2023年05月31日(水)

「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを 尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」詩篇9:10


ある人が、失敗を通して、教えられた事を証しした。夫婦で、主の
もとに導かれ、喜びの教会生活を送っていた。御言葉の学びは、新
鮮でどんどん心に入った。赤ちゃんの世話をするナースリーの奉仕
が与えられ、赤ちゃんが大好きだったので、嬉しい喜びの奉仕だっ
た。教会の人々と楽しい交わりがあり、夫婦で救いの喜びと共に、
平安な日々だった。

そんな中、高い専門技能を持つ夫に、他社からの誘いが来た。遠方
であり、非常に悩み考えた。御心という事もまだよくわからず、牧
師に相談し祈ってもらった。その結果、牧師は反対だった。まず今
の場所で何より信仰の土台を培われる事が良いと。しかし誘惑は強
かった。夫の才能が生かせる場、比較にならない高額の報酬も魅力
だった。

結局、目に見える所で、動いてしまい、転職に踏み切った。しかし
引っ越した先で、自分は教会に行かなくなったし、夫の仕事は非常
に高度で、心身のストレスは、半端なかった。夫は何とか教会へ行
っていたが、やがて仕事がハード過ぎて、行けなくなった。後に立
ち返れて、振り返った時に、気づかされた。

まだ幼くて、何もわからない自分たちに、主は、牧師を通して御心
を示されていた事、「助言者によって勝利を得る」との通りであっ
た事、サタンの誘惑がいかに強いものであるかを知らされた事、主
が下さる平安の、何にも代えられない素晴らしさを知れた事を。

主から離れていた期間、経済的には非常に裕福であったが、平安く
無かった。主に立ち返れ、再び平安にされ、感謝でならず、日々主
に拠り頼んで歩む思いを新たにされた。
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自分は大丈夫と思っていても、簡単に主の恵みと平安を見失ってし
まう。そしてそれは自分の手ではつかめない。弱さを覚えて祈って
いこう。主に尋ねる者を主は見捨てられない。なんと感謝だろう。


2023年05月30日(火)

「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。」 創世記12:4 



アブラムは妻サライと、父親テラと甥のロトと共に、ウルを出る。
そこからカランまで来て住みつくが、父親のテラは、そこで亡くな
った。するとその後、主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ
故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と。アブラ
ムに、神の御声が臨んだ。75歳の時だった。

「信仰によって、アブラムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召し
をこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」と
あり、信仰によって、行き先のはっきりしない旅に出た。それはア
ブラムの信仰だった。ウルを出る時に、長い期間に培われた人間関
係も慣れ親しんだ環境も捨てて、出発した。安心でき、居心地の良
い居場所を出た。

そしてカランに住み着いたが、そこにとどまらず、更に先に進むよ
う告げられた。ちょっとは休み、とどまりたいと思ったかも知れな
い。しかし主の御声に、示しに従順に従った。私たちにも、主は、
居心地の良い今の場所を出て、新しいチャレンジに一歩踏み出すよ
うに、言われているだろうか。御声が来たなら、「主の告げられた
とおりに」従おう。

先は見えないので、不安も恐れもあるかも知れない。しかし主の御
声には、ためらわずに従うことが大切だ。「私は急いで、ためらわ
ずに、あなたの仰せを守りました。」ぐずぐずしていると、必ずや
従えなくなってしまう。「そうすれば、あなたを祝福し」従うとこ
ろには大きな祝福が備えられている。主の真実、主の愛、御言葉の
確かさを、従う時に経験して行く。
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自分のプランや理想があり慣れた現状も心地よいが、いつでも主の
示しに立ちあがれるよう、心も整え主の御声に耳を澄ませていた
い。新しいチャレンジは感謝だ。必ず新しい祝福が備えられてい
る。


2023年05月29日(月)

「私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答え てくださる。」詩篇3:4


ある人が、教会で子どもクラスを持っていた。一人の子どもが、何
かと妨害する。祈って、愛そうとするが、又、他の子たちに嫌がら
れる事をする。注意すると反発する。ついイラ立ってしまい、祈っ
ていた。毎週続き、他の子たちにも影響する。解決策も見当たら
ず、困り果て、切に祈っていた時に、ふと家庭訪問の思いが来た。
祈りの答えと従った。

すると母親には、日頃の感謝を告げられ、家に招き入られた。心を
割って、彼の生い立ち、境遇、複雑な家庭事情を話してくれた。驚
き、よくこれくらいで済んでいると思えたほどだった。見方が変わ
ってしまい、それ以後、良きに導かれて行った。御霊の働きだっ
た。

又、ある人は、職場に、言葉にとげがあり、きつい相手がいた。し
かし自分はクリスチャンであり、穏やかに対応するものの、傷つ
き、嫌な思いをしていた。その思いは段々高じて行った。そのため
祈り、日々に祈っていた。そんな中、ランチに誘っては、との思い
が与えられた。御霊の導きを感じ、どうであれ従おうと、行動に移
した。

すると相手は普通にOKで、楽しい交流とされ、その中で、そのと
げが、彼女の複雑な経歴から来ていることがよく理解できた。別に
自分への個人攻撃でない事も理解できて、不思議に気にならなくな
った。大事、小事、とにかくまず祈りに持って行こう。主を呼ぼ
う。御霊は導いて下さる。そして示された事に従うと、平安に変え
て行って下さる。
------------
いつも目に見える表面的なことしか理解できない者で、的外れな悩
みを抱えているかもしれない。主に導きを祈ろう。主は必ず良い道
を用意してくださっている。主に明け渡し従おう。


2023年05月28日(日)

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」ルカ5:4 


プロのベテラン漁師であるペテロが、ある時、徹夜で漁をしたが、
何と一匹もとれなかった。その日、待っている家族に、持って帰る
糧がない。疲れ果てた重い身体で、網を洗っていた。一刻も早く帰
宅し、休みたかったろう。その時、少し舟を出すよう、主に頼まれ
た。何より先生の頼みであり、少し位ならと疲れた身体で、引き受
けた。

群衆への話が終わると、ペテロに、深みに漕ぎ出し、網をおろして
魚をとるように言われた。「え?」魚は昼間になどとれない。しか
し彼は「でもお言葉通り、網をおろしてみましょう」と従った。す
ると、驚くほどの大漁だった。魚が、いるはずが無いのに、主の
御言葉に、従った時、まさに奇跡を見た。

私たちはどうだろう。夜通し働いたが、何一つとれなかった、今ま
で、何度も何度もやったが、ダメだった。幾ら頑張っても、出来な
かった。何も変わらなかった・・。失望落胆し、次もどうせだめだろ
うと、気力も失せている事があるだろうか。しかし「わたしがあな
たがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」と、主の口
から語られる、主の言葉は霊であり、いのちだ。

主が語られた言葉は、主ご自身が成し遂げられる。主が語られた言
葉に従う時、私たちは変えられて行く。主の言葉が臨むなら、今ま
で何度やってもダメだったが、「でも、おことばどおり」と、網を
下ろしてみよう。今一度。従ってみよう。「そのとおりにすると、
沢山の魚が入り、網は破れそうになった」。

・・・・・・・・・・・・・・・
自分の知恵や力では、出来ないこと、何度も失敗してしまったこと
があるだろうか。しかし同時に、主の言葉があれば、どんなに自分
が無力であっても、確かに主の力とみわざも経験して来た。出来な
かったその事に、主の言葉が臨むなら、もう一度網を下してみよう。


2023年05月27日(土)

「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にする あらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしな ければなりません。」マタイ12:36



「悪いことばをいっさい口から出してはいけません」とあるが、
職場、学校、近隣・・人の集まる所、悪口と噂話だらけだろうか。罪
の性質は、それらを好み、心地良い。「陰口をたたく者のことばは
おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下って行く」とある通りだ。肉
には、美味しい食べ物だと言っている。そうでなければ、これほど
悪口が、まんえんする事はない。

「心に満ちていることを口が話す」とあり、口が話す前に、心に潜
む思いが存在する。その心が問題だと。悪口の底に、隠れた妬みや
張り合う心、敵対心が存在する。御霊に探って頂き、取り扱って頂
こう。悔い改めよう。相手への妬みや憎しみが、相手を赦し、愛し、
相手を祝福する思いに変えられるなら、どんなに平安なことだろう。

又、悪い言葉、不信仰な言葉は伝染する。カナン入りした斥候たち、
カレブとヨシュア以外の10人は、肉の目に見えるところのみを告
白した。攻め上れないと。民は自分たちより強く、自分たちはいな
ごのようだと。その不信仰な言葉は民にどんどん伝染し、大きな影
響を与え、全会衆が恐れ、不信仰に陥った。

泣き明かし、エジプトに帰ろうと言い出した。しかし、目に見えな
いもう一つの現実があった。主に視点を置いて、御言葉に立ち、信
仰の言葉が語れたなら、どんなによいだろう。それは他者を生かし、
建て上げる。心に満ちていることを口が話す。主との交わりにより、
自分自身がまず主により満たされよう。その時、おのずと喜びの言
葉が口から出て来る。

・・・・・・・・・・・
口より以前に、心の問題だとあり、心が御霊に導かれるよう祈ろう。
口先だけの言葉でなく、御霊に導かれて語る言葉は、必ず人を励ま
し、慰め、建て上げる。御霊の働きだ。自我、肉の言葉が出そうな
時、主に呼ばわろう。守って下さる。


2023年05月26日(金)

「・・これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主 がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておら れたからである」Uサムエル17;14



ダビデの議官であったアヒトフェルが、何とダビデの息子アブシャ
ロムの謀反に荷担しているとの情報が入った。その時ダビデはどう
したのか。立って動くのでなく、即、対応するのでなく、まず主に
祈った。アヒトフェルの助言が愚かなものとされるようにと。アヒ
トフェルが非常に知恵ある助言をするからだった。

当時、その助言は人が神に伺って得る言葉のようであり、ダビデに
もそう思われた。アヒトフェルは、アブシャロムに助言した。ダビ
デのそばめの所に入るなら、父に憎まれる事をしているので、民は
勇気を出すと。それを聞き入れ、アブシャロムは全イスラエルの前
で、父のそばめ達の所に入った。

ダビデは姦淫の罪が赦されたが、これは痛い刈り取りだった。「白
昼公然と、あなたの妻達と寝るようになる。あなたは隠れてした
が、わたしはイスラエル全部の前、太陽の前でこの事を行なおう」
と。続けてアヒトフェルはアブシャロムに作戦を告げる。今夜ダビ
デを襲い、王だけを打ち殺し、すべての民を連れ戻すと。だがアブ
シャロムはフシャイの意見も聞いた。

フシャイはアヒトフェルの作戦に反対し、ダビデに良いように計画
した。アブシャロムはフシャイの策を取った。これは主がダビデの
「アヒトフェルの助言を愚かなものに・・」のまさに祈りの答え
だ。主が彼の優れた謀り事を、打ち壊された。私たちも窮地に立つ
時、まず主に祈ろう。祈りこそが、何よりも大きな力であり、主は
祈りに答え、働かれ、みわざをされる。
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主よどうかと、ダビデは痛ましい逃避行のなかで主にすがり祈る。
ダビデ王の本当の強さではないか。人間的な策略は何の助けにもな
らない。主に全てを任せ助けを求めて祈ろう。


2023年05月25日(木)

「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」 Tサムエル1:10 


ハンナとペニンナは二人共、エルカナの妻だった。ペニンナには子
どもがいたが、ハンナには子どもがなかった。一夫多妻には問題が
起きる。エルカナはハンナの方を愛していて、心がハンナにあっ
た。ペニンナはそれを妬み、憎しみはハンナに向き、ハンナへのい
じめとなった。子どもの事で、ハンナをひどくいらだたせるように
した。

子どもが欲しかったハンナは、辛く、苦しく、泣いて食事もできな
かった。エルカナの「あなたにとって、私は十人の息子以上の者で
はないのか」との言葉は、「私にとって、あなたは十人の息子以上
の者」ならまだわかるが、全く何の慰めにもならない。

夫にも理解されず、ハンナの苦しみは頂点に達した。ハンナはペニ
ンナのいじめの被害者ではあるが、ハンナにもペニンナへの羨望、
妬み、怒りがあったろう。双方が苦しかった。当時、不妊は主に祝
福されていないとの迷信があり、それが最も辛かったかも知れな
い。

ハンナはどこにも救いがなく、それゆえ主に追いやられ、徹底的に
祈る事を決心した。感情をぶつけ、号泣し、長く祈り、心を注ぎ出
し、憂いといらだちを吐き出した。主に向き合い、自分に向き合い
、奥底を洗いざらい告げて行った。

そして祭司からの「安心して行き・・」願いが叶えられるようにと
の言葉を受け、ハンナは180度変化した。顔が別人になり、すっき
り平安に、晴れやかになり、食事ができた。心の嘆き、憂い、苦し
みを、主のもとに携える時、主が受け取り、平安と交換して下さ
る。
------------
人はみな不完全で、心の痛みの解決を探しまわっても見つからな
い。主が傍におられ、常に祈れる恵みに感謝だ。主が聞いてくださ
り、ハンナのようにそこから生きる目的も使命も与えてくださる。


2023年05月24日(水)

「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃 えていても、肉体は弱いのです。」マタイ26:4



ペテロは、弟子たち皆が、主を裏切っても自分は違う。自分は決し
て裏切らないと言い切った。「私は」命をかけても、どこまでもつ
いて行く。「私は」あなたを知らないなどと言わない。「私は」何
があろうと大丈夫。ペテロは自分を知らず、自分の弱さを知らなか
った。自分に自信があり、自信満々であった。「自分は」他の弟子
たちとは違う、そこに高慢が潜んでいた。

「シモン眠っているのか、まだ眠っているのか」との主の言葉の通
り、ゲッセマネで、主が祈りの苦闘中に、眠り込んでいた。主はご
自分の姿を、心の内を弟子たちの前にさらけ出され「わたしは悲し
みのあまり死ぬほどです。ここを離れないで目をさましていなさ
い」と、弟子たちが一緒に祈ることを願われた。

ご自分の弱さを認め、御父に拠り頼み、すべてを祈りに持って行か
れた。弱さを認めた、祈りの苦闘の中で、祈り抜いて勝利され、十
字架へと立ち上がられた。「立ちなさい。さあ行くのです」と、十
字架に向かって真っ直ぐに歩み出された。主とペテロの違いは、ペ
テロは自分の弱さを知らなかった。弱さの自覚がないため、祈りが
無かった。祈っていなかった。

主は弱さを自覚されたからこそ、切に祈られた。眠気が問題なので
なく、自らの弱さを知らない事が致命傷だった。弱さを認めなけれ
ば、祈りの必要性がわからない。自分の弱さは見たくないし、認め
たくない。しかし、自らの弱さを認めてこそ、初めて主に拠りすが
り、祈ることができる。
------------
心は燃えていても肉体は弱く、誘惑に陥りやすい。祈りの備えなし
には一日も歩めない者だ。自分の弱さをしっかりと認め、主に頼ら
なければ倒れてしまう。今日も祈り主について行こう。


2023年05月23日(火)

「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。 主は私のたましいを生き返らせ・・」詩編23:2



ある人が、職場で大きなプロジェクトの責任を負っていた。技術的
にも高度で難しく、期日も迫っていた。ずっと早朝出勤で深夜帰宅
の日々だった。身体的にも、疲労が溜まり、神経も張りつめてい
た。蓄積疲労に、心身に段々と限界を感じるほどだった。デボーシ
ョンを持つ時間など全く無かった。

その日職場で、自分でも制御出来ないほど、些細な事にピリピリイ
ライラして、部下にひどく当たってしまい、限界だった。昼休みに
公園に出て、一番隅のベンチで一人になり、主に祈った。心はカラ
カラで渇き切っていた。心の内を吐き出すように、主に聞いて頂い
た。ほとんど心の底からの叫びだった。その主との交わりの中で、
不思議が起きた。

御霊に触れて、霊が新たにされたのだった。あんなにストレスとプ
レッシャーで張りつめていた心に、平安が来たのだ。安心感に包ま
れ、まことに緑の牧場に伏させて下さった。心をリラックスさせて
下さり、いこいの水で新たにされ、生き返らせて下さった。その日
の午後からは、全く違った。

まさにリフレッシュされていて、心に余裕を持って、平安に働くこ
とができた。この出来事も益とされて、何よりも主との交わりの大
切さを教えられた。多くの人が、主との交わりにより、息を吹き返
す経験をしている。とにかく主に向かおう。
------------
主は決して見放さず共にいてくださるのに、主と離れ一人で遠くに
いるような時がある。主に堅く結びついて離れずにいよう。主は健
やかなたましいを豊かに養ってくださる。


2023年05月22日(月)

「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂 の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます」 マタイ7:24



岩の上に家を建てた賢い人と、砂の上に家を建てた愚かな人の話が
出てくる。御言葉を聞いて行なう人が、岩の上に建てた人で、御言
葉を聞くが、行わない人が砂の上に建てた人だと。砂の上に建てた
人は、御言葉を聞く事は嫌ではなく、拒否反応もなく、むしろ良い
事と思い聞く。

しかし、聞くには聞くのだが、その御言葉を行なわなければ、それ
が砂の上に建てられた家だと。例えば、「神の国とその義とをまず
第一に求めるなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものは
すべて与えられます」との言葉を受けた場合に、岩の上に建てる人
は、その通りに主を第一にして生きて行く。

しかし砂の上に建てる人は、御言葉でなく、自分の思い、考え、価
値観の方を第一にする。そのため、主は二の次で、後回しだ。まず
「これらのもの」=食べる物、着る物、生活の必要の方を第一に求
めて、走り回る。御言葉より自分の考えを優先させる。常に自分で
何とかしようと画策する。一見、御言葉も喜んで聞くので、岩の上
に建てた人と同じように見える。

土台は見えないので、外観は同じだ。何も無い順境の時は同じだ
が、逆境の時、試練の時に、天と地ほどに違ってしまう。岩の上に
建てた家は、決して倒れないが、砂の上だと倒れてしまうと。しか
もそれはひどい倒壊だと。聞いた言葉に信仰もって従って行く時、
人生に何があっても倒れる事はない。
--------------
何より不安定なものが自分の感情や価値観ではないか。すぐに目の
前のことに影響されて危うい。主の御言葉によって支えられ確実な
歩みを続けたい。御言葉を選び従っていこう。


2023年05月21日(日)

「主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カイン とそのささげ物には目を留められなかった。それでカインはひどく 怒り、顔を伏せた」創世記4:4



カインとアベルは各々献げ物を、主のもとに持って来た。その時、
アベルの献げ物は受け入れられ、カインの献げ物は受け入れられ
なかった。それにより、カインは怒った。怒るという事は自体が、
自分の方が正しいとする態度だ。主をどこまでも正しいとするな
ら、自分の側に何か間違いがあると受け取るはずだ。

しかしカインはそうでなかった。自分の側の問題を認めず、受け
入れない主に対して怒った。主を正しいと認めないので、アベル
をも認めることができない。そのため受け入れられたアベルにひ
どく嫉妬し、激しい憎悪を向けた。「あなたが正しく行なったの
であれば、受け入れられる」とあり、つまりはカインは正しく行
なっていなかった。

もし動機が正しければ、良心にやましいところが無ければ、真っ
直ぐに立っておれる。「あなたが正しく行なっていないのなら、
罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている」間違ってい
たなら、悔い改める事ができる。悔い改めなければ、罪に支配さ
れてしまう事になり、罪に罪を重ねてしまう。

悔い改めなかったので、カインはアベル殺害へと至ってしまった。
しかし殺害後も、主は「アベルはどこにいるのか」と、尚も悔い
改めの機会を与えられる。主はあわれんでいて下さる。神のあわ
れみは尽きない。カインは主のもとへ行き、御心に従い、献げ直
すことができた。私たちも間違ったなら悔い改め、赦されて、軌
道修正され、方向変換し、御心へと歩んで行ける。

・・・・・・・・・
日々の生活で、御霊が気づきや示しを与え、主の御心へと導いて
下さっている。無視したり、ないがしろにする時に、罪へと進ん
でしまう。そこで、ありのまま祈ろう。「従えないです、心がど
うにもならず、助けて下さい」と祈ることができる。


2023年05月20日(土)

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも 高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」 イザヤ55:9



ある老齢の人が証しした「人生最後の時期に来ている。今までの歩
みを振り返る時、『わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
わたしの道は、あなたがたの道と異なる』の通りだと実感させられ
る。人生は、自分の思い通りでは決して無かった。むしろ思い通り
にならない事の方が多かった。だが、『人の心には多くの計画があ
る。しかし、主のはかりごとだけがなる』の御言葉の通り、多くの
自分のプランがあった。

しかし、確かに『主のはかりごと』が成ったと見せられている。思
い通りにしたい肉は強く、そうならないので、いら立ち、怒り、混
乱や失望もし、人と比較して惨めになり、自己憐憫にも陥った。し
かしそれによって自我が砕かれた。自分の思う道は閉ざされる事が
あったが、不思議に目の前に別の道が開かれ、結果的に遙かに素晴
らしい道へ導かれていた。

自分が思う以上に、自分にとって生かされる道であった。思い描い
た人生とは違うが、主の思い描かれた人生を歩めて来たのだと。真
の満足がある。主が「私のために」備えて下さった人生、私へのプ
ランだったと、感謝でならない。

自分の人生の最後に、主は最善をされると、深い感謝と喜びに溢れ
ている。主に従って来て本当に良かった。私のために備えて下さっ
た人生は、ベストだったと証しできる。主に従う人生は、紆余曲折
があるが、良いもので満たされる一生だ。

・・・・・・・・・・・・・
誰しも振り返って思うのが、主に従う人生は、決して思い通りでは
ないということだ。自分の思い通りにはならない。しかし、主の思
い通りになっている事に、肉の喜びではない、御霊の喜びを感じる。
そしてそれは平安な道だ。


2023年05月19日(金)

「・・しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したり しているのは、知恵のないことなのです。」Uコリント10:12


一人暮らしの女性が、暮れにイルミネーションが輝き、街がクリス
マスでにぎわい、外がキラキラし出すと、たまらなく寂しくなると
打ち明けた。ちまたが人々でにぎわい、特に家族連れや、家族団ら
んが溢れる年末年始はひどく孤独に感じると。周囲を見ては、主は
不公平だとつぶやき、不平不満が募った。そんな時、ぶどう園の労
務者の学びがあり、気づかされた。

早朝からぶどう園で働いた人は、賃金に満足していた。一日の労を
終えると、きちんと報酬を得て帰宅できるのだ。妻子の喜ぶ顔を思
い、又、賃金の保障があり、安心だったろう。ところが夕刻からの
者も同賃金で、比較した途端、感謝と安心などきれいに吹っ飛ん
で、不満と怒りで一杯になった。隣と比較しなければ、自分の報酬
に満足と喜びのままではないだろうか。

その女性は、不満は、自分の心の態度の問題だと気づかされた。
周囲との比較でなく、又、自分の描く思いや、自分の理想との比較
でもなく、ありのままの自分を認め、そこで横ではなく上を見て、
主に従って行くなら、来る日も〃平安で幸せでいる事ができるのだ
と。落ち込んでいた自分に、学びを通して、主が教えて下さった。

比較にある時、御霊の気づきが与えられるよう、祈っていよう。す
ぐに横を見てしまうので、主と自分の関係の中で歩めるよう祈り求
めよう。視点がいつも主にあるよう、主にとどまっておれるよう
に。主の御心を尋ね求めて、自分の分を行なう時、そこに真の喜び
と平安がある。
------------
自分の理想との比較は逃げられず苦しい。幻を追うように限度がな
い。自分のはかりを捨てて主に繋がっていよう。主が与えてくださ
った自分の使命を感謝し、喜んで生きていこう。


2023年05月18日(木)

「主が彼に幻の中で『アナニヤよ。』と言われたので、『主よ。 ここにおります。』と答えた。」使徒9:10



ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が「アナニヤよ」と呼ば
れると、彼は「主よ。ここにおります」と答えた。忠実で、従順な
人物だった。まさに「主よ。お従いします」との姿勢だ。すると主
は、サウロのもとへ行くよう言われた。だが、サウロと言えば、同
胞を執ように追って捕らえるひどい迫害者だ。そんな人物が回心す
るのだろうか。自分も殺されるのではないか。

アナニヤは非常に戸惑い、恐れを告げる。しかし主は、彼が異邦人
宣教への「わたしの選びの器」だと伝え、主のご計画を打ち明けら
れた。この主の言葉をアナニヤは信じた。「そこでアナニヤは出か
けて行って」とあり、驚くべき信仰と従順だ。アナニヤは自分の命
も委ねて、主を信じ、主の示しに従った。

サウロを訪ね、「兄弟サウロ・・」と彼の上に手を置いて告げた。
この主への従順があったからこそ、「パウロの目からうろこのよう
な物が落ちて、目が見えるようになった。」アナニヤは恐れや不安
と戦い、どんなに勇気が要ったことだろう。だが主に従った。そし
て主もアナニヤの信仰と彼が従うことを知っておられた。それゆえ
この重大な任務にアナニヤを選ばれた。

主の御心を実現させるのは、私たちの従順だ。主はそれを求めてお
られる。その時に、行なう力は主から来る。今、御心が示されてい
るだろうか。主はあなたを信頼しておられる。パウロは主の選びの
器で、アナニヤも主の選びの器であり、私たち一人〃も主の選びの
器だ。「主よ。ここにおります」と、主の示しに答えられるよう祈
ろう。主の大きなみわざが成される。
------------
自分の価値観と合致していることは従いますと言えても、都合の悪
い事は避けて、より分けて進んでいる。主の示しがはっきりとわか
ることは感謝だ。従えますようにと祈りたい。


2023年05月17日(水)

「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照 らされます。」詩篇18:28



ある人が、隣家の主婦に悩まされていた。何かにつけて、自己主張
をはっきりして来て、苦手だった。自分自身も弱さがあり、「ノ
ー」が言えず、段々とお隣さんが苦痛になっていた。歯に衣着せぬ
物言いに、傷つくこともしばしばだった。隣なので、逃げることも
出来ず、顔を合わせたくない日々となっていた。

しかし自分はクリスチャンであり、相手のどんな言動や態度にも、
礼儀正しく、丁寧に接するよう努力した。何とか良い関係をと祈
り、接するのだが、やはり傷ついてしまい、ますます嫌になり落ち
込んだ。辛くて涙ながらに祈る事もあったが、そんな折り、急遽引
っ越すことになった。突然の思ってもみない事だった。引っ越し業
者に荷物を任せ、自分は列車で向かった。

様々な思いが巡り、祈りつつ、今までの事を思い返していた。苦し
い状況は、もう終わったはずなのに、自分の心は、何か晴れなかっ
た。そんな中で、御霊の光が臨んだ。相手が問題で、相手がきつい
人で、自分は被害者だとずっと思っていた。しかし初対面の時か
ら、好きではない、嫌な相手だと思い、相手を拒否し、受け入れて
いなかったのは自分だとわかった。

自分がずっと裁きの目で見ていたと。自分の内側など全く気づかな
かった。心の中で、悔い改めの祈りをした。その時、初めて心がす
っきりし、晴れやかになり平安が来た。自分の内側を御霊は照らし
出して下さり、正しく導いて下さる。
------------
自分の内側の闇は主の光によって顕わになる。なぜこういう気持ち
が続くのか心の奥の本音が、もし悔い改める罪があるなら悔い改め
たい。主は闇を照らしてくださる。


2023年05月16日(火)

「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正し い、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐え て、実を結ばせるのです。」ルカ8:15



主は、私たちに、御声をかけ続けて下さっている。礼拝説教や、学
びや、自分で聖書を読む時に。毎週礼拝で、御言葉を聞いている
が、どのように受け取っているだろうか。物理的に、耳に聞こえて
いるが、心の耳に入っているだろうか。拒否する気はなく、聞きは
するのだが、漠然と聞いていると、心に御言葉の種が植わる前に、
悪魔に奪われてしまう。

御言葉を拒否する気は毛頭無いので、逆に気づかない。右から左に
流れて行く。なぜ聞こえないのだろう。それを真剣に受け取るつも
りがない、つまり、従うつもりが無いだろうか。聞く事は支障がな
いので、良いお話と聞くが、犠牲を払う気は無い時、心が受け取ら
ない。そのため、傍観者的聞き方になってしまう。

犠牲が必要な御言葉は、無意識に除けてしまう。御言葉が、心にぐ
いぐい臨む時は、真剣に御言葉に向き、従おうとしている時だ。自
分が変わろうとの思いがある時、御言葉が響いて来る。種蒔きの例
えの通り、自分の心の態度は重要だ。

表向きは聞いているが、心の奥では拒んでいるだろうか。うすうす
感じているかも知れない。成長は気づきから始まる。御霊の働き
だ。どんなに従わずとも、今まで決して見捨てず、愛し慈しみ続け
て下さった主を覚え、今こそ従おう。
------------
都合の悪い事は聞き流したくなるが、主の御言葉には、しっかりと
立ち止まり受け取りたい。主は決して離さず愛をもって育ててくだ
さる。幾つになっても成長していきたい。


2023年05月15日(月)

「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないの を知っています」ローマ7:18


ある人が、友人に誘われ、初めて教会に行った時に聞いた「救われ
る」との言葉に、「救われる」って、何?ギヨッ!としたと。そし
て「あなたは罪人です」との言葉に、何という失礼な事をと。自分
は犯罪を犯した事は無く、真面目に一生懸命に生きて来た。それが
何で?と。だが、不思議に何か教会や聖書に心ひかれるものがあ
り、友人と通うのは楽しかったし、聖書の学びを続けていた。

その中で、ずっと耳を離れなかった言葉、「罪人」ということを考
えた。御言葉の学びと併せて、思いが巡る中で、今まで全く考える
事など無かった、心の内側に思いが至った。自分は、福祉に携わっ
ていて、人々のために、身を粉にして懸命に頑張っていると思って
いた。周囲にもそう思われていた。良い人であり、皆に賞賛され、
感謝されていた。

しかし心の内をよく見た時に、醜い自分に気づかされた。自分は、
他の人のようではなく、良い人間だと思っている。だが、表には出
さないが、人が思い通りにならないとイライラし、腹を立て、相手
を見下し、さばく、冷ややかな自分がいた。又、良い人だと思われ
たい、認められたい、人に賞賛されたい自分がいて、そのために人
に親切に振る舞う。それならすべて自分のためではないか。自我、
自己中心に愕然とした。

パリサイ人が、私は、取税人のようでないことを感謝しますと祈っ
た箇所で、自分だと思った。御霊により、罪につき、義につき、さ
ばきにつき教えられるとあるが、まさに御霊により、「罪人」であ
ることを教えられ、主のもとに導かれた。友人がずっと祈ってくれ
ていた事も、感謝な事であった。
--------------
外はつくろえても内側は肉の思い通りにしたい。主は御言葉を通
し、御霊によって肉の思いは死であると気づかせてくださった。罪
をひとつひとつ認めると主は、常に励ましてくださる。御霊に導か
れて歩もう。


2023年05月14日(日)

「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってくださ い。」詩篇141:3



御言葉にある。「互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄
弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律
法をさばいているのです」の通り、悪口は罪だとわかりやすいが、
うわさ話は、軽く見てしまう。だが悪口と共に、うわさ話は、本人
不在の中で、陰で言われる陰口だ。ということは、もし間違った情
報であっても、本人は訂正できないし、反論もできない。

であれば、事実は確かではないのだから、そのまま受け入れるのは
どうだろう。又、そのうわさ話の自らの「動機」は何だろう。「動
機」を見る事は大切だ。その人の利益だろうか、その人を建て上げ、
励ます事になるだろうか。それとも不利益だろうか。ある説教者が
言った。「うわさ話は、三者を傷つける。言う人と、聞く人と、言
われている本人を」。

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません」「たきぎが
なければ火は消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはや
む」と。有害なうわさ話が来たなら、自分の所で止めることができ
る。広めない事ができる。雑談が、無益なうわさ話の方向に行くよ
うなら、進路変更して行くことができる。

もし自分がその人の立場だったら、どうかを考えよう。「軽率に話
して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人を
いやす」。御霊の助けにより、舌が人をいやすために用いられたら、
どんなに幸いだろう。くちびるの戸が守られるよう祈っていよう。
・・・・・・・・・・・
舌は両刃の剣だ。殺すことも、生かすこともできる。悪い言葉は
人を深く傷つけるし、励ましや慰めの言葉は人をいやし、勇気づけ
る。言葉は心から出て来るので、心が御霊に導かれ、御霊の支配に
ゆだねて行けるよう祈ろう。


2023年05月13日(土)

「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにし てはならない」ヘブル4:7


「聞き方」に注意するようにと言われている。イスラエルの民は皆、
モーセから神の言葉を聞いていた。だが聞いた言葉が「信仰によっ
て結びつけられ」ずに、最後まで神を疑い、結局は不信仰により荒
野で滅ぼされてしまった。何のためにエジプトを出たのかわからな
い。モーセは神の言葉を語った。問題は、聞く側にあった。信仰に
結びつける事が大切だ。

種蒔きのたとえで、種は御言葉で、土地は心だ。道ばたに落ちた種
は土地がカチカチで、種は植わらず、悪魔が来て種を奪い去った。
つまりは、先入観や偏見があると御言葉が入らない。又、他人事と
して聞く態度だ。自分の事として聞かないので、右から左へと素通
りだ。まるで映画でも観るように、自分とは距離があり、関係の無
い傍観者として聞いていないだろうか。

御言葉は、誰かへの言葉でなく、自分への言葉として受け取る必要
がある。それが「良い地」だ。その時、必ず実を結ぶ。薄い岩地に
落ちた種とは、喜んで御言葉を受け取るが、根が無い。根を張るの
は地中だ。人に見えない、隠れた主との関係を培う事が大切だ。主
との地道な交わりの生活が、根だ。根が無いと枯れてしまう。

いばらの中の種は、外部から伸びたいばらにふさがれた。外側のも
のにより生長が妨げられる。世の多くの事柄に心が奪われてしまい、
主がおそろかになる。自らはどんな「聞き方」をしているか、振り
返り考えてみよう。御言葉が、土地である心に、信仰によって受け
入れられる時に、根づき、芽が出て生長し、豊かな実を結ぶ。

・・・・・・・・・・・・
御言葉を聞く時は、祈りをもって聞こう。祈りがなければ、なかな
かわからない。そして自分への言葉として聞くと同時に、どうであ
れ、従いますとの姿勢で聞く時に、御言葉がわかるようにされる。


2023年05月12日(金)

「御霊の一致を熱心に保ちなさい。」エペソ4:3 



ピリピの教会に、不一致の問題が記されている。パウロはユウオデ
ヤとスントケに、主のもとに一致するようにと書き送っている。厳
しい迫害があり、どうしても内部の一致が必要であった。一致し、
志を一つにして行けるのは、「キリストにあって励ましがあり、愛
の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがある」から
だと。

一致を妨げるものが、「何事でも自己中心や虚栄から・・」の通
り、「自己中心」と「虚栄」だと。自己中心は、「私は・私の・私
を」であり、どこまでも「私・私・私」だ。「私の考え・私の気持
ち・私の意見」が重大で、それが重んじられず、受け入れられなけ
れば、分裂となる。「虚栄」とはプライドであり、自分は特別であ
って、自分が認められたい。

そして、一致に必要なものが「へりくだり」だ。それは「互いに人
を自分よりもすぐれた者と思う」ことで、「キリスト・イエスの思
いを、思いとして行くこと」だと。私たちは皆、自分のメガネと物
差しを持っていて、自分の思いが大切であり、固執してしまう。
又、肉は自分の利得を求める。これが妨げとなり、相手を正しく見
る事ができなくなる。

これを捨てる時に、つまり主に従う時に、偏見と独断が除かれ、相
手の立場に立ち、理解して行ける。主は、神であられたのに、その
栄光、特権の何もかもを捨て、ご自分を無にして、来て下さった。
十字架の死にまで従われた。自分には出来ない事を認め、主を仰ぐ
時、聖霊の助けが臨み、導いて下さる。
------------
自分が出来なくて主を仰ぐように、誰もが弱くて主に支えられなが
ら歩んでいる。自分が自分がと思うときに気づきたい。主を仰ぎ、
へりくだって歩みたい。


2023年05月11日(木)

「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りな さい・・」ヤコブ5:13



ある人が、悪気が無いのではなく、悪意による批判を受け、非常に
傷つき腹が立った。怒りが沸く。その時に、思いがぐるぐる巡る。
「気にしなくてよい」と言う自分がいる。「主はご存じでいて下さ
る」と思う。反面、一言、言わないと気がすまない自分がいる。
「言い返さなくてどうする」と言う自分がいる。どうして良いかわ
からない。

心は苦しく、悶々状態で帰宅し、とにかく祈ろうと主の御前に出
た。自分の苦しい思いも気持ちも、あるがまま主に告げて、祈って
いた。すると、ふっと心に「悪をもって悪に報いず」との御言葉が
浮かんだ。「侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさ
い。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです」と。

聖書を読もうと開くと「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。
祝福すべきであってのろってはいけません」「だれに対してでも、
悪に悪を報いることをせず・・すべての人と平和を保ちなさい」
「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちな
さい」次々と臨んで来る御言葉に、あんなに動揺し、いきりたって
いた心が、落ち着いて来たのだ。

心が落ち着くと冷静になり、自分の側にも配慮が足らず、至らない
面があった事に気づかされた。気づけた事に感謝できた。あなた
の、その悶々を、苦々しい思いを、そのままにせず「わたしを呼
べ。わたしはあなたに答え・・」と言われる主に、持って行こう。
主は、受け取り、御心へと導いて下さる。
------------
何度も湧いてくる怒りや苦い思いに肉は抵抗できない。全てを主に
打ち明けよう。そして受けた傷も主はいやしてくださる。主が心を
守ってくださる。祈ろう。


2023年05月10日(水)

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配 します。労苦はその日その日に、十分あります」マタイ6:34



あなたも心配症だろうか。まだ起きてもいない先の事を、ああなっ
たら、こうなったらと、自分で最悪のシナリオを描いて、思い煩っ
ているだろうか。主は「何も思い煩うな」「心配無用」と。にもか
かわらず、くよくよと思い煩ってしまう。思い煩いと平安は、同居
できない。思い煩った途端、心は平安を失い、暗く沈み込んでしま
う。

そして目の前の、今日行なうべき御心を、気力が萎えて、行なえな
い。まず気力がそがれてしまう。又、私たちの多くは、落ち込むと
ネガティブに向かうので、失ったものを数え、自分が持っていない
ものを数える。あれが無い、これが無い、あれもこれも出来ない・
・心はますます落ち込んで行く。

主は、いっさい心配無用。明日の事は思い煩うなと。すべての事に
ついて感謝せよ、と言われる。無いものを数えずに、今、与えられ
ているものに目を留め、そして感謝せよと。どうであれ今の状況を
信仰により感謝して行くなら、どんなに心に喜びが与えられ、引き
上げられるだろう。その時、自分自身が御言葉視点に変えられる。

今の状況がどんなに思い通りでなくても、そこに主の支配とご計画
があるからだ。主は、すべての道で、主を認めよと言われるが、感
謝する事は、その主を認めることになる。今の状況を受け入れるこ
とになるので、感謝は、サタンの足場を崩してしまう。主はそこに
力強く働かれる。状況は変わらずとも、主を信頼し、心が平安にさ
れて行く。
------------
すぐに目の前の事に動揺し明日を心配してしまうが、新しく与えら
れた今日は、主の豊かな恵みの一日だ。感謝して喜んで今日を生き
よう。明日の心配で今日を失わないよう、主を信頼していよう。


2023年05月09日(火)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているか らだ・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あ なたがたに将来と希望を与えるためのものだ」エレミヤ29:11



信仰者になると、人生すべて順調で最後は天国で、めでたし、めで
たしと終わるのではない。信仰者には試練があると、聖書の多くの
箇所に出て来る。苦しい事や理不尽な事が起きる。苦しみは未信者
にも起きて、信仰者も同じように起きる。だが大きな違いがある。
神を信じる人は、どんな辛い事の中にも、そこに神を認めて行く。

悩みや問題の中にも、信仰により、すべての道で神を認て行く。そ
のまっただ中に神がおられ、試練を通して、神の助け神の愛、慈し
み、真実を実体験して行く。神を信じない人は、奇跡的な良い事が
起きても、そこに神を認める事は無い。ただの偶然、ラッキーにす
ぎない。そこの違いだ。神を信じる人は何が起きようと、そこに神
を認め、神の愛を信じる。

どんな問題が来たとしても、神を信じているから、その問題の中
で、神に出会って行く。悲しみの涙の谷が、泉の湧く所となる。何
をどうして良いかもわからない、まさにどん底で、神に出会う。そ
こに神がおられるからだ。もし、思い煩い、不安、怒りに飲み込ま
れていたなら、神以外のものを拠り所とし、頼りとしていないだろ
うか。

順境の時には、全く見えないが、逆境の時にこそ自らの本当の姿を
見せられる。そこからこそ大きな祝福が始まる。神は、常に両手を
差しだしておられる。まずは、ありのままを主に告げよう。恐れ、
不安、落ち込み、どうもできず、祈れないと告げよう。そこから神
視点へと、変えられて行く。
------------
苦しみの中で与えられる主の守りや慰めは、問題の中にいながら思
わず感謝が溢れてくる。主に愛されていると実感するからだ。勇気
が与えられる。順境の時にはわからない主の愛と守りを知れる。


2023年05月08日(月)

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのこ とばによる」マタイ4:4


人は、神の言葉によって生きる。又、バプテスマのヨハネの箇所で
「荒野でヨハネに神の言葉が下った」と出てくるが、荒野のように
思える中で、主の言葉を受け取れる。神の言葉が、荒野でヨハネに
下ったとある。荒野とは何もない所だ。そこはこの世的には不便で
快適で無い。携帯、パソコン、テレビも無く、映画館も遊戯施設も
無い。静寂が支配する場所だ。

その何も無い所で、主の言葉が下った。私たちも、主の言葉を聞く
ために静かな場所は大切だ。気が散らず集中できる場所で、御声に
耳を傾ける時に、主の言葉が下る。しかし環境的に、どうしても時
間と場所の確保が難しい場合もあるかも知れない。ある人は時間も
場所も取れない状況下で、通勤時間を主との交わりの場とした。目
を閉じ、じっと黙想し、心の中で祈りの時を持ち、その人の荒野と
した。

又、ある人は、早朝出勤、深夜帰宅の激務だった。心身消耗し、自
分の時間など全く持てない。そんな中、昼休みに屋上に行き、隅の
椅子に座り、御言葉に聞き、祈り、交わりの時とした。主に触れ
て、
豊かな祝福とされた。別の人は昼休みに公園へ行き、御言葉と祈り
の時を持った。そこが荒野だった。

育児に家事に忙殺され、自分の時間など持てない主婦が、ぼうぼう
の草刈りにうんざりだったが、切り替えて、主との交わりの時とし
た。御言葉を反すうし、祈りつつ、草取りをしていると、悔い改め
に導かれたり、問題に御言葉の導きが来たり、日頃の恵みに気づか
されたり、庭がきれいになった時には、心も喜びと平安で満ちた。
------------
主との交わりの時を持たないと、少しの事で動揺したり悲しんだり
心がどんどん消耗していくのがわかる。忙しい時こそ御言葉を読み
祈り、主の守りがあることを確信して歩もう。


2023年05月07日(日)

「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがた の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ 4:7



ある人が突然の事態が起きて、パニックになった。何をどうして良
いかわからない。心は動揺し、頭真っ白で、心臓がバクバクする。
どうすれば良いのか、しかし誰にも言えず、一人で悶々状態だった。
常に学んでいるように、まずとにかく祈りに持って行った。主のも
とに駆け込み、心が押しつぶされそうな苦しい、混乱した状況や気
持ちを訴えまくった。

心の内を吐き出し続けていると、段々、混乱状態が落ち着いて来た。
その時に「思い煩いを、いっさい神にゆだねよ」と御言葉が浮かん
だ。主に委ねるべく、尚も祈り続けていると、「何も思い煩わない
で・・願い事を神に知っていただきなさい」との言葉が来た。「あら
ゆる場合に」とあり、この場合も含まれると。

そして「神に知っていただきなさい」とは、委ねた祈りを神は知っ
て下さったという事だ。祈り続けていた時に「神に知っていただい
た」と心からの安堵と確信が来た。全知全能で、全主権を持つ、愛
なる神が知って下さったなら、もうそれで十分だった。後は神らし
い事をして下さり、御心に導いて下さると、心がすっかり落ち着い
た。

どう導かれるにせよ、最善が成されると信じられた。その時、あれ
ほど大嵐だった心が、すうっ〜となぎになっていた。心は軽くなり、
平安になった。「そうすれば・・神の平安が、心と思いを守ってくれ
ます」御言葉その通りに、その身に成った初めての恵みの経験だっ
た。
・・・・・・・・・・・・・
主は、「何も思い煩うな」と言われる。だが思い煩いは次々と起き
て来る。主はその思い煩いに対し、一つ一つをことごとく主に持っ
て行くようにと。主に知って頂いたと思う時、安堵が来る。最善以
下をされないからだ。知って頂きたい。


2023年05月06日(土)

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、 神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです」ヤコブ 1:12



原語で「試み」の言葉は「試練」と「誘惑」の双方に使われている。
だが「試練」は神からのもので、「誘惑」は悪魔からであって、源
が違う。神は、誰をも、罪に誘惑される事が断じて無い。「人は・・
自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑される」。誘惑は悪魔
からで欲に来る。「試練」は神から来て、受け入れ忍耐すべきもの
だ。そうする時、必ず一段階〃成長して行く。

試練は成長のためのもので「試練に会う時は、それをこの上もない
喜びと思いなさい」成長を遂げた者にされるためと。反対に悪魔か
らの「誘惑」は、決して受け入れてはいけない。断固拒否し、立ち
向かうべきものだ。それを受け入れると罪を犯す事になる。そのた
め主が「主の祈り」で言われたように、「私たちを試みに会わせな
いで、悪からお救い下さい」と祈る事は大切だ。

誘惑から守られるように祈る必要がある。悪魔の誘惑の巧妙さは、
物事が順調な時に来る事だ。試練の時は、むしろ真剣に主を求め、
拠りすがる。平穏な時に人は油断する。うまく行っているので神に
頼る必要が無い。つい祈りを怠る。それは、自分で十分やって行け
ると思ってしまうからだ。

祈らずとも大丈夫だと思う。ここに高慢が来る。今、自らはどうだ
ろう。誘惑の目的は神から離す事だ。試練は、私たちを練りきよめ
鍛え、神に近づけ成長させてくれる。誘惑は拒絶し、試練は受け入
れられるように、祈ろう。

・・・・・・・・・・・・
誘惑は拒絶し、試練は受け入れる。サタンからは巧妙な誘惑が来る
ので、よく識別できるよう祈っていよう。サタンは自分の姿を隠す。
警戒が無い時にやられていて気づかない。御霊の気づきに感謝だ。
試練からは逃げたいが、受け取められるよう祈ろう。


2023年05月05日(金)

「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、は っきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」 マタイ7:5 



この世で罪を犯すと、裁判所で裁判が行なわれる。その際、裁判
は、法律に照らし合わせ、処罰が決定される。だが、御言葉の「さ
ばいてはいけない」の「さばく」とは、自分のものさしで、自分の
価値観で決めつける事だ。だから、他人をさばく時には、自分は正
しいとの、立場に立っている事になる。

逆に言えば、だからこそさばく事ができる。その時、自分の事はい
っさい棚上げとなる。実は、さばく自分の内に同じものがあると言
っている。だからこそ相手の内に見える。肉は、人をさばくと、自
分が優位に立った気になる。罪の性質だ。しかし真のさばきは、神
にしか不可能だ。人間は、皆、間違う。他人の外側しか見えず、心
の内はいっさい見えない。

動機も見えないし、わからない。つまりうわべでしか判断できない
事になる。逆に、もし自分が、人からさばかれたらどうだろう。う
わべで判断され、相手の物差しで、決めつけられたらどうだろう。
どんなに傷つき、怒りがわき、又、落ち込む事だろう。人は、自分
の主観で見てしまう。それが梁になる。御言葉は、私たちに梁があ
ると言っている。

ある人が、窮地にいる人に対して、冷めた思いしかなかった。自業
自得だと。しかし主に正直にその思いを告げ、祈っていた時に、御
霊は相手の立場に立たせられた。もし自分なら・・、どんなに辛
く、自分なら絶対に耐えられないと、その時、切に祈らされた。そ
の直後、相手の問題解決の連絡を受け取った。自分も大きく恵まれ
教えられた。まず、主に祈ろう。
------------
誰かの目の中のちりが気になる時、自分の目の中の梁をまず、主に
取り除けてもらおう。真に見える目で見るならどう見えるのだろ
う。主に思いを預け、主の導きに従おう。


2023年05月04日(木)

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者 を救われる。」詩篇34:18


信仰生活で、時に悩みにぶつかる。その問題はエリコの城壁のごと
く、自分の前に大きく立ちはだかる。悶々と思い煩いに、飲み込ま
れてしまいそうだ。その悩みの最中は、出口の無いトンネルのよう
に思える。真っ暗闇で何も見えず、先も見えない。試練は必ず出口
があるトンネルだが、その渦中では永遠に続くように感じてしま
う。

苦しくてたまらず、祈るのだがその苦しみから逃れたいばかりだ。
何とかここから出たい、痛みが無くなって欲しい、助けて欲しい、
即、解決が欲しい。主に委ねることだと頭ではよくわかるが、しか
し、委ねられない事が問題だ。底に、委ねようとしない頑なな自分
がいる。頑固な自我がある。

祈りながらも、自分が立ってしまい、自分で何とかしようと、あれ
これ、あれこれと考えは巡る。委ねられない。ある人が悩みがあ
り、考えると胸が苦しくてたまらない。委ねなくてはと「委ねま
す」と祈るが、しばらくすると、やはり考えていて胸が苦しくな
る。又、「委ねます」と祈る。

その時は楽になったような感じがするのだが、やはり重苦しく暗い
気持ちになる。それを繰り返して、自分は委ねられない事に、初め
て気づかされた。頭では委ねる事が大切と、委ねたつもりなのだ
が、平安は無い。つまりは自分が握っている。初めてその事に気づ
き、「委ねられません。握っています。」と自らの無力を認め、
「助けて下さい」と心から祈った時に、自分が少しづつ〃変えられ
て行った。
--------------
先を知る事ができないのにぐるぐると思いめぐらし不安に襲われ
る。その度に主に問題を委ねられるよう祈ろう。自分の思う結果も
主に渡たして平安を得よう。主の助けを信じよう。


2023年05月03日(水)

「『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼 らの悪がわたしの前に上って来たからだ。』しかしヨナは主の御顔 を避けて・・」ヨナ1:2



ヨナは主からニネベ宣教の示しを受けた。しかしニネベはひどい敵
国であって、ヨナは納得が行かず、従い難い嫌な事だった。港で
は、丁度ニネベとは反対方向行きの船があって、主に従わず、それ
に乗り、タルシシュに逃亡した。敵国に宣教したくないヨナの肉で
あり、肉は御霊に逆らう。しかしそのヨナを、主は決して見捨てら
れない。

主が大嵐を起こし、そこでヨナはくじで海に投げ込まれる事にな
る。しかし主は大きな魚を備え、ヨナを飲み込ませられた。結果的
にこの後、ヨナはニネベに行くが、敵国人が悔い改めると機嫌を損
ねる。ヨナの肉だ。ヨナは自らの姿だろうか。思い通りにならなけ
れば、すねるだろうか。ある青年の証しだ。家が店をしていて大変
忙しく、家族が大変な中も、手伝いは面倒で嫌だった。

手伝った方が良いとわかるが、そして御霊が促しておられると感じ
るが、どうしても嫌で、好きにしたくて、まさに主の御顔を避けて
自転車で出かけた。すると信号の無い交差点で、車に危うくひかれ
そうになり、心臓が止まりそうだったが、間一髪で無事だった。
主の御手をもろに感じ、即、御心に従うべく引き返した。主の関与
に感謝し、喜び持って手伝いができ、家族がそれは喜んでくれた。

御心を行えた祝福に心から感謝した。ヨナは、ニネベの人々の救い
のために大きく用いられた。又、主のご愛は、私たちがどのようで
あれ、決して変わらない。主の愛は不変だ。何というあわれみだろ
う。もし今、「御顔を避け」ようとしていたら、祈って主に顔を向
けよう。
------------
自分の思う方へ行きたいしやりたい。肉はいつも御霊に逆らってく
るが、主は御霊を通して語り続けてくださる。だから御顔を避けて
いても真の平安がない。神の深いご愛とあわれみに感謝だ。


2023年05月02日(火)

「神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾で あった」創世記3:1



エバは悪魔から誘惑を受け、語りかけが来た。「園のどんな木から
も食べてはならないと、本当に神に言われたのか」と。神否定の無
神論者なら、心によろいを着けて警戒するが、神を語り、御言葉を
出して来て、神を認めているふうで、同じ者かと警戒せず、油断し
てしまう。「食べてはならない」との言葉に、エバは反応し、そう
ではないと言いたくて「食べてよいのです」と応答する。

巧妙な誘惑で、まず、悪魔と会話を始めてしまった事が失敗だっ
た。いっさい拒否すべきであった。悪魔は巧妙に会話に引き込んで
来る。最も自分の関心のある所に、心惹かれる所に訴えて来る。エ
バは、沢山ある木々の中で、善悪の知識の木の下にいた。主はアダ
ムに御言葉を語られたので、エバはアダムから伝え聞いていた。

だが「触れてもいけない」「死ぬといけないからだ」とは言われて
いない。御言葉は「取って食べてはならない」「必ず死ぬ」であ
り、全然違う。自分の思いであって、御言葉ではない。うろ覚えで
あったエバは、その時にアダムに聞けば良かった。又、その時に、
すぐにその場で、祈って主に助けを求める事ができた。

エバは「神のようになり」たかった。誰にも邪魔されず、自分の思
い通りに生きたい。その所に来た誘惑で、抗しきれなかった。悪魔
は「決して死なない」と言い「必ず死ぬ」と正反対なのに、もはや
わからない。悪魔は狡猾巧妙だ。絶えず誘惑してくる事を踏まえ、
祈って、主に拠り頼んでいよう。主からの祈りと御言葉は大きな力
だ。
------------
死ぬといけないは、死なない場合もあるとの欲望に寄った都合の良
い解釈だ。誘惑に近づきすぐに同意してしまう。繰り返す失敗から
学びたい。正しく御言葉を握り、主に頼ろう。


2023年05月01日(月)

「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、 ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせた ので、彼らは打ち負かされた」U歴代20:22



モアブとアモンが戦おうと攻めて来た時、そのおびただしい大軍
に、ヨシャパテ王は恐れて、ひたすら主を求め、全国に断食を布告
した。ユダの人々は皆、必死に主を求めた。すると、主はヤハジエ
ルを通して語られた。この戦いは神の戦いであり、主が共にいるか
ら、恐れず出陣せよと。

これに従い、ヨシャパテはひれ伏して、礼拝し、主を賛美した。主
の言葉を信じ、歌う者たちが賛美をし、喜びの声、賛美の声をあげ
始めた時、主の言葉の通りに、敵は全滅した。奇跡的な勝利が与え
られ、まさに主の働きであった。私たちもどうだろう。目の前の苦
しい問題だけを見ていると、私たちは思い煩いと不安に飲み込ま
れ、敗北してしまう。

又、その問題を避けたり、逃げたりしても、又、必ず同じ問題にぶ
ち当たる。だがヨシャパテ王のように、まずその問題を主の前に差
し出し、祈ることができる。自分で何とかしようとせず、主に祈
り、お委ねしよう。その時、単に問題の解決だけでなく、その問題
を通して、砕き、練り、主のかたちへと造り変えられる。そこが大
切だ。

主は祈りに答えて、御言葉を送り、導きや指針を与えて下さる。そ
の言葉に従い、感謝し、賛美する時、主が戦われ、勝利を受け取
る。御言葉を信じ、感謝を献げる事は信仰による事で、目の前の状
況に主を認める事になる。その信仰を受け取り、主がみわざをされ
る。
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主よ、自分にはその力がありませんと今の問題をひたすら主に祈
り、主に渡そう。肉の戦いから主が関与してくださり、まず心が変
えられる。主と共にある戦いは終始賛美と感謝だ。