2023年03月31日(金)

「寄るベのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善 行に報いてくださる。」箴言19:17



同じく箴言で、寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼
ぶ時に答えられないとある。困っている人を目にしても、関わりた
くないと思ってしまう。良きサマリヤ人に出て来る、祭司やレビ人
のようだ。倒れている人を見て、向こう側を通り過ぎてしまう。

言い訳は幾らでも出て来て、自己正当化してしまう。面倒だろう
か。忙しいし、時間を取られたくない、労力も金銭的な犠牲も払い
たくない。肉は、メリットの無い事はしたくない。しかし、困って
いる人に耳を閉じてしまうと、自分が祈る時に答えられないとあ
る。祈りが聞かれなくなってしまう。これは大変な事で、重大事
だ。

逆に「ことばと口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもっ
て愛そう」それにより、神の御前に心を安らかにされる。そして大
胆に御前に出る事ができ、求めるものは何でも神からいただける。
自分を献げ、行ないと真実をもって愛して行くなら、祈りが聞かれ
て行くと。そして、困っている人に施しをするのは、主に貸すこと
になると。

主がその行ないに報いて下さる。主が償って下さるのだと。祈りは
聞かれ、求めるものは何でもいただけて、又、主にお貸しするの
で、主が報い、償って下さるとは、何という祝福だろう。主との幸
いな間柄は、御霊の喜びと平安をもたらされる。主からの示しがあ
れば、従おう。豊かな祝福を刈り取ることになる。
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いつも自分の事に精一杯だが、困っている時に差し出された助けを
ああ神様だ!と感謝したことはないだろうか。主の御用に用いられ
る祝福に与ろう。主の喜ばれる方へ歩もう。


2023年03月30日(木)

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさ せ、事を行なわせてくださるのです。」ピリピ2:13



主は、私たちの心に働きかけ、ああしよう、こうしようとの志を与
えられるとある。それは御心にかなった事だと。そして、主がその
志を行なわせて下さる。つまり、それを成し遂げられるのは、自分
ではなく、主であると。勿論、実際、自分自身が身体を使い、行な
うのであるが、それを成し遂げる力は、主から来ると。

それゆえ、もし主から何かの示しを受けるなら、自分には能力がな
い、知恵がない、時間がない、財がない・・と悩む必要はない。主が
語られた事は、主ご自身が実現する力を下さる。スポーツを習得す
る時、その方法のレクチャーを受け、ノウハウを学び、それだけ
で、出来るようになるのではない。実際にそれを用いて訓練しなけ
れば不可能だ。練習を積み重ねて行く時に、上達して行く。

私たちも、何かを語られ、示された時には、祈りと共に、実行が大
切だ。導きを受けているが、踏み出す勇気がなく、不安と恐れで、
いつまでも祈り状態だろうか。祈りが、隠れみのになっているだろ
うか。そうなら、祈りの座から立ち上がり、一歩踏み出そう。モー
セも紅海の前で「わたしに向かって叫ぶのか。前進せよ」と言われ
た。

従った時に主の素晴らしい栄光を現された。私たちも従う時、いの
ちの言葉をしっかり握って、人々の中で、世の光として輝くことが
できる。主の証しとされて行く。そして自分の努力したことがむだ
でなく、苦労したことも無駄でなかったことが、かの日に誇れる。
何と幸いだろう。
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主によって次の一歩が示されているのは大きな祝福だ。従えない所
は何処だろう。祈り初めたい。主のご計画は必ず成し遂げられる。
主に信頼して踏み出すだけだ。主の御声に従おう。


2023年03月29日(水)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」Tペテロ5:8




悪魔は、神と同じ事を真似て来る。主が御声をかけて導かれると、
悪魔も同様に語りかける。朝起きた時から、夜寝るまで、ずうっと
悪魔は語りかけている。悪魔の攻撃だ。無防備に、ぼお〜としてい
ると、悪魔の声に引きずられて行く。朝起きるや、悪魔はその日の
不安材料、思い煩いを思い起こさせるだろうか。あの事・・、この事
・・、心は暗くなり、気持ちは沈む。

悪魔だと気づかなければ、思いのままに、落ち込ませられ、思い煩
いでいっぱいにされ、ほんろうされる。主と共に、主を喜び、生き
生きと御心を行なうはずの一日が、どんよりと沈んだままだ。絶え
ず、攻撃が来ている事に心していよう。「力の限り、見張り、あな
たの心を見守れ」、心を見守れと言っている。

それも「力の限り」と。そもそも自分の心を見張るなどという発想
が無い。力の限り、見張れるよう助けを求めて祈ろう。見張ってい
ると、悪魔が、現在の煩いや過去の失敗や先の不安等、様々な思い
の火矢を放って来る事に気づく。人から傷つけられた事、自分の手
痛い失敗、恥ずかしい罪、様々心を乱す。

ある人は、ある状況で、突然昔の事が思い出され、傷つけられた怒
りと恨みがよみがえった。しかし悪魔だと気づき、祈り、その思い
を拒否し受け入れなかった。すると心が平安に守られる事を経験し
た。絶えず悪魔の火の矢が飛んで来る。心を見張っていよう。そう
できるよう祈ろう。
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励ますようでいて、もっと頑張れ、昨日より頑張れとの思いを吹き
込んでくる。お前は駄目だと追い込まれやっとサタンだと気づく。
御霊の励ましとは真逆の破壊的な思いだ。主の希望や喜びを奪われ
ないよう主を見上げ、心を見張ろう。


2023年03月28日(火)

「この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡され る。」Tサムエル17:47



信仰の偉人たちが、信仰の戦いを戦った。時に、その方法は、人間
的には考えられないようなものだった。エジプトを出たモーセと民
は、エジプト軍の追っ手が迫り、前は紅海、後ろは精鋭軍隊の追っ
手だ。戦うすべも知らない民に、立ち向かう事など不可能だ。前進
も後退も出来ない、どうすればよいのか。絶体絶命だ。

だが主はモーセに「前進せよ」と命じられた。これは「主の戦いで
あり、主が戦う」と。モーセが、エジプト軍と戦ったのではなかっ
た。又、ヨシュアには、目の前に立ちはだかったエリコの城壁があ
った。難攻不落だ。主は、町の周りを回るよう命じられた。6日間
町の周囲を1度周り、7度目に7度回り角笛を吹き、大声でときの
声をあげよと。

奇抜な不思議な方法で、エリコの城壁は崩れた。人の力は全く無
く、主が崩された。又、少年ダビデは、強敵巨人ゴリアテを相手
に、石を打ち、倒した。全く勝ち目が無かったのに。彼らが戦いに
勝利したのは、自分の方法や力でなく、主の御声を聞き、ただ主の
方法に従ったゆえであった。人間的考えでは、到底あり得ない不可
思議な方法だった。しかし主の命令通りに従った時に、大きな奇跡
を見た。

「主があなたがたのために戦われる」まさに人間ではなく、主の戦
いであった。私たちも時に理解不能な事がある。しかし主を信じて
従う時、主のみわざを見せられる。窮地で導かれ、心底拠り頼む時
に、みわざを見る。今、導きがあるなら、信仰により一歩踏み出そ
う。主が戦って下さるのだから。
------------
自分の経験や方法で戦おうとする思いとまず戦い、祈りたい。人知
をはるかに超える主の戦いの邪魔をしていないだろうか。何もでき
ない時が全てを委ねる好機だ。主の勝利を拝しよう。


2023年03月27日(月)

「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すな わち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによるこ とです。」エペソ1:7



主の十字架は、罪の赦しの十字架だった。祭司長や律法学者たち
は、妬みにより、主を十字架につけて行った。彼らから、たきつけ
られ、人々は群集心理でとどまる事なく、バラバでなくキリストを
十字架につけるよう、総督ピラトに要求した。ピラトは、人々の証
言も一致せず、主に罪が無いことがわかっていたのに、優柔不断
で、みすみす十字架に送った。保身のためだった。

彼らは自分が何をしているのか、知らなかったわけでなく、狡猾な
やり口で、主を抹殺しようとした事をわかっていたろう。主を殺し
てしまいたかった。だが真の意味では、彼らは自分たちが、どんな
に空恐ろしい事をしているのか知らなかった。神の子を殺害しよう
としていたのだから。そんな彼らのために、主は十字架上で、赦し
を祈られた。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で
わからないのです」と。ある人が、言葉で人を傷つけてしまった。
悪気は無かったと言い訳したが、自分の心は知っていた。相手が嫌
いだったので、相手を傷つけたくてそうした事を。自分の罪だっ
た。私たちも、数知れない罪を犯して来た。

陰険、狡猾な罪、恥ずかしい罪・・すべて主はご存じで、それを赦す
ための十字架だ。自分でも気づいていない、罪の恐ろしさがわから
ない罪。「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」
と。御霊により、初めて罪に気づける。罪が赦されるとはどんなに
感謝な事だろう。今一度、覚えよう。
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大きな罪には罪責感があっても、嫌いな人は心で裁いて無視して通
り過ぎる。この価値観で生きてきた。今もなおすぐに迷い、何をす
るかわからない罪人だ。日々主の十字架の恵みを覚えて歩みたい。


2023年03月26日(日)

「イゼベルは・・『あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちよ うにしなかったなら・・私を罰せられるよう』。彼は恐れて立ち」列 王19:2



エリヤはバアルとの対決で大々的勝利をし、主が奇跡を成された。
激怒したイゼベルはエリヤ殺害命令を出す。するとエリヤは恐怖で
逃げ、死を願ったのだ。あれほどの戦いに勝利して、なぜ怯えるの
か?と思うが、し烈な霊の戦いに心身消耗しきっていた。人は機械
ではない。又、霊的勝利後は、特に要警戒と言われる。勝利に喜び、
安堵し、油断している所にサタンが牙をむく。

腹をすかしたライオンが襲いかかる。成功の後こそ、身を引き締め、
へりくだり、更に主に拠り頼む必要がある。あの勇敢な彼が、怯え
た原因は、イゼベルの言葉だった。主の言葉でなく、イゼベルの言
葉の方を取ってしまった。サタンの攻撃だ。受け入れるべき言葉と、
聞き流し、拒否すべき言葉がある。

私たちも心が重苦しく、沈み込む時、主ではなく、サタンの言葉を
取っている。主はエリヤを責めず、叱責されず、心身休息させられ
た。深く眠らせ、食事を与え、充分に休ませられた。心身消耗しき
っている時は、何よりまず休息が必要で大切だ。十分な睡眠と食物
で力を得て、回復したエリヤは、ホレブの山に行き、ほら穴にいた。

すると主は、山の上で主の前に立つよう命じられた。主の御声は極
めて小さく、細い。そのかすかな細い声に、しっかり耳をそばだて
て行くと、主はエリヤの思い違いを正し、新たな使命を授けられた。
再び、主の使命を果たすべく立ち上がらせられた。主は私たちがダ
ウンする時にも、同様に回復させ、新たな力を下さる。

・・・・・・・・・・・・
どの言葉を受け入れるかは、大切で重要だ。ネガティブな言葉を受
け入れて行くと、心が暗闇に落ち込んで行く。サタンの攻撃だ。サ
タンからの言葉を拒否し、御霊からの言葉を受け入れて行く時、心
は平安に守られる。波風逆巻く中も、心は守られる。


2023年03月25日(土)

「そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、『確かにあな たは神の子です。』と言った」マタイ14:33


主は弟子たちを「強いて舟に乗り込ませ」とある。弟子たちの意志
でなく、無理やりに、強制的に乗せられた。主は、時に強いられる。
ある婦人は、仕事もしていて多忙で、PTA役員になりたくなかっ
た。しかしくじで当たり、仕方無く引き受ける事になった。自発的
にでなく、主から強いられた事だった。

時間的、労力的にきつくて大変で、祈らずには出来なかった。だが
その中で、何と役員の中で証しができて、救われる人が起こされた
のだ。ある人は、バイトを祈っていて、導かれたのが、印刷会社の
募集だった。気が進まず、嫌々だった。好きでなく、仕事は辛かっ
た。他の仕事に移りたかったのだが、祈って与えられた場所のため、
祈りつつ忠実に働いた。

すると身についた印刷技術が、何と教会の働きに大きく用いられた
のだ。強いられた事だったが、そこに大いなる恵みが潜んでいる。
あなたも今、主から「強いて」舟に乗せられているだろうか。しか
し、その所で素晴らしい恵みを経験する事になる。どれだけ奇跡を
見ても、弟子たちは主がどんなお方かが、なかなかわからなかった。

しかしこの時、弟子たちは、この事を通して、人間の先生ではなく、
自然界をも支配する神だと知る。結果的に、「イエスを拝んで」
「確かにあなたは神の子」と告白するに至った。私たちもしばしば
強いて事をさせられる。が、その事によって、主がまことに生ける
神であることを知ることになる。今、強いられている御心があるな
ら、従おう。素晴らしく主を知ることになる。

・・・・・・・・・・・・
選択したわけでなく、試練はやって来る。強いて乗り込ませられる。
しかし振り返る時に、試練を通して豊かな学びを得る。様々な霊的
な事柄を教えられて来た。試練でなければ、得ることができない霊
的学びだ。主が確かにまことの生ける神である事を知って行く。


2023年03月24日(金)

「・・盟約を結んで後三日たったとき、人々は、彼らが近くの者たち で、自分たちの中に住んでいるということを聞いた」ヨシュア9:16



祈らずに、自分の思いで事を始め、失敗した経験があるだろうか。
ある人は高額バイトに飛びついた。確かに高額だが、早朝出勤に遅
い帰宅、時間がとられてしまう。仕事以外何もできない毎日に、気
持ちに余裕なく、心身疲れ果ててしまった。デボーションも持て
ず、心虚しく、結局、辞めてしまった。祈らずにした事に気づかさ
れた。

別の人は、やはり高額につられ、始めた仕事だが、作業はきつく、
身体を壊しそうで、早々に辞めた。やはり祈らないで始めたと。あ
る人も、自信ある企画が失敗した。これは絶対に成功間違い無いと
始めた企画だったが、無残に失敗に終わった。祈りが無かった事に
気づかされた。ある時、ギブオンの住民達は、自分たちが滅ぼされ
るのを恐れて、ヨシュアをだまし、盟約を結ぼうとした。

古びた着物に古いはきもの、パンは乾いてボロボロ、遠くから来た
ように巧く偽装した。それでヨシュアたちは、すっかりだまされ盟
約を結んだ。その時「主の指示をあおがなかった」とあり、ここが
間違いであった。肉で判断をしてしまう。実は、近くの者で、何と
自分たちの中に住む者であった。その結果、滅ぼされるべき民が、
ずっとイスラエルの中に居続ける事になった。

祈らず、主の指示を仰がず、事を進めると失敗してしまう。そして
痛い刈り取りをする事になる。「わたしを離れては、あなたがたは
何もすることができないからです」。まず主を仰ごう。祈り、主に
相談して、主と共に始めよう。主から発した事は、必ず主により成
し遂げられる。
------------
祈り、祈られている事は大きな自信となり確信になる。途中で不安
になっても主に導かれている事を思うと怖れに勝利できる。祈らず
に走り出す時はどんな時だろう。失敗から学びたい。


2023年03月23日(木)

「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた・・ハ ンナが主の前で、長く祈っている間・・」Tサムエル1:10



口を開けば、愚痴、不平不満ざんまいの人々がいるだろうか。周囲
は、絶えず愚痴を聞かされ、暗たんたる気持ちになる。そんな人は
どんな環境にいても、必ず不満足だ。「あの人が〜、この人が〜」
「家族がああで〜、職場がこうで〜」「あれが悪い、これが悪い、
気にくわない」不満を探してはつぶやく。

だが完璧な環境にいる人など一人もいない。生い立ちの不満、親へ
のいら立ちは多々あるとしても、完全な親も一人もいない。状況だ
けを見ると、どんどん欲求不満が増幅するばかりだ。「人は幸せそ
うなのに、自分だけ」「なぜ自分ばかり」・・、自分、自分になり、
自分は可哀想の自己憐憫に陥る。主が飛んで、主が無いので、状
況に押しつぶされそうになる。

心は落ち込み、暗く沈み、又、怒りもわく。心がぐじゃぐじゃにな
る。「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさ
い」との言葉通り、常に、主は招いて下さっている。主のもとに行
く事が答えだ。ハンナは募る憂いといらだちを持って行った。

心の内の怒り、嘆き、不満、恐れ・・何もかもを吐き出し打ち明け
て、祈ろう。主と交わる時に、次の展開へと導かれる。悔い改めに
導かれたり、又、主の視点で見るように変えられ、状況は変わらず
とも心が落ち着いて来る。又、もしそれが御心なら現状も変えられ
る。まず主のもとへ行こう、「愚痴」も、主に向けるなら「祈り」
となる。
--------------
失望や悲しみが来る。つい愚痴や不満が口から出てしまうが、何の
解決にもならず周囲に嫌な思いを与えるばかりだ。直面している問
題を主に祈ろう。主の平安を受け取れ、心が保たれる。


2023年03月22日(水)

「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありま せん」ヨハネ4:14



暑い日中に、一人の女性が井戸に水汲みに来た。皆、涼しい夕方に
来るのだが、彼女は隠れ、人目を避けていた。その時、主が話しか
けられた。男性のユダヤ人がサマリヤ人に話す事など無く、非常に
驚いた。主の「わたしが与える水を飲む者は決して渇く事がない」
に、彼女は「その水を欲しい」と願った。

よくわからないが、汲まなくてもよいのなら欲しいと。すると主は
「あなたの夫を呼べ」と。文脈がつながらず、水がなぜ夫なのか?
彼女は不可解であると同時に、グサリ!と心刺されたろう。最も触
れられたくないデリケートな部分だ。そして、今、いるのは夫でな
く同棲相手だ。「私には夫はいない」とかわした。

だが主は「その通り。夫が5人いたが、今いるのは夫ではない」
と。ズバリ言い当てられて、ひどく驚いた彼女は「あなたは預言者
か」、「ユダヤ人は礼拝する場所はエルサレムだと言うが、どうな
のか」と問うと「誰でも、どこでも真の礼拝者が父を礼拝する、そ
れが今来ている」と。

彼女が「キリストが来られる事を知っている」と言うと「わたしが
それだ」と。主を信じた彼女は、町の人々に「来て、見て」と、主
を紹介した。隠れていた彼女が、町へ出て行き、180度変わった。
主は、永遠の命に導くため、痛い核心を突かれる。私たちにも痛い
部分があるだろうか。そこに来て頂こう。

赦し、いやし、真の平安と喜びへと導かれる。自分自身が変えら
れ、自由にされる。そして真の礼拝者とされる。彼女の心を知り、
渇きをいやし満たすために、サマリヤを通られた主は、あなたの心
をもご存じだ。
----------------
主の御言葉によって隠していた所に光が当たる。普段は言い訳で隠
していた部分を照らされるのは痛いが、闇から光へ主が導き入れて
くださる時だ。豊かな渇くことのない恵みを受け止めよう。


2023年03月21日(火)

「あなたがたは、私たちの神、主と心を全く一つにし、主のおきて に歩み、今日のように、主の命令を守らなければならない。」 T列王8:61



主と一つ心になるには、まず罪を悔い改める事が大切だ。罪を離れ
て、主と正しい関係にされる事だ。罪は、主との関係をしゃ断して
しまう。だから罪を犯すと、平安が失せる。しかし大事な事は、ど
んな時も主の愛は決して変わらない。全く変わらずに、愛し続けて
下さっている。

罪を犯すと、平安が無くなるので、落胆し、神から嫌われたと思っ
てしまう。良い子が愛され、悪い子は嫌われるとの、この世の価値
観による。しかし神の愛は全く変わらない。不変だ。その罪は悔い
改めにより、主の血潮により完全に赦される。悔い改める時、主と
の関係が正されるので、平安が戻る。主と一つ心であるために、御
霊によく心探られて、罪は悔い改めよう。

ダビデは主の心にかなう者と言われた。だが、姦淫と殺人という大
罪を犯してしまった。しかし悔い改めた時に、完全に赦され回復さ
せられた。心が全く一つとは、完璧な者という事ではない。そんな
人は一人としていない。悔い改め〃歩むことだ。そして、主のお心
を求める時に、主と一つだ。逆に言えば、自分の思いを遂げようと
するなら、主とひとつではない。

ある人が新しい働きを始める時に、不安と恐れで一杯だったが、主
の御心に従って行くなら、主と心一つであり、主が御力を現わして
下さると、大変励まされ前進できた。そしてその通りに主のみわざ
を見せられて行った。自分の思いを退けて、主のお心に従えるよう
祈ろう。
------------
悔い改めを祈る中で、主の平安に満たされていく。主が心の悩みを
受け止めて、聞いて赦してくださるからだ。繰り返し失敗する者を
なお愛し、ひとつ心を求めてくださるとは何と有難い事か。


2023年03月20日(月)

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民 イスラエル人をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10


とんでもない驚くべき事態を目の前にすると、私たちは恐れ、戸
惑い、尻込みしてしまう。モーセも、ある日突然、主から大変な事
を言われた。「あなたをパロのもとに遣わすから、イスラエルをエ
ジプトから救い出せ」と。主からの、思いもよらない突然の示し
に、なんで自分がそんな大それた事をしなければならないのか。そ
んな事、今の自分に出来るわけがない。まるで絵空事だ。

そして過去に手痛い失敗をしている。若い王子であった時にイスラ
エルを救い出そうとして、見事に失敗した。何を今さら、地位も、
影響力も、体力も、財力も、人脈も何も無い。しかし主は「わたし
はあなたとともにいる。これがしるし」だと。しるしとは保証だ。
こんな確かな揺るぎない保証が与えられている。

だがモーセは、尚も自分は口下手だと尻込みする。すると主は「わ
たしがあなたの口とともにあって、言うべきことを教える」と約束
される。だが尚も「どうか他の人を」と。すると兄のアロンを口の
代わりにすると。モーセの問題点に、次々と答えられ、モーセは説
得されて行き、この主の申し出を受け止めて行く。

私たちにも「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのための
しるしだ」と、主はこの保証を与えて下さっている。今、目の前に
大きな困難があるだろうか。又、新しい働きに導かれているが、不
安だろうか。主が「わたしがあなたとともにいる」との保証のも
と、「わたしがあなたを遣わすのだ」の言葉を受け取り、一歩を踏
み出そう。
------------
自分には出来ないと認められたからこそ、主が用いてくださる。
「今、いけ」と主に言われる事は何と幸いだろう。主は人知れず訓
練してくださっている。主を信じて一歩前進しよう。


2023年03月19日(日)

「恐れないで、ただ信じていなさい」マルコ5:36



ある人の証しだ。母親が、体調崩して倒れた。激しいめまいと嘔吐
を繰り返し、病院へ連れて行こうとするが、本人はもう動けない状
態だった。救急車を呼んで、病院に付き添った。どっと不安と恐れ
に襲われた。脳梗塞か、何か重大な病気では、生死に関わるので
は・・不安は不安を呼び、祈りつつ病院に到着。様々な検査の間も祈
り、気持ちの動揺や、不安をそのまま主に告げながら、祈っていた。

一通りの検査を終えて、医師に呼ばれ、行くと、「大丈夫です。心
配ありません。過労です。よく休めば回復します」と言われ、安堵
し、肩の力が抜けた。なぜすべての不安が消えて、安堵できたのだ
ろう。それは医師の言葉によった。医師の言葉を信じたからだった。
言葉を信頼したから、安心が来た。救われてまだ浅かった頃の、印
象深い出来事だった。

同様に主の言葉を信じる、御言葉を信頼して歩むという事について
教えられた。御言葉を信じて歩む時に、平安が与えられる。苦しい
状況の中でも、御言葉を握り、信じる時、心は落ち着いて来る。ど
んな苦しい中でも、御言葉に心を向け、集中して行く時、状況は変
わらなくとも、心が変えられて行くことを経験する。

今、目の前に困難があるだろうか。「わたしは、世の終わりまでい
つもあなたと共にいる。だから、「心を騒がせるな。神を信じ、ま
たわたしを信ぜよ」「恐れるな。わたしを信じていなさい」と語ら
れている。

・・・・・・・・・・・
試みが来た時に、御言葉の力を身をもって知る。試練は、御言葉の
力をもろに経験する時だ。不安や恐れのまっただ中で、御言葉を信
じる時、平安になるから驚きだ。信じれないなら、まずその事を主
に告げると導いて下さる。


2023年03月18日(土)

「彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、 わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ」イザヤ30:1



ユダの王ヒゼキヤは、アッシリヤ軍によるエルサレム包囲に、エジ
プトに助けを求めようとした。「わたしによらず、わたしの霊によ
らず、罪に罪を増し加えている」。主の指示を仰がず、パロの保護
に身を避け、その陰に隠れようとすると。その結果は、侮辱と恥と
そしりだと。

救いの道は、人間の思いと方法で動く事を止めて、「主に立ち返り、
静かにすれば救われ、落ち着いて、信頼すれば力を得る」と。私た
ちも全く同様だ。困難が起きた時に、パニックになり何かに頼るの
でなく、自分の思いで動き回るのでなく、それを止めて、ただ落ち
着いて、主に信頼し、主の導きを待ち望むことだ。

その時、主は必ず導きを与えて下さる。「恵もうと待っておられ、
あわれもうと立ち上がる」方だ。主を待ち望む者は幸いと。しかし
私たちもどうだろう。急いで焦っている時、祈る余裕も時間も無く、
とにかくすぐに済ませてしまおう、まず対処してしまおうと、動い
てないだろうか。気持ちが急いて、主を仰がずに行動に走ってしま
う。

しかし主を離れては私たちは何もする事ができない。実を結ぶこと
はない。大切な事は、主に導かれることだ。右に行くにも左に行く
にも、あなたの耳は後ろから、「これが道だ。これに歩め。」と言
う言葉を聞くと。人生の重大な進路だけでなく、右に行くにも左に
行くにも導かれると。どんな時にも、主を求め、導きを求めよう。
主は「これが道だ、これに歩め」と導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・
ヒゼキヤはエジプトに頼ったが、自分の知恵や力に頼るなら同様だ。
しかし何かをしたとしても、御霊の実を結べない。御霊の導かれて
行なった事だけが実を結んで行く。すぐに肉で動いてしまうが、主
を仰ぎ、祈ること、日々の信仰の練習だ。


2023年03月17日(金)

「わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなた がたに与えるのは、世が与えるのとは違います」ヨハネ14:27


御言葉によると、私たちの信仰人生には、大きな困難、小さな問
題、様々な試練がやって来る。振り返ってどうだろう。天に帰るま
で、この世では、問題が無くなることは無い。問題が起きて、時が
経過し、解決すると安心する。だが問題の渦中では不安で不安でた
まらない。思い煩いと恐れにさいなまれ、解決して初めて安堵す
る。それを繰り返す。

しかしそれなら世の人と変わらない。問題は次々と起きるが、主
は、その渦中で「主の平安」を下さると。「わたしは、わたしの平
安を与える。わたしが与えるのは、世が与えるのとは違う」と、世
の安心とは異なる、主の平安を与えて下さる。問題の解決がまだ見
えない中だが、主に委ねて祈りを重ねる中で、主がおられるから大
丈夫だと思えて来る。

「志の堅固な者」は平安の内に守られるとある。それは自分の目
が、主に向けられている者のことだ。目が問題や自分に向いている
時は平安が無い。不安で一杯だ。又、あれやこれや、この世のもの
に心がある時、焦ったり、イライラしたり、思い煩ったりと平安が
無い。

今、悪い知らせに不安だろうか、経済的必要に思い煩っているか、
対人関係に悩んでいるだろうか。まず目を主に向けて、心を主にこ
とごとく打ち明けよう。祈って一つ一つを主に任せて行く時、不思
議だが、問題はそのままそこにあるのに、心が段々落ち着いて行
く。不思議な「主の平安」を経験する。
----------------
問題を抱えて主に頼り祈っていると、一つ一つ与えられる備えに気
づかされる。先は見えなくても、心配ないよと主の言葉が聞こえる
ようだ。主の平安が試練の中の光だ。


2023年03月16日(木)

「『どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。』も っとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われた」ヨハネ6:6



お腹をすかせた大勢の群衆を前に、主は「どこからパンを買って来
て、この人々に食べさせようか」とピリポに言われた。するとピリ
ポは、すぐに手持ちを計算し、「足りません」「無理、不可能」の
答えをはじき出した。これは主の試しであった。だがこれが私たち
の答えかも知れない。計算すればするほど、無理、不可能との答え
が出る。

一方アンデレは、何か持っている人はいないか、捜し回った。一人
の少年が小さなお弁当を持っていた。5つのパンと2匹の魚だっ
た。だがアンデレも大勢を目の前にすると、「しかし」となった。
「こんなに大勢では、それが何になりましょう」とひるんでしま
う。見えるところを見ると、圧倒的に手持ちが少ない。到底だめだ
ろうと。

だが、これが一体何になるのかという、僅かなもの、それが主の手
に渡ると、奇跡が起きた。どれだけ僅かであろうと、何の問題も無
かった。それを主に渡すと、驚くべき世界が広がった。主は「感謝
をささげて」人々に欲しいだけ分けられた。何と大勢が満腹でき
た。少しの不足も無い。どの手にあるかが重要だ。少年の手なら、
単に5つのパンと2匹の魚のままだ。

だが主の手に渡る時、大勢が全員満腹し、素晴らしい主の栄光が現
われた。「絶対に無理、不可能」が「可能」にされる。あなたの手
に何があるだろう。手にあるごく僅かなもの、それを主に献げる
時、主はそれを素晴らしく用いられ、みわざをされる。それは周囲
の人々を満腹させて行く。霊も心も満たして行く。
------------
手にあるものを握り、何とかしようとしている。足りません、足り
ませんと祈っているが、自分の無力も主に渡したい。主は受け取っ
てくださる。主に委ねて、主のみわざを待ち望みたい。


2023年03月15日(水)

「そこで、蛇は言った。『あなたがたは決して死にません』」 創世記3:4



エデンの園でエバはサタンの誘惑に会ったが、それが非常に巧妙、
狡猾だった。あなたにも、この誘惑が来ているだろうか。「ほん
とうに?」との言葉だ。神が言われたのはいいが、「ほんとうに
?」と。神と御言葉を頭から否定して来るなら、すぐわかるが、
否定はせずに、一応認めた振りで、でも、それ「ほんとう?」と
言われた時にどうだろう。

「え?本当かな?」と、心が揺れるだろうか。「天国って本当に
ある?」「神は本当にいる?」「本当に愛してくれてるの?」
「本当に必要は与えられる?」悪魔は狡猾だ。はなから、神を否
定して来るなら、心をガードし、身構え、警戒しながら対応する。
無神論者や共産主義者の言葉は、それなりに構えて聞く。

しかし、神はOKですよと認め、御言葉をも認めるので、油断し
てしまう。「でも、ほんとうかな?」というのは、悪魔の罠だ。
ふっと考え始めると、心のスキに、どんどんサタンは説得して来
て、ついには大胆にも全面否定して来る。「あなたがたは決して
死にません」。エバに来た言葉だ。神の言葉と正反対だ。

正反対なのだから、わかりそうなのだが、悪魔に聞いて行ってし
まうと、わからなくなる。これは悪魔のやり口だ。悪魔の説得に
乗って行ってしまうと、気づかずに罪へと誘われてしまう。信仰
により、御言葉の約束に立とうとすると、「本当に?そんなの実
現するの?」「信じているだけで大丈夫なんて、本当に?」「そ
んな事、信じられない」「思えない」と誘って行く。

必要を満たす、と言われると「本当に?無理」。進路を必ず導く、
と言われると「本当に?」いつも信仰が揺れ動き、ぐらつく。自
分が思っているのでなく、悪魔が吹き込んでいる。「本当?」と
の思いが来ているだろうか。疑いを差し挟んで来る悪魔の誘惑を
覚えよう。祈っていよう。祈りが力だ。御霊が気づかせて下さる。
------------
サタンは狡猾に少しずつ近づき、そしてコントロールしてくる。
不満や欲望を煽り、平安を奪われる。弱さを認めて朝から主に気
づきを祈っていよう。御霊が気づかせてくださる。


2023年03月14日(火)

「・・生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストの すばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかな っているのです」ピリピ1:20


教会を迫害するヘロデ王は、ヤコブを剣で殺害した。それがユダヤ
人の気に入ったのを見て、次はペテロを狙った。ペテロを捕らえ、
投獄し殺そうとした。だがペテロは、御使いにより牢から救い出さ
れた。奇跡が起きた。「教会は、彼のために神に熱心に祈り続けて
いた」の祈りの答えだった。

教会ではヤコブの時も、ペテロの時も同じように熱心に祈ったので
はないか。しかしヤコブは殺され、ペテロは救出された。「なぜ?
どう違うのか?」と思う。これはヤコブにはヤコブの、ペテロには
ペテロの、主のそれぞれへのご計画であり、召しだ。ヤコブは殉教
により神の栄光を現わし、ペテロは生きて、宣教の使命が与えられ
ていて、それによって神の栄光を現わす事となる。

ヘブル11章にもある人々は「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、
剣の刃を逃れ、強くされ、戦いの戦士となり、陣営を陥れた」と奇
跡、奇跡で、勝利して行った。そして又、ある人々は「牢に入れら
れ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、乏しくな
り、苦しめられ」と殉教した。結果的には正反対に見えるどちらも
が「信仰によって」歩んだ。

パウロは「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストがあがめ
られること」を求めた。一人〃に与えられている主の御心が全く異
なる。他の人は関係無く、主だけを仰ぎ、自分に与えられた人生、
自分への御心を全うする事が、最大の喜びと平安の道だ。いつも主
と自分の関係が何より大切だ。
------------
一人一人、例外なく主のご計画の中にいる。主の恵みの外を歩んで
いた者が主のご計画を認めて、信頼して歩める。何と幸いだろう。
主と共に歩める関係を感謝し、御心を喜んで果たしていこう。


2023年03月13日(月)

「彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王 座をとこしえまでも堅く立てる」Uサムエル7:13



ダビデは、主のために神殿建設を願った。だがその願いは聞き入れ
られず「あなたの身から出る世継ぎの子を起こし、彼の王国を確立
させる」と。つまりダビデの子が神殿建設を成し遂げると言われ
た。ダビデ自らが神殿建設を望み、願ったが、主からの答えは「ノ
ー」だった。

時に私たちも、このような状況に直面する。自分の切実な願いが、
「ノー」である時、どうだろう。二つの態度が取れる。一つは、
思い通りにならない状況に失望落胆し、やる気を失う。又、怒り、
反発し、いじけてしまう。もう一つは、「ノー」を、主からのもの
と受け止め、では、主の御心が成されるために、自分はどう動けば
よいのか、何をすべきで、何が出来るかを考える。

ダビデは後者だった。主からの「ノー」を受け入れ、息子ソロモン
が建設するとの主の御旨を知り、そのための準備に回った。これが
ダビデの信仰で、素晴らしさであった。政治的、経済的安定がなけ
れば、神殿建設は不可能だ。ダビデは諸外国の敵と戦い、次々と勝
利し、着実に基盤を築いて行った。

「主は、行く先々で勝利を与えられた」御心に従うダビデに、主が
連勝を与えられた。そして膨大な金銀の戦勝品を、建設資金に献げ
た。自分の願う道が閉ざされた時、ダビデにならおう。へりくだっ
て、主の御心が成し遂げられるために、自分は何が出来るかを問お
う。主は必ず用いて下さり、大きな祝福を下さる。
--------------
主のご計画の前に自分のプランが先立ってしまわないよう、いつも
主との関係を見失わずにいたい。建設の総責任者は主だ。主の導き
を信じて、自分に出来ることを祈っていこう。


2023年03月12日(日)

「・・同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結 ぶことはできません」ヨハネ15:5



ある宣教師が、任地で懸命に働いた。当初は、宣教への大きな期待
と喜びで一杯だった。よく燃えて労した。だがその内に、目に見え
る成果がなかなか無く、失望し落ち込んだ。又、自分の思い通りで
ない状況に、焦り、イラ立ち、不安になり、思い煩った。次々と
様々な方法を試行錯誤するが、結果がでない。年数の経過と共に、
とうとう燃え尽き症候群に陥った。

その落ち込みのどん底で、責めず、さばかず、愛し慈しんで下さっ
ている主に出会った。そしてその時、自分の姿がはっきり見えた。
今まで、主のために一生懸命であったつもりが、実はそうではなく、
自己満足であった事を見せられた。行動する事の充足感に突き動か
されて、自分の力で動き回っていた。主のためと言いつつ、実は自
分のためではないかと。

だから成果が出たら喜ぶが、成果が無いと落ち込みはひどく、いつ
も平安が無い状態だった。悶々としアップダウンは、はなはだしく、
それなら成果主義で、平安などほど遠い。悔い改めて、何もかもを
明け渡した。主は、建て直して下さった。

今度は、見た目は同じだが、主と共に、主の力によって労して行っ
た。以前と同じ事をしているのだが、そこには、主と一つである喜
びと安堵感があり、結果に関係なく、結果に左右されない、揺るぎ
ない平安があった。成果はついて来るもので、主と一つである事が
喜びだ。

・・・・・・・・・・・・
自分ではとても実を結ぶ事などできないが、主にとどまるなら、豊
かな実を結ばせて下さるとあり、大変慰められ励まされる。自分を
明け渡し、目の前の一つ一つの示しに従えるよう、祈ろう。御霊の
実を結ぶと共に、証しにもされるとは何と嬉しい事だろう。


2023年03月11日(土)

「パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ 人の国の道には導かれなかった」出エジプト13:17



モーセ主導のもと、民は出エジプトを果たした。主が、民をエジプ
トから出された。その時に、約束の地を目指すのに、非常に近道で
あるペリシテ人の国は通らせず「荒野の道」へ導かれた。「戦いを
見て、心変わりエジプトに引き返さないように」と。主の配慮であ
った。積年の奴隷生活で、戦闘の訓練も経験も皆無の民が、戦いな
ど恐怖で怯え、引き返してしまうだろう。

私たちの価値観に、楽な道、近道、平らな道を好み、早く到達する
事が善との思いがないだろうか。苦しみ、困難は避けたい。しかし
主は、民を近道ではなく、あえて荒野の非常に困難な道を通された。
主が苦しい道を通されるのだ。主に不可能は一つもない。今すぐに、
願っているものを与えて下されば良いのにと思う。

しかし延々と時間がかかり、まさに遠回りさせられていると感じる
状況がある。自分の思いとは全く違う道だ。だが、その困難な道を
通ってこそ、練られ、訓練され、忍耐や信仰が培われる。主の深い
愛や慈しみ、真実を身をもって経験する。自分自身を明け渡し、委
ねる事を学ばせられる。きよめられて行く。そこを通らずしては、
あり得ない。

そしてその通り道には、雲の柱火の柱が伴い、進べき道が明確に示
される。荒野での灼熱の太陽から雲の柱で守られ、夜の暗闇を火の
柱が照らし続けた。その導きは、道中決して「民の前から離れなか
った」。今、荒野にいるなら、主を信じ、主に従おう。雲の柱、火
の柱で、片時も離れず共にいて、導いて下さる。そして祝福へと導
かれる。

・・・・・・・・・・・・
頭では、試練こそが祝福で、成長せてくれるとよくわかるのだが、
その渦中は苦しくてたまらない。そのありのままを主に告げよう。
主に吐き出して行くと、不思議に心が落ち着いて来る。共におら
れる事を経験して行く。


2023年03月10日(金)

「父は言った。『おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえ の祝福を横取りしてしまったのだ。』」創世記27:35



ヤコブに、エサウとヤコブの双子の兄弟が誕生した時に「兄が弟に
仕える」と、明確に主の御心が示された。アブラハムに約束された
神の祝福は、弟のヤコブに受け継がれると。兄弟の生い立ちの過程
で、父親はエサウを、母親はヤコブを偏愛した。兄と弟も霊的な事
柄への関心と態度が違った。

兄エサウは、長子の権利より、目の前の自分の腹を満た食物が大切
だった。それで空腹で死にそうな状況なら、食べる物が重大事であ
り、その時に長子の権利など意味も価値も無かった。だがヤコブは
違った。狡猾で自我は強いが、神に関する霊の事柄に、貪欲に心が
向き、価値を見い出していた。その長子の権利も、祝福もどうして
も欲しかった。

そのために母リベカと共謀し、策略により父と兄を欺いた。間違
は、主がヤコブに継がせるものを、必ず与えられるものを、自力で
肉の方法と力で奪い取った事であった。父親イサクも、兄が弟に仕
えるという主の御心を聞いていたのに、自らの思いで、自らが偏愛
するエサウに祝福を与えようとした。それも肉によるものだ。

家族全員が、主を認め、主に従うのでなく、自分の肉の思いと方策
で動いて行った。その結果、家庭崩壊で、秩序が壊れ、皆が不幸に
なり、ヤコブは兄の激怒で、家におれず遠く伯父のもとへ。どうで
あれ、全主権を持たれる主のご計画が成就する。結果的にヤコブが
祝福を受け継いで行くが、各々主の御心に従うなら、どんなに祝福
で幸せだろう。
---------------
主から受けるの豊かな祝福の約束よりも、目の前に来る事や自分の
思いを優先してしまう。ヤコブの長い取り扱いの日々から学べる。
主のご支配を認めて主の祝福の中を歩みたい。


2023年03月09日(木)

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、 雄羊の脂肪にまさる」Tサムエル15:22



信仰人生で大切な事は、何だろう。それは主に聞き従う事だと。ど
んなに信仰生活に励んでも、主の御声に聞き従わなければ、何にも
ならない。例えば職場で、上司からの指示を全く無視して、自分の
思いと方法で仕事をしたらどうだろう。方向違いであり、自分は、
どんなに頑張ったとしても、全くの的はずれだ。

サウルは、サムエルから「アマレクを打ち、そのすべてのものを聖
絶せよ。容赦してはならない」と命令を受けた。それにもかかわら
ず、最良のものを惜しみ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶
した。全く命令に従っていない。そしてサムエルに問いただされた
時に、「民は、最も良いものを惜しんだ。主にいけにえをささげる
ため」と言った。

「民は」と、民に責任を転嫁し、更に「主にいけにえをささげるた
め」だと言い訳し、行為を正当化した。すると「主の言葉を退けた
ので、主もあなたを王位から退けた」と。主の言葉に聞き従わない
事で、王位を失ってしまった。私たちの信仰生活はどうだろう。主
の御声や御霊の促しをいい加減なものにし、注意を払わず、ないが
しろにしていないだろうか。そこに必ず悪魔も働いて来る。

主の言葉に従うなら、大きな祝福がある事を知っているからだ。悪
魔は全力で阻止したい。従う事にぐずぐずしていると、思いも意志
も鈍くなって来て、必ず従えなくなってしまう。その内、悪魔はエ
デンの園でのように、正反対の事を言って来る。「従わなくてよ
い、大丈夫だ」と。今、御声を聞いていたなら、「すぐに」従お
う。
------------
御言葉に聞き従わずぐずぐずしているとちょうどよい言い訳や新し
い用事が来る。サタンは「すぐに」来ると実感する。それだけ大き
な祝福だ。すぐに従えるよう祈ろう。


2023年03月08日(水)

「主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、 聞いてくださらないのですか」ハバクク1:1



ハバククは懸命に祈る。闘争があり、裁きが曲げられている中、
「いつまで聞いて下さらないのか。救って下さらず、ながめておら
れるのか」と。その背景はユダのヨシヤ王は主に従おうと、偶像礼
拝を断ち切り、次々宗教改革を行なった。イスラエルはすでにアッ
シリヤに滅ぼされ、南ユダはアッシリヤとエジプトに挟まれてい
た。

そんな中、エジプトがアッシリヤに戦いを挑むが、ユダを通らねば
ならない。ユダとは戦う気は無かったが、ユダ王ヨシヤはエジプト
を迎撃し、何と戦死してしまう。あれほどの信仰深い王が、あえな
く死んだ事に、なぜ、どうしてとハバククは混乱し大きく動揺す
る。

そして主は、強暴なバビロンを起こすと言われる。ハバククは、悪
者が正しい者を飲み込む時、なぜ黙っておられるのかと切に訴え
る。真剣に問い続けた。「私は見張り所に立ち・・主が私に何を語
り、私の訴えに何と答えるかを見よう」と。すると答えが来た。

「遅くなってもそれを待て。それは必ず来る。遅れる事はない」。
神の時は、私たちの時と異なる。私たちは遅いと感じる。何も動か
ず、いつまで待つのかと焦る。だが神には、決して遅くない。神の
タイミングで来る。だから待てと。そして「正しい人はその信仰に
よって生きる」。

見えるところではなく「信仰によって生きよ。わたしを信じてつい
て来よ」と。私たちも、「いつまでですか」との問いに「遅くなっ
ても待て。必ず来る。遅れる事はない」「信仰によって行きよ」と
言われている。
------------
先はどうなるのかと真っ暗な夜の暗さを経験するが、主よ感謝しま
すと言える日が来る。遅くなってもそれを待てと。待たされる時も
主の守りの中にある。信じて主の助けを待ち望もう。


2023年03月07日(火)

「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」Tヨハネ3:18


困っている人がいた場合、又、助けを求める人がいた場合にどう
だろう。良きサマリヤ人の箇所の、祭司やレビ人のように、関わる
のが面倒で避けてしまうだろうか。時間を取られたくなくて、又、
仕事が増えるのが面倒で、経済的な犠牲も払いたくない。「よるべ
のない者の叫びに耳を閉じる者は」とある。

人は、自分が聞きたい事柄だけを選び取って聞くと言われるが、
聞きたくない事には耳をふさぐ。だから聞こえない。そして聞かな
かった事にすれば、自分を正当化できて、悩まずに済むし、責任も
感じずに済む。だが御言葉によると、困っている人の必要を無視す
るなら、自分が呼ぶ時に、主が答えて下さらないとある。祈りが聞
かれなくなってしまう。

「ことばと口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛
そう」「心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることがで
き」「求めるものは神からいただける」。反対に、行ないと真実を
もって愛する時、祈りが聞かれて行くと。そして主との間に妨げが
ないので、喜びと平安に満たされる。この平安は何ものにも代えら
れない。

神は、私たちがすべての事に満ち足りて、すべての良いわざに溢れ
る者とするために、あらゆる恵みを溢れるばかりに与えて下さる。
従うなら大きな豊かな祝福を刈り取る。まず困っている人に心が向
けられないなら、ありのままを認めて「したくありません」と祈ろ
う。主は受け止め、御心へと導いて下さる。自分自身が、主を知る
溢れる恵みの時とされる。
------------
素直に行動に移せない心のありのままを祈り、出来ない事を認めた
い。主の真実の愛に生かされ溢れる恵みを受けている。御心のまま
に歩みたいと祈ろう。


2023年03月06日(月)

「パウロは・・大声で、『自分の足で、まっすぐに立ちなさい。』と 言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した」使徒14:10



生まれつき足きかない男性がいた。かつて一度も歩いた事がなかっ
た。パウロが御言葉を話していた時に、彼が丁度そこに座ってい
て、じっと耳を傾けていた。彼は歩けず、足に関しては、どうする
事もできなかった。完全に無力の状態だった。自分で何のすべもな
かった。だからこそパウロの「自分の足で、まっすぐに立ちなさ
い」との言葉にすがりつけた。

もし他に方法があれば、そちらに行っていただろう。彼には、他に
何も無く、この言葉しかなく、この言葉がずべてだった。御言葉に
しがみつき、信じて賭けた。自分が徹底的に無力だからこそ、そう
できた。力があれば、あちこちと方策を探し回り、自分で何とかし
ていた。その信仰に、神の力が働き奇跡が起きた。

御言葉に従うと、一度も歩いた事のない彼が、飛び上がり歩き出し
た。私達も自らの無力を知る時こそが、信じる時だ。何の方策も無
く、何もどうにもならない、信じるしか道がない。その時に初めて
「信仰」が機能する。自力と自分の方法に頼り、自分を信じている
限り、そこに神への信仰は無い。

信仰半分、自分の力半分という事はあり得ない。御言葉があって
も、必ず自分の力、知恵、方法でやって行く。そこに信仰の入る余
地がない。信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を任せて行く事
だ。御言葉にすがりつく事だ。そのため自分の無力を知る事こそが
大きな祝福の門口だ。世の価値観とは真逆で、無力こそが大きな祝
福の道だ。
------------
主に信頼していると思いながらも出来ることは自力でやってしま
う。完全に自分の力が役に立たないと知らされるのは実は大きな恵
みの時ではないか。主にすっかり明け渡し頼ろう。


2023年03月05日(日)

「すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて 来て使えた」マタイ4:11


主は40日の断食後、御霊に導かれ、悪魔の誘惑を受けられた。第1
は、空腹の主に「石がパンになるように命じよ」と。主にはその力
があるので、自分で自分の必要を得よとの誘惑だ。しかし主は「神
の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と。自力でなく、神の言葉
により必要が与えられる事、つまり神への信頼の中で生きると。

すると悪魔はそれならと、御言葉を持って来て、第2の誘惑をしか
けた。「神殿の頂から下に身を投げよ。神が御使いに支えさせ、石
に当たらないようにされると、書いてあるではないか」と。主に信
頼すると言うなら、主が御使いに命じて支えるのだから、身を投げ
よと。主はやはり御言葉で「神を試みてはならない」と退けられた。

詩篇91:11、12と比べると「すべての道で」が抜けている。これは主
の御旨に従い、御心の中にいる時、守られるとの意味だ。自分の思
いの道に歩み、守られる保障はないし、神を試して守られる事はな
い。悪魔は、私達を誘惑し神を試させる。狡猾に御心からそれさせ、
失望させる。悪魔の攻撃だ。

第3の誘惑は、この世のもの、栄華、地位、名誉、富、賞賛・・は、
人間には非常に心惹かれる誘惑だ。「ひれ伏して私を拝むなら、全
部上げる」と。主は、全世界の王にするとの悪魔の誘惑にも「引き
下がれ、サタン。あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と
悪魔を撃退された。あなたにも誘惑が来ているだろうか。悪魔の試
みを受けた主は、よく理解し助けて下さる。悪魔に、すでに勝利さ
れている主を呼び、主に頼ろう。御言葉に従おう。

・・・・・・・・・・・・
主は、悪魔の攻撃、誘惑という試みにも、私たちのために通って下
さった。誘惑のすさまじさを理解して下さっている。主にとどまり、
主と共に歩む時、御霊が誘惑に、悪魔に気づかせて下さる。主を思
い、主を仰いでいよう。


2023年03月04日(土)

「・・キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」T テモテ1:15



「マタイの福音書」を記したマタイは取税人であった。当時、ユダ
ヤはローマ帝国の支配下にあり、ローマに代わり、税金の徴収をし
ていたのが取税人だった。つまり、同胞から不当に余分に取り立て、
私腹を肥やしていた。そのためローマ帝国の手先と忌み嫌われ、裏
切り者と憎まれた。又、罪を犯しているので、平安や喜びはなく、
資産はあったが、決して幸せではなかった。

マタイは、人から蔑まれ、拒まれ、心に闇を抱え、寂しさと虚しさ
にいただろう。生きる意味も見い出せなかったろう。そんな時に、
主イエスがマタイを「ご覧になって」「わたしについて来なさい」
と声をかけられた。「すると彼は立ち上がって、イエスに従った」。
主が、そんなマタイの心の内も、境遇も何もかもをご存じで召され
た。

マタイは「すぐに」立ち上がって招きに応じている。迷いが無い。
大変な覚悟だが、マタイは、聖いお方が自分のような罪人を召され
た事に、どんなに驚いた事だろう。そしてどんなに嬉しかった事だ
ろう。そんな彼は、生涯主に従い通し、福音書を記す栄誉を受けた。
マタイは自分の事を「取税人マタイ」と言い、どんな所から救われ
たかを決して隠さず、むしろ明言した。

闇から光に入れられた、その恵みの大きさを、主の愛とあわれみの
深さを味わい知った。私たちも主が「ご覧になって」「わたしにつ
いて来なさい」と招いて下さったから、今がある。どんな所から救
われたのか、救われていなかったなら、どうなっていたのか、今一
度、覚え主に感謝を献げよう。

・・・・・・・・・・・・
罪を犯し、闇の中で、虚しく歩んでいたマタイは、どんなに驚いた
事だろう。主は、心の中をご覧になって、マタイが従う事もご存じ
であった。私たちも満足の無さ、寂しさがあればご存じだ。主が満
たして下さる。主のもとへ行こう。


2023年03月03日(金)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があな たがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7



多くの人は、悲観的思考に傾くと言われているが、私達はどうだろ
う。心配症だろうか。ああでもない、こうでもないと、くよくよと
思い煩うだろうか。それなら、本来は平安の中で、喜んで過ごす時
間を無駄にし、つぶしてしまう。だが思い煩いの中にいると、気づ
けない。

これからのあれこれを思い煩うが、それは亡霊だ。現実では無く、
実際に起きてもいない事で、ただただ堂々巡りし、何も生み出さ
ず、不毛の時間だ。心は暗く落ち込む。「思い煩い」とは「心を分
割する」との意味があり、あの方面この方面へと、心があちこちへ
と分かたれる。

マルタが、主をもてなすために、準備にあれもこれもと心が分割
し、焦り、イライラした。何もせず座っているマリヤに腹を立て、
それを許している主を責めた。自分の力で頑張る時に、思い煩いが
来る。自分の肩にすべてがかかり、担い切れず、いら立つ。主に頼
らず、自力でする時に思い煩いに支配されてしまう。

又、私たちは、人が気になる。あっちにもこっちにも良い顔をし、
人に良く思われたい。誰からも嫌われたくない。主の目でなく、人
の目を気にする時に、どう思われるかが気になって仕方が無い。あ
の言葉、この態度と思い煩う事になる。とにかく思い煩いが来る
と、それを主に持って行こう。

ありのままの思い、気持ち、心の悶々を主に告げよう。何も思い煩
わないで、いっさいをゆだねよと言っておられる。主が受け止め、
最善へと導いて下さる。ゆだねる時に、その問題が主に渡るので、
重荷が主の肩に渡り、心が平安にされる。
------------
まだ起きてない事や、正解のない人の目など漠然と心配している。
出口のない思い煩いに気づいたら、すぐに心の内を主に告げよう。
弱さも矛盾も抱えたままで主に向かおう。


2023年03月02日(木)

「こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。 イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た」 出エジプト14:30



モーセに導かれたイスラエルの民は、エジプトを出た。しかし頑
なになったパロは、自ら軍勢を率い、えり抜きの戦車600と全戦車
を率い、民を追跡した。追いついて、どんどん近づく。民は、迫り
来る軍勢に恐れ、主に叫んだ。そしてモーセにかみついた。なぜエ
ジプトから連れ出したのか、荒野で死なせるためか、エジプトにい
た方が良かったと。

祈っていたモーセは、「しっかり立って、きょう、あなたがたのた
めに行われる主の救いを見なさい」「主があなたがたのために戦わ
れる」と。その時に、主はモーセに言われた。「なぜあなたはわた
しに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え」。
モーセは、ずっと主に向かって叫び祈っていた。

目に見えるところ、常識、人間的思いでは、前進するなら、海に溺
れて死ぬ事になる。しかし見えるところや人間的判断でなく、主に
示された通り、手を海に伸ばすと、水が分かれた。皆が渡り、追跡
して来た軍勢が、あとから海に入った。モーセが手を海に伸べる
と、海は元の状態に戻り、軍勢は海に飲み込まれた。

そのために追跡させられたのだろうか。その結果、民は、主がエジ
プトにされた御力を見、主を恐れ、主とモーセを信じた。従う時
に、主の御力を経験し、更に信じて行ける。そして主の栄光を拝す
る。見えるところや、自分の思いがどうであろうと、主の導きに従
う時、主を体験して行く。信仰によって選べるよう、助けを求めて
祈ろう。
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海の中に道ができるなど信じられないと思う不信仰も、この弱さを
主に預け、頼っていきたい。小さな問題も主に頼り主の導きを経験
していこう。海を分けられた主が助けてくださる。


2023年03月01日(水)

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、 神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです」 ヤコブ1:12



「試み」という言葉は「試練」と「誘惑」のどちらにも使われてい
る。しかし「試練」は、神からであり、「誘惑」は、サタンから
だ。神は、誰をも決して、罪に誘惑される事はない。「〜自分の欲
に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」。「試練」は神
から与えられるものであり、逃げずに受け取り、忍耐すべきもの
だ。

そうする時、必ず一段階成長して行く。試練は成長のためのもの
だ。「試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい」そ
れは成長を遂げた完全な者にされるためと。反対に、サタンからの
「誘惑」は、決して受け入れてはならない。断固拒否し、立ち向か
うべきものだ。それを受け入れるなら罪を犯してしまう。

だから、主が「主の祈り」で言われたように、「私たちを試みに会
わせないで、悪からお救いください」と祈る事は大切だ。誘惑から
守られるように祈る必要がある。サタンの誘惑の巧妙さは、物事が
うまく行っている時に来る事だ。試練の時は、むしろ真剣に主を求
め、主に拠りすがる。だが、平穏な時に人は油断する。

順調なので、神に頼らなくともやって行けてしまう。物事はうまく
進み、祈りを怠る。自分でやって行けると思う。ここに高慢が来
る。誘惑の目的は、主から離すことだ。試練は、私たちを練りきよ
め、鍛え、神に近づけ、成長させるためのものだ。誘惑は拒絶し、
試練は受け入れる、この二つの対処を間違わないよう、そして対応
できるよう祈ろう。
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今置かれている苦難がどこからきているか、よく祈り御霊の導きに
従おう。悔い改めるべき罪は悔い改め主に立ち返ろう。主からの試
練は抗わず主の最善を信じ、信仰によって受けとめたい。