2023年02月28日(火) 「みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その 他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので・・」 マルコ4:18
「みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その 他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので・・」 マルコ4:18
種蒔きのたとえで、種は、道ばた・岩地・いばらの中・良い地に落 ちた。その中で、良い地に落ちた種だけが豊かに実を結んだ。いば らの中に落ちた種は、先にあったいばらが伸びて、芽をふさいでし まった。そのため実を結ばなかった。つまり「この世の心づかい」 と「富の惑わし」が、御言葉をふさいでしまうと。 心が満たされない時に、この世を握り締め、この世にしがみついて しまう。人の愛が欲しい、人に良く見られたい、認められたい、良 い人であろうとして、人にしがみつく。又、満たされない心を満た そうと、富を握り締める。富が、幸せを与え、夢を実現させてく れ、生活を保障してくれると思い込んでしまう。 心の満たしを求めて、ますます目に見えるものに執着する事にな る。そうしていて気づかない。自分にとっては命となるものなの で、手放す事など、とても出来ない。だが神はあわれんで下さる。 あわれみの主だ。主は見捨てられる事なく、導かれる。そのために 試練を与え、愛する者を懲らしめられる。懲らしめは主の愛だ。 辛く苦しい中で、初めて真剣に主を求め、自らの状態も探り考え る。自分は、主以外の何に固執し、握り締めて放さないのか、普段 はほとんど気づかずにいる。試練によって、主に真に向き合い、自 分の姿に気づかされ、明け渡して行けるようにされる。懲らしめ は、自分を主の方へ向けてくれる愛だとわかる。 ---------- 主と同じように目に見えるものにも満たされていたいとの思いがあ る。主はこの弱さをご存じで、気づきを与えてくださる。真実な御 言葉を真っすぐに聞き、悟りそれを豊かに育てていきたい。
2023年02月27日(月) 「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心 に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このよ うな人のことです」マタイ13:19
「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心 に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このよ うな人のことです」マタイ13:19
「道ばたに落ちた種」とあるが、種である神の言葉が、道ばたに落 ちた。もし大切なものなら、人々が踏みつける道ばたに、落ちたま ま放っておくだろうか。もし貴重品が道ばたに落ちたらどうだろ う。そのまま放置するだろうか。そんな事はしない。もし放ってお くとしたら、それは捨ててもよい物、どうでもいい物という事にな る。 道ばたの心で聞くなら、神の言葉をそんなに大事なものとは思って いない事になってしまう。気に留めていないので「悪い者が来て、 その人の心に蒔かれたかれたものを奪って行く」と。悪魔が来て、 信じて救われることがないように、御言葉を奪ってしまう。心に入 らないなら、聞かなかった事になってしまう。 心に植わらないなら、実を結ぶ事がなく、自分が変えられる事もな い。主が、エジプトの奇跡の時に、激しい雹を降らせるから、今す ぐ野にあるすべてのものを避難させよ、死んでしまうからと言われ た。その時、主の言葉を恐れた者は、しもべ達や家畜を家に避難さ せた。 しかし、主の言葉を心に留めなかった者は、しもべ達や家畜をその まま野に放置した。その通りに、雹はすべてのものを打った。主の 言葉を畏れるなら、言葉を受け取る。そこから行ないが生まれる。 御言葉に従う時に、初めて自分が変わって行く。私たちの御言葉 への態度はどうだろう。 軽んじているだろうか。ないがしろにしているだろうか。神の言葉 には力がある。愛があり、真実があり、御言葉は、神のわざを成し 遂げて行く。祈って、御霊に助けられて、御言葉を聞いて、示され たことに従おう。素晴らしい祝福にあずかる。 -------------- 御言葉を聞いて、出来るかどうかを頭で考えれば無理だ、自分には 関係ないと思う。そのまま流さず生きて働かれる主の御言葉を信じ よう。御霊の導きのままに受け取ろう。主が成し遂げてくださる。
2023年02月26日(日) 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる のです」ピリピ4:13
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる のです」ピリピ4:13
「神は、御心のままに、あなたがたの内に働いて志を立てさせ、事 を行なわせて下さる」とあり、御心にかなった志を与え、事を行わ せるのは「神」だと。すべての主導が神にある。しかしだからと言 って、私たちは何もしないのではなく、実際に事を行なうのは、自 分自身だ。だがそれは、キリストの力が内に働くのであって、肉の 力・肉の頑張りではない。 必要な力は、主から来る。祈って何もしないのでなく、祈りつつ、 キリストの力によって奮闘する。例えばピアノを習得する時、ただ 祈ってさえいれば、ある日突然、バッハ曲を弾けるようになるので はない。日々、地道な練習を積み重ねる必要がある。語学やスポー ツの習得も同様だ。実際に練習しなければ、どうにもならない。 その習得する力を、主が与えて下さるということだ。練習し続ける 事ができるのも、祈りによる。又、ある時は、自分に出来る事が何 も無い場合がある。例えば、経済的必要に関しては「静かに仕事を し、自分で得たパンを食べなさい」が原則で、御心だ。しかし病気 や色々な事情により、働く事ができない場合がある。その時は、主 が、天から必ず必要を与えて下さる。祈ればよい。 今、何か主から、志が与えられているだろうか。内に力強く働くキ リストの力によって、成し遂げて行ける。主が語られた言葉に、従 う時、主が成し遂げられる。「どんなことでもできる」と。示され た御心に従って行こう。一歩を踏み出そう。 ・・・・・・・・・・ 主が語られたことを、主が成し遂げて下さる。主から示された事な ら、「どんな事でもできる」、何と力強い励ましだろう。みことが を信じて示された一つ一つを祈りつつ実行しよう。そうできるよう、 祈ろう。まず目の前の一つを行なおう。
2023年02月25日(土) 「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちな さい」ローマ12:21
「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちな さい」ローマ12:21
主は、悪に対して悪をもって報いるな、と言われる。生まれつきの 性質は、悪には、悪で立ち向かい、仕返しをしたい。それも何倍に もして、やり返さなければ気がおさまらない。肉は、悪に対して悪 で返すとスカッとする。批判され、傷つく事を言われると、こちら も言い返したなら、その瞬間はスッキリする。やられっぱなしなど、 相手が図に乗ると思う。 肉は快感だが、だが御霊の平安が無くなる。経験あるだろうか。肉 で、怒りにまかせて、やり返すと、その瞬間は良いが、すぐ平安が 失せる。そして暗たんたる気持ちになる。又、それは連鎖を生み出 して行く。相手も激高し、売り言葉に買い言葉となる。「復讐する な」と言われるが、復讐は、更に怒りを膨らませ、憎しみへと増幅 させる。 報復は報復を生む。そこで主は、自分で復讐するな、復讐は神に任 せよと。「わたしが報いをする」と。敵が飢えたら、食べさせよ。 そうするなら、彼の頭に燃える炭火を積むことになる。相手は良心 のかしゃくに耐えられず、恥じ入り、悔い改めに導かれる。善をも って悪に打ち勝て。すべての人に善を図れと。 肉は怒りに燃え、復讐したい。悪をもって悪に報いたい。人間には できない事を言われている。しかし人にできない事が、神にはでき る。これは奇跡だ。自分にはできない事を認め、神の助けを求めよ う。出来ないところに、御霊が働き、御霊の力によって自分が変え られ、不思議を経験する。 ・・・・・・・・・・・ 肉は、相手の肉をも引き出す。怒りと怒りがぶつかるなら、サタン が喜ぶばかりだ。肉に対して、サタンは、肉で応じるように誘惑し て来る。この時こそ、「わたしを呼べ」と言われる主に呼ばわり、 御霊の対応ができるよう、助けを求めよう。
2023年02月24日(金) 「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリスト から離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ5:4
「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリスト から離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ5:4
人間には、主から良心が与えられている。その良心は、罪を犯すな ら、とがめが来る。罪責感が苦しいので、無くなって欲しい。その ために善行をする。善い行ないで、プラスマイナスゼロにして、と がめを消してしまいたい。人を傷つけた時に、良心のとがめが来 る。 その時、平安が無いので、親切な行ないで穴埋めをする。これで良 心のとがめをなだめて、良しとする。時々あるだろうか。しかし、 これは極めて自己中心だ。自分のために、良心のとがめを無くした いだけで、主への愛や、相手への愛などまるで無く、発想も無い。 ある人は犯した罪に対するとがめから、懸命に奉仕したり、献金し ている自分に気づいた。主のために懸命に奉仕して、罪滅ぼしを し、自らの善行で、心をなだめて、偽りの平安を得ようとする。人 は気づかずに、これを繰り返している事がある。そうであれば、主 の十字架は全く必要ない事で、無意味になってしまう。 そうでなく、主の血潮によってのみ、罪は赦され、良心はきよめら れ、どんな時も恐れなく御前に行ける。ただ主の血による。どうだ ろう。主の血に頼っているだろうか、それとも自分のわざに頼って いるだろうか。 自分のわざなら、キリストの死は無意味になり、いたずらに死なれ たことにしてしまう。主の十字架の死を無駄にする事になる。罪 を、善行で、帳消しにするのでなく、絶えず主の十字架のもとへ行 こう。そして主からの真の平安を頂こう。 ------------ 主の十字架によって罪は赦された。実際の生活の中でこの確信に留 まる歩みしかできない。過去の罪のとがめは来るが、その度に十字 架の恵みを感謝していこう。
2023年02月23日(木) 「また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あら ゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますよう に」コロサイ1:10
「また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あら ゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますよう に」コロサイ1:10
よく寒暖計と自動温度調節装置サーモスタットが、信仰生活に例え られる。室内に寒暖計が置かれているだろうか。暑ければ高温で、 寒ければ低温だ。気温の通りに正しくそのままの温度を指し示す。 そのように、相手の対応通りにそのままに反応する信仰生活の事 だ。 相手が柔和なら柔和に、親切なら親切に、冷淡なら冷淡に、いじわ るならいじわるに、怒ればこちらも怒る。そうであるなら相手依存 で、自分の感情や態度、自分の幸せ、不幸せも相手次第になってし まう。自分以外のものに、コントロールされている事になる。どう だろう。 他人の一言で心が暗く重く、嫌な気持ちに支配されて落ち込み、し っかり反応してしまっているだろうか。又、冷ややかな態度になる 寒暖計だろうか。人を見ている時は、主を見ていない。見えるとこ ろだけを見ているなら、御言葉が飛んでいる。ある人が職場の会合 で、発言者と異なる意見を述べた時に、相手に嫌な態度をとられ た。 翌日から挨拶しても、無視された。しかし主に祈り、示され、こち らとしては主と共に挨拶をし続けた。すると自分の心には主の下さ る平安があった。挨拶を続け、仕事上の事で助けられ、感謝を告げ て行った時に、いつしか通常の良い関係にされて行った。 主により寒暖計ではなく、サーモスタットとして下さった事に感謝 だった。まず主に祈り、示しに従う時、御霊がそのようにして下さ る。そして信仰人生に御霊の実を結んで行く。 ------------ 相手の態度で簡単に主の平安を奪われないよう、御霊の導きに従え るよう祈ろう。感情は寒暖計のようにアップダウンする。そこから 主に助けられ、御霊の導く方へいこう。
2023年02月22日(水) 「しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、 幽霊だと思い、叫び声をあげた」マルコ6:49
「しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、 幽霊だと思い、叫び声をあげた」マルコ6:49
弟子たちは、主に「強いて」、無理やり舟に乗せられ、湖にこぎ出 た。すると深夜に激しい嵐に悩まされた。すでに湖の真ん中に出て いたので、岸にも戻れず、悪戦苦闘していた。真っ暗闇の中で厳し い状況にどんなに恐怖だったろう。その時、湖上を歩いて来られた 主を、幽霊だと怯え、余りの恐怖に叫び声をあげた。 皆、主を見て、怯えてしまった。なぜ、主を幽霊だと思ったのだろ う。「パンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていた から」だとある。心が堅く閉じていたことが原因で、主を見ても、 主だとわからなかった。 心の問題だった。なぜなら、主が湖の上を歩くなど、予想だにしな い、有り得ない、考えられない事だった。「彼らの心中の驚きは非 常なものであった」。弟子たちは、主は、偉い先生で、人間だとし か思っていなかった。パンのこと、五千人の給食の奇跡から、何を 悟るべきだったのだろう。 主が、人となられた、まことの神であるということだった。しかし 主が、神だとは理解できなかった。私たちもどうだろう。主を正し く認識していなければ、助けようとして来て下さっても、わからな いので、受け取れない。不信仰は、信仰を押さえ込み、信仰の力を 削いでしまう。主は、罪を赦すと言われる。主は赦して下さる、主 には出来ると信じるなら、失敗しても悔い改める時に、喜びと平安 が戻る。 だがもし信じなければ、赦された気がしないとばかりに、恐れと不 安にさいなまれる。心はどうだろう。閉じてしまっているだろう か。心を開いて、受け取って行けるよう、祈ろう。主が心を導い て、助けて下さる。 ------------ 鈍い、閉じた心はすぐに主も素晴らしい御約束も見えなくする。 自分の狭い思いをはるかに超えた存在であるの主が、波風の中を 渡って来られる。主を呼び、主を見つめていよう。
2023年02月21日(火) 「・・その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた」 ヨハネ4:50
「・・その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた」 ヨハネ4:50
ある役人の息子が重い病気になった。あらゆる方策を講じたが、も う打つ手が無かった。まさに危篤状態だ。主イエスの噂を聞き、父 親は主のもとへ来て、息子をいやして欲しいと伏して願った。する と主はその必死な父親に対して「あなたがたは、しるしと不思議を 見ないかぎり、決して信じない」と言われた。「見ないと」信じな いと。 父親が願ったのだが、「あなたがたは」と言われ、周囲にいた人々 にも言われた。しかし父親は尚も切に、来て頂くよう懇願した。そ の時、主は「帰って行きなさい。あなたの息子は直っている」と言 われ、すると彼は、主が「言われたことばを信じて」帰途につい た。信じたのだ。その途中で、しもべと出会い、息子が直ったこと を知った。 主が、あなたの息子は直っていると言われた同時刻である事に非常 に驚いた。ここで主は「見たから信じる信仰」と「聞いて信じる信 仰」の事を言われ、父親は「聞いて信じ」たのであった。その前 に、主が過越しの祭りで、エルサレム滞在時に、沢山の人々が主の 行われた「しるしを見て」御名を信じた。 ところが主は、その人々のご自身をお任せにならなかった。つまり 信頼されなかった。なぜなら見て信じるなら、奇跡を見る間は信じ るが、奇跡が見られず、そして自分の思い通りでないなら、信じな くなるからだ。その通りに多くの者が離れ去り、主と共に歩かなか った。 父親は御言葉を聞いて信じて、帰って行った。幸いな「聞いて信じ る信仰」に歩めるよう、祈り求めよう。主は取り扱い、導いて下さ る。 ------------ 今はまだ見てはいないけど、主の最善を信じて祈れる事は感謝だ。 待ち望む間も主のご計画と信じたい。たくさんの御約束を聞いて、 信頼する信仰を主に求め、備えられている恵みを受け取ろう。
2023年02月20日(月) 「ペテロはイエスに言った。『主よ。あなたが、私の足を洗ってく ださるのですか』」ヨハネ13:6
「ペテロはイエスに言った。『主よ。あなたが、私の足を洗ってく ださるのですか』」ヨハネ13:6
ある時、主が夕食の席から立ち、手ぬぐいを取り、腰にまとわれ、 一人〃弟子たちの足を洗い、ふき始められた。ペテロの番になる と、「主が私の足を洗って下さるのですか」「決して洗わないで下 さい」と、余りにも恐れ多くて拒んだ。当時のはきものは、今のサ ンダルのようなもので、砂ぼこりで足が汚れた。 彼は、自分の汚れた足を、師に洗って頂くなど、とんでもないと思 ったのだ。常識ではそうだろう。しかし信仰的には違う。それなら 自分の汚い部分を、決して人に見せたくないという事だ。私たちも 醜い部分、弱い部分は、おおい隠したい。誰にも知られたくない。 自分も見たくないし、認めたくない。 しかし主はそこをあらわにし、主が洗わなければ、何の関係も無く なると言われた。その部分でこそ、主との関係が深められるのだ と。私達は見栄えの良いところ、能力のあるところを見せたい。人 に認められたいし、評価されたい。しかし主との関係ではそうでは ない。 弱い、醜い、汚い部分をすべて御前に広げ、明らかにする時に、赦 され、いやされ、新たにされ、力を与えられ、造り変えられて行 く。主は弱さをご存じで、罪を赦し、傷をいやして下さる。主に心 を開き、あるがままを打ち明けて行く事だ。その事により主との関 係が親密にされて行く。 この世の価値観は弱さは悪で、強さが善だ。しかし弱さの中にこそ 主の力が臨み、主により強くされて行く。弱さや罪を認めずに、隠 す事こそ、主との関係を妨げてしまう。「わたしが洗わなければ、 あなたはわたしと何の関係もない」と。汚い足を差し出して、主に 洗って頂こう。 ------------ 愚痴やネガティブな思いも口に出さず主に告げて行くなら祈りだ。 弱い、汚い所を主に差し出し、主の取りあつかいに委ねていこう。 主に洗っていただこう。
2023年02月19日(日) 「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます・・私の道をこと ごとく知っておられます」詩篇139:1
「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます・・私の道をこと ごとく知っておられます」詩篇139:1
ある働き人が大きなイベントで、説教を依頼された。まず準備のた めに心を整え、祈りを始めた。そして祈りの中で、説教の準備にと りかかろうとするが、なかなか上から与えられない。尚も祈り、準 備をしようとするが、どうしても与えられない。その内、期日が迫 って来る中、焦りも出て来る。数日前になっても与えられず、大き な責任を前に、もうどうしてよいかわからない。 一日断食をして、引きこもり、祈りに徹した。自らの心を探られ、 内側を照らされるようにと祈りに祈った。すると、心の奥が示され た。以前、自分は犠牲を払い、一生懸命に労したのに、数名からの 批判と反対を受けた。ひどく傷ついて、その怒り、恨み、赦せない 思いが潜んでいた。自分では認めたくない事なので、心の引き出し にしまい、ふたをしていた。 主の御前に、涙ながらに悔い改め、その一人〃の祝福を心から祈っ た。その時、心がすっきりし、平安にされた。そして御言葉が、上 からのメッセージが与えられた。大きな喜びと共に、豊かに祝福さ れ、そのイベントは終えた。自分で自分の内側はわからない。御霊 の光に照らされた時に認識できる。 「主よ。私を探り、私の心を知って下さい。私を調べ、私の思いを 知って下さい」が祈りだ。何か前に進めない時、祈りが聞かれない 時、何かしっくり来ない時、「心を探り、調べて下さい」との祈り に持って行こう。確かな指針へと導かれる。 ・・・・・・・・・・・・ 主は時に、どうしても欲しい祈りの答えを控えて、大切な事を教え て下さる。内側を探らせ、内にあるものを気づかせて下さる。しば しば動機も探られる。御霊の光でなければ、奥にあるものはわから ない。御手の中で、一歩一歩きよめて、成長させて下さる。
2023年02月18日(土) 「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼 すれば、あなたがたは力を得る。しかし、あなたがたは、これを望 まなかった」イザヤ30:15
「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼 すれば、あなたがたは力を得る。しかし、あなたがたは、これを望 まなかった」イザヤ30:15
当時の強国アッシリヤが、ユダ王国に攻めて来た。強大な勢力で、 すでに北王国を滅ぼし、ユダにまで攻め下り、エルサレムを包囲し ようとしていた。この危急の非常事態に、どうすればよいのか。ユ ダ王は、肉の「はかりごとを巡らし」、エジプトに助けを求めよう とした。主を仰がず、主に拠りすがり、助けを求めるのでなく、目 に見える所で算段し、肉の知恵で動いて行く。 エジプトと同盟を結ぼうとするが、神無しのはかり事であった。 それは「罪に罪を増し加えるばかりだ」と。そして「反逆の子ら」 と、その行為を「反逆」だと言われた。「わたしの言うことをない がしろにし、聞こうとしない、指示を仰ごうともしない」と。私た ちも、突如アッシリヤの脅威が迫るかも知れない。 それは対人関係の悩み、仕事上の困難、経済的困窮・・。その際、主 に向かず、自分の知恵、判断で動くだろうか。焦ってしまい、主が 飛んで、自分の思いで、動いてしまいがちだ。どうすれば良いのか。 「立ち返って静かにすれば、救われ、落ち着いて信頼すれば、力を 得る」と。 まずは静かにせよ、動くなと。動かずに、まず主に呼ばわり、祈り、 そして何より主を信頼し、主を待てと。そうすれば救われる。力を 得る。主は、ご自身に信頼して欲しいと願っておられる。今、自分 のプランで、動こうとしているだろうか。立ち止まり、自分で動か ず、まず主に祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・ 信仰人生で、試練が来るかもしれない、ではなく必ず来ると言って いる。突如の事態が来る。平安に過ごしている中、突然試練の中に いる。主が飛んで、頭はぐるぐる巡り、思い煩いに襲われ、何とか しようとしてしまう。まず動かず、落ち着こう。まず主を仰ごう。
2023年02月17日(金) 「あなたに向かって、私は手を差し伸べ、私のたましいは、かわき きった地のように、あなたを慕います」詩篇143:6
「あなたに向かって、私は手を差し伸べ、私のたましいは、かわき きった地のように、あなたを慕います」詩篇143:6
ここでダビデは「敵は私のたましいを追いつめ、打ち砕き、死んで いる者のように暗い所に住まわせた」と言っている。「霊が衰え果 て、心は内でこわばった」と。ひどく追い詰められた窮状だ。心が こわばるとは、固くなり動かなくなる事だ。悲惨な状況で、心がぼ ろぼろの状態だ。 私たちも信仰人生で、時に、打ちひしがれ、苦しく身動きとれず、 どうにもならない状況を経験する事がある。死んでいる者のように とあるが、心衰え果て、動かなくなってしまうほどの状態だ。ダビ デはこのような苦しみの時に、どうしたかが記されている。 「昔の恵みを思い起こし、主がなさった一つ一つのみわざに思いを 巡らし、静かに考えた」と。深い落ち込みの中で、以前の祝福、奇 跡のわざ、主がして下さった事を思い起こした。時間を取り、主と 向き合い、じっくり考えることが大切だ。以前受けた一つ〃の恵み に、奇跡に、必ず今一度、引き上げられて行く。 結果的に、この苦しみさえも用いられ、ダビデと主との関係が、更 に深められて行った。苦しみの時、主の御前で、祈り、交わり、主 のわざに思いを巡らせ、考えよう。これまで、どんなに良くして下 さっただろう。何度も〃窮地から救い出して下さった主は、これか らも同じようにして下さる。 私たちも苦しみを通るが、それにより、主との個人的関係が深めら れて行く。主のもとに行き、まずは、心の内を主に聞いて頂こう。 そしてこれまでの恵みを考えよう。 ---------- 息も詰まるような試練のときも、振り返れば主の平安にすっぽりと 包まれ、真空状態のまま抜け出た。今の試練も困惑しても、いつも のように主に全てを告げ、頼っていよう。
2023年02月16日(木) 「そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れ た。それは一コドラントに当たる」マルコ12:42
「そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れ た。それは一コドラントに当たる」マルコ12:42
主が、人々が献金する様子を見ておられた。金持ちたちが、次々と 大金を投げ入れていた。そこに貧しいやもめが来て、レプタ二つを 入れた。極めて僅かなお金だ。しかし主は、この女性がどの金持ち よりも沢山献げたと言われた。献金の額を見られたのでは無かっ た。皆は有り余る中から献げたが、彼女はあるだけ全部を献げた と。 彼女はレプタを二つ持ち、その一つを献げても良かった。もう一つ で、翌日何か買えたかも知れない。しかし彼女の主への溢れ出る感 謝は、すべてを献げる行為となって表れ出た。献金とは献身だ。そ れは自分自身を主に献げる事であり、主は明日からの必要も与えて 下さる事を信じたからだった。 主はその信仰を見られ、受け取られた。古い性質は、自分が第一 だ。何より自分が大切で、自分を守り、自分のために確保しようと する。金持ちのように有り余る中から少しは献げるかもしれない。 しかし、私たちも、古い価値観にあるかも知れない。神第一と言わ れるが、まず自分を守ろうとする。 自分で自分を守るので、どこまで行っても不安は尽きず、思い煩い に囚われ、平安がない。自分で何とかしようとするので、ますます 思い煩うばかりだ。そうではなく、まず主を第一にして行く時、主 がすべての必要を備えて下さるので、心は思い煩いから守られ、平 安と喜びが臨む。 ------------ いつの間にか主と一緒に多くの何かに頼って生きている。それが無 くなったらと不安もついてくる。何があっても主が守ってくださる と安堵した気持ちを取り戻したい。一つ一つ明け渡して行きたい。
2023年02月15日(水) 「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白く なる」イザヤ1:18
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白く なる」イザヤ1:18
「自分の過去と他人は変えることができない」との言葉がある。自 分自身を変えられるだけで、他人を変える事は出来ないと。そして 変えられない自身の過去の失敗を思い、くよくよと落ち込み、暗く なる事があるだろうか。普段は目の前の事に忙しく、忘れている が、何かがあると、過去の過失、傷が思い出されるだろうか。 フラッシュバックし、心重苦しくなり、思い煩いと不安に陥る事が あるだろうか。悔い改めたその罪は、主の十字架の血潮によって、 すでに完全に赦されている。「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪 を二度と思い出さない」と。取り返しがつかないと思う失敗、ミス した選択、もしあの時、別の道を行っていたら、この時、違う対処 をしていたら、又、逃してしまったあのチャンス。 今、自分の人生は全く違ったものになっていただろうか・・堂々巡 りしては、くよくよと後悔する。しかし、もし全能の神が、あなた に別の道を歩ませたければ、その時、そう出来なかっただろうか。 心の奥にとがめや不安、迷いがある時、確信持った前進が出来な い。感謝と喜びが奪われる。過去のその所に主を認めよう。 「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしな い」との宣言だ。罪の全き赦しを受け入れ、くよくよでなく、感謝 しよう。赦された気分がしないと、何度も〃同じ事を悔い改める度 に、信仰が失せて行く。 自分の感覚と御言葉と、どちらを選択し、信じるだろう。赦された 事への感謝を献げよう。主の摂理と御心を認め、信仰もって受け入 れよう。受け入れた時に、前に向かって進んで行ける。 ------------ 主の十字架の赦しは、悔やんだり悩んだりした先にある望みではな く、既にこの手にある事実だ。感謝するばかりだ。罪を悔やむ思い は来るが、その度に十字架の恵みを覚え感謝しよう。
2023年02月14日(火) 「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るの であって、光を造られた父から下さるのです」ヤコブ1:17
「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るの であって、光を造られた父から下さるのです」ヤコブ1:17
ここに「試練」と「誘惑」が出て来るが、違いは何だろう。試練は 主から来るもので、私たちの成長のためのものだ。良いもので、逃 げず、避けず、受け止めて行く時、私たちを更に主に近づける。試 練を通して砕かれ、練られ、御子のかたちへと形造られて行く。 試練により忍耐が生まれ、忍耐を働かせる時、成長を遂げて行く。 そして試練に耐える時、いのちの冠を受ける。試練はトンネルの中 だ。このトンネルは必ず出ると信じる事、主は必ず良くして下さる と信じる事が「忍耐」の意味だ。その時、信仰が一段階〃と成長し て行く。誘惑はサタンからのものだ。主は決して悪に誘惑されな い。誘惑の目的は、私たちを主から離す事だ。 誘惑には忍耐するのではない。誘惑は拒否し、その場を去り、逃 げ、 避け、近づかない事だ。罪には一瞬の快楽があり、罪は大変魅力的 だ。それは甘くて心地良い。苦いものなら、近づかず誘惑になどな らない。必ず非常に心地良いものだ。食べるに良く、目に慕わし く、好ましい。しかし「だまされるな」と続く。 すべての良い贈り物、完全な賜物は「上から」来るのだと。光を造 られた父から下る。サタンの誘惑に陥ってしまうのは、良いもの、 賜物を、主が与えて下さると信じられないからだと。だから自分で 何とかし、自分で手に入れようとして、罪を犯してしまう。そこが 自らの問題なら、そのままを主に祈ろう。主は祈りに答え、取り扱 い、導いて下さる。 -------------- 上から来るよいものを待ち望むより、簡単に目の前の刺激に反応さ せ、飛びつく。多くの失敗から学びたい。サタンは狡猾だ。行動に 移る前に祈り吟味し、最善のものを主に求めていきたい。
2023年02月13日(月) 「ペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御 恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずがあり ません』」マタイ16:22
「ペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御 恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずがあり ません』」マタイ16:22
主が「多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえる」と、十 字架の贖いをはっきりと話された。その時にペテロは「そんな事が 起こるはずがない」と主をいさめた。すると主はペテロに向かって 「下がれ。サタン」と言われた。ペテロはその直前に「あなたは生 ける神の御子キリスト」と立派な信仰告白したばかりだった。 主は、この事を明らかにしたのは人間でなく、天の父だと。だがす ぐ後に、今度はサタンの声に聞いている。ペテロが、サタンからの 思いを受け入れたのは、「神のことを思わないで、人のことを思っ ていた」からだと。ローマ帝国の支配から解放してくれるはずの主 が、殺されるなどと有り得ない事だった。 私たちも、思いを吹き込むサタンに欺かれる時は、神のことが飛ん でいて、肉の思いにいる時だ。引っ張られる時は、決まって主が飛 んでいる。目に見える所だけ見ている。その時に、サタンに欺かれ てしまう。自分の損得、又、肉の情に支配され、主無しで判断して しまう。パウロは「今後、人間的な標準で人を知ろうとはしませ ん。 かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもう そのような知り方はしません」と言った。人間的な標準とは、肉の 価値観だ。サタンは巧く肉の価値観、この世の価値観へと誘い、方 向を誤らせ、道を間違わせてしまう。自分は正しいと思い込むの で、やっかいだ。絶えず御声に聞き、祈り、主に拠り頼んでいよ う。御霊が導いて下さる。 ------------- 決してあってはならないとの強い思い込みは簡単に主の御心を吹き 飛ばして前に出てくる。何もわからない惑わされやすい者だ。いつ も主に祈り頼り、聞いて行こう。
2023年02月12日(日) 「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になって しまった」創世記17:26
「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になって しまった」創世記17:26
主は、ソドムとゴモラを、余りにも酷い不道徳と堕落のため滅ぼそ うとされた。しかしアブラハムの執り成しの祈りにより、ロトと家 族を救い出すために御使いを遣わされた。御使いは、ロトに家族を 連れて逃げるようにと言った。だが娘婿たちは、この世を享受し、 この世の名誉、地位、栄華にどっぷり浸かったロトが、町が滅びる などと言っても到底信じられない。冗談だと思った。 一刻を争う中、御使いに、妻と娘たちを連れて逃げよと促され、そ の時に「後ろを振り返るな、立ち止まるな」と警告された。にもか かわらずロトの妻は振り返った。すると塩の柱になった。ただ振り 返っただけで、何で塩の柱に?と思うかもしれない。しかしその事 は、ロトの妻の本性を明らかにした。 御使いは「後ろを振り返るな」と命じた。だが、彼女は拒否し、従 わなかった。それは主への不従順だった。彼女はこの世への強い未 練があり、後ろ髪を引かれた。この世を愛し、世のものに執着した。 彼女の心がそこにあり、世が宝であった。心がそこにあったから、 振り返った。私たちはどうだろう。 心では本当は何を愛しているだろう。又、振り返りに関して、過去 の事はどうだろう。過去の失敗や、傷に執着していて、自己憐憫や 不満、赦せない思いで、ぐずぐずと後ろを振り返っているだろうか。 主が前に進ませようとして下さっている。すでに赦されて、主が二 度と思い出さないと言われているのに、その失敗をうじうじと振り 返っているなら、赦しを感謝し、主を見上げて前に進もう。 ・・・・・・・・・・・・ ロトの時代にあった事と(ルカ17:28)「ロトの妻を思い出しなさい」 と言われ、自分の命を救おうとする者はそれを失い、それを失う者 は保つと。心の奥底にあるものを御霊に照らして頂いて、光の中に 置かれ、成長させて頂きたい。
2023年02月11日(土) 「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」ルカ18:13
「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」ルカ18:13
パリサイ人と取税人が、祈るために宮に来た。パリサイ人は、心の 中で「他の人々のように、ゆする者、不正な者、姦淫する者でなく、 ことに取税人のようでない事を」感謝した。神に感謝を献げたのだ が、実際は神の御前にいない。見ていたのは「他の人々」であり 「取税人」だった。 パリサイ人はゆすらず、不正せず、姦淫もしない、正しい人だった。 だが、誰しも表向きは立派でも、心の中は罪だらけだ。あの人、こ の人より自分はましと、人との比較に自分を置く時、自分の罪深さ が見えなくなる。逆に優越感でいっぱいになり、人を見下して行く。 神の光の中でなければ、罪は見えない。光に照らされて初めて、自 分の罪がわかる。 取税人は、自他共に認める罪人であった。わかっていて税金を搾取 していた。遠く離れて立ち、目を天に向けようともしなかった。人 との比較など思いも及ばず、神の御前に、ただただ自分の罪が見え て、自分の罪深さが見えるばかりだった。パリサイ人も目に入らず、 自分の胸を叩いて「こんな罪人の私をあわれんで下さい」と祈った。 ただ神のあわれみを求めた。この取税人の祈りは聞かれ、罪赦され 義と認められて家に帰った。平安と喜びに満たされた事だろう。こ の箇所を知るや、今度は、自分はパリサイ人のようでない事を感謝 しますと、思ってしまいそうだ。が、こんな罪人の私をあわれんで くださいと、どんな時でも祈れて、主の血潮のゆえに、耐えず御前 に近づける事は何と恵みだろう。 ・・・・・・・・・・・ 罪を犯してしまう、何も出来ない者が、ただただ主のあわれみに すがる、それを信仰だと言って下さる。何と感謝な事だろう。逆に 自分は正しいと、自己正当化している時に、どうか御霊が気づかせ て、導いて下さるように。
2023年02月10日(金) 「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかな かった」マタイ25:3
「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかな かった」マタイ25:3
十人の娘が出て来る。花嫁サイドの娘たちで、花嫁の家で、皆で、 花婿が到着するのを待っていた。だが花婿は思いのほか遅くなり、 夜中になった。そのため十人とも、うとうと眠ってしまった。する と突然、花婿が到着し「迎えに出よ」と叫ぶ声がした。五人は自分 のともしびと一緒に、予備の油を用意していた。 ところが他の五人は予備を用意していなかった。もう今にも火が消 えそうで、油を分けて欲しいと頼む。だが分けるほども無いので、 店で買うようにと言われる。急ぎ買いに走り、戻ると、もう花婿到 着後で、祝宴の戸が閉じられ、入れなかった。 明暗がはっきり分かれてしまった。賢い五人と愚かな五人のどこが 違ったのだろう。どちらも、ともしびを持ち、どちらも、うとうと 眠っていた。賢い五人は居眠りしなかったわけではない。違いは、 予備の油を持っていたかどうかだった。花婿は再臨のキリスト、娘 は私たち一人〃だ。油は聖霊で、その油は、上げたりもらったりが 出来ないものだ。 少し分けて上げれば良いのにと、思ってしまいそうだが、聖霊を分 け与える事など不可能だ。大切な事は、今日の生活を天につなげた ものとして、天に帰り、主にまみえる事を常に踏まえて生きる事 だ。それは、この世にいる間、聖霊を求め、聖霊の満たしを求めて 生きる事であり、地道に日々主と交わり、主との信頼関係が培われ て行く事だ。 それが油を準備しておくという事だ。自分と主との関係を、人から もらったり上げたりなど不可能だ。普段の生活において、そこにし っかり目を留めていよう。 ------------ 昼間はわからなくても闇がくれば油の不足ははっきりしてしまう。 日々の信仰生活、いつも主に助けを受けながら、御霊の導きに敏 感でいたい。信仰の油を絶やすことなく目覚めていよう。
2023年02月09日(木) 「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神をそれを、良いことの 計らいとなさいました」創世記50:20
「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神をそれを、良いことの 計らいとなさいました」創世記50:20
ヨセフは、ヨセフを妬んだ兄たちの悪意により、エジプト行きの隊 商に奴隷として売られた。実際は「兄たちが」ヨセフを売った。し かしその事実について、全く別の見方をしている。それは「神が」 自分をエジプトに遣わされたのだと。ヨセフが、予めエジプトへ行 く事により、飢饉からヤコブ一族の命を救うためだったと。 だから、兄たちに心を痛めなくてよいと。すべては主のご計画と、 事実を信仰によって受け取り直している。「あなたがたは、私に悪 を計ったが、神はそれを良いことのための計らいとされた」。「あ なたがたは、私に悪を計った」と事実をはっきりと言っている。故 意の悪意だと。だが神は、それを良い事の計らいとされた。 人の悪意さえも、深いご計画、摂理のもと、神がそこに働かれて、 万事を益とされる。今はわからないが、後でその意味がわかる。あ なたも人の悪意で傷つけられただろうか。人から不当な、理不尽な 扱いを受けただろうか。神はそれを良い事に結果させて行くと。人 の故意の悪意ですら、あなたのために良い事とされるなら、恐れる 事は何もない。 それにより練られ、きよめられ、成長させられ、信仰が培われて行 く。主のかたちへと変えられて行く。その悪意があったからこそ、 今、この大きな祝福を受けていると、必ず言えるようにされる。 状況でなく、人でなく、「神」を主語に置き換えて、事態を受け取 り直そう。大きな平安に包まれる。 ------------ つらい対人関係や環境は人生を圧倒してくるように思えるが、見て いくところは、神との関係だ。今は理解できなくても神のご計画の 深さを信じよう。後の計画のために必ず用いてくださる。
2023年02月08日(水) 「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民 イスラエル人をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10
「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民 イスラエル人をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10
モーセは長年、何も無い荒野で、羊飼いをしていたが、突然、主か ら召しを受ける。「パロのもとに遣わす、民をエジプトから連れ出 せ」と。モーセは、この老年の私が?なぜ?と思ったろう。「私は いったい何者なのでしょう」と。なぜ、民をエジプトから連れ出さ なければならないのかと。 何で、一介の羊飼いが、とんでもない大それた事をしなければなら ないのか。モーセはもう80歳だ。以前王子の時に、自分こそはと思 い、民を救出しようとしたが失敗した。そのため荒野に逃亡してい た。この老人に今さら何を?今の自分には力も無く、地位も財も人 脈もない。 だが主は、尻込みするモーセに「わたしはあなたとともにいる。こ れがあなたのためのしるしである」と約束され、説得して行かれ る。「わたしがあなたと共にいる」これが「しるし」だと。「しる し」とは、証拠であり、保証だ。これ以上の保証がどこにあろう。 これが現実であるとは、何と力強い事で、これ以上は無い。モーセ は、民をエジプトから救い出す事、これが使命であり、このために 生まれて来た。主はモーセを荒野で砕かれ、練られ、整えられ、用 いられた。私たちも同様だ。 「わたしがあなたを遣わす」の通り、一人一人に主からの使命が与 えられている。モーセと同じく、私は、一体何者と思ってしまうが 「わたしが共にいる」との保証がある。主は私たちを整え、用い、 主が成し遂げて下さる。用いていだだこう。 ------------ 主の恵みによって選ばれ今日も支えられている。自分を見るなら尻 込みするばかりだ。でも確かに主が共にいてくださる証しを心に持 っている。主に用いていただこう。
2023年02月07日(火) 「あなたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたを選 び、あなたの任命したのです」ヨハネ15:16
「あなたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたを選 び、あなたの任命したのです」ヨハネ15:16
あなたも落ち込む事があるだろうか。ある人が、祈った結果、主の 導きを確信したので、ジュニアクラスの奉仕にあずかった。祈りの 中で準備し、働きを始めた。だが、すぐに壁にぶち当たってしまっ た。思春期の子どもたちは難しく、反発してくる子たち、又、やる 気の無い、無気力そうな子たちもいた。 親に言われて、渋々出席している子たちに、自分自身もまだ若く、 自分とは違う彼らに、どう対応して良いかわからなかった。何とか 導きたいと思うのだが、空回りし、うまく行かなかった。どうすれ ばよいのかと、落ち込むばかりだった。自分はだめだと、心は重 く、本当に導きだったのだろうかと、主の御前に祈りに持って行っ た。 自分の思いも、気持ちを、何もかもを主に告げて祈った。自分の無 力、自分は向いていないのではないか、導きは間違いだったので は、主に祈った。そして静まっていた時に、「わたしがあなたを選 び、あなたを任命したのです。それはあなたが行って実を結び、そ の実が残る・・」の御言葉が心に響いて来た。自分はだめだとの思 いに「わたしがあなたを選び、任命した」と。そして必ず実を結 び、実が残ると。 自分が、自分が、と自分の頑張りに気づかされた。自分でなく、 「わたしが」との主がされるとの信仰が与えられた。心が楽に平安 になり、対応の一つ一つを主に頼り、祈って行けば、大丈夫だと思 えた。心新たに、主と共にあずかって行く者とされた。とにかく主 のもとへ行こう。主は必ず導いて下さる。 ------------ 自分が主を信じてここにいるのではなく、主が愛とあわれみのゆえ に私を選んでくださった。自分が自分がと背負いこみ、しんどくな るとき、不安なとき、ここに立ちかえれる。
2023年02月06日(月) 「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを 聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」 Tヨハネ5:14
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを 聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」 Tヨハネ5:14
神に出会うまでは、神無しの人生を生きて来たので、この世の価値 観が深く根づいている。どこまでも軸が自分にあり、自分軸で考え てしまうし、そうしか出来ない。それが普通の状態で生きて来たか らだ。そのためにどうしても、「自分のための神」になってしま う。 「自分が幸せになるための神」「自分がより良い人生を送るための 神」「自分が楽になるための神」「自分が人格者になりたいための 神」その底は、どこまでも「自分」であって、「初めに神」ではな く、「初めに自分」になってしまう。「自分」のための神だ。 しかし、そこには本当の喜びである「御霊の喜び」が無い。真の平 安も無い。そして聖書の信仰は、神中心なので、自分中心でとらえ ると、なかなか神も、聖書もわからない事になる。又、自己実現、 自己充足等は、何も悪いことに思えないので、そのための神として いても、ほとんど気づかない。 しかし御霊が働かれ、信仰生活を導いていて下さるので、御霊によ り少しづつ〃、自らの姿を見せられる。気づきを与えて下さる。教 理的には、神の栄光のために生きるのだが、実は、自分の栄光と自 分の願い、要求のみで、神のお心、神の栄光など発想にも無いこと に気づく。 そこから成長が始まって行く。自らの求めを、神の御心に沿ったも のへと求め始め、自分が変えられて行く。主の栄光を求める事を学 ばせられて行く。その時に、主のお心と自分の思いが合致するの で、自らの心の願いが叶えられて行くことを経験する。 ------------ 御霊によって自分の反応がはっきりと知らされる。それでも更に主 へ近づくようにと御霊は導いてくださる。一つ一つ祈りの結果を主 に明け渡していこう。
2023年02月05日(日) 「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であ ることを行ないました」詩篇51:4
「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であ ることを行ないました」詩篇51:4
サウル王とダビデ王は、どちらも王であった。しかし二人の最後は 天と地ほどに、かけ離れたものとなった。どちらも罪を犯したのだ が、サウル王は神から退けられてしまい、ダビデ王は祝福へと進ん だ。ダビデはバテシバとの姦淫、その夫のウリヤ殺害という重罪を 犯した。 サウルは、サムエルを待たないで、祭司しか献げられないいけにえ を献げ、又、アマレクを聖絶せよとの命令にそむき、聖絶せずに最 も良いものを残した。ダビデはナタンによる罪の指摘に「私は主に 対して罪を犯した」と言い、サウルはサムエルからの罪の指摘に 「私は罪を犯しました」と言った。 双方、言葉にすれば同じだが、ダビデは「主に対しての罪」と、 心底の悔い改めに対し、サウルは「しかし私の面目を立てて下さい」 と言い「面目を立てて」の方が本心であった。サウルに悔い改めは 無かった。ダビデは詩篇で「私の罪は、いつも私の目の前にありま す」「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪 であることを行ない」と逃げ隠れしなかった。 だが、サウルは罪に向き合う事もなく、言い訳に終始し、自分の罪 を何と兵士や民のせいにした。自らのプライド、名誉の挽回が重大 事だった。サウルは非常に悲惨な最期を遂げた。ダビデは悔い改め、 罪が赦され、平安にされた。二人共、罪を犯したが、結末は天と地 ほどに違ってしまった。罪は犯してしまうが、主に向き、すぐに主 のもとへ行こう。 ・・・・・・・・・・・ 本当にサウルの最期は悲惨だ。Tサムエル31:4。剣の上に身を投げて 自害した。ダビデも最初は隠ぺいしていたが、罪の指摘に悔いくず おれた。罪を認め、悔い改める時、完全に赦され、癒される。主が、 二度と思い出さないと。御霊の示しや促しに従おう。
2023年02月04日(土) 「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしては ならない」創世記22:12
「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしては ならない」創世記22:12
アブラハムは、主から示され、生まれ故郷を離れ、父の家を出て、 主の示す地へと旅立った。その時は75歳で、主の約束の子イサクを 授かったのは25年後、100歳の時だった。待ちに待ち続けて、与え られた愛する息子だった。目に入れても痛くないほど、その思いは どんなに深かったろう。穏やかな幸せな日々だったろうか。そんな 中、突然の厳しい試練が臨んだ。 「神はアブラハムを試練に会わせられた」とあり、はっきりとこれ は「試練」だと言われている。モリヤの山で、イサクを全焼のいけ にえとして献げよと。全焼のいけにえとは、祭壇の上で動物を焼き 尽くし、主に献げるものだ。最愛のイサクを献げよと。この時のア ブラハムがどんな思いで受け止めたのか、感情は、何も書かれてい ないが、彼は神を信じ、神を愛していた信仰の人だ。 その証拠に神に従うために、「翌朝早く」モリヤへと出発した。そ の行動が物語っている。神が「アブラハムよ」と呼ばれた時「はい、 ここにおります」と答え、「従うためにここにおります」というの が、神とアブラハムの関係だった。アダムは、神の呼びかけに身を 隠したが、アブラハムはそうでなかった。 イサクが「いけにえの羊は?」と問うと「神ご自身が備えて下さる」 と、彼の信仰だった。実際、刀を取ってほふろうとした時に、主 は止められ、代わりの羊がそこにあった。試練は必ず来るが、同時 に必ず主の備えがある。愛なる主に「ここにおります」と答えられ るよう、地道な主との交わりを大切にし、祈って行こう。 ・・・・・・・・・・・・・・ 「神は試練に会わせられた」と言われ、はっきり試練があると、そ れは神から来ると。「主は、あなたを苦しめ、飢えさせ」申8:3と。 神からのものとして、受け入れられるよう祈りたい。その時に初め て、様々な主の備えを、霊的にも物質的にも経験して行ける。
2023年02月02日(木) 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている・ ・」エレミヤ29:11
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている・ ・」エレミヤ29:11
ある人の証しだ。子どもが、ある事態でつまずき挫折した時に、子 どもは今までの鬱積が爆発し、道をそれて行った。非行に走り、暴 走族に入り、家を出た。その後、警察沙汰を起こし逮捕された。親 は悩み、苦しみ、打ちのめされた。なぜこんな事にと、心で子ども を責め、怒りも湧く。 又、自分自身も責め、落ち込んで行く。苦しみと悲嘆の中で、どう にも出来ず、主の御前に行き、心をさらけ出し祈りに祈った。絶望 だった。落胆、怒り、嘆き、悲しみ・・、ちぢに乱れた心の内を、 そのまま主に持って行った。 重い心で主の御前におり、祈り続けていた時に「わたしはあなたが たのために立てている計画をよく知っている」「すべての事を働か せて益として下さる」「イエスは、しようとしていることを知って おられ」と御言葉が臨んで来た。「神を信せよ」と。どん底で真っ 暗だった心に光が射して、主を信じようとの思いが与えられた。 世間体、人の目が気になるプライドの高い自分、子どもを変えよう 〃としていた自分に気づかされ、変わるべきは自分と、心底の悔い 改めが与えられた。自分が砕かれた。「主よ。私をあわれんで下さ い」の祈りだった。自分が変えられ、子どもに対する思いも、見方 も変えられた。 主に、子どもをゆだねる事ができて、心に平安が来た。子どもをあ るがまま受け入れる事ができ、自分でなく、主のみわざだった。す るとその後、子どもは変わって行き、主のもとで新しい歩みに導か れた。親子共に、どん底の中で主のあわれみは尽きなかった。 ------------ 自力で歯をくいしばって耐え忍んでいると、いつか人も自分も責め てしまう。主に委ねてからの忍耐は、主の時を待ち望む力も主が与 えてくださる。主の良い時に必ず益が成る。平安を受けよう。
2023年02月01日(水) 「・・イエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、 彼は出て行って、激しく泣いた」マタイ26:75
「・・イエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、 彼は出て行って、激しく泣いた」マタイ26:75
主を裏切った二人の人物が出て来る。ペテロとイスカリオテのユダ だ。どちらも主を裏切った。しかもペテロは三度も否み、呪いをか けて誓ってまでも。二人共、主を裏切ったが、最後は天と地ほど違 った。ペテロは、主の赦しを受け取り、回復させられ、主の昇天 後、諸教会のリーダーとされ大活躍した。 一方ユダは、主を銀貨30枚で売り、「罪のない人の血を売った」と 後悔し、祭司長、長老たちのもとへ行き、その銀貨を返した。しか し「私たちの知ったことか。自分で始末しろ」と言われ、首をつっ てしまった。ペテロとユダは、こんなにも大きく違ってしまった。 ペテロは裏切った時に、主を仰ぎ、主の言葉に向いた。その時、主 の言葉に思い当たり、号泣した。主の遺体が無いとのマリヤの知ら せに、急いで走って墓まで行った。ガリヤラへ行けとの、主の指示 に従い、指示通りにガリラヤへ行った。取り返しのつかない大変な 事をしてしまったが、しかし、主のもとを離れなかった。 ユダは後悔した時に、主のもとへ行かず、律法学者のもとへ行っ た。主を求めず、主に頼らず、自分で決着をつけてしまった。「自 分で始末せよ」これは悪魔の攻撃であり誘惑だ。主のもとに行く事 を阻止し、主に頼らせない。私たちにも来るだろうか。 自分で何とかしなければ・・、どうしよう・・。失敗した時に、自 分で、自力で・・、頭はグルグル回り、その時、担いきれず押しつ ぶされてしまう。絶望感に襲われる。そうでなく「わたしのところ に来なさい」と、どんな時にも常に招かれている主のもとへ行こ う。即、行こう。罪が赦され、平安へと導かれる。どんな時にも希 望がある。 ------------ 何度失敗しても主のご愛は少しも変わらない。主のもとにしか行く ところはない。サタンが絶望的な声を持ってきても、自分に何の力 もない事を知っているからこそ、主にすべてを委ねる希望がある。