2022年12月31日(土)

「・・それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令 を守るかづか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」 申命記8:2 


学生たちは定期的な又、突発的なテストにより、その学課がマス
ター出来ているかどうかを試される。主もまた、私達の信仰をテス
トされる。このテストが試練だ。苦しめ、心の内にあるものをあら
わにするためと言われている。試練により、苦しみの時に、普段か
ら内にあるが、決して気づかない自分の心を知る。

隠れたプライドや虚栄心、貪欲、自己中心に気づく。これは順境の
時には、決して気づけない。苦しみの荒野でなければ、圧迫がなけ
れば、気づく事ができない。順境の時には現われる事のない、自ら
の心の底にあるものだ。この1年歩ませられた行程、試練の中で見
せられた、普段は気づかない自分の姿、又、教えられた霊的教訓の
一つ一つをしっかり覚えていよう。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした・・それであな
たのおきてを学びました」とあり、苦しみの中で、主のおきてを学
べると。苦しみの中で、初めて自分の限界を知る。無力な自分の姿
を見せられる。自分には到底不可能な事態に出会い、自分の知恵、
力で歩めない事、自分が人生の主であり続ける事が出来ない事に直
面する。

しかしその時に初めて、主との真の出会いを経験する。今まで頭で
わかっていた事が、実際に経験として知ることになる。「あなたを
苦しめ、試み、ついにはあなたをしあわせにするため」それは豊か
な祝福となり、主との親しい個人的交わりを経験する。それは大き
な喜びであり幸せだ。

・・・・・・・・・・・・・・
苦しみは好きではないが、振り返る時、苦しみから沢山の事を教え
られ、学べて、大きな恵みとされて感謝でならない。
★この一年も御言葉を通してのお交わりに感謝します。有難うござ
いました。新年はスタッフの都合で7日より送信させて頂きます。
2023年も、更に豊かな主の祝福をお祈り致しております。


2022年12月30日(金)

「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムと ゴモラを滅ぼされる以前であったので・・どこもよく潤っていた」 創世記13:10



アブラハムは飢饉の際に、肉の知恵、判断によりエジプトに下って
しまった。そこで保身のため、妻を妹と偽ったので、妻は間一髪の
危険な目に会った。アブラハムは、非常に痛い失敗から学んだ事だ
ろう。再びベテルに来て、祭壇を築き、主の御名によって祈った。

甥のロトとは、互いの所有物が増え過ぎ、しもべ間の争いも起き、
同行困難となった。別れる時が来たようだ。アブラハムハは、全所
有権を主に明け渡し、まずロトに好きな所を選ばせた。ロトは、こ
れだけの豊かな繁栄を受けた伯父への恩、目上の者への敬意等は全
く無く、損得で頭がいっぱいだった。

どこが得で、より有利か、見た目で、欲で判断し、見た目に肥沃で
潤っている地を選んだ。祈る事も、主の御心を求める事もなく、伯
父の事を考える事もなく、選んだが、そこは結果的に破滅の地であ
って、ロトはすべてを失った。

しかしその地を選択したのは、ロト自身であり、自分の選択であっ
た。全所有権を主に明け渡したアブラハムは、結局、全地を所有す
る事になった。私たちの選択はどうだろう。選択の時に、主を見上
げ、主の御心を求める事を、普段から繰り返し重ね、培われる事が
大切だ。

ロトの目には世の栄華、繁栄が広がっていた。アブラハムの目に
は、主と主の約束が広がっていた。私たちの目には何が広がってい
て、何を見ているだろうか。判断の時には、まず主を見上げ、主の
御心を仰ごう。祈って導きを求めよう。それが私たちを最善の道に
導いてくれる。
------------
世の中を見ると次々に欲望が刺激され肉の思いに混乱してしまう。
本当に必要なものはなにか、主に尋ねながら歩んでいきたい。主が
養ってくださる場所で、豊かな恵みを見出していける。


2022年12月29日(木)

「あなたがたの兄弟であるイスラエル人と戦ってはならない。おの おの自分の家に帰れ。わたしがこうなるようにしむけたのだから。 』」T列王12:24


レハブアムはユダとベニヤミンの選抜戦闘員18万人を招集し、王国
を取り戻すためにイスラエルと戦おうとした。そこに、神の人シェ
マヤに主からの言葉があった。「上って行くな。あなたがたの兄弟
たちと戦ってはならない。おのおの自分の家に帰れ。わたしがこう
なるようにしむけたのだから」と。

イスラエルがダビデの家にそむいたのは、主の支配の下のことであ
ると。それで、人々は主の言葉に聞き従い、北王国への行軍を中止
して引き返した。「わたしがこうなるようにしむけた」と、主から
出たことであった。今、あなたに問題が起きているだろうか。「わ
たしがこうなるようにしむけた」。

「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからで
す」、神から来たものとして、受けとめよう。その問題が大きな祝
福とされて行く。もしレハブアムが、主の言葉を無視して出陣し、
戦って行ったならどうだろう。更なる問題と混乱を引き起こし、秩
序を壊し、大きな痛手を負う事になっただろう。

今、もし、厳しい試練にあるなら、「わたしがしむけたのだから」
との主の御心を覚えよう。私たちの益と豊かな祝福と成長のための
訓練だ。主の取り扱いに、反発や反抗するなら、逆方向に向かって
しまい、せっかくの祝福を受け損なってしまう。

ただ痛く苦しいばかりで、何の実もなく終わってしまう。訓練とし
て、受けとめる時、学びを得て、新たに主を知り、又、自分自身を
知らされ、霊的に成長して行ける。
------------
試練は本当に辛い。でも主がそこに深いご計画をもっておられる事
を信じていよう。主が仕向けられたなら必ず祝福も添えて与えてく
ださる。主から学び、新しくされて試練を抜けたい。


2022年12月28日(水)

「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人 の舌は人をいやす。」箴言12:18



ある人が証しした。普段から快く思えない相手がいた。言葉にトゲ
があり、嫌でたまらなかったが、忍耐し何とか接していた。する
と、別の人から電話がかかった時に、その相手への苦情、批判が出
た。自分はクリスチャンであり、決して悪口は言わないが、言われ
る事がまさしくその通りで、肉は、しっかり同調したくなってしま
う。

思わず同意しそうになった時に、キャッチホンが入った。断りを入
れ、キャッチホンに対応し、又、その人との通話に戻った。すると
ワンクッション置くと、心が冷静になり、くちびるの罪を犯す事か
ら守られた。主の介入を感じて感謝したと。噂話は、本人のいな
い、陰で話されている事であり、人から人へと伝わる時に、歪曲さ
れてしまう。真実が伝わらない。

なぜなら、聞いた人は自分の主観と色合いで聞いて、次に伝える。
その人も又、同様にして次へ伝える。その時、もし相手への憎しみ
や妬みが心にあれば、どう伝わるだろう。無意識にもそのフィルタ
ーを通して、又、自分の主観を混ぜて、伝える事になる。事実でも
真実でも無くなって行く。

人間には肉の性質があり、自分の強い思いや隠れた良くない思いが
あれば、容易に誘惑に陥ってしまう。罪を犯さないために、何か必
要があれば、直接本人に確認することが一番だ。くちびるの戸が守
られるように祈っていよう。そしてくちびるから主の祝福やいやし
が流れ出るなら、どんなに幸いで祝福だろう。
------------
隠れた思いがちょっとした事で口から出てしまう。心にある以上の
毒をもって広がりはじめるなら何と罪深い事だろう。自分の弱さを
覚え、良き言葉を口に出したい。


2022年12月27日(火)

「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』 という一語をもって全うされるのです。」ガラテヤ5:14



人類愛、全世界を愛するのは簡単だ。抽象的、観念的な頭の中だけ
の愛なら、幾らでも愛せる。全人類は愛せるが、目の前の難しい一
人を愛する事ができない。どれだけ頑張っても愛せない。愛せない
というより、憎む相手を決して愛したくない自分を知る。頑固な強
い自我に阻まれる。

幾ら頑張っても愛せないので、まずその事を主の御前に認めること
だ。ある人が、職場に、どうしても嫌な相手がいた。心は悶々とす
る。こんなに辛いなら、職場を辞めようかと思うが、この場は逃れ
ても次の職場に、必ず別の「あいつ」がいる。逃げる事はすまいと
思った。しかし、相手を「愛せるように」と幾ら祈っても、祈りが
聞かれない。

ある時、祈っていて自分の本音に気づかされた。「決して愛したく
などない」のだと。自らの本音を主に告白した。その時から、祈り
が聞かれる事を経験した。急転直下愛せたわけではないが、一つ一
つと具体的になすべき事を示され、それに主の助けのもと従って行
くと、段々と自分が変えられて行った。

すると、不思議に感情も少しづつ変えられて行った。どうしてあん
なに嫌だったのだろうと、思えるまでになった。愛と好きとは違
う。御言葉は愛せよであって、好きになれとは全く言っていない。
私達は感情はコントロールできない。しかし、意志はコントロール
できるように造られている。

意志で愛すること、つまり感情は横に置いて、行為はできる。「決
して愛したくない」と、自分に愛の無い事を、御前で認めているの
で、偽善にならない。意志で行動して行く時に、感情は後からつい
て来る。
----------
ひとこと言葉を交わすと心が変わっていける。愛したいと意思を向
け行動できるように祈ろう。具体的に行動しなければ、自分がいか
に愛せないかさえわからない。御心にそって歩みたい。


2022年12月26日(月)

「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を 見るからです」詩篇36:9



主は、エデンの園で、沢山ある木の中から、一つだけ善悪の知識の
木からは取って食べてはならないと命じておられた。必ず死ぬと。
しかしアダムとエバは、悪魔にそそのかされ、「目が開け、神のよ
うになり、善悪を知るように」なりたくて、善悪の知識の木の実を
食べた。その結果、目が開かれ、自分たちが裸である事を知った。

今まで主だけを見ていたが、自分で自分を見るようになった。その
見えるようになった目で、自分を見ると、裸だった。だからいちじ
くの葉で腰おおいを作って隠した。ありのままの自分の姿を隠し、
アダムとエバの二人だけなのに、互いに対して隠す事になった。

罪が入ったので、神との関係が遮断され、自分だけが見えて、神が
見えなくなった。罪の結果、今まで喜びと平安の中で、全く知らな
かった「恐れ」が入って来た。主の御顔を避け、主から隠れるよう
になった。主から離れ、自分で善悪を判断し、自分の力で生きる事
となった。つまり自分が神になって生きる性質が、罪の結果生じ
た。

悪魔は、美しさの極み天使の長だったが、神のようになろうとし
て、落とされ悪魔となった。自己啓発は、神のようになろうと、自
分から始ま、自分によって成り、自分に至る。すべて自分で、自己
完結だ。自分で自分を探るなら、ますます暗闇に陥ってしまう。

「神よ。私を探り、私の心を知り、思い煩いを知って下さい」と神
に探って頂く必要がある。御言葉が鏡であり、御言葉により自分の
真の姿が照らされる。そしてキリストのかたちへと造り変えて行っ
て下さる。
------------
主を信じていても、自分を見て世の中を見て、そしてもやもやと主
を見てしまう。真の光は自分の内にはなく、へりくだり主に近づき
求めていこう。主は溢れるばかりに注いでくださる。


2022年12月25日(日)

「男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせ た。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」ルカ2:7



ヨセフとマリヤは、住民登録のため故郷に向かった。同様に登録す
る大勢の旅行者で、宿屋はごった返していた。どこも満員であった。
「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と、彼らのための部屋は一
つとして無かった。又、臨月で大変なマリヤのために部屋を譲る人
も誰一人なかった。

救い主の誕生に皆が無関心で、主を迎える人が誰もいなかった。私
たちはどうだろう。主のご降誕を迎える時に、心はどこにあるだろ
う。この世の関心事で、忙しさでいっぱいだろうか。求めているも
のは、富、仕事、この世のもの、どこまでも自分の事だろうか。

又、思い煩いや自分のプランで一杯だろうか。又、忙しい奉仕で一
杯だろうか。主のための余地が無いだろうか。御父はこの世界に救
い主を送られたが、世には御子をお迎えする「場所」がなかった。
皆が自分の事で一杯だった。しかし主はそんな私たちのまっただ中
に、救いのために来て下さった。

人には、誰しも、誰にも言えない場所が心の奥にある。決して人に
言えない心の場所を持っている。主はそこに来て下さり、そこで出
会って下さる。あなたの悲しみ、あなたの孤独、誰にも言えない悩
み苦しみ、まさにその所に来て下さる。そこでこそ、はっきり主に
出会える。

一番の問題は、私たちが、その主を心を開いて迎え入れるかどうか
だけだ。今日、心はどこを向いているだろう。心を開いて、私たち
のその奥の部屋に主を迎え入れよう。そうできるよう祈って行こう。

・・・・・・・・・・・・
宿屋には主のいる場所が無かったが、自分自身はどうだろう。自分
の家の応接間までは良くて、自分の部屋は困るだろうか。明け渡し
たくなくて握っているだろうか。御霊はそのところを教えて下さる。
更に主との親しい交わりに進んで行けるよう、祈って行こう。


2022年12月24日(土)

「こわがることはないマリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。 ご覧なさい。あなたがはみごもって、男の子を産みます・・」ルカ1: 30


マリヤは、ある日突然、御使いから一方的に「みごもって、男の子
を産む」と言われた。自分の人生に何の前ぶれもなく、突如介入し
て来られ、どんなに驚き、戸惑い、不安だったろう。マリヤは、ヨ
セフと婚約していて幸せな時であり、準備をしつつ結婚生活を思い
描いていただろう。だが一方、マリヤはメシヤ到来をも信じていた。

しかし余りも唐突な出来事で、そして結婚前にみごもるなら石打ち
の刑だ。お言葉通りこの身になるなら、死を意味する。それこそ命
がけだ。これはマリヤが望んだ事でも、選んだ事でもない。神が一
方的にマリヤを選ばれたのだ。ヨセフをどんなに傷つけ、恥をかか
せる事か。聖霊によってみごもるなどと信じられるわけがない。

この結婚は壊れるだろう。多くの恐れと不安があったろう。しかし
その中でマリヤは、自分自身と自分の人生を、主に差し出した。
「おことばどおりこの身になりますように」と何もかもを明け渡し
た。「自分の思い通りになりますように」ではなく、まさに命がけ
で御心が成りますようにだ。このマリヤの信仰と従順により、救い
主の誕生が実現した。

私たちはどうだろう。マリヤとは比べる事も出来ないが、しかし目
の前に戸惑い不安な事態があるだろうか。主がマリヤを選ばれたよ
うに、あなたを素晴らしいご計画のために選んでおられる。従える
ように。明け渡せるように、まず祈ろう。あなたにより、あなたを
用い、主のご計画を成そうとしておられる。御使いがマリヤに言っ
たように、大きな恵みとされて行く。

・・・・・・・・
私たちも、形は全く違うが、自分の望んだ事でも、選んだ事でもな
い事態に出くわす事を経験する。避けたいし、逃げたいと思う。し
かし主の御心は、受け入れて、従って行く事だと教えられる。受け
止める事がまず難しいので、主に助けを求めて祈ろう。


2022年12月23日(金)

「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがた の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」 ピリピ4:7



「そうすれば・・平安が守ってくれる」とあり、平安になるには、
その前の条件を満たす事が必須だ。それは、前節の「あらゆる場合
に」「「感謝をもって」「願い事を神に知って頂く」ことだ。例外
なく、すべての時に、願いは願いとして、一つ〃主のもとへ持って
行く。そして、それを主に渡して、お任せしてしまうのだ。

その願いが主の御心に適っていたなら、成就するし、御心でなかっ
たなら成らない。「ノー」が答えだ。しかし「ノー」だという主の
御心が知れる。そして主が、ノーと言われるからには、私たちにと
って、ノーが最善なのだ。そして御心は別の道にあるという事にな
る。又、主に一つ〃願いや気持ちを持って行けば、主に知って頂い
た事で、心と思いが安堵と平安にされる。

そのため必ず気持ちを主に告げる必要がある。そうするなら、あな
たの「心と思い」が平安に守られるとの約束だ。それは、即「状況
が変わる、問題が解決する」とは言っていない。状況は変わらなく
ても、心が平安に守られる。

今、悩みと問題の中だろうか。主に目を向け、主に焦点を当て、感
謝に、思いを向け、心の願い、気持ちをことごとく、余すところな
く告げよう。状況は変わらないのに、心が変えられる事を発見す
る。環境はそのままなのに、心に変化が来て、平安にされる。
------------
心配と不安の中で思いを主に告げて行くうちに、気づけばすっかり
平安に心が包まれている。状況は何も変わっていないのに負のスパ
イラルから主が引き上げてくださる。心と思いを守ってくださる。


2022年12月22日(木)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、 ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、 歩き回っています」Tペテロ5:8



信仰生活で、悪魔の執拗な誘惑攻撃に会う事があるだろう。しつこ
いその誘惑を何とかしようとすればするほど、更にがんじがらめに
なり、はまって行く。自分の思いを無くそうとすればするほど、思
いがもっと強くなる。それは誘惑と戦って行くと、逆にその誘惑に
思いを集中する事になるからだ。

例えば、嫌な愛せない相手がいたらどうだろう。嫌な思いはますま
す強固になり、モンスターとなり、支配されてしまう。思い煩いは
どうだろう。煩いを払おうとするが、更にはまって行き、どうにも
ならなくなる。思いが囚われてしまう。そしてどんどん消耗し力尽
きてしまう。

「思ってはいけない、してはいけない」と必死になりがちだが、そ
の場から立ち、思いの向きを変えてしまうとよい。さっさと家事を
始めてしまう、用事をする、外出するとか、立って行動する事は有
効だ。それが立ち向かう事になる。悪魔はもう無駄だと思うと離れ
る。

又、敢えて誘惑の場に近づく事は、誘惑に自分から乗って行くよう
なものだ。「避ける」行動が必要だ。テレビや本が誘惑になるな
ら、消して、閉じる。酒店や特定の店が誘惑になるなら、店に入ら
ない、近づかない。誘惑になるものから離れる。自分は大丈夫と思
う事が大きな攻撃で、失敗してしまう。

何よりも、積極的に御言葉や賛美や祈りで心を満たす事だ。空洞の
心には必ず悪魔が来る。悪魔は「思い」に攻撃をし向けている。
又、問題には根本的解決を、主に祈って行こう。取り扱い、解決に
導いて下さる。
------------
思い煩っていればどこか安心で、憎しみは蜜の味がする。少しずつ
心の領域を悪魔に明け渡している事に気づきたい。いつも自分の弱
さを覚えて、誘惑から逃げよう。主に助けを求めたい。


2022年12月21日(水)

「夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれて います。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます・ ・」ローマ7:2



律法と私達の関係が、結婚関係に例えられる。律法が夫だ。口うる
さくて、朝から晩まで細かい事を要求し、チェックし、出来ないと
責めて脅し立てる。しかし言っている事は正しくて、間違っていな
い。自分の方が、夫の細かい厳しい要求にそえないのだ。絶えず責
められ続け、出来なくて、辛くて苦しくてたまらない。

その夫が死んで、新しい夫と再婚した。その夫は前夫とまるで違っ
ていた。うるさくがなり立て、一方的に要求だけするのではなく、
何と一緒に助けてくれるのだ。愛で包んでくれて、すべてに配慮し
てくれ、温かい。いつまでも一緒にいたい相手だ。前夫が律法で、
再婚した夫がキリストだ。よく知られている例えだ。

前夫から家事のリストが与えられ、うまく出来ずに、いつも叱ら
れ、びくびく萎縮し、苦しみの中にいた妻が、夫の死後、再婚し
た。家事をしていたある日、前夫のリストを見つけた。それをチェ
ックすると、何と今は全部出来ていた。それは強制でなく、愛深い
夫の愛に応えたくて、夫を愛するゆえに、自発的に喜んで出来てい
たのだ。

律法は要求するだけだ。私達には、それを実行する力がない。律法
はその力を与える事が出来ない。しかし、主は私達を助けて、一緒
に遂げて下さり、その力を下さる。そして、その動機を「ねばなら
ない」から、自発的に「したい」に変えて下さる。恵みの中に入れ
て下さる。
------------
やらなければと思っても要求に応えることができない。外側だけ出
来たふりをするだけだ。主は恵みに恵みを重ねそこから助け出して
くださった。主に愛されている。主のご愛に応えていきたい。


2022年12月20日(火)

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実で あったから、私はあなたにたくさんのものを任せよう。主人の喜び をともに喜んでくれ」マタイ25:21 



主人は5タラント、2タラント、1タラントと、しもべに預け、旅に
出た。1タラントは6000デナリ、1デナリは労働者1日分の給料
で、6000デナリは、6000日分の給料、それは16年余り分だ。1タラ
ントといえ大変な額だ。渡されたのは「その能力に応じて」のた
め、出来ない働きは与えられておらず、各自に出来るる、無理のな
い可能な働きが与えられている。

5タラントの者は「すぐに行って」自分にできる精一杯の事をし
た。「よほどたってから」持久力と忍耐が必要で、長期間を忠実に
労した。5タラントの者も2タラントの者も、動機は、主人に喜ばれ
たい一心だった。任されたものを生かして、ベストを尽くした。5
も2タラントも、主人のほめ言葉は全く同じで、主人が見たのは
「忠実」だ。増やした「額」の事は言っていない。忠実に用いた事
を喜んだ。

1タラントの者は、用いない事が叱責された。主人を誤解してい
た。蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方、
厳しく冷酷で、要求ばかりする主人だと。もし失敗したなら、どん
な目に会うかと、失敗を恐れて1タラントを地に隠した。このまま
返せば、文句はないだろうと。

しかし主人は、失敗も織り込み済みで、この1タラントを用いて欲
しかった。厳しい主なら、失敗を恐れ、萎縮し何も出来ない。だが
主に喜んで頂きたいと用いるならどうだろう。主は私たちを信頼し
て任せて下さった。この信頼に応えて、任されたものを用いて行き
たい。
------------
主は結果を問われていないのに、自分自身が失敗を恐れている。自
分を見ると失望するばかりだが信仰を働かそう。主が助けてくださ
る。与えられ恵みの数々に気づき、主を喜び、出来ることを祈って
いきたい。


2022年12月19日(月)

「恐れないで、ただ信じていなさい」マルコ5:36




私達は日常生活で、成そうと志す事に対して、様々な妨げを経験す
る。大事な予定があるのに、想定外の用事が入る。今、行なってい
る事が中断になってしまう。ヤイロも、その事を経験した。ヤイロ
が、危篤状態の娘を助けて欲しいと、主のもとに必死の思いで駆け
つけた。そして、主に必死の思いで願った。家に来て頂いて、娘の
上に手を置いていやして欲しいと。

すると主はその願いを聞き入れ、ヤイロと共に出かけられた。感謝
な思いと同時に、一刻も早くと、どんなにか気がせいた事だろう。
そこに突然、長血の女性が立ちふさがった。一分一秒を争い、急い
でいるところに、突如の出来事だ。行く手を阻まれてしまった。ヤ
イロがどう思ったのか記されていないが、この危急の時に、娘を思
う気持ちはいかばかりだったろう。

主が長血の女性をいやされ、ヤイロが立ち往生しているところへ、
使いの者が来て、娘が亡くなったとの告げた。死はすべてを断ち切
ってしまう。何もかもが終わりだ。すべての望みが打ち砕かれた。
しかし「そばで聞いて」と訳されているのが「聞き流して」の意味
で、その言葉を聞き流し、即、主は「恐れないでただ信じていなさ
い」と御声をかけられた。

「死」に対して、恐れるな、信じているようにと。この時のヤイロ
を思い、主は間髪を入れず御言葉を与えられた。結果的に遅れたた
めに、死にも打ち勝ち、死をも支配する主の御力にあずかった。中
断の責任も取って下さった。「恐れないで、信じていなさい」と私
たちにも語っておられる。
------------
死にも打ち勝つ望みを主は与えてくださった。嵐や風や病は静まっ
てもまたくるが、永遠にこの主が共におられる。いつでも恐れたじ
ろぐ者だが主をただ信じて喜んでいたい。


2022年12月18日(日)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩篇37:5



信仰生活において思い煩ってしまうだろうか。多くの人が思い煩い
に悩まされる。その思い煩いを、自分で何とかしようとし、もがく
ほど、ますます泥沼に落ち込む。取り除こうとするが、どうにもな
らない事を経験する。それが又、自分の一番の弱点に来る。目の前
の事、少し先の事、更に遠い先の事にまで及び、恐れと不安に襲わ
れ、飲み込まれてしまう。

それはどんどん膨らみ、モンスターとなる。主は、私たちがこの思
い煩いに悩まされる事をご存じで、そのため「思い煩いをいっさい
主に委ねよ」との解決策を下さっている。ある人が、人一倍心配症
で、何かと気に病んでしまう性格だった。

そんな中、大きな問題が起きた。主に委ねよと教えられていて、主
に委ねますと祈り、委ねた。心穏やかになり、ほっと安堵した。だ
がしばらくすると、どっと恐れと不安に襲われる。又、委ねますと
祈る。すると安心が来る。しかし又〜、何度も同じ繰り返しだった。
その中で、自分は、委ねている「つもり」であって、自分では委ね
る事が出来ないのだと知らされた。自分が、自我が握り締めていて
放さない。

「どうにも出来ません」と認め、祈った。そしてどうにもならない
ギブアップの、無力のどん底で、主が委ねさせて下さった。その時、
初めて平安を経験した。主が、必ずその事態を良くして下さるとの
信仰が与えられ、思い煩いが消えた。委ねられないなら、そのまま
主のもとへ行こう。ありのままを告げて祈って行こう。主がそのよ
うに成し遂げて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
自分では、委ねられない事をわからせて下さる。悶々を通るが、そ
の中で気づきが与えられる。委ねるとは、自分の思い通りにならな
くてもOKという事だが、自分の願い通りに事が進んで欲しい。思い
通りになるようにと委ねていたりして、気づきが感謝だ。


2022年12月17日(土)

「・・神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることができないよ うな試練に会わせるようなことはなさいません・・」Tコリント10:1 3



御言葉によると、信仰人生においては、様々な試練や問題が来ると
言っている。必ず臨むと。その時に、誰しも痛い事は避けたいし、
逃げたいものだ。試練は決して嬉しくない。御言葉もはっきりと
「喜ばしいものではなく、悲しく思われる」と言っている。だが、
避けたり逃げたりしていると、ただ痛いばかりで、何の益も無く、
御霊の実を結べない事になってしまう。

「わが子よ」と言われ、「主の懲らしめを軽んじるな」と。又、逆
に、重荷と苦しみに、もうだめだとばかりに「弱り果ててはならな
い」とも。軽んじる事なく、弱り果てる事なく、しっかり受け止め
るようにと言われている。ある人が「自分は試練に次ぐ試練で、弱
り果ててしまっていて、もう自分を無感覚にしてしまっていました。
何も感じないようにと。

主を仰ぐ事も、主に向き、試練に向き合い祈る事もせず、何も考え
ないよう、逃げていた事に気づかされました。「逃げたい」「試練
に向き合えない、弱い者です」と、主に祈る事が大事なのだと教え
られました。今からは祈って行ます」と。

「受け入れるすべての子らに、むちを加えられるからである。訓練
と思って耐え忍べ」と言っている。訓練の時は、主にぐっと大きく
近づける時だ。信仰人生を振り返る時、主に最も近かったのは、厳
しい試練の時ではなかったか。耐えられない試練は無い。脱出の道
もある。各自に受け止められる容量の試練だ。壊れてしまうほどの
ものは、まず来ない。そして後に「苦しみにあったことは、しあわ
せでした」と必ず言えるようにして下さる。

・・・・・・・・・・・・
耐えられない試練が無いから、今がある。糸の切れた凧のように、
飛び去ってしまっても不思議は無いのに、保っていて下さる。段々
と自分ではへりくだれないから、試練は恵みだとわからせて下さる。
痛くて、嫌だけれど、真に恵みだと思えて来る。


2022年12月16日(金)

「・・するとシュシャンの町は喜びの声にあふれた。ユダヤ人にと って、それは光と、喜びと、楽しみと、栄誉であった」 エステル8:15



主の大いなる奇跡により、ユダヤの民は、ハマンの民族絶滅という
邪悪な策略から救われた。だが振り返る時に、パズルの一つ〃のピ
ースがピタリと合わさって来る。ワシュティに代わりエステルが王
妃になった事、王が最もエステルを愛した事、モルデカイがハマン
の計略を知った事、モルデカイの王を救った功績が年代記に記され

ていた事、王が、特にその晩は眠れなかった事、そのためその年代
記を読んだ事、王が栄誉を与えたいと思った事、その前に、エステ
ルが、翌日もう一度王とハマンを宴会に招いた事、一つ〃の事柄と
タイミングが見事に整えられ、完璧だ。まさに主のご計画そのもの
だ。

この主のプランに、エステルの主への従順があればこそ、奇跡が成
し遂げられた。ユダヤ民はハマンの皆殺し計略から救われ、喜びと
感謝の声が溢れた。もしエステルが恐怖や不安で、モルデカイの申
し入れを拒んでいたらどうだろう。だがエステルは「私は、死なな
ければならないのなら、死にます」と信仰による決意で、事を実行
した。

私たちも主の御心に従順に応答する時に、素晴らしい奇跡と栄光が
現わされる事を、ここで見せられる。今、目の前に、なすべき御心
が示されていたなら、一歩踏み出せるよう祈ろう。ユダヤの民は全
員殺害から救われた。私たちは、生死という大きな事ではないかも
しれないが、私たちも又、主のみわざと栄光を拝する者とされる。
------------
従いますの姿勢で日々の信仰生活を送っていきたい。無意識に危な
い事や面倒なことは避けてしまう。それが御霊の示しではなかった
だろうか。御心に反応し応答したい。


2022年12月15日(木)

「・・そのために私は、高ぶることのないように、肉体に一つのと げを与えられました」Uコリント12:7



パウロはとげが取り去られるよう切に祈ったが、とげは取り去られ
ず、病気はいやされなかった。それが答えであった。主は私達が願
うところを超えて、良きものを与えて下さる。そのパウロには、医
者ルカを同行させ、テモテやテトスを助け手と与えられた。そして
何より絶えず主の臨在で弱さをおおうと約束された。

私達もどうだろう。切に願うものが与えられない場合がある。
「ノー」の答えがある。だがそれは祈りが聞かれていないのではな
い。違う形で答えられているのだ。私たちは色々な事を思い煩う。
健康、経済的な事、子ども、年老いた親の事、対人関係、仕事・・
様々な状況が次々と起きる。祈るがなかなか答えられないと思う事
がある。

幾ら祈っても状況が変わらない。しかし主の答えは、その困難な状
況のまっただ中で、平安を与えて下さる事だ。状況は変わらない
が、御言葉を与え、心を変えて、平安にして下さる。世が決して与
える事の出来ない「主の平安」を下さる。この平安があれば、どん
な状況の中でも生きて行ける。祈りの答えとして、主の御心なら状
況が変えられる。又、状況がそのままなら、心に平安を下さる。

パウロはまず切に祈った。それで主の恵みは十分であり、主の力が
弱さの内に完全に現れるという素晴らしい恵みを知らされた。私た
ちもまずありのまま祈ろう。そして自分の思いとは大きく違うかも
知れない、主からの答えも見張っていよう。
------------
辛い時は祈るだけで精一杯で自分の思うような答えだけを待ってし
まうが、主の最善は他にあるかもしれない。祈りの答えを見張り、
悟りたい。


2022年12月14日(水)

「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行な ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないの か」民数記14:11



カナンの地へ斥候に出た12人の内、10人は不信仰に陥った。不信仰
になると、恐れに支配され、相手が巨人に見え、自分はいなごに見
える。城壁は巨大で、人々は強く、食い尽くされそうだ。自分たち
は弱く、小さく、とうてい太刀打出来ない。無理だ。自分は惨めで
、消え入るばかりで、素晴らしい主の約束の地は何も見えず、恐れ
と不安、恐怖、すべてが後ろ向きだ。

斥候の10人は見て来た事を「悪く」言いふらし、民を扇動した。民
は、双方の意見を聞いたが、否定的、不信仰な方を受け入れた。不
信仰を選択したのだ。民は大声で叫び泣き明かした。あの苦難のエ
ジプトの方が良いと、モーセとアロンへの怒りが噴き出す。神はこ
の地に連れて来て剣で倒そうとするのかと。

約束の地を前にしてまで、悪意の神とする。不平不満と愚痴、自己
中心の心には、主の御心が何一つ見えない。新しいリーダーを立て
て、何とエジプトへ帰ろうと言い出す。堅く信仰に立つ、カレブと
ヨシュアを殺そうとするのだった。不信仰になった彼らは皆、約束
の地へ入れず、荒野で滅ぼされてしまった。

不信仰でなく、「信仰」を選択しよう。「御言葉」に立とう。カレ
ブは約束を堅く握っていた。だから「上って行って占領しよう、必
ずできる」と言えた。彼らは私たちのえじきになると。彼らの守り
は取り去られている、主は共におられると。

信仰と不信仰はこんなにも天地の差があり、正反対になってしま
う。私たちを極みまで愛し、慈しみ、心配して下さっている主を、
信じて行く者とされるよう祈ろう。
------------
荒野にあって求めるものは与えられ、守られて来たのになぜ信仰に
結びつかなかったのだろう。世の様々なことに一喜一憂してしまう
が、その都度主の側に立ち、御言葉を選択したい。


2022年12月13日(火)

「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を 低くしなさい」創世記16:9



サライが不妊のため、代わりにアブラムの子をみごもった奴隷ハガ
ルは、高慢になり、サライを見下すようになった。するとハガルは
怒ったサライにいじめられ、逃げた。主の使いは、荒野でハガルを
見つけ問うた。「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と。ハ
ガルは、自分は何者で、自分の立場は何なのか。自分は何をすべき
なのか。本来の自分をしっかり見定める必要があった。

主の使いは、「サライの女奴隷ハガル」と呼びかけ、まず「サライ
の奴隷」である立場を明確にした。どこから間違ったのか。みごも
って、女主人を見下げるようになった、自分の分をわきまえない高
ぶり、横柄さ、それらを悔い改めなければならず、自らの立場を、
はっきり知る必要があった。それを受け入れ、へりくだる事を求め
られた。

このままでは、自分もお腹の赤ん坊も滅んでしまう。「あなたの女
主人のもとへ帰り、そして、彼女のもとで身を低くするように」
と。そうすれば「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数
えきれないほどになる」と、大いなる祝福が約束された。ハガルは
心砕かれ、サライのもとへ、本来の自分のいるべき場所へ戻った。

私達はどうだろう。自分の思うようにしたい。束縛は嫌で、好きな
ようにしたい。しかしそれは肉による事だ。そうでなく本来の場所
に、主の御心の場にいるなら、そこで必ず祝福される。そこから逃
げても祝福を失うばかりだ。与えられた場で、へりくだって主を見
上げ、御心を行なって行く時、必ず実を結ばせて下さる。
------------
主はハガルの苦しみをわかってくださったように、思うようになら
ない状況を知ってくださっている。冷静に自分の現状が見られるよ
う祈ろう。主を見上げ、今するべきことをしていこう。


2022年12月12日(月)

「さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国に またききんがあった」創世記26:1



この箇所に不思議な出来事が出て来る。ききんの最中に、イサクは
土地に種を蒔いたのだ。作物が生長するどころか、どんどん枯れて
行く中で、種を蒔いた。普通はしないし、あり得ない事だ。どう見
ても、作物が生長する状況ではない。むしろ種をだめにして、無駄
にするだけだ。しかしイサクは状況ではなく、主を信じた。信仰に
よって種を蒔いた。

主を信じていなければ、蒔かなかったろう。種を失うだけなのだか
ら。だが、常識では有り得ない事が起きた。百倍の収穫を得たの
だ。「主が彼を祝福してくださった」からであった。主の祝福によ
る事であった。それは一方的な主の祝福であった。主は祝福して下
さる。

少年が献げた五つのパンと二匹の魚を用いて、奇跡をし、大勢の群
衆を満腹されられた。主の祝福であった。ペテロが、前夜一匹も魚
が捕れずに戻った朝に、主が沖に漕ぎ出て、網を下ろすようにと。
朝に魚は捕れない。湖の底深くにもぐっている。自然現象では、常
識では有り得ない。しかし主の言葉に従い、網を下ろすと、驚くば
かりの大漁だった。

有り得ない事が起きた。主の祝福であった。私たちも、見えるとこ
ろではなく、信仰によって歩む時に、主に従って行動する時に、大
きな祝福を経験する。イサクは種を蒔き、少年は主に献げ、ペテロ
は網を下ろした。今、なすべき事が、主から示されているだろう
か。見えるところがどうであれ、示しに従おう。豊かな祝福を手に
する事になる。
------------
主に頼りながらも、どこかに自分の経験を頼り、保険をかけてしま
う。有り得ない事は起こらないという不信仰を主はご存じで、それ
でも導いてくださる。へりくだり主の栄光を見る者になりたい。


2022年12月11日(日)

「また求めるものは何でも神からいだたくことができます。なぜな ら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているか らです」Tヨハネ3:22



ある人が、祈りの要請を受けた。それは、2人の小さな子どもを持
ち、フルタイムで働いている女性からだった。特に仕事の忙しい時
期で、育児のために祈って欲しいと。すぐに引き受け、祈る事を約
束した。しかし自分も慌ただしく過ごしていて、祈りはするのだ
が、
しっかりとは祈れていなかった。そんな中、時間が取れたので、主
との交わりの時を持った。

御言葉に向かっていた時に、「子どもたちよ」と語りかけられた。
「ことがや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛
そうではありませんか」が、心に響いて来た。彼女は、日々どんな
に大変で、疲れているだろう。自分は具体的な助けを、何もしてい
ない事に気づかされた。

食事を届けるとか、子どもを少し見て上げるとか、何か具体的な助
けをしたいとの思いを与えられた。何をしましょうかと、祈りに持
って行く事ができた。御霊の示しに心から感謝した。しかしこれら
の導きも、よく祈れていないながらも、小さな祈りに主が答えて下
さった結果だとわかり、更に喜びが湧いた。

私たちはどうだろう。具体的助けを必要としている人が、周囲にい
るだろうか。言葉と口先だけでなく、何か出来る事があればと、主
に祈ってみよう。そして示された事を実行するなら、神の御前に心
安らかにされると言っている。自分が従う時に、自分も祈りの答え
を主から頂くことが出来ると。何という恵みだろう。

・・・・・・・・・
自分自身も、主の示しに従うから、主は、祈りに豊かに答えて下さ
る。うすうす感じながら、向き合うのを避けている事、示されてい
るのに、ぐずぐずと、なおざりにしている事、今一度、主に向き合
あおう。従えるよう祈ろう。らしい祝福が備えられている。


2022年12月10日(土)

「ところが献灼官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れ てしまった。それから二年の後・・」創世記40:23


兄たちにより、隊商に売られたヨセフは波瀾万丈の人生だった。エ
ジプトで奴隷として仕えた主人には好意と信頼を得たが、その妻に
より無実の罪で投獄になってしまう。異国の地に売られ、主人の好
意で引き上げられたかと思うと、一気に地面に叩き落とされたかの
ように、投獄だ。

10年の監獄生活は、どんなにか苦しみがあったろう。しかし置かれ
た場で、ヨセフは主を見上げ、主を信頼し忠実に出来る事をして行
った。すると、模範囚となりそこですべての囚人を任せられ、世話
をする事となった。監獄の中では、悲観的になり、自己憐憫に陥り、
失望し、やけになる事もできたが、ヨセフは、腐らず、逃げず、諦
めず、主の訓練を受けて行った。

次には、出獄の献灼官長が、ヨセフの無実をパロに伝える事になっ
ていたが、忘れてしまった。そこで尚も2年が経過。今日か明日か
と、今にも出獄の望みがあっただけに、逆に更に厳しい試練の2年
となった。だが、ヨセフは忍耐し、主を待ち望んだ。2年後、パロ
が夢を見た事で、献灼官長が牢獄のヨセフを思い出し、獄から出さ
れた。突然にして、時満ちて、道が開かれた事に、自分の力や自分
の知恵、何ものにもよらない、主の働きを見た事だろう。

主の訓練にへりくだって、服して行く時、試練を受け入れて従って
行く時、主が「ちょうど良い時に」引き上げて下さる。その前でも、
後でもない、さじ加減ピッタリの「神の時」だ。今、主からの訓練
が臨んでいたなら、受け入れられるよう祈ろう。それがへりくだる
ことで、その時、主がご計画を成し遂げて下さる。

・・・・・・・・・・・・
主は痛みも苦しみも悲しみも、すべてご存じで、じっと見て下さっ
ている。すぐに出獄できると期待した2年は、どんなに厳しい試練
だったろう。主を待ち望む時、必ず丁度良い時に救い出して下さる。
それを信じて歩める事が、祝福だ。


2022年12月09日(金)

「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配する のはやめなさい・・天の父は、それがみなあなたがたに必要である ことを知っておられます」マタイ6:31



心配症で、思い煩いに悩まされている人は多い。起こるかも知れな
い事を想像して、不安になり思い煩う。不安材料を集め、現実であ
るかのごとくに、最悪のシナリオが出来上がる。しかしそれは妄想
ーだ。現実に起きていないのだから、主も、そんな架空のものをど
うにも出来ない。思い煩いを選択している自分の問題だ。

明日の事は私達にはいっさいわからない。誰にもわからず、見えな
い。しかし主を信じる私達は、明日に恐れと不安ではなく、主の愛
を見る。明日は、主の愛に包まれ、主の配慮とご計画の中にあり、
御手の中に堅く守られている事を信じる。見えない明日に、不安や
恐怖ではなく、主を見、主の慈しみを信じる。これが信仰だ。

主の愛を信じて歩む時に、思い煩いの亡霊に惑わされない。そし
て、「神の国とその義を第一に」神第一を心に据える事だ。自分を
第一、神を第二、第三にする事から、秩序が狂い、混乱が生じ、不
安、恐れ、思い煩いが生じる。自分を中心に据えるなら、不安と恐
れに支配され、あらゆる事が不安で仕方なく、思い煩いとなる。

自分で自分を支え、守らねばならないからだ。主を第一にするな
ら、主が全責任を取って下さる。そこから世にはない御霊の平安と
喜びが来る。今、あなたの優先順位はどうなっているだろう。あな
たを誰よりも心配していて下さる主がおられる。その主を信じ、主
にゆだねて歩もう。そう出来るよう祈ろう。
------------
心配事、思い煩いへの解決方法がはっきり示されている事はなんと
幸いだろう。神の国のご支配の中に置かれている。主が与えてくだ
さる明日を信じ、喜んで今日を生きよう。


2022年12月08日(木)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方 ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださ います」Tヨハネ1:9


私たちは、必ず失敗する。時に、自分がこんな失敗をするとは信じ
られないが、人間なので失敗してしまう。もし、自分が失敗した時
には、どうすればよいのか。あなたは言動や行為で失敗した時はど
うするだろう。その間違いを黙殺して、無視する事ができる。無か
った事にしてしまう事ができる。

又、相手に、周囲に、責任転嫁をする道がある。人のせいにし、人
に責任をなすりつけてしまう。お皿を割った時に、こんな所に皿を
置く者が悪い。自分は悪くない。人の言動にいら立つ時、いら立た
せる事を言う相手が悪い。自分のせいではない。又、人は弱点を指
摘された場合、それを攻撃でおおい隠すとも言われている。

成長途上の私達は、よく失敗する。皆、それぞれ弱さがあり、間違
った選択をしてしまう。罪を犯したくないが、犯してしまう。その
時に、心の中で無い事にし、無視するのか、その事を認めないで、
打ち消してしまうのか、周囲に責任転嫁するのか。

そうでなく、主は一つの道を示して下さっている。「自分の罪を言
い表わすなら・・その罪を赦し、すべての悪からきよめて下さ
る」。いっさいの言い訳と自己弁護をやめて、失敗に自らが責任を
取る事、それが悔い改めであり、光の中にいるという事だ。

主は完全な赦しを与え、変わらない愛で愛し続けていて下さる。言
い訳など必要ない。恐れる事も逃げる事もない。私たちは、赦され
て赦されて、生きて行く、絶えず恵みのまっただ中だ。
------------
いら立ちはいら立たせる方が悪いと自分の罪は全く見えていない者
だ。自分の罪がわかるから悔い改めることができる。罪に敏感にな
り、ひとつひとつ赦しを受け取ろう。最大の恵みだ。


2022年12月07日(水)

「そして、弟を連れてあの方のところへ出かけて行きなさい。全能 の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように」 創世記43:14



兄たちの悪意により隊商に売られたヨセフは、エジプトで総理大臣
になった。大飢饉の中、そのヨセフのもとへ、以前ひどい事をした
兄弟達が食糧を求めてやって来た。ヨセフはシメオンを人質にし
て、ベニヤミンを連れて来るようにと、食糧を持たせ帰らせる。

そしてその食糧が尽きた時、再度食糧入手のために、どうしてもヨ
セフのもとへ行かなくてはならない。父親ヤコブは、ベニヤミンを
手放す事を渋り続けていた。しかしシメオンが捕らわれたままであ
り、食糧は不可欠で、ベニヤミンを連れて行くしかない。

ヤコブはヨセフを失い、ベニヤミンを更に溺愛していたのかも知れ
ない。ユダの、ベニヤミンもシメオンも、必ず連れて戻るとの強い
説得により、ヤコブは決心する。「私も失う時には、失うのだ」
と。これは、ヤコブが、主に、何もかも明け渡した信仰の言葉だ。

ヨブが「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言
った。そのように、主は取られるが、また、与えることもできる。
すべては、主の御手の中であり、主のお心のままにとの信頼だ。ヤ
コブは、愛するヨセフを失い、ラケルも死別し、最愛のベニヤミン
まで失うかも知れない。

しかし失うまいと、固く握りしめて放さなかったベニヤミンを、主
に渡した時に、ベニヤミンだけでなく、思いもよらなかったヨセフ
をも取り戻した。もう一度一つ家族にされ、飢饉の中、皆の命も救
われた。結局、何も失っていなかった。今、あなたの堅く握りしめ
ているものを、主に委ねるように示されているだろうか。
------------
失うまいと握りしめているものにいつの間にか支配されてしまう。
主の手に渡せるように祈ろう。主が豊かに与えてくださり、また
主が取られる。新たな祝福のためだ。主を賛美していよう。


2022年12月06日(火)

「看守は・・ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そ のあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた」 使徒16:33


パウロは、宣教する場を求めていた。アジアで語る事を禁じられ、
ビテニヤの方へ行こうとすると、それも阻止され、残りの西方面に
向かった。トロアスで「マケドニアに渡って来て、私たちを助けて
下さい」との幻により、導きを確信しマケドニヤに渡った。そして
ピリピの町へ。

川岸の祈り場へ行き祈り、そこにいた女たちに宣教した。その後、
占いの霊に憑かれた女奴隷から、悪霊を追い出した。すると儲ける
事が出来なくなった主人たちに、訴えられ、捕らえられ、投獄に。
むち打たれ、暗い奥の牢へ監禁された。御霊の示し通りに従ったの
に、祈ったのに、苦しみに会った。

こちらに落ち度は無く、ましてや宣教したいのに、投獄だ。これは
一体どういう事なのか。何もどうにもならないではないか。
見える所、悩みと問題、行き詰まりだが、しかし主の計画は着々と
進められていた。牢獄で不平一つなく、祈り、賛美する彼らの姿
は、囚人たちに驚きの証しとなった。

結果的に、投獄ゆえに、看守が救われ、何と全家族が救われ、ピリ
ピの教会の核となって行った。主に間違いは無い。今は見える所、
わけがわからないが、先を見据えておられる。ちゃんと従ったの
に、あんなに祈ったのに「なぜ?どうして?」の状況にあるだろう
か。

今は全体像が見えないが、主はご自身のご計画を進めておられる。
主に間違いはない。「恐れないで、信じていなさい」「神を信じ、
またわたしを信じなさい」、主はプランを進めておられる。信じよ
う。
------------
祈って始めたのに何故だろう、どこが間違っていたのかと不安が襲
うが、不信仰に陥らず主を見ていよう。途中で起こることも必ず主
のご計画の中のことだ。不安な思いを祈り主を信じていよう。


2022年12月05日(月)

「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた・・アブラムが 出かけたときは、七十五歳であった」創世記12:4



アブラムは、生まれ故郷、父の家を出て、主の示す地に行けとの、
召しに答えて、主の言われた通りに従った。親族と別れ、故郷を出
て、父の家を出なければならなかった。大きな代価を払わねばなら
なかった。高齢の彼にとり、覚悟を決めた、大変な決心であっただ
ろう。

親族たちのいる故郷、そこは安心、安全な地で、どんなにか居心地
が良い、心穏やかにおれる場所だろう。そこから出るという事は、
未知の世界へ出る事で、どんな危険があるかもわからない。不安や
恐れはどうだろう。しかしアブラムは従った。私達も主に従うため
には、犠牲を払う必要があり、自分が堅く握り締めているものを手
放す事があるだろう。

一つ〃を、主が指し示される。それらを一つ〃と明け渡して行く時
に、今まで知らなかった、経験した事のない喜びを知る。御霊によ
る喜びだ。その時に、主を新たに知り、信仰に前進して行ける。主
は、アブラムに、ただ行けと言われたのでなく、約束を与えられ
た。あなたを大いなる国民とすると。サラが不妊の時であり、サラ
に子どもができるという素晴らしい約束だ。

彼は主を仰ぎ、主に信頼し、主の約束を握り、出発した。私達も主
の約束を握る時、どんな状況であれ進んで行ける。主が共におられ
るからだ。そして主が先導される。今、主の示しが臨んでいたな
ら、従うよう、決心できるよう祈ろう。信仰に前進して行ける。
------------
御言葉や御霊に示され心に新しい決心が生まれてくる。御霊の導き
に従おう。従うために手放さなければならないものも示される。
主に明け渡していきたい。主に祈り前進していこう。


2022年12月04日(日)

「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうす れば、そのとおりになります」マルコ11:26



御言葉に次のようにある。「神を信ぜよ。祈って求めるものは、す
でに受けたと信ぜよ、その通りになる」と。しかし次のように続く。
「立って祈っている時、誰かに恨みがあるなら赦すように」と、赦
しが強調されている。赦さない心は祈りを妨げ、しゃ断してしまう。
私たちはしょっ中失敗する。だが神は豊かに赦し続けて下さる。罪
を犯さないのでなく、罪は犯してしまうが、赦されて〃生きている。

ずっと赦され続けているのだから、私たちもまた赦すべきだと。恨
み憎しみがあると祈れなくなる。心にとがめがあり、主との間に隔
たりができ、確信もった祈りができない。ある人が切実な必要があ
り祈っていた。幾ら祈っても答えが無い。その中、ある人の仕打ち
に、根深い恨みが、心の奥に巣くっている事を示された。

これが妨げとわかり、悔い改めて、その相手を赦した。その後、見
事に祈りが答えられた。ある人は友人と言い争いになり帰宅した。
自分は悪くない、相手が悪いと思う。だが平安が全く無く、心が重
苦しい。御霊に探られ、示され、電話し、自分サイドの悪い態度を
謝った。すると相手も、同じ事を考えていたと言い、即、和解とさ
れた。平安が戻り、喜びが湧いた。

赦さない心は、祈りを遮断してしまう。答えを受け取るために、密
かな恨みが、赦せない思いが潜んでいないかどうか、御霊に探って
頂こう。そしてあるがままの心を祈りに持って行こう。主は取り扱
い、助けて下さる。自分の心に責められなければ、大胆に御前に出
ることができ、求めるものは何でも主からいただける。豊かな祝福
にあずかれる。

・・・・・・・・・・・・・
主が、誰かに恨みがある事が、祈りの障害になると言われている。
沢山の証しにも接する。赦せない思いがある時、まず平安が無く、
確信持った祈りができない。御前に、恨みを悔い改める時、相手は
相手の問題であり、自分は平安にされる。


2022年12月03日(土)

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは 私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み 取られます」詩篇139:1

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは
私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み
取られます」詩篇139:1

ある人の証しだ。主との交わりが大切で、その手段として祈る事が
でき、自分の願いや悔い改めを主に告げて行ける事。主は御言葉を
通して語って下さり、お心を現して下さる事。デボーションが大切
で、信仰生活の生命線だと教えられ、よくわかる。主との交わりが
まず大切だと、わかっているつもりなのに、なかなか祈りの時間を
持てないし、聖書も読めない。

ズルズルと、あっという間に1週間が過ぎる。教会に行き、世に流
されていたと気づき、祈りの生活をしたいと思う。だがついテレビ
やネットで時間がつぶれ、動画や雑誌は幾らでも見れるのに、聖書
が読めない。好きな事なら時間を忘れる。なのに聖書の時間は無い。
こんな繰り返しに自分でもいい加減嫌になり、主のもとへ行き祈っ
た。

正直に打ち明け、助けを求めた。すると祈りの中で、主を本気で求
めていない事に気づかされた。しかし自分ではどうにも出来ず、
「求め」が与えられるよう、祈ろうと思った。その時、紛れもなく、
祈った祈りの答えである事に感謝した。祈る事も聖書を読む事も、
自分の力では出来ない。助けを求める時に主を経験して行く。

ある人は、なかなか祈れないので、主に助けを求めた。その時、忙
しいから、時間が無いからでなく、祈らなくてもやって行けると、
思っている自分に気づかされた。それは高慢ではないか。御霊の気
づきを与えられ、心から感謝した。自分で何とかするのでなく、ま
ずありのままを主に告げよう。その祈りは答えられる。

・・・・・・・・・・・・・
日々の祈りと御言葉のデボーションが大切であり、信仰生活の生命
線である事が頭ではよくわかるが、自分の力では続けられない。義
務になって、喜びが無くなってしまう。そんな時、ありのままの状
態を主に告げる時に、確かに何かが変わるから不思議だ。


2022年12月02日(金)

「ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に 出て行き、そのほかの者たちは、主のしもべたちをつかまえて、恥 をかかせ、そして殺してしまった」マタイ22:6



王が、王子の結婚の披露宴を開いた。だが招待客は、皆、断って来
たのだ。神の事、永遠の事より、今の地上の事柄が心を占め、目の
前の事に心を奪われる。王や王子の祝宴等より、まず大切なもの
が、畑、商売、この世の事だった。ましてや、王の使いを殺してし
まうとは。招待客はふさわしくなかったので、王は、大通りで誰で
も招くよう命じた。

片っぱしから招くと、宴会場は満員になった。だがそこに婚礼の礼
服を着ていない客が一人いた。王は怒って外に放り出した。通り
で、突然呼ばれるわけで、誰も礼服など持っていない。この礼服は
主催者側で用意されていた。だから放り出された人は、王の礼服を
故意に退け、意識して拒否した事になる。自分の服が良いと。

彼は、通りで招かれ、招きは拒まず来たが、王の前に出る「礼服」
は拒んだ。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」。どこ
までも自分の力、自分の功績を捨てたくない。礼服を拒む事は、自
分の善行、自分の力で義と認められようとする事だ。

神の考えより、自分の方を正しいとするなら、神を認めず、拒否す
る事になる。自分の思いやプライドに固執しているだろうか。王の
礼服、義の衣、主キリストを感謝と共に受け入れ、自分の身につけ
て、主と一つとなり従って行こう。その時、披露宴の大きな喜びと
楽しみにあずかる者とされる。
------------
出来るところまでは自分の力で頑張りたいと、主を信じていても、
中途半端なプライドを捨てきれない。自分を脱ぎ去り主の与えてく
ださる義の衣を身に着け、喜んで主の招きに従おう。


2022年12月01日(木)

「ひとりのサマリヤの女が水を汲みに来た。イエスは『わたしに水 を飲ませてください』と言われた」ヨハネ4:7


主はユダヤからガリラヤへの途上、あえてサマリヤを「通らねばな
らなかった」。ユダヤ人はサマリヤを通らない。ユダヤ人とサマリ
ヤ人は付き合いをしなかった。しかし主はサマリヤを通られた。そ
れは非常に渇いて、救いを求めている一人の女性に会うためだっ
た。

主は「旅の疲れで」井戸のかたわらに座られた。非常に疲れておら
れた。主も私たちと同様に疲れを覚えられる、私たちの良き理解者
だ。ここで彼女は偶然、主に出会ったのではない。主の方が、彼女
を求められたからだった。そのためわざわざサマリヤを通られた。

主から「わたしに水を飲ませて下さい」と話しかけ、会話の糸口を
作られた。そしてその場で、個人伝道をされた。彼女の心は渇いて
いた。その空洞を満たすために男性を求め、5回の結婚と離婚を繰
り返し、今は同棲中だった。何度結婚しても、心の空洞は満たされ
なかった。

女性たちが、お喋りを楽しむ夕方には姿を現さず、人目を避けて、
カンカン照りの昼間に水を汲んでいた。人の目をはばかる生活であ
った。そんな心虚しく生きていた彼女に、主が近づき、罪を示し、
救いを与えられた。すると今まで人と会わず、隠れていた彼女が、
生活に大切な水がめを置いて、町へ出て行った。

そして人の前に出て、言った。「来て、見て下さい」と主イエスを
指した。彼女は満たされ、変えられた。同様に私たち一人〃をも、
主は目を留めて下さったので、救いに導かれた。そして今もずっと
変わらず、慈しみ、目を留めていて下さる。
------------
最悪の底で主に出会う。主を知り、主に知られているという事実に
大きな慰めと新しい力を得る。主に出会え主に委ねて歩める平安に
感謝だ。