2003年02月28日(金)

『「わたしを去らせよ。夜が明けるから」しかし、ヤコブは答えた。『私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ』(創世記32:26)


 ジョウージ・ミューラーは祈りと信仰によって、
孤児院を経営していた。理事会では財政的に不可能
な事態に直面した。ミューラーは喜んだのだ。
理事達一人一人がよく神に頼れるからだ。理事達は
真剣に必死に神に頼り、祈り求め全額の必要が満た
されたのだ。あらゆる必要は神から来る。
しかし、私達は神に拠り頼まなければならない。
頼る事を学ぶのはいつも絶体絶命を通してだ。
自分の思い、自分のプラン、自分の力をやめる時神が
働かれる。あの父を騙し、長子の権を獲得したヤコブ
もまた絶体絶命を通った。エサウが四百人を引き連れ
て来ると聞き、恐れ怯えた時も策略を巡らした。
その時、神はもものつがいをはずし、ご自身が神であ
る事を示された。彼に出来る事はただ一つ、祝福を請
い願う事。自分の力でなく神に頼ったのだ。


2003年02月27日(木)

「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」(マタイ7:1)


 こんな詩がある。小さな種が芽を出し始め、
私はどんな花になるのかと考えた。
バラは嫌、とげがある。ゆりも嫌、色がない。
スミレも嫌、小さいから。こうしてこの高慢な
種は、すべての花を批判した。ある日、目覚め
て、自分が雑草である事に気づくまでは!
思い上がるな、慎み深く考えよと神は言われる。
へりくだって、人を自分よりすぐれた者と思い
なさいと言われる。人をさばくと、自分にさば
きを招くことになる。人をさばく時は、自分は
全く棚上げだ。自分を知らないから、裁く事が
出来るのだ。他人の欠点が見える時、あなたは
その何十倍もの欠点がある。自分の事に関して
は盲目だ。他人の欠点を忍耐せよ。周囲もあな
たの欠点を忍耐しているのだから。人をさばか
ないなら、あなたもさばかれない。


2003年02月26日(水)

「・・ついには命さえも危うくなり・・もはや自分自身をより頼まず・・神により頼む者となるためでした」(Uコリント1:9)

「機会」は大切なもので、捕らえるべきものだ。
絶好の機会、生涯のチャンス等と言う。
神にとっての機会とは、どうだろう。私達は
良いものを「チャンス」という。しかし、神にと
れば最悪の状況こそ、神が働かれるための
絶好の機会なのだ。絶対絶命こそが、神の
絶好のチャンスなのだ。パウロは苦しみに
会い、もう死ぬとまで思った。限界ギリギリ
の所にいた。この時に、自分に頼まず、神
により頼む事を学んだと言った。限界の逆境
の中で、初めて学んだのだ。「良い」機会だけ
を機会と思っているだろうか。そうではなく、
神にとれば最悪の状況が絶好の機会、絶望
の時が最大のチャンスなのだ。あなたは今、
神の絶好の機会に会っているか。神は大き
くあなたを前進させて下さる。今こそ神に拠り
頼め。


2003年02月25日(火)

「私のとがが、私の頭を超え、重荷のように、私には重すぎるからです。私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです」(詩篇38:4)


 王であるダビデはその立場を利用して、
罪を犯した。部下の妻でアルバテシェバと
の姦淫である。まして、その姦淫をおおい
かくすために、夫である忠実な部下をわざ
と敵の前線に出して殺されるように仕組ん
だのだった。姦淫と殺人という二重の罪を
犯した。罪は赦されたが、彼の評判は汚さ
れ、罪の結果に長く苦しんだ。
刈り取りがあった。火の中に手を突っ込む
なら、火傷をする。痛みは時間と共に癒え
るが火傷の傷の跡は残る。自ら罪に入って
いってはならない。サタンの誘惑を絶えず
祈りの中で識別せよ。心をしっかり守り歩
みによく気をつけ、主に頼れ。築き上上げ
てきた信頼関係、主の証しは、軽率さで、
また、罪により一瞬にして崩れ去ってしま
う。罪に身を任せてはならない。


2003年02月24日(月)

『主はサタンに仰せられた「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない」』(ヨブ1:12)


 神はサタンがヨブに襲いかかるのを許された。
ヨブをふるいにかけ、きよめるためにサタンを用
いられた。神が用いられるのは、常に砕かれた器
だ。私達を放っておかないで、抑制し訓練される。
様々な試練を与えられる理由である。ヨブと同様
にペテロも取り扱われた。ペテロの自信に対して、
自らの弱さを真に認識させ、神に頼る者とするた
め、将来の指導者として建て上げるため、主はサ
タンのふるいを許された。「サタンがあなたを麦
のようにふるいにかけることを願って聞き届けら
れた」徹底的なふるいであった。
奥底にある「自信」を砕くために、痛ましい過程
があった。もはや、二度と自分の力を信じないよ
うに、神に信頼して歩めるように。
私達に起こる様々痛み、苦しみは、自分の力を砕
き、神に頼る者に変えるため。


2003年02月23日(日)

「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか」(ヨブ40:7)

ヨブは潔白で正しく、神を畏れ、悪から遠ざかっていた。
ヨブは神に祝福され、大勢の子供達、莫大な富が与え
られ、人々からの尊敬を受けていた。彼はこの世的に
も、この上もなく幸福で満たされていた。しかし、ヨブは
試される必要があった。見た目には見えない、心の奥
深く根ざした問題を持っていたのだ。それは、自分を義
とする態度だった。彼は神の真実な聖徒であり、神を
信じていた。しかし、心の底には彼自身も気づいていな
い自我が横たわっていた。ヨブは試練によって、底に
あるものが裸にされ、自分の真の姿を知るようにされ
た。そのために、神はサタンを許され、サタンをも利用
されたのだ。私達の内にある自己満足、自己過信、
自己正義を、試練の中であらわにし、砕いて下さる。


2003年02月22日(土)

「指導がないことによって、民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る」(箴言11:14)

私達がみこころを求める時、御言葉と祈りによる
平安と環境が開かれることの3つによって、御旨
を確信して進んで行ける。それに加えて、賢い
助言を受ける事は大切であり有益だ。「密議をこ
らさなければ、計画は破れ、多くの助言者によって
成功する」米国のある神学校での事だ。移転案が
出て、それは一長一短だった。教師全員で御旨を
求めて祈り、確信したところを投票する事にした
各自、1週間切に祈った。御旨を示される事を
確信して、投票すると、何と賛成と反対がちょうど
同数だったのだ。皆は不安と混乱に陥っただろうか。
そうではなく、この結果を主にあって熟慮した時、
意見がちょうど二つに分かれたことは、移転させな
い方が良いとの神のお心と確信したのだ。
多くの助言者によって、正しい選択が出来る。
一人で悩まないで、わきまえある人々に助言を
求める事は良いことだ。




2003年02月21日(金)

「そもそも、互いに訴え合うことが、すでに・・敗北です。なぜ、不正を甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか」(Tコリント6:7)


 コリントの教会では、教会員の間に分裂があり、
争いがあった。彼らは争いを一般の法廷に持ち込
み、未信者の傍聴人の前で、未信者の裁判官に裁
いてもらおうとした。そのため、神の聖なる御名
が未信者の前で傷つけられていた。パウロは神の
栄光が損なわれ、神の御名が傷つけられている事
に憂い、神を知らない異本人の前に持ち出し、
御名が傷つけられるよりは、騙され、損害を受け
るほうがましだと言った。私達が求めるのは、神
の栄光であって、損得ではない。
神の栄光が汚されるより、自分が損をした方が良
い。損得勘定よりもっと大切な事がある。
あなたのする事は神の御名が崇められるか、神の
栄光が現されるか。それとも自分の損得で生きて
いるだろうか。


2003年02月20日(木)

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じる・・」(ヤコブ1:2・3)

 
神は私達の人格に豊かさをもたらすために、
試みを通される。私達が成長するためには、
どうしても試練を通らなくてはならない。
だからこそ、試練をこの上もない喜びと思
いなさいと言われる。
私達の目標は主イエスに似る事だ。
楽しい生活を送る事でも幸せになる事でも
ない。主に似る事。このためには多くの試
練が必要だ。
これをわきまえていると苦しい状況の中で
も、見方が変わって来る。
神は試練のまっただ中で、御声をかけて導
かれる。覚えていた御言葉を思い起こさせ
て下さる。
神のお心を悟るために、ヤコブ1:5の通
り、知恵を願い求める事が出来る。
神は試練のまっただ中で、何を教えたいの
か、悟らせて下さる。神のお心を知る時、
痛いけれども、心の底に平安が来る。そし
て一段階成長して行く。


2003年02月19日(水)

「『主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください』イエスは『来なさい』と言われた」(マタイ14:28)

ペテロは水の上を歩いた。私達は実際に水の上
を歩く事はないが、同じように信仰を試みられる
事がしばしばある。ある男性の会社が不況で倒産
した。収入は無く、貯えもなかった。何のめども立
たなかった。余りの厳しい試みに、神を見失いそ
うだった。沈みそうで、ペテロのように「主よ。助け
て下さい」と叫んだ。波の底に沈んで行く、何と信仰
の薄い自分だろうと思っていた時に、電話が鳴った。
臨時職員採用の依頼だった。神は必要を満たして
下さるために、道なき所に、道を作る事ができる
事を学んだ。必要な助けが必ず来る。この経験から
困難な状況、問題を見るのではなく、主を一心に
見つめ、主に集中する事を学んだ。問題を見て
翻弄され、圧倒されてしまうのでなく、主を見続け
ることだ。


2003年02月18日(火)

「エリヤを通して言われた。主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」(T列王17:16)


 飢餓の時に、神はエリヤにやもめを通して
養うと言われた。しかし、何とやもめは一握
りの粉と少しの油を最後の食事にして死のう
としていたのだ。エリヤはひるんだかもしれ
ない。しかし、信仰に立って言った。
まず、私のために私の所に持って来なさい。
かめの粉は尽きずそのつぼの油はなくならな
い。彼女がエリヤの言葉の通りにした。
すると飢餓の真っ只中で、奇跡が起こり、か
めの粉は尽きず、つぼの油は来る日も来る日
も決して無くならなかった。
私達も経済的不安を覚える事があるかもしれ
ない。しかし神の国と神の義をまず第一に求
めよ。神を第一にして行くなら、生活のすべ
ての必要を満たして下さるのは神の約束であ
る。あなたの成すべき事は、神を人生の中で、
日々の生活の中で、第一にする事だ。
優先順位が狂っていないか。


2003年02月17日(月)

「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、あるいは耳しいにしたり、目をあけたり盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか」(出エジプト4:11)


 モーセはエジプトで王子として育ったが、
自分がヘブル人であることを忘れた事は無
かった。ある時、仲間のへブル人を守るた
めにエジプト人を殺してしまった。
モーセは遠くの地に逃れ、そこで羊飼いと
して過ごしていた。しかし神はモーセに特
別な計画を持っておられた。パロのもとに
遣わし、イスラエルをエジプトから救い出
そうとされた。モーセは尻込みした。
自分は言葉の人ではないから、語れないと。
しかし、神は、行け、わたしがあなたの口
と共にあって、言うべき事を教えると言わ
れた。神の働きは、神が導き、成し遂げら
れる。あなたも何かの新しい働きに尻込み
しているか。神は羊飼いの、何の力もない
モーセを大きな働きに用いられた。
力の無い者を用いて大きな働きをされる。
力は神から来る。


2003年02月16日(日)

「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(ゼパニヤ3:17)

ある女性が、母親から一度も誉められた事が
なく育った。ただ母親に誉めてもらいたい一心
で、勉強も頑張った。懸命に成績を上げた。
幾ら頑張っても、認めてもらえず、更に上を求
められ、際限が無かった。結婚して自分が子供
を育てる時に、親と同じ事をしている自分に愕
然とした。そんな時、教会へ行き、主イエスと
出会い救われた。神が自分を喜んでいて下さ
る事が心にしみた。評価していて下さる。欠点
を指摘し合うばかりのこの世で、喜びをもって
自分を見ていて下さるお方に、その愛に応えて
行きたい思いが溢れた。受け入れられ、評価
され、励まされる時に、人は自発的に自主的に
従いたいと思うものだ。主はあなたを喜んで
いて下さる。


2003年02月15日(土)

「心配したからといって、自分のいのちを少しでもばすことができますか・・天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」(マタイ6:27)

神は私達の必要をご存じで、必ず与えて下さる。
荒野でイスラエルの人々が食物が無くなった時、
神は天からのマナを降らせて下さった。毎朝、
その日の必要を集めるよう言われた。安息日の
前日は二日分集めるようにと。安息日には休息
を取るよう配慮して下さった。しかし、彼らはモー
セに聞き従うのでなく、安息日にも集めに出た。
主の愛や配慮からの命令を無視し、叱責された。
神は私達に一切心配するなと、愛をもって何度
も何度も言って下さっている。心配するな、思い
煩うな、平安でいよと。しかし、私達は焦り、
心配し、思い煩い、走り回る。まるで、神が不在
かのように。主は言われる「立ち返って静かに
すれば・・救われ、落ち着いて信頼すれば・・力
を得る」静かに落ち着いて信頼する事だ。


2003年02月14日(金)

「蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはいけない、と神は本当に言われたのですか」(創世記3:1)


 「狡猾な」は、悪賢い、巧妙な、の意味だ。
巧妙な蛇の知恵は、良い知恵でなく、邪悪な
知恵だ。この言葉は極めて巧妙だ。神は不当
に厳しいのでは、との疑いを持たせる。
こんなに木があるのに、食べてはいけないの
か?と神の愛や善に暗い疑問を投げかける。
それも疑問の形を取りさらに巧妙。質問のよ
うに装い、もし自分が間違っていれば教えて
欲しいとの態度に見える。しかし、見せかけ
だけで、一切そういう気持ちは無い。
蛇は偽りそのものなのだ。この語りかけに、
エバは答えて行った。
主は答えないで、御言葉で撃退された。
「と書いてある」主はこう言われたと、はっ
きり立場を取らないで対話に入って行く事は、
大変危険だ。誘惑者であるサタンは私達より
賢く知恵がある。主に頼らないならすぐに敗
北だ。


2003年02月13日(木)

「暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め」(イザヤ50:10)

 なぜ?このような事がと時に受け入れがたい事態
が起こる。生涯を献げて、神の働きのためにと学び
途中の神学生が事故でなくなる。
神のために福音宣教するはずではなかったのか。
地震で、ちょうど教会に集っていた人々が会堂が崩
壊し、亡くなってしまう事態。海外の奥地で宣教し、
救われる人が起こされた中、その中の二名が少年の
銃乱射の犠牲者となった。
他の人々は大きなショックで沈み、答えが無かった。
何の光も見えなかった。道が突然真っ暗闇におおわれ
たようだった。心も真っ暗だった。何のなすすべも無
かった。出来る事は今まで導いて下さった神に信頼し
祈るだけだった。自分達の全存在をかけて神にしがみ
ついた。十数年経った後も、何かがわかった訳ではな
いが、暗闇の中で神を信頼するすべを学べた事がわか
る。


2003年02月12日(水)

「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい・・あなたがたがたも互いに赦し合いなさい」(エペソ4:31)

ある女性が人から受けた、深い傷に苦しんでいた。
しかし、クリスチャンであるから赦さねばならないと、
赦したつもりでいた。ある時、その過去の傷を友人
に話した時に、顔が歪み、涙が溢れ出た。その友
は、相手をまだ赦してはいない事を指摘してくれた。
もし、相手を赦すなら、自分自身も主によって真に
癒される。そうであれば、感情が激する事なく過去
の事が話せるはずだと。その言葉を通して、心が
暴かれ、赦してはいない自分に気づかされた。
思い出しては古傷に苦しんでいたし、苦しみを反
すうしては、更に自分を傷つけていた事にも気づ
いた。主の前に心の内のありのままの状態を
打ち明け、助けを求めた。主は臨んで下さり、
取り扱って下さり、心の解放を経験した。


2003年02月11日(火)

「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行うものはみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」(マタイ7:24)


 人生は家のようだ。何かの土台の上に建てられる。
私達の土台は何だろうか。それは私達にとって最も
重要なものは何か、人生で歩む道を定めさせるもの
は何かという事だ。自分の思いが土台の人は多い。
自分の好きなように歩みたい。人の目という土台に
生きる人も多い。人からの名声、評判、人気、人に
良く思われたい、賞賛されたい、神の目ではなく、
人の目を意識して生きている。神の御声でなく、
人の意見を重んじる。しかし、私達の人生の土台は、
イエス・キリストだ。主は私達にみこころを教えて
下さる。雨や風、豪雨、暴風雨、何があっても決し
て揺るがない。倒れる事がない。そして、主に従う
中に真の喜びと満足がある。彼によって造られたの
で、主に従い、主に憩う事が真の幸せなのだ。
あなたの土台は何か。


2003年02月10日(月)

「あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい」(黙示録2:5)


 ある男性が、職場の女性と妻に隠れて付き
合っていた。だんだんと罪責感に打ちのめさ
れた。日々の生活に感動が失せて行くのを感
じた。感謝が無くなり、妻と主との親しい交
わりが奪われてしまった。
見かけは普通に生活していたが、心が全く離
れてしまっていた。罪意識に絶えられなくな
り、主の前に悔い改め、妻に対して告白した。
それは面目を失い、痛みを伴ない、決まりの
悪いものであったが、赦された喜びと平安を
与えられ、主と妻との関係が新たなものとさ
れた。悔い改めは苦痛を伴なうが、神の前に
も人の前にも正しい関係を回復させる。
そして、霊の喜びが与えられる。何にも代え
られないものだ。悔い改めは罪を捨て去り、
罪にきっぱり背を向ける事だ。
主はクリスチャン達にどこから落ちたかを考
えなさい、そして、悔い改めよと言っておら
れる。


2003年02月09日(日)

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Tコリント4:16)

健康ブームで、健康食品やトレーニングが盛ん
だ。家でも出来るウォーキングマシンがある。
何キロ歩いたかが数値で出て来る。しかし、何
キロ歩いても、何の変化も無く、退屈極まりない。
実際とこへも行っていないのだから。神無しの
人生はこのようだ。日は昇り、沈む。巡り巡って
風は吹く。しかし、巡る道に風は帰る。すべての
事はものうい。飽きることも満ち足りることも無い。
日の下に新しいものは一つも無い。すべてが
虚しい。神無しの人生に何の希望も無い。しかし、
神を知る人生は全く違う。この世では、寄留者で
あり、人生の旅路の途上にある。肉体はどんどん
衰えるが、死の直前まで内なる人は日毎に新た
にされるのだ。新しく、更に新しくされ、何よりも
親しく主を知れるのだ。喜びがどんどん深まり、
そして、最後は天国!


2003年02月08日(土)

「そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている」(創世記22:14)

神はアブラハムにモリヤの地でイサクを献げ
るように言われた。アブラハムはこの信仰の
テストに合格した。自分の子をほふろうと刀
を取った時でさえ信じた。神を信じていたのだ。
信仰告白をするのはやさしいが、私達の一番
大切な宝を、最愛のものを献げる事は難しい。
信仰のテストだ。ある人は不正に荷担しなかっ
たため職を失った。別の人は礼拝を守ろうと
したゆえに失職した。正しい事をしたのだから、
報われるのではないのか。報いを感じない時
こそ、最も厳しい試練に感じる。しかし、神は
必ず守って下さる。どんな中でも、神は真実
であり続けられる。神がご自身を否む事がで
きないのだから。たとえ状況が理解できない
時でも、神を信じよう。


2003年02月07日(金)

「わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、たびたび送ったが、彼らはわたしに聞かず耳を傾けず」(エレミヤ7:25)


今、多くの人達が携帯電話を持っている。
いつでもその場で、家族や友人、必要な相手と
会話が出来る。親は小学生の子供に持たせすぐ
連絡がつくので安心している。
同様に天とのホットラインはどうだろう。
神はいつでも語りたい時に語られ、私達はすぐ
に受話器が取れる態勢にいるだろうか。神がい
くらリンを鳴らされても気づかず出ないだろう
か。あなたの耳はどうだろうか。主に従う事を
拒否したり、なおざりにしているために、聴力
が鈍っていないか。いつでもどんな時でも罪を
告白し、悔い改める事によって、良心が回復さ
れ、神との正しい関係に戻される。神の御声が
聞こえないなら、あなたに問題があるかもしれ
ない。心をよく探って頂いて、傷の付いた道が
あるか、ないかを見て、とこしえの道に導いて
頂く必要がある。


2003年02月06日(木)

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します」(ヨハネ14:21)


 イエスが十字架にかかり、三日目によみがえ
られた時に、誰にご自身を現されただろうか。
それは主を愛する人達にである。
主を愛する人達だけにである。空の墓で、主を
慕い求め泣き続けていたマリヤ、主を裏切って
心痛めていたペテロ、エマオ途上の二人、ユダ
ヤ人を恐れて戸を閉じて集まっていた弟子達に
である。ヘロデやピラト、祭司や律法学者、群
集にではない。イエスから学ぶために、みここ
ろをより深く知るために、イエスをより深く知
るために、イエスへの愛が必要だ。イエスを愛
するならよく学べる。ご自身を愛するものに溢
れるばかりに現して下さる。あなたは神がわか
らない、御旨がわからないと言うが主への愛、
マリヤのような慕う心があるか。主への心が
冷えていないか。


2003年02月05日(水)

「自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられる父が、どうして、求める者たちに良いもの下さらないことがありましょう」(マタイ7:11)

「求めなさい、そうすれば与えられます」と、神は
祈ることを命じておられる。しかし、求める物は
何でも与えられるのだろうか。何でも手に入る
ので、ただ求めれば良いという事か。まず第一
に、神は私達が願っても、害になるものは決
して与えられない。幼児が包丁をねだっても親
は与えないように。私達は完全には物事が見え
ないので、何が本当に良いかがわからない者だ。
一見、素晴らしく良いものに見えるが、実は私達
を害し、傷つけるものがある。神はノーと言わざる
を得ない。私達は実際何を求めているのか、よく
わかっていないような者だ。それで、祈った通り
のものではなく「良いもの」を与えて下さると明言
しておられる。求めた通りではないが、常に最善
のものを下さるのだ。だから、絶えず求めよ。


2003年02月04日(火)

「私はあなたにこの命令をゆだねます。それは・・信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました」(Tテモテ1:18)



 足を傷めたり、重病で療養して寝たきり
状態にいた後、ベッドから降りて歩こうと
した時、全く歩けないで驚いた事がある。
もし、ある機能を使用しないでいると、そ
の機能を失ってしまう。これは良心につい
ても言える。常に良心の声を無視し続ける
と、最後には声がなくなってしまう。
聞こえなくなるのだ。また、主のみ声を拒
否しつづけていると、ついに主の声につん
ぼになってしまう。「わたしが絶えずしき
りに語りかけたのに、あなたがたは聞こう
ともせず、呼んだのに答えなかった」
良心の声を無視し、主のみ声に答えず拒否
するならついに、最も恐ろしい事態である
信仰の破船に会う。船が沈没して壊れてし
まうのだ。良心に敏感であり、主のみ声に
耳を澄まそう。


2003年02月03日(月)

「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません」(ルカ6:37)


 赦しなさい、そうすれば自分も赦されますと、
続く。私達の多くは批判的である。人の欠点は
非常によく見えるものだ。しかし、主は人を批
判するな。そうすれば、あなたも批判される事
はないと言われる。人を赦すなら、神から赦さ
れたように、人を批判するなら、神をあなたへ
の批判者としてしまう事になる。どうやって立
っておられようか。完全な人しか人を批判する
権利は無い。皆、間違いをするものであるから
だ。しかし、完全な人など一人もいない。
批判するより相手を理解するよう努めるべきだ。
相手のすべてを知っているわけではない。
一部だけを見て批判するのは見当違いだ。
裁く事ができるのは神のみである。
なぜなら神は全てを知っておられるからだ。
それゆえ、私達の正しい対応は、全ての裁きを
神に委ねる事だ。


2003年02月02日(日)

「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと・・心配してはいけません。あすの心配は無用です」(マタイ6:25)

これは、しばしば勘違いするが、先の事を考え
てはいけない事ではない。将来の何の備えも
するなという事ではない。保険に入るのは不信仰
という事ではない。雨の日のために備える事は
聖書的であり、賢い事だ。むしろ、何の計画も
設計も無いという事は、無責任だ。塔を建てる
ための計算や、戦いの際の思慮深さについても
語られている。主が問題にしておられるのは、
将来に対しての賢い考察ではなくて、愚かな
思い煩いに対してである。私達がどうにも
出来ない事柄がある。それは心配しても何の
益もない。無用な消耗だ。又、問題から何とか
逃げようとする時、恐れ怯える。問題を真正面
から受け止めるのだ。直面しようとする時、
心配は終る。そして、耐えられない試練は一つ
も無いのだ。これは大きな励ましだ。乗り越え
られる。しっかり受け止める事だ。


2003年02月01日(土)

「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたらおまえが用意した物はいったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)

自分のために貯える事の愚かさを教えられた。
私達は死ぬ時、いかなる物も携え行く事ができ
ない。どんなに貯えたとしても。私達は何一つ
持たないで、この世に来たし、何一つ持たないで
この世を去って行く。私達が保留する物を私達
は失い、与えた物を、持つ事になる。こんな寓話
がある。一人は大富豪だが、利己的で人に与え
るのは嫌で、すべての物を自分のために貯えた。
もう一人は貧乏だったが、出来る限り人々を助け
持てる物をすべて有効に用いた。二人が天国へ
行った時、貧乏な人は素晴らしい輝かしい大邸宅
へ、金持ちは惨めなほったて小屋へ案内された。
御使いに文句を言うと「お前がよこした材料では
これしか建てられなかったのだ」。天に宝を積ま
ず、自分の欲望だけに生きる人生を愚かだと
言われる。私達は損得で生きるのではなく、
神のみこころを行なうのだ。これが賢い生き方。