2021年12月31日(金)

「そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに 連れて来られた」マルコ2:3



中風を患っていた人がいて、それは深刻な状況で、自分ではどうに
も身動きとれなかった。そんな時、4人の友人たちが彼を寝かした
まま、主のもとへと連れて来た。主は「彼らの信仰を見て」とあ
り、
4人の友人の信仰を見られた。彼らの信仰に答えてみわざをされ
た。

この4人は主のおられる家の入口が、大勢の人が溢れて入れないと
見ると、そこで引き下がるのではなく、方策を考えた。そこで何と
屋根に上り、屋根をはがして床を、主の前に吊り降ろした。なぜそ
う出来たのか。主に不可能は無く、主が必ず癒して下さると信じた
からだ。

信じなければ、そんな事はしない。主はその信仰を見られ、中風の
人に「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。何と、罪の
赦しを与えられた。病気は治っても、人生途上幾らでもまた病気に
なる。主の前に罪の無い者と認められ、主との関係が回復された。

何にも代えられない喜びだ。彼らの願いの遙か以上のものを与えら
れた。友人たちの信仰を見られ、主のみわざが現われた。その信仰
に報いられた。主のもとに寝かしたまま連れて行くために、叉、吊
り降ろすためにも4人が必要だった。

4人は協力し一つとなって労する事により、主の栄光を拝した。私
たちもまだ救われていない人々のために、他の兄弟姉妹たちと一緒
に、執り成しの祈りを献げることで、協力できる。一緒にかつぐ事
ができる。そして一緒に神のみわざにあずかれる。
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この一年、朝毎にともに主を賛美できた恵みを心から感謝いたし
ます。
来年はスタッフの都合により、1月7日から配信を開始いたします。
よろしくお願いします。


2021年12月30日(木)

「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりして いるのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12



多くの人は、自分に無いものを求めていると言われている。「ああ
であれば〜、こうであれば〜」「自分も〜のようであれば」と。
違う境遇や、違う能力や性格を求める。しかしそれなら現実の自分
を否定する事になってしまう。美しい声が欲しい、スポーツ選手に
なりたい、足の裏は嫌で、華やかな目や口になりたい・・。

一生、他を羨んで生きるなら、満足する事が一度も無い人生になっ
てしまう。バラはバラ、百合は百合のそれぞれの良さがあり、特質
があり比較が出来ない。意味を無さない。頭ではよくわかるのだ
が、
頭だけだろうか。信仰によって受け取る必要がある。人と比較し、
自分に無いもので、人を羨んでいるなら、まずそれを認めよう。
思っていない振りをせず、自分の羨望や妬みを主の前に認めよう。

それが大切だ。そこから新しい歩みが始まる。そしてそれなくして
始まらない。自分が、誰それのようになろうとするのでなく、主
が、
唯一無二の者として、創造して下さった、そこで主を認め、自分を
認めよう。主が創造されたという事は、代わりがない、かけがえが
ないという事だ。人のようになるという意味では、決して自分を変
える必要はない。

だが、更に主に近づけられ、キリストのかたちに変えられて行くと
いう意味では、日々に造り変えられる必要がある。主は、満足を下
さる。主にあって生きる時、満足できる。もし心に何かが欠けてい
るなら、主にありのままを告げて、心を探って頂こう。主によって
満ち足りる心へと導いて下さる。
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人のもので自分を量るという知恵のない時をどれ程、費やしただろ
う。主に出会い、決して揺らぐことのない主と、主が与えてくださ
る知恵で生きていける。主が解放してくださる。


2021年12月29日(水)

しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」 詩篇73:28



アダムとエバは、主からどの木を取って食べてもよいが、善悪の知
識の木の実は食べてはならないと、命じられていた。だが、エバが
サタンに誘惑されて、とって食べてしまい、アダムにも与えた。ア
ダムとエバは罪を犯してしまった。蛇の「あなたがたが神のように
なり」という誘惑だった。

誰からも命令されず、束縛されず、自分の好きなように、思い通り
に生きることができると。罪が入り、主との関係が壊れてしまっ
た。
愛と喜びに満ちた交わりが失われ、主の御顔を避けて、隠れるよう
になった。その時、主の方から彼らを呼ばれた。「あなたは、どこ
にいるのか」と。

「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主のみ声を
聞いた」とあり、主が彼らに呼びかけられた。「あなたは、どこに
いるのか」、これは物理的な場所のことではない。どこにいるかご
存じだ。主との関係のことを言っておられる。今、どうだろう。心
に平安無く、思い煩いや焦り、不安で心が重いだろうか。

叉、世に浸かっているが、心の奥に虚しさを覚えているだろうか。
「あなたは、どこにいるのか」、主は御声をかけておられる。主と
の関係の問題で、今、主から離れているだろうか。平安の無い状態
だろうか。

あるいは、主に委ねることが出来ずに自分の力に頼み、重荷にあえ
いでいるだろうか。御声を聞くなら、あるがままの状態を主に打ち
明けよう。私たちの最大の喜びと幸せは、主の近くにいることだ。
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自力の足りなさにあえいでいる時、出来ませんと主に言えるのは何
と幸いだろう。世に解決はなく「お前の神はどこにいるのか」言う
ばかりだ。どこにいるのか、の主の声に愛を持って応答しよう。


2021年12月28日(火)

「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあな たがたに与えるのは、世が与えるのとは違います」ヨハネ14:27



主は、「わたしの平安」を与えると言われている。それは、世が与
える平安とは違うと。世の平安は、平穏無事が善で、問題が無い事
による平安だ。そのため偶像に祈る時に、「家内安全」「商売繁
盛」
「無病息災」「五穀豊穣」だ。病気やけがが無い事、商売は繁盛
で、
金銭面で満たされている事が平安だ。

それらからそれる時、不幸という事になる。「商売不振」「倒産」
「リストラ」「経済的苦境」「不作」はあってはならない事だ。そ
れらが続くと、何かのたたりと、お払いを勧められる。しかしクリ
スチャンはどうだろう。根深く培われた価値観はどうだろう。受験
合格は善で、不合格は悪だろうか。

合格は祝福されていて、不合格は祝福されていないのだろうか。し
ばしば逆境に陥った時に、気持ちは沈んで、辛くなり、喜びも平安
も失せてしまう。それは、祝福されていないと思ってしまうからだ
ろうか。ここが要警戒だ。順境が善で、逆境は悪との価値観が無い
だろうか。

しばしば不思議を経験する。周囲、負の状況に取り囲まれる中で、
主と交わり、祈り、御声を聞いて行く時に、一つ一つと明け渡し、
委ねて行く中で、状況は厳しく、何も変わらないのに、心が平安に
される。何だか心が暖かくなり、大丈夫だと思える。

外側の状況に関係無く「主の平安」を経験する。そして恐れが消え
る。主と交わろう。ことごとく気持ちも感情も思いも告げよう。心
を変えられる。
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恐怖と支配されるのは主から目がそれた時だ。その時は恐ろしい闇
を経験するが、主と共にあると状況は嵐でも心の底は静かに平安
だ。
主を通らずに私たちに届くものは何もないと支えられる。


2021年12月27日(月)

「すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々 は彼女のためにイエスにお願いした」ルカ4:38



ペテロの姑が、ひどい熱病であった。主が会堂を出て、ペテロの家
に入られた時であり、その時に、周囲の人々が主にお願いした。彼
女自身は病に倒れていて、何も出来ない状態だ。私たちもどうだろ
う。人々が、心身の疲弊でどうにもならない時は、私たちが主のも
とにお願い行くことができ、執り成しの祈りができる。

「彼女のためにイエスにお願いした」。御霊に示される執り成しの
祈りがあるだろうか。あの人のために、この人のために、自分にも
出来ることがある。すると主が、枕元に来て、熱をしかりつけられ
ると、熱が引いた。主は、人々の願いを聞き入れて、彼女をいやし
て下さった。

主は私たちの執り成しの祈りに答えて、みわざをして下さる。私た
ちも、祈りの答えはどんなに嬉しいことだろう。大きな励ましを受
ける。そして熱が引いた彼女は、すぐに立ち上がって、もてなし始
めた。普通熱が下がってもまだフラつくのに、全きいやしだった。

熱で苦しんでいた彼女は、主にいやされて、何をしたか。「もてな
し」た。彼女は、主への感謝が溢れ出て、行動に表して行った。主
に仕え、人々に仕える者にされた。私たちは、へりくだって、仕え
なければならない、ではなく、感謝して行く時に、溢れ出て仕える
者とされて行く。

「ねばならない」で行動すると、喜びが無く、重荷となり、疲れて
しまう。主への感謝でいっぱいになる時、「もてなし始めた」。仕
える者にされて行く。苦しみも、感謝をもって仕える者とされるた
めに用いられる。
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執り成しの祈りによって、今年一年もどれ程の祈りの答えを受け取
って来ただろう。多くの問題の中で主がどのようにして栄光を現さ
れたかを共に知る者とされる。主への賛美が溢れ出る。


2021年12月26日(日)

「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこ ともない」詩篇121:3



「山に目を上げ、私の助けはどこから来るのか」これは、エルサレ
ムへ巡礼の旅に出る時のものだ。立ちはだかる険しい山々、苦難が
待ち受ける行く手に、助けがあるのだろうか。エルサレムは遙か彼
方であり、どんな危険が待っているかわからない、だが巡礼者は、
その山々よりも、更に上に目を注いだ。「私の助けは、天地を造ら
れた主から来る」。

その山々を造られたのは主で、すべての状況も主の主権と支配の中
だ。助けは主ご自身から必ず来る。私たちの人生も、巡礼の旅のよ
うだ。険しい山々があり、荒野があり、様々な危険がある。今、行
く手を阻む困難の山がある。それは経済的困難、健康問題、仕事の
事、対人関係、又、誰にも言えない悩みだろうか。

ある生徒が、カンニングをしてしまった。良心にとがめが来て、平
安が無い。心が重苦しく、鉛を抱えているようだった。恐れと不安
にさいなまれるが、誰にも言えず、どうしてよいかわからない。恐
い。その苦しみをそのまま祈りに持って行った。主に助けを求めた。

その時に「私の助けは、どこから来るのか」の御言葉が自分の心情
とピタリと重なった。まさに自分の心の叫びだった。すると「私の
助けは、天地を造られた主から来る」と答えを得た。「主から来
る」「主は、あなたを守る方」、主に悔い改める事ができ、あれほ
ど苦しかった心が、すうっ〜と平安にされた。

誰にも言えなかった心が変えられて、翌日、担任に話しに行けた。
赦してもらえ、善処してもらえた。心がすっきりし平安に満ち満ち
た。感謝に溢れた。助けは、天地を造られた主から来る。祈りに持
って行こう。

・・・・・・・・・・・・
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。
あなたはわたしをあがめよう」と今までの信仰人生、ずっと主に助
けられて、ここまで来た。「あなたは私の助けでした」助けられな
かった事が無い。今後もどのように助けて下さるか、期待が膨らむ。





2021年12月25日(土)

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はイ ンマヌエルと呼ばれる」(訳すと、神は私たちとともにおられる、 という意味である)」マタイ1:23


マリヤはある日突然、現われた御使いに「おめでとう、恵まれた方。
主があなたとともにおられる」と言われた。この言葉に驚いて、ひ
どく戸惑った。続けて「あなたは神から恵みを受けた」と。どんな
恵みかというと「みごもって、男の子を産む」。名をイエスとつけ
るようにと。

「でもどうして」と、マリヤは問うて行く。まだ結婚してないのに
と。すると「聖霊が臨み、いと高き方の力がおおう」のだと。「神
にとって不可能は一つもない」と。マリヤは夢にも思わなかった事
であり、だが主からのこと、主のご計画と受け入れた。

しかし当時、未婚で妊娠すると石打ちの刑だ。死を覚悟の上だ。ヨ
セフを傷つけ、結婚も壊れ、周囲の非難にさらされるだろう。この
厳しい中で、マリヤはなぜ決断出来たのだろう。「恵まれた方」と、
まずマリヤは神に選ばれた人だった。こんな命がけの状況なのに、
御使いは「大変な事ですね」でなく「おめでとう」と。

それもマリヤの気持ちを聞いているのでなく、一方的告知だ。もう
すでに決められた事だった。そして主は、マリヤが従う事を知って
おられた。なぜ「おめでとう」と喜びなのか、「主があなたととも
におられる」からだ。「インマヌエル」これは奇跡だ。どんな危険
や苦しみがあろうと、今、主が共におられる。問題が無くなる事が
奇跡なのでなく、主が共におられる事が奇跡だ。

・・・・・・・・・・・
私たちの信仰人生においても、問題は次々と起きる。無病息災、家
内安全等、問題が無い事が救いなのではなく、「インマヌエル」主
が共におられることが救いだ。「わたしだ。恐れることはない」と
常に共におられる主に、焦点を当て続けよう。


2021年12月24日(金)

「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのは よくありません」使徒6:2


聖霊が力強く働き、どんどん人々が救われた、初代教会の中で、問
題にぶち当たった。ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を
使うユダヤ人たちに対し、やもめ達が毎日の配給で、なおざりにさ
れているとの訴えが来た。そこで使徒達は、弟子たち皆を集め、こ
の問題の解決に当たった。

そして御言葉の奉仕が最優先である事を伝えた。神の言葉を教える
事を後回しにして、様々対応に当たるのは時間と労力が取られる。
神の言葉の奉仕を第一にしたいと。その結果、御霊と知恵とに満ち
た、評判の良い7人を選び、この奉仕に当たらせる事に。そしてペ
テロ達は御言葉の奉仕を優先できるようにした。

この解決は全員の承諾を得、一致の中で行なえた。皆に平安があっ
た。問題に良い解決が与えられた結果、「こうして神の言葉は、ま
すます広まり」「弟子の数が非常に増え、多くの祭司たちが次々信
仰に入った」。問題解決だけでなく、更に素晴らしい結実を見た。

ある人は夏休みに高給のバイトに飛びついた。しかし早出と残業の
毎日で、心身消耗しきり、全くデボーションも持てなかった。平安
失せて、油切れの状態で、クタクタで倒れそうだ。主が後回しにな
っている事に気づき、やめる事にした。

祈らずに始めてしまった結果だったが、まず主との交わりの大切さ
を学んだ。私たちにも、主との交わりが後回しになっていないだろ
うか。今一度、祈りの祭壇を立て直そう。
-------------
主と交わり主と共に歩む幸いは、外からはわからない満ち足りた平
安と喜びが、内にある。祈りの祭壇は徐々に崩れていく。忙しくな
る前に祈り、主から慰めも力も受けて出ていこう。


2021年12月23日(木)

「・・主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は 富み、ますます栄えて、非常に裕福になった」創世記26:12



イサクが飢饉に会った。そこでゲラルに行った。その時に、皆がす
るように食料豊富なエジプトに移ろうと考えた。それほど深刻な飢
饉であった。しかし主が、イサクに現われて「エジプトへは下る
な。
わたしが示す地に住め」と止められた。そうするなら「あなたと共
にいて、あなたを祝福する」と。

この地を子孫に与え、子孫は空の星のように増し加えられ、子孫に
よって地のすべての国々は祝福されると。大いなる祝福の約束を下
さった。イサクは従い、とどまった。そしてその地で種を蒔いた。
すると、何とその年に百倍の収穫を見た。驚くべき主のみわざであ
った。非常に厳しい飢饉の中で、それも極めてやせた土壌で、百倍
の実を結ぶなど考えられない、有り得ない奇跡であった。

それにイサクは農民でなく、父の代からの遊牧民だった。それが農
耕をして百倍もの実を結んだ。主に言われた通りに従った結果だっ
た。「主が彼を祝福して下さったのである」と。こうしてイサクは
富み、ますます栄えて非常に裕福になった」。私たちも見た目、常
識、自分の考えでは、絶対こうした方が良いと思う事がある。

しかし時に、主の御言葉、示しは全く違う方向である場合がある。
イサクがエジプトに下らず、とどまったように。しかしそこには大
きな祝福がある。自分の常識、自分の判断でなく、主の御声を聞い
て、主の示しに従おう。その時、「主が彼を祝福してくださったの
である」を経験して行く。
-------------
自分の目にベストと見えたらそれが全てだと思ってしまう弱さがあ
る。主の御言葉は何と言われているか、よく祈り決断したい。主の
百倍の祝福を経験し、更に新しく主を知っていこう。


2021年12月22日(水)

「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配って おられる」箴言5:21



人は皆、失敗をしてしまうが、信仰の勇者アブラハムにも失敗があ
った。ネゲブの方へと旅の途中に、激しい飢饉に会う。その時、エ
ジプトへ下ってしまう。主から「あなたの子孫に、この地を与え
る」
との約束を受けたのに、約束の地を離れてしまった。主の言葉でな
く、自分の思いに従ってしまった。

エジプト人は、自分が美しい妻サラの夫だとわかると殺すだろうと
恐れた。そのため妹だと嘘をつくようにと。そうすれば自分によく
してくれ、自分も生き延びることができるだろうと。肉の思いを働
かせ、画策する。異母妹ではあるが、この場合は故意の偽りだ。

では、サラはどうなるのか。まるで自己中心の保身だった。美しい
サラは、宮廷に召し入れられた。そしてアブラハムは、サラのゆえ
に、パロから厚遇を受け、羊や牛の群れ、ろばやらくだ、男女の奴
隷を与えられた。しかしサラのこの危機に、主が直接介入された。

パロとその家をひどい災害で痛めつけられたのだ。パロは恐れて、
彼らを所有物と共に出した。サラは主により守られた。信仰の父ア
ブラハムにも失敗があった。しかしヘブル11章の信仰の人々に名を
連ねている。誰しも失敗する。主は、失敗を赦して下さる。主のあ
われみは尽きない。

失敗から学ぶ事が大切だ。危急の際に、何とかしなければと、自分
の判断で動こうとしてしまうが、まず祈ろう。主は目の前の困難を
ご存じだ。主が道筋を示して、導いて下さる。
-------------
自分の判断で動き多くの失敗を経験する。焦りで何も見えなくなる
その時にも、主は私たちを支えてくださっている。経験から学ぼ
う。
信仰人生、ずっと主が目を留め心を配っていてくださる。


2021年12月21日(火)

「正しいことばは王たちの喜び。まっすぐに語る者は愛される」 箴言16:13



対人関係で行き違いが生じ、辛くなる事があるだろうか。人からの
あの言葉、この言葉がひっかかり、ひどく気になり、思い煩いや不
安材料となる。又、面と向かって批判されたり、責められたりする
事があるかも知れない。心痛く、落ち込んでしまう。よく顧みて、
幾ら考えても、自分に非が無いなら、いちいち心に留めなくてもよ
い。

聞き流すべき言葉がある。心に留めるべきは御言葉だ。叉、もし自
分の側に非があるなら、悔い改めて、相手にも謝る事が必要だ。あ
る人が、友人との帰路で、ちょっとした意見の相違から、言い合い
になってしまい、気まずく別れた。帰宅しても心が重く、気が晴れ
ない。平安が無いので、祈りに持って行った。

御前で祈り、祈りの中で自分を振り返った。相手と議論になり、自
分は正しいと思っている。自分は間違っていない。でも、自分の正
しさを主張したいばかりで、そこに自我が出て、議論のための議論
になっていた事、自分の言い方もきつくて、態度も良くなかった
事、
愛が無かった事を主から示された。主の御前に悔い改めた。すると
心がすっきりし、平安が戻った。

すぐに友人に電話して、悪かった事を詫びた。すると相手も、平安
が無くて同じ事を思っていたと。こちらこそと謝ってきた。共に晴
れやかになり、主に感謝した。言葉で平安が失せた時は、まず一番
に主のもとへ行こう。正しく導いて下さる。そして御霊に導かれ
て、
まっすぐに語る者とされたい。
-------------
流してもよい言葉、まっすぐに立っていなければならない言葉をよ
く悟れるように祈ろう。漠然とした感覚や一時の感情、人の言葉で
はなく主の義しさの上にしっかりと繋がっていたい。


2021年12月20日(月)

「あすの心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦は その日その日に、十分あります」マタイ6:34



イスラエルの民はモーセに導かれて、エジプトを出た後、荒野に出
た。主はその厳しい荒野で、民たちを40年間養われた。天からマナ
を降らせられたのだ。毎日その日1日分だけを集めるようにと。そ
の日の分だけだ。6日目だけは2倍集めたるようにと。7日目は安
息日で、集めることができないからだった。

しかし、ある人々は命令を聞かず、欲張って翌日分まで取り込んだ
が、それは虫がわき、悪臭を放った。又、ある人々は6日目に2倍
集めないで、安息日に取りに出た。しかし安息日には、何も見つか
らなかった。主はこの事を通して、「わたしの教えに従って歩むか
どうかを試みられ」たのだった。

40年の間、1日たりともマナの無い日はなく、主は荒野で民を養わ
れ続けた。これは「日ごとの糧」を表わしている。主はその日の必
要を必ず与えて下さる。明日の心配はいっさい無用だ。明日、明後
日の糧を求めよとは言われない。「今日」の糧だ。明日のことは明
日が心配する。今日1日の糧があれば充分だ。明日の心配は不要
だ。

能天気でよいという意味ではなく、主が心配して下さるから、心配
不要なのだ。「あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさ
い。
神が・・心配してくださるからです」。今日、必要な糧が与えられ
ている事を精一杯感謝して、明日は主にいっさいお任せしよう。そ
の時、主はその人を、どんな中であろうと、平安と喜びに守って下
さる。
------------
明日の事がどうなるか私達にはわからなくても、ご誠実な主がおら
れる。主に助けを求めながら、祈りながら今日を精いっぱい生きよ
う。今日与えられてる豊かな恵みを数えよう。


2021年12月19日(日)

「ダビデは自分の衣をつかんで裂いた・・彼らはサウルのため、その 子ヨナタンのため・・いたみ悲しんで泣き、夕方まで断食した。彼ら が剣の前に倒れたからである」Uサムエル1:1

1

傷つけられた相手を赦せない経験をした事があるだろうか。怒りと
憎しみ、恨みでがんじがらめだ。憎む相手がいるなら、苦しく、ど
んなに楽しい時も、ふと心に暗い影を落とす。放免される事がない。
心が囚われ、牢獄の中だ。しかしダビデはどうだったのだろう。

サウル王に殺意を持って絶えず付け回された。サウルに忠実に仕え
て来たのであって、良い部下であり、何も悪い事をしていない。だ
のに、ずっと狙われた。本気で殺害しようとされ、槍を投げつけら
れ、突き刺されそうになった。王であり、いつでも軍勢を招集でき
る相手だ。野山を逃げ回り、常に死と隣り合わせで、不安と恐怖は
どれほどだったろう。

サウルを打つ好機があったにかかわらず、神に選ばれ、油注がれた
王に手を下す事などできないと。サウルからの理不尽な攻撃に会っ
たにかかわらず、ダビデは驚くべき事に、サウルを憎んでいない。
復讐心はおろか、サウルの死を心から悼んでいる。どうしてそんな
心持ちでおれたのか。ダビデは、主に自分自身も、何もかも委ねき
っていた。すべての信頼を主に寄せていた。

そして恐怖、不安、思い煩い、嘆きも、怒りも、苦しみ、悲しみ、
あらゆる思い、感情を主に持って行った。そこで主と交わり、主に
受け止めて頂いたので、心が守られた。ここが秘訣だ。ダビデのご
とく、ことごとく主に持って行き、引き受けて頂こう。どんな中で
あっても、心は守られる。

・・・・・・・・・・・・・
ダビデはずっとサウルに追われ、命を狙われた。死と隣り合わせの
日々だった。しかしサウルに反撃、仕返しをしなかった。そんな主
に委ねたダビデを、主ご自身が守られた。自分で守るのでなく、主
に守って頂けたらどんなに幸いだろう。


2021年12月18日(土)

「ダビデが主に伺って言った『あの略奪隊を追うべきでしょう か』・・するとお答えになった『追え。必ず追いつくことができる。 必ず救い出すことができる』」Tサムエル30:8


前回はダビデが祈らずに、自分の思いで動いた結果、失敗した。そ
の後、ダビデたちが留守宅に戻ると、なんとアマレクに襲撃され、
火で焼き払われ女子供は皆連れ去られていた。ダビデも妻たちや財
産も奪われ、すべてを失った。皆は大号泣し、泣き明かした。民は、
この悶々、不満をダビデにぶつけた。だがダビデはこの窮地により、
主に立ち返った。

前は自分の考え、肉の思いに従ったが、今は「主によって奮い立っ
た」。そして「主に伺って言った」。どうすべきかを主に問うた。
略奪隊を追うべきか、追いつけるのか。すると主は「追え。追いつ
ける。救い出せる」と。600人と共に追いかけた。200人は疲れてし
まい、400人で追跡した。

すると途上でアマレクの捕虜で、エジプト人の逃亡奴隷に出会う。
主の関与だ。彼を助けたところ、アマレクのもとに案内してくれた。
アマレクは、溢れる略奪物で飲み食いし騒いでいた。ダビデたちは
24時間彼らを打ち、妻子も略奪物も全部取り戻した。何一つ失わな
かった。

主に祈り、従った結果だった。戻った時、よこしまな者たちが、戦
っていない者にはやれないと。ダビデは主が賜った物で主の恵みだ
からと、同じく分けた。周囲の町々にまで贈った。突如の事態に際
し、自分の思いで動くのと、祈って行動するのでは、天地の差が生
じる。まず主に向き、祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・
主に頼らないで、自分で動くと失敗する。祈らないで物事をすると
失敗する。主を仰ぎ、主と一つに歩む事を学ばせられる。そこに御
霊の喜びがあり、結果を主に委ねる事ができて、平安がある。祈り
により主との関係が培われて行く。


2021年12月17日(金)

「そこでダビデは、いっしょにいた六百人の者を連れて、ガテの王 マオクの子アキシュのところへ渡って行った」Tサムエル27:2



常に主を仰ぎ、主の導きを求めていたダビデだが、ここではサウル
に追われる窮地に「心の中で言った」とある。主への祈りでなく、
自分自身に語った。つまり窮地の際に祈らずに、自分の思いで行動
してしまった。ずっと殺害を狙うサウルに追われ、常に死と隣り合
わせの日々、どんなに緊張状態だったろう。

ストレスが高じる余り、敵のペリシテの地に入れば、サウルも追跡
を諦めるだろうと思った。私たちは、様々な思いが絶えず巡る。し
かし肉の思いに従ってしまうと失敗してしまう。ダビデは肉の思い
に従い、部下と家族と共にペリシテの地に入った。それにより皆を
も巻き込む事になる。

サウルはダビデが強敵ペリシテの地に入ったと知ると追跡しなかっ
た。しかし肉の行動は、苦しい刈り取りとなり、自分に返る。アキ
シュのもとで、部下と共にゲシュル人等を襲った。だがアキシュに
は同胞イスラエルを襲っていると見せかけ、嘘をついた。そしてそ
の嘘がばれないよう、告げる者がないよう全員を虐殺した。

そんな時ペリシテは、イスラエルと戦うために軍隊を招集した。ダ
ビデはアキシュから出陣するよう求められた。何と同胞と戦うはめ
になってしまったのだ。大変な窮地に陥った。が、首長たちから、
ダビデが裏切るのではと、同行阻止の横やりが入った。

主が介入され、ダビデは同胞と戦う事から守られた。祈らずに、事
を行なうと大変な窮地に陥る。自分の思いで進むと失敗してしま
う。
経験するところだ。どんな場合にも、まず主を仰ぎ、祈ろう。
----------
ダビデでも強いストレスと疲れから、恐れに支配されてしまう。主
に祈らなければ恐れで肉はどんどん暴走していく。気づいたところ
から、主の導きを求めよう。主に明け渡せるように祈ろう。


2021年12月16日(木)

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに 加えて、これらのものはすべて与えられます」マタイ6:33


私たちは、しばしば優先順位を間違ってしまって、失敗してしま
う。
御言葉は、神をまず第一にするなら、生活の必要はすべて与えられ
ると、約束してくれている。神第一だ。そうするなら霊的に満たさ
れて、物質的な必要もすべて与えられると。ところが、しばしば逆
にしてしまう。経済的困窮が来ると、不安でたまらず、まず金銭が
第一になり、心がそこにしがみつき、思い煩いにさいなまれてしま
う。

神は吹っ飛んで、後回しになる。まず自分で何とかしなければと、
金策のために走り回る。ある人の会社が倒産した。貯えも無く当座
の生活費が必要だ。親しい親戚にお金を借りようと思った。信頼関
係があり、快く用立てしてくれるだろう。その時に「神の国とその
義とをまず第一に」との御言葉を与えられた。

人に頼るのでなく、まず主に頼り、祈るようにと。御言葉に従い、
主に必要を求めて祈った。すると以前友人に貸していたお金を、
やっとめどがついたからと返しに来てくれた。自分も忘れてしまっ
ていて、驚いた。ある人は仕事が忙しく、残業続きでヘトヘトだっ
た。身体が疲れ、時間は無く、デボーションを持てない日が続い
た。

段々平安も失せて、油が切れて、心がきしんだ状態となる。イライ
ラピリピリし、潤いも喜びも無かった。「神第一」を示された。
「それに加えて与えられる」ものの方を第一にしていた事に気づか
された。祈りの祭壇を築き直した時に、喜びが戻った。
-------------
優先順位がはっきりとしている歩みは感謝だ。次々と目の前にする
き事が迫ってくるが、第一のものを守っていよう。心が平安でいら
れる。それが主の御約束だからだ。


2021年12月15日(水)

「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をお おうからです」Tペテロ4:8



箱舟から出たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ノ
アはぶどう畑を作り始めた。そしてぶどう酒を飲んで酔い、天幕の
中で裸になっていた。ノアにも弱さがあった。息子のハムがそれを
見て、外にいるセムとヤペテに告げた。ハムは父のぶざまな姿を見
て、二人の兄たちに吹聴するが、しかし二人の兄たちは、着物を持
って来て、自分達二人の肩にかけ、後ろ向きに歩いて行って、父の
裸をその着物でおおい、父の裸を見なかった。

愛は、人の失敗や弱さをあげつらい、辱めるのでなく、それをおお
う。どんな人にも失敗や恥がある。ノアは自らの裸をおおってくれ
た二人の息子を祝福した。「愛は、多くの罪をおおうからです」と
ある。律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕らえられた女性
を、
主のもとに連れて来た。そして主に、モーセは姦淫の女を石打ちに
するよう命じているが、あなたはどうするのかと詰め寄った。

群衆は好奇心で見物するかのように、そこにいる。主はじっと座っ
て地面に何か書いておられたのだが、「罪の無い者が石を投げよ」
と言われた。すると一人去り二人去り、誰もいなくなった。その女
性に、主は「婦人よ」と語りかけ、「わたしもあなたを罪に定めな
い。今から決して罪を犯してはならない」と。

主は愛により、その女性の罪をおおわれた。「幸いなことよ。その
そむきを赦され、罪をおおわれた人は」。私たちも、十字架で罪を
赦され、おおわれた者だ。主は、恥と失敗をおおって下さる。主に
愛されている。何と嬉しい事だろう。
-------------
人の失敗がよく目につくのに、裁くばかりで愛でおおう事が何とで
きない者だろう。主の十字架によって罪を赦され、これからも赦し
続けられる。主のご愛を少しでも身につけ倣いたい。


2021年12月14日(火)

「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、す べての家畜とを心に留めておられた」創世記8:1



悪が増大した地上の人々を滅ぼすため、ノアは主から「箱舟を作
れ」
と命じられた。見えるところは晴天、大雨などとても思えない。洪
水など誰が信じるのか。しかしノアは自分の思い、感覚、感情でな
く、主の言葉を真実とし、従った。寸法も設計も「すべて主の命じ
られたとおりにした」。

箱舟が完成した時も、自分で入るのでなく、主から「あなたとあな
たの全家族とは箱舟に入れ」との言葉を受け、従った。又、雨は40
日40夜降り続き、その後も5ヶ月間、水が増え続けた。やがて水が
引き始め、大雨が止んだ。アララテ山上に箱舟はとどまり、2ヶ月
半後、山々の頂きが現れた。

ハトを放っては様子を見た。山上で7ケ月待った後、地は乾いた。
その時、主は、家族と一緒に箱舟から出るよう命じられた。ノアは
箱舟を作るのも、箱舟に入るのも、出るのも、すべて主の言葉に従
った。自分の思い、計画でなく「ノアは、すべて主が命じられたと
おりにした」。

水かさが増し続けた5ヶ月の間、又、雨が止んだ後7ヶ月間、ずっ
と箱舟の中だった。その間、どんな思いだったろう。しかし主は
「ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての
家畜とを心に留めておられた」。「心に留めておられた」、私たち
にも同様にして下さっている。

先が見えない、暗やみの試練の中で、主は、心に留めて下さってい
る。主に従う者を愛し、慈しみ、しっかり目を留めて下さってい
る。
見て下さっている。これがあれば十分だ。示された言葉に従って行
こう。
-------------
主のご愛を信じよう。主は御言葉どおりに真実を持って守り導かれ
る。先は何も見えなく感情は絶えず揺れ動くが、主は不動だ。常に
目を留め、今も導いてくださっている。


2021年12月13日(月)

「『外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。から の器を。それも、一つや二つではいけません』」U列王4:3



エリシャは預言者の集団を従えていたが、一人が亡くなった。その
妻が、大変な心痛の中、更に経済的困窮に見舞われた。借金があ
り、
貸し主が二人の子供を奴隷にすると、エリシャに訴えて来た。エリ
シャは「何をしてあげようか」と、「家に何があるか」と尋ねた。
家には油の壺一つだけと。

エリシャは、近所から空の器を借りて、その壺の油をつぐように
と。
彼女は多数の壺を集め、次々に油をついだ。油は無くならず、器の
分だけ出て来た。そして最後までついだ時、油は止まった。それを
売って負債分にし、残りを生活費にするようにと。主は彼女の子供
たちを守られた。

主は、私たちにも「何をしてあげようか」と問うて下さる。そこで
は空の器が満たされた。神は虚しい、空の心を満たして下さるお方
だ。私達の心はどうだろう。空の心を様々なもので満たそうとす
る。
富、仕事、趣味、名誉、愛する人、人からの賞賛、自己実現・・し
かし満たされない。それで別のものへと、移り渡るが満たされな
い。

神のもとへ、空の、虚しい心を持って行く時に、聖霊で満たして下
さる。神以外のもので満たそうとしても、心はいつまでも空のまま
だ。他のもので埋めようとしていないだろうか。又、器に余分なも
のが入っていないか。プライド、虚栄心、貪欲・・それなら、主は
満たす事ができない。それらを認めて明け渡そう。主は空の器を満
たして下さる。
-------------
いらないもの、捨てるべきもので心を一杯にしようとしている。何
をしてあげようかとの主から問いに、まず空にしてくださいと祈り
たい。空の器で主の豊かな満たしを待ち望もう。


2021年12月12日(日)

「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のた ましいの値うちをはかられる」箴言16:2


ある人がダイエット中で、ケーキ店に近づいた時に、「主よ、もし
ケーキを買う事が御心でなければ、駐車場が空いていませんよう
に」と祈った。すると駐車場は空いていた。笑い話みたいだが、私
達も同じような事をしているかも知れない。主が見られるのは動機
だ。動機はどうなのだろう。

主よ、御心が成りますようにと祈るのだが、実は自分のしたい事は
決まっていて、私の心が成りますようにだろうか。主からの承認印
が欲しいのだろうか。御言葉を通して導きを、と祈るのだが、もし
すでに決めているなら、自分の計画に合わない御言葉は無意識にも
排除してしまう。

そして自分に都合の良い御言葉しか目に入らない。自分は決してそ
んな事はしない、偏見無しに御言葉を聞いていると思うのだが、無
意識にそうしてしまっていて、気づかない。時々、御言葉を与えら
れたと思うが、もしその御言葉が実現しなければ、それは神から語
られたものではないとある。

自分が取って来た言葉だと。余りにも思いが強いと、間違ってしま
う。間違いに進まないためには、自分の計画を一旦、主に委ねる事
だ。主に明け渡すように言っている。「しようとする事を主にゆだ
ねよ。そうすれば、あなたの計画は揺るがない」。

自分の手から離れたその計画が、もし御心で無ければ、返って来な
い。それはその方がよいのではないだろうか。しかし御心なら返っ
て来て、更に揺るぎないものとされる。そして主により成就される。

・・・・・・・・・・・・
御心を求める時に、自分の強い思いがあると、御言葉もそれに合わ
せて取ってしまう。間違った方向へ行かないためにも、一旦自分を
ゆだねる事が大切だ。右でも左でも御心の通りにと、と明け渡す時、
御心がわかる事が往々にしてある。


2021年12月11日(土)

「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のた ましいの値うちをはかられる」箴言16:2


ある人がダイエット中で、ケーキ店に近づいた時に、「主よ、もし
ケーキを買う事が御心でなければ、駐車場が空いていませんよう
に」と祈った。すると駐車場は空いていた。笑い話みたいだが、私
達も同じような事をしているかも知れない。主が見られるのは動機
だ。動機はどうなのだろう。

主よ、御心が成りますようにと祈るのだが、実は自分のしたい事は
決まっていて、私の心が成りますようにだろうか。主からの承認印
が欲しいのだろうか。御言葉を通して導きを、と祈るのだが、もし
すでに決めているなら、自分の計画に合わない御言葉は無意識にも
排除してしまう。

そして自分に都合の良い御言葉しか目に入らない。自分は決してそ
んな事はしない、偏見無しに御言葉を聞いていると思うのだが、無
意識にそうしてしまっていて、気づかない。時々、御言葉を与えら
れたと思うが、もしその御言葉が実現しなければ、それは神から語
られたものではないとある。

自分が取って来た言葉だと。余りにも思いが強いと、間違ってしま
う。間違いに進まないためには、自分の計画を一旦、主に委ねる事
だ。主に明け渡すように言っている。「しようとする事を主にゆだ
ねよ。そうすれば、あなたの計画は揺るがない」。

自分の手から離れたその計画が、もし御心で無ければ、返って来な
い。それはその方がよいのではないだろうか。しかし御心なら返っ
て来て、更に揺るぎないものとされる。そして主により成就される。

・・・・・・・・・・・・
御心を求める時に、自分の強い思いがあると、御言葉もそれに合わ
せて取ってしまう。間違った方向へ行かないためにも、一旦自分を
ゆだねる事が大切だ。右でも左でも御心の通りにと、と明け渡す時、
御心がわかる事が往々にしてある。


2021年12月10日(金)

「異邦人の中にあって、立派にふるまいなさい・・あなたがたのそ の立派な行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようにな ります」Tペテロ2:12



よく言われる言葉があるが、私たちは寒暖計の人生だろうか。外気
温の通りに、温度を表示する。寒ければ低温を、暑ければ高温を表
示する。つまり、気温そのままに反応する。相手が穏やかであれ
ば、
こちらも穏やかに対応し、相手が冷たければ、こちらも冷ややか
に、
攻撃されれば、こちらも反撃する。

これは反応する生き方だ。これでは、自分の幸せ、不幸せが、相手
によってコントロールされる事になる。すべて相手次第という事に
なり、自分が無い。ここ数日を振り返ってみてどうだろう。他人の
あの言葉やこの態度で、自分がアップダウンし、又、温かくなり、
冷たくなっていないだろうか。

他人の評価で一喜一憂し、喜んだり、意気消沈したり、人が気にな
って、〃仕方が無い。まず常に反応している自分に気づく事から始
まる。寒暖計のごとく、人に反応するのでなく、御霊に反応する事
を学ぼう。肉の反応に流されるのでなく、主の御心を行ない、導き
に従う事を決心しよう。

ある人が、職場で辛く当たられ、挨拶しても無視された。しかし祈
る中で、反応ではなく、御霊に従って生きる事を決心し、相手に関
係無く、相手が無視しようと、自分は挨拶をし続けた。そんな中、
相手のお陰で仕事がうまく行く出来事があった。素直に感謝の気持
ちを伝えた。

すると相手は驚いたようで、ぎこちない様子だった。しかしその
後、
親しい間柄となり悩みを相談されるようになった。証しの機会が与
えられた。
-------------
人の感情に過剰に反応し、御霊の実を結べずにいるのは間違ってい
る。結果は誰によって決められているのだろう。気づけるように祈
っていたい。主の助けを受けて、どんな時も御霊に従おう。


2021年12月09日(木)

「神は喜んで与える人を愛してくださいます」Uコリント9:7



「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに
刈り取る」とあり、献げる事は大きな祝福だ。豊かに刈り取り、主
を新たに知る時とされる。だが、この祝福を奪おうと、サタンは妨
害して来る。肉には、富への執着心があり、所有欲、貪欲があるた
め、なかなか献げられない。

「受けるよりも与えるほうが幸い」と主は言われたが、与えるより
受けるほうが幸いになってしまう。だがもう一つの新しい性質は、
損得ではなく、主の御心を行なう事を求めて行く。その時、溢れる
祝福を受ける。ある人が、バイブルキャンプに参加して、恵まれ喜
びに満ち満ちた。

最後の集会で感謝献金の時が持たれた。全身に喜びが溢れ返り、財
布の中身を全部献げた。そうしたかったのだ。そして心満たされ
て、
集会が終わった時に、車で来ていた男性に声をかけられた「同じ方
向ですよね。一緒に帰りましょう。送りますよ」と。

自分は何一つ動かなかったのに、まさに主を感じ、主の配慮に愛に
触れ、その事が更に喜びとされた。ある人も同じ経験をした。連日
の聖書セミナーがあった。そこで余りにも恵まれて、大きな札の方
を献げた。給料前で、お金が無く、これを献げたなら翌日には出席
できないが、どうしてもそうしたかった。

心満たされて帰宅すると、遠方の祖母から手紙が来ていて、小遣い
が同封されていた。翌日も出席する恵みにあずかった。何よりも主
の愛に触れて、喜びに満たされた。主は喜んで与える人を愛して下
さる。
------------
主は右手で受けとられたものを左手で豊かに返してくださるお方。
与える事の出来ない者を、こうして経験を通し変えていってくださ
る。主に愛されている。喜んで与える者になりたい。


2021年12月08日(水)

「ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、『ア ナニヤよ』と言われたので、『主よ。ここにおります』と答えた」 使徒9:10



激しい迫害により、キリスト者は、エルサレムから方々に散らされ
た。ユダヤ人たちは執拗に、どこまでも彼らを追った。サウロは強
い殺害の意に燃え、大祭司にダマスコの諸会堂宛の手紙を頼み、見
つけしだい捕縛する権限を得ていた。すべての信者をエルサレムに
連行するためであった。

だがその途上で、突然天からの光を受け、主に出会い、目が見えな
くなる。アナニヤがダマスコに住んでいた。迫害の危機に、真剣に
祈っていただろう。そんな時に「アナニヤよ」と御声を聞いた。ど
んなにか心強かっただろう。だがその言葉は、驚くべきものだっ
た。

迫害者サウロに会いに行き、彼の目が見えるよう祈れと。アナニヤ
は余りの驚きに理解できず、彼はひどい迫害者で・・と問うて行
く。
するとサウロは、異邦人たちに宣教する選びの器だと言われる。ア
ナニヤは困惑だっただろうか。愛する同胞たちを殺した相手だ。

その助けのために祈れと。だが、あのサウロが本当に回心したのだ
ろうか。会えば殺されるかも知れない。本当に主の御声なのか?し
かしアナニヤは日々主との交わりに生きて、従い続けて来た。間違
いなく主の御声だ。

アナニヤは自分を献げて従った。主はアナニヤをこのために選ば
れ、
彼が従う事を知っておられた。そしてアナニヤは素晴らしく用いら
れた。私たちも主に呼ばれた時に、「主よ、ここにおります」と応
答しよう。
---------------
いろいろな場面で主に導きを求めて祈っても、自分の思いに合う事
だけを喜んで聞こうとしてしまう。主の御声も御心も、主に自分を
明け渡し、従いますの態度で聞いていきたい。


2021年12月07日(火)

「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺し ても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません」 ルカ12:4



私たちは、どうしても人を恐れてしまうものだ。人への恐れのため
に、主を証しできないでいるかも知れない。しかし主は、人の前で
主を認める者は、主もまた、その人を神の御使いの前で認めると。
そして「恐れなければならな方を、あなたがたに教えてあげよう」
と。身体を殺しても、それ以上何も出来ない人間を恐れるな。

人は何も出来ない。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持った方
を恐れよと。真に恐れるべきはこのお方だと。一羽の雀すら忘れら
れず、神の御前に覚えられていて、神の許しなしに地に落ちること
はない。当時、雀は価値の無いものの代名詞だった。無価値な雀で
さえ、主の主権と配慮の中にあるなら、ましてや私たちを守って下
さらない事があろうかと。

そして証しをする時には、「何をどう弁明しようか、何を言おうか
と心配するに及ばない」「言うべきことは、その時に聖霊が教えて
下さる」と。証しすべき言葉を口に授けて下さる。不安に思う事
も、
心配も必要無い。私たちも経験する。主を証しする時に、次々と語
るべき言葉が浮かんで来たり、ふさわしい御言葉が浮かんで来たり
する。

証しするには、勇気が要ると尻込みしてしまいそうだが、しかし、
証しする時には、特別に御霊が臨み、力強く働いて下さる。御霊の
助けがある。叉、証ししたい相手がいるだろうか。まず相手のため
によく祈り、祈りを積む事が大切だ。主は祈りに答えて、証しの機
会を与えて下さる。
--------------
日頃、祈ってはいても拒絶されるのが怖くてなかなか証し出来な
い。
でも、そうして伝えてくださる方がいたから今の自分がいる。恐れ
ず主の導きを信じて、主と受けた恵みを伝える管となろう。


2021年12月06日(月)

「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れ そうになった」ルカ5:6



その日、ペテロは、夜通しで漁をして、一匹も捕れなかった。朝に
引き揚げ、家に帰る前に網を洗っていた。そこに主が、ペテロの舟
に乗られ、少し漕ぎ出すよう頼まれた。先生の頼みなので、ペテロ
は舟を出した。主は、舟の中から、群衆に向かって御言葉を話され
た。

それが終わり、さあ帰ろうとした時に、「深みに漕ぎ出して、網を
下ろして魚をとりなさい」と言われた。ペテロは、「でも先生。夜
通し働いたが何一つとれなかった」と告げた。漁は重労働で、前夜
の漁で、身体もクタクタだった。少しでも早く家に帰って休みた
い。
叉、再度、網を洗うのは大変な作業だ。

それにまず物理的、常識敵に、朝方に、魚はいない。すべての状況
は反対方向に向いている。だが、ペテロは「でもおことばどおり、
網をおろしてみましょう」と網を下ろした。直前に舟で、主の御言
葉を聞いた事でそのように出来たのだろうか。目に見える所は、御
言葉と正反対だが、言われる通りにした。

するといるはずの無い魚が捕れて、それも驚くばかりの大漁だっ
た。
自分たちだけでは間に合わず、仲間の舟に助けを頼み、双方の舟が
沈みそうなほど満杯になった。ペテロは奇跡を目の当たりにし、驚
き恐れ、聖い畏れでいっぱいになり、主の足もとにひれ伏した。そ
して自分から離れるように願った。罪深い者だからと。

主はペテロを召され、「これから後、あなたは人間をとるようにな
る」と。もし、ペテロが、沖へ出て漁をせよと言われた時に、魚が
いるはずが無いし、疲れているからと、断って帰宅していたらどう
だろう。色々な思いが来るが、「でも、お言葉どおり」と、主の
言葉に従おう。大きな祝福にあずかる。
---------------
焦る思いに主は待てと言われたり、状況と御言葉はいつも違う。自
分の思いを置いて、「でもおことばどおりに」との態度で御言葉に
向き合おう。主に従い、祝福の経験を重ねていこう。


2021年12月05日(日)

「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけ ないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょう か」ルカ18:7



主が、この箇所で「いつでも祈るべきであり、失望してはならな
い」事を教えようとされている。ここに出て来るやもめは、何か理
不尽な目に会っていたようで、「私の相手をさばいて、私を守って
ください」と、ひっきりなしに不正な裁判官に訴え続けた。どうし
てもの必要に迫られ、必死で求めた。

神を恐れず、人を人とも思わない裁判官だが、やもめがうるさくて
〃仕方が無いので、裁判をする事にした。主は、このように私たち
にも、粘り強く求めるようにと言っておられる。この裁判官は、彼
女に対する親切や配慮で動いたのではない。しかし動いた。

ましてや私たちを愛し、慈しんでおられる主は、私たちのために正
しいさばきをされないはずがないのだからと。失望とは、希望を失
ってしまう事だ。希望を持つ事と、祈り続ける事は表裏一体だ。希
望を持つから祈り続けるのであり、祈り続けるから希望が持てる。
失望すると祈らなくなる。失望しないで祈り続けよと言っておられ
る。
バルテマイは、主が通られる時に、「私をあわれんでください」と
叫び始め、周囲が黙らせようとすると、彼は黙るどころか、ますま
す「私をあわれんでください」と叫び立てた。すると、主は立ち止
まり、「あの人を呼んで来なさい」と言い、「わたしに何をしてほ
しいのか」と問われた。主を叫び求める人に、主は足を止め、何を
して欲しいのかと問うて下さる。祈り続けよう。

・・・・・・・・・・・・
主は失望せずに、祈り続けよと言われている。裁判官はやもめがう
るさいから裁判をしたが、主は、うるさくて面倒だからでなく、極
みまで愛して下さっているから、喜んで答えて下さる。求める事を
喜んで下さる。思い煩いや心配事も、一つ一つ主に持って行こう。


2021年12月04日(土)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時 がある。生まれるに時があり、死ぬのに時がある・・」伝道者の書3:


1
「神の時」と言われているが、天の下=この地上では、何事にも=
すべての事に神の主権により、ご計画によって定められた「時」が
あると言っている。つまり信仰人生で、私たちに起きる一つ一つの
出来事が、偶然ではないし、たまたま起きたのでは無いと。辛かっ
た出来事、苦しかった事、悲しかった事、それらは運命ではないし、
思いがけず、無意味に起きたのではない。

主のご計画の中にあり、主の支配にあって起きた出来事だ。この世
界で起きるすべての事は、神によって定められているとある。すべ
ての事の背後に神の御手を見る時に、振り返ってみる、あの事、こ
の事の一つ一つが、違う意味合いを持って来るだろうか。「人は、
神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることがで
きない」とあり、主のなされる事をすべて理解する事は出来ない。

ああであれば、こうであればとの自分の思いがある。けれど、自分
の思いや、自分の計画を超えた、先をすべてご存じの主のご計画が
ある。そして主が、最善の時に、最善の事をされることを、私たち
は知っている。だからこそ、主にゆだねて生きる事ができるし、そ
うして行く時、心の底を流れる主の平安は揺るがない。

そして主のタイミングを信じて生きる時に、焦りや、急くことや、
思い煩いに飲み込まれずに、それぞれの「時」を地に足をつけて、
しっかりと生きて行ける。「定まった時期」、愛の御手により定め
られた、ご計画と信じて行こう。

・・・・・・・・・・・・
人生には様々な「時」がある。順境の時と逆境の時がある。あれも
これも、神のなさる事と。その時、その時を、受け止めて、そこに
主を認めて、主のお心を尋ね求めながら、歩んで行きたい。主が教
えようとされている事を悟って行けるよう祈ろう


2021年12月03日(金)

「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくし てください・・あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊 が、私をささえますように」詩篇51:1



ダビデは、信仰に歩んだ素晴らしい人物だった。しかし罪を犯して
しまった。バテシバとの姦淫の罪だった。そこで悔い改めれば良か
った。だが、それを隠ぺいするために、バテシバの夫ウリヤを殺害
するという、更に罪に罪を重ねてしまった。王であり、すべて意の
ままであり、口をつぐんでいた。しかし何もかもを見ておられた主
は、決して見逃されない。

預言者ナタンを遣わし、ダビデの罪を真正面から指摘された。その
時にダビデは、即、悔い改めたのだ。その瞬間、「主もまた、あな
たの罪を見過ごして下さった」とダビデの罪は赦された。サウル王
は、口先だけの悔い改めであったが、ダビデは真摯に悔い改めた。
ダビデの素晴らしいところであった。「私はあなたに、ただあなた
に、罪を犯し、悪であることを行なった」と。

「砕かれた、悔いた心をさげすまれない」と。ダビデは蒔いたもの
を刈り取って行く。バテシバとの間に生まれた子が病気になり、ダ
ビデは主に切に祈り、断食をして一晩中、地に伏した。どんなに痛
み苦しんだ事だろう。しかし亡くなった時に、ダビデは起き上が
り、
主を礼拝した。ウリヤを殺害したが、その命がどんなものであるか
を、身をもって知らされた。

子どもたちが姦淫の罪を犯し、実子は自分に歯向かい、苦しい刈り
取りをして行ったが、ダビデは残る生涯、悔い改め〃、主に従順に
従った。失敗してしまうが、人生何もかも終わったのではない。悔
い改めて、主により前に進んで行ける。
---------------
ただ神に悔い、その刈り取りもしっかりと受けとる。神の前に真実
に立ち続けるダビデの姿に学ばされる。神の前に真実にいたい。神
は豊かに赦してくださる。感謝だ。


2021年12月02日(木)

「主は、主の御声に聞き従うほどに、全焼のいけにえや、その他の いけにえを喜ばれるだろうか」Tサムエル15:22



主から王位を与えられた、サウル王だったが、不従順の罪のために
退けられてしまった。何をしたのか。主に「アマレクを打ち、すべ
てのものを聖絶せよ」と命じられた。だが「サウルと民」は、最良
のものを惜しみ、値打ちの無いものだけを聖絶した。主の言葉に従
わなかった。叉、それは王が、民と一緒に罪を犯したものだった。

サムエルは主から言葉を受け、サウルに会いに行く。サムエルに罪
を指摘されたサウルは、「私は主のことばを守った」と。「では羊
や牛の声は何か」と問われ「民が、惜しんだ」と。民のせいにし
た。
そしてそれは、「主に、いけにえをささげるため」だと、あたかも
主のためにと、正当化しようとする。

しかし自分の間違いを正当化するなら、幾らでも、どんな言い訳で
も出て来る。「そむくことは占いの罪、従わない事は偶像礼拝の
罪」
とサムエルが言った。従わない事は罪だと。そして「あなたが主の
ことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」と。聞き従う
ことは、いけにえにまさるのだと。私たちも、どうだろう。

主に言われた事に従うのではなく、それには従いたくないので、他
の善行で、何かを献げることで、埋め合わせしようとしないだろう
か。主は、示された事に従う事を喜ばれる。それ以外の善行で、決
して帳消しにならない。主は示された事に、従うこと喜ばれること
を覚えよう。そして「耳を傾けること」を喜ばれる。自分の思いで
なく、自分の思いを横に置いて、まず主の御声に耳を傾けて行こ
う。
---------------
目に見えない主の御心より目の前のものや自分の都合に心を奪われ
てしまう。ご誠実な主に、誠実に応答したい。ごまかし、言い訳に
自分自身が欺かれないようにしたい。


2021年12月01日(水)

「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行なう」イザヤ48:10


イスラエルの民に、大きな試練が臨んだ。バビロン捕囚という最悪
の事態が起きた。 祖国を離れ、敵国に捕らわれの身となり連行され
る。国は滅ぼされ、何と屈辱的で、悲しい、苦難の出来事だろう。
銀の精錬は、高温の火を通して、不純物を取り除く。高温の熱で溶
かし、浮き出た不純物を除去し、それを続けて精錬する。

高温であればあるほど、よく不純物が浮き上がる。そのように主は、
私たちを「悩みの炉」で精練すると言われている。高温であればあ
るほど、銀から不純物が浮き上がるように、試練が厳しいほど、私
たちの内の、様々な肉や、罪が浮き上がる。それを主が精練し、聖
めて下さる。

試練が臨む時に、普段、順境にある時には、知る事のない自らの心
の内を見せられる。嫌な相手が出て来た時に初めて、自分はこんな
にも人を赦せず、報復したく、人を恨み、憎む者である事を知る。
罪を憎むのでなく、罪を愛する者である事を知らされる。激しい試
みの悩みの炉で、砕かれ、練られ、造り変えられ、聖められて行く。

そして「わたしのため、わたしのために、これを行なう。わたしの
名が汚されないため」と。主の栄光を現わす器へと造り変えて下さ
る。悩みの炉を通って初めて、心砕かれ、素直にされ、御言葉に耳
を傾けることが出来るようになる。主への感謝と賛美が溢れて行く。
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悩みや困難をただの煩わしい問題と捉えず、今、主がこの者を練り、
聖めようとしていると受け止めたい。主は益になることを教え、歩
むべき道に導くと強く約束してくださっている。