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2021年09月30日(木)
「その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた」エステル6:1
  
 
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アハシェエロス王の妃ワシュテが、王の命令を拒んだため退けられ 
た。その後に、エステルが王妃として選ばれた。エステルはモルデ 
カイの養女として育てられていた。その時に、ハマンの悪巧みによ 
り、ユダヤ人全滅の極めて重大な危機に陥った。モルデカイはエス 
テルに、王にあわれみを求めるよう伝えた。 
 
「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであ 
るかもしれない」と。この事件が起きるまでは、エステルがなぜ王 
妃に選ばれたのかわからなかった。私たちも、その時は理解できな 
い、わからない事が起きるが、後に、その意味がわかるようになる。 
私たちに偶然は一つもなく、すべては主の支配、主権、ご計画のも 
とにある。 
 
召されないで王のもとに行く者は死刑だ。エステルは王から召され 
ていないが、主を信じ、主に自分の命をゆだねて、王に面会に行く。 
王から面会の許しが出、何が欲しいのかと聞かれた。エステルは宴 
会にハマンと出るよう頼んだ。王は承諾し、ハマンと出た。 
 
そこではエステルは願いを言わず、明日もう一度宴会に出るように 
願った。なぜ二回の宴会なのかが不思議だが、その二回目の前夜に、 
王が眠れず、記録の書を読んだ。そこでモデルカイが王を救った記 
録があった。まだ栄誉を与えてないと知り、王は彼に栄誉を与えた。 
 
結果的にハマンは裁かれるのだが、一つ〃がパズルのように埋まり、 
驚くばかりだ。すべてのパーツが必要不可欠で、無駄は一つもない。 
主のご計画と支配を見せられる。私たちにも無駄は一つもなく、主 
の意図と御心がある事を覚え、更に主を信頼して行こう。 
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何ひとつ無駄はないとは何と幸いな歩みだろう。すぐに光を見失っ 
たような心細さを覚えるが、もしかすると、と主の主権を信じ、喜 
んで主に応答していこう。
  
 
 
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2021年09月29日(水)
「ところが・・沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください」と言った」マタイ14:30
  
 
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主が強いて弟子たちを舟に乗り込ませられ、向こう岸に向かわせ 
られた。そして主は祈るために、一人で山に登られた。主の御心 
に従って、漕ぎ出した弟子たちは、途中で大きな嵐に遭った。御 
心に従って、嵐に会った。もう湖の真ん中に出ていて、岸にも戻 
れる距離でもなく、大変な向かい風で波に悩まされ、悪戦苦闘し 
ていた。 
 
もう遭難しそうな状況だ。真っ暗闇の中で、小舟の下の板一枚で 
命が繋がっていて、どんなに恐怖で、絶望的だったろう。私たち 
もどうだろう。よく祈って、主の導きと信じてスタートしたプラ 
ンやプロジェクト、叉、仕事や働きの中で、ひどい向かい風に、 
試練に遭う。叉、宣教活動や、家庭問題、個人的問題でも、厳し 
い向かい風に遭う。 
 
そこに主が来られ、おびえる弟子たちに「しっかりしなさい。わ 
たしだ。恐れることはない」と。何という力強い言葉だろう。何 
の心配も無い。主は必ず助けて下さる。その時、ペテロが主のも 
とへ行きたいと願った。主の招きを受けて、湖の上を歩く。とこ 
ろが溺れそうになり「主よ。助けて下さい」と叫んだ。すると主 
は、瞬時にペテロをつかんで助けて下さった。 
 
ペテロが、主に呼ばわったその叫びに、すぐ応答して下さった。 
私たちも、即、主に求める事が大切だ。ペテロは溺れて死ぬばか 
りの恐怖に、叫んだ。自分で泳げたなら、助けは求めない。私た 
ちは自分で泳ごうとしているだろうか。それとも他の方法をあれ 
これ画策しているだろうか。そうでなく「主よ。助けてください」 
と主に呼ばわろう。 
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恐れや不安で、主よ助けてください!と叫ぶばかりの歩みではな 
いだろうか。無力な私達のためにも主は祈ってくださっている。 
現状から主に心を向け主を呼ぼう。
  
 
 
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2021年09月28日(火)
「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる」詩篇145:18
  
 
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私たちは多忙で、目まぐるしい。次々と事をこなして行かねばなら 
ない。この世では忙しく働き、多くの活動に走り回る事が、人の存 
在価値に繋がっている。信仰生活も、世の価値観で回っているだろ 
うか。御前に静まる事が非常に難しい。自然にできる事ではないし、 
簡単ではない。動き回る方が、何かをする事の方が遙かに楽なのだ。 
 
私たちは喧噪と焦り、いら立ちに囲まれている。そのため御前に静 
まるには、決意が必要だ。でなければ、日々の多忙に流され飲み込 
まれてしまう。流されると、心はピリピリイライラして、平安と喜 
びを失う。主を呼び求めていない事が問題で、原因だ。「しかし、 
主を待ち望む者は新しく力を得」とあるが、まず今、最も必要な事 
は、御前に静まり、主と交わる事だろうか。 
 
そして主を待つなら「新しく力を得」とあり、新たな力はそこから 
来る。ダビデも常に、主との交わりで新しい力を得た。様々な苦難 
の中で、身に重大な危険が及ぶ中で、主と交わった。心の何もかも 
を主に注ぎ出し、辛い、深い痛みの中で主に期待した。主は、気持 
ちを受け止めて下さる。詩篇を見る時、いつもダビデは、嘆き、苦 
しみ、悲しみ、惨めさ、怒り、何もかもを主に吐き出している。 
 
率直に、正直に、思いも気持ちも感情も、主に持って行っている。 
そして主と交わった後、必ずその結果は、賛美と感謝に変えられて 
いる。私たちも、ありのままを主に聞いて頂こう。その時初めて、 
不思議に心が落ち着いて平安にされる事を経験する。 
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祈りの中で、また祈りの後で思いもよらない御霊の示しや心の変化 
を受け取る。恐れで気落ちしている心に凪が、主の慰めや励まし、 
力が注がれてくる。主を呼び求めよう。
  
 
 
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2021年09月27日(月)
「エリは答えて言った『安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように』」Tサムエル1:17
  
 
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当時イスラエルは士師の時代で、霊的には暗黒状態だった。指導者 
がおらず、人々は主の目に悪を行ない、各々が肉の目に正しいと見 
える歩みをしていた。好きなように、都合の良いように生きて、無 
秩序で混乱していた。主は、その暗闇に、新たな霊的指導者を起こ 
そうとされた。そのために協力者が必要で、主はハンナを見込み、 
選ばれた。 
 
「主がハンナの胎を閉じておられた」の通り、そのため胎を閉じ、 
ハンナの祈りを引き出すようにされた。祈りによって産み出そうと 
された。ハンナは不妊の辛さ、もう一人の妻ペニンナによるいじめ、 
周囲の迷信や偏見による冷ややかな目、募る辛さと苦しみは頂点に 
達し、祈りのために「立ち上がった」。 
 
主に向かい、何もかもを吐き出し、注ぎ出した。流れる涙と共に、 
一心に祈った。その祈りの中で「男の子を授けて下さるなら、その 
子の一生を主にお献げする」との決意へと導かれた。すると泣いて 
食事もできなかったハンナが、祈り終え、帰宅して食事ができたの 
だ。ハンナの顔が変わった。 
 
激しく泣き、苦しみ、悩みと憂いのいただちの以前の顔ではなかっ 
た。祭司の言葉をもらい、平安になり、心すっきりし、晴れやかだ 
った。そして結果的に、その祈りは見事に答えられ、サムエルが産 
み出された。私たちも苦しい状況で、主に心を注ぎ出し祈る時、ま 
ず自分の内側が変えられる。 
 
御父に自分を委ねる時、状況は変わらずとも、心に落ち着きが、平 
安が与えられる。今、苦しい状況にあるなら、主は祈りによって、 
解決に導きたいと思っておられるのかも知れない。主に向かい心を 
打ち明け、聞いて頂いて、主と交わろう。 
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悩みや苦しみは祈りに持っていかなければ、思い煩い心に闇の領域 
が拡がっていく。自分ではどうする事も出来ない。主に向かい心の 
うちを告げよう。主が聞いていてくださる事こそ安らぎの源だ。
  
 
 
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2021年09月26日(日)
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで あなたのおきてを学びました」詩篇119:71
  
 
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信仰人生に、様々な問題が起きる。問題や悩みは、誰しも望まない 
し、嫌なものだ。できるだけ、痛い目には会いたくない。できれば、 
避けて通りたいし、出来る限り平穏無事であって欲しい。平穏な 
日々が、私たちの心からの願いだ。しかし御言葉はそう言わない。 
正反対のことを言う。 
 
「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、 
あなたのことばを守ります」と。叉、「苦しみに会ったことは、私 
にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びまし 
た」と。普通、苦しみに会うと、過ちを犯すふうに思う。だから平 
穏でいたい。 
 
しかし逆で、苦しみに会う前は、過ちを犯したと言う。つまり、苦 
しみを通ったからこそ、過ちから守られ、御言葉に従い、御言葉を 
守る者とされいるのだと。そして苦しみに会ったことが幸せだった 
と言っている。私たちは苦しみに会うことは、不幸せだと思う。苦 
しみ=不幸だ。しかし「信仰人生で一番主に近かった時は?」との 
問いに、皆が、試練の時だったと答える。 
 
あんなに主に近い時は無かったと。これは苦しみにより、主に拠り 
すがる者とされる。真剣に、本気で、主に向かう時とされ、御心を 
問い、自らの姿も照らされる。普段、順境の時には、決して知るこ 
とのない自分の不信仰や、エゴに気づかされる。 
 
悔い改めて、新たにされる。何よりも、主との交わりが深められて 
行き、成長が与えられる。これこそが一番の幸せだ。 
 
・・・・・・・・・・・・ 
平穏無事、悩み問題の無い事を望んでしまうが、しかし主を知って 
いるお陰で、全く別の価値観、見方ができることが感謝だ。「この 
問題は乗り越えられる」「脱出の道がある」「この悩みを通して主 
を新たに知れる」と。そしてそのように成されて行く。 
 
  
 
 
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2021年09月25日(土)
「さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほ うにしばらく滞在するために、下って行った」創世記12:10
  
 
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アブラハムは、「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わ 
たしが示す地に行け」との主からの召しを受けた。彼は、これに従 
い、どこに行くのかを知らないで、出て行った。アブラハムの信仰 
であった。そして進んで行った時に、途上でききんに会った。その 
ききんが余りにも激しく、食物を求めてエジプトに下った。 
  
エジプトには豊かな食物があったからだった。みこころの地からそ 
れてしまった。その所で、サラが美しかったので、夫婦であるとわ 
かれば夫である自分に危害が及ぶと恐れ、サラを妹だと偽った。そ 
の結果、パロはサラを宮廷に召し入れる事となった。大変な事にな 
ってしまった。だが主が介入され、パロと家をひどい災害で痛めつ 
けた。 
  
危機一髪のところで、サラを取り戻すことができた。それでアブラ 
ハムはエジプトを出て、ネゲブから旅を続け、ベテルまで、最初に 
祭壇を築いた場所に来た。その所で、主の御名によって祈った。私 
たちもこのところから学ぶ事ができる。ききんで、自分の判断でエ 
ジプトに下さってしまったが、御心の場所を離れるのは、危ないこ 
とだ。 
  
ナオミたちもききんでベツレヘムを離れて、モアブへ。大きな苦し 
みを刈り取る事になった。アブラハムは嘘をつくという失敗をして 
しまった。大変な被害に会うところだった。しかし失敗した時には、 
悔い改める事ができる。信仰の偉人アブラハムも失敗した。私たち 
も悔い改めて、赦されて、再び歩み続けることができる。 
  
・・・・・・・・・・・・・ 
主の御心を歩むこと、御心の中が最も平安であり、安全であると教 
えられる。自分の思い、肉の判断で進む時、必ず蒔いたものを刈り 
取る事になってしまう。主を仰ぎ、主のお心を求めて祈ろう。そし 
て主の喜ばれる選択をして行けたら、何と感謝だろう。 
  
  
 
 
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2021年09月24日(金)
「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました」マタイ25:24
  
 
  |  
 
 
三人のしもべがいて、主人が旅に出る前に、一人に五タラント、二 
人目に二タラント、この人に一タラントを預けた。他の二人は喜ん 
で「すぐに行って」それを元手にし商売をした。各々もう五タラン 
ト、もう二タラントをもうけた。だがこの人は商売せずに、預かっ 
た一タラントを地中に隠したのだった。 
 
そして主人が旅から戻った時に、彼は言った。主人は要求ばかりし、 
奪い取るひどい方なので、恐くなって、地に隠したと。彼の間違い 
は、主人を誤解していた事だった。「ひどい方」だと。神は冷酷で 
恐い方、私達を苦しめ、商売で損でもしたら許さない方だと。 
 
「ひどい」=「厳格な」、彼の神観だった。与えられた働きが、喜 
びでなく、重圧で苦痛でしかない。働きが、恵みであり、特権であ 
るとの発想がない。当然、喜びや感謝も無い。叉、自分は一タラン 
トで、他の五タラント二タラントと比較し、不満と妬みがあったろ 
う。 
 
働いても儲けは少なく、もし失敗すれば怒りを買う。恐いし何の良 
い事も無い。それなら、そのまま返せばよいではないかと。減らさ 
なければ問題は無いだろう。そして悪いとも間違っているとも思っ 
ていない。根本的な誤りは、神を間違って見ていた事だ。神は愛な 
るお方だ。 
 
失敗もリスクも覚悟の上で、信任して一タラントを預けて下さった。 
一タラントは少額ではない、六千万だ。仮に、社長が部下に六千万 
を預けたなら、どれだけの信任だろう。主の愛と信頼に応えるべく、 
主のために労する、それが喜ばれる態度であり、自らにも喜びとさ 
れる。 
--------------- 
低リスクを考えると埋めてしまいたくなるが、失敗を恐れる私たち 
の弱さも主はご存知だ。その上で信じて任せていてくださっている。 
託された恵みや賜物をいかそう。主が支えて導いてくださる。
  
 
 
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2021年09月23日(木)
「あなたのみこころを行なうことを教えてください」詩篇143:10
  
 
  |  
 
 
「私の人生で最も大切にしているのは○○です」との文があれば、 
この○○に、あなたは何を入れるだろう。本音では何だろう。その 
答えは極めて重要だ。それがあなたを形造り、生き方を形造って行 
く原理になるからだ。もし「平穏無事」なら、何が正しいかより、 
とにかく摩擦を避ける事、問題が無いようにと選択して行く。 
 
「安楽」なら、人生で二つの道に立つ時、自分にとって楽な方を選 
ぶ事になる。「安全」なら、生涯、リスクは避けることになる。チ 
ャレンジはせず、危険は冒さない。「富」なら絶対に損はせず、得 
をする道しか選ばない。常に基準が自分にとっての損得になる。 
 
もし「自分」なら、必ず自分の思い、自分のプランを第一に通して 
行く。自分にメリットの無い事には関わらない。無意識にも、日々 
の様々な小さな決定、大きな決定に、その価値観が必ず反映する。 
自分の底に何があるかを知る事は大切だ。そしてもし、最も大切な 
ものが神であり信仰であるなら、とっさの決定にも必ず出る。 
 
自分がどんなに損をし、犠牲を払う事になっても、それには関係な 
く、主の御心を選択して行こうとする。大切なのは主の御心であり 
、自分の損得では無いからだ。実際に、御心を行なおうとする時、 
労力、時間、体力、能力を見る時に、出来ない、とても無理だと思 
う。 
 
その時こそ、信仰を働かせよう。主の御心は、主が行なう力を与え 
られる。自力でするのでは無い。主が成し遂げて下さる。そして、 
主はその信仰を喜んで下さる。 
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最も大切にしているものは自分、自分の者だ。だから迷いやすく、 
みこころを教えてくださいの祈りが必要だ。私に行く道をお知らせ 
くださいと主に尋ねながら歩もう。
  
 
 
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2021年09月22日(水)
「良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです・・正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです」マタイ12:35
  
 
  |  
 
 
私達は心の倉に、日々様々なものをどんどん蓄え込む。それは目に 
は見えないものであり、普段は、意識されないものだ。あなたが、 
心の倉に蓄えているものは何だろう。隠れた嫉妬、密かな憎しみ、 
根深い怨念のような怒り、恨みだろうか。その心の底にある、蓄積 
された中身が現われるのは、その人が追い詰められた時、試練の時 
だ。 
 
普段は、何もない順境の時は、心の底にはあるが、出て来ないもの 
が、とっさの事態が起きた時に、内面にあるものがそのまま現れ出 
る。その時の反応が、私達の本当の姿だ。圧迫されると、自分の内 
から何が出て来るだろう。不満、愚痴、怒り、裁き、罵りか。それ 
とも自制、寛容、柔和、愛が出て来るだろうか。 
 
人の口も同様だ。苦しい試練の時に、自分の口から出て来る言葉に 
より、自分の心に何があるかがわかる。心にある事を口が話すから 
だ。とっさには繕う事が出来ないので、本当の姿が出る。特に批判、 
非難、攻撃された時、どんな言葉が出て来るだろう。良い倉に蓄え 
た良い物とは御言葉だ。 
 
これは自然には、自動では出て来ない。日々、心の倉に御言葉を蓄 
え、取り出す練習が必要だ。これが習慣になって、良い物が培われ 
て行く。日ごとに地道に、一つづつ御言葉を貯えて行こう。御言葉 
を反すうして行こう。試みの時の大きな力だ。 
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問題があれば、まずネガティブな言葉が出てしまい周囲に何の証し 
にもならない苦い経験をする。主は共におられ、神を愛す者のため、 
すべてのことを益とされる。咄嗟に出る言葉が主にある確信と喜び 
に満たされたものでありたい。
  
 
 
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2021年09月21日(火)
「こうしてレハブアムは勢力を増し加え国を治めた。レハブアムは四十一歳で王となり、主がご自分の名を置くためにイスラエルの全部族の中から選ばれた都、エルサレムで十七年間、王であった」U歴12:13 
  
 
  |  
 
 
ユダ王レハブアムは、どんどん勢力を増し加え、盛んになり、国を 
治めるようになると、主を求める事を止めた。「彼は悪事を行なっ 
た。すなわち、その心を定めて常に主を求めることをしなかった」 
とある。これは、人が、どんな時に、主を離れるかの典型的な例だ。 
 
厳しい苦しい試練のまっただ中では、却って人は、切に主を求める。 
恐れと不安の中で、頼るものは主しかなく、主をあがき求めて、ひ 
たすら主に拠りすがる。主を離れるのは、むしろ順境の時だ。苦し 
みの時ではなく、物事が順調に、何もかもうまく行き、大成功を収 
め、有頂天の時だ。自信に溢れて、高慢になり、主に頼ることなく 
、自分の力で進んで行こうとする。 
 
自分の力で、やって行けるからだ。この時こそが、気をつけるべき 
時だ。大成功の後が、最も警戒すべき時だ。高ぶりの罪を犯してし 
まう。試練の時でなく、大きな成功の時に、人はよく倒れるのは、 
このためだ。成功によって、霊的に倒れた人は少なくない。サタン 
は私たちのすきを虎視眈々と狙っている。 
 
あなたが今、成功の有頂天にいるなら、まさにサタンの標的だ。十 
分に気をつけ、すべての栄光を主に帰し、ますますへりくだろう。 
サタンに付け入る隙を与えてはならない。慢心の誘惑に心して、守 
られるよう祈っていよう。 
-------------- 
祈りに祈って得た勝利でも、勝利は痛快だ。自分を誇ってしまう。 
へりくだり、栄光は主にお返ししよう。主に感謝しよう。勝利を味 
わう時、祝福を奪いにくるサタンを警戒しよう。
  
 
 
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2021年09月20日(月)
「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」詩編30:5
  
 
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誰しも信仰人生において、暗い夜を経験し、涙の夜を経験する。試 
練の時だ。しかし、ずっと夜のままではあり得ない。夜の次には、 
必ず朝が来る。明けない夜は無い。必ず夜は明け、事態は導かれて 
行く。これは何という慰めだろう。主の主権のもとに、試練には定 
められた期間がある。主が定められた期間から1ミリたりとも延び 
る事はない。 
 
ある人は、自らの非力に、厳しい状況に、涙が溢れて止まらなかっ 
た。辛い、苦しい状況だ。先が見えず、真っ暗なトンネルの中にい 
るようだ。トンネルの中にいると、これが永遠に続くように思えて 
しまう。しかし主のもとに行き、何もかもを心の思いを告げ、感情 
も告げて、心を注いで祈った。その時に、「夕暮れには涙が宿って 
も、朝明けには喜びの叫びがある」との主の言葉に大変力を受けた。 
 
そして御言葉を信じ、握って進んで行った時に、思いを越えた、事 
態の好転を見て行った。主が送られる試練は、必ず益と結果して行 
く。試練の時は、何もかもが光を失い、何も見えず、真っ暗闇のよ 
うに思える。が、主のよみがえりを覚えよう。十字架で弟子達はつ 
まづき、落胆し、絶望した。万事休すで、すべてが終ってしまった 
と思えた。 
 
しかし、世界が一変した。主がよみがえられたのだ。死から命へ、 
暗闇から光へ、悲しみから溢れる喜びに変った。必ず夜は明ける。 
今の苦しみは喜びに変わる。明けない夜は無い。それゆえ、どんな 
時にも、御言葉にあるように、すべての事について感謝できるのだ。 
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今日の辛さが明日も続くと思えてしまうが、明日は違う。主の変わ 
らない愛を再び見出し、思い煩いは軽くなる。明日を主に委ねて待 
ち望もう。
  
 
 
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2021年09月19日(日)
「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさ い。ここがあの方の納められた所です」マルコ16:6  
  
 
  |  
 
主が葬られた墓に、女たちが香料を持って来た。すると墓に立てか 
けられた大きな石が転がしてあり、墓の中には、主のからだは無か 
った。途方に暮れている女たちに、御使いが現われ、主のよみがえ 
りを告げた。「ここにはおられません」と。「ここ」とは、墓の中 
だ。死人を葬る場所だ。主は、死人の中にはおられないと。死から、 
よみがえられたからだ。 
  
私たちは「生きている方を死人の中に捜し」ていないだろうか。あ 
たかも、主に何の力も無いかのように、死んだ人であるかのように、 
主を横に追いやり、自分が、自分が、と自分の力で信仰生活をやり 
くりしていないだろうか。決してうまく行くことがない。 
  
すべてが自分の肩にかかるので、重く苦しいばかりだ。問題、焦り、 
いら立ち、思い煩い、不安で、疲れ果ててしまう。まるで主は死ん 
でおられるかのようだ。自分が、何もかもやり遂げなければならな 
いかのように。墓とは、人が主イエスの遺体を葬った所だ。人が、 
主に対して、して差し上げた場所だ。しかし、その所から、よみが 
えられた。 
  
もう「ここ」にはおられない。よみがえりとは、主が全主権を握ら 
れ、主の支配によって、事がなされる場所だ。今、まさに生きてお 
られるので、私たちが主のためにでなく、主が、私たちのためにわ 
ざをして下さっている。生きて働いておられるのだから。よみがえ 
りの主のいのちは、今日の信仰生活に生き生きと溢れ流れている。 
そこには喜びと平安が満ちている。 
  
・・・・・・・・・・・・・ 
すぐに律法に陥ってしまい、〜ねばならないになると、疲れてしま 
う。また懸命に頑張って出来ても、自分に栄光を帰してしまう。自 
分がしたのだから。一つづつ祈って、主に信頼し、主と共に歩もう。 
そこに潤いと喜びが来て、更に主との信頼関係が深められて行く。 
  
  
 
 
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2021年09月18日(土)
「それでもパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れ なかった。主が仰せられたとおりである」出エジプト7:13  
  
 
  |  
 
モーセを通して、奇跡のわざが次々となされた。ナイル川が血に変 
わり、かえるが全土に満ちた。すると呪法師も同じ事をした。悪魔 
も万能ではないが、奇跡を行なう。神と同じような事をした。次に 
地のちりが全土で、ぶよとなった。そこで呪法師も、秘術を使った 
が出来なかった。ぶよは人や獣についた。 
  
その時、呪法師たちは言った「これは神の指です」と。呪法師には 
どうしてもできず、まさに神である事がわかった。だが神のわざと 
理解したからといって、信じるわけではない。パロも、ますます心 
を頑なにし、彼らの言う事を聞き入れなかった。次に、あぶが全土 
に満ち、地は荒れ果てた。追い詰められたパロは、民を出て行かせ 
ると言った。 
  
しかし「決して遠くに行ってはならない」と。悪魔は、私たちにも 
「遠くに行ってはならない」と言う。信仰はそこそこでよい。すべ 
てを献げるなど行き過ぎだ。適当なところで良い。罪から全面的に 
離れるなど、出来っこない。悪魔は、私たちを主に近づけたくない、 
成長させたくない。今も誘惑が来ているだろうか。 
  
主は「わたしが主であることを知るようになる」との目的をもって 
十の災害を下された。しかしパロは神の奇跡を見るが、神を拒んだ。 
その結果、更に強情になり、頑なになって行った。そうではなく、 
様々な出来事の中で、神が主であることを知り、認める時に、ます 
ます成長して行ける。 
  
・・・・・・・・・・・・ 
神の奇跡を見たからと言って、神を信じるとは限らない。幾ら超自 
然の奇跡を見ても。心頑なにするなら、それが信仰へと至らない。 
心の問題だ。主は信じる事ができるようにと、みわざをして下さる。 
そこに素直に主を認める時、主がわかるようにされる。主を認めよ 
う。 
  
 
 
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2021年09月17日(金)
「そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる」マルコ12:42
  
 
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献金箱に向かって、座られた主は、人々が献金を投げ入れる様子を 
じっと見ておられた。金持ちたちが、次々と大金を投げ入れ、それ 
はじゃらじゃらと大きな音で、大金だとわかった。そこに貧しいや 
もめが来て、レプタ二つを入れた。レプタは当時の貨幣の最小単位 
で、1デナリの128分の1だ。200円位だろうか。僅かなお金だ。 
 
しかし主は、わざわざ弟子たちを呼び寄せて、言われた。この女性 
が、どの金持ちよりも沢山献げたのだと。皆は生活が十分できて、 
尚も余る中から献げたが、彼女は、今、持っている全部を献げたか 
らと。主は、献金額の多い少ないを見ておられない。金持ちは、多 
く献げたからといって、困る事は全く無かった。 
 
彼女はレプタを二つ持っていた。その内の一つを主に献げて、一つ 
は自分のために使っても良かった。しかし彼女は、主への感謝が溢 
れ出て、何もかも全部を献げる行為となった。献金とは献身だ。そ 
れは自分自身を主に献げる事であり、彼女は、自分の生涯、自分の 
持てる物、自分自身を主に差し出した。主は、明日の必要も満たし 
て下さる事を信じていた。主に頼りきった彼女の信仰だった。 
 
主は、彼女のその信仰を見られ、喜ばれ、受け取られた。主は、人 
が見るようには見ておられない。人は外側しか見えないが、主が見 
ておられるところは異なり、動機を、信仰を、見て下さっている。 
主に、お献げしたものを、主は喜ばれ、受け取って下さっている。 
何と嬉しい事だろう。主に喜ばれる、献げものを、献げて行けるよ 
う祈ろう。 
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あちこちに保険をかけて、それでも不安で主に頼ろうとしているの 
ではないだろうか。全て献げても主が守ってくださるとの委ねきっ 
た姿勢を学ばされる。主に献げよう。
  
 
 
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2021年09月16日(木)
「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て』」T列王19:11
  
 
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エリヤは、バアルとの熾烈な戦いで、大々的勝利を遂げた。それを 
聞き、怒ったイゼベルがエリヤに、使者を送りエリヤ殺害を伝えた。 
するとエリヤはその脅しに怯えて、逃亡した。あれほどの大きな戦 
いに勝利したエリヤが、信じられないようだが、霊的勝利の後は、 
特に危険と言われている通りだ。 
 
戦いでは、必死に主に拠り頼むが、勝利の後は油断してしまう。サ 
タンの攻撃と誘惑が臨む。特に大勝利の後こそ、身を引き締め、慎 
み、へりくだって、更に主に拠り頼む必要がある。あの勇敢に戦っ 
たなエリヤが、自分の命を救うために逃げたのだ。この事の原因は、 
イゼベルの言葉だった。主の言葉よりイゼベルの言葉を受け入れて 
しまった。 
 
どの言葉を聞き、どの言葉を拒否するかは重要だ。その言葉に自分 
が影響され動かされてしまう。私たちは心にどの言葉を受け入れて 
いるだろう。主の言葉か、サタンの言葉だろうか。主はエリヤに十 
分な休息を与え、身体の回復を与えられ、ホレブの山に向かわせら 
れた。そして山上で、主の前に立つよう命じられた。 
 
激しい大風、地震、火があり、その後に、かすかな細い声があった。 
エリヤはその細い御声に耳を傾けた。主はエリヤの思いの間違いを 
正し、エリヤに新しい使命を与えられた。死を願ったエリヤだが、 
再び、主の使命を遂げるために、立ち上がる事ができた。 
 
スランプ、落ち込み、無気力から脱っするには、まずはしっかり心 
身休息し、そして主の御前に行くことだ。御声にじっと耳を傾けよ 
う。御言葉により新しい力が湧き出る。今一度、立ち上がらせられ 
る。 
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祝福された勝利の後のほっとした時に、思わぬサタンの攻撃で深い 
傷を受けてしまう事がある。主が必ず立ち上がらせてくれる事を信 
じて主の御言葉に耳を澄まそう。
  
 
 
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2021年09月15日(水)
「しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである」マルコ6:49
  
 
  |  
 
 
弟子たちは、主から無理やり舟に乗せられ、こぎ出た。すると真夜 
中に大嵐に見舞われ、悪戦苦闘していた。その時、湖上を歩いて来 
られた主を「幽霊だと思い、叫び声をあげた」「みなイエスを見て 
おびえてしまった」。主を幽霊だと思った。なぜ、主を幽霊だと思 
ったのだろう。「その心は堅く閉じていたから」とある。 
 
心が閉じていたので、主を見ても、主だとわからなかった。心の問 
題であった。なぜなら、まず、主が湖の上を歩くなどと、思いもよ 
らず、有り得ない事だった。「彼らの心中の驚きは非常なものであ 
った」。なぜ、驚きだったのか。弟子たちは、主は偉い先生だが、 
人間だとしか思っていなかった。 
 
「パンのことから悟るところがなく」とあり、すぐ前にあった五千 
人の給食の奇跡の事だ。その奇跡から何を悟るべきだったのか。 
主が、人となられた神であるということだった。しかし主が神だと 
は、到底理解できなかった。主を正しく認識していなければ、助け 
ようと来て下さっても、受け入れる事ができない。 
 
そんな事ができると思わないからだ。不信仰は、信仰の力を削いで 
しまう。主は罪を赦すと言われる。主には出来ると信じるなら、失 
敗しても悔い改める時に、喜びと平安で満たされる。だがもし信じ 
なければ、恐れと不安の暗闇の中だ。私たちはどうだろう。 
 
問題は、心が閉じていることだろうか。自分の見方でのみ見ている 
だろうか。主にはそんな事出来るわけが無いと思っているだろうか。 
主に心を開いて行けるよう祈ろう。御霊が助けて下さる。 
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見えない目、悟らない心の者だ。自分の常識や期待を反映させてい 
る主ではないだろうか。主が教えようとされるものをまっすぐに信 
じ、思い込みを日々に正されて、真実な主を知っていこう。
  
 
 
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2021年09月14日(火)
「『あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である』そこで、ヨシュアはそのようにした」ヨシュア5:15
  
 
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ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、橋も船もないヨルダン川 
を、主の奇跡によって渡り、約束の地に入った。しかしすぐさま困 
難に直面する。目前に、エリコのそびえ立つ城壁が立ちはだかった。 
私たちの人生にも、様々な問題や困難が立ちはだかる。ヨシュアは 
非常な困難の中にあった。 
 
そんな時に、目を上げると一人の人が抜き身の剣を手に持ち、立っ 
ていた。今にも戦おうとの姿勢だ。驚いたヨシュアは思わず「味方 
か敵か」と問うた。味方であって欲しい。しかし相手は、敵とも味 
方とも答えず、「主の軍の将」と答えた。敵でないなら、味方では 
と思うが、ヨシュアの上に立つ将だと。つまり「あなたでなく、わ 
たしがリーダーだ」と。 
 
そこでヨシュアは地に伏し「〜して下さい」と願ったのでなく「何 
を告げられるのですか」と、主の御心を問うた。すると「足のはき 
ものを脱げ」と。はきものを脱ぐとは、自分の思い、方法、力を 
「明け渡して」、主に従えとのことだ。「あなたの立っている場所 
は聖なる所」と。主が共におられる場所だ。 
 
「ヨシュアはそのようにした」。ヨシュアは自分を明け渡して、言 
われる通りに、その通りに従った。すると城壁は見事に崩れ落ちた。 
今、困難な状況にあるだろうか。だが主は、今の場所は聖なる地だ 
と。主の軍の将が来ておられる。はき物は脱いで、主の示しに従お 
う。解決のみわざを見る。 
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主の祝福を受けなければ決して勝利はない。結果を求めて心ははや 
るが、聖なる主の御前にへりくだろう。主に自分自身を明け渡し、 
祝福を願い従って行こう。
  
 
 
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2021年09月13日(月)
「三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は、陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされた」士師記7:22 
  
 
  |  
 
 
 
当時、イスラエルは絶えず侵略を受け、苦しい状況にあった。主は 
ギデオンを立て、民を率いて、諸国と戦わせようとされた。呼びか 
けに32,000人が集まった。だが、相手は135,000人の大軍で、圧倒 
的不利で、到底勝ち目はない。しかしその時、主は極めて不思議な 
事をされた。人間的に考えると有り得ない事だ。 
 
何とギデオンに、兵士の数が多過ぎるので、減らすよう命じられた 
のだ。最後には、たった300人が残された。そしてその300人で戦っ 
た結果、ギデオンが大勝利した。勝利は主から来た。この時、主は 
兵士を減らす理由として「大人数だと自分の手で救ったと、自分を 
誇るから」と。 
 
この戦いの勝利が人間でなく、主の力によるものと明確にするよう 
に、あえて兵士の数を減らされた。私たちは、自分がもっと強けれ 
ば、能力があればと思うだろうか。自分に力が無いから、だめなの 
だと。しかしもし強ければ、主の働きを自分が奪い、自分を誇り、 
自分の栄光にしてしまう。信仰的体験さえも、肉は誇る。 
 
パウロは、第三の天にまで引き上げられるという、特別な経験をし 
た。人類の誰も経験した事がない。パウロも、自分を誇る弱さがあ 
り、そのため余りにも大きな恵みに、高ぶる事がないように、とげ 
が与えられたと言っている。苦しいとげであったが、それによって 
高ぶりの罪から守られた。 
 
高ぶりからの守りは、何と感謝な事だろう。そして更に素晴らしい 
啓示を受けた。「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」と。こ 
の世では誇れるのは強さだが、私たちは弱さを誇れるとは何という 
恵みだろう。弱さの中にこそ、主が働いて下さる。 
----------- 
すべての力を奪われて、ひとりで問題に向き合わされる時は、ひと 
りで主に向き合う大切な時だ。勇気も気力も主から来る。主に身を 
委ね、戦いの勝利が主の力によると、主の栄光を拝そう。
  
 
 
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2021年09月12日(日)
「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから 『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」イザヤ30:21  
  
 
  |  
 
神は、御心のままに、あなたがたの内に働いて志を立てさせ、事を 
行わせて下さる。主が、私たちの心に志を下さると。日常で、私達 
は、朝起きてから夜寝るまで、様々な思いが次から次へと浮かぶ。 
しかし注意すべき事は、すべてが神からのものではないという事だ。 
  
サタンからの思いも、どんどん来るし、自分の肉からの思いも湧き 
上がる。様々な思いが混線している。これこそ御心と思うのだが、 
主からの思いでは無い事も、しばしば経験する。しかし必ず主から 
の思いもある。どう判別して行けばよいのだろう。 
  
まず何よりも祈りが大切だ。サタンによる霊的な事柄の識別は、祈 
りによってしかわからない。祈りの中で御霊が働き、御霊が教えて 
下さる。その心の思いは、御言葉に合致しているか。御言葉に反し 
て導かれる事は決して無い。 
  
その際、注意すべき事は、サタンは光の御使いに変装するので、神 
のかたちをとって来る。主からのものに思えてしまう。非常に紛ら 
わしい。御言葉を違う解釈で持って来たり、御言葉を薄めたり水増 
ししたりする。少し位大丈夫だと誘惑して来る。又、結果オーライ 
で、結果さえ良ければ、方法、手段は構わないではないかと思わせ 
て来る。 
  
目的のために、手段は正当化されるのだと。しかし主は、目的も手 
段も、動機も正しい事をされる。そこに不正があるなら、主からの 
ものではない。又、主からの志であれば、祈りの中で不安が失せ、 
平安が与えられ、必ず環境が開かれて行く。 
  
・・・・・・・・・・・ 
主の御声があり、サタンの声や自分の思いがある。よく祈ろう。よ 
くよく祈りを積んで、志が変わらなければ、主からのものだ。サタ 
ンや自分の思いなら変わって行く。又、環境が閉じられて行く。主 
は導かれるので、必ず従いたい決心がある時に、導きがわかる。 
  
 
 
 |   
 
| 
 
2021年09月11日(土)
「元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとり もありません。失われるのは船だけです」使徒27;22
  
 
  |  
 
  
パウロは主からローマ行きを示されていた。ローマで主の証しをす 
るためだった。それが諸事情あり、パウロの思いとは全く異なり、 
囚人としてであったが、イタリヤ行きの船に乗る事になった。出航 
したが、途中、風のために進む事ができず、良い港という所に着い 
た。 
  
パウロは、もう航海は危険だと判断し主張したのだが、百人隊長に 
より、クレテの港へ行き、冬を過ごす事になった。すると何日もの 
激しい暴風に会い、船はほんろうされた。積み荷を捨て、船具まで 
捨てた。太陽も星も見えない日々が続き、絶望的であった。身の危 
険に最後の望みも断たれようとしていた。 
  
だがパウロは「命を失う者は一人もない。失われるのは船だけ」と 
確信に満ちて告げた。主は、信仰人生、失うものは何もないとは言 
われない。ヤコブも「私も、失うときには、失うのだ」と言った。 
私達は信仰生活で、様々失うものがあるだろう。「主は与え、主は 
取られる。主の御名はほむべきかな」と。 
  
ヨブは、主は与えて下さると同時に、取られるとも証ししている。 
しかし、失う事はあっても、必ず私達は御手の中に堅く守られ、信 
仰の生涯を全うできる。船を失う事があるかもしれないが、信仰人 
生は堅く守られ、確実に安全な島に打ち上げられることを覚えよう。 
  
得る事は嬉しいが、失う事は、嬉しくはなく痛手だ。心痛む。だが 
振り返る時、あの時、この時の損失、大きな痛手だったが、それに 
より自分自身が練られきよめられ、成長させられた。今の自分があ 
る。実際に、いろんな形で損失を通るが、思いを遙かに越えた祝福 
に至る。船を失う事はあるかも知れないが、豊かな霊的祝福へと至 
る。 
  
・・・・・・・・・・・・ 
信仰人生は、決して自分の思い通りではない。思い通りには行かな 
い。しかし主の御心が成し遂げられて行く。パウロが思いとは違っ 
て囚人で、しかしローマに到着したように。主に委ね従う時に思い 
通りではないが、主の思い通りに導かれる。それこそベストだ。 
  
  
 
 
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2021年09月10日(金)
「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」マタイ6:32
  
 
  |  
 
 
私たちはどうだろう。いつも先の事が不安でたまらないだろうか。 
明日のこの事、来週のあの事、来年の不安、しいては老後の事が不 
安でたまらない。大丈夫だと思おうとするが、不安は湧き上がり、 
襲って来る。不安と思い煩いで眠れなかった夜を経験しただろうか。 
 
主がおられるから大丈夫と、すべての必要は必ず満たされるからと 
励まされても、どうしてもだめなのだ。教理上、頭ではわかるのだ 
が、先の事は、目に見えないので、恐れと不安がどうにもならない。 
明日の不安と煩いに押しつぶされて、今日を生きる事ができず、今 
日の御心を行なう事ができない。 
 
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めよ。そうすれば、そ 
れに加えて、これらのものはすべて与えられる」とある。神第一に 
して行くならば、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと 
の、生活の必要はすべて与えられるのだと。そして心も満ち足らわ 
せて下さる。しばしば、これの逆をしてしまう。 
 
「これらのもの」を第一にして、ほんろうされ、神が後回しになっ 
てしまう。その結果、全く平安が無い。「労苦はその日その日に十 
分ある」その日になすべき御心がある。心を集中し、今なすべき事 
を行なう時、日々に達成感、喜び、平安が来る。主を第一に軌道修 
正して行こう。 
------------ 
目の前に来る刺激によってすぐに揺れ、第二のもの第三のものに流 
されてしまう。主を第一にしよう。本当に価値のあるもの、本来の 
目的に立ち返ろう。
  
 
 
 |   
 
| 
 
2021年09月09日(木)
「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた」詩編34:6
  
 
  |  
 
 
ダビデの詩編で、私たちは、どんなに慰められ励まされ、力づけら 
れる事だろう。ダビデは、詩篇のこの箇所でまず「私はあらゆる時 
に、主をほめたたえる」と言った。「あらゆる時」だ。つまり、喜 
び楽しみの時、順境の時だけでなく、辛い、苦しみ悲しみの時も、 
「すべての時」だ。 
 
実際ダビデは、この時はとんでもない悲惨な状況だった。サウル王 
から理不尽な妬みにより命を狙われ、逃亡中だった。そんな中、窮 
地に陥り、何とサウルの敵であるガテ王アキシュのもとに身を寄せ 
た。しかしその部下たちがダビデの正体を知っていて、王に告げた。 
恐れたダビデは追い詰められ、身の危険を感じ、何と気違いの振り 
をした。 
 
気が狂った演技をし、ひげによだれをたらし、屈辱的な、惨めで最 
悪だ。アキシュからも追い出され、ほら穴に逃げ込んだ。何という 
苦しく辛い状況だろう。その直後に、「私は主をほめたたえる」と 
言ったのだ。「私の口には、いつも主への賛美がある」と。順境で 
喜びと楽しみの時に、賛美するのは、誰でもする。 
 
しかしそうではなく、恐怖で、惨めで、弱く、窮地の、苦しみのま 
っただ中で、ダビデは主への信仰に立って、賛美した。このような 
状況では、落ち込み、気力も萎え、愚痴と不満でいっぱいが普通か 
も知れない。しかしダビデは主を信頼していた。主は共におられる。 
 
最悪の状況の中で、主を仰いで行った。その時に、主は答えて下さ 
った。「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた」。私たちも、 
主を呼ぶ時、主は答えられる。主を呼び、主は答えて下さる、この 
繰り返しの中で、少しづつ〃主への信頼が、確実に着実に深められ 
て行く。 
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主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張ると、ダビデのように主を 
信じ抜き、試練を通して、更に豊かな祝福を、主の素晴らしさを味 
わい見つめる者となろう。 
  
 
 
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2021年09月08日(水)
「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、『アブラハムよ』と呼びかけると、彼は、『はい。ここにおります』と答えた」創世記22:1
  
 
  |  
 
 
イサクは、アブラハムの宝物だった。そのイサクを全焼のいけにえ 
として献げるようにと。はっきりと試練だと言われた。「あなたの 
子」と言われ、よその子ではなく、自分自身の実子、「あなたの愛 
しているひとり子イサク」と続く。大切な心底愛している子、ひと 
り子であり後継者だ。 
 
神の祝福を受け継ぐ子であり、イサクから祝福が全世界に拡がって 
行く、この上なく大事な約束の息子だ。そのイサクを献げよと。約 
束が、ほごにされてしまうのだろうか。ある日、突然の主の命令だ 
った。アブラハムにとって、どんなに厳しい試みだったろう。信仰 
人生、最終章の大きな試練だった。しかしアブラハムは従った。 
 
彼はイサクを通しての約束を与えられていたが、ただひとりの子を 
献げた。「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもで 
きる、と考えた」。もしイサクを全焼のいけにえとしてほふったと 
しても、神はイサクをよみがえらせて下さると信じた。モリヤの地 
まで3日かかる。命令を受けて、翌朝早く出た時から、彼の決心と 
信仰は変わらなかった。 
 
現地に近づいた時、若い者たちに、そこで待つようにと言った。 
「私と子どもとは、礼拝をして戻って来る」と。「私と息子は戻っ 
て来る」と言った。その通りになった。アブラハムも弱さのある人 
間で、何度も失敗した。しかし主に従い続け、主との信頼関係が培 
われて行った。私たちも様々な出来事を通して、主との信頼関係を 
培って下さり、深められて行く。 
------------ 
結果は自分の思いとは違うかもしれないが、神のご計画だけが成り、 
それは最善で祝福だったという経験をひとつひとつ重ねて生きたい。 
主の山の備えを信じて登っていこう。
  
 
 
 |   
 
| 
 
2021年09月07日(火)
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」エレミヤ33:3
  
 
  |  
 
ある人が、仕事上で大きなプロジェクトに関わっていた。だが議論 
を詰める中で、自分のプランと異なる意見が出て来て、まさに反対 
の意見だった。各々が自分の意見こそはベストと思っているので、 
意見が対立し、衝突した。議論になると、自分は正しいと思ってい 
るので、イライラし、怒りが出て来る。どうしても相手を打ち負か 
したいと思ってしまう。 
 
心は重く、平安が全く無く、辛い。帰宅して、まっすぐ主の御前に 
行き、祈りの時を持った。いら立つ心、怒り、人を裁き、責める心 
の内も告げて、祈っていた時に、「いつも喜んでいなさい。絶えず 
祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」と、よく知ってい 
る御言葉が心に浮かんだ。心に響いて来て、主が語りかけておられ 
た。 
 
「すべての事について感謝しなさい」、反対する人々を感謝しなさ 
いと。腹が立って、感謝など出来ないと思ったが、しかし思い直し 
て御言葉に従おうと、感謝しますと祈った。すると不思議に、荒れ 
ていた心が落ち着いて行った。主に焦点が合い、心が平安にされた。 
自分が変えられた。 
 
「自分が」「自分が」と、主も、人も、突き飛ばして、へりくだり 
など全く無く、高ぶっていた姿を見せられた。悔い改めて、主にす 
べてを委ねることができた。結果的に、主が豊かに祝福して下さっ 
て、そのプロジェクトは大成功をおさめたが、自分が主に取り扱わ 
れ、変えられた事が一番嬉しかった。 
----------- 
心配事に心を煩わせると、ひたすら問題だけに捕らわれてしまうが、 
主を呼び不安や思い煩いをうちあける時間が大切だ。主を求めよう。 
絶えず御名を呼び求めよう。
  
 
 
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| 
 
2021年09月06日(月)
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」Tヨハネ3:16
  
 
  |  
 
 
兄弟のために命を捨てるとは、字のごとく死ぬ事ではなく、相手に 
とって何が最善であるのかを考え、そのために、自分にできる事で 
犠牲を払う事だ。そして「神を愛するとは、神の命令を守ることで 
す。その命令は重荷とはなりません」とあり、神の命令を守る事は 
、愛して行く事は、決して重荷とはならないと。 
 
「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの 
心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」 
。自分には助ける力が与えられているのに、愛の行ないをしないな 
ら、そこに神の愛はとどまっていないと言っている。だが真実をも 
って愛の行ないをするなら、自らが主のもとにある事を知り、御前 
に心を安らかにされる。 
 
そして、心平安にされ、今度は自分が主に願うものをいただけると。 
「求めるものは何でも神からいただくことができます」。なぜなら 
主の命令を守り、主に喜ばれる事を行なっているからだと。力以上 
の事をする必要はないし、できない。そこに無理がかかると、疲れ 
て重荷となってしまう。 
 
別の個所で「この女は、自分にできることをしたのです」との言葉 
があり、自分に出来る事で、犠牲を払えばよい。労力、富、時間、 
与える事のできるものが、与えられている事が恵みだ。主が任せて 
下さっているものの中から、愛の献げものを導かれているだろう 
か。 
----------- 
相手にとって最善な事は何か、出来る事はないかと心を寄せる事か 
ら始めたい。悪気は全く無いが、関心も無いという日常ではないだ 
ろうか。心を向け祈っていこう。
  
 
 
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2021年09月05日(日)
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛して いる」イザヤ43:4  
  
 
  |  
 
私たちが、就職試験を受ける時はどうだろう。「何が出来るか」 
「どんな資格を持っているか」「何が得意で、どんな能力があるの 
か」「秀でたものはあるか」「人が持っていない特技を持っている 
か」これらが就職試験で問われ、有利になる。 
  
もし、「何も出来ません」「あれも、これも出来ません」「資格は 
何もありません」と言えばどうだろう。この世では、能力のある者、 
特技を持つ者、出来る者が尊ばれる。しかし、主の目はどうだろう。 
主は何を見ておられるのだろう。「わたしの目には、あなたは高価 
で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われる。 
  
何が出来るか、出来ないか、何を持つか、持たないかは、いっさい 
関係が無い。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と。付加価 
値をつけたあなたでなく、今、そのままのあなたの事を言っておら 
れる。この世の価値観は、良い子が愛され、悪い子は認められない。 
  
良い子になれば愛される。私たちも、培われた根深い価値観があり、 
良い子になれば認められ、受け入れてもらえるのだと思う。そのた 
め、クリスチャンになってからも、愛してもらいたくて、主に認め 
てもらいたくて、善行を行なおうとする。これは全く間違っていて、 
逆行している。 
  
律法の下に身を置く事になり、平安も喜びも失ってしまう。愛をも 
らうために善行をするのでなく、すでに100%愛されているから、 
その愛に感謝して、善行をする。これが恵みだ。いつもこの恵みに 
とどまるようにと。油断をすると律法に陥る。この恵みに目が開か 
れるよう祈ろう。 
  
・・・・・・・・・・・ 
主の愛から離れ、恵みのもとから出てしまうと、自分の力で歩み、 
信仰生活が担い切れない重い荷となる。又、自分の力で出来たと 
しても、自分を誇り、栄光を自分に帰して行く。ますます主から 
離れてしまう。主との交わりの中にとどまり、主に信頼を向けよう。 
  
  
 
 
 |   
 
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2021年09月04日(土)
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがた にわたしの平安を与えます」ヨハネ14:27
  
 
  |  
 
  
主は、十字架にかかられる前に、弟子たちに平安を残すと言われた。 
しかし普通は、今から死ぬ人が、平安は残せない。叉、親が子に、 
桁外れの資産を残したとしても、経済的に不安は無いが、心の平安 
を残す事は出来ない。又、たとえ身体が強健で、何の問題もなく、 
財産があったとしても、心にぽっかり空いた空虚感、心の虚しさは、 
誰もどうにも出来ない。 
  
金銭ではどうにもならず、解決できる者はいない。私たちが、心の 
底で求めているものは、「平安」だ。そしてその平安のためには、 
心の奥底にある、「罪」から来る不安、恐れ、思い煩いが解決され 
る必要がある。 
  
ある人には、どうやってもぬぐえない心の傷があった。親から妹を 
見るよう頼まれていたのに、見ておらず事故で死なせてしまったの 
だ。親も周囲もカウンセラーも、皆が「あなたのせいではない。事 
故だったのだ」と言った。しかし幾ら言われても、心の苦しみはど 
うにもならなかった。 
  
教会へ行った時に、生まれて初めての言葉を聞いた「それはあなた 
の罪です」「しかしキリストはあなたのその罪を負い、十字架で死 
なれました」と。十字架の意味を知った。はっきりと罪だと指摘さ 
れ、罪を認める事ができ、その罪が赦された事に、長い間の苦しみ 
と辛さが、大海のような平安に飲み込まれた。 
  
誰からも、何からも得られなかった平安を、主が与えて下さった。 
主だけが、「わたしの平安」と言われるところの、主の平安を与え 
て下さる。主のもとへ行こう。 
  
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平安は、自分で幾ら得ようとしても得られない。不安と恐れが増す 
ばかりだ。「わたしの平安」と言われる、主が与えて下さる平安は、 
この世には無い平安だ。罪が赦されるから得られる平安で、状況は 
関係無く、どんな厳しい環境の中でも与えられる平安だ。 
  
  
 
 
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2021年09月03日(金)
「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」Tペテロ5:8
  
 
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主が、働きを開始される時に、まず悪魔の試みに会われた。悪魔は、 
阻止しようと立ちはだかった。私たちも、悪魔の攻撃に会うが、特 
に、御心を行なおうとする時にやって来る。激しく阻止しようとす 
る。日々の祈りの時はどうだろう。祈りや聖書を読もうとする時に、 
妨げが入る。 
 
突然、急ぐ用を思い出す。立ち上がって、その対応をする。ピンポ 
ンと宅配が来る、電話が鳴る。眠気に襲われる。その前まで全く眠 
くなかったのに。又、様々な思い煩いが脳裏を巡り、時に怒りに支 
配される。悪魔の妨害だ。御心を行おうとする時に、妨げが入る。 
 
ある人が、母親を定期的に訪問しては、世話をし、証しの機会を祈 
っていた。話を聞く事も、サポートの一環と、聞いて上げていた。 
その日も、予定日だったが、なぜか心が重苦しく、気持ちがふさい 
だ。行きたくない思いに襲われる。日を変えようかとも思う。しか 
し主のために、決めた日程だ。祈り、やはり行こうと決心した。 
 
行くと、母親の愚痴不満、ネガティブな話が延々続いた。いつもは 
聞き流せるのに、その日は気がおかしくなりそうだった。限界にな 
り、心の内で叫び祈った。すると冷静に穏やかに、人は皆、罪人で 
ある事が話せた。罪について話すと、いつも聞かない母親が耳を傾 
け、目に涙が。 
 
十字架の贖いをはっきり話せて、母親はその日主を受け入れた。サ 
タンが必ず祝福を妨害して来る事を改めて教えられた。悪魔は妨害 
し、働く。わきまえていよう。だがその背後に、常に全能の主の主 
権と支配があり、守られている。 
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常に祝福を取りにサタンがきていると警戒していよう。すぐに混乱 
させられ、どれほど弱いかを知っている。弱いからいつも謙遜に、 
御言葉を握り、主に頼っていよう。
  
 
 
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2021年09月02日(木)
「あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた・・わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために」イザヤ37:21
  
 
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ヒゼキヤ王の時代に、アッシリヤ王のセナケリブが、ユダの町々を 
攻め取った。王はラブシャケを送り、ヒゼキヤ王と人々に脅しをか 
ける。大軍を伴い、強大な軍隊を誇示し、挑んで来る。「ヒゼキヤ 
王は、主が救うというが、ヒゼキヤの言う事にだまされるな、信じ 
るな」と信仰を揺るがす。 
 
これを聞いたヒゼキヤ王はどうしたのか。ヒゼキヤは衣を裂き、荒 
布をまとって主の宮へ行き、主に祈りを献げ、イザヤにも祈りを要 
請した。サタンの私たちへの攻撃も同様だ。私達に挑み、仕掛けて 
来る。経済的困難や対人関係の悩み、仕事や様々な問題、信仰ゆえ 
の戦い・・が来る。圧倒的な勢力のこの世を前に、自分達の無力を 
見せつけられる。 
 
「祈っても無駄だ、何になろう、主を信じてどうなる、しょせん無 
力だ・・」。主を信じて立たないよう、この世に妥協して生きるよ 
うに誘惑する。そうすれば楽に生きれる、摩擦も生じず、世の成功 
も手にできる。サタンだ。このような時に、対抗手段は祈りだ。 
ヒゼキヤもイザヤも切に祈った。 
 
祈りに答え、主は奇跡をされた。何と主の使いが、アッシリヤの軍 
勢18万5千人を打ち殺したのだ。セナケリブは立ち去った。世に妥 
協させようと、耳元に来るサタンの誘惑に気づけるように。祈りに 
より立ち向かおう。そして大事な事は、サタンの背後に、全権を持 
たれた主の支配があり、サタンも主の御手の中であることを、絶え 
ず見ていよう。 
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サタンは巧妙に心の中にやって来て、状況だけを見させる。恐怖に 
襲われたらすぐに主に祈ろう。サタンに勝利された主がいつも傍に 
いる。御霊を通して目を開かせてくださる。
  
 
 
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2021年09月01日(水)
「恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです」使徒27:24
  
 
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パウロはローマ行きを、主から示されていた。エルサレムで証しし 
たように、ローマでも証ししなければならないと。だが第3次伝道 
旅行の後、エルサレムで「除け。生かしておくべきでない」と人々 
に殺されそうになり、大混乱、大騒動になった。投獄されてしまい、 
ローマ行きは絶望的に思えた。しかし監禁により、返って暗殺者か 
ら守られる事になった。 
 
実の無い裁判に見えたが、それは総督のペリクスやフェストに証し 
をする機会となった。又、丁度アグリッパ王が総督フェストに会い 
に来たため、王にも福音を語る機会となった。そしてパウロは更に 
ローマ皇帝に上訴したため、これがローマへの道を開く事になった。 
パウロの思いとは異なり囚人としてであったが、ローマに向かう事 
になった。 
 
その船が幾日も大嵐に会い、激しく翻弄され、死に直面する事態と 
なった。しかしパウロは必ずカイザルの前に立つとの、主の言葉を 
信じきっていた。船は座礁したが、全員が板や物につかまり、岸に 
辿りついた。「こうして、私たちはローマに到着した」。パウロは、 
主の言葉通りローマに着き、福音を伝えた。 
 
何があっても、どんな障害があっても、主は必ず御言葉を成就され 
る。主が語られた事は100%成就する。あなたは今、途上の紆余曲 
折の苦しい中にいるだろうか。「こうして、ローマに到着した」。 
必ず、あなたに約束された主の言葉は成就する。信じていよう。主 
を信じて続けて前進しよう。 
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どんな絶望的な状況であっても、主に祈り、主の御言葉を聞くこと 
ができる。恐れてはいけません、計画の中にいるからと語りかけて 
くださる。主を信じて、与えられた確信をにぎっていよう。
  
 
 
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