2003年02月28日(金) 『「わたしを去らせよ。夜が明けるから」しかし、ヤコブは答えた。『私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ』(創世記32:26)
『「わたしを去らせよ。夜が明けるから」しかし、ヤコブは答えた。『私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ』(創世記32:26)
ジョウージ・ミューラーは祈りと信仰によって、 孤児院を経営していた。理事会では財政的に不可能 な事態に直面した。ミューラーは喜んだのだ。 理事達一人一人がよく神に頼れるからだ。理事達は 真剣に必死に神に頼り、祈り求め全額の必要が満た されたのだ。あらゆる必要は神から来る。 しかし、私達は神に拠り頼まなければならない。 頼る事を学ぶのはいつも絶体絶命を通してだ。 自分の思い、自分のプラン、自分の力をやめる時神が 働かれる。あの父を騙し、長子の権を獲得したヤコブ もまた絶体絶命を通った。エサウが四百人を引き連れ て来ると聞き、恐れ怯えた時も策略を巡らした。 その時、神はもものつがいをはずし、ご自身が神であ る事を示された。彼に出来る事はただ一つ、祝福を請 い願う事。自分の力でなく神に頼ったのだ。
2003年02月27日(木) 「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」(マタイ7:1)
「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」(マタイ7:1)
こんな詩がある。小さな種が芽を出し始め、 私はどんな花になるのかと考えた。 バラは嫌、とげがある。ゆりも嫌、色がない。 スミレも嫌、小さいから。こうしてこの高慢な 種は、すべての花を批判した。ある日、目覚め て、自分が雑草である事に気づくまでは! 思い上がるな、慎み深く考えよと神は言われる。 へりくだって、人を自分よりすぐれた者と思い なさいと言われる。人をさばくと、自分にさば きを招くことになる。人をさばく時は、自分は 全く棚上げだ。自分を知らないから、裁く事が 出来るのだ。他人の欠点が見える時、あなたは その何十倍もの欠点がある。自分の事に関して は盲目だ。他人の欠点を忍耐せよ。周囲もあな たの欠点を忍耐しているのだから。人をさばか ないなら、あなたもさばかれない。
2003年02月26日(水) 「・・ついには命さえも危うくなり・・もはや自分自身をより頼まず・・神により頼む者となるためでした」(Uコリント1:9)
「・・ついには命さえも危うくなり・・もはや自分自身をより頼まず・・神により頼む者となるためでした」(Uコリント1:9)
「機会」は大切なもので、捕らえるべきものだ。 絶好の機会、生涯のチャンス等と言う。 神にとっての機会とは、どうだろう。私達は 良いものを「チャンス」という。しかし、神にと れば最悪の状況こそ、神が働かれるための 絶好の機会なのだ。絶対絶命こそが、神の 絶好のチャンスなのだ。パウロは苦しみに 会い、もう死ぬとまで思った。限界ギリギリ の所にいた。この時に、自分に頼まず、神 により頼む事を学んだと言った。限界の逆境 の中で、初めて学んだのだ。「良い」機会だけ を機会と思っているだろうか。そうではなく、 神にとれば最悪の状況が絶好の機会、絶望 の時が最大のチャンスなのだ。あなたは今、 神の絶好の機会に会っているか。神は大き くあなたを前進させて下さる。今こそ神に拠り 頼め。
2003年02月25日(火) 「私のとがが、私の頭を超え、重荷のように、私には重すぎるからです。私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです」(詩篇38:4)
「私のとがが、私の頭を超え、重荷のように、私には重すぎるからです。私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです」(詩篇38:4)
王であるダビデはその立場を利用して、 罪を犯した。部下の妻でアルバテシェバと の姦淫である。まして、その姦淫をおおい かくすために、夫である忠実な部下をわざ と敵の前線に出して殺されるように仕組ん だのだった。姦淫と殺人という二重の罪を 犯した。罪は赦されたが、彼の評判は汚さ れ、罪の結果に長く苦しんだ。 刈り取りがあった。火の中に手を突っ込む なら、火傷をする。痛みは時間と共に癒え るが火傷の傷の跡は残る。自ら罪に入って いってはならない。サタンの誘惑を絶えず 祈りの中で識別せよ。心をしっかり守り歩 みによく気をつけ、主に頼れ。築き上上げ てきた信頼関係、主の証しは、軽率さで、 また、罪により一瞬にして崩れ去ってしま う。罪に身を任せてはならない。
2003年02月24日(月) 『主はサタンに仰せられた「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない」』(ヨブ1:12)
『主はサタンに仰せられた「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない」』(ヨブ1:12)
神はサタンがヨブに襲いかかるのを許された。 ヨブをふるいにかけ、きよめるためにサタンを用 いられた。神が用いられるのは、常に砕かれた器 だ。私達を放っておかないで、抑制し訓練される。 様々な試練を与えられる理由である。ヨブと同様 にペテロも取り扱われた。ペテロの自信に対して、 自らの弱さを真に認識させ、神に頼る者とするた め、将来の指導者として建て上げるため、主はサ タンのふるいを許された。「サタンがあなたを麦 のようにふるいにかけることを願って聞き届けら れた」徹底的なふるいであった。 奥底にある「自信」を砕くために、痛ましい過程 があった。もはや、二度と自分の力を信じないよ うに、神に信頼して歩めるように。 私達に起こる様々痛み、苦しみは、自分の力を砕 き、神に頼る者に変えるため。
2003年02月23日(日) 「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか」(ヨブ40:7)
「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか」(ヨブ40:7)
ヨブは潔白で正しく、神を畏れ、悪から遠ざかっていた。 ヨブは神に祝福され、大勢の子供達、莫大な富が与え られ、人々からの尊敬を受けていた。彼はこの世的に も、この上もなく幸福で満たされていた。しかし、ヨブは 試される必要があった。見た目には見えない、心の奥 深く根ざした問題を持っていたのだ。それは、自分を義 とする態度だった。彼は神の真実な聖徒であり、神を 信じていた。しかし、心の底には彼自身も気づいていな い自我が横たわっていた。ヨブは試練によって、底に あるものが裸にされ、自分の真の姿を知るようにされ た。そのために、神はサタンを許され、サタンをも利用 されたのだ。私達の内にある自己満足、自己過信、 自己正義を、試練の中であらわにし、砕いて下さる。
2003年02月22日(土) 「指導がないことによって、民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る」(箴言11:14)
「指導がないことによって、民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る」(箴言11:14)
私達がみこころを求める時、御言葉と祈りによる 平安と環境が開かれることの3つによって、御旨 を確信して進んで行ける。それに加えて、賢い 助言を受ける事は大切であり有益だ。「密議をこ らさなければ、計画は破れ、多くの助言者によって 成功する」米国のある神学校での事だ。移転案が 出て、それは一長一短だった。教師全員で御旨を 求めて祈り、確信したところを投票する事にした 各自、1週間切に祈った。御旨を示される事を 確信して、投票すると、何と賛成と反対がちょうど 同数だったのだ。皆は不安と混乱に陥っただろうか。 そうではなく、この結果を主にあって熟慮した時、 意見がちょうど二つに分かれたことは、移転させな い方が良いとの神のお心と確信したのだ。 多くの助言者によって、正しい選択が出来る。 一人で悩まないで、わきまえある人々に助言を 求める事は良いことだ。
2003年02月21日(金) 「そもそも、互いに訴え合うことが、すでに・・敗北です。なぜ、不正を甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか」(Tコリント6:7)
「そもそも、互いに訴え合うことが、すでに・・敗北です。なぜ、不正を甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか」(Tコリント6:7)
コリントの教会では、教会員の間に分裂があり、 争いがあった。彼らは争いを一般の法廷に持ち込 み、未信者の傍聴人の前で、未信者の裁判官に裁 いてもらおうとした。そのため、神の聖なる御名 が未信者の前で傷つけられていた。パウロは神の 栄光が損なわれ、神の御名が傷つけられている事 に憂い、神を知らない異本人の前に持ち出し、 御名が傷つけられるよりは、騙され、損害を受け るほうがましだと言った。私達が求めるのは、神 の栄光であって、損得ではない。 神の栄光が汚されるより、自分が損をした方が良 い。損得勘定よりもっと大切な事がある。 あなたのする事は神の御名が崇められるか、神の 栄光が現されるか。それとも自分の損得で生きて いるだろうか。
2003年02月20日(木) 「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じる・・」(ヤコブ1:2・3)
「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じる・・」(ヤコブ1:2・3)
神は私達の人格に豊かさをもたらすために、 試みを通される。私達が成長するためには、 どうしても試練を通らなくてはならない。 だからこそ、試練をこの上もない喜びと思 いなさいと言われる。 私達の目標は主イエスに似る事だ。 楽しい生活を送る事でも幸せになる事でも ない。主に似る事。このためには多くの試 練が必要だ。 これをわきまえていると苦しい状況の中で も、見方が変わって来る。 神は試練のまっただ中で、御声をかけて導 かれる。覚えていた御言葉を思い起こさせ て下さる。 神のお心を悟るために、ヤコブ1:5の通 り、知恵を願い求める事が出来る。 神は試練のまっただ中で、何を教えたいの か、悟らせて下さる。神のお心を知る時、 痛いけれども、心の底に平安が来る。そし て一段階成長して行く。
2003年02月19日(水) 「『主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください』イエスは『来なさい』と言われた」(マタイ14:28)
「『主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください』イエスは『来なさい』と言われた」(マタイ14:28)
ペテロは水の上を歩いた。私達は実際に水の上 を歩く事はないが、同じように信仰を試みられる 事がしばしばある。ある男性の会社が不況で倒産 した。収入は無く、貯えもなかった。何のめども立 たなかった。余りの厳しい試みに、神を見失いそ うだった。沈みそうで、ペテロのように「主よ。助け て下さい」と叫んだ。波の底に沈んで行く、何と信仰 の薄い自分だろうと思っていた時に、電話が鳴った。 臨時職員採用の依頼だった。神は必要を満たして 下さるために、道なき所に、道を作る事ができる 事を学んだ。必要な助けが必ず来る。この経験から 困難な状況、問題を見るのではなく、主を一心に 見つめ、主に集中する事を学んだ。問題を見て 翻弄され、圧倒されてしまうのでなく、主を見続け ることだ。
2003年02月18日(火) 「エリヤを通して言われた。主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」(T列王17:16)
「エリヤを通して言われた。主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」(T列王17:16)
飢餓の時に、神はエリヤにやもめを通して 養うと言われた。しかし、何とやもめは一握 りの粉と少しの油を最後の食事にして死のう としていたのだ。エリヤはひるんだかもしれ ない。しかし、信仰に立って言った。 まず、私のために私の所に持って来なさい。 かめの粉は尽きずそのつぼの油はなくならな い。彼女がエリヤの言葉の通りにした。 すると飢餓の真っ只中で、奇跡が起こり、か めの粉は尽きず、つぼの油は来る日も来る日 も決して無くならなかった。 私達も経済的不安を覚える事があるかもしれ ない。しかし神の国と神の義をまず第一に求 めよ。神を第一にして行くなら、生活のすべ ての必要を満たして下さるのは神の約束であ る。あなたの成すべき事は、神を人生の中で、 日々の生活の中で、第一にする事だ。 優先順位が狂っていないか。
2003年02月17日(月) 「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、あるいは耳しいにしたり、目をあけたり盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか」(出エジプト4:11)
「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、あるいは耳しいにしたり、目をあけたり盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか」(出エジプト4:11)
モーセはエジプトで王子として育ったが、 自分がヘブル人であることを忘れた事は無 かった。ある時、仲間のへブル人を守るた めにエジプト人を殺してしまった。 モーセは遠くの地に逃れ、そこで羊飼いと して過ごしていた。しかし神はモーセに特 別な計画を持っておられた。パロのもとに 遣わし、イスラエルをエジプトから救い出 そうとされた。モーセは尻込みした。 自分は言葉の人ではないから、語れないと。 しかし、神は、行け、わたしがあなたの口 と共にあって、言うべき事を教えると言わ れた。神の働きは、神が導き、成し遂げら れる。あなたも何かの新しい働きに尻込み しているか。神は羊飼いの、何の力もない モーセを大きな働きに用いられた。 力の無い者を用いて大きな働きをされる。 力は神から来る。
2003年02月16日(日) 「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(ゼパニヤ3:17)
「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(ゼパニヤ3:17)
ある女性が、母親から一度も誉められた事が なく育った。ただ母親に誉めてもらいたい一心 で、勉強も頑張った。懸命に成績を上げた。 幾ら頑張っても、認めてもらえず、更に上を求 められ、際限が無かった。結婚して自分が子供 を育てる時に、親と同じ事をしている自分に愕 然とした。そんな時、教会へ行き、主イエスと 出会い救われた。神が自分を喜んでいて下さ る事が心にしみた。評価していて下さる。欠点 を指摘し合うばかりのこの世で、喜びをもって 自分を見ていて下さるお方に、その愛に応えて 行きたい思いが溢れた。受け入れられ、評価 され、励まされる時に、人は自発的に自主的に 従いたいと思うものだ。主はあなたを喜んで いて下さる。
2003年02月15日(土) 「心配したからといって、自分のいのちを少しでもばすことができますか・・天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」(マタイ6:27)
「心配したからといって、自分のいのちを少しでもばすことができますか・・天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」(マタイ6:27)
神は私達の必要をご存じで、必ず与えて下さる。 荒野でイスラエルの人々が食物が無くなった時、 神は天からのマナを降らせて下さった。毎朝、 その日の必要を集めるよう言われた。安息日の 前日は二日分集めるようにと。安息日には休息 を取るよう配慮して下さった。しかし、彼らはモー セに聞き従うのでなく、安息日にも集めに出た。 主の愛や配慮からの命令を無視し、叱責された。 神は私達に一切心配するなと、愛をもって何度 も何度も言って下さっている。心配するな、思い 煩うな、平安でいよと。しかし、私達は焦り、 心配し、思い煩い、走り回る。まるで、神が不在 かのように。主は言われる「立ち返って静かに すれば・・救われ、落ち着いて信頼すれば・・力 を得る」静かに落ち着いて信頼する事だ。
2003年02月14日(金) 「蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはいけない、と神は本当に言われたのですか」(創世記3:1)
「蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはいけない、と神は本当に言われたのですか」(創世記3:1)
「狡猾な」は、悪賢い、巧妙な、の意味だ。 巧妙な蛇の知恵は、良い知恵でなく、邪悪な 知恵だ。この言葉は極めて巧妙だ。神は不当 に厳しいのでは、との疑いを持たせる。 こんなに木があるのに、食べてはいけないの か?と神の愛や善に暗い疑問を投げかける。 それも疑問の形を取りさらに巧妙。質問のよ うに装い、もし自分が間違っていれば教えて 欲しいとの態度に見える。しかし、見せかけ だけで、一切そういう気持ちは無い。 蛇は偽りそのものなのだ。この語りかけに、 エバは答えて行った。 主は答えないで、御言葉で撃退された。 「と書いてある」主はこう言われたと、はっ きり立場を取らないで対話に入って行く事は、 大変危険だ。誘惑者であるサタンは私達より 賢く知恵がある。主に頼らないならすぐに敗 北だ。
2003年02月13日(木) 「暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め」(イザヤ50:10)
「暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め」(イザヤ50:10)
なぜ?このような事がと時に受け入れがたい事態 が起こる。生涯を献げて、神の働きのためにと学び 途中の神学生が事故でなくなる。 神のために福音宣教するはずではなかったのか。 地震で、ちょうど教会に集っていた人々が会堂が崩 壊し、亡くなってしまう事態。海外の奥地で宣教し、 救われる人が起こされた中、その中の二名が少年の 銃乱射の犠牲者となった。 他の人々は大きなショックで沈み、答えが無かった。 何の光も見えなかった。道が突然真っ暗闇におおわれ たようだった。心も真っ暗だった。何のなすすべも無 かった。出来る事は今まで導いて下さった神に信頼し 祈るだけだった。自分達の全存在をかけて神にしがみ ついた。十数年経った後も、何かがわかった訳ではな いが、暗闇の中で神を信頼するすべを学べた事がわか る。
2003年02月12日(水) 「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい・・あなたがたがたも互いに赦し合いなさい」(エペソ4:31)
「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい・・あなたがたがたも互いに赦し合いなさい」(エペソ4:31)
ある女性が人から受けた、深い傷に苦しんでいた。 しかし、クリスチャンであるから赦さねばならないと、 赦したつもりでいた。ある時、その過去の傷を友人 に話した時に、顔が歪み、涙が溢れ出た。その友 は、相手をまだ赦してはいない事を指摘してくれた。 もし、相手を赦すなら、自分自身も主によって真に 癒される。そうであれば、感情が激する事なく過去 の事が話せるはずだと。その言葉を通して、心が 暴かれ、赦してはいない自分に気づかされた。 思い出しては古傷に苦しんでいたし、苦しみを反 すうしては、更に自分を傷つけていた事にも気づ いた。主の前に心の内のありのままの状態を 打ち明け、助けを求めた。主は臨んで下さり、 取り扱って下さり、心の解放を経験した。
2003年02月11日(火) 「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行うものはみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」(マタイ7:24)
「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行うものはみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」(マタイ7:24)
人生は家のようだ。何かの土台の上に建てられる。 私達の土台は何だろうか。それは私達にとって最も 重要なものは何か、人生で歩む道を定めさせるもの は何かという事だ。自分の思いが土台の人は多い。 自分の好きなように歩みたい。人の目という土台に 生きる人も多い。人からの名声、評判、人気、人に 良く思われたい、賞賛されたい、神の目ではなく、 人の目を意識して生きている。神の御声でなく、 人の意見を重んじる。しかし、私達の人生の土台は、 イエス・キリストだ。主は私達にみこころを教えて 下さる。雨や風、豪雨、暴風雨、何があっても決し て揺るがない。倒れる事がない。そして、主に従う 中に真の喜びと満足がある。彼によって造られたの で、主に従い、主に憩う事が真の幸せなのだ。 あなたの土台は何か。
2003年02月10日(月) 「あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい」(黙示録2:5)
「あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい」(黙示録2:5)
ある男性が、職場の女性と妻に隠れて付き 合っていた。だんだんと罪責感に打ちのめさ れた。日々の生活に感動が失せて行くのを感 じた。感謝が無くなり、妻と主との親しい交 わりが奪われてしまった。 見かけは普通に生活していたが、心が全く離 れてしまっていた。罪意識に絶えられなくな り、主の前に悔い改め、妻に対して告白した。 それは面目を失い、痛みを伴ない、決まりの 悪いものであったが、赦された喜びと平安を 与えられ、主と妻との関係が新たなものとさ れた。悔い改めは苦痛を伴なうが、神の前に も人の前にも正しい関係を回復させる。 そして、霊の喜びが与えられる。何にも代え られないものだ。悔い改めは罪を捨て去り、 罪にきっぱり背を向ける事だ。 主はクリスチャン達にどこから落ちたかを考 えなさい、そして、悔い改めよと言っておら れる。
2003年02月09日(日) 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Tコリント4:16)
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Tコリント4:16)
健康ブームで、健康食品やトレーニングが盛ん だ。家でも出来るウォーキングマシンがある。 何キロ歩いたかが数値で出て来る。しかし、何 キロ歩いても、何の変化も無く、退屈極まりない。 実際とこへも行っていないのだから。神無しの 人生はこのようだ。日は昇り、沈む。巡り巡って 風は吹く。しかし、巡る道に風は帰る。すべての 事はものうい。飽きることも満ち足りることも無い。 日の下に新しいものは一つも無い。すべてが 虚しい。神無しの人生に何の希望も無い。しかし、 神を知る人生は全く違う。この世では、寄留者で あり、人生の旅路の途上にある。肉体はどんどん 衰えるが、死の直前まで内なる人は日毎に新た にされるのだ。新しく、更に新しくされ、何よりも 親しく主を知れるのだ。喜びがどんどん深まり、 そして、最後は天国!
2003年02月08日(土) 「そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている」(創世記22:14)
「そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている」(創世記22:14)
神はアブラハムにモリヤの地でイサクを献げ るように言われた。アブラハムはこの信仰の テストに合格した。自分の子をほふろうと刀 を取った時でさえ信じた。神を信じていたのだ。 信仰告白をするのはやさしいが、私達の一番 大切な宝を、最愛のものを献げる事は難しい。 信仰のテストだ。ある人は不正に荷担しなかっ たため職を失った。別の人は礼拝を守ろうと したゆえに失職した。正しい事をしたのだから、 報われるのではないのか。報いを感じない時 こそ、最も厳しい試練に感じる。しかし、神は 必ず守って下さる。どんな中でも、神は真実 であり続けられる。神がご自身を否む事がで きないのだから。たとえ状況が理解できない 時でも、神を信じよう。
2003年02月07日(金) 「わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、たびたび送ったが、彼らはわたしに聞かず耳を傾けず」(エレミヤ7:25)
「わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、たびたび送ったが、彼らはわたしに聞かず耳を傾けず」(エレミヤ7:25)
今、多くの人達が携帯電話を持っている。 いつでもその場で、家族や友人、必要な相手と 会話が出来る。親は小学生の子供に持たせすぐ 連絡がつくので安心している。 同様に天とのホットラインはどうだろう。 神はいつでも語りたい時に語られ、私達はすぐ に受話器が取れる態勢にいるだろうか。神がい くらリンを鳴らされても気づかず出ないだろう か。あなたの耳はどうだろうか。主に従う事を 拒否したり、なおざりにしているために、聴力 が鈍っていないか。いつでもどんな時でも罪を 告白し、悔い改める事によって、良心が回復さ れ、神との正しい関係に戻される。神の御声が 聞こえないなら、あなたに問題があるかもしれ ない。心をよく探って頂いて、傷の付いた道が あるか、ないかを見て、とこしえの道に導いて 頂く必要がある。
2003年02月06日(木) 「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します」(ヨハネ14:21)
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します」(ヨハネ14:21)
イエスが十字架にかかり、三日目によみがえ られた時に、誰にご自身を現されただろうか。 それは主を愛する人達にである。 主を愛する人達だけにである。空の墓で、主を 慕い求め泣き続けていたマリヤ、主を裏切って 心痛めていたペテロ、エマオ途上の二人、ユダ ヤ人を恐れて戸を閉じて集まっていた弟子達に である。ヘロデやピラト、祭司や律法学者、群 集にではない。イエスから学ぶために、みここ ろをより深く知るために、イエスをより深く知 るために、イエスへの愛が必要だ。イエスを愛 するならよく学べる。ご自身を愛するものに溢 れるばかりに現して下さる。あなたは神がわか らない、御旨がわからないと言うが主への愛、 マリヤのような慕う心があるか。主への心が 冷えていないか。
2003年02月05日(水) 「自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられる父が、どうして、求める者たちに良いもの下さらないことがありましょう」(マタイ7:11)
「自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられる父が、どうして、求める者たちに良いもの下さらないことがありましょう」(マタイ7:11)
「求めなさい、そうすれば与えられます」と、神は 祈ることを命じておられる。しかし、求める物は 何でも与えられるのだろうか。何でも手に入る ので、ただ求めれば良いという事か。まず第一 に、神は私達が願っても、害になるものは決 して与えられない。幼児が包丁をねだっても親 は与えないように。私達は完全には物事が見え ないので、何が本当に良いかがわからない者だ。 一見、素晴らしく良いものに見えるが、実は私達 を害し、傷つけるものがある。神はノーと言わざる を得ない。私達は実際何を求めているのか、よく わかっていないような者だ。それで、祈った通り のものではなく「良いもの」を与えて下さると明言 しておられる。求めた通りではないが、常に最善 のものを下さるのだ。だから、絶えず求めよ。
2003年02月04日(火) 「私はあなたにこの命令をゆだねます。それは・・信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました」(Tテモテ1:18)
「私はあなたにこの命令をゆだねます。それは・・信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました」(Tテモテ1:18)
足を傷めたり、重病で療養して寝たきり 状態にいた後、ベッドから降りて歩こうと した時、全く歩けないで驚いた事がある。 もし、ある機能を使用しないでいると、そ の機能を失ってしまう。これは良心につい ても言える。常に良心の声を無視し続ける と、最後には声がなくなってしまう。 聞こえなくなるのだ。また、主のみ声を拒 否しつづけていると、ついに主の声につん ぼになってしまう。「わたしが絶えずしき りに語りかけたのに、あなたがたは聞こう ともせず、呼んだのに答えなかった」 良心の声を無視し、主のみ声に答えず拒否 するならついに、最も恐ろしい事態である 信仰の破船に会う。船が沈没して壊れてし まうのだ。良心に敏感であり、主のみ声に 耳を澄まそう。
2003年02月03日(月) 「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません」(ルカ6:37)
「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません」(ルカ6:37)
赦しなさい、そうすれば自分も赦されますと、 続く。私達の多くは批判的である。人の欠点は 非常によく見えるものだ。しかし、主は人を批 判するな。そうすれば、あなたも批判される事 はないと言われる。人を赦すなら、神から赦さ れたように、人を批判するなら、神をあなたへ の批判者としてしまう事になる。どうやって立 っておられようか。完全な人しか人を批判する 権利は無い。皆、間違いをするものであるから だ。しかし、完全な人など一人もいない。 批判するより相手を理解するよう努めるべきだ。 相手のすべてを知っているわけではない。 一部だけを見て批判するのは見当違いだ。 裁く事ができるのは神のみである。 なぜなら神は全てを知っておられるからだ。 それゆえ、私達の正しい対応は、全ての裁きを 神に委ねる事だ。
2003年02月02日(日) 「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと・・心配してはいけません。あすの心配は無用です」(マタイ6:25)
「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと・・心配してはいけません。あすの心配は無用です」(マタイ6:25)
これは、しばしば勘違いするが、先の事を考え てはいけない事ではない。将来の何の備えも するなという事ではない。保険に入るのは不信仰 という事ではない。雨の日のために備える事は 聖書的であり、賢い事だ。むしろ、何の計画も 設計も無いという事は、無責任だ。塔を建てる ための計算や、戦いの際の思慮深さについても 語られている。主が問題にしておられるのは、 将来に対しての賢い考察ではなくて、愚かな 思い煩いに対してである。私達がどうにも 出来ない事柄がある。それは心配しても何の 益もない。無用な消耗だ。又、問題から何とか 逃げようとする時、恐れ怯える。問題を真正面 から受け止めるのだ。直面しようとする時、 心配は終る。そして、耐えられない試練は一つ も無いのだ。これは大きな励ましだ。乗り越え られる。しっかり受け止める事だ。
2003年02月01日(土) 「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたらおまえが用意した物はいったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)
「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたらおまえが用意した物はいったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)
自分のために貯える事の愚かさを教えられた。 私達は死ぬ時、いかなる物も携え行く事ができ ない。どんなに貯えたとしても。私達は何一つ 持たないで、この世に来たし、何一つ持たないで この世を去って行く。私達が保留する物を私達 は失い、与えた物を、持つ事になる。こんな寓話 がある。一人は大富豪だが、利己的で人に与え るのは嫌で、すべての物を自分のために貯えた。 もう一人は貧乏だったが、出来る限り人々を助け 持てる物をすべて有効に用いた。二人が天国へ 行った時、貧乏な人は素晴らしい輝かしい大邸宅 へ、金持ちは惨めなほったて小屋へ案内された。 御使いに文句を言うと「お前がよこした材料では これしか建てられなかったのだ」。天に宝を積ま ず、自分の欲望だけに生きる人生を愚かだと 言われる。私達は損得で生きるのではなく、 神のみこころを行なうのだ。これが賢い生き方。