2022年02月28日(月)

「その人はヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつが いを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつ がいがはずれた」創世記32:25



ヤコブは兄エサウをだまし、祝福を奪い取った。兄は激怒。ヤコブ
は殺されるので逃亡。荒野で独りで日が暮れた。不安と恐れ、寂し
さ孤独感に襲われた事だろう。その陥った窮地で、神に出会う。
「わたしが共にあり、守り、この地に連れ戻す」との約束を得る。
伯父ラバンのもとに身を寄せるが、この叔父が狡猾であり、厳しい
訓練を受ける事になる。

伯父にだまされ、レアとラケルの二人の妻のために14年の労働を強
いられ、更に伯父のために6年間、計20年の苦しい労働をする。騙
したヤコブは騙された。辛い訓練だ。やがて神の時が来て、故郷に
帰るが、兄の怒りが恐怖でたまらない。一家殺害されるのではない
か。肉の知恵で、あらゆる策を練るが、恐怖がもうどうにもならな
い。

彼の問題は、兄を欺いた事だけでなく、「人を押しのける者」との
根本的な性質、今に至った強い自我、エゴ、自己中心という罪の問
題であった。とうとう主が、ヤボクの渡しで、兄に怯えるヤコブを
捕らえ、相撲をとり、もものつがいを打たれた。ヤコブは、主によ
り砕かれた。私たちも自分の強い自我は、自分でどうにも出来な
い。

ヤコブのように、私たちも主が砕いて下さる。主が砕いて下さらな
ければ、この強固な自我は自分でどうにもならない。主の砕きは、
愛であり、感謝な事だ。もう「名はヤコブ(人を押しのける者)で
なく、イスラエル(神の王子)」だと。今、試練があるだろうか。
しかし主は試練を通して、最善のご計画を持っておられる。
-------------
自覚していること、いないこと、自分の内に多くのいびつな部分が
ある。決して表には出さず、主にも明け渡さないところを主が取り
扱われる。痛いことも主のご計画だ。そこから学んでいこう。


2022年02月27日(日)

「私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうし てくださったのですから」詩篇52:9


こんな話があった。サタンが倉庫を持ち、人々の心に蒔こうとする
「種」が様々あった。一番大量にあった種が「失望」だった。この
種が最も順調に育ち、多くの結実を見るのだ。効果的で、効率良く、
人々を神から離すことが出来る。最強パワーの種だ。これを蒔きさ
えすれば、放っておいても順調に育つ。だがこの種が、ある場所に
だけは全く効き目が無い事を、サタンは認めた。

幾ら蒔いてもだめで、効果があったためしがない。無力なのだ。
「それはどこの場所か」の問いに、「感謝する心」とサタンは答え
た。「失望」が信仰者にとって、一番の敵だ。サタンは、気力さえ
奪ってしまえば、心は萎えて何も出来ない事をよく知っている。逆
に「感謝」に対しては、サタンが完全に無力だ。サタンの足場を失
ってしまう。

良い事だけでなく、一見悪い事も「すべての事」を感謝する事は最
強だ。一見都合の悪い事は、悪い事ではない。万事益なので、そこ
から逆転、素晴らしい祝福に繋がっている。ある人が極めて苦しい
状況に陥った。しかし御言葉に従おうと決心し、まず感謝し、感謝
を続けた。

すると「御心に従ったのに、なぜ?」「主は助けられるのに、な
ぜ、こんな事に?」の疑いや不信仰な思いが無くなったのだ。状況
はそのままだが、心が落ち着いた。やがてその事態は導かれて行っ
た。サタンの罠にはまらず、感謝を選ぼう。これは選択だ。

・・・・・・・・・・・
目の前の苦しい状況に飲み込まれると、落ち込むばかりだ。重苦し
くてたまらず、不安、恐れ、思い煩いに支配される。気力は萎えて、
何も出来ない。思い煩いを選択してしまっている。意志を向け、信
仰による感謝を選択しよう。心が、神に、信仰に向いて行く。


2022年02月26日(土)

「ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビ デが主のみこころを伺うと、主は仰せられた・・」Uサムエル21:1



祈って祈って、祈り続けるのだが、幾ら祈っても答えが見えないと
いう経験があるだろうか。ダビデは3年間続くききんがあった。一
向に収まらない。その時、ダビデは祈ったのだが、それは飢饉がお
さまるように、ではなく「主のみこころを伺った」。この出来事に、
主の御心を求めた。

主はどう思われているのか。豊作を求めたのでなく、この事の原因
を尋ね求めた。するとその祈りは主の心にかない、即、答えが来た。
過去にサウルが、ギブオン人を殺すという罪を犯していたのだ。盟
約を結んでいたにかかわらずだった。サウルは罪を犯した。その罪
を主は見過ごされなかった。そこで、御心を知り、ダビデはその事
を対処した。

ギブオン人たちが求める通りに、その事の償いを果たした。「その
後、神はこの国の祈りに心を動かされた」御心尋ね、罪が示され、
その償いをした時に、主は祈りに答えられた。罪は祈りの妨げとな
る。罪がある時、祈りが聞かれない。「あなたがたの罪が御顔を隠
させ、聞いて下さらないようにした」。

ある牧師が大きな集いで説教を頼まれた。祈りに祈るが、幾ら祈っ
ても語るべき御言葉が来ない。日も近づき、焦りも来る中、尚も祈
り続けた。妨げがあるなら示して下さいと祈った時に、ふたをして
しまっていた、赦せない対人関係がある事を示された。恨み憎んで
いた。心から悔い改め、相手の祝福を祈った。その時、心が晴れや
かになり、平安に満たされた。そして説教は素晴らしく用いられた。

・・・・・・・・・
とにかく目の前の、不都合な事態、辛い状況が無くなるように、変
わるようにと願いたい。しかし御言葉を見ると、災いは無く、主の
ご計画がある、主がしようとされている事がある、万事益と。主に無
駄が一つも無いなら、目の前の事に、主のみ思いを祈ろう。、


2022年02月25日(金)

「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引 き起こしたときのように、心を心をかたくなにしてはならない」 ヘブル3:7



苦難のエジプトを出た民は、様々な奇跡を見、紅海が分かれるとい
う偉大な奇跡も見た。神の言葉も聞いていたのに、荒野に出た途
端、
食べ物が無い、水が無いとつぶやいた。全能の主が、必ず必要は与
えて下さる事を信じない。そして天からのマナ、岩から水が湧き出
るという奇跡を見ても、カナンを偵察した斥候達の言葉に、恐怖に
おののいた。

大声で泣き、モーセに不満をぶつけ、かしらを立てて、エジプトに
帰ろうと言い出す。落ち着いて神を信じる事をせず、いつも疑い、
つぶやき、不満だらけだった。心を頑なにするとは、御言葉を右か
ら左に流し、心にとどめない事だ。主はずっと語って下さっている
のに、真剣に向き合い、受け取ろうとする事がない。

御言葉をスルーし、ないがしろにする事は、御言葉をさげすむ事に
なってしまう。ある人が証しした。信仰の前進を示され、決心する
ようにと、御霊の促しがはっきりとわかった。ずっと強い促しがあ
った。だが恐れがあり気おくれがし、ぐずぐずしたまましなかっ
た。
するとある時からその御霊の促しが無くなり、思いが消えてしまっ
た。

心がすっきりせず、従えなかった事を祈り、あるがままを祈った。
すると主のあわれみにより、数ヶ月後に決心に導かれた。出来ない
事を祈りに持って行くべきだったと教えられた。「恐れています、
できません」と祈る時に、助けが臨む。
--------------
御約束がありながらも、いつも心配し安定しない心を持つ。なんと
不信仰な者だろう。主のご計画に生きているだろうか。悟れるよう
いつも御言葉に訊き、御霊の導きに敏感でいたい。


2022年02月24日(木)

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心 からしなさい」コロサイ3:23



人は生きる上で、何か生きがいが欲しい。自分を満たしてくれるも
のが欲しい。それには、他人のために良い事をすればよいのか。慈
善か、ボランティアか。人の役に立つ事は、確かに自分を満足させ
る。だが善行をして感謝が無ければどうだろう。犠牲を払い、労し
てもほめらもせず、感謝もされない。

報われない時、心はどうだろう。その善行の動機は何だろう。自己
満足、自己実現か。神を離れると、人は、善行も自分のためにしか
できない。相手から全く感謝が無く、報いが無ければ、「何と常識
のない人だ」とやり続ける事ができるだろうか。

私たちは、根本的に人ではなく、主に仕えている。その事が大切
だ。
すべての事は、主に対してしている。ある人が、ある交流会で、景
品の持ち寄りがあった。予算を決め、買い物に出た。祈りつつ捜す
と、ピッタリ来る良い品があった。これが導きと思った。予算はだ
いぶオーバーしたが、平安で、御霊の喜びがあった。

もらった人は嬉しいだろうと思えた。損得でなく、御霊に従う事の
喜びを経験した。御霊の導きに従う時、主に対してしたのであり、
自分の心は納得している。そして何にも代えられない平安がある。

感謝されなかった時に、私たちは試される。動機はどうだろう。誰
に対してしたのだろう。絶えず御霊が御心へと、私たちを導いて下
さる。
-------------
主がなければ、ただ自分の満足だけが欲しくなる。主からすべての
ものを受け、既に主にあって満ち満ちている。主に愛されている者
として主のために行動できるようになりたい。


2022年02月23日(木)

「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である 神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保 とうではありませんか」ヘブル4:14




私たちの大祭司は、私たちの弱さをご存じで、同情して下さると言
っている。新生した私達は、天へ帰るまでは古い性質と新しい性質
が、常にあらがい戦っている。新しい性質は、主を喜び、主に従い
たいと願う。しかし生まれつきの古い性質は、自分を喜ばせたい。
欲を叶えたい。常に自分が第一だ。

そのため絶えず霊と肉の戦いにあり、葛藤がある。天に帰るまで、
私達に肉の弱さがある事を、主はわかっていて下さる。「多くのも
のに熱中すると、からだが疲れる」とあり、仕事、勉強、家事育児
・・身体は往々にして疲れ果てる。主は肉体をとり、地上に来られ
たので、この疲れもご存じだ。

主も、移動のため舟に乗った途端、疲労の余り、熟睡してしまわれ
た。又、主も、御霊に導かれてサタンの誘惑に会われたので、私た
ちに来る誘惑も試みも、戦いもよくわかっていて下さる。だからこ
そいつでも恵みの御座に行く事ができる。私達は力に溢れている時
は、主のために働き、主に近いと感じる。

逆に弱く無力でいる時は、主を遠く感じる事が無いだろうか。「何
も出来ないお前はだめだ、役に立たない」とサタンの声が聞こえて
来そうだ。ますます主から遠ざかる。御言葉はどうだろう。恵みの
御座に近づける根拠は何だろう。「あわれみを受け」「恵みをいた
だいて」とあり、あわれみと恵みだ。

自分の功績にいっさいよらない。一方的な愛顧であり、プレゼント
だ。であれば、どんなに疲れた状態でも、すぐに御前に行こう。主
は永遠の大祭司だ。主のゆえに、はばかる事なく御前に立てる。
-------------
心身疲れて気力がなくなるとネガティブな思いに占領されていく。
心を定めて主に近づこう。主は私たちの弱さに同情し必要に応じた
助けをくださる。御前に立とう。


2022年02月22日(火)

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさ い。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるため です」Tペテロ5:6



「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」とあるように、私
たちの今いる場を与えられたのは、主だ。私達はどうだろう。今、
自分のいる場所が、境遇が、不満だろうか。もっと自分は良い地位
にいるべきであり、自分はもっと能力があるはず、本来の自分の場
所ではないと。ここは不当だと不満に思っているだろうか。

しかしそれこそが神が備えられた場だ。実は恵みの場であり、私達
をへりくだらされる場、砕いて下さる場所なのだ。後の者が先にな
って行き、なかなか昇進出来ない職場、悩まされる近隣の対人関
係、
時間と労力が取られる親の介護や育児、自分の時間が全く無い有
様、
思い通りにならない悶々の状況だろうか。

そこでこそ、主は私達を砕き、練り込み、鍛え、訓練される。目に
見える状況でなく、霊の目で主の御手をしっかり見れるよう祈ろ
う。
目に見える所は、全く思い通りに行かない、嫌になるような苦しい
状況は、あなたの殻を打ち破るため、依存し、握りしめ、執着して
いるものを気づかせ、自由にするためだ。

本来の場所でないと、高ぶる自らに、いいえ、そこがあなたの場所
ですと言われる。そこで高ぶりを認め、へりくだろう。十字架の主
を覚え、身を低くしよう。その所において、主のかたちへと造り変
えられて行く。

御手の下にへりくだるその時、そのままでなく、丁度の時に、今度
は主が高く上げて下さる。へりくだる者に、豊かな素晴らしい祝福
が臨む。
----------
あの痛い場所があったから、僅かでも高ぶった自我が砕かれていっ
たと今なら思える。あの時も、今も同じように主が置かれた場所に
いる。力強い神の御手の下で溢れる恵みを感謝したい。


2022年02月21日(月)

「求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜び が満ち満ちたものとなるためです」ヨハネ16:24



運転免許を取得したばかりで、初心者の女性が、初めての道で、路
地に迷い込んでしまった。行き止まりで、狭く細い道だ。バックす
るしか方法はない。ギリギリの所を、恐る恐るバックし、曲がり角
が、バックで曲がれない。どうすればいいか、パニックだ。ギー!
と何度も切り返す。

もう頭、真っ白で、わけがわからない。人が何事かとのぞき出す。
ますます焦るし、恥ずかしい。その時に「神様!」と叫んだ。する
と昨日の礼拝メッセージが突然浮かんだ。「すべての事について感
謝しなさい」と。それで「神様。わけのわからない状況を感謝しま
す。助けて下さい」と祈った。

すると不思議に、あれほどパニックだった心が落ちついて来た。何
事かと出て来た人たちが、「オーライ〃」「はい、ハンドル切っ
て」
「はい、そのままバックして」と助けてくれて、落ち着いて対処で
きた。何より主が求めに答えてすぐに助けて下さった事に喜びが溢
れた。

ある女性は、用で山道を一人で走っていた。舗装無く、ぬかるみの
砂利道に入ってしまい、動かなくなってしまった。幾らアクセルを
踏んでも空転するのみ。全く動かない。人は誰もおらず、どうして
いいかわからず、途方に暮れた。不安に襲われそうになるが、で
も、
絶対に主は助けて下さるはずと、祈った。

祈っていると、そこにキャンプ途上の青年のグループが通りかかっ
た。車から降り、ぞろぞろと笑顔で近づき、皆でかけ声で重いワゴ
ン車を持ち上げ、ぬかるみから出してくれた。皆の親切に、何より
も主の答えに喜びでいっぱいになった。
-------------
祈りに主が答えてくださった事が本当に嬉しい。理解できない事も
主に祈っていると、しばらくして、そうだったのかと主からの導き
がある。主は必ず答えをくださる。祈り求めよう。


2022年02月20日(日)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6


ある人が、学びの中で、主に委ねる事が大切だと教えられた。そこ
で自分が立案し、練り上げたプランを主にお委ねしますと、お委ね
した。そうすれば、ばっちり成功するのだと思っていた。それが思
いに反して、計画通りに行かず、失敗し散々な結果となった。自ら
の力不足を、未熟さを露呈してしまう事になり、周囲には多大な迷
惑をかけてしまった。

自分自身も体調を崩した。失望落胆で、落ち込んでしまい、休息を
取る中で、ゆっくりした時間が与えられ、静かな祈りの時を持てた。
心の内も状況も、ことごとくを御前に打ち広げて祈る中で、主から
教えられた。自分主導で、自分の思いで立案した計画がうまく行く
よう、主が力を貸して下さるのだと思っていた。

しかしそうでなく、自分と自分の思いを明け渡して、祈り、主が立
てられた計画に従って行く時に、主が成し遂げて下さるのだと。神
から発した事が、神によって成り、神に至るのであって、自分から
発した事では無いのだと知った。自分から発した事が、神によって
成り、神に至る事は無い。「神のみこころに従って、まず自分自身
を主にささげ」、まず主に自分自身を渡して、委ねることが大切で、
そうする時、主は御心の計画を示し、成し遂げて下さるのだと教え
られた。

大きな学びを得て感謝であった。そして叉、私たちも職場では、目
の前に上司からの依頼仕事が来る。時に大きな仕事も来る。その時
も、その仕事を主に委ね、主に信頼しよう。任された仕事に、主が
働き、知恵と力、導きを与えて下さり、最善に成し遂げて下さる。

・・・・・・・・・・・・
どこにおいても主を認めよと。目の前に起きる事、状況、それが不
都合な事でも、偶然は一つも無く、たまたまでなく、主に無駄は一
つも無いので、そこに主を認めて、受け止めて行けるよう祈ろう。
そうすれば主が気づきを与え、教えらて下さり、心平安にされる。


2022年02月19日(土)

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によ って塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てら れて、人々に踏みつけられるだけです」マタイ5:13


料理には必ず塩が必要だ。味を引き締め、美味しく味つけする。塩
気の無い料理はどうだろう。味にしまりなく、まずい。又、隠し味
の少しの塩は甘みを増す。酢の酸味を抑えるのも塩だ。塩は料理に
不可欠だ。叉、塩は防腐剤にも使われ、腐敗を防ぐ。主は私たちは、
地の塩だと言われた。

この世において、塩の役割を願っておられる。塩けがなくなるとは、
どんな状態だろう。御言葉ではなく、この世に調子を合わせる信仰
生活だ。基準が御言葉でなく、人の顔色であり、摩擦を起こさない
ために、カメレオンのように自分をその場に合わせて変えて行く。
だが、塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せるだろ
うかと。

「もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられる
だけです」と言っている。自分の力では、到底塩けなど保てない。
御霊が力を与え助けて下さる。そして逆に塩けが強過ぎる場合もあ
る。効き過ぎると、愛の無い律法主義に陥ってしまう。言っている
事は正しいのだが、愛が無い。

愛なしに正論で責められると、苦しくなるばかりで、受け取れない。
正しいので、逃げ場無く追い詰められてしまう。正義は大切だ。そ
の正しい事が、御霊に導かれ、愛による時に、相手の心に響いて行
く。日ごとに主にとどまり、主のとの交わりの中で、御霊が働き、
御霊が私たちを地の塩として、用いて下さる。

・・・・・・・・・・・・
自分の思いと力なら、塩けが足らなかったり、過ぎたりでうまく行
かない。過不足無く、ふさわしい塩けは御霊による。御霊に導かれ
て、過不足も教えられ、気づかせられながら、御霊の導きに従って
行けるように、祈ろう。


2022年02月18日(金)

「あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがた に、あなたがたのものを持たせるでしょう」ルカ16:12


主人の財産管理人が、乱費が発覚し解雇を言い渡された。そして会
計報告を出せと。その時に、彼は次々と債務者の借金を減額した。
解雇時に、自分に有利に計らってくれると踏んだのだ。主人は、彼
の抜け目のなさをほめた。主はこのように「不正の富」で自分のた
めに友を作れと言われた。

ここで「不正の富」というのは、悪事で得た富の事でなく、「この
世の富」という意味だ。「不正」=「この世」の意味であり、この
世の富を忠実に、主の御心通りに使い、天に宝を積めという事だ。
この世にいる間に、世の富で、天に貯えができる。天に帰った時に
大きな報いを得る。

主から任されたこの世の富を、御霊の導のもと賢く使えとの教え
だ。
会計報告を出すのは、所有者でなく管理人だ。所有者なら自分の物
であるので、出す必要はない。しかし管理人は主人に報告の義務が
ある。私たちもこの世の富は管理であって、所有ではない。

主から任された富を、御心を問い、御心に従って使う責任がある。
富は容易に偶像になる。富に執着すると、振り回されてしまう。富
の主人でなく、奴隷となる。神と富に仕えるなと言われたのでな
く、
仕える事は出来ない、不可能だと言われた。

心はどちらかにしか無い。富の使い方を、まず主に祈って用いて行
こう。富を主に明け渡して、用いて行く時に、心に喜びがあり、そ
して天で豊かな報いがある。
-------------
経済的な必要を主に祈り求めながら、与えられれば全て自分のもの
と思ってしまう。主からのものと気を抜かず管理していこう。感謝
と共に、天に宝を積んでいこう。


2022年02月17日(木)

「主はサタンに仰せられた『では、彼のすべての持ち物をお前の手 に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない』」ヨブ1:12


サタンは全知全能ではない。神に許された範囲内でしか働けない。
ヨブ記の通り「持ち物はいいが、身体はいけない」、次には「身体
はいいが、命には触れるな」。神は限度を定めておられ、それ以上
はサタンも手を出せない。サタンはユダの心に、主を売ろうとの思
いを入れた。

サタンは思いを入れる事ができる。しかし私たちはそれを拒否する
事が出来るし、受け入れてしまう事も出来る。私たちの選択であ
り、
毎日起きている事だ。そのユダはサタンの声を受け入れてしまい、
主を銀貨30枚で売った。無実の罪で捕らえられた主は、サタンによ
り十字架へと追いやられた。神はサタンを止める事も可能だが、そ
のように働く事を許された。

結果的にそのサタンは、神の御旨の成就のために用いられた。神は
全知全能で全権を握っておられる。サタンは主を十字架の無残な死
に追いやったが、その結果、主の十字架は人類の贖いという金字塔
を打ち建ててしまった。贖いが成就されてしまったので、もう誰も
引き返す事が出来ない。元に戻す事が不可能だ。

ペテロも自己過信のゆえにサタンにやられてしまった。命を捨てて
でも従って行けると豪語した。しかし主が捕らえられた時、保身に
走り、呪いをかけて誓ってまで、主を裏切ってしまった。しかし主
はそれをも予めご存じで、ペテロの将来を見据えておられた。

「サタンがあなたをふるいにかけることを願って聞き届けられた」
これはふるいだと。ユダは悔い改めず、ペテロは悔い改めた。ペテ
ロは粉々に砕かれ、自らの弱さを徹底的に思い知らされた。サタン
は働くが、神はサタンをも利用し働かれ、私たちを更なる益へと、
成長へと導かれる。
-------------
サタンにより手痛い失敗をするが、主はその時も祈ってくださって
いる。試練も、試みもすべてが主を通って来る。なんと大きな励ま
しだろう。成長の糧となるよう、いつも主に留まっていたい。


2022年02月16日(水)

「わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他 国人のもののようにみなす」ホセア8:12



主はイスラエルの人々ために、多くの教えを与えられたが、彼らは
それを他国人のものとみなした、と言っている。主は語りかけられ
るのだが、他人事、よそ事として聞き、決して自分たちへ向けたも
のとは受け取らなかった。

つまり自分とは無関係な事なので、御言葉がとどまらず、通り過ぎ
てしまう。私たちはどうだろう。礼拝でメッセージを聞く時、又、
個人で御言葉を読む時、他人事として聞いていないだろうか。自分
の事として聞かなければ、無意味な事を学び、頭ではよくわかるの
だが、右から左へと流れ去っているだろうか。

傍観者であるなら、心に留まらない。御言葉が心に刺さることも、
根づく事もない。又、自分には当てはめないが、他人に当てはめ
て、
あの人に、この人にピッタリだと。あの人、この人にと。しかし御
言葉をそのように聞くべきではない。ただただ、自分の事として聞
くべきだ。

御言葉の物差しを人に向けてしまうと、いつしか裁きとなってしま
う。私たちは、日頃の御言葉の聞き方はどうだろう。他国人のもの
のように聞いていないか振り返ってみよう。礼拝メッセージを、御
言葉を、自分自身に、自分の生活にしっかりと当てはめよう。適用
しよう。

御言葉は光として、心の内を照らし出し、鏡となり自らの本当の姿
を映し出す。心の奥が探り出される。慰めや励まし、指針が来て、
罪の指摘や矯正がある。そして聞くだけでなく、従って行く時に初
めて、自分が変えられる。一歩一歩成長して行ける。ますます主を
知って行ける。
-------------
苦手で流していた聖書箇所が、今になって自分のための御言葉だっ
たと気づく。出来ません、今はそう思えませんと祈る事は出来たの
ではないか。御言葉を丁寧に受けとろう。いつまでも学びたい。


2022年02月15日(火)

「主よ。私を探り、私の心を知ってください・・私のうちに傷のつ いた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてくださ い」詩篇139:23



ある人が証しした。小さい頃から両親共に忙しく働き、自分は長女
なので、下の妹や弟たちの面倒をずっと見て来た。親代わりに世話
をし、家の手伝いもした。親は非常に疲れて帰宅し、甘えたくても
甘えられず、自分の気持ちを抑え込んだ。

我慢に我慢を重ね、良い子でずっと生きて来た。自分の思いはあっ
たのだが、絶えず抑え込むので、段々わからなくなって行った。自
分の本当の気持ちがわからない。信仰を持ってからも良い子クリス
チャンだった。自分では全く気づかなかったが、主の前でさえ良い
子でいようとする。

しかしそれは本当の自分では無いので、主との間にずっと距離があ
った。神の愛がよくわからず、頭の知識でしかなかった。実感は無
かった。本当の気持ちなど、出せないというより、わからなくなっ
ていた。ところが試練に次ぐ試練で、苦しくてたまらず、せっぱ詰
まり、許容量オーバーとなった。

主に、ついに底の本心をぶつけた。それは怒りだった。これまで懸
命に従って来たのに、頑張って来たのに、この散々な、惨めな状況
に怒りが爆発した。しかし本心を吐き出し、主にぶつけた時に、初
めて主と交われが生じた。主から答えが来た。驚きだった。主に
触れた実感が臨んだ。

自分自身の何もかもをご存じである主との生きた交わりを経験し
た。
主に何でも心の内を言ってよい事がわかった。心に初めて安堵と喜
びが来た。取り繕う余裕を取り去るための試練だとわかり、主のご
愛に更に感謝が溢れた。
-------------
自分の中の隠れた本音を主は気づけるように取り扱ってくださる。
そこを示されると、心底へりくだらされるが、主によって新しくさ
れた喜びがじわじわと溢れてくる。続けて祈っていきたい。


2022年02月14日(月)

「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました」 Tテモテ1:19



「良心」は信仰上非常に大切だ。それはどんなものだろう。羅針盤
に例えられる。船舶や航空機の方位や進路を測るものだ。羅針盤は
正しい方角を示すので、海路や航路で、正しく進んで行ける。羅針
盤が無いと、真っ暗闇で全く方角がわからない。同様に、私たちの
言葉や行ないを良心の羅針盤に照らすと、方向違いを示される。

だが、もしその羅針盤が正常でなければどうだろう。何もかもが狂
って来る。羅針盤も故障するが、良心も絶対的なものでなく、教育
や培われた価値観で違って来る。正しいと信じ、自爆テロができる
し、パウロも神のためと信じ、クリスチャンを迫害していた。

私たちは、「心に血の注ぎを受けたので、邪悪な良心をきよめられ
た」とある。何と感謝だろう。御霊が、御言葉により、叉、平安の
有無、促しにより、良心に働いて正しく導かれる。御霊の示しに注
意し、ないがしろにせず聞き従おう。御霊を無視し続けるなら、良
心が麻痺してしまう。

良心が機能せず、麻痺するならどうにもならない。破船だ。どんな
立派な船でも、船に穴が開き、水漏れすると沈没するように、良心
にも穴が開くなら、信仰が機能しなくなる。それなら破船してしま
う。良心にとがめがある時、信仰に立てない。罪責感がある時、ま
っすぐに信じて行けない。

罪は、一つ一つ御前に悔い改めよう。主は豊かに赦し、主の血潮に
より、良心のとがめはきれいに消し去られる。その結果、平安が臨
む。御霊の導きにアンテナを張り、従おう。その時、正しい良心が
保たれ、平安に歩んで行ける。更に主を知って行ける。
-------------
自分の良心はすぐに感情に左右され自分の中の正しさに揺れてしま
う。主はどう言われているか、つねに主に尋ね、御心の真ん中を歩
んでいきたい。


2022年02月13日(日)

「ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたと おりになると、私は神によって信じています」使徒27:25



パウロは示されていたローマ行きを、思いとは異なり、囚人として
行く事で道が開かれた。そのローマへの航海途上、「ユーラクロ
ン」という凄まじい暴風が吹き荒れた。これ以上進めず「良い港」
に着岸した。パウロは冬になるため、もう航海は危険と忠告した。
命も危ないと。だが隊長は、航海士と船長を信用した。大勢の人も
この先の快適な港で越冬したい願った。

丁度風が穏やかになり、今だと出帆した。しかしパウロの言った通
りに、生死をさまよう凄まじい暴風に襲われた。隊長がパウロの言
葉より、プロの意見に従った結果だった。そして大勢のあと押しが
あった。叉、状況的に海は穏やかになった。私たちもどうだろう。
御言葉と、常識やこの世の意見、大勢の人の意見が相反する時、ど
ちらを選ぶだろう。

大勢の意見が正しく見え、見た目で判断してしまうだろうか。し
かし「神、その道は完全。主のみことばは純粋」神の道こそが完全
で「わたしの口から出るわたしのことばもむなしく、わたしのとこ
ろに帰って来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言
い送った事を成功させる」「あなたのことばは真理です」とある。

結局、航海士や船長の意見、大勢の人の意見は間違っていて、一見
穏やかな状況も判断ミスにつながった。そのため命の危険に直面し、
生死をさまよう事になった。その中で、今度こそパウロの言葉に耳
を傾け、受け取る事により、全員の命が助かる事となった。今、判
断すべき事柄があるだろうか。見えるところや、自分の思いと、神
の言葉が相対しているなら、神の言葉の方に従えるように祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・
ペテロも、主から沖へ漕ぎ出し漁をするよう言われた時、経験や常
識、自分の思いと相反した。しかし主の言葉の方に従った時に、大
漁で驚くべき祝福にあずかった。見える所と御言葉が反する時は、
御言葉の方に従ってみよう。必ず実を結んで行く。


2022年02月12日(土)

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成 る」箴言19:21



信仰人生の中で、時に、目の前で道が閉ざされる事を経験する。自
分はどうしても進みたいのに、門が閉じられてしまう。神からの
「ノー」を突きつけられ、現実と向き合わせられる。非常に厳しく
感じる。入試、就職試験、対人関係、進路、様々な事態で直面する。

自分の思いとは全く異なり、思ってもみない方向へ向かう事になる。
自分の思いがあり、それと違うので、なかなか受け入れ難く、失望
落胆してしまう。「ノー」は進路だけでなく、自分自身も否定され
たように感じてしまう。何度も何度も、就職試験が不合格になると、
人格まで否定されているように勘違いしてしまう。

しかし主には行き当たりばったりは無い。最初から、完全なご計画
を持っておられる。あなたの思いの道が、主の御心とは違っていた
ことになる。主は、正しくあなたを御心の道へと導いておられる。
「ノー」を主のご意志として受け取ろう。別の道が備えられている。
開かれた道を進めばよい。

ある人は、次々と願う道が閉ざされた。それで祈った結果、自分の
願いを横に置いて、主が、自分にさせたいと思っておられる事を求
めて祈り始めた。そう祈り続けていると、なすべき事が示された。
そして祈りつつ、その道を進んで行くと、目の前で、門がひとりで
に、するすると開かれて行った。驚くばかりに、難題がクリアされ
て行った。

主の御心の道は、自分でどうこうする事なく、どんなに難しいと思
えても、するすると開かれて行く。主が開かれるからだ。民がエジ
プトを出た時に、エジプト軍のえり抜きの精鋭部隊が、後ろから追
いかけて来た。前は海で、もう道が無い。前進も後退も出来ない。
しかし主は紅海を分けて、道を開かれた。御心の道ならどんな事を
してでも、開いて下さる。

・・・・・・・・・・・
次から次と様々なプランが湧いて来る。しかし主から来る思いと自
分の肉の思いもある。よく祈って行く時に、平安の有る無しや、環
境の閉じ開きで、御心の道へと導いて下さる。目の前の道が閉ざさ
れたなら、更に良い、ふさわしい別の道が備えられている。


2022年02月11日(金)

「蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て 食べてしまった」マタイ13:4



偏見について教えられる。私たちは青いセロファンを通して、景色
を見ると青色に見える。又、赤いセロファンを通して見ると赤色に
見える。同じ景色なのだが、違う色に見える。私たちは、無意識に
も自分色のセロファンで世界を見ている。自分の偏見と思い込みで
見ているなら、幾ら見ても、そのようにしか見えない。

ある人が、聖書の学びを続けていたのだが、幾ら学んでも、よくわ
からない。聖書を学ぶ事は嫌でなく、拒否反応があるわけでも無い
が、わからなかった。そんな時、種蒔きのたとえを聞き、自分は道
ばたの土地だと思った。偏見や自分の強い思い、価値観があり、そ
れが固くて、種を弾いてしまって、心に入れないのだと。

培われたこの世の価値観や、進化論や諸々・・。それで、もうそれ
はそれとして、一旦横において、聖書はどう言っているのかを聞く
事にした。祈ってそれを続けていた時に、不思議が起きた。御言葉
が心に響いて来るのだ。あんなにわからなかったのに、心にすんな
りと受け止める事ができて、主に出会う事ができた。

自分の偏見や思い込みは、すでにそれが前提になっているので、な
かなか気づきにくい。しかし自分はどうだろうとへりくだって、顧
みる時に御霊が気づきを与えて下さる。良質の種である御言葉はあ
るのだが、土地が固ければ、種が植わらず、結実が望めない。気づ
きから成長は始まる。
-------------
日々の通読も、するすると流してしまう御言葉には、何か心に入れ
ようとしない固い土が弾き返しているのかもしれない。出来ないな
ら、主よ私には出来ませんと祈れる。御言葉に素直に向き合いた
い。


2022年02月10日(木)

「パウロは・・『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った。 すると彼は飛び上がって、歩き出した」使徒14:10



ルステラでのこと、生まれながらの足なえの男性がいた。彼は生ま
れて一度も歩いた事がなかった。パウロが御言葉を語る時に、彼が
丁度そこに座っていて、パウロが語る言葉にじっと耳を傾けてい
た。
彼は生まれてこの方、自分の足に関しては、どうする事もできなか
った。歩く事は不可能だったし、全く望みの無い、無力の状態だっ
た。

その時、パウロが彼に大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさ
い」
と言った。彼は、一度も立った事も無かった。しかしそのパウロの
言葉に救いを求め、全身ですがりついた。無力だったからこそ、望
みを置けた。自分で歩けたなら、歩いている。彼にはこの言葉がす
べてだった。その言葉に心底すがった。

そこに信仰が働き、神の力が臨んだ。生まれて一度も歩いた事のな
い彼が、飛び上がった。そして歩き出した。驚くべき奇跡が起き
た。
彼は何をしたのだろう。自力で歩く事は不可能だった。歩く力は無
かった。彼は自分で歩こうとしたのではなく、パウロの言葉に従
い、
言われる通りにしたのだった。すると歩く事ができた。

もし、信じなければ、はなから立ち上がろうとしなかったろう。そ
んな事出来るはずがないと。私たちも同様だ。自分で聖くなる事は
出来ないし、隣人愛も無理だ。しかし主の御声にじっと耳を傾け、
主が示しに一つ一つと従って行く時に、御霊の力が臨んで、成し遂
げられて行く。私たちは変えられて行く。
--------------
自分の力の足らなさを嘆くだけでなく、弱さを正しく認めて変わり
たいと全能の主にすがろう。主の御霊が臨むとき、私たちは変われ
る。意思をむけ、主により成長を遂げていこう。


2022年02月09日(水)

「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなか った」ルカ24:16



二人の弟子たちが、主が十字架で死んでしまわれたので、なすすべ
なくエルサレムから、郷里に帰ろうとしていた。彼らは「暗い顔つ
き」であり、力なく歩いていた。この方は「行ないにも言葉にも力
ある預言者」で、贖い主だと「望みをかけていた」が、だめだっ
た。

失望落胆、無力感におおわれていた。そんな時、主が近づいて、彼
らのかたわらを歩かれた。そしてその話は何の事かと、問われる。
だが彼らには、主だとわからない。なぜ、わからなかったのだろ
う。
主が「預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」と
言われ、原因は「不信仰」だった。

彼らは何度も主から十字架の死とよみがえりを聞いていたが、信じ
てはいなかった。主はローマ帝国をくつがえし、王となるとの、強
い思いが御言葉をさえぎっていたからだ。私たちはどうだろう。形
は違うが、しばしば主が見えなくなってしまう。

ある主婦の証しだ。朝の片づけ時に、牛乳パックを倒して、台所は
台無しになった。山積みの家事も控え、朝からうんざりで、気持ち
が萎え、暗くなった。目の前の事だけで、主が飛んでいた。しかし
ふっと我に返り、いやそうではない、すべての事は感謝であるは
ず。

「主よ、この事も感謝します」と見上げると、心が変わり、主への
期待で軽くなった。そして主と共に、台所の拭き掃除と共に片づけ
もでき、普段から掃除しなきゃとストレスの台所がすっかり綺麗に
なった。ストレスから解放され、朝から喜びが湧いた。

肉の目には平凡にしか見えない毎日に、信仰を持って見上げる時
に、
毎日が、生きておられる主への喜びと感謝に変えられる。
-------------
与えられている恵みを精いっぱい感謝しよう。心が主に向き新たに
される。目が遮られている時、気づきたい。既に手にしている恵み
に感謝だ。


2022年02月08日(火)

「しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼 らには、このことばが隠されていて、話された事が理解できなかっ た」ルカ18:34



弟子たちは、24時間ずっと主のそばにいて、寝食を共にし、親しく
過ごしていた。が、主の言葉がわかっていなかった。この時主は、
異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、つばきをかけられ
る。鞭打たれ殺される。しかし3日目によみがえるという事を話さ
れた。

弟子たちは、主の輝かしい先を見ていた。ローマ帝国を倒し、地上
に王国を打ち立て、王となり統御する。それを信じていた。それが
嘲られ、無惨に殺されるとは、理解不能で、意味不明であった。時
に、私たちも経験する。自らに非常に強い思いがある時に、主から
全く違う事を言われた場合、受け入れる事が出来ない。

この時に弟子たちは「理解できません。わかりません。教えて下さ
い」と求める事ができた。私たちはどうだろう。いつも、どんな時
にも「主よ。わかりません。教えて下さい」と求める事ができる。
そのすぐ後の箇所に、目の見えないバルテマイが出て来る。バルテ
マイは「私をあわれんで下さい」と主に求め続ける。

周囲が抑え込もうとすると、ますます大声で叫び立てた。彼は切に
主に求めた。主は「求め」を待たれ、喜んで下さる。求めに「何を
して欲しいのか」と問うて下さる。今、もう一つ主がわからないな
ら、「目を開いて下さい」と求めよう。

バルテマイは必死に求めた、心底からの願いが叶えられた。目が開
かれ、主がわかった。霊の目と肉の目が開かれた。ぼんやりしてい
て、真剣な求めが無いなら、求めが与えられるようにと、求めて行
ける。
-------------
知っていると思っている事も実はぼんやりとしか見えていないかも
知れない。見当違いかも知れない。思い込みを捨てて、見えませ
ん、
教えてくださいと祈りつつ歩みたい。


2022年02月07日(月)

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あ なたがたの道と異なるからだ」イザヤ55:8



信仰生活を歩み始めると、信仰人生、自分の思い通りにはならな
い、
という事がわかってくる。神の思いと自分の思いが違うのだ。自分
の思いとしては、これが最善!と思うのだが、そのように事は運ば
ない。神の思いは違う。そして振り返る時、自分の思い通りになら
なくて良かった!と必ず思う。あのまま進んでいたなら恐るべき高
慢に陥っていたと。

だが、現実問題、目の前の事が思い通りにならないと、焦りや不
安、
落ち込みで一杯になる。主の計画があり、主の方法と主の時がある
事を覚えよう。絶妙のタイミングで、主は事をされる。主の定めた
「時」がある。早くも遅くもない。主の時でなければ、事は動かな
い。微動だにしない。

しかし主の時が来ると、突然、事は動き出す。すうっ〜と動き出
し、
驚くほどだ。人は先が全く見えない。目の前の事しかわからない。
だが主は何もかも見通しておられる。その主を信頼しよう。人は自
己中心というメガネをかけて見るので、歪んで見える。

物事が、自分軸にしか見えないので、最悪に見えるが、ご計画の中
だ。見えるところ、状況も何もかもがぐちゃぐちゃで、刺繍の裏を
見ているようだ。もうだめだと思う。が、実は主の計画が着々と進
行している。

ヤコブは「私も失う時には失うのだ」と言い、息子ヨセフもシメオ
ンもベニヤミンも、失ったかに見えた。しかし実際は何も失ってお
らず、ヨセフと再会、飢饉から一族は命を救われ、家族皆で暮らせ
るという最高の幸せが伏せられていた。良き事にして下さる主を信
じていよう。
-------------
いつも目の前のことに動揺してしまう。今は訳が分からないが、最
善に向かう主のご計画の中にいると、一刻もはやく心の目を主に向
けよう。そう見ていけるよう祈ろう。


2022年02月06日(日)

「しかし、今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなけ ればならないのか・・私はあの子のところに行くだろうが、あの子は 私のところに戻っては来ない」Uサムエル12:23?



ダビデは、バテシバとの姦淫とバテシバの夫ウリヤ殺害の罪をずっ
と隠ぺいしていた。しかし、神から遣わされた預言者ナタンの指摘
により、それらの罪を認め、悔い改めた。主は罪を赦して下さった。
しかし「あなたはこの事によって、主の敵に大いに侮りの心を起こ
させたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ」と言われた。

そして主が打たれたので、子供は病気になった。するとダビデは断
食をして、全身全霊で子供のために、祈りに祈った。しかしその子
は死んでしまった。家来達はダビデを余りにも心配して、子供の死
を伝えられなかったほどだ。それほどのダビデが、息子の死を知っ
た時、起きあがり、身を整えて、神を礼拝したのだ。

ダビデの驚くべき姿勢だ。自分はこれだけ祈ったのに、なぜ神は聞
かれないのかと、不平不満、怒りを爆発させたり、又、失望落胆に
落ち込む事もできた。しかしダビデはそうしなかった。どんなにか
辛く、悲しく、苦しく、心痛んだ事だろう。しかし力を尽くして祈
った結果、こうなった時、これが神の御心である事を受け入れた。

そして神を崇め、礼拝した。ダビデの信仰だった。神の聖なる御心
を受け入れる事は、時に裂かれるような痛みを伴う。しかし、神は
聖い方であられ、同時に愛なる方だ。必ず神のなさる事は最善だ。
ダビデはそれを信じていた。今、受け取るべき御心があれば、受け
入れられるよう、主の助けを求めて祈ろう。

・・・・・・・・・・・
罪は主の血潮により赦され、二度と思い出さないと言われている。
しかし自らが蒔いたものは、刈り取る事になる。だが主と共に刈り
取る時、それをも万事益として下さる。何というあわれみだろう。
主のあわれみは尽きない。受け止めて行けるよう祈ろう。


2022年02月05日(土)

「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、 あなたの全身は明るいが、もし、目が暗ければ、あなたの全身は暗 いでしょう」マタイ6:22


外からの光を受けるのは目だ。光は満ちていても、もし目を閉じて
いれば、光は入らない。目が健全なら、全身が明るいと言っている。
「健全」とは、「明るい」「澄んでいる」とある。目が明るく、澄
んでいれば、光が入り、目が濁っていれば、光は入らない。澄んだ
目とは、「単純」「単一」の目のことだ。

単一の目とは、まっすぐに神にのみ向かう目だ。神にのみ向かう目
には、光が充分入り、全身が明るくなる。濁った目、暗い目は、単
一でなく、神以外のものにあれやこれやと向かう目だ。神から目が
離れ、自分の利得、自分の欲、自分の栄光、賞賛。叉偏見や歪んだ
見方の目・・それなら目が暗く、全身は暗いと。

その前の節に「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるから
である」とある。神以外の、大切な宝があるなら、心が神ではなく、
その宝に縛られている事になり、妨げられるので、目から光りが入
らない事になる。貪欲によって、「天に蓄えられた宝」に対して、
心が閉じてしまわないようにと。

自らの目はどうだろう。神よりも大切な、地上の宝にしがみついて
いるだろうか、叉、偏見があるだろうか。御霊に心を探っていただ
こう。目に妨げがあるなら、見えないので、心が暗いと言っている。
しかし主のもとに行くなら、一つ一つと具体的に導いて下さる。目
を閉じているなら、気づかせ、神以外のものを求めているなら、そ
れも気づかせて下さる。全身が明るくなると、喜びが満ちる。

・・・・・・・・・・・・・・
自分の目が、主以外のものに向いている時、目が暗くなっている。
まっすぐに主に向かうために、妨げになっている偶像を一つ一つ
示して頂きたい。主に一つ一つと、明け渡して行けるよう、祈って
行こう。自分の力では出来ないので、主の助けを仰ごう。


2022年02月04日(金)

「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になる ことを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17



信仰生活で大切な事は、主のお心を求めて歩む事だ。そのために
は、
自分を捨てる必要がある。御言葉により、主の御心を求めるが、そ
の時に「どうか、御心を示して下さい」と一言祈り、聖書をパッと
開いて、開いた箇所の、パッと目についた御言葉を取り「示された
!」と言ったりする。が、それは危険だ。

聖書は占いの書ではない。すべての御言葉には前後関係があり、文
脈があるので、前後関係を無視して、1節だけを取り出すと、間
違った方向に行ってしまう。時に、主の導きと正反対へ向かってし
まう。
又、聖書はタウンページではない。人は、強い願望や思いがある
と、
御言葉を、自分の都合のよいように取り込んでしまう。自分の都合
に合った御言葉を取ってしまう。それも叉、御心を誤ってしまう。

御心を求める時は、よくよく祈ることが大切だ。主と親しく交わ
り、
まず悔い改めるべき事があれば悔い改め、主との関係を正され、素
直に祈って行けばよい。

そして、生活全般に耳を澄まし、アンテナを張り、御言葉を待つこ
とだ。礼拝から、デボーションから、信仰書や信仰者の交わりか
ら、
様々なものを通して、主は必ず語りかけられる。指導者の助言も参
考にするとよい。

祈りつつ御言葉を待ち、環境をじっと見ていることだ。門が閉ざさ
れたなら、御心でない。御心なら必ず門がひとりでに開かれて行
く。
自分で開くのではない。私たちは主の御手により開かれた道を行
く。
-------------
自分の強い思いがあれば、いつもそこに思いが行ってしまう。どう
しても都合の良い見方しか出来ない者だ。思いを明け渡し、真っ白
な心で御言葉に向き合い、環境から悟れるよう祈ろう。


2022年02月03日(木)

「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同 然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信 仰は弱りませんでした」ローマ4:19



アブラハムは75歳の時に主の示しに従い、カランを出てカナンの地
に移り住んだ。しかし主の約束にかかわらず、子が無く、しもべエ
リエゼルを相続人にと考えていた。その時に主に「その者が継いで
はならない。あなた自身から生まれ出る者が、跡取りとなる」と語
られ、外に連れ出され、満天の星を見せられた。

そして「あなたの子孫はこのようになる」と。彼は主を信じた。主
はそれを彼の義と認められた。その後、尚も子どもは生まれず、サ
ラの提案のもと、当時の風習でもあり、奴隷ハガルによりイシマエ
ルを得た。しかしこれは肉による事で、アブラハムの失敗であっ
た。

86歳だった。その後も約束はあるが、13年間、状況的には何一つ動
かず、全く何も見えない歳月が続いた。厳しい忍耐の時であった。
13年経た時、99歳の時に、主が彼に再び現われ、子孫を与えると語
られた。そして100歳になって、とうとう実子であるイサクを得
た。

アブラハムは常識的には不可能である、厳しい状況の中で、主ご自
身を信じた。望みえない時に望みを抱いて信じた。見えたなら信仰
は必要ない。見えないものを信じるから信仰だ。それは厳しい状況
を見るのでなく、約束して下さった主を見続ける信仰だった。

アブラハムには数々の失敗があった。しかし、信仰の父と言われ、
主はその「信仰」を喜ばれた。あなたも今、非常に厳しい状況だろ
うか。「胎の死んでいることを認めても」、状況的にどんなに不可
能と見えても、主の約束の言葉の方を選び、約束に立とう。
-------------
いくら素晴らしい御約束でも、まずこれが何とかならないとと、無
理な条件を見て、主の御約束をただの美しい言葉にしてしまう。主
に不可能はない。主を信じて立とう。


2022年02月02日(水)

「主はサムエルに仰せられた。『彼らの言うことを聞き、彼らにひ とりの王を立てよ』」Tサムエル8:22



他国の様子を見たイスラエルの民が、自分たちにも、他国のように
王が欲しいと、王を求めた。それは、主の御心に反する事であっ
た。
ところが主は、サムエルに、民の声を聞き入れよと言われた。それ
はサムエルを退けたのではなく、主を退けたのだと。

民は自分たちの思いで、王を求めて、主に逆らい、主を退けたの
だ。
主はサムエルに彼らに厳しく警告し、王の権利を告げよと言われ
た。
しかしそれを聞いても、民はどうしても王が欲しいと言い張った。
すると主は、王を立てよと言われた。

しばしば、自分が肉で計画した事がうまく行き、画策通りになる時
に、これは主が成功させて下さったと勘違いする。認めて下さった
のだと思い込もうとするが、しかしそうではない。それは大きな誤
解だ。どうしても行くという私たちに、自分勝手な道を行く事を許
されただけだ。

どれだけ止めても、忠告しても聞かない時、私たちに思う道を行か
せられる。そして、自分がした事の結果を刈り取らせられる。苦い
辛い、苦しい刈り取りになる。その刈り取りを苦しい訓練とし、学
ばせられる。それにより、自我を通すことが、いかに愚かであるか
を身をもって知る。

蒔いたものは必ず刈り取る事になる。例外はない。肉のために蒔く
と、必ず苦しい刈り取りがある。主は侮られる方ではない。今、自
分の思いの道に行こうとしているなら、方向転換して御霊に従お
う。
肉でなく、御霊に蒔くなら、大きな祝福を刈り取る。
-------------
道が開いたように思えても、もし御言葉と反対方向なら徐々に平安
は失せて、そこに主の御心はないといつか気づかされる。強い思い
は主に明け渡せるよう祈っていこう。


2022年02月01日(火)

「ここを去って東に向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほと りに身を隠せ」T列王17:3



エリヤは、カルメル山でバアルとの壮大な闘いをするが、主は、そ
の前にエリヤをケリテ川に退かせられた。「ケリテ川のほとりに身
を隠せ」、人のいない隠れた場所で、主と交わり霊的養い、闘いへ
の備え、整えを与えるためであった。しばし人から離れ、密かな主
との交わりを持つ事が、まさに働きのため、又、信仰生活のための
原動力だ。

植物は、根が下に下にと強く張っていなければ上に伸びる事が出来
ない。人に隠れた密室での交わりは、その根だ。色々な人が証しを
している。早朝から深夜まで余りの激務に、体調を崩して、倒れて
しまった人、又、先頭を切って活躍していた中、病気になり入院に
なった人。

最初はガックリ落胆して、落ち込んだが、天井を見つめる静かな時
間は、常に後回しにしていた、主との幸いな交わりの時とされた。
息吹き返し、神に立ち返れたと。休養が必要となり、全く動けず、
寝床でじっとしている間に、大切なものは何なのか、人生、このま
まで良いのかと、立ち止まる時とされ、仕事に忙殺され、狂ってい
た優先順位を正される時とされた。

時に私たちにも、ケリテ川が与えられる。病気のケリテ川や、入試
や就職試験が不合格のケリテ川、思い通りに行かない失望落胆のケ
リテ川、大きな失敗のケリテ川、別離のケリテ川、そんな時、悲し
みや寂しさ、痛みの中で静かに主と交わろう。心を主に向けて御声
を聞こう。主はそこで養いを下さり、前進するための力を下さる。
心を新たにして下さる。今、必要な事は、主との密かな交わりだろ
うか。
-------------
順調に走っているのに思いがけず立ち止まらされる。今思えば主が
ストップをかけてくださったのだと確かに言える。その試練は必ず
用いられる。じっくり主に向き合えるケリテ川で息を吹き返そう。