2021年10月31日(日)

「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あな たは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました」詩篇30:1 1



詩篇によると、ダビデは嘆いている。自分の嘆きを注ぎ出し、苦し
みや痛みをことごとく御前に言い表している。涙は止まらず、いら
立ちで衰え、敵の攻撃に弱っていると。弱り果てて、疲れきった姿
をありのまま出している。クリスチャンはいつもニコニコしている
と思っていたら、ほど遠い姿だ。やせ我慢をするのでなく、素直に
率直に、感情も言い表している。

悩みや問題の無いふりをしていない。「夕、朝、真昼、私は嘆き、
うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」嘆いて、うめいて
いる。気持ちを抑え込むのでなく、それを主の前に言い表わしてい
る。ダビデのように私たちも、気持ちを抑え込まずに、主に告げよ
う。「すると、主は私の声を聞いて下さる」と。主にありのままこ
とごとくを告げて行く時に、「泣く声を聞かれ」「切なる願を聞か
れた」。

主が私の祈りを受け入れて下さったと、平安にされている。そして
「嘆きを踊りに買えて下さった」「荒布を解き、喜びを私に着せて
下さった」と。私たちも経験する。主に気持ちを、思いを、嘆き、
悲しみ、苦しみ、怒り、思い煩い、不安・・率直にありのまま告げて
行く時に、段々気持ちが落ち着いて来るから不思議だ。状況は変わ
らず、同じままだが、動揺し、恐れで支配されていた心が、変えら
れて、大丈夫だと思えて来る。

状況と自分しか見ていない目が、状況と自分から目を離し、主を見
上げるところから来る平安だ。主に聞いて頂いたという事で、安堵
が来る。祈りに持って行けたので、主がこの事態を、主の思われる
最善に導いて下さるとの信仰が来る。主に行き当たりばったりはな
く、ご計画を持っておられる。どのように導き、良くして下さるか、
待ち望もう。嘆きを踊りに変えて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
目の前の苦しみや悩みを、必ず主は踊りに変えて下さる事を見つめ
て、信じていよう。辛い、苦しい、悲しい、気持ちを主に告げよう。
不思議だが、あれほど苦しかった心が、ふっと違って来る。祈りを
積みつつ、状況を見て行こう。時間をかけつつ、祝福へと結果して
行く。


2021年10月30日(土)

「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けたが、 それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです」マ タイ7:25



山上の説教の最後で、主は、土台の事を話された。二種類の土台が
あると。二つの家があり、外観は同じに見える。しかし土台が違っ
た。一方は「岩」で、もう一方は「砂」だ。そして岩の上に建てる
のが、賢い人で、砂の上が愚かな人だと。順境の時は、二つの家は
外側同じなので、見た目には何も変わらない。

しかし風雨の逆境の時に、違いが明白になる。私たちの人生、必ず
試練が来る。病気、経済的困難、倒産、対人関係や仕事上の悩み・・
突如、襲われる。その時に、岩の上の家は、絶対に倒れず、嵐の中
も耐え、乗り越えて行く。しかし砂の上の家は立ち行けずに、倒れ
てしまう。様々な問題が起きた時に、岩の上ならどんなに困難であ
っても必ず立ち行ける。

が、砂の上なら崩壊してしまう。更にその倒れ方はひどいと。岩の
上に家を建てるとは、神の言葉を聞くだけでなく、実行して行くこ
とだ。砂の上に建てるとは、御言葉を聞くのだが、行なわない。そ
こまで、生活や自分を変えてまで、従う気はない。山上の垂訓の最
後にこの箇所が出て来る。「あなたの敵を愛せよ」など、自分の力、
人の頑張りでは不可能だ。

しかし自分の力で行なうのではない。主にとどまる時に、御霊が成
し遂げて下さる。自分にはできない。だが祈って行く時に、取り扱
いを受け、一つ一つと成し遂げられて行く事を経験する。そして御
言葉を行なって行く事が、主を愛する事だ。主を愛する人のために
は、すべての事を益として下さる。

・・・・・・・・・・・
聞いた御言葉を実行して行く事が、岩の上に家を建てることだと。
すると厳しい試練が来た時も、必ず乗り越えて行けると。それは御
霊によらなければ実行出来ないので、主にゆだねて拠り頼む事が必
要だ。「ゆだねられるように」が、今の祈りだろうか。祈って行こ
う。


2021年10月29日(金)

「そしてイエスは言われた。『聞く耳のある者は聞きなさい』」 マルコ4:9



人は、本当の事を、真実を指摘される時、耳をふさぐと言われてい
る。痛い事は聞きたくないからだ。ステパノが議会で弁明をした時
に、証しをし、はっきりと真実を述べた。その時、ステパノの弁明
で、「神は手で造った神殿には住まない」「あなたがたは頑なで心
と耳に割礼を受けていない」「いつも聖霊に逆らっている」「正し
い方を殺す者となった」「律法を受けたが守ったことがない」と真
っ直ぐに語った。

それは人々を激怒させ、「はらわたが煮え返る思いで、ステパノに
向かって歯ぎしりした」。そして「人々は、大声で叫びながら、耳
をおおい、いっせいにステパノに殺到した」。ステパノの語った言
葉が、正しかったがために、人々は怒り狂った。そして「天が開け
て、人の子が神の右に立っているのが見える」と、イエスがメシヤ
である事を大胆に、証しした時に、迫害者たちは、石で打ち殺して
しまった。

それは、彼らの隠れた姿をあらわにされたからだった。だから抹殺
してしまった。人は、真実を指摘される時、心を閉じてしまう。真
実と向き合いたくないからだ。真実を、真の自分を見ようとしない
人は、真実の言葉を恐れる。聞きたくない。避けて、シャットアウ
トする。しかし聞く耳を持たないなら、自分をごまかしている事に
なる。成長して行く事が出来ない。

主は「耳のある者は聞け」と言われ、御言葉に真正面に向く時に、
それは痛いが、それにより自分が変えられて行く。成長して行く
事ができて、御霊の実を結んで行ける。
----------
御言葉によって豊かに変えられ成長したい。聞きたい事だけを聞い
ていても人は生きていけるが何の成長もない。心を空にして主の御
言葉を聞こう。


2021年10月28日(木)

「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二 度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います」マルコ14:30



ペテロは、「全部の者があなたのゆえにつまずても、私は決してつ
まずかない」と豪語した。「私は」ついて行く。一緒に死ぬ事にな
っても、「私は」あなたを知らないなどと決して言わない。「私
は」
大丈夫との自負があった。ペテロは自信満々であった。「自分は」
他の者たちとは違う、そこに高ぶりが潜んでいた。

そしてペテロだけでなく、他の弟子たちも皆、そう言った。彼らの
気持ちではあった。しかしそのしばらく後、主が捕えられた時「弟
子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」。弟子たちは
皆、逃げたのだった。自分は違うと豪語していたペテロは、呪いを
かけて誓ってまで、主を否んだ。

ペテロは自分の弱さを知らず、本当の姿が見えていなかった。同様
に私たちも、ペテロの姿は見ることができるが、自分の本当の姿は
見えていないかもしれない。主はペテロを取り扱われた。ペテロを
「岩」とされる過程だ。将来の諸教会のリーダーとして、見据えて
おられた。苦しい試みの中で、「信仰がなくならないように、あな
たのために祈りました」との主の執り成しがあり、ペテロは主によ
り守られた。

私たちも、主から取り扱いを受ける。試練は苦しく、厳しいが、そ
の中で自らの弱さを知る。順境の中では決して知る事のない弱さ
だ。
自分で主に従えない事を知り、砕かれ、そして主に自分を委ね、主
に拠り頼む者とされる。変えられて行く。その中も、主の愛は決し
て変わらず、手厚いケアがあり、そこで新たに主を知って行く。信
仰が培われ、成長して行ける。
--------
思っているような自分ではなかったと、様々な経験を通して認めさ
せられる。そして主はこんな自分のために祈っていてくださる。取
り扱いは恵みだ。いつも主のご臨在を覚えて生きる者にされる。


2021年10月27日(水)

「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照 らされます」詩篇18:28



ある人が、職場の上司の事で悩んでいた。ワンマンで、すぐ大声で
怒鳴る。仕事量は多く、余りのストレスに倒れそうだった。いつし
かイライラが怒りとなり、不満が爆発しそうだ。祈れなくなり、御
言葉も入らず、平安が全く無かった。どうにもならず、悶々状態
で、主に助けを求めた。

心の内を打ち明け、祈っていると、「他人をさばくことによって、
自分自身を罪に定めている」との御言葉が臨んで来た。「え!」と
驚き、戸惑った。自分は正しく、悪いのは上司、性格の悪い上司の
問題としか見えない。だが御霊に心の内を照らされた。ずっと上司
を裁いている自分に気づかされた。

自分の姿など考えた事も無かった。裁くから辛いのだと語られた。
その罪を認め、悔い改めた。その時、心がすっきりして、平安が戻
った。重苦しかった心が平安にされ、それは何ものにも代えられな
い喜びだった。そして主と共に、上司にも仕事にも対応出来るよう
にされた。

叉、ある人も、トゲのあるキツい物言いや態度の相手がいて、傷つ
いて嫌な思いをしていた。祈っていると「父よ。彼らをお赦しくだ
さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」に、そ
うだ、相手は、わからないのだからと思った。そして更に主と交わ
っていると、これは相手の事でなく、自分の事だとわかった。

嫌な相手を内心裁き、ひどく憎み、嫌悪していた。だから自分が苦
しかったのだと。自分と主との関係がすべてだと学ばされた。そこ
から平安が来る。
--------
信仰生活、罪がわかるだけに口に出さなくても、自分は正しいに立
ってしまいがちだ。気づくと心の中で裁いている。平安がないのは
は私の心のやみではないのか。気づかされ一つ一つ悔い改めたい。


2021年10月26日(火)

「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが 彼を永久に取り戻すためであったのでしょう」ピレモン15  



 
ピレモン書を通して、神の摂理、ご計画、神視点で見ることを学
ばされる。奴隷であるオネシモが、主人ピレモンの家で盗みを働
き、逃亡した。奴隷が主人の物を盗み、逃亡するとは重罪だ。大
都会に紛れ込もうとしたのか、ローマへ向かった。当時ローマで
は、逃亡奴隷の処刑も認められていた。だがオネシモは、逃亡先
のローマで、パウロに出会う事となった。

そしてパウロに導かれて回心し、主を信じるクリスチャンになっ
た。パウロはそんなオネシモを、逃亡奴隷としてでなく、愛する
兄弟として受け入れて欲しいと、主人ピレモンにお願いする。
自分を迎えるように、迎えてやって欲しいと。ピレモンへの損害
は、すべて代わりに負うからと。パウロのオネシモに対する溢れ
るばかりの愛だ。

これはまさしく、主が私たちにして下さった事だ。そして、この
事は神視点で見る時、全く別の見方となる、オネシモが逃亡した
事により、ローマへ行く事になった。罪を犯しての逃亡という否
定的でしかない出来事が、主は万事益と変えられる。そのローマ
でパウロに会い、救いを受けた。神視点で見る時、オネシモが、
一時、主人のもとを離れたのは、永久に主人のもとにいるためだ
ったと。

主を通して見る時に、別の見方となる。今、目の前には、どう見
ても否定的で、害でしかない出来事があるだろうか。主に従って
行く時に、それをも万事益とされ、その時に違う見方ができるよ
うにされる。
--------
最悪、最低な失敗としか思えなくてもそれが新たな展開の始まり
だったという感謝な経験を何度もする。今しか見えていない事が
感謝だ。信仰によって主の最善をいつも待ち望める。


2021年10月25日(月)

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわた しを捜しているのは、しるしを見たからでなく、パンを食べて満腹 したからです」ヨハネ6:26



「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわた
しを捜しているのは、しるしを見たからでなく、パンを食べて満腹
したからです」ヨハネ6:26

主は5千人の給食の奇跡をされた。それを見た群衆は、主を王にか
つぎ上げようとした。主は、人々が、無理やりに、王とするために
連れて行こうとしているのを知って、一人で山に退かれた。そして
弟子たちを無理やり舟に乗せ、向こう岸へ行かせられた。大勢の群
衆が主を信じると言い、主の後を追いかけ回しているのは、主ご自
身を求めてではないと言われた。

主のみわざにより、そこに霊的な恵みを見て、この方こそまことの
神、主キリストと信じて、ついて来たのでない。パンがもらえるか
らであり、そして更なるパンで満たされたいがためだと。満腹と
は、
自分の欲望が満たされる事であり、自分の満足、自己実現だ。肉の
満足、世の楽しみが欲しいばかりで、そこに主が生ける神である事
や、永遠の恵みを見る事はない。

主は、求めよと言われる。そして祈りに答え、必要を満たして下さ
る。しかし気をつけていないと、私たちの祈りは、ひたすら自分の
欲望満足だけに向かう。主を求めるのも、そのための手段となって
しまう。そしてそうなら、欲望が叶えられず、思い通りにならない
なら、遅かれ早かれ主のもとを離れ去る。

主は、そんな私たちをあわれみ、時に、思い通りでない状況を与
え、
別の答えを与えられる。よく考えさせるためであり、動機を探ら
せ、
省みさせて下さるためだ。心を探り、取り扱い、成長へと導いて下
さる。何のために、主に従っているのだろう。御霊により心探って
頂こう。主が御心へと正しく導いて下さる。
----------
祈りが叶えられたら満足し、叶えられなければ他の方法で欲しいも
のを得ているのではないだろうか。主を求める姿勢を探られる。主
の霊的な恵みを目指していたい。


2021年10月22日(金)

「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって 生ける神から離れる者がないように気をつけなさい」ヘブル3:12




その前の箇所で、「今日、御声を聞くなら、心を頑なにしてはなら
ない」と言っている。聞いた御言葉に従う事が大切だと。御言葉に
従わないなら、主から離れてしまう。「今日」が強調されている。
不信仰のため、荒野で滅んでしまった民のようにならないために、
後日ではなく、「今日」すぐに従うようにと。「今日」は非常に大
切だ。

悔い改めなら、明日に延ばさず、今日悔い改めるべきだ。ぐずぐ
ず、
なおざりにしていると、必ず悔い改められなくなる。叉、謝罪を示
されたなら、すぐに今日従わなければ、ぐずぐず延ばすと必ず出来
なくなってしまう。叉、信仰の前進を、新しい決心を示されたな
ら、
今日従おう。悪魔は、ずるずる引き延ばすよう誘惑して来る。悪魔
の策略だ。

時間を経ると、段々気持ちが萎えて、冷めて、失せてくる。その内
に思いが消えてしまう。アブラハムにイサクを全焼のいけにえとし
て献げるようにとの、最大の厳しい試練が臨んだ時、アブラハムは
「翌朝早く」出かけた。すぐに従ったのであった。ある人が、なす
べき事を御霊にはっきりと示された。しかしぐずぐずしていた。尚
も促されたが、煮え切らず心を定める事をせず、従わなかった。

するとある時から、その気持ちが無くなってしまった。主の大きな
あわれみにより、その後、かなり経て再度御霊の示しが来た時に、
すぐに従った。結果、大きな喜びと祝福に心から感謝した。祝福の
機会を逃してしまう。悪魔の妨害も踏まえ、従順に従えるよう、祈
ろう。
----------
今日は都合が悪いから明日と、先に延ばしてしまい、そのうちにち
ょうど良い言い訳がサタンからくるという失敗がある。今日という
事が大切だと思わされる。主の示しにすぐに応答しよう。


2021年10月21日(木)

「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手 に渡した」ヨシュア6:2


新しい指導者ヨシュアと民は、主の奇跡により、ヨルダン川を渡
り、
約束の地に入った。するとそこにはエリコの城壁がそびえていた。
難攻不落の城壁が、目の前に立ちふさがった。どうすれば良いの
か。
そんな時、抜き身の剣を持った人物が、ヨシュアの前に立った。敵
地で剣を持つなら、敵と思うが、ヨシュアは思わず「あなたは味方
なのか、敵なのか」と聞いた。

だがその人物は、「いや、私は主の軍の将として、今、来た」と答
えた。味方でなく敵でもなく、軍の将なら、リーダーだ。つまりリ
ーダーは主ご自身であり、主が戦いの主導権を握るのだと。私たち
も、もし主が「行なえ」と言われたなら、それは主が戦われるとい
う事だ。なすべき事は主に信頼し、主に従う事だ。そして「あなた
の足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所」だと
言われた。

はきものとは、自分の思い、考え、経験値、常識だ。それらを捨て
て、主に従うことだと。将はヨシュアでなく、主であり、主が導か
れる主の戦いだ。主は、奇抜な不思議な方法を命じられた。理解不
能な方法だが、ヨシュアたちはそれに従った。民は6日間、毎日町
の周囲を回った。民は、「なんでこんな事を?」と思った事だろ
う。

しかし、理解できないが、言われた通りに従い、7日目に7回周
り、
時の声を上げた時に、城壁は「崩れ落ちた」。主が成し遂げられた
のだが、民も従順に従った。ヘブル書では、「信仰によって」城壁
は崩れ落ちたと言っている。信仰による従順だった。6日間、全く
何も起きなかったが、7日目に奇跡が起きた。なかなか目に見えず
とも、主の御心に従い続けよう。今は、勝利の一歩手前かも知れな

----------
戦いの主導権はいつも主であると、へりくだって主の配下にいよ
う。
何も見えない限界であっても、その中で謙遜を学べる。主は勝利を
渡したと宣言されている。


2021年10月20日(水)

「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくし てください」詩篇51:10



ダビデは、バテシバと姦淫を犯してしまった。悪魔の誘惑を受けや
すい状況にいた。家来たち全軍が、命がけで戦いに出ていた時に、
「夕暮れ、床から起き上がり」と、ダビデは夕に起き出すような怠
惰な生活をしていた。その時、水浴びをするバテシバを見て、誘惑
に負けてしまい、召し入れ罪を犯してしまった。その後、夫のウリ
ヤを戦死に見せかけ殺害した。

ダビデはその罪を隠ぺいする。ウリヤの喪が明けると、バテシバを
自分の家に迎え入れた。戦死兵の妻を迎え入れ、周囲の目には、良
い王と見えただろう。トップであり、人は思いのままに動かせ、何
でも思い通りに出来た。しかし主の目には裸だった。そしてダビデ
はこの罪を隠していた間は、非常な苦悶の中にいた。「黙っていた
時には、一日中うめき、骨々は疲れ果てた。

御手が昼も夜も重くのしかかり、骨髄は夏の日照りで乾ききった
と。
主は、ダビデに預言者ナタンを遣わされた。ナタンは例え話によっ
て、ダビデの隠された罪に迫った。ダビデはその例え話の、貧しい
人の大切なものを奪った男に「その男は死刑だ」と激怒した。ダビ
デの内にあった同じ罪であり、無意識にも強く反応した。そしてナ
タンは真っ直ぐにダビデの罪を指摘した。

するとダビデは「私は主に対して罪を犯した」と罪を認め告白し
た。
その瞬間「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さった」と。ウリ
ヤを殺害したダビデだ。ナタンをも殺害してもおかしくない。叉、
王の立場であり。部下の手前もあり、悔い改めはなかなか出来ない
事だ。しかしダビデはへりくだって、悔い改めた。ダビデの信仰だ
った。

主の大きな愛の中で、赦され、建て直されて用いられて行った。重
大な失敗をしてしまうが、それで人生終わったのではない。悔い改
めるなら、尚も主は赦し、やり直させて下さる。
---------------
主に赦されない限りいつまでも罪は目の前にある。悔い改めの思い
を与えてくれるのも主の恵み、主からのものだ。主のご愛に応えて
いこう。主は豊かに赦してくださる。


2021年10月19日(火)

「神のことばは生きていて、力があり・・」ヘブル4:12




大震災に会った牧師が、会堂も住居も津波で流された。感謝な事
に、
自分も家族も命は助かり、守られた。だが、あっという間の出来事
で、何一つ持ち出せなかった。特に自分には、非常に大切な聖書関
係資料や学びの資料、注解書や信仰書が何もかも流されてしまっ
た。
すべてを失ったが、命は守られた。

避難所に身を寄せて呆然状態で、何をどうして良いかもわからず、
今後の事、失ったもの、とにかく避け所である主を求めて一心に祈
った。その時に御言葉が光のように臨んだ。「主は与え、主は取ら
れる。主の御名はほむべきかな」。その瞬間、不思議だったが、心
がすうっーと平安になった。主に包み込まれるようだった。御言
葉の力を経験した。

「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろ
う」、
心はアーメンであり、すべてを失ったが、主がおられ、主がこの状
況を、今後の事をすべて導いて下さると信じる事が出来た。主の力
は、御言葉にある。私たちは御言葉を聞く事により力を受ける。主
の言葉は不変であり、不滅だ。そして主の言葉を素直に受け入れる
なら「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができま
す」。

御言葉により、指針を受け、慰めや励ましを受け、進路を示され、
様々な状況の中で、救いを得る。叉、御言葉は鏡でもあり、私たち
自身の心の内側を、動機を照らし出してくれ、矯正し、御心へと導
いてくれる。神の言葉はまさに生きている。
------------
主との関わりは個人的なものだ。自分だけにしかわからない生きて
心を耕す、心からアーメンと言える御言葉を折にかなってくださ
る。
真実にたましいが救われる。


2021年10月18日(月)

「わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パ ロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし・・」 出エジプト14:4



私たちは、時に、理解不能な事態にでくわす。パロが支配のエジプ
トを脱出成功した民に、何と引き返せと主の命令。少しでもエジプ
トから距離を置き、先に進まねばならないのに。なぜ?パロは民が
道に迷ったと思い、すぐに追って来るので、そこで「わたしは栄光
を現わす」と。民は言われる通り従った。するとパロ自身が先頭に
立ち、最強精鋭部隊と全戦車で追跡して来た。

追っ手はどんどん背後に迫り、従った民だったが、目に見える状況
を見るや一変した。臆する事なく出て行った民が、恐怖におのの
く。
恐れと不安、そして怒りがモーセに向かう。しかしモーセは民に向
かわず、主に向かい、祈る。そして言った。「恐れるな」「しっか
り立て」「主の救いを見よ」どんな困難も恐れるな。自分で動か
ず、
又、逃げず、しっかり立て。主が成し遂げられると。

そして前は紅海、背後は追っ手が迫る絶体絶命の中、何と目の前の
海の中に道ができた。私たちにも、道無きところに道を造られる。
民が渡りきった後、追いかけたパロと全軍隊は滅ぼされた。結局
は、
言われた通り引き返す事により、パロに追跡を仕向け、イスラエル
を救い、パロとエジプト軍を滅ぼす事となった。

私たちに、時に理解しがたい事態が起きる。「なぜ?こんな事
が?」
と、混乱する。しかし、主の栄光のためであり、必ず良い事として
下さる。信じよう。「恐れるな」、まず動かず、祈ろう。主の示し
を待とう。その時、主が動かれるので、「前進せよ」と示されたな
ら、従おう。
------------
落ち着いている場合かと、思いは逸るが主だけが今の確かな状況を
ご存じだ。主に祈り、主に聞き、確かな導きへと歩を進めよう。
解決を主に委ね、栄光を拝そう。


2021年10月17日(日)

「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩い た」使徒8:4



エルサレム教会に激しい迫害が起きた。それでユダヤやサマリヤ地
方に信徒たちは散った。サウロは神のためと信じ、熱心にクリスチ
ャンを捕らえ、投獄していた。そしてステパノを殺す事に賛成して
いた。ステパノの聖霊に満ちた力ある証しを目の前にし、サウロは
更に憎悪と敵対心に燃えた。

イエスを神とし、救い主とするクリスチャンは絶対に許せない存在
だった。怒りと敵意、憎しみは増幅し、殺害の意を固くした。ステ
パノの厳粛な殉教により、更に迫害は激しさを増し、荒れ狂った。
サウロは、教会を次々と荒らし、家々に入っては、容赦なく人々を
引きずり出し、投獄した。そのため信徒たちは、四方に追われ、散
らされて行った。

皆が、散りじりバラバラになってしまった。ではこの厳しい苦難で、
信徒たちは失望落胆、意気消沈して、教会は壊滅して行ったのか。
そうではなかった。あちこちに散らされた信徒たちは、「みことば
を宣べながら、巡り歩いた」。主も「彼らがこの町であなたがたを
迫害するなら、次の町に逃れなさい」と。結果的に、迫害による離
散によって、返って福音が拡大する事になってしまった。

信仰の火が消えるどころか、ますます燃え上がり、福音が四方八方
に拡がって行った。私たちも「なぜこんな事が」「なぜ突然こんな
苦しみが?私に?」と負の事態が起きる。しかし一見、マイナスの
その事が、思いを越えた大きな祝福へと結実して行く。信仰が強く
堅くされ、成長へと導かれる。

・・・・・・・・・・・・
激しい迫害という一見、苦しみである負の出来事が、結果的には福
音がどんどん拡大するという大きな祝福とされて行った。私たちに
も痛い事、辛い事が起きるが、主により必ず祝福へと導かれる事が
見せられる。主に在って、何があっても光があり、希望がある。


2021年10月16日(土)

「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに 刈り取ります」Uコリント9:5


神の価値観は、この世の価値観と全く違う。例えば、経済的に苦し
くなった時はどうだろう。世の価値観では、当然収入を増やし、支
出を抑える。財布のひもを締める。しかし主は正反対だ。そんな時
には「与えよ」と。そうすれば与えられると。

ある宣教師が、ある時母国のサポートが少なかった。家賃や高熱費
等、通常の支払いをすると手元に残らない。とにかく必要が与えら
れるよう祈りに祈って、可能な限りの節約をした。そんな時、予定
していた支出分が浮いて、これは主の答えと感謝し喜んだ。ところ
がその分が、想定外の病院通いで、すべて無くなった。

どうした事か。与えて下さったのでは無かったのか。これは一体ど
ういう事かと、主の御前に御心を尋ね、祈った。すると、主は更に
献げよとの、御心を示された。「与えよ。そうすれば自分も与えら
れる」と。しかしもう手元には僅かしか無い。生活も難しいほどだ。
しかしどれだけ祈っても、主は献げよと言われる。そこで決心した。

主の御心に従おうと。主の示し通りに、持てるものを献げた。信仰
によって献げ、あとは主に身を委ねた。すると不思議が起きた。メ
ッセージに招かれた特別な集いで、自分たちへの愛の献金が献げら
れた。何と支払い含め、生活の必要のすべてがことごとく満たされ
た。

「神は、あなたがたを、常にすべての事に満ち足りて、すべての良
いわざに溢れる者とするために、あらゆる恵みを溢れるばかりに与
える事のできる方」を知らされた。

・・・・・・・・・・・・・・
経済的な事は、御言葉とこの世の価値観がもろに相反する。貯える
と増え、出すと減るのが常識だ。だが御言葉は献げると増え、取り
込むと失うと。ばらまいて富む人があり、正当な支払いを惜しんで、
乏しくなる者があると。この事で喜びを経験して行けますように


2021年10月15日(金)

「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい」マタイ5:37



ある人が職場で退社後に、しょっ中、独身仲間内の飲み会があった。
皆は飲みたくて集まるのだが、自分はお酒は飲まないし、時間も大
事な他の事に使いたかった。だが仕方なく付き合っていた。結局は、
飲むのが好きな人たちが、好きでやっている事だった。続くと身体
は疲れるし、時間も取られて何も出来ない。段々苦痛になって来た。

心身辛くなって来て、平安も全く無く、主の御前に祈った。祈って
いると、自分がズルズルと参加したくないのに、中途半端に付き合
っている事、きちんと断らない事が問題なのだと示された。よく祈
って断った。するとすんなり受け入れられ、別に関係がどうのとい
う事も全く無かった。帰宅後の時間が、聖書を読むこと、祈ること、
主のために用いる事、叉、休息を取ることができて、充実し、平安
が戻った。

「ノー」が言えないと、我慢して嫌々する事になる。嫌々なので段
々重荷になって、喜びと平安も失せてしまう。秩序も無く、生活全
般がギクシャクする。ある人は、隣人が家にひんぱんに来る事を断
れないでいた。こちらの事情もあり、するべき事も多々あり、困惑
した。しかし嫌われたくないので、「ノー」が言えない。すると段
々相手が苦痛になり、心は辛くなり、いつしか恨みになって行った。

原因は「ノー」が言えない事だった。「あなたがたは、『はい』は
『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい」とあるが、
「いいえ」は、「いいえ」と言う事により、恨みや憎しみから守ら
れることになる。「ノー」を言えないところから、混乱が生じ、平
安を失っているだろうか。適切な「ノー」は秩序と平安を生み出す。
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少し無理をしたら出来るからと、ノーを避けてイエスと言ってしま
う。苦い失敗から学びたい。日頃からよく祈り、誠実にノーを言え
るようになろう。


2021年10月14日(木)

「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の 父の家にいることを、ご存じなかったのですか」ルカ2:49




主が12歳の時に、ヨセフとマリヤは過越の祭りのために、エルサレ
ムに上った。そして帰路に着くが、主はまだとどまっておられた。
1日歩いた後、我が子が見当たらない事に気づき、心配と不安の夜
を過ごし、翌日都に引き返した。都に着き、3日目に都中を探し回
り、やっと宮で見つけた。教師たちの真中で、話を聞き質問してい
た。人々はその知恵と答えに驚いた。

両親は驚き、心配し捜し回った事を告げた。すると主は、「わたし
が必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのですか。」と答
えた。主は肉の父ヨセフと、霊の父がいる事を明かされた。ヨセフ
とマリヤは御使いからの託宣、数々の預言、奇跡による誕生等を通
して、イエスが神の子であることを理解していた。しかし、いつし
か肉親、我が子になっていた。

主は両親に、自分は神から来て、メシヤとして遣わされた事を思い
起こさせようとされた。その時、両親には意味がわからなかった
が、
マリヤは心にしっかり留めていた。そして主は一緒に帰り、両親に
仕えられた。主は神の子であるとの自覚の後、仕えるために帰られ
た。真の信仰とは、人に仕える事となって現れる。仕えるとは、へ
りくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思うことだ。

へりくだらなければ、仕えることはできない。又。主は「必ず自分
の父の家にいる」と言われた。両親は主がいる所を、違った場所に
探して、見つける事ができなかった。私たちも主にとどまる事が大
切だ。今、居場所はどうだろう。主の愛の中にとどまっていよう。
--------------
自分の狭い考えで、主を推し測ったり、様々に流されてしまい主を
見失わないよう、間違いなく主に結びついていたい。いつも主に聞
きながら歩みたい。主は答えてくださる。


2021年10月13日(水)

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」ピリピ2;4



ある働き人が、若い神学生時代に、友人の学生たちとの間で議論が
持ち上がり、それがどんどん高じて言い争いになってしまった。何
だか空気悪く、ぎくしゃくして終わった。その後、何となく口もき
かない状態になっていた。皆が、それぞれ自分は正しいと思ってい
る。自分も自身の考えが真っ向から否定され、腹が立って仕方がな
い。

いら立ちや何だか赦せない思いが出て来る。悶々となるが、自分は
間違っていないと思うし、自分は正しいと思っている。相手が間違
っていて、自分は傷つけられた。その思いで一杯で、怒りが収まら
なかった。そんな中、メッセージ当番が回って来た。こんな苦々し
い思いの状態で、メッセージの準備など出来るはずもない。

しかしながら腹が立って、赦せない。段々、せっぱ詰まってきて、
悶々だ。とうとうどうしようもなく、祈ろうと主の御前に出た。
ハンナのごとく、嫌な思い、いら立ち、敵対心・・ことごとくあり
のまま告げた。心を吐き出し、じっと主の御前にいた。長い時間が
過ぎたが、その時に、主の十字架が自分の前に、くっきりと浮かん
だ。罪の無いお方が、黙って罪を負っておられる。

自分は、相手の事など全く無く、愛も何も無いではないか。主も、
御言葉も吹っ飛んで、ただただ「自分」「自分」。自己主張、自己
憐憫、自己正当化、自分の気持ち。自分しか無い。十字架の主を見
つつ、涙が溢れ、心から悔い改めた。「彼らは何をしているのか自
分でわからないのです」まさにそのまま自分であった。

悶々がきれいに消えて平安になった。仲間たちに詫びた。すると相
手も謝ってくれて、和解ができた。何をしているのかわからず、道
をそれる時にも、主は正しく導き返して下さる。悶々状態の時には、
そのままにしていないで、十字架の主のもとへ行こう。
------------
相手にも非があるのに、とそこに留まってしまう者だ。相手のこと
を顧みることなど自分には出来ない。主に行き、主に解決を求めよ
う。主が喜ばれる方へと向かいたい。


2021年10月12日(火)

「人から出るもの、これが、人を汚すのです」マルコ7:20



御言葉は、悪はみな、「内側から出る」と言っている。そして人を
汚すのだと。人の心から出るものは悪い考え、不品行、盗み、殺人、
姦淫、貪欲・・と。不思議な感じがするが、外から入ってくるので
なく、内側から出ると言っている。外側から入って来るものは、人
を汚すことはないと。しかし例えば対人関係で悩みが生じると、ど
うしても相手が悪いと思ってしまう。

相手に原因を探す。相手のせいでこの苦しみが起きているから、相
手次第で、問題は解決するのだと思う。相手が変わる事を願う。し
かし御言葉は、相手の問題でなく、自分の内側から悪が出ていると
言う。御言葉がそう言っている。根深い恨み、裁いて見下す心、憎
しみ、復讐心・・それが自分の罪となり、自分の心から平安を奪っ
ているのだと。

「隣人を愛しなさい」との律法からはずれているから、心が辛く苦
しい事になっている。そういう事になる。しかし、自分の事は見え
ず、相手の問題だとしか見えない。その前の「その心は、わたしか
ら遠く離れている」と言われたパリサイ人と同じになってしまう。
なかなか自分の内側は気づけない。しかし新たにされ、御霊を宿す
私たちに、御霊は絶えず働いておられる。

気づきを与えようとされている。闇を照らす光として。そして主の
十字架の血潮により、邪悪な良心がきよめられている。主から目を
離さず、主に近づいて行く時に、御言葉が心に入り、気づきが与え
られ、そして従う時に平安にされる。どうであれ、従おうとの意志
がある時、御霊は必ず、御心の道へ、平安な道へと導かれる。
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相手のした悪を思っていると裁いている自分を意識せずに済むが、
欺かれないようにしたい。ただただ自分の罪に気づきたい。罪赦さ
れ主にある平安をうけよう。


2021年10月11日(月)

「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです」詩篇39:9



ダビデは、身体的、精神的、対人的な様々な苦しみの中で「なぜ、
どうして、こんな目に会うのか」との思いでいっぱいだった。し
かし、舌で罪を犯してはいけないと、口に口輪をはめた。だが抑
え込んで黙していると、痛みはますます増幅し、激しくなって、
まさに爆発寸前だった。そこで舌で、人にでなく、主に思いを吐
き出した。気持ちの何もかも洗いざらいを、主に告げた。

人生は、どんなにはかなく、虚しいかと。いかに盛んであっても、
全く虚しいものだと。そんな虚しい人生で、何を待ち望み、何を
望めばよいのか。そしてダビデが祈りの中で、見上げた時に、主
を見い出した。「主よ。私は何を待ち望みましょう。私の望み、
それはあなたです」と。そして、ことごとくを祈りに持って行っ
た後、「私は黙し、口を開きません」と言っている。

それはその前の罪を犯すから、口を開かないのでなく、「あなた
がそうなさったからです」と、今度は主への信頼、信仰に立って
いる。すべてに主の主権を認め、主のご計画がある事を認め、そ
れを受け入れている。人からの苦しみも、信仰により、主からの
ものと受け止めている。苦しみの中にも、そこに主を認める時に、
「あなたのむち」「あなたの手に打たれ」と、主を見い出して行
く。

するとそこには意味があり、むちも、打たれる事も、主からのも
のなら、すべて祝福へと導かれて行く。今、起きている事を「あ
なたがそうなさった」と受け止めて行こう。その時、「私の望み、
それはあなたです」と主に向かって行ける。信仰に立って行ける。
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そこに主の御心があると信じるから、あなたを待ち望みますと言
える。原因をさぐり自分を責めて苦しむなら、主の御手の支えを
受けとろう。主は全てを知っておられる。


2021年10月10日(日)

「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、 いつまでもながらえます」Tヨハネ2:17



アブラハムは主から御言葉を受け通り、生まれ故郷、父の家を出て、
主の示す地へと旅立った。甥のロトは祈る事もなく、伯父について
行けば何か良い事があるかとついて行った。アブラハムへの主の溢
れる祝福のゆえに、双方の所有物がどんどん増した。増え過ぎて、
しもべ間で争いが起こり、とうとう同行困難となった。

それで別れる事となり、その際にアブラハムは、まず先にロトに好
む土地を選ばせた。そして残った土地を自分が取った。ロトは祈る
事もなく、伯父に敬意を払い譲る事もなく、見た目で、より良い肥
沃な地を選んだ。しかしそこは、後に滅ぼされるソドムとゴモラで
あった。悪徳の町、不道徳で堕落した地であった。

「ロトはソドムの近くまで天幕を張った」とあり、最初はソドムの
「近く」だった。自分は大丈夫だと思う。近くても、自分さえしっ
かりしていれば大丈夫だと。しかし悪魔の誘惑は強く、次には、ロ
トはソドムの門に座っていた。門に座るのはその町の名士だ。ソド
ムの中に入り込んでしまっていた。

自分は大丈夫との態度は、命取りだ。主に拠り頼まなくてはならな
い。ソドムで、この世の地位と名誉に生きていたロトは、娘婿を滅
びから救い出せず、妻さえも失ってしまった。主を第一に従って行
く事が、アブラハムのごとく豊かな祝福の道だ。

・・・・・・・・・・・・・
主に頼らず、自分の肉の判断は誤ってしまう。「人の目にはまっす
ぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」とあり、方
向違いに向かってしまう。主を仰ぎ、主に尋ねよう。又、自分は大
丈夫が非常に危険であることをロトを通して教えられる。


2021年10月09日(土)

「イエスを売ったユダは・・後悔シし、銀貨三十枚を、祭司長、律法 学者たちに返して『私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりし て』と言った」マタイ27:2



ペテロもユダも、どちらも主を裏切った。大きな罪を犯してしまっ
た。しかもペテロは三度も主を否み、呪いをかけてまで誓った。ど
ちらも裏切ったのが、最後は大きく違った。ペテロは主の赦しを受
け取り、主の愛により回復させられ、主の昇天後、諸教会のリー
ダーとして大活躍した。

片や、ユダは、主を銀貨30枚で祭司長たちに売り、「罪のない人の
血を売った」と激しく後悔し、彼らのもとへ行き、その30枚の銀貨
を返したが、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と
はねつけられ、首をつって死んでしまった。ペテロとユダは何と違
ってしまった事だろう。

ペテロは裏切った時に、主に向き、主の言葉に向いた。その時、主
の言葉に思い当たり、大号泣した。マリヤから主のご遺体が無いと
の知らせに、走って墓まで行った。ガリヤラへ行くようにとの主の
指示に、主に合わせる顔もない中、しかしガリラヤへ行った。

ユダは後悔した時に、主のもとへ行かずに、律法学者のもとへ行っ
た。主を求めず、主に頼らず、自分で決着をつけてしまった。「自
分で始末することだ」これは悪魔の攻撃で誘惑だ。どこまでも主に
頼らせない。私たちにも来る。自分で何とかしなければ・・。失敗し
てしまった時に、自分で、自分の力で・・。

その時、担いきれない重荷に押しつぶされてしまう。絶望感に襲わ
れる。そうでなく「わたしのところに来なさい」と絶えず招いて下
さっている主もとへ、失敗したからこそ行こう。罪の赦しがあり、
回復があり、解決がある。平安へと導かれる。

・・・・・・・・・・
信仰人生で、必ず失敗してしまう。したくはないが、人間なのでミ
スも過失も犯してしまう。その時に「自分で始末することだ」が悪
魔の攻撃で誘惑だ。主のもとへ行かせず、自分で片をつけるように
と。すぐに主のもとへ行こう。赦しと次の導きが与えられる。


2021年10月08日(金)

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」詩編1:2



言葉には大きな力がある事を、良きにつけ悪しきにつけ、経験して
来ただろう。言葉は、両刃の剣であって、人を生かしも殺しもする。
不用意な一言で、長年かけて培われた信頼関係が崩壊してしまった
という話も耳にする。身体の傷は、時間がたてば治るが、言葉で受
けた傷は、心深くに突き刺さり、ずっと残るので、なかなか癒えに
くいと言われる。

又、反対に、言葉で、生き返らされた経験もあるだろう。深い失望
の中で、ある人の言葉で、まさに死の淵からよみがえらされた人も
いる。日常で、一言の親切な言葉、思いやりの言葉、愛情の言葉で、
励まされたり、慰められたり、立ち直れたりしただろう。言葉の影
響力は甚大だ。又、自らの心で、いつもどんな言葉を発しているだ
ろう。

「無理」「できない」「だめだ」「どうせ私は」「いつもこう」悲
観的、否定的言葉を発していると、ネガティブ思考となり、消極的、
不信仰な人生となってしまう。「信じよう」「主にはできる」「主
により必ずできる」「私は弱いが、主が共におられる」信仰的、肯
定的な言葉から信仰的人生となる。言葉は極めて重要だ。普段どん
な言葉を心で発しているだろう。

大人が、外国語を習得するにはどうだろう。多くの時間をかける必
要がある。その外国語を意識して聞き続ける事が不可欠だ。それな
ら、命の御言葉が心に培われるために、御言葉を反すうし、思い、
何度も口ずさむ事はどんなに大切だろう。自らの心の内の言葉を点
検してみよう。そして御言葉を受け止め、御言葉を信じ、行なう事
に意識を向けて行こう。
----------------
何か事がおこると、心は主に向いていても反射的に否定的な言葉が
出てしまう。言葉は自分の選択だ。主の言葉を蓄え豊に養われて生
きよう。信仰を言葉で表していきたい。


2021年10月07日(木)

「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け」ヨシュア1:2



出エジプト後、40年間、荒野を旅をした民は、ついに約束の地を目
前にする所まで到達した。モーセ死後、主は、ヨシュアを立てられ
た。そして「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン
川を渡り、わたしが・・与えようとしている地に行け」と命じられ
た。「あなたがたが足の裏で踏む所は・・モーセに約束したとおり、
あなたがたに与えている」と。

主は、その地を民にすでに与えていると約束されたが、実際に自分
のものとするには、「足の裏で踏む」つまり具体的な行動が必要だ
った。民は、その土地を、戦い、勝ち取って行かねばならなかった。
ただ待つだけで、祈っているだけで、もし具体的行動が無ければ、
それを所有する事は出来ない。

実際に入って行き、足の裏で踏む必要があった。これこそが「信仰」
であった。私たちの信仰生活も同様だ。主は、私たちに約束を与え
て下さる。それを現実に所有するには、約束の言葉を受け取り、主
を信じ、行動しなくてはならない。その時、約束を現実に手に入れ
る事になる。

約束は与えられているのに、この実行に欠けるため、多くのものを、
まだ所有していないだろうか。あなたも、主が下さる地に「今、立
って、行け」と言われているだろうか。祈りの座から立ち上がって、
実際に行動を起こせと。そうであれば信仰もって踏み出そう。主の
約束が現実のものとされ、手にする。
-------------
出来るかと自分の内ばかり見ているだろうか。主が前進せよと言わ
れるなら、出来るようにしてくださいと祈ろう。主の約束を手に示
しに従おう。


2021年10月06日(水)

「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑されたと言ってはいけません・・人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」ヤコブ1:13


悪魔の誘惑の目的は、とにかく主から離すことだ。どんな形であっ
ても、主から離しさえすれば成功だ。正反対の事をまことしやかに
ささやく。エデンで、主は、善悪の知識の木の実から食べると「必
ず死ぬ」と。だが、悪魔はエバに堂々と「決して死にません」と言
い放った。

エバにはその前段階からの誘惑があり、少しづつ〃巧妙狡猾に、弱
さの核心へと、欲のある所へと誘って行く。主の御心からそらせよ
うとする。「楽な道があるよ」「そんな面倒な事をしなくてもよい」
「時間も労力も取られるよ」と、「神の国とその義とをまず第一に」
の正反対である、まず「自分を第一」に、〃と誘惑して来る。主の
御心でなく、自分の思いと自分のプランを第一にと。

しかし、主は、立ち向かえと言われる。悪魔に、「ノー」と言えば
よいと。私たちが拒絶する限り、悪魔はどうも出来ない。悪魔の誘
惑を受け入れ、同意する時にだけ、悪魔は自在に働ける。同意しな
いなら、悪魔にはすべがない。まず悪魔に気づかせない事が、悪魔
の常套手段だ。釣り針に餌がついてるが、それが私たちの欲に合致
する餌だ。

「プライド」「虚栄心」「物質欲」「地位名誉欲」「自己顕示欲」
・・自らの欲と合致しているので、なかなか悪魔だと気づけない。
餌に食いつき、同意する時に、心の中で妊娠させてしまい、罪を生
んでしまう。絶えず主を仰いで、悪魔に「ノー」を言おう。そのた
めに悪魔の識別を日々祈っていよう。
------------
何かに夢中になり、気づくと御言葉の恵みや、祈りから遠く離され
る。気づけないからこそ、絶えず目を覚まし主に頼ろう。朝から来
ているサタンに警戒しよう。


2021年10月05日(火)

「彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする」イザヤ30:2



強大なアッシリヤが、北王国を滅ぼし、ユダにまで攻め下り、エル
サレムを包囲しようとしていた。この緊急非常事態にどうすればよ
いのか。パニックだ。様々な「はかりごとを巡らし」、「わたしに
よらず」エジプトに助けを求めようとした。真っ先に主に求めるの
でなく、目に見える所で画策し、肉の思いと知恵で動いて行った。

それでエジプトと同盟を結ぼうとする。しかし神無しのはかりごと
であった。それは「罪に罪を増し加えるばかりだ」と。そしてその
行為を「反逆」だと言われている。「わたしの言うことをないがし
ろにし、聞こうとしない」と。私たちにも、突然アッシリヤの脅威
が迫り来るかも知れない。それは突然の経済的苦境、仕事上の問題、
対人関係の悩み、病気やけがかも知れない。

その際、主の指示を仰ごうとせず、自らの知恵、判断で、動き回る
なら、それは小さな事ではないと。突如、目の前に問題が来ると、
とにかく何とかしなければと、焦り、自分の力と思いで動いてしま
う。どうすれば良いのだろうか。「立ち返って静かにすれば、救わ
れ、落ち着いて信頼すれば、力を得る」と。

まずは静かにせよ。静まれと言われる。動くなと。動かずに、まず
祈り、主を信頼せよ。そうすれば救われると。ご自身に信頼して欲
しいと願っておられる。今、自分のプランで、思いで動こうとして
いるだろうか。しばし立ち止まって、まず主を仰ごう。
----------
騒ぎやすい心を落ちつかせるためには、静まり祈る他はない。主は
あわれもうと、恵もうと待っておられる。主を仰ごう。主の許し無
しには何事も起こらない。


2021年10月04日(月)

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」マタイ26:38



ペテロは、弟子たち皆が主を裏切っても、自分だけは決して裏切ら
ないと豪語した。「私は」どこまでもついて行く。「私は」あなた
を知らないなどと決して言わない。「私は」何があっても大丈夫。
ペテロは自分に自信があり、自信満々であった。「自分は」他の弟
子たちとは違う、そこに高慢が潜んでいた。

「シモン眠っているのか、まだ眠っているのか」との主の言葉の通
り、ゲッセマネで、主が祈りの大変な苦闘にある中、眠り込んでい
た。主は、ご自分の姿をありのまま弟子たちにさらけ出された。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と、ここを離れないで目
をさましているようにと、弟子たちが一緒に祈る事を願われた。

ご自分の弱さを認められ、御父に拠りすがり、祈りに持って行かれ
た。弱さを認めた祈りの苦闘の中で勝利され、「立ちなさい。さあ
行くのです」と立ち上がられた。十字架に向かって真っ直ぐに歩み
出された。主とペテロの違いは、ペテロは自分の弱さを知らなかっ
た。弱いからこそ祈るのだが、弱さの自覚がないため、祈りが無か
った。

主は弱さを自覚され、切に御父に拠り頼み、祈られた。眠気が問題
なのでなく、自らの弱さを知らない事が問題であり、致命傷だった。
誰しも自分の弱さは認めたくないものだ。しかし、弱いからこそ祈
ることができ、頼ることができる。そしてその祈りは豊かに答えら
れる。
--------------
失敗を通して、何度も無力を知らされる。主を頼らざるを得ないよ
うにされるのは感謝だ。無限の主の恵みの賜物を味わえる。今週も
主に頼り歩もう。


2021年10月03日(日)

「ペテロは言った『たとい、ごいっしょに死ななければならないと しても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません』弟子 たちはみなそう言った」マタイ26:35



ペテロは、主が捕らえられた時に、主を裏切ってしまった。以前に
主から、鶏が二度鳴く前に、三度主を知らないと言うと言われてい
た。鶏の鳴き声を聞いた時、その言葉に思い至り、主を否んだ罪を
自覚した。心底悔いて、男泣きに大泣きした。私たちは失敗してし
まう。人間の弱さのゆえに、どうしても失敗する。失敗しない人は、
一人もいない。

しかしそこで、罪を認め、悔い改めるなら、大きく成長して行く。
それで人生が終わったのではない。主のあわれみは尽きず、主は豊
かに赦し、尚も、その事をも益として下さる。失敗を通して、私た
ちはへりくだらせられる。へりくだらざるを得ない。高ぶっている
事ができない。自らの愚かさが恥ずかしく、ただただへりくだるの
みだ。

ペテロは自分の弱さを知らなかった。主に、命をかけて従って行け
ると自信満々だった。そう思っていた。そのところを、主は取り扱
われた。ペテロの自分の思いであり、自分の力だった。ペテロはそ
こを砕かれた。自信は砕け散った。そして砕かれたペテロが、その
先で素晴らしく用いられた。

ペテロは聖霊に満たされて、今度は自分の力でなく、聖霊の力によ
って、主の大きな働きを成し遂げて行った。ペテロは全く変えられ
た。私たちも失敗する。しかしそこで悔い改めるなら、その失敗は
私たちを謙遜にする。失敗が問題なのでなく、その後、どのように
生きて行くかが問題だ。主は罪赦し、再び立ち直らせて、立ち上が
らせて下さる。赦されて赦されて、失敗から学んで行く。

・・・・・・・・・・・
どうしても失敗してしまうが、悔い改めにより、主は赦して下さり、
赦し続けて下さる。その赦しを受け取る事により、主の愛に触れ、
更に主の愛を知って行く。そして自分の力でなく、主に拠り頼む事
を身を持って学ばされて行く。何というあわれみだろう。


2021年10月02日(土)

「『わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも 近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう』と主は仰せられ る」イザヤ57:19



ある夫妻に、次々と厳しい試練が臨んだ。仕事上の失敗、経済的困
窮、対人関係の悩み、家族の病まで加わり、心は折れてしまいそう
で、不安と思い煩いでいっぱいだった。更に対人関係で、赦せない
思い、恨み、憎しみにもさいなまれる。経済的にもひっ迫で、もう
おかしくなりそうな状態だった。解決の糸口も見えず、心は真っ暗
で、重荷に押しつぶされそうだった。

その時に、離れていた教会を思い出し、夫婦で足を運んだ。少しで
も指針、支え、助けが欲しかった。必死な思いで、求めて出た礼拝
だった。会堂に入り、座った時に何か暖かいものを感じ、不思議な
安らぎを感じた。カラカラの心に、乾ききったスポンジのように、
賛美が心にしみ入り、み言葉が心にビンビン響いて来た。夫婦共に、
何かが変えられた。確かに主に触れた。

牧師を通して、祈るように導かれ、問題を具体的に指針を求めて祈
って行った。あれほど不安と恐れに、つぶされそうな心が、落ち着
きと平安に変えられた。主が必ず導いて下さると穏やかに信じれた。
一つ一つ祈り、主の示されるままに従って行った時に、経済的必要
が与えられ、仕事上の良い解決策が見つかった。

対人関係のもつれは、へりくだりを示され、従って行った時に、驚
くべき和解が与えられた。まさにくちびるに、新しい言葉が与えら
れた。この試練は、主のもとへ立ち返らせるための、主の愛だと心
から感謝した。

・・・・・・・・・・・
主に、立ち返らせて下さるために、様々な苦しみが与えられる。又、
心が別の方を向いている時に、主に向き合わせて下さる。主に行き
当たりばったりは無く、ご計画と意図を持って送られている。「私
はそれであなたのおきてを学びました」と言えるようにされる。


2021年10月01日(金)

「みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです」ヘブル4:2



私たちは、「神を信じている」と口では言い、そう思っているつも
りなのだが、どうだろう。例えば「あなたは高価で尊い、あなたを
愛している」と言われ、「あなたは高価だ」「価値がある」と言わ
れても、素直に受け取ることができないのが本音だろうか。「信じ
きれたらどんなに良いだろう」「そうは言われても」「他の人には
そうだろうけれど、とても自分が高価だとは思えない」。

そのため心満たされず、心寂しく、喜びが無い。叉、「栄光の富を
もって、あなたの必要をすべて満たす」と言われても、「現実的に
どこから来る?」「無理としか思えない」「どう考えても不可能に
思える」、そのため不安と恐れと思い煩いでいっぱいだ。なぜ、聞
いたみことばが信じられないのだろう。

それは、みことばを聞いても、心にしっかり自分の肉の思いがあり、
自分の方法があるからだ。今まで根深く培われた自分の価値観があ
り、自分のやり方があって、常にそっちの方を選択してしまってい
る。そのため実は、主が語って下さるみことばを受け入れず、退け
てしまっている。みことばが、信仰によって結びつけられていない
からだと。

聞いたみことばを否定したり、スルーしてしまう、肉の思いに従っ
ていないだろうか。みことばを聞いているつもりなのだが、実は捨
ててしまっている。それに気つかないでいる。その結果、みことば
を聞いているのに、自分は全く変わらない事になる。みことばを聞
く時に、同時にサタンが働き、肉の思いを持って来る。自らはどう
だろう。どのように御言葉を聞いているだろう。気づきから祝福が
始まる。
-------------
御言葉を信じ選択しよう。小さな日常の問題や悲しみも目の前のこ
とだけを見せてくるサタンが背後にいる。その場限りの感情や価値
観ではなく御言葉に立とう。焦点をあわそう。