2022年08月31日(水)
「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなた がたの耳は聞いているから幸いです」マタイ13:16
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人は、本当のことを、真実を指摘される時に、耳をふさいでしま
う。肉は真実を聞きたくないからだ。ステパノが議会で弁明をした
時に、はっきりと真実を述べた。その時、「人々は、大声で叫びな
がら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した」。
ステパノは弁明で、神は人の手で造った神殿には住まないと言い、
いつでもどこにでもおられる。あなたがたはいつも聖霊に逆らって
いる、そしてモーセの律法を守ったことがないと、直に語った。
それは人々を興奮させ、激怒させた。そして、人々は、はらわた
が煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしたと。
ステパノの語った言葉が、正しかったために、人々は怒り狂った。
そして「天が開けて、人の子が神の右に立っているのが見える」
と、イエスがメシヤである事を大胆に証しした。その時に、迫害
者たちは耳をおおって、シャットアウトし、ステパノに殺到し、
町の外に追い出し、石打ちで殺害してしまった。
それはステパノを迫害する者たちが、彼らの隠れた姿をあらわに
されたためだった。人は、本当のこと、真実を指摘される時、耳
をふさぐ。 聞きたくない。それは、真実と向き合いたくないから
だ。真実を決して見ようとしない人、又、真の自分と向き合おう
としない人は、真実の言葉を非常に恐れる。
耳を閉じ、避けて、受け止めない。ごまかしてしまう。聞く耳を
持たない人は、自分をごまかしている事になる。主は「聞く耳の
ある者は聞きなさい」と言われ、どんなに痛くても、御言葉に向
き合う時に、解決へと導かれ、平安へと導かれて行く。
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誰も言ってくれない本当の自分を主は示してくださる。いつも主
に従いますの姿勢で御言葉に向かおう。都合の悪い事に耳をふさ
いでいては何も変われない。天に帰るまで成長し続けたい。
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2022年08月30日(火)
「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあな たがたに与えるのは、世が与えるのとは違います」ヨハネ14:27
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ある牧師の証しだ。突然の大震災の被害を受け、会堂も住まいも流
されてしまった。とにかく身一つで逃げる事が出来て、自分も家族
も一命を取りとめた。もう一瞬の事で、何一つ持ち出せず、避難所
に身を寄せた。自分にとって何よりも重要で大切な聖書資料、これ
までの学び資料、書物のすべてを失った。
ショックであり、何が何だかわからず、呆然状態だった。しかし何
もかも失ったが、家族の命が守られた事は、大きな感謝だった。ひ
と息ついた時、この状況、自分の思いや感情の何もかもを祈りに持
って行った。主と交わり、切に祈り続けた。その時に、御言葉が光
が臨むごとくに与えられた。
「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」。御言葉の
力を経験した。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はか
しこに帰ろう」、まさに「アーメン」だと思えた。すべてを失い、
これから先も全くわからないが、心は不安が消えて、不思議な平安
に包まれた。世のものではない、主の平安だった。
ある婦人は、夫の女性問題が起きて、痛み、苦しみ、悲しみ、心は
引き裂かれるようで、涙、涙の日々だった。主に何もかもをゆだね
て、拠りすがった。外側、嵐が荒れ狂っているが、不思議な「御翼
の陰」を経験した。
まさに「ひとみのように見守り、御翼の陰にかくまって」下さっ
た。気も狂いそうな状況の中、御翼の陰は、全き平安だったと。
「主の平安」を味わい知らされたと。痛み、悲しみ、苦しみの時に
は、まず主のもとへ行こう。
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暴風に打たれるのは辛いが、計り知れない恵みの賜物を主から受け
取っていく。経験者はみなそう証しされる。主のもとに行こう。自
分中心が神中心に変えられる時、主の平安を受け取る。
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2022年08月29日(月)
「そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使 いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た」 民数記22:31
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ろばがものを言う、という有名な箇所だ。バラムは、ろばが進まな
いので、3度も杖で打った。しかし何と主の使いが、ろばの前に抜
き身の剣を持って、立ちふさがっていた。そのためろばは、動けな
かった。ろばは「私を3度も打つとは」とバラムに抗議した。
その時バラムは、主に、目のおおいを除かれたので、主の使いが、
剣を持ち立ちふさいでいるのを見た。「敵対して出て来たのはわた
しだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ」と。実は
ろばでなく、主が阻止された。私たちは苦しい事は、何とか逃れた
いと思う。
だが主は、私たちが間違った方へ進む時、道をふさがれる。私たち
を停止させるためだ。それは偶然でなく、主の御手による。目の前
の相手や周囲を責めるのではなく、主を認める事が大事だ。その状
況で、主のメッセージがある。それを受け取ろう。何を教え、何に
気づかせたいのか。
今、行く手が阻まれていたら、まずそこに主を認めよう。御心とは
反対に向いているのかも知れない。主はバラムに「彼らと一緒に行
くな。その民を呪うな。祝福されているからだ」と言われた。それ
なのに、出て行くバラムに、主の使いが立ちはだかったのだった。
もし進路が閉ざされたなら、「あなたの行く所どこにおいても、主
を認めよ」、そこに主を認め、自分の思いを通すのでなく、御心を
尋ねよう。更に素晴らしい別の道へと導いて下さる。
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主の御心を知っていても、本音では逆の方向への思いを通したい。
主の介入を通して初めて目が開かれる。私たちは迷いやすい。いつ
も最善の道に導かれる主に明け渡し歩みたい。
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2022年08月28日(日)
「主はヨシュアに仰せられた『見よ。わたしはエリコとその王、お よび勇士たちを、あなたの手に渡した』」ヨシュア6:2
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ヨシュアが率いる民は、主の奇跡により、皆でヨルダン川を渡り、
カナンに入った。するとエリコの堅固な城壁がそびえ立っていた。
難攻不落の城壁が、前に立ちふさがった。その時、抜き身の剣を持
った人物が、ヨシュアの前方に。思わずヨシュアは「あなたは味方
か、敵か」と問うた。
その人物は、それには答えず「私は主の軍勢の将として、今、来
た」と言った。味方なら、自分たちの助っ人だ。が、主の軍の将な
ら、助手ではなく、上に立つリーダーだ。リーダーの指示には従う
必要がある。なすべき事は、つまり主に信頼することだ。そして
「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる
所」と。
私たちが自分の思い、考え、経験値、常識を捨て、そのはきものを
脱ぐこと、主に従うこと、戦いの将はヨシュアでなく、主である。
主の戦いだ。主は、奇抜な不思議な方法を命じられた。理解はでき
ないが、ヨシュアたちはその通りに従った。民は6日間、町の周囲
を回った。「何でこんな事を?」と思ったろう。
しかし理解できないが、従い、7日目に7回周り、時の声を上げた。
その時に難攻不落の城壁は崩れ落ちた。ヘブル書では「信仰によっ
て」崩れ落ちたと言っている。信仰による従順だった。6日間、全
く何も起きなかった。だが7日目に奇跡が成された。目に見える所
どうであれ、主の御心に従おう。主のみわざを経験する。
・・・・・・・・・・・
難攻不落の事態を前にすると、自分が将になり、思い患いと不安、
恐れで悶々だ。目の前に、悩み、問題があるなら、「将として、今、
来た」と。はきものを脱いで、自分の思いや方法を明け渡して、主
言われることに従おう。
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2022年08月27日(土)
「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩い た」使徒8:4
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サウロは神のためと信じて、熱心にクリスチャンを捕まえていた。
そしてステパノ殺害に賛成していた。ステパノの御霊に満たされた
証しを、目の前で見て、サウロは憎悪に燃えた。キリストを神とし、
救い主とする、クリスチャンは許せない存在だった。怒りと敵対心、
憎しみは増幅し、殺害の意を固くした。
ステパノの厳粛な殉教により、更に迫害は激しさを増し、荒れ狂っ
た。サウロは、教会を次々と荒らし、家々に入って、容赦なく人々
を引きずり出し、投獄して行った。そのため信徒たちは、四方にあ
ちこちへと散らされて行った。皆が、別れ別れに、散りじりバラバ
ラになってしまった。
ではこの激しい迫害の苦難で、信徒たちは落胆、意気消沈して、教
会は壊滅して行ったのだろうか。ところが、そうではなかった。あ
ちこちに、散らされた信徒たちは、何と「みことばを宣べながら、
巡り歩いた」。四方は八方に御言葉が伝えられた。結果的に見れば、
この迫害による離散によって、返って福音が拡大して行く事になっ
てしまった。
信仰の火が消えるどころか、ますます燃え上がり、信仰が強くされ、
福音が四方八方に拡がって行った。私たちも「なぜこんな事が!」
「なぜ突然苦しみが?」との突如の事態が起きる。しかし一見、マ
イナスのその事が、理解を越えた大きな祝福へと結実して行く。
何という神わざだろう。そして信仰が堅くされ、成長へと導かれる。
状況がどうであれ、最善をされる主を仰ぎ、必ず祝福に結果して行
くと、信じていよう。信じておれるように祈ろう。
・・・・・・・・・・・・
激しい迫害が起きた。一見、大変な、厳しい、苦しい事態だ。命も
かかってる。悪い事態に見える。しかしこの迫害により福音が拡大
して行った。目の前に苦しい状況が起きた時、祝福へと結実して行
く事を信じよう。そこに立つ時、見方が変えられる。
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2022年08月26日(金)
「すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た・・彼はペテ ロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた」 使徒3:3
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富は、私たちに快適さを、幸せを与えるように見える。何でも欲し
い物が手に入り、したい事ができる。夢が実現できるなら、それは
心地よいと。だがどれだけ富を所有しても、人の心に決して満足を
与えることはない。ザアカイは富に、幸せと喜びを求めたが、裏切
られた。
又、富は幾ら得ても満足する事がない。常に、不満足であり、もっ
と欲しい、更に欲しい、これで充分という事がない。これが「貪
欲」だ。貪欲は底無しであり、身を滅ぼしてしまう。ペテロとヨハ
ネが宮に入る時に、お金を求める男がいた。その男にペテロは、は
っきりと「金銀は私には無い」と言った。私たちは何を求めている
だろう。何を求めて御言葉に向かうだろう。
実はこの男のように、自分の欲しいもの、都合良いものを求めてい
るのかも知れない。「自分がこの世で成功すること」「人から人格
者と思われたい」「自己実現のため」「充足感を、生きがいを得た
い」有形無形の金銀だろうか。しばしば自分が求めているものと、
神が意図し、与えて下さるものとが異なる。私たちは方向違いに求
めてしまう。
「しかし私にあるものを上げよう」私たちが欲しいものでなく、主
が私のために、最も良いものを下さる。「イエス・キリストの名に
よって歩く」これを与えて下さり、これこそが彼にとって最も必要
で最善のものだ。私たちも同様だ。主との交わりの中で、主を実感
しつつ、賛美と喜びを下さる。そして、いつも私たちのための最善
を与えて下さる。
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ひとつ手に入れば、次に欲しいものを探し始める。足ることのない
欲望が生きる力のようにこの世は言うが、流されず主ご自身を喜
び、本当の最善のものを見極め、感謝する者になりたい。
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2022年08月25日(木)
「・・まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわ えるが、だれがそれを集めるのかを知りません」詩篇39:6
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ダビデは、苦しみの中で「なぜ?どうして?自分がこんな目に会う
のか」との思いでいっぱいだった。しかし舌で罪を犯さないように
と、口に口輪をはめた。だが黙っていると、痛みは激しくなって、
今にも爆発しそうだった。そこで自分の舌で、人に向かってでな
く、
主に自分の思いを吐き出した。気持ちを洗いざらい告げた。
人生はいかにはかなくて、虚しいかと。どんなに盛んであっても、
全く虚しいと。そんな虚しい人生で、何を待ち望み、何を望めば
よいのか。そして祈りの中で、見上げた時に、主を見い出した。
「主よ。私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたで
す」と。
そして、ことごとくを祈りに持って行った後、「私は黙し、口を開
きません」と言っている。それは罪を犯すから、口を開かないので
なく、「あなたがそうなさったからです」と。見える所でなく、自
分の思いでなく、神視点に立ち、信仰に立っている。
神の主権を認め、神のご計画がある事を認め、それを受け入れてい
る。人から受ける苦しみも、信仰によって、神からのものと受け止
めた。苦しみの中にも、そこに主を認める時に、「あなたのむち」
「あなたの手に打たれ」と、主を見い出して行く。
するとそこには意味があり、むちも、打たれる事も、御手により豊
かな祝福へと導かれて行く。今、起きている事を「あなたがそうな
さった」と受け止めて行こう。その時、「私の望み、それはあなた
です」と、ますます主に向かって行ける。
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主は私たちよりも私たちの必要を知っておられる。立ち騒がず、こ
こに主を認めて受け止められるように祈りたい。今わからなくても
主の最善がある。落ち着いた強い信仰を求めよう。
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2022年08月24日(水)
「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、 悪い者から守ってくださるようにお願いします」ヨハネ17:15
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私たちはこの世にあって、この世で生活している。しかしこの世の
者ではない。この世にあって、天に属する天国人だ。だが世から抜
け出て、世と断絶するのではない。それなら主の証しができない。
逆に世に流され、世にどっぷり浸かるのでもない。
私たちは、この世にあって、この世の人々と同じように生活する。
しかしその原理が異なっている。私たちは「神の言葉」が、自分を
動かす原理だ。御言葉が、生きて行く上の判断基準だ。御言葉の価
値観で生きて行く。だからこの世にはいるが、世とは完全に違って
いる。むしろ真逆だ。
私たちは天を目指し、天での報いを目指して生きるが、この世は地
を目指し、この世での栄光、賞賛、豊かさを目指す。反対方向だ。
主が祈られた。「真理によって彼らを聖め別って下さい。あなたの
御言葉は真理です」。御言葉が真理だ。常に、自分の内に根本的原
則が必要だ。確固たるものが無いと、容易に流されてしまう。
特に日本人である私たちは、周囲と同じである事が善であり、同じ
なら安心する。無意識にも、周囲に合わせてしまう。そのため、御
言葉に立ち、御言葉に基づいて、思考し、判断し、行動しなけれ
ば、
世に飲み込まれてしまう。
日本には米軍基地がある。日本国内だが、基地内は本国の法律下に
あり、本国の法律が適用される。同様に、私たちはこの世にいる
が、
御言葉が支配する神の国の領域にいる。人々を愛し、人々に仕え、
証しをして行く。しかしこの世に飲み込まれてはならない。真理の
言葉に従って行く時、御霊が助け、正しく導いて下さる。
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目指すところも生きる目的も全く違うこの世で、主ははっきり私た
ちを区別し、悪からの守りを祈ってくださった。御霊に励まされな
がらしっかりと主の側に立とう。この地で主の栄光を現していこ
う。
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2022年08月23日(火)
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみ は尽きないからだ」哀歌3:22
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人は誰しも失敗する。ペテロは、主を否んでしまった。鶏の声を聞
いた時、前に主に言われた言葉に思い至り、主を否んだ罪を自覚
し、
心底悔いた。悔いて、男泣きに泣いた。私たちは失敗する。弱さの
ゆえにどうしても失敗してしまう。失敗しない人はいない。
しかしそこで、罪を認め、悔い改めるなら、そこから成長して行け
る。それで終わりなのではない。主のあわれみは尽きず、主は豊か
に赦し、尚も、その事をも益として下さる。失敗を通して、私たち
はへりくだらされる。へりくだらざるを得ない。高ぶっていること
ができない。
自分の愚かさに、ただただへりくだるのみだ。ある父親の証しだ。
息子が非行に走り、傷害事件を起こし、警察沙汰となり、大変な事
態になった。大きな衝撃だった。第一線でバリバリ働き、仕事への
野心でいっぱいで、子どもは妻任せで、全く関わって来なかった。
又、形だけのクリスチャンだった。自分本位で、自分の事しか無か
った。脳天打ち砕かれた。涙と共に心から悔い改めた。賠償や謝罪
に走り回った。妻にも息子にも詫びた。その時から息子の事しか頭
に無かった。自分に出来る事は何でもした。
自分の罪であり、もう取り返しのつかない歳月に思えたが、主のあ
われみは尽きず、主の赦しを受け取れた。罪を犯せば、もう一度、
最初からやり直さなくてはならないが、やり直させて下さる主の恵
みに、感謝でならなかった。もう一度やり直すことができる。どん
な時にも、主にあって希望がある。
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幾つになってもやり直せる。遅すぎることがない。何という主のあ
われみだろう。失敗の度にひねくれたり歪んでいくのではなく、低
くされ、小さくされて主に頼りながら歩み続けられる。
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2022年08月22日(月)
「イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔 し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して」マタイ27:3
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ペテロもユダも、主を裏切った。しかもペテロは三度も主を否み、
呪いをかけて誓ってまで否んだ。どちらも同じく裏切ったのだが、
最後は天と地ほどに違った。ペテロは、主の全き赦しを受け取り、
主の愛により回復させられ、主の昇天後、諸教会のリーダーとし
て活躍した。
片や、ユダは、主を銀貨30枚で売り、「罪のない人の血を売った」
と後悔し、祭司長、長老たちのもとへ行った。その銀貨を返した
が、
「私たちの知ったことか」と言われ、首をつって死んでしまった。
ペテロとユダ、何と違ってしまった事だろう。ペテロは裏切ってし
まった時に、主に向き、主の言葉に向いた。
その時、主の言葉に思い当たり、号泣した。マリヤの、主のご遺体
が無いとの知らせに、墓まで走った。主のガリヤラへ行けとの指示
に、合わせる顔もない中、しかし指示に従いガリラヤへ行った。ユ
ダは悔いた時、主のもとでなく、律法学者のもとへ行った。
主を求め、主に頼らず、自分で決着をつけた。「自分で始末せよ」
これは悪魔の攻撃で、誘惑だ。どこまでも主に頼らせない。私たち
にも誘惑が来る。自分で何とかしなければ・・。失敗した時に自分
で考え、自力で・・。その時、担いきれない重圧に押しつぶされ、
絶望感におおわれる。
そうでなく「わたしのところに来よ」と絶えず招いて下さっている
主もとへ、まず行こう。罪の赦しが与えられ、回復が与えられ、解
決がある。主の平安へと導かれる。
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十字架があるのに、失敗すると何とかしようと焦り、サタンに煽ら
れ主から遠くに行ってしまう。失敗を繰り返すが、私達にはいつも
帰る十字架がある。なんと感謝なことだろう。ペテロとユダの箇所
にいつも学ばされる。
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2022年08月21日(日)
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでい なさい」ヘブル12:2
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私たちは主を信じ救われた後も、天に帰るまで、古い性質がある。
この世にいる間は、肉がある中、サタンも絶えず攻撃をしかけて来
る。主から目が離れ、御言葉から離れるなら、すぐに世の凄まじい
勢力に流されてしまう。流されていて気づかない。サタンは誘惑し
ようと挑んで来て、とにかく主から離そう、離そうとする。天に帰
るまで、この世にいる間は霊の戦いだ。
そのため、常に主を仰ぐよう、意志を向けて行くことが大切だ。信
仰はオートマティックではないので、主を見ることを選択して行く
ことが必要だ。主の御言葉の方へ、自らの目を向け、足を向けて行
く事が大切だ。自分は弱くて、主に頼らなければ、立ち行けないこ
とを覚えていよう。
自分の歩みをよくチェックして、もし罪があり、間違いがあれば、
悔い改めることが大切だ。そのままにしていると、ズルズルと、肉
と世に流されてしまう。「私のうちに傷のついた道があるか、ない
かを見て、私をとこしえの道に導いてください」と主に向かい、祈
り、自己吟味して行く時、主が必ず軌道修正し導いて下さる。間違
った道から引き戻して下さる。
示された御言葉を実行する事は大切だ。御言葉を行なう事は、「急
いで、ためらわずに」と詩篇でも言われている。引き延ばしたり、
なおざりにしていないだろうか。御霊の示しがあれば「ためらわず
に」、今、きっぱりと従おう。ぐずぐずしていると、必ずや従えな
くなってしまう。御霊の示しが消えてしまう。今日も、主から目を
離さない事、示された事を実行する事を、覚えよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
常にサタンは働いている。獲物を狙うライオンのごとくに。御心を
示されて、優柔不断に、ぐずぐずしていると、必ずやって来て、妨
害する。御心を実行できるよう祈ろう。そして意志を向けて、一歩
踏み出そう。後は主が助けて下さる。
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2022年08月20日(土)
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、 互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、 あなたがたもそうしなさい」コロサイ3:13
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人を赦すことは非常に難しい。頭では、赦すべきとわかるが、なか
なか出来ない。ある人が、悪口を言われている事が、巡り巡って入
って来た。それがその相手が、自分の前では良い顔をし、陰で悪口
を言っている事に、ひどく腹が立った。怒りがおさまらず、赦せな
い思いでいっぱいになった。
すると祈れなくなってしまった。赦せない思いがある所には、怒り
がある。相手への憤り、憎しみを示され、苦しくなった。だが、思
えば思うほど腹が立ち、絶対に赦したくない。悶々状態だ。とにか
くいつも学んでいる通り、まず祈りに持って行こうと、この悶々状
態を主に告げて行った。絶対に赦したくない、しかしこのままで良
いはずはない。
平安が無い。助けて下さいと祈り続けていた。すると御霊により、
今までの色々な学びを思い起こさせられた。皆、弱さがあり、罪人
であり、完全な人などいないこと。赦しは、意志による選択である
こと。もし選択しようとするなら、御霊の助けが臨むこと。赦せな
い思いに囚われてしまうと、御心を行なえなくなる事・・、悶々状態
が少しづつ心が落ち着いてきた。
祈っていると、不思議に心が変えられて行く事を経験した。長い時
間を要する事があるかも知れない。すぐにでは無いかもしれない。
しかしとにかく祈り続けよう。祈りにより、御霊が働かれ、必ず導
かれて行く。祈りには大きな力がある。
・・・・・・・・・・・・・・・・
赦すことは、なかなか難しい。「出来ません。赦せません」と、ひ
たすら、ありのまま祈って行こう。祈りを続けていると、人それぞ
れだが、様々教え、導きを与えて下さる。その導きに従って行く時
自分には出来ない事がなされて行く。
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2022年08月19日(金)
「最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを 書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの 安全のためにもなることです」ピリピ3:1
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ハバクク書によると「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は
実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さな
い。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主に
あって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」と。
何という悲惨な状況だろう。花は咲かず、果物は収穫なく、畑は食
物の無い不作、家畜も死滅で全滅、見渡す限りの恐るべき不毛地帯
だ。もう見えるところ絶望状態だ。だが状況はそのようでも「主に
あって」「救いの神にあって」喜ぶことができると。どんな中で
も、喜べると。
私たちは畑は豊作、受験は合格、商売は繁盛、家内安全なら喜べ
る。しかし、パウロやハバククが喜ぶのは、「状況にあって」では
なく「主にあって」であった。状況にある喜びなら、良い時も、悪
い時もあるので、常にアップダウンしていなくてはならない。「い
つも」喜ぶ事など不可能だ。
しかし状況でなく、主を見る時に、主は必ず最善をして下さる、必
要は与えられる、万事益となる、主は生きておられるので、御言葉
により導きや指針が与えられる。常にどんな時でも希望がある。痛
い所、苦しい所を誰しもが、確かに通るが、そこで新たに主に出会
い、主を経験して行ける。
私たちにとっての喜びとは、単に問題の無い平穏な生活でなく、更
に主を知る事、主の愛を、真実を知る事ではないだろうか。苦しい
状況の中でこそ、主の力、支え、励ましを現実に経験して行ける。
そこに御霊の喜びがある。
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喜びが外からのものでしか得られないなら、畑は豊作、受験は合格
も手にすれば小さな恵みにみえてしまう。喜びは内におられる御霊
にあって得られ、希望は主からくる。主にあって喜んでいよう。
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2022年08月18日(木)
「恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ち ます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお 与えになったのです」使徒27:24
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パウロは証しをするため、ローマ行きを示されていたが、現実には
囚人としてであった。船でイタリヤ行きとなり、パウロたちは百人
隊長に渡された。途中で季節的に航海は危険となり、パウロは中止
を忠告した。しかし百人隊長はパウロよりも、航海士や船長の言葉
を信じ出航した。
パウロの言葉通り、大暴風で流されるままとなった。激しく翻弄さ
れる中で、人々は迫る身の危険に、不安と恐れに飲み込まれ、絶望
状態となった。パウロは人々を励まし、命を失う者は一人もないと
の、主の言葉を告げる。
紆余曲折ありつつ、結果的にパウロの言った「頭から髪一筋も失わ
れることはない」の通りになった。最後は「みな、無事に陸に上が
った」。主の言葉は成就した。パウロは絶体絶命に見えるギリギリ
の中で、目に見える状況ではなく、御言葉の方を信じた。
それゆえ信仰により人々に告げる事ができた。主が、湖上の小舟で
熟睡中、嵐でパニックになる弟子たちの箇所がある。主の「黙れ、
静まれ」の一言で、瞬間的にピタリとなぎになった。その時に
「信仰がないのは、どうしたことです」と言われた。
私たちも人生の嵐に会うと、パニックになり怯え、恐れに飲み込ま
れてしまう。不安から逃れられない。その時、主への信仰だけが恐
れを消し去る。状況の問題でなく、主の言葉を信じない不信仰が原
因で、問題だと。そこを認めて助けを求めて祈ろう。信仰を与えて
下さり、平安が臨む。
------------
パニックになると主よ!主よ!と助けを求めて祈るばかりだ。動揺
しすぐに落ち着けない弱い者だが、主はご存じで傍にいて必ず平安
をくださる。主の御言葉に信頼して立とう。
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2022年08月17日(水)
「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、 その人はほんとうに実を結び・・」マタイ13:23
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種蒔きのたとえで、道ばたに落ちた種が出てくる。種である神の言
葉が、道ばたに落ちた。もし大切な種なら、落ちたまま放っておく
だろうか。もし財布や貴重品が落ちたらどうだろう。放置するだろ
うか。そんな事はしない。放ったままなら、それは捨ててもよい
物、どうでもよい物という事になる。
道ばたの心は、主の言葉をそんなに気に留めていない事になる。だ
から「悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行く」
と。悪魔が来て、信じて救われることがないように、御言葉を持ち
去ってしまう。心に入らない事は、聞かなかった事と同じになって
しまう。
種が無いなら、実を結ぶ事は有り得ず、自分が変えられる事もな
い。エジプトの奇跡の時に、主が、激しい雹を降らせるから、今す
ぐ野にあるすべてのものを避難させよ、死んでしまうからと言われ
た。その時、御言葉を畏れた者は、その通りに家に避難させた。
しかし主の言葉を心に留めなかった者は、しもべや家畜をそのまま
野に残した。主の言葉を畏れる時、御言葉を受け取り、行動となっ
て表われる。私たちの心の態度はどうだろう。御言葉をへりくだっ
て大切に受け取り、尊んでいるだろうか、それとも軽んじているだ
ろうか。
主の言葉には力がある。愛があり、真実があり、御言葉は、神のみ
わざを成し遂げて行く。聞く耳のある者は聞けと言われる。祈っ
て、御霊に助けられて、御言葉を真剣に聞こう。そして示された御
言葉を実行して行く時、豊かな実を結ぶ。
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御言葉に従おうと向き合うなら自分が変えられ、不思議に状況も変
えられる。実を結べるよう主が助けてくださるからだ。御言葉の種
を大切に心に受け取ろう。主が豊かに耕してくださる。
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2022年08月16日(火)
「イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向 かって誇るといけないから」士師記7:2
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当時、イスラエルは絶えず外敵から攻撃、侵略を受け、非常に苦し
い状況にあった。主はデオンを選び、諸国と戦わせようとされた。
民に呼びかけると32,000人が集まった。ところが相手は135,000人
の大軍で、数字上では圧倒的不利で、どう見ても全く勝ち目はな
い。
しかしその時、主は極めて不思議な事をされた。ギデオンに兵士の
数が多過ぎるので、減らすよう命じられたのだ。次々と減らされ、
最終的にはたった300人だけが残された。それでその300人で戦う
と、
何とギデオンが大勝利したのだ。
この時、主は減らす理由として「大人数だと自分の手で救ったと自
分を誇るから」と言われた。この戦いの勝利が人でなく、主による
ものと明確にするように、あえて数を減らされた。私たちはどうだ
ろう。自分にもっと力があり、能力があればと思うだろうか。
だがもし力があれば、主のみわざを自分が奪い、自分を誇り、自分
の栄光にしてしまう。信仰的体験さえも、肉は誇る。パウロは、第
三の天にまで引き上げられるという、誰も経験のない、極めて特別
な啓示を受けた。
パウロも、自分を誇らないよう、高ぶらないよう、とげが与えられ
たと言っている。苦しいとげだったが、それにより高慢の罪から守
られた。高慢からの守りは、何と感謝な事だろう。そして更に素晴
らしい示しを受けた。「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」
と。
この世での賞賛は「強さ」だが、私たちは「弱さ」を誇れるとは何
という恵みだろう。過去の、あれや、これやの出来事は、高慢から
守られるためだったのではないだろうか。
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主は私たちの力や経験など全く問うておられない。素直に従う信仰
だけだ。人の目には焼け石に水のようなものでも、主の戦いは必ず
勝利する。弱さのままで主に従おう。
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2022年08月15日(月)
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神 よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17
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ダビデはバテシバと姦淫し、それを隠ぺいするために、その夫ウリ
ヤを殺害した。王であり、誰も何も言えない。口をつぐんでいたと
ころ、主は、預言者ナタンを遣わされた。ナタンはどうだったろ
う。
すでにウリヤは殺害された。ナタンも、即、殺されても不思議はな
い。
しかし、主に従順に従い、ダビデのもとへ行き、言った「二人がい
て、一人は富み、一人は貧しかった。富む人は、多くの羊や牛を所
有していたが、貧しい人は一頭の小さい雌の子羊だけだった。彼は
それを自分の娘のように大事に育てた。旅人が、富む人の所に来た
が、自分の羊を調理する事を惜しみ、その貧しい人の子羊を奪って
調理した」。
するとそれを聞いたダビデは激怒し「そんな事をした男は死刑だ」
と言った。ダビデの密かな罪が反応したのだ。つかさずナタンは
「あなたがその男だ」と。その時ダビデは、「わたしは主に対して
罪を犯した」と罪の告白をした。
ナタンは、まずダビデの罪の指摘でなく、人の罪の話をした。他人
の罪には非常に敏感だ。ダビデも自分の罪は気づいていた。だが自
分は王で、すべては意のまま、隠し通せると思ったろう。他人の罪
としてナタンから語られた時に、その罪がはっきり示され、重大さ
に気づいた。
王が悔い改めるのは、人々の手前も簡単ではなかったろう。しかし
主の御前にへりくだり、悔い改めた。刈り取りに苦しみつつも、練
られ、聖められ、信仰の人ダビデが造り上げられて行った。罪は赦
され、建て直され、建て上げられる。何という測り知れない恵みだ
ろう。
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罪が赦されるとはどれほどの喜びと平安だろう。神が赦してくださ
る。罪は常に私の前に置かれているとダビデは言っている。誰もが
失敗するが主の前に悔いた心をささげよう。新しい歩みができる。
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2022年08月13日(土)
「『それを地に投げよ』彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった」 出エジプト4:3
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モーセが、出エジプトのリーダーとして、主から召し出された。
「今、行け。あなたをパロのもとに遣わす」と。突然の事に、モー
セはどんなに驚き、困惑した事だろう。こんな老人になって、今さ
ら何を?かつて若い40歳の時に、自信に満ち溢れ、民を救うのは、
自分しかいないと勇み立ったが、拒絶され、失敗し、ミデアンへ
逃亡。
40年の遊牧生活を経て80歳になっていた。かつての野心も名誉心も
失せ、羊を飼う歳月、家庭も持ち、穏やかな日々に小さな幸せも感
じていただろう。このまま静かに平穏に人生を全うしたい。今やエ
ジプトでの地位も影響力も何も無い。一介の老いた羊飼いに何が出
来よう。
尻込みするモーセを、主もそれは承知だとばかりに、説得して行か
れる。そして羊飼いの杖を「それを地に投げよ」と言われ、地に投
げると蛇になった。次に「その尾をつかめ」と。モーセは蛇の恐ろ
しさを知り、尾をつかむ事がどんなに危険かを知っていた。
信仰によってその尾をつかんだ。すると杖になった。それは神の杖
とされていた。その杖を手に取り、しるしを行なうようにと。モー
セは神の杖を持ち、エジプトへ戻った。羊飼いの杖が、今や神の杖
として用いられるのだ。それは特別なものでなく、ずっとモーセが
使ってきた古びた杖だ。
神は、すでにあなたの手にあるものを用いられる。一旦地に投げた
ように、それを献げる時、きよめて返され、主の栄光のために用い
て下さる。「あなたの手にあるそれは何か」。自分の手にあるもの
を考えてみよう。
------------
知恵や経験値で自分を見るなら出来ないと尻込みしたくなるが主
は、
今置かれている場所で用いてくださる。主が選び、主が用い、共に
歩んでくださる。主を信じて委ねていこう。
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2022年08月12日(金)
「悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、 その人を取り囲む」詩篇32:10。
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「恐れのある日に、私はあなたに信頼します」主に信頼する人は、
悪い知らせを恐れず、その心はゆるがないともある。深夜の電話ベ
ルに、もしや訃報か、悪い知らせかと、不安になった事があるだろ
うか。
ある時イスラエルが、ペリシテに打ち負かされ、神の箱が奪われ、
祭司エリの二人の息子は死んだ。エリがそれを聞いた時、道のそば
の席から仰向けに落ち、倒れて首を折って死んだ。悪い知らせを聞
く時に、パニックになり、固まって、立っておれないかもしれな
い。
だがヨブは、全財産を無くし、子供全員が死ぬという、これ以上無
いほどの、悪い深刻な知らせを受けた時も、立っておれた。その心
が主に堅く信頼していたからだった。私達も悪い知らせを聞く時の
ために、心を備えておく事は大切だ。まず、主は愛して下さってい
る。それは独り子を賜うほどの愛だ。そこから動かないでいよう。
主は必ずこの事態も働かせて、益とされ、私達のために最善をして
下さると、心に定め、自分にメッセージしていよう。耐えられない
試練は一つとして無く、脱出の道もある事を覚えよう。状況がどん
なに嵐のように吹き荒れても、主に信頼する者を、この世のもので
はない「主の平安」で守って下さる。
決して不運なのではなく、すべての事は、主の支配の中で、完璧な
ご計画とプログラムの中である事を覚えよう。「しっかりしなさ
い。
わたしだ。恐れることはない」との主を見て、今こそ信仰を働かせ
よう。状況でなく、状況を支配し、全主権を握っておられる、主を
仰ぎ見ていよう。
------------
喜びにつけ悲しみにつけ思いは動揺し敏感に反応する。そこから何
を見ていくかが問われる。主を仰ぎ、主の御言葉を握り、動揺に打
ち勝っていこう。恐れのある日に、私はあなたに信頼します。
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2022年08月11日(木)
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべて の武具を身に着けなさい」エペソ6:11
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ある人が証しした。知人に夫婦で教会に誘われ、その礼拝で夫婦共
に主を信じ救われた。大きな恵みだった。御言葉を学び、教会での
交わりは大変楽しく、喜びに溢れ、充実した時を過ごしていた。
そんな時、夫に他社からの誘いが来たのだ。夫は専門知識を持ち、
その分野で高い能力があった。
高収入の上に才能を認められ、フルに発揮できる場が大きな魅力だ
った。牧師に相談し祈ってもらった。その結果、牧師は反対だっ
た。
教会生活が大変祝福されていて、今は動かずに、ここで信仰の土台
が築かれるのが良いと。だが、したい仕事が自由に出来る魅力に負
けてしまった。遠方に引っ越した。
すると妻は教会に馴染めず、行かなくなってしまい、夫も仕事は高
度でハードだった。残業も多く、心身疲へいして行った。「主はあ
われみ深く、情け深い神」の通り、後に立ち返れた。あの時は、牧
師の導きを受け、自分たちも、その選択がベストと心では思ってい
た。しかしサタンの誘惑に負けてしまったと。
平安の全く無い日々だった。どんな時にも主のあわれみは尽きず、
失敗を赦して下さり、もう一度立たせて下さる。しかしもし歩みに
おいて、うすうす主の御心がわかっているなら、サタンの誘惑を拒
否し、御霊の示しに従おう。そう出来るよう祈ろう。
サタンの誘惑は実に巧妙だ。御心をそらせるように、弱いところを
突いて来る。祈りは力だ。祈りにより、主を選び、御心を選べるよ
う、助けて下さる。
------------
巧妙に主の恵みと祝福を奪いに来るサタンの誘惑に警戒していよ
う。
自分の欲望に合致しているので絶対に勝てない。御言葉を握り、立
ち向かおう。サタンが奪いたいほどの祝福がそこにある。
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2022年08月10日(水)
「なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたので はなく、神を欺いたのだ」使徒5:4
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アナニヤとサッピラは、バルナバが畑を売り、代金を主に献げるの
を見た。人々が皆、バルナバを賞賛し尊敬するのを見て、自分たち
も、人々の賞賛を得たいと思ったようだ。それでバルナバの真似を
した。持ち物を売り、ある部分を持って来た。ところが、アナニヤ
とサッピラは、動機がバルナバとは違っていた。
自分たちの欲望のためであった。サタンの誘惑に乗ってしまい「サ
タンに心を奪われて」とあり、「聖霊に心を満たされて」の逆方向
だった。そして「あなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みた」
と。つい魔がさして、というものでなく、「心を合わせた」計画的
なものだった。そこが問題だ。
「敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきもの
を捜し求めながら、歩き回って」いる。サタンは絶えず私たちを狙
っている。その身を隠す事が、サタンの狡猾な策略であり、私たち
は誘惑されていて気づかない。祈っていよう。御霊が気づかせて下
さる。
罪は、主の御前に悔い改めよう。主の愛は不変であるので、私たち
がどのようであれ、主の愛は全く変わらない。悔い改めた罪は、完
全に赦して下さる。自分では聖霊の導きに従えないので、その自分
自身を主に明け渡そう。その時、主が、私たちを用い、御心を遂げ
て下さる。
アナニヤとサッピラは、人ではなく、「聖霊を欺いた」「主の御霊
を試みた」とある。主に従う事が、つまりは聖霊を欺かない事にな
る。主に従おう。示された事を行なってゆこう。自分を明け渡し
て、
主の示しに従う時、サタンに欺かれない。
------------
主に従おうと思っていても思うようにはできない。それを主の前に
正直に認めていくことしかできない者だ。主の前に真実でいよう。
主が欺きから守ってくださる。御霊の導きを聞こう。
|
2022年08月09日(火)
「彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示はあお ごうとしない」イザヤ30:2
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ヒゼキヤは、アッシリヤと戦うために、エジプトと同盟を結んだ。
主に頼らずに、目に見えるエジプトを頼ったのだ。その軍事力を頼
みとした。私達もどうだろう。困難な状況に直面すると、パニック
になり、不安でたまらず、いても立ってもいられず、恐怖に襲わ
れ、
飲み込まれてしまう。あなたも経験あるだろうか。
落ち着こうとしても、心が騒いでしまい、心はちぢに乱れ、どうに
もならない。そして目に見えない主になど、頼れずに、目に見える
人に、目に見えるものに、しがみつき助けを求めてしまう。なぜ主
に頼れないのだろう。心が立ち騒ぎ、地についておらず、祈っても
心が伴わず、不安がどうにもならない。
又、サタンの惑わしの声の方に聞いてしまい、心を持って行かれて
しまう。サタンは、不安と恐れを幾らでもあおり立てる。その声の
方を受け入れてしまうので、主の御声がシャットアウトされて、聞
こえなくなる。今、目の前に不安な状況が立ちはだかっているだろ
うか。
まず正直に「心が立ち騒いでいます。不安で不安でたまりません」
と、あるがままを祈って行こう。目に見えるものに頼ってしまう、
あるがままの心を祈り続けていると、ふと不思議に心が落ち着いて
くる。主が受け止めて下さっている。
そして主の御声に耳を澄まそう。御言葉を握り、反すうしよう。立
ち返って、静かにすれば救われる。落ち着いて主を信頼せよ、力を
得るからと。その言葉に従おう。主を信じて行こう。必ず御霊が助
け、導いて下さる。
------------
ありのままの思いを祈ろう。不安ですぐにはかりごとをめぐらせて
しまうと。主に立ち返って静かにすれば、落ち着いて静かにすれ
ば、
力を得ると主は言われる。御言葉を握って主に信頼しよう。
|
2022年08月08日(月)
「ヘロデは・・彼らに向かって演説を始めた。そこで民衆は、神の 声だ。人間の声ではないと叫び続けた」使徒12:21
|
初代教会が、力強く前進していたところに、ヘロデ王が立ちはだか
った。残虐非道な人物であり、十二使徒の一人であるヤコブを殺害
した。それがユダヤ人の気に入ったのを見て、人々に取り入るため
に、次にペテロを捕え、殺害しようとした。彼はすべては、トップ
である自分の思い通りになると軽く見ていた。
しかし、主が関与され、阻止された。4人一組の兵士4組の厳重な
監視の中、御使いが現われ、鎖が解かれ、連れ出された。ペテロは
救い出された。番兵達を処刑したヘロデは、演説中に、自分に栄光
を帰しているまっただ中で、主に打たれ息絶えた。
ヘロデは常に人々の歓心を買う事に夢中であった。権力と地位を用
いて、したい放題に、自分の欲望の思うがままに振る舞った。人々
から「神の声だ」と言われ、自分が誉めそやされる事に酔いしれ、
自分に栄光を帰した。その結果、高慢ゆえに滅んでしまった。
私たちもヘロデから学ぶことができる。心の王座に、自分が君臨し
ていないだろうか。それなら自分の思い通りに、欲望の命ずるまま
に行動してしまう。ペテロやパウロは人々から崇められ、慕われる
時も、「栄光は主に」の立場を決して崩さなかった。彼らの信仰で
あった。
私たちはどうだろう。心の王座にいるのは、主だろうか、自分だろ
うか。人の目、評価が気になり、人に認められたい誘惑が絶えず来
る。そのために生きてしまう。そんな自分を認め、主を仰ごう。気
づく度に、御前に明け渡そう。栄光を主に帰する事も、主による事
で、主の助けが臨む。
------------
主を愛することさえ自分のために、という者ではないだろうか。絶
えず自分が王座に座っている。主の恵みによって新しく生きている
者である事をいつも覚え、主に感謝し主に明け渡していきたい。
|
2022年08月07日(日)
「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さ らに五タラントもうけた」マタイ25:16
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タラントのたとえが出て来る。主人が、財産をしもべたちに預けて、
旅に出る。五、二、一タラントを各々に預ける。五タラント預かっ
た者は、「すぐに」行って、商売をして、更に五タラントもうけた。
二タラントの者も、同様にして、二タラントもうけた。ところが一
タラントの者は、地の中に隠して埋めた。
五タラント、二タラントもうけた者への、主人からのほめ言葉は全
く同じだった。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わ
ずかな物に忠実だったから、私はあなたに沢山の物を任せよう」五
と二、額は倍ほども違うのに、全く同じ賞賛だ。成果自体より、主
人のために働きたい、主人を喜ばせたい、主人の期待に応えたい、
主へのその思いが「すぐに」実行させた。
主人への愛がなせるわざだ。一タラントの者への叱責は、成果の問
題でなく、何もしようとしなかった事による。「悪い怠け者のしも
べ」と。主人を誤解していた。奪い、要求するだけの、恐い、過酷
な主人だと。もし財産を失いでもしたら、どんなひどい目に会うか。
そんな主人のために、何をしたいとも思わない。
しかしそうだろうか。極みまで私たちを愛し、独り子を私たちの身
代わりに殺された。これ以上の何があるだろう。自分の欲でなく、
この主人が望まれる事を求めて生きる時に初めて、自分自身に御霊
の喜びが満ちる。「主人の喜びをともに喜んでくれ」。今、主から
何か示されているだろうか。「すぐに」従おう。豊かな溢れる祝福
が備えられている。
・・・・・・・・・・・
労の報いとして、主人の喜びを下さり、共に喜べるとは、何と嬉し
い事だろう。主のために労して、成果が出れば喜んでくださるし、
懸命に働いて、仮に失敗したとしても赦して下さるお方だ。そして
結果どうのより、何よりも「忠実」を見て下さっている。
|
2022年08月06日(土)
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまりま す」ヨハネ15:4
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日常生活で、どうだろう。相手から、批判や、悪口、悪い態度を向
けられた時、どう対応するだろう。つい反応してしまい、反撃し、
言い返したり、ムッと不機嫌な態度になる時がある。又、別の時に
は、穏やかに受け止める事ができ、悪を悪で返すのでなく、愛ある
態度で対応することができる。
その違いは、多くの人が、心に「余裕」のある時は、そのようにで
きて、「余裕」が無い時は、イライラして、感情的反応をしてしま
うと言う。誰しも経験あるだろうか。その「余裕」は御霊の潤いだ。
主は、わたしにとどまれと言われる。主も、私たちの中にとどまる
と。そうする時、私たちは多くの実を結ぶと。主にとどまっている
事が大切だ。主にとどまるとは、日ごとに、主と交わりの生活をす
ることだ。主の御声を聞き、主に祈り、主と対話をする。それが祈
りの生活だ。主との交わりの中にいる時は、心に「余裕」がある。
機械に潤滑油が切れたらどうだろう。ギシギシと、きしみ動きにく
くなる。油をさすとなめらかに動く。主の御声に耳を傾け、いかに
自分が主から愛されているかを知って行くことが大切だ。現実の生
活を通して、実際に主の愛に触れて行く。
主の愛を知る時に心に喜びが来て、主を愛し、人を愛して行ける。
主の愛に触れて行くと、心が満たされて、「余裕」ができ、人を愛
さずにはおれなくなる。御霊の力だ。人を愛そうと頑張るのでなく、
まず神の愛を知って行くことが大切だ。
・・・・・・・・・・・・・
主にとどまること、主との交わりが途切れると、油が切れるように、
心がギスギスする。イライラ、ピリピリ、平安の無い状態はサイン
だ。すぐに主のもとに行こう。主の霊に触れる時、生き返り、心に
平安が戻る。
|
2022年08月05日(金)
「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私 の神であられますから」詩篇143:10
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私たちは、何を喜びとするだろう。自分の願望が叶えられ、自分の
思い通りになるなら、幸せだと思うのではないだろうか。だいた
い、
自分の欲望が満たされる事が心地よく、幸せに感じる。これは肉の
価値観であり、主を知る以前はこの価値観で生きて来た。
心満たされたいゆえに、自らの願望を遂げようとする。仕事、趣
味、
名誉、地位、愛する人・・次々と求めて行く。しかし欲するものを
手にした時に、一瞬の快楽はあるが、真に満たされる事は無い。心
は虚しく、更に渇くばかりだ。「この水を飲む者はだれでも、また
渇く」とあり、欲望が叶っても、心が満ちる事はない。
井戸ばたのサマリヤの女性は、5回の結婚と5回の離婚を重ね、現
在は同棲中だった。彼女は男性が自分の心を満たしてくれ、自分を
幸せにしてくれると信じていた。だから結婚がうまく行かないと、
この相手だからうまく行かないのであって、別の相手ならと、5回
も結婚を繰り返した。しかし決して満たされる事はなかった。
今も多くの人が、自らの欲望が満たされる事が幸せであり、人生の
目的だと思っている。しかしそこに満たしは無い。真の幸せと満足
は、自分の欲望を満たす事でなく、神ご自身にあり、神の御心を歩
むところにある。
主に、御言葉に従って行く時に、自分に真の喜びが与えられ、心が
満たされる。そして目の前の一つ一つの御心に従って行く時に、自
分が変えられる。主のかたちへと変えられて行く。真の喜びと平安
を経験して行く。
------------
祈りに祈って与えられたものも、すぐに小さな恵みに思えてくる。
自分の気分に従っているといつまでも渇き満たされない。主の与え
てくださった救いと日々の恵に感謝し、真の喜びを求めていこう。
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2022年08月04日(木)
「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下には いません」ガラテヤ5:18
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私たちの古い性質は、御霊に従うことに抵抗し、逆らう。肉の願う
ところは、御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからだと言っている。
だから自分のしたいと思う事が出来ない。サタンもそこに働いて攻
撃して来る。主は「すべての事について感謝せよ」と言われる。
しかし肉は「なぜこの状況で感謝できるのか。できるわけがない」
と否定する。「偽ってはならない」と主は言われ、肉は「この場合
は少しの嘘がうまく行く。グレーにしおこう」と言う。主は「隣人
を愛しなさい」と言われ、肉は「そんな事無理。嫌な人は愛せな
い」
と言う。
主は「間違いをしたら、謝るように」と言われ、肉は「ごめんなさ
い、だけは絶対に言いたくない。良い行ないでチャラにしよう」と
思う。主は「自分で復讐するな」と言われ、肉は「報復したい、何
倍にもして仕返ししたい」と思う。御心を示されると、肉は逆らい
「したくない。肉は、御霊の導きと真逆に向かう。
主の御心と反対向きだ、主の栄光を損なって行く。御霊と肉に引っ
張られ、身動き取れない状況だ。「御霊によって歩みなさい」が答
えだ。歩んだ方が良いのでなく、歩めと命令形だ。自我は強く、ま
ず御霊によって歩めない事を認めよう。
そして、自分ではどうにも出来ないので、主にゆだねて、助けを求
めて祈ろう。主に自分自身を明け渡す時、御霊が自由に働かれ、自
分が頑張るのでなく、助けられて、御心を行なってゆける。
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何とやろうと思えるようになってから祈ろうと、素直に御霊に従え
ない肉がある。出来ません、したくありません、出来るように助け
てくださいと祈っていこう。弱いままの自分で主に頼ろう。
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2022年08月03日(水)
「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、 あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう」創世記31:15
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ヤコブは、兄と父を欺いて祝福を奪い、兄は激怒で身の危険に家に
おれなくなった。遠く伯父宅を目指すが、途上で日が暮れ、野宿し
た。孤独と不安の中で、主が「あなたをこの地に連れ戻そう」とヤ
コブに約束された。そして主は、この約束を成就された。
しかしその約束の成就に、1年や2年ではない、何と20年の歳月を
要した。短い月日ではなく、気が遠くなるほど長い年月だ。私たち
は、なかなか待てない。待つ事が非常に苦手だ。すぐに目に見える
結果が欲しい。しかし、主は早急にではなく、地道に、歳月をかけ
ながら、少しづつ〃こつこつと、着々と、私たちを導かれる。
今の1日〃は、主に在って、練られきよめられ、造り変えられる途
上にあり、1日も無駄な日は無い。必ず時は満ちて、「神の時」は
到来する。約束が成就して行く時には、何らかの予兆がある。よく
よく見ていると、状況が少しづつ変化して行く。ヤコブの状況もそ
うだった。
ラバンの息子達が、父の物をヤコブが盗んだとの言い方をする。ラ
バンの態度も変わって来た。好意的でなくなり、このままなら争い
と問題が起きて来そうだ。ヤコブへの対応が違って来て、微妙な空
気を感じ取る。そんな状況で、はっきりと主の御声が臨んだ。
「あなたの先祖の国へ帰りなさい」「さあ立ってこの土地を出て、
あなたの生まれた国へ帰りなさい」。今こそ約束の時が来た。私た
ちも、状況の変化をよく見ていよう。そして、明確な主の言葉が臨
む時は、行動を起こすべき時だ。祈りから立ち上がって、行動して
行こう。
------------
平凡な一日でも、主は何かの目的をもって私たちを導いておられる
はずだ。不安も痛みも主に告げながら誠実に主と歩もう。やがて主
の時に、主と誠実に歩んだ今日が強い支えとなる。
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2022年08月02日(火)
「私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私 を贖い出してくださいました」詩篇31:5
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幼児が、口の狭いキャンディボックスに手を入れ、飴を握りしめ、
手が出ないと泣き叫んでいる。時々目にする光景だ。飴を放すと、
手が出るよと言うが、嫌だと泣くばかり。こっけいな光景だが、私
たちの霊的生活に似ている。心がザラつき、悶々と苦しいだろう
か。
その時は、何かを握りしめている。憎しみや妬みか、裁く心か、赦
せない思いか、思い通りにしたい事柄だろうか。憎しみや妬みや裁
きは、自分が辛い。平安も喜びも無い。飴を手放すなら、ボックス
から手が出る。憎しみや妬みを手放す時、心は自由にされ、喜びと
平安が戻る。
しかし固い自我は、決して放そうとしない。苦しいのに、憎んでい
たいし、妬んでいたい。罪の性質だ。「出来ません」「したく無い
者です」と認める事から始まる。ある人が子供の難病を、どうして
も受け入れられないでいた。
「なぜ?」「どうして?」「自分の子が?」と涙は溢れ、グルグル
思いは回り、苦しみ、つぶやき、主に対して反抗している自分がい
た。同年齢の子どもを見れば涙が出た。悶々の心は苦しくてたまら
ず、とうとう限界に達し、ギブアップした。もう瀬戸際で、明け渡
さざるを得なかった。
苦しみの余り、自分自身も子どもも将来も、不安も恐れも、何もか
もを明け渡した。その時、状況は変わらず、同じなのに、心に生ま
れて初めての、深い安堵と平安が臨んだ。委ねられないで握ってい
るなら、その事を主に告げて、ありのままの心を祈ろう。
------------
ひとつ、ひとつ主に委ねて御心を信頼し受け入れていきたい。自分
の思い通りという執着から解放される。試練と共に置かれて在る慰
めや恵みに気づける。
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2022年08月01日(月)
「・・生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリスト のすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにか なっているのです」ピリピ1:20
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時に、主のみ思いと、私たちの思いが大きく異なる事がある。思い
にずれがある。主は、「求めよ。そうすれば与えられる」と求める
ように言っておられる。私たちの祈りを喜んで下さり、どんな小さ
な祈りも、耳を傾け、聞いて下さっている。
だが、祈りが答えられるとは、自分の都合の良いようになる事では
ない。私たちは自分の思い通りにしたいとの、非常に強い思いがあ
る。自分の思い通りに、祈りを叶えて欲しい。しかし、時に主のみ
思いは違っている。
例えば、私たちは、生まれつき身体が不自由なら、自由に動くこと
が、いやしであり、祈りの答えだと思ってしまう。しかしもし、不
自由であっても、御霊の平安が与えられ、生き生きと感謝の人生を
送れるようにされる、それが答えであるかも知れない。祈りが聞か
れるとは、自分の思い通りではないかも知れない。
だがもし、自分の思い通りではない道だが、主の栄光が現れるな
ら、
どうだろう。私たちの目標は、どんな時にも、私たちを通して、主
の栄光が現れることだ。パウロは、トゲが取られるよう、3度も祈
ったが、つまり徹底的に祈ったが、主は、それがある方がより栄光
が現れると言われた。
ある人はトゲが取られ、ある人はそのまま残される。どちらも主の
栄光のためだ。私たちの「なぜ?なぜ?」と、不満と愚痴の部分を
今一度、御霊の光に照らされて、受け取り直そう。主の栄光のため
ではないだろうか。
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受け入れがたい現実もそれが主の取り扱いなら、時間がかかっても
与えられた御心を受け取って喜びたい。主は祝福してくださる。私
の身によって主の栄光を現すとは、主にあっていつも喜んでいる事
ではないだろうか。
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