2003年01月31日(金) 「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」(マタイ6:12)
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」(マタイ6:12)
これを文字通りに言い換えると、私たちが他の人 を赦したので、私たちの罪をも赦してくださいと いう事だ。では、もし私たちが他の人を赦す事を 拒否したなら、神も私たちを赦さないでください との事だ。主は別の箇所で言っておられる。 莫大な負債を抱えた人が、その負債を全額免除し て貰った。ところが、莫大な負債を免除して貰っ たのに、自分への僅かな負債を負った人を赦さな かった。主人は免除を撤回し、全額払うまで投獄 した。心から兄弟を赦さないなら、同じ事が起き ると言われた。もし私たちが、誰それは絶対に赦 せない!との思いの中で祈るなら、神に私の罪を 赦さないでくださいと願っている事になる。 誰かと荒らそい、和解できないままでいる事も同 様だ。あわれみはさばきに向かって勝ち誇る。
2003年01月30日(木) 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい・・人にほめられたくて・・施しをする偽善者たちのように」(マタイ6:1)
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい・・人にほめられたくて・・施しをする偽善者たちのように」(マタイ6:1)
もし、施しが人からの賞賛を受けてしまえば、 もう天での報いは無いですよと言われる。 この世で報いを受けてしまったのだから、もし、 あなたが天で溢れるほどの豊かな報いを望むな ら、人前で善行をしてはならない。人の賞賛、 人前での行為の、真の動機は自分のための名誉 と賞賛だ。貧しい人に真の関心があるのではな い。与える人の事ではなく、自分の事を考えて いるに過ぎない。一番の関心が「自分」なのだ。 良い事を悪い動機でする事がある。十分気をつ けねばならない。神の栄光の現われる施しは、 受け手が誰から与えられたか知らない事だ。 自我が、自分というものが、施しという聖なる 行為に隠れて、大手を振っている。 一切人に知られない時、この自己顕示欲から守 られる。隠れて善を行え。
2003年01月29日(水) 「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし・・自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43)
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし・・自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43)
「自分の敵を愛し」とは、生まれつきの力では決して 不可能だ。私達が愛するのは身近な者や、家族、 恋愛する相手への愛情、これらは自然に起こる愛 であり、何の努力も必要無い。しかし、敵に対する愛 は異質だ。生まれつきのものからは、絶対に出て来 ない。これはアガペー、神の愛によるものだからだ。 神の愛は、相手の状態に関わらず愛する愛であり、 敵対、批判、攻撃、残酷な仕打ちにあってもただ親切 を返すのみである。これは誰もとどめる事の出来ない 神の愛だ。持って生まれた性質には、この愛は決して 無い。敵を愛するアガペーの愛とは「決意」だ。 神の勝利であり、自分の努力や自分の力でなく、 自分に死ぬ事から生まれる。これは御霊の力だ。
2003年01月28日(火) 「求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい」(マタイ5:42)
「求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい」(マタイ5:42)
下着を取ろうとするものには、上着もやりな さいとその前の箇所にあるが、上着、下着が見 かけと少し違い、内側に普通に着る物が下着で、 その上に着るオーバーコートのような物が上着 だった。そして、もし負債が支払えなかった場 合は、その下着を取っても良かった。 それは合法的だった。上着はかさの高い毛布の ような物で、夜はその中で寝る事もあった。 それで、この上着は取り上げて借金のかたにで きない。日没にはその担保を返さねばならなか った。それで、合法的には義務がなくても、そ の上着をも与えよと言われた。それは、自分の 権利を守る事に目の色を変え、自分の権利を主 張して行く事をやめよと。自分、自分、自分の もの・・すべての事において根底には自我があり、 その自我を問題にされた。状況、環境の問題で なく、その自我がすべてを妨げて行く。
2003年01月27日(月) 「あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい」(マタイ5:41)
「あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい」(マタイ5:41)
当時、パレスチナはローマ帝国の支配下に あり侮辱的な法律があった。ローマ兵士は誰 でもユダヤ人に荷物を1マイル運ぶように命 令できた。そうしたい時は軽くたたけば良か った。ユダヤ人は好む好まざるに関わらず、 1マイル運ばねばならなかった。主は、その ような事が生じた時は、2マイル行きなさい と言われた。自分の義務を嫌々果たすのでは 十分でない。自分の義務以上にもっと多くす るよう備えているべきだ。 私達はギリギリ最小限を文句を言いながらす る。ねばならない事だけだ。必要最低限で、 それ以上などとんでもない。余分に頼まれる と怒り出したりする。時間や労働を奪われる のが嫌なのだ。しかし、主にならうとは義務 以上の事を進んで、喜んで、もっと多くの事 をしようとする者である。義務だけで満足す るな。
2003年01月26日(日) 「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)
「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)
右ききの人が、相手の右の頬を殴ろうとするなら、 手のひらでは出来ない。手の甲でしか打てない。 手の甲で殴る事は、更に傷つける侮辱の意味が あった。ひどい侮辱になったのだ。しかし、主は 何を言おうとされたのか。日常生活で他人から 頬を打たれなどまれか、ほとんどない。 これは、私達に加えられる侮辱に対して、復讐 してはならないという事だ。主は悪に対しては、 はっきりと怒られた。神の宮を商売の場として いる様を見て、はっきりと行動された。弟子達 の事、教えの事についての尋問の際、役人が 主を打った時には「もし正しいなら、なぜ、打つ のか」とはっきりと抗議された。悪に対し、教え や弟子達の事に対しては、立ち向かわれた。 しかし、ご自身への批判、非難、中傷には、 一切自己弁護されない。
2003年01月25日(土) 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません・・もしあなたの敵が飢えたなら彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい」(ローマ12:20)
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません・・もしあなたの敵が飢えたなら彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい」(ローマ12:20)
旧約律法では「目には目を、歯には歯を」と教え られていた。これは復讐せよとの意図ではなく、 むしろ慈悲のゆえだった。目には目を、の法律 が定められる以前は、ある人が他人を傷つける と、復讐は種族間にまで及んだ。報復の傷をつ けるだけでなく、殺人にまで至った。互いの種族 が殺し合いにまで発展したのだ。それで復讐の 制限のための法律であった。目をやられたら、 身体全体に傷を負わせたり、殺人にまで発展 してはならない。報復は目だけに限定せよと。 歯をやられたら、歯だけにと。しかし、主イエス は尚も進んで、全く復讐してはならないと言わ れた。勿論、この生き方は自分の力では絶対 に不可能だ。罪の性質は何十倍もの報復をし たいのだ。自分を全く明け渡し、御霊によって 歩む時、奇跡が起こる。
2003年01月24日(金) 『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです』(ヨハネ8:12)
『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです』(ヨハネ8:12)
主に従う者は決して闇の中を歩むことがない。 それは常に「指針」が与えられているからだ。 真っ暗闇の中ではどの方向へどう進めば良いか がわからない。人は闇の中では自我と自己中心 の歩みしかする事が出来ない。どこに向かって いるかもわからない。しかし、いのちの光によ って、進むべき正しい道が示され歩める。 ある学生が友人と群れて学校をサボり遊んでし まった。学校側から注意を受けた時、皆は言い 訳した。クリスチャンであった彼は悔い改め 「言い訳しません」と自分の非を認めた。 すると、彼の後に続く学生全員が自分の非を認 めたのだ。間違った時にも、光があり、その所 で光の導く通りに従うなら、尚も世の光として 祝福して下さる。光によって悔い改める事が出 来るのだ。
2003年01月23日(木) 「あなたがたは、世界の光です・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、あなたがたの父をあがめるように」(マタイ5:16)
「あなたがたは、世界の光です・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、あなたがたの父をあがめるように」(マタイ5:16)
光は見られるためにあるものだ。あかりをつけて 枡の下に置く事はなく、燭台の上に置く。 すべての人に見える。クリスチャンもすべての人に 見えなければならない。通学する時、制服を着る。 するとどこの学生かすぐわかる。そのように、キリ スト者も隠れた弟子である事は不可能だ。 主と福音を恥じて、隠しておくなら、弟子である事 をやめさせるか、秘密をやめさせるかのどちらかだ。 人々のまっただ中にあって主の求めておられる事を 恐れず行ない、主が喜ばれない事は、拒否する事だ。 もし、主の弟子であり続けたければ、旗色鮮明にす る事だ。それによって、返って自分も守られる。 そして、光として主があなたを今あなたがいる場所 で用いて下さる。
2003年01月22日(水) 「平和をつくる者はさいわいです。その人は神の子どもとよばれるからです」(マタイ5:9)
「平和をつくる者はさいわいです。その人は神の子どもとよばれるからです」(マタイ5:9)
ここで主が言っておられるのは、平和愛好家では なく、平和をつくり出す人達が祝福されるという事 だ。集団になる時、よく経験するところだ。グルー プで、友人間で、委員会で、何かの問題が起こり 皆がギクシャクし、気まずい状態になる。それに ついて問題解決の努力をするのでなく「平和主義 で行こう。事を荒立てない事だ」と問題から逃げ出 す。平和をつくり出すという事は、問題に直面し、 解決に乗り出す事である。平和とは人々の間の 正しい関係だ。人々が友情を持てるよう助ける 人は幸いだ。人々の間に良い関係が築けるよう 働くべきだ。決してトラブルメーカーになってはなら ないし、人々の間を裂いたり、争いを引き起こして はならない。しかし、平和をつくるために必要な時 は、行動を起こさねばならない。
2003年01月21日(火) 「偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない」(出エジプト23:1)
「偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない」(出エジプト23:1)
悪い噂は人を破壊することができる。人の評判 と名声をおとしめる。言葉の恐ろしさは、一旦語 られると、元に戻す事が出来ず、どんどん広がる 事だ。人を傷つけるもので、愛の無い噂以上のも のはほとんど無い。では、どのように語れば良い のか。真実を語る事についての有益な指針がある。 @もちろん真実で無いなら絶対に語るべきで無い。 Aそれは必要か。仮に真実であっても、その場で その事を語る事が必要か。なんでもかんでも語る 必要はない。たとい真実でも語る必要のない事も 多い。Bそれは親切か。真実を告げる事で、誰か を損ない、不必要な傷つける事になるなら、それ は語るべきではない。時に、愛ゆえに厳しい事を 言ったり、忠告の必要な時がある。 その時は、真実を親切な方法で愛を持って語るべ きだ。愛は不必要な傷をつけない。
2003年01月20日(月) 「私は自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(ローマ7:15)
「私は自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(ローマ7:15)
私達は信仰生活で経験するところだ。「この事を 考えない、これを欲してはならない」しかし、そう すると、その悪い思いに、罪の欲望に一層強く傾き 支配されてしまうのだ。禁じられた思いを振り払お うとすればするほど、ますます泥沼にはまって行く 何かの思いを追い払う方法は、他の思いを入れる事 だ。みこころではない欲望を追い出す方法はそれを 抑え込む事ではなく(そうするとますます欲望が猛 威を奮う)もっと強い他の欲望を持つ事だ。 健全な欲望は他の欲望を追い出してしまう。タバコ と飲酒の誘惑と欲望に襲われる少年が、もう一つの 欲望、大好きなサッカー選手になりたいという欲望 によって、良い欲望が悪い欲望に打ち勝って行く。 最後まで罪の性質はあるが、主を知れば知るほど、 その豊かさに飲み込まれて行く。
2003年01月19日(日) 「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(エゼキエル18:4)
「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(エゼキエル18:4)
今のこの世の考え方では、個人の責任を問わない。 育った環境、遺伝、親の育て方、社会が悪いと言う。 青少年が犯罪を犯すと、必ずマスコミは親を問題に し、生育歴を問題にする。まるで、罪を犯した当事者 は被害者のようだ。しかし、神は、はっきりとこういう 問題に対して、個人の責任を強調している。責任 転嫁は間違いだと。すべての人は、自分の罪に対して 責任がある。御言葉は私達が環境の犠牲者だとは 教えていない。私達は将来、何もかもをご存じの聖 なるお方の前で、罪についての申し開きをする事に なる。自分の罪については、自分に責任があり、 問われる。誰一人言い逃れはできない。しかし、 唯一の希望は、自らの罪を認め、主イエス・キリスト に頼る事だ。罪無きお方が、罪を引き受けて下さ った。このお方にすがるなら、無罪放免。罪無しと の宣告を受けるには、自らの罪を認める事だ。
2003年01月18日(土) 「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っている。」(エレミヤ6:14)
「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っている。」(エレミヤ6:14)
同じくエレミヤ書に「みな利得をむさぼり・・みな偽 りを行なっているからだ」とある。あるアル中研究 グループが研究の結果を発表した。それはかつて アル中であった人も、アルコールに依存する事なく 再び飲酒できるというものだった。しかし、実際に 現場での調査では、正反対だ。再び飲酒した人々 は非常な困難の中に入ったのだ。再び中毒症が 再発したのだ。この研究は全くあてにならなかった。 エレミヤの時代の預言者や祭司達も偽りを語って いた。真実を語るのではなく、民の都合の良い事 を語っていたのだ。民は偽りを喜んで受け入れた。 私達はどうか。「健全な教えに耳を貸そうとせず、 自分の都合の良いことを言ってもらうために」 痛いことは聞きたくない。自分に心地良い、都合の 良い事だけを受け入れていないか。「自分のために」 自己中心な、ひとりよがりの信仰が育ってしまう。
2003年01月17日(金) 「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた」(詩篇40:3)
「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた」(詩篇40:3)
一人の女性が突然の病に倒れた。命に別状は 無かったが、静かに療養生活を送る事を余儀な くされた。長い間、忙しく立ち働いてきた女性 だった。仕事をし家事をこなし、教会の奉仕に いそしんでいた。常に動いたいた。じっとして いるという時がなかった。突然手足をもがれた ような状態状況を受け入れる事が困難で心の葛 藤を繰り返した。数ヶ月が経った時、神のお心 がわかりかけた。あまりの忙しさに祈りの時間 御言葉に向かう時間が取れないとずっと不満だ った。神は立ち止まる時を与えられ、祈りの時 が与えられたのだ。毎日溢れるほど豊かに十分 に御言葉の時間と祈りの時間が与えられている 家族、教会、周囲の人々のため取りなす時が与 えられている。身体の損失は、魂のための最良 の機会とされ心から感謝できた。
2003年01月16日(木) 「これらすべてはわたしのものだ。・・主の御告げ・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」(イザヤ66:2)
「これらすべてはわたしのものだ。・・主の御告げ・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」(イザヤ66:2)
神は砕かれた器を用いられる。 「へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の 心を生かす」私達は皆砕かれる事が必要だ。 私達の悩みや問題の九割はこの砕かれていない 事から起こる。自我が真に砕かれ、悔いくずお れるなら、問題がほとんど問題でなくなる。 なぜなら私達の問題は、思い通りにならないこ とに腹を立てて、苛立ち、自分を抑えられない また、傷つく必要のないちょっとした事にも傷 つく。それが自分には大問題になる。自我に触 れるからだ。高慢とプライドと自惚れに触れる から傷つくのだ。自信、自己満足で自我は腫れ 上がっている。こんな者を柔和な者に、自制あ り、謙遜な者に変えられるのは神の奇跡。 周囲の人を用いて砕かれる。
2003年01月15日(水) 「おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう」(ガラテヤ6:4)
「おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう」(ガラテヤ6:4)
もし、兄弟が過ちに陥ったなら、柔和な心でその 人を正してあげるべきだ。しかし、私達は何と冷 やかで、きつい語調でその事をすることか。 優しさと受容性に欠け、荒々しい態度を取ってし まう。真に自分自身が悔いくずおれ、主の前に ひれ伏した事がないためである。自らの罪が 神の光に照らし出され、罪の恐ろしさにおののき、 ちりに伏した事がないからだ。人の欠点はよく見 え、人を断罪し、さばく者であるが、自分の内が 全く見えていない。何と高慢で扱いにくく、頑固な 者か。事が起これば、自己弁護に終始し、自己 主張に際限が無い。いつも失敗している。それ ゆえ、人への対応が出来ない。間に合う、有用 な者とされるために、良心が御言葉の真理に 絶えず目覚めており、機能しているように。
2003年01月14日(火) 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:3)
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:3)
私が・・私の・・、私、私、日常の中にいかに多く の自己中心がまん延している事だろう。ご自身 を無にし、仕える者の姿をとられ十字架の死に まで自分を捨てて従われたお方となんと異なっ ているだろう。主の奉仕の中にさえ、自我が大 手を振り、自分が重んじられないと気が済まな い。すねたりひがんだりの態度をとる。 自分自身の奥深い所ではどうだろう。自我に支 配されていないか。ちょっと批判されると何倍 にも返す。間違いを指摘されると素直に聞けな いで相手への攻撃に出る。悪口を言われると、 腹を立て、なんと自分を守る事にかけては敏感 だろう。これらすべて自我の働きだ。 自分のうちの自己中心が砕かれ、高慢、プライ ド、虚栄心が砕かれて行く時、貧しい、へりく だった心が培われて行く。
2003年01月13日(月) 『イエスは答えて言われた「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」と書いてある』(マタイ4:4)
『イエスは答えて言われた「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」と書いてある』(マタイ4:4)
エデン園で、エバは蛇であるサタンの巧妙な 接近に会い、拒否しないで対話を始めてしまい、 重大な過失を犯してしまった。「主はこう言わ れた」とはっきり言い、御言葉に立たないなら、 重大な危険に身をさらしている事になる。 サタンは神と同等、神以上に自らを置き語って いる。神のいう事は厳しすぎないか、神のよう になって欲しくないから善悪を知る木の実を神 は禁じられたのだと、暗に神に対する正しくな い印象を植え付けようとする。神は一本以外の どの実からでも思いのままに食べても良いと言 われた。しかし、エバはどの木からも思いのま まに、を省いている。サタンに耳を傾け、喜ん で聞いて行った。内にある思いと合致するよう 巧妙に誘惑してくるサタンに立ち向かえ。
2003年01月12日(日) 「人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので私は食べたのです」(創世記3:12)
「人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので私は食べたのです」(創世記3:12)
神が与えて下さった、悔い改めの機会をも、 罪深い性質は逃してしまった。罪を認める どころか、エバを非難し、そのエバを与えた 神を非難しようとする。エバが取ってくれた からと言って、彼がそれを食べる理由など 何も無い。はっきりと、神から食べてはなら ないと命令されていたのだ。彼は何が正しい かを知っており、してはならない命令を知って いた。自分がした事に、正面向き合い、認め、 責任を取る事をせず、他を責め、言い逃れ をする。これこそ、罪の性質だ。罪は分裂 を引き起こし、関係を壊し、敵対させ、憎み 合うようにさせてしまう。罪を憎み、罪から 離れることが神を愛する事だ。罪の性質は 自己中心。自分を守ろうとする時、気づけ るように。聖霊に従えるように。
2003年01月11日(土) 「すると、仰せになった。『あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から取って食べたのか」(創世記3:11)
「すると、仰せになった。『あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から取って食べたのか」(創世記3:11)
神は罪を犯したアダムに悔い改めるよう、取り 扱い導かれる。悔い改めの機会を与えられる。 あなたは取って食べたのかと、問いただされた。 告白を導き出そうとして下さった。明確に、はっ きりと自分の間違いを、犯した罪を認めさえす れば良かった。悔い改めの機会を与えるため に、真正面から問うて下さったのだ。素直に 率直に「はい」と答えれば良かった。しかし、 彼は自分の罪を認める事も、悔い改める事も せず、何とエバに責任転嫁して行ったのだ。 ダビデはバテシバと姦淫を犯した時、預言者 ナタンの指摘に「私は主に対して罪を犯した」 と自らの罪をはっきりと認めた。すると「主も また、あなたの罪を見過ごして下さった」。 正直に罪を認める事、これが神の望まれる事だ。
2003年01月10日(金) 『彼は答えた。「私は園であなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました』(創世記3:10)
『彼は答えた。「私は園であなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました』(創世記3:10)
アダムは、神から取って食べてはならな いと命じられていた善悪を知る木の実から 取って食べ、罪を犯した。罪は、神を恐れ させ、神を避ける者にしてしまう。 神から身を隠そうとさせる。また、罪は、 弁解、言い訳、偽り、欺き、言い逃れの中 に逃げさせる。アダムは神の命令を破った、 神に不従順であり、罪を犯した。しかし、 その罪より罪の結果の方が心配なのだ。 私達も同様だ。神に犯した罪よりも、罪の 結果が恐いのだ。罪を悲しむより、罪の結 果と将来起こる事を思い煩って、不安なの だ。自分を欺かないで、罪をはっきり悔い 改める事に救いがある。愛に満ちた慰めに 満ちた神の御声が、罪を犯したアダムには 恐怖に聞こえた。罪だけが神と私達の間を 妨げる。罪の結果を取り繕うのではなく、 罪を見据えて悔い改めよ。
2003年01月09日(木) 「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを開放したからです」(ローマ8:2)
「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを開放したからです」(ローマ8:2)
飛行機に乗る時、幾らかの人々は不安を感じ る。ある人は、こんな重い物体が飛ぶ事が信じ られないと言う。重力の原理は私達を地球に縛 りつけるが、航空力学の原理に信頼する事によ り、安らかでおれる。多くのクリスチャンは強 い意志の力によって、霊的生活を保ち、霊的成 長を成し遂げようとする。 しかし、罪と死の原理があり、私達を引きずり 落とす。しかし、命の御霊の原理が備えられて いる。それは、自分の内におられる御霊に、自 分自身を委ね、御霊に拠り頼み続けるなら、い のちの御霊の原理が罪と死の原理から開放する のだ。恵みの下にいるなら律法の下にはいない。 自由にされている。意志の力で生きるなら、罪 と死の原理の中にいる。しかし、御霊に委ね、 支配さてれ生きるなら、そこにはいない。
2003年01月08日(水) 「イエスは彼が伏せっているのを見て・・言われた『よくなりたいか』」(ヨハネ5:6)
「イエスは彼が伏せっているのを見て・・言われた『よくなりたいか』」(ヨハネ5:6)
この世では、一般的に言われている。生育歴に 問題があるから、今の自分になった、親の育て 方が悪かった、育った環境が悪かったと。不幸 のせいで、今の自分になった、もっと良い環境 であれば違っていただろうと。しかし、主は池の そばに38年伏せっていた男に言われた「よく なりたいか」。男は不可能な状況をイエスに告げ るが、そういう環境、状況には一切関わらず、 主は「起きて床を取り上げて歩きなさい」と言わ れた。私達は私達にどうする事も出来ない状況 がある。障害がある。その状況に対してどうすれ ばよいのか。主に拠り頼み、主の御声を聞くの だ。主はあなたにご計画があり最善をして下さる。 主の御声を聞いて、主が言われたように行動 するのだ。あなたは変えられ、新しくされる。 自己憐憫と言い訳にとどまる必要はない。
2003年01月07日(火) 「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22:42)
「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22:42)
ある人が言った「私達の多くは、神のみこころ に自分を献げていると思いながら、ずっと環境や 状況に不平不満、文句を言い、戦っている」。 誰もが人生において、様々な悩み、困難に出会う。 しかし、それは神が起こる事を許された問題であ り、悩みだ。神の許しの中で与えられたものを、 私達が受け入れられない事が問題だ。 それで、問題と戦い、環境を変える事に必死にな る。今の問題、今の悩みから何とか抜け出たい。 助け出されるように願う。しかし、神には目的と 計画があり、この悩みの中で私達を変えたいのだ。 良いものも悪いものも、神が与えられるものを受 け入れる時、心はどのような中でも平安だ。 秘訣は神が与えれれるものを受け入れる事だ。 私達は悩みを通して変えられる。
2003年01月06日(月) 「私が自分の走るべき行程を走り尽くし・・福音を証しする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒20:24)
「私が自分の走るべき行程を走り尽くし・・福音を証しする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒20:24)
ある野球少年は、頭は野球の事で一杯だ。 朝も昼も夜も野球、野球、仕事人間は家に 帰っても四六時中仕事の事を考えている。 仕事の段取り、仕事のアイデア、仕事で一 杯だ。あなたが最も情熱を燃やしている事 は何だろう。あなたを熱中させ、思いを注 がせ、時間やお金、労力を費やしても惜し くないものは何か。そのような仕事、娯楽 、趣味、があるか。それは、永遠に照らし 合わせる時、真に価値あるものだろうか。 パウロの目標は自分の走るべき行程を懸命 に走り尽くす事、神の福音を証しする事だ った。パウロの頭と心はその事で一杯だっ た。その目標を見つめ続けたので、成し遂 げた。主に仕える事、これは永遠に価値あ る働きだ。主の事で頭と心が一杯でありた い。
2003年01月05日(日) 「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを・・捨てさりなさい・・神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エペソ4:31)
「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを・・捨てさりなさい・・神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エペソ4:31)
一人の人が職場で、同僚と行き違いがあった。 表面的には黙ったまま、心の中はぎくしゃくして いた。相手を避けていた。相手に対して腹を立て ていた。そのやり方や態度や言葉に。相手が悪い としか思えなかった。家に帰っても、傷ついた言葉 や態度が頭を巡り、繰り返し思い出しては、恨み が募り、堂々巡りしていた。苦々しい思いに、段々 苦しくなり、どうにもできず、神のもとへ駆けつけ 祈った。この思いを赦して下さり、解き放って 欲しいと切に祈った。相手を赦すよう聖霊から語り かけられ、赦す意志を表明、神から赦す心を与え られた。心が軽くなり、喜びが戻り、解放された。 相手はそのままだったが、心が変えられて、こち らから笑顔で話しかけ、接して行くことができ、 関係が修復された。
2003年01月04日(土) 「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)
神がありのままの私達を無条件で愛して下さる、 これがなかなかわからない。神の愛に信頼して 安らぐのでなく、自分の多くの欠けにばかり目が 行き、いつも罪の意識にさいなまれる。ああする なら、こうするなら、自分を変えるなら、何かの 行ないによって、神に受け入れてもらおうとし、 神の愛を得ようとする。無意識にそうしてしまって いる。ある時、その努力に疲れ果ててしまう。いつ も自分は足らず、自分を責めるばかり。そんな 時に主が「わたしのところに来なさい。休みな さい」との御声をかけて下さる。わたしが休ませ てあげるのだと。何と素晴らしいグッドニュース だろう。私達は完全に愛されているのだ。 主の御腕の中で憩えるとは何という恵みだろう。 あなたは受け入れられようと、努力しているか、 それとも憩っているか。
2003年01月03日(金) 「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)
「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)
主に従う事に失敗して、がっかりして、失望落胆 する事があるだろう。失望が一番の大敵だ。実際 神にそむいてしまい、失敗してしまったら、どうや って主に仕えて行けばいいのだろうと思うだろう。 ペテロがそうだった。主が捕らえられた時、ペテロ は三度も主を知らないと否定し、呪いをかけて誓 ったのだ。そんな人は知らないと。自分のした事 に彼は打ちのめされ、男泣きに泣いた。失望落胆 のどん底にいた。主を裏切ってしまったのだ。しか し、主の方からペテロに近づき、ご自身への愛を 確認する機会を与え、回復させて下さった。 再献身の結果、彼は後に教会の指導者として 用いられた。失敗で失望しているだろうか。その 失敗を成長のために用いられる。神の豊かな 赦しを新たに経験させてくださる。もう一度立た せて下さる。
2003年01月02日(木) 「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」(箴言4:23)
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」(箴言4:23)
庭の草抜き、畑の草抜き、草抜きは 大変な労苦だ。野菜の周囲に雑草がの びるのは早い。野菜より早くはびこり、 それを放っておくと大切な作物を枯ら してしまう。小さな雑草の内にどんど ん抜いて行く事だ。私達の心の畑はど うか。雑草を生えるままにしておくと 心が荒らされる。また、苦い根は心を 枯らす。雑草が小さい間に、こまめに 抜き取らなければならない。私達の心 の畑をよく見張り、手入れしなくては ならない。悪い態度の雑草はないか。 妬みや虚栄心、思い煩いの雑草はどう か。御霊の良い実のはざまにはびこる 雑草を見張れ。御霊を締め出してしま うのが、小さな悪い態度、反抗的な態 度だ。御霊を妨げる事のないように、 よく気をつけて心を守れ。
2003年01月01日(水) 「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15)
「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15)
溺れかけた人の話をよく聞く。水の中で、もうパニ ック状態で、助けに来た人に必死でしがみつき、 ジタバタするので、二人共溺れてしまう。そこで、 溺れた人がフッと力が抜けた時に、素早く助ける。 これは時に私達の状況だ。悩みに会い、困難に 会う時、パニックになり、もがき回る。もがけば、 もがくほど深みにはまり、身動きが取れなくなって しまう。自分で何とかしようと、走り回るのだ。 “しかしあなたがたは、これを望まなかった。あなた がたは言った。「いや私たちは馬に乗って逃げよう」 それなら、あなたがたは逃げてみよ。あなたがたの 追っ手はなお早い”事態を更に悪化させてしまう。 なすすべをすべて失い、初めて神に頼るのだ。 神はその間、ずっとそこにおられるのに。神を 無視して何と自分の力に頼る者だろう。神は 助けようと待ち構えて下さっている。