2022年06月30日(木)
「ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った『ご主人さ ま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集める ひどい方・・』」マタイ25:24
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主人が財産をしもべたちに預けて、旅に出た。それぞれ5タラント
2タラント1タラントを預けた。5タラントと2タラントの者は行
って商売をし、更に各々5タラント2タラントをもうけた。しかし
1タラントの者は商売せずに、地に埋めた。
1タラントは少額ではない。6千万円に相当する額だ。彼は、減ら
す事を非常に恐れた。もし商売に失敗したら、泥棒に盗まれたら、
主人の怒りが恐ろしい。そのまま維持する事に必死であった。しか
し戻った主人は、使い込んだわけでなく、損害を出したわけでもな
い、そのまま返した彼を、怠け者と厳しく叱責し追い出した。
商売失敗するより、よいのではと思えそうだが、そういう事ではな
い。彼は、このまま返せば問題無いだろうと、実は主人に関わりた
くなかった。5と2タラントの者は、とにかく主人に喜んでもらい
たい一心だった。そこに主人への愛情と信頼があった。万一失敗し
ても、主人は受け入れてくれると信頼していた。だから思いきり商
売できた。
埋めた彼は、主人理解が間違っていた。厳しい冷酷なひどい方と。
私たちはどうだろう?神理解が間違っていないだろうか。罰を与え
る恐い方だろうか。「〜ねばならない」と要求ばかりされる厳しい
神だろうか。又、2と5タラントの者と比較して、こんな1タラン
トだけと卑下しているだろうか。
比較するからであって、1タラントは大変な額だ。そこには主人の
信頼が込められている。もし尻込みしているなら、その1タラント
を主のために用いよう。「主人の喜びを共に喜んでくれ」と、その
時必ず、御霊の喜び、生きる喜びが与えられる。
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何もしなければ失敗もないが、出来ない事を出来るようにと主に
頼りながら、生き生きとした信仰生活を歩みたい。どんな時も主の
赦しと助けが備えられている。主に感謝を献げる日々でありたい。
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2022年06月29日(水)
「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べるものを 差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか」 マタイ25:38
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よく知られている「靴屋のマルチン」という物語がある。ある日、
主がマルチンに現われ「明日、お前のところに行く」と言われた。
マルチンはそれはもう大喜びで、翌朝働きつつも、窓の外をじっと
注視していた。外は厳寒で、雪かきの老人がいた。彼はその老人を
暖かい家に招き入れ、お茶をふるまった。
次に、赤ん坊を抱いた貧しい母親を見た。マルチンは急ぎ、その母
子を家に入れ、暖かいショールを与えた。マルチンは、主はまだか
〃と待っていると、少年が老婆のかごからリンゴを盗むのが見え
た。
マルチンは懸命に執り成し、少年と一緒に謝った。
やがて夜となり、ついに主に会えなかった、マルチンはひどく落胆
した。その時、主が「今日お前のところへ行ったが、わかったか」
と言われ、主の姿が、老人、母親、少年に変わったのだった。そし
て助けが必要な人に、助けを与えるなら、それは、主にしたのだと
言われた。
大きな事でなくとも、ほんのささいな事でも、必要な人に与えるな
ら、主にしたと、主は豊かに報いて下さる。又、小さい者とは、普
段余り気にかけない者の事だ。それなら家族はどうだろう。他人に
は気を遣い、礼儀正しく、親切で、良い人になれる。
が、家族は余りにも当たり前すぎて、無遠慮で、甘えが出て、わが
ままになるだろうか。一番身近な、家族こそをまず大切にしなけれ
ばならない。小さな者の一人にしたのは、主に対してした事だと言
われる。こんなに嬉しい事は無い。御霊に導かれて、対応して行こ
う。
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困ったときに助けられ「ああ、主よ感謝します」と何度言っただろ
う。主が遣わしてくれた助けだった。周囲に心を向けていこう。御
霊に導かれ、主に用いてもらおう。
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2022年06月28日(火)
「まことに、主は、こう仰せられる。『バビロンに七十年の満ちる ころ、わたしはあなたがたを顧み・・あなたがたをこの所に帰らせ る』」エレミヤ29:10
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エレミヤの時代、民はアッシリヤに滅ぼされ、捕虜に連行された。
しかしそのアッシリヤは、バビロンによって倒され、バビロンは更
に侵攻し、国々は討たれ、ついにユダも、バビロン補囚の身となっ
た。当時のユダは、神から離れていた。
民は堕落し、偶像礼拝に陥っていた。預言者たちは、耳ざわりの良
い言葉だけを語り、平安が無いのに「平安、平安」と言っていた。
しかし、エレミヤはどこまでも主に従い、真っ直ぐに主の言葉を語
った。そのため迫害に苦しめられた。バビロン補囚である真っ暗な
状況で、エレミヤは、主の言葉を語った。
現状は、災いとしか見えないが、それは平安・将来・希望のための
ものだと。必ず平安へと導かれると。すぐには解放されないので、
その地で腰を据えて生活せよと、そしてその地の繁栄を祈れ。それ
は自分達の繁栄になるからと。私たちも苦難の時に、一番欲しい言
葉は、今すぐの「問題解決」「、悩みからの解放」だ。
目の前の苦しみから解放されたい。しかし口先だけの励ましは、更
に傷を深めることになる。実は、思い通りではない現実を受け入れ
る事が最大の祝福だ。その時、苦しい現状の中で、主からの支え、
励ましを受けて生きて行ける。
そしていつまでもそのままではなく、「70年の満ちる頃・・あなた
がたを帰らせる」。現状を受け入れ、主に従おう。そうする時、そ
こに一番欲しい「平安」が約束されている。そして神の定められた
時に、解放して下さる。
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一刻も早い解決をと祈るが、一見災いとしか見えない苦難の真った
だ中で、主は慰めをもって支えていてくださる。自分がどう歩めば
いいのかは主に聞こう。主のご計画の中だ。
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2022年06月27日(月)
「私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っ ては来ない」Uサムエル12:23
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ダビデは、姦淫と殺人の罪を犯し、隠ぺいしていたが、ナタンに指
摘され、悔い改めた。そしてその罪は完全に赦された。しかし自分
の蒔いたものは、必ず刈り取ることになる。敵を大いに侮らせたの
で、生まれる子は必ず死ぬと言われた。バテシバとの間にできた子
どもが病気になった。
ダビデは断食して祈り、伏して主に願い続けたが、叶わなかった。
7日目に子供は死んだ。生きている時ですら、王の悲痛ぶりに、周
囲は死を知らせる事を恐れた。普通ならどんなに痛み、悲しみに沈
み、失望落胆する事だろう。しかしダビデは違った。
我が子の死を知ったダビデは、身体を洗い、着物を着替え、主の宮
に行き、主に礼拝を献げたのだ。そして、帰宅し、食事をとった。
家来たちは驚いた。子供が生きている間は断食をして泣いて祈った
のに、亡くなると、起き上がり食事をするとは。ダビデが、断食し
て祈ったのは、あるいは、もしかすると主のあわれみで、助かる
かも知れないと思ったからだった。
だが死んだならもう呼び戻せない。このダビデに学ぶ事が出来る。
自分の願いは願いとして主に熱心に祈るべきだ。しかしもし、その
願いが、主の御心で無いなら、「ノー」の答えとして、受け入れる
事だ。ダビデは主からの「ノー」を受け入れた。
時にどんなに強い願いであっても、主の御心とは異なる事がある。
「ノー」の答えは、嬉しくないし、痛い。しかし私たちへの最善の
答えだ。受け入れられないなら、そう出来るよう祈ろう。主は祈り
に答えて、必ず助けて下さる。
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ノーの答えは主からの答えと徹底して信頼しきっているダビデの姿
に学ばされる。今は悲しくても、それ以外の答えはあり得なかった
のだ。主からの答えを心静かに受け取り、立ち上がりたい。
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2022年06月26日(日)
「コラは全会衆を会見の天幕の入口に集めて、ふたりに逆らわせよ うとした。そのとき、主の栄光が全会衆に現れた」民数記16:19
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「コラの反乱」の箇所だ。コラと共謀者達が250人の民と共に
モーセとアロンの権威に反逆した。「全会衆は皆、聖なる者なのに、
なぜあなた達が上に立つのか、分を越えている」と。モーセはこれ
を聞いた時、自分が出て対応、対処せず、まず御前にひれ伏し、主
に祈った。
その時、主ご自身が出て、決着をつけられた。コラは全会衆を扇動
して、二人に反逆させようとしたが、主がはっきりと誰が聖である
のかを示された。地面が割れ、反逆する人々は飲み込まれた。主ご
自身が裁きをつけられた。その後、主は明白なしるしを与えられた。
12部族に1本づつ杖を持たせ、主が選ぶ者の杖は芽を出すという
ものだった。
するとアロンの杖が芽をふき、アーモンドの実を結んだ。主ご自身
が民の不平をしずめられた。私達も、各々に量り与えられた、分を
わきまえる事は大切だ。人や自分の思いではなく、主が、一人一人
に与えられた分がある。各自の立場や役割は、聖なる主からのもの
だ。分を越えていたのは、コラと共謀者の方であった。
今いる場所で、他の人々への羨望や自己憐憫はないだろうか。他の
立場や役割への妬みは、恐ろしい罪へと増幅して行く。妬みから邪
悪な行ないが生まれる。今の境遇に置かれたのは、主だ。「自分の
領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた」のが悪魔だ。
分をわきまえ、今の場を受け入れる時、主はその所で豊かに祝福し
て、あなたを素晴らしく用いられる。主と一つに、今の場で役割を
果たして行こう。
・・・・・・・・・・・
一人一人、皆、役割が異なり、遣わされた場が異なり、賜物が異な
る。クリスチャンは与えられた賜物が皆、全く違うので、ライバル
がいないと言われる。競争にならないからだ。主を見上げ、絶えず
御心を尋ね求めて、与えられた分に従って行きたい。
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2022年06月25日(土)
「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で 一番偉い人です」マタイ18:4
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弟子たちが、主に「天の御国では、だれが一番偉いのか」と質問を
した。彼らは、どんな答えを描いていたのだろう。世の価値観なら、
最も功績のある人、最も能力のある人、最も善行を積んだ人、秀で
たものを持つトップに立つ人だろうか。しかしその時に、主は小さ
い子どもを呼び寄せられた。
そして子どものようにならない限り、決して天の御国に入れないと。
子どものように、自分を低くする者が一番偉いのだと言われた。意
外だったろうか。何も出来ない子どもが一番偉いと。子供の一番の
特徴は無力だ。そして子どもは、自分が無力な存在だと知っている。
親無しには、生きて行けず、食べる事もできない事を知っている。
親に頼りきっている。だが大人は、自分で生きて行けるし、自分の
力で何でも出来ると思っている。又、弟子たちは、内心自分が一番
でありたいと思っていた。一番の重要人物でありたい。一番が良い
との価値観だ。弟子たちのそんな考え方を「あなたがたも悔い改め
て、子どものようにならない限り、御国に入れない」と言われた。
価値観、考え方自体が問題で、「悔い改め」とは向きを変える事で
あり、方向変換せよと。子どものようになるとは、自らの無力を認
め、自分を低くする事、へりくだる事だ。実は自らの無力を知る事、
弱さを知る事こそが、最大の恵みだ。無力を知る人だけが、主に頼
る。子どもが、完全に親に頼りきって、心底平安でいるように、私
たちは、主に頼りきる時に、不安は消えて、平安に包まれる。
・・・・・・・・・・・
子どもも、大人も罪を持って生まれている。だが、子どもは無力で、
親に頼りきっている。親がおれば、平安だ。赤ん坊は、親の腕の中
で、心底安らかだ。「我は幼子、我、主にすがらん。小さくあれど、
信仰抱きて・・静けき昼も、風吹く夜も」主に信頼して歩みたい。
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2022年06月24日(金)
「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。し かし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要である ことを知っておられます」マタイ6:32
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ある人が、神学校を卒業後、若くして牧師となり、地方の小さな教
会に赴任した。まだ少人数であり、経済的に非常に厳しく、主が言
われた通りに、「私たちの日ごとの糧をきょうもお与え下さい」と
日々切に祈り続けた。少しの貯えを切り崩しながら生活をしていた
が、とうとう底をついた。
どっと思い煩いと不安に襲われる。そんな時、祈りの中で「空の鳥
を見よ。種蒔きもせず、刈り入れもせず・・けれども天の父が養っ
ていて下さる」「野のゆりは、働きもせず紡ぎもしない」「何を食
べるか、何を飲むか、何を着るか・・心配するのはやめよ」「心配
するな」「明日のための心配は無用」と強く語りかけられた。
主が、心配無いと言われた。そこで今一度、決心し、主にいっさい
を委ねた。そうしていると知人から電話がかかり、友人が塾講師を
探しているが、バイトでどうかとの打診だった。丁度、祈っていた
中での要請だったので、主の導きと心から感謝した。数年間、丁度
良いように必要が満たされた。
主に身を預け、信頼して行く者を必ず守り、養って下さる事を、身
をもって経験した。思い煩いは、凄まじい力があり、自分ではどう
にも出来ない。そのままを祈りに持って行こう。語りかけられる主
の言葉には力がある。肝心な事は「神の国とその義とをまず第一に
求めよ」とある。今、必要な事は、神を第一に、軌道修正する事だ
ろうか。
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主から語られるいのちの言葉は、心配事で沈んでいるたましいを生
かしてくれる。あれやこれや考える時、問題の中に主を認めて、主
に助けを求め、頼りながら歩もう。
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2022年06月23日(木)
「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、、ミデヤ ン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰 らせよ」士師記7:7
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ギデオンの時代に、イスラエルはしょっ中、侵略を受け、非常に苦
しい状況にあった。主はギデオンを用い、民を率いて、諸国と戦わ
せようとされた。呼びかけに32,000人が集まった。だが相手は135,
000人もの大軍で、圧倒的に不利で、到底勝ち目はない。
しかし、主は極めて不可解な事をされた。ギデオンに、兵士の数が
多過ぎるから減らすよう命じられたのだ。最終的に残ったのは、た
ったの300人だった。135,000人に対して300人。だが、その300人で
戦った結果、ギデオンの大勝利となった。
この時、主は減らす理由に「大人数だと自分の手で救ったと、自分
を誇るから」と言われた。この戦いの勝利が人でなく、主の力によ
るものと明確にするため、あえて数を減らされた。私たちは、自分
がもっと強く、能力、体力、財があればと思うだろうか。だがもし
強ければ、主の働きを自分が奪い、自分の力で、自分を誇り、自分
の栄光にしてしまう。
信仰的体験さえも肉は誇る。パウロは第三の天に引き上げられると
いう、誰も経験した事のない特別な恵みを受けた。そのためパウロ
は、誇らぬよう、高ぶらないように、とげが与えられたと言ってい
る。苦しく辛いとげであったが、それによって高慢の罪から守られ
た。高慢はどうにもならない。
自力で高ぶらないでおこうとしても出来ない。その高ぶりからの守
りは、何と恵みであり感謝だろう。そして「わたしの力は弱さのう
ちに完全に現れる」と弱さを認める時、それは恵みであると、更に
素晴らしい啓示を受けた。
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主に頼ることが勝利の秘訣だと頭でわかっていても勢いのある時は
自分の力でやってしまう。そして満足していることにも気づかない
だろう。弱さを覚えて主に頼ろう。主が成し遂げてくださる。
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2022年06月22日(水)
「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も 知っています・・あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」 ピリピ4:12
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主は、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道」だ
と言われる。真の満足は、心の内側から来るもので、外側からでは
ないと。必要は与えられているのに、更に「あれが、これが欲し
い」
「もっと〃欲しい」幾ら所有しても、更に欲しい、これは「貪欲」
だ。貪欲は心の問題で、それは際限がない。
持っても、持っても、更に欲しい。所有すればするほど、心が囚わ
れ、心が渇く。これで良いとの満足が無い。「満ち足りる心」とは
感謝する事から来る。「すべての事について感謝せよ」「あふれる
ばかりに感謝せよ」、これが秘訣だ。今、与えられているものは、
すべて主からであり、感謝して〃行く時、貪欲の罪から守られる。
そして比較から来る競争心や妬みからも守られる。今、与えられて
いる境遇を感謝する時、そこに妬みは無い。不満、妬みは、無いも
のを数える事から来る。「あれが無い、これが無い」と不満だらけ
になる。無いものを数えていないだろうか。与えられているものを
数えて、感謝を献げて行こう。私たちが感謝する時、サタンは足場
を失う。
パウロはどんな境遇でも、満足する事を「学んだ」と。自然にある
ものでなく、学んで行ったと。様々な状況で、御霊に従いつつ、学
んで身につけて行った。主に従い、主の取り扱いに身を委ねて行く
中で、訓練され、練られ、学ばされ、身につけて行った。まず主か
ら来ている今の境遇に感謝しよう。そうできるよう祈ろう。
------------
人の暮らしぶりや、持っている物が目の前に溢れている。満足する
ことを学ばなければすぐに引きずられてしまう。豊かに備えられて
いる恵みを数えよう。まだ気づかないでいる恵みを受け取ろう。
|
2022年06月21日(火)
「主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の 終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ」 Tサムエル26:10
|
サウル王に仕えていたダビデだが、ダビデの方が、人々から人気を
博するようになっていた。そんなダビデは、サウル王に妬まれ、そ
の妬みは憎しみと増幅し、殺害のためつけ狙われていた。絶えず生
死の危機にあった。そんな中、サウルはダビデの所在を知り、執拗
に追って来た。
その情報を得たダビデは、夜にその陣営に行ってみた。するとサウ
ルと将軍アブネルや兵士達が皆、熟睡していた。今こそが反撃のま
たとないチャンスだ。主が与えられた好機だ。部下が、主が敵を渡
された、殺させて下さいと申し出たが、ダビデは許さず、決してサ
ウルに手を下さなかった。
その理由は、サウルが「主に油を注がれた王」であったから。そし
て同時にダビデ殺害の行動は、主の御心に反するものである事も知
っていた。その事について「主は、必ず彼を打たれる」と信じてい
たので、ダビデは裁きを主に委ねた。自分で復讐しようとはしなか
った。
そのしるしに、サウルの枕元にある槍と水差しを持ち帰った。「主
が彼らを深い眠りに陥れられた」ので、皆、眠りこけて気づかなか
った。すべての事は主の主権の下にあり、眠りすら主の支配だ。や
がてサウルはダビデが二度までも、チャンスがありながら、自分を
殺さなかった事実を知る。
そのダビデを「わが子ダビデ。おまえに祝福があるように」とサウ
ルはついに祝福した。決して自分で復讐せずに、どこまでも主に委
ねて行くダビデの命を、主が守られた。主に、裁きを委ねよう。
------------
復讐のチャンスが目の前にあれば大きな誘惑だろう。でもダビデの
ように、必ず主がすべての苦しみから私を救い出してくださるとの
信仰に立って、敵対するより主に従い主の報いに望みを託したい。
|
2022年06月20日(月)
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し 遂げてくださる」詩篇37:5
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よく耳にする。思い煩いが苦しくてたまらない。心が重く沈み込ん
で、喜びも平安も無い。主にゆだねたら良いと、わかるのだがゆだ
ねられなくて、悶々としてしまうと。「ゆだねる」とは、石を転が
すという意味で、私たちの大きな重くて負えない石を、主の上に転
がしてしまう事だ。
転がした石は、もう自分の手には無い。自分の手の中は空だ。その
ように、ゆだねるとは、きっぱり主の手に渡してしまう事だ。する
とその問題は主の手に渡るので、思い煩いが消える。不安が失せ
て、
心は平安になる。ところが、ゆだねなかったり、ゆだねたつもりな
ら、結局は自分が握ったままなので、不安は消えない。
ある人が、突如起きた深刻な問題に、ずっと思い煩いが続いた。恐
れと不安にさいなまれる。胃が痛くなって来る。胸に鉛があるよう
に重く苦しい。主にゆだねたら良いとわかるのだが、ゆだねられな
い事に気づいた。どうしても自分が握っていて手放せないのだ。
なぜ手放せないのか。自分が放してしまうと、すべてが崩壊してし
まうように思えるからだ。何もかもだめになってしまうと。だから
ますます堅く握りしめる事になってしまう。しかし苦しくてたまら
ず、あるがままを祈っていた時に、気づかされた。
自分は主を信じられないから、手放せないのだと。自らの「不信
仰」
に気づかされた。心から悔い改めた時に、主にゆだねる事ができ
た。
心の鉛が消えて、平安と安堵に満たされた。
------------
主の最善を信じられずに悶々と悩む不信仰に気づきたい。自分で解
決方法を模索している間はずっと不安は続く。悔い改めて、不安が
来る度に主に委ねられるよう祈りを変えていこう。
|
2022年06月19日(日)
「あなたがたがは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺し をするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争った り、戦ったりするのです」ヤコブ4:2
|
悲惨な事件、争いが、毎日のように報道で流れる。又、身近なとこ
ろでも、いざこざを見る。深刻な事件が起きると、人々はその原因
を究明しようとする。なぜこういう事が起きたのか、幾多の議論が
なされる。しかし、聖書によると、争いの原因は、人の内側にあ
る「欲望」によるものだと言っている。
「からだの中で戦う欲望が原因」だと。自分の内にある肉の欲が、
争いを引き起こさせ、罪を犯させる。「ほしがっても自分のものに
ならないと、人殺しをする」。どこまでも自らの欲望を遂げようと
するなら、人を殺しててでも手に入れて行くと。これが国家間であ
れば戦争となり、個人的な人間関係なら様々ないざこざとなる。
実際、この世ではこの争いにより、多くの問題が起き、親族間、友
人間、職場、隣近所のもめ事から殺傷事件になっている。この問題
の根が自分のからだの中で戦う欲望、自己中心から来ると。自分が
第一で、自分、自分、どこまでも自分が中心で、自分の欲を満たそ
うとする。そこから争いが起きる。
この罪のために、主は十字架にかかり、解決を与えて下さった。ど
こまで行っても自己中心にしか生きられない者が、主と共に十字架
につけられたのだと。「私はキリストとともに十字架につけられま
した」。この御子を信じる信仰によって生きる時に、主のために生
きようとする、新しい性質、新しい生き方が与えられる。自分で奪
い取るのでなく、主に祈り、主に願い、主が与えて下さる新しい歩
みだ。
・・・・・・・・・・・・・・
人は、自分の欲が満たされる時、幸せになれると思ってしまう。自
分の思い通りになる時に、満足が得られると勘違いする。逆で、自
分を捨てて、御心に従う時に幸せと満足、喜びが来る。今日も「主
と共に十字架につけられた」に立って歩みたい。
|
2022年06月18日(土)
「私たちの神よ・・私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍 に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすれ ばよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみで す」U歴代20:12
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アモン人モアブ人が攻めて来た時、ヨシャパテ王は無力を覚え、ひ
たすら主を求め、祈った。窮状を主に祈り、訴えた。すると、主は
ヤハジエルを通して語られた。この戦いは主の戦いであり、主が共
にいるから、恐れず出陣せよと。
これを聞き、ヨシャパテはひれ伏して、礼拝し、主を賛美した。主
の言葉を信じ、歌う者たちが賛美をし、喜びの声、賛美の声をあげ
始めた時、主の言葉の通りに、敵は全滅し、奇跡的勝利を遂げた。
全面的に主の働きであった。私たちもどうだろう。目の前の困難、
問題だけを見ていると、問題に私たちは圧倒されてしまい、思い煩
いと不安に飲み込まれ、戦う前に敗北してしまう。そして又、その
問題を避けたり、逃げたりしても、必ず同じ類の問題にぶち当たる。
しかし、ヨシャパテがしたように、まずその問題を主の御前に出し、
祈る事ができる。自分で何とかしようとせず、主に申し上げ、おゆ
だねしよう。そうするなら、単に問題の解決を見るだけでなく、そ
の問題を通して訓練され、練られ、砕かれ、主のかたちへと造り変
えられる。そこが重要だ。
主は祈りに答えて、御言葉を送り、なすべき事を示して下さる。そ
の言葉通りに従って行く時、主が戦われ、私たちは勝利を受け取る。
御言葉を信じ、感謝を献げる事は信仰であって、目の前の状況に主
を認めることになる。主は、その信仰を見られ、みわざをして下さ
る。
・・・・・・・・・・・・・・
生活で、目の前に来る悩みや問題は、おびただしい大軍だ。当たる
力は無い、どうすればよいかわからない。しかし私たちにも、主の
戦いだと言って下さる。感謝をもって、祈りに祈って行こう。主は
示しを与えて下さる。それに従う時、主がみわざをして下さる。
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2022年06月17日(金)
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのな い者に悟りを与えます」詩篇119:130
|
もし、車のガソリンやオイル計器の警告赤ランプが無ければどうだ
ろう。燃料切れで、走行中でも突然に停止してしまう。Tミリも進
めなくなる。又、飛行機や船が、計器によらずに、人の感覚だけに
頼って運行されたらどうだろう。悪天候により視界がぼやけると、
方向を見失ってしまう。
計器があれば、どんな天候であろうと、目的地へ間違いなく進め
る。
私たちの人生も同様だ。どの方向に進むべきか、進路がわからない
時がある。そんな時の確かな計器が御言葉だ。ある女性が、職場
で、
ある部署のリーダーにとの打診があった。仕事内容も高度になり、
自分の能力で出来るのか。
又、部下を持ち、まとめて行くなど、不安でたまらない。自分に出
来るのか。全く自信がない。あれやこれや思いが巡る中、とにかく
主の御心を求めようと、不安や恐れもありのまま告げて、祈ってい
た。祈り続けていた時に、御言葉が臨んで来た。「恐れるな。わた
しはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だか
ら。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あ
なたを守る」。その言葉が来た時に、不安、恐れ、思い煩いが消え
たのだ。すうっーと平安になった。主の導きを確信できて、信仰に
より、受ける決心ができた。御言葉は霊であり、いのちだ。力があ
る。道がわからない時は、主に尋ねよう。
------------
漠然とした不安の中ではっきりとした光が差しこむ。御言葉は信仰
人生の揺らがない指針だ。わからない事の連続だが、その度にいつ
も主に教えられる。何という恵みだろう。
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2022年06月16日(木)
「肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神 の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉 の中にではなく、御霊の中にいるのです」ローマ8:9
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ある女性が結婚したが、共に生活してみると、自分が思っていた夫
とは全く違う事がわかった。価値観がこんなにも違ったのかのかと
驚き、好みの違い、習慣の違い、様々な事でギクシャクした。この
結婚は間違いだったのか。悶々状態の中にいたが、夫は仕事がハー
ドで、心身疲れ果て、語り合う時間も皆無だった。
イライラが募り、不満で一杯になり、相手を責めてしまう。しかし
自分の非は認めたくない。そんな強い自我に苦しみ、又、そんな自
分に自己嫌悪に陥る。平安がなく、主に赦しを求めるが、すぐに相
手を責め立てる思いが噴出する。夫とは喧嘩が絶えない毎日となっ
ていた。
イラ立ち、怒り、失望・・この結婚を続けられるのだろうか、とい
うまでに追い詰められた。疲れ果て、気力も失せ、もうこれ以上ど
うにもならない状態になった。「主よ、助けて下さい。自分自身、
もう限界です。この結婚を明け渡します」とギブアップした。
その時に初めて、理解していると思っていた主の十字架が、真に自
分の事として迫った。罪しか犯す事ができない自分だからこそ、自
分のための十字架である事がわかり、心底からの悔い改めが与えら
れた。今まで味わった事のない平安に満たされた。
祈りながらも、ずっと自分で、自分の力で、何とかしようとして、
もがいていた事に気づかされた。どん底こそが、実は最大の恵みの
場所だった。
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肉の感情に引きずられる生き方は、結局、自分自身を苦しくさせ
る。
主はそこから救い出してくださった。かたくなな自我から、御霊に
従いたいと意思を向けて祈ろう。
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2022年06月15日(水)
「バビロンに七十年の満ちるころ・・わたしの幸いな約束を果たし て、あなたがたをこの所に帰らせる」エレミヤ29:10
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バビロン捕囚は、祖国を追われ、敵国に連行される事で、その事態
だけを見れば絶望でしか無かった。敗北感、屈辱感にまみれた、受
け入れ難い事だった。しかし結果的に見れば、神の民は捕囚によ
り、
悔い改めが生まれ、神に立ち返る事ができ、信仰の回復がなされ
た。
70年後にエルサレムに帰還させるとの、主の約束も、その通りに成
就された。そして「あなた方のために立てている計画」をご存じ
と。
バビロン補囚が「神の計画」だと言われる。見えるところは失望落
胆、絶望、挫折、混乱であったが、主にとっては、平安と将来と希
望のための計画であった。
ご計画であれば、見方が変わるのではないだろうか。ししゅうの経
験があるなら、裏は、糸が絡んでぐじゃぐじゃだ。主は、私たちに
とってはマイナス、不都合、行き詰まり、何でこんな事が?の事態
だが、主は明確な意図を持っておられる。
そしてそれは、「あなたのため」の計画だと。あなたの益と将来の
ための出来事だと。ししゅうの表は、着々ときれいな模様に完成し
て行く。目の前の事は、苦しく痛い事態だが、最善がなされている
と。辛い所を通って初めて、真に主を知って行く。
人は自我の強固な殻におおわれている。痛みや苦しみによって、そ
の殻が砕かれる。高慢すら自分でわからない。何の問題も感じてい
ない。苦しみの中で初めて、自分の真の姿を知る。何を教えて下さ
りたいのか、主に祈ろう。主に触れる時、懲らしめが愛であること
がわかる。そして心平安にされる。
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思うように行かない問題や環境の中を一人で歩んでいるように思え
えても、そこは主が「あなたのために」たてたご計画の場所だ。主
が幸いを備えていてくださる。
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2022年06月14日(火)
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを 聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」 Tヨハネ5:14
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ある人が、自分的には全く悪気なく言った言葉が、友人を傷つけて
しまった。友人は、生育歴に様々な深い傷があり、そのトラウマの
ゆえであった。自分も不用意であった事を反省させられた。心の事
は、どうにも出来ず、主に拠り頼み、ただひたすら祈った。
友人の心が癒される事と、赦してもらえて和解できるように。ただ
主のあわれみを願い求め、一心に祈り続けていた時、ふと「神に願
ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」と、祈りが聞き
届けられた確信が来たのだ。不安で動揺していた心が、安になっ
た。
それで勇気を出して相手に電話をした。心から詫びた時に、相手の
心もすでに落ち着いていて、快く赦してもらえた。和解できて、御
名を崇め、感謝した。祈っていた間に、主は相手にも働いておら
れ、
相手の心にも変化が起きていた。
ハンナも子供が欲しくて、切なる祈りを献げた。嘆き、苦しみを御
前に吐き出して、泣いてうめき、心を注ぎ出して祈った。「もし、
あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つ
ける」。主は、私たちの祈りを待っておられる。
「ハンナの顔はもはや以前のようではなかった」ハンナは祈り続け
た後、平安を得た。そんな執拗な祈りを、主は喜ばれ、受け止め、
祝福して下さる。今、目の前の悩みを、問題を、そのまま主に持っ
て行こう。
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主に頼り祈っていると主が導いて道を開いてくださる事がわかる。
御心にかなった祈りは、時間はかかっても必ず願いは聞かれると
祈るたびに望みがわく。主に祈り続けよう。
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2022年06月13日(月)
「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のため に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」ガラテヤ6:8
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ダビデは、バテシバとの姦淫とウリヤ殺害という二重の罪を犯し
た。
ナタンにより、罪を指摘された時に「私は主に対して罪を犯した」
と罪を認め、告白した。その時、即座に「主もまた、あなたの罪を
見過ごしてくださった」と罪の赦しが与えられた。
主により完全に罪は赦される。罪のとがめは全く受けない。罪は思
い出されず、海の深みに投げ込まれる。罪の責めを負う事がない。
十字架の贖いによる、主の大いなる恵みだ。しかし、罪が完全に赦
される事と、罪の結果を刈り取る事は別の事だ。自分の蒔いたもの
は必ず刈り取る。
これは法則なので例外は無い。罪は赦されるが、罪の結果は自身が
負う事になる。厳粛な事だ。傷害事件を起こす時、悔い改めによ
り、
罪は完全に赦されるが、しかし傷をつけた相手に償いをし、刑に服
さなくてはならない。それゆえ赦されるのだからと、恵みを軽んじ
て、決して安易に罪を犯してはならない。
ダビデに最初に生まれた子供が病気になった。ダビデは断食をし
て、
一晩中、地に伏して祈った。しかし、その子は死んだ。ダビデはそ
れを受け入れた。又、息子アブシャロムが謀反を起こし、自分に敵
対した。息子達の間に数々の痛く辛い出来事が起こった。どんなに
苦しい事だったろう。だが、主からのものと認め、へりくだって、
刈り取って行った。
そこにダビデは神の聖さ、神の愛を受け止め、ますます練り聖めら
れて行った。蒔いたものは刈り取る事が御心であり、しかし従って
行く時に、そこに尚も祝福が備えられている。何というあわれみだ
ろう。
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ダビデのぼろぼろの刈り取りの姿を通して、主に信頼しつくした聖
さを見る。罪が赦された感謝と平安もって、へりくだり主の望まれ
る刈り取りを受け取ろう。主が共に歩んでくださる。
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2022年06月12日(日)
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してく ださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらな い」詩篇55:22
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誰しも思い煩いを経験する。心重苦しく、暗く沈み込む。思い煩っ
ても良い事など一つも無いのに、又、思い煩いたくなど無いのに、
思い煩ってしまう。思い煩うのは、自分の能力を超えた問題のため
だ。自分にどうにも対処出来ず、それは自分の肩にずっしりとかか
り、重くてたまらず、あれやこれやと不安で思い煩う事になる。
だが主は「思い煩うな」と言われる。「何も」いっさい煩うなと。
主のもとへ持って行くようにと。いっさいの重荷をゆだねよと。主
が、私たちの事を愛し、心配して下さっているからと。あなたが自
分の事を心配するより前に、主が、あなたの事を心配して下さって
いる。主に持って行く事によって、いかにあなたを愛していて下さ
るかを、経験によって知る事が出来る。恵みのチャンスだ。
私達は、明日の事をくよくよと思い煩うが、明日の事は全く見えず、
わからない。明日に備えて準備はできるが、明日を自分でどうにか
する事は不可能だ。容量と枠を超えて考える事から、思い煩いが生
じる。だから、明日の事は心配無用、明日が心配すると言っている。
それを無視して超えようとするので、思い煩う事になっている。
それより、その日その日の労苦、その日の御心を行ない、今日一日
を、精一杯しっかりと生きるようにと。明日の思い煩いで、今日を
つぶしていないか。明日は主にお任せしていよう。明日をいっさい
心配しなくてよいとは、何という救いで、恵みだろう。
・・・・・・・・・・・・・・
サタンがいるので、しょっ中、思い煩いの攻撃が来る。その度に主
に一つ一つ委ねて行くことができる。それは逆に、少しづつ〃主と
の信頼関係を培って行くことになる。気づかずに、思い煩いにはま
るので、御霊の気づきを祈っていよう。
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2022年06月11日(土)
「しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のと ころに持って来なさい」T列王17:13
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主は、飢饉の際に、エリヤにケリテ川に行くようにと指示された。
アハブ王からかくまうためだった。そこで主により養われた。その
ケリテ川が枯れた時に、次に、主からシドンのツァレファテへ行く
ように命じられた。そこでやもめ女により養うと。主の言葉に従い、
行くと、言葉の通りにやもめ女に出会った。そこで彼女に水とパン
を求めた。
すると彼女は人を養える金持ちなどではなく、一握りの粉だけがあ
り、それでパンを作り、母子で最後の食事をして死のうとしている
と。驚くべき状況だった。極度に貧しいやもめで、悲惨な状態にあ
った。エリヤは何と思っただろう。目の前の人物は、人を養うなど
不可能だ。しかし助けを求めなければならない。人間的に考えるな
ら、最後のパンを自分にくれとは、とても言えない。他のやもめを
当たるだろうか。
しかし、エリヤは見えるところでなく、自分の感情、自分の思いで
もなく、主の言葉に断固従った。まず私に小さなパンを作り、その
後にあなた方のために作るようにと。そうするなら、飢饉が終わる
まで、粉は尽きず、油は無くならないと。人の思いや情は、神のみ
わざを妨げる。エリヤはどこまでも御言葉に立ち、そして彼女はそ
のエリヤの言葉に従った。
すると、やもめ女と子どもは飢饉の間中、豊かに養われる事になっ
た。主を第一にする時、主のみわざを見る。自分の思いや感情、見
えるものが、すべて反対方向を向いていても、主の言葉を選択し、
従おう。そう出来るよう祈ろう。その時、主が責任を取って下さる。
・・・・・・・・・・・・
御言葉と目に見える状況が、相反する時がある。自分の思いが来て、
自分の方法の方が良いように思える。しかし御言葉と自分の思い、
現状が相反する時は、御言葉を選択しよう。ペテロも見える所は逆
だが「でも、おことばどおり」従うと、破格の祝福を見た。
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2022年06月10日(金)
「・・あなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、 バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行き ます」ヨハネ3:26
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ヨハネの弟子達が、ユダヤ人ときよめについて議論した。その時、
ヨハネの弟子達は痛い所を突かれた。皆が主イエスの方へ行ってい
る。党派心や妬み心があったようだ。主イエスが人々に好かれ、人
気を博する事に、自分達の師ヨハネと比較して、妬んだ。我が師び
いきのため、心寂しくもあった。
人との比較は、必ず劣等感と優越感を生み出し、その間を行ったり
来たりする。それらは表裏一体で、その根は高慢であって、高ぶり
から来ている。比較には平安が無く、満足を得る事がない。ユダヤ
人と議論をして、彼らは、イラ立ちをそのまま師のヨハネに持って
行った。
「みな、あの方のほうへ行く」と、まるで師であるヨハネを責め、
あおるかのようだ。しかし、ヨハネは心底へりくだった人だった。
「人は天から与えられなければ、何も受ける事はできない」と。主
の主権を心から認め、平安であり、主の御心を良しとし、受け入れ
て満ち足りていた。
へりくだっている人を、人もサタンもどうにも出来ない。「高く上
げることは、東からでも、西からでも、荒野からでもない・・神が
低くし、高く上げられる」成功、栄誉、人気もすべては上から来
る。
それを真に認め、受け入れる時、嫉妬や劣等感から解放される。
妬みに支配される事はない。各々、賜物が違い、使命が違い、用い
られ方が違う。一人一人が、皆違う。異なるので比較のしようがな
い。すべての主権者は主だ。主から来るものを感謝して受け取る時
に、真の満足と平安がある。
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生まれた時から比較の中で育ち、古い価値観が染みついている。人
と同じようにと思い、出来ないと落ち込む。そこから主は自由にし
てくださった。皆違うという祝福を自分のものにしよう。
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2022年06月09日(木)
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。・・主は私の たましいを生き返らせ」詩編23:1
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ある人が、ずっと仕事に追われていた。確かに忙しい職種だった。
目の前の事をこなすのが精一杯で、余裕の無い日々だった。心身ク
タクタの中、デボーションだけは欠かさなかった。信仰生活の生命
線だと教えられていたし、自分もそう思っていた。
そんな中、不注意の転倒で足を骨折してしまった。手術は成功で、
しかし入院でベッド生活となった。静かな、ゆっくりゆったりとし
た時間が与えられ、主と十分な時間を持てた。息を吹き返すようだ
った。その時に、毎日のデボーションが形だけだった事に気づかさ
れた。
形を整えて良しとする、いけにえを献げてOK、おつとめを済ませ
て、良心をなだめる。形があるだけに気づけなかった。真の喜びや
満たしは無かった。心行くまで主と交われ、御心を悟り、気づきが
与えられ、御言葉に新たにされ、励まし慰め、潤され、素晴らしい
恵みの時間とされた。感謝でならなかった。
ある主婦は多忙の中、草刈りの必要が生じ、うんざり落胆した。だ
が目の前の作業を主からと受け入れ、主への礼拝行為として、この
仕事をしますと祈った。単純作業なので草を刈りながら、祈りの時
とし、主と交わった。
多くの執り成しの祈りが出来て、作業終了時には、庭は見事に気持
ちよくきれいになり、心もすっかり新たにされた。主との交わり
で、
喜びと潤いに満ちていた。イライラピリピリする時は、少し時間を
取って、主と交わろう。心を主に向けよう。潤いが流れ込む。
--------------
外と離れた入院生活が祝福だったように、思いはすぐに動こうと反
応する。その弱さを覚え主に明け渡す時を守りたい。静かな主との
交わりは、どんな時でも平安を受け取れる。
|
2022年06月08日(水)
「・・戦車と騎兵は非常におびただしかったではありませんか。し かし、あなたが主に拠り頼んだとき、主は彼らをあなたの手に渡さ れたのです」U歴代16:8
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アサ王は最初はよく主に従った。偶像を除き去り、主の祭壇を新し
くした。アサ王の心は主と一つであった。しかし、アサとイスラエ
ル王バシャとの間に戦いがあり、バシャによりラマという所が奪わ
れた。包囲状態となり、その時にアサ王は、主に拠り頼まず、アラ
ム王ベン・ハダデに同盟を求めた。
前回、クシュ人が100万の軍勢と100万の戦車で攻めて来た時には、
主に拠り頼み、主によりクシュ人に勝利を経験したにかかわらず、
今回は主ではなく、財宝を提供してアラムに頼った。ベン・ハダ
デは町々を打ち、ラマを打ち取り、ユダ側に要塞を作った。
戦いは勝利し大成功だった。しかし、預言者ハナニは「あなたは
愚かなことをした。今から、数々の戦いに巻き込まれる」と告げ
た。主は間違っている時に、人を遣わし警告される。表面的に見
れば、大成功したが、主の御心からはそれていた。
私達も外側、うまく行っているからOKではない。主の御心かど
うかが最も大切だ。それからアサは重病になった。だが彼は「主
を求めないで、医者を求めた」とある。そして死んでしまった。
的はずれな方向にそれて行った。罪を悔い改めないなら、どんど
んはずれて行く。
私達も、危機的状況が来た時、主ではなく、自分の力と知恵に、
又、人に頼っていないだろうか。誰しも、目に見えるものに頼る
弱さがある。見えるものは大きな影響力がある。だが拠り頼むべ
きは、主だ。必ず導きを与え、助けて下さる。
--------------
表面は上手くいっていても主の御心と一致していなければ、心
は主から離れている。主の警告にきづければ幸いだ。悔い改め
主から離れずにいよう。
|
2022年06月07日(火)
「その人に言われた『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、 あなたを直したのです』」ルカ17:19
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10人のらい病人が助けを求めて、主のもとに来た。当時らい病は、
汚れた病気との事で隔離されていた。人に近寄る事ができず、「私
は汚れた者です」と自分で言わなくてはならなかった。社会に繋が
る生活は、すべて閉ざされ、病の苦しみの上に、更に精神的な苦痛
にさいなまれていた。
必死の思いで、主のもとへ来たであろう。大声で「どうぞ、あわれ
んで下さい」と叫んだ。すると、主はあわれまれ、彼らをいやされ
た。主の溢れる出るあわれみ、慈しみだった。いやされた彼らは、
10人の内、1人だけが主のもとへ戻り、あとの9人は帰って来なか
った。病気が完治し、社会に復帰ができて、自由に社会生活が送れ
る。
生けるしかばねのようであった彼らから見れば、何と信じられない
夢のような事だろう。9人は、何とラッキー、ハピー、万々歳と、
世の中へ帰ってしまった。彼らにとっては、飛び切りのラッキーで
あり、偶然の事であった。そこに神は無かった。
しかし感謝するために戻った1人は、まず、神への感謝と賛美と喜
びが溢れた。そこに神を認め、神を崇めたのだ。彼だけに、全く新
しい信仰の人生が始まった。「あなたの信仰が、あなたを直したの
です」。何と嬉しい事だろう。
彼は、主の愛に出会い、主の愛の中を生きて行く人生が始まった。
何が肝心なのだろう。病気が治る事だろうか。「世の終わりまでい
つもあなたと共にいる」その人生へと招かれている。苦しい時も喜
びの時も、主と共に生きて行けるとは、何という恵みだろう。
--------------
主と共に歩む人生は豊かな喜びに溢れている。主の愛に満ちた備え
と恵みを発見しながら歩む人生だ。偶然のものは何一つない。この
主を見上げて歩む信仰を主が育ててくださる。
|
2022年06月06日(月)
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」 ローマ8:14
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クリスチャンの心の中には、生まれつきの肉の思いと、御霊によっ
て与えられる神の思いという、二つの相反するものが働いている。
日常に絶えず経験する。二つの性質が心にあり、どちらもが強く
引っ張る。肉の思いに従うなら、妬み、憎しみ、怒り、偽り・・
罪の実を結んでしまう。
御霊の思いに従うなら、愛、喜び、平安、寛容・・御霊の実を結ん
で行く。どちらもが、自分の内にあり、瞬間〃の選択が結ぶ実を決
定する。ある人が若い時に非行に走った。複雑な不幸な生い立ちだ
った。しかしある時気づいた。確かに生い立ちは不幸せだし、親に
も恵まれなかったかも知れない。
しかし、ひがんで、グレる事を選択するのは、紛れもなく自分なの
だと。他人は誰も、自分に取って代わって選択できない。自分自身
が選択している。だから責任は自分にある。グレる事を拒否する選
択もできたはずだ。そうであれば、これからは、主に従う道を選択
して行きたいと。
私達も同様だ。サタンは肉に働いて、罪に引き込もうとする。寛容
な態度をと思っても、つい肉はイラ立ち、とげとげしくなる。又、
人からきつい言葉を受けると、肉は反撃したくなる。しかし御霊
は、
まず祈れと言う。二つが相反し、どちらもが引っ張る。
そのつど「できません。助けて下さい」と主に渡そう。すると御霊
が助けて下さる。御霊が働かれる時、頑張る事なく、優しい言葉を
かけ、相手のために祈ることができる事を経験して行く。奇跡であ
り、自分でなく御霊の働きだ。
--------------
意識しなければ迷わず肉を選ぶ者だが、そうはそうはしたくない思
いを主から受けている。御霊の導きを選びたい。自分では決してで
きないが、主が必ず助けてくださる。
|
2022年06月05日(日)
「・・神がすべてのことを働かせて、益としてくださることを、私た ちは知っています」ローマ8:28
|
私たちは様々な試練を通るが、時に、人から故意の悪意を受ける事
もあるかも知れない。ヨセフがそうだった。兄達の妬みによりエジ
プトへ売られた。ダビデは、サウルに執ように妬まれ命まで狙われ
た。主イエスも祭司長やパリサイ人達に妬まれた。私達も職場や学
校で、人の妬みを受ける事があるかも知れない。
妬みゆえのいじめや、攻撃を受ける事もあるだろう。人の悪意によ
り、苦しい事態に陥る事になる。何でこんな事が・・と人間的に見る
なら、理不尽な苦しみだ。窮地に立たされ、思い悩む。しかし信仰
の目は状況でなく、そこに神を仰ぎ見る。神を見て、事態を見る。
「主には無駄なものは一つもない」「主は最善の事しかされない」
「万事益となる」そこに堅く立ち、どこまでも主を信じて行く。肉
の目には、最善などと、到底思えないし、目の前真っ暗で、道が閉
ざされたかに見える。しかし全能の主は、必ず道を開いて下さる。
人の悪意すら、益と、祝福と変え、最善をされる。
ヨセフは波瀾万丈であり、様々な苦しみを通ったが、結果的に、飢
饉から一族の命を救うために、先にエジプトに遣わされたと知った。
そして信仰の目で、振り返った時に、「私をここに遣わしたのは、
あなたがたではなく、実に、神」と言った。
つまり、兄たちは妬みにより、ヨセフを隊商に売ったが、神に焦点
を当てて見るなら、実は、遣わしたのは神だと。そして兄たちは、
ヨセフに悪を計ったが、神はそれを、良い事のための計らいとされ
たと。
・・・・・・・・・・・・
もし、誰かが悪意で、故意に傷つけようと、やって来たとしても、
主は、それをも、私のために、働かせて益とし、良い事にすると。
主を信じていよう。どのように良い事にして下さるのか、期待を
持って、待ち望んでいよう。
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2022年06月04日(土)
「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、 あなたのからだが元どおりになってきよくなります」U列王5:10
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イスラエルのシリヤに、ナアマンという将軍がいた。勇士であり、
何度も勝利を治め、主君からの信頼を得、尊敬と名誉、地位も得て
いた。しかし、彼には一つの重大な問題があった。らい病にかかっ
ていたのだ。召使いから預言者のもとへ行けば、らい病が治ると聞
き、ナアマンは馬と戦車で、その預言者エリシャを訪ねた。
するとエリシャは出て来ないまま、使いの者から告げられた。ヨル
ダン川で7回身体を洗うようにと。その事でナアマンはひどく怒っ
た。プライドが傷ついたのだ。預言者自らが、患部に手を置き、祈
ってくれるものと思っていた。うやうやしく荘厳な儀式を思ってい
たろう。それが汚いヨルダン川に身を浸せとは。激しく怒って帰ろ
うとしたが、しもべたちが、従ってみるよう進言した。
そこでナアマンは思い直して、言われた通りに、ヨルダン川で7度
身を浸した。すると彼のらい病は見事にいやされた。学べる事は、
御言葉に力があるという事だ。御言葉を信じて「言ったとおりに」
従う時に奇跡を見た。プライドを捨てて、へりくだった事だった。
ナアマンがプライドを捨てられなかったなら、奇跡は無いし、いや
しも無かった。
口で信仰を言うのは簡単だが、「言ったとおりに」行なう時に、栄
光を見る。示しに従う時に、恥を受ける事も、この世のものを失う
事もあるかもしれない。しかしそれにまさる大きな祝福がある。今、
従うよう促されているだろうか。プライドが邪魔するだろうか。し
かし、捨てて、従う時に、大きな祝福を受ける。神の人の「言った
とおりに」従おう。
・・・・・・・・・・・・・
主から示された御言葉に従おうとする時、プライドや、様々な肉
の思いが妨げて来るだろうか。しかし、すべてを置いて、御言葉に
従ってみる時に、主のみわざを見る。従わなければ、そのままだ。
一歩踏み出してみよう。
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2022年06月03日(金)
「『エフライムにアラムがとどまった』・・ダビデの家に告げられ た。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺 した」イザヤ7:2
|
ユダのアハズ王の時代に、アッシリヤの脅威があった。アラムと北
王国イスラエルは、アハズ王が同盟を拒んだため、ユダに攻撃をし
かけようとした。この時に、アハズ王とユダの民は「王の心も民の
心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した」。打ち震え、恐れ、
大きく揺さぶられた。
しかし、イザヤは主から言葉を受けた。アハブに会い、彼に言うよ
うにと。「気をつけて静かにしていなさい。恐れてはなりません。
これら二つの木切れの煙る燃えさし・・に、心を弱らせてはなりま
せん」「それは起こらないし、有り得ない」主を信じているように
と。
しかしアハズ王は、主に頼らず、アッシリヤに頼り、援助を求めに
走る。アラムも北王国もアッシリヤによって滅ぼされる事になる
が、
ユダも滅亡への道をたどる事になる。私達の日常はどうだろう。突
如の想定外の事態が起きた時、どうだろう。木々が揺らぐように動
揺し、恐れ、おじ惑うだろうか。アハズのようにパニックになり、
肉の知恵、方策に頼り、方向違いに向かうだろうか。
今、動揺する事態が目の前にあるだろうか。主はこう言われる。
「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。この事
態に心を弱らせてはなりません」恐れないで、神を信ぜよ。まず慌
てないで、静かにすることだと。主が進むべき道を、御心を示し、
力強く導いて下さる。主を信頼していよう。
--------------
祈りつつも恐れや不安に支配されている間は、冷静に主の導きを待
てない。「気をつけて、静かにしていなさい」の主の御言葉をしっ
かりと握って、主に平安を祈ろう。主を待ち望もう。
|
2022年06月02日(木)
「それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。彼は この町に侵入しない。また、ここに矢を放たず・・」イザヤ37:33
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ヒゼキヤ王の時代に、アッシリヤのセナケリブ王が、ユダの町々を
攻め取った。王はラブシャケを送り、ヒゼキヤ王と民に脅しをかけ
る。大軍を伴い、強力な軍隊を誇示し、挑んで来る。ヒゼキヤは、
主が救い出すというが、王の言う事にだまされるな、信じるなと、
信仰を大きく揺るがして来る。
これを聞いたヒゼキヤは衣を裂き、荒布をまとって主の宮へ行き、
祈りを献げ、イザヤにも祈りを要請した。サタンは私たちにも同じ
ように、攻撃を仕掛けて来る。経済的苦境に「常識的に考えて、そ
んな大金どこから来るのか。無理だ」「来るわけがない」「祈って
も無駄だ」「神もどうもしてくれない」と、サタンは信仰を動揺さ
せ、挑んで来る。
仕事の悩み、対人関係の問題に「解決などどこにある」「悩みはず
っと続く」「祈ってもだめだ」と私たちの無力を見せつけ、落ち込
ませる。幾ら祈っても何も変わらない、神を信じて何になると、思
い煩いと不安に飲み込まれる。サタンは問題を見せて、そびえ立つ
城壁のごとく大きく見せる。
主を見せないよう、問題に目を釘付けにさせる。このような時には
「祈り」が対抗手段だ。ヒゼキヤもイザヤも祈った。その時、主は
奇跡を行なわれ、主の使いを遣わし戦わせた。その結果、アッシリ
ヤは立ち去った。祈りは聞かれた。耳元に来るサタンの攻撃、誘惑
に気づけるように。祈りによって立ち向かおう。主が共におられ
る。
--------------
今日の問題や不安がずっと続くと思うと心がなえてくる。これこそ
がサタンだ。最善の明日を知っておられる主を見ていなければ危な
い。主に祈り、主を信頼していよう。
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2022年06月01日(水)
「イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の 中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた」 ルカ24:27
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二人の弟子が、主が十字架で死んでしまったので、なすすべなく郷
里に引き揚げる。主がローマ帝国をくつがえし、地上に王国を建て
ると信じていた。それがことごとく破れ、十字架での無残な最期が
余りにもリアルで、よみがえりなど、荒唐無稽な事を信じる事が出
来ない。
挫折感と失望落胆、絶望で、「暗い顔つき」で郷里へ向かってい
た。
突然、そんな彼らのかたわらを歩く人が現われた。その人は彼らに
語りかけ、彼らの話を聞き、心の内を吐露させて下さった。その
後、
聖書の話をし、御言葉を解き明かされた。耳を傾けて行く内に、彼
らの心が変えられた。
絶望に沈んだ暗い心に、灯がともり、それが赤々と燃えて来たの
だ。
心がいやされて行った。主は弟子の信仰を回復させるために、御言
葉を語られた。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリス
トについてのみことばによる」「わたしがあなたがたに話したこと
ばは、霊であり、またいのちです」御言葉により、彼らに信仰がよ
みがえった。
その人に無理やり宿泊を願い、家に招いた。その人がパンを裂い
て、
渡された時に、彼らの目が開かれた。目が開かれた時に、道中、心
が内に赤々と燃えていた事に気づいた。主が目を開いて下さる時、
不信仰と絶望からよみがえった。
今、試練の中で、心が沈み、主が見えなくなっているだろうか。そ
んな私たちのかたわらに主がおられる。主の言葉に、心の耳を傾け
よう。必ず心が内に燃えて来る。
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暗い顔つきで心が沈むような時、御言葉に向かおう。主の御約束に
ことごとく支えられている。すぐにはわからない鈍い者だが心は、
だんだんと燃えてくる。
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