事を確認させられた。彼らの憎悪をずっと感
じていた。私達クリスチャンも時々、この世でそ
のようだ。歓迎されていない。正しい歩みをする
者を世は嫌う。自分達に歩調を合わせない者を憎
む。世から取り出されたので当然だ。
主も拒否され、この世から捨てられた。私達の安
住の地は天。この世では寄留者。主にならい、そ
のような生き方を日々心していよう。


2002年12月19日(木)

「神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」(Tペテロ4:19)

 一人の宣教師であった婦人が難病発覚し、
生涯ベットでの生活を余儀なくされた。
最初大きなショックではあったが、この事態を
受け入れる事が出来るようにと切に祈った。
その祈りは答えられ、心を屈折させられる事か
ら守られた。いじけたり、ひがんだり、すねた
りの否定的態度から守られた。そして、出来な
い事でなく、出来る事に目を留め始めた。
残された生涯を神のために用いてもらいたかっ
たし自分自身を献げていた。悲観的、否定的思
いでなく平安が与えられてた。
生涯の働きを祈っていると、やがて、祈りのチ
ェーンの代表になってもらえないかとの要請が
本部から来たのだ。ベットで出来る働き、祈り
の働きが主から与えれれた。苦しみを神のみこ
ころと受け入れる時、神はその人を通してみわ
ざをされる。


2002年12月18日(水)

「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかをためしなさい。にせ預言者がたくさん世に出て来た・・」(Tヨハネ4:1)

洋服の大々的なバーゲンがあった。有名な
メーカー、ブランド物を目玉商品に出している
が、客寄せのためであり、数も少なくすぐに
売り切れてしまう。そして沢山の安い服が
並んでいるが、良い品が安いのでなく、バー
ゲン用に作られた物だった。偽教師も同じだ。
ブランドを使う。聖書の御言葉、救い、十字架、
神を使う。しかし、それは単に客寄せのためだ。
それらを使って、人をおびき寄せるが、寄って
来た人々に、全く正反対の事を教えるのだ。
キリスト教的用語や聖書を使うが、真理とは
かけ離れたものが世に実に多く存在している。
神は、何もかもを信じるな、よく試せと言われる。
聖霊の光が必ず見分けさせてくれる。偽り
は真理を装っている。


2002年12月17日(火)

「・・また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人々が汚されたりすることのないように」(ヘブル12:15)


 私達の心から生え出る苦い芽を摘み、
絶えず根こそぎにしなければならない。
容易に苦い根が生じる。恨み、敵対心、
妬み、憎しみ、それらを神の前に告白
し悔い改め、捨て去らなければ、根は
どんどん成長し増え広がる。
ちょっとした感情の行き違いの恨みが
強い敵対心に育ってしまう。対人関係
に大きなヒビが入ってしまう。あなた
の心の内に、人からの侮辱、非難、批
判、をしっかり根に持って恨んでいな
いか。すぐに解決のために着手した方
が良い。心に抱く恨みは霊的なものを
損なう。今すぐすべての苦い根を取り
払おう。神の前にすべての苦いものを
持ち出して取り除いて頂こう。イエス
の血潮によって心がきれいに洗われ、
生活に喜びが戻ってくる。恨み、つら
みの苦い根に充分気をつけよ。いつか
霊的いのちが止まってしまう。


2002年12月16日(月)

「わが子よ。主の凝らしめを軽んじてはならない・・主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(ヘブル12:5)


 米国での事、ラジオから人生相談が流れて
いた。青年の男性が悩みを語っていた。
クリスチャンホームに育ち、小さい頃から忠
実に教会に通い、イエスを信じていた。
今、彼は大学は、停学、職もなく、薬物に関
わり、荒んだ生活を送っていた。
カウンセラーは、内なる自分に触れ可能性を
信じよと言ったが全然わからなかった。
本人もわかっていないだろう。しかし、聖書
にははっきりと答えがある。罪の問題であり
、神は愛のゆえに懲らしめておられる。
彼のする事は自分に触れる事でなく、罪を悔
い改めて、神に立ち返る事だ。自分を見つめ
ても何の解決もない。罪を真正面から見据え
、キリストを見る事だ。そこに解決があり、
そこから始まる。


2002年12月15日(日)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリピ4:6)

集中豪雨による洪水で崖崩れが起こり、家が流され
るニュースを目にする。世界のあちこちで大きな地震
が起こっている。アメリカでは家々を打ち倒し、町を
破壊してしまう竜巻を見る。予期しない自然災害が
起こる。逃れる事は出来ない。どこにいても災難に
会う可能性はある。そして、それを思い煩い、心配
したからと言って、どうにかなるわけではない。
どうにもならないのだ。何もかもが不確かなこの世
にあって、その答えは、拠り所を神に置く事だ。
羊飼いであられる主に置くことだ。その時、初めて
真の安らぎを見い出す。この世は変わっても、神は
不変不動なるお方、主権者であられ、すべては神
の御手にある。その神に拠り頼むことが平安で、
安らぎなのだ。神は我らの避け所、また力。
そこにある助け。


2002年12月14日(土)

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道3:11)

ある家族の80才になる父親が天に召された。60
年も忠実な信仰を守って、主に仕えて来た聖徒だ
った。その日はクリスマスだった。祝いの日だ。主
が地上に来られた喜びの日だ。人々は楽しさと喜
びの中にいた。これが神のピッタリの、ちょうど良い
時なのだろうか。葬儀の準備をする時とは思えな
かった。しかし、神のなさる事は完全だ。時にかなっ
て美しいのだ。闘病にあった父親の苦痛の終り。
すでに天国にいる愛する家族との素晴らしい再会
の時、そして何よりも父の愛と望みの対象である
イエスと共におれるのだ。素晴らしい喜びの時なの
だ。神に間違いは無い。最善の時だったのだ。父
親は天に帰ったが、その模範と働きはいつまでも
残り、影響を与え続けて行くだろう。信仰の遺産を
残したのだ。神の時は常にピッタリだ。あなたの
人生にも、一日にもすべてに神の時が定められて
いる。


2002年12月13日(金)

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)


 ある女性が仕事に行き詰まっていた。企画は
うまく進まず、新しいアイデアは浮かばず、
八方塞の状態だった。対人関係でも悩みを抱え
ており、仕事が辛くなっていた。
ちょうど一週間の夏期休暇を迎えほっとした。
一息つきたかった。その時に主にある友が、時
ぴったりにあるバイブルセミナーに誘ってきた。
内心嫌だった。疲れ果てていて一人でボーっと
過ごしたかったのだ。しかし、強い誘いに主の
導きを感じ参加した。すると、その集会で主は
どんどん心の内を照らし出だされた。
潜んでいたプライド、虚栄心、妬み、自分と自
分の力を誇る肉、根にある問題に向き合わせら
れ悔い改めた。心身共に新たにされ気分と意欲
を与えられ、休暇明け、一新され神と共に歩め
た。


2002年12月12日(木)

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」(詩篇46:10)


 ある老婦人は、大きな広い庭を持っていた。
その広い庭で、昔は子供達が一日中、走り回
り、また、泥まみれになり遊んだものだ。
今は近くに住む孫達の遊び場だ。その広い庭
の頭痛の種は雑草だ。抜いても抜いてもすぐ
に伸びる。綺麗好きの彼女はいつも草抜きを
していた。ある時、それが神との素晴らしい
交わりの時になると気づいた。静かなひと時
であり、心も静かで、主の御前に静まれた。
妨げるものが何もなく心行くまで神に語りか
ける事が出来た。草を抜き、菜園の野菜を摘
む時に、神の御声が語りかけてくる。
心を打ち広げ、心の何もかもを神に聞いてい
ただき、神からの御声を待つ。心の新たな思
いがひらめき問題の解決を得たりする。
あなたも生活の中で神と一人になれる時を見
つけよ。どうしても必要だ。神との交わりで
心新たにされ生きる力が来る。


2002年12月11日(水)

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」コロサイ3:23

職場に敬虔なクリスチャンがいた。彼は明るく、
誠実で、且つ勤勉だった。いつも一生懸命忠実
に仕事をしていた。又、暖かい言葉、ある時は楽し
いジョークを飛ばしながら、周囲に和やかさをもた
らしていた。そんな彼は人々に尊敬され愛されて
いた。下品な、みだらな話が飛び交うが、彼は決
して、そのような事を口にしなかった。しっかり信仰
に立ち、御言葉を生きていた。彼に人々に一目置き
実は多くの人が個人的な問題、悩みを相談していた
のだ。仕事上の悩み、家庭の悩み、対人関係の
問題・・いつでも彼は耳を傾け、熱心に聞いて的確な
アドバイスをくれた。この人物から学ぶことは、主に
対してするように、仕事をするなら、同僚に対して、
大きな証しになるという事だ。日々の平凡な仕事に
あって、遣わされた場で、豊かに主に用いられる
のだ。




2002年12月10日(火)

「ユダは、心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった」(エレミヤ3:10)


 エレミヤ書で、ユダの人々は悪事を行ない
続けながら、神を父であり、連れ合いだと言
っている。「父よ、あなたは若い頃の連れ合
いです・・なんと、あなたはこう言っていても、
できるだけ多くの悪を行っている」
彼らは立ち返ったように偽っていただけだっ
た。私達はどうだろうか。私達を愛して命ま
で捨てて下さった方に心を尽くして、応じて
いるだろうか。心から応じないで形だけだろ
うか。形だけ整える事は簡単だ。また、見え
るところだけをきれいにするのは簡単だ。
しかし、隠れた部分はどうだろう。
隠れたところで見ておられる主に恥じるとこ
ろは少しもないか。人が誰も見ていない時の
自分が、真の自分だ。人の前ではなく、神の
み前に生きることだ。その時、真実に生きる
事が出きる。


2002年12月09日(月)

「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(マタイ13:22)


 主婦にとって庭の草抜きは骨の折れる仕事だ。
雨がよく降る頃など、抜いても抜いてもすぐに
生えて来てしまう。畑や家庭菜園を持っている
人達にもそうだ。野菜の苗を植えるとその周り
にどんどん草が生える。天候や土地が良いと作
物もどんどん育つが雑草も勢いよく育つのは驚
くばかりだ。放っておくと良い野菜が収穫でき
ない。作物をふさいで枯らせてしまう。
心の畑である霊的生活も同様だ。御霊の実の回
りに、人を傷つける言葉や自己中心の態度、怠
惰やわがままの雑草が生えていないか。
それらを切り取り、切り捨てないとどんどん成
長して、良い実を損なってしまう。あなたの心
を見張り、しっかり手入れする必要がある。
罪が根を張ってしまう前に切り取る事だ。


2002年12月08日(日)

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません・・その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります」(ヨハネ14:18)

人生の中で、孤独を深く感じる時が一人一人にあ
るだろう。みこころを行なって生きているとしても、
孤独を感じることがあるだろう。ある独身者が心の
内を明かしている。誰かにとって第一に大切な人間
であると思われたい時があり、人生の困難な時には
重荷を共に負ってくれる人が欲しいと思い、素晴らし
い幸せな事が起こった時には、一番に分かち合いた
い人が欲しい、そのように感じる時があると。
主は、このような気持ちを深く理解して下さっている。
弟子達に捨てられ、裏切られた主は孤独を知ってお
られる。私達の罪ゆえに、御父に背を向けられた
イエスはその孤独をご存じだ。孤独はいっそうあなた
を主に近づける。あなたの寂しさをご存じで、理解し
て下さっている。決して見捨てないと言われたお方が
おられる。


2002年12月07日(土)

「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりである」(詩篇90:4)

病にある母親を介護している一人の婦人。最近具合
いの悪かった夫に、肝臓病が発覚、続いて姉に胃の
ポリープが発覚。不安と思い煩いに襲われ、心配で
一杯になり、気が滅入った。心が暗くなり、否定的な
思いに支配され落ち込んで行った。自分の人生は
何一つうまく行かない。悪い事ばかりが起こる。
毎日聖書を少しづつ読んでいた彼女は、詩篇91で
目が釘づけになった。その御言葉がぐいぐい心を
捕らえたのだ。神が自分に語りかけて下さっている
のがはっきりとわかった。翌日、主にある友人から
励ましの手紙が届き、最後に詩篇91とあった。
すべてが益となり、神が必ず良くして下さると信じれ
た。それが必ずしも病気が治る事ではないこともわ
かっていた。しかし、心は希望と平安で満ちていた。


2002年12月06日(金)

「いつも喜んでいなさい。・・すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Tテサロニケ5:16)


 大きな地震、洪水、竜巻等の自然災害に
会う時、人々の価値観が変わるという。
大きな出来事や悲劇は、人生で何が大切な
のかがはっきりするからだ。家族を失った
人々、家族が助かった人々、様々だが、
今までに見えなかったものが見えて来る。
順調な時は、より豊かな生活を追い求めて
行く。快適な生活を求める。しかし、地震
や洪水で、すべてを失い極限状態に置かれ
ると、生かされているだけで感謝であると、
再認識する。普段、あまりにも当たり前で
当然過ぎて、感謝も及ばない事柄の本当の
姿が見えて来る。与えられている自分の命、
家族や周囲の人々が、どんなに感謝である
かがわかるようになる。あなたの日常は当
たり前か、それとも感謝だろうか。


2002年12月05日(木)

「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず・・しかし、私は主にあって喜び勇み、わたしの救い主の神にあって喜ぼう」(ハバクク3:17)


 好きなやりがいのある仕事、幸せな家庭、
経済的安定、それらの好状況は喜びを生み
出す。状況が良ければ喜ぶのは簡単だ。
しかし、状況に関係なく、内側から湧き上
がる喜びがある。それは聖霊による喜びだ。
状況が良くても悪くても、関係なく、その
喜びは内側にあるのだ。ハバククは環境は
真っ暗だった。果物も野菜も全く収穫なく、
家畜も絶えてしまい、全くいなくなってし
まった。環境は最悪だ。
しかし、「主にあって」喜べた。環境がど
うあろうと、主にあっていつも喜べるのだ。
あなたは何に視点を合わせているか。
自分にか神にか。神に視点を合わせるなら
すべてが変わって行く。神は益とされる。
最善をして下さる。この逆境は必ず成長へ
つながる。どんな時にも希望がある。


2002年12月04日(水)

「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」(エペソ6:13)

ある旅館で、火事の際の探知機が備えつけてあったが、
よく誤って鳴るので、従業員がスイッチを切ってしまって
いた。その時に、本物の火事が発生し、せっかくの機器
が何の効力も発揮しなかった。これは霊的生活に当て
はまる。人が遭遇するあらゆる試練や攻撃、誘惑に対抗
するために、神は武具をすでに用意して下さっている。
腰に真理の帯、胸には正義の胸当て、足には平和の福音、
信仰の大盾、救いのかぶと、祈り、御言葉の剣などだ。
これらを日々しっかり身につけていれば、サタンとの戦闘
に勝利する事が出来るのだ。これらの武具がちゃんと備
えられているのに、身につけなかったらどうだろう。日々
サタンの攻撃に敗北してしまう。武具はオートマティック
ではない。しっかり自らスイッチを入れ、使わなくてはな
らない。


2002年12月03日(火)

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」(コロサイ3:23)

 働く人々の多くが、転職を夢見ているそ
うだ。もっと違う仕事なら、やりがいがあ
るのにと思うかもしれない。しかし、職が
変われば、仕事に不満が無くなるのだろう
か。問題のキイは、今の状況を神の視点か
ら見る事だ。御言葉は心を尽くして主に仕
えるように言っている。あなた方のする事
は、ことばによると行ないによるとを問わ
ず、すべて主イエスの名によってなせと。
何をするにも、主に対してするように、心
からせよと。もし、キリストのためだとし
たら、最善を尽くそうと努めないだろうか
誰に仕えているのかをあいまいにしたまま
仕事を次々と変えても何の意味もない。
神のために働くなら、あなたの仕事が永遠
につながるのだ。あなたの態度はどうだろ
うか。


2002年12月02日(月)

「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(ヨハネ13:14)

 
 ある人が言った。「愛の反対は憎しみではない、
自我だ」。第Uテモテ3:1〜の終わりの時のし
るしの中に「自分を愛する者」が出てくる。
自分の事だけで一杯の者だ。ところが、主は正反
対であられた。弟子達の足を洗われ、模範を示さ
れた。私達も主の示された模範に従うべきだ。
誰もが心に喜びを得たいと欲する。自分の満足す
る事が出来たら、欲望が満たされたら喜びがやっ
て来ると思う。しかし、心は虚しい。実は自分を
喜ばせようとしている限り、永遠に喜びはない。
どうすれば喜びが与えられるのか。
JOYは、ジーザスを一番に、アザーズ他人を次
に、ユアセルフあなた自身を最後にする時、与え
られるものなのだ。これを実行せよ。
必ず、あなたの心は喜びで満たされる。
へりくだって他の人々に仕えよ。


2002年12月01日(日)

「器官は多くありますが、からだは一つなのです・・それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです」(Tコリント12:20)

ある教会に、身体の弱っている老婦人がいた。
いつも忠実に礼拝に出席し、体調の加減で、礼拝
が終るとすぐに帰宅していた。教会の活動に参加
することも不可能だったし、ゆっくり交わる事もでき
なかった。しかし、彼女の忠実な信仰と喜び輝いた
笑顔は、多くの人々への励ましであった。更にすば
らしい事は、彼女が誰も知らないところでしている
かけがえのない尊い奉仕だった。彼女は朝早く
起きると、祈りの時を持った。牧師のため、働き人
のため、兄弟姉妹のため、活動のため、試練に
ある人々のため、宣教師達のため、忠実に執り成し
ていた。彼女はからだの中で、祈りの奉仕をして
いたのだ。彼女と語る時、祈りの答えを聞かない
事がなかった。又、いつも祈りのリクエストを聞いて
くれるのだった。彼女はからだを建て上げるために
自分にできる事をしていたのだ。教会に大きな
祝福をもたらしていた。どんな状況でも、必ず
できることがある。