2022年10月31日(月)

「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、 悪魔はあなたがたから逃げ去ります」ヤコブ4:7



ある人が祈りの中で、主の御心を示され、確信も与えられ、御言葉
に従った。すると、それを行なう中で、なぜか周囲とギクシャクす
るように思えて、自分の行動は、周囲に受け入れられていないよう
に感じる。何だか心が辛くなって来る。

そこで主と交わりの時を持ち、自らの状態を祈り、自分の心を探ら
れるよう、動機も探られるよう祈った。祈って行くのだが、自分の
思い、自分の欲では無いと思える。むしろ自分の思い、自分の好み
とは逆方向で、肉の自分なら選択しない事だった。主に示され、自
分の好みや思いを捨てて、従った事だった。

だが、本当に御心だったのだろうか。あるいは自分の思い違いだっ
たのかとも思えて来る。このまま進んで良いのだろうか。続けて、
主に自分の思いをことごとく告げて、祈った。祈っていた時に、
「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれ
る」

との言葉により、不思議に心が平安にされて、落ち着いて来た。そ
して逆に再確信が与えられたのだった。その時に、周囲によく思わ
れていないように感じるのは、サタンの攻撃だと気づかされた。勝
手な自分の思い込みだと。

その後、周囲との関わりの中で、全くそうでない事を、信頼関係に
ある事を見せられた。悪魔の攻撃だった。いろんな人が、対人関係
で、無いものをあるもののように、猜疑心を起こされる悪魔の攻撃
を受けたと証ししている。このような悪魔の妨害にも心していよ
う。
-------------
途中で何度も、何度も嫌な思いや不安が来るとき、サタンを疑って
みよう。存在を隠して攻撃してくる。もう一度初めの確信に立ち返
り、不安も迷いも主に祈っていく時主が導いてくださる。


2022年10月30日(日)

「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにし てはならない」ヘブル4:7



主は、モーセによりイスラエルの民に、乳と蜜の流れる地へ導くと
約束された。民はその約束を何度も聞いた。しかし残念な事に、聞
いた言葉が信仰によって結びつけられず、民にとって益にならなか
った。せっかく苦難のエジプトを出たのに、カナンの偵察から斥候
たちが戻った時に、不信仰に陥った。

主が与えると約束されているのに、敵に滅ぼされるから上って行け
ないと。その上、エジプトで死んでいたらよかった、この荒野で死
んだ方がましだと、泣き明かした。出エジプトを果たしたのに、不
信仰のゆえに、約束の地カナンに入れなかった。主の素晴らしい約
束も、信仰に結びつけなければ、何の益もない事になる。

私たちはどうだろう。どのように御言葉を聞いているだろう。漠然
とぼんやり聞いているだろうか。右から左へ流れているだろうか。
種蒔きのたとえで、そうであれば、サタンが御言葉を奪い取ってし
まうと言っている。御言葉の種が心に植わらなければ、実を結びよ
うがない。それなら、聞かなかった事と同じになってしまう。

又、聞いた御言葉と目に見える状況が相反する場合はどうだろう。
民は目に見える所に怯えて、不信仰に陥り、従えなかった。ペテロ
は、主から「深みにこぎ出して、魚をとれ」と言われた時に、状況
的には漁は不可能で、常識的にも魚が取れるなど、有り得ない状況
だったが「でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう」と主
の言葉の方に従った。すると大漁だった。
今、御言葉を示されているなら、信仰に結びつけて、一歩踏み出し
従おう。

・・・・・・・・・・・・
信仰は、具体的な行動となって現れる。主の導きが来た時に、一歩
従ってみよう。意志を向けた時に、力は主から来る。主の助けが臨
む。従って良かったと、平安に包まれる。従って行く時に、自分が
変えられ、信仰に成長して行ける。


2022年10月29日(土)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの 知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」エレミ ヤ33:3



ある人が、父親が老齢となり、悩み抜いた末に仕事を辞し、都会か
ら田舎に戻る決心をした。小さな店だが何とか充実させ、拡げて行
きたいと、そのための勉強もし、努力を重ね、懸命に働いた。少し
づつ実が見え始めた頃、近くに大型店が出来た。もうどうやっても
太刀打ちできず、店を畳む事になった。ひどい失望落胆に襲われた。

仕事を辞めてまで戻り、頑張って〃懸命に働いたのに、「なぜ?こ
んな事に?」。虚無感に襲われた。これからどうすれば良いのか、
何もかもを、ことごとく祈りに持って行った。とにかくしばらく祈
ろうと、心の思いも感情も主に告げ、又、現状も告げ、祈った。そ
んな中、思っても見ない展開に。何と神学校へ行き聖書を学ぶよう
導かれたのだ。店を畳み、フリーの身になったからこそ出来る事だ
った。

ある人も自営業の中、やはり大きなライバル店が、すぐ近くにでき
て、みるみる赤字がかさみ、もう無理で、店を畳んだ。持ち家を売
却し、借金はすべて返済できて、どこにも迷惑をかけずに済んだ事
が感謝であった。しかし、熟年であり、これから先どうすれば良い
のか。何のすべもなく、主に呼ばわり、ひたすら祈りに祈った。

するとそんな中、子どもからの誘いが来た。田舎で家賃も格安で、
すべてに安く住みやすい。来ないかと。自然は素晴らしく、孫とも
楽しく、主は新たな生きる喜びを下さった。私たちも突然の行き詰
まり、失意、挫折を経験する。しかし主にはご計画がある。備えが
ある。「災いではなくて、平安を与える計画」の通りに、道が備え
られている。まず主を呼ぼう。

・・・・・・・・・・・・
「主の山の上に備えあり」は真実だ。どんな時も、どんな場合も必
ず主の備えがある。試練の時は、見えるところは、失望落胆、絶望
のように思えるが、生ける主がおられる。不思議な展開を経験して
行く。信じて行こう。


2022年10月28日(金)

「・・私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降 らないであろう。それから、彼に次のような主のことばがあった」 T列王17:1


エリヤは主に命じられ、アハブ王に、2,3年雨が降らない事を告げ
た。悪王であり、その場で打ち首も有り得て、勇気が要った事だろ
う。しかしエリヤは従った。その後、主はエリヤにケリテ川のほと
りに行くように告げられた。アハブから、かくまうためだった。

エリヤは、主の言葉の通りにした。目の前のなすべき一歩〃を主は
確実に示され、エリヤはその通りに従った。だが、烏に養わせると
言われるが、常識では有り得ない。食物など運ぶどころか、貪欲な
烏の餌になってしまう。主ご自身がエリヤを養うという事だった。

日照りで、日増しに涸れる川、どんなに心細い事だろう。エリヤ
は、主ご自身に拠り頼む訓練とされた。「ケリテ川」と指示され
て、他に移る事もできない。水は涸れて来て、このままここにいて
は命にかかわる。しかしエリヤは自分の思いでは動かず、主を信頼
し、次の指示を待った。

「すると、彼に次のような主のことばがあった」「シドンのツァレ
ハテに行き・・」必ず、主から次の導きが臨む。主に拠り頼み、従
おうとする時、進むべき一歩が必ず示される。その一歩に従うな
ら、また次の一歩が示され、展開して行く。主の素晴らしいみわざ
を経験して行く事になる。

今、目の前に一歩を示されているだろうか。先は見えずとも、目の
前のその示しに従おう。従った時に、次の一歩が明らかにされる。
従う事が難しければ、そう出来るように助けを求めて祈ろう。
------------
本当にこの道で良いのだろうかと御心を信じていても先がわからな
いと心細い。でも一歩は目の前にある。先を導いてくださる主を信
じ一歩を踏み出せるよう祈ろう。


2022年10月27日(木)

「・・また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができ るよう、あなたがたのために祈りに励んでいます」コロサイ4:12



私たちには、各々に一生が与えられている。しかし主の御心にそっ
て、人生を歩まなければ、せっかくの人生が的はずれなものになっ
てしまう。人生における御心を求め、導きを受け取り、従って行く
事が信仰生活で重要な事柄だ。

多くの悩みや問題の中で、自分の思いが強いため、つまり自我が強
いため、御心を受け取り損ねているだろうか。自分の強い思い、願
望が御心を知る事をさえぎってしまう。強い自分の思いがあると、
なかなか御心がわからない。無意識に自分の思い通りへと進んでし
まう。

自分の思いに合致する御言葉を取り入れ、思いに反する御言葉は退
けてしまう。まず右でも左でも白でも黒でも、御心のままでOKで
すと、自分を明け渡す時、9割方解決だ。意志を明け渡して行く
時、主は御心は示して下さる。なぜなら導きが無ければ、どう進ん
で良いかわからない。そして主は導きの主だ。

よく祈り、御言葉に向かい、環境を見張っていよう。重大な決定に
ついては、指導者に祈ってもらい助言を求める事は有益だ。ある人
は家族が重病発覚でうろたえる中、パニックだった。しかしいつも
教えられている通り、まず主のもとへ行った。自分の思いも、気持
ちも、状況も洗いざらい主に告げて、すべてを主に明け渡した。

続けて祈っていると、不思議に情報があちこちから集まり、具体的
な入院手術に至るまで、主に手を取り導かれたと。先を見通し、す
べてを存じの主が共におられる。委ねて、目の前に示される一歩に
従おう。するとまた次の一歩が示される。
------------
主の御心を確信して立つよりも、自分の確信を主に伺い、ああして
ください、こうしてくださいと祈ることがある。もしかすると主の
御心に敵対してしまう。心を空白にして祈ろう。


2022年10月26日(水)

「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」 ハバクク3:18



ハバククはヨシヤ王の死後の預言者で、当時、国内は、人々は罪に
歩み、裁きが行われず、悪が増大し、混乱していた。主はカルデヤ
人を襲撃させ、悪を罰すると言われたが、現状は悲惨だった。「い
ちじくは花を咲かせず、ぶどうの木は実を実らせず、オリーブの木
も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎
にいなくなる・・」

不毛、失望落胆、嘆き、なすすべの無い、どん底の絶望状態だ。作
物も家畜も壊滅の状況だ。これを見るなら、希望も何もかも打ち砕
かれ、暗たんたる気持ちになって当然だ。先の事を考えると真っ暗
で、不安と恐れで絶望しかない。しかしハバククは全く違った。こ
の最悪の状況のまっただ中で主を賛美し喜んだのだ。

「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼ
う。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所
を歩ませる」と。主の裁きの先にある、赦しと回復を見ていた。主
は、罪を徹底的に裁かれるお方であると同時に「あなたは、ご自分
の民を救うために出て来られ、あなたに油そそがれた者を救うため
に出て来られます」の通り、救いの約束を成就される主である事を
信じていた。

私たちも厳しい試練の中で、目の前の状況を見るのでなく、主を仰
ぎ、主の約束を、御言葉を見続けることだ。それは選択だ。ハバク
クは、状況を喜んだのでなく、主を喜んだ。だから状況がどうであ
れ、いつも喜ぶ事ができた。今、状況を見ているだろうか。主を見
ているだろうか。
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目の前がどんなに悲惨でも、信仰はどんな状況も変えることができ
る。見ているところは何処だろう。主はご自分の者を必ず守ってく
ださる。主を仰ぎ主の御言葉とその約束に信頼し、待ち望もう。


2022年10月25日(火)

「神は海を分けて彼らを通らせ、せきのように水を立てられた・・荒 野では岩を割り、深い水からのように豊かに飲ませられた」 詩篇78:13



モーセに導かれたイスラエルが、出エジプトを果たし、賛美と歓喜
に溢れた。しかし、エジプト軍の精鋭部隊が追って来た。どんどん
近づいて来て、背後に迫り、目の前は紅海という絶体絶命の状況に
陥った。特別な戦闘訓練を受けた屈強部隊に、イスラエルの民が立
ち向かえるわけもない。

前進も後退も出来ないその時に、主は奇跡を起こし、海を分け、海
のただ中に道をつけられた。どんなにもう、だめだと思える状況で
も、主は、そこに道を造られる。食物の無い荒野で、天からマナを
降らせ、岩から水を出された。そして雲の柱、火の柱で導き、約束
の地カナンの手前まで来た。

又、行く手をヨルダン川がさえぎり、船も橋もなく、不可能に思え
るところ、主は川の水をせき止め、道を造られた。カナンに入る
や、目の前に立ち塞がるエリコの城壁を、主が崩され、勝利をもた
らされた。主に不可能は一つもない。主は道の無い所に、道を造ら
れる。

なすすべが無い時に、主がみわざをされる。すべては主の主権の中
だ。その全能の主が、あなたの事を心配して下さっている。そし
て、いっさい思い煩うなと言われている。委ねよと。実は、問題が
問題なのでなく、問題の中で主を信頼しない事が問題なのだ。

問題を見続けて、問題に飲み込まれて、恐れのどん底に落とされ
る。主に委ねることが難しいだろうか。そう出来るように、主に祈
ろう。その時、立ちはだかる問題が崩れ、道が見えて来る。
------------
あれこれと思いを巡らせる前に主に問題を持っていき委ねていける
よう祈ろう。壁は高く、問題は山積み、自分では絶対に無理だ。で
も主は海をも分ける。自分を見ず、主に明け渡せるように祈ろう。


2022年10月24日(月)

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに 加えて、これらのものはすべて与えられます」マタイ6:33


「神の国とその義」と「これらのもの」が出て来るが、主は、信仰
生活における優先順位を定めておられる。「神の国とその義」が第
一で、「これらのもの」が第二だ。「これらのもの」=「何を食べ
るか、何を飲むか、何を着るか」という具体的な生活の必要のこと
だ。神を第一にする時に、生活の必要は与えられると。

しかし、よくこれを逆にしてしまう。主を後回しにして、目に見え
るものに追われ、疲れ果ててしまう。ある婦人、ある時、出費がか
さみ、給料日直前に赤ん坊のミルク代が無くなってしまった。夫
が、友人に少し借りて来ると言った。給料ですぐに返せる。しかし
彼女は、「神第一」に従って、人に借りるのでなく、主に祈りたか
った。

心の中で祈っていると、夫が、その前に、寝込んでいる父親を見て
来ると出た。父親は、すぐ近くで一人暮らしだった。夫が出たの
で、その間、主に切に祈っていた。主が、必要を与えて下さいと。
しばらくすると人の気配がし、振り返ると、夫が立っていた。粉ミ
ルク缶持って。

非常に驚いて聞くと、父親をのぞきに行くと、知り合いが来てい
て、見舞金にと手渡された。それでとりあえず買って来たと。祈り
に答えられた事が嬉しく、主が与えて下さった事に喜びと感謝が溢
れた。まず、「わたしを呼べ」と言われる主を見上げ、主に求めよ
う。

主を第一にして行く時、「それに加えて」なので、主と、必要物の
どちらも与えられる。それを逆にすると、どちらも失ってしまう。
いつも軌道修正されつつ、歩んで行こう。
------------
生活の諸々を整えてから、自分の気持ちが落ち着いてからと、いつ
も自分の自分の思いを超えられない者だ。だからこそ、まず主を第
一にすることを覚え、主の最善を受け取りたい。


2022年10月23日(日)

「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかな った助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありま せんか」ヘブル4:16



新生して以来、私たちは古い性質と新しい性質が、絶えずあらがっ
ている。霊と肉の戦いの中にあり、再臨の時に、私たちの身体は変
えられる。それまで私たちに肉の弱さがある事を、主はご存じだ。
肉体は疲れるし病気にもなる。主は肉体をとり地上に来られたので、
この事をわかっておられる。

主は、あなたの弱さをご存じで、良き理解者だ。そして主のゆえに、
いつでも恵みの御座に行ける。私たちは力に満ちている時は、主の
ためにどんどん働き、主に近いと感じる。逆に弱さを覚え無力の時
は、どうだろう。主を遠く感じるだろうか。「お前は役に立たな
い」サタンの声が聞こえる。

罪を犯してしまうと「同じ失敗ばかり、成長がない」その声に乗る
と、落ち込んで、ますます主から離れる。御言葉はどう言うだろう。
「あわれみを受け、恵みをいただいて、大胆に恵みの御座に近づこ
う」恵みの御坐に近づける根拠は「あわれみを受け」「恵みをいた
だいて」とあり、「あわれみ」と「恵み」だ。自分の力、功績には
いっさいよらない。自分サイドの何かによらない。

主からの一方的な愛顧だ。主のあわれみと恵みがあるので、どんな
に破れ果てた状態でも、御前に行ける。きれいになって行くのでな
く、あるがままだ。どんな状態でも恵みの御座に行こう。折りに適
った助けを受ける。どこまでも「あわれみ」と「恵み」だ。

・・・・・・・・・・・
「あわれみを受け」「恵みをいただいて」何という救いであり、慰
め、励ましだろう。受ける資格の無い者が、与えられる愛顧だ。
「おりにかなった助け」何と嬉しい事だろう。どんな時も御座に
近づける。そこは恵みの御座ゆえに。近づいて往こう。


2022年10月22日(土)

「王よ。あなたのしもべダビデについて罪を犯さないでください。 彼はあなたに対して罪を犯してはいません。かえって彼のしたこて ゃ、あなたにとって非常な益となっています」Tサムエル19:4


ダビデを激しく妬んでいたサウル王は、ダビデを殺害すべく、どこ
までも狙っていた。そしてその事を息子ヨナタンと家来全員にも告
げた。ヨナタンはダビデを非常に愛していたので、助けようとする。
ダビデにその事を話し、隠れ場にとどまり、身を隠すよう告げる。
愛する父親と、愛する親友、自分の愛する人たちのはざまでヨナタ
ンはどんなに、辛く悲しかった事だろう。

父親が憎み、敵対するダビデの事を、父親に進言する事は、どんな
にか勇気が要った事だろう。しかしヨナタンは親に、ダビデは罪を
犯していない事、むしろ王のために益となっている事、なぜ理由も
なくダビデを殺そうとし、罪を犯すのかとはっきりと直言した。ダ
ビデはサウルに何の悪い事もしていない。逆に忠実に仕えていた。
ヨナタンはその事が言える立ち位置にいた。

エステルも、ユダヤ人皆殺しの法令が発布された時に、王に嘆願で
きる位置にいた。それは他の誰にも出来ない事だ。そしてその時、
その場所にその人を置かれたのは神だ。ヨナタンは、ダビデの事を、
誰よりもよく知るがゆえに、執り成す事ができた。ヨナタンは自分
のなすべき事、自分の使命を果たした。

エステルもユダヤ人の救いのために、命をかけて自分の使命を果た
した。私たちも、それぞれ現在、置かれている場所がある。あなた
の位置と立場だからこそ、できる事がある。それは、あなたにしか
できない事だ。置かれている意味を考え、自分に与えられた、自分
にできる事をして行こう。

・・・・・・・・・
ヨナタンもエステルも、主に大きく用いられたが、丁度それぞれの
状況において動ける位置にいた。そして彼らにしかできない事だっ
た。自分が置かれた場所で、主からの導き、示しをよく見張ってい
よう。自分にしか出来ない事が備えられている。


2022年10月21日(金)

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」詩篇46:10



ある人に突然、家族に関わる事で、大きな問題が起きた。大変な事
になったと、パニックだ。いつも学んでいるように、まず祈るのだ
が、祈っている最中も「どうしよう、どうしよう、どうすれば良い
か」と頭はぐるぐる巡り、方策を懸命に考えている。これは祈りで
はない。あれこれと考えを巡らすばかりだ。自分が立ち騒いでしま
っている。

それなら自分の肩に重荷がどっとかかるので、そのため平安など全
く無く、不安でたまらない。段々と「こうなったら、どうしよう」
と最悪の結末のシナリオまで浮かんで来る。ますます不安は募り、
思い煩いでいっぱいだ。恐れと不安の数日が過ぎ、余りにも胸が苦
しくてたまらず、主に叫んだ。

その時、「やめよ」とのみ言葉が臨み「わたしこそ神であることを
知れ」と。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち
着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」と語られた。そして
自分は「いや、私たちは馬に乗って逃げよう」と言っている者だ
と。

自分で心騒がせるばかりで、自分で何とかしようとしている姿を見
せられた。そのため全部が自分の肩にかかるので、焦り、恐れ、不
安しかない。「やめよ」「静まれ」「わたしが神だ」「わたしに信
頼せよ」と言っておられる。問題に飲み込まれ、問題しか見えず、
神が見えていなかった。

口先で祈り、しかし自分が動き回っていた。今度は祈りにおいて、
ことごとく主に問題を持って行くようにされた。不安しか無かった
心に、初めて安堵が与えられた。
------------
頭ではわかっていても、いざ自分に問題が降りかかるとどうしても
結果が気になり、祈りが口先ばかりになっていくのを経験する。不
安を正直に祈っていこう。主のご臨在に満たされる。


2022年10月20日(木)

「ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突 然、天からの光が彼を巡り照らした」使徒9:3


主イエスをメシヤと認めないサウロは、激しい殺害の意に燃えて、
クリスチャンをどこまでも迫害し捕らえていた。それこそ神の御心
であり、正しい事だと信じ込んでいた。エルサレムだけでは気が済
まず、遠くダマスコまで追った。

ダマスコに近づいた時に、突然天からの強い光で、彼は地に倒れ
た。そして主の御声を聞いた「なぜ、わたしを迫害するのか」と。
倒れた地面から起き上がった時、目が見えなくなっていた。サウロ
にとって、どんなに衝撃的な出来事だったろう。その後3日間盲目
の状態に置かれた。

飲食もせず真っ暗闇の中で、サウロは今までの事を振り返り、目の
前に起きた事を考え、今後を考え、祈りに祈った事だろう。サウロ
は「地に倒れた」時に、主の御声を聞いた。主がサウロを倒され
て、聞かせられた。私たちは全力疾走の時、どうだろう。周囲の事
は見えず、自分の事も見えない。

私たちが行き詰まり、挫折し、失敗した時に立ち止まる。疾走する
私たちを、主は立ち止まらせようと、挫折、行き詰まりを通され
る。主のご計画があり、大きな祝福へと繋がる。又、今、暗黒状態
なら、主は祈らせたいとのお心だ。

自らを振り返り、現在を見据え、今後につき、祈りに祈ろう。「そ
こで、彼は祈っています」サウロは真剣な祈りの中、アナニヤが遣
わされ、再び見えるようにされた。「目からうろこのような物が落
ち」、私たちも暗黒を通過後、主がはっきりと、鮮明に見えるよう
にして下さる。
---------------
必死で自分を守りながら目的を果たそうと走っている時には、落ち
着いて主に御心を尋ねることもできない。でも主はそのまま放って
おかれない。立ち止まらされることは主のご愛だ。


2022年10月19日(水)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6 


信仰人生の中で、私たちは様々な苦しみや悲しみを経験する。な
ぜ、どうしてと、わけのわからない、理不尽な事が起きる。病気や
けが、経済的苦境、対人関係の悩み等、それらはクリスチャンもノ
ンクリスチャンにも同じように起きる。しかし神を信じる人々は、
どのような出来事の中にも主を認めて行く。

辛く苦しい出来事の中にも、主を認め、そこに主がおられ、主の
愛、主の慈しみを経験し、主のご計画があることを学んで行く。神
を信じない人は、どんなに素晴らしい喜ばしい出来事があっても、
そこに神を認める事はないし、感謝する事もない。それらはすべて
偶然であり、ラッキーなものだ。そこの違いだ。

私たちは、苦しい事にも、思い通りでない事にも、そこに主を認め
る。つまり行く所どこにおいても、起きる出来事に主を認め、主を
見て行く。別の箇所に、辛い涙の谷を過ぎる時にも、そこを泉の湧
く所とするとある。

涙の様々な出来事を通るが、そこでこそ主の真実や、愛や、恵みを
知ることができる。そこで、新たに主に出会って行く。主を知り、
この世の喜びでなく、御霊の喜びを味わって行く。そして、あらゆ
る道において、出来事において、主を認めて行くなら、私たちの道
をまっすぐにされる。

まっすぐにとは、道が自分の思い通りになるのではなく、心に世の
ものではない、主の平安が与えられることだ。主の平安は、何にも
代えられない。状況がどうであろうと心に平安があるなら、問題で
無くなってしまう。
------------
全てが主の最善の導きだと認めて生きられるのは、何と自由で平安
な歩みだろう。嬉しい時には賛美を、悲しい時には祈りを主に持っ
ていける。思い通りにならないところを通って主に出会えた幸い
だ。


2022年10月18日(火)

「主はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれ た・・」創世記29:31



レアに焦点が当てられている。レアとラケルは姉妹だった。しかし
ヤコブは妹のラケルを愛していた。ラケルとの結婚を望み、父親ラ
バンの下で7年間の労働した。だがラバンに欺かれ、姉のレアを与
えられた。だがヤコブは、尚も愛するラケルのために更に7年働い
た。

レアはずっと妹ラケルとの比較、嫉妬に生きてきただろう。妹より
先にヤコブと結婚したのだが、ますます劣等感は強くなって行っ
た。ヤコブの愛をどんなに渇望しても得られない。ヤコブの愛はず
っとラケルにあった。主はそんなレアをあわれまれ、レアの胎を開
かれた。主が悩みをご覧になったと「ルベン」と名づけた。

子の誕生で、夫の心が自分に向き、愛してくれると思ったろう。だ
がそうはならなかった。第二子シメオンは「主は私が嫌われいるの
を聞かれて」とレアが、主に祈った答えだった。次々と産み、最後
には「主をほめたたえよう」、ユダと名づけた。

どうやっても夫の気持ちが自分には無い、自分には向かない事で、
劣等感や嫉妬にさいなまれ、嘆き悲しみ苦しみ抜く中で、レアは、
主を見上げた。そして望みを主に置くようにと変えられて行った。
レアの女奴隷により、男児を得た時はアシュルと名づけ、レアは
「なんと幸せなこと。女たちは、私を幸せ者と呼ぶでしょう」と
言った。

レアはずっと満たされない寂しさと孤独の中で、主を見上げ、主の
愛と憐れみに目を向けて行った。主は、レアの不幸な境遇により、
ご自身に近づけられた。レアは主により満たされて行った。私たち
にも、様々な悩みや問題が来るが、主に近づけるためであり、必ず
それを通して主に近づけて下さる。新たに主を知って行ける。
--------------
傷つけられた心も主との関係の中で回復を与えられ、顔を上げて立
つ強さを主から受け取る。苦しい経験が、主を通して現状を見るよ
うと変えられる。いつも主が近くおられるとは何と幸せなことだろ
う。


2022年10月17日(月)

「サウルは答えて言った『私はイスラエルの部族のうちの最も小さ いベニヤミン人ではありませんか・・どうしてあなたはこのような ことを私に言われるのですか』」Tサムエル9:21



イスラエルでは、主が王だった。だが民は、他国のように人間の王
を求めた。敵の脅威もあり、戦いに強い将を求めた。主はそれがど
ういう事かを告げ、警告された。王は民を支配し息子や娘を取り、
畑を搾取し王の奴隷となると。だが民はどうしてもと、言い張っ
た。

そこで主は、サウルを与えられた。王が選ばれた時、サウルは荷物
の間に隠れていた。「私は部族の内の最も小さいベニヤミン人・・
つまらない者、どうしてこのような事を」とサウルは、自分が王な
どと大それたこと、大勢の民を見た時に尻込みした。主は小さな者
を用いられる。人の力は問題ではない。主が霊を注ぎ力を与えられ
るからだ。

「主の霊があなたに激しく下ると、あなたも彼らと共に預言して、
新しい人に変えられる」「手当たり次第に何でもせよ。神があなた
と共におられる」御霊に自分を明け渡して支配される時、主の思い
が自分の思いとなる。主と一つであり主の願いが自分の願いとな
る。それで何かをする時、御心に適ったものとなる。

残念ながら、サウルは王になると高慢になってしまったが。主は小
さな無力な者を、御霊の力により用いられる。自分の能力は問題で
はない。主に頼り、従う時に、能力も知恵も上から来る。今、もし
示しが与えられているなら、従おう。主がお入り用であり、すべて
の必要は主から来て、用いて下さる。
------------
自分を見れば駄目だ駄目だと後ずさりするばかりだが、出来る事が
ある。自分を見ずに用いてくださる主を見ている事だ。主に信頼し
て恐れずに従おう。必要な力は主にある。


2022年10月16日(日)

「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴え ている者が投げ落とされたからである。」黙示録12:10


悪魔は様々な策略を用い攻撃して来るが、猜疑心や不信感を持って
来る。ネガティブな屈折した思いが起こるなら、悪魔の吹き込みだ。
よく悪魔を見張っていよう。特にまた、兄弟たちを告発する者であ
り、悪魔は神の御前で、兄弟姉妹を、ああだこうだと、その欠点を
あげつらい非難し訴えているとある。

人の事が、あれこれと気になりだしたら、要注意、要警戒だ。悪魔
の攻撃が来ている。仲間のちょっとした言葉じりや態度が気になっ
て仕方が無い時、悪魔の策略を思い起こそう。猜疑心や不信感の誘
惑が来ていないか。特に今の時代、若い人々は、メールやラインの
返信に敏感だと聞くが、相手からの返信が無い時にどうだろう。

ネガティブな思いが来た時には気をつけよう。相手の気にさわる事
を書いたのか、何かが、まずかったのか、嫌われたのか、そんな
悪魔の猜疑心に惑わされないように。ある人が、職場に新しい人が
入り、少しでも慣れたらとの思いから、お茶に誘うと「はい」との
返事、それで都合良い日を教えて欲しいと告げた。

その後、毎日職場で顔を合わずのだが、何日経ても、なしのつぶて
だった。悪魔による猜疑心が来て、もしや嫌われているのか、避け
られているのか、悶々状態となり、その事を祈った。すると翌日、
退社が同時になり、祈った事もあり、今日はいかがと誘うと、笑顔
で喜んで応じて来た。

大変楽しい交流とされ良い友人になった。何かの聞き違いか、手違
いで、彼女は誘いを待っていたのだった。悪魔の猜疑心や不信感に
注意し、見張っていよう。

・・・・・・・・・・・・
サタンは兄弟たちを告発してくる。誰それが、ああだ、こうだと
いらない事を訴えて来る。猜疑心を抱かせ、仲違いをさせようとす
る。サタンに気づけるよう、攻撃が来ている事に気づけるよう、サ
タンの識別を祈っていよう。祈りが力だ。


2022年10月15日(土)

「神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精練するように、 私たちを練られました」詩篇66:10



金や銀は、高温の炉で溶かして精錬し、不純物を取り除く。それは
高温の熱い炉で溶かさなければ、不純物は除去できない。しかし精
錬により除去が出来る。私たちも、内に多々ある不純物を除去する
ために、試練の熱い炉で溶かされる。その苦しみの炉の中で、自分
の弱さや内側にあるものがあらわにされ、不純物が浮き彫りにされ
る。

それは、私たちの不純物を取り除かれ、精錬され、きよめられるた
めだ。そのために試みを通される。その中で、私たちはどうだろう。
不満、愚痴や苛立ちで「何で!何で!」と感情的になるだろうか。
平穏無事の時には決して知る事のない、自分自身の本当の姿を知る。

しかし耐えられない試練は一つも無い。必ず乗り越えられる試練で
あり、脱出の道も備えられている。信仰人生で、出会う一つ一つの
試練は、すべてクリアできると言っている。許容量オーバーの試練
は無い。これは主の真実な約束だ。だがその試みの中で、私たちの
正しい態度は大切だ。

逃げたり、反発したり、いたずらに落ち込むのでなく、主からのも
のと信仰持って受け取る時、必ず祝福とされ成長して行ける。決し
て自分の思い通りではない。肝心なのは、自分の思う最善でなく主
が自分のために思って下さる最善だ。

主は患難から忍耐を生み出し、忍耐から練られた品性が生み出され、
試練により品性が培われて行く。今、目の前の問題に具体的に信仰
により取り組もう。

・・・・・・・・・・・・・
「耐えられない試練に会わせられない」とあり、耐えることのでき
るように脱出の道があると。御言葉の通り、耐えられない試練が無
かったから、今がある。試練は嬉しくなく痛くて辛いが、通った後
の日に、主を新たに知り、主に近づけている事が感謝だ。、、


2022年10月14日(金)

「主のことばを聞きなさい・・あすの今ごろ、サマリヤの門で、上 等の小麦粉一セアが一シュケルで、大麦一セアが一シェケルで売ら れるようになる」U列王7:1


サマリヤがアラムに包囲され、町は大飢饉だった。人々は餓死し、
ろばの頭や鳩のふんが高値で売られ、子どもを食べるという、酷い
凄惨な状況だった。エリシャは祈り、主は答えられた。「明日、小
麦粉や大麦が売られる」、15gが数10円と。すると王の侍従が「主
が天に窓を開かれてもそんな事があり得ようか」と言った。

その時エリシャは「あなたはそれを見るが食べられない」と預言し
た。時にサマリヤの門に四人のらい病人がいた。町は飢饉、自分達
は必ず死ぬ。どうせ死ぬなら敵の陣営へ入ってみよう、もしかした
ら食料があるかも知れないと。その時、主が敵に大軍勢の音を聞か
せ、敵は襲撃と勘違いし、恐怖におののき逃亡した。

するとそこには、山ほどの金銀、食料があった。彼らは王家に報
告、王は信じなかったが、偵察により事実を知った。すると大勢が
殺到したため、あの侍従は踏みつけられ死んだ。預言通りになっ
た。実際、主は溢れる食料を用意された。だがあの侍従のように信
じなければ、自分のものにならない。溢れる食料のまっただ中で、
餓死する事になる。

不信仰は、目の前にある恵みを手に出来ない。私達はどうだろう。
十字架の救い、神の愛、赦し・・溢れる食料の中で、信じなければ
餓死するように、溢れる恵みの中で、不信仰により餓死寸前だろう
か。莫大な恵みが目の前にある。頑なに信じようとしない、自らの
不信仰に気づく事から、大きな祝福が始まる。主を信じよう。そう
できるよう祈ろう。
------------
どうしてそんな事があるだろうかと不安な状況を前に何度も不信仰
に襲われるが結果はどうだっただろう。いつも想像をはるかに超え
た主の解決があった。主を信じて導きに従おう。


2022年10月13日(木)

「彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに 信頼し、彼らは恥を見ませんでした」詩篇22:5



ある人が、当座の必要が生じ、給料が入ればすぐ返せると、よく知
らず、すぐに借りれる金融機関から借金をした。それが、大変な利
息になり、諸事情も重なり返済できず、どうしてよいかわからなか
った。恥ずかしくて絶対に誰にも言えない。

誰にも知られたくなかったが、どうにもならず、牧師に打ち明け
た。祈りもせず、軽率であった事を悔い改め、一緒に祈ってもらっ
た。主は祈りに答え、あわれみにより、みわざをもって必要を与え
て下さった。その事を通して、身をもって教えられた。

「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、
あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」すぐに借金に走
らずに、まず祈るべきであったこと。主は必ず必要を与え、又、祈
るならふさわしい導きを与えて下さったであろうこと。

自分は主を信じる事ができていない事を思い知らされた。御言葉を
信じる事が出来ないから、自分が動き、自分の判断、自分の思いで
行動すること。主を信頼しきれない、不信仰な自分の姿を思いきり
知らされ、砕かれた。非常に手痛い失敗であったが、感謝であっ
た。

この取り扱いを通して、主のあわれみを経験して、どんな状況であ
れ、そこで祈り、主に頼るなら、主は助けて下さるとを、信じるこ
とができるようにされた。主は信頼する者に決して恥を見せられる
事はないと。大きな前進であった。主は、私たちの内側を照らし、
一段階成長へと一歩づつ手を取って導いて下さる。
------------
忍耐と励ましの主は、私たちの成長できないところを知って導かれ
る。感謝だ。手痛い取り扱いも必ず主の深い意味がある。だから既
に光の中だ。主に明け渡そう。


2022年10月12日(水)

「主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる」 詩篇6:9



ある人が対人関係で、どうしてもぎくしゃくする相手がいた。相手
の言葉や態度に傷つき、嫌な思いがあり、恨みが募ってしまう。
又、そんな自分に自己嫌悪にも陥る。辛い中、そんなこんなをある
がまま、主に助けを求めて祈り続けていた。そんな時に、何と自分
も相手と同じ失敗を、他の人にしてしまったのだ。

それは大事に至らずに済んだが、主の取り扱いだとわかった。自分
も罪人で、自我が強く、自己中心に、肉で行動してしまう事を思い
知らされた。相手を責めている自分も、同じ者だと砕かれた。そし
て別の人に相談を受ける機会があったが、それが複雑な生い立ちに
関するものだった。

心も屈折してしまいそうな、厳しい過酷な状況に言葉が無かった。
その相談者に愛情を感じ、祈りの重荷が与えられた。祈って行きた
いと思えた。そんな時にふと、嫌な相手から垣間聞いた生い立ちが
重なった。その時、相手への印象が変わった。

大変な所を通って来た事に思いが至り、思いを馳せた。これら二つ
の事が次々と起きて、相手への見方が変えられた事に気づいた。自
分も恥ずかしい肉の失敗をした事、厳しい生い立ちに思いが至った
事、まさにその時に相手を受け入れる事ができた。

これこそが「祈り」の答えで、わざである事を経験し、祈りの力を
見せられた。主は思いも、状況も支配しつつ、祈りに答えて下さ
る。祈って行こう。「しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの
声を心に留められた」。
------------
裁く自分の内にも罪があると、気づくことも自分でできない者だ。
切実に祈る祈りを主は聞いて教えてくださる。祈りはいつも受け入
れられている。主の答えを見張りよく悟っていきたい。


2022年10月11日(火)

「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたこ とです」マルコ4:40



ガリラヤ湖は、すり鉢状になっていて形状的に、突如の嵐が発生す
る湖だ。この日、主 は「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われ、弟
子たちは、主に従って舟を出した。主は相当な疲労のため、乗り込
んですぐに熟睡された。そんな時に、突如の嵐が起きた。

凄まじい突風で、大きな波をかぶり、舟は水で一杯になった。今に
も転覆になりそうだ。嵐に慣れているプロ漁師ですら、恐れて慌
て、身の危険にパニックになった。プロだからこそ、恐さを知って
いたのかも知れない。しかし主はと言えば、この大混乱の中、熟睡
しておられた。いっさい動じる事なく、微動だにされず。

ところが弟子たちは、舟の中に主がおられるのに、恐怖でパニック
だ。嵐に、状況に飲み込まれてしまい、主を前に置いて、右往左往
だ。だが、主の舟が沈む事の方が、有り得ない。そして「向こう岸
に渡る」と言われた。

舟が沈む〃と怯えているのは、私たちの姿かも知れない。嵐に、厳
しい試練に会うと、何もかもがだめになってしまうと思う。自分の
一生はだめになる、仕事はだめになる、家庭はもうだめだ、子供が
だめになる・・。まさにそれが恐怖なのだ。しかし主の乗っておら
れる舟が、沈む事など不可能だ。

「どうしてそんなに恐がるのか、信仰が無いのはどうしたことか」
と。主は、私たちの人生に同船して下さっている。何と安心安全な
事だろう。その主を信じること、信仰を求めておられる。恐れてい
る事をそのまま言い表して、信仰が与えられるよう祈って行こう。
主を信じることができるよう祈ろう。
---------------
目の前に来ることですぐに動揺してしまう。主に助けを祈り、主を
近くに覚えよう。主は同じ船で揺られておられる。自分の弱さを知
らされるが事象をはるかに超える主の存在を見つめていよう。


2022年10月10日(月)

「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたが たは、どうして信じることができますか」ヨハネ5:44



日頃私たちの心を乱し、ざわつかせるものは何だろう。心を探って
みると、根深い所に、人の評価がないだろうか。人の目を気にし、
どう見られているか、どう思われているかが気になってたまらず反
応してしまう。今までを振り返ってどうだろう。

落ち込んだ時、心暗くなる時、思い煩いが来た時はどうだったか、
人の言動や態度が気になり、振り回されていなかったか。人から批
判されると、怒りが沸き、敵対心を抱いてしまう。人からの憎しみ
に、即、反応し、憎しみで返すなら、愚かな事をしている。

そんな時は、御言葉がどう言っているかを聞き、主の評価を聞こ
う。「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない」「人を恐
れるなら罠にかかる」怒りがある時は、売り言葉に買い言葉とな
る。逆上してしまい、思ってもいない事まで口走ってしまい、後悔
する。

人からの評価に、価値を置いている自分が問題で、肉のプライドが
問題だ。プライドが傷つこうものなら、大変な事になる。自我に触
れた途端、反発心が起きて、恨みを持つ。それなら人の評価で一喜
一憂し、アップダウンし人にコントロールされて、人依存で生きて
いる事になる。

まずそんな自分である事を認める事が大切だ。その時、御霊が人に
反応する自分に気づかせて下さる。祈りに持って行けて、主は一歩
づつ導き自由にして下さる。
---------------
人から評価で落ち込むとき、人に左右されている自分に気づく。良
い評価であれば気づけない事だ。人の評価を求めて惑わされず、主
にある自由を祈っていこう。


2022年10月09日(日)

「・・神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑 なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき よせられて、誘惑されるのです」ヤコブ1:13


「試み」という元の言葉は「試練」と「誘惑」の両方に使われてい
る。「試練」は、神からのもので、「誘惑」は、サタンからのもの
だ。神は、決して悪に誘惑される事の無い方で、誰をも誘惑される
事はない。神からの誘惑は無い。神は、ご自分の子どもに試練を与
えられる。神からの「試練」は受け入れて、耐え抜く時に、いのち
の冠を受ける。

逃げずに試練に向き合うなら、必ず成長する。試練は痛く辛いが、
良いものだ。反対に、サタンからの「誘惑」は決して受け入れては
ならない。拒否し、立ち向かうべきものだ。それを受け入れる時、
罪を犯してしまう。だから主が「主の祈り」で、こう祈りなさいと
言われたように、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救
いください」と祈る事は大切だ。

誘惑から守られるように、日ごとに祈る必要がある。サタンの誘惑
の巧妙さは、物事が順調に行っている時に来る事だ。試練の時は、
むしろ主に拠りすがり、主に頼るので、主が近い。何の問題もなく、
平穏無事で、万事うまく行っている時に、人は油断する。主に頼ら
ずとも、やって行けるので、祈る事も怠ってしまう。

頼らずとも、問題なく自分でやって行けると思ってしまう。ダビデ
が姦淫の罪を犯した時にも、油断があった。部下が命がけで戦って
いる時に、夕方に起き出すという怠惰な生活をしていた。サタンに
つけ込まれた。誘惑が来た時に、主を仰ぎ、祈れば良かった。しか
し祈る事を怠った。順調の時こそ、身を引き締め、神に感謝を献げ、
神を喜び、恵みを数え、更に神に近く歩もう。

・・・・・・・・・・・・
「試みに会わせないで〜」との祈りは大切だ。サタンが絶えず誘惑
してくるし、自分の内には肉があるからだ。肉はサタンの巧妙な誘
惑と合致してしまう。欲のあるところに来るので、罪にいざなわれ
てしまう。祈りには力がある。祈っていよう。


2022年10月08日(土)

「あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな」詩 篇34:13



対人関係において、言葉は重要だ。言葉は、人を殺すことも、又、
いやす事もできる。人を剣で刺すと同様に、人の心を刺して傷つけ
てしまう。人から傷つく言葉を言われるが、又、自分も人を傷つけ
る言葉を発して、ひどく後悔する。人をいやす言葉を語れたら、ど
んなに幸いだろう。

「心に満ちていることを口が話す」とあり、言葉以前に心が問題だ
と言っている。憎しみに満ちていれば、必ず言葉にトゲが出てしま
い、愛があれば、いやす言葉となって出て来る。まず、心がどうだ
ろう。御霊に導かれ、支配されるよう祈ろう。

言葉を発する時に、覚えるべき事がある。@それは真実か。憶測で
はないか。人づてに聞いた単なる噂話だろうか。まず真実でなけれ
ば、嘘を広める事になる。そして真実だとしても、その場で語る必
要があるかどうか。Aそれはフェアだろうか。偏見は無いか。その
場にいない人の事なら、その人は反論が出来ないのでフェアではな
い。

B愛があるか。語る時に愛があるだろうか。愛が無ければ、うるさ
いだけのシンバルとなるTコリント13:1。Cそれは有益だろうか。人を
励まし、慰め力づけ、人の徳を高めるだろうか。信仰的だろうか。
「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってくださ
い」。

そして「愛をもって真理を語」れるよう祈っていよう。私の口が、
人を慰め力づけ、主に賛美と感謝を献げるために、用いられるよう
に。
・・・・・・・・・・・
「あらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしな
ければならない」とあり、普段、何も考えずにしゃべっている言葉
について、今一度振り返り、御霊の導きを求めよう。くちびるの戸
を守られるよう祈っていよう。


2022年10月07日(金)

「「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白 くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」 イザヤ1:18



あなたも失敗した経験があるだろうか。ある人が大失敗をしてしま
った。軽率な言動、行動に、後悔してもしきれなかった。自分とし
た事が、よく考えもせず何と愚かな事をしてしまったのか。自分が
したとは信じれられない。取り返しがつかない。しかし教えられ
た。紛れもなく、それが自分なのだと。

本来の自分でないと思いたいし認めたくないが、自分はそのような
愚かな者なのだと。高慢を砕かれた。主に頼る事なく肉で歩むと、
欲望のままに歩んでしまう。自分がいかに罪深い者であるかを知ら
され、主の十字架がまさに自分のためだと思い知らされた。

それまで罪人と言われてもよくわからなかった。法に触れてもいな
いし、大罪を犯したわけではない。人に迷惑かけないよう真面目に
生きて来た。だが自分の本性は罪を好み、自然にしていれば罪を犯
し、又、罪を犯してもそれも認識できず、平然としている恐るべき
罪深さを知らされた。

辛い所を通ったが、初めて主の十字架が、誰のためでもなく、この
自分のためであり、十字架の意味がわかった。人前にも、隠しよう
のない失態であった事も益とされた。人に知られた事によってプラ
イドは砕かれ、へりくだらされた。もし人目に隠しおおせたなら、
懲りずにいたに違いない。

バレさえしなければ問題無いと、どんなに罪深い者であるかを御霊
は教えて下さる。主のご愛と真実だ。罪を認めて、悔い改めるなら
真っ白にされる。何という恵みだろう。主の恵みがどんなに大き
く、主の愛がどんなに深いかを知らされて行く。
-----------
罪を罪だと示されることはどれ程の祝福であるか。認めなければ赦
されることもない。御霊の促しに素直になり罪を認めていきたい。
十字架に感謝して賛美して歩みたい。


2022年10月06日(木)

「幸いなことよ・・まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼 も夜もそのおしえを口ずさむ」詩篇1:1



広大な砂漠に緑の木々を見ることがある。みずみずしい葉が、生い
茂っている。そこには川があり、水がある。日照りのまっただ中
で、水路のそばの木々は青々と葉を茂らせている。「水路のそばに
植わった」がカギだ。

どのような苦しく悲しい試練の嵐の中でも、その人は青々と葉を茂
らせ、決して枯れない。なぜなら水路のそばに植わっているから
だ。そのため水路から絶えず水分を吸い上げ、十分に回り、葉を
瑞々しく茂らせて行く。「その葉は枯れない」。木の問題でなく、
どこに植わっているかの問題だ。

同様に私達も、主から、御言葉から、常に豊かないのちが流れて来
る。御言葉に根ざし、御言葉を喜びとし、御言葉を絶えず口ずさ
む。そこから力と喜びが湧き出て、日照りの中も、それによって生
き生きと生かされて行く。「何をしても栄える」のは、商売繁盛と
か、五穀豊穣、無病息災、家内安全といった御利益ではない。

何でも自分の思い通り、願い通りになるのではない。御言葉を喜び
とする人の願いは、神によってきよめられて行くので、自己中心の
願いが、神のお心にかなったものへ軌道修正されて行く。それゆえ
それは叶えられる。

神の御心を求めて行くので、豊かに祝福され栄えて行く。結局、土
台を何にするかだ。主の言葉か、自分のはかりごとか。主に頼るの
か、自分の力で行くのか。主を見上げて、拠り頼んで行こう。豊か
に祝福される。周囲をも潤して行く。
-----------
どんなに風が吹いても主の御言葉を思いめぐらし繰り返すとき、恐
れが平安に変わる。確信が揺らぐと恐れが来るが、主の御言葉が力
強く支えてくださる。いのちの御言葉に生かされていく。


2022年10月05日(水)

「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」ルツ1:16



エリメレクとナオミは飢饉の際に、偶像の地モアブに移住した。
家族の幸せを求めての事で、その地で二人の息子は結婚したのだ
が、夫も二人の息子も死んでしまった。当時は男性社会で、残った
女性は悲惨な状況であった。「主が民を顧みて」故郷の豊作を耳に
し、ナオミは帰郷を決意する。

二人の嫁が姑について来たが、ナオミは嫁達を気遣い、実家へ戻る
よう強く勧めた。だがルツの決心だけは、変わらなかった。それは
「あなたの神は私の神」と、ルツの主への信仰だった。故郷を捨
て、未知の異国の地へとは、計り知れず大変な決断であった。

ナオミは息子たちの死も「主の御手が下った」と受け止め、帰郷し
た時、私をナオミでなくマラ(苦しみ)と呼ぶように言い、主が私
を苦しみに会わせ、素手で帰されたと言った。だがすべてが逆方向
へと向かい、平安と喜び、賛美、祝福、希望へと変えられて行く。

帰郷の時期が丁度「大麦の刈り入れ時」であり、ルツは落穂拾いへ
と出る。生計の備えだった。そこは「はからずもボアズの畑」であ
り、又、「丁度、ボアズがやって来て」、懸命に働くルツを目にす
る。そのボアズから親切と配慮を受ける。これら偶然は一つもな
く、すべてが主によるものだった。

結果的にルツとボアズは結婚し、ルツは主キリストの先祖となる。
素手で帰ったナオミは、その手で孫を抱く事になる。ナオミ、ルツ
共に主から大きな恵みを得る。主のあわれみは尽きず、それらすべ
ては、まことの主に従った結果だった。主の御翼の下に、身を寄せ
る者を、主はどこまでも守られる。
-----------
主に留まっている限り、どんな状況も確実に主の最善の中にいる。
そう確信できる。なんと幸いだろう。不安の中にも次の一歩が導か
れる。失望せず主の摂理の中を今日も歩もう。


2022年10月04日(火)

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民 イスラエルをエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10



モーセは長年、何も無い荒野で羊を飼っていたが、ある日突然、主
から召しを受ける。「わたしはあなたをパロのもとに遣わす」と。
イスラエルをエジプトから連れ出せと。突如の事に、モーセは「な
ぜ?私が?」と思ったろう。「私はいったい何者なのでしょう。民
をエジプトから連れ出さなければならないとは」と。

何で一介の羊飼いの自分が、そんなとんでも無い大それた事をしな
ければならないのか。モーセはもう80歳であり、又、以前王子であ
った時に、自分こそがと、民を救出しようとして失敗している。こ
の老人に今更何を?今の自分にはもう何の能力も無い。地位も力も
富も人脈もない。

しかし主は、だからこそふさわしいとばかりに、尻込みするモーセ
に、「わたしがが共にいる」と約束され、たたみ込むように説得し
て行かれる。「わたしが共にいる」この事が「しるし」だと。「し
るし」とは、証拠であり、保証だ。これ以上の保証がどこにあろ
う。これが現実であるとは、何と力強い事だろう。

モーセは、民をエジプトから救い出す事、これが主からの使命であ
り、このために生まれて来た。主はモーセを用いられた。私たちも
同様だ。「わたしがあなたを遣わす」の通り、一人一人に主からの
使命が与えられている。

モーセと同じく、私は一体何者と思ってしまうが「わたしが共にい
る」との何よりも力強い保証がある。自分の力や知恵にはいっさい
よらない。遣わされた場で、主により用いていだだこう。
-----------
主が行けと遣わされるなら必ずそこで必要な助けは与えられる。そ
して責任を果たすことができる。主に助けられ用いてもらおう。自
分ではなく主を信じ応えていこう。


2022年10月03日(月)

「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかな かった」マタイ25:4



十人の娘が出て来る。花嫁の側の娘たちで、花嫁の家に、花婿が到
着するのを待っていた。だが花婿は思いのほか遅れて、夜中になっ
た。十人とも眠ってしまった。すると突然、花婿到着の知らせが来
た。五人は自分のともしびと一緒に予備の油を用意していた。とこ
ろが五人は用意していなかった。

もう今にも火が消えそうで、油を分けてくれと頼んだ。だが分ける
ほども無いので、店で買うようにと。急ぎ買いに走り、戻ると、も
う花婿到着で、祝宴の戸が閉じられ、入れなかった。明暗がはっき
り分かれてしまった。賢い五人と愚かな五人のどこが違ったのか。
どちらも、ともしびを持ち、どちらもウトウト眠っていた。

賢い五人は居眠りしなかったのではない。彼女たちも同じだった。
違いは「予備の油」を持っていたかどうかだった。花婿は再臨のキ
リストであり、娘は私たち一人一人だ。油は聖霊で、その油は、上
げたり、もらったり出来るものではない。不可能なのだ。

何と冷たい、分けて上げれば良いのにと思ってしまうが、聖霊を分
け与える事など出来ない。大切な事は、今日の生活を天につなげた
ものとして、いつか天に帰り、主にまみえる事を常に踏まえて生き
る事だ。それはこの世にいる間、まず聖霊を求め、聖霊の導きを、
聖霊の満たしを求めて生きる事だ。

それは地道に日々主と交わり、主との関係を培い、深めて行く、そ
れが油を準備しておく事だ。自分と主との個人的関係の事なので、
人に上げたり、もらったり不可能だ。今、主との個人的交わりはど
うだろう。まずそこが土台なので、そこを大切にし、第一のものを
第一にして往こう。
--------------
毎日、毎日、御霊の力によって励まされ歩もう。主は望むだけ聖霊
を分け与えてくださる。今しかできない事だ。大切な第一のものを
見誤らないよう、本当にふさわしいものを備えよう。


2022年10月02日(日)

「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれま せん。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕か れたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげ すまれません」詩篇51:17



サウルとダビデはどちらも王位にいた。しかし二人の最後は大きく
かけ離れたものとなった。双方共、罪を犯したが、サウル主から
退けられ、ダビデは悔い改め、祝福へと進んだ。ダビデはバテシバ
との姦淫とウリヤ殺害の二重の罪を犯し、サウルは、祭司が献げる
べきいけにえを自らが献げ、またアマレクを聖絶せよとの命令に従
わなかった。

ダビデはナタンから罪を指摘された時に「私は主に対して罪を犯し
た」告白し、サウルはサムエルから罪を指摘された時に「私は罪を
犯しました」と言った。どちらも言葉は同じだが、ダビデは「主に
対する罪」と認め、心底悔い改めたが、サウルは「しかし私の面目
を立てて下さい」と「面目を立て」の方が本心であった。

サウルは、事がまずいと思っただけで、主に対しての悔い改めは無
かった。ダビデは詩篇で「私の罪は、いつも私の目の前にあり」
「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であ
ることを行ない」と、逃げ隠れしなかった。サウルは罪に向き合う
事なく、言い訳に終始し、更に兵士と民のせいにした。

大事なものは自分のプライド、名誉だった。サウルの最期は悲惨だ
った。ダビデは「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」
と罪の赦しを受けた。ダビデは罪を犯さなかったのでなく、どちら
も、罪を犯したが、結末は天と地ほどに違ってしまった。

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サウルは表向きは神であり、一見悔い改めに見えるが、そうでない
ことが「私の面目を立ててほしい」でわかる。御霊に導かれた悔い
改めは、ただただ自分の罪が見えて、悔いくずおれる。自分をどう
こうも、人も無い。そして心底の赦しを受け取り、平安にされる。


2022年10月01日(土)

「『・・彼女のもとで身を低くしなさい』また、主の使いは彼女に言 った。『あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきえな いほどになる』」創世記16:8



アブラムとサライは、子どもを与えるとの主の約束を待てず、女奴
隷ハガルにより子供を持とうとした。ハガルはみごもった時、高慢
になり女主人を見下げた。それに激怒したサライは、ハガルをいじ
めたので、ハガルは辛くて逃げ出した。孤独で、荒野にいた時、主
の使いが「サライの女奴隷ハガル」と語りかけた。「サライの女奴
隷」と、はっきりと現実を見せ「あなたはどこから来て。どこへ行
くのか」と。

ハガルは居場所を失い、自分を見失ない、行き場を失っていた。
「女主人から逃げている」と答えた。苦しみから逃げたいばかりだ
った。すると「あなたの女主人のもとに帰り、彼女のもとで身を低
くせよ」と。ハガルはサライの奴隷なので、戻り、へりくだって、
女主人に仕える事がハガイのすべき事だった。そこがいるべき場所
であった。

一番したくない、苦痛で、嫌な事であろうが、実はそれこそが、ハ
ガルにとって、一番幸せで平安の道だった。自分の遣わされた場所
から逃げても、真の解放感も平安も無い。私たちも自分を見失ない、
行き詰まる時、主と新たに出会う事により自分を取り戻せる。又ど
んな主人であれ、見下げる事は御心ではない。そこで平安を失って
しまう。

私たちも、相手に関係なく、自分は主との関係において、御心に歩
むならどんな状況であれ、心は平安だ。主が平安を与えて下さるか
らだ。そして主はハガルをも心にかけ、子孫を数え切れないほどに
増やすと約束された。自分語りかけられた神と出会い、主のあわれ
みと恵みを受けたハガルは、主に従うべく、サライのもとに戻った。

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辛い苦しい試練の時は、逃げ出したいと思う。楽な方へ行きたい。
逃げるといっ時の、肉の解放感がある。しかしそこを逃げも全く平
安は無い。へりくだりが必要だが、へりくだって主の御心の場所に
とどまる時、何にも代えられない主の平安を経験する。