2022年04月30日(土)

「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。 それで神は、この民を葦の海に沿う荒野の道に回らせられた」出エ ジプト13:18



モーセに率いられた民の出エジプトに際し、主はカナンへの行程を、
ペリシテの国を通る近道に行かせず、困難な「荒野の道」へ導かれ
た。理由が「民が戦いを見て、恐れてエジプトに引き返さないよ
う」で、主のご配慮であった。奴隷生活で、戦闘訓練など全く無い
民が、ペリシテや敵との戦争に怯えて引き返してしまう。

私たちの価値観の中に近道、早い事が善との思いがないだろうか。
遠回り、苦しい、遠回りや困難は避けて通りたい。しかし主は近道
でなく、あえて厳しい荒野を通される。それが主の方法で、主が苦
難の道を通される。主に不可能はなく、一気に下されば良いのにと
思う。

しかし延々時間がかかり、まさに遠回りさせられていると感じる状況
がある。自分の思いや計画と全く違う道を通される。だが、そこを通
ってこそ忍耐と信仰が培われ、その渦中でこそ、主のご愛や真実を
経験する。砕かれ、明け渡す事を経験し、成長が与えられる。そこ
を通らずしてあり得ない。

そしてその通り道には、雲の柱火の柱が伴い、神の臨在があり、行
くべき道が示される。荒野で灼熱の太陽から雲の柱で守られ、夜の
暗闇を火の柱に照らされる。道中決して一度も「民の前から離れな
かった」。今、苦しい荒野なら主を信じよう。片時も離れずにおら
れ、成長へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・
祈りの答えは、すぐに欲しい。なかなか待てない。待つ事は難しい。
様々な物事の結果をすぐに知りたい。解決はすぐに欲しい。しかし
主は確かに遠回りをさせられることを経験する。振り返ればその中
でこそ沢山の学びを得た。主に間違いは無い。


2022年04月29日(金)

「・・姉の名はレア、妹の名はラケルであった。レアの目は弱々し かったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。ヤコブはラケルを愛 していた」創世記29:17



レアとラケルは姉妹で、姉のレアは、ずっと妹ラケルと比較し、嫉
妬に生きてきただろう。ヤコブはラケルを愛していたが、父親によ
り姉が先と、レアと結婚させられた。そのヤコブとの結婚によって、
レアはますます劣等感が強くなった。ヤコブの愛をどれほど渇望し
ても得られない。

ヤコブの愛はラケルにあった。主は、そんなレアを憐れまれた。そ
れでレアの胎を開かれた。「ルベン」と名づけ、主が悩みをご覧に
なったと言った。赤子誕生で、夫の愛が自分に向くに違いないと思
った。しかしそうはならなかった。第二子のシメオン誕生は「主は
私が嫌われいるのを聞かれて」とレアが主に祈った結果だった。

そして次々と産み、最後はユダ「主をほめたたえよう」と名づけた。
どうにもならない苦しみの中で、主を見上げるように、レアは変え
られて行った。自分の容姿を妹と比較して劣等感に悩み、夫はラケ
ルを愛し、自分には気持ちが無い事で苦しみ抜いた。しかし主を見
上げた時に、変わった。

レアの奴隷が男児を産んだ時は、アシュルと名づけ、「なんと幸せ
なこと。女たちは、私を幸せ者と呼ぶでしょう」と言った。私たち
は何を学べるだろう。レアはずっと劣等感で生きて来て、夫の愛は
妹にあり、どんなにあがいても得られない境遇にいた。満たされな
い、辛い、悲しく寂しい状況だ。

その中でレアは主に向き、主の愛と憐れみに目を向けて行った。主
は、レアの不幸な境遇により、ご自身に近づけられた。私たちも、
悩みや問題を通してこそ、主に近づけられ、主の愛を深く知って行
ける。
--------------
辛い現実の中で、確かに祈りに応えてくださる主のご臨在は、現実
を飛び超えて大きな感謝に溢れる。目の前にある悲しみ苦しみを主
に知っていたこう。


2022年04月28日(木)

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます」 ヨハネ10:3



この世には様々な声があり、混線している。自分の肉から湧く欲の
声、悪魔の攻撃や誘惑の声、TVやネットや世の価値観の声、その
中に最も大切な主の御声がある。主は羊飼いで、私たちは羊とある
が、羊は近視眼的で、目の前のものしか見えない。方向音痴で、美
味しい草をあさっている内に迷子になる。

自分がどこにいるかわからない。私たちも羊のように迷いやすい者
だ。目の前の美味しいものに、よく考えず、祈りもせずに食いつい
てしまう。それは自らの欲と合致しているので、なかなか見分けら
れない。物質的なものであれ、精神的なものであれ、自分に得にな
る話は受け入れてしまい、美味しい話に釣られてしまう。

自分の損得で判断するので道に迷い込む。主が中心なら「主の御心
は?」「主の喜ばれる事は?」が判断基準になり、守られる事にな
る。自分に都合の良い声だけを聞くなら、自分に痛い、厳しい、罪
を指摘したり、いさめる声は聞きたくない。拒否してしまう。

主は甘い話で釣られるのでなく、はっきりと語られる。「自分の十
字架を負ってわたしについて来ない者は、弟子になることはできな
い」「自分のいのちまでも憎まない者は弟子になることはできな
い」
。しかし主の御声を聞き分ける羊は、主について行く。

主の羊は、主の御声がわかるからだ。羊はその声を聞き分けると。
そこには確かな、後悔の無い平安がある。様々な声の中に、一つ真
実な主の御声がある。その御声に従おう。
-------------
一日中、様々な声に追い立てられるが、大きな声、自分の都合の良
い声の方に流されていないかよく気を付けたい。主は御言葉を離れ
ては導かれない。主に尋ねながら主の声を聞き分けたい。


2022年04月27日(水)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互い に人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3




ある人が、主に在る友人と話していて、ある事で議論になった。双
方意見が異なり、エスカレートしてしまい、自分が正しいと思うの
でどんどん主張し、言い合いみたいになってしまった。ムッとな
り、
双方、気まずい空気で別れた。重苦しい心で帰宅した。

その夜は、教会の奉仕の準備があったのだが、心がずっしり重く
て、
平安が無い。祈れない。時間は過ぎるがどうにもならず、主への奉
仕の準備など出来ない。とにかくあるがままを祈ろうと思った。平
安がないこと、祈れないこと、準備など出来ないことを、正直に祈
った。平安が無いからには、何かが御心からそれているに違いな
い。

すると、自分の心が見えて来た。議論になると相手を打ち負かした
い思いでいっぱいになり、負けたくない。自分の方が正しい、相手
が間違っていると思っているので、どうしても高圧的な、攻撃的な
言葉が出てしまうこと。愛が無かったこと、へりくだりなど全く無
く、高慢であったこと、聞く耳持たず、自己主張しかなかったこ
と、
色々示された。

悔い改めに導かれた。悔い改めた時に、すっきりし、すう〜と平安
が拡がった。そして相手に謝りたいと思い、電話をして詫びた。す
ると相手も平安無く、祈った中で、謝る事を示されていて、双方で
主に感謝し、御名を崇めた。平和が戻った。

その後、その奉仕の準備は御霊に導かれて、素晴らしい祝福の結実
を見た。対人関係で平安が無いなら、祈ろう。そして和解が導かれ
ているなら、仲直りをしよう。礼拝より前に、出て行って、兄弟と
仲直りをする事が大切だと言われている。
--------------
自分が正しいと思うと、相手の事を思うより自己主張が先にきて
しまう。なかなかへりくだれない者だ。主のへりくだりによって
救われた恵みをいつも覚えていたい。主を仰ごう。


2022年04月26日(火)

「あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従 おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ」創世記41:40


ヨセフの生涯は、紆余曲折、波瀾万丈だ。兄たちの妬みを買い、隊
商に売られ、奴隷としてエジプトへ行く事になる。そこで誠実に忠
実に仕え、主人の篤い信頼を得、すべての管理を任される。ところ
が主人の妻の誘惑を受け、乗らずにいると、濡れ衣で投獄になる。

奴隷から更に悪い囚人に転落だ。しかしそこでも忠実に仕え、監獄
長はヨセフの誠実さに囚人の管理を任せる事に。そんな中、献酌官
と調理官の夢を解き明かす事になる。するとヨセフの予言通りに、
献酌官長は出獄となる。その時ヨセフは、自分は無実であり、王に
話してくれるようにと頼む。

だが献酌官長はきれいに忘れてしまう。ヨセフはどんなに希望を抱
き、期待した事だろう。今こそ出られるのだ。しかし一日〃と、日
は過ぎ、何も起こらず、光が見えているだけに、どんなに辛い試練
の日々となった事だろう。期待が無ければどうもないが、期待が裏
切られて行く一日〃だ。だがヨセフには、この期間が必要であっ
た。

「私を」思い出して、「私に」恵みを、「私の」ことを、「私が」
出られるように、と「私」「私」であったヨセフが、この極めて過
酷な試練の2年を通して、更に砕かれ、「私でなく神」へと練ら
れ、
造り変えられて行った。そして、完璧な神の時が来た。環境を支配
されている主は、パロの夢を解き明かす機会を与えられた。

その解き明かしにより、結果的に総理大臣へと任命され、ヤコブ一
族を救う事になる。もし2年前に出ていたら、結果は違っていただ
ろう。パズルのピースが完璧な場所へとはめられて行く。自分の思
いとは違っても、主のご計画は完璧だ。主を信じ、従って行こう。
---------------
忘れ去られ、失われたような時期も、神の大切なご計画の中だ。神
を知っているのは何という幸いなことだろう。無駄に過ごしている
のではない。信じて歩もう。


2022年04月25日(月)

「・・主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞か れた。主は私の祈りを受け入れられる」詩編6:8



ダビデは重病だったようだ。「衰えて」いて「いやして下さい」
「恐れおののいて」いると祈っている。嘆きで疲れ果て、涙がとめ
どなく溢れて来ると。泣いて泣いて、訴えている。私たちも同様に
身体の痛み、心の傷、苦しみを経験する。今も不安の中だろうか。
行き詰まり、絶望状態だろうか。

ダビデのように、主に祈り、心の内を主に聞いて頂こう。人に言え
無い事を、主に、吐き出そう。泣いて〃心の底を訴えよう。悲しみ
の涙、怒りや痛みの涙、自己憐憫の涙、様々な涙を主に向けよう。
ダビデは心の内の嘆き、悲しみ、苦しみを祈っていた時に「主は私
の泣く声を聞かれ」「切なる願いを聞かれた」「私の祈りを受け入
れられる」との叫びとなり、心が変えられて行った。

祈りが聞かれた確信へと、喜びへと変えられた。私たちもダビデの
ように、主の御前で、嘆いて嘆いて、泣いて泣いて、心の内を主に
告げよう。主は受け止めて下さっている。ある人が、海外で母子で
生活をしていた。異国の地で、突然、家主の都合で、家を出るよう
に言われ、どうしてよいかわからず、経済的不安は恐怖となり、泣
いて泣いて、泣いていた。

泣くほかなかった。そして祈っていると、同じ教会の老夫婦が、家
も広く、一緒に住もうとの申し出。双方で主の導きを確信し、喜び
と感謝な日々とされた。どんな問題でも、主のもとへ持って行こ
う。
感情も思いも、主に注ぎ出そう。泣く声を聞かれ、切なる願いを聞
いて下さる。
---------------
助けてくださいと持っている不安や強い願いを祈り続けていると、
不思議に御心を受け止めようと心が整えられてくる。主が受け止
めてくださった事を実感し、平安に包まれる。


2022年04月24日(日)

「・・イエス・キリストの系図・・ユダに、タマルによって、パレスと ザラが生まれ・・」マタイ1:1


主イエスは、ユダの家系から誕生されたが、そのユダは、父親が溺
愛するヨセフを妬み、隊商に売ろうと言った人物だ。そのユダはカ
ナン人シュアの娘と結婚した。異邦人との結婚だ。子供がエル、オ
ナン、シェラと生まれた。長男エルはカナン人タマルと結婚したが、
エルとオナンは御心に反する決定的な事があり、死んだ。

ユダは嫁タマルを3男シェラが成人するまで実家に帰した。当時は
子供を得るため兄弟と結婚した。シェラは成人したが、ユダにその
気が無かった。ユダの妻も死に、タマルはユダにより、子を得よう
と画策する。それでユダはタマルを遊女だと思い、関係を持つ。

その代価を後で渡す担保に、印形とひもと杖を渡す。タマルは姿を
消す。3ヶ月後、タマルの妊娠が発覚。帰省中の妊娠にユダは怒り、
焼き殺せと言う。だが証拠の品を出すとユダは事実を認めた。タマ
ルは正しい。自分がシェラを与えなかったせいだと。こんなどろど
ろの家系から、主は生まれた。

聖書は何も隠さず、罪も恥も汚れも赤裸々に記している。真実の書
だ。あるがままで主に向いて、正直に生きればよいのだと学べる。
虚栄も繕いも必要無い。血統も関係無い。罪は悔い改めればよい。
過去は赦されている。何を背負って来たとしても、今、主に向いて
生きる事が一番大切で重要だ。主は受け止め、豊かに祝福して下さ
る。

・・・・・・・・・・・
この世では都合悪い事は、隠ぺいするのが普通だが、聖書には素晴
らしい信仰の勇者の罪をも、赤裸々にありのまま記されている。主
は真実なるお方だ。悔い改めを祝福して下さる。そして赦し、主の
ために用いて下さるとは、何という恵みであり栄誉だろう。


2022年04月23日(土)

「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによ って、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます」エペソ6:16



悪魔は、私たちの心に猜疑心や不信感を起こして来る。悪魔の攻撃
だ。ネガティブな、歪んだ思いが、降って湧いたように起こるなら、
悪魔が吹き込んだ火矢だ。自分の思いではなく、外部から吹き込ま
れた思いだ。妬み、憎しみ、怒り、思い煩い、恐れ・・屈折した思い
が湧く時、よく気をつけよう。サタンを見張っていよう。

ある人は、メールを送った相手から、返信が無かった時に、ふと何
か相手の気に入らなかったのか、もしやあの言葉、この言葉が悪か
ったのか、尚も返信が無く、心がもやもやとし始めた。気になって
仕方がない。だがふとサタンに気づいた。サタンは疑心暗鬼にする
事を覚え、これはサタンの攻撃だと気づかされた。

その時にすっと心から不安が消え、平安になった。その後、「めち
ゃくちゃ忙しくて、ごめんね〜」とメールが届いた。サタンは何も
ないところに波風を立てて、心をざわつかせる。気をつけていよう。

ある人は、職場の新人さんが慣れるようにと、声をかけ、お茶に誘
った。しかし特には、反応がなく、こちらとしては、せっかく良か
れと思い誘ったのに、もやもやする。段々ネガティブ思考になる。
もしや避けられてるのでは、嫌われてるのではと、疑心暗鬼になっ
て来て、祈った。その時に、サタンだと気づかされた。

翌日、丁度、帰りが一緒になったので、思いきって再度声をかける
と、快く応じて来て、大変好意的で、楽しい交流とされた。相手は
あっさりした性格で、全く悪気など無い事がわかった。巧妙に疑心
暗鬼、猜疑心を植え付けて来るサタンに気づけるよう、祈っていよ
う。
・・・・・・・・・・・
サタンはありとあらゆる方法で、攻撃をしかけて来る。心に不信感
や猜疑心を起こして来る。それらが心にふつふつとわく時に、まず
祈ろう。主を仰ぐ時に、サタンに気づける。それらは実体の無い妄
想だ。サタンからの猜疑心に心していよう。


2022年04月22日(金)

「すると、その人は、『導く人がなければ、どうしてわかりましょ う』と言った」使徒8:31



ある人が、人生の大変な苦境にいた。経済的にも立ち行かず、死を
も考えるほどの瀬戸際だった。そんな時、買い物に入った店で、レ
ジをしていた時に、背後にかかっていた言葉が目に入った。店主が
クリスチャンであり、壁に御言葉の色紙を飾っていたのだった。

「神は愛なり」とあった。心に焼き付いて離れなかった。帰宅後
も、
その言葉が頭から離れず、グルグル回った。「愛?」「神?」「愛
って何?」「神とは?」「どういう事なのか?」「神が愛なら、な
ぜ今、自分はこんな苦しい瀕死の状態なのか」「どこが愛なのか」

「おかしいではないか」怒りがこみ上げた。魂が捕らえられたよう
に、翌日その人は、店主に怒鳴るように聞きに行った。すると優し
く親切に対応してくれた。奥の座敷に上げてくれて、聖書を開い
て、
その意味を丁寧に話してくれた。そして身の上話を真剣に聞いてく
れた。

店主の愛情を通して教会に導かれ、主を信じることができた。試練
には脱出の道が備えられていて、生活のめどが立ち、苦境からも救
われた。別の人も引っ越し先の見知らぬ地で、不安と孤独の中、隣
家のクリスチャン夫婦が親切に、ゴミの出し方、病院や店を教え、
お茶に招き、神や聖書の事を話してくれた。夫妻の愛を通して、主
を知る事となった。

救われた私たちは、今度は、誰かの救いのために用いられるなら、
どんなに幸いだろう。言葉を通し、生活を通し、様々な方法で、主
はあなたを用いて、周囲の人を救いに導かれる。主に自分自身を渡
すなら、主は自由に豊かに用いて下さる。
---------------
自分などまだまだと後ろに控えて、与えられることばかりを求めて
しまう。誰かに教えられ、祈られてここまで来た。何より主に愛さ
れて来た。今度は誰かの救いに用いてもらおう。


2022年04月21日(木)

「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たち の前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませ んか」ヘブル12:1



例えばマラソン競技で、重い荷物を背負って走るならどうだろう。
ヘトヘトになって走れない。又、短距離走で、何かが足にからまり
ついていたらどうだろう。走れない。競走をする時には、不必要な
物はいっさい何も身につけない。私たちもどうだろう。信仰の行程
を走るのに、ずっしり重い荷を背負っているだろうか。

あれや、これやの思い煩いが絶えず心に上っては、心が暗く憂うつ
になってしまう。「あなたの思い煩いをいっさい神にゆだねよ」と
あるように、あなたのその不安、煩いをいっさい委ねる事が必要
だ。
委ねられないのは、自我が握り締めているから。自分が握っていな
いと、自分が放すと何もかもだめになり、崩壊するように思ってし
まう。

そのため絶対に放せない。ますます固く握り締める。それを委ねら
れるよう祈ろう。人に出来ない事が、主には出来る。又、まとわり
つく罪があるだろうか。解決していない恨み、妬み、赦せない思
い、
忙しいと忘れているが、心によぎると平安が失せ、暗くなる。その
問題を主のもとに携え、光のもとに出そう。主が取り扱い、解決へ
と導かれる。まとわりつく罪は捨てよう。

だが弱さは罪ではない。弱さを御前で認め、受け入れる事が大事
だ。
その時、弱さの中でこそ、主の力を経験して行く。弱さは受け入れ
られるよう祈ろう。前進して行ける。からみついて、走らせないも
のは何だろう。まず気づかせられるよう祈って行こう。
---------------
御霊の導きに従おうとしても心配事があれば思いはそこから動けな
い。重荷に気づいたら感謝だ。自分の内の御霊の導きを大切にし、
従えるよう荷を主に渡そう。


2022年04月20日(水)

「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものよう に今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によ って、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる 願いと望みにかなっているのです」ピリピ1:20



ヘロデ王がヤコブを殺害した。するとそれがユダヤ人に気に入られ
たのを見て、次はペテロ殺害に手を伸ばした。ペテロを捕らえ、投
獄し処刑しようとした。しかしペテロは、御使いにより、奇跡をも
って牢から救い出された。

「教会は、彼のために、神に熱心に祈り続けていた」と、教会では
ヤコブの時も、ペテロの時も同じく必死に祈った。その結果ヤコブ
は処刑され、ペテロは救出された。「なぜ?」と思うだろうか。
が、
これはヤコブとペテロへの、主のご計画であり、召しだ。ヤコブは
殉教により神の栄光を現わし、ペテロは更なる宣教の任務により、
神の栄光を現わす。

ヘブル11章にも「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃
れ、戦いの戦士となり・・」ある人々は、驚くべき奇跡により、ど
んどん大変な勢いで進軍して行った。そして同時にある人々は「牢
に入れられ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、乏
しくなり、苦しめられ」と殉教して行った。

見える結果は異なるが、どちらもが「信仰によって」歩んだ。一人
一人に備えられた神のご計画が全く違う。各々に別の使命、召しが
ある。人は関係無く、主だけを見て、自分に与えられた人生、自ら
に備えられた御心を歩む事が、一番の喜びであり、そしてそれは神
の栄光を現して行く。
---------------
パウロのように大きな働きは出来なくても、置かれている場所で感
謝して主と歩もう。どういう場合でもいつものように。信仰によっ
て歩むとき、私の身によって主が崇められるのではないだろうか。


2022年04月19日(火)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、 ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、 歩き回っています」Tペテロ5:8



「悪魔の誘惑に陥らないように祈れ」「身を慎んで祈れ」「悪魔に
機会を与えるな」と御言葉は言う。悪魔は、絶えず私たちのスキを
狙っている。スキがあれば自在に入り込める。カインはアベルへの
怒りと妬みで、悪魔に機会を与えた。罪を治めよと警告されたの
に、
そうしなかったので、罪に飲み込まれ、アベルを殺害してしまっ
た。

サウル王は、民のダビデへの人気を妬んで、悪魔に足場を与えた。
罪にがんじがらめにされてしまい、ダビデ殺害のためにつけ回し
た。
主に助けを求め、悔い改めて、罪から離れたならどんなに幸いだっ
たろう。できない自分のまま主のもとへ行くなら、主は助けて下さ
る。サウルは肉に従い、主を求めなかった。

ダビデは、主を愛し、主によく仕えていたが、王になった時に、油
断してしまった。水浴びするバテシバを見て、悪魔に機会を与え
た。
誘惑が来た時に、主を仰ぎ、主に叫べば良かったが、そうせずに負
けてしまった。そうでなくバテシバを連れて来させ、罪を犯してし
まった。ダビデはその後、どんなに苦しく辛い日々となったろう。

サタンは巧妙に、私たちの欲のある所につけ込んで来る。私たちの
内側をすべて見ていて、どこを揺さぶればよいかを熟知している。
弱い所に的確に攻撃して来るので、やられてしまう。サタンがいつ
も来ている場所がわかるはずだ。そこの所を祈りで武装していよ
う。
祈っているなら、誘惑が来た時に気づける。そして主のもとへ飛ん
で行ける。
---------------
サタンの射しこむ誘惑に簡単に乗ってしまう。繰り返し負けている
弱い所をまず認めたい。自分に勝てる力はないから主に頼れる。へ
りくだり目を覚まし主に頼ろう。


2022年04月18日(月)

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者 は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であ ることを、信じなければならないのです」ヘブル11:6


ある人が、急に多額の費用が必要になった。定収入があり、すぐ返
せると、深く考えずに街の金融機関から借金をした。ところが大変
な利息と、諸事情も重なり、返済できず、大ごとになってしまっ
た。
とうとう自分の手には負えなくなり、誰にも恥ずかしくて言えなか
ったが、牧師に話した。

主を頼らず、祈らず、軽率であった事を悔い改め、共に祈ってもら
った。主は窮地の祈りに答え、奇跡をもって必要を与えて下さり、
無事に返済できた。その事を通して、様々な事を教えられた。すぐ
に金融機関から安易に借金せずに、まず祈るべきであったこと。主
は必ずふさわしい導きを与えて下さったであろうこと。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さ
る」との御言葉を、頭では知っていたが、自分は全く信じていない
不信仰を知らされた。主が成し遂げて下さる事を、信じられないか
ら、自分が動き、自分の判断、自分の思いで、つまり自力で行動し
たこと。主を信頼できていない、自分の現実の姿が見せられた。

非常に手痛い失敗であったが、感謝であった。この取り扱いを通
し、
主の大きなあわれみを経験して、どんな状況であれ、祈り、主に頼
るなら、主は助けて下さると、信じられるようにされた。大きな一
歩前進であった。どんな状況下でも、主は、私たちの内側を照ら
し、
成長へと、手を取って導いて下さる。
---------------
どうしてもすぐに結果が欲しく自分で動きたくなるが、主に祈りつ
つ委ねていこう。主に頼らず事を進めても平安がなく不安が続く。
主を頼ろう。主が祈りに答えてくださる。


2022年04月17日(日)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありま せん。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラ テヤ6:7



神は、主イエスの十字架の血潮のゆえに、罪を赦して下さる。完全
に赦して下さる。悔い改める時、二度と思い出さないと言われ、無
罪放免にして下さる。しかしどうせ赦して貰えるからと、罪を犯し
てはならない。決して恵みを放縦に変えてはならない。そして罪は
赦されるが、正しく刈り取りがある。

警察沙汰を起こした子たちは、施設で辛く厳しい矯正訓練を受ける。
親は、迷惑をかけた人々に謝罪して回り、破損は弁償し、あらゆる
償いをして回る。大人も、傷害事件を起こした時、悔い改めるなら、
完全に主は赦して下さる、しかし法律上の刑罰を受け、刑務所で償
う事になる。

又、憎しみや妬みで人を傷つけてしまったなら、悔い改めにより、
主は赦して下さる。しかし一度壊れた信頼関係を取り戻すには、大
変な労力が要る。罪のもたらす傷や害は、思っている以上に深い。
罪の結果は、自分だけでなく、家族や周囲をも巻き込み、多大の悲
しみ苦しみの傷を負わせてしまう。

決して罪をもてあそんではならない。弱い者だからこそ、罪から守
られるよう、主に拠りすがり、祈っていよう。逆に御霊のために蒔
くなら、御霊に従うなら、周囲の証しとなり、神の栄光が現われ、
人々の救いにつながって行く。自分自身にも喜びがある。

御霊は私たちを導かれる。御霊の声に耳を傾け、肉にではなく、御
霊の方を選び、御霊の導きに従おう。御霊の実を豊かに刈り取る。
固い者なので心砕かれ、従えるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・・
蒔いたものを刈り取ると言われている。失敗したなら、悔い改め
により赦して下さる。赦されるとは、何という恵みだろう。刈り取
りもまた、主が共におられ、主と共に刈り取って行く時、訓練とさ
れ、多くの学びとされる。主のあわれみは尽きない。


2022年04月16日(土)

「『その人にあわれみをかけてやった人です』とイエスは言われた。 『あなたも行って同じようにしなさい』」ルカ10:36


当時ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係にあった。そのサマリヤ人が、
負傷した敵であるユダヤ人を助けた。サマリヤ人の動機は「同情」
で、何の下心も無かった。あわれみ=かわいそうに思う心+行動だ。
単に感傷的な同情でなく、行ないが伴う。

彼は、助けを必要とする人に自分に出来る事をした。関わるのを避
けず「近寄っ」た。ぶどう酒は消毒用に、オリーブ油は薬とし惜し
げもなく使った。自分の家畜を用い、予定を変更し、宿に同行、一
泊し、親身に介護の上、費用も全額負担した。中途半端でなく、最
後まで至れり尽くせりだ。

愛するとは犠牲を払う事だ。自らの金銭、労力、時間を突然の必要
のために、彼は惜しまずに献げた。犠牲を払わずして愛する事は不
可能だ。愛するとは献げる事だ。そして彼は自分の仕事をするため
に出向き、責任を果たし、再び帰りにお世話をした。自分の責任を
放り投げて、人の世話するのではない。

自分を最も必要としている家族を顧みず、人の世話ばかりに回るの
はおかしい。まず家族への責任は果たし、尚且つ、周囲へと、自分
に出来る事をして行くことだ。御霊が秩序正しく導かれる。今、何
か示しがあれば「近寄って」、従おう。

祭司とレビ人は面倒で、関わりたくなくて逃げた。言い訳は幾らで
も出て来る。誰が自分の隣人かではなく、自分が隣人になる事が言
われている。祈りなくして出来ない。従えるよう助けを求めよう。

・・・・・・・・・・・
愛するとは、時間を献げ、労力を献げ、持てる物を献げる事だ。献
げずして愛することは出来ない。自分に愛が無いことを認め、主に
求める時に、主がそうできるよう助けて下さる。「愛は神から出て
いるのです」。


2022年04月15日(金)

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」 マタイ11:30



くびきとは、平たい板に二つ穴を開けて、二頭の家畜の頭部をその
穴に入れて、二頭を同方向へ進ませるためのものだ。くびきがある
と、家畜が別の方向へ向かず、同じ方向へ進むので、農作業に大変
便利だ。逆にくびきが無ければ、作業が出来ない。同様に私たち
も、
主の与えるくびきを負いなさいと。

「わたしのくびきは負いやすく」とあり、「負いやすく」=「身体
にフィットして快適で心地良い」だ。くびきはその穴にきちんと首
を入れると、快適で心地良い。が、それを拒み、逆らい抵抗する
と、
首が締め付けられ、自分で首を絞める事になる。

自分の思い通りに行こうとする者には、そのくびきは自らを締め付
け、苦しいばかりで、辛いものとなる。あなたにとって、今、くび
きはどちらだろう。与えられたくびきをしっかり受け入れる時、そ
のくびきは「フィットして心地良い」ので、平安と喜びをもたらし
てくれる。

しかし受け入れない時、何の喜びも無く、ただ辛くて痛いだけだ。
受け入れられないものなら祈ろう。主が、そうできるように助けて
下さる。あなたにとっての、くびきは何だろう。今の思い通りでな
い場所か、役割か、重いばかりのなすべき事か、部署か、又、対人
関係だろうか。

嫌で受け入れられないなら、平安が無く、苦しいばかりだ。受け入
れられるよう、くびきを負えるよう祈ろう。「わたしのくびき」と
言われ、主のくびきだ。もう一つの穴は主が負って下さっている。
しっかり負う時、その荷は軽いと言われている。
---------------
くびきは負いやすいと主は言われるのに、力を抜けず自我を通そう
としてしまう。にあちこちにぶつかり四苦八苦の日々だ。主を信
じ、
主に任せて歩もう。静かな平安に心身が安らいでくる。


2022年04月14日(木)

「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしては ならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった」 創世記22:12



主は、アブラハムにイサクを全焼のいけにえとして献げるよう命じ
られた。「神はアブラハムを試練に会わせた」と、はっきりと主か
らの「試練」だと言っている。それは実子であり、約束の子である
イサクを、全焼のいけにえとして献げよと言うものだった。主が、
本当にそんな事を言われるのか?もしや自分の聞き違いでは?

だが普段から主との非常に親しい交わりに生きている、彼にはわか
った。これは間違い無く主の御声であり、主からの命令だ。どんな
に苦しい悶々の一晩であったろう。目に入れても痛くない最愛の息
子だ。それも約束の子であり、イサクから全世界に子孫が広がる、
その子が死んでしまったら、約束はどうなるのか?

しかしアブラハムは、深い祈りの中で、主はイサクが死んでも、よ
みがえらせる事ができると信じた。主を信じ、従う決断をした。彼
の信仰だった。「翌朝早く」主の命令にすぐに従った。御心を確信
したなら、即、従うのが良い。グズグズしていると、大きな祝福で
あるほど、そこに悪魔が来て、狡猾に妨害され、従えなくなってし
まう。

主は、イサクの代わりに雄羊を用意されていた。私たちにも、主は
必ず試練を与えられる。「愛する子を懲らしめ」と、懲らしめは主
の愛だ。試練の中には「エホバ・エレ」、必ず主の備えがあること
を覚えよう。
------------
主は必ず行く先に喜びと祝福とを備えていてくださる。何もわから
ない険しい山道だが、主を信じて導きに従おう。主は信仰をもって
進んで行く者に必ず報いてくださる。


2022年04月13日(水)

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てる ことができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿 をとり、人間と同じようになられたのです」ピリピ2:6



アダムがエデンの園で罪を選択した結果、罪はプライドの形をと
り、
人はプライドで生きるようになった。男性は自分の仕事や地位に高
いプライド、野心を持ち、母親は子供に夢を託し、子供により自分
のプライドを満たそうとする。

又、対人関係で、プライドとプライドがぶつかり、トラブルとな
り、
妬み、憎しみが湧き上がる。ある女性は、同僚に嫌な思いをしてい
た。会合では、とにかく自分の意見に反対する。何かと自分に攻撃
的で、きつい態度で、一応は礼儀正しく応じているが、嫌で嫌でた
まらなかった。

内心は、カチンと来て、怒りが沸くが、自分はクリスチャンであ
り、
どうすればよいのか。主の御前に行き、祈った。状況も気持ちも祈
り、御前に静まっていた。その時に、主の十字架が、主のへりくだ
りが、迫って来た。神のあり方を捨て、ご自分を無にされて仕えら
れた。何という事だろう。自分は何ほどの者か。

「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子」こんな
私のために、ご自身を捨てられた。驚くべきことだ。主のへりくだ
りを示され、確かに相手は理不尽だが、自分も愛の無い冷淡な心を
見せられた。よくよく祈り、翌日、仕事上で確かに助けられている
ので、感謝を告げた。

主が働かれ、相手が何か感じた事がわかった。距離が縮められて行
き、やがて親しくされた。主のみわざだった。複雑な生い立ちを話
してくれた。相手を理解でき、こちらも証しの機会が与えられた。
主に従うことの祝福を教えられた。
------------
どこまで行っても自分の感情が全てで、正しいと感情に支配されて
しまう。そんな者のために主は十字架についてくださった。主を仰
いでいこう。


2022年04月12日(火)

「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての 良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばか りに与えることのできる方です」Uコリント9:8


ある青年の証しだ。聖書の集いで、非常に恵まれて感謝が溢れて、
主の愛を膚で感じ、形で表わしたいと、最後の集会で、財布を開け
てバサッと全部を献金した。後の事は考えておらず、とにかく感謝
が満ちて献げたかった。心からの喜びを持って献げ、献げた後も平
安に満たされた。

礼拝後、帰りのバス代も無かったのだが、心が平安だった。する
と、
家が同じ方向の人が車で来ていて、一緒に帰りましょうとの親切な
申し出。主の備えに、更に感謝が溢れた。別の人は、経済的必要の
ある、一人の人の事を強く示された。

御霊の強い促しを感じ、自分の経済状態の事も脳裏に来るが、主を
愛するゆえに従いたいと思った。導きのままに財布の中身を全額
を、
指定献金で献げて帰った。心は喜びに満たされた。するとその帰り
に、何と財布を落としてしまったのだ。御霊に従えて、御心を行え
た事に心から感謝した。

もし献げなかったなら、財布を紛失してひどく落胆して、終わりだ
った。御霊の導きに、促しに従う祝福を強く教えられた。ある人
は、
示されるのだがに、どうしても献げられずに、ぐずぐずしていた。
そんな時、病院通いが続き、どんどん予想外の出費がかさんだ。

主を仰ぎ、日頃、健康がどんなに守られ、必要が満たされているか
に、初めて思いが至った。感謝もなく、恵みを当たり前としか思っ
ていない態度を心から悔い改めた。主は、何と溢れるばかりに、私
たちに与えていて下さる事だろう。
------------
御霊の促しに自由に従えるのはなんと祝福なことだろう。主が御心
のままに志も献げるものも備えてくださっている。そして献げた以
上の恵みを主は返してくださる。


2022年04月11日(月)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩篇37:5




ある人が、思い煩いがどうにもならなかった。「思い煩うな」と言
われているのはわかるが、どうしても思い煩ってしまう。心配と不
安にさいなまれる。心は暗くなり、沈み込んでしまう。暗闇に飲み
込まれそうだ。余りに胸が苦しいので、主の御前に行き、ことごと
く心の内を告げて祈った。

その中で、自分は主の約束の言葉を、主が守って下さること、主が
心配して下さること、乗り越えさせて下さること、必要をすべて与
えて下さること・・頭の知識としてはあるのだが、自分は全く信じ
ていない事を見せられた。

つまりは主を信じていない、信頼していない。信じているのは自分
だけだ。主を信じる事が出来ないから、思い煩うのであり、全く平
安が無い。目の前に、自らの不信仰を見せられ、心から悔い改め
た。
そして自分を主に明け渡した。その時、心に平安が来た。

別の人も、同じくしょっ中、思い煩いに襲われた。苦しいのだが、
どうにもならない。そんな中、自分が思い煩いを次々と選び取って
来る事に気づいた。一つの思い煩いが解決すると、次を取りに行
く。
自分は心配症で、思い煩いを引き寄せ、思い煩っていないと不安な
のだ。

あるがままを祈りに持って行き、告白した。自分が握りしめ、主に
渡さないので、主は横に立たれたまま、何も出来ない。自分自身を
主にお委ねした。初めて平安になり、やがて不安な事態が来ても、
主がどのようにして下さるか楽しみになった。
------------
自分が自分を握りしめている限り、人生は試練の連続ではなだろう
か。主を信じ、主に救われたのだから信頼して明け渡そう。今の心
配事から主が解放してくださる。


2022年04月10日(日)

「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じな い」ヨハネ4:48


王室の役人の息子が、重病で危篤状態だった。その役人は主を求め
て、カペナウムからカナに30キロの道のりを歩いて来た。主なら癒
す事ができると思ったからだ。そうでなければ、はなから30キロも
歩かない。主に、家に来て息子を癒して頂きたいと願うと「しるし
と不思議を見ないかぎり、決して信じない」と言われた。

再度、どうか来て欲しいと願う。すると「帰って行きなさい。あな
たの息子は直っている」と。息子の元に来る事を願ったが、御言葉
を信じて帰るようにとの示しだった。私たちもどうだろう。しるし
と不思議を見ての信仰だろうか。しるしを願っているかも知れない。
幾多の奇跡を見たなら、信じる事が出来て、信仰が強くなるのでは
ないかと。

目の前で紅海が分かれるような大奇跡を見たなら、信仰が強くなる
と思いがちだ。しかし主は、しるしを見てではなく、「主の言葉を
信じる信仰」へと導かれたい。役人は「帰って行きなさい」と言わ
れた。息子は直っているからと。主の言葉だけをもらい、その言葉
を受け取り、信じて帰った。すると途中でしもべに出会い、息子の
癒しを聞いた。

主の言葉の通りだ。そして、良くなった時刻を聞くと、主が「あな
たの息子は直っている」と言われた同時刻である事に驚いた。彼と
彼の家の者が皆、主を信じた。主の言葉は100%成就する。主は、
しるしを見ての信仰から、しるしを見ずとも、御言葉を信じる信仰
へと、成長させて行って下さる。

・・・・・・・・・・・
しるしと不思議ではなく、主の言葉を信じる信仰へと導いて下さる。
見えているものに、信仰は要らないが、見えないものには、信仰が
必要だ。主は信仰を培おうとして下さっている。いつもまず不信仰
を認める時に、御霊が助けて下さる。


2022年04月09日(土)

「・・塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリ コに面するところを渡った」ヨシュア3:16


民の指導者モーセの死後、次世代のヨシュアが民を率いて、ヨルダ
ン川を渡る事になる。ヨルダン川は丁度、春先の雪解け水で、かさ
が最も増える時期だ。水はとうとうと岸いっぱいに溢れ流れていた。
橋も船も無い。どうやって渡るのか。主は、ヨシュアに指示を与え
られた。

祭司たちが契約の箱をかついで、ヨルダン川に入れと。自分の背丈
よりも深い川に入って行こうとした。目に見える何の保証もなく、
ただ、ヨシュアの言葉だけであった。「足の裏が、水の中にとどま
ると、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つ
ようになる」と。

先に、目の前で川の水が、とどまってから、渡るならいとも簡単だ。
誰でも出来る。しかし、まだ川の水が岸一杯に溢れている時に、足
の水の中に入れる事は決して容易ではない。溺れるかも知れない。
そのためには信仰が必要だ。示され、語られた御言葉に従うことが
信仰であり、そして信仰もって従う時、神の奇跡を見る。

何も見えなくとも、一歩従う時に、不思議が起きて確かに神が見え
て来る。私たちは、見えない状況は、とてもじゃないが恐くて進め
ない。少し見えたなら従おうと思う。しかし見たなら信仰は要らな
い。すでに見ているのだから。

先に川の水がせき止められたのでなく、足を踏み入れた後に、せき
止められた。この順序が重要だ。見えたなら従おうとするなら、一
生従えない。今、示しがあるなら、御言葉を頼りに、一歩踏み出そ
う。神の素晴らしいみわざを見ることになる。

・・・・・・・・・・・・・
何も見えない中を従う時は、御言葉を頼りに、真っ暗な中に飛び降
りるようだ。飛び降りると、そこに主がおられ、主の御手にしっか
りと抱かれる。何もかもが本当だとわかる、体験をする。それが積
み重ねられ、信仰が培われて行く。


2022年04月08日(金)

「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました」 Tテモテ1:19



信仰生活には、信仰と正しい良心が大切だ。正しい良心を捨てるな
ら、信仰の破船に会うと言っている。普通、良心=正しいものと思
うが、聖書には「正しい良心」と「邪悪な良心」が出て来る。神に
創造された人間は、良心が与えられた。が、アダムからの罪で、人
の良心は暗くなり、歪んでしまった。

神のようになりたいと、人間は自分の意志と判断で生きるようにな
った。それまでは、すべての判断を主に頼っていた。人間の判断
は、
その人の背景や価値観により異なって来る。そのため良心は麻痺も
するし、又、同じ事をしても、良心の呵責を感じる人と感じない人
が出て来る。

神無しでは、良心は自己中心的な判断で決まる。又、信仰者も間違
った良心の呵責にさいなまれる。「弱い良心」とは、神は責めてお
られないのに、悪魔の責めを受け入れて、自分を責める。又、「邪
悪な良心」は、主に全面的に赦されているのに、過去を気に病み、
くよくよする。自分などはだめだと思う。

自己嫌悪や自己憐憫に陥る。しかしそれらは、すべて主の血潮によ
ってきよめられている。「心に血の注ぎを受けて、邪悪な良心をき
よめられた・・ですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこ
うではありませんか」。いろんな人がこの御言葉によって、過去の
くよくよから救われた。

そして「良心は麻痺する」。良心の警告を無視し続けると、良心が
麻痺して、機能しなくなり、とがめを感じなくなる。最も恐ろしい
事になってしまう。御霊の導きに敏感でいよう。そして御霊の示し
に従おう。御霊により、正しい良心が保たれる。
------------
自分の良心は自分の思い込みや都合で左右に振れていく。何が神の
目に正しく、主は喜ばれるのだろうか。絶えず御言葉を通し、御霊
の導きを聞きながら歩んでいきたい。


2022年04月07日(木)

「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みこと ばに聞き入っていた」ルカ10:39



ある人の証しだ。多忙な日々だった。仕事は忙しく、心身共に疲れ
果てて消耗してしまう。夜勤もあり、身体の疲労も激しい。生活自
体が不規則だった。夜勤が続くと、朝帰宅し、夕方まで眠る。すぐ
に出勤時刻になる。聖書を読み、祈る事は一応欠かさず行ない、教
会の奉仕もしていた。

そんな中、事故で入院となった。けがは治療を受け、大した事なく
感謝であった。ゆっくりした時間の中で、初めて我に返れた。十分
に主と交わる中で、今までずっと流されていた事に気づかされた。
デボーションも毎日するが、形だけだった。奉仕も習慣的になって
いた。

外側は一応整うので、全く気づかなかった。自分はマルタだった。
仕事上ではイライラピリピリしていた。思い煩いや不満、妬み、腹
立ち、様々な思いも、主のもとへ持って行き、主との交わりの中で
解決して行く事がなかった。忙しさの中で、立ち止まる時間も、考
える時間もなく、流されて突き進んでいた。

事故も主からであり、立ち止まらせられた事に、心から感謝した。
祈りや聖書を読む事が全くしないなら、わかりやすく、自分でも自
覚できるが、一応形があるだけに、気づけなかった。生活に、潤い
や喜びや愛、御霊の実が無かった事も納得できた。

じっくりと主と交わり、御言葉を聞く日々に、色々な事が見えて、

らの姿も見せられ、しきり直しでき、軌道修正させられた。容易
に、
自分は外側の形だけの、信仰生活に陥ってしまう事をも気づかされ
た。
大きな学びだった。
------------
いろいろな出来事が日々、目の前にやって来るが問題の中にあって

しみじみと喜びがあるのは主との交わりによってではないだろう
か。
喜びに満ちた信仰生活を送ろう。


2022年04月06日(水)

「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理 から、あなたを解放したからです」ローマ8:2



原理と言うのは、法則だ。この世界に様々な法則があるが、法則と
は、一つの例外も無く当てはまる事だ。一つでも例外があるなら法
則とは言わない。聖書は、私たちの中に一つの法則があると言って
いる。「善をしたいと願うのに、悪が宿っているという原理」だ。

パウロは主に出会い、新生したので、善をしたい願いがあった。信
仰者には、新生する以前には無い、新しい性質があり、主に喜ば
れ、
主の御心に歩みたいとの願いがある。主を求め、主に従いたいと願
う。同様に私たちも、主に喜ばれる事をしたい。だが、それに逆行
する法則が存在する。

「悪が宿っているという原理を見いだす」。罪の性質がある。どん
なに物を上に投げても、引力の法則で、必ず下に落ちる。法則があ
るからだ。善をしようとしても、悪を行なってしまう。どうにもな
らない。自力で善行を少しはするが、必ず落下する。どんなにあが
いても主に従えない。

それを徹底して経験したパウロは「私は惨めな人間」だと。「誰が
この死のからだから救い出してくれるのか」と叫んだ。「誰が」と
あり、自力では不可能だと悟った。落ちるばかりだ。主を仰いだ
時、
解決を見た。主が、別の原理によって解決を備えて下さっていた。

「命の御霊の原理」だ。引力の法則で、物は下に落ちるが、手で受
けると落ちない。御霊の力により導かれる時に、落下せずに、生き
生きと喜んで、自由に主に従って行ける。自分を明け渡し、御霊に
よって歩めるよう、祈ろう。
------------
自分の現状は少しも変わらなくても、ただ主の十字架に繋がってい
るだけで命と御霊の原理が及んでくる。どんな不完全さも神が忍耐
をもって赦してくださる。何という慰めか。御霊に明け渡そう。


2022年04月05日(火)

「ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知 らないと言う』と言われた主のおことばを思い出した」ルカ22:61


ペテロは、主に、「ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと
、覚悟はできております」と、死んでもついて行くと言い切った。
その時に主は「今日鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知ら
ないと言う」と言われた。そして主が兵士たちに捕らえられた時、
ペテロは、その通りに、三度も主を否んでしまった。

その時に鶏が鳴いた。主を裏切ってしまったのだ。主が振り向い
て、
ペテロを見つめられた。ペテロは主の言葉を思い出した。ペテロの
何もかもを、ご存じの主のまなざしは、裏切ったペテロへの愛と慈
しみに満ちていた。決してペテロを責めていなかった。赦しと変わ
らぬ愛に満ちた優しいまなざしであった。

だからペテロは、外に出て、号泣した。取り返しのつかない後悔
と、
主の優しさが身にしみて、泣いて泣いて泣きじゃくった。もしこの
時、非難や冷ややかな目で見られたなら、あの後の、諸教会のリー
ダーとしてのペテロは無かったし、二度と立ち直れなかったろう。

ペテロは自分の弱さをとことん思い知り、主のご愛を思い知った。
ペテロは砕かれた。その後、よみがえりの主が、その愛により、
ペテロを見事に回復させて下さった。そして、羊を飼うようにと、
新たな使命を下さった。

主の愛はペテロを癒し、よみがえらせた。私たちも同じ愛で、愛さ
れている。どれだけ失敗しても、そのための十字架だとの、主の慈
しみのまなざしが注がれている事を覚えよう。
------------
自分の弱さも知らず、いつでも思うように動けると思ってしまう。
主のあわれみと力強い助けがなければ、何一つ御心に従ってはい
けないと覚えていたい。主の尽きない愛とあわれみに感謝だ。


2022年04月04日(月)

「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」 ローマ8:6



肉に従う者は、肉的なことを考えており、御霊に従う者は御霊に属
することを、ひたすら考えていると。肉的な考えとは、自我から来
る、あらゆる自己中心的な考え、自分の栄光、自分の栄誉、この世
の価値観だ。もし礼拝に出席し、多くの奉仕をしていたとしても、
自分のために、自分の誉れ、栄光のためにするなら、それは「肉的
なこと」だ。

又、「御霊に属すること」とは、主に喜ばれる事、主に従う事、御
名が崇められ、主の栄光が現れる事、主の事を考えている事だ。そ
こにはこの世の喜びでなく、御霊の喜びと平安がある。感謝があ
る。
私たちは自分の感情は、コントロール出来ないと言われている。

心はちょっとした事で乱れ、思いはどこまでもさまよう。どうすれ
ば良いのか。御霊に自分の心を明け渡して行く事だ。御霊の領域が
拡がり、私たちは意志を向ける時、御霊が力を与えて下さる。
ある人々は、喜びと幸福感をもって、歩んでいる。又、いつも愚痴
と不平不満の人々もいる。どこが違うのか。

喜びのある人は、恵みを数え、感謝と喜びに目を向け、考えている
人であり、愚痴ざんまいの人は、絶えず無いものを数え、周囲と比
較し、不満に目を向けている人だ。環境は関係がない。環境が原因
ではなく、その人の思いがどうかだ。

いつも恵みを数え感謝している人は、幸福だ。周囲にも恵みを蒔
き、
伝染させる。何に目を留め、何を考えているかで、生き方が決まっ
て行く。主を仰ぎ、御言葉に、讃美に目を向けていよう。苦しい時
には、ありのままの気持ちを祈ろう。
--------------
外からは見えなくても、問題が起きるとすぐに肉は正体を現す。肉
に引きずられやすい者だからこそ、肉を悲しみ御霊を選択していこ
う。恵みを喜んで歩もう。


2022年04月03日(日)

「あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去る まで、敵の前に立つことができない」ヨシュア7:13 



ヨシュア率いる民がヨルダン川を、主の奇跡により渡った。目の前
に立ちはだかるエリコの城壁をも、主に従って行動すると、主が見
事に崩された。一方的な主のみわざだった。そして次にヨシュアは
アイへ、偵察隊を遣わした。すると彼らは「二、三千人で大丈夫」
と戻った。

そこでヨシュアは、三千人を戦いに出したところ、何と敗北したの
だった。驚くべき想定外の事実に、民の心はしなえ、水のように
なった。勝利を疑わなかっただけに、衝撃であり、大きな動揺だっ
た。

奇跡のヨルダン渡渉、奇跡のエリコ城壁崩壊は、大いなる神が共に
おられる証拠であり、その事がヨシュアの拠って立つところだった。
そのため敗北の事実そのものが、それらをなし崩しにしてしまう。
主の御名はどうなるのか。周囲の敵の前で、この敗北はどうなるの
か。敵は主の御名も、ヨシュアたちも、もう何ら恐れる対象では無
くなってしまう。

ヨシュアは、この深刻な重大な事態に「なぜですか」とひれ伏し祈
った。「大いなる御名のために何をされるのか」と。しかし「大い
なる御名」こそが、この敗北を与えられたのであった。全能の神は、
同時に「聖い」神であった。「聖さ」に関心を持たれ、聖さのゆえ
に、罪のあるところに働かれない。

聖く無い所では、敗北の方が、神の栄光が現れる事になる。妨げは
神の側ではなく、民の側にあった。神は罪を照らし出し、示し出さ
れ、アカンの罪が発覚した。罪は主との仕切りとなる。すぐ主のも
とへ行き、告白しよう。罪に真実に対応した時に、主は勝利を与え
られた。

・・・・・・・・・・・・・・・
私たちが御心をそれる時、主は、前進を止め、大いなる痛手を与え
られる。考えさせられ、祈らされる。主のお心はどこにあるのかと。
そんな時は、主に問い、御心を尋ね求めよう。真剣に求める時、主
は示し、回復させて下さる。


2022年04月02日(土)

「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向け ました。私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」 詩篇119:57



主に従うためには、従おうとの意識的な「選択」が必要だ。詩篇記
者は、自分の足を主のさとしの方へ「向けた」と言っている。オー
トマチックではない。没人格、没個性なのではない。ひとりでに、
勝手に従って行けるのではない。放っておくなら、肉の方に傾き、
楽な方へ、安易な方へと流されてしまう。

意識して、サタンの誘惑を拒否し、御霊の導きの方を選び取り、御
霊に拠り頼んで行く必要がある。操り人形のように、主が、私たち
を操って従わされるのではない。それなら意志のない人形であり、
ロボットだ。主はいっさいマインドコントロールされない。主が、
私たちの意志を無視して、代わりに何かをされる事はない。

詩編記者は自分の道を顧みた。私たちはどうだろう。日々の生活を、
自分自身を顧みることは大切だ。日々の忙しさに、流されてしまっ
ているだろうか。主との交わりから離れているだろうか。主の示し
をなおざりに、ないがしろにし、引き延ばし、ぐずぐずしている状
態だろうか。

主のさとしの方へ「足を向け」る事が大事だ。祈っただけでなく、
祈った後、立ち上がり、実際に行動する事が求められる。今、主の
御心に自分の足を向け、具体的に従うように導かれているなら、実
行しよう。

「急いで、ためらわずに、仰せを守った」とあるように、ぐずぐず
していると、必ずできなくなってしまう。今、示されている事があ
るなら、急いで、実行しよう。意志を向けて選択するなら、力は主
から来る。

・・・・・・・・・・・
まず祈りは大切だ。しかし、主はゲッセマネの園で、充分祈られた
後、「立ちなさい。さあ、行くのです。」と御心を行なうべく立ち
上がり、進まれた。御心を示されたなら、「急いで」、「ためらわ
ず」実行しよう。そう出来るよう祈ろう。


2022年04月01日(金)

「そしてイエスは・・五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、 それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、 弟子たちは群衆に配った」マタイ14:19



主の言葉を聞きに群衆が集まっていた。弟子たちは主に、解散さ
せ、
各自食物を買いに行くようにさせて欲しいと言った。すると主は、
弟子たちに、「あなたがたで、彼らに食べ物を上げるように」と答
えられた。弟子たちは、ここにはパンが五つと魚が二匹しか無いと
答えたが、主は「それを、ここに持って来なさい」と言われた。

結果的に、主は、その小さな物を用いて、奇跡をされ、群衆は全員
が十分に食し、満腹した。主は、私たちの持てる物、手にある物
を、
主のもとへ携えるようにと。私たちの手にあるものは、5つのパン
と2匹の魚の極めて小さなものかも知れない。だが、どんなに無き
に等しいようなものでも、主の御手に渡る時に、神の栄光を現わす
ものへと用いられる。

こんな小さなものが、何になろうと思ってしまう。しかし、主が役
に立つものとして下さる。又、主は、食物をご自身で配られたので
はなく、弟子たちの手に渡された。弟子たちがそれらを群衆に配っ
た。主がみわざをされたが、実際に配ったのは弟子たちだ。主は弟
子たちにその働きを任せられた。

人々に糧を届けるために、私たちをも用いて下さる。自らの知恵、
資源、力でなく、人々に与えるものを、主が与えて下さるというこ
とだ。主から渡されたものを、人々に渡して行く。自分からのもの
ではない。人々の祝福のために、用いられるとは、どんなに嬉しい
感謝な事だろう。
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この僅かなものは、主に用いられるために、この手に与えられたも
のかも知れない。役に立たないと思わず、信仰を持って主に渡して
みよう。喜びと共に主の栄光を拝そう。