2022年07月31日(日)

「主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名 にほめ歌を歌うことは」詩篇92:1



ある本にこんな例えがあった。サタンが倉庫に様々な「種」を持っ
ていた。これから人々の心に蒔こうとしていた。その中で、一番大
量にあった種は何だろう。その種は「失望」であった。この種が最
もうまく育ち、多くの実を結ばせるのだ。この種が一番効率が良く、
容易に、人々を神から離すことができる。これは非常に強力な種だ。

この種を蒔きさえすれば、後は放っておいても順調に育つ。しかし
この種が、ある場所だけには、何の効き目もない事を、サタンは認
めた。幾ら蒔いても、蒔いても、効果があったためしがない。「そ
れはどの場所か」との問いに、「感謝する心」とサタンは答えた。

「失望、落胆」が信仰者にとって、一番の敵だ。失望させ、心を沈
ませ、気力を失わせてまえば、何も出来ない事をサタンは知ってい
る。逆に「感謝」のある所では、サタンも何もどうにも出来ない。
働けない。サタンの足場が無くなってしまう。良い事だけでなく、
一見都合の悪い事も「すべての事について感謝」する事は力だ。

一見、都合の悪い事は、悪い事ではない。信仰に立つと、そこから
逆転、素晴らしい祝福に繋がっている。ある人が苦しい状況に陥っ
た。しかしまず感謝して、感謝をし続けた。すると「御心に従った
のに、なぜ?」「主は助けられるのに、なぜ?」の思いが消えた。

状況はそのままだが、心に平安が臨んだ。やがてその事態は導かれ
て行った。疑いやつぶやきの、サタンの罠にはまらず、感謝を選ぼ
う。これは選択だ。

・・・・・・・・・・・・
がっかりし、落胆してしまうと、祈る力がそがれてしまう。気力が
萎えて、失せてしまうと祈る事も、御言葉に向かう事も出来なくな
る。サタンの思うつぼだ。逆に感謝する事には、大きな力がある、
気力が湧き、祈りが天から与えられる。感謝を献げて行こう。


2022年07月30日(土)

その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつ がいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのももの つがいがはずれた」創世記32:25



ヤコブは、兄エサウと父をだまして、祝福を奪い取った。欲しいも
のを手に入れる、ずる賢い人物であった。だが主は、そんな自我の
強いヤコブを愛しておられた。その自己中心を砕くために、主はヤ
コブを訓練された。ヤコブを、更に狡猾な伯父ラバンのもとに置か
れた。ヤコブを砕くためであった。

私たちの前に置かれる対人関係は、主の配剤だ。難しい、苦しい対
人関係を通して、私たちを砕かれ、練られる。兄をだましたヤコブ
は、ラバンにだまされる事になる。蒔いたものは刈り取る事になる。
ラケルとの結婚のために7年働いたが、レアを与えられ、更に7年
働く事になる。辛く苦しい厳しい日々であった。

ラバンのもとで多くの訓練を受ける。やがて神の時が来て、故郷に
帰るように示される。神が定められたなら、ラバンも止める事が出
来ない。帰郷に際し、兄の怒りを恐れて足がすくみ、恐怖で震えた。
皆殺しにされるかも知れない。恐怖がどうにもならない。

ヤボクの渡しで神の取り扱いを受ける。御使いと格闘し、もものつ
がいをはずされた。一番力のあるその所を砕かれた。もう自力では
歩けず、杖にすがりついた。つまり、神に頼らなければ、一歩も歩
めない。肉の知恵と力を駆使して生きて来たヤコブが、神無くして
一歩も歩めないようにされた。

今、私たちも取り扱いの中にあるなら、神の恵みによって生きる者
に変えられ、大きな祝福に入れられる。

・・・・・・・・・・・
肉はどこまでも狡猾だ。主が取り扱って下さらなければ、自分が自
分に欺かれてしまう。主は、キリストのかたちに変えようと、目の
前に様々な事柄を置いて、砕いて下さる。自分視点でなく、神視点
で見る時、あの事も、この事も、と気づかせて下さる。


2022年07月29日(金)

「わたしは彼らを贖おうとするが、彼らはわたしにまやかしを言う」 ホセア7:13



イスラエルの民は、主に向かって心から叫ぶことをせず、ただ、床
の上で泣きわめいていると。主は、どんな中も民を愛し、見守り続
けておられるにかかわらず、民は主に向かわない。そして自分に都
合の良い時だけ、利得を求めて、主に近づいた。

「彼らは、穀物と新しいぶどう酒のためには集まって来るが、わた
しからは離れ去る」。主には関心がなく、主を利用してでも、穀物
や新しいぶどう酒が欲しい。自らの欲を満たしたい。しかし主は、
何よりも愛する民の心を求めておられ、主に向かい、主を知ること
を求めておられる。

「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえよ
り、むしろ神を知ることを喜ぶ」と。私たちはどうだろう。何か困
難が起きた時、主に向かうのでなく、自分の力で、何とかしようと
してしまう。頭は素早く巡り、あれやこれやと人間的な方法を画策
する。

人に相談したり、様々な機関を回ったり、動き回り、あらゆる方法
をやってみる。だが、主に向かうこと、主に叫び求めることは回避
する。まさに主が求めておられる事、必要な事は、主に叫び求める
ことだ。「わたしからは離れ去る」とあり、主以外のものは、何や
かや求めるのに、主には求めない。

私たちはどうだろう。主に向いて、主に求めることをせず、ただ床
の上で泣きわめき、自己憐憫に陥っているだろうか。主は、何より
も主に向かい、主を知ることを喜ばれる。主に向き、主と交わろ
う。
主に心の内を語り、主の御声に耳を傾けよう。御霊の喜びが来る。
------------
主に祈りながらも具体的には自分が動いてしまうからいつまでも思
い煩いは消えないのではないだろうか。主ご自身に向き、主ご自身
を求める生活をしよう。主が応えてくださる。


2022年07月28日(木)

「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが 書かれのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするため です」Tコリント10:11




人は皆、必ず失敗をするものだ。どんなに注意していても、人間で
ある限りミスしてしまう。完全無欠ではないからだ。あなたも、自
分がまさかと、信じられない失敗をした事があるだろう。大切な事
は、罪は悔い改め、赦しを受け取ることだ。そしてその後は、落ち
込むのではなく、その失敗から「学ぶ」事だと。

何度転んでも、また立ち上がって、再び、主に従って行くことだ。
幸せな結婚生活は、夫婦の互いの努力の上に成り立つ。自己中心を
捨てて行く歩みだ。夫婦間の努力なしに築けない。双方で建て上げ
て行く努力が大切だ。又、友人関係も同様だ。互いに従い合い、思
いやり合い、自分を捨て、日々学び、築き上げて行くべきだ。

ペテロは人生で大失敗をした。自分だけは大丈夫、命をかけても主
に従うという決心が、試みの前に、もろくも崩れ去った。呪ってま
で主を裏切ってしまった。しかし見事に回復され、主の証人とさ
れ、
後に殉教した。ダビデも大きな失敗をした。しかし人生が終わった
のではなかった。

ダビデも罪赦され、回復させられた。私達も皆、信仰が試される。
時に失敗してしまう。しかし失敗で落胆し、絶望する必要はない。
どんな状態であれ、やり直す事ができる。そのための主の十字架
だ。
悔い改めてそこから学ぼう。

主がペテロにしたと同様に、あなたを再び建て直し、人々のため
に、
砕かれた者を豊かに用いられる。いつも恵みは十分だ。失敗を通し
て、自分の知恵や力で歩む愚かさを思い知り、主に拠り頼む者と変
えられて行く。
------------
何度も失敗しその度に悔い改め、主の恵みをさらに深く体験してい
く。自分を頼りに突っ走りそうになるとき、立ち止まる知恵も与え
られた。主を仰ぎ、主に明け渡せるよう少しずつ変えられていく。


2022年07月27日(水)

「天の下では、何事にも定まった時期がり、すべての営みには時が ある」伝道3:1



祈りに関してどうだろう。祈り続けるのだが、祈っても祈っても答
えられない経験があるだろうか。真剣に熱心に祈っているのだが、
答えが来ない。しかしそれを通して、祈りの答えには、「神の時」
があるという事を学ばせられる。

「神のなさることは、時にかなって美しい」。神が目的をもって、
時を遅らせておられる。御心にかなっていないのでなく、御心であ
るが、神が最善の時機を定めておられる。私たちが思う「時」と、
神の「時」は、しばしば異なる。神のタイミングは、神の栄光が最
高に現わされる時だ。

私たちは、時に「今こそ」その時、と思うが、神のみ思いは更に高
く、深い。ラザロが死に直面していた時、マルタとマリヤはどんな
に主を待った事だろう。主なら病気をいやす事が可能だ。一刻も早
くと、今か、今かと待ち続けた事だろう。しかし、主は動かれなか
った。尚も二日もとどまられた。

そしてラザロの死を確認してから動かれた。主の御心は病気を治す
事ではなく、ラザロをよみがえらせる事であった。「もう臭くなっ
ておりましょう。四日になりますから」。墓に葬られた上、四日を
経て、もう腐敗しているという、ダメ押しのもとで、主は奇跡をさ
れ、ラザロをよみがえらされた。最も栄光が現される「時」であっ
た。

あなたも、御心を確信して祈っているなら、答えが来る「時」があ
る。すでに聞かれていると信じ、神の時を待ち望もう。「万軍の主
は誓って仰せられた。『必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、
わたしの計ったとおりに成就する』」主の御心は必ず成就する。
---------------
今だと思った時に事が成らなければがっくりと落胆するが、神のも
とにへりくだり時を待つことを学ぼう。少しの無理もなく鮮やかに
門が開く神の時が来る。ただ主の栄光に賛美をささげる時だ。


2022年07月26日(火)

「あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた 者である』と私が言ったことの証人です」ヨハネ3:28



ヨハネの弟子達が、ユダヤ人ときよめについて議論した。その時、
ヨハネの弟子達は痛い所を突かれた。それでヨハネのもとへ来て、
主イエスがバプテスマを授けておられ、皆がイエスの方へ行くと、
告げた。弟子たちには党派心や、やっかみがあったようだ。

主イエスが人々に好かれ、どんどん人気を博する事に、自分たちの
師と比較して、いら立ち、嫉妬した。人との比較は、必ず劣等感と
優越感を生み出し、上がったり下がったり、その間を行ったり来た
りする。優越感があるのは、底に劣等感があるからであり、又、劣
等感があるから、優越感に浸りたい。

それらは表裏一体だ。その根は高慢から来ている。議論をして、彼
らは、イラ立った気持ちを、そのまま師のヨハネに持って行った。
「みな、あの方の方へ行く」と、まるでヨハネを責め、師をあおる
かのようだ。ヨハネの方が、更に嫉妬心が生じるかも知れないの
に、
しかしそうではなかった。

ヨハネは心底へりくだっていた。「人は天から与えられるのでなけ
れば、何も受けることはできない」と。へりくだっている人を、人
もサタンも、どうにも出来ない。成功も、栄誉も、人気もすべては
主から来る。その事を受け止め、認める時に、嫉妬や、競争、劣等
感から解放され、守られる。

賜物が違い、使命が違い、用いられ方が違い、一人一人が皆、違
う。
違うのだから比較ができず、意味をなさない。すべての主権者は主
だ。主を仰ぎ、主から与えられるものを受ける時に、人は全く関係
なく、自分自身は真の満足と平安がある。
------------
人との比較でイラ立ったりさみしく思ってしまう自分をなかなか認
められない。素直に認める時に、主が与えてくださる真の満足と平
安は何一つ変わらないと気づく。謙遜になりいつも感謝していた
い。


2022年07月25日(月)

「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は 見えるということです」ヨハネ9:25



主は、盲目なら罪は無かったが、「見える」と言うから「罪は残
る」
と言っている。安息日に病気の手当をするなら、仕事と見なされ、
パリサイ人達は、主が律法を守らないと断罪した。「安息日を守ら
ないのだから、神から出たのではない」と。彼らは神の言葉でな
く、
人の言い伝えの方を大切にした。

そのため盲目であり、神の言葉が見えず、わからない。主は「わた
しは、さばきのために来た。見えない者が見えるように、見える者
が盲目に」と。パリサイ人は「では、私達は盲目なのか」と不快感
をあらわにした。もし、そこで彼らが「見えない者です」と言えた
なら、大きな恵みと祝福にあずかれたろう。

しかし彼らは、自分たちは見えると思い、盲目である事を認めず、
自らの間違いを認めなかった。私達はどうだろう。目に見えない世
界を見るために、まず自分が盲目である事を知る必要がある。そし
て自分は見えていない者だと認める事だ。それはへりくだらなけれ
ばならず、これが最も難しい。

認めるためには信仰が要る。「見えていません」と認めた時に、主
が見えるようにして下さる。「目の見えない者が見えるようにな
り」
と。主ご自身が盲人に近づかれて「信じるか」と問われ「その方を
知りたい」と彼が願った時に、「あなたと話しているのがそれだ」
とご自身を現わされた。すると「信じます」と言い、主は、彼の霊
の目も開いて下さった。
------------
見えていると思う高ぶりが目を覆ってくる。主に救われ義とされた
者がいつの間にか自分を主張し主の恵みを無駄にしてしまう。霊の
目を日々新たに開らかれ、大切なものが見えるようになりたい。


2022年07月24日(日)

「神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾で あった」創世記3:1


サタンは非常に狡猾だ。「野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であっ
た」と。最も狡猾なのは、光の御使いに偽装することだ。光の御使
いに偽装とは、良いものに見せることだ。神に変装し、クリスチャ
ンに変装し、聖書的、信仰的なものに変装する。

ストレートな罪ならわかりやすい。殺人、暴力、泥酔、妬み、憎し
み、種々の欲望・・。だが光の御使いに、神に変装する。一見善い事
なので紛らわしい。主のもとにも、サタンは、御言葉をもってやっ
て来た。主が荒野で、サタンの誘惑を受けた時に、御言葉によって、
サタンに対抗された。するとサタンも同じく御言葉を持って来た。
「〜と書いてありますから」と。御言葉を曲解して来る。

ある人は、弱っている時に御言葉に向かうと、御言葉が自分を責め
立てて来ると。自分は出来ないので、苦しくなって、聖書を閉じて
しまう。「サタンですよね」サタンが御言葉を使って来る。恵みを
排除し「ねばならない」で攻撃して来る。どんどん苦しくなる。

神が、要求ばかりする、罰とさばきの神になる。又、サタンはしつ
こく誘惑して来る。執ように弱さにつけ込んで来る。誘惑し続ける
事によって、ついにサタンはダビデを罪に引き込んだ。ダビデは誘
惑され人口調査の罪を犯してしまった。

「サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イス
ラエルの人口を数えさせた」絶えず主に拠り頼んで祈っていよう。
天国へ行くまでは、霊の戦いだ。御霊がサタンに気づかせて下さる。
祈りにより、わからせて下さる。

・・・・・・・・・・
サタンは狡猾で、何より偽り者であり、偽りの父だ。常にだまして
来る。真理の中に嘘を混ぜて、狡猾に欺く。しつこく〃来るのも特
徴だ。逆にその度に、主にしつこく頼ろう。すでに勝利していて、
天でも地でも、すべての権威を持つ方が共におられる。


2022年07月23日(土)

「彼らは風を蒔いて、つむじ風を刈り取る。麦には穂が出ない。麦 粉も作れない。たといできても、他国人がこれを食い尽くす」ホセ ア8:7


北王国のヤロブアムは、今のままなら、民は自分を殺し、ダビデの
家に帰り、ユダのレハベアム王のもとに帰るだろうと、恐れた。そ
こでエルサレム神殿に上る必要はないように、何と二つの金の子牛
を作り、その偶像をベテルとダンに置いた。しかし、主が、彼らの
作った金の子牛をはねつけ、怒りを燃やすと。サマリヤの子牛は
粉々に砕かれると。これはアッシリヤの侵攻により、粉々に砕かれ
た。

「彼らは風を蒔いて」とあり、偶像礼拝は「風」を蒔くことだと。
風を蒔いても、虚しく、何の結実も無い。種を蒔くなら、芽が出て、
必ず結実するが、風は虚しいだけだ。クリスチャンになると、子牛
や、木や石の像を拝む事は無いが、心の偶像はどうだろう。

形は信仰者だが、実は大切なものを握りしめ、実際は主ではなく、
偶像を大切にしているなら、実を結べない。もし、どんなに努力し、
忙しく動き回っていても、風を刈り取ることで、虚しい働きであり、
何も残らないと。

風を蒔いても「穂が出ない」「麦粉も作れない」と言っている。
「偶像を捨て去り、すべての忌みきらうべきものをあなたがたの前
から遠ざけよ」と言われ、偶像を捨てるようにと。偶像を持ったま
までは、御霊の実を結ぶ事がなく、自分が変えられて行くことがな
い。まず御霊に自らの心の内を照らして頂こう。豊かな実を結ぶ者
へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
クリスチャンにとって、木や石や様々像などは、決して拝まないが、
そういう形ではない偶像がある。富、人、自己実現、人からの評価
等、心で愛するものを御霊に示して頂こう。虚しくない、実を結ぶ
生涯とされたい。示して頂いて、従って行きたい。


2022年07月22日(金)

「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊か に蒔く者は、豊かに刈り取ります」Uコリント9:6


喜んで与えること、献げることは大きな祝福だ。この祝福を妨げ、
奪うためにサタンは必ず狙って来る。古い性質には、自我があり、
執着心があり、所有欲のため、なかなか献げられない。ある人は
「前もって用意」5´するよう示されていた。

銀行で下ろす予定が、多忙で後回しになり、時を逸した。礼拝で手
持ちを献げるよう、御霊の促しがあったが、渋った。すると帰路で
車のトラブルに会い多額の出費が必要に。ある時も御霊の示しがわ
かったが、家計の不安をあおるサタンの声に従ってしまい、献げら
れなかった。

その帰途、交通違反で罰金に。主の直接の関与に、放っておかれな
事が嬉しかったと。別の人は困窮状態のため祈り求めていると、献
げるよう示され、示しに従い信仰によって大胆に献げた。すると、
思いもかけない所からすべての必要が与えられ満たされた。身をも
って従う事の祝福を知った。

肉は、神第一でなく、自分の必要が第一になってしまい、自分の損
得で動いてしまう。献げるより、得る事に喜びを感じる。しかし、
新しい性質は、損得でなく、主の御心が判断基準だ。例え損になっ
ても、主に従い、御言葉に従う。そして大いなる祝福を刈り取る。

献げる時、必ずサタンが妨害して来る事を覚えよう。御霊の示し
に、
信仰により従う時、新たに主の愛を知り、喜びが満ちる。そして更
に祝福が増し加えられる。
------------
主はすべての物を豊かに与えて日々楽しませてくださっている。持
っている富ではなく、与えてくださる主に望みをおいて、自分に与
えられている恵みを豊かに献げよう。


2022年07月20日(水)

「もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人 の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい」 ヨシュア17:15



イスラエルが、主の約束の地カナンに入り、部族ごとに土地が分割
された。その中でヨセフ族が、リーダーのヨシュアに不満を言っ
た。
自分達には「なぜ、ただ一つの割り当て地しかないのか」と。その
時、ヨシュアは、森に上り、敵と戦い、自分で土地を切り開けと答
えた。実際は、ヨセフ族には、広大な土地が与えられている。

しかし不満しかない。カナン人を追い払わずに、きちんと占領しな
いので、カナン人も彼らの土地に住み通した。私たちにも、主は、
与えられた地を占領せよと言われ、しっかり占領する必要がある。
余りにも恵みが大き過ぎて、その恵みがわからず、価値に気づかな
い。

それゆえ、それを受け取り、生かして行く事をしない。ましてや不
満は尽きるところ知らず、貪欲に流されて行く。何の求めも労苦も
なく、降って与えられると、その有り難みがわからない。だから、
それを心から感謝して、生かして行く事が出来ない。

私たちもどうだろう。与えられた大きな恵みに感謝もなく、不満だ
らけで、満足が無いので、もっともっと、と欲望に支配され、更に
得ることを欲する。方向違いであり、これは心の問題だ。恵みがわ
かると、主が与えて下さったものを感謝し、尊び、大切にし、保
ち、
生かして行こうとする。

それが占領するという事だ。その時感謝が溢れる。今ある恵みはす
べて主からのものだ。今一度、しっかり主の与えて下さっているも
のを、受け取り直そう。
------------
祈って与えられた望みや願いは、手にしたとたんに小さな恵みに見
えてくる。なんと不信仰な者だろう。いつも主に留まって今の恵み
に最大の感謝を主に献げていこう。


2022年07月19日(火)

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」 箴言19:21



計画を立てる事が悪いのではない。行き当たりばったりでなく、雨
の日のために備える事や、予定を立てて行動する事は必要だ。だが
立てた計画がその通りに実現しない事も、しばしば経験する。順調
に行っていた中、突然、目の前で道が閉ざされる事がある。自分は
この道へ行きたいのだが、主からの「ノー」を突き付けられる。

非常に辛く思うが、入試や、就職試験や、進路、様々な事柄で経験
する。それで、自分の願いとは違う方向へ向かう事になる。思いと
は違うので、がっかりするかも知れない。しかし主には、綿密な計
画がある。自分の願いが、主の御心とは違っていたので閉ざされ
た。

そこで腐らずに、主を見上げ、主が開かれた道に進む時、主の御心
が成し遂げられて行く。ある女子は、念願の志望校が不合格だっ
た。
ひどく落ち込み、しかし主を見上げ、主に従い、二次の高校へ入学
した。

だがそこでは必要とされ重んじられ、学級代表、生徒会長と活躍
し、
思ってもみなかった聖書研究の会を開く事ができた。教会へ繋がり
救われる魂が起こされて行った。ある男性は医師を志し、卒業し、
さあこれからという時に、重い病に倒れた。意気揚々と希望に溢れ
た中の、挫折だった。

失望落胆し、心は真っ暗になった。だが、主を仰ぎ、信仰により支
えられた。数年間の闘病とリハビリも経て、とうとう復帰へと導か
れた。ただただ主に感謝しか無かった。そして何よりも患者の気持
ちを少しでも理解できる者にされた事に、心からの感謝が溢れた。
------------
順調に事が運んでいるとわからなかった事を主は教えてくださる。
全ては主のご計画の中であり、主の導きの先に大きな祝福が備え
られていたと。それは思いをはるかに超えた祝福だった。


2022年07月18日(月)

「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しな さい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいま す」ピリピ4:9



ある人の証しだ。職場の異動で、別の部署に移った時のことだっ
た。
最初は新しい仕事の対応に必死だったが、日を経て慣れて来ると、
目が周囲にも向き、ふと一人の人が、自分に対して、冷ややかな態
度である事に気づいた。何かトゲがあって、自分を良く思っていな
いようだ。

仕事上、色々と関わりがあるのだが、そっけない対応で、挨拶をし
ても、返してもらえなくなった。そして見ていると、他の人々には
愛想良く接していて、自分にだけ無視状態だった。しかし自分はク
リスチャン、挨拶が返らなくとも、こちらからは挨拶し続けてい
た。

何だか心が辛く、この事を、主のもとに祈りに持って行き、祈り続
けていた。そんな祈りの中で、ある事に気づいた。自分はその分野
の専門的知識があり、前の部署での知識もあり、皆が、自分の所へ
聞きに来ていたが、それが面白く無かったのではないかと。

翌日、やはり無視されたが、主に示されていたので、彼女に感謝を
伝えた。事実、最初に丁寧に教えてもらったので、今、自分は仕事
が出来ている。教えてくれたのは彼女だったし、本当に感謝してい
たからだ。すると彼女の表情が一変し「いえいえ、そんな事ないの
よ」と。

それ以来、わだかまりの無い関係になった。問題には、まず祈っ
て、
主の導きを待ち、示しに従う時、主が働いて下さるのだと、身をも
って経験できた。
------------
主の恵みと正しさを信頼し、従っていく人生は何と感謝だろう。自
分ではできない事も主が平和に解決してくださる。ただ主の委ね、
導きに従おう。自分の心に主が平和をくださる。


2022年07月17日(日)

「イエスは彼に言われた『帰って行きなさい。あなたの息子は直っ ています』その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途につい た」ヨハネ4:50



王室の役人が、カペナウムから主のもとに訪れた。ヘロデ王の宮廷
官吏で、地位も名誉も財もすべて持っていた。だがどうにも出来な
い事態が生じた。息子がもう危篤状態であった。人脈も財もあった
が、どんな医者も直せなかった。もう死にかけている。主の噂を聞
き、この方なら何とかして下さるのではと、30キロの道のりを必死
の思いでやって来た。

息子の癒しを願うも、主は「あなたがたは、しるしと不思議を見な
いかぎり、決して信じない」と言われた。「あなたがたは」であり、
彼だけでなく周囲の人々への言葉でもあった。ただ奇跡を見て喜ぶ
のではなく、その奇跡により、主が救い主である事を信じ、主に信
頼する事を求められた。

彼は、続けて癒しを願い、「主よ」に変わった。すると主は「帰り
なさい。あなたの息子は直っている」と。彼は、主が言われた言葉
を信じた。それで主をお連れするのでなく、帰途についた。彼にと
って、主を信じる信じないなど、問題でなく息子が直る事だけがす
べてであり、それだけが関心事だった。

しかし主は、そんな彼を信仰へと導かれた。御言葉に従い帰ると、
途中でしもべから息子が直った事を聞いた。それが、主の言葉を聞
いた同時刻である事を知り、彼も彼の家族も皆、信じた。息子の危
機により、一家を主を信じる信仰へと導かれた。私たちも御言葉に
従う時に、みわざを見る。そしてその度に信仰が強められて行く。
示された言葉に従おう。

・・・・・・・・・・・・
目の前の深刻な危機を何とかして欲しい、助けて欲しい。そんな時
の関心は、ただただその困難が無くなる事だ。しかし、主の関心は、
信仰を与えて下さる事だ。振り返ると、試練の度に、信仰を培い、
主を信じる信仰を少しづつ強めて下さった事を知る。、


2022年07月16日(土)

「ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜ん で耳を傾けていた」マルコ6:20



ヘロデは、ヨハネを殺害してしまった。ヨハネを正しい人と恐れ、
保護していたにかかわらず殺してしまった。なぜだろう。「王は非
常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、人々の手前もあって」とあ
り、ヘロデは、自分はヨハネを正しいと知りながら、人目を恐れ、
気にして、ヘロデヤの娘の言う事を聞き入れ、ヨハネを殺してしま
ったのだ。

ヨハネの語る言葉を聞いていながら、周囲に自分の立場と体面を保
つために、抹殺してしまう。ヘロデは、神の言葉を喜んで聞くだけ
で、御言葉に応答し、悔い改める事はなかった。又、御言葉に従う
事もなかった。ヘロデには権力があり、娘の願いを退ける事もでき
た。それなのに娘の言う事に従ってしまった。

ヘロデはメンツのため、神でなく人を恐れた。体面を繕う事が大事
で、最優先だった。私たちはどうだろう。人の目を自分が思う以上
に意識しているものだ。人への恐れから、方向を誤ってしまう。そ
れは主の言葉を喜んで聞いていながら、従う事をさせない。人への
恐れは、根深く培われている。まず気づきから始まる。

ヘロデは御言葉を喜んで聞いていたが、悔い改める事はなかった。
御言葉を聞いてはいても、示しに従わないなら、実を結ぶ事がない。
ピラトも主が正しいとわかっていたのに、保身のために、主を十字
架へと追いやった。御霊の示しに従おう。成長して行く事ができ、
豊かな実を結んで行ける。喜びが与えられ、主の祝福にあずかる。

・・・・・・・・・・
人を気にし、体面を繕って行くと、主から離れてしまう。主を見る
目が、人を見て恐れてしまう。祈っていよう。又、御言葉を聞くだ
けで終わるなら、自己満足で終わる。聞いて、示された事を行なえ
るよう、助けを求めて祈ろう。示しを一歩行えるよう祈ろう。


2022年07月15日(金)

「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上 では、あなたのほかに私はだれをも望みません」詩篇73:25



詩篇記者は、悪者が富を増し、安らかそうで、繁栄するのを見て、
落ち込んだ。彼らは楽しそうで、豊かで肥え太っていて、あぶらぎ
っていて、何の苦しみのなさそうだ。それに引き換え、神を信じて
いる自分は惨めで、苦しみばかりで、何の良い事もない。

この足はたわみそうで、歩みは滑るばかりだと。どうして神を信じ
ない悪者が栄えるのかと。しかし教えられた。それは「私が誇り高
ぶる者を妬んだから」だと、自らの妬みから来ていた。そして、そ
の妬みは、人との比較の中から来るのであり、主を見上げるのでは
なく、主を見失い、人を見ていたからだった。

信仰生活で、平安や喜びが失せるのは、状況の問題ではなく、主以
外のものを見て、主から目が離れるからだ。主以外のものが第一に
なっていて、その底に、富への欲や、人からの賞賛を求め、それを
愛する心がある。それが人への羨望になって出る。

それは、主に焦点が合っていないので、その結果、様々な不平不
満、
愚痴、イラ立ちとなってしまう。心に平安がなく、虚しい。しか
し、
彼は聖所に入った時に、光が臨んだ。心がすさみ、悶々状態の原因
は、目の前の状況ではなく、主と自分の関係にあるとわかった。

主から離れているから、喜びも平安も無いのだと。今、もし平安が
無いなら、目の前の問題のせいと思うかも知れないが、それは関係
が無い。心が、主以外に向いていないだろうか。逆に、どんな困難
な中でも、主を見上げ、主との交わりにいるなら、心は不思議な平
安に守られる。
------------
聞く声も応える声もないように思えるとき、主に近づき主に祈ろ
う。
主は、今日も変わらず導き守っていてくださっている。今を主に感
謝し賛美していこう。


2022年07月14日(木)

「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を 自分よりまさっていると思いなさい」ローマ12:10



この後に「喜ぶ者と共に喜び」と出て来る。“作り笑い”はできる
が、“作り喜び”はできないと言われるように、笑顔は作れるが、
喜びは自分では作れない。喜んでいる振りをしても、喜びがあるか
無いかは自分が知っている。

ある人が、親しい友人と受験勉強も共にして、受験になった。する
と友人は合格、自分は不合格だった。落胆で、心は真っ暗だった。
起き上がる力も無かった。そして、どうしても友人の合格を喜べな
かった。羨ましいばかりで辛いものがあった。だが心に平安は無
い。

自分はクリスチャンで、このままで良いはずはない。辛くて、「喜
べません。助けて下さい」と主に祈った。心底からの祈りだった。
その時、不思議だったが、感情は伴わなかったが、お祝いを言おう
と思えた。心が変えられた。

「おめでとう。良かったね」とだけだったが、伝えた時、相手が驚
いて、特別嬉しかったと喜んでくれた。主の証しになったようだっ
た。暗かった自分の心も平安になり、御霊の喜びが与えられた。そ
して翌年、自分も合格が与えられた。

喜ぶ者と共に喜ぶ事が、特に難しいと言われている。どうしても妬
みや羨望が来るからだ。しかし主は、必ず自分にも良くして下さ
る。
自分にも、必ず良いものを下さり、祝福して下さる、その主を信じ
る時に、御霊の助けにより、喜ぶ者と共に喜ばせて下さる。
----------
自分をおいて人が幸せになると素直に喜べない者だ。けれど主に十
分に愛されている自分ではないか。御霊に従おう。主に委ね、主に
あってともに喜びあいたい。


2022年07月13日(水)

「祈っているとき、だれかに対して恨み事があったなら、赦してや りなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたが たの罪を赦してくださいます」マルコ11:25



祈る時、すでに受けたと信じて祈るように言われている。信仰によ
り祈るなら、素晴らしい約束が与えられている。祈った通りに得る
と。だが、次が続いている。「誰かに恨み事があったら赦してやる
ように。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがた
の罪を赦して下さると。

赦す事が強調されている。赦さない心は、まず祈りをしゃ断してし
まう。赦せない思い、恨みや憎しみがあると、祈れなくなってしま
う。主があなたを赦して下さったのだから、恨み事のある相手を赦
すようにと、言われている。

私たちは、しょっ中、失敗する者だ。しかし主は、常に豊かに赦し
て下さっている。罪を犯さないのではなく、罪は犯してしまうが、
赦されて赦されて生きている。赦されているのだから、私たちも赦
すべきだと。でなければ、主と私たちの間に、へだたりができてし
まう。そのため確信をもった祈りができない。

あなたも経験あるだろうか。ある人が、切実な必要があり、神の御
前に出て祈っていた。だが、幾ら祈っても答えが与えられない。す
ると祈りの中で、ある人に対し、恨みと敵意、苦々しい思いを持ち
続けている事を示された。これが祈りを妨げている事がわかり、御
前に心から悔い改めて、赦した。赦す事ができた。

その後、見事に祈りの答えを見たのだった。赦さない心は、祈りを
さえぎってしまう。答えを受け取るために、隠れた恨み、赦さない
心がないか、御霊に探って頂こう。その時、悔い改めることができ
る。又、赦すことができるよう、助けを求めて祈ることができる。
------------
どうか祈りを聞いてくださいと祈り、また様々な罪の赦しを祈る。
赦せない思いが顔を出すときは、赦せるようにと祈る機会ではない
か。ご誠実な主との信頼関係の中で祈りたい。


2022年07月12日(火)

「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るた めに、目標を目ざして、一心に走っているのです」ピリピ3:14



よく「他人と過去は変えられない」と言われるが、自分の過去のあ
れこれを思っては、くよくよ悩む事があるだろうか。普段は目の前
の事に追われて、忘れているが、何かがあると、過去の失敗、過
失、
傷がよぎり、思い出されるだろうか。

フラッシュバックし、心沈み、重苦しくなり、落ち込んでしまう。
悔い改めたその事は、主の十字架の血潮により、すでに完全に赦さ
れている。にかかわらず、ほじくり出しては悶々とする。大きな失
敗やミスを、もしあの時、この時、別の選択をしていたら・・、違
う対処をしていたら・・と引っ張り出しては悶々とする。

又、逃したチャンス、判断ミス、あの時ああで・・、この時こうな
ら・・人生は違った結果であったろうにと・・堂々巡りをする。だ
が、もし主が、あなたに別の道を歩ませようと思われたなら、その
時、そう出来なかっただろうか。この事を信じ、認めているだろう
か。

心の奥に、とがめや不安があるなら、前に進む事ができない。感謝
と喜びが奪われてしまう。過去のその所に主を認めよう。「わたし
は、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない」と、
主は宣言されている。罪の全き赦しを受け止め、感謝しよう。主の
摂理と御心を認め、信仰もって受け入れよう。

パウロはこの一時に励んでいると言った。それは、後ろのものを忘
れ、一途に前に向かって進んでいると。主の赦しと摂理を受け止め
る時に、ひたむきに前進して行ける。新しい歩みに進んで行ける。
そして主の栄冠を頂くために走ることができる。
------------
私達は主の赦しと恵みを受けて、どんな時にも喜んで前進していけ
る。過去にひっぱられるとき、主に助けを求め、解放されたことを
信じ貫こう。後ろのものを振り返らず前に進もう。


2022年07月11日(月)

「そこでパウロは大声で、『自害してはいけない。私たちはみなこ こにいる』と叫んだ」使徒16:28



福音宣教ゆえの迫害で、パウロとシラスが捕らえられ、投獄され
た。
着物をはいで何度もむち打たれて、足かせと共に暗い冷たい牢獄
だ。
むち打ちで、身体に激痛が走る。その中で彼らは、真夜中に、何と
「神に祈りつつ賛美の歌を歌って」いた。すると他の囚人たちが
「聞き入っていた」。

心を傾けて、じっと聞いていた。その悲惨な状況で、不平不満も、
イラ立ちやつぶやきもなく、湧き上がる賛美に、囚人たちは見た事
のない、この世のものとも思えないものを見た。ただ者ではない
と。
そんな中、大きな地震が起きて、戸が壊れて全部開き、鎖がはずれ
てしまった。

自由に逃げる事ができたのだが、だが誰一人として逃げず、彼らに
従った。強く心が捉えられ、引き寄せられた事だろう。なぜこんな
苦しい、悲惨な状況で、平安に賛美できたのだろう。パウロとシラ
スが、主に信頼していたからだ。むち打たれた事も投獄も、人や状
況でなく、そこに主を認め、主のご計画を信じたからだった。

今はわからずとも、主の最善がなされていて、必ず祝福に至り、主
の栄光を現して下さる事を信じた。彼らの信仰であり、主を信じて
いたので、感謝する事ができた。そんな彼らが、囚人たちへの証し
となり、それは看守の救いへと至った。

当時、囚人を逃がしてしまうと死刑だった。それで囚人が逃げたと
思った看守は自害しようとした。そんな看守の命が救われ、たまし
いが救われ、家族揃って救いに入れられた。大きな喜びの実を結ん
だ。
------------
どんな状況にも主を見上げて賛美をささげる信仰を学びたい。自分
の問題だけにうずもれず周囲に心を配る恵みにも与れる。主の最善
を信じて賛美をささげよう。


2022年07月10日(日)

「・・それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前 のようではなかった」Tサムエル1:18



当時、イスラエルは士師の時代で、霊的には、暗黒状態であった。
人々は主の目に悪を行ない、主を無視して、めいめい自分が正しい
と見える事を行ない、つまり自分勝手に歩んでいた。主は、その暗
闇時代に、霊的指導者を起こそうとされた。そのために協力者が必
要であり、主はハンナを見い出し、見込まれた。

「主がハンナの胎を閉じておられた」とあり、そのため胎を閉じ、
ハンナの祈りを引き出そうとされた。ハンナは不妊の辛さ、ペニン
ナによるいじめ、周囲の偏見による苦しみ、ハンナは募る辛さと苦
しさに主に向かい、心を注ぎ出し、涙ながらに一心に祈った。

その祈りの中で「男の子をさずけて下さいますなら、その子の一生
を主におささげします」との決意へと導かれた。そしてその祈りは
答えられ、祈りによりサムエルが産み出された。ハンナの祈りが用
いられた。その時、泣いて食事もできなかったハンナが、祈り終え
た時、顔が変わり、すっかり平安になり、帰宅して食事ができた。

激しく泣き、苦しみ、悩みと憂いのいただちの、もう以前の顔では
なかった。平安になり、心はすっきりしていた。私たちも祈りによ
って、しばしば経験する。苦しい状況で、主に心を注ぎ出して祈る
時、状況は変わらずとも、まず自分の内側が変えられる。御父に自
分を委ねると、状況はそのままなのだが、心が落ち着き、平安が与
えられる。

私たちも、もし今、閉じられた状況にあるなら、それは主が祈りに
よって、開きたいと思っておられるのかも知れない。どうであれ、
ハンナのように、主に向かい、心を打ち明け切に祈ろう。主は祈り
に答えて下さる。

・・・・・・・・・・・・
ハンナは、心の切なる願いと共に、心にある苦しみ、悲しみ、辛さ
嘆き、怒り、いら立ち、痛み、何もかもを吐き出し、感情を主にぶ
つけ、募る思いをすべて主に持って行った。そして御言葉を与えら
れて、別人のように晴れやかな顔に変わった。主に持って行こう。


2022年07月09日(土)

「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて。あなたを知らず、あ なたの先祖っちも知らなかったマナを食べさせられた」申命記8:3


イスラエルの民は出エジプト後、荒野を通して、神からの訓練を受
けた。その理由は「あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがそ
の命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためで
あった」と。人は苦しみの時に、本当の姿が出る。圧迫され、追い
詰められ、行き詰まった時に出る姿が自分の本当の姿だ。

それは普段から心の底にあるが、順境の時には現われ出ないだけだ。
不満、愚痴、怒り、不信仰が出て来るなら、それは自分の姿だ。何
も無い順境の時、普段は良い人間だと思っている。人よりはましで
あり、いっぱしだと。しかし自分が思っているより、幾倍も罪深い
者だ。だが、そんな事はすべてご存じの上で、主は愛していて下さ
る。

罪の赦しを受け取る度に、十字架を新たに知り、感謝が深められる。
紛れもなく自分のための十字架であり、十字架によって世界に死に、
自分自身にも死んだ事を経験して行く。「苦しみにあった事は幸せ
でした」の通り、苦しみを通して、主のご愛と慈しみを知る。

ヨブも「うわさで聞いていたが、苦しみを通して、この目で見た」
と言った。主は試練の中で、誰も「知らなかったマナを」を下さる。
苦しみの中でしか味わえない御言葉を食する。その言葉は甘く、慰
め、癒し、力とされる。

・・・・・・・・
試練の中でしか、聞けない御言葉がある。苦しく辛い中で、主の語
って下さる言葉が心にびんびん響き、しみ入り、救いとされる。御
言葉によって生きる事を、まさに経験する。苦しみの時は、御言葉
を求めて、耳をそば立てていよう。慰めや指針が来る。


2022年07月08日(金)

「アハブは不きげんになり、激しく怒りながら、自分の家にはいっ た・・ナボテが彼に『私の先祖のゆずりの地をあなたに譲れません』 と言ったからである」T列王21:4



アハブ王がナボテの土地を欲しがり、代わりにもっと良い土地を、
又は銀を与えるから、彼のぶどう畑を譲るよう言い渡した。ところ
が、ナボテはこれを断った。しかしこれは正しい事であった。なぜ
なら律法に、先祖から受け継いだ土地を、売ってはならないと定め
られていた。

もし貧しさのために、その土地を売った場合についても細かい定め
があった。買い戻しの権利のある親族が、その土地を買い戻さなけ
ればならない。神が定められており、ナボテは神に従った。すると
アハブはひどく不機嫌になり、すねて、激怒した。「寝台に横にな
り、顔をそむけて、食事もしようとしなかった」。

自分の要求が通らず、思い通りにならないので、ふてくされて、何
もしたくなくなる。アハブは自分が正しくないことはわかってい
た。
しかし自分の欲望、自分の要求が通らない事に腹を立てる。どこま
でもわがままな欲望を通そうとする。

間違いを間違いと認めない時、更に罪に罪を重ねて行く事になる。
結局、妻のイゼベルによる、そそのかしと企みを通じて、ナボテ
を殺害する事になる。私達も学ぶ事ができる。自分の間違いは、主
の御前ではっきり認めよう。そうでなければ、罪が更に罪を生んで
行く。

又、自分の思い通りにならない時、門を閉じておられる主を認め、
主の御心を受け入れよう。それが私たちにとって最善であり、主は
別の門を開いて下さる。自分の欲望が満たされる事が、満足と幸せ
だと思ってしまうが、そうでなく、主の下さる御心の中に、真の満
足と喜びがある。
------------
どこまでも自分の思いを手放せない者だが、主を恐れず自我を通し
ていくならサタンに足場を与えてしまう。いつも状況の中に主を認
めていよう。主が助けてくださる。罪が増幅する前に悔い改めよ
う。


2022年07月07日(木)

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中に とどまります」ヨハネ15:4



自分のプランや予定が、思い通りに行かずに、イライラして怒りが
湧いたり、又、失望して落ち込んだりした経験があるだろうか。目
の前に障害や妨害が出てくるのだ。ある人がある時、職場でイライ
ラ〃が募り、怒りがこみ上げ、腹が立って仕方がない。抑えられな
いほどのイラ立ちに襲われた。

部下の調査書の期限は遅れる、ミスはある。上司の言動に腹が立
つ、
プロジェクトはなかなか進まない、すべてがストレスで我慢がなら
ない。平安が全く無い。そんな中、昼休みに会社近くの河原に出
た。
一人になり、主と交わった。

御前に静まり、祈りつつ怒りやイラ立ちの原因を考えた。すると、
状況や相手がどうのでなく、「自分」の思い通りにならないから、
イラ立っている事に気づかされた。「自分」が問題ではないか。自
分で自分を窮屈にしている。自分の思い通りにしたいという強烈な
自我に行き着く。

そのため平安も喜びも失い、主から離れていたと。御前に悔い改
め、
今一度自分をゆだねた。主のみ思いがなりますようにと祈った。昼
休憩が終わる頃には、あれほどのイライラピリピリが消えて、心は
すっきりして、平安にされていた。

日常でどうだろう。イライラするのは、自分の思い通りでないから
だろうか。そして自分で、どうこうしようとしている時だろうか。
主のもとへ行き、主と交わろう。そこから新しい力が来る。
------------
自分の思いが通っている時には気づかないが、行き詰まり、主に気
づかされるときが感謝だ。変わっていける。絶えず主に繋がり、主
に喜ばれる方へ、御霊の実を結んでいこう。


2022年07月06日(水)

「・・すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行 って住んだ」T列王17:5


カルメル山でのバアルとの壮大な闘いの前に、主はエリヤをケリテ
川に退かせられた。「ケリテ川のほとりに身を隠せ」と。アハブ王
から守り、そして人のいない場所で、充分な主と交わり、霊的養
い、
整えを与えるためであった。

密室での主との交わりが、まさに働きのため、又、信仰生活のため
の土台で、原動力だ。植物は根が下に強く張っていなければ、上に
伸びて行けない。人に隠れた密室での交わりは、その根に当たる。
色々な人々が証しをしている。

激務で仕事に追われていた中、過労で倒れてしまい、入院の事態
に。
最初はガックリ落胆してひどく落ち込んだが、主からの静かな時間
だと気づけた。主の前に座るようにと。目の前の事に追われ、デボ
ーションは、後回しに、二の次になっていた。

それが、主との幸いな交わりの時とされ、主に立ち返れた。休養が
必要となり、寝床で天井を見ている間に、一番大切なものは何なの
か、人生このままで良いのかと、立ち止まる時とされ、優先順位を
正される時とされた。私たちも、時にケリテ川が与えられる。

病気のケリテ川や、失意のケリテ川、失敗のケリテ川、別離のケリ
テ川、悩みや問題のケリテ川、悲しみや痛みの中で、しっかり主と
向き合い、交わろう。主を仰いで、御声を聞こう。主はそこで豊か
な霊の養いを下さり、必要を与えて下さり、新しい力を下さる。
御言葉を与えて下さる。
------------
信仰人生の中でしっかりと主を仰ぐ時を与えられる。御言葉を聞
き、
祈り、真剣に御霊の声に耳を傾ける時。それぞれのケリテ川で、主
は豊かに養われる。新しい力を受けとろう。


2022年07月05日(火)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来 なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」マタイ11:28



現代はストレスの時代と言われているが、私たちも無意識にもスト
レスを受けているものだ。学生は勉強が、会社員は仕事が、職場で
の対人関係が、主婦は家事がストレスだろうか。又、悩みや困難を
抱えると大きなストレスとなる。どうする事も出来ない悩みを抱え
る時、身体まで壊してしまう。

重荷に苦しむのは、重くて担いきれないからだ。対処できる荷な
ら、
重荷とならない。人生で時にこの重荷を経験する。そのような中、
主が、「すべて」「重荷を負っている人は」「わたしのところに来
なさい」と言って下さるのは、何と良い知らせだろう。

「わたしがあなたを休ませてあげます」と。数え切れない人々が主
のもとへ行き、その通りに休ませて頂いた。ある人が、突如の重い
病の発覚。ショックで途方に暮れた。茫然自失で、どうして良いか
わからない、なすすべの無い中、「わたしのところへ来なさい」と
の主の言葉に、祈りに持って行こうと、主のもとへ行った。

ポツリポツリと、暗い心の内を告げ、大きな不安や恐れを、あるが
まま告げて行った。心を打ち明け、注ぎ出し、主に助けを求めて祈
っていると、不思議に、あんなに押しつぶされそうだった心が、落
ちついて来て、自分でも驚いた。そしてこの事を、主に明け渡し
て、
すべてお委ねした。

主にすべて知って頂き、受け止めて頂いた事で、心が落ち着いた。
そうしていると、色々な情報があちこちから寄せられ、良い医師と
出会いがあり、治療の道筋が導かれて行った。共に負って下さる主
と共に、治療に向き合える幸いに心から感謝した。
------------
主に委ねたつもりでも次々と新しい不安が来る。不安に心が安まら
ないと主は遠くに思えてしまうが、実は今こそ主と最も近い。傍に
いて聞いてくださる主に、何度も訴え少しずつ重荷を渡していこ
う。


2022年07月04日(月)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方 ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださ います」Tヨハネ1:9



ある人が、以前に犯してしまった罪を悔い改め、主の十字架の血潮
により赦して頂いた。その時は平安になるのだが、しばらくする
と、
その罪が思い出され、悶々とする。又、悔い改めて、ほっとするの
だが、又、罪を思うと苦しくなる。そんな事を繰り返していた。段
々と、それがサタンの攻撃である事を気づかされて行った。

そして自分は罪が完全に赦された事を、しっかり受け取っていない
から、サタンから思いの火矢が来るとすぐに動揺し、混乱してしま
う事を。根本的に、信じ切れていない不信仰を示された。「自分の
罪を言い表すなら・・その罪を赦し」はっきりと赦すと言ってい
る。

「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」「た
とい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くな
る」
「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たち
から遠く離される」そして「イスラエルの咎は見つけようとして
も、
それはなく、ユダの罪も見つけることはできない。

わたしが残す者の罪を、わたしが赦すからだ」。主が赦して下さっ
た罪は、見つけようとしても見つけられないと。自分がどう感じる
かでなく、自分の感覚でなく、御言葉を真実として、御言葉に立と
う。
------------
サタンはいつも自分だけを見せようとする。真実は罪は十字架によ
って赦されているということ。主の犠牲だけがそれを成し得る。心
から感謝して受け取ろう。そして恵の光の中を歩もう。


2022年07月03日(日)

「彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持 って、彼の前方に立っていた」ヨシュア5:13



モーセに導かれ、出エジプトを果たした民は、厳しい荒野を経た。
そして次のリーダーヨシュアのもと、ついに約束の地カナンに入っ
た。だが、すぐに最初の難関に直面する。エリコの頑丈な城壁が、
目の前にそびえ立っていた。私たちの人生においても、様々な困難
が行く手に立ちはだかる。ヨシュアは厳しい状況に直面していた。

そんな時に、一人の人が抜き身の剣を手に持ち、前方に立っていた。
今にも戦おうとの気配だ。驚いたヨシュアは思わず「あなたは味方
か敵か」と問うた。まず、どうしても、敵・味方で考えてしまう。
しかし相手は、敵とも味方とも言わず「主の軍の将として来た」と
答えた。敵でないなら、味方ではと思うが、そうでなく「軍の将」
ヨシュアの上に立つ将だと。

「あなたでなく、わたしがリーダー」だと。するとヨシュアは地に
伏し拝み、「〜して下さい」との願いではなく「何を告げられるの
ですか」と、主の御心を問うた。すると「あなたの足のはきものを
脱げ」と言われた。自分の思い、考え、方法、自分の力を「脱いで、
明け渡して」、主に従うようにと。「あなたの立っている場所は聖
なる所」と。主が共におられる場所だ。

「そこでヨシュアはそのようにした」。ヨシュアは言われた通りに、
はきものを脱いで、自分の思いや力を、いっさい明け渡して、主に
言われた通りに従った。するとエリコの城壁は目の前で見事に崩れ
落ちた。私たちも今、エリコの城壁が立ちはだかっているだろうか。
苦しい、困難な状況にあるだろうか。しかし主が目の前におられる。
自分が立ち向かうのでなく、そうでなくへりくだって、はき物を脱
いで、主の示しに従おう。目の前で、城壁が崩れ落ちるのを見る。

・・・・・・・・・・・・
ああして〜、こうして下さい〜に、なりがちだが、「何を告げられ
るのですか」の祈りは大切だ。主は、私に対して、何を思い、どん
な御心を持っておられるのか、主に問おう。示された御心に従う時、
主のみわざを見せられ、新たに〃主を知って行ける。


2022年07月02日(土)

「あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しい さばきをしてくださいます」ルカ18:8



ある町に神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。この人は
裁判官だが、人を人とも思わない人物だと。まず神を恐れないため、
人を人と思わない事になる。やもめが、裁判を求めて、ひっきりな
しに訴えて来るのだが、同情や思いやりのかけらも無い。必死であ
り、せっぱ詰まった辛い事情があるであろうに、何とも思わず、何
も感じない。眼中に無いかのようだ。

しかし、やもめが余りにもひんぱんに来るので、迷惑であり、仕事
にも差し触るので、うるさいから裁判をする事にした。裁判が実現
したのだが、それはあわれみの心や愛情からではなく、うるさくて
仕方が無いからの理由であった。こんなどうしようもない裁判官で
も、執拗に願い続ければ、裁判になった。

そうであれば、ましてや私たちを独り子を与えるほどに愛して下さ
っている神が、私たちの訴えを、正しい裁きをつけずに放置される
わけがないと。そういう事を言っている。「ましてや神は」がキイ
だ。とんでもない人物と神を対比させている。この人物は、あくま
でも自己中心な理由だったが、神はそうでなく、どこまでも私たち
を愛して、私たちの最善を考え、正しい裁きをして下さると。

だから失望せずに祈り続けよと。大事な事は、祈り倒せば良いので
なく、祈る相手がどのようなお方かという事だ。神は最善以下をさ
れない。すみやかに正しいさばきをして下さる。だから、答えが遅
れていても、必ず「神の時」に答えが来るので、「失望せずに」祈
り続けよと語られている。

・・・・・・・・・・・・
主は、執ような祈りに、うるさいから答えて下さるのでなく、愛し
慈しんでいて下さるから、答えて下さる。先も見通しておられ、何
もかもご存じだ。今、祈っている祈りを引き続き祈ろう。最善の時
に答えを下さる。「失望してはならない」を心に刻もう。


2022年07月01日(金)

「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、た ゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え・ ・」イザヤ40:28



私たちは、時に心身疲れ果ててしまう。「若者も疲れ、たゆみ、若
い男もつまずき倒れる」とあり、どんなに活力みなぎった若者も、
疲れ、倒れてしまうと。そんな時、どうすれば良いのだろう。次の
節に鷲の事が出て来る。鷲は翼をかって高く舞い上がる。そしてど
んなに高く上っても疲れる事が無い。それは自力で舞い上がるので
は無いからだと。

鷲は、じっと風の流れを待っている。じっとただ待つ。そして気流
が来た時に、その上昇気流に合わせて、それに乗じて、一気に舞い
上がる。だから自分の力は必要無い。そのため新たに舞い上がるた
めに必要な事は、「主を待ち望む」事だと。自分でどうこうする事
ではない。

そこには思い煩いも不安も、焦りも、急く事も、慌てる事もなく、
ただじっと風を待てばよい。それは御霊の導きを待つことだ。御霊
の導きが来たなら、鷲が気流に乗ってかけ上がるように、御霊の導
きに従う。そして自力ではなく、主にゆだねて従うことだ。主に明
け渡して、主の力に任せるので、疲れることなく、たゆむことがな
い。

しかし気流に乗るのでなく、自力で舞い上がろうとしたらどうだろ
う。気流に乗る事なく、翼をバタつかせているなら、疲れ果ててし
まう事が目に見える。主を待ち望む者は、新しい力を得る。今、主
を待ち望もう。御霊の導きが来たら、すぐ従おう。そうできるよう
祈ろう。
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自力でしなければと思うと心はそわそわ騒がしく、主の御声を聞く
ことができない。心が静まるように祈ろう。焦りも恐れも主に委ね
て主の時を待ち望もう。