2023年01月31日(火)

「兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかっ た」マタイ21:29


主は、二人の息子のたとえを話された。ある人に二人の息子がい
た。二人の息子は、父親に「ぶどう園に行き、働け」と言われた。
兄は「行きます」と立派な答えをしたが、行かなかった。弟は「行
きたくない」と嫌なので拒否したが、後で悪かったと思い直し、出
かけた。「どちらが父の願った通りにしたか」と、祭司長や律法学
者たちに問われた。

彼らは「後の者です」と答えた。主を拒否している彼らであった
が、そのように言った。主は、弟は、取税人や遊女のようだと言わ
れた。彼らは律法に従わず、罪を犯していたが、ヨハネの悔い改め
の教えに聞き従い、ヨハネがメシアだと示した、主を受け入れた。

逆に、行くと言ったが、実際は行かなかった兄は、表向きは道徳的
で、立派な行ないをしているように見えるが、ヨハネを拒み、その
言葉を拒み、主を認めず受け入れない、それが彼らの姿であると言
われた。私たちはどうだろう。信仰生活が長くなると、知識もつい
て、表向きはクリスチャン的な振る舞いができてしまう。

だが、中身はどうだろう。外側と内側が別々で、信仰と日常生活が
リンクせず、それはそれ、これはこれの二重生活になっているだろ
うか。それなら素晴らしい御霊の喜びや平安が味わえない。肉は、
自分の領域は固く守り、どこまでも自分の思い通りに生きたい。
しっかりと自分を握り締めて放さない。

だが御霊は一歩〃手を取って導いて下さる。自分でどうこうするの
でなく、御霊の示しに素直に従おう。示された事に従う時、又、次
の一歩が示される。従って行く時に、この世には無い、御霊の喜び
と平安を経験し、味わって行ける。
------------
正しい答えは簡単に言えるが、主はその真意を知っておられる。や
はり悪かったと御霊の示しを聞けることが恵みだ。主がどこまでも
御霊を通して導いてくださる。真剣に主を求めていきたい。


2023年01月30日(月)

「ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着か ず、みもとに来て言った・・」ルカ10:40



あなたは、今、多忙だろうか。なすべき事が山積みだろうか。マル
タも、目の前の忙しさに、てんてこ舞だった。「気が落ち着かず」
平安無く、イライラピリピリし、心が乱れてしまっていた。主と弟
子たちを家にお迎えしたのだが、家をきれいに掃除し整えた事だろ
う。主と12人の弟子たちの足を洗い、対応し、13人の食事準備に手
いっぱいだった。

美味しい食事をと、力が入り、懸命に料理した事だろう。人数も多
く大変だ。客をもてなす事は、尊い、大切な働きだ。しかしマルタ
は、目の前の事に心を奪われ、あれもこれもと思い煩いで一杯だ。
夕食の時刻も迫る中、思うようにはかどらない。焦ってイライラす
る。ふと見ると、マリヤは何もせずに座っている。

自分一人が忙しい目をしていて、手伝いもしないマリヤに怒りがわ
いてくる。更にこの状況を許している主に「何ともお思いにならな
いのか」と詰め寄る。そして自分の手伝いをするよう、妹に言うよ
う、主に指図をする。せっかくの主へのもてなしが、とんでもない
事になってしまった。私たちもしばしば陥ってしまう。仕事や家
事、教会での奉仕に、多忙過ぎて、喜びも平安も失っていないだろ
うか。

いら立ち、人を責め、裁く心が出て来たなら要注意だ。ちょっと手
を止め、立ち止まって、主を見上げ、主と交わろう。目を主に向け
て、焦り、苛立っている心を、平安の無い状態をそのまま告げよ
う。主の霊に触れる時、必ず心が新たにされる。喜びと平安が戻
り、リフレッシュされる。主を呼び、ありのままを話そう。
------------
なぜマリヤは手伝いもせず主の傍にいるのかと、マルタに共感する
自分がいるが、目の前に来る状況や自分の気持ちと戦い、一番大切
なことを守れるよう祈っていたい。


2023年01月29日(日)

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに 加えて、これらのものはすべて与えられます」マタイ6:33


私たちは心配症だろうか。人は、多くは悲観的に傾くと言われてい
るが、先のあの事この事が不安だろうか。目の前の事、明日や1ヶ
月先の事・・不安でたまらない。大丈夫だと思おうとするのだが、不
安がおさまらない。主がおられるから大丈夫、必要は必ず備えられ
ると励まされても、どうしてもだめなのだ。

教理上、頭ではわかるのだが、先は見えないので、恐れと不安がど
うにもならない。明日の不安に押しつぶされ、今日なすべき御心を
行なえない。しかし「神の国とその義とをまず第一に求めよ。そう
すれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられる」。「ま
ず」神第一にして行くなら、食物、着る物・・生活の必要は「すべ
て」与えられると。

そして心も満ち足りる。ところが不安の余りこれを逆にする。添え
て与えられる「これらのもの」を第一にして、主を脇に置いて自分
で走り回り、主を後回しにしてしまう。その結果、更なる思い煩い
と不安に支配され、「神」も「これらのもの」もどちらも見失なう。

肉は、自分で自分を守ろうとするので、焦って、まず自分で何とか
しようとする。心に平安は無く、すべてが自分の肩にかかるので、
重く苦しいばかりだ。「まず」主を仰ぎ、主に祈ろう。「心配無
用」「いっさい思い煩うな」「思い煩いをいっさい神に主に委ねよ、
神が心配して下さるから」。まず不安と恐れを主に告げよう。主が
祈りを与え、導かれる。

・・・・・・・・・・・
何かが起きると、主が飛んで、目の前の事に飲み込まれ、走り回っ
てしまう。頭は、あれやこれや方策を考え、忙しく巡り、不安でた
まらない。まず、主を第一に、動き回らずに祈ろう。「やめよ。わ
たしこそ神であることを知れ。」


2023年01月28日(土)

「こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め 立てたので、彼は死ぬほどつらかった」士師記16:16


ナジル人であるサムソンは、神から賜物として特別な力を与えられ
ていた。そこにデリラという大きな誘惑が来た。サタンの誘惑は、
人の欲望に働きかける。「人は自分の欲に引かれ、おびき寄せられ
て誘惑される」と。巧妙に少しづつ〃、まとわりつくように働いて
くる。

最初は、少し位大丈夫と油断する。アルコールやギャンブル、薬物
依存者も、少しだけならと思い、徐々に深みにはまって行く。デリ
ラはペリシテの領主たちに、お金で、サムソンの力の秘密を探るよ
う言われ、サムソンに秘密を尋ねる。しかし3回もだまされたデリ
ラは、執拗にサムソンにせがむ。毎日しきりにねだり、又責め立て、
サムソンは死ぬほど辛かった。

デリラを失う事を恐れる余りサムソンは、とうとう力の秘密を言っ
てしまう。そしてその秘密である髪の毛をそり落とされ、ペリシテ
に捕らえられた。「毎日、しきりにせがみ」と、私たちもどうだろ
う。毎日しきりに執拗に聞こえる言葉が、肉やサタンの言葉であれ
ばどうだろう。

サムソンがデリラの誘惑に負けてしまったように、いつしか行為へ
と進んでしまう。逆に、御言葉を聞き続けるならどうだろう。主の
言葉を喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむなら、どんなに幸い
だろう。どの言葉を聞いているかが行為を決定して行く。「しきり
に」来るサタンの言葉に気づけるよう祈っていよう。そして絶えず
神の言葉に心を向けよう。

・・・・・・・・・・・・
サタンはまとわりついて来る、繰り返し繰り返し、しきりにが、特
徴だ。日々、しきりに来ている、ネガティブな思いを考えてみよう。
思いを拒否し、主に呼ばわり、祈りに持って行こう。根深いものな
ら、主が取り扱い、解決へと導いて下さる。


2023年01月27日(金)

『ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、 『主よ。助けてください。』と言った」マタイ14:30



主に、強制的に舟に乗せられた弟子たちは、真夜中に湖で強風に悪
戦苦闘していた。そこに主が湖の上を歩いて来られた。弟子たちは
非常な驚きであったが、主である事がわかると、ペテロが、主のも
とに行きたいと願った。ペテロは主の言葉さえあれば、可能だと信
じた。その信仰はあった。

主は、願いに答えられ「来なさい」と言われた。その御声を聞き、
ペテロは舟から出て湖面に足を下ろし、水上を歩いた。ところが、
風を見た時に、突然恐怖に襲われ、ぶくぶく沈み、溺れかけた。恐
怖の余り、主に助けを叫ぶと、主はすぐにペテロを助けられた。
ペテロは風を見た途端、常識の世界を見た。

こんな事が起きるはずがない、人が水の上を歩くなどと、有り得な
い。私たちもしばしば経験する。主の御心を歩む時、主が全ての経
済的必要を満たすと約束されている。だが降って湧いて来るわけで
なし、どうやって満たされるのか?又、この世と違う価値観ゆえ、
仲間はずれにされたり、笑われたり、バカにされたり・・

この生き方で本当にいいのか?主に従って行って大丈夫なのか?や
って行けるのか?又、忍耐し、赦すなど、相手を図に乗らせるだけ
だ、反撃すべきだ・・「常識」「この世の価値観」「経験値」の湖
にぶくぶくと沈んでしまう。今、二つの世界に足元ぐらついている
だろうか。恐れで、溺れかけたペテロだろうか。

今一度、状況でなく、「来なさい!」と御声をかけて下さっている
主を見上げよう。どちらを見ているかで、歩けたり、沈んだりす
る。御霊の気づきを与えられて、主を見て行こう。
------------
どう考えても出来る訳がないと問題の前に考え込む。でも主が「来
なさい」と言われるなら、主を信頼し主に向かって前進しよう。主
よ助けてくださいと祈りつつ進もう。


2023年01月26日(木)

「彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられた ので・・」使徒16:6



信仰生活で、主の導きを求める原則は、「御言葉」と「聖霊による
平安」と「環境」の3点が一つになる事だ。その中で「環境」は、
状況をよく見ていよう。パウロが二度も環境により、行く手を阻ま
れた。アジヤでみ言葉を語る事を禁じられ、フルギヤ・ガラテヤ地
方を通った。ビテニヤに行こうとしたが止められ、トロアスに下っ
た。

東から来て、南も北も閉じられ、西に向かった。閉じられた理由
は、結果的に主のご計画が、「ヨーロッパ宣教」にあったからだっ
た。もし主の阻止がなければ、違った方向へ向かっていただろう。
私達一人〃にも主のご計画があり、時にストップをかけて導かれ
る。

ある思いがあるのだが、どうしても門が開かれず、状況が整わない
なら、それは主の御心ではない事になる。入学試験や就職試験が不
合格なら、そこは主の御心でなく、御心は別にあるという主からの
答えだ。主からのストップがかかると、私たちは導きを失ったよう
に感じ、道に迷ったような不安にかられるが、そうでなく「ノー」
との「導き」だ。更にふさわしい別の道が備えられている。

次の導きを「待て」ばよい。しばしば止められる事により、導きを
はっきりと知れる。又、門が開かれたなら、その方向に進めばよ
い。御心の門は、ひとりでに開く。主が開かれるからだ。自分で、
何が何でもと、こじ開けるのではない。必ず目の前で、ひとりでに
開かれて行く。御言葉、祈りによる平安共に、状況をよく見ていよ
う。
-----------
主の導きを認めている心は平安だ。主が門を開いたり閉じたりして
教えてくださるからだ。新しい門が開く。悟れるよう祈ろう。主の
平安の中で待ち望もう。


2023年01月25日(水)

「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたはみな、 今夜、わたしのゆえにつまずきます』」マタイ26:31



信仰人生において、私たちがつまづくのは、どんな時だろう。よく
考えてみると、「自分の」期待に合わない時ではないか。どこまで
も「自分の」強い思いに、そぐわない事でつまづいていないか。自
分に何の関係も無い事で、人はつまづく事はない。「自分の」気持
ちや「自分の」願いを、相手が受け止めてくれない時、自分の思い
通りにならない時に、つまづいたと思う。

そして、そんな神なら捨ててしまうだろうか。自分の願いが叶えら
れないなら、必要無い。偶像ならそうだろう。次々と拝む対象を取
り替えて行く。当時の、主の周辺にいる人々は、主を現世的、政治
的指導者、ローマ帝国をくつがえして王としての主を求めた。メシ
ヤとして華々しく王位につく事を。しかし現実的はどうだろう。

ローマを倒して、王になるはずの主が、十字架にかかられるなど
と、受け入れられない。人々は自分たちの思い通りでない、主を捨
てた。自分の期待通りでない、願望を裏切る主が、腹立たしい。私
たちもどうだろう。信仰人生が自分の期待通りに進まない、こんな
はずではなく、思い通りでない、願いが叶えられない。その時につ
まづく。

その時の軸が「自分」であり、自分の気持ち、自分の思いだ。その
軸を主に代えてみよう。「主のみ思いは?」「主のお心は?」主は
どう思っておられるのか。主を軸におき、自分を明け渡して行く時
に、今までの世界とは違い、主の世界が見えて来る。「わたしにつ
まずかない者は幸いです」と言われている通りに。
------------
決してつまづかないと突っ走っていると転んでしまう。問題が起こ
るとすぐに自分の良心や常識が先に来てしまう。自分にこだわり主
が語る大切な御言葉を流さないよう、自分を明け渡せるよう祈りた
い。


2023年01月24日(火)

「彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。『風や湖までが言 うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」 マルコ4:41



湖の舟の中から、群衆に話しておられた主が、弟子たちに「向こう
岸に渡ろう」と言われた。彼らは、そのまま舟で主をお連れした。
夕刻だった。すると湖で激しい嵐に会った。それは、身の危険を感
じるほどの強烈な嵐であり、舟は波をかぶり、水で一杯になった。
転ぷくの恐怖でパニックになる中、主を見ると、こんな嵐のまった
だ中で熟睡しておられた。

平然と眠っている主に、弟子たちは「私達が溺れ死んでも何とも思
われないのか」と詰め寄った。弟子達の態度は、主を主として崇
め、信頼し、へりくだった求めではなく、「私など、どうなっても
よいのか。私の願いを叶えよ!」と、主に命じているような、すね
たような自己中心な態度だ。

しかし主は、舟から水をかき出す助けをしたのでなく、風を叱りつ
け、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると突然風はピタリと止
み、大なぎになった。自然を支配しておられる主に、弟子たちはも
うびっくりし、大きな恐怖に包まれた。弟子たちは主に従ったの
で、大嵐に会った。主に従わず、舟を漕ぎ出さなければ大嵐に会わ
なかった。

しかし、嵐も主からのもので、弟子たちはその結果、驚くべき事を
目の当たりにし、自然界をも支配する主である事を、知った。私た
ちも主に従う中で、大嵐に会う。その時、更に新たに主の力を経験
させられて行く。心を屈折させるのでなく、嵐は、主の愛、主の真
実、主の力を、主ご自身を経験できる時だ。受け止めて行けるよう
祈ろう。
---------------
主に従う中で大嵐にあう。そして私たちも同じように恐れうろたえ
てしまうが「黙れ、静まれ」と風と波を一括してくださる主は共に
おられる。主を頼り主と共に向こう岸に渡ろう。


2023年01月23日(月)

「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近 づいて、彼らとともに道を歩いておられた」ルカ24:15


二人の弟子達は、かたわらを歩かれる、主がわからなかった。それ
は目がさえぎられていたからとある。御言葉は、主イエスだとわか
らなかったと言っている。なぜ、わからなかったのだろう。「信じ
ない、心の鈍い人たち」とある。不信仰が目をさえぎっていたと。

復活を信じない彼らは、主が死んでしまったとの、絶望と深い落胆
の中にあった。悲しみもあった。私達も失望している時は、主が見
えない。「失望」とは、主を見限った不信仰だ。主を求めようとせ
ず、主に期待しようとしない。不信仰は私達の心をふさぎ、どんど
ん主を見えなくする。

又、「自己憐憫」は、自分はかわいそうと、自分の殻にこもり、主
を排除するので、ただ見えるのは自分だけだ。又、「不安」も目が
さえぎられる。思い煩いに支配され、心配の山だけが見えて、主が
見えない。主を締め出してしまう。「多忙」も、目の前の事柄に、
心が持って行かれてしまい、主を認める事をさせない。

今、どうだろう。目がさえぎられていないだろうか。目の前の障害
物に気づき、悔い改めよう。失望か、思い煩いか、自分の欲望か、
握り締めている、主より大切なものか。それらはおおいとなり、目
がおおわれてしまう。それを取り除けて頂こう。

主に向く時、視点が変えられ、発想が変わる。主を見るなら、希望
が与えられ、信仰が生まれる。目が開かれる。今も変わらず、あな
たのかたわらに主がおられる。
------------
すぐに自分の思いと常識に塞がれてしまうことを覚えていたい。主
から目を離して心配したり落ち込んでいないか。自分の思いは置い
て、主を見ていこう。約束の御言葉を握っていよう。


2023年01月22日(日)

「主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地 にしっかりと立つうちに・・ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わ った」ヨシュア3:17



出エジプトから、ついに約束の地を目前にして、とうとうと水が溢
れるヨルダン川に来た。橋も、船も無い。又、丁度、雪解け時で水
かさが最大限だった。どうすれば良いのか。人間の力では渡る事は
不可能だ。主が、渡る方法を示された。ヨシュアに主の言葉が臨ん
だ「主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、水の中にとどまると、川
の水がせき止められ、せきをなして立つようになる」と。

祭司たちは契約の箱をかついで、ヨルダン川に足を踏み入れた。そ
れは、自分の背丈よりも深い川だ。足の裏が水中にとどまると、川
の水がせき止められるとの、主の言葉だけが頼りであり、保証だ。
先に、水がせき止められてから、渡るなら何の問題も無い。

しかし現に水が岸一杯に溢れている時に、足を踏み入れるのは、信
仰なくして、恐くて出来ない。何も目に見えない中で、御言葉を信
じて、御言葉を頼りに、一歩を踏み出すことが信仰だ。主が先頭に
立たれる。そして祭司が一歩を踏み入れた時に、奇跡が起きた。主
の言葉通りに、水がせき止められ、せきをなして立った。

その中を民は無事に渡りきった。私たちはどうだろう。少しでも見
えたなら、従おうと思ってしまう。新しい事を導かれた時にどうだ
ろう。時間は?労力は?力量は?体力は?と不安で仕方が無い。し
かし、示しに、御言葉頼りに一歩踏み出すと、すべての必要が備え
られている事を発見する。今、ヨルダン川を渡ろうとしているだろ
うか。見えない中も、一歩踏み出して従おう。

・・・・・・・・・・・・・・
目の前の状況が厳しいと、圧倒されそうだ。御言葉は進めと言う。
水中に入った時に、水がせき止められると。御言葉がすべてであり、
御言葉だけが頼りだ。見える所でなく、御言葉の方を選択できる
よう、自分を明け渡せるよう、祈ろう。御霊の助けが臨む。


2023年01月21日(土)

「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人と ともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生か すためである」イザヤ57:15


ある人が神学校を出て、若くして牧師となり、主のために意気揚々
と、地方の小さな教会へ赴任した。その後の歩みは悲惨で、こんな
はずでは無かった。閉鎖的な、よそ者を受け付けない中、働きは思
うように行かず、数年で宣教に挫折した。思い描いたものとかけ離
れていた。少人数なのに、群れを牧する事ができない。

皆、様々な思いがあり、衝突し、問題に次ぐ問題で、更にこじれて、
一致がとれない。自信は見事に打ち砕かれた。まとめて行く事も出
来ない、自らの無力さに打ちのめされた。とうとう行き詰まってし
まい、落胆と脱力感におおわれ、牧師を辞めようと思った。今まで
の人生で経験した事のない苦しみの中で、もうだめだと思った。万
事休すだと。

しかしそのどん底で、祈っていた中で、主に出会った。「神の賜物
と召命とは変わることがない」。自分の力、知恵、方法で、突き進
んでいた自分の姿を見せられた。聖書知識を持ち、自分には出来る
と思っていた。その高慢を砕かれた。無力を思い知らされた時、主
の愛のふところに抱かれている自分を見せられた。

自分が自分を支えるのでなく、主の愛が自分を支えていた事を知っ
た。自分はどうであろうと、全く変わらない愛で愛されている事を
知った。砕きは神の愛だ。自分で動き回っている間は、主を脇に押
しやっていた。無力になり、初めて主がわかった。

・・・・・・・・・・・
自分で、自分の力で懸命に走ってしまう。しかし自分の思うように
ならない事で、主が立ちはだかって下さる。思い通りにならない事
で砕かれ、練られ、主のかたちへと造り変えられて行く。無力を知
る事が大きな祝福だ。そこでこそ真に主に出会えるからだ。


2023年01月20日(金)

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿ってお られることを知らないのですか」Tコリント3:16



すべて主を信じる者には、御霊が内住されている。そして御霊は信
仰生活を具体的に助けて下さる。教え、道を示し、間違いを正し、
御心へと導いて下さる。確かな間違いのない導き手だ。信仰生活と
は、御霊に教えられ、諭され、導かれる歩みだ。「今、これをせ
よ」との御霊の示しを感じる事があるだろうか。だが「今は面倒
だ。又、後で」と後回しにしてしまうだろうか。

日々の少し空いた時間に「今、祈りの時を持て」又、「今、聖書を
開いてごらん」との促しを感じるだろうか。しばしば「いや、今は
疲れている」「その気にならない」と逃してしまう。逆に、御霊の
示しに、即、従う時、少しの時間だが、主に触れて、どんなに潤い
と平安を得るだろう。その後の時間が変わる。

御霊の促しをないがしろにし、気に留めない事により、みすみす大
きな恵みを捕らえ損ねてしまう。又、良くない習慣は止めるよう示
されながら、「これくらい大丈夫」と押し通してしまうだろうか。
「不機嫌な態度を止めよ」「言葉がよくない、優しい言葉をかけ
よ」との示しもあるだろう。そんな御霊の促しを無視する時、周囲
に害毒を流してしまう。悪い証しとなり後悔する。

御霊の声に敏感であろう。よくアンテナを張っていよう。特に、御
霊に示された罪は、悔い改めよう。豊かに赦して下さる。平安を与
えたり、平安を取り去ったりしつつ、御霊は主の御心へと教え導い
て下さる。平安が無くなる時は、祈って心を探って頂こう。心にあ
るものを気づかせ、正しく導いて下さる。
------------
平安がなくなると悔い改めるべきことを示され、祈りの答えも御霊
が教えてくださる。喜ぶことも祈ることもみな自分ではできない者
だ。御霊の促しは、弱く迷いやすい者の歩みを常に支えてくださ
る。


2023年01月19日(木)

「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたし は、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている」 T列王17:9



エリヤは、主の示しでケリテ川のほとりにいたが、日照りで、川の
水が枯れた時、次にツァレファテへ行くように命じられた。やもめ
により養うと。主に言葉に従い、その町へ行くと、やもめに出会っ
た。そこで彼女に水とパンを頼んだ。すると、何という事か、彼女
はエリヤを養える資産家などでなく、最後の一握りの粉でパンを作
り、母子で、最後の食事をして死のうとしていると言う。

極貧のやもめであった。エリヤは何と思ったろう。目の前の人物
は、人を養う事など不可能だ。しかし助けを求めなければならな
い。何という状況だろう。人間的に考えるなら、その最後のパンを
自分にくれとは、とても言えない。しかしエリヤは見える状況でな
く、情や自分の思いでもなく、御言葉に従った。ただただ、主に言
われる通りに従った。

まず私に小さなパンを作り、その後にあなた方のために作るように
と。そうするなら、飢饉が終わるまで、粉は尽きず油は無くならな
いと。人の思いや情は、神のみわざを妨げる。エリヤは御言葉に立
ち、「あなたの神、主は生きておられます」と言った彼女は、その
言葉に従った。

すると奇跡が起きて、やもめと息子は飢饉のまっただ中で、豊かに
養われる事になった。神を第一にする時、みわざを見る。自分の思
いや情、見えるところが反対方向を向いていても、神の言葉を選択
し、従おう。その時、神が全責任を取って下さる。
------------
御言葉と状況が違う時、すぐにああだこうだと理屈を考えて素直に
従うことができない。御言葉と常識はいつも違う。素直に主を頼り
従いたい。主は喜んでくださる。


2023年01月18日(水)

「主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。主よ。私 をいやしてください。私の骨はおそれおののいています」詩編6:2



ダビデはサウル王に妬まれ、嫉妬は憎しみとなり、命をつけ狙われ
る。実際、槍を投げつけられ、本当に危うく殺されかけた。真に差
し迫った身の危険に、その恐怖は、いかばかりであったろう。又、
自分の実の息子からの謀反、敵対はどんなに心痛み、苦しい事であ
ったろう。敵からも攻撃があり、病にも陥り、身も心も絶体絶命の
厳しい深刻な苦境だ。

「彼はわたしの心にかなった者」とダビデこそ、主の心にかなった
人だった。信仰者になると悩み困難が無くなるのではない。問題は
必ず来る。私達は苦しくて、とにかく目の前の問題が去る事を願
う。ただただ去って欲しい。しかし苦しみの中でこそ、神が神であ
られる事を、身をもって知って行く。

ダビデは「嘆きで疲れ果て、涙で夜ごとに寝床を漂わせ」と、なす
すべなく泣いて泣いて嘆いた。苦しみの中でこそ、主との深い交わ
りに入れられる。それは苦しみの中でしか得られない。ダビデは
「主よいつまでですか、あなたは」と、ありのままの気持ちを主に
ぶつけている。順境の時には、決して経験する事が出来ない、主と
の関わりだ。

自分で何とかしようともがき、走り回るのではなく、問題をすべて
主に持ち出そう。自分で当たると空回りだ。何もかもを注ぎ出し、
苦しみ、悲しみ、嘆き、痛み、怒りをありのまま主に告げよう。
主が受け止めて下さる。試練の中で、主との近い交わりを経験す
る。そして、平安へと導いて下さる。
------------
自分で何とか出来ないことを知らされるのも試練の中だ。繰り返し
主に祈り、一つ一つ主との関わりを確かめて歩むうちに、叫んでい
る心も静まっていく。主の導きを待ち望めるようにされる。


2023年01月17日(火)

「主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、 また盾である」詩篇115:11



深夜や未明に突然電話が鳴ると、もしや悪い知らせかと、不安にな
った事があるだろうか。イスラエルがペリシテに打ち破られた時、
神の箱は奪われ、祭司エリの二人の息子が死んだ。エリがその知ら
せを受けた時、道のそばの席から仰向けに落ち、倒れて首を折って
死んだ。悪い知らせを聞く時に、大きな衝撃を受け、パニックにな
り、倒れてしまう。

しかしヨブは、全財産を失い、子ども全員が死ぬという、これ以上
無いほどの悪い知らせを聞いた時、立っておれた。なぜだろう。そ
の心が主に堅く信頼していたからだった。主に揺るがない信頼を寄
せている人は、悪い知らせを恐れないと、ある。私達も悪い知らせ
を受ける時に、心備えをしておく事は大切だ。

まず独り子を賜うほどに、愛していて下さる事を信じよう。主は必
ず目の前のこの事態も益として下さり、私達にとって最善の事にし
て下さると、そこに心を定めよう。そして耐えられない試練は無
く、脱出の道も備えられている事を覚えよう。

状況が大嵐であっても、主に信頼する者を、み翼の陰に守り、この
世には無い「主の平安」で心を守って下さる。決して不運ではな
く、すべての事は、主の主権と支配の中にあり、ご計画とプログラ
ムの中である事を覚えよう。まず、恐れと不安、動揺、落ち込み、
思い煩いの気持ちを、ありのまま主に告げよう。

ことごとくを吐き出して行こう。心が少しづつ落ち着いて来るか
ら不思議だ。主が受け止めて下さるからだ。「しっかりしなさい。
わたしだ。恐れることはない」と言って下さっている。状況から目
を離し、状況を支配しておられる主を仰ぎ見よう。そのように助け
を求めて祈ろう。
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試練は突然やって来るが、どんな時にも主を信頼し主を呼ぼう。肉
の目はすぐに自分に出来るかどうかと考えてしまうが不安しか来な
い。主に信頼しあわてることなく、まず主の平安を受けとろう。


2023年01月16日(月)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え・・」 エレミヤ33:3



ある人が、多忙な日々を過ごしていた。早朝出勤の深夜帰宅で、次
々とこなさなければならない業務に追われ、心身クタクタになり、
少しづつ、主の事が後回しになって行った。その内、かろうじて確
保していた祈りの時間も失せて行った。これではいけないと思いな
がらも、目の前の状況に流されていた。

段々自分の思い、自分の力と判断で歩むようになり、急いで読む御
言葉も字面を追うだけで、心に入って来なかった。悪循環になり、
ますますイライラ、ピリピリして、思い通りにならない事で、周囲
の人を裁いた。仕事も更に忙しく、気持ちに余裕がなく、心が重く
てたまらなかった。余りに苦しくなり、聖書を開いた。しかし、文
字を追うばかりで、全く入って来ない。

祈ろうとしても、心が集中できず、壁に向かっているようだった。
どうにもならず「助けて下さい!」とうめくように祈った。心重
く、渇いて、次の日曜に礼拝に行った。その時突然、十字架の歌詞
の讃美が、心にしみ入り、しみ渡り、涙が出た。何もかも捨てられ
た主、十字架の死にまで従われた主、主のその犠牲愛、真実が迫っ
た。

乾ききったスポンジが水を吸い込むように、心にしみて、メッセー
ジに心が溶かされ満たされて行った。真実なる主は、苦しみからの
叫びだった、あの小さなうめきの祈りを確かに聞かれたのだ。その
祈りに答えて下さった。どんな小さな祈りも聞かれている。主のも
とに行きあるがままを告げよう。
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忙しいとつい目の前に迫ってくるものを優先し、自分の感情が全て
になってしまう。すぐに迷子になる者だ。平安が無くなり気づける
ことは主のあわれみだ。主は昨日も今日も変わらず祈りを聞いてく
ださる。


2023年01月15日(日)

「あなたは私より先にギルガルに下りなさい・・あなたは私が着くま で七日間、そこで待たなければなりません。私があなたのなすべき 事を教えます」Tサムエル10:8



サムエルはサウル王に、自身がいけにえを献げるので、到着するま
で七日間待つよう命じた。だが七日を経ても、サムエルは来ない。
状況は悪く、イスラエルは圧迫され、民は恐れて洞穴や隠れ場に逃
亡し、又、ヨルダン川を渡り、逃亡する者もいた。だがサウルはギ
ルガルで待っていた。そんな中、敵にひどく動揺し、不安と恐怖が、
まんえんして行った。

サウルは非常に焦った。三千人が六百人までに減った。このままで
は崩壊だ。サムエルは来る気配が無いので、サウルは自分でいけに
えを献げた。この軍勢は神の軍勢である事を示し、民の士気を高め
ようとした。すると何とそこにサムエルが到着した。サムエルはサ
ウルを厳しくとがめた。いけにえは祭司しか献げる事ができない。

「愚かな事をした。あなたの王国は立たない。主が命じられた事を
守らなかった」。しかし遅れたサムエルが、悪くはないのか。敵は
どんどん侵攻し、民は怯えて逃走し始めている。こうしなければ壊
滅だとサウルは判断した。だがそういう問題ではない。軍を支配し、
敵を支配しているのは、どなたであるのか。

ヨナタンは言った「大人数によるのであっても、小人数によるので
あっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない」勢力
の問題ではない。主に従うべきであった。又、祭司以外の者が献げ
るのは、してはならない越権行為だ。サムエルの命令は「そこで待
て」だった。どこまでも待つべきであった。それが信仰だ。今、目
の前の状況で、焦りや動揺があるだろうか。主を信じ、主を待とう。
「神の時」がある。

・・・・・・・・・・・・・
見えるところはには大きく影響を受けてしまう。壊滅状況で、最悪
であっても、主の言葉の方を選択し、御言葉に立てるよう祈ろう。
状況と御言葉が相反する場合には、御言葉の方を選択し、従えるよ
う祈ろう。主のお心一つで、状況も変えられる。


2023年01月14日(土)

「母は手伝いの者たちに言った。『あの方が言われることを、何で もしてあげてください』」ヨハネ2:5


婚宴で、ぶどう酒が無くなった。当時の宴会では、ぶどう酒は大き
な役割を果たし、途中で無くなるなど、宴はぶち壊しで、主催者の
大失態となる。心配したマリヤが、主に「ぶどう酒がありません」
と告げた。とにかく主に言えば、何とかして下さるとの思いだった
ろう。しかし主はマリヤの言動によってではなく、御父の御心によ
って動かれる。

主は「わたしの時はまだ来ていない」と応答されたが、マリヤは
「あの方が言われることを、何でもするように」と手伝いに告げた。
主が必ず助けて下さり、最善をして下さると信じたからだった。結
果的に、主は奇跡をされ、上質の最高のぶどう酒を備えられた。信
じるとは、主にいっさいを任せる事だ。

その成就の「時」をも、委ねる事であり、主の御手の中だ。祈りの
中も、とにかく早く答えが欲しくて、早く早くと焦る。なかなか答
えを待てない。待てないため、不安と焦り、思い煩いに囚われる。
それならいつも焦りで欲求不満状態だ。これは委ねる事ができない
ところに原因がある。そのため、時を待てないで、自分で行動して
しまう。

自分が良いと思う事を、自分の方法で、自分の思う時に行動する。
そして失敗してしまう。アブラハムが約束のイサクを待てないで、
自分の思いと力で、イシマエルを生み出してしまった。信じると
は委ねることだ。成就の「時」を主に任せる。主は、御心の時に、
事を成し遂げて下さる。それは、結果的に私たちにとり、最善の
時、美しい時だ。

・・・・・・・・・・・・・
問題は、待てない事だろうか。待つ事は非常に難しい。自我が妨
げ、自分では委ねる事も出来ないし、待つ事もできない。だから
祈りがあり、「出来ません」と祈って行こう。そこに主が働いて
下さる。出来ないから祈ろう。みわざをして下さる。


2023年01月13日(金)

「私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この 患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思ってい たのに」U列王5:11



将軍ナアマンは、らい病をいやしてもらうために、エリシャを訪れ
た。しかし、将軍自らが訪ねているのに、エリシャは顔も出さず、
使いの者に伝言だけした。その扱いに、ナアマンはプライドをひど
く傷つけられた。ましてや、厳粛な儀式によりいやすのではなく、
ヨルダン川で七回身を洗えと。受け入れられたものではない。

ダマスコにもっと良い川があると怒った。ナアマンはひどく傷つい
たからだ。主はこのナアマンのプライドをご存じで、エリシャを通
して、砕こうとされた。自分はいっぱしと思い、人よりはましで、
上と思い、又、自分の思いに主を従わせようとする態度は、どうだ
ろう。ナアマンだけだろうか。人間のプライドは、主の恵みと決し
て相容れない。

主はナアマンに、真の救いを、真のいやしを与えるがために、あえ
て通された。彼の非常に高いプライドが取り扱われる必要があっ
た。その時、しもべたちがナアマンに進言した。難しい事を言われ
たならプライドが保てた。しかし余りにも簡単で、又、人々の目に
さらされる奇異な、恥である状況にプライドが許さない。だが、と
にかく言われる通りしてみてはどうかと。

ナアマンはその言葉に耳を傾け、プライドを捨てて従った。すると
完全にいやされた。あなたも今、問題はプライドだろうか。悶々は
プライドによる事だろうか。主に祈ろう。取り扱い、祝福へと導い
て下さる。
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難行苦行なら自分を頼りにやってみようとするが、ただ受け取るだ
けの簡単なことなら信じられない。主の恵みは何と奥深いのだろ
う。御言葉に従順になれないプライドは何と遠回りをさせるのだろ
う。


2023年01月12日(木)

「・・その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。み ことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられな かったからです」ヘブル4:2



御言葉は、ただ単に聞けばよいのでなく、「聞き方に注意せよ」と
言われる。イスラエルの民は皆、モーセから主の言葉を聞いた。だ
が聞いた言葉が、信仰に結び付かなければ無益だと。民は、御言葉
を聞いたが、最後まで主を疑い、結局は不信仰により荒野で滅ぼさ
れてしまった。モーセは主からの言葉を語った。という事は聞く側
に問題があった。信仰に結びつける事が大切だ。

種蒔きの箇所で、種は御言葉で、土地は心だ。道ばたに落ちた種は
土が固く、心に入らず、悪魔が御言葉を奪うとある。この固い土地
とは、先入観や偏見の事で、それは御言葉を閉ざす。又、他人事と
聞く態度だ。自分の事として聞かないので、素通りしてしまう。
まるで映画を観ているように、傍観者になっていないか。

御言葉は「自分に」向けられていると受け留めない限り、意味が無
い。自分の事として受け取る態度が「良い地」だ。豊かに結実す
る。岩の上に落ちた種は、喜んで御言葉を受け入れるが、根が無
い。根を張るのは地中だ。隠れた主との関係を培う事が大切だ。人
目に見えない地道な主との交わりの生活が根だ。それが無いと、試
練が来た時に枯れてしまう。

いばらの中の種は、外から伸びたいばらに塞がれた。世の様々な事
柄に心が奪われ、いつしか主が後回しになり、おそろかになり、成
長が妨げられてしまう。祈って御霊に助けられて、御言葉を受け取
り、聞いた言葉に従おう。
------------
主はどんな土地にも等しく種を与えてくださる。感謝して素直に受
け取り、主について行こう。御言葉を受け入れ従うたびに固い心が
柔らかくされる。従えるように祈ろう。


2023年01月10日(火)

「・・私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けよう ではありませんか」ヘブル12:1


新しい一年も、忍耐をもって走り続けるために「主イエスから目を
離さないで」いよう。ペテロが湖上を歩いた有名な箇所がある。主
の「来なさい」の言葉を受け、その言葉を信じて、一歩を踏み出す
と、何と、湖の上を歩けた。主の言葉があれば、行けるとペテロは
信じきっていた。まっすぐに主イエスだけを見て、御言葉に立って
いた。

すると奇跡が起きた。しかしふっと風を見て、主から目を離した途
端に、ぶくぶくと沈み始めた。歩くのも、沈むのも、状況自体は全
く同じだという事だ。同じ湖の上で、何を見ているかで、歩けた
り、沈んだりする。これは状況の問題でなく、視点の問題だ。私達
は、とかく苦しい状況を変えようと必死になる。悪いのは状況だと
見えてしまう。そのためそれさえ変われば、幸せになれると思い込
む。

しかしそうではない。主の視点で、信仰の目で状況を見る時、どん
な悲惨な中でも平安と感謝がある。だが主から目を離し、自分視点
で状況を見た途端、恐れと不安に真っ逆さまに落ちる。試練にある
人が証しした。人々の励ましを通して、主の自分への愛を感じ感謝
が湧く。同時に、主から目を離した途端、皆は幸せそうで、自分だ
けが不幸、惨めになり落ち込んでしまう。

同じ状況下なのに、片や喜びと感謝、片や屈折と妬みと、正反対に
なってしまうと。主から目を離してはならない。あらゆる事柄を、
主を中心に考え、どんな時も「イエスから目を離さないで」いよ
う。目を離した時は、「主よ。助けて下さい」と叫ぼう。即、手を
のべ、助けて下さる。
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目の前のものに影響されアップダウンしてしまう私達への主の警告
ではないか。どんな中にあっても主がおられる。主から目を離さず
今日を歩んでいこう。豊かな人生を歩もう。


2023年01月08日(日)

「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心 に蒔かれたものを奪って行きます」マタイ13:19



ある人が証しした「信じてはいるのだが、ずっと神様の事がよくわ
からなかった。頭ではわかるのだが、実感が無い。ある時、種蒔き
の箇所の学びで、道ばたの土地に自分が重なり、自分だと気づかさ
れた。御言葉に拒否反応はなく、普通に聞いているので、気づかな
かったが、御言葉を捨ててしまっていたと。

御言葉を聞く時に、同時にもう一つの思いが来て、「そんな事では、
世の中ではやって行けない」「御言葉はそう言うが、現実的には無
理」「自分の思いは違う」「人にどう思われるのか」「周囲に変に
思われたくない。目立ちたくない」「あいまいにしておいた方
が、周囲とまさつががない」。肉の思いが出て来る。

御言葉と正反対の肉の思いは、御言葉をことごとくさえぎる。御言
葉でなく、その肉の思いの方を今までずっと選択し、御言葉を捨て
ていた。そうしていて全く気づかなかった。今、それが、自分の心
でずっと起きていた事だと理解できた。種である御言葉を選び取ら
ないので、結実が無かった。そのため聖書も神も何だか、ぼんやり
したままで、漠然としていてよくわからなかった。

悔い改めて、御言葉を受け入れ、示された言葉をとにかく実行しよ
うと決心した。そして従おうとした時に、自分の力では決して行な
えない事を学ばされた。だからこそ祈る事、主に頼る事を実際に手
を取られて、主により教えられて行った。主に拠りすがる時に、従
う事ができる事も経験し、自分が変えられる事を初めて経験した。
私たちも、御言葉の聞き方はどうだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・
サタンは絶えず働き、御言葉を聞く時に、自己中心の肉の価値観を
もって妨げて来る。踏まえていよう。祈りが力だ。従えるよう、助
けを求めて祈ろう。
★年末年始に多くのお励ましメールを有難うございました。心温め
られ、大変力づけられました。お心に感謝します


2023年01月07日(土)

「・・わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」マ タイ11:30


くびきとは、平たい板に二つの穴を開けて、二頭の家畜の頭部をそ
の穴に入れて、同方向へ進ませるためのものだ。家畜があちこち別
の方向へ向かず、同じ方向へ進むので、御する事ができて農作業に
便利だ。「負いやすく」は「身体にフィットして快適、心地良いこ
と」だ。くびきは、その穴にきちんと首を入れると、締め付けられ
事が無いので、快適で心地良い。

だが、それを嫌がり、抜けようと抵抗すると、自分で首を絞める事
になる。痛くて苦痛なばかりだ。自分の思い通りに行こうとするな
ら、そのくびきは自分で自分を窮屈にし、首を締め、嫌な、苦しい
だけのものとなる。喜びなどほど遠く、平安も無く、辛いものでし
かない。

あなたにとって、今、与えられているくびきはどちらだろう。自分
の思いとは違っても、目の前に与えられたくびきを受け入れる時、
そのくびきは、むしろ平安と御霊の喜びをもたらしてくれる。しか
しあらがうと、それは重苦しく、何の喜びもなく、解放されたいば
かりのものとなる。受け入れられないものなら、主に助けを求めて
祈ろう。

主が受け入れられるにようにして下さる。あなたにとっての、くび
きは何だろう。今の役割、なすべき事、立場、置かれば場所だろう
か、又、対人関係だろうか。悶々状態で苦しいばかりだろうか。心
砕いて受け入れて行く時、同じ状況の中で、心は解放され、自由に
される。くびきを負えるよう祈ろう。主はみわざをして下さる。

・・・・・・・・・・・
目の前の状況を受け入れられないので、悶々状態だ。受け入れる事
が出来るよう、そして前に進めるよう祈ろう。
★主が与えて下さった2023年を感謝します。本年もどうぞよろしく
お願い致します。今年も、祈りを込めて配信させて頂きます。主の
豊かな祝福をお祈りしております。