2022年09月30日(金)

「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、 『主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですか ら』と言った」ルカ5:8


主はペテロに、深みに漕ぎ出て網をおろせと命じられた。それは常
識では考えられない事だった。漁は徹夜で、夜に行なうものであ
り、昼間は魚は捕れない。ペテロの経験値からは拒否反応が起こる
ような命令だった。又ペテロはベテラン漁師であり、漁のプロだ。
「漁の事なら先生より自分の方がよくわかる。先生は漁については
素人」

と思ったかもしれない。そして更にペテロは徹夜で疲れ果ててい
た。もうヘトヘトだ。更に魚穫がゼロで、心身ぐったりだったろ
う。一刻も早く家に帰って休みたい。どうせ捕れないのに、骨折り
損のくたびれもうけだ。様々な思いが巡る中、ペテロは一つの決断
をした。

この時間帯魚などいないが、「でも、お言葉通りに」「その通り
に」網を下ろしてみようと。深みに出て、網を下ろした時に奇跡が
起きた。何とそこにいるはずの無い魚がいた。それもとんでもない
大漁だ。昨夜は一匹も捕れなかったのに。有り得ない事が起きた。
ペテロは余りの驚きで、聖い畏れを感じた。神の聖さと御力を見た

。臨在に触れて、「先生」から「主」に変わった。「主よ、私から
離れて下さい。罪深い人間です」と。どうせ魚などいないと思って
いた、不信仰を示された。主の言葉に、その通りに従う時、主のみ
わざを見、知識で知っている主を、御霊によって真に知って行く。
一つ一つと御言葉に従って行く時にのみ、主を経験して行く。
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これは無理だとの思いでなかなか自分の経験を超えられない。でも
主の御言葉に従わなければ思いをはるかに超えた主の聖さに触れる
事もない。自分の不信仰の姿をはっきり見せられ謙遜にさせられ
る。


2022年09月29日(木)

「・・御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されると いうのですか」ガラテヤ3:3



私たちが主を信じ、救われた時、いっさいの行ないにはよらず、一
方的な恵みによった。何の行ないも無かった。主の十字架の身代わ
りの死を信じ、救われた。ただ信じただけで救われた。その恵みは
理解できるのだが、救われた後は、行ないで生きてしまう。今まで
の古い価値観が根深く培われているためだ。

この世の価値観は、成果は自分の力がすべてであり、自分の努力、
頑張りで勝ち取るものだ。自分を信じて、自分の力で生きて行く。
自分以外のものを頼るな、自分の力で頑張れ、がこの世の教育だ。
そのため恵みによって救われたのだが、救われた途端、信仰生活は
自分の力になり、自分で頑張ってしまう。

祈り自体もこの世の宗教のごとく行ないになり、犠牲的な献げ物に
よって、神は愛して下さると思ってしまう。自分の願いが叶えられ
るためには、もっと祈りを積み上げ、もっと信じなければと、そこ
に自分の力が出て、苦しくなる。信仰生活が辛くなっていたら要注
意だ。

救いは一方的無代価だが、いつしかその後の祝福は、行ないによっ
ていないだろうか。しばしば陥ってしまう。神の愛顧を得るため、
神に受け入れて貰うために、何かをするなら、それは律法であっ
て、恵みから落ちている事になる。

神に100%完全に愛されているから、受け入れられているから、安
堵と感謝が溢れて、自発的自由意志で献げたいと思うのが「福音」
だ。そして自力でなく、全面的に主に頼って生きて行く歩みだ。
そこにあるのは苦しい頑張りでなく、主への信頼と平安だ。
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弱さのままで主は支えてくださる。そこに感謝がある。自分を見る
と出来ない事ばかりだが、主との関わりの中で主の聖さや正しさや
慰めを経験し、ただ愛されていることを知っていける。


2022年09月28日(水)

「・・アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒 りはイスラエル人に向かって燃え上がった」ヨシュア7:1



約束の地へ入ったヨシュアと民は、主の奇跡によりエリコの戦いに
勝利した。その噂は周囲にあまねく広まった。次にアイへの偵察隊
を遣わし、戻ると「二、三千人で大丈夫」と報告した。そのため三
千人を戦いに出したが、想定外の散々な敗北だった。

民の心はしなえ水のようになった。勝利を疑わなかっただけに、大
変な衝撃であり、動揺であった。主の大きな奇跡でヨルダン川を渡
り、エリコ城壁崩壊の大勝利を目の当たりにし、勝利に次ぐ勝利
だ。大いなる神が民と共におられる、周囲の民もそれを恐れた。

その事こそがヨシュアの拠って立つところで、しかしこの敗北の事
実が、それらをなし崩しにしてしまう。敵の前で、主の御名は、こ
の敗北はどうなるのか。敵は恐れなくなるだろう。ヨシュアは「な
ぜですか」とひれ伏した。「大いなる御名のために何をされるの
か」と。

だが、「大いなる御名」こそが、この敗北を与えられた。全能の主
は、同時に聖い主であった。聖さに関心を持たれ、聖さのゆえ罪の
あるところに働かれない。聖く無い所では、むしろ敗北の方が、主
の栄光が現れる。妨げは主の側ではなく、民の側にあった。主との
間が正しければ、アイでも勝利していた。

主の示しによりアカンの罪が発覚した。民から罪が除かれた時、再
びアイに上り、完全勝利した。私たちも罪は主との間の妨げとなり
平安を失う。主の血潮がある。すぐ御前に行き告白しよう。主は赦
し回復して下さる。平安が戻り罪赦された喜びが溢れ、主の愛を知
って行ける。
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罪を犯したままでいると必ず平安を見失い、明日の心配が押し寄せ
てくる。起きる全ての事に主の御手があり、主は御心から離れてい
ると気づかせてくださる。感謝だ。悔い改められる。


2022年09月27日(火)

「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をお おうからです」Tペテロ4:8



ノアの箱舟の出来事の後、箱舟から出て来たノアの息子たちは、セ
ム、ハム、ヤペテであった。ノアはぶどう畑を作り始めた。そして
ぶどう酒を飲んで、酔っ払って、天幕の中で裸になっていた。息子
のハムがそれを見て、外にいるセムとヤペテに告げた。

ハムは父のぶざまな裸の姿を見て、二人の兄たちに、告げ口をする
が、しかし二人の兄たちは、着物を持って来て、自分達二人の肩に
かけ、後ろ向きに歩いて行って、父の裸をその着物でおおい、父の
裸を見なかった。愛は、人の失敗や弱さをあげつらい、はずかしめ
るのでなく、それをおおう。

ノアは自らの裸をおおってくれた二人の息子を祝福した。「互いに
熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」とある
が、罪をあげつらわずに、おおう事が愛だと。律法学者とパリサイ
人が、姦淫の現場で捕らえられた女性を連れて来た。

主に、モーセは姦淫の女を石打ちにするよう命じていると。あなた
はどうするのかと詰め寄った。群衆は野次馬で、好奇心満々でそこ
にいる。主はじっと座って地面に何か書いておられた。そして罪の
無い者が石を投げよと言われた時に、人々は去り、誰もいなくなっ
た。

その女性に、主は「婦人よ」と語りかけ、「わたしもあなたを罪に
定めない。今から決して罪を犯してはならない」と。その女性の罪
を、主がおおわれた。私たちも、同じく十字架で罪を赦され、おお
われた幸いな者だ。驚くべき恵みだ。
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自分の内にも、そこここに野次馬がいて好奇心の目で周囲を見る。
愛のない姿を認めて、ないものを主に求めたい。愛は多くの罪をお
おう。簡単に裁こうとする自分の罪に敏感でいたい。


2022年09月26日(月)

「神は、ノアと箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣やすべて の家畜とを心に留めておられた」創世記8:1



ノアは、主から箱舟を作るよう命令を受け、その通りに従った。だ
が見渡す限りの晴天、雨など降りそうにない。ましてや洪水など誰
が信じられよう。しかしノアは見える所や自分の思い、感覚、感情
でなく、主の言葉を真実とし、主の言葉に従った。寸法も設計も自
分の思いや感覚でなく、「すべて主の命じられたとおりにした」。

箱舟が完成した時も、自分で入るのでなく、主から「あなたとあな
たの全家族とは箱舟に入りなさい」との言葉によった。すべてにお
いて、主の言葉に従った。雨は40日40夜降り続き、その後も150日
間、5ヶ月間、水が増え続けた。その後、水が引き始め、大雨が止
んだ。

アララテ山上に箱舟はとどまり、2ヶ月半後に、山々の頂きが現れ
た。ハトを放っては様子を見、結局山上で尚7ケ月待った後、地は
乾いた。その時、主は家族と一緒に箱舟から出るよう命じられた。
ノアは箱舟を作るのも、箱舟に入るのも、出るのも、すべて主の言
葉によった。

水かさが増し続けた5ヶ月、雨が止んだ後7ヶ月、ずっと箱舟の中
だった。どんな思いだったろう。しかし、主は「ノアと、すべての
獣や、すべての家畜とを心に留めておられた」。主が心に留めて下
さっているなら、それがすべてだ。私たちにも同様にして下さって
いる。

先が全く見えない、試練の中で、主は、あなたを心に留めておられ
る。それで十分だ。主は必ず最善をして下さるからだ。そこを信
じ、試練の中で、主の言葉に従って行こう。
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主の御言葉を信じて素直に従っていく信仰生活はなんと幸いだろ
う。主の最善を信じていても目の前の暗闇に影響されてしまう。不
安や恐れを祈りつつ祈りつつ、幼子のように主に従っていこう。


2022年09月25日(日)

「その名はインマヌエルと呼ばれる(訳すと、神は私たちとともに おられる、という意味である」マタイ1:23


ある時、主は、弟子たちを強いて船に乗り込ませられた。つまり、
強制的に湖に送り出され、弟子たちは沖へこぎ出した。その途上で、
嵐となり、湖は波と風で荒れれ狂った。何も見えない、夜の真っ暗
闇の中での嵐は、どんなに恐怖であったことだろう。信仰人生にお
いて、嵐には出会う。雨も風も洪水も、又、日照りも、飢饉も来る。

人生には順境と逆境があり、順境は来るが、逆境も必ず来る。それ
は世の人々と同じだ。しかし世の人とどこが違うのか。その嵐のま
っただ中に、来て下さる主がおられる!必ず嵐に会うが、「しっか
りしなさい。わたしだ。恐れることはない」との主がおられる。何
と心強く、力強いことだろう。

私たちが、試練のまっただ中で、不安と恐れの中にいる時、又、辛
さと苦しみの中にいる時、孤独の中にいる時、「わたしだ。恐れる
ことはない」と言われる主がおられる。その主は、荒れ狂う湖の上
を平然と歩いておられる。私たちの問題や悩み、困難の上を歩いて
おられる。

ある人が若い頃、夜遅い帰宅となった。電灯も無く、うっそうとし
た森を通るのだが、真っ暗闇の中、もう足がすくんでしまい歩けな
い。固まってしまい、どうしても足が出ない。「神様!」と叫んだ。
その時「主共にいます」の言葉が、光のように来て、その場がパッ
と明るくなったように感じ、通り抜ける事が出来た。私たちの平安
は、問題が無い事ではなく、どんな時にも、主が共におられること
だ。ここに全き平安がある。

・・・・・・・・・・・・
生まれつきの性質は、問題が無いこと、平穏無事が善との価値観が
根深いが、そうではなく、「主が共にいます」大きな恵みで救いだ。
問題が無い事でなく、「世の終わりまで、いつも共にいて下さる主」
これを与えて下さっている。


2022年09月24日(土)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時 がある」伝道の書3:1


すべての事に「神の時」がある。主も「わたしの時がまだ満ちてい
ないからです」「見なさい。時が来ました」と、「時」を重んじら
れた。私たちの日々にも、何事においても「時」がある。カナの結
婚式の最中に、ぶどう酒が無くなってしまった。ぶどう酒は大切な
もので、絶対に欠かす事ができない。これは大変な失態となる。

その時、母マリヤは、まず一番に主に告げた。主ならすぐに何とか
して下さると。その時、主は「わたしの時はまだ来ていません」と
答えられた。私たちはいつも「すぐに」答えを期待する。今すぐに
答えが欲しい。しかしマリヤは、自分でぶどう酒を調達しようとは
せずに、事態を主に委ねた。その時に、主は奇跡をして下さった。

サウル王は時を待てないで、失敗してしまった。ペリシテ軍の攻撃
が来た時に、遅れて来ないサムエルを待つ事をせずに、自分でいけ
にえを献げた。だがいけにえは祭司しか献げる事ができない。この
ためにサウル王は、王位から退けられた。

アブラハムも、神の時を待てずに失敗してしまった。子孫を与える
との、主の約束を受けたが、待てども〃成就しないので、女奴隷ハ
ガルによって、子供を得た。主の時を待てずに、自分で動いてしま
った。しかし肉で行なった事は、大きな問題を生み出す。神の時を
待つ事が信仰だ。忍耐して、待ち望もう。神の時が満ちると、微動
だにしなかった事態が、ひとりでに事が動き出す。

・・・・・・・・・・・
「神の時」が重要だ。いつも学ばされるが、どうしても早く早くと
気持ちが急いてしまう。待つことが非常に難しい。早く結果が欲しい。
しかし神の時には、何もしないのに、するすると事が驚くばかりに
動いて行く事を経験する。自分で動かず待ち望もう。


2022年09月23日(金)

「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み・・ あなたがたをこの所に帰らせる」エレミヤ29:10



バビロン捕囚は、敵国への囚われとなるわけで、その事態だけを見
れば絶望でしか無かった。しかし結果的には、神の民はその捕囚の
苦難により、悔い改め、神に立ち返る事ができ、信仰の回復がなさ
れた。70年後にエルサレムに帰還させるとの、神の約束も成就され
た。

「あなたがたのために立てている計画」と言われたが、バビロン補
囚こそが「神の計画」だ。見えるところは絶望、挫折、落胆、混乱
であったが、神にとっては平安と将来と希望のための計画であっ
た。ししゅうの裏は、沢山の糸がからみ、ぐじゃぐじゃだ。神は、
私たちにとっては不都合、混乱、行き詰まり、「何でこんな事
が?」の事態を起こされ、神の意図される方向へと導かれる。

そしてそれは、紛れもなく「あなたのため」の計画だと言われる。
綿密に図って立てられた、あなたの益と将来のための出来事だと。
刺しゅうの表は、着々と綺麗な模様が完成して行っている。見える
ところの目の前の事は痛い、苦しい事態だが、実はあなたのための
最善がなされている。人は、痛い、辛い所を通って初めて、真に神
に出会う。

人は自我の強固な殻におおわれている。痛みや苦しみによって、そ
の自我の殻が砕かれる。高慢は自分でわからず、認識できず、何の
問題も無いと思っている。だが、苦しみの中で初めて、自分の本当
の姿を知る。何を教えて下さりたいのか、主に祈ろう。主のお心に
触れる時、まさに懲らしめが愛であることがわかる。そして心に平
安が臨む。
--------------
固い自我が砕かれる時は弱く醜い裸の自分が示される。辛い時だが
主の導きも慰めも染み込んでくる。主の最善を歩んでいる事を信
じ、主から学び続けよう。


2022年09月22日(木)

「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生か します」詩篇119:50


人にどう思われているかが、ひどく気になるだろうか。よく私たち
の心を乱し、落ち込ませるものに、人からの評価がある。振り返っ
てみてどうだろう。心が暗くなった時、沈んだ時はどうだったか、
人の言葉や態度に振り回されていないだろうか。

ある人は、友人だと思っていた人に、陰で悪口を言われていた事を
知り、大変なショックを受けた。その後、誰かれ関係なく、人が恐
くなり、人と関わる事を避けるようになってしまった。これらの恐
れや不安を、主の前に、祈りによって持って行った時、「人を恐れ
ると罠にかかるが、主を信頼するなら守られる」と語られた。

人を恐れる事には罠があると教えられた。人を恐れると、自分に閉
じこもりますます対人恐怖症が高じると。主に信頼して行こうとし
た時に、ふっと平安が戻った。サタンは人を恐れで縛ってしまいた
い。そして喜びの日々を奪ってしまう。主に信頼するとは、絶えず
御言葉にとどまり、御言葉に目を留めて行くことだ。

別の人は、職場で無視して来る相手がいて、心重くなったが、導き
を求めて祈った。すると「自分を愛してくれる者を愛したからとい
って、何の報いが受けられるでしょう」「愛は礼儀に反することを
せず」「異邦人の中にあって立派にふるまいなさい」に従い、相手
からの返事があろうと無かろうと、挨拶をし続ける事を決心した。

実行し続けていると、とうとうある日から挨拶が返って来た。そし
てその期間、心が平安に守られていた事に気づかされ、嬉しく感謝
した。
-----------
相手の態度によって自分の感情をアップダウンさせられている事に
一刻も早く気づきたい。主に祈り助けを求めることができる。目の
前がどうであれ、主の道を主と共に歩んでいこう。


2022年09月21日(水)

「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装する のです」Uコリント11:14


遠い昔から教会には、偽クリスチャンがいた。そしてその知恵は、
主からのものではなく、サタンに属するものだと。そんな時、その
知恵が主からのものか、悪霊に属するものかを、どのように見分け
ればよいのか。一見、行状は素晴らしく、偽クリスチャンの方が、
クリスチャンより立派に見えたりする。

しもべとしてよく仕え、よく働く。言葉は聖書用語を駆使する。ク
リスチャン用語、御言葉が幾らでも出て来る。教える事ができるほ
どだ。「実によって彼らを見分けることができます」「羊のなりを
してやって来るが、うちは貪欲な狼です」「盗人が来るのは、ただ
盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです」。

偽クリスチャンが来るのは、外側どんなに良く見えても、一致を破
壊し、分裂をもたらすためだ。「肉の行ないは・・党派心、分裂、
分派」見えるところは光の御使いだが、必ず裏がある。裏に「邪悪
な行ない」があり、「秩序の乱れ」をもたらす。

「上からの知恵は、純真、平和、寛容、温順・・見せかけのないも
の」だ。上からの知恵は、表裏が無い。「霊だからといって、みな
信じてはいけません」、見分ける事が必要で、重要だ。「にせ預言
者たちに気をつけなさい」「御霊を持たず、分裂を起こし、生まれ
つきのままの人間です」。

自分自身が欺きに陥らないために、主の御前にいつも正直でいよ
う。御霊の示しに従い、悔い改め〃つつ歩み、絶えず上からの知恵
を求めよう。御霊は助け、平安の内に歩ませて下さる。
-----------
聖霊の導きの中で御言葉に頼らなければサタンの誘惑をどうして識
別できるだろう。いつでも主より自分に仕え、自分の思いを通した
い者だ。弱さに正直でいよう。主から教えられ歩もう。


2022年09月20日(火)

「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です」 詩篇119:24



初めての所で、道に迷った事があるだろうか。方向わからず、どこ
へ進めば良いかわからない。地の人か、交番で聞くか、スマホだろ
うか。又、停電で、暗闇の経験あるだろうか。真っ暗闇の中で、ロ
ウソクや懐中電灯があると安堵する。飛行機や船の航行ではどうだ
ろう。嵐で視界に何も見えない時、計器、羅針盤で正しい方向に進
める。

これらが信仰生活においては御言葉だ。どこに進むべきか、選択は
どうすべきか、御言葉が方向を示し指針を与えてくれる。又、苦境
の時に何をすべきかを教えてくれる。経済的、仕事上、対人関係の
苦境、そんな時に、御言葉は、道を示し、励ましと慰めを与え、平
安へと導いてくれる。

ある人が会社の倒産で、失職し、次の職探しをするが、なかなか無
い。貯えも段々底をつき、不安と思い煩いに襲われる。この苦境に
「御言葉を下さい」と必死に祈り求めた。すると「すべての事につ
いて感謝しなさい」「あふれるばかりに感謝しなさい」との言葉が
与えられた。

それで御言葉の通りに、「倒産と失業を感謝します。まだ職が無い
事を感謝します。貯えが無い事を感謝します」と祈った。するとそ
の時に不思議が起きて、心にすうーと平安が広がった。あんなに不
安と恐れでいっぱいだったのに、奇跡だった。状況は同じだが、心
が変えられた。

次に「求めよ・・捜せ・・そうすれば見つかる」に従って、与えら
れると信じて、平安の中で、職捜しができた。絶対に与えられる
と、思えたのがみわざだった。そして良い仕事が与えられて感謝し
た。
---------------
不安な時、次々に思い煩いに襲われる時、聖書を開いて御言葉に向
き合うと内側から新しい思いが生まれてくる。下を向いている心が
主に向く。御霊を宿す者の幸いだ。今日の一歩が導かれていく。


2022年09月19日(月)

「・・あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わ たしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流され ない・・」イザヤ43:1



ある夫妻の同居の親が、自宅で最期をと強く願っていた。そのため
夫婦でよく祈った結果、御心を確信し願いを叶えるべく、自宅介護
を決心した。仕事は自営業で時間が自由になり、多忙時はバイトを
雇う事も出来た。何とか行けると思ったが、現実は甘くなかった。

認知症が出て来て、予想を越えた大変な介護となった。毎日ヘトヘ
トになり、気がおかしくなりそうで、朝毎に夫婦で、切に拠り頼ん
で祈る日々だった。時に、余りの大変さに涙ながらに祈った。結果
的に福祉の助けも借り、親の願いが叶い、自宅で見送る事が出来
た。感謝でいっぱいだった。真に御言葉通りであった。

「水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡る
ときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼
かれず、炎はあなたに燃えつかない」。厳しい試練の水の中も、火
の中も、主は共におられ、押し流されず、燃えつかなかった。

何よりも、厳しい介護の中で、主を親しく経験する事ができた。主
の臨在にも触れた。大きな〃恵みであった。そして夫婦で手を取り
合って祈る日々に、絆が深められた。厳しく大変ではあったが、自
宅介護をして、本当に良かったと心から思えた。感謝が溢れた。

私たちも信仰人生で、特に厳しい火の中、水の中を通ることがあ
る。その時こそ、決して押し流されず、燃えつかない事を経験し、
確かに共におられる主を、かつてなく親しく知れる恵みの時だ。必
ず感謝に結果する。
--------------
現実の苦労の中で主への信仰が守られ、闘いの日々が真空状態のよ
うに主の平安で守られる経験は奇跡だ。現実は辛いのに寄り添われ
る主に感謝し、賛美できる。


2022年09月18日(日)

「彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。 それで、そこはマラと呼ばれた」出エジプト15:23



モーセに導かれ、イスラエルの民はエジプトを出たが、その時、男
子だけで60万人、女子子供を入れると200万ほどだろうか。大変な
数だ。葦の海から旅立ち、3日間荒野を歩いた。水が見つからず、
水を探した。マラでようやく水を見つけたが、それは苦くて飲めな
かった。そのいら立ちと不満はモーセに向かったた。

「私たちは何を飲んだらよいのか」と。モーセの素晴らしいところ
は、それを自力で対応せずに、まず主に持って行った事だった。
モーセが祈ると一本の木が示された。それを水に投げ入れると、水
は甘くなり、その水は民を潤した。「その所で彼を試みられた」と
あり、民だけでなく、モーセへの試みでもあった。

試練の中で、主の御声に従うかどうかを試された。民はエジプトを
出て、まっすぐ行けば、カナンまで2週間程だが、あえて荒野へと
南下させられ、40年間荒野をさまよった。これは、主が民を様々な
試みを通し、訓練し整えるためだった。信仰を成長させ、主に従っ
て生きる事を身につけて行く、実地訓練であり、その歴史だった。

私たちも荒野を通る。様々な苦しい問題や悩みを通り、試され、砕
かれ、練られ、鍛えられる。そして信仰者として整えられて行く。
主を信じ、御言葉によって生きる事を培われて行く。その荒野の間
中、主はずっと天からマナを降らせられた。主に従うなら、必ずす
べての必要が、満たされる事を見せられる。

・・・・・・・・・・・・
主は試練と共に、脱出の道をも備えて下さっている。主のサポート
は万全だ。日々の天からのマナと共に、道中ずっと昼は雲の柱によ
って導かれ、夜は火の柱で照らされた。目の前の問題に飲み込まれ
ず、主を仰いで、主の視点に立てるよう祈ろう。


2022年09月17日(土)

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないな ら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」Tコリント 13:1



ある時、青年たちの交わりで、お茶をしつつ、楽しいお喋りしてい
た。その中で、どうでも良いような事で、議論になってしまった。
議論になると、どうしても自分の正しさを主張したい。そして負け
るのは悔しく、相手を打ち負かしたい誘惑がくる。何だか横道にそ
れて行ってしまった。気まずい空気の中、交わり会は終了し、別れ
た。

帰宅するが、何だかもやもやして、心に全く平安が無い。それで主
のもとへ行き、ありのままの心を祈った。そしてテモテTを読んで
いた時に、「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰
とから出て来る愛を、目標としています」が心に刺さった。クリス
チャンの目標は愛であるのに、自分は、相手を打ち負かそうと、自
分が上に立とうとするばかりで、自分が、自分が、の自己本位な姿
を見せられた。

愛などと、ほど遠い姿であった。「ある人たちはこの目当てを見失
い、わき道にそれて無益な議論に走り・・」と全くその通りであった。
目当てを見失っていたし、有益で建設的なな話し合いでなく、どう
でもよい事柄で、まさに無益で、無意味な議論であった。「果てし
のない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてくださ
い・・論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現
をもたらすものではない」と。

全くその通りだった。悔い改めて、心を新たにされた。そしてこの
取り扱いを青年たちに証しし、皆で、教えられ、主を誉め讃えるこ
ととなった。失敗をも、すべてが益とされることも感謝だった。

・・・・・・・・・・
主とみ言葉から目が離れると、肉で生きてしまう。自己中心となり、
愛から、かけ離れてしまう。自分が、自分を、と自分、自分になる。
しかし主を仰ぎ、祈りつつ御霊に導かれて歩むと、心に喜びが来て、
自分の力ではなく、平安な歩みができる。、


2022年09月16日(金)

「パウロは・・大声で、『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と 言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した」使徒14:10



ルステラで、生まれつき足なえの男性がいて、一度も歩いた事が
なかった。パウロが御言葉を語っていた時に、その人が丁度そこに
座っていて、じっと真剣に聞き入っていた。彼は自分の足に関し
て、100%無力だった。何の手立てもなく、どうする事もできなか
った。歩く事は不可能だった。

自分に全く望みを置けない、徹底的に無力の状態だった。そんな時
に、パウロが「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。彼
は、そのパウロの言葉にすがりついた。無力だったからこそ、すが
る事ができた。彼にはこの言葉がすべてだった。あらゆる望みを置
いて、信じて賭けた。その言葉に拠り頼んだ。

そこに信仰が働き、その信仰に、主の力が臨み、奇跡が起きた。生
まれてから一度も歩いた事のない彼が、飛び上がって歩き出した。
私達も自らの全き無力を知る時こそが、信じる時だ。何の方策も無
く、何もどうにも出来ない。「信じるしか道がない」。その時に初
めて生きた信仰が働く。自分の力があるなら、自分でやって行く。

自分の方法に頼り、自分の力に頼って行く。そこに、主への信仰の
余地は無い。幾ら御言葉があっても、必ず自分の力でやって行く。
信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を主に任せて行く事だ。そう
であれば、自らの無力を知る事こそ、実は、大きな祝福であり、幸
いだ。
---------------
もう打つ手がないと知るとき、深く落ち込んでしまう。どれ程、自
力で動き回りたいのかを思い知らされる。でも真実に主に頼れる時
だ。頼るべきお方がいてくださる幸いを再発見する時だ。


2022年09月15日(木)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで あなたのおきてを学びました」詩篇119:71



ある人が、家族、親族の救いを切に願い、祈っていた。そして家で
は、親族に懸命に福音を伝え、証しをした。とにかく救われて欲し
い一心だった。しかし熱心になれば、なるほど、けむたがられ、避
けられるようになった。嫌な顔をされるのだが、全く意に介する事
なく、ガンガン押し通したのだった。

段々、家族は、彼女の信仰に心を閉じて行ってしまった。やがて家
を出て、遠方で仕事に就いた。しかし、その仕事はうまく行かず、
挫折してしまった。対人関係でも悩み、苦しみ、深い傷を負った。
行き詰まってしまい、心身疲へいし、仕事を辞めた。一旦実家に戻
ったが、ぼろぼろだった。

何も出来ない状態で、家族としばし生活したが、妹が「お姉ちゃん
変わった」と言った。そして「今のお姉ちゃん嫌いじゃない」と。
妹が心を開いてくれて、話が出来で、心が触れ合うのを感じた。以
前の自分がいかに高慢であったかを思い知らされた。心の内では、
自分は他の人のような罪人ではないと思っていた。

上から目線で見ていた。まさにパリサイ人だった。辛い試練を通し
て、砕かれた。自分の姿を見せられた。もし試練に会っていなけれ
ば、あのまま、どんなに恐ろしい事になっていただろうと、感謝し
か無かった。試練は、決して嬉しいものではなく、痛く辛い。

しかし、「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした」痛い
が、豊かな祝福への道だ。真の幸せへと導いてくれる。「ご自分の
聖さにあずからせようとして、懲らしめ」。成長へと導いて行って
下さる。
---------------
試練があったから、今どれ程の守りの中を生きているのか、備えが
あるのかと感謝を覚えて歩める。主はいつも教え、成長させてくだ
さる。今はわからなくても主を信じていよう。


2022年09月14日(水)

「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれん でやるべきではないか」マタイ18:33 



王が、Aに6000億を貸していた。清算の時が来たが、Aは返済がで
きず、ひたすら懇願するので、王はかわいそうに思い、赦してやっ
た。王は、Aの6000億の借金を全額免除した。そのAが出て行き、
Bに出会った。AはBに100万貸していた。

ところがBも100万を返済できず、Aに懇願した。返すから、もう
少し待ってくれと。しかしAは決して赦さず、Bを牢に投げ入れ
た。心を痛めた仲間は、事の次第を王に報告した。すると王は怒
り、Aを借金を全額返すまで、投獄した。せっかく免除された莫大
な借金が、自分に負債のある者を赦さなかったばかりに、また戻っ
て来た。

免除された6000億は、そのままでなく、王が肩代わりし、その負債
を負う事になるのだ。何というあわれみだろう。自分は測り知れな
い大きなあわれみを受けているのに、他者をあわれむ事ができな
い。これが人間の姿であり、罪の性質だ。自分は主に溢れるばかり
に赦されているのに、人を赦す事ができない。

二つの道がある。決して自分を変えないで、誰でも皆そうだと、恨
みと憎しみを持ったまま生きて行くか。そうではなく、自分が変え
られて、主に喜ばれる道、栄光が現わされる道へ向かうか。今、
岐路にいるだろうか。自分にはできない。自分の力では不可能だ。

しかし、主に不可能は一つも無い。主には出来る。主は、赦す力を
与えて下さる。このままでいるか、信仰に前進するのか。自らの選
択にかかっている。ありのままを主に祈って行こう。そうする時、
主が働き、導き、変えて行って下さる。
------------
確かな赦しを受け取っていながら、自分の怒りに流されてしまいそ
うなとき、主に明け渡していこう。どれ程の罪を赦されているか。
主の喜ばれる道を進みたい。


2022年09月13日(火)

「ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでし た。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけ られなかったからです」ヘブル4:2


ヘブル書に「あなたがたの先祖たちは、わたしを試みて証拠を求
め」とモーセに率いられた民の例が出てくる。約束の地カナンに入
るために、苦難のエジプトを脱出できたのに、40年間荒野をさまよ
った。そのあげく、約束の地に入れずに、20歳以上の者達は皆、荒
野で滅んでしまった。ヨシュアとカレブと新世代だけが、約束の地
に入った。

民達は皆、エジプトでの災害の奇跡と紅海が分かれた大奇跡を目の
当たりにした。何も無い荒野で水が湧き、マナやうずらが降る奇跡
を見、雲の柱や火の柱、様々な奇跡を見た。見たにかかわらず、尚
も神を信じる事をせず、約束の地に入る事を拒否した。そんな民達
を教訓とするように警告している。

彼らは神の言葉を聞いていた。主が乳の蜜の流れる地へ導き入れる
という良き知らせを聞いていた。だが、その聞いた言葉が「信仰に
よって」結びつけられなかったため、何の益も無かった。斥候の言
うカナンの強敵について聞いた時に、神を信じる事が無かった。

せっかく苦難のエジプトから救い出して下さったのに、神への信仰
がなく、自らの不信仰のゆえに、荒野で死んでしまった。私達は主
の御声をどう聞いているだろう。受け止めずに、右から左へと聞き
流しているだろうか。拒んでいるだろうか。

主の愛から発した、主の真実な言葉だ。その一言一言に向き合い、
受け止めて、従えるように祈ろう。出来ないなら、そのように助け
を求めて祈ろう。従えるように助けて下さる。
------------
多くの困難から助け出されたのに、すぐに忘れてまた思い煩ってし
まう。何と不信仰な者だろう。着物はすり切れず、足ははれなかっ
たではないか。信仰をもって主の御言葉を聞き続けよう。


2022年09月12日(月)

「その女はエリヤに言った『今、私はあなたが神の人であり、あな たの口にある主のことばが真実であることを知りました』」 T列王17:24



エリヤは、大飢饉の中、主に導かれたケリテ川が枯れた後、次に、
主に示されツァレファテの一人の女性を訪ねた。その女性は、夫を
亡くし、子供と貧しい生活をしていた。更にききんの中、残りが、
ひと握りの粉と少しの油だけとなり、それで最後の食事をし、死の
うとしていた。

何という悲惨な状況だろう。そこに、突然エリヤが現われ、非常識
な、とんでもない要求をした。まず「その最後の粉で、まず私のた
めにパン菓子を作るよう」にと。そうするなら、ききんの間中、粉
は尽きず、油は無くならないと。そのギリギリの状況下で、女性は
エリヤの言葉に従った。

すると奇跡が起きて、翌日も〃、粉と油は尽きず、息子に食べさせ
る事ができ、自分も食べた。ききんのまっただ中で、主により奇跡
をもって養われた。だがその後、息子が病死した。せっかく生かさ
れた命が、「なぜ?」エリヤは息子が生き返るよう、主に願い、切
に祈った。

そのエリヤの願いは聞かれ、息子は生き返った。息子を返された時
に、彼女は、エリヤが神の人であり、口にある主の言葉が真実であ
る事を、今、知ったと言った。それ以前は、まだよくわかっていな
かったが、息子の事により、主の言葉が真実であると身をもって知
った。

彼女の信仰が、確かなものとされた。厳しい試練であったが、主と
主の言葉が真実である事を、真に知る恵みと祝福の時とされた。私
たちも苦しい試みがあるが、その中でこそ「主の言葉が真実である
ことを知った」と言えるようにされる。
------------
試練の中でただ黙々とエリヤとエリヤの神に従い続け、主の働きか
を目の当たりにし、そして自分自身が真実の主に出会た。厳しい試
練に主は共にいてくださる。主から目を離さず主の栄光を拝そう。


2022年09月11日(日)

「自分がいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら 引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマ リヤ人であった」ルカ17:15 



10人のらい病人がいやされた。当時らい病は、不治の病で人々から
隔離され、歩く時は「汚れた者です」と唱えねばならなかった。社
会からのけ者にされ、希望もなく、絶望的な人生だったろう。主が、
らい病をいやされた噂を耳にし、彼らは主にすがった。らい病人は
人前に出られない。遠く離れた所から声を張り上げて「あわれんで
下さい」と主に求めた。

遠くから力の限りの大声で、必死に願った。答えてもらえない相手
なら、はなから求めはしない。その切なる求めに、主は答え「行き
なさい。自分を祭司に見せなさい」と。いやしを判断をするのは祭
司だった。しかしその時は、まだ直っていない。らい病のままだ。
そのままで、言われた通りに、祭司のもとへ出発する。

すると主の言葉を信じて行動した時に、途中でらい病がいやされた。
普通ならいやされてから、祭司のもとへ行くが、彼らはみ言葉を受
け取るや、出かけた。これは彼らの信仰だ。この信仰に答えられて、
途中できよめられた。そして10人の内、1人の異邦人だけが、主に
感謝するために戻って来た。9人はユダヤ人だ。いやしが叶えば、
本音ではもう主に用はなかった。

いやしだけが目的だった。それを得るや、大喜びで世に帰り、主の
もとを去った。しかしサマリヤ人は、主のもとに戻り、御前にひれ
伏した。その時、いやし主との関係に立ち返ることができた。「立
ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したので
す」この信仰が彼を救った。感謝する時、主をあがめることになる。

・・・・・・・・・・・・
生けるしかばね、のような状態がいやされ、天にも上る心地だった
ろう。いやし主に向かずに、大喜びで自分の道に向かってしまう。
試練の時は必死に主に願うが、解決するとどうだろう。主に感謝を
献げる事について、新たにされたい。


2022年09月10日(土)

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心 からしなさい」コロサイ3:23


「人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい」と
あり、私たちの日々の行為はどうだろう。何をするにも、人にでは
なく、主に対してするようにせよと言っている。私たちは何をしよ
うと、主のためにしているとの意識が大切だ。毎日、同じ事の繰り
返しかも知れない。日々、同時刻に同じ電車に乗り、同じ机で、同
じ仕事を繰り返す。

主婦は同じ家事を繰り返す。掃除し、洗濯し、片づけ、食事を作る。
平凡で変化のない、退屈に感じる仕事かも知れない。しかし、毎日、
する事は同じでも「主のために」することができる。会社員は主の
ために働き、主婦は主のために家事をし、母親は主のために手のか
かる子どもの世話をする。上司や雇用者との関係も「主を恐れかし
こみつつ、真心から従いなさい」とある。「あなたがたは主キリス
トに仕えているのです」と。

すべての対人関係の土台は、主との関係だと言っている。ある主婦
は庭の草抜きにうんざりした。草はすぐに伸びるし、面倒でたまら
ない。ある時、草刈りのために祈った。するとこの時間を、主との
交わりにしようとアイデアが来た。草を抜きつつ主と交わった。

あれやこれや心の思いを、出来事を主に告げて行った。腹の立つ事
や、恨みや、落胆する事態やら、ことごとく主に持って行った。す
ると悔い改めを示されたり、ふっと御言葉が浮かんだり、あれはあ
あして、これはこうしてと、解決や指針を与えられたりと、又、多
くの執り成しの祈りも与えられ、心満たされる恵みの時とされた。
終了時には、庭はすっかりきれいになり、心も晴れやかに喜びで満
たされていた。

・・・・・・・・・・・
「主に対してするように」が抜けると、労働は退屈で、重く、倦み
疲れてしまう。同じ事の繰り返しは、ため息が出る。しかし主に向
いて行く時、心が変わる。同じ事をしていても、平安と喜びがある。
そして自分でなく、主がされるとの信仰が来る。


2022年09月09日(金)

「あなたがたが、私から学び、受け、聞き、また見たことを実行し なさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてください ます」ピリピ4:9



ある人が職場で、同僚と、仕事上の事で意見が衝突した。相容れ
ず、議論は激しい言い合いとなり、双方譲らなかった。重苦しい空
気になり、ひどく気まずかった。毎日、顔を合わせる相手であり、
ぎくしゃくし、悶々と心は重かった。そんな中、バイブルクラスの
中で「祭壇に供え物を献げようとする時・・」の事が出てきた。

もし兄弟に恨まれている事を思い出したなら、供え物はそこに置い
て、まず先に兄弟と仲直りをするようにと。その時、心にズキッと
来て、自分の事を言われていることがわかった。しかし、「無理」
「出来ない」と思った。そして尚も、「自分の敵を愛し、迫害する
者のために祈りなさい」の言葉も語られた。「え!」と、自分にピ
ッタリで驚かされた。

帰宅して、「絶対に無理です」「自分には出来ません」とずっと祈
り続けた。すると最後に「・・でも、出来るように助けて下さい」
と祈れた。祈りにより、主と交わっていると、心が変えられて行く
ことを経験した。そして、このままではいたくないとの思いもあ
り、感情は伴わなくても、とにかく「祈りなさい」とあるので、意
志で、相手の祝福を祈ろうと決心した。

日々、意志で、相手の祝福を祈り続けた。祈り続けていた時、不思
議に自分の心が落ち着いて、平安にされて行くことを発見した。そ
の結果、相手と自然な形で和解が出来た。自分でなく、御霊の働き
だった。御言葉に従う時に、みわざがなされる事を経験させられ
た。
------------
日々主から学び、受け取れる恵みに感謝だ。導かれた思いを大切に
育てていこう。自分には絶対にできないが、すぐにできなくても
、主がその思いを守り、必ず最善をさせてくださる。


2022年09月08日(木)

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄 光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変 えられて行きます」Uコリント3:18



人は、対人関係で悩む事が多いと言われている。職場でも仕事自体
より、対人関係で悩むと。しかしその人間関係の中で、主は、私た
ちを砕かれ、練られ、成長させて下さる。人から批判され、悪口を
言われる。それは思い当たる事であったり、全く理不尽だったりす
る。非を指摘された時に、ムッとするだろうか。怒りが沸くだろう
か。

しかし反応する自分に、自らの真の姿が映し出される。人里離れた
山中で、一人暮らしをしていて、自分は愛深く、寛容で、親切で、
忍耐があり、自制があり・・と思うのは簡単だ。誰とも摩擦はない
し、関わりを持たなくてよい。何をしようと人に迷惑かける事はな
い。だが目の前に人が来た時に試される。本当の自分があらわにな
る。

自分に愛がない事、寛容も、忍耐も、自制もない事を知される。し
かし、それは目の前に、そういう相手が送られなければわからない
事だ。自分は愛があると思っている。目の前に嫌な相手が置かれる
までは。その時に初めて、自分に愛が無い事を思い知らされる。
嫌いな相手が、自分の真の姿を知らせ、成長させ、成熟させてくれ
る。

当時、金の精錬のためは、火が使われた。火は、金の表面に不純物
を浮き出させ、除去しやすくする。私たちも試練により、不純物を
除かれて、きよめられて行く。自我が砕かれ、練られ、キリストの
かたちへと造り上げられて行く。まず自分の真の姿を知ることか
ら、豊かな祝福が始まる。実を結ぶ者と変えられて行く。
------------
不純物を知り、認めることは痛いが、すぐに自己満足に歩んでしま
う自分にとって必要な主の取り扱いだ。心に波風がたつのはどうし
てだろう。逃げずに主に祈り学ぼう。


2022年09月07日(水)

「・・主よ。あなたの決めておられるように、私を生かしてくださ い」詩篇119:149



ある人が、現在の負の状況が、良い状況に変わるようにと、ずっと
祈り続けていた。祈りは積み上げられるのだが、その祈りは全く答
えられなかった。それどころか、その後、次々出来事が起こり、祈
りの中で、逆に、この状況は変わらないとの確信になって行った。

その時に、自分はこの状況は悪いものと思っていたが、そうでな
く、主が自分のために備えられた最善なのだとわかり、受け入れる
事ができるようにされた。状況はそのままで、自分の思いの方が、
変えられたのだった。その時に、ずっと苦しかった心に平安が満ち
た。気持ちが楽になって驚いた。

自分の思う歩みでなく、主が定め、主が決められたように生きるこ
とが、こんなにも心安らかで、安堵感があるとは本当に驚きであっ
た。主が決められた事と思う時、全き平安に変えられた。不思議だ
った。振り返って、自分は自分の思いが非常に強く、今までの信仰
生活も主の御心ではなく、自分の思い、願望が中心になっていた事
に気づかされた。

自分の願望が叶う事が喜びだと思い込んでいた。つまり自分の欲望
が叶う事が幸せだと。反面、そうならない時には、不満や思い煩い
でいっぱいになった。そうでなく、それを明け渡して、主の導きに
従うところに真の平安と喜びがあると身をもって教えられた。

主も、十字架に際し「できますならば、この杯を去らせて下さい。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのよう
に」と祈られた。私たちは、自分の力では委ねる事もできない。だ
からこそ祈る事ができて、その祈りが答えられ、委ねるよう助けら
れる。
------------
主に委ねられないから、現状の問題に加えて自分の内側にも戦いが
あるのだろう。平安からほど遠い。委ねられない思いを祈っていこ
う。主の決めておられるようにと祈れるように。


2022年09月06日(火)

「王は私に言った。『では、あなたは何を願うのか』・・『私の先 祖の墓のある町へ送って、それを再建させてください』」 ネヘミヤ2:4



ネヘミヤはハナニから、エルサレムの城壁が崩れ、門は火で焼か
れ、悲惨な状態である事を聞いた。悲しみ、断食して主に祈った。
へりくだり、まず罪を告白し、昼夜切に祈った。重荷が増す中、4
ヶ月後、王の前に出た。悲しい顔つきに、王の方からネヘミヤに尋
ねた。

何か悲しみがあるに違いないと。ネヘミヤは率直に心の内を話し
た。すると王は「何を願うのか」と。王はネヘミヤの心の重荷を察
した。そこでネヘミヤは、祈って王に答えた。ユダの地へ送って再
建させて欲しいと。王は願いを聞き入れ、快く送り出してくれた。
ここで学ぶ事ができる。

ネヘミヤは、まずエルサレムの現状を知った。そして行動するので
なく、まず祈った。私たちの信仰生活も同様だ。目の前の問題を知
る事によって重荷が与えられる。まず現状を知らない限り、重荷の
持ちようがない。実状を見る事が大切だ。

そしてそれを祈りに持って行く時、更に重荷が増し加えられる。ネ
ヘミヤは重荷が増し、何かをしたいと思った。その願いは答えら
れ、主により環境が、次々と開かれて行き、すべての必要が備えら
れた。私達もまず破れを正しく認識するところから重荷が生じ、祈
りにより、更にその重荷が深められる。

そして具体的に行動するように導かれる。ネヘミヤは再建した。あ
なたにも主が再建のために、見せておられる重荷があるだろうか。
まず祈ろう。主はなすべき事を示し、導いて下さる。あなたを主の
ご計画のために用いて下さる。
----------
どこか漠然とした不安の中で祈ることが多いが、表面のことだけで
判断し、そのうち失望して諦めてしまわないだろうか。現状を確認
し、主が見せてくださる的に近づいて行こう。


2022年09月05日(月)

「・・そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側か ら出て、人を汚すのです」マルコ7:22


人の罪は、外側からウィルスのように体内に入るのではない。外か
ら入って、汚す事は不可能だ。内側から、心から生まれ、外側に出
ると。だから罪は心にあり、内側の問題だ。内から出るものが人を
汚す。カインは、献げ物が主に受け入れられた、弟アベルに対する
悪い思いに支配されてしまった。

妬みや怒りに身をゆだね、その結果アベル殺害に至った。まず内側
から湧く悪い思いがあり、殺人の行為に及んだ。これはカインの内
の問題であり、外部のアベルは関係が無い。アベルは受け入れら
れ、自分の献げ物は退けられた、その事象しか見えず、心に湧く悪
い思いには目が向かない。

その怒りはアベルに向いた。私たちは怒りや憎しみがある時、その
原因を、人や、環境によると思う。相手が悪いから、自分は憎んで
いるのだと。自分の憎しみは正当化し、どこまでも相手のせいにな
る。だが平安は全く無い。実は「自分の問題」だ。

ある人が、傷つけられた相手を恨んでいた。悶々状態だったが、あ
る日「外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない」と
語られた。「人から出るもの、これが人を汚す」と。「え!」と目
からうろこだった。自分が辛いのは、相手のせいだと思うので、ま
すます相手を恨み、ますます苦しくなっているに気づいた。

相手ではなく、自分から出る恨みが、その罪が自分を苦しめている
と。相手は、相手と主との問題だと思えた。間違っていたなら裁か
れるだろうし、自分は、恨みの罪を悔い改めた。すると平安が戻
り、悶々が消えた。
------------
相手が悪いと、つい自分の憎しみを正当化してしまう。自分の内か
ら出ている罪に気づいていたい。主の御心ならいつか正しく裁かれ
る。主に委ね、自分自身が主の前に平安を得よう。


2022年09月03日(土)

「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わた しの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってくだ さい」マルコ14:36


いつも「主の御心なら」という意識は非常に大切だ。自分の人生の
あらゆる場合に、へりくだって主を認めて行く事は幸いだ。何かを
しようとする時に、自分の意志と、主の意志はどうだろう。合致し
ているのか、相反しているのか。又、その動機の部分はどうだろう。

ある人が、ボランティアをしようと思った。しかしその時「主の御
心なら、このことを、または、あのことをしよう」との言葉が来て、
主のお心はどうなのだろうと、立ち止まり心探られた。単に善をし
たいとの「自分の思い」か。自分の見栄なのか。自分の自己満足な
のか。又、人の賞賛のためだろうか。更に、ボランティアでなく、
もっと他に本当にやるべき事はないのか。

何かをしようとする時に、まず祈る事は大切だ。主のお心はどうか
と求めてみよう。人には自己実現という欲もあるので、良い事だと
しても、主の栄光でなく、自己満足のためにしてしまう。いつも
「主の御心なら」それをしようとの姿勢は大切だ。“人の心には多
くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る”箴言19:21と
ある。

自分の思いで、肉でしたとしても、実を結ぶ事がない。計画をまず
は祈りに持って行こう。そして「主のみこころなら、私たちは生き
ていて」とあり、「明日○○しよう」と言っても、明日の事はわか
らず、明日生きているかは、私たちにはわからない。主の御前にへ
りくだって、何より主を仰いで、主を求めて生きることが大切だ。
その時、豊かに実を結んで行く。

・・・・・・・・・・・・・・
自分の思いや、突然の思いつきで、物事をしてしまう場合がある。
状況的にストップとなり、又、様々な要因で行き詰まってしまう。
その時、祈っていなかった事、自分の思いで行動した事に気づかさ
れる。実を結ぶ事がなく、まず主の御心を求めて行きたい。


2022年09月02日(金)

「しかし、パロはこのときも強情になり、民を行かせなかった」 出エジプト8:32



出エジプト記で、民の救出のために、主は次々と奇跡を起こし、モ
ーセは、そのつどパロに民を行かせるよう、要求し迫った。主の超
自然のみわざにより、厳しい苦しみが臨むと、パロは「私は罪を犯
した」と言う。「私と私の民は悪者だ」「私の罪を赦してくれ」
「私のために祈ってくれ」と。

一見悔い改めのように見えるが、その災いがおさまり、ひと息つく
と、即、再び頑なな姿に戻る。これは、それらしい言葉を口にする
が、心では悔い改めていない。真の悔い改めなら、必ず実を結ぶ。
主が、しるしを行なわれるのは「わたしが主であることを、あなた
がたが知るため」だ。

しかしパロにとっては、様々なしるしは、主を知る事にはならず、
脅しみたいなものだった。だからその脅しが無くなれば、再び強情
な本性に戻った。私たちはどうだろう。もし高ぶっていたなら、主
はへりくだるように、主に頼るようにと、問題を送られる。これは
主の愛だ。自分の道を行くのを放っておかれる方が、むしろ悲惨
だ。

しかし主の愛による意図がある、その苦しみをパロのごとく、単に
脅しと取るなら、確かに痛いので神妙になるのだが、その苦しみが
去ると元に戻り、そのままだ。問題が起きても、自分サイドの事は
考えず、相手が悪いとしか見えない。

それなら成長が無く、自分が変わる事もなく、実を結ぶ事がない。
しかし、御霊に導かれた悔い改めは必ず実を結んで行く。砕かれ
た、悔いた心を、主は軽しめられず、豊かに祝福し、御霊により豊
かな実を結ばせて下さる。主の栄光が現されて行く。
------------
自分を変えたくないプライドが主の御心も恵みも見えなくしてしま
う。へりくだって主から学ばなければ何もわからない者だ。心の貧
しさを覚え、いつも主の御手に自分を委ねていたい。


2022年09月01日(木)

「アブラハムは答えた『イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を 備えてくださるのだ』こうしてふたりはいっしょに歩き続けた」 創世記22:8



アブラハムは、主の約束のイサクを得るために25年待った。長い歳
月だ。それはアブラハム100歳、サラ90歳だった。忍耐に次ぐ忍耐
の末だった。しかし彼らも弱さを持つ人間で、数々の失敗があっ
た。待ちきれずに自分たちの思いで、奴隷ハガルによりイシマエル
を得た。肉で動いて失敗してしまった。だがアブラハムは信仰の人
として、ヘブル11章で賞賛を受けている。

愛する子イサクをいけにえにとの厳しい試練が臨んだ時に「翌朝早
く」、時をおかず、即、従った。その彼に、主は「あなたが、この
事をなし、ひとり子を惜しまなかったから、確かにあなたを祝福
し」と主から大いなる祝福を受けた。従う者を主は必ず大いに祝福
して下さる。「その行ないによって祝福されます」と。

だが苦しい試みであった。25年も待った最愛の子を失うことにな
る。又、この子から子孫が増え広がる約束はどうなるのか。イサク
が「いけにえの羊はどこに」と問うた時、彼は「神ご自身が備えて
下さる」と答えた。彼は全く主を信頼しきっていた。まさにイサク
に刀を振り下ろす瞬間に止められた。

そこに代わりの羊がいた。これは彼も知らなかった事だ。私たちも
先は見えず、明日はわからない。しかし主は私たちの先をご存じ
だ。どんな試練の中も、この主に信頼する時、絶えず「主の山の上
に備えあり」を経験し、主の恵みを味わって行く。
-------------
心細く不安の中で「主の山の上に備えあり」を経験すると、心から
主に愛されている事を実感し、感謝と賛美をささげる。主に従う
時、必ず主は先立ってくださり既に万全で備えていてくださる。