2022年03月31日(木)

「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属 し、悪霊に属するものです・・しかし、上からの知恵は、第一に純 真であり、次に平和、寛容、温順であり、またあわれみと良い実と に満ち・・」ヤコブ3:15



神は、御心のままに私たちの内に、「〜をしよう、〜したい」との
志を、思い(知恵)を与えられるとある。しかし気をつけるべき
は、
心に様々な思いが起きるが、神が思いを起こして、導かれるが、サ
タンも神を真似て同じ事をする。サタンはしょっ中、思いの火矢を
吹き付けて来る。

又、肉の思いが、自分の内側からふつふつと湧き上がって来る。で
は、どれが神からの思いなのか。見分けるためには、とにかくよく
祈ろう。祈りが大切だ。そして、心にあるその思いが、聖書全体の
原則に合致しているか。神が、御言葉に反し、矛盾する方向へ導か
れる事は決して無い。

必ず、神の御心は、御言葉と矛盾せず、合致する。目的のために
は、
手段を選ばないものも、神からではない。神から出たものであれ
ば、
目的も手段も正しく導かれる。又、神からの思いは、純真、平和、
寛容、温順、あわれみ、良い実、えこひいきがなく、見せかけがな
い。人の徳を立て、人を祝福し、霊的成長に役立つ。

御霊は理由もないのに、人を傷つけられない。又、神からの志な
ら、
時間を経ても変わらず、むしろ強くなる。時をかける事で判断する
事ができる。肉の思いつきなら、気分で変わるし、長く祈り続ける
事ができない。その内忘れてしまう。重要な事柄であれば、よく時
間をかけて祈ることが大切だ。

時間をかける事で、はっきりわかってくる。神から来たものなら、
時を経ても変わらない。環境も合致して行く。導き手にも一緒に祈
ってもらうと良い。御心なら、必ずそこに一致があり、共に平安が
与えられる。
------------
神から来たものは、時を経てなお美しい。心が潤い、恵みの喜びに
誰もが心から主を賛美できる。どこからの思いなのかよくよく主に
明け渡し祈ろう。間違いやすい者だと覚えていよう。


2022年03月30日(水)

「あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自 制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟 愛には愛を加えなさい」Uペテロ1:5



続いて「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であっ
て」
とある。「近視眼であり、盲目」とは、遠方を見る事が出来ない事
だ。それは、信仰の目で、目の前の状況や物事を見る事ができな
い。
霊の目で見る事ができずに、肉の目で、肉的に事態を見る。

つまりそこに神視点が全く無くて、人間的な目だけしか無い。そう
であれば、御霊の実を結ぶ事ができない。それなら肉の刈り取りが
あるばかりだ。目の前に、突如の事態、試練や苦しみがやって来る
と、ひたすら思い煩い、心配し、嘆き、その堂々巡りだろうか。

主を通して、問題を見る事をしないので、問題に向き合えず、飲み
込まれて、倒れてしまう。それはただ痛いばかりだ。アブラハムは
同行の甥ロトと別れる事になった。その時、ロトに先に好きな土地
を選ばせた。ロトは近視眼的選択をした。祈る事も、神視点もな
く、
ただ肉の思いで、自らの損得で動き、見た目に、最も肥沃な潤った
低地を選んだ。

その直後、主はアブラハムに臨まれ「あなたが見渡しているこの地
全部を、永久にあなたとあなたの子孫に与える」と。ロトが良い地
を先取りしたのに「この地全部をあなたの子孫に」と言われた。結
局ロトの選んだソドムとゴモラは堕落し滅ぼされてしまった。

ロトは肉で選択した。しかしアブラハムは祈り、主視点により、す
べてを主に明け渡し、委ねた。神が下さるものを受け取った。その
結果、全部を与えられた。近視眼でなく神視点に立てるよう祈ろ
う。
------------
明日の事を知ることは出来ないが、わからなくても主がおられる。
問題と自分の間に主を据えていたい。信仰を働かせて、豊かに御霊
の実を結実させよう。


2022年03月29日(火)

「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。 『あなたこそ私の神です』」詩篇31:14



あなたには信頼できる相手がいるだろうか。例えば、その相手と待
ち合わせをして、時間が過ぎても来ない場合、どうだろう。もしや
突然の何らかの急な事情が起きたと、思わないだろうか。だまされ
た、裏切られただの、見捨てられたなどと思うだろうか。決してネ
ガティブに動かない。

疑うどころか、むしろ何かあったのではと、相手を心配する。なぜ
か。そこに信頼関係があるからだ。相手は、良い事こそすれ、悪い
事をするはずがない。又、友人が失敗したならどうだろう。頭ごな
しに責めるだろうか。そこに何らかの事情があるはずと、まず相手
から聞こうとするのではないか。友人を信頼しているからだ。

又、相手も信頼してくれるから、心を打ち明け、話すことができ
る。
信頼関係がある時、そこに平和と安らぎがある。安心し、リラック
スして語らいを楽しむ事ができる。信頼関係が無ければ、心をガー
ドし、警戒と緊張状態だ。主を信じる者も同様だ。罪の暗闇から、
御子の支配下に移され、罪赦され、主の愛に囲まれている。

主の血潮のゆえに罪赦され、御父との関係が正され、平和を持つ。
主との間には、根底に無条件に愛されている安心感がある。主と
私たちの間は、雇用関係でなく、愛と信頼関係で結ばれている。そ
こには安堵と喜びがある。

何が起きても、主の主権と支配の中であるので、信仰的に、前向き
に、肯定的に捕らえて行く。それが信頼だ。どんな状況でも、主の
愛は決して変わらない。ご計画があり、益とされる、そこに立って
いよう。心が動揺し、思い煩う時、今一度、立ち返ろう。
------------
主との強い絆があるから大きな試練、小さな試練も、あなたこそ私
の神と、望みを持って超えていける。主の励ましや導きを、具体的
な生活の中で感じ受けとれる。不安を押し返していこう。


2022年03月28日(月)

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そ うでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられま せん」マタイ6:1



施しについて言われているが、当時律法学者やパリサイ人たちも、
施しをしていた。主は、施しを否定されたのではなく「人に見せる
ために」、主からの賞賛でなく、「人にほめられたくて」人の賞賛
を得るためにする事を禁じられた。彼らは動機が間違っていた。

貧しい人々に施しをするのは、その人のためではなく、自らが、皆
から立派だと見られたいがため、ほめられたいがための施しだっ
た。
そうであれば貧しい人を利用して、自分が誉れを受けている事にな
る。それなら天の父ではなく、自分が崇められるためになってしま
う。

だが、私たちも古い性質があり、人の評価や人の賞賛を求める心が
ある。人に認められたい欲求がある。。善行をして感謝が返らない
と、何と常識がないとの思いが湧くだろか。又、落ち込むだろう
か。
それなら相手を愛しての善行ではなく、自分のための善行になって
しまう。

肉は、どうしても見返りを求める。実は目に見えない神よりも、目
に見える人からの感謝、評価の方が心を満たしてくれるからだ。し
かし、それなら主の御前でなく、人前で生きている事になる。人か
らの栄誉に生きる時、神を信じる事ができないと。

御霊は心の奥にあるものを気づかせて下さる。気づけることが感謝
だ。光の中にいる。弱い者である事を認めて、主に助けを仰ごう。
主は取り扱い、導き。変えて行って下さる。
------------
せっかくの善行が、褒められたいとの動機なら主の前に、それが空
しい事だと認めたい。自分の前でラッパを吹き鳴らそうとする時に
それは主に繋がっていないと気づきたい。


2022年03月27日(日)

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」ヨハネ3:30


バプテスマのヨハネの弟子は、今まで自分たちの師であるヨハネに
向いていた、人々の支持と人気が、主イエスに向かうのを見た。弟
子たちは師を思う余り、それをひどく妬んだ。しかし、ヨハネ本人
は違った。「人は天から与えられるのでなければ、何も受けること
はできない」と、すべての主権が主にあることを受け入れ、認めて
いた。

主に従い、主が天から下さるものを受けるだけだと。他の人に更に
大きな人気と関心が集まるなら、それも主のなさる事であり、自分
がどうこう言う事ではない。ヨハネは自分に与えられた立場、場所、
位置、能力をわきまえて、すべてに満足していた。ヨハネはへりく
だった人であった。

人は、他人の悲しみにもらい泣きはするが、もらい喜びは出来ない
と言われている。人の悲しみに同情する事はできても、それほど、
人の喜びを共有する事は難しい、出来ない事だと。同僚が自分を差
し置いて、先に昇進して行く時どうだろう。友人が入試に合格、自
分は不合格の時、人が評価を受け、ほめられる時、友人が幸せ一杯
にしている時、そんな時、表には出さずとも、心には羨望と妬みが
渦巻き、心がザラつくだろうか。

原因は、人との比較に生きているからだと。比較の先は、必ず優越
感か劣等感だ。劣等感があるから、優越感に浸りたい。そして優越
感の底には劣等感がある。比較から妬みが生じる。ヨハネは天だけ
を見ていた。だから満足と平安があった。

横を見ている限り、あの人は、この人は、と比較の世界だ。目を天
に向けて、行く所どこにおいても主を認めて、受け止めて行けるよ
う祈ろう。そうすればどのような中でも、主が平安を下さる。

・・・・・・・・・・
視点を主に向けられるよう祈っていよう。平安が失せる時は、主が
飛んで、主以外のものを見ている。思い通りでない状況も、主から
来ていて、主が決められた事と、受け入れる時に不思議な平安を経
験する。そして又、状況も導かれて行く。


2022年03月26日(土)

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれに でも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。 そうすればきっと与えられます」ヤコブ1:5


私たちが常に求めるべきは、「神の知恵」である。「知恵の欠けた
人は、惜しげなく、とがめることなく与えて下さる主に願え」と。
特に、試練の時に必要なものは、神の知恵だ。試練の時には、この
試みにどう対応すればよいのか、この試練をどう捕らえればよいの
か、どう考えればよいのか、ここが大切だ。

ここで、まず主に祈り、知恵を求める事が一番重要だ。しかしどう
だろう。しばしばこの所で失敗してしまう。主が飛んでしまい、試
練に向かうのに、世の価値観、自分の思い、これまでの経験値で事
に当たってしまう。それが深く身について、培われているので、自
然にしていると、肉はそのように動いてしまう。

すると主の御心と反対方向へ向かってしまい、全く損なわれてしま
う。どうしてよいかわからず、しかし自分の肩にすべてがかかり、
苦しくてたまらない。落ち込むばかりだ。そして決して実を結ぶ事
が出来ない。特に困難や問題に当たる時、主は知恵を与えて下さる。
どうしてよいかを教えて下さる。そのためまず祈り求めよと。

問題が起きて、不安と恐れに襲われると、真っ暗になり、パニック
になってしまう。しかし主の知恵は、「立ち返って」「静かにせ
よ」「主を信頼せよ」「そうするなら救われ」「力を得る」と。ま
ず主に祈る時、視点が主にあり、この世の価値観でなく、御言葉の
価値観に立つ事になる。そして御言葉に従う時に、事態が確かに導
かれて行く。

・・・・・・・・・・・・
試練の時に、大切な事が、この試練を通して何を教えて下さってい
るのか、主からのメッセージは何かということだ。惜しげなく教え
て下さるので、主に願おう。試練は痛いが、主のお心に触れ、知れ
る時、慰めと主の平安を経験する。


2022年03月25日(金)

「王の命令とその法令が届いたどの州、どの町でも、ユダヤ人は喜 び、楽しみ、祝宴を張って、祝日とした」エステル8:17



エステルの物語は不思議だ。一つ一つの出来事がピースとなり、次
々とつながり、まるでパズルが完成して行くのを見るようだ。王妃
ワシュティが退けられた後、エステルが王妃とされた。そしてモル
デカイが、ハマンのユダヤ人を滅ぼそうとの悪巧みを知る。エステ
ルに、王に特別な計らいを頼むよう伝える。

エステルは皆にも断食し祈ってもらった後、命がけで、王に面会を
求める。すると許可され、エステルはそこで、王を宴会に招く。そ
して翌日再度宴会に招き、その時に願いを申し上げると。その夜、
王はたまたま眠れないので、年代記を読んだ。そこで時ピッタリに
モルデカイの功績を知った。王はモルデカイに栄誉を与えたいと思
い至る。

翌日、王はエステルの願いを聞き、ハマンの悪巧みを知る事にな
る。
ハマンが処刑され、ユダヤ民族は救われた。どの一つが抜けても、
結果が違っただろう。エステルが王妃とされたこと、王がたまたま
不眠であったこと、たまたま年代記を読んだこと、モルデカイに栄
誉を与えたいとの志・・。

それが無ければ、ハマンの奸計が遂げられ、ユダヤ人虐殺が現実に
なっただろう。ここに完璧に状況を支配しておられる、摂理の神を
見る。私たちも振り返って考えてみよう。あれが無ければは、こう
はならず、これとそれがつながってと、それらがあって今がある
と、
実に不思議な神の摂理を見せられる。

御手の支配があり、計らいがある。何があろうと、主の愛の御手の
内であれば、ご計画の内であり、思い煩いではなく、主に委ねて行
けるよう祈ろう。
------------
今は望みのない状況に見えても、主のご計画は少しも変りなく遂行
されている。必ず主が救い出してくださる。すべての時が主の御手
の中、大いなるご計画に望みをおこう。


2022年03月24日(木)

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あ なたがたの道と異なるからだ」イザヤ55:8


例え話を耳にした事があるだろうか。ある所で、豪雨のため川が氾
、避難指示が出た。ある人が「神に愛されているから逃げない。神
は必ず助けてくれる」と避難しなかった。だが水かさはどんどん増
し、とうとう屋根に上るまでになった。そこにボートの救助隊が来
た。

「早く乗れ!」彼は「神が助けてくれるから乗らない!」ボートは
去って行った。いよいよギリギリとなった時に、ヘリコプターの救
助隊が来た。しかし「神が助けてくれる!」と拒んだ。そして、彼
は溺れ死んでしまった。彼は天国へ行き、神に激怒した。

「ずっとあなたを待っていたのに、助けてくれなかった!」神は言
われた「わたしは、3度あなたを助けに行った。1度目は指示で、
2度目はボートで、3度目はヘリコプターで。それなのにあなたは
すべて拒否した」。彼の間違いは、神の救助の方法を、自分の思い
で、決めつけていた事だった。

神は「助けて!」との祈りにちゃんと答えられた。しかし自分の思
いが強いがため、受け取る事ができなかった。私たちも同様だ。神
は、自由に御心を行なわれ、時には私たちの思い超えた、想定外の
方法で答えられる。しかし自分の思いが強いと受け取れない。

目がさえぎられてしまい、主のみ思いが見えなくなってしまう。
「自分を捨て」自分の思いを横に置いて、主の答えを見張っていよ
う。自分の思いとは違う形で来ているかも知れない。思いを超えた
祝福に会う。
------------
主はとっくに答えを示されているのに、自分の思いとピッタリの返
事が来るまで、いつまでも祈り続けてしまう。よく経験する。もう
一度、自分の思いを捨て、主の豊かな備えを見つけよう。


2022年03月23日(水)

「彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに 信頼し、彼らは恥を見ませんでした」詩篇22:5



転居となったある人が、引っ越し先で、就職先を探し求めた。面接
を受けるのだが、次々と不合格だった。落胆して、どっと不安に襲
われる。又、次を受けるが、不合格が続いた。ひどく落ち込んだ。
今の状況と今後の事を考えると、ただただ心が真っ暗になる。不安
でいっぱいだ。資格も特に経験も無く、もう恐れと不安しか無かっ
た。

必死に主にすがり祈った。もう祈りしかなく、涙ながらに祈りに祈
った。そして主にすべてを、委ねた。続けて受けて、次もだめだっ
た時に、ふっと初めて違う見方ができた。これは主の閉じ開きであ
り、主が御心ではないので閉じられたのだと。御心の先が、必ず別
にあるのだと。何と、心が平安に守られたのだ。

これまでの不安も恐れもなく、主の御手の中に今もあると思えた。
この平安は祈りの答えだと、心から感謝した。そしてどうであろう
と、必ず御心の職場を与えて下さると信じる事ができた。そして次
に受けたのが、小さな会社で、社長自らも面接をしていた。

色々状況を聞かれ、小さな子供がいて、育てて行かなければならな
い事、どうしても職が必要な事、率直にありのままを答えた。する
と社長が「ここで頑張りなさい」と、その場で採用になった。紛れ
もなく主から来た事であり、主が与えて下さった事に、大きな感謝
と喜びに溢れた。
------------
主、以外に依り頼み、助けを求めるお方はいない。目の前の門が閉
ざされると途方に暮れてしまうが、主は御霊を通して必ず励まし
て、
最後まで助け出してくださる。祈りながら主の導きを待とう。


2022年03月22日(火)

「・・働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたち と同じ姿にあらかじめ定められたからです」ローマ8:29


前節に有名な「万事益」の御言葉がある。「神がすべての事を働か
せて益としてくださることを、私たちは知っている」と。この御言
葉に、私たちはいつも大変励まされる。だが間違ってはいけないの
は、益になるのは「自分の思い通り」に、自分に都合良くではな
い。

肉はそうあって欲しいが、そうではない。私たちを「御子のかたち
と同じ姿」へと変えるよう、益とされる。何と光栄な事だろう。苦
しみ、悲しみ・・様々な事が起きるが、それら全部を働かせて、私
たちを御子のかたちへと変えて下さる。

私たちは自我が強く、自分の思いを通したい。その強い思いのある
自分自身を、主にゆだねることが出来ず、手放す事が出来ない。自
分ではどうにもならない。そのため、主は目の前に様々な事態を置
かれる。困難、悩み、ストレス、嫌な事・・主は私たちを砕こうと
される。

だが、そこで対応を間違うと、思い通りにならない不満、文句、屈
折、反抗的になり、主を離れてしまう事になる。主は私たちを根本
的に変えようと、試練を用いられる。試練はいつか収まるが、もし
自分が取り扱いを受け入れ、変えられていなければ、次に同じ試練
が来た時に、やはり不平、愚痴、反発だ。結局、自分は全く変わら
ないままで、成長が無い事になる。

御子のかたちに変えるために、私たちを救って下さった。「御子の
かたちと同じ姿にあらかじめ定められた」。一つ一つの試練を通し
て、このような益とされるとは、御霊の実を結んで行けるとは、何
という恵みだろう。
------------
主の揺るがない目的をはっきり知っている事は感謝だ。自分の事ば
かりが優先する生き方から、試練を通して御霊の実を結ぶ生き方へ
変えられる。主に明け渡していこう。


2022年03月21日(月)

「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、 持っているものまでも取り上げられるのです」マタイ25:29



大変よく知られている例え話だが、聞いた事があるだろうか。「空
を飛ぶ」「走る」「泳ぐ」「木登り」の訓練をする動物学校があっ
た。うさぎは、走りは大変得意、しかし絶対に空を飛べないので、
落ち込んだ。リスは木登りは得意だが、やはり空を飛べない。劣等
感にさいなまれ、走りも自信が持てなくなった。

鷲は空を飛ぶ事が大得意、しかし他の事はうまく出来ず自分を責め
ていた。速く走ろうとして足を痛めてしまった。アヒルは水泳が得
意、しかし空を飛べないので、うまく出来る鷲を羨み、自分はだめ
だと落ち込んでいた。これは、各々が全く違っているという事だ。

同じものが一つも無い。それぞれの個性と特性がある。それを他と
比較し、他を羨み、そのようになろうとするなら、自分の賜物まで
生かされず、自分を損ない終わってしまう。主は私たち一人一人を
「違って」造られた。他と違っていて当然だ。

横と比較するのでなく、自分に与えられた賜物を見い出し、主のた
めに用いて行く時、喜びと楽しみの中で、生き生きと生きて行け
る。
主から与えられた個性が100%開花されて行く。横を見て落ち込ん

いないだろうか。比較する時、必ず落ち込む。

人を羨むのは、自分に最善を下さっている主を認めない事になる。
無いものばかりを数えて、不満だろうか。与えられているものを感
謝し、主に献げて用いて頂こう。心満たされ、喜びを増し加えて下
さる。
------------
人と比べると落ち込むばかりだ。その後は苦い妬みの罪が待ってい
る。与えられている恵みを主に感謝したい。主を喜び、今の自分を
喜び、心を高くして歩もう。


2022年03月20日(日)

「その人は言った『あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イ スラエルだ』」創世記32:28



ヤコブは「押しのける者」との意味で、自我が非常に強く自分を通
す者だった。が、神の祝福を求めた。父と兄エサウをだまし、祝福
を奪い、家におれずに逃亡。遠く伯父宅に身を寄せるが、したたか
な伯父ラバンに娘の結婚の事でだまされる。妹ラケルを愛したが、
姉レアが先だとだまされた。

かつて父と兄を欺いたが、蒔いたものは刈り取る事になる。伯父の
下で労苦し、苦しい訓練となる。だが伯父の上を行く狡猾さで、自
分の家畜を増やし、財産を増し加えるヤコブ。20年経て、伯父の態
度も変わり、おりずらくなった頃、主から帰郷を命じられる。しか
し兄が恐怖だ。怒りで、家族皆殺しにされるのでは。

極度の不安と恐れが、どうにもならない。家族も財産もヤボクの渡
しを渡らせ、ヤコブが一人、あとに残った。その時、ある人が彼と
格闘した。ヤコブは死に物狂いで、もがいた。夜明けまでかかり、
どうにもならず、その人はヤコブのもものつがいを打った。強いエ
ゴのかたまりであるヤコブは砕かれた。自我が砕かれ、神の前にく
ずおれた。

「あなたを去らせません。祝福して欲しい」と祝福を求め、しがみ
ついた。「あなたの名は」と聞かれ「ヤコブ(押しのける者)で
す」と答えた。「もうヤコブではない。イスラエル(神の王子)
だ」と、その場で祝福された。びっこになり、杖無しで歩けない。
主にすがらずば一歩も進めない。無力になった時に、初めて主を頼
る者と変えられた。
ヤコブが恐怖から解放された瞬間だった。傲慢、狡猾なヤコブは変
えられ、主に信頼する祈りの人とされた。 

・・・・・・・・・・・・
自我が強くてどうにもならないが、主がヤコブを取り扱い、主が自
我を砕かれたことに、救いを見せられる。ヤコブを握って放されな
かった主は、その愛により、私たちを御子のかたちへと変え続けて
下さる。目の前の問題もそのためと受け取れる。


2022年03月19日(土)

「そこで彼らは主のことばに聞き従い、ヤロブアムを目ざして進む 行軍を中止して、引き返した」U歴代11:4



レハベアムはエルサレムに戻り、ユダとベニヤミンの選抜戦闘員18
万人を招集し、王国を取り戻すためにイスラエルと戦おうとした。
するとそこに、神の人シェマヤに、全イスラエルに告げて言えと、
主の言葉があった。「上って行ってはならない。あなたがたの兄弟
たちと戦ってはならない。おのおの自分の家に帰れ。わたしがこう
なるようにしむけたのだから」と。

イスラエルがダビデの家にそむいたのは、主の主権と支配の下のこ
とであると。それで、人々は主の言葉に聞き従い、ヤロブアムを目
指しての行軍を中止して、引き返した。「わたしがこうなるように
しむけた」。主から出たことであった。

私たちもどうだろう。今、目の前に問題が起きているだろうか。
「わたしがこうなるようにしむけた」。「私は黙し、口を開きませ
ん。あなたが、そうなさったからです」「わたしの願うようにでは
なく、あなたのみこころのように、なさってください」。思い通り
でない状況を変えようと、戦おうとしてしまうが、主から来たもの
は受け入れる時に、問題の糸口が見えて来て、導かれて行く。

そして祝福とされて行く。主を無視して、自分の思いと力で戦って
行くなら、更なる悩みと混乱を引き起こし、大きな痛手を負う事に
なる。まず主を仰ぎ、導きを求めて祈ろう。その示しに、御言葉に
従う時に、主のみこころが成し遂げられて行く。

・・・・・・・・・・・
時に、主のみ思いと、自分の思いが異なる。主を呼び、主に尋ねて
行こう。全主権者である主が、み思いを教えて下さる。自分の思い
に進むと御心と逆方向へ行ってしまう。思いとは違っても、そこで
主を認め、従う時、いつも不思議なみわざを見せられる。


2022年03月18日(金)

「・・聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしが あなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」 ヨハネ14:26


御霊の助けを知る事は喜びだ。ある人が突如の問題にパニックで、
とにかく気持ちを落ち着かせたい、まず聞いて欲しくて、即、友人
に電話した。昔は携帯がなく、家電話だった。それが留守録で、次
の人も留守で、次々と皆、留守。全員が留守なんて事ある?と思い
つ、7人目で、はたと気がついた。

今週の学びが、まず主を呼べだった。人でなく、まず第一に「わた
しを呼べ」と言われる主を呼ぼうと。主ではなく、人に頼り、人を
求めている自分に気づかされた。御霊の導きに心から感謝し、まず
祈りへと持って行けた。大切な事を教えられた。

又、別の人は、職場で、もめ事があり、その事で同僚から電話があ
った。不満や批判に、つい同調しそうになる。その時にキャッチホ
ンが入った。するとその瞬間、ふと我に返れた。唇を守られ、罪を
犯す事がら守られ、御霊の助けに心から感謝した。ある人は、すべ
き事を示されていたが、気が乗らず、気が進まず、したくない。

それでその場を避け、別の事をしようと、自転車で家を出た。まる
でヨナのようだった。すると出た途端、自転車がパンクした。何と
もはっきりと御霊を感じた。ごめんなさいと悔い改め、戻って御心
を行なう事ができた。心に大きな喜びと平安が来た。

放っておかれないで、関与し介入して下さる御霊の導きに感謝でな
らない。日常で様々小さな出来事で、主を知れる事が大きな喜び
だ。
------------
問題が起こるたびに御霊を通して新しい光が与えられる。そして新
しい展開が与えられ、新しく主を知る。御霊の助けは限りない力と
慰めだ。主の御心に生きることができる。


2022年03月17日(木)

「主は、あなたを苦しめ、飢えさせ・・マナを食べさせられた。そ れは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべ てのもので生きる、ということをあなたにわからせるためであった」 申命記8:3



ある夫妻が、親の自宅介護をしていた。段々認知症も入って来て、
医師にもそろそろ施設をと勧められた。だが本人の強い願いがあ
り、
夫婦でも、自宅で最期を看取ることを願い、決心していた。しかし
厳しい現実にぶち当たって行く事となり、決して甘くはなかった。

朝毎に、夫婦で切に祈った。主に頼り、主にすがる日々だった。時
に涙して、祈り合った事もあった。だが、主に頼るということを、
初めて経験させられた、大きな恵みでもあった。「あすのための心
配は無用です」「あすのことはあすが心配します」が大きな力と支
えであった。

今日一日だけ生きて行こう、明日は考えなくともよい。この一日の
ことだけを考え、なすべき事をしようと思った時に、肩から重い荷
が転げ落ちた。一日だけで良いと思った時に、思い煩いや不安が失
せた。心が救われた。目の前の事に集中できた。

そして「耐えることのできない試練に会わせるようなことはなさい
ません」「脱出の道も備えてくださる」との御言葉に励まされ、必
ず乗り越えられる試練であると、最後まで大丈夫と思え、信仰に立
てた。日々祈りと御言葉によって生かされた。

御言葉によって生きるとの意味を、真に身をもって知らされた。
親を見送る事ができたのは、大きな感謝であった。そしてこれは他
でもない自分たちのためである事がわかった。主を知るため、成長
のためだと。更に感謝が溢れた。
------------
問題を前にすると自分の知恵や力の無さにまず愕然とするが、主の
もとに行く時、大きな慰めを受ける。御言葉によって主は折々に、
一歩ずつ導いてくださる。御言葉に立とう。


2022年03月16日(水)

「彼はダビデに言った『恐れることはありません。私の父サウルの 手があなたの身に及ぶことはありません』」Tサムエル23:17


ダビデがサウル王のために戦い、連戦連勝していた。女たちは笑い
ながら、くり返し歌った「サウルは千を打ち、ダビデは万を打っ
た」
。サウル王はダビデの人気を嫉妬し、それは憎しみとなり、ダビデ
を殺害しようと、執ようにつけ回す。

ダビデはケイラの人々をペリシテの手から救った。するとサウルが
それを聞いて、ケイラに下り、ダビデを封じ込めようとした。ダビ
デはケイラの人々の裏切りを知り、主の示しにより再び荒野へ逃亡
する。ダビデが逃げた事を知り、サウルは討伐を止めた。「神は」
決して、ダビデをサウルの手に渡されなかった。

ダビデは逃亡を続け、ジフの荒野に潜伏する。いつ殺されるかわか
らない、まさに死と隣り合わせの毎日であり、恐怖であった。サウ
ルは一国の王であり、ダビデは600人の部下を持つだけだ。比較に
もならない。いざとなればサウルは民全体をも招集できる力があ
る。

その時ヨナタンが、主の御名によってダビデを力づけた。「恐れる
事はない。父の手があなたに及ぶことはない。あなたこそイスラエ
ルの王となる」と。「神が」ダビデを守られると。

ヨナタンは状況でなく、神を見、神の約束を見ていた。王の息子が
ダビデに、あなたこそ王で、自分は次に立つ者と言った。いかにヨ
ナタンが主を畏れ、主に従う信仰者であるかがわかる。

すべてが主の主権の内だ。主の許しが無ければ、決してサウルはダ
ビデに手をかける事は出来ない。私たちにも同様だ。起きる出来事
は、すべて主の主権内のことだ。
------------
すべては主を通って来ることを知っているのは何と幸いだろう。何
事にも心を害されることがない。主権は主のもの、状況から主の御
約束に目をむけ、御心が成ることを待ち望もう。


2022年03月15日(火)

「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、 私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32


二人の弟子が、エルサレムをあとにし、郷里エマオに向かった。主
は十字架にかかられてしまい、エルサレムにいても、する事が無
い。
そのため郷里へ帰る途上であった。彼らは「暗い顔つき」だった。
主がローマ帝国を倒し、王国を建て、王となって支配されると信じ
ていた。自分たちの強い思いの中にいた。

その主が無惨に死んでしまった。自分たちの期待、希望、喜びのす
べてが砕け散った。絶望、失望落胆、無力、虚無の中にいた。主は
幾度も、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたが、自
分の思いと異なる事であり、人は聞きたい事だけを聞くので、その
言葉は全く入らず、信じていなかった。

主のよみがえりを信じていたなら、エルサレムにとどまっているは
ずだった。弟子たちは主の言葉でなく、自分の思いの中にいた。そ
んな彼らに、主の方から近づかれ、彼らの心中の思いを吐露させら
れた。この方に望みをかけていた、しかしだめだったと、過去形で
あった。主は、彼らの暗さの原因を「信じない、心の鈍い」と不信
仰によると言われた。

その彼らに主は何をされたのか。御言葉を解き明かされたのだっ
た。
すると段々、彼らの心が内に燃え上がって行った。沈んでいた心が
よみがえり、赤々と燃えて来た。御言葉に真剣に耳を傾けた時に、
彼らは変わった。信仰がダウンする時に、「イエスご自身が近づい
て」主の方から近づいて、語りかけて下さっている。今までずっと
私たちにも、して下さった事だ。どんなに助けられた事だろう。
-------------
霊的にダウンすると、まるで日暮れの道をとぼとぼと歩いているよ
うに心もとない。こんなエマオの途上を何度も経験するが、御言葉
の真理に触れると心が燃えてくる。主が触れてくださるからだ。


2022年03月14日(月)

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます・・私の思いを 遠くから読み取られます」詩篇139:1



主は、私たちの心の奥を探られ、動機を照らし、正しい道へと導い
て下さる。ある社員が、部下や周囲の仕事を助けていた。専門的知
識があり、しょっ中尋ねられた。自分の仕事も持つ中、余りの忙し
さに、正直負担であった。そんな時異動があり、同じ知識を持つ新
人が入って来た。

すると皆が彼のもとに行くようになった。最初は大変助かり、喜ん
だ。ところが段々、彼がほめられ、注目が集まる事に、心がざらつ
く自分がいた。自分の方がベテランなのになぜ?彼が優位に立つの
か?妬みが湧き、嫌な思いを持つ自分に苦しんだ。

御言葉によると「苦い妬みと敵対心は、上から来たものでなく、地
に属し、肉に属し、悪霊に属するもの」とある。妬みや敵対心は肉
であり、悪霊からのものだと。すぐに祈りにより主のもとへ行っ
た。
祈りの中で主に心の内を打ち明けて祈った。

なぜ妬み、敵対心を持つのか?御霊に助けられ、心を探って行く
と、
人が皆、自分から離れてしまう事を「恐れている」自分がいた。自
分は必要とされなくなるのでは。彼がそれを奪ったと。「恐れ」が
憎しみとなっていた。御前に悔い改めて、自分を主に明け渡した。

彼と良い関係が与えられるよう祈った。私たちも、心の奥に潜んで
いるものがあるだろうか。恐れがあるだろうか。主に打ち明け、委
ねて行こう。主は導いて下さる。
-------------
妬みや憎しみは表に出ていないだけで、何かあると簡単に顔を出
す。
苦い思いに平安を失うとき、主のもとに行き、素直に罪を認めて赦
してもらおう。弱さも醜さも主は知っていてくださる。


2022年03月13日(日)

「愛する者たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せな なさい」ローマ12:19



新生した私たちは、新しい性質と古い性質を持つのだが、古い罪の
性質は、悪に、悪で仕返しをしようとする。攻撃には反撃を。何か
言われたなら、言い返すと、すっきりする。悪口や批判を受けると、
倍返しをしたいと思う。怒りを晴らしたい。

しかしこの復讐は、ますます怒りを増幅させ、互いの間を裂き、憎
しみや敵対心の連鎖を生み、害毒を流し、これらの行き着くところ
は死だ。何も生み出さないし、何の良い事もない。人への恨みや憎
しみは相手でなく、自分自身を損なう。自分が辛い。平安と喜びが
ない。

結局、相手に支配を許して、自分の人生を壊してしまうだろうか。
特に被害者である場合、悪いのは相手で、自分は悪くないので、相
手への憎しみ、恨みが根深くあるが、そこに目が向かない。心に闇
を持つ事になってしまう。「人から出るものが、人を汚す」とある
ので、人を汚すのは、自分の内の思いだ。外側からのものは、私た
ちを汚すことが出来ない。

あるがまま主のもとに行き、心の諸々を、憎しみ、敵意を打ち明け
よう。主は取り扱い、悔い改めに導き、苦悶の心を平安に変えて下
さる。主が必ず正しい裁きをされる。主が、悪に報いると言われて
いる。復讐はわたしのする事だと。主が復讐して下さる。だからい
っさい自分で復讐をするな、わたしにゆだねよと。私たちのする事
は、主にゆだねることだ。

・・・・・・・・・・・・
「復讐はわたしのすること」「わたしが報いをする」と言われてい
る。「神の怒りに任せよ」と。主はすべてを見ておられ、すべてを
ご存じだ。主が正しい事をして下さる。自分でどうこうせずに、そ
の主にいっさいをおゆだねしよう。


2022年03月12日(土)

「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてく ださったのです」創世記45:6



父ヤコブは、兄弟の中で年寄り子であったヨセフを誰よりも可愛い
がった。特別に袖つきの長服を着せたが、それは他の兄弟たちの妬
みを買った。ヨセフも彼らの悪い噂を父に告げていた。妬みは憎し
みとなり、兄たちはヨセフを殺害しようとするが、ルベンが殺害を
止めて、穴に投げ込んだ。

丁度そこに隊商が通り、ユダの提案により売られて、異国の地エジ
プトへ。ヨセフは家族と離され、どんなに不安と恐れであったろう。
しかし「主が共におられたので」エジプトで主人の好意を得、祝福
された。だが主人の妻に陥れられ、濡れ衣で投獄の身となる。ヨセ
フの心はいかばりだったろう。

尚も「主はともにおられ」恵みを施され、監獄長の心にかない重ん
じられた。絶望的な中で、「共におられる主」を信じ、ヨセフはそ
の場〃で、ベストを尽くして生きた。すべてが主の主権と愛の中に
ある事を信じたので、委ねる事ができた。結果的に総理大臣とされ
た。

主の摂理により、ヨセフが先にエジプトに遣わされ、大飢饉の中、
ヤコブと一族を救う事となる。パズルが埋まる時に、主の深いご計
画が見えて、主の栄光を拝する。ヨセフは、「私をここに遣わした
のは、神」と信仰によって捕らえた。兄たちの悪行でなく、信仰に
より、それも摂理のもとに用いられた神を見た。

人生に起こる出来事を、神のメガネで、神視点で見てみよう。神を
主語にして、受け取り直してみよう。今までわけがわからなかった
事柄に光が差して来る。神と神のご計画を見せられる。

・・・・・・・・・・
「エジプトに売ったのは兄たち」だが、信仰により受け取り直すと
「エジプトに遣わしたのは神」となる。神が遣わされたのだと。飢
饉から一族を救うために。同様に、私たちにも起こる出来事に意図
とご計画がある。パズルが埋まる時にわかるようにされる。


2022年03月11日(金)

「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打 ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、何と彼らはみな、死体と なっていた。アッシリヤ王セナケリブは立ち去り・・」 イザヤ37:36



ヒゼキヤの時代に、アッシリヤ王セナケリブがユダの町々を攻め取
った。王はラブシャケを送り、大軍と屈強の軍隊を誇示した。ラブ
シャケは、ヒゼキヤ王や人々に脅しをかける。ヒゼキヤは、主が救
い出すというが、そんな言葉にだまされるな、信じるなと挑んで来
て、信仰を揺るがして来る。

これを聞いたヒゼキヤ王は、どうしたのか。衣を裂き、荒布をまと
い主の宮へ行き、祈りを献げ、イザヤにも祈りを要請した。自分で
何とかしようとしたのでなく、まず主のもとへ行き、祈りを献げ
た。

同様に私たちにもサタンは、挑み、攻撃をしかけて来る。経済的苦
境や様々な悩み、信仰ゆえの戦いが来る。サタンは、圧倒的な勢力
を前に、私たちの無力をこれでもかと見せつける。強大な勢力に、
祈っても無駄だ、微力の祈りなど何になる。神を信じてもどうにも
ならない、しょせん無力だ・・。

サタンは、神を信じて立たないように、目に見える所を見て、この
世と妥協して生きるよう誘惑する。そうすれば楽に、まさつ無く生
きれるし、世の成功も地位も手にできる。サタンの攻撃だ。この時
には、何よりも祈りが力ある対抗手段だ。

ヒゼキヤもイザヤも祈った。祈りは聞かれ、主は奇跡をなされ、主
の使いを遣わし戦わせた。その結果、強敵アッシリヤは立ち去っ
た。
世に妥協させようとする、耳元に来るサタンの誘惑に気づけるよう
に。祈りによって立ち向かおう。祈りに持って行こう。
-------------
現実に起こる様々な問題を、サタンは主から切り離して考え込ませ
ようとする。信仰から切り離し、問題に飲み込まれたらサタンの勝
利だ。主が共におられる。気づけるよう祈っていよう。


2022年03月10日(木)

「「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるが ない」詩篇112:7



極度の心配性で、常に思い煩いに悩まされている人は多い。ああな
ったら、こうなったらと、先に起こるかも知れない事を想像して、
不安になり落ち込む。些細な事でも、不安材料をかき集め、まるで
現実であるかのごとくに、最悪のシナリオが出来上がる。最後まで
きっちり仕上がる。

ある人が、耳にした知らせから、どっと不安に襲われ、深刻な心配
と恐れにさいなまれた。大変な事になるのではないかと、まさに最
悪のシナリオをどんどん考えてしまう。しかしサタンの攻撃を踏ま
え、思いを、意志によりストップさせた。とにかく待とう。はっき
りと結果がわかってから考えよう。

そしてその時に対応策を講じればよい。主は助けて下さる。すると
心が平安になった。後報が来て、やはりその事は、杞憂であり、何
の問題もなく、良い方に向かって行った。この事を通して、一見、
悪い知らせに思える時は、主に祈り、主に委ね、はっきりするまで
主を待つこと。

そしてはっきりした時に、主に具体的になすべき事を求め、従えば
良いことを学ばされた。主は、私たちの想像と妄想に対して、どう
する事もできない。それは亡霊であり、現実に起きていないのだか
ら。架空のものを、主もどうにも出来ない。世の価値観でなく、主
の価値観に従おう。

そんな時は「静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信
頼すれば、あなたがたは力を得る」主を信頼していよう。そのよう
に祈ろう。主の示しに従う時に、最善へと導かれる。
-------------
悪い知らせを耳にすると何かしておかなくてはと焦りが来るが、瞬
間、瞬間、自分の思いではなく主に心を定めて落ち着こう。遠い先
は見えなくても、一足ごとに主は導いてくださる。


2022年03月09日(水)

「もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがた にとって、何の益もないのです」ガラテヤ5:2



私たちが新生し、新しい性質は、主を喜び、主に従い、御言葉に従
おうとする。しかしその時に、衝突し、あらがって来るものがあ
る。
古い性質だ。それは生まれつきの思い、この世の価値観や、習慣、
考え方だ。一見、非常に妥当に見え、常識的に見える。

今まで叱咤激励の価値観の中で生きて来たので、自力で一生懸命に
歯をくいしばって、頑張るのが善であり、良い事、美徳だ。そのた
め主を信じ救われて、まことの主に向き合うや、これまで以上に真
面目でなければと、信仰生活とは厳しい修業のように思ってしま
う。

自力で従うなら、苦しいだけだ。しかし苦労は美徳、苦しいのは当
然との価値観もある。これら世の価値観から来ている。しかし、そ
れらは真理と正反対に向かっている。それは主から出ていない。こ
こでは割礼が問題になっている。割礼によって義と認められようと
するなら、恵みから落ちてしまっていると。

何かをする事により、主に認められようとする事は、もはや恵みで
はない。真理から逸脱し、キリストから離れてしまっていると。信
仰生活は、主に受け入れてもらうための修業でない。主を信じた事
により、すでに受け入れられている。100%の愛を受けているゆえ
に、感謝して喜んで、自由意志で主に従って行く。

「ねばならない」義務はいっさいなく、「愛によって働く信仰」愛
が動機であり、自発的な自由意志で仕えて行くものだ。そこには主
と一つに生きる喜びと平安がある。今、重荷に感じ、疲れて心が重
いなら、主のもとに行こう。主が休ませて下さる。
-------------
自分で頑張るなら、今日は出来ても明日は出来ないだろう。自分の
行いの足りなさを嘆いているなら、キリストの十字架の恵みに立ち
返ろう。主のご愛と、あわれみにいつも支えられている。


2022年03月08日(火)

「主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。主よ。私 をいやしてください。私の骨は恐れおののいています」詩編6:2




ダビデは人々の賞賛を受け、人気を博した事で、サウル王に妬ま
れ、
嫉妬は憎しみに増幅し、日夜、命をつけ狙われる。常に死と隣り合
わせだ。理不尽な事だ。実際、間一髪で殺されかけ、切迫した身の
危険に、そのストレス、緊張状態はいかばかりであったろう。

又、他人ではなく、自分の肉親、実子に歯向かわれ、敵対攻撃され
るのはどんなに辛く、心痛み、苦しい事であったろう。更にその上
に、病にも陥り、身も心もズタズタで、厳しい深刻な苦境だ。ダビ
デは、神の心にかなった人だった。

信仰者になると、悩み問題が無くなり、平穏無事な日々を過ごし、
天国に至るのではない。試練はは必ず来ると、御言葉は何度も言っ
ている。私達は苦しくて、とにかく目の前の問題が片づく事、去る
事を願う。ただただ悩みが無くなって欲しい。

しかし苦しみの中でこそ、神が神であられる事を身をもって知るよ
うにされる。ダビデは「嘆きで疲れ果て、涙で夜ごとに寝床を漂わ
せ」と、もうなすすべなく泣いて泣いて嘆いた。苦しみの中で、主
との深い交わりを経験して行く。それは苦しみの中でしか得られな
い。

「主よいつまでですか」と何度も訴え、そのままの気持ちを主にぶ
つけている。順境の時には決して経験出来ない。自分で何とかしよ
うともがくのではなく、問題をすべて主に持ち出そう。自分で当た
ると空回りだ。

心を注ぎ出し、苦しみ、悲しみ、嘆き、怒りを主に告げ、主に寄り
かかり、すがろう。主はしっかりと受け止めて下さる。主との非常
に近い交わりを経験する。そして祈りは聞かれ、成長が与えられて
行く。
-------------
苦しみ、悲しみのときは、ダビデのようにひとりだけで深く主と交
わろう。主が心の内を知っていてくださる事は限りない慰めだ。恐
れも不安も主に告げよう。


2022年03月07日(月)

「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主 のみことばを待ちます」詩篇130:5



私たちにとって、非常に難しい事の一つに「待つ」という事があ
る。
待つことが、なかなか出来ない。現代はファストフードや、即、飲
物が出て来る自動販売機に慣らされ、早く、すぐに結果が欲しい、
すぐに目に見える形で見たい。そのため自分で動き、自分で何とか
しようとしてしまう。

主を待てずに、落ち込んだり、思い煩い、不安にさいなまれ、目の
前だけを見て、失望落胆してしまう。「待つ」とはどうイメージす
るだろう。順番を待つ、友人との待ち合わせで、待つとか、病院で
呼ばれるのを待つ、バスを待つ、病気の回復を待つような、じっと
待つようなイメージだろうか。

「夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待つ」とある。夜回り
は、朝に必ず太陽が昇る事を知っている。毎日毎日繰り返され、経
験によって絶対に昇るとわかっている。わかっているが、しかし物
理的時間は必ず経過しなくてはならない。詩篇記者は、更に確信を
もって、信じて、夜明けを待つと言っている。その夜明けは必ず来
るのだから。

今は、あなたも主を待てと言われているだろうか。自分の思いや自
分の判断、自分の力で動かずに、主を待てと。「主はいつくしみ深
い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに」。主を待つなら、慈
しみ深い主を知る事になる。自分の力では動かず、待つ中で、御言
葉を求め、主を求めよう。
-------------
待つのは難しい。祈りながらも少しでも何かしたくなるが、朝を信
じて眠るように、主を信じてすっかり明け渡せるように祈ろう。主
の最善を信じて待ち望もう。


2022年03月06日(日)

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、 ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求め・・」ペ テロ5:8


サタンは吠えたけるライオンのようで、食い尽くすべきものを捜し
回っている。未信者に対しては、思いをくらませ、福音の光を輝か
せないように、信じさせないように〃妨害し働いて来る。「サタン
の策略を知らないわけではありません」サタンは何とかして私たち
を神から離そうとやっきだ。別に手段は何でもよい。まず過去にく
よくよさせる。どうだろう。

後ろを振り返り、あの時ああすれば、この時こうすれば・・あの対
人関係がまずかった、あの決断が失敗だった、あの人とさえ出会わ
なければ、進路をミスした・・。ぐずぐずウジウジ暗くなり、落ち込
む。しかし、過去は絶対に戻らない。失敗や過失、判断の間違いが
あったかも知れない。しかし、もう決して戻れない。それに囚われ、
今、現在を真っ暗にしてしまう。サタンの攻撃だ。

又、先の事はどうだろう。将来の進路や、結婚や老後や、健康の事、
難しい対人関係に思い悩み、これから先をくよくよと思い煩う。先
はいっさい心配するなと言っておられる。主があなたの代わりに死
んで下さったのだから、先は完全保障して下さっている。何の心配
も無い。「だから明日のための心配は無用です」

「明日」を思い煩って、「今」不安と心配で、時間を無駄にする。
今、すべての必要は与えられ、今、生かされているではないか。感
謝に溢れて、主に賛美を献げればどんなに喜びだろう。思い煩いに
心が奪われているなら、サタンの策略だ。敵が絶えず狙っている。
祈っていよう。

・・・・・・・・・・
サタンは、とにかく主から離そう〃として攻撃して来る。まずはサ
タンの事を忘れさせる。サタンが頭に無いので、攻撃を受けていて
気づかない。又、主から目を離させ、目の前の問題に、先の亡霊の
思い煩いに釘づけにする。サタン識別の助けを祈っていよう。


2022年03月05日(土)

「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。 なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか」伝道7:16



信仰生活を送る上で、「過ぎてはならない」との言葉は、大変助け
られる。子育てにおいて、放任はよくないが、親の子供への干渉が
過ぎる「過干渉」や、保護が過ぎる「過保護」は、子供を損なって
しまう。「過干渉」は、子供を親の思い通りに動かそうとして、子
供の意志、気持ちを無視して、親が何もかもを決めてしまう。

又、あれやこれや指図をし、子供の意欲を削いで、やる気を奪って
しまう。子供を保護する事は必要だが、「過保護」は、子供を転ば
せたくなくて、石を取り除いて行く。実は親が、子供が転ぶのを見
るのが痛いので、レールを敷き、親が思う安全な道を作る。しかし
子供は転び、失敗し、痛い目に会って学んで行く。

若い時にくびきを負うのは良いことだ。若い時の、くねくね道も沢
山の学びを得る。又、「正しい」事は大切だ。「主は正しく、正義
を愛される」「主は正義を行なわれる」「正義の神」だ。私たちも
正しい事をしたいし、正しくありたい。しかし、気をつけなければ
ならないのは、正しさだけが過ぎてしまうと、息苦しくなる。

正しさに対しては、反論が出来ない。正しいのだから。その正論で
相手を追い詰めてしまうと、全く逃げ場が無い。そして相手は、正
しいのは、頭ではよくわかるのだが、気持ちがついて行かず、なぜ
か心が苦しくなる。愛を持って正しい事を、真実を語る時に、御霊
が相手の心に届けて下さる。

・・・・・・・・・・・・
何事でも、突っ走ると、「過ぎて」しまうので要注意だ。なかなか
自分では気づけない。普段から祈りによって、御霊に気づかせて頂
こう。愛によらなければ、正しい事も相手には響かない。うるさい
シンバルになってしまう。御霊の気づきを祈っていたい。


2022年03月04日(金)

「すると、彼への主のことばがあった。主は『エリヤよ。ここで何 をしているのか』と仰せられた」T列王19:9



エリヤは、450人のバアル預言者と戦った。あなたの神の名を呼
べ、
私は主の名を呼ぶ。その時、火をもって答える神が、まことの神だ
と。バアルの預言者がいけにえを献げ、神の名を呼び続けた。幾ら
叫び踊っても、身を傷つけて呼び続けても、全く何の答えも無かっ
た。

そしてエリヤが主の名を呼ぶと、主の火が降っていけにえを焼い
た。
エリヤは、奇跡を持って答える主により、大々的勝利を遂げた。だ
が預言者を皆殺しにした事を怒ったイゼベルが、エリヤ殺害を命じ
た。するとあれほどの戦いに大勝利したエリヤが、イゼベルの脅し
に怯えて逃亡したのだ。

霊的勝利の後は特に危険で、サタンの攻撃と誘惑が臨むと言われて
いる。身を引きしめ、慎み、へりくだって更に主に拠り頼む必要が
ある。人の心身には必ず限界があるので、極度の緊張状態にある
と、
許容量オーバーになってしまう。熾烈な戦いに消耗しきっていただ
ろう。

限界ギリギリまでの戦いをして、まだ、敵の攻撃に会う。どこまで
との、思いもあったかも知れない。怯えと恐れで、自分の命を救お
うと逃げる。そして死を願った。エリヤは主の言葉でなく、イゼベ
ルの言葉の方に支配されてしまった。聞くべき言葉とシャットアウ
トすべき言葉がある。

私たちも、サタンの一言で、一瞬にして恵みが消え、信仰が萎え、
疑いに襲われ心が暗くなった経験がないだろうか。絶えずサタンに
狙われている。不安、無気力に陥る時、御霊の気づきが与えられる
ように。そして主の言葉に耳を傾けよう。救い出して下さる。
-------------
大きな祝福の後、些細なことで恵みが飛んでしまった経験がある。
サタンの策略に巻き込まれないように、どこまでも主を見上げてい
たい。御霊の気づきが与えられるよう祈りたい。


2022年03月03日(木)

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて 弱り果ててはならない」ヘブル12:5


信仰人生で、私達は大小様々な試練に会う。必ず試練があり、それ
は御言葉もはっきり言っている。主が試練を与えられる。「試み」
「患難」「刈り込み」「懲らしめ」「訓練」「鍛錬」「悲しみ」と
の言葉が幾つも出て来る。信仰の歩みで、必ず試練はあるので、そ
れにどう向き合うかが大切だ。

苦しみにも種類があり、@ヨブの受けた一見理由のわからない苦し
みA善に歩んでいて、尚、受ける不当な苦しみTペテ2:19B訓練鍛
練のためのものヘブル12:7C自分の罪ゆえの刈り取りD主のための
苦しみピリピ1:29 自分の「罪の結果である苦しみ」は、罪を悔い
改めるべきだ。主が罪を知らせ、悔い改めに導くために送られてい
る。

自らが蒔いたものを、主と共に刈り取って行く事が、祝福の道だ。
訓練となって自分に返り、それをも益とされる。そして主は懲らし
めを軽んじるな、又、逆に弱り果てるなと言われる。しっかり受け
止め「訓練と思って耐え忍びなさい」と。耐えられない試練は無
い。

その苦しみを通して、私達は砕かれ、練られ鍛えられ、聖められ
る。
必ず一段階〃成長して行く。「理不尽な苦しみ」は、忍耐する時、
柔和が形造られる。又、ヨブは試練通して、主の噂を聞いていた
が、
今、この目で主を見ましたと告白した。

「後になると」「これにより訓練された人々に平安な義の実を結ば
せます」結実を見ると。後に、平安にされる。何と感謝だろう。
今、
苦しみがあるだろうか。罪ゆえなら悔い改め、そうで無ければ、忍
耐できるよう、主に祈ろう。
-------------
やがてわかる時がくると知っているなら、試練の今も光の中だ。理
由もなく、仕方なく我慢しているのではない。試練の中も主にあっ
て確かな望みを持ち続けよう。


2022年03月02日(水)

「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼ら の悪がわたしの前に上って来たからだ」ヨナ1:2


ヨナは主からニネベ行きを命じられた。しかしニネベは敵国であ
り、
ヨナはニネベへ行きたくない。強い拒否反応だ。逃げようと、丁度
そこにあった反対方向のタルシシュ行きの船に乗った。私たちも、
御心だとわかるが、気が進まず、嫌で、避けたい事柄があるかも知
れない。

嫌な事、したく無い事から、逃げたいとの誘惑が来る。又、目の前
に魅力的な事柄を置かれ、そちらに誘惑されてしまう。ある人が、
高給と、地位を約束された転職の誘いを受けた。牧師に相談したと
ころ、今は動かずに、落ち着いた教会生活をし、信仰が育まれて行
く事が大切だと。牧師は、転職に反対だった。

自分自身もそれがベストとわかっていた。しかし自分の才能が発揮
できる事、そのチャンスである誘惑に勝てず、転職を選んでしまっ
た。だがその結果、高給なだけあり、仕事は高度で、難しく、質も
量もハードであった。時間も取られ、心身すり減らし、消耗して行
った。心身の余裕も無くなり、段々と神から離れてしまった。

幸い、後に神に立ち返れたが、多くの苦しい刈り取りがあった。内
心御心だと感じつつ、ちゅうちょしていると、丁度そこにピッタリ
の誘惑が来るものだ。反対方向の船が置かれている。サタンの攻
撃、
誘惑をわきまえよう。

「主の御顔を避ける」ことになってしまう。主の御顔の光の中を歩
む方がどんなに幸いだろう。逃げたい誘惑があるなら、まず主にそ
のままを祈ろう。主が従えるよう、助けて下さる。
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今はこちらの道が良く思えます、と率直に主に祈ろう。どこまでも
自分が中心で素直に従えないことを主はご存じでいてくださる。ど
んな状況にあろうと、主を避けず平安のない心細さも祈っていこ
う。


2022年03月01日(火)

「王は・・『まことに、おまえたちに告げます。おまえたち が、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにし なかったのです』」マタイ25:45



「靴屋のマルチン」の話を聞いた事があるだろうか。主がマルチン
に現れて「明日、お前のところに行く」と言われた。マルチンは大
喜びで嬉しくてたまらず、翌朝は働きつつ、窓の外に目を留めてい
た。外は凍えるように寒く、老人が雪かきをしていた。彼はその老
人を家に迎え入れ、温かいお茶を振る舞った。

次に、寒さの中、赤ん坊を抱いた貧しそうな母親が目に入った。マ
ルチンは急いで出て行き、その母子を家に招き入れ、暖かいショー
ルを与えた。主はいつ来られるのだろう。まだか、まだかと待ちわ
びていると、少年が、老人のかごからリンゴを盗むのが見えた。

マルチンは少年のために執り成し、一緒に謝り、赦してもらった。
一日が終わり、とうとう主は現われなかったと、マルチンは、がっ
かりした。すると主が「今日、お前のところへ行ったのがわかった
か」と問われ、主の姿が、雪かきの老人、貧しい母子、リンゴを盗
んだ少年の姿に変わった。

主は、目の前の助けが必要な人に手を差し伸べるなら、「わたしに
したのである」と。たいそうな事でなくとも、些細な、小さな事
で、
必要とする人に与えるなら、主はそれをしっかり受け取られ、豊か
に報いて下さる。小さい者とは、普段、余り気にかけない者の事
だ。
それなら家族はどうだろう。

他人には配慮し、丁寧に礼儀正しくし、素晴らしく良い人になる
が、
家族にはつい甘えが出てしまい、無遠慮で、配慮を欠くかも知れな
い。目の前の、最も身近な家族こそを、まず大切にしなければなら
ない。そこから従って行こう。
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傍にいる家族には遠慮のない肉の思いで対応してしまうが、また、
すぐに改めて、実行することもできるのではないか。いつも祈って
いる家族に愛を持って丁寧に接していこう。