2022年11月30日(水)

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさ い。病気にかからず、すこやかでいなさい」マルコ5:34



12年間もの長い間、長血に苦しんだ女性。どうやっても治らず、
医者にもひどい目に会わされ、見放され、財もみな使い果たしてい
た。精神的にも肉体的にも、12年の歳月、どんなに苦しみ、痛み、
不安の日々であったろう。それに今後、金銭的にもどうすれば良い
のか。もう絶望であった。

そんな中で、この方なら治して下さるに違いないと必死の思いで、
群衆にもまれながら、着物のふさにさわった。その瞬間、出血が止
まった。いやされたのだ。彼女にすれば、何という救いだったろ
う。夢のような、天にも上る心地だったろう。もしそこで「助かっ
た!良かった!」とそのまま立ち去ったなら、身体が癒されただけ
で終わった。しかし身体は、又、病気にもなる。

主は、大勢がひしめき合っている中で、わざわざその女性を見つけ
出された。彼女は隠れたまま、密かにその場を去りたかったが、こ
れは逃れられないと思い、進み出た。ひれ伏して、自分の身に起き
た事を、真実を余すところなく打ち明けた。人々もいる前で、彼女
にとって、デリケイトな事柄だけに、どんなに勇気の要った事だろ
う。

しかし主は「あなたの信仰があなたを直した。安心して帰りなさ
い」と、身体のいやしと共に、心のいやしも与え、全人格的救いを
与え、全き平安を与えて下さった。安心して帰れるとは、彼女にと
って、何という驚くべき救いだろう。主の平安は何ものにも代えら
れない。
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主としっかり向き合わされ、主ご自身を知れることが感謝だ。全て
は、この主が最善を与えてくださると病だけでなく心が健やかにさ
れる。主の平安はいつまでも消えない。


2022年11月29日(火)

「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者 たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」マタイ25:40



「靴屋のマルチン」という、よく知られた物語がある。ある日、主
がマルチンに「明日、あなたの所に行く」と言われた。マルチンは
大喜びし、翌日働きつつ、窓の外に目をこらしていた。外は寒く、
雪かきの老人がいた。彼は冷えきった老人を家に迎え、温かいお茶
でもてなした。

次に、赤ん坊を抱いた貧しい母親が見えた。マルチンはその母子を
家に招き、暖かいショールを与えた。マルチンは、主はまだか、ま
だかと待っていると、少年が老婆のかごから果物を盗んだのが見え
た。すぐに行き、マルチンは少年のために懸命に執り成し、一緒に
謝った。

やがて一日が終わり、とうとう主は現われなかったと、マルチンは
ひどく落胆していた。すると主が「今日あなたの所へ行ったのが、
わかったか」と言われ、主の姿が、雪かき老人、貧しい母親、果物
を盗んだ少年に変わった。助けが必要な人に、手を差しのべるな
ら、それは主に対してした事になると教えられた。

大きな事でなくとも、ほんの些細な事でも、必要とする人に与える
なら、主は報いて下さる。又、小さい者とは、普段余り気にかけな
い者の事だ。それなら家族はどうだろう。他人には配慮し、礼儀正
しくし、良い人になる。が、家族は余りにも当然過ぎて、配慮を欠
き、むしろ甘えが出て、わがままになってしまうかも知れない。

一番身近な、家族こそをまず大切にしなければならない。小さな者
の一人にしたのは、主に対してした事だと言われる。そのように受
け止めて下さる。こんなに嬉しい事は無い。
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どんな小さな事にも主は共にいてくださり喜んでくださる。今この
時、自分に与えられている人は誰だろう。その隣人に主を見ていこ
う。


2022年11月28日(月)

「あしたの朝、主は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものか をお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主はご自分が選 ぶ者をご自分に近づけられるのだ」民数記16:5



コラの反乱と言われているが、コラが共謀者たちと、イスラエル人
250人と共に、モーセとアロンの権威に反逆した。全会衆は聖なる
者なのに、なぜ集会の上に立つのか、分を越えていると。その時に
モーセは彼らに対応でなく、まず主の御前にひれ伏し祈った。する
と結果的に、主ご自身がこの反逆に決着をつけられた。

反逆者たちに「あなたがたの方が、分を越えている」と。地面が割
れ、人々は飲み込まれ、主ご自身が裁きをつけられた。その後、主
は明白なしるしを与えられた。12部族に1本づつ杖を持たせ、主が
選ぶ者の杖は芽を出すというものだった。するとアロンの杖が芽を
ふき、アーモンドの実を結んだ。主が民の不平と反抗をおさめられ
た。

私達も割り与えられた、分をわきまえる事は大切だ。なぜなら主
が、与えられたものだからだ。各々に分がある。今の立場や役割
は、主からのものだ。分を越えたのはコラや共謀者たちだった。周
囲と比較し、羨望や自己憐憫は無いだろうか。妬みは憎しみへと増
幅する。妬みから邪悪な行ないへと向かう。

あなたを今の場に置かれたのは、主だ。「自分の領域を守らず、自
分のおるべき所を捨てた」のが悪魔だ。主を認め、分をわきまえ、
今の立場と役割を感謝し、そこで仕えよう。感謝して受け入れる
時、主はその所であなたを祝福して、大いに用いられる。
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自分の思い通りにいかないと環境に不満が湧いてくるが、主によっ
て与えられていると置かれた場所を受け取り直したい。主に与えら
れた領域を守ろう。そこに恵みが注がれる。


2022年11月27日(日)

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたい と思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている からです」ローマ7:15



律法とは、神の戒めだ。「偶像を造るな、拝むな」「安息日を覚え
て聖とせよ」「父母を敬え・殺すな・盗むな・姦淫するな」等々。
「神を愛し、隣人を愛せよ」「敵を愛せよ」「復讐するな」様々あ
る。律法はすべて正しい。だが肉の私たちには、正しく良いもので
ある事はわかるのだが、それを行なう力が無い。

パウロが言う通りに「貪るな」と言われると、罪の性質がむくむく
と出て、逆に貪りたくなるのだ。それなら律法により貪りが引き起
こされる事になる。人の内に罪があるからだ。ある人が、玄関の植
木鉢が余りに盗まれるので「植木鉢をとるな」と張り紙をした。す
ると余計に次々と盗まれ、とうとう張り紙をはずした。

「盗るな」と言われると、盗りたくなるのが罪の性質だ。「勉強し
ろ」「手伝え」と言われると反発する。肉には逆らう性質がある。
救われた当初は、喜びで一杯だが、その内、信仰生活が辛くなる。
窮屈で苦しくなるのだ。今まで感じなかった「罪」がわかって来
る。デボーションと言われるが、祈れないし、聖書もそんなに読め
ない。段々と重荷になる。

善をしたいと思うが、実行する力が無い。頑張っても出来ないと気
づいて行く。壁にぶち当たり、自分の惨めさ、無力を味わう。しか
しそここそが恵みの場だ。その時にこそ、真に主の恵みと力、救い
を経験する。無力を認め、ギブアップし、主にゆだねて行く時に、
御霊によって歩むという事を知って行く。御霊が働かれ、一つ一つ
成し遂げられて行く事を経験する。
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やればできると頑張っても、今日は出来ても明日は出来ない。陰険
な罪を主の十字架で救われた恵みに感謝だ。主に思いを祈り、主の
喜ばれる方を道を歩みたい。御霊の助けを祈ろう。


2022年11月26日(土)

「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で 一番偉い人です」マタイ18:4



「天の御国では、誰が一番偉いのか」と主に弟子たちが質問した。
彼らはどんな答えを思っていたのだろう。世の価値観なら、最大級
の功績のある人、能力のある人、善行を積んだ人、富を積んだ人・
・だろうか。だがその時に、主は、小さな子どもを呼び寄せ、子ど
ものようにならない限り、決して天の御国に入れない、彼らのよう
に、自分を低くする者が一番偉いのだと言われた。

驚くような意外な答えだったろうか。一見立派に思える大人より、
何も出来ない子どもが一番偉いと。子どもの一番の特徴は無力だ。
子どもは自分が全く無力な存在だと知っている。親無しには、生き
て行けず、食べる事も生活もできない事を知っている。完全に親に
依存している。しかし大人は自分で生きて行けると思う。自分の力
で何でも出来ると。

又、弟子たちは内心自分が一番偉くなりたい、一番の重要人物であ
りたいと思っていた。一番が良いとの価値観だ。弟子たちのそんな
考え方を「あなたがたも悔い改めて、子どものようにならない限
り、御国に入れない」と言われた。価値観、考え方自体が問題で、
「悔い改め」とは向きを変える事であり、方向変換せよと。

子どものようになるとは、自らの無力を認め、自分を低くする事、
へりくだる事だ。実は自らの無力を知る事、弱さを知る事こそが、
最大の恵みだ。無力を知る人が主に頼る。子どもが完全に親に頼り
きって平安でいるように、主に頼りきる時に、どんな状況でも、主
の御腕の中で全き平安だ。
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見えるつもりでいつも迷い、心配する必要のない事で平安を失って
しまう。自分の常識を超えた信仰の目で見ていけるよう、主に頼り
歩みたい。すでに主の御腕の中にいることを覚えていたい。


2022年11月25日(金)

「『ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません』すると、 イエスは言われた。『「それを、ここに持って来なさい』」 マタイ14:17



私たちの思いの中に、諦め思考、マイナス思考が無いだろうか。
「自分の力など微々たるもの。役に立ちはしない」「私などが少し
ぐらい証ししても、何になるのだろう」「こんな少額の献金をして
も、何の足しにもならない」「少しぐらい祈ったって無駄だ」「こ
んな微力の祈りが聞かれるわけない」「こんなに圧倒的な未信者の
中で、私一人が何ができよう」ふっと心に湧いて来るだろうか。

サタンのささやきだ。「やっても無駄だ」「こんな微力が何にな
る」あの少年の5つのパンと2匹の魚、幼稚園のお弁当ぐらいの
微々たるものを、こんなもの何になると、主のもとへ持って行かな
ければ・・少年は主に用いられるという大きな特権と喜びを経験で
きなかった。又、大勢の人々もみわざを見る事は出来なかった。

主は全能の力を持っておられる。「パンが5つと・・ほかありませ
ん」「それをここに持って来なさい」これが何になろうと思うその
微々たるものを、時間、労力、富を持ってきなさいと。又、私が何
が出来ようと思うあなた自身を、主のもとへ持って行くなら、あな
たを用いて主が奇跡をされる。

主が大きく働かれる。どんなに僅かであろうと問題でない。主が祝
福される。主の祝福がすべてだ。自分のために生きるなら、自分一
人の人生で終わる。しかしもし自分自身を主に献げるなら、人々が
満腹するために用いられる。主は家族のため、職場、学校、近隣、
多くの人々の必要のため、救いのために用いて下さる。自分自身を
主にお献げしよう。
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御心に従おうとすると必ず心にネガティブな声が来るが、その声に
押し流されないで、主に信頼して御霊の導きに従おう。主のもとに
持っていかなければ、いつまでも頭の知識で終わってしまう。


2022年11月24日(木)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩篇37:5



信仰生活において、目の前の状況が、自分の思いと異なる時はどう
だろう。自分の強い思いがあると、どうしても現状を受け入れられ
ない。悶々状態を経験する。すべての環境は主からのものと、頭で
はわかるのだが、受け入れられず、状況を変えようとしてしまう。
不満でいっぱいで、自分の思い通りにしたいばかりだ。

だがどんなに悪銭苦闘しても、何も変わらない事がわかる。とうと
う疲れ果てて、ギブアップして主の御前に行く。そして祈って行く
時に、主がそうしておられるのだとわかる。それを自分が思い通り
に変えようと、必死になっていた事に気づく。ある人が子供に障が
いが発覚した時、どうしても受け入れられなかった。

なぜ?自分の子が?どうして?と涙、涙で、思いは空回りし、苦し
く、辛くてたまらなかった。主に対して反抗的になっていた。同年
齢の子供を見れば涙が溢れた。平安は全く無く、苦しくてたまら
ず、とうとうギブアップした。自分自身も子供も将来も、不安も恐
れも何もかもを、いっさい主に明け渡した。その時、不思議が起き
た。

状況は変わらないのに、心に初めて深い安堵と平安が来た。何より
心の平安が嬉しかった。何にも代えられないものだった。委ねられ
ないなら、その事をそのまま主のもとに持って行こう。主に告げよ
う。ありのままを祈ろう。明け渡して行く時に、主が導き、成し遂
げて下さる。
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思いが強いと祈っていても、自分で出来ることはみなしてしまう。
どうにも成らずに本気で主に向かう。何度も失敗するが、主が成し
遂げてくださること覚え、主にすべて委ねていけるよう祈ろう。


2022年11月23日(水)

「神である主はこう仰せられる。『そのことは起こらないし、あり えない』」イザヤ7:7



ユダのアハズ王の時、アッシリヤの脅威があり、アラムと北王国イ
スラエルはアハズ王が同盟を拒んだため、ユダに攻撃をしかけよう
とした。この時、アハズ王とユダの民は「王の心も民の心も、林の
木々が風で揺らぐように動揺した」。この攻撃に、恐れおののい
た。

しかし、イザヤは主から言葉を受け、「恐れるな、静かに主に頼る
ように、それは起こらない、落ち着いているように」と語った。こ
れら二つアラムと北王国は燃える燃えかすだと。だが、アハズ王は
主を仰ぎ、主に信頼するのではなく、何と、アッシリヤの援助を求
めに走る。するとアラムも北王国もアッシリヤによって滅ぼされる
事になるのだが、ユダも滅亡への道をたどる事になる。

私達の日々の歩みはどうだろう。木々が揺らぐように動揺するよう
な、突如の事態が起きた時、どうだろう。アハズ王のようにパニッ
クになり、主は飛んでしまって、自分の力、肉の知恵と方策に頼
り、方向違いに走るだろうか。今、目の前に心が動揺するような事
態があるだろうか。神の言葉はこうだ。「気をつけて、静かにして
いなさい。恐れてはなりません。この事態に心を弱らせてはなりま
せん」恐れないで、神を信ぜよと。

まず慌てないで、自分で何とかしようと動き回らないで、静かにせ
よと。とにかく自分の思いで、どうこうしないで、落ち着こう。主
は導きの主だ。祈りの中で、主が進むべき道を、御心を必ず教えて
下さる。その主が示された道に進もう。
---------
動揺しているからこそ、まず主に祈り、目前の環境から主へと目を
向ける時を守ろう。直感や受けている印象で動いてしまうことから
守られる。力強き主に頼ろう。


2022年11月22日(火)

「そこで、エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に降り て来て、その子の母親に渡した。『ご覧、あなたの息子は生きてい る』」T列王17:23



エリヤは最初、主からケリテ川に行くように命じられ、次にツァレ
ファテへ行くよう命じられた。そこのやもめにより養うと。その通
りに従うと、極貧の女性だった。ひと握りの粉と少しの油だけを持
ち、何とそれで子どもと最後の食事をし、後は死を待つだけだと。
何と言う事だろう。驚くべき状況だった。

しかしエリヤは、ひるまずに主の示しに従った。まず、エリヤのた
めにパン菓子を作るように。そうすれば飢饉が終わるまで、かめの
粉は尽きず、そのつぼの油は無くならないと。突然現われ、何とい
う非常識な、とんでも無い要求だろう。だが、彼女はエリヤの言う
その通りにした。すると奇跡が起きて、飢饉の間中、粉と油は尽き
ず、息子も自分も養われた。

飢饉のまっただ中で、神により養われた。ところがその後、息子が
重病で亡くなってしまった。エリヤはその息子が生き返るよう主に
祈った。主は、エリヤの願いを聞かれ、息子は生き返った。その生
き返った息子を、彼女に返した時に、彼女は、エリヤが神の人であ
り、その口にある主の言葉が真実であると「今、知った」と言っ
た。

それ以前は、まだよくわかっていなかったが、息子の死を通して、
神の言葉が真実であると知ったのだった。彼女の信仰が、確かなも
のとされた。大きな苦しい試練であったが、主と主の言葉が真実で
ある事を知る豊かな恵みの時とされた。私たちも、苦しい試練が来
るが、その中で、主の言葉が真実であることを知らされる。そし
て、それを証しできるようにされる。
------------
万事休すの中でわずかかな物にしがみつこうとするが、もし主を信
じて明け渡したら思いを超える奇跡を拝する。主を第一に従いた
い。主は御言葉の通りに養い導き続けてくださる。


2022年11月21日(月)

「イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息 子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜい その母親につき添っていた」ルカ7:12



夫を亡くした女性が出て来る。女手一つで子どもを育て、大変な苦
労だったろう。一人息子がいて、彼女にとって、その息子が唯一の
生きる支え、慰め、喜び、力、生きがいであった。青年に成長し、
頼もしく思い、どんなにか支えられていたであろう、その一人息子
が亡くなってしまった。

彼女にとって最愛の息子であり、命そのものであった。その息子を
失ってしまった、その心の張り裂けるような悲しみ、嘆きはいかば
かりだったろう。泣いて泣いて、泣き叫んでいたであろう。その悲
しみを知る町の人たちが何とか慰めようと、大勢が彼女に付き添っ
ていた。主はこの母親を見て、かわいそうに思われた。

主は、その心を、痛みをご存じであった。“かわいそうに思
い”は、気の毒に思う程度のものではなく、腹わたが激しく痛み、
底から揺さぶられほどの強烈な思いだ。「泣かなくてもよい」と、
死んだ息子を生き返らせて下さった。主の深いあわれみだった。こ
こでは、母親が主に助けを求めたのではない、主の方から声をか
け、一方的にいやされた。

「かわいそうに」の思いに突き動かされてであった。私たちにも、
主の、このあわれみが向けられている。悲嘆に暮れる時、主は、腹
の底から激しくかわいそうに思って下さる。ご自分の痛みとして感
じ、深いあわれみをもって抱いて下さる。この主に心を向けて、心
開いて行く時、主のいやしを経験して行く。
---------------
主はご自分の痛みのように私たちの心身の痛みを深く身に引き付け
てあわれんでくださる。主にありのままを祈りもう一度立ち上がれ
る。主との交わりを通して癒しを受け取ろう。


2022年11月20日(日)

「ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟 子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた」使徒9:36


ある人が、夫の転勤で海外に住む事になった。初めての海外生活で、
言葉もわからず、右も左もわからなかった。夫は、日中は仕事に出
てしまう。一人で不安な中、丁度近所にいた日本人クリスチャンが、
何かと大変親切に手取り足取り助けてくれた。買い物に誘ってくれ、
地域の地理や様子を教えてくれ、事務手続き等も助けてくれた。

本当に助かり、どんなにか有難かった。そんな中、教会の日本人集
会に誘われた。特に求めがあったわけではないが、しかし良くして
もらって、感謝でならず、お礼のつもりで行った。するとその日本
人集会の人々にもまた、大変親切にしてもらい、助けられた。お返
しのつもりで、続けて通っていた。

行く度に、説教を聞くのだが、それが不思議が起きて、段々心に響
いて来るのに驚いた。ぐいぐいと心に入って来て、心が動かされ、
ある日、はっきりと主を受け入れ、招きに進み出た。感謝と喜びが
湧いた。そして主を知るに従って、ますます喜びに溢れた。そんな
中、周囲の人々の愛情と親切により、主に出会えた事の感謝を覚え、
自分も出来る事をしたいと願った。

祈っていると、洋裁の賜物が与えられていて、仕えて行きたいとの
思いが与えられた。家庭を開放し、無料洋裁教室を開き、聖書のお
話をした。女性方の楽しい交流の場ともなり、多くの人々が集い、
何人もの人々が救われて行った。主は良いわざを用いて下さり、主
のみわざをして下さる。

・・・・・・・・・・・・・
クリスチャンからの親切を受ける時、その背後にあるものに目が向
く。小さなものでも、五つのパンと二匹の魚を、主にお献げする時、
主が祝福して下さる。手の中にあるものをお献げしよう。証しのた
めに用いられる。


2022年11月19日(土)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで あなたのおきてを学びました」詩篇119:71



ある人の証しだ。若い頃から教会に行っていたが、神の愛はわかっ
ておらず、自分にとって信仰とは「あれはダメ、これはダメ」の律
法ばかりで、窮屈なだけで、喜びも平安も無かった。段々、教会へ
行かなくなって、いつしか全く離れてしまった。堅苦しい戒めから
解放され、自由の身になったと思った。

しかし社会の厳しさの中で、別のこの世の様々な縛りに直面した。
仕事がうまく行かず、対人関係に苦しみ、トラブル続きでとうとう
身動き取れなくなってしまった。毎日が辛く、仕事を辞めようかと
思った。せっぱ詰まり、どうしてよいかわからない状況で、なぜか
ふと、聖書を思い出したのだ。

昔、読んだ聖書を取り出して読んでみた。求めていたのだと思う。
放蕩息子の箇所で、まさに自分の事だと涙が溢れて仕方が無かった。
初めて御言葉が頭でなく、心に入って来た。以前は、まるでわから
なかった神の愛が、初めて全身にしみいった。真実の愛を知った。
その時に、主に立ち返ることができた。主が喜んでいて下ることを
感じた。

順境にある時、問題無く、うまく行っている時、神のもとへはなか
なか行かない。神無しで十分やって行けて、神無しで幸せだと思え
るからだ。肉は甘くない。試練が感謝だ。神のもとへ導いてくれる。
多くの人があの時のあの苦しみが無ければ、神を求めていないと言
う。苦しみや悲しみは、私たちを神に向かわせてくれる。それは必
ず祝福へと変えられて行く。

・・・・・・・・・・・
試練は、好きではないが、振り返る時、確かにそこに主が見えて、
これが無かったなら、どんなに大変な事になっていただろうと思う。
自分の内側を見せられ、悔い改めが与えられたり、主の助けや支え
を身を持って知れる。感謝が溢れる。


2022年11月18日(金)

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もな い喜びと思いなさい」ヤコブ1:2



多くの人々からよく証しを聞く。この苦しみ、あの悲しみがあった
からこそ、主に出会えたと。もし、あの苦しみ、この行き詰まりが
無ければ、辛い出来事が無ければ、主を求める必要が無かったと。
あの悩みがあったから、慰めが欲しくて、指針が欲しくて、教会を
訪ねた。そして主との真の出会いを経験した。

自分から苦しみなど求めないし、求める必要も無い。だが、人生で
試練は必ず来る。これは、誰も避けることができない。私たち一人
一人もどうだろう。救われた後も、現在まで、あの苦しみがあった
からこそ、主の愛を知り、真実を知った。あの悲しみがあったか
ら、主の慰めに触れた。新生してからも、順境の中では、満たされ
ているので、なかなか主への求めが無い。

「苦しい時の神頼み、楽しい時の神離れ」と言わるが、肉は神を求
めない。順境の時には、感謝も忘れ、自分で生きて行く。自分の力
でやって行けるからだ。試練の最中は、ただただ苦しいばかりに思
える。だが、必ず脱出の道がある事、今はわからなくとも、必ず益
とされる事、これがあったから、自分は変えられ、沢山の事を学べ
たと必ず後に言える事・・それらを心に、祈りを深めて行こう。

詩篇記者は、苦しみに会ったことは、幸せだったと証ししている。
そこで主を知ることができ、沢山の事を学べるからだ。苦しみは苦
しみで終わるのではない。試練を通して、一段階〃と成長させて下
さる。
------------
試練の時に自分しか頼ることができないとしたら何と悲惨だろう。
苦しみは苦しみで終わらない。現実の主を知り、主の力を新しい力
として歩みだせる。主と共いる幸いを知っていける。


2022年11月17日(木)

「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムと ゴモラを滅ぼされる以前であったので・・どこもよく潤っていた」 創世記13:10



アブラムは「わたしの示す地へ行け」との主の御声を聞き、主から
の示しを受け、それに従い旅立った。しかし甥のロトは主の御声を
聞いたのでも、祈ったのでもなく、ただ伯父のアブラムについて行
った。伯父といれば、利得があると思ったのかも知れない。そして
ずっとアブラムの後について、歩んで来た。

アブラムへの主の豊かな祝福ゆえに、ロトも所有物がどんどん増
し、そのため、双方の牧者たちの間で、争いが起き始めた。一緒に
歩む事が困難になった。それでアブラムは別行動を取る事にし、ま
ずロトに好きな土地を選ばせた。「もしあなたが左に行けば、私は
右に。もしあなたが右に行けば、左に」と。残った方へ自分は行く
からと。

ロトはそこで主を仰ぐ事も、祈る事も、又、伯父の恩義に報いよう
とする事も、年長の伯父を立てる事もなかった。自分の利得のみ
で、どこが一番有利かと見渡した。そして見た目に、最も潤ってい
る肥沃な地を選んだ。見た目には麗しい地であったが、しかしそこ
は邪悪なソドムであり、滅ぼされる地であった。

一方主に委ねていたアブラムは、残った所を取った。アブラムは選
ばなかったが、主が選んで下さった地だった。ロトは肉の目でソド
ムを選び、自らの選択であった。肉で選択する事と、主に委ねて歩
む事の大きな違いを見せられる。

私たちも、進路を主に委ねて歩もう。主が選んで下さった進路は最
善だ。そこには思いを遙かに超えた祝福が備えられている。祈っ
て、主の御声を聞いて、歩む幸いを見せられる。
--------------
祈っていると不思議に別の道に背中を押される経験をする。節目や
曲がり角で主がそれとわかるように教えてくださる。主が共にいて
くださる場所が祝福だ。思いを主に委ねて導きの地を祈ろう。


2022年11月16日(水)

「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩 んでいます」Uコリント5:7



時に、対人関係の悩みにぶつかる。職場で、近隣で、この人がいる
から、私の毎日は真っ暗だろうか。あの人さえいなければ、平穏な
日々なのにと。あの人、この人と、ストレスになるような人々がい
るものだ。ヨセフは、兄たちの悪巧みで、エジプトの隊商に奴隷と
して売られた。それは妬みによるもので、悪意であった。

しかしエジプトで良い主人に仕える事ができ、主人から全面的信頼
を受ける。だがその妻によりえん罪で投獄に。上がったり下がった
りと波瀾万丈の人生だが、腐らず、諦めず、投げ出さず、そこで主
を仰ぎ、信仰に立った。後に傷つけられた兄たちと再会する事にな
るが、ヨセフは「私をエジプトに遣わしたのは、あなたがたではな
く、実に神」と真っ直ぐ信仰に立った。

兄たちが隊商に売ったのだが、そうでなく神がヨセフをエジプトに
遣わしたのだと。ヤコブ一族の命を救うためのご計画だと。主を中
心に据える時に、見え方が違って来る。嫌な相手がいるなら、その
人を置かれたのは神だ。この人さえいなければと思うが、私たちの
成長のために、練り、整えるために、あえて合わない相手を置かれ
る。

私たちを削り、砕き、間に合う器と造り変えるためだ。主に間違い
はなく、無駄は一つも無い。嫌いな相手を通して、裁き、憎み、嫌
悪する自分の姿も見せられる。そして取り扱われ、変えられて行
く。すべての事をあなたの益のために働かせて下さる。どんな状況
でも、常に希望がある。信仰に立とう。
------------
避けられない人間関係は重くのしかかるが主を通って目の前に与え
られたと信仰で見ていけるよう祈ってみよう。偶然ではない主のご
計画がある。そう受け取れるよう、主が助けてくださる。


2022年11月15日(火)

「・・そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つの とげを与えられました」Uコリント12:7


パウロには肉体のとげがあった。とげは痛い。小さなとげでも刺さ
ると痛い。何かの痛みが与えられていた。パウロは、更に主によく
仕えられるよう、障害となる「とげ」を取り除いて欲しいと徹底的
に祈った。だが主からの答えは「ノー」だった。とげは取り除かれ
ず、「わたしの恵みは、あなたに十分」との答えを得た。

「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる」と。とげがある事
により、キリストの力がおおい、ずっと主の臨在の中を歩めると。
私たちはどうだろう。あなたには、今「とげ」が与えられているだ
ろうか。それは、身体的、精神的弱さ、又、辛い、悩みの環境だろ
うか。

ある人は職場、近隣の難しい人間関係かも知れない。その時は、パ
ウロのようにまず祈ろう。御前に祈り、祈りを重ねる時に、御心な
ら取り除かれるし、そのまま置かれて、受け入れるべきとげなら、
そのように示される。パウロは「高ぶることのないように」とげが
与えられたと言っている。

「とげ」によって、へりくだらされ、主に頼る事無しに、祈り無し
に、生きて行けない者とされる。高ぶりから守られる。それは大き
な祝福だ。苦しみは、主のもとへ私たちを導き、主に拠りすがるよ
うにしてくれる。でなければ、主を離れて、自分で生きてしまう。

とげは、まず祈りに持って行こう。御心なら環境が変えられる事に
より除かれる。又、そのままなら、主の恵みは十分で、弱さの中で
主の素晴らしい力を経験して行く。目の前の苦しい状況に、主の視
点に立って、主の取り扱いに、ご計画にあずかろう。そうできるよ
う祈ろう。
------------
とげがあるから祈り主に助けを求めることができる。取り去られな
い中で、パウロのように自分にとってのとげの意味を主に聞いてい
こう。とげは恵みだったと主に感謝したい。


2022年11月14日(月)

「「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうした ことです」マルコ4:40



ある50代半ばの会社員が勤めていた小さな会社が倒産した。夫婦で
どっと不安に襲われた。家の多額のローンは?この年齢で再就職が
あるのか。路頭に迷うかも知れないとの思い煩いに、眠れない日々
が続き、食事も喉を通らなかった。主のもとへ行き、切なる助けを
求めたところ、御言葉を下さった。

「私たちのために、重荷をになわれる主」「重荷を主にゆだねよ」
「主は、あなたのことを心配して下さる」「重荷を負っている人
は、わたしのところに来よ。わたしがあなたがたを休ませる」「思
い煩いを、いっさい神にゆだねよ」。目の前のこの心配を、主が担
う、荷を主に委ねよ、休ませる、主が心配を引き受けるので、思い
煩いを一切委ねよと言われた。

不安と恐れは、どこから来るのだろう。湖で、嵐に会い、パニック
になる弟子たちに、主は「信仰が無いのはどうしたことです」と。
嵐でなく、不信仰が原因だと言われた。委ねきれない奥に、不信仰
がある。主を信じられないので、任せられない。自分が手放すと、
何もかもだめになってしまうと思う。そのため握って放せない。

自分で何とか出来ると思っているので、全部が自分の肩にかかり、
身動きが取れなくなる。まず委ねられない自らの無力を認める事
だ。正直に祈って行く時に、主の恵みは十分で、弱さの中に主の力
が働く。主が信仰を与え、信頼を深めて行って下さる。
------------
心配事を手放したら真っ逆さまに落ちていく気がするが、そこには
主がおられる。主だけがおられる。安心して主に頼ろう。主が必要
を備えてくださる。


2022年11月13日(日)

「・・あなた方の敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽 くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」Tペテロ5:8



主は、今まで愛し導いて来た弟子たちに、その愛を残るところなく、
最後まで示された。自分のものを「極みまで愛され」「愛し通され
た」。それで、主は、手ぬぐいを腰にまとわれ、かがんで弟子たち
の足を洗われた。そこにユダもいた。今から裏切るであろう事を知
った上で、ユダの足を洗われた。ユダをも最後まで愛し通された。

主が捕らえられた時に、ペテロも主を裏切った。3度も誓い「あん
な人を知らない」と。そしてペテロの裏切りは有名だが、弟子たち
も皆、イエスを裏切り、見捨てて逃げ去った。これから起こるであ
ろう事態もわかった上で、主は皆の足を洗われ、尚かつ極みまで愛
された。

しかしながら、ユダとペテロは大きく違っていた。ユダは後悔した
が、悔い改めはなく、主のもとへ行かず、どこまでも主に頼らず自
分で片をつけた。ペテロも後悔したが、主のもとにとどまり、すぐ
に悔い改めた。他の弟子たちも、復活の主のもとへ戻って来た。そ
して「ユダにサタンが入った」とあるが、悪魔は勝手に入れない。

ユダは悪魔の方を選んだ。徐々に悪魔に心を開いて受け入れて行っ
た。主はユダを極みまで愛されたが、ユダは主を選ばなかった。自
分の思い描いていた主と違ったのだろうか。主のそばで3年間、御
言葉を聞き、主のわざも見た。御言葉も知った上で、自分が選んだ
まさしくユダの意志だった。ペテロは後に「身を慎み、目をさまし
ていなさい」と。悪魔を警戒するようにと、自分の経験から語って
いる。目を覚まし、主に拠り頼み、祈っていよう。

・・・・・・・・・・・
大きな失敗、小さな失敗、どうしても失敗はしてしまうが、すぐに
主のもとへ行き、悔い改めよう。そのための主の十字架だ。赦して
下さる。ユダは、主のもとへ行く事をしなかった。どこまでも主に
頼ろう。赦されるたびに、主の愛を更に知って行く。


2022年11月12日(土)

「・・あなた方の敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽 くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」Tペテロ5:8



主は、今まで愛し導いて来た弟子たちに、その愛を残るところなく、
最後まで示された。自分のものを「極みまで愛され」「愛し通され
た」。それで、主は、手ぬぐいを腰にまとわれ、かがんで弟子たち
の足を洗われた。そこにユダもいた。今から裏切るであろう事を知
った上で、ユダの足を洗われた。ユダをも最後まで愛し通された。

主が捕らえられた時に、ペテロも主を裏切った。3度も誓い「あん
な人を知らない」と。そしてペテロの裏切りは有名だが、弟子たち
も皆、イエスを裏切り、見捨てて逃げ去った。これから起こるであ
ろう事態もわかった上で、主は皆の足を洗われ、尚かつ極みまで愛
された。

しかしながら、ユダとペテロは大きく違っていた。ユダは後悔した
が、悔い改めはなく、主のもとへ行かず、どこまでも主に頼らず自
分で片をつけた。ペテロも後悔したが、主のもとにとどまり、すぐ
に悔い改めた。他の弟子たちも、復活の主のもとへ戻って来た。そ
して「ユダにサタンが入った」とあるが、悪魔は勝手に入れない。

ユダは悪魔の方を選んだ。徐々に悪魔に心を開いて受け入れて行っ
た。主はユダを極みまで愛されたが、ユダは主を選ばなかった。自
分の思い描いていた主と違ったのだろうか。主のそばで3年間、御
言葉を聞き、主のわざも見た。御言葉も知った上で、自分が選んだ
まさしくユダの意志だった。ペテロは後に「身を慎み、目をさまし
ていなさい」と。悪魔を警戒するようにと、自分の経験から語って
いる。目を覚まし、主に拠り頼み、祈っていよう。

・・・・・・・・・・・
大きな失敗、小さな失敗、どうしても失敗はしてしまうが、すぐに
主のもとへ行き、悔い改めよう。そのための主の十字架だ。赦して
下さる。ユダは、主のもとへ行く事をしなかった。どこまでも主に
頼ろう。赦されるたびに、主の愛を更に知って行く。


2022年11月11日(金)

「ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、 おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必 ずいやされます。」ルカ7:7



謙遜とは、腰を低くする事と勘違いしてしまう。口では「いえい
え、私などは」と末席をうろうろするが、心の中は違っていたりす
る。この百人隊長は、主を家にお入れする資格が無いとへりくだっ
たが、自分は異邦人である事をわきまえていた。

しもべといえば、当時は奴隷だ。危険な状態にある自分の奴隷のた
めに、懸命に手を尽くす非常に愛情深い人物であった。だが、主が
立派な信仰と驚かれたのは、「おことばをいただかせてください。
そうすれば、私のしもべは必ずいやされます」との、百人隊長の
この言葉だった。

主の一言があれば、しもべはいやされると言った。主はその信仰に
感嘆し、賞賛された。彼は軍人であり、百人の部下がいた。自分が
命令を発するなら、その通りに部下は動き、自分の言葉に部下の命
がかかっている事もわかっていた。隊長の命令は、絶対的なもので
あった。部下は服従した。そして彼もまた上官には絶対に服従す
る。

職務上、権威という事と、言葉の力を知っていた。人間社会でもそ
うなのに、まして、それが主の言葉であれば、完全にその通りに成
就する事を信じていた。主への絶対的信頼があった。主の口から出
る言葉は虚しく帰らない。必ず事を成し遂げ、成功させる。

しもべはいやされた。主の権威を認め、自らをその下に置き、御言
葉を信じることこそが、謙遜だ。「おことばをいただかせて下さ
い」と主に求めよう。主はその言葉を成し遂げて下さる。
------------
主の言葉は権威があり生きていると、主が恵みを示してくださる度
に経験で知っていく。その御言葉が常に与えられている。ついてい
く力のない者をいつも御言葉が励ましてくれる。


2022年11月10日(木)

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも 世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」 Tヨハネ2:15



主がソドムとゴモラを滅ぼされる時に、御使いを遣わし、ロトと家
族を救い出そうとされた。アブラハムの執り成しの祈りがあったか
らだ。時間が無いから、一刻も早く逃げるようにと。しかしロトの
娘婿は、滅びるなどと冗談だと思い、ロトの言葉を信じなかった。

御使いは、猶予が無いので、妻と二人の娘、家族4人で逃げるよう
に。「命がけで逃げよ。うしろを振り返ってはいけない」と。逃げ
る途中で、町に天から硫黄の火が降り、一瞬に滅ぼされてしまっ
た。そして「うしろを振り返るな」と強く警告されていたのに、ロ
トの妻は振り返った。家、財産、宝、人・・この世に執着し、彼女
は塩の柱になってしまった。

後ろのものにしがみつく時、前進ができない。後ろのもの、世のも
のに心が囚われているだろうか。世のものを握りしめ、足が引っ張
られているだろうか。「すべて世にあるもの・・肉の欲、目の欲、
暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から
出たものだからです」。ロトの妻は、世にあるものを愛し、この世
に執着していたが、自分自身も、どうだろう。

肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢・・霊的に一歩前進するため
に、握りしめて放せないものに足を引っ張られているだろうか。前
進するために、妨げているものは何だろう。自分で気づかずにいる
か、うすうす気づいているかも知れない。御霊に心を探っていただ
こう。成長へと導いて下さる。
------------
握りしめているものに支配されてしまう。普段の生活の中ではなか
なか気づけず、あれもこれもと握っている。みな捧げまつり、我が
ものはなしと主の御声を聞けばすぐに立ち上がれる者になりたい。


2022年11月09日(水)

「イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったとき に旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった」 出エジプト40:37



モーセに導かれたイスラエルの民は、出エジプトを果たし、荒野に
出た。その厳しい環境である荒野にある間、雲の柱、火の柱がずっ
と共にあり、進むにもとどまるにも、明確な導きが与えられた。常
に、雲と火の柱により指示があった。いつもそれらを通して、主を
見、その導きを見ていた。

「雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった」、主が停止され
る所で、とどまった。私たちはどうだろう。止まる事が苦痛で、先
へ先へと自分で旅を続けたいかもしれない。ある人は帰省の事で、
主から教えられた。長年、実家を遠く離れていた。老齢の親を思
い、又、友人たちにも会いたく、帰省を志した。

計画するも、急な仕事が幾度も入り、今度こそと思うと、はずせな
い用が出来る。どうしても門が開かれない。その時に、幾ら願望が
あっても、焦っても、雲の柱が動かない限り、動かないのだと気づ
かせられた。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」、
すべてに神の時があることを覚えさせられ、主が動かれないのなら
と、心平安にされた。

主が動かれる時が、帰省の最善の時と思えた。主を知る前は、何が
何でも自分で戸をこじ開けようとしていたし、又、開かないなら不
満や怒り、悶々でいっぱいだった。しかし主が、自分のために最善
をして下さると信頼できてた。主に委ねて、主に従って歩む事がで
きる幸いに、今一度心から感謝した。
------------
自分で全てを計画し動こうとする時、何かにつけて思い煩い動揺す
る。主の導きを信じて主を仰いで進むなら毎日は新たな発見の連続
だ。主が先を行かれるからだ。


2022年11月08日(火)

「・・ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、 御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないこ とがありましょう」ローマ8:32



ある人の会社が、突如の倒産となった。給料も滞っていた中、途方
に暮れた。月の様々な支払いはどうすればよいのか。貯えはほとん
ど無い状態だ。「神様!」と見上げた時に「わたしは決してあなた
を離れず、またあなたを捨てない」との言葉が心に臨んだ。
主の語りかけで、励ましだった。

不安と恐れでいっぱいの心に、ポッと灯がともったようだった。主
を近く感じ、嬉しかった。更に祈りを重ねる中で、主がおられるか
ら、大丈夫だと思えた。不安な心が主のゆえに、落ち着きを取り戻
せた。そして一つ一つの御言葉により、大変励まされた。今、主が
共におられる。愛して下さっている。

主にはしようとしておられる事がある。ご計画がある。災いではな
く、平安と将来と希望のための出来事だ。万事益とされる。この事
態も必ず益と結果して行く。続けて祈っていると、不思議が起き
た。以前、大変親しい親戚の結婚の必要ために、その時、使わない
お金を用立てていた。やっと用意できたのでと、感謝と共に返済さ
れて来たのだ。

まとまったお金だったので、すべての支払いが滞りなくできて、当
座の必要もまかなえた。祈りの答えに驚き、主に心から感謝した。
その後しばらくして、次の職が与えられた。突然の困窮の事態が、
返って主を知る恵みの機会とされた。私たちも様々な事が起きる
が、目の前の出来事には意味があり、ご計画があり、万事益とされ
る、決して見放される事はない。信頼を向けよう。
------------
御子をさえ惜しまずに与えてくださった方が、他のものを惜しまれ
るだろうか。不安の中では最悪を考えてしまうが、必ず主は最善を
与えてくださる。


2022年11月07日(月)

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ 聞くだけの者であってはいけません」ヤコブ1:22



ある人が、職場で難題に直面していた。仕事の新企画が暗礁に乗り
上げ、行き詰まっていた。又、対人関係もこじれていて、悩みであ
った。心は重苦しく、状況はせっぱ詰まっていた。身動きとれず、
主のもとに行った。心の内を告げながら、祈っていた。

すると、「わたしを呼べ」「絶えず祈れ」「何も思い煩わず・・告
げよ」「求めよ・・与えられる」と示され、、「祈れ」が、御心だ
とわかった。実は重労働の中、心身消耗し、日々の忙しさに流さ
れ、祈りの時が全く持てていなかった。主との交わりが途絶えてい
た事を気づかされた。

とにかく示された御心に従おうと決心し、その日から実行し始め
た。少しの時間だか、朝にデボーションを持ち、夜寝る前にも少し
だが、祈りの時を持った。続けていると、「自分が」「自分が」と
自分が前に立ち、自分の力で進めていた事、そのためすべてが、自
分の肩にかかり、重圧に苦しんでいた事、主が全く飛んでいた事に
気づかされた。

この行き詰まり、挫折が無ければ、更に主と離れた方向に拍車がか
かっていた事だろう。肉の頑張りを認め、主に委ねることができ
た。その時、すう〜と平安になり、重荷が、自分の手から主の手に
移ったと思えた。

重圧に代えて安堵が来た。そんな中、一つのプランが思いに与えら
れ、突破口が見つかり、軌道に乗り出した。そして対人関係も解決
の糸口が見えた。御霊の示しに従う事の祝福を目の当たりに経験さ
せられた。
------------
御言葉を自分の事として聞きいていきたい。自分の事として行わな
ければ日々の信仰生活は成り立たない。行き詰まりは感謝だ。今の
立ち位置がわかり、また歩みだせる。


2022年11月06日(日)

「ダビデとその部下が、この町に着いたとき、町は火で焼かれてお り、彼らの妻も、息子も、娘たちも連れ去られていた」Tサムエル 30:3


サウル王につけ狙われていたダビデは、窮地で、敵であるペリシテ
の地に逃げ込んだ。ペリシテと同胞の戦いとなり、何とダビデは同
胞と戦うはめになるところだった。ところが、首長たちが、ダビデ
が裏切るといけないので、一緒に戦いに出すなと言った。これは、
主の関与であり、守りだった。

それでダビデが引き返すと、町がアマレクに攻撃され、焼かれ、彼
らの妻子が皆連れ去られ、町は廃墟になっていた。ダビデも部下た
ちも大声で泣き、ついには泣く力も失せた。ダビデの妻たちも連れ
去られた。部下たちは余りにも衝撃が大きく、ダビデを殺そうと言
い出した。ダビデは、サウルから逃げて来たが、今、部下達に殺さ
れそうになる。

その窮地にダビデはどうしたのか。「しかしダビデは彼の神、主に
よって奮い立った」。ダビデは祈ったのだ。「略奪隊を追うべき
か」主は「追え。必ず追いつける、救い出せる」と。そこで追撃す
るや、途上でアマレクの奴隷に会い、奴隷の手引きで彼らの居場所
を突き止めた。すべて主の計らいだった。

敵を討ち、妻子や奪われた物全部を取り戻した。何一つ失わなかっ
た。非常に悩んだ時に、ダビデは「彼の神、主」によって奮い立っ
た。祈り、御声を聞いて従った。窮地の時は、「自分」にでなく
「私の神、主」により奮い立たせていだだこう。自分の力でなく、
主の御力により、事態を導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
窮地の時はパニックになり、自分の思いと自分の力で行動してしま
いがちだ。とにかく、何とかしなくてはとの思いが、先に立つ。
まず主を仰ごう。目を主に向けよう。動く前に主に祈ろう。導き
を待って従おう。


2022年11月05日(土)

「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがた は、柔和な心でその人を正してあげなさい」ガラテヤ6:1


ある人が厳しい試練の中にいた。苦しくて、辛くて、又、全く先も
見えない中、真っ暗だった。大変な不安の中、心はネガティブに傾
き、落ち込み、心屈折させて行った。人が皆、幸せそうに見えて、
なぜ自分ばかりと思えてしまう。心が荒んで、ひがんだ言葉が口か
ら出る。周囲の人々は心配して、ずっと祈っていた。

そんな中、彼女と親しい主に在る友人が、主に示されたのだ。彼女
の状態を指摘し、忠告するようにと。尚も祈っていると、語るべき
言葉まで御霊は示される。しかし厳しい言葉であり、言われた相手
は痛く、受け入れられず、怒るだろうと思えた。そんな事も、思い
も何もかも告げて祈り続けていたが、主の示しは変わらなかった。

どれだけ祈っても忠告するよう促される。相手の性質上絶対に怒る
と思ったが、示しに従った。すると思った通りに、相手は激怒して
別れた。しかし導きに従った後、不思議な経験をした。この事の結
果への思い煩いが全く無く、平安だったのだ。心配も無かった。に
従ったので、後は主のなさる事と思えた。

すると夜遅く相手から電話がかかった。「悪い態度をごめんね。悪
かったと思ってる。言ってくれて有難う。」と。あれからずっと考
えたが、言えば嫌われる事がわかっているのに、言ってくれた事に、
思いが至り、愛情を感じた。自分が間違っていて、悔い改めたと。
主に向く事ができ、軌道修正がなされた。

一人が御霊に従う時、双方が主を経験し、新たに主を知る恵みにあ
ずかれる。そして周囲も主のみわざを拝する。

・・・・・・・・・・・・・
忠告や警告は、なかなか難しい。まず自分自身がよく祈り、御霊に
よって整えられ、用いられるよう祈り、従おう。通り良き管として
用いて頂こう。御霊の導きに従う時、必ず自分も平安に満たされ、
みわざを見せられて行く・


2022年11月04日(金)

「そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。 『主です。』すると、シモン・ペテロは・・上着をまとって、湖に 飛び込んだ」ヨハネ21:7



ペテロと弟子たちは、最も肝心な時に、主を否み、裏切り、逃げ
た。その後、ガリラヤに戻った彼らの心はどんなものだったろう。
死んでも従うとのペテロの満々の自信はこっぱみじんに砕かれた。
心重く、なすすべなく、一度捨てた網をもう一度取り、自分たちに
唯一自信のある漁をする。しかし一匹も捕れない。

心は虚しく、深い後悔、落胆、挫折感だったろうか。夜明け頃、岸
辺の見知らぬ人が「子どもたちよ。食べる物がありませんね」と叫
んだ。声の主はわからないまま、「はい、ありません」とありのま
まを答えた。すると直ちに「舟の右側に網をおろせ。そうすればと
れる」との声。その見知らぬ声に従い網を下ろした。すると、何と
驚くばかりの大漁だった。

以前の全く同じ光景を思い出したヨハネは、瞬間「主です!」と、
わかった。ペテロは主に会いたい一心で湖に飛び込んだ。上がると
そこに主がおられ、彼らのために魚とパンの朝食が用意されてい
た。「なぜ、裏切ったのか」と一言も言われず、叱りも責めもされ
ない。三回の裏切りは、「わたしを愛しますか」の三回の問いかけ
により、深い傷をがおおわれ、いやされて行った。

そして「羊を飼いなさい」と牧会の働きを委ねられた。神の御心に
添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせる。
悔い改めにより、罪は赦され、信仰を回復させて下さる。弟子たち
への慈しみとご愛は、私たちへも同じように向けられ、注がれてい
る。
-------------
失敗の連続だ。悔いているとき主は特に近くに感じる。かえりみて
くださり十字架が最も近く迫る。なんという大きな慰めだろう。感
謝が溢れる。主にしか癒されることはない。


2022年11月03日(木)

「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って 聞き届けられました」ルカ22:31



サタンには限界がある。主の定めた範囲でした働けない。サタンが
信仰者をふるいにかける事を「願って聞き届けられ」とあり、主か
ら許可を受ける必要がある。ヨブの場合も、主は明確な限界を定め
られた。悪魔は、ヨブは利得のための信仰で、損になるなら神を呪
うと言った。

そこで主は、ヨブの全所有物を打ってよい。しかし身体はだめだ
と。主の範囲内だ。すると次に悪魔は、ヨブも自分の身に害が及ぶ
なら神を呪うと中傷。そこで主は、ではヨブの身まではよい、だが
命はだめだと。限界を定められる。悪魔は働くが、主の主権の内
だ。主を超える事は出来ない。

ペテロは主の許しのもと、悪魔のふるいにかけられた。ふるいとは
脱穀した麦から、殻やゴミを取り除く作業だ。良い実が残る。死ん
でも従うと自信満々だったペテロは、主を裏切ってしまった。弟子
たちもまた逃げた。ペテロの自己過信の弱さ、もろさがあらわにさ
れた。

しかし主はペテロが「失敗しないように」でなく「信仰がなくなら
ないように」執り成された。ペテロは砕かれ、自らの真の姿を思い
知らされた。その後、主により見事に回復させられ、いやされ建て
直された。後にペテロは「悪魔が、ほえたけるししのように、食い
尽くすべきものを捜し求め」ている。

悪魔は人間よりも賢く力がある。だから「身を慎み、目をさまし
て」いるようにと、自らの経験から記している。主に拠り頼んでい
よう。そうするなら守られる。
------------
悪魔のふるいに見事にかけられてしまう事を覚えて、へりくだり主
に頼っていよう。朝に主に祈り一日を歩もう。主が私たちのために
も祈っていてくださっている。


2022年11月02日(水)

「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼ら の悪がわたしの前に上って来たからだ」ヨナ1:1



ヨナは、主からニネベへ行くよう命じられた。だが敵国であり、極
悪非道なアッシリヤの首都ニネベに行きたくない。すると丁度そこ
に反対方向のタルシシュ行きの船があった。主を避けて、渡りに船
で、それに乗った。私たちも時に経験するだろうか。御心に従いた
くなくて、ぐずぐずしている時、そこに都合良く別方向の船がある
ものだ。

ヨナは、その反対方向の船に乗った。私達もどうだろう。ある人は
宣教師になるよう、導かれているとわかった。しかしぐずぐずと決
心できず、悶々状態だった。するとその時に別の船が来たのだ。高
額の報酬と地位を約束された仕事のオファーが来た。又、それが何
より自分の好きな事で、才能が生かせる仕事だった。結局、その仕
事を受けた。

すると仕事は高レベルで、残業は多く、心身の疲労は半端無く、教
会に行けなくなり、神から離れてしまった。家族の問題で、我に返
り、主に立ち返る事が出来た。御心がわかったが、ぐずぐずしてい
た時に、丁度、非常に魅力ある船があり、乗り込んでしまい、御心
からそれてしまった。しかしあわれみ豊かな神は、尚も主のもとに
導き返して下さった。

大きな進路だけでなく、日々の小さな事柄の中に、御心から逃げた
いと思う時、丁度そこに反対方向行きの船があったりする。それに
乗りたい誘惑にかられる。反対向きの船をサタンが用意している事
を覚え、主の御心の方に従おう。大きな祝福を刈り取る事になる。
------------
御心にすぐに従えず都合の良い言い訳を考えて避けてしまったあの
事やこの事が浮かぶ。主はぎりぎりまでは諦めず次の道を用意して
くださる。失敗を恐れず祝福を信じて従えるように祈ろう。


2022年11月01日(火)

「そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやり連れ て行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた」 ヨハネ6:15



主は、五つのパンと2匹の魚で、男だけで5千人、女、子どもを入
れると大変な数の人々を満腹させられた。群衆は驚き、喝采し、主
を王にかつぎ上げようとした。だが主はひとり、山に退かれ、そし
て「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからでは
なく、パンを食べて満腹したから」だと言われた。群衆が自分を追
いかけるのは、パンをもらえるからだと。

主の奇跡に際し、そこに霊的な恵みを見て、この方こそ主キリスト
だと信じたからでなく、この方について行けばパンに不足する事は
ない。自分の願望を満たすためにつき従っていると。満腹とは、自
分の欲望が満たされる事であり、自己実現だ。肉の喜び、肉の満足
であって、そこに主ご自身や、恵みを見る事はない。主は求めよと
言われ、祈りに答えて下さる。

だが気をつけなければ、私たちの祈りは、自分の欲望充足だけに向
かい、自らの欲望を満たす手段となる。それなら願望が叶えられな
いなら、主のもとを離れる事になる。つき従う意味が無いからだ。
パンに満腹した群衆はそうだった。主は、そんな私たちをあわれ
み、正しく導くために、時に思い通りでない答えを与えられる。

それにより、自分自身を吟味させ、動機を探らせ、省みさせて下さ
る。「ノー」の答えがあり、すぐに叶えられない祈りがある。その
中で心探らせ、御心に適った者へと変え、成長させて下さる。思い
通りにならない状況は、実は大きな恵みだ。霊的成長へと導かれ
る。
------------
ノーも大切な主からの答えと受け取りたい。思い通りにならない事
で頑なな自分が少しずつ変えられていく。すぐに消えてしまわない
永遠のいのちを養うための大きな恵みの時だ。