2021年11月30日(火)

「しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた」 ルカ5:16



今の時代、人々は非常に忙しい。時間に追われ、あれやこれやと
走り回る。多忙過ぎて、祈る時間が無いだろうか。だが主は、どう
だろう。主の周りには絶えず人々が押し寄せた。人々を癒し、悪霊
を追い出し、御言葉を教えられた。慌ただしい毎日に見える中で、
主は、朝早くまだ暗い内に、人から離れて寂しい所へ行き、祈られ
た。

御父との絶えざる交わりの中で、なすべき御心を一つ一つと受け取
って行かれた。ある人は、ハードな仕事を抱え、連日深夜帰宅でヘ
トヘトだった。眠る間も無いほどに忙しい。帰宅後は心身消耗しき
り、朝は一日の仕事の確認で始まり、時間に追われ、祈れないまま
日が過ぎた。

段々、平安が失せて、心身、蓄積疲労となって行った。まさに油の
切れた状態で、心もきしんで来る。イライラピリピリし、不満が溜
まり、思い煩いでいっぱいになる。もう限界に達し、昼休みに近く
の公園に出て、一人になり祈りの時を持った。心の状態を告げて、
明け渡して行った。

主との交わりにより、安堵と平安が戻った。すると午後の時間が全
く変わったものとなった。心軽くされ、潤いがあり、喜びが戻り、
平安持って働けたのだ。主との交わりが無ければ、凄まじいこの世
の勢力に流されてしまう。次に、主は、大勢の人々を前にして、人
々の需要に応えられたのではない。人々の必要は際限が無い。

そうでなく、常に御父と交わり、御父の御心を尋ね求め、御心を行
なわれた。私たちも何もかもするのではない。そうでなく主の御心
を行って行く事が大切だ。そのためには、主との交わりが大切だ。
主に祈り求める時、必ず御心を教えて下さる。
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忙しい時ほど主に祈ろう。漠然とした焦りや不安から主が守ってく
ださる。主と結びついていると結果は主に委ねることもできる。仕
事や人に流されず主にしがみついていよう。


2021年11月29日(月)

「主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定められ た時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子 ができている」創世記18:14


アブラハムは75歳の時に、神の召しにより、生まれ故郷を出て、カ
ナンの地へ向かった。ところが幾ら歳月を経ても、子どもが与えら
れなかった。主は、天の星の数ほど子孫を与えると約束されたが、
待てども待てども、サラとの間に子どもはできなかった。そのた
め、
自分の思いと自分の判断と力で、奴隷ハガルによりイシマエルを産
み出してしまった。

自分の行ないに拠り頼んだ、肉による事であった。その後13年の空
白の時を経て、アブラハムが99歳の時だった。主が現われ、不妊の
サラが男児を産むと告げられた。それを聞いたアブラハムは「100
歳の者に子どもが生まれようか」と。通常では考えられない。その
ため「イシマエルでいいです」と言った。しかし主は、そうではな
く、サラが産むのだと。イサクと名づけよと。

彼は、子孫が増えると信じていたが、サラは不妊であり、サラによ
るとは思えなかった。その後、主は、旅人として再度現われて、
「来年の今頃」とはっきり、時を告げられた。サラは89歳であり、
常識的に妊娠はもう不可能だったので、心の中で笑った。不信仰の
笑いであった。その時に主は、サラはなぜ笑うのか、主に不可能こ
とがあろうか、来年の今頃、サラには男児ができていると。

そして翌年、主が言われた通りに実現した。主の言葉は100%成就
する。アブラハムは「神には約束されたことを成就する力があるこ
とを堅く信じた」とあり、そしてそれが「彼の義とみなされた」
と。
信仰とは、主の言葉を素直に受け入れ、信じることだ。それを義と
みなして下さる。
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思わず笑ってしまうような望みえない中でも主が成ると言われるな
ら門は開く。だから希望が湧く。自分には何の力も裏付けもない
が、
主の御言葉が力だ。信じて待ち望もう。


2021年11月28日(日)

「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいる なら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪 から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7


ある人が失敗をしてしまった。不注意によるものだと思いたいが、
そうでなく、自分の根にある欲によるものだった。主は赦して下さ
る事を知っているので、悔い改めるのだが、何か心が暗く、重かっ
た。赦されるのはよくわかるのだが、自己嫌悪に陥るし、不安や恐
れもあり、もやもやとしていた。

心重いので、主の御前に行き、ありのままを話して祈った。自分の
根にある欲が問題である事を見せられ、今一度、明け渡した。そし
て今後の信仰生活で守られるように祈った。その後、丁度、日々の
デボーションで読んでいる箇所を読み進めた時に、「主の御告げー
イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見
つけることはできない・・わたしが赦すからだ」が心にズシンと語ら
れ、響いた。

赦された事の確信が臨んだ。心が平安と喜びに満ちた。そして日々
に真剣に御霊に拠り頼んで行くようにされた。いつも教えられてい
るように、失敗から学ぶ事が大切で、次に繋げて行くようにと。主
の深いあわれみと恵みにあずかった。ある人も、大きな失敗をして
しまった。取り返しがつかず、後悔の念でいっぱいだった。自分を
責め、罪責感で苦しい日々であった。

しかしそこから救ってくれたのが御言葉だった。祈りに祈っていた
中、「子よ。あなたの罪は赦されました」との御言葉が臨み、心に
響いて来て、心底救われた。新しい力が与えられた。犯した罪を主
の御前で認める事が、光の中を歩む事だ。その罪は十字架の血潮に
より赦される。

・・・・・・・・・・・・・・
信仰人生でどうしても失敗してしまう。弱さを持った人間なので、
過失を犯してしまう。しかしそれで終わりでなく、そこから学べと
言われる。その失敗は、更に大きな失敗から、守られるためだった
かも知れない。そして赦しを受け取る度に、更に主の愛を知る。、


2021年11月27日(土)

「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいよう にしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません」 ヤコブ1:19



怒りにも2種類ある。主が、神殿で商売がなされている事に怒られ
た。細なわでむちを作り、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人
の金を散らし、その台を倒し、腰掛けを倒された。主のような義の
怒りがある。もう1つは自我による怒りで、自己中心の肉から来る
怒りだ。

御言葉は、「怒り」をすぐに現わす人は、愚かだと言っている。
「怒り」は自制しなければならないと。対人関係で、陰で悪口を言
われたり、批判され、攻撃されたらどうだろう。面と向かって、人
格攻撃されると、カッとなって、激怒するだろうか。しかしどんな
状況であれ、怒りを、即、現わすなと言っている。

「利口な者は辱めを受けても黙っている」とあり、批判され、どれ
ほど傷ついたとしても、とにかく黙すようにと。怒りが燃えたぎる
時は、どうしても感情的になり、制御できない。売り言葉に買い言
葉となり、その場の成り行きで、何を口走るかわからない。そして
一旦発した言葉は、取り返しがつかない。

この事で失敗した人は少なくない。長年かけて築き上げた信頼関係
が、一瞬にして崩れ去る。言葉は恐い。まずはすぐに反撃せずに、
はずかしめを受けても、黙し、主に祈ろう。ます冷静になる必要が
ある。罪を犯さないために、人ではなくまず主に向かおう。これは
大切だ。心静められ、その怒りは何に触れるのか、内側が照らし出
される。整えられ正しく対応させて下さる。

・・・・・・・・・・・
怒りにも義の怒りと、自我からの怒りがある。悪口、批判、攻撃、
されると報復したい。自分のプライドが傷つくからだ。しかし感情
的に自制なく振る舞うと、必ず刈り取りをする事になる。反撃の前
に、まず祈ろう。必ず言わなくて良かったと主に感謝する事になる。

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2021年11月26日(金)

「兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』など とどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではあ りませんか」マタイ7:4



相手に非があり、もめ事が起きた場合どうだろう。「あなたが間違
っている」と、相手の目のちりを除こうとすると、事は悪化し、ぐ
じゃぐじゃになる。経験ないだろうか。「そう言う、そっちこそど
うなんだ」と反撃が来る。相手のちりを見つけた時こそが難しい。
実は、まずこちらがへりくだる事だ。

御霊に導かれ、自分をよくよく省みて、自分にも反省すべき点がな
いか。言い過ぎは無かったか、悪い態度は無かったか、高ぶりは無
かったか、御霊に照らされる事が大切だ。御言葉は、自分の目の中
に梁があると言っている。「おのおの自分の行ないをよく調べてみ
よ」と。「誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、他の人
に対して誇れることではない」と。

へりくだって、自分を省み、「まず自分の目から梁を取りのけ」る
なら、はっきり見えるようになると言っている。そして、愛によっ
て、相手のちりを取り除く助けができると。目は非常にデリケイト
で、触れようとした瞬間、閉じる。不用意に、祈りもなしに、霊的
整えも無しにできる事ではない。

梁は大きな材木、ちりは見えないほど微少のほこりだ。裁く心が大
きな材木だ。相手が悪いと思っているが、実は自分の思い通りでな
いから、裁いている事もしばしばだ。愛とへりくだりが無ければ、必
ず事態を悪くする。まず主の御前で自分の内を御霊に探って頂こう。
そうする時、整えられて、御霊により、相手のちりを取り除くため
に、用いて下さる。
-----------
相手の非を見つけたらそれが気になり、いつの間にか自分は正しい
に立ってしまう。そんな自分に真実が見えているのだろうか。主の
前にへりくだり、自分自身を吟味したい。


2021年11月25日(木)

「ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏 して礼拝し、そして言った『私は裸で母の胎から出て来た。また、 裸で私はかしこに帰ろう・・』」ヨブ1:21



時に私たちは経験する。平穏な日々にある日突然、試練の中に置か
れている。わけがわからず、大変な状況に戸惑うばかりだ。経験あ
るかも知れない。ヨブも大富豪で、10人の子どもたちがいて、穏や
かで幸せな日々を送っていた。あるいは気づかずに罪を犯したかも
しれないと、自分と家族のために、いけにえを献げるほど敬虔だっ
た。

その中で突如の試練が臨んだ。1日にして家畜としもべを失い、子
どもたち10人共、皆失ってしまったのだ。しかしこの出来事にはヨ
ブのあずかり知らない舞台裏があった。サタンから神に、ヨブの信
仰を試すとの申し出があり、許可されたのだ。なぜなら神はヨブの
信仰を認めておられ、ヨブを信頼しておられたからだ。

サタンはヨブが従うのは、自分の利得のゆえであり、見返りがある
からだと言った。そのためすべての持ち物を取る事を許された。だ
がヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と
主にひれ伏した。私たちも「主は取られる」を経験する。特に、大
事なものを失うのは非常に辛い。しかし主ご自身を深く覚える時
だ。

「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなた
です」「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神
から来る」主がすべてである事を知らされる時だろうか。そして
「主は与え」とあるごとく、叉、与える事の出来るお方だ。
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なぜ、どうしてと問題や試練の原因を見つけようとして更に苦しむ
が、主が取られる。主に生かされていると深く思わされる。主は取
られるがまた包み、その手をもって癒してくださる。


2021年11月24日(水)

「妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持 って来て、使徒たちの足もとに置いた」使徒5:2




嘘はいけないとわかっていても、人は嘘をついてしまう。なぜ嘘を
つくのだろう。虚栄心の問題がある。自分をよく見せたい見栄があ
る。良い人に見られたい。能力を認められたいし、賞賛されたい。
その欲は、本来の自分以上の者に見せようとする。アナニヤ夫妻は
バルナバが畑を売って献げた時の、皆の賞賛を見た。

自分たちも賞賛が欲しくて、持ち物を売った代金の部分を持参し、
全部の振りをした。だがそれは故意であり、偽りであった。ペテロ
はアナニヤに、サタンに心を奪われ、聖霊を欺いたと指摘した。偽
りは聖霊を欺く事だと。妻も同様に偽り、二人共息が絶えた。偽り
は悪魔から来る。悪魔は偽りの父だ。

信仰に偽りが入り込むと、信仰が立ち行かず破綻してしまう。聖霊
の御声と悪魔の声が判別できなくなる。夫妻は献げる事において全
く自由であり、これは一部ですと献げれば良かった。そしてまず彼
らは何より悔い改める事ができた。又、人は貪欲のために嘘をつ
く。

サウル王は、アマレクを打ちすべて聖絶せよと命じられた。が、従
わずに最良のものを惜しみ、取っておいた。それが発覚した時に、
民による事だと嘘をついた。嘘は、嘘で上塗りをし、何重にも罪を
犯して行く。悪魔の攻撃は絶えず来る。いつも祈っていよう。

私たちには肉があり、欲がある。悪魔は巧妙に弱いところに誘惑を
しかけて来る。祈って主に拠り頼んでいるなら、誘惑に気づかせて
下さる。そしてもし偽ったなら、すぐに悔い改めよう。そうするな
ら主は豊かに赦して、平安を返し、導いて下さる。
------------
主が最も嫌われた偽善を簡単に行ってしまう。良く思われたいと足
りないところを偽っていく罪と弱さを覚え主に頼っていよう。足ら
ないものは足らないといつも正直に主にも自分にも向き合いたい。


2021年11月23日(火)

「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあな たがたに与えるのは、世が与えるのとは違います」ヨハネ14:27



ある人の勤める会社が不景気の中、倒産してしまった。妻子を抱
え、
貯えも余りなく、途方に暮れてしまった。とにかく次の仕事を探し
に探した。当時、不況だったので、なかなか仕事も無く、しかし状
況はせっぱ詰まっている。必死で探し求めるが、不合格が続いた。

クリスチャン夫婦だったので、二人で心を合わせて、真剣に祈っ
た。
どうすれば良いのか。子どもたちを抱えて、悶々の不安な日々が続
いた。貯えも底をついて来て、段々恐れとなって行った。夫婦で
「次の礼拝で、導きを、指針を与えて下さい。それに従います」と
心合わせて一週間祈った。そして礼拝に出席した。

その日の礼拝のテーマは「感謝」だった。「すべての事について感
謝しなさい」「あふれるばかりに感謝しなさい」夫妻共にメッセー
ジの一言一言が心にしみ入った。そして祈った通りに主に従うべ
く、
感謝を献げた。「主よ。今、仕事が無いことを感謝します。必ず与
えて下さることを感謝します」と祈った。すると不思議が起きた。
あんなに不安と恐れ、思い煩いにさいなまれた心に平安が臨んだ
のだ。

まだ仕事は無いのに、心が平安になってしまった。まさに夫婦で
「主の平安」を経験した。世が与えることのできない、持とうとし
ても持てない平安だった。感謝が溢れて、喜びが来た。そしてそ
の後良い仕事が与えられた。何より、主を新たに知る恵みにあず
かった。
------------
世が与えることのできない、持とうとしても持てない平安を、私た
ちは主から直接与えられる。何という慰め、感謝だろう。恐れや心
配の中でも、心の底にはいつも喜びがある。主が共におられるから
だ。


2021年11月22日(月)

「私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます ・・」詩篇138:7



ある人が神学校を卒業し、若くして田舎の教会に赴任した。さあ、
これからいよいよ、主のための働きだと、期待や希望でいっぱいだ
った。しかし、すぐに厳しい現実にぶち当たった。まず、人が来な
い。なかなか来ない。まれに新しい人が来たと、大喜びすると、す
ぐ去ってしまう。がっかりし、ひどく意気消沈してしまう。

そして、未熟でうまく導けずに、今までいた人々も去って行く事態
となった。そんな中、問題が吹き出し、分裂のようになってしま
い、
極めて苦しい状況に陥った。自分を責め、ひどく落ち込んだ。そん
な辛く苦しい中も、支えになってくれた人がいた。しかし問題がこ
じれに、こじれて、その人も去ってしまった。

ダメージは計り知れなかった。更に、経済的にも行き詰まってしま
った。うつのような状態に陥り、無気力になり、何も出来ず、ぼう
〜と日を過ごしていた。聖書を読む事も、祈る事も出来なかった。
そんな日々が続き、ある時、ぼお〜と御言葉をながめていた。読む
のでなく、ただぼんやり見ていた。

しかしその時「不妊の女よ」の言葉に、不思議に目が留まった。自
分の事ではないか、と思えた。そして「喜び、歌え」と続いた。
「喜びの歌声をあげて叫べ」と。「あなたの天幕の場所を広げ、あ
なたの住まいの幕を惜しみなく張り延ばし」と。「あなたは右と左
にふえ広がり・・荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ」。

聖書も読めなかった心に、不思議に御言葉が心に触れた瞬間だっ
た。
御言葉が字づらでなく、心に響いて触れて来た。もう一度立ち上が
らせられた。そして背後に、心配してくれた人々の熱い祈りがあっ
た事を知った。
------------
嘆きうめく心に御言葉はしみ込んでくる。そして自分の中で何かが
生まれてくる。主こそ慰め主、苦しみの中でたましいを力づけてく
ださる。そして生かしてくださる。


2021年11月21日(日)

「・・神のわざがこの人に現われるためです」ヨハネ9:3



主は、道の途中で生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは、誰の
罪によるのかと問うた。本人か、両親かと。主は本人でも両親でも
無い、神のわざがこの人に現われるためと答えられた。主は地面に
つばきをして、泥を作り、盲人に塗られた。そしてシロアムの池で
洗うようにと。

彼はその通りにすると、目が見えるようになった。彼は「何でつば
きを?」「何でシロアムなのか?」と納得できる説明を求めたわけ
でなく、ただその通りに、言われた通りに従った。叉、「今まで見
えなかったのに、そんな事をして何になる」と思えば、はなから行
かなかったろう。

目が見えない中で、シロアムにまで行くのは大変な労力だ。今まで
聞いた事のない愛と希望に満ちた主の言葉に触れ、従ってみようと
思ったかもしれない。言われた通りにすると、奇跡が起きた。彼は
それが誰であるのか知らなかった。パリサイ人に問い詰められ、最
初は「イエスという方」再度問われ「預言者」と答えた。

そして「神から出ておられる」と。その時、彼らは、彼を会堂から
追放した。主が彼を見つけ出し「信じるか」と問われると、彼は
「主よ」と答え「私は信じます」と信仰告白し、主を拝した。

「シロアム」は「遣わされた者」との意味で、それはイエス・キリ
ストのことで、神から遣わされた救い主だ。彼が肉眼だけでなく、
霊の目が開かれて、主を信じた事が、「神のわざがこの人に現われ
るためです」、真の神のわざであった。

・・・・・・・・・・・・
主に出会えたこと、主を信じる者とされたこと、改めて大きな神の
わざであり、自分に現わされたことが、何と驚くべきことだろう。
感謝しかない。彼は言われた通りに従った時に、見えるようにされ
た。今、従うべき事があれば、一歩踏み出そう。


2021年11月20日(土)

「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、 すべての人の奴隷となりました」Tコリント9:19



パウロは、ユダヤ人にはユダヤ人のようになり、律法の下にある
人々にはそのようになったと。それはより多くの人を獲得するため
だと。弱い人々には、弱い者になり、すべての人にすべてのもとな
った。何とかして、幾人かでも救うためと。

このみこころを遂げて行くためには、「すべての人の奴隷となりま
した」、へりくだりが必要だ。上にではなく、下に立ち、仕えられ
るのでなく、仕える姿勢が必要だ。水が必ず高い所から低い所に流
れるように、恵みは低い方へ、低い方へと流れて入る。

肉は、自分が仕えるより、仕えられたい、このへりくだりが最も困
難だ。しかし御霊の力によって、変えて行って下さる。ある人が救
われて、福音宣教に燃えていた。持って生まれた行動力があり、
人々の救いのためにと、どんどん福音宣べ伝えて行った。実家に行
き、妹にガンガン伝えるのだが、妹は内心拒否反応だった。

実は姉に、鼻持ちならない上から目線を感じ、威圧感を感じ、受け
入れられなかったのだ。時を経たが、その間、姉に厳しい試練が臨
んだ。苦しい試練であったが、主の御手により砕きを通された。そ
の後、実家に立ち寄る機会があり、妹に会った。

宣教するでなく、幾つか言葉を交わしただけだったが、妹が「お姉
ちゃん変わった。今のお姉ちゃん嫌いじゃない」と言った。そして
「お姉ちゃんと話したい、話を聞きたい」と。御霊がへりくだりを
与えて下さって、証しの下地を造られた。

・・・・・・・・・・・・
自分の力でへりくだると、裏返しの高慢になってしまう。主に従っ
て行く中で、試練も通され、一段階〃主が取り扱い、練り、砕き、
へりくだらせて下さる。目の前に出来事に対して、すべての道で主
を認めて、ご計画と、受け止め従って行こう。成長を与えて下さる。


2021年11月19日(金)

「ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているの を見ると、もうそれ以上は何も言わなかった」ルツ1:18



エリメレクとナオミ夫婦は飢饉の際に、ベツレヘムから偶像の地モ
アブに移住した。家族の幸せを求めての事だった。しかしその地
で、
夫も二人の息子も亡くなり、二人の嫁が残った。そして時を経て、
故郷の豊作を聞きナオミは帰郷を決心する。最初は二人の嫁と一緒
にと思ったが、彼女たちの事を考え、実家に帰るようにと告げる。

故郷に戻り、各々再婚しで平和に暮らすようにと。それでも二人は
一緒に行くと言うが、ナオミは説得にかかる。すると弟嫁オルパは
泣きつつ自分の故郷へと去った。しかしルツはナオミにすがりつい
ていた。ナオミは、弟嫁は「自分の民とその神のところへ」帰った
ので、ルツもそうするようにと説得する。

しかしルツの決心は堅く「あなたの民は私の民、あなたの神は私の
神」と、ルツの動機は、彼女の主を信じる「信仰」にあった。ルツ
の前に二つの道があった。実家に戻るなら、この世的に安全で安定
した楽な生活が待っている。一方、異国の地に行くなら、経済的基
盤も無く、先も見えず、自分は外国人。老齢のナオミには頼れず、
むしろナオミを助けなければならない。

しかしルツは、故郷の偶像に、その生活に決して戻りたくなかっ
た。
それは主を自分の神とする決断だった。主は報いられ、ルツは豊か
に祝福された。ボアズとの結婚が与えられ、オベデが生まれ、オベ
デの子はエッサイ、エッサイの子がダビデ。ダビデがルツのひ孫と
なった。犠牲を払う時、溢れるばかりに報いて下さる主だ。
---------------
どれほど豊かに見えても、そこが主の祝福から遠い場所なら本当の
平安と思えない。神と共にいられる所へ行こうとの決心も、神から
のも。導きに従い決して離れずに行こう。


2021年11月18日(木)

「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ』 と言われた。すると風は止み、大なぎになった」マルコ4:39




信仰生活で、御心を求めて祈り、御言葉も与えられ、導きを確信し
て進む。だがその中で様々な試練を経験する。試され、御心が実現
して行く事を学ばせられる。その時に、御心を誤ったのかと思って
しまう。なぜなら故意に御心をそれるなら、苦しみや刈り取りも納
得できるが、御心に従ったのだから、何もかも順調に行くはずと思
ってしまう。それで戸惑い、怪しむ。

だがそうではなく、御心に歩む中で、試みが与えられると。主の約
束は、「試み」となって私たちに臨む。それにより、心に潜んでい
て、普段は表に出る事なく、気づかない様々な姿が見せられる。そ
して叉、主は御心を歩む中で、信仰に成長させたいと思っておられ
る。そのために「不信仰」に気づかせられる。

弟子たちは、主の言葉に従って舟に乗った。御心に従った。主が熟
睡されている舟の中で、弟子たちはひどい嵐に会い、恐怖でパニッ
クになった。今まで何度も嵐を経験しているベテラン漁師たちだ
が、
それほどの大嵐だったし、逆に嵐の恐さも知っていただろう。激し
く動揺し、慌て怯えて、主を起こし、「自分たちが溺れて死にそう
でも、何とも思われないのか」と屈折した物言いをした。自分たち
の事など、どうでもよいのかと。

しかし主は「信仰がないのはどうしたことです」と言われた。大嵐
は何ら問題でなく、信仰の問題だと。主が同船の舟が沈むなどと、
有り得ない。100%無い。だが、まさにその事を恐れている。私た

も同様だろうか。今、嵐の中なら、主が同船されている事、全き平

で熟睡されている事を覚えよう。
------------
試みの中で、自分が本当に恐れているものや明け渡せないところを
教えられる。もう主の支配の中に入れられているのだから、安心し
て主と共に揺れていよう。


2021年11月17日(水)

「私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます」 詩篇116:17



私たちはよく思い煩うだろうか。目の前の事態を思い煩い、将来の
事も、過ぎ去った事も思い煩う。思い煩ったところで、どうにも出
来ない過去の事をくよくよと、ああすれば、こうすればと悔やみ、
思い煩う。心配しても仕方がない先の事を、心配し、不安で不安で
たまらない。この思い煩いをどうすればよいのか。

@環境・状況を変えるA相手を変えるB自分を変える。このどれか
しかない。状況は変わらないし、人を変える事など不可能だ、しか
し自分を変える事ならできる。どのように自分を変えるのか。主は
恵みを数えよと言われる。そしてすべての事について感謝せよと。
今までの恵みを思い起こす事は良いことだ。思い煩いにさいなまれ
そうになった時、主の恵みを思い出そう。

主の恵みを思い出して、数えること。主に感謝すること、それを続
ける時、自分が変えられる。なぜなら、感謝しようと意志を向けた
途端、視点が変わる。目の前の状況と自分を見ていた目が、主に向
けられるからだ。そもそもの問題が、主が飛んで、主から目が離れ
て、状況に飲み込まれていることだ。主から離れるなら、落ち込む
ばかりだ。まず主を仰ぐ時、心が変えられて行く。

心が落ちついて行くから不思議だ。そして、どこが感謝なのかと、
感謝する気分になど到底なれない時こそ、感謝のいけにえを献げよ
う。それは主が非常に喜ばれるいけにえだ。それは信仰であり、主
を愛する事を表明して行く事になる。心が沈む時、意志によって感
謝を献げてみよう。心が変えられて行く。
------------
朝から思い煩いは来て、あっという間に心配事に引き込まれてし
まう。主の恵みを数えよう。朝毎に感謝を献げよう。感謝は力だ。
主に望みを置く者を主はいつも顧みてくださる。


2021年11月16日(火)

「あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは、地だけを持っていてはならない。山地を もあなたのものとしなければならない」ヨシュア17:17



ヨシュアに導かれたイスラエルの民は、約束の地カナンに入った。
そこで、各部族がくじを引き、各々の相続地が割り当てられた。し
かしその地は、戦って開拓して行かねばならなかった。そんな中、
ヨセフ族から不満が起きた。 自分たちは大きな民になったのに、
一つの割り当て地しかないと。

なぜ、なのか。大部族で、大きな土地が必要だと。そこでヨシュア
は、山地も自分たちのものとせよと答えた。すると彼らは、カナン
人は鉄の戦車を持ち、強く、到底無理だと。ヨシュアは、敵が幾ら
強いとしても、戦って勝ち取れと。彼らの問題は、戦う事を恐れて
いる事であった。戦って前に進み、勝ち取ろうとはせずに、ただ現
状に愚痴と不平不満を言うのみだ。

私たちはどうだろう。主によって各々割り当て地が与えられてい
る。
家族、仕事、対人関係、今の場所、賜物・・。その今の割り当て地
にあって、彼らのように愚痴と不満ばかりだろうか。鉄の戦車で、
困難な状況が様々あるかも知れない。今の環境が自分の思いとは異
なり、嫌でたまらないかも知れない。しかしヨセフ族と同様に、私
たちも各々主から与えられた地だ。

主は、その割り当て地で、祈りつつ御霊の示しに従い、主のために
用い、栄光を現わして行く事を願っておられる。山地をもあなたも
のとせよと。信仰に立って前進して行く時に、主が戦って下さり、
更に恵みに恵みを増し加えて下さる。
--------
不平や愚痴であきらめている課題があるなら主に持っていこう。
主の御心を求め、与えてくださっている約束の地で最大限の応答を
かえしていこう。


2021年11月15日(月)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩篇37:5



ある人が、主の導きを確信し、すべての必要備えられ海外留学に出
た。それが様々想定外の多額の出費が次々かさみ、次の学年のため
の資金が不足した。必要は必ず与えて下さるはずと信じ、とにかく
祈った。各方面の奨学金も問い合わせたが、道が開かれず、「御心
を信じてここに来たのに、どうして?」と、尚も祈り続けるが、与
えられない。

なぜ?どうして?と、焦りと思い煩いで一杯だ。しかし尚も与えら
れなかった。もう祈りに祈ったので、すべき事はしたので、すべて
を主に委ねようと思った。そしてこれが主のご意志と受け入れる決
心をした。「卒業したかったが、この事を主の御心と受け止め、帰
国します」と祈った。すると不思議に、焦りや思い煩いが落ち着い
て、すうっーと平安になった。

その直後だった。現地の友人から連絡が入った。友人たちがずっと
奔走し、何度もかけあってくれていた奨学金が下りたと。結果的に
すべての学びを終え、帰国できた。主の取り扱いであった。この事
を通して学ばされた。御心なのだからと、自分の力で行なっていた
事、自分が、自分がと、必死になっていた姿が見せられた。

そのためすべてが自分の肩にかかり、重苦しく、平安は無く、イラ
立ちと思い煩いで一杯だった。主は自分自身を明け渡す事を望ま
れ、
委ねた時に、平安が来て、そして必要が満たされた。あなたも今、
自分でずっしりと背負っている重荷を、委ねる事が必要だろうか。
--------
委ねているつもりでも結果はしっかり握ってしまう。祈りながらも
最善を自分でつかもうとしている事に気づかせられる。主が閉ざさ
れるならそれも祝福と、全てを委ねていたい。


2021年11月14日(日)

「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、 もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方 のために生きるためなのです」Uコリント5:15



その昔、太陽が、地球の回りを回っていると思われていた。太陽が
東から出て、西に沈むので、そのように見える。その時には、その
動きは複雑怪奇で説明が成り立たず、わけがわからなかった。とこ
ろが太陽ではなく、地球の方が、太陽の周りを回っているとわかっ
た時に、突然すべてがすっきりと解明した。

宇宙は今も昔も何も変わらないが、視点が変わる事によって、全く
見え方が変わる。これをコペルニクス的転回と言われているが、私
たちクリスチャンも、霊的視点の転換が起こる時に、主がわかって
行く。この視点の転換によって、問題がすっきりとして行く。

信仰者であっても、生まれつきの肉の性質は根深く、自分の欲望が
実現する事が、喜びであり、幸せだと思う。だから自分の願望が叶
うようにと、懸命に取り組むが、実際はほとんど自分の思い通りに
はならない。何度も挫折を味わう。又、仮に思い通りになったとし
ても、その瞬間の歓びがあるが、その奥には、こんなはずではない
虚しさを感じる。

そんな事を繰り返す中で、信仰者でありながら、根深く「自己中心、
自分第一」に生きている姿に、気づかせられる。自分の価値観と自
力の力で生きている。気づきから始まる。「神中心、神第一」に転
回して行く時に、何もかもが正しい位置に置かれ、心に真の平安が
満ちる。秩序をもって人生が回って行く。自分が変えられて行く。
自分は今、どうだろう。

・・・・・・・・・・・・・
信仰に進めば進むほど、いかに自我が強く、自己中心であるかを知
らされる。そしてそのための十字架である事を更に知らされ、感謝
に溢れる。自分の無力を知り、主を見上げる時に、御霊が神第一に
するように助け、働かれる。無力を知れる事が感謝だ。


2021年11月13日(土)

「もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがた にとって、何の益もないのです」ガラテヤ5:2


御言葉に従おうとする時に、必ずあらがって来るものがある。経験
するだろうか。この世の価値観、常識、習慣、肉の思いだ。一見、
妥当に思える。今まで叱咤激励の価値観の中で生きて来たので、自
分の力で懸命に頑張るのが善であり、美徳だ。今までも真面目に生
きて来たが、救われてまことの神を知るや、更に真面目に、更に忠
実でなければと思う。

信仰生活が辛い修業のように思ってしまう。律法に従うのは苦しい
が、しかし修業とは苦しいものであり、納得してしまう。特に日本
人の気質に合致する。これらは世の価値観から来ている。しかし、
真理と正反対の方向に向かっている。それは神から出ていない。こ
こでは割礼の事で問題となっている。

ユダヤ人の慣習である割礼を受け入れて、問題を起こさないように
と。何かをする事によって、神に、人に認められよう、受け入れら
れようとする事は、恵みではない。それはキリストから離れ、恵み
から落ちてしまっていると言っている。信仰生活は、神に受け入れ
てもらうがための苦しい修業でない。

すでに神に受け入れられ、完全な愛を受けているゆえに、喜んで、
感謝して自由に神に従って行くものだ。「ねばならない」義務では
なく、「愛によって働く信仰」の愛が動機であり、自発的な自由意
志で主に応答し、従って行くものだ。そこには苦しみでなく、喜び
と平安、安堵がある。主を愛する愛がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・
「ねばならない」の下にいると、喜びと平安が無く、不満と煩いで
いっぱいになる。生活が重荷で、要求ばかりされているように感
じる。しかし主を仰ぐ時、安堵が来る。自分の力で行なうので
は無いからだ。そこには御霊による喜びがある。


2021年11月12日(金)

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるた めであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のい のちを与えるためなのです」マルコ10:45


ヤコブとヨハネは、主に、御国で右大臣、左大臣の地位を求めた。
又、その母が彼らのために、主のもとに来てひれ伏して願った箇所
もある。親子で出世のために高い地位を欲しがった。そしてこれを
聞いた他の十人の弟子がひどく腹を立てた。自分たちが、出し抜か
れた事に悔しくて怒った。つまり彼らも同じ思いであった。

それは主の十字架を直前に控えていた時だった。叉、弟子たちは、
誰が一番偉いかと論じ合っていた。主が十字架に向かう、まさにそ
の時にも、弟子たちの心は「一番は」「自分が、自分が」でいっぱ
いだった。弟子たちだけでなく、この誘惑は誰にでもある。自分が
上に立ちたい、自分の思い通りに人を動かしたい、自己中心な欲求
がある。

これは相手を支配する事になる。又、肉の性質には「人から評価さ
れたい、認められたい、賞賛されたい、人に優っていたい」との誘
惑がある。それが高じると、周囲がライバルになり、張り合いが生
まれる。そこに愛は無い。「自分が、自分が」の世界だ。そのため
主は「先に立ちたいと思うなら、仕える者になれ」と言われた。

そして「互いに愛し合え」と。主、自らが仕える者となられ、ご自
分を無にして、十字架の死にまで従順に従い、私たちの救いの道を
開かれた。それによって私たちに愛がわかった。主のお心に従って
行けるように、御霊は助けて下さる。まず、自分の内にあるものに
気づかされ、認めて、主のもとに祈りに持って行こう。
--------
仕える人になりなさいと主は言われる。十字架に向かう主ご自身を
思い、人間関係のストレスがどこから来るか、心の内を吟味してみ
たい。肉の弱さを祈っていこう。


2021年11月11日(木)

「私たちのたましいは主を待ち望む・・まことに私たちの心は主を 喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している」詩篇33:21



主は天から私たちに目を注ぎ、残らず見て下さっている。そして王
は軍勢が多いから救われるのではない、と言っている。勇者も強い
から救われるのではない、軍馬も頼みにはならないと。当時は戦い
において、軍馬がどれほど多いかが戦力だった。数が勝負だ。多勢
に無勢、常識で考えるなら、戦争で、軍馬や軍勢が圧倒的に多い方
が、どう見ても勝ちだ。

しかしダビデは言う。勝利は、軍勢の多いことにはよらない。軍馬
も勝利の頼みにならないと。勝利は、軍馬の数、軍勢に関係無く、
ただ主によるのだと。主のお心による。そのお心とは、「主の目は
主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に」とある。主の
目は、主を恐れる者=主を愛し、主を喜び、尊ぶ者、そしてその恵
みを待ち望む者にあり、その者から離れないと。

それは罪を決して犯さない、完璧な品行方正な人の上でなく、常に
罪を悔い改め〃、赦されて、赦しの中を歩み、恵みを待ち望む者の
上だ。そして「聖なる御名に信頼」、主を信頼する所にこそ勝利が
ある。私たちは何に信頼を置いているだろう。富、物、地位、肩書
き、能力、家族、人、健康、仕事・・。

主は、あなたが依存しているものを取り扱い、気づきを与えて下さ
る。色々な出来事の中で、自分が頼みとし、力とし、、支えとして
いるものを教えられる。偽りの拠り所に気づかせられる。そして主
だけを頼るようにと、導いて下さる。
--------
自分の策や目の前の人や力に頼っていると認めたい。いつの間にか
主に頼ることも自分の努力と思ってしまう。自分でつかみ取らなく
てもいいと気づかされる事は大きな救いだ。主を待ち望もう。


2021年11月10日(水)

「彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおご うとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れよ うとする」イザヤ30:2



ユダのヒゼキヤ王は、アッシリヤ軍のエルサレム包囲に対して、大
国エジプトに助けを求めようとした。主は「わたしによらず、わた
しの霊によらず、罪に罪を増し加えている」と言われ、主に頼らず
に、世のものに頼っていると。「わたしの指示を仰がず、パロの保
護に身を避け、その陰に隠れようとする」と言われた。

その結果は、侮辱と恥とそしりだと。救いの道は、肉の思いと方法
で動く事を止めて、「主に立ち返り、静かにすれば救われ、落ち着
いて、信頼すれば力を得る」と。主に立ち返り、主に信頼する事だ
と。私たちも同様だ。問題が起きた時に、どうだろう。

主が飛んで、自分の力に、目に見えるものに頼ってしまうだろう
か。
動き回らずに、落ち着いて、主に信頼し、主の導きを待ち望むこと
だと。その時、主は必ず導きを下さる。「恵もうと待っておられ、
あわれもうと立ち上がる」方だ。主を待ち望む者は幸いだと。

しかし急いで焦っている時、祈る余裕も時間も無く、とにかくまず
対処しなければと、動いてしまうだろうか。気持ちが急いて、主を
仰がずに動いてしまう。しかし主を離れては私たちは何もする事が
できない。実を結ぶことがないと言われている。大切な事は、主に
導かれることだ。

右に行くにも左に行くにも、あなたの耳は後ろから、「これが道
だ。
これに歩め。」と言う言葉を聞くと言われている。人生の重大な進
路だけでなく、右に行くにも左に行くにも導かれると。主に導きを
求めよう。導きの主は、これが道だ、これに歩めと導いて下さる。
--------
窮地になると主に祈りながらもこの世の知恵も求めてしまう。そし
て最も早い解決に心が動くが、落ち着いて主の御声を聞こう。主を
待ち望もう。勝利は主からくる。


2021年11月09日(火)

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ 聞くだけの者であってはいけません」ヤコブ1:22



主の教えに歩み、従うためには、御心に従おうとの意識的、選択が
必要だ。信仰はオートマチックではない。操り人形のように勝手に
従って行けるのではない。意識して御声に耳を傾け、御霊の導きを
求め、それを選択し、御霊に拠り頼んで行く必要がある。自分の力
は無意味で、主に頼まなければ進めない。

主が、勝手に私たちを操り、従わされるのではない。それならロボ
ットだ。また、私たちの意志を無視して、主が代わりにされる事も
ない。意志を向ける必要がある。詩編記者は、自分の道を顧みて、
主のさとしの方へ足を向けたと言っている。私たちはどうだろう。
自分の生活を、自分自身を顧みることは有意義で大切だ。

時に日々の忙しさに、流されてしまう。主との交わりから遠ざかっ
ていないだろうか。主の示しをなおざりにし、引き延ばし、ぐずぐ
ずしているだろうか。記者は、主のさとしの方へ「足を向け」た
と。
祈ったのでなく、「あなたの仰せを守った」と、実際に行動した。
実行する事が大切だ。

今、主の示しに、自分の足を向けるよう、具体的に行動するよう導
かれているなら、すぐに従おう。記者は「急いで、ためらわずに」
と言った。ぐずぐずしていると、ためらっていると、必ず従えなく
なる。サタンも働いて、祝福を奪おうと妨害している。急いで、た
めらわずに実行しよう。
-------
出来るかどうかを考えたら出来ないが、出来るようにしてください
とは祈れる。主の助けを信じて意思を向けよう。聞くだけで終わり
にせず御言葉を大切に受け取ろう。


2021年11月08日(月)

「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとっ て、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり・・そこで ふえよ」エレミヤ29:5



「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとっ
て、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり・・そこで
ふえよ」エレミヤ29:5

エレミヤが預言をしていた時代、イスラエルはアッシリヤに滅ぼさ
れ捕虜として連行された。アッシリヤはバビロンに滅ぼされ、ユダ
も、バビロン捕囚となった。当時ユダは神から離れ、ひどい偶像礼
拝に陥り、堕落していた。預言者達は、耳ざわりの良い、人に受け
る心地良い言葉を語った。

平安が無いのに「平安、平安」と。しかしエレミヤは神の人であ
り、
人々に媚びる事なく、真っ直ぐに、神の言葉を語った。それは人々
の耳に痛く、聞きたくない言葉だ。そのためエレミヤは非常に苦し
められた。捕囚の最中、真っ暗闇の中で、彼は語った。一見「災
い」
でしか無いが、「平安と将来と希望」のためのものだと。

即、解放にならないので、その地で腰をすえて生活せよと。そして
「その町の繁栄を求め、主に祈れ」と。それは自分達の繁栄になる
からと。私たちも苦しみの時、一番欲しい言葉は「即、問題解決」
「即、悩みからの解放」だ。しかし、口先だけの励ましは、更に傷
を深める。私たちも同様に、苦しい現状をしっかりと受け入れる
時、
その中で必ず主の支え、励ましにより生きて行ける。

現状を受け入れる事が大切だ。いつまでも苦しみのままでなく、
「70年の満ちる頃・・あなたがたを帰らせる」と。試練を受け入れ
て、主に従って行こう。そこに「主の平安・希望」が約束されてい
る。そして主の時に、かせから解放して下さる。
--------
長く祈らされ、癒しや解放を求めている中で、いつしか主のご計画

と確信させられる。主のご計画を認め、主はいつもご自分の計画に

を留めていてくださると知る。感謝だ。腰を据えて主と共に歩も
う。


2021年11月07日(日)

「主はギデオンに仰せられた。『わたしはあなたといっしょにいる。 だからあなたはひとりを打ち負かすようにミデヤン人を打ち殺そ う』」6:16



ギデオンは、敵であるミデヤン人を恐れて、逃げて、酒ぶねに隠れ
ていた。主は、そのギデオンに向かって「あなたのその力で行き、
イスラエルを救え」と告げられる。「わたしがあなたを遣わすの
だ」と。ひどく驚いた彼は、どうして自分にそんなとんでもない事
が、自分の分団は最も弱く、その中でも自分は一番若く、到底無理
だと言い訳をする。

すると、主は「わたしはあなたと一緒にいる。あなたはミデヤン人
を打ち殺す」と。その時、ギデオンは、私と話しておられるのが、
あなたであるとのしるしを見せて欲しいと願った。本当に主から出
た事なのか知ろうとした。二度のしるしを求め、確かめた。その結
果、主による事だとはっきりわかった。

恐れて隠れている彼に、主は「勇士よ」と語られ、現在の怯えて隠
れている彼ではなく、勇士として戦うギデオンを見られた。又「あ
なたのその力で行き」と、彼がいかに弱く、若くても何の問題も無
いと。「主が共におられること」「主が遣わされること」それがす
べてだ。私たちも、自分の弱さを嘆き、無力におじけ、自分に何が
できようと、ひるんでしまう。

主からの示しに対しても、自分を見るなら、能力は不足、時間も富
も力も不足だ。しかし主は「あなたのその力で行け」と。あなたの
力の問題ではなく、どなたが共におられるかの問題だ。主が遣わさ
れるのなら、必要な力はすべて主から来る。今、あなたも「あなた
のその力で行け」と御声をかけられているだろうか。

・・・・・・・・・・・・
「わたしはあなたといっしょにいる」、この事実を絶えず仰いでい
よう。平安になり、心が温かくされる。目の前の問題と自分を見る
途端、主から目が離れる。何度も〃も「わたしはあなたとともにい
る」と言われている。今日も、この事実をしっかりかみしめよう。






2021年11月06日(土)

「もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、 もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」マ タイ6:23



ここで、からだのあかりは目であり、目が健全なら身体全体が明る
いと言っている。目から光が取り込まれるので、目が光の入る窓口
になる。その目が健全なら、十分に光が入るので、全身が明るく心
も明るい事になる。しかし目が悪いと、そこに光があっても、身体
に取り込めない。だから身体は暗く、心も暗い事になる。

窓から外の光が入らない状態だ。光が無いのでなく、光は十分あり、
輝いている。光の問題では無く、目の問題だ。見えないので、そこ
に光がある事がわからない。太陽が光輝く中で、目を閉じた状態だ。
真っ暗闇だ。だから、暗闇にならないようにせよと。

光は主だ。主は常に輝いておられる。健全な目とは「単一の目」と
の意味で、光である主だけを見続ける目だ。だが、主に対して目を
閉じ、主ではなく、名誉、地位、富・・この世のものに、又、心配事
や思い煩いに、叉、偏見、思い込み、独りよがり、叉、激しい憎し
みや妬み、怒りに目が釘付けならどうだろう。それは目を閉じた状
態になり、光が入らない。心は真っ暗になる。

見ているものを「よく注意せよ」と。赤い警告ランプが、目が悪く、
青に見えていたらどうだろう。生死に関わってくる。主を見つめて
いるなら、光が目の窓から豊かに入り、自分自身はすみずみまで輝
く。そして、それは自分だけでなく、周囲の人々をも照らして行く。

・・・・・・・・・・・・
目が身体への窓口になる。目が偏見や自分の思いが強いと身体に入
るものが歪んでしまう。又、自我に触れる痛い事に、目を閉じ、シ
ャットアウトするなら、身体は真っ暗なままだ。自分の目はどうだ
ろう。御霊が気づかせ、御心へと、成長へと導いて下さる。


2021年11月05日(金)

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、 感謝しなさ」Tテサロニケ4:16



私たちはどうだろう。ラッキーでハピーな事、嬉しい事は、誰でも
感謝できるし、喜べる。大豊作、昇進、受験合格、想定外の収入・
・信仰が無くとも、喜べる。だが、ハバククは全く違う事を言っ
た。
いちじくの木の花が咲かず、ぶどうもオリーブも実が無く、畑は不
作で収穫無し。羊も牛も絶えた。なすすべの無い絶望状態であっ
た。
しかしハバククはその中で喜んだ。嘆き、失望落胆、無気力にな
り、
気持ちも萎える状況の中で、なぜ喜べたのか。

「状況にあって」でなく、「主にあって」喜んだからだった。ある
人が「喜べ」との御言葉が心に来た。「主にあって喜べ」と。読む
度に、何度も〃語られた。しかし環境は「何を喜べるのか」「どこ
が喜べるのか」の状態だった。重病で入院し、辞職し、まだ仕事も
できない。しかし目に見える所を見て、御声を拒んでいる事に気づ
かされた。

状況にあってでなく、主にあって喜べと言われている。祈り、よく
考え、決心し「はい、わかりました。喜びます」と信仰により受け
取った。すると不思議が起きて心が平安にされた。視点を目の前の
状況から離して、主に持って行こう。主は万事を益とされる。災い
は一つも無く、平安と将来と希望のためのものであると。

そして主に行き当たりバッタリは無く、計画を立てておられる。何
より独り子を与えて下さるほどに愛して下さっている。目に見える
ものには凄まじい力があり、影響されてしまい、飲み込まれてしま
う。サタンだ。一言の祈りから、目が主へと転じられて行く。
--------
状況に関わらず喜んでいけるのは、主を知っているからだ。主の変
わらない正しさと揺るぐことのない恵みを知っている。主を見上げ
絶えず喜んでいこう。感謝を献げよう。


2021年11月04日(木)

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心 からしなさい」コロサイ3:23




日々に何かをする時に、どうだろう。人に対してしているのだろう
か。それとも、主に対してだろうか。主に対してするようにと言わ
れているのだが、しばしば逆で、人に対してしているだろか。目に
見えない主よりも、目に見える、目の前の人を意識してしまう。人
のごきげんとりのごとき、うわべを繕うのでなく、主のしもべとし
て、心から御心を行なうようにとも言われている。

どのような仕事であれ、主のためにしているとの意識が大切だ。日
々同じ事の繰り返しかも知れない。毎日同時刻に電車に乗り、同じ
机に座り、同じ仕事を繰り返す。主婦は毎日、掃除し洗濯し、片づ
け食事を作る。平凡で変化のない生活かも知れない。しかしその毎
日の同じ事を、主のためにし、主にお献げする事ができる。

外側、同じ事をしているが、心が違って来る。ある人は、単調で何
の変化も無い日々の仕事に、倦み疲れしまった。面倒なばかりでう
んざりし、気持ちも乗らない。正直、いい加減嫌になって来る。ふ
っと主を見上げた時、「主に対するように、心からしなさい」の言
葉が浮かんだ。「主に対するように」も、「心から」も、していな
い。「ねばならない」ので、ただ目の前の仕事をこなしているだけ
だ。

「していません」と告げ、そして不満や何やかやのうっ積、自分の
状態をあるがまま心の中で祈った。ふっと心が変えられて、あれほ
どうっとうしい、だるい気持ちが、何だか軽くなった。同じするな
ら、主に喜ばれるように従いたいと思えて、不思議に心が変えられ
た。
--------
対人関係や目の前の仕事に主を認めて接するなら、どれ程豊かな人
生を生きられるだろう。恵みがあふれている。すぐに主を見失い味
気ない思いに陥りやすいが、もう一度御言葉に立ち戻りたい。


2021年11月03日(水)

「イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上った時に 旅立った」出エジプト40:36




イスラエルの民は、モーセに導かれ、いまだかつて見た事のない主
の偉大なる奇跡により、出エジプトを果たした。彼らが、エジプト
から出た先は、広大な荒野だった。主はこれを民への訓練の時とさ
れた。紅海横断の大いなる勝利への大賛美、大感謝で、喜び踊った
民たちは、それもほんの束の間だった。

目の前の非常に厳しい現実に、すぐに水が無い、食べ物が無いと不
平不満、愚痴に転じた。そんな民に、主は水を与え、天からのマナ
を与え、養い続けられた。そして主は、道中をずっと導く、昼は雲
の柱、夜は火の柱を備えられた。その雲と火の柱を持って導かれ
た。
イスラエルの全家の者は、いつもそれを見ていた。

主は導きの主だ。ある人が転勤になり、家を売る事になった。すぐ
に売れるだろうと思っていた。ところが数ヶ月が過ぎ、半年が過ぎ
るも売れなかった。人が次々と見に来て、話が進むのだが、最後の
契約に至らない。そんな事がずっと続いた。いよいよ決まるかと思
うと、だめになり、そんな状況に、真剣に祈り始めた。

その時、荒野の雲の柱の箇所を示された。雲が動かない限り、これ
は進まない事、信仰の試し、忍耐の訓練と教えられた。雲が動くま
で、じっと主を待とうと決心した。主が動かれないなら、事は微動
だにしない。忍耐の中で、ついに神の時が来て、雲が動いた。とん
とん話が進み、ついに売れた。

神の時が来たなら、妨げるものは無い。あなたも、今、雲が上るの
を待っているだろうか。神の時が満ちると、必ず動く。主を待ち望
んでいよう。
--------
時は動かないけれど、この沈黙も力強い主の導きだとむしろ主を見
上げ待ち望もう。いつも主は共に歩いてくださっている。主のゴー
サインを悟れるように祈りたい。


2021年11月02日(火)

「しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである」出エジプト8:19




エジプトで苦しむ民の叫びを聞き、主は指導者モーセを遣わし、民
の救出を計画された。主は次々と奇跡を起こされ、モーセが、その
つどパロに民を去らせるよう迫った。主の超自然の奇跡により、厳
しい苦痛が臨むと、パロは「私は罪を犯した」「私と私の民は悪者
だ」「私の罪を赦してくれ」「私のために祈ってくれ」と言う。

一見悔い改めのような言葉を発するが、その災いがおさまり、ひと
息つくや、即、再び強情な姿に戻る。これは、それらしき言葉を口
にするが、口先だけで、心では思ってはいない。真の悔い改めなら、
行動が変わり、必ず実を結ぶ。主は「わたしが主であることを、あ
なたがたが知るため」にしるしを行なわれる。しかし頑ななパロに
とっては、様々なしるしが、主を知る事にはならず、脅しみたいな
ものであった。

だからその脅しが無くなれば、再び強情で頑なになった。私たちは
どうだろう。もし高慢になっていたなら、主はへりくだるようにと、
苦しみを送られる。これは主の愛であり、放っておかれる方が悲惨
だ。しかし、その苦しみをパロのごとく単に脅しと取るなら、余り
の苦痛に悔い改め、神妙になるのだが、その苦しみが去ると、元に
戻る。何も変わらない。

実は自分が悪いとは思っていない。痛みが不都合なだけだ。叉、見
栄えが悪いだけだ。真の悔い改めに至らず、実を結ぶ事がない。
しかし御霊に導かれた悔い改めは必ず結実する。砕かれた、悔いた
心を祝福し、御霊は豊かな実を結ばせて下さる。
------------
良い事なら何でもしてもらいたい、そして願いが叶えば嬉しいとい
うだけなら、砕かれる事もなく、いずれ神でなくてもよくなってし
まう。砕かれ赦されて歩もう。神を喜びとして歩もう。


2021年11月01日(月)

「・・窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです」詩篇102:17



信仰人生で、時に、どうしてよいかわからない、窮地に陥る事があ
る。ある人が、突然、家族に極めて重い病が発覚、もうどうしてよ
いかわからず、パニック状態だった。初めての事で、どうして行け
ば良いかもわからない。だがそんな中、主を見上げた。「わたしを
呼べ・・わたしはあなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた
大いなる事を告げよう」と言われる主に、目の前の緊急事態を持っ
て行った。

ただただ、すがるは主のみだった。主に拠り頼んで、ありのままの
状況も、不安も恐れも思い煩いも何もかもを、ことごとく祈りに持
って行き、主に聞いて頂いた。不安でたまらない事、心が重苦しい
事をありのまま主に告げて行った。そして何もかも主にゆだねた。
すると不思議だが、あんなに不安と恐れにさいなまれていた心が、
落ち着いて来たのだ。

何だか、非常に不思議だが、心が温かくなって来て、大丈夫だと思
えて来る。そして何をどうすれば良いかを、主に問うて行った。祈
っていると更に不思議な事に、様々な情報が、あちこちから手元に
寄せられて来たのだ。医師や経験者を通し、友人知人、ネットや情
報誌を通して。

それらによりなすべき事がわかり、主の導きを確信できた。入院手
術に至るまですべてが、主に手を取って導かれた。人間の側では、
先の事はいっさい見えない。しかし先を見通し、すべてを存じであ
る主が、共におられる。まず祈ろう。祈りをないがしろにされない。
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まとまらない祈りでも、ただ主に祈る時、落ち着きと平安を取り戻
す。主が聞いてくださった、結果はどうであれ主の御心がなると。
主に祈りは届いている。