2003年01月31日(金)

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」(マタイ6:12)

 これを文字通りに言い換えると、私たちが他の人
を赦したので、私たちの罪をも赦してくださいと
いう事だ。では、もし私たちが他の人を赦す事を
拒否したなら、神も私たちを赦さないでください
との事だ。主は別の箇所で言っておられる。
莫大な負債を抱えた人が、その負債を全額免除し
て貰った。ところが、莫大な負債を免除して貰っ
たのに、自分への僅かな負債を負った人を赦さな
かった。主人は免除を撤回し、全額払うまで投獄
した。心から兄弟を赦さないなら、同じ事が起き
ると言われた。もし私たちが、誰それは絶対に赦
せない!との思いの中で祈るなら、神に私の罪を
赦さないでくださいと願っている事になる。
誰かと荒らそい、和解できないままでいる事も同
様だ。あわれみはさばきに向かって勝ち誇る。


2003年01月30日(木)

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい・・人にほめられたくて・・施しをする偽善者たちのように」(マタイ6:1)


 もし、施しが人からの賞賛を受けてしまえば、
もう天での報いは無いですよと言われる。
この世で報いを受けてしまったのだから、もし、
あなたが天で溢れるほどの豊かな報いを望むな
ら、人前で善行をしてはならない。人の賞賛、
人前での行為の、真の動機は自分のための名誉
と賞賛だ。貧しい人に真の関心があるのではな
い。与える人の事ではなく、自分の事を考えて
いるに過ぎない。一番の関心が「自分」なのだ。
良い事を悪い動機でする事がある。十分気をつ
けねばならない。神の栄光の現われる施しは、
受け手が誰から与えられたか知らない事だ。
自我が、自分というものが、施しという聖なる
行為に隠れて、大手を振っている。
一切人に知られない時、この自己顕示欲から守
られる。隠れて善を行え。


2003年01月29日(水)

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし・・自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43)

「自分の敵を愛し」とは、生まれつきの力では決して
不可能だ。私達が愛するのは身近な者や、家族、
恋愛する相手への愛情、これらは自然に起こる愛
であり、何の努力も必要無い。しかし、敵に対する愛
は異質だ。生まれつきのものからは、絶対に出て来
ない。これはアガペー、神の愛によるものだからだ。
神の愛は、相手の状態に関わらず愛する愛であり、
敵対、批判、攻撃、残酷な仕打ちにあってもただ親切
を返すのみである。これは誰もとどめる事の出来ない
神の愛だ。持って生まれた性質には、この愛は決して
無い。敵を愛するアガペーの愛とは「決意」だ。
神の勝利であり、自分の努力や自分の力でなく、
自分に死ぬ事から生まれる。これは御霊の力だ。


2003年01月28日(火)

「求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい」(マタイ5:42)


 下着を取ろうとするものには、上着もやりな
さいとその前の箇所にあるが、上着、下着が見
かけと少し違い、内側に普通に着る物が下着で、
その上に着るオーバーコートのような物が上着
だった。そして、もし負債が支払えなかった場
合は、その下着を取っても良かった。
それは合法的だった。上着はかさの高い毛布の
ような物で、夜はその中で寝る事もあった。
それで、この上着は取り上げて借金のかたにで
きない。日没にはその担保を返さねばならなか
った。それで、合法的には義務がなくても、そ
の上着をも与えよと言われた。それは、自分の
権利を守る事に目の色を変え、自分の権利を主
張して行く事をやめよと。自分、自分、自分の
もの・・すべての事において根底には自我があり、
その自我を問題にされた。状況、環境の問題で
なく、その自我がすべてを妨げて行く。


2003年01月27日(月)

「あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい」(マタイ5:41)


 当時、パレスチナはローマ帝国の支配下に
あり侮辱的な法律があった。ローマ兵士は誰
でもユダヤ人に荷物を1マイル運ぶように命
令できた。そうしたい時は軽くたたけば良か
った。ユダヤ人は好む好まざるに関わらず、
1マイル運ばねばならなかった。主は、その
ような事が生じた時は、2マイル行きなさい
と言われた。自分の義務を嫌々果たすのでは
十分でない。自分の義務以上にもっと多くす
るよう備えているべきだ。
私達はギリギリ最小限を文句を言いながらす
る。ねばならない事だけだ。必要最低限で、
それ以上などとんでもない。余分に頼まれる
と怒り出したりする。時間や労働を奪われる
のが嫌なのだ。しかし、主にならうとは義務
以上の事を進んで、喜んで、もっと多くの事
をしようとする者である。義務だけで満足す
るな。


2003年01月26日(日)

「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)

右ききの人が、相手の右の頬を殴ろうとするなら、
手のひらでは出来ない。手の甲でしか打てない。
手の甲で殴る事は、更に傷つける侮辱の意味が
あった。ひどい侮辱になったのだ。しかし、主は
何を言おうとされたのか。日常生活で他人から
頬を打たれなどまれか、ほとんどない。
これは、私達に加えられる侮辱に対して、復讐
してはならないという事だ。主は悪に対しては、
はっきりと怒られた。神の宮を商売の場として
いる様を見て、はっきりと行動された。弟子達
の事、教えの事についての尋問の際、役人が
主を打った時には「もし正しいなら、なぜ、打つ
のか」とはっきりと抗議された。悪に対し、教え
や弟子達の事に対しては、立ち向かわれた。
しかし、ご自身への批判、非難、中傷には、
一切自己弁護されない。


2003年01月25日(土)

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません・・もしあなたの敵が飢えたなら彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい」(ローマ12:20)

旧約律法では「目には目を、歯には歯を」と教え
られていた。これは復讐せよとの意図ではなく、
むしろ慈悲のゆえだった。目には目を、の法律
が定められる以前は、ある人が他人を傷つける
と、復讐は種族間にまで及んだ。報復の傷をつ
けるだけでなく、殺人にまで至った。互いの種族
が殺し合いにまで発展したのだ。それで復讐の
制限のための法律であった。目をやられたら、
身体全体に傷を負わせたり、殺人にまで発展
してはならない。報復は目だけに限定せよと。
歯をやられたら、歯だけにと。しかし、主イエス
は尚も進んで、全く復讐してはならないと言わ
れた。勿論、この生き方は自分の力では絶対
に不可能だ。罪の性質は何十倍もの報復をし
たいのだ。自分を全く明け渡し、御霊によって
歩む時、奇跡が起こる。


2003年01月24日(金)

『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです』(ヨハネ8:12)


 主に従う者は決して闇の中を歩むことがない。
それは常に「指針」が与えられているからだ。
真っ暗闇の中ではどの方向へどう進めば良いか
がわからない。人は闇の中では自我と自己中心
の歩みしかする事が出来ない。どこに向かって
いるかもわからない。しかし、いのちの光によ
って、進むべき正しい道が示され歩める。
ある学生が友人と群れて学校をサボり遊んでし
まった。学校側から注意を受けた時、皆は言い
訳した。クリスチャンであった彼は悔い改め
「言い訳しません」と自分の非を認めた。
すると、彼の後に続く学生全員が自分の非を認
めたのだ。間違った時にも、光があり、その所
で光の導く通りに従うなら、尚も世の光として
祝福して下さる。光によって悔い改める事が出
来るのだ。


2003年01月23日(木)

「あなたがたは、世界の光です・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、あなたがたの父をあがめるように」(マタイ5:16)


 光は見られるためにあるものだ。あかりをつけて
枡の下に置く事はなく、燭台の上に置く。
すべての人に見える。クリスチャンもすべての人に
見えなければならない。通学する時、制服を着る。
するとどこの学生かすぐわかる。そのように、キリ
スト者も隠れた弟子である事は不可能だ。
主と福音を恥じて、隠しておくなら、弟子である事
をやめさせるか、秘密をやめさせるかのどちらかだ。
人々のまっただ中にあって主の求めておられる事を
恐れず行ない、主が喜ばれない事は、拒否する事だ。
もし、主の弟子であり続けたければ、旗色鮮明にす
る事だ。それによって、返って自分も守られる。
そして、光として主があなたを今あなたがいる場所
で用いて下さる。


2003年01月22日(水)

「平和をつくる者はさいわいです。その人は神の子どもとよばれるからです」(マタイ5:9)

ここで主が言っておられるのは、平和愛好家では
なく、平和をつくり出す人達が祝福されるという事
だ。集団になる時、よく経験するところだ。グルー
プで、友人間で、委員会で、何かの問題が起こり
皆がギクシャクし、気まずい状態になる。それに
ついて問題解決の努力をするのでなく「平和主義
で行こう。事を荒立てない事だ」と問題から逃げ出
す。平和をつくり出すという事は、問題に直面し、
解決に乗り出す事である。平和とは人々の間の
正しい関係だ。人々が友情を持てるよう助ける
人は幸いだ。人々の間に良い関係が築けるよう
働くべきだ。決してトラブルメーカーになってはなら
ないし、人々の間を裂いたり、争いを引き起こして
はならない。しかし、平和をつくるために必要な時
は、行動を起こさねばならない。


2003年01月21日(火)

「偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない」(出エジプト23:1)


 悪い噂は人を破壊することができる。人の評判
と名声をおとしめる。言葉の恐ろしさは、一旦語
られると、元に戻す事が出来ず、どんどん広がる
事だ。人を傷つけるもので、愛の無い噂以上のも
のはほとんど無い。では、どのように語れば良い
のか。真実を語る事についての有益な指針がある。
@もちろん真実で無いなら絶対に語るべきで無い。
Aそれは必要か。仮に真実であっても、その場で
その事を語る事が必要か。なんでもかんでも語る
必要はない。たとい真実でも語る必要のない事も
多い。Bそれは親切か。真実を告げる事で、誰か
を損ない、不必要な傷つける事になるなら、それ
は語るべきではない。時に、愛ゆえに厳しい事を
言ったり、忠告の必要な時がある。
その時は、真実を親切な方法で愛を持って語るべ
きだ。愛は不必要な傷をつけない。


2003年01月20日(月)

「私は自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(ローマ7:15)


 私達は信仰生活で経験するところだ。「この事を
考えない、これを欲してはならない」しかし、そう
すると、その悪い思いに、罪の欲望に一層強く傾き
支配されてしまうのだ。禁じられた思いを振り払お
うとすればするほど、ますます泥沼にはまって行く
何かの思いを追い払う方法は、他の思いを入れる事
だ。みこころではない欲望を追い出す方法はそれを
抑え込む事ではなく(そうするとますます欲望が猛
威を奮う)もっと強い他の欲望を持つ事だ。
健全な欲望は他の欲望を追い出してしまう。タバコ
と飲酒の誘惑と欲望に襲われる少年が、もう一つの
欲望、大好きなサッカー選手になりたいという欲望
によって、良い欲望が悪い欲望に打ち勝って行く。
最後まで罪の性質はあるが、主を知れば知るほど、
その豊かさに飲み込まれて行く。


2003年01月19日(日)

「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(エゼキエル18:4)

今のこの世の考え方では、個人の責任を問わない。
育った環境、遺伝、親の育て方、社会が悪いと言う。
青少年が犯罪を犯すと、必ずマスコミは親を問題に
し、生育歴を問題にする。まるで、罪を犯した当事者
は被害者のようだ。しかし、神は、はっきりとこういう
問題に対して、個人の責任を強調している。責任
転嫁は間違いだと。すべての人は、自分の罪に対して
責任がある。御言葉は私達が環境の犠牲者だとは
教えていない。私達は将来、何もかもをご存じの聖
なるお方の前で、罪についての申し開きをする事に
なる。自分の罪については、自分に責任があり、
問われる。誰一人言い逃れはできない。しかし、
唯一の希望は、自らの罪を認め、主イエス・キリスト
に頼る事だ。罪無きお方が、罪を引き受けて下さ
った。このお方にすがるなら、無罪放免。罪無しと
の宣告を受けるには、自らの罪を認める事だ。


2003年01月18日(土)

「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っている。」(エレミヤ6:14)

同じくエレミヤ書に「みな利得をむさぼり・・みな偽
りを行なっているからだ」とある。あるアル中研究
グループが研究の結果を発表した。それはかつて
アル中であった人も、アルコールに依存する事なく
再び飲酒できるというものだった。しかし、実際に
現場での調査では、正反対だ。再び飲酒した人々
は非常な困難の中に入ったのだ。再び中毒症が
再発したのだ。この研究は全くあてにならなかった。
エレミヤの時代の預言者や祭司達も偽りを語って
いた。真実を語るのではなく、民の都合の良い事
を語っていたのだ。民は偽りを喜んで受け入れた。
私達はどうか。「健全な教えに耳を貸そうとせず、
自分の都合の良いことを言ってもらうために」
痛いことは聞きたくない。自分に心地良い、都合の
良い事だけを受け入れていないか。「自分のために」
自己中心な、ひとりよがりの信仰が育ってしまう。







2003年01月17日(金)

「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた」(詩篇40:3)


 一人の女性が突然の病に倒れた。命に別状は
無かったが、静かに療養生活を送る事を余儀な
くされた。長い間、忙しく立ち働いてきた女性
だった。仕事をし家事をこなし、教会の奉仕に
いそしんでいた。常に動いたいた。じっとして
いるという時がなかった。突然手足をもがれた
ような状態状況を受け入れる事が困難で心の葛
藤を繰り返した。数ヶ月が経った時、神のお心
がわかりかけた。あまりの忙しさに祈りの時間
御言葉に向かう時間が取れないとずっと不満だ
った。神は立ち止まる時を与えられ、祈りの時
が与えられたのだ。毎日溢れるほど豊かに十分
に御言葉の時間と祈りの時間が与えられている
家族、教会、周囲の人々のため取りなす時が与
えられている。身体の損失は、魂のための最良
の機会とされ心から感謝できた。


2003年01月16日(木)

「これらすべてはわたしのものだ。・・主の御告げ・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」(イザヤ66:2)


 神は砕かれた器を用いられる。
「へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の
心を生かす」私達は皆砕かれる事が必要だ。
私達の悩みや問題の九割はこの砕かれていない
事から起こる。自我が真に砕かれ、悔いくずお
れるなら、問題がほとんど問題でなくなる。
なぜなら私達の問題は、思い通りにならないこ
とに腹を立てて、苛立ち、自分を抑えられない
また、傷つく必要のないちょっとした事にも傷
つく。それが自分には大問題になる。自我に触
れるからだ。高慢とプライドと自惚れに触れる
から傷つくのだ。自信、自己満足で自我は腫れ
上がっている。こんな者を柔和な者に、自制あ
り、謙遜な者に変えられるのは神の奇跡。
周囲の人を用いて砕かれる。


2003年01月15日(水)

「おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう」(ガラテヤ6:4)

もし、兄弟が過ちに陥ったなら、柔和な心でその
人を正してあげるべきだ。しかし、私達は何と冷
やかで、きつい語調でその事をすることか。
優しさと受容性に欠け、荒々しい態度を取ってし
まう。真に自分自身が悔いくずおれ、主の前に
ひれ伏した事がないためである。自らの罪が
神の光に照らし出され、罪の恐ろしさにおののき、
ちりに伏した事がないからだ。人の欠点はよく見
え、人を断罪し、さばく者であるが、自分の内が
全く見えていない。何と高慢で扱いにくく、頑固な
者か。事が起これば、自己弁護に終始し、自己
主張に際限が無い。いつも失敗している。それ
ゆえ、人への対応が出来ない。間に合う、有用
な者とされるために、良心が御言葉の真理に
絶えず目覚めており、機能しているように。


2003年01月14日(火)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:3)


私が・・私の・・、私、私、日常の中にいかに多く
の自己中心がまん延している事だろう。ご自身
を無にし、仕える者の姿をとられ十字架の死に
まで自分を捨てて従われたお方となんと異なっ
ているだろう。主の奉仕の中にさえ、自我が大
手を振り、自分が重んじられないと気が済まな
い。すねたりひがんだりの態度をとる。
自分自身の奥深い所ではどうだろう。自我に支
配されていないか。ちょっと批判されると何倍
にも返す。間違いを指摘されると素直に聞けな
いで相手への攻撃に出る。悪口を言われると、
腹を立て、なんと自分を守る事にかけては敏感
だろう。これらすべて自我の働きだ。
自分のうちの自己中心が砕かれ、高慢、プライ
ド、虚栄心が砕かれて行く時、貧しい、へりく
だった心が培われて行く。


2003年01月13日(月)

『イエスは答えて言われた「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」と書いてある』(マタイ4:4)

 エデン園で、エバは蛇であるサタンの巧妙な
接近に会い、拒否しないで対話を始めてしまい、
重大な過失を犯してしまった。「主はこう言わ
れた」とはっきり言い、御言葉に立たないなら、
重大な危険に身をさらしている事になる。
サタンは神と同等、神以上に自らを置き語って
いる。神のいう事は厳しすぎないか、神のよう
になって欲しくないから善悪を知る木の実を神
は禁じられたのだと、暗に神に対する正しくな
い印象を植え付けようとする。神は一本以外の
どの実からでも思いのままに食べても良いと言
われた。しかし、エバはどの木からも思いのま
まに、を省いている。サタンに耳を傾け、喜ん
で聞いて行った。内にある思いと合致するよう
巧妙に誘惑してくるサタンに立ち向かえ。


2003年01月12日(日)

「人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので私は食べたのです」(創世記3:12)

神が与えて下さった、悔い改めの機会をも、
罪深い性質は逃してしまった。罪を認める
どころか、エバを非難し、そのエバを与えた
神を非難しようとする。エバが取ってくれた
からと言って、彼がそれを食べる理由など
何も無い。はっきりと、神から食べてはなら
ないと命令されていたのだ。彼は何が正しい
かを知っており、してはならない命令を知って
いた。自分がした事に、正面向き合い、認め、
責任を取る事をせず、他を責め、言い逃れ
をする。これこそ、罪の性質だ。罪は分裂
を引き起こし、関係を壊し、敵対させ、憎み
合うようにさせてしまう。罪を憎み、罪から
離れることが神を愛する事だ。罪の性質は
自己中心。自分を守ろうとする時、気づけ
るように。聖霊に従えるように。


2003年01月11日(土)

「すると、仰せになった。『あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から取って食べたのか」(創世記3:11)

神は罪を犯したアダムに悔い改めるよう、取り
扱い導かれる。悔い改めの機会を与えられる。
あなたは取って食べたのかと、問いただされた。
告白を導き出そうとして下さった。明確に、はっ
きりと自分の間違いを、犯した罪を認めさえす
れば良かった。悔い改めの機会を与えるため
に、真正面から問うて下さったのだ。素直に
率直に「はい」と答えれば良かった。しかし、
彼は自分の罪を認める事も、悔い改める事も
せず、何とエバに責任転嫁して行ったのだ。
ダビデはバテシバと姦淫を犯した時、預言者
ナタンの指摘に「私は主に対して罪を犯した」
と自らの罪をはっきりと認めた。すると「主も
また、あなたの罪を見過ごして下さった」。
正直に罪を認める事、これが神の望まれる事だ。





2003年01月10日(金)

『彼は答えた。「私は園であなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました』(創世記3:10)


 アダムは、神から取って食べてはならな
いと命じられていた善悪を知る木の実から
取って食べ、罪を犯した。罪は、神を恐れ
させ、神を避ける者にしてしまう。
神から身を隠そうとさせる。また、罪は、
弁解、言い訳、偽り、欺き、言い逃れの中
に逃げさせる。アダムは神の命令を破った、
神に不従順であり、罪を犯した。しかし、
その罪より罪の結果の方が心配なのだ。
私達も同様だ。神に犯した罪よりも、罪の
結果が恐いのだ。罪を悲しむより、罪の結
果と将来起こる事を思い煩って、不安なの
だ。自分を欺かないで、罪をはっきり悔い
改める事に救いがある。愛に満ちた慰めに
満ちた神の御声が、罪を犯したアダムには
恐怖に聞こえた。罪だけが神と私達の間を
妨げる。罪の結果を取り繕うのではなく、
罪を見据えて悔い改めよ。


2003年01月09日(木)

「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを開放したからです」(ローマ8:2)


 飛行機に乗る時、幾らかの人々は不安を感じ
る。ある人は、こんな重い物体が飛ぶ事が信じ
られないと言う。重力の原理は私達を地球に縛
りつけるが、航空力学の原理に信頼する事によ
り、安らかでおれる。多くのクリスチャンは強
い意志の力によって、霊的生活を保ち、霊的成
長を成し遂げようとする。
しかし、罪と死の原理があり、私達を引きずり
落とす。しかし、命の御霊の原理が備えられて
いる。それは、自分の内におられる御霊に、自
分自身を委ね、御霊に拠り頼み続けるなら、い
のちの御霊の原理が罪と死の原理から開放する
のだ。恵みの下にいるなら律法の下にはいない。
自由にされている。意志の力で生きるなら、罪
と死の原理の中にいる。しかし、御霊に委ね、
支配さてれ生きるなら、そこにはいない。


2003年01月08日(水)

「イエスは彼が伏せっているのを見て・・言われた『よくなりたいか』」(ヨハネ5:6)

この世では、一般的に言われている。生育歴に
問題があるから、今の自分になった、親の育て
方が悪かった、育った環境が悪かったと。不幸
のせいで、今の自分になった、もっと良い環境
であれば違っていただろうと。しかし、主は池の
そばに38年伏せっていた男に言われた「よく
なりたいか」。男は不可能な状況をイエスに告げ
るが、そういう環境、状況には一切関わらず、
主は「起きて床を取り上げて歩きなさい」と言わ
れた。私達は私達にどうする事も出来ない状況
がある。障害がある。その状況に対してどうすれ
ばよいのか。主に拠り頼み、主の御声を聞くの
だ。主はあなたにご計画があり最善をして下さる。
主の御声を聞いて、主が言われたように行動
するのだ。あなたは変えられ、新しくされる。
自己憐憫と言い訳にとどまる必要はない。


2003年01月07日(火)

「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22:42)

 ある人が言った「私達の多くは、神のみこころ
に自分を献げていると思いながら、ずっと環境や
状況に不平不満、文句を言い、戦っている」。
誰もが人生において、様々な悩み、困難に出会う。
しかし、それは神が起こる事を許された問題であ
り、悩みだ。神の許しの中で与えられたものを、
私達が受け入れられない事が問題だ。
それで、問題と戦い、環境を変える事に必死にな
る。今の問題、今の悩みから何とか抜け出たい。
助け出されるように願う。しかし、神には目的と
計画があり、この悩みの中で私達を変えたいのだ。
良いものも悪いものも、神が与えられるものを受
け入れる時、心はどのような中でも平安だ。
秘訣は神が与えれれるものを受け入れる事だ。
私達は悩みを通して変えられる。


2003年01月06日(月)

「私が自分の走るべき行程を走り尽くし・・福音を証しする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒20:24)

 ある野球少年は、頭は野球の事で一杯だ。
朝も昼も夜も野球、野球、仕事人間は家に
帰っても四六時中仕事の事を考えている。
仕事の段取り、仕事のアイデア、仕事で一
杯だ。あなたが最も情熱を燃やしている事
は何だろう。あなたを熱中させ、思いを注
がせ、時間やお金、労力を費やしても惜し
くないものは何か。そのような仕事、娯楽
、趣味、があるか。それは、永遠に照らし
合わせる時、真に価値あるものだろうか。
パウロの目標は自分の走るべき行程を懸命
に走り尽くす事、神の福音を証しする事だ
った。パウロの頭と心はその事で一杯だっ
た。その目標を見つめ続けたので、成し遂
げた。主に仕える事、これは永遠に価値あ
る働きだ。主の事で頭と心が一杯でありた
い。


2003年01月05日(日)

「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを・・捨てさりなさい・・神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エペソ4:31)

一人の人が職場で、同僚と行き違いがあった。
表面的には黙ったまま、心の中はぎくしゃくして
いた。相手を避けていた。相手に対して腹を立て
ていた。そのやり方や態度や言葉に。相手が悪い
としか思えなかった。家に帰っても、傷ついた言葉
や態度が頭を巡り、繰り返し思い出しては、恨み
が募り、堂々巡りしていた。苦々しい思いに、段々
苦しくなり、どうにもできず、神のもとへ駆けつけ
祈った。この思いを赦して下さり、解き放って
欲しいと切に祈った。相手を赦すよう聖霊から語り
かけられ、赦す意志を表明、神から赦す心を与え
られた。心が軽くなり、喜びが戻り、解放された。
相手はそのままだったが、心が変えられて、こち
らから笑顔で話しかけ、接して行くことができ、
関係が修復された。


2003年01月04日(土)

「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)

神がありのままの私達を無条件で愛して下さる、
これがなかなかわからない。神の愛に信頼して
安らぐのでなく、自分の多くの欠けにばかり目が
行き、いつも罪の意識にさいなまれる。ああする
なら、こうするなら、自分を変えるなら、何かの
行ないによって、神に受け入れてもらおうとし、
神の愛を得ようとする。無意識にそうしてしまって
いる。ある時、その努力に疲れ果ててしまう。いつ
も自分は足らず、自分を責めるばかり。そんな
時に主が「わたしのところに来なさい。休みな
さい」との御声をかけて下さる。わたしが休ませ
てあげるのだと。何と素晴らしいグッドニュース
だろう。私達は完全に愛されているのだ。
主の御腕の中で憩えるとは何という恵みだろう。
あなたは受け入れられようと、努力しているか、
それとも憩っているか。


2003年01月03日(金)

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)

主に従う事に失敗して、がっかりして、失望落胆
する事があるだろう。失望が一番の大敵だ。実際
神にそむいてしまい、失敗してしまったら、どうや
って主に仕えて行けばいいのだろうと思うだろう。
ペテロがそうだった。主が捕らえられた時、ペテロ
は三度も主を知らないと否定し、呪いをかけて誓
ったのだ。そんな人は知らないと。自分のした事
に彼は打ちのめされ、男泣きに泣いた。失望落胆
のどん底にいた。主を裏切ってしまったのだ。しか
し、主の方からペテロに近づき、ご自身への愛を
確認する機会を与え、回復させて下さった。
再献身の結果、彼は後に教会の指導者として
用いられた。失敗で失望しているだろうか。その
失敗を成長のために用いられる。神の豊かな
赦しを新たに経験させてくださる。もう一度立た
せて下さる。


2003年01月02日(木)

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」(箴言4:23)


 庭の草抜き、畑の草抜き、草抜きは
大変な労苦だ。野菜の周囲に雑草がの
びるのは早い。野菜より早くはびこり、
それを放っておくと大切な作物を枯ら
してしまう。小さな雑草の内にどんど
ん抜いて行く事だ。私達の心の畑はど
うか。雑草を生えるままにしておくと
心が荒らされる。また、苦い根は心を
枯らす。雑草が小さい間に、こまめに
抜き取らなければならない。私達の心
の畑をよく見張り、手入れしなくては
ならない。悪い態度の雑草はないか。
妬みや虚栄心、思い煩いの雑草はどう
か。御霊の良い実のはざまにはびこる
雑草を見張れ。御霊を締め出してしま
うのが、小さな悪い態度、反抗的な態
度だ。御霊を妨げる事のないように、
よく気をつけて心を守れ。


2003年01月01日(水)

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15)

溺れかけた人の話をよく聞く。水の中で、もうパニ
ック状態で、助けに来た人に必死でしがみつき、
ジタバタするので、二人共溺れてしまう。そこで、
溺れた人がフッと力が抜けた時に、素早く助ける。
これは時に私達の状況だ。悩みに会い、困難に
会う時、パニックになり、もがき回る。もがけば、
もがくほど深みにはまり、身動きが取れなくなって
しまう。自分で何とかしようと、走り回るのだ。
“しかしあなたがたは、これを望まなかった。あなた
がたは言った。「いや私たちは馬に乗って逃げよう」
それなら、あなたがたは逃げてみよ。あなたがたの
追っ手はなお早い”事態を更に悪化させてしまう。
なすすべをすべて失い、初めて神に頼るのだ。
神はその間、ずっとそこにおられるのに。神を
無視して何と自分の力に頼る者だろう。神は
助けようと待ち構えて下さっている。