2023年04月30日(日)

「わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中 から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るように なる。」出エジプト7:5


主はモーセを召し出し、エジプトで苦しむ民を救う事を御心とされ
た。モーセを用いて様々な奇跡をされ、パロが民を出すよう仕向け
られた。そのパロは様々な災害に苦しめられると、「お前たちを行
かせる」と言い、災いが失せて苦難が止むと、「行かせない」と言
う。又、苦難が臨むと「私は罪を犯した。主は正しい。もう沢山だ。
お前たちを行かせる」と言う。

「私は罪を犯した。祈ってくれ」と言い、一見、悔い改めに見える
が、モーセの祈りで、事がおさまると、又、心頑なに強情になる。
口ではそう言うが、心の底では思ってはいない証拠だ。王であり、
最高権力者だ。すべてが自分の意のままに回って来たパロにとって、
主の奇跡は、単に脅しに過ぎなかった。脅しが無くなれば、何の問
題も無い。だから何も変わらず、元通りだ。

主の奇跡のわざが、主ご自身を知り、主のご愛や慈しみ、真実を知
る事にならなかった。私たちはどうだろう。試練は、ただ単に災難
であり、目の前の苦しみが除かれさえすれば、良いのだろうか。そ
れならパロと変わりがない。そうではなく「わたしが主であること
を、あなたがたが知るため」と。

様々な問題は、神が主であることを、私たちが知るために送られて
いる。それは、主ご自身を知る時であり、又、内側が照らされる時
だ。悔い改めがあり、主のご愛と慈しみを経験し、きよめられ、一
段階成長の時だ。痛いけれど、「苦しみにあったことは、私にとっ
て幸せでした」と言える。

・・・・・・・・・・・・・
問題や出来事が色々起きるが、無駄なものは一つもなく、主の支配
のもとで、主を新たに知るためである。その視点で、起きる出来事
を受け止め、見て行けるよう祈ろう。一つ一つの事柄を通して、主
を知れるよう、メッセージを受け取れるよう祈ろう。


2023年04月29日(土)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方 ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださ います。」Tヨハネ1:9 



ある人が、友人を傷つけてしまった。そして周囲にも嫌な思いをさ
せてしまった。自らの心を見る時、それは悪気のない、失敗という
ものではなく、醜い自我から出た事であり、はっきり自分の罪だっ
た。祈りの中で、御霊により、罪を認めて、相手に謝罪するよう示
された。自分の愚かさを認める事、謝罪する事は恥ずかしい、プラ
イドが傷つく事であり、どうあってもしたくない事だった。

しかし、目の前の事態は自分の罪であり、平安が無く、心が苦しい。
主に助けを求め、悶々の祈りの中で、心から悔い改める事ができた。
そして示しに従い、相手と嫌な思いをさせた周囲の一人〃に謝る決
心を与えられた。赦してもらえなくても、仕方の無い事だ。勇気が
要ったが、祈って、謝罪した時、相手は快く赦してくれた。

そして周囲の人々も同様だった。何と有難いことだろう。赦される
事の、踊り上がるばかりの喜びと平安に心が満ちた。大きな経験だ
った。ある人は、主を信じ救われて、信仰生活を送る中で、ずっと
昔に、万引きした事を思い出した。その事を悔い改めた時に、主が
赦して下さった事が確信できて、喜びに溢れた。嬉しくてたまらず、
店の人にも謝りたいと思った。

祈って決心し、店に行きその旨を話し、謝り、代金を渡した。する
と店主は、それは驚いて赦してくれ、代金はいいからと。証しをし、
トラクトを渡すと快く受け取ってくれた。その時、赦された事の、
天にも上るような喜びと平安に心が満ち満ちた。

・・・・・・・・・・・・
信仰人生で数々の失敗をしてしまう。様々な罪を犯してしまう。自
分の至らなさ、配慮の無さ、又、エゴゆえに犯してしまう。その時
に、悔い改めにより赦されることの恵みを身をもって経験する。世
には無い平安と安堵で心が満たされる。


2023年04月28日(金)

「この日は主が設けられた日である。この日を楽しみ、喜ぼう」 詩篇118:24


今朝はどうだろう。朝起きた時に、昨日の疲れが取れておらず、身
体が重くだるいと、心もだるく、一日が始まるだろうか。ぼお〜と
したまま、気力無く、身体だけを動かしているかも知れない。又、
朝から、思い煩いに支配されているだろうか。しかし御言葉による
と、「この日は主が設けられた日」だと。

単に、夜が明けて、次の朝が来たのではなく、今日の日は、主が造
られた日だと言われている。主が私のために造って下さった日な
ら、見方が違い、心が違って来る。この一日は、主の愛が注がれて
いて、私のためのご計画があり、意味がある。そして「この日を楽
しみ、喜ぼう」と言っている。

この二度と返って来ない、大切な、かけがえのない一日を、過去の
あれこれをくよくよと悔やみ、自分を責め、堂々巡りし、つぶして
しまうだろうか。又、起きてもいない先のあれこれを、くよくよと
思い煩い、心が暗く、沈んだままだろうか。今日の日は、新しい一
日だと言われている。それは朝ごとに新しく、主の真実は力強い
と。

過去や先の思い煩い、又、目の前の事に飲み込まれてしまい、喜
び、楽しむために、主が造って下さった今日の日を見失ってしまわ
ないように。喜び、楽しもうとする事は、状況の善し悪しでなく、
又、成り行きでなく、自分自身の選択であり、決意だ。祈って、一
日を始めよう。
------------
雨の時は気分が沈み、心配事があればすぐに心は塞いでしまう。い
つも喜ぶ事は自然には出来ない。朝毎に主に感謝し、新しい一日の
恵みに期待していこう。備えられた一日を失ってしまわないよう
に。


2023年04月27日(木)

「主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。あなた の真実と義によって、私に答えてください」詩篇143:1



ある時、ダビデは非常に辛く厳しい状況にあった。実子アブシャロ
ムの反乱に会い、都落ちした。息子と戦いを交える事を避け、逃げ
る道を選んだ。又、その時に、ダビデの議官であるアヒトフェルが
ダビデを裏切り、アブシャロムに寝返った。アヒトフェルの事を
「私の同輩、私の友、私の親友のお前が」と言っている。

ダビデが心からの信頼を寄せていた人物だった。「私をそしる者な
ら、私は忍べた」と。しかし「お前は、一緒に仲良く語り合い、神
の家に群れと一緒に歩いて行ったのに」と。親友に裏切られ、実子
に敵対され、どんなに苦しい事だろう。心身ボロボロであったろ
う。しかしこれらの事も、姦淫の罪、ダビデの蒔いた種の刈り取り
であった。

蒔いたものは必ず刈り取り、それは自分だけでは済まず、家族をも
巻き込んでしまう。だがダビデは、「あなたの真実と義によって、
私に答えて下さい」と御前に祈っている。ダビデは、主は真実な正
しい方で、罪が「赦される」事を心底信じていた。「血の罪から私
を救い出てください」「しかし、あなたが赦して下さるからこそあ
なたは人に恐れられます」と。

ダビデは、自分によらず、主の真実と義に拠り頼んだ。私たちも自
分によらず、主の血潮によって御前に行き、完全な赦しを受け取れ
る。自分の蒔いた種がどのようなものであろうと、苦しい時も、血
潮のゆえに御前に受け入れられ、愛されていて、主と共に刈り取っ
て行ける。
------------
罪は心から悔い改めれば主に赦され、また新しく生きていける。主
の十字架のご愛に心から感謝だ。辛い刈り取りであっても主の赦し
を受け取っているからこそ耐えていける。主のあわれみは尽きな
い。


2023年04月26日(水)

「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひと りには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅 に出かけた」マタイ25:15



主人がしもべたちに、それぞれ5、2、1タラントを与えて、商売す
るようにと言い、旅に出た。「おのおのその能力に応じて」タラン
トを与えられたとあり、主の采配で、御心のままに与えられてい
る。量は各々異なるが、それは不公平ではなく、御心により量って
与えられている。それは、立場、役割、使命が一人一人異なるとい
うことだ。

それぞれ全く異なるので、競争になりようがない。ライバルはおら
ず、誰とも競争にならない。そこに比較は無く、自分に任されたタ
ラントを、生涯しっかり用いて行くということだけがある。各々の
力量、技量に応じて、機会も備えられている。5タラントと2タラ
ントの者は「すぐに」出て行って商売をした。主人を心底信頼して
おり、主人のために労する事が喜びであった。

1タラントの者も、1タランは多額であり、主人から信頼されて任
されていたのに、すべてを無駄にした。最低限の事さえもしなかっ
た。5と2タラントの者は、喜びで、わくわくして働いたろう。彼
らは主人に対して良い思いを持っていた。主人が戻った時に「5タ
ラント預けて下った」「2タラント預かった」と、「預けて下さっ
た」と話した。

1タラントの者は「蒔かない所から刈り取り・・ひどい方」と言い、
まず主人に対する見方が全く間違っていた。1タラントをも失って
しまった。「わずかな物に忠実」、任せて下さった賜物を、忠実に
主のために用いて行こう。そのように祈って行こう。
------------
賜物は主が与えてくださった恵みだ。何も出来ないのではなく主が
導いてくださっている。主が喜びも輝きも与えてくださる。わくわ
くして主に豊かに用いてもらおう


2023年04月25日(火)

「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたま しいを喜ばしてくださいますように。」詩篇94:19



あなたには、心配事があるだろうか。次から次へと問題は起きて、
心配事を抱える。対人関係の問題、仕事の悩み、経済的必要、目の
前の問題、過去の後悔、先の不安、様々な悩みで、くよくよと思い
煩う。しかし主は「思い煩うな」と言われる。いっさい「心配無
用」と。なぜ無用なのか。思い煩ったところで何も解決せず、何一
つ変わらないからだ。

「誰が心配したからといって、自分の命を少しでも延ばすことがで
きるか」の通り、何一つ成し遂げない。心が真っ暗に落ち込む事
で、何かを前向きに考えられるだろうか。思い煩いは有害無益だ。
なぜ思い煩うのか。自分が、自分が、になっていて、自分が出来る
と思っている。それならすべてが自分の肩にかかる。

しかし出来ないので、そのために思い煩う。「神の力強い御手の下
にへりくだりなさい」。思い煩いは、実際より、物事を大きくして
しまう。冷静に対処するなら、十分乗り越えて行ける事態が、恐れ
でパニックに陥ってしまう。その心配事は、絶えず脳裏に浮かび、
それを受け入れ続けていると、不安と恐れの要塞を築き、それを尚
も強固にし、モンスターにしてしまう。

モンスターにはとても打ち勝てない。しかし、それは現実、実際と
は異なる。妄想上のモンスターだ。最悪のシナリオは成ったためし
がない。一つ残らず主に委ねよと。主が目の前の事を心配して下さ
っている。主に明け渡そう。その時、真の慰め主である、主からの
慰めが臨み、いかに気遣って下さっているかを経験して行く。
------------
今日一日が全て自分の手にかかっていると思うからこそ、先の事を
心配する。自分に出来る事は曖昧な予想ばかりだ。へりくだり主に
立ち返ろう。心配事を主に告げて、そして主の平安を受け取ろう。


2023年04月24日(月)

「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、 赦してやりなさい。」マルコ11:25



信仰をもって、すでに受けたと信じて祈る時、その通りに与えられ
るとの、素晴らしい約束がある。だが続きがある。「だれかに対し
て恨み事があったら赦してやりなさい。そうすれば、天におられる
あなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」と、人
を赦す事が強調されている。

赦さない心は、祈りを妨げるので、祈りが聞かれないと言ってい
る。主が、あなたのどんなひどい罪もすべて赦して下さったのだか
ら、恨み事のある相手を赦しなさいと。私たちはしょっ中、失敗す
る者だ。しかし主は赦して、赦し続けて下さる。罪を犯さないので
はなく、赦され続けて生きている。それゆえ私たちも赦すべきでは
ないだろうかと。

まず恨み、憎しみ、赦さない心があると祈れなくなる。主と私の間
に、へだたりができてしまうので、確信をもった祈りができなくな
る。あなたも経験あるだろうか。ある人が、切実な必要のため、主
の御前に出て切に祈っていた。しかし祈るが答えられない。尚も祈
り続けていると、祈りの中で、ある人に対し、恨みと苦々しい思い
を根に持ち続けている事を示された。

これが祈りを妨げている事がわかり、心から悔い改めた。そして赦
した。その後、見事に祈りが答えられた。赦さない心は、祈りをし
ゃ断してしまう。祈りの答えを受け取るために、心の奥の密かな恨
み、赦さない心がないかどうか、御霊に探って頂こう。妨げが除か
れる時、すでに受けたと信じる事ができ、そして祈りの答えを受け
る。
------------
誰かに対して恨み、憎しみがある時、一番に祈るのは自分の罪の赦
しではないだろうか。人にされた嫌なことは何度も思い出す。思い
出すたびに主に赦せるよう、また主から赦されるように祈ろう。


2023年04月23日(日)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6



信仰生活の中で、経験する。主は絶えず導いて下さるが、しかし自
分の思い通りにはならない事を。私たちを取り巻く環境は、すべて
主からのものだが、自分の思い通りではないし、自分の思い通りに
はならない。受け入れられないだろうか。そのため、とにかく環境
を変えよう〃とする。不満で仕方がない。自分の思い通りにしたい
ばかりだ。

状況を変えよう、相手を変えようと、悪戦苦闘する。どんなに苦闘
しても、何も変わらない事を知る。疲れ果ててしまい、不毛の戦い
をする。何一つ変わらず、どうどうギブアップする。主の御前に静
まり、祈りに持って行った時に、「主が曲げたものを誰が真っ直ぐ
にできよう」と言われる。「これはわたしが曲げている」との御声
を聞く。それを真っ直ぐにしようと、苦闘していた事に気づく。

ある人が子どもの難病を、受け入れられなかった。「なぜ?」「自
分の子が?」と涙は溢れ、苦しく、心は辛いばかりで、主に対して
反抗している自分がいた。同年齢の子供を見れば涙が出て、悶々で
とうとう限界に来た。

行き詰まり、煮詰まり、ギブアップした。自分自身も、子どもも、
将来も、何もかもを、主に明け渡した。その時、不思議が起きて、
状況は同じままなのに、心に、初めて深い安堵が来た。自由にされ
た。委ねられずに握っているなら、その事を主に告げて、ありのま
まを祈ろう。状況に主を認め、自分を明け渡して行く時、心がまっ
すぐに、つまり平安にされる。

・・・・・・・・・・
なかなか明け渡す事が出来ない。主を認められず、自分で何とかし
ようとしてしまう。気づかないことも多い。しかし行き詰まってし
まい、どうにもならず、主に渡す。すると平安にされる。何度も経
験させられて来た。


2023年04月22日(土)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6



信仰生活の中で、経験する。主は絶えず導いて下さるが、しかし自
分の思い通りにはならない事を。私たちを取り巻く環境は、すべて
主からのものだが、自分の思い通りではないし、自分の思い通りに
はならない。受け入れられないだろうか。そのため、とにかく環境
を変えよう〃とする。不満で仕方がない。自分の思い通りにしたい
ばかりだ。

状況を変えよう、相手を変えようと、悪戦苦闘する。どんなに苦闘
しても、何も変わらない事を知る。疲れ果ててしまい、不毛の戦い
をする。何一つ変わらず、どうどうギブアップする。主の御前に静
まり、祈りに持って行った時に、「主が曲げたものを誰が真っ直ぐ
にできよう」と言われる。「これはわたしが曲げている」との御声
を聞く。それを真っ直ぐにしようと、苦闘していた事に気づく。

ある人が子どもの難病を、受け入れられなかった。「なぜ?」「自
分の子が?」と涙は溢れ、苦しく、心は辛いばかりで、主に対して
反抗している自分がいた。同年齢の子供を見れば涙が出て、悶々で
とうとう限界に来た。

行き詰まり、煮詰まり、ギブアップした。自分自身も、子どもも、
将来も、何もかもを、主に明け渡した。その時、不思議が起きて、
状況は同じままなのに、心に、初めて深い安堵が来た。自由にされ
た。委ねられずに握っているなら、その事を主に告げて、ありのま
まを祈ろう。状況に主を認め、自分を明け渡して行く時、心がまっ
すぐに、つまり平安にされる。

・・・・・・・・・・
なかなか明け渡す事が出来ない。主を認められず、自分で何とかし
ようとしてしまう。気づかないことも多い。しかし行き詰まってし
まい、どうにもならず、主に渡す。すると平安にされる。何度も経
験させられて来た。


2023年04月21日(金)

「彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、『ダ ビデの子よ。私をあわれんでください。』と叫び立てた」 マルコ10:48


バルテマイは、道ばたで人々に物乞いをしていた。金銭、物を恵ん
でもらい生きていた。だから、主に「わたしに何をしてほしいの
か」と言われた時、生涯暮らせるだけの金銭を求めてもよかった。
だが主に求めたものは、金銭でなく「目が見えるようになること」
だった。それは、この方にはそれが可能との信仰があったからだ。

それが無ければ、はなから求める事はしない。彼には信仰があっ
た。その信仰は「私をあわれんで下さい」との叫びとなった。周囲
に黙らせようとされるが、黙るどころか、ますます叫び立てた。も
し、主が受け止めて下さると信じられなければ、叫び続ける事など
しない。意味の無い事だから。何より、主に求めもしなかったろ
う。

彼は本気で、必死だった。この時、この機会しかない、二度と無い
と思い、全身で叫んだ。ザアカイも同様だ。主を見るのは今しかな
い。機会はもう二度と来ないと、大人が木にまで登った。バルテマ
イは、ここであわれみをもらわなければ、生涯盲人のまま、ザアカ
イは一生虚しい喜びもない暗い日々であり、絶対にこのまま帰れな
かった。主はその心底からの切なる求めに、答えて下さった。

私たちはどうだろう。求めがあるだろうか。与えられても与えられ
なくても、どっちでもよいのだろうか。又、はなから諦めてしまっ
ているだろうか。彼は何も出来なかった。唯一出来ることが「あわ
れんで下さい」の叫びであり、求めだった。この主への求めを、主
は待っておられる。そして喜んで下さる。
------------
素直な求めを主は喜んでくださる。何という幸いだろう。どうせ変
われないと諦めている罪も、あわれみも慰めも素直に求めていこ
う。信仰の祈りを主に向かい献げよう。


2023年04月20日(木)

「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高 くしてくださいます。」ヤコブ4:10



信仰人生には様々な事柄が起きる。嬉しい事、ハピーな事があると
同時に、苦しく辛い事、悲しい事も必ず起きて来る。そして私たち
は、辛い事が起きた時に、その不幸の原因を、環境のせいにした
い。対人関係の問題は多い。職場でも仕事自体より人間関係で悩む
と言われている。あの嫌な人がいるから職場が辛い。あの人さえい
なければ・・あの上司、あの同僚さえいなければ、快適なのに・・。

悩みの原因として、特定の人が浮かび、憎しみが湧くだろうか。主
がおられるなら、なぜこのようなのかと、不満だろうか。だが「主
はその愛する者を懲らしめ」とあり、懲らしめは愛だと言われる。
今、わけがわからず、理解できない事が起きていても、主の動機は
「愛」だと。祈って行こう。

主が教えようとされている事、主からのメッセージがあり、見えて
来る。自分の中のとがっている部分が削られる。高慢、プライド、
虚栄心か。なぜその相手がそれほど嫌なのか。自分の何に触れるの
か。時に自分の中の、自分が嫌で、受け入れ難い部分があり、それ
を相手に見る時に、相手を嫌うと言われる。

相手でなく実は自分を受け入れられず、自分の問題となる。又、へ
りくだりを学ばせられているかも知れない。ひざを折って、主の御
前にへりくだる事、それは同時に相手の前にもへりくだる事だ。主
が、学ばせたいと思っておられる事が、受け取れるように祈ろう。
------------
嫌な相手を通して主は何を教えておられるのだろう。嫌な相手の事
ばかり見ていると自分の姿がわからない。主の前に高ぶっている自
分の姿を示されたなら感謝だ。悔い改めたい。


2023年04月19日(水)

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足さ せるようなことはありません」ガラテヤ5:16



御言葉は、肉と御霊は互いに対立していると言う。肉は、御霊に従
う事に逆らって来る。突然、時間が空いた時に、御霊が「今、チャ
ンスだ。祈りの時を持て」と促される。しかし肉は「今は疲れてい
る。祈る気がしない。テレビを見て、気分転換しよう」と言う。御
霊は「この想定外の事態も“すべての事について感謝”、感謝せ
よ」と言われる。

しかし肉は「感謝などできない。この事態のどこが感謝なのか」と
不満でいっぱいだ。嫌な人が目の前に現れる。御霊は「隣人を愛せ
よ」「祈れ」と。新しい性質は「“敵を愛せよ”なのだから、嫌な
人も愛せるよう祈ろう」と思う。しかし肉は「あんな相手、愛した
くない。関わりたくない」と思う。

御霊は「人を傷つけたのだから、謝るよう」言われ、肉は「謝罪は
したくない。親切な行ないで返せば、よいではないか」と言う。御
霊は「復讐するな。神に委ねよ」と言われ、肉は「倍返しにした
い。反撃すべきだ、気持ちがおさまらない」と言う。御霊は「不満
があっても、まず祈り、赦すように」と言われ、肉は「絶対に赦さ
ない」と言う。

肉は、御霊の導きと正反対に向かい、神の栄光を損なって行く。肉
の願う事と御霊は、相容れない。肉の思いは神に反抗する。だから
「御霊によって歩め」と。まず自分に出来ない事を認めて、主に助
けを求めて祈ろう。助けが臨み、肉を拒否し、御霊の方を選択でき
るよう助けられる。御霊によって可能にされる。
------------
肉の思いはどこまで行っても自分中心で、自分の考えで生きていき
たい。ずるずると御霊に従いたくない思いがある。認めよう。瞬
間、瞬間が選択だ。


2023年04月18日(火)

「コラは全会衆を会見の天幕の入口に集めて、ふたりに逆らわせよ うとした。そのとき、主の栄光が全会衆に現れた。」民数記16:19


コラの反乱と言われる箇所だ。コラとその共謀者達が250人と共
に、モーセとアロンの権威に立ち向かった。彼らは逆らい「全会衆
は聖なるものなのに、なぜあなた方が集会の上に立つのか、分を越
えている」と。しかし主ご自身がこの反逆に決着をつけられた。
「あなたがたが分を越えているのだ」と地面が割れ、反逆する人々
は飲み込まれた。

主ご自身が、さばきをされた。そして主は明白なしるしを与えられ
た。12部族に、それぞれ1本づつ杖を持たせ、主が選ぶ者の杖は芽
を出すというものだった。すると、アロンの杖が芽をふき、つぼみ
を出し、アーモンドの実を結んだ。主が民の不平を静められた。私
達もそれぞれに、主から割り与えられた、分をわきまえる事は大切
だ。

主が、今の場所で、一人〃に与えられた分がある。それぞれの立場
や役割は、主からのものだ。分を越えていたのは、コラや共謀した
人々の方であった。今、私たちが与えられた場所で、立場、役割に
おいて他の人々と比較してしまい、羨望や妬みはないだろうか。
もっと良い場所にいるべきとの、自己憐憫はないだろうか。

他への妬みは、恐ろしい罪へと増幅して行く。憎しみや、邪悪な行
ないが生まれる。あなたを今の場に置かれたのは、主だ。「自分の
領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた」のが悪魔だ。主を認
め、今の立場と役割を感謝しよう。主はその所で、あなたを祝福し
て、あなたを大いに用いられる。
------------
今いる場所を主からのものと受け取りたい。人に向く比較の目は自
分自身も損なってしまう。主に渡していこう。主が正しく導き救い
出してくださる。今の恵みを数えよう。


2023年04月17日(月)

「すると、イエスは言われた。『それを、ここに持って来なさい』 マタイ14:18



私たちは、どうしてもマイナス思考が働くだろうか。又、それは
諦めだろうか。「私ごときが、小さな証しをしても何になろう」
「こんな微々たる献金、してもしなくても同じだ。役にも立たな
い」「力のない私が、少々祈ってもだめだ。何の力にもならない」

「こんな微力の祈りが聞かれるとは思えない」「こんなに大勢の
未信者の中で、私に何ができよう、何もできやしない」ふっと心
に湧いて、尻込みするだろうか。悪魔がささやいている。「何に
もならない」「無駄だ」「役に立たない」「焼け石に水だ」

少年の5つのパンと2匹の魚、小さなお弁当で、微々たるものを、
大勢の群衆に対し、こんなもの何になると、主のもとへ持って行
かなければ、どうだろう。少年は奇跡を目の当たりにする事も無
いし、自分が用いられるという大きな喜びを経験する事も無かっ
たろう。又、皆もこの奇跡を目にする事は出来なかった。

主は全能の力を持っておられる。「パンが5つと魚二匹・・ほかあ
りません」「それをここに持って来なさい」これが何になろうと
思う、その微々たるものを、又、私に何が出来ようと思う、あな
た自身を、主のもとへ持って行くなら、献げられたものを用いら
れる。そして大いなる奇跡をされる。主が働かれる。

どんなに僅かであろうと、小さかろうと問題でない。主は祝福さ
れる。又、周囲の人々も満ち足りて、満腹する。周囲への祝福の
器として、用いて下さる。小さなものが、主の御手に渡ることが
肝心だ。用いられるという、素晴らしい祝福にあずかる。
------------
自分は出来ない、自分はだめだ、でも主にあっては何でもできる。
これが私たちの確信だ。与えられた志こそ主の祝福の始まりでは
ないか。そのままを主に祈り手渡そう。


2023年04月16日(日)

「あすの今ごろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなた のところへ遣わす。あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラ エルの君主とせよ」Tサムエル9:16


この箇所では、時ピッタリの、「ちょうど」の主の導きを見せられ
る。この頃、民は、他国のような王を求めた。それはサムエルの気
に入らなかった。しかし主は「聞き入れよ」と言われた。「このわ
たしを退けたのだから」と。民に王に関する警告をするが、聞く耳
を持たず、尚も王を求めた。

そのため主は、サウルを王に立てられた。その時のサウルとサムエ
ルの出会いが絶妙だ。サウルの父親の雌ロバがいなくなり、サウル
が捜しに出る。あちこちと捜し回り、ツフに至る。見つからずに帰
ろうとすると、連れの者が、丁度この町に神の人がいるから聞こう
と提言する。サウルは同意し、町へ入ると水汲みの娘たちがいた。

尋ねると、その神の人は、丁度今日、町に来て、今からいけにえ
をささげるところで、すぐに行けば会えると。そこで進み行くと丁
度ピッタリ、サムエルに会えた。サムエルはその前日に、主から一
人の人を遣わすから君主とするよう示しを受けていた。

雌ロバ捜しから、パズルが埋まるように、すべてのタイミングが驚
くばかりにピッタリだ。あなたも、時や事柄がピッタリのタイミン
グで運ぶ経験があるだろうか。まさに主の働きであり、主が導かれ
ている。主の導きは御言葉と共に、環境からも知れる。今、導きを
求めているなら、環境もしっかり見張っていよう。『ちょうど』の
タイミングを経験する。

・・・・・・・・・・・・
ちょっとでも、時がずれていたら、この事柄は成り立たなかった。
何もかもが、ビッタリのタイミングは、人間には不可能だ。まさに
主が働かれた結果であり、人間がした事でないことがわかる。時に
日常で、この人間がした事でない、主のみわざを経験する。


2023年04月15日(土)

「・・こうお話しになってから、ペテロに言われた。『わたしに従 いなさい』」ヨハネ21:19



ペテロは愛する主を裏切ってしまい、心はどんなに暗たんたるもの
だったろう。深い後悔にさいなまれ、虚無感の中にあったろう。重
く沈んだ心で、なすすべなく、唯一できる漁に出た。以前に捨てた
網を取って。しかしプロのベテラン漁師のはずが、魚は一匹もとれ
ない。更に惨めになりどん底だったろう。

その時、主の方から語りかけが来た。「食べる物がありませんね」
ありのままを認めて告げた。「はい、ありません」これがいつも回
復への道だ。「自分にはありません」。主の御前に正直に言い表し、
認める事だ。愛が無い、忍耐が無い、力が無い・・。その時「右側に
網をおろせ」との指示が来た。

彼らにすれば、誰か知らないが、その人の言う通りに網を下ろした。
すると驚きの大漁だった。無力で構わない。主の御声に一歩従う時、
主の力が臨み、みわざを見る。主の方からご自身を現わし、挫折し
たペテロを回復させて下さった。「主よ。あなたはいっさいのこと
をご存じです」と、ペテロはいっさいを、何もかもを、今の自分自
身をそのまま主に明け渡した。

主は、この砕かれたペテロを建て直し、建て上げ、聖霊に満たして、
諸教会のリーダーとして用いられた。どんな失敗があっても、主の
愛は全く変わらない。あわれみは尽きず、再び、立ち上がせて下さ
る。何があっても、やり直せるとは、何という希望だろう。

・・・・・・・・・・
どんなに失敗しても、主に向き、悔い改める時、赦されて来た。失
敗しないのでなく、赦されて〃これまで来た。赦される度に、主の
深い愛を知って来た。主の愛は決して変わらず、あわれみは尽きな
い。今日も同じ愛で、愛されている


2023年04月14日(金)

「主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはな いからだ」詩篇34:9



ダビデは詩篇34篇に、以前の失敗のことを記している。この34篇の
状況を記し「ダビデによる。彼がアビメレク(アキシュ)の前で気
違いを装い、彼に追われて去ったとき」と。この時のダビデは最悪
の悲惨な状況にあった。サウルがダビデ殺害命令を出し、サウルと
軍隊にずっと追跡され、命を狙われ続けた。

常に死と背中合わせの、何という緊張、緊迫状況だろう。どれほど
のストレスだったろう。サウルの執ような追跡に、ダビデは敵のガ
テ王アキシュのもとに逃れた。だがアキシュの家来たちが、ダビデ
の正体を知らせる。ダビデはアキシュを非常に恐れ、身の危険に、
狂った振りをする。気違いを装った。

その演技で、アキシュから追放され、その場を逃れる事ができて、
ほら穴に身を隠す。気違いに見せるために、偽り、よだれを流し、
何という惨めな、屈辱的な姿だろう。絶えず命が狙われ、追われ、
予測もできない日々に、追い詰められたダビデは、人を恐れる事
により、失敗してしまった。

しかしダビデは、この失敗の経験により、人を恐れるのではなく、
主を恐れる事が重要であると、身をもって学ばされた。主への全き
信頼こそが、最も大切であり、主を恐れる者には乏しいことは無い
と。主に身を寄せるなら、すべての必要が必ず与えられる。そして
ダビデは「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつ
も、主への讃美ある」と。

私たちも教えられる。人を恐れる時、方向を見誤ってしまう。そし
て主を頼るのでなく、自分で画策して、失敗してしまう。人への恐
れに支配されていないだろうか。祈りに持って行こう。
------------
人を恐れると人にコントロールされてしまう。主に祈り解放しても
らおう。主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り助け出される
と。主が救い出してくださる。


2023年04月13日(木)

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ讃美の歌を歌っている と、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」使徒16:25



福音宣教をしていたパウロとシラスが捕らえられた。着物をはぎ、
何度もむち打たれて、投獄された。暗い牢獄に、足かせの中、ひど
くむち打たれた身体に激痛が走る。そんな状態の中で、彼らは真夜
中に「神に祈りつつ賛美の歌を歌って」いた。すると他の囚人たち
が聞き入っていた。

その悲惨なまでの状況で、不平も不満もなく、湧き上がる賛美に、
囚人たちは今まで見た事のない、この世のものとも思えないものを
見た。すると突然の大地震で戸が開き、かせの鎖がはずれたが、誰
一人逃げず、彼らに従った。そこで目がさめた看守は、囚人が皆逃
亡したものと思い、自害しようとした。

その時、パウロは「自害してはいけない。みなここにいる」と叫ん
だ。驚いた看守はパウロとシラスの前に、震えながらひれ伏した。
看守は主イエスを信じ、救われた。そして看守の家族全員が救われ
た。星野富弘さんは、脊椎損傷で、首から下は動かない身体になっ
た。

深い苦しみと悲しみ、絶望の淵にいたが、聖書に触れ救いに入れら
れた。人生が一変した。絵筆を口にくわえ、花々の絵を描いた。絵
と心から湧き出る詩が、沢山の人に深い感動を与えている。傷つい
た人の心をいやし温めている。彼は信じたからと言って、奇跡的に
身体がいやされたわけではない。

しかし不自由な身体という御心を受け入れ、感謝して生きているか
らこそ、人々を惹きつけ、慰め、力づける。与えられた御心を受け
入れて生きる時、それは大きな証しと用いられる。主の栄光を現す
ことになる。受け入れられるよう、祈りから始めよう。
-------------
順境の日と同じように、受け入れがたい逆境の日も変わらず主のご
計画の中だと主を認めて生きたい。祈ろう。主は見ていてくださ
っている。必ず受け入れられる日が来る。


2023年04月12日(水)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで あなたのおきてを学びました」詩篇119:71



信仰人生には、様々な問題が起きる。主が試練を与えられる。問題
や悩みは、誰でも嫌なものだ。できるだけ、痛い目に会いたくな
い。できれば避けて通りたいし、出来る限り順境であって欲しい。
平穏な日々が、私たち皆の望みだ。しかし御言葉はそう言わない。
正反対のことを言う。

「苦しみに会う前には、あやまちを犯した。しかし今は、あなたの
言葉を守る」と。そして「苦しみに会ったことは、私にとって幸せ
だった。私はそれであなたのおきてを学んだ」と。一見、苦しみに
会うと、過ちを犯しそうに思える。だから順境で、平穏でいたい。
だが逆で、苦しみに会う前は、過ちを犯したと言っている。

つまり、苦しみを通ったからこそ、過ちから守られ、御言葉に従
い、御言葉を守る者とされいると。それなら何と感謝な事だろう。
そして、苦しみに会った事が幸せだったと言っている。私たちはど
うだろう。世の培われた価値観で、苦しみに会う事は、不幸だと思
っている。だが「信仰人生で一番主に近かった時は?」との問い
に、多くの人々が「試練の時、苦しかった時」と答える。

あんなに主に近い時は無かったと。これは苦しみにより、自分では
何も、どうにもならず、ひたすら主に頼り、すがる者とされるから
だ。真剣に、本気で、主に向かい、切に御心を問い、自らの真の姿
を照らされる。順境の時には、決して知ることのない、自分の不信
仰や、エゴに気づかされる。悔い改めて、新たにされる。そして、
主との交わりが深められて行く。これこそが、一番の幸いだ。
------------
苦しみの時に知った喜びは、決して順境では知ることはなかった。
苦しく辛い状況の中にも主が共におられるとの確かな平安と静かな
喜びだ。苦しみの中で主の大きな支えを受け取る。


2023年04月11日(火)

「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお 救いになるのに妨げとなるものは何もない。」Tサムエル14:6



例えば戦いなら、兵士の数は勝敗に非常に大きく関わる。千と1万
なら、1万人が有利に決まっている。戦いの常識であり、人数の多
い方が勝つ。それが大人数、小人数は関係無いと言っている。又、
詩編記者も、勝利は軍勢の多い事にはよらないと言う。常識がくつ
がえる事を言われると、戸惑い、いぶかる。常識で生きているから
だ。

神の言葉と信仰と言いつつも、実際は常識や、既成概念や経験値は
大きいだろうか。現実生活では、信仰は飛んで、目に見える計算
で、軍勢の多い少ないで判断しているだろうか。つまり自分の力に
よることになる。頭で計算し、これなら自分の力の範囲内で行け
る、これは無理と。そこに主と御言葉の入る余地がないだろうか。

だが、御言葉は勝利は兵の数にはよらず、主によると結論づける。
主に信頼し、主の導きによって進むのであれば、常識はくつがえさ
れる。そこに主が働かれるからだ。大きなみわざが現れる。兵の
数、つまり自分の力や、障害や困難の大きさがどれほどであって
も、それは問題でない。

物理的力ではなく、主の御心かどうかの問題だ。軍勢の数で、計算
し、頭が動いているだろうか。又、もし主が共に行かれないなら、
どんなに大軍勢であっても、敗北だ。救いは軍勢ではなく、主によ
るのだから。「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵み
を待ち望む者に」。主を信頼する者に、恵みが注がれる。
------------
主の御心なら主の方法と主の時に必ず最善をしてくださる。目の前
の状況に頭はフル回転してパニックになるが、主はそれも全て知っ
ていてくださる。頭で考える前にまず主に祈ろう。


2023年04月10日(月)

「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、 父が出て来て、いろいろなだめてみた。」ルカ15:28


弟息子は、父親のもとは窮屈だと財産の分け前を受け、遠国に出
た。放蕩三昧で全財産を失ったが、父親のもとに立ち返れた。心身
ボロボロの自分を怒らず、責めず、裁かず、抱きしめてくれた父親
により、無条件の愛を知った。だがこの事で、兄息子の心の状態も
あらわになった。

普段は底に隠れ、外側に表れる事のない本音だった。兄は、好き勝
手をし、のうのうと戻る弟が赦せない。怒り心頭だ。又、それを赦
して迎える父親にも、怒りが向く。「家に入ろうともしなかっ
た」。行方不明の弟が戻ったのだが、自分は辛い目をして重労働し
ているのに、子山羊一匹もらった事もないと。兄の働く動機は報酬
のためだった。愛ゆえでは無かった。

私たちもどうだろう。御霊によらず、自力で汗水流している時は、
何もしない人を見ると、腹を立てる。恵みの下にいないと、肉はそ
うなってしまう。父はそんな兄を叱らず、責めず、ただただなだめ
ている。わたしのものは全部お前のものと、兄への愛でいっぱい
だ。

私たちも自分軸で、自分の力で生きている時は、神の愛がわからな
い。時々兄息子になってしまう。赦せない思い、怒り、裁く思い・・
こういうものに心が支配されている時は、御前に行き、主と交わろ
う。交わりの中で、今一度、御霊の支配の中に、神の愛に導き返し
て下さる。主にとどまる時、恵みの下は、感謝と平安だ。
------------
弟も自分だが、兄もまた自分だ。人を裁いてしまう時、自分は正し
いと高い所から見下している高ぶりに気づきたい。主にあわれみを
受け、愛されている事を今日も覚え感謝して歩もう。


2023年04月09日(日)

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、 互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、 あなたがたもそうしなさい。」コロサイ3:13



ある人が、学生時代に友人たちとけんかになった時に、ひぼう中傷
され、悪口を言いふらされ、非常に悔しい思いをした。その時に、
攻撃して来た生徒たちをずっと憎み、恨んでいた。卒業後、皆が
別々の道となった。そして自分は人一倍努力を重ね、頑張って〃生
きて来たが、その動機は、彼らを見返してやりたい一心だった。

執念深く恨み、許せなかった。幾ら頑張っても、そこに喜びも安ら
ぎも無かった。嫌な対人関係が目に見える形で無くなったとしても、
会わなくなったとしても、恨みが残る。それならどんなに物理的に
距離が離れていても、ずっと自由のない牢獄に囚われの身だ。自分
の人生が恨む相手にコントロールされてしまう。

絶えず思いに上り、心に影を落とす。やがて教会に行くようになり、
御言葉を学んで行く中で、確かに相手は悪いが、しかし自分にも非
があったと気づかされた。そして今までの頑張りの動機が間違って
いたこと、自分が相手を恨むことは、自分の罪であり、自分の問題
であると知った。自分の憎しみや恨みが、自分自身を苦しめている
事も知らされた。

絶対に何があっても相手を赦したくない自我だった。光に照らされ
るように、自分の姿が見せられた。解放されたいと心底思った。自
分が相手を赦すことが解放だった。苦しみから解放されたく、悔い
改めて、赦しますと、意志を主に向けた。人を赦せない思いは、サ
タンのわなであり、策略だと言っている。がんじがらめにされてし
まう。主に助けを求めて祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・
頭では赦さなければと思うが、肉は何倍にもして報復したい。御霊
によらなければ、不可能だ。御霊によって、御霊に導かれる時に、
赦すことができる。主に行き、赦したくないとの祈りから始める時、
一歩〃ふさわしい示しを下さり、解決へと導かれる。


2023年04月08日(土)

「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照 らされます。」詩篇18:28 



教会では、祈ること、聖書を読むことをいつも勧められるので、聖
書を読まなくてはと思う。そのため聖書を開くのだが、読みつつも、
他の思いが次々と入って来る。その内に、あれやこれやと思いはさ
まよい、結局、何を読んだのかわからない。時間ばかりが過ぎて行
く。背後に妨害する悪魔が働いているのだが、しかし自分の内側は
どうだろう。

固い心がないだろうか。主に頼らずとも、自分で十分やって行ける
ので、そこまでの真剣さがない。又、無意識ながら、実は御言葉を
聞きたくないのかも知れない。自分の計画や思いがあり、どうして
も手放せない。自分の思いと異なる御心を示されても困る。自分の
内に、自分を握って放さない頑ななパロがいるだろうか。

出エジプト記で、エジプトの王パロは、主に打たれると民を行かせ
ると言うが、ひと息つくと頑なになり前言をひるがえした。ある人
は忙しい毎日に、時間が無くて聖書が読めない、こんなに忙しくさ
えなければ、時間が欲しい〃と思っていた。しかし突然の休暇が与
えられると、大喜びで行楽に飛んで行き、聖書など全く頭に無かっ
た。

時間の問題でなく、自分の内側の問題である事を示され、気づかさ
れた。頑なな固いものがあり、従えないのだと。それを祈りに持っ
て行けた。御霊の気づきから始まり、一歩一歩と自分が変えられ、
成長へと導かれて行く。

・・・・・・・・・・・・
成長が、自分の本当の姿の気づきから始まることが感謝だ。逆に自
分の真の姿を知ることが無いなら、成長が無い事になる。自分の
様々な本心を見せられる時に、砕かれるが、変えられて行く。きよ
められて行く。


2023年04月07日(金)

「私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にでき ないことだ。さあ、今は、あの枕もとにある槍と水差しを取って行 くことにしよう」Tサムエル26:11



ダビデは、自分が忠実に仕えていた主君サウルに、妬みから命をつ
け狙われていた。相手は王であり、兵士全員を思うがままに動かせ
る。追跡される中をダビデはひたすら逃げ回っていた。そんな時、
サウルがダビデの所在を知り、3000人の精鋭を率い、追った。それ
を斥候を送り確認したダビデは、夜にそのサウルの陣営に向かっ
た。

するとサウルと側近たちは皆、熟睡していた。今こそ反撃のチャン
スだ。部下が、これは、神が敵を渡されたのだから、殺させて下さ
いと申し出た。だがダビデは決して許さなかった。その理由が、サ
ウルが「主に油を注がれた王」であるから。しかし、同時にダビデ
を殺害しようとするサウルの行動は、主の御心に反するものである
事も知っていた。

その事について「主は、必ず彼を打たれる」と信じたので、裁きを
主に委ねていた。決して自分の手で復讐しようとしなかった。その
しるしに、サウルの枕元にある槍と水差しを持ち帰った。「主が彼
らを深い眠りに陥れられた」ので、皆、眠りこけて全く気づかなか
った。すべての事は主の主権の下にあり、主は眠りすら支配されて
いる。

ダビデは、サウルと自分の関係性でなく、主と自分の関係で、物事
を見ていた。もし個人的利害関係に立つなら、この好機を捕らえな
いわけがない。ダビデとサウルの違いは、ダビデが主の御心を行な
う者であり、サウルは自分の心を行なう者だった。どのような状況
であれ、主と主の言葉に立ち、従って行く時、必ず主は豊かに祝福
し、報いて下さる。
------------
反撃のチャンスは主からのものだと自分の都合を御心と混同してし
まう。この近道は本当に好機だろうか。御言葉から聞き、よく祈っ
て失敗から守られたい。主が目を開いてくださる。


2023年04月06日(木)

「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ。サ タン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思 わないで、人のことを思っている』」マタイ16:23


主が、ペテロに「あなたがたは、わたしをだれだと言うか」と問わ
れた時に、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と立派な素
晴らしい答えをした。しかしその後、主が十字架の死と復活の事を
話されるや、何とペテロは、主の言葉に対し、主をいさ始めた。
「そんな事が、あなたに起こるはずがない」と。

十字架を「そんなこと」と言い、「起こるはずがない」有り得ない
と。主は、それに対し「下がれ、サタン」と、サタンだと言われ
た、主の邪魔をするものだと叱責された。十字架を否定し、挑んで
来る敵を見破られた。ペテロにすれば、良かれとの思いしかなく、
主のためを思って言った事だった。しかし、それは人間の思い、肉
の価値観、サタンからのものであり、主の御心に敵対するものであ
った。

結果的にサタンに誘導されて、罪を犯す事になってしまう。しかし
本人は正しいと思い込んでいる。「あなたは神のことを思わない
で、人のことを思っている」。この世の価値観に思いがおおわれて
いる。ある人が子どもの進路が不安で〃たまらない。思い煩い、恐
れ、心配で落ち込み、御言葉も入らない。

しかし我に返り、この世の価値観に流されていたと気づかされた。
価値観が問題だ。世の価値観に従うなら、御心と反対方向に向か
い、主を邪魔する者となってしまう。御言葉でなく、人間的な思い
で歩んでいないか、立ち止まり、御霊に心を探って頂こう。いつも
御心へと導き返して下さる。
------------
自分の良かれと思うことに流されてしまう弱さをもっている。この
祈りは主のご計画の邪魔をするものではないか、御言葉に頼り、主
にいつも聞いていこう。


2023年04月04日(火)

「また、いばらの中に種を蒔かれるとは、みことばを聞くが、この 世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばな い人のことです」マタイ13:22


別の種は、いばらの中に落ちた。これは、道ばたや土の薄い岩地と
違って、土地自体は良く、蒔かれた種が芽を出して行った。しか
し、芽は出たものの、同時に伸びてきたいばらによって、ふさがれ
てしまった。芽は伸びるが、いばらもまた伸びて、結局ふさぎ込ま
れ、実を結べない。いばらとは、世の心づかいや、富の惑わし、そ
の他いろいろな欲望とある。

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません」とあり、それ
らは御父から出たものではないと。そんな世にあるもの、肉の欲、
目の欲、暮らし向きの自慢などが、御言葉と一緒に、心にはびこっ
て来る。この世の圧倒的な、神無しの価値観に影響されてしまう。
自分の力と人間的な方法で歩んでしまう。

御言葉の価値観でなく、世の価値観、自分の思いと経験値で判断し
てしまう。それは御言葉が飛んでしまうので、何を食べるか、何を
飲むか、何を着るかは、大きな思い煩いとなる。御言葉は「何も思
い煩うな」「心配するのはやめなさい」と言うが、主への信頼よ
り、心配の方が大きくなっているだろうか。それがいばらであり、
ふさいで来る。

しかし御言葉を抑え込んで来るいばらを引き抜いて、取り除くな
ら、実を結んで行く。世を愛している時、欲望にとらわれている
時、御霊の気づきが与えられるように。サタンの罠に気づけるよう
に。まず主を仰いで、ありのままを祈ろう。主は軌道修正し、導い
て下さる。そして実を結ぶように歩ませて下さる。
--------------
世の様々な心づかいで自分を守ろうとしてしまう。主に祈ろう。主
は常に弱い私たちを豊かな恵みによって支えてくださっている。実
のなる御言葉を見つめ、実を結ぼう。


2023年04月03日(月)

「別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに 芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れて しまった」マタイ13:5



岩地に蒔かれるとは、岩の上に薄い土があり、表向きには御言葉を
喜んで受け入れるのだが、心の底に頑ななものがある。感情的に、
涙を流して御言葉を受け入れるのだが、しばらくして困難や迫害が
来ると、御言葉を捨ててしまうと。根が下へと根差そうとすると、
薄い土の下には岩があり、その岩にぶつかり、地中深くへと根差し
て行けない。

岩は自我であり、痛い事は負いたくないし、犠牲を払う事は避けた
いし、自分にメリットの無い事にも関わりたくない。自我が勝って
しまうのだ。そのため御言葉ゆえの困難が来ると信仰を捨ててしま
う。私たちもどうだろう。信仰に進もうとする時に、自分の中の固
い岩にぶつかるだろうか。自我がいかに強いかを思い知らされる。
思い通りに生きたいし、思いに反する事は拒んでしまい、自我が勝
ってしまう。

ある人が、怒りが沸くのがいつも同じパタンで、自分の内側の事に
気づかされた。そこから落ち込み、思い煩いに支配される。いつも
同じ所だ。サタンがその弱さを突き、毎回攻撃をしかけて来るのだ
が、祈っていると気づきを与えられた。その底に、変わりたくない
自分、自己正当化する自分、自分の強い思いがある事を。固い岩が
あった。

岩をも砕かれる主に、生き方を変えようとしない自分を認め、取り
扱って頂こう。主は砕き、耕し、私たちを変えて行って下さる。実
は砕きが成長のために、大きな祝福だ。愛、喜び、平安・・実を結ば
せたいと願っておられる。主を新たに経験して行く事ができる。
-------------
痛いところを避けていても、尖っている自我はいつも何かにぶつか
ってしまう。主と主の御言葉に向かい合う時を通されることは感謝
だ。主にお任せし、砕かれて主にある自由を受けていきたい。


2023年04月02日(日)

「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心 に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このよ うな人のことです。」マタイ13:19 



種蒔く人は主イエスだ。主が、御言葉を蒔いて下さるのだが、受け
取る側は、どのように聞いているだろう。蒔かれた土地は、私たち
の心だが、道ばたは、人々が絶えず踏みしめるので、固くてカチカ
チだ。そのため種が落ちても、地中に入らず、弾かれてしまう。こ
れはカチカチの固い心であり、御言葉を受け入れない頑固な心だ。

「よくわからない」と言うのだが、実は決して受け入れようとしな
い。頑なな心は、弾いてしまうが、又、他人事のように、自分には
関係無いとの態度で聞いても、スルーしてしまう。心に入らない。
映画館で映画を観ているようで、自分はその中身には関わりなく、
ただ傍観している。物理的に聞いてはいるが、心に入ってはいない。

種は、土地に植わってこそ、初めて事が始まって行くので、受け入
れないなら何も始まらない。聞いてはいるが、実は聞いていない。
種と耕された土地が一つとなって、豊かな結実を見る。良質の種は
あるのだが、土地の状態はどうだろう。自分の思いが強固で、自分
の思いでいっぱいで、弾き返してしまうだろうか。自分では無意識
だろうか。

又、もう一つ御言葉に関心がなく、心が向いていないだろうか。そ
うであれば、何もかも見ているサタンは、せっかく蒔かれた御言葉
をすぐに奪い去ってしまうと。頑なな心があれば、又、渇きが無け
れば、その事を気づかせて頂こう。そこから大きな祝福が始まって行く。

・・・・・・・・・・
主は御言葉を語っていて下さるが、土地が問題だ。自分の思いが強
いと、無意識に弾き返してしまい、種が心に入らない。心に入らな
いなら、実を結びようがない。心の状態はとても大切だ。自分はど
うだろう。御霊の気づきが与えられるよう祈ろう。実を結べるよう
に。


2023年04月01日(土)

「人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺され るが、三日目によみがえります。」マタイ17:23 


主は十字架の死とよみがえりを語られるが、弟子たちは理解できな
かった。わからないなら、主に問えばよいのだが、そうしなかった。
「尋ねるのを恐れた」とあり、真実を知ろうとする事、又、その事
を考えたり、追求する事を拒否してしまっていた。「恐れた」とは、
受け入れがたい事を言われるのが恐い。不安で知りたくない。向き
合う事を避けたい。

人は自分に都合の悪い事、痛い事は聞きたくない。耳を閉じてしま
う。弟子たちが求めていたのは、栄光のメシヤで、最後までそれし
か無かった。そのため十字架で無惨な死など、到底受け入れられな
かった。理解できないまま、主の十字架と復活を迎えた。しかし失
望落胆し郷里へ帰る、

エマオ途上の弟子たちに主の方から近づき、御言葉を語り、再び信
仰を燃やして下さった。又、弟子たちは、主がよみがえられ時、以
前そのように言われた事を思い起こし、聖書と主が言われた言葉を
信じたとある。私たちもどうだろう。自分の思いが強い時、強い思
いが妨げとなり、御言葉がわからない。

又、うすうす感じているあれやこれやも、痛いので向き合う事を避
けているだろうか。恐れがあるだろうか。ありのまま弱さも恐れも
主に告げて行こう。そして主に、わからせて下さるよう求めよう。
御霊が働いて下さるので、助け、解き明かし、わからせて下さる。
「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます
]

・・・・・・・・・・
ありのままを祈ってみよう。「御言葉が、ぼんやりしてよくわかり
ません」実はわかりたくないのかも知れない。わかると、従わねば
ならないので、犠牲を払うのは困るのかも知れない。心の奥の本当
の思いに気づかせて下さる。気づきにより、前に進んで行ける。