2022年05月31日(火)

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。 そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」ヤコブ4:7


悪魔は、私たちの心の中の「思い」に攻撃を仕掛けて来る。「悪
魔はすでにユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」
とあり、悪魔がユダの心に、主を売る「思い」を入れた。思いは、
悪魔からであった。

ユダは、主を裏切る思いが「自分の思い」ではなく、「悪魔の思
い」である事に気づかなかった。悪魔からの思いを拒否せずに、受
け入れて熟成させてしまった。日毎に、朝起きた瞬間から、悪魔は
火矢を、思いの言葉を投げて来る。私たちの脳裏に、言葉が常に飛
び交う。

御霊の言葉があり、悪魔の言葉がある。肉の言葉もある。悪魔が様
々な言葉を吹き込んで来る。思い煩い、不安や恐れであったり、
又、
妬みや憎しみの言葉であったりする。その言葉で心が暗く沈んだ
り、
平安が失せたり、落ち込んだり、ネガティブな感情があおられるな
ら要注意だ。悪魔の吹き込みだ。

ある人が朝起きる度に、嫌な思いで暗くなった。嫌な相手が、思い
に浮かび、朝から気持ちが沈む。数日続いた時に、サタンだと気づ
いた。サタンからの思いだと。サタンに気づき、主に頼り、祈った
時に、思いが消えた。サタンが逃げ去った。日常生活で経験する。

サタンの攻撃は、自分の弱い所を的確に知っていて、狙って来る。
繰り返し来るサタンに対して、御言葉を握り、反すうして行く時
に、
心が守られる。讃美や祈りによっても心が守られる。

別の人は、繰り返し来るサタンからの嫌な思いの攻撃に、御言葉に
思いを向け、祈りと共に御言葉に立ち続けた途端、思いが変わり、
悪魔が逃げ去るのがわかった。御霊が、悪魔を識別させて下さるよ
う祈っていよう。
--------------
気がつくとサタンの声に呼応し、悶々として時間を奪われたり焦ら
されたりしている。朝から警戒していたい。御霊の声とは違う思い
に気づけるよう、御言葉と祈りで立ち向かおう。


2022年05月30日(月)

「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへ の水がわき出ます」ヨハネ4:14



サマリヤの女性が、カンカン照りの暑い昼間に井戸水を汲みに来て
いた。普通、涼しい夕方に、生活用水のために井戸に集まった。談
笑も楽しんだ。だが彼女は人目を避けての事だった。その時、主
が、
彼女に「水を下さい」と求められた。

彼女は驚いたのだが、当時はユダヤの男性が、サマリヤの女性に声
をかける習慣が無かった。サマリヤ人とユダヤ人は敵対関係にあっ
た。そして主は、井戸の水はまた渇くが、ご自身こそが、生ける水
を与え、決して渇く事の無い、心の満たしを与える事ができると言
われた。

箴言に「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」とあり、人は、
誰しも心の奥で、愛し、愛される事を求める。しかし人の愛は条件
付きであり、又、人の心は移ろい変わる。この女性は、男性の愛こ
そが、心を満たしてくれるものと思っていた。それにより幸せにな
れるのだと。

そのため5度の結婚と離婚を繰り返し、今は同棲中だった。だが、
そこに満たしは決して無かった。この世の水は飲んでも〃、また渇
くし、ますます渇く。私たちも、主以外のものを求めて、心を満た
そうとしていないだろうか。それならますます心は渇くばかりだ。

女性は、心の奥に強い渇きがあり、満たされずに、虚無の中にい
た。
主は、彼女のその心を知り、わざわざ彼女に会うために、サマリヤ
に立ち寄られた。私たちの心の状態を主はすべてご存じだ。虚しさ
があるなら、主こそが、主のみが満たして下さる。主に向き、主に
求めよう。
--------------
この世のものは必ずなくなってしまう。それを拠り所にしているか
ら失望と落胆の連続ではないのか。主がくださる湧き出る泉はたま
しいを生き返らせてくれる。主に求めよう。


2022年05月29日(日)

「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。 この戦いは主の戦いだ」Tサムエル17:47



聖書には、信仰の戦いが出て来るが、それが人間的に見るなら、意
味のわからない、不可解な方法だった。出エジプトのリーダ、モー
セは民を導き出したのが、エジプト軍精鋭部隊の猛追に窮地に陥っ
た。追っ手が迫る中、前は紅海だ。前進も後退も出来ない。その絶
体絶命に、主はモーセに、前進せよと命じられた。主が戦うと。ー
セと民がエジプト軍と交戦したのではない。

又、強固なエリコの城壁を前に、主は不可解な事を言われた。町の
周りを6日間は1度周り、7度目に7度回り角笛を吹き、大声でと
きの声をあげよと。城壁を叩き壊したのでは無かった。その通りに
した時に、難攻不落の城壁は崩壊した。

又、ダビデは、誰もどうにも出来ない強大な敵巨人ゴリアテを相手
に「この戦いは主の戦い」と、剣や槍ではなく、石を打って倒した。
彼らが戦いに勝利したのは、神の御声に聞き、神の方法に従ったゆ
えであった。人の思いでは、そんな事をして何になるとの不可思議
な方法だった。

しかし主の命令に、その通りに従った時に、大きなみわざが現われ
た。まさに奇跡が起きた。「主があなたがたのために戦われる」、
私たちにも、様々な事態が起きる。その時に、まず自分で動かずに、
自分でどうこうせずに、祈って御声に耳を傾け、導きを切に求めよ
う。

主の示しは、時に理解できず、理解を超えることがある。しかし一
歩従う時に、目の前の事態が動き、展開して行き、主が戦って下さ
るとの実際を経験して行く。

・・・・・・・・・・・・
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」と。まず立って動こ
うとするが、そうでなく、立ち返って静かにすれば救われると。落
ち着いて主を信頼せよと。まず静かにしよう。動かず、主に祈り、
導きを待とう。そして示された事に、その通りに従おう。


2022年05月28日(土)

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足さ せるようなことはありません」ガラテヤ5:16


私たちは新しい性質と、生まれつきの古い性質があり、天に帰るま
では、古い性質もある。その二つの性質が葛藤して、信仰が成長、
成熟して行く。御霊に導かれている時は、平安と喜びの中で、生き
生きと生きて行ける。だが、古い性質、肉に従って行くと、途端に
信仰生活が辛く苦しくなる。イライラし、怒り、裁き、又、思い煩
い、心配に支配される。そして周囲に害毒を流す。普段からの証し
を台無しにしてしまう。

ある婦人が、夫の言葉に傷ついた。腹が立ち、言い返して、責めよ
うとしたが、これは言ってはいけないとの感覚が来て、御霊に止め
られた。怒りがあるまま、言葉を発してはいけないと。喧嘩になっ
て、言い合いになるのが目に見えている。言わずに、まず祈ろうと、
その夜、祈りの時を持った。怒りや恨みを、ことごとく主に告げて
行った。

主に聞いて頂くと、落ち着いて来て、夫に悪気は無いと思えて来た。
何であんなにイライラしたのかと冷静になれた。心はすっかり平安
になった。すると翌朝、夫が「ごめん。言い方が悪かった」と謝っ
て来た。主に従って良かったと、心から感謝した。自我に従って行
動するなら、自分自身は平安無く、必ずとがめと後悔が来る。そし
て周囲にも害毒をまき散らす。しかし肉でなく、御霊の導きの方に
従うなら、平安があり、周囲にも証しとされて行く。

・・・・・・・・・・・・・
絶えず、御霊の思いと肉の思いの二つが目の前に来る。自らが御霊
か肉のどちらかを絶えず選択している。御霊に従うと、平安喜びの
実を結び、肉に従うと苦いものを生じさせる。御霊に歩めるよう
助けを求めて祈っていよう。


2022年05月27日(金)

「しかし、賢い娘たちは答えて言った『いいえ、あなたがたに分け てあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分の をお買いなさい』」マタイ25:9



花嫁の10人の友人たちが、ともしびを持って花婿を迎える準備をし
ていた。ところが花婿が来るのが遅れたので、皆、居眠りをした。
その時に突然花婿の到来が告げられた。皆起きて、ともしびを整え
ようとしたが、5人は予備の油を持ち、5人は持たなかった。

持たない者たちは、灯が消えてしまうので、油を分けてくれるよう
頼むが、分けて上げるほどは無いので、店に行って買うように言わ
れた。しかしその間に花婿が到着し、予備油を持っていた5人の娘
たちだけが入り、婚宴の戸は閉じられた。

ここでは居眠りは問題でない。賢い5人も愚かな5人もどちらも居
眠りした。ともしびも、どちらも持っていた。何が問題なのか。異
なる点は、予備の油を用意したか、していないかだ。その予備の油
は、人に貸し借り出来ないものだった。

「分けて上げられない」とは、一見冷たいように感じるが、分ける
事が不可能なのだ。油を用意するとは、御霊に導かれた生活を、主
との交わりを、地道に日々重ねて行くことだ。御言葉に耳を傾け、
従って行く事だ。一日一日を通して主との関係を積み重ね、信仰
を、
信頼を、培われて行くことだ。

それはどこまでも主と自分との個人的な関係なので、誰かに取って
代わる事など、したくても出来ない。主の再臨まで、油を豊かに備
えること、地道な主との交わりにより、主との信頼関係を築き深め
て行くことだ。それが主をお迎えする準備を整える事であり、賢い
娘だ。
--------------
誠実に主と共に歩んでいこう。主との交わりを通し与えられた信仰
は主が豊かに育ててくださる。日々、備えられている恵みに感謝し
主を賛美しつつ主が来られる時を待ち望もう。


2022年05月26日(木)

「黙っているのに時があり、話をするのに時がある。愛するのに時 があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時が ある」伝道の書3:7



主は、ご自身の時間スケジュールを持っておられる。種まきはどう
だろう。土を耕し種を蒔き、水をやっていると芽が出る。日を追っ
て、芽が少しづつ伸び、茎ができ、葉が生え、やがてきれいな花が
咲く。植物の生長にも、主は、時を定められ、主のスケジュールが
ある。芽、茎、花、実と、主の時と秩序がある。

もし、これを無視したらどうだろう。早く芽が出るようにと、人の
手で種に裂け目を入れたらどうだろう。種は死んでしまう。又、早
く花を咲かせたくて、茎を引っ張ったらどうか。主の時を待たない
なら、損なってしまい、だめにしてしまう。出る芽も出ず、咲く花
も咲かず、実も実らない。

霊的成長も同様だ。成長には必ず時間が必要だ。長い時間がかか
る。
長期戦であり、主のプランは、長期計画だ。悪あがきをせず、人生
の苦しみ、喜び、悲しみ、それぞれの「時」をしっかり受け入れ
て、
生きて行く事が大切だ。その中で鍛練し、育み、必ず一歩〃成長さ
せて下さる。

ダビデは「四方八方みな恐怖」で出口も見えない苦難の時に、「私
の時は御手の中」と言った。状況でなく、主を見て、主の手の中に
ある事を見た。そして困難な状況は、「神の時」に、導かれ回復し
て行った。

辛く苦しく何の希望も見えない時、しかしこの「時」は、愛の御手
の中にある事を覚えよう。握っておられる神に目を向け、信頼して
行こう。その時に「神のなさることは、すべて時にかなって美し
い」
ことを実際に体験して行く。
--------------
自分の知恵でいくら知ったつもりでいても、真に生きた神との出会
いには敵わない。日々にくる苦しみも喜びも真摯に受け止め、主に
委ねたい。神の美しい時に今も生かされている。


2022年05月25日(水)

「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にか なった者で、わたしのこころを余すところなく実行する」使徒13:22




U歴代のアサ王の箇所で、主は、心が主と全く一つになっている人
に、御力を現わされると出て来る。ここで落胆してしまわないだろ
うか。とても主と全く一つになどなっていない・・。無理だ・・。
罪ばかり犯し、弱い自分・・そんな事は不可能に思えてしまう。

だが、主と一つになるとは、誰しも自分の思い、自分の願い、自分
の計画があるが、それを祈りの中で、軌道修正し、主のお心に合わ
せて行く事だ。自分の方が、変えられて行く事だ。自分の思いでい
っぱいだったものを、主のみ思いに沿わせて行く、その時、主の御
心を行なう者とされる。そしてダビデを通して学べる。

ダビデは主から「彼はわたしの心にかなった者」と言われた。主と
一つだ。しかしダビデはどうだろう。バテシバとの姦淫、そしてそ
の夫のウリヤ殺害という重罪を犯してしまった。そんなダビデだ
が、
ナタンにより罪を指摘された時に、罪を認めて、悔い改めた。王で
あるダビデが悔い改めた事は、主の御前でのへりくだりだった。

主と一つであるという事は、決して罪を犯さず、完全になるという
事ではない。そんな事は誰も不可能だ。弱さゆえに、どうしても罪
を犯してしまうが、その罪を認めて、悔い改める時に、主と一つだ
と言われる。御霊は罪を示して下さる。それは大きな恵みだ。赦さ
れるためだ。悔い改めて、悔い改めて歩もう。
--------------
祈りも悔い改めも、主の御霊に導かれなければ決してできない。い
つも主と一つだ。赦しを受け取り、また新しく歩んでいける。なん
と感謝な歩みだろう。へりくだり主と共に生きよう。


2022年05月24日(火)

「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち 返って静かにすれば、あなたがたは救われ・・』」イザヤ30:15



ある人に突如の大きな問題が起きた。大変な事になったと、パニッ
クだ。いつも学んでいるように、まず祈らなければと祈るのだが、
祈っている最中も「どうしよう〃、どうすれば良いか」と頭はぐる
ぐると思いが巡り、方策を懸命に考えている。これは祈りではな
い。

だが祈ろうとするのだが、あれこれと思いが来て、思いを巡らすば
かりだ。自分が前に出てしまい、自分で何とかしようとしている。
そのため平安など全く無く、不安で〃たまらない。段々「こうなっ
たら、ああなったら」と最悪のシナリオが、どんどん浮かんで来
る。

ますます心は暗くなり、思い煩いでいっぱいだ。恐れと不安にさい
なまれ、余りにも苦しくてたまらず、主に叫び祈った。その時「や
めよ。わたしこそ神であることを知れ」「立ち返って静かにすれ
ば、
あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を
得る」と語られた。

そして自分は、その後の「しかし、あなたがたは、これを好まなか
った」「あなたがたがは言った。『いや、私たちは馬に乗って逃げ
よう』」の者だと。自分で何とかしようとしている姿を見せられ
た。
そのため、焦り、恐れ、不安しかない。

「やめよ、静まれ、わたしに信頼せよ」と言われる。問題に飲み込
まれ、問題しか見えず、神が見えていなかった。口先で祈り、自分
が動き回っていた。主に問題を持って行くようにされ、不安しか無
かった心に、初めて安堵が来た。
--------------
すぐに自分の望む結果が来ないことが不安なのではないだろうか。
あれこれ考えるより主の最善を信頼できるように祈りたい。心配
し、
不安定な心を主の平安で満たそう。


2022年05月23日(月)

「・・全能の神がおまえを祝福し、多くの子どもを与え、おまえを ふえさせてくださるように。そして、おまえが多くの民のつどいと なるように」創世記28:3



リベカのお腹に、エサウとヤコブの双子の兄弟がいた時に、主は御
心を語られた。「一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕え
る」
と。アブラハムに約束された祝福は、兄エサウでなく、弟ヤコブに
より成し遂げられて行くと。明確に示されていた。

しかし双子が成長して行く時に、父親イサクはエサウを、母親はヤ
コブを偏愛した。兄弟も、霊的な事柄に対する心が違っていた。兄
エサウは、長子の権利などより、腹を満たす食物の方が大事であっ
た。そのため空腹で死にそうなら、目の前の食物が重大であり、長
子の権利など何の価値も無かった。

しかしヤコブは違った。狡猾で自己中心な人間だが、神に関する事
柄に心が向き、大きな価値を見い出していた。その長子の権利も祝
福も欲っした。それで、母リベカにそそのかされ、共謀して父と兄
を欺いた。間違いは、「神が」与えられるものを、「自分が」力と
策略で奪い取った事だ。ただ、神にゆだねて、信頼しておれば良か
った。

イサクも「兄が弟に仕える」との神の御心が示されていたのに、エ
サウに祝福を与えようとした。それも自分の思い、肉によるもの
だ。
ヤコブが祝福を奪い取った後、イサクはヤコブを呼び、祝福し、伯
父ラバンのもとへ行き、ラバンの娘たちの中から、妻をめとるよう
にと命じた。

ヤコブを祝福し送り出した。主の御心だけが成就して行く事を見せ
られる。自分の思いではなく、御霊に導かれ、御心に従う時、確か
な大きな祝福を受ける。
-----------
まず主が愛し、すでに確かな約束を与えてくださっていることに感
謝したい。それは取り消されることのない祝福だ。自分の思いで主
の邪魔をしないよう、御約束にしっかりと立ち従っていきたい。


2022年05月22日(日)

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道3:11


サウルがイスラエルの王とされるために、まるでパズルが埋まるよ
うに、的確なタイミングで、一つ一つの事柄がなされている。まず
サウルの父親のロバがいなくなった。それで父親が、サウルに若い
者を連れてロバを捜しに行くよう言いつける。サウルは若者と出か
け、山地を巡りに巡って捜す。しかし、どうしても見つからない。

それで、ツフまで来た時に、サウルは父親が心配するから、もう帰
ろうと言った。だが若い者が、丁度この町に神の人がいて、彼の言
う事は必ず実現するから、道を尋ねに行こうと言う。そこでサウル
も同意し、町へ行くと、丁度その日、そこにその神の人であるサム
エルが来ていた。

そしてサムエルは前日に、主から「明日一人の人を遣わすから、油
を注いで、イスラエルの君主とせよ」と告げられていたのだ。父親
のロバがいなくなった事、捜しに捜して、ツフの地まで来た事、若
者が神の人がいる事に気づいた事、丁度その時そこにサムエルが来
ていた事。このどれ一つが欠けても成就しない。

「丁度」、時ピッタリに、一つ一つが不思議な導きだ。私たちの人
生も同様だ。偶然は一つも無い。主の主権と支配の中で、愛の御手
で織りなされ、導かれている。振り返ると、あの時の〜この時の〜、
あれとあれが、これとこれが丁度時ピッタリに繋がって・・と必ず経
験している。

今、あなたが、今の場所にいること、今、目の前の人々、出来事・・
すべてが、主のご計画と配剤だ。又、今わからなくても、後にパズ
ルが埋められ、わかるようにされる。驚くべき主の栄光を拝する。

・・・・・・・・・・・・・・
「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいる」
との主により、身に起きる一つ一つが主からの配剤で、無駄は一つ
もなく、主権のもとの織りなされている事を覚える時、心は守られ
る。いつも視点を主に置けるよう祈っていよう。


2022年05月21日(土)

「こうして神のことばは、ますます広まってゆき、エルサレムで、 弟子たちの数が非常にふえて行った」使徒6:7



初代教会はどんどん成長する中で、アナニヤとサッピラの虚偽の罪
を主が対処された。その後、問題がぼっ発する。ある人々から毎日
の配給が不公平だと不満が起き、苦情が出た。使徒たちは配給に多
大な労力と時間が取られていた。祈りと御言葉の奉仕の重大性を考
えた事だろう。

そこで12使徒は弟子たち全員に告げた。この問題の解決のために、
神の言葉と祈りが最優先であると。神の言葉を教える事を後回しに
して、食卓の事に仕えるのは良くないと。祈りと御言葉の奉仕を第
一にする事、そしてそのために、御霊と知恵とに満ちた評判の良い
7人を選出し、この事に当たらせるようにと。

使徒たちが御言葉の奉仕に専念できるように。この解決は全員の承
認が得られ、一致の中で行なわれた。皆に平安があった。問題に、
良い解決が与えられた結果、「こうして神のことばは、ますます広
まって行き」「弟子の数が非常に増えて行き、多くの祭司たちが
次々に信仰に入った」。働きに実を結んで行った。使徒たちが御言
葉の奉仕に専念できた事が大きかった。

目の前の問題解決だけでなく、豊かな結実へと導かれた。私たちに
も問題は次々起きる。その時に「祈りとみことばの奉仕に励み」の
通り、まずよく祈り、御言葉に聞いて行く事が大切だ。主の御心を
悟り、その通りに従って行く時に、問題解決へと導かれて行く。そ
して豊かな実を結んで行く。

・・・・・・・・・・・・
「祈りとみことば」は大切で信仰生活の土台だ。主との交わりがお
ろそかになると、肉の思いと肉の力、肉の判断で動いてしまう。そ
して状況に流されてしまう。祈りとみ言葉に立ち返る時、導かれて
行く事を何度も経験する。何より感謝な事は、実が結ばれて行く。


2022年05月20日(金)

「デリラはサムソンに言った。「まあ、あなたは私をだまして、う そをつきました。さあ、今度は、どうしたらあなたを縛れるか、教 えてください」士師記16:10



サムソンはナジル人で、力の賜物があった。しかしデリラに好意を
持ち、彼女の誘惑に勝てなかった。誘惑は少しづつ〃、執ように働
きかけてくる。最初は、少し位なら大丈夫と油断してしまう。アル
コールやギャンブル、薬物依存の人も、少しなら大丈夫と思い、段
々深みにはまって行く。

ペリシテ人の領主たちは、デリラにサムソンの力の秘密を探るよう
にと。それでデリラはサムソンに力の秘密を聞く。だが3回もだま
されたデリラは、しつこくサムソンにせがむ。「毎日同じことを言
って、しきりにせがみ、責め立てた」ので、サムソンは死ぬほど辛
かった。

デリラを失いたくない、それを恐れるサムソンは、ついに負けて力
の秘密を明かしてしまう。髪の毛が力の秘密だが、結果的にその髪
の毛をそり落とされ、ペリシテ人に捕らえられた。「毎日しきりに
せがみ」、どうだろう。毎日しきりに執ように聞く言葉が、肉や悪
魔の言葉ならどうだろう。

悪魔はあなたの弱い所を執ように攻撃する。それは妬みや憎しみ、
不安や恐れかも知れない。拒否せず聞いていると、サムソンのよう
に行為へと及んでしまう。悪魔の攻撃に要注意だ。悪魔からの思い
は拒否しよう。

「彼は主が自分から去られたことを知らなかった」、何と悲しい、
悲惨な事だろう。悪魔からしきりに来る言葉を見定めよう。拒否
し、主に祈り、主に拠り頼もう。主に従う時に、悪魔は逃げ去る。
--------------
くり返す失敗や罪の裏に悪魔の攻撃があると疑ってみよう。変え
たくない罪、失いたくない弱みがあるのがわかる。よく認識して
いたい。主に助けを求めよう。


2022年05月19日(木)

「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、 わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け」 ヨシュア1:2



モーセにより、イスラエルの民は、出エジプトを果たし、40年間、
荒野を旅し、ついに約束の地カナンの手前にまで来た。モーセが
死に、主により、ヨシュアが新しい指導者として立てられた。
「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、
わたしが・・与えようとしている地に行け」と命じられた。

「あなたがたが足の裏で踏む所は・・モーセに約束したとおり、あ
なたがたに与えている」と。主は、カナンを与えると約束しておら
れたが、実際にそれを自分のものとするには、具体的な行動が必要
だった。その土地に踏み入り、戦い、勝ち取らねばならなかった。

ただ待っているだけで、延々祈っているだけで、もし行動する事が
無ければ、それを所有することは出来ない。実際に入って行って、
足の裏で踏まなければならなかった。これは、私たちの信仰も同様
だ。主は、私たちに約束を与え、豊かな祝福を備えておられる。

しかしそれを現実に、自分のものとするには、主を信じ、立ち上が
って、実行して行かなくてはならない。行動が必要だ。その時、約
束のものを手に入れる事になる。今、あなたも、主が与えようとし
ている地に「行け」と言われているだろうか。踏み出す事を恐れ
て、
ちゅうちょしているだろうか。

今、祈りの座から立ち上がる時だろうか。信仰をもって、勇気をも
って、一歩踏み出そう。その時、主の約束が現実のものとなる。具
体的に、足の裏で踏もう。
--------------
踏み出す前は不安ばかりだ。でも主が約束してくださっている。信
じて踏み出す者を喜んでくださる。しっかり主に結びついて備えら
れている祝福を取りに行こう。


2022年05月18日(水)

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばし て、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信 じる者になりなさい」ヨハネ20:27



よみがえられた主が、弟子たちが隠れていた家に、ご自身を現わさ
れた。「平安があなたがたにあるように」と。恐れて潜んでいた弟
子たちは「主を見て喜んだ」。どんなに喜び、胸を躍らせ、嬉しか
ったろう。平安と喜びに満ちた。だが、トマスだけがその場にいな
かった。

自分の都合で不在だったのだが、「なぜ自分だけが?」不満な思い
だったろうか。「私たちは主を見た」と興奮し、歓喜する弟子たち
に「その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、私の手
をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」と言い放っ
た。八日後、トマスもいる弟子たちの部屋に、主は再びご自身を現
わされた。

トマスに「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手
を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」と、トマスが言った
そのままを言われた。「決して信じない」に「信じない者にならな
いで、信じる者になりなさい」と。トマスはどんなに驚いた事だろ
う。

トマスの言葉をご存じで、心を知り、あるがまま受け止められてい
る。弟子たちから聞いても、自分の目で見なければ、決して信じな
いと言った、そんな自分に、愛を持って個人的に向き合って下さっ
た主。まるでトマスのために、現われて下さったような状況に、彼
は、指を釘後やわきに差し入れずに、「私の」主、「私の」神と信
仰告白をした。
---------------
自分の思うような信仰生活が送れず主の恵みが見えない時がある。
主の方からご自分を現して、こんな自分のために主の釘の傷はあ
ると示される。素直に主に従いたいと思わせてくださる。


2022年05月17日(火)

「イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息 子が、死んでかつぎ出されたところであった」ルカ7:12




やもめである母親の一人息子が、かつぎ出されるところに、主は遭
遇された。当時のやもめの生活は、困難で厳しいものだった。そこ
に唯一の望みであった一人息子を失うとは。母親は、もう絶望であ
ったろう。病気やけがなら回復するが、死だけは何もかもを冷酷
に、
容赦無く断ち切ってしまう。後戻り不可能だ。

すべてが打ち砕かれてしまった、何の希望も無い状況だ。唯一頼り
で、生き甲斐であった息子を失ってしまった。はらわた裂かれる思
いだったろう。生きる望みと支えが無くなってしまった。何のすべ
もなく、ただ泣いていた。そこに、主が「泣かなくてもよい」と。

「かわいそうに思い」「深い同情をよせ」「憐れまれ」とあり、強
烈な同情だ。腹の底から憐れみが湧き出で、溢れ出て、主は青年を
いやされた。母親から頼まれたわけでなく、一方的に主の溢れ出る
憐れみによってであった。「青年よ。起きなさい」の言葉で、青年
は生き返った。

主は口先でなく、「深い同情」と共にいやす「力」を持っておられ
る。「泣かなくてもよい」は、その通りに実現し成就した。同じ主
が、今、悲しみのどん底で、絶望にある私たちに、腹の底からの同
情を寄せていて下さる。主はあわれんでいて下さる。主の御口から
出る言葉は、私たちの心に奇跡を起こし、揺るぎない「平安」をも
たらす。

「彼を母親に返された」完全に取り返し不能の状況に、決定的解決
を与えられた。母親に返されたとは、何という愛、慈しみだろう。
そして何という御力だろう。この同じ主が、今、あなたの目の前に
おられる。
--------------
何と感謝なことだろう。深い同情をもって祈りは聞かれている。そ
れは死をも超越する。主が働かれ、顧みてくださったことを、ひと
つひとつ経験していきたい。


2022年05月16日(月)

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道の書3:1



別の箇所で、「確信を投げ捨ててはいけない。それは大きな報いを
もたらす」と言っている。主からの約束を待つ時に、まだか、まだ
か、遅いと感じるだろうか。しかし主は、完璧な「主の時」を持っ
ておられる。「わたしの時がまだ満ちていない」「わたしの時はま
だ来ていない」。

そして時が満ちるなら、「見なさい。時が来た」と。主は遅れてお
られない。約束の時を待とう。「もし遅くなっても、それを待て。
それは必ず来る。遅れることはない」。私たちの信仰生活でも、
「神の時」がある。私たちは、今こそが時!今こそ!今でなくてい
つなのか!と、しばしば思う。

ある教会で、会堂建設の土地を求めていた。丁度、土地の値が大幅
に下がったのだ。今こそ買い時、これを逃してどうすると、役員た
ちも、早く、早くと気が急いた。しかしそれに反し、ずっと祈って
いた牧師は、がんと動かなかった。

まだ教会の一致に至っていないから、祈りが必要だと。今は祈りの
時だと。牧師の決断に従い、教会は一つとなって会堂建設に当たれ
るように、時をかけて、祈りが献げられて行った。やがて神の時が
到来だ。祈りが答えられ、一つとなって、会堂建設へと進んだ。

その頃には、土地の価格もすでに高騰していたが、何とそれを上回
る献金が献げられ、ふさわしい土地が与えられたのだった。私たち
の日常生活においても、神は、ふさわしい時に、ふさわしい事をさ
れる。「すべて」全部、それは時にかなって美しい。美しいとは感
動がある事だ。主の栄光が現される。
-------------
神の時を見つめているなら、駄目でも失望から守られる。まだ神の
時ではなかったと望みをもって忍耐できる。神の時を悟れるように
祈っていよう。


2022年05月15日(日)

「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、 ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた」 ヨハネ2:11

主は、カナの結婚式で、ぶどう酒が切れた。マリヤはすぐ主に助けを求めた。主は答え、水をぶどう酒に変える奇跡をされた。その時、手伝い達に、大きな水がめ6ヶに、水を汲ませた。彼らは、ぶどう酒が必要なのに、なぜ水なのか。何の意味があるのか、わからないままだったろう。

だが、主が言われた通りに水を汲んだ。何とその水が、最高のぶど
う酒に変えられた。世話役や結婚式の出席者たちは、何もわからな
いまま、知らないまま最高級のぶどう酒を味わい、楽しんだ。しか
しそこに神を認める事も、神を知る事も無い。又、神への感謝も無
い。

しかし弟子たちは違った。それらを見ていた弟子たちは、それが主
のみわざだと知ったので、「それで弟子たちはイエスを信じた」。
主は日々、私たちの日常で、みわざをされ、働いておられる。だが
そこに主を認めなければ、それは偶然、ラッキーで、たまたまそう
なったのであり、運が良かっただけで、そこに主を新たに知る喜び
も、感動も、感謝する事も無い。

私たちはどうだろう。日々、主のご愛や配慮を認める事なく、一つ
一つの出来事を当たり前、偶然として、流していれば、世話役や
人々と同じだ。今日の日は、主から来ていて、家族が、仕事が与え
られていて、環境も主の御手の中だ。当たり前ではなく、主による
ものだ。そこに焦点を当てて、この1日を見る時に、弟子たちのよ
うに、主を認め、感謝が溢れ、更に主を信頼して行くことになる。

・・・・・・・・・・・・・
焦点がどこにあるだろう。どん事があろうと、主に焦点があれば、
問題は問題でない。見えるところの悩みや、自分や状況に焦点があ
れば、動揺と混乱、恐れと不安しかない。ずっと主を見ていた弟子
たちにならい、言われる通りに水を汲んだ手伝いにならいたい


2022年05月14日(土)

「それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであ ったことがわかります」ヘブル3:19



イスラエルは、主がカナンに導くと約束をもらっていながら、入る
事が出来なかった。不信仰のゆえだった。導き入れるとの、主の約
束を聞きつつ、信じる事が無かった。「もし御声を聞くならば・・心
を頑なにしてはならない」のように、御声を聞くなら信仰をもって
受け入れる事が大切だ。

語られた御言葉を無視し、ないがしろにするなら、心はそのままで
なく、ますます頑なになって行く。私たちはどう聞いているだろう。
当時も、主の言葉を聞く人の態度は様々だった。受け入れる人、好
奇心だけの人、反発する人、傍観する人・・。又、喜んで聞くが、自
我の岩にぶつかると、御言葉を捨てて、自分の思いの方を取るだろ
うか。

そんな心が砕かれる必要がある。頑固な心が砕かれる時、柔和にさ
れる。砕きは祝福だ。御声を聞く時、主の言葉を、そのまま受け止
め、信じて行く事が信仰だ。この世は、目に見えるもの、手でつか
む事のできるものを確かなものとし、信じる。私たちは、目には見
えないが、御言葉を真実なもの、確かなものとする。

そして、その語られた御言葉を、行なってゆく事が肝心だ。実行し
て行く時に、初めて御言葉が身につき、そして必ず豊かな実を結ん
で行く。私たちはどうだろう。ただ聞いて通り過ぎているだけだろ
うか。心して受け止め、今、目の前の御声に一歩従おう。

・・・・・・・・・・・
カナンへの約束を信じずに、荒野で滅んでしまったイスラエル。不
信仰は主の言葉を否定し、嘘だという事にしてしまう。不信仰をあ
りのまま認めて、主に助けを求めよう。「信じます。不信仰な私を
お助け下さいさい」と、子どもが癒された父親のように。


2022年05月13日(金)

「そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ 『今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に乗せていただきとうご ざいます』」マルコ6:25



ヘロデ王は、ヨハネを正しい聖なる人と恐れ、保護していた。だ
が、
娘のいいなりになり、殺害してしまった。ヘロデは娘に「何でも欲
しいものを与えよう」と言った。するとヨハネの首が欲しいと言わ
れ、ヘロデは非常に心を痛めた。

しかし自分の誓いもあり、人々の手前もあり、ヨハネを正しいと知
りながら、人の目のため、ヨハネを殺害してしまった。ヨハネの語
る言葉を当惑しつつも喜んで聞きながら、自分の立場を守り、体面
を保つために、ヨハネを殺してしまう。ヘロデは、神の言葉を喜ん
で聞くだけで、それで終わり、神に向き合い応答し、悔い改める事
はなかった。

又、神の言葉にへりくだり、自らを従わせ、自分が変えられて行く
事もなかった。ヘロデは権力があり、娘の願いを退け、正しい事を
行なう事が可能だった。にもかかわらず、娘の言う事に従ってしま
った。ヘロデは、神を恐れず人を恐れた。体面、めんつを取り繕う
事が最優先だった。

私たちはどうだろう。人の目に、自分が思う以上に縛られているも
のだ。人を恐れる余り、判断を誤って行く。それは神の言葉に喜ん
で耳を傾けていながら、御言葉に従う事をさせない。人への恐れ
は、
内側に根深く培われている。まず気づきから始まる。

ヘロデはヨハネの言葉を喜んで聞いていた。しかし悔い改める事は
なかった。御言葉を聞いてはいても、御霊の示しに従わないなら、
決して実を結ぶ事がない。実を結ぶためには、目の前の御霊の示し
に、勇気を持って一歩従う事が大切だ。そうする時、主の豊かな祝
福の中を歩める。
--------------
様々な立場がありそこには常に人の目の圧力がある。主の前にへり
くだり助けを求めていよう。流されないで御霊の導きに従う強さを
主から受け取れる。


2022年05月12日(木)

「さあ、私たちに先だって行く神を造ってください・・モーセとい う者が、どうなったのかわたしたちにはわからないから」 出エジプト32:1



モーセが主との会見でシナイ山に上っている間の事だった。、モー
セは不在、主から迷い出てしまった民は、アロンに偶像の神を造る
ように頼んだ。彼らは周囲の国々の民と同じように、目に見える偶
像を求めた。人は目に見えない神よりも、肉眼で見える、形のある
神を求めてしまう。

それは木や石や金で造ったいわゆる像の神だけではなく、金銭、仕
事、趣味、人であったりする。名誉や地位、人からの賞賛が偶像に
もなる。目に見えない神を頼れないので、確かな手応えのある、目
に見えるものを求める。

アロンは、モーセを助けるためにそこに置かれた。だから、モーセ
不在中の出来事に際し、主から力を受け、民を指導し、治めるべき
であった。それが逆に民の言いなりになってしまった。アロンは鋳
物の子牛の像を造り、彼らは「これがあなたをエジプトの地から連
れ上ったあなたの神だ」と言い、礼拝した。

主はモーセに「すぐ降りて行け。民が堕落してしまったから」と。
神の栄光を現すべき聖なる民が、神でないものを崇め、礼拝する、
神を辱めてしまう。私たちも、目に見える像を拝む事は無いが、心
の奥で、神よりも大切にしているものはどうだろう。

神よりも愛し、神よりも信頼しているもの、それが偶像だ。「この
むさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」と、偶像礼拝は、心の欲
望、貪欲にあると。又、心の奥の空洞を埋めたくて、偶像に走る。
主ご自身こそが、私たちの心を真に満ち足らわせて下さるお方だ。
主ご自身を求めよう。
--------------
主、以上に自分が信頼を寄せているものは何だろうか。貪欲に求
め、
一番頼りにしているものに気づかせてもらおう。それを主に渡せる
ように祈りたい。


2022年05月11日(水)

「イエスは彼らに言われた『子どもたちよ。食べる物がありません ね・・舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」 ヨハネ21:5



ペテロは、主が捕らえられた時、主を否み、裏切るという大罪を犯
してしまった。復活の主からガリラヤに行くよう伝えられ、ペテロ
や弟子は故郷に戻った。主を捨てて逃げ、どんな顔で会えばよいの
か。自分はもう弟子失格で、苦しかったろう。なすすべなく自分に
出来る事は漁しかない。

それでペテロが漁に出ると、他の弟子たちも同行する。だが魚は一
匹も捕れない。ペテロは、自分の人生の、取り返しのつかない大失
敗が脳裏から離れず、挫折感で心暗く、虚しさでいっぱいだったろ
う。しかし主の方から、夜が明けそめた時、岸べに立たれた。

そして「右側に網をおろせ」と。それを主とはわからず、ただ岸辺
の誰かに言われる通りにすると、何と驚くべき大漁だった。全く同
じ光景が以前にもあり、「主です!」と気づいた。ペテロが、主に
召されて従った時のあの原点だ。ペテロは、もう一刻も早く主のも
とへ行きたいと、湖に飛び込んだ。

三度否んだペテロ、主を捨てて逃げ去った弟子たち、主はその心の
挫折、後悔、傷みをご存じであった。しかし主は愛と慈しみでいっ
ぱいで、主の方から弟子たちに朝の食事を用意し、ペテロを回復さ
せられ、もう一度立ち上がらせられた。

私たちの信仰人生のどんな暗黒の中でも、「夜が明けそめた時、イ
エスは岸べに」立たれている。そして、朝の食事を振る舞って下さ
る。主の愛は何があっても、どんな時にも決して変わらず、尽きる
事がない。
--------------
信仰の暗闇で何度主に助けられただろう。がっくり肩を落とすと
き、
愛して赦してくださる御言葉を聞きく。主が全てを知っていてくだ
さる事は何という救いか。


2022年05月10日(火)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があな たがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7



今、心配事があるだろうか。問題は次々と起きる。親子、夫婦の問
題、対人関係の悩み、仕事や経済的苦境、健康問題、様々な事で思
い煩う。だが、主は「思い煩うな」「何も、いっさい」思い煩うな
と。何という恵みの知らせだろう。思い煩いは一切無用と。

なぜなら思い煩いは何の益も無い。心配しても、何一つ変わらず、
何を成し遂げる事もない。「誰が心配したからといって、自分の命
を少しでも延ばすことができるか」と。心が暗闇に落ち込む事で、
何かを変える事ができるのか。思い煩いは、百害あって一利無し
だ。

又、思い煩いは、実際より物事を大きくする。冷静に対処すれば、
乗り越えて行ける事態が、恐れでパニックに陥ってしまう。カナン
視察の後、ヨシュアとカレブは行ける!占領できる!前進しよう!
と言った。だが民は、他の10人の情報に、恐怖で怯えて泣き伏し
た。

その不安と恐れは、絶えず脳裏に浮かび、それを繰り返し〃見続け
ていると、恐怖の要塞を築き、強固にし、モンスターにしてしま
う。
自分がそうしている。モンスターにはとても打ち勝てず、敗北しか
ない。不信仰に陥る事になる。しかしそれは事実ではない。

空想上のモンスターであり、自らが描く最悪のシナリオは成ったた
めしがない。「祈りと願い事によって」その不安、この恐れを主に
知って頂こう。思い煩うなと言われるが、どうにもならないと、正
直に主に告げよう。主は手を延べ、助けて下さり、平安へと導いて
下さる。
--------------
不安や恐れは次々に来るが、自分で考え込む前に主に手渡せるよう
祈ろう。主は必ず励ましと慰めとをもって最善の助けをくださる。
その経験を通して、日々、成長していきたい。


2022年05月09日(月)

「ユダの王ゼデキヤにも、私はこのことばのとおりに語って言った 『あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民 に仕えて生きよ』」エレミヤ27:12



エレミヤの時代に、アッシリヤによって、イスラエル王国は滅ぼさ
れ、捕虜として連行された。だがそのアッシリヤもバビロンにより
滅ぼされた。バビロンは侵攻し、国々は滅ぼされ、ついにユダ王国
も、捕囚となった。当時のユダは神から離れ、偶像礼拝に陥り、堕
落していた。

預言者たちは、人々に耳ざわりの良い、心地良い言葉だけを語っ
た。
平安が無いのに、見せかけの「平安、平安」と言っていた。だが真
の神の人であるエレミヤは、人の顔色を見ず、真っ直ぐに神の言葉
を語った。そのため迫害を受け、苦しめられた。

捕囚中の暗黒の中で、エレミヤは、その捕囚は、「災い」としか見
えないが、災いではなく「平安と将来と希望」のためのものだと。
すぐに解放にならないので、その地で落ち着いて、腰を据えて生活
せよと。そして敵であるその町の繁栄を祈れ。それは自分達の繁栄
になるからと。

私たちも苦悩の時、一番欲しい言葉は、「即、問題解決」「即、解
放」だ。しかし口先の慰めは、更に傷を深くする。かせのような現
状を受け入れるなら、その中で主の支え、助け、励ましにより歩め
る。そして主の愛と慈しみを知る。現実を受け入れる事が大切だ。
受け入れられないなら、そのまま祈ろう。

主が助けて下さる。そして「70年の満ちる頃・・あなたがたを帰ら
せる」と。現状の中で、主に従うなら、そこに「平安」が約束され
ている。そして「神の時」に、そこから出して下さる。
--------------
同情の言葉や安心できる言葉が欲しいが、主に繋がっていなければ
真の安心はない。まっすぐに主の言葉を受けとり、現状を主からの
ものと受け取ろう。何にも代え難い主からの慰めを受け取ろう。


2022年05月08日(日)

「イスラエルの王はヨシャパテに言った『私は変装して戦いに行こ う。でも、あなたは、自分の王服を着てください』こうしてイスラ エルの王は変装して戦いに行った」T列王22:30


イスラエル王アハブは、ユダ王ヨシャパテに、ラモテ・ギルアデを
アラムから取り返そうと、誘った。ヨシャパテはアハブの申し出に
乗り、主の言葉を聞くよう要請した。アハブは預言者400人を集め、
伺いを立てると、彼らは、上って行くようにと口を揃えて答えた。
だが預言者ミカヤは正反対の預言をした。そしてアハブが悪霊に惑
わされている事、殺される事を告げた。

アハブとヨシャパテはアラムと戦う事になり、アハブは狡猾に自分
は助かろうと、ヨシャパテに王の服を着せ、自分は変装した。敵を
欺き自分だけ巧く逃れようとした。しかしアラム王の命令は、イス
ラエル王アハブだけを狙えというものだった。敵が、ヨシャパテを
イスラエル王だと思い、戦おうとした時、ヨシャパテは祈った。

すると敵はユダ王でないと知り、引き返した。神の関与だった。そ
して一人の兵士が、「何げなく」放った矢が、何とアハブに的中し、
彼は傷を負い死んだ。別に兵士はアハブを狙ったわけではない。主
がそうされた。ミカヤの預言が成就した。

驚くべき事だ。人がどう画策しようと、主の絶対的な主権のもと、
主の御心が成就する。主の完全な御手の中にある。それゆえ日々も、
一生も、自分自身も主に委ねよう。その時、あなたへの最善のご計
画を一つ違わず、成し遂げて下さる。そして平安に守られる。

・・・・・・・・・・・・
アハブは画策するが、何気なく放たれた矢がアハブに命中した。狂
いなくピッタリの主の主権、支配を見せられる。万物の支配者であ
る主を覚える時、目の前の問題も、主におゆだねして、主を信じて、
安んじていたい。


2022年05月07日(土)

「・・突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、『サ ウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた」使 徒9:3


主イエスを否定するサウロは、主を信じるクリスチャンを憎み、激
しい殺害の意に燃えて、迫害し捕らえ、投獄していた。それが神の
御心であり、正しい事だと信じていた。エルサレムだけでは気が済
まず、ダマスコにまで執拗に追いかけた。近くになった時に突然、
天からの強い光に照らされ、彼は地に倒れた。そこで主の御声を聞
いた。

「なぜ、わたしを迫害するのか」と。倒れた地面から起き上がった
時、失明していた。サウロにとって、自分自身が根底からくつがえ
される、大変な衝撃だったろう。その後3日間、盲目の状態に置か
れ、飲食もせず、真っ暗闇の中で、サウロはこれまでの事を考え、
今、起きた事を考え、これから先を考え、祈りに祈った事だろう。

サウロは「地に倒れた」時に、主の御声を聞いた。つまり主が倒さ
れて、聞かせられた。私たちは全力疾走の時は、周囲の事は見えな
いし、自分の事も見えない。行き詰まる時、失敗した時に立ち止ま
る。私たちにも主は、止まらせるために、挫折や失敗、行き詰まり
を通される。主のご計画があり、大きな祝福へと繋がる。

又、今、暗黒状態なら、主は祈らせたいのでは。立ち止まって振り
返り、現状を見据え、先について、祈りに祈ろう。「そこで、彼は
祈っています」、サウロは真剣な祈りの中、アナニヤが遣わされ、
見えるようにされた。「目からうろこのような物が落ち」、私たち
も、暗黒を通過後、主がはっきりと、鮮明に見えるようにして下さ
る。

・・・・・・・・・・・・・・
私たちにも、愛して下さっているがゆえの取り扱いがある。立ち止
まりの時、行き詰まりの時は、主に立ち返れる時、恵みの時だ。更
に親しく主と歩むようにされる。主に近くされる。どんな時も主の
ご計画の中だ。


2022年05月06日(金)

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまり ます・・あなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶ ことはできません」ヨハネ15:4



ある女性が証しした。「“わたしにとどまりなさい“”わたしを離
れては、何もすることができないからです”とあり、主にとどまる
事を日々の生活で教えられています」と。ある朝、疲れが取れない
のか、身体がだるくて、家族の朝食を作るのが面倒でたまらなかっ
た。

だいたい何で自分ばかりが毎朝作らないといけないのかと、サタン
が来て不満、つぶやきを吹き込む。家事が重荷で、心身だるくて仕
方が無い。だがその数日後、家族のために朝食を作り、洗濯物を干
していて、讃美が湧き、平安と喜びで、幸福感でいっぱいだった。
まるで違う。

ふと気づかされた。全く同じ場所で、同じ事をしているのに、片や
不平不満、“ねばならない”重圧感、片や平安と喜び、幸福感・・
同じ自分が天と地ほどに違い、主にとどまることの大切さを実感し
たと。

マルタとマリヤが出て来るが、マルタは主をおもてなしするため
に、
料理や片づけ整えをしていたが、時間が迫り、焦って来ると、イラ
イラピリピリ、思い煩いに襲われる。ふと見ると、何もしていない
マリヤに腹が立つ。だいたい何で手伝っていないのか。何で自分一
人忙しくせねばならないのか。

マリヤを責め、それを許している主を責める。主のための奉仕が何
をしているかわからない、本末転倒だ。主を離れては、実を結ぶこ
とがない。主が飛んでいたなら、すぐに主を仰ぎ、主に立ち返ろ
う。
主にとどまろう。
--------------
目の前ものに心はすぐ反応してしまうが、平安がなくなっている事
に気づきたい。いつも主が共におられ、十分な恵みを注いでくださ
っているのではないか。主に祈り喜びを取り戻そう。


2022年05月05日(木)

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしに なる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え・・」ヨハネ14:26



ある人が、主を信じ、生活を送る中で、ある時ふと、気づきが与え
られた。困難や苦しい事が起きると、主のもとに行き、必死に祈る
のだが、困難が去ると、主を忘れて世に流されてしまう。又、試練
に会うと、主のもとに走り、必死に助けを求める。しかし解決する
や、世にどっぷり浸かってしまう。

悩みが解決すれば世に帰りを繰り返していた。ある時、説教の中で
「苦しい時の神頼み、楽しい時の神離れ」と聞いた時、まさに自分
の事だと思った。苦しい時だけの神で、これなら「家内安全・商売
繁盛・無病息災」の偶像と変わらないではないか。苦しい時の解決
に、主を利用しているだけではと。

この世も楽しみ、美味しい所を取っているだけだ。そして御言葉を
聞いているが、実生活とリンクしていない事にも気づかされた。御
言葉を聞く事に抵抗は無く、良い言葉として聞いている事。だがそ
れはそれ、これはこれのごとく、御言葉は御言葉、この世の生活は
生活と、自分の中では各々が別個のものだと。

普段は、神を忘れて生活している事も。様々気づかされて行った。
自分を捨てて、犠牲を払ってまで、神に従おうなどと思っていない
事もわかった。御前に悔い改め、従って行きたいとの決心が与えら
れた。とにかく従おうとして行った時に、自分が変えられて行っ
た。

従えない事を教えられ、だからこそ祈る事を教えられ、祈りにより
主の力を初めて実際に経験して行った。御霊は気づきを与えられ
る。
気づかされた時に、なおざりにせず従うなら、必ず変えられ、成長
へと導かれる。
--------------
問題が何も起こらない事の恵みも祝福も御霊に教えられなければ受
け取ることができない。どこまでも自己都合で生きている者だと、
教えてくれるのも御霊だ。御霊はいつも共にいて助けてくださる。


2022年05月04日(水)

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かな ものにするのは主である」箴言16:9 


主は私たち一人〃のために、ご計画を持っておられる。そうなら自
分が、計画を立てるのは悪いのだろうか。しかしそうではない。無
計画の、行き当たりばったりが良いのではない。きちんと将来の計
画を立てることは大切だ。神無しの計画が、愚かで無意味なのだ。

自分中心にではなく、主と相談しつつ、御心を求め、計画するのは
良い事だ。愚かな金持ちは、大豊作の全収穫物が、自分のものだと
誇った。そこに神は無かった。自分の力であった。貧しい人の事も
全く無く、倉に貯え、今後、遊んで暮らせると喜んだ。しかしその
晩に命を取られた。命は、誰の手にあるのか。

神無しの人生設計は虚しい。人間の高ぶりだ。私達の命は消えてし
まう霧のようだと言う。主権者は主であり、御前にへりくだり、主
を人生の中心に据え、委ねて生きる時、人は初めて真の満たしを得
る。平安喜びと生きがいを見い出す。

人は裸で来て、裸で帰る。何が大切なのだろう。神の御心を求めて
の歩みは、平坦でなく、自分の思い通りでもないが、決して後悔の
無い、真に実を結ぶ人生だ。そして天でも豊かに報いられる。主は
最高の相談相手だ。

どの道を進み、どの選択をし、どう判断すべきか、求めるなら御心
を示し導いて下さる。今、不安があればそのまま進まず、立ち止ま
り、主に相談しよう。「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを
下さる」
--------------
自分の思いやプランほど頼りにならないものがあるだろうか。いつ
までも実現しないものや虚しいものを追いかけていく。主としっか
り結びつき、主の導きを求めよう。確実な歩みへと導かれる。


2022年05月03日(火)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力 は、弱さのうちに完全に現われるからである」Uコリント12:9



み言葉の言う「弱さ」と、この世の言う「弱さ」は別ものだ。前者
は自分の限界を知り、認めている事であり、後者は、強さが善で、
弱さは悪という価値観だ。就職試験で、あれもこれも出来ない、何
の能力も無く、弱い者ですと言えばどうだろう。逆にあれが出来、
これが出来る、様々資格があると言えばどうだろう。

世では、能力があり、力のある事が善で、無力は悪だ。この世は比
較の価値観の中で生きている。人より仕事、勉強が出来ない、対人
関係がうまくできない、そんな弱さは悪だ。競争社会なので、それ
なら負け組になる。そんな価値観の影響を受けると、人の持つ幸せ
を持たない自分、勝ち組でない自分は敗北者となる。

そんな自分を受け入れられず、認める事ができない。そのため自分
の弱さを知られたくなく、隠す事になる。競争社会で、弱さを見せ
ると負けになる。自分で自分を縛り、窮屈にし、がんじがらめにし
てしまう。しかし御霊の世界は全く違う。神の力は「弱さ」の内に
こそ、「完全に」現われる。

神の愛や、真実や恵み、神の支えや、助け、それらは弱さの中での
み体験できる。そして弱さは恥でなく、誇るべきものだと。頭でな
く身をもって知る事になる。自分の弱さを認める時に、御霊の自由
の中に入れられ、安堵と喜びを経験し、解放される。生き生きと生
きて行ける。

しかし自分の弱さを認める事が必要だ。なかなか認められない。自
らはどうだろう。認めると自分が拠って立つ所が壊れてしまうだろ
うか。御霊に心を探って頂こう。
----------------
弱さを認められず自分で自分を守る日々は孤独で辛いものだ。弱さ
をきちんと認め、主を信頼して歩む日々は何と平安だろう。それゆ
えに与えられる日々の恵みが感謝でならない。


2022年05月02日(月)

「主はモーセに仰せられた「あなたがたは、いつまでわたしの命令 とおしえを守ろうとしないのか」出エジプト16:28



イスラエルの民は、主により苦難から救出され、後にも先にも無い
驚くべき奇跡により、エジプトを脱出した。「主に向かって歌え。
主は輝かしくも勝利を収められ」と主を讃え、大喜びし、感謝し
た。
だが荒野に出て3日歩いた途端、「水が無い」との不満に変わっ
た。
大感謝から、僅か3日後だった。

次には食物が無い、エジプトで死んだ方がましだとまで言う。主を
信じている事が出来ない。主は天からマナを、夕にはうずらの大群
を降らせた。このマナは1日分だけと命じられた。翌朝までおく
と、
虫がつき腐った。朝ごとに各自食べる分だけ集め、残ったものは溶
けた。

主は「朝ごとに・各自・食べる分だけ」と定められた。これは信仰
による従順だ。どうだろう。1日分だが、隠れて翌日の分も、1週
間先も、集めておきたい。もし降らなかったら?主を信じないな
ら、
そうしてしまう。主は来る日も〃、40年間、毎日〃マナで養われ
た。
これは自力でなく、主により生かされるという事実を、身をもって
教え込もうとされた。

「主により生かされている」これを心底知る時に、思い煩いから解
放される。私たちもこれまでの40年マナを備え養い続けられたので
はないか。主に信頼し、御声に従う訓練が私たちにも臨む。主の言
葉通りに従う時に、主との信頼関係が培われ、深められて行く。
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なにか事が起きるとすぐに肉で反応してしまうが、そこから信仰の
目で、望みをもって主に従っていきたい。今まで受けた豊かな恵
み、
それは今日も変わらない。主だけを見ていたい。