2023年06月30日(金)

「・・何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろし てみましょう」ルカ5:5 


ペテロは、夜を徹して漁をし、一匹もとれなかった。主は湖岸で群
衆に御言葉を語る中、ペテロは背を向け、網を洗っていた。その
時、主は、舟を岸から少し出すよう頼み、舟の中から語られた。ペ
テロは、疲れた身体で引き受けたが、主は、話が終わると、沖へ出
て、網をおろし魚をとるよう言われた。え?魚は、日中はとれな
い。

見える所と、主の言葉が相反する。どうすればよいのか。ペテロ
は、「でも、おことばどおり」、主の言葉に従い、網を下ろす方を
選んだ。すると驚くばかりの大漁だった。常識では、いるはずの無
い魚がいたのだ。ある宣教師が、ある月、母国からの送金が少なめ
だった。家賃、光熱費等、様々経費を支払うと、余り残らず、どう
したものかと、とにかく切に祈っていた。

すると遠方への訪問予定があり、以前より交通費等を準備していた
が、相手の都合でキャンセルになった。それを生活費に回せると、
これは祈りの答えと喜んだ。だが突然の体調不良で、病院通いが入
り、想定外の出費となった。せっかく与えられたのに、これは一体
どういう事かと、御心を求めて切に祈った。

すると、何と更に献げるよう示されたのだ。え?もう底をつきかけ
てるが、しかし従う決心をし、示しに従った。するとその直後、説
教奉仕依頼があり、その教会で愛の献金があり、何と必要経費すべ
てが満たされたのだった。主の示しが、状況と相反しても、「おこ
とおばどおり」従おう。
------------
主の御言葉の通りにするためには、自分の経験値や価値観を主に渡
さなければできない。この当たり前の事ができない。まず自分で考
え込んでしまう。自分自身をすっかり主に委ねる事から祈りたい。


2023年06月29日(木)

「ペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと 言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうし て、彼は出て行って、激しく泣いた」マタイ26:75



ペテロは主を裏切り、イスカリオテのユダも主を裏切った。しかも
ペテロは三度も主を否み、更に呪いをかけてまで否んだ。どちらも
同じく裏切ったのだが、しかしその最後が天と地ほどに違った。ペ
テロは悔い改め、主の赦しを受け取った。主により回復させられ、
主の昇天後、諸教会のリーダーとして大活躍した。

一方、ユダは、主を銀貨30枚で売り、だが「罪のない人の血を売っ
た」と後悔し、祭司長、長老たちのもとへ行った。その銀貨を返し
たのだが、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言
われ、首をつった。悲惨な最期だった。ペテロとユダ、何と違って
しまった事だろう。ペテロは裏切った時に、主に向き、主の言葉に
向いた。

その時、主が語られていた言葉に思い当たり、号泣した。マリヤの
主のご遺体が無いとの知らせに、走って墓まで行った。ガリヤラへ
行くようにとの指示に、合わせる顔もない中、しかし主の言葉に従
い、ガリラヤへ行った。ユダは後悔した時に、主ではなく、律法学
者のもとへ行った。そしてどこまでも主を求めず、主に頼らず、自
分で決着をつけてしまった。

「自分で始末することだ」これは悪魔の攻撃であり、誘惑だ。私た
ちにも来る。自分で何とかしなければ・・。失敗した時に、自分
で、自分の力で・・。その時、担いきれない重圧に押しつぶされ、
絶望感に襲われる。そうでなく「わたしのところに来なさい」と絶
えず招いて下さる主もとへ、何があっても、まず行こう。平安の道
筋へと導いて下さる。
------------
失敗し絶望におちいっても主に向かいさえすれば望みがある。悔い
改めてもう一度主に明け渡し従えるからだ。失敗してもまだ自分で
何とかしようとするなら悔いるだけで絶望だ。信仰に向かおう。


2023年06月28日(水)

「エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいた やもめ女にだけ遣わされたのです。預言者エリシャのときに・・シ リヤ人ナアマンだけがきよめられました。」ルカ4:26


ここに、エリヤの言葉に従った、貧しいやもめと、エリシャの言葉
に従った将軍ナアマンが出て来る。どちらも、従う事が難しい状況
だった。やもめは、ききんの中、食料が無くなり、最後の一握りの
粉で、子どもと共に食事をして、死ぬのを待つばかりだった。何と
いう事だろう。

らい病のナアマンは、エリシャにいやしを求めて会いに行くが、エ
リシャは顔も見せず、使いの者に伝言させた。ヨルダン川で7度身
を洗えと。ナアマンは激怒だ。ナアマンは将軍でありプライドが許
さなかった。それぞれにとり、厳しい状況であった。だが困難な状
況下で、どちらも神の言葉に従った。

やもめは、言われた通りに、最後の粉と油で、まずエリヤにパン菓
子を作った。彼女はエリヤの言葉に従った。ナアマンも怒って帰ろ
うとしたが、しもべの進言があり、それを聞き入れ、エリシャの言
葉通りに従った。すると奇跡が起きた。やもめは、ききんの間中、
かめには粉が尽きず、つぼには油が無くならなかった。そしてナア
マンは見事にらい病がいやされた。

ナザレの人々は、主を「ヨセフの子ではないか」と、メシヤと認め
ず、心が頑なで、全くの不信仰だった。だがやもめとナアマンは異
邦人ながら、主の言葉に従い、大きな祝福にあずかった。私たち
も、肉の目で御言葉を見るなら、人間的にしか見えない。そんな
事、あり得ない、出来ないと。しかしそうでなく、信仰持って従え
るよう、祈ろう。従えるように助けて下さる。
------------
主のあわれみにすがろう。主の御言葉に感嘆しても、他人事として
流すなら何もわからない。信仰を持って従い主が与えてくださった
恵みを経験していこう。力強く主を賛美して歩める。


2023年06月27日(火)

「地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火 のあとに、かすかな細い声があった」T列王19:12



エリヤが450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者と戦
い、天から火を降らせるという、大勝利を遂げた。その後、心身消
耗に陥りうつ状態となり、死を願うようになった。過度の疲労で限
界状況だった。エリヤはこの危機にどう導かれたのだろう。「死に
たい」と言ったエリヤを、主は、一言も責められない。何と大きな
慰めだろう。

私たちも、程度の差はあれ、日々の生活で、仕事に、家事育児に、
対人関係に、時に疲れ果てる。すべてが重荷となり、気力が失せ、
早く天に帰りたいと思うほど、落ち込むかも知れない。だがそんな
時、主は深くあわれみ、同情して下さっている。エリヤをとがめ
も、責めもせず、思いやり、いたわり、休息を与え、食事をさせら
れた。

充分眠らせ、まずは心身を休ませ、回復を与えられる。極度のスト
レスに陥ると、正常な思考が働かない。必要なものは、まず休息
だ。パンを食べ、水を飲んだ。主ご自身が命のパンで、命の水であ
られる。新たなる力を得て、エリヤはホレブ山まで歩いた。ほら穴
でひきこもっていると、そこを出て、山の上に立ち、主の前に立て
と命じられた。

主は細い声で、御言葉を語り、エリヤの間違った思い込みを訂正さ
れ、新たなる使命を与えられた。再び、立たせられた。今、疲れて
いるなら、深く理解し、思いやって下さる主のもとへ行こう。休ま
せて下さり、そして御言葉を与えて下さる。主のかすかな細い御声
に、耳を傾けよう。
------------
深い憂いに沈み自分の方へ向かう思いをゆっくり主に向けてみた
い。いつも不完全な者で自分の思い込みは間違っているかも知れな
い。憂いを主に委ね、主に望みをおき、じっと耳を傾けよう。


2023年06月26日(月)

「彼らはエレミヤに言った・・『私たちは良くても悪くても、あな たを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。』」 エレミヤ42:6



人々は、エレミヤに、自分たちのために主に祈って欲しいと要請し
た。主が自分たちの歩むべき道と、なすべき事を示されるように
と。エレミヤは、主に求め、主からの答えを告げた。「この国にと
どまるなら、あなたがたを建てて、倒さず、植えて、引き抜かな
い。バビロンの王を恐れるな。わたしは共にいて、彼の手からあな
たがたを救い出す」と。主はあわれみを施して下さると。

しかし、彼らは「告げられることばの通りに、必ず行なう」と言っ
たのに、実際はバビロンにとどまらず、自分たちの思いで、エジプ
トに下った。自分の思いと異なれば、主の言葉に従わない。ある人
々は、牧師のもとに相談に行くが、すでに答えは決めている。つま
りは、自分の決めた事の了承印が欲しい。

そして自分の思いと違えば、又、別の人のもとへと、あちらこちら
へと相談に行く。私たちもどうだろう。御心がわからない時は、す
でに答えを決めていないだろうか。自分の思いに合致する御心を探
すので、どこまで行っても得られない。主に従おうとする時に、自
分の思いが障害になっているかも知れない。

自分の思いを主に渡して、自らの思いと異なっても、従いますのス
タンスで、求めてみよう。その時、御心がわかるようにされる。そ
の示された御心に、どうであれ従って行こう。その時、私たちの思
いを越えた、素晴らしい神のご計画が実現して行く。そのために用
いられることは、何と幸いだろう。
------------
望みは望みとして祈っても、結果は主の最善に従いたい。どうかこ
の結果でお願いしますと祈ってしまう。そして重荷は重荷のままで
耐えられなくなり気づく。思いを委ね、主の最善を信じていこう。


2023年06月25日(日)

「ペテロは・・『この曲がった時代から救われなさい。』と言って 彼らに勧めた。」使徒2:40 



主も、「不信仰で、曲がった世」だと言われた。私たちは、天に帰
るまでこの世にいるが、この世は、不信仰で曲がった世界だ。アダ
ムとエバが罪を選んだ結果、「空中の権威を持つ支配者」「この世
を支配する者」「全世界は悪い者の支配下」であるサタンが支配し、
力を持つようになった。サタンは「この世の神」であり、「主権、
力、この暗やみの世界の支配者」だと。

見える所を見るなら、まさしく曲がった世だ、不正、不法、悪がは
びこり、理不尽がまかり通る、罪の世界だ。そのため絶えず祈り、
サタンの攻撃、誘惑を識別して行く必要がある。サタンは物の見方
を曲げて来る。真っ直ぐに、信仰的に、建設的に見させないように
する。物の見方を曲げて、不信仰に、否定的、悲観的、見方に傾か
せる。

心を屈折させ、曲げて、すねた、ひがんだ見方をさせる。それはい
ら立ちや、つぶやき、不満、心を頑なにして行く。「人は皆、幸せ
そう。自分だけ不幸」の自己憐憫となる。又、サタンは疑心暗鬼を
持って来る。「私たちの兄弟の告発者、日々彼らを私たちの御前で
訴えている者」、サタンは、絶えず他者を告発する。

あの人が、この人がと、裁く思いを、疑いを吹き込み、信頼関係を
壊して来る。心に曲がったものが無いか、ネガティブなものが無い
か、いつも御霊の気づきを祈っていよう。神視点に立ち、信仰的見
方をして行く時、どのような中でも、常に希望があり、平安が与え
られる。

・・・・・・・・・
心が暗くなったり、平安が失せたり、不安や、苦い思いが起きて来
る時は、要注意だ。サタンがからんでいる。自らの肉に攻撃が来て
いる。そのままにせずに、主に向かおう。そのままの気持ち、思い
を主に持って行こう。気づきが与えられ、軌道修正される。


2023年06月24日(土)

「もしあなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助け と救いがユダヤ人のために起ころう」エステル4:14 



エステルは両親と死別し、親戚のモルデカイに育てられた。そのエ
ステルが、王妃ワシュテイが退けられた後、次の王妃に選ばれた。
そんな折りに、ハマンの悪巧みにより、ユダヤ民族絶滅計画が企て
られた。モルデカイは、ユダヤ民族皆殺しという危急の状況に、エ
ステルに、王にあわれみを求めるよう伝えた。

だがエステルは、召されずに、王のもとに行く者は死刑である事、
自分は王のもとに、召されていないと答えた。しかし「この王国に
来たのは、もしかすると、この時のため」とのモルデカイの言葉
を受け、「死ななければならないのでしたら、死にます」と決意
した。皆にも断食を要請した後、エステルは、王に窮地にあるユ
ダヤ民族の救いを求めた。

それは王に聞き届けられ、民は見事に民族絶滅から救われた。ここ
に、神の摂理を見る。捕囚の民として異国で生まれ、この時期に突
然王妃とされたのも、この危機のためであった。これは王妃である
エステルだからこそ出来た事であり、他の誰にも不可能だった。そ
の地位と立場は、主の配剤だ。主がエステルをその場に置かれた。

私達も皆、成育歴や境遇が異なる。だが、どのようであれ、今に至
るまでの過程は、主の摂理であり、ご計画の内だ。自分の思い通り
でない現実でも、今の場所であなたへの主の御心があり、あなたの
使命がある。危急時には解決策を探し、走り回るが、方法でなく、
エステルのように、全く明け渡した人を通して、主は導き、ご自身
のみわざをされる。

・・・・・・・・
ユダヤ民族を救うために、王妃の立場であったエステルだけができ
た事で、エステルにしか出来ない事だった。その立場にいたエステ
ルは命がけで、御心に従った。大きなみわざが成された。今の場で
主の示しがあれば従おう。大きな祝福とされる。


2023年06月23日(金)

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にさ さげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得まし た。」ヘブル11:4



「カインのようであってはいけません」と言われている。カインは
アベルを殺してしまったのだが、なぜ兄弟を殺したのか。自分の行
ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからと。単なる兄弟げんか
ではなく、主への献げ物のことだった。アベルの献げ物は受け入れ
られ、カインの献げ物は退けられた。

カインは激怒し、その怒りが、献げ物が受け入れられたアベルへと
向かった。それは妬みとなり、妬みは憎しみへと増幅した。その結
果、カイン殺害という大変な罪を犯してしまった。アベルは最良の
雄羊の初子を、それも自分自身で持って来た。それは、アダムとエ
バに皮の衣を着せて下さったように、犠牲の動物により神に近づけ
る事を示されていたので、全焼のいけにえを献げた。

自分自身で礼拝行為として献げた。それはアベルの信仰によること
だと。しかしカインはそうでなかった。主も、正しく行なったので
あれば、受け入れられると言われた。カインも、顔をまっすぐ上げ
ていたのでなく、「顔を伏せていた」、つまり正しく行なえていな
かったわけで、そこで、悔い改めて、献げ直せばよかった。

主は、罪は戸口で待ち伏せしているので、それを治めよと警告され
たが、カインは、罪に支配を任せてしまった。私たちも、主に拠り
頼み、罪は悔い改めて、悔い改め続けて、歩もう。常に悔い改めの
機会が与えられている。そして豊かな赦しが備えられている。カイ
ンのようになるなと、言われている。
------------
正しい人を見ては妬み、自分が正しいと思えば傲慢になり、どこま
でも陰険だ。でも罪を示されたなら素直に悔い改める道がある。悔
い改めて、悔い改めて正しい主との関係の中にいよう。


2023年06月22日(木)

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」箴言3:5




ある人が、経済的必要のために職を探していた。なかなか無い中、
一つの門が開かれた。大変感謝して、喜び、職に就いた。しかし、
配属部署の仕事内容が、自分には非常に難しく、うまく行かなかっ
た。自分にはその分野は不向きで、合わないと思えた。辛くて涙の
日々だった。行き詰まってしまい、悩んだ。辞めたいと思い、主
に、ありのままを告げて祈った。

その中で、一つの示しが来た。それは、祈りに祈り、皆にも祈って
もらって、与えられた職場という事で、主からの示しが無い限り
は、とどまろうと思えた。その事で平安が与えられた。続けて主の
お心を求めて祈っていると「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟
りに頼るな」「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ・・」
と語られた。主が遣わされた場である事を認めよと。

今の場で、心を尽くして主に拠り頼めと示され、励まされた。自分
には到底出来ない仕事だからこそ、拠り頼む事を学ばされ、祈りに
祈って、目の前の仕事に当たった。皆にも祈ってもらった。ひたす
ら主に頼んだ。その時に不思議が起きて、驚くばかりに導かれた。

次々と成果が出て「あなたにピッタリの仕事ね」と言われた。自分
では全く無く、主の成果といつも証しした。主に頼る事を身を持っ
て経験出来た事が、何よりの恵みだった。今、もし、困難があれ
ば、自分の悟りに頼るのでなく、心を尽くして主に拠り頼むこと
を、祈って行こう。
------------
どうしたら良いか迷う者を主は必ず導いてくださる。御言葉に聞
き、御霊の語りかけに耳を澄ましていよう。心を尽くして主に信頼
しよう。外からも自分の内からも主の導きがある。祈っていこう。


2023年06月21日(水)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい・・」 マタイ6:33



私たちは日々、何を求めて生きているだろう。つまり何を喜びとし
ているだろう。仕事、家族、趣味、名誉、地位、人からの賞賛、又
は、自己実現を求めているだろうか。愛する人、富、楽しい生活・
・人によって様々だ。多くのことは、それ自体は決して悪いもので
はない。むしろ良いものだ。しかし優先順位はどうだろう。

主を求めるよりも、それ以外のものが第一になっていて、主が二の
次、後回しになっているだろうか。すると様々な障害が起きて来
る。主の秩序があるからだ。まず主ご自身を第一とし、喜びとして
行く時に、仕事も、趣味も対人関係も、生活の楽しみも、正しい位
置に置かれて行く。

主を第一にするなら、それに加えて生活の必要物はすべて与えられ
る。そして主を自らの喜びとして行く時に、心の願いを叶えて下さ
るとある。主を第一にし、自分の栄光でなく、主の栄光を求めて行
く時、動機が修正され、変えられて行く。ある宣教師が、一生懸命
に宣教し、人が来れば喜び、来なければ、ひどく落胆した。

成果があれば喜び、無ければ失望する。宣教は困難であり、失望の
方が大きくなる。だがそれなら成果に一喜一憂し、アップダウン
し、成果を喜びとしていて、主ご自身を喜びとしているのでは無い
事に気づかされた。主でなく、主が下さるものを喜びとしている。
それなら、願いが叶わない時、必ず失望し不満になる。

成果でなく、主が与えて下さるものでなく、主を第一とし、主ご自
身を喜びとして行く時、成果がどうであれ、喜びがある。主以外の
ものを拠り所としていないだろうか。
--------------
祈って向かいながらも成果が良ければ、結果そのものに目が奪われ
主の御心を悟ることができない者だ。平安を失うときには気づきた
い。主を愛し主による生活をする者になろう。


2023年06月20日(火)

「下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは 神のことを思わないで、人のことを思っている」マタイ16:23



主が、ペテロに「わたしをだれだと言うか」と問われた時に、ペテ
ロは「あなたは、生ける神の御子キリスト」と正しい立派な答えを
した。しかしその後、主が苦しみを受け、殺され、復活するとの話
をされると、ペテロは、何と主をいさめた。「そんな事が、あなた
に起こるはずがない」と。主を制したのだ。

主は、それを「下がれ、サタン」と、「サタン」だと言われ、主の
邪魔をするものだと、叱責された。十字架を否定し、挑んで来る敵
を見破られた。ペテロにすれば、良かれとの思いで、主のためを思
って言ったつもりだった。しかしそれは人間的な、肉の価値観であ
り、又、高慢であり、自分の分も越えていた。

つまりサタンの思いであり、主のみ思いに反するものであった。人
は、自分の聞きたくない言葉は退け、聞きたい言葉を聞いていると
言われるが、主がローマ帝国をくつがえし、主の王国を打ち建てる
という事が聞きたい言葉であったろう。それが殺されるなどと、と
んでもない言葉だった。それから、主は「わたしについて来たいと
思うなら、自分を捨て・・」と続けられた。

もし、主について行きたいと思うなら、自分の思い、自分のプラン
を捨てる必要があると。私たちもどうだろう。自分の思いで、自分
の聞きたい言葉を取るなら、悪魔に誘導され、主の御心と反対方向
へ向かってしまう。御霊の気づきを祈っていよう。
------------
望み通りになって欲しいと思っていると大切な主の御心がわからな
い。わからない事にも気づかない。その弱さは常につきまとう。主
の邪魔をしている祈りではないのか、気づけるよう祈っていたい。


2023年06月19日(月)

「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。 私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう』すると、あ なたは私の罪のとがめを赦されました。」詩篇32:5



聖書には、信仰の偉人たちの手痛い失敗も、そのまま記されてい
る。世の書物なら、都合悪い事柄は表に出さず、隠すところだ。だ
が赤裸々に出されている。アダムとエバは、神に逆らい罪を選ん
だ。アブラハムは妻を妹だと偽り、又、神の時を待てず、ハガルに
よりイシマエルを産み出し、重大な失敗をした。

イサクも父と同じ嘘をつき、ヤコブは、父と兄を欺いた。モーセは
40歳の時に、人を殺してしまい、逃亡した。出エジプト後には、怒
りのため岩を二度打つ罪を犯し、約束の地に入れなかった。アロン
は、金の子牛の偶像を作るという、大きな罪を犯した。ダビデは姦
淫の上に更に殺人の罪を重ね、ペテロも弟子たちも主を裏切り、主
を捨てて逃げ去った。

主は、それらを失敗をことごとく悔い改めに導き、赦され、尚も愛
は決して変わらず、愛し続けられた。どんな失敗をしたとしても、
絶対に見捨てられる事はない。アブラハム、イサク、ヤコブは豊か
に祝福され、モーセは主エジプトの大役を果たし、ダビデは詩篇を
記し、ペテロは諸教会のリーダーとして活躍した。

失敗した時は、原因を考えてみよう。失敗から学べと言われる。自
分のどこに弱さがあり、自分の何に触れているのか。プライド、虚
栄心、貪欲・・、失敗を繰り返す事から守られる。落胆せず、主の
豊かな赦しを受け取ろう。主はあわれんで下さる。どんな時でも、
もう一度立ち上がり、やり直すことができる。
------------
罪を赦されることは、はかり知れない恵み、立ち上がる力だ。赦し
を受けとり主と交わることができる。失敗から学ぼう。尚も愛して
くださる主を愛して歩める。


2023年06月18日(日)

「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄 弟としてです・・ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、 私を迎えるように彼を迎えてやってください」ピレモン16


ピレモンへの手紙は、ローマの獄中でパウロが、ピレモンに宛てた
書簡だ。オネシモは、ピレモンの奴隷だが、主人のもとで盗みをし、
逃亡した。ローマまで逃げたが、捕まり投獄となった。だがその
ローマでパウロに出会い、回心した。信仰者になったオネシモは、
獄中でパウロに仕えていた。

パウロは、オネシモの事を「獄中で生んだ我が子」と言っている。
以前は役に立たない者だったが、今や「役に立つ者」だと。本物の
悔い改めだったようだ。だがピレモンの奴隷なので、パウロは機会
を見て、オネシモを主人ピレモンのもとへ返したいと思っていた。
そのためパウロは、ピレモンに、オネシモを赦して受け入れてくれ
るよう、へりくだって執り成している。

弁償はすべて自分がするからと。奴隷オネシモは、取り返しのつか
ない罪を犯した。本来なら、逃亡奴隷は死刑だ。しかし神の側に立
つと、全く違う見方になる。そこには神の摂理があって「しばらく
の間あなたから離されたのは、あなたが彼を永久に取り戻すため」
となる。

何という大いなる赦しとあわれみだろう。何と希望がある事だろう。
愛なる主のもとでは、人生が全く変わったものとなってしまう。人
間の失望の時は、神のご計画の時と言われているが、万事が、主の
御手の中で益とされ、栄光と導かれて行く。驚くばかりだ。

・・・・・・・・・・・
オネシモを通して、完全な赦しを見せられる。「もはや決して彼ら
の罪と不法を思い出すことをしない」と言われる主。主の視点に立
つ時、人生が全く変わってしまう。主のあわれみは尽きない。日ご
とに新しい。あわれみの中で、生かされている何という幸い。


2023年06月17日(土)

「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだ けの者であってはいけません」ヤコブ1:22



信仰生活を送る中で、教会に行っては、御言葉を学んでいる。しか
しその聞いた御言葉が、それはそれ、これはこれと、実生活とは別
物になってしまっているだろうか。聖書の言葉と、実際の生活がリ
ンクしていない。切り分けられてしまっている。肉の思いも入って
来る。

御言葉通りにするなら、この世ではやって行けないと思ってしまう。
人にどう思われるだろうか、変に思われるのでは、恐れに襲われる。
教会は教会、この世はこの世と、そのつど合わせてやって行く。白、
黒はグレイにしておいた方がうまく行く。まさつさえなければ良い、
すると、どんどん神の聖さや真実から、かけ離れて行ってしまう。
聖いものと俗なるものが、鈍くなって行き、段々わからなくなって
しまう。

御言葉と実際の生活が、別ものになっていないだろうか。御言葉は
「はい、はい」と聞いているのだが、現実生活では、この世の価値
観で生きているだろうか。しかし御言葉を拒否するわけでなく、聞
いているので、それに気づかない。神が、必要は必ず与える、神に
頼れと言われるのだが、本音では、お金が生活を、老後を保障して
くれると思っている。神と言っても、結局は、お金が大事。

弱さの中に神の力が現れる、弱さが恵み、と言っても、本音では能
力のある事、強い事、力のある事が善と思っている。実は、御言葉
とかけ離れた世の価値観で生きているだろうか。御霊の気づきから
豊かな祝福は始まる。まず実生活で、御言葉を一つ、又、一つと具
体的に行なってみよう。身をもって従って行く時に、自分が変えら
れて行く。

・・・・・・・
御言葉に従おうとする時に初めて、従えない事に気づかされる。愛
せよと言われても愛せない、祈れと言われてもなかなか祈れない。
御霊の気づきが感謝で、愛せない、祈れないと主に向かって行ける。
心の内側の様々な気づきが与えられ、主は一つ一つ導いて下さる。


2023年06月16日(金)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありま せん。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」 ガラテヤ6:7



アブラハムは、主から子どもを与えるとの約束を受けたが、現実に
は、待てども〃なかなか与えられなかった。当時の風習では女奴隷
により、子をもうけるのは普通の事であった。そんな状況で、サラ
は、自分は子を宿す事ができないので、女奴隷によって子を持つ事
が御心ではと考えた。サラの方からアブラハムに提案した。

彼も妻からの申し出という事で、受け入れた。その時に、主を仰が
ず、祈らずに肉で動いてしまった。その結果、ハガルは妊娠した。
しかし神の秩序が狂うと、必ず様々な問題と悩みを引き起こす。み
ごもったハガルは高慢になり、優越感で、不妊の女主人サラを見下
すようになった。サラは激怒し、ハガルに反撃し、いじめた。ハガ
ルは余りの辛さに、そこにおれずに逃げ出した。

そのハガルに荒野で、主の関与があった。「女主人のもとに帰り、
彼女のもとで身を低くするように」と。そして、「あなたの子孫
は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる」とも言
われた。ハガルは、主の示しに従い、へりくだって、女主人サラの
もとに戻った。そしてそこでイシマエルを産んだ。

肉の行ないには、必ず刈り取りがある。又、ハガルは奴隷であり、
その主人に対して、何の権利も持たず、立場上どうにも出来なかっ
た。そこに責任は無いが、しかし自らの態度には責任がある。へり
くだって主の御心に従うことが、一番平安な道であり、必ず豊かな
実を結ぶことになる。
------------
いくら正当化しても、肉ですることの底にはいつも自分が中心にい
る。その日その日の感情に動かされ右往左往するばかりだ。へりく
だり神を認め、御心を祈りたい。折にかなった助けを祈ろう。


2023年06月15日(木)

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これ らすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」 ローマ8:37



私たちは、時として試練に会うが、苦しみの中で、どうにかして早
く目の前の問題を解決して欲しい、ただただこの願いばかりだ。あ
あしたい、こうしたいと自分の思いがあり、そのように祈る。願い
を主に告げるのは良い事だが、ただ大切な事は、目の前に来る問題
は、主の目的と意図がある。それゆえ、この問題を通して、主ご自
身を知り、更に深く主の愛を知れるように祈ろう。

実際、主の愛に触れる時、どんなに苦しい中でも、どんなに困難な
状況でも乗り越えて行ける。ある人が、対人関係の悩みの時に、深
く取り扱われたと証しした。この試練は主から来ていて、自分のた
めの取り扱いだと、模範的クリスチャンのように言っていた。しか
し心の奥では、激しい怒りがあり、恨みがあった。

自分には間違いが無い、自分は正しいと思っている。そのため心で
は相手を裁いている。そして自分を正当化し、悪いのは相手で、自
己義に立つ自分。しかしその事に全く気づかなかった。だが祈り続
ける中で、主はあわれみ、自らの本当の姿を見せられた。何という
罪深い自分。

その時、彼らは何をしているのかわからないのですからと、主の赦
しの大きな愛に触れ、主の十字架の意味が新たにされ、目の前に迫
り来た。一つ〃の悩み、問題は、主の愛を新たに知る機会だ。今、
問題があるなら、主を新たに知れるように祈ろう。
------------
問題を通して主との深い交わりが与えられる。十字架が現実の自分
自身と結びつくなら問題の中にあって主の大きな慰めだ。問題は辛
くても既に勝利を受け取っている。


2023年06月14日(水)

「・・宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」ルカ2:7



ヨセフと臨月になったマリヤは、住民登録のために故郷ベツレヘム
に向かった。その頃、同じく住民登録をする大勢の旅行者たちで、
宿屋はごった返していた。どこの宿も満員だった。「宿屋には彼ら
のいる場所がなかった」、今にも出産になりそうなマリヤとヨセフ
のための部屋は無かった。又、大変な状況の彼らのために、部屋を
譲る人も誰一人なかった。

救い主の誕生に、皆が無関心で、主を迎える人がいなかった。私た
ちはどうだろう。いつも心はどこに向いているだろう。この世の関
心事で、又、日々の目の前の忙しさで一杯だろうか。求めているも
のはこの世のもの、自分の事やプランで一杯だろうか。そのため、
主のための余地が無いだろうか。御父はこの世界に救い主を送られ
たが、世には御子をお迎えする「場所」がなかった。

皆が自分の事で回っていた。しかし主はそんな私たちのまっただ中
に、救いのために来て下さった。私たち信仰者も、どうだろう。主
のための部屋はどうだろう。リビングに来て頂くのは良いが、心の
奥の部屋はしっかり鍵をかけ、主に入られたくないだろうか。ここ
までは良いが、これ以上は入られたくない部分があるだろうか。

気づいていないか、うすうす気づいているか、はっきり意識してい
るだろうか。主に明け渡したくない心を、そのまま主に告げよう。
主は、わかっていて下さり、手を取って一歩一歩と導いて下さる。
主がぼんやりしている時には、自分の側のさえぎるものを主に渡し
て行く時に、さやかに見えるようにされて行く。そして喜びが満ち
る。
------------
本音で主に繋がっていないと、主からの慰めや、あわれみも求めず
に過ごしてしまう。求めなければ受け取れないのではないか。主へ
の感謝のない生活になっていく。さえぎるものはなんだろう。


2023年06月13日(火)

「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのも のです・・」ヨハネ11:4



ラザロが危篤で、マルタは使いを主に送り「病気です」と伝えた。
それさえ一言伝えれば、主はすぐに来て下さると思った事だろう。
しかし主は、「この病気は死で終わるたけのものでなく、神の栄光
のためのもの」と言われ、尚、二日とどまり、ラザロの死を確認し
てから動かれた。家に着くと、マルタは「もしここにいて下さった
ら、兄弟は死ななかった」と。

マルタは将来のよみがえりは理解しているが、今、主がラザロをよ
みがえらせるとは信じていない。病気を治す事は信じられるが、死
からのよみがえりは、到底信じる事ができない。マリヤもマルタと
同じ言葉を言った「ここにいて下さったら、兄弟は死ななかったの
に」と。いっさいを断ち切ってしまう「死」の前には、絶望であ
り、泣くしかなかった。

しかし「あなたの兄弟はよみがえる」と言われた主は、ラザロの墓
の前で「石を取りのけよ」と。死後四日になり、もう腐敗している
と言ったマルタだが、主に従い、言われる通りに、墓の石を取り除
けた。信仰が行動となった。すると、ラザロはよみがえった。

ラザロのよみがえりを通して「わたしは、よみがえりです。いのち
です」と、主ご自身が死に勝利されている事をあらわされた。その
ため病気のいやしでなく、死でなくてはならなかった。それは「神
の栄光のため」「神の子が栄光を受けるため」であり、「あなたが
信じるようになるため」であった。
------------
病は癒えてもやがてこの世の死は訪れるが、主を信じている者は死
からいのちに移っている。喜びをもって今日を生き、望みをもって
死を迎える。何という感謝か。


2023年06月12日(月)

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなた の計画はゆるがない」箴言16:3



「人は自分の行ないが純粋だと思う」のだが、残念ながら、私たち
の心は純粋ではない。「人の心は何よりも陰険で、それは直らな
い。だれが、それを知ることができよう」と、私たちの心は、根深
くどこまでも陰険で、それは自分自身すら知る事ができないのだ
と。そのため、どんなに一生懸命に練り上げた計画だとしても、そ
こに肉の思い、判断が入ってしまう。

しかし自分では正しいと思い、自分の行ないは間違いがないと思
う。そこが問題だ。自分は計画を立てるが、その評価をされるのは
主だ。肉の思いで計画を立てると、知らず知らず、主の御心ではな
く、自分中心な計画になってしまう。主が飛んで、自分がしたい事
になっていないだろうか。人は計画を立てるが、その結果は主から
来る。

だからこそ、「あなたのしようとすることを主にゆだねよ」と。主
にお任せする事が一番安心で、安全だ。「そうすれば、あなたの計
画はゆるがない」その計画はうまく行くと。主が責任を持って成し
遂げて下さるからだ。あなたも、今、計画を立てただろうか。それ
を一旦主に渡して、委ねるのがよい。

主に任せて、主の御手に置かれたなら、主が御心の通りに導いて下
さる。もし御心で無ければストップされるし、それなら、その方が
よい。明け渡す時に、自分中心から神中心へと導かれ、揺るぎのな
い、確かな祝福の道を歩む者とされる。
---------------
自分の立てた計画が最善に進んでいく事ばかりを祈ってしまう。最
初から全てを主に委ねているなら、焦ることなく一番良い主の方法
を待ち望める。自分の方法で自分の望む結果を期待するとき気づき
たい。


2023年06月11日(日)

「パウロは御霊の示しにより・・エルサレムに行くことにした。そし て、『私はそこに行ってから、ローマも見なければならない。』と 言った。」使徒19:21

 

パウロは、宣教において、ローマ行きを示されていた。エルサレム
に行き、「私は、ローマも見なければならない」と。伝道旅行後、
エルサレムに寄った時、大勢の群衆の騒動、混乱に、千人隊長が弁
明を許可した。すると群衆に「こんな男は、地上から除いてしまえ。
生かしておくべきでない」と殺されそうになり、大騒動になった。

捕らえられ、ローマに行く事は不可能に見えた。しかし、監禁によ
り、逆に暗殺者の殺害から守られる事になり、意味の無い、不毛の
裁判のように見えたのだが、それは総督のペリクスやフェストに証
しをする機会とされた。そして丁度アグリッパ王がフェストに会い
に来たため、王にも福音を語る機会が与えられた。

パウロは、更にローマ皇帝に上訴したためこれがローマへの道を開
く事になり、パウロの思いとは異なったが、囚人としてローマに向
かう事になった。その船が幾日も激しい大嵐に会い、皆が、もうだ
めだと思ったほどだった。まさに絶望状況だった。しかし、パウロ
は必ずカイザルの前に立つとの、主の言葉を信じ、皆を励ました。

船は座礁したのだが、まさに奇跡的に全員が無事に岸にたどりつい
た。「こうして、私たちはローマに到着した」。ローマ行きが見事
に実現した。そこで証しし、福音を伝えた。どんなに障害があり、
不可能に見えても、主は必ず御言葉を実現される。主が語られた言
葉は100%成就する。あなたは今、苦しい状況だろうか。「こうして、
ローマに到着した」。必ず、あなたに約束された御心は成就する。
信じていよう。

・・・・・・・・・・
パウロの一つ一つの、一見悪い出来事が、すべてローマへと道が通
じている。監禁により逆に守られ、上訴により、思いとは違い囚人
としてローマへ。主はご計画を必ず成し遂げられる。今、目の前の
事が思いとは違っても、御心を信じていよう。


2023年06月10日(土)

「私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に 祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白 しています・・」ネヘミヤ1:6



ネヘミヤは、ハナニから、エルサレムの城壁が崩され、門は火で焼
き払われた状態である事を聞いた。その時、座して泣き、喪に服し、
断食して、祈った。悔い改めをし、祈る中で重荷が加えられ、4ヶ
月後に王の前に出た。しおれた悲しい顔で、王の方からネヘミヤに
尋ねた。心に悲しみがあるに違いないと。この時、ネヘミヤは、王
に率直に心の内を話した。

すると、王は「あなたは、何を願うのか」と。王はネヘミヤの重荷
を察した。そこでネヘミヤは、ユダの地へ送り、再建させて欲しい
と願った。王は願いを聞き入れ、快く送り出してくれた。ネヘミヤ
は、まずエルサレムの悲惨な現状を知った。私たちの信仰生活も同
様だ。まず目の前の問題を見せられ、重荷が与えられる。まず知ら
ない限り、重荷の持ちようがない。

そして具体的にそれを祈りに持って行く時、更に重荷が増し加えら
れる。ネヘミヤは重荷が増す中、何かをしたいと願った。するとそ
の願いは答えられ、主により、環境が目の前に次々と開かれて行っ
た。そしてすべての必要が備えられた。私達もまず現状を正しく認
識するところから重荷が生じ、祈りによって更にその重荷が増し加
えられ、具体的に行動するように導かれる。

あなたにも今、主が見せておられる状況があるだろうか。まずは、
それを祈りに持って行こう。祈りを積む中で、導きを与えられ、な
すべき事が示される。その御心に従うと、主の大きなみわざを見て
行く。

・・・・・・・・・
主は、私たちの内に志を与え、主が行なう力を与えられる。自分の
力ではない。主は、信仰生活で、崩れていて、再建すべき箇所をま
ず見せて下さる。重荷が与えられ、祈りが与えられ、行動する力を
与えて下さる。御霊の気づきが感謝だ。


2023年06月09日(金)

「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、 何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」マタイ22:4



王子の結婚披露宴があり、そこに招待されている客はイスラエルで
あり、王のしもべは預言者達だ。披露宴の準備が整ったので、王は
しもべ達に、招待客を呼びに行かせた。だが王の招きに応じない。
再度、別のしもべを遣わし招いた。すると彼らは、王の招待など無
視で、畑に、商売にと出て行った。

畑や商売の事は、披露宴後でもできる事だ。主は、愛と誠意を込め
て招かれたのに、拒否した。更にその上に、なんと王のしもべ達を
殺害した。王は怒り、兵を出し、その人殺し達を滅ぼし、町を焼き
払った。主は、熱心に招くが、それを拒否する姿は、イスラエルだ
けでなく、私達もどうだろう。

仕事、勉強、家事、趣味で多忙だ、時間が無い。いつも主のための
時間がない。要するに自分の好きな事のために時間を使いたい。そ
れなら主のために、一生、時間が無くなってしまう。時間が無いの
でなく、主より他のものを優先してしまう。主はあなたを愛し、特
別な御心とご計画を用意されている。「何もかも整いました。どう
ぞ宴会にお出かけ下さい」と、すべて最善のものを、主は整えて提
供しておられる。

主は救いを提供し、又、主との豊かな交わりを提供し、沢山の祝福
を用意して下さっている。それを「気にもかけず」に、自分の事に
ばかり忙しいだろうか。主のもとに来るように招いて下さってい
る。大きな喜びと祝福を備えて下さっている。主の招待を受けて、
今日も恵みのみ座へ行こう。
------------
生活の中心に神への感謝や喜びがなければ、多くの幸せがあっても
大切な第一のものがない。目の前の事から少し離れて主と交わろ
う。主はいつも招いてくださっている。豊かな主の交わりに入ろ
う。


2023年06月08日(木)

「『私が行って、このペリシテ人を打つべきでしょうか。』主はダ ビデに仰せられた。『行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え。』」 Tサムエル23:2



ダビデは、主の示しによりペリシテ人を打って、ケイラの住民を救
った。その後、サウルがダビデを追い、ケイラに迫っている事を知
った。普通なら、ケイラの人々を助けたのだから、当然、サウルに
追われているダビデを助けてくれると思う。だが、殺害を何とも思
わないサウルは、ケイラの人々を平気で虐殺するだろう。

ケイラの人々もそれを恐れ、ダビデを引き渡すかも知れない。ダビ
デは、その事を祈りに持って行き、主に問うた。すると、ケイラの
人々はダビデをサウルに引き渡すとの答えだった。そこでダビデと
部下600人は、すぐにケイラから出て、あちこちとさまよった。ダ
ビデがケイラから逃げたと知ると、サウルはダビデ討伐をやめた。

ダビデは、荒野や要害や、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウ
ルは執念深く、しつようにダビデをつけ狙ったが、主が、ダビデを
サウルの手に渡されなかった。私たちもダビデのごとく、常に祈
り、御霊の判断を仰ぐことが大切だ。こちらが助けたのだから、当
然、助けてくれるだろうというのが普通の判断だ。

しかしダビデが肉の判断で動いていたなら、大変な危機を招いてい
ただろう。人間的判断で、行動してしまうと誤ってしまう。問題に
引き込まれる。御霊の判断、導きに目を向け、祈り心でいよう。主
は御心へと導いて下さる。主の御心の中心にいることが、一番の安
全だ。
------------
肉の目で見ると自分の都合の良いように御心を受けとり迷い込んで
しまう。たとえ荒野の山地でも主の御心の中心が一番安全だ。誤り
のない御心を尋ね御言葉に聞き、祈ろう。


2023年06月07日(水)

「けれども、主とあなたに誓います。私と死との間には、ただ一歩 の隔たりしかありません。」Tサムエル20:3



サウル王は、非常に優れた兵士であるダビデを気に入り、召しかか
えた。ダビデは、サウル王に忠実に仕え、戦いに勝利に次ぐ勝利を
重ねて行った。そんな時、女たちの「サウルは千を打ち、ダビデは
万を打った」との言葉に、サウルは強い妬みに取りつかれ、ダビデ
を疑心暗鬼で見るようになった。

ダビデへの激しい嫉妬は、憎しみとなり、殺意へと増幅した。ある
時、殺害しようと、槍をダビデに投げつけたが、壁に突き刺さった
のだった。しかしダビデには主が共におられ、ますます大勝利を収
め、サウルは更に恐れた。ダビデはずっとサウルに命を狙われた
が、ダビデは決して報復しなかった。

サウルが神から油注がれた王であり、ダビデは、神を畏れていたた
めだった。そのため、自身のどんな身の危険にも、神が必ず守られ
ると信じていた。だがサウルは、ダビデに自分の地位を奪われるの
ではと、ますます怯えた。そしてそれは息子ヨナタンのためだと言
いつつ、ヨナタンが親友ダビデをかばうと、ヨナタンまでも槍で打
ち殺そうとした。どうしてもダビデを抹殺したかったようだ。

ヨナタンはそんな父親の固い意志が、本気である事を知り、ダビデ
の命を助けるべく行動した。主が、ヨナタンを備えられ、ヨナタン
を用いて、ダビデの命を守られた。ヨナタンは、主により用いられ
た。人の生死、境遇は、完全に主の御心の中にあるとは、何と平安
だろう。主に信頼し、委ねて安んじていよう。
------------
私たちも多くの失敗も苦しみあるが、いつも神によって生きている
強さと祝福をダビデに学べる。生死は神の御心のままと認めて生き
ていく者は、いつも心強い。


2023年06月06日(火)

「・・すべての人が時と機会に出会うからだ」伝道9:11 



この世界では、頑張りが必ず成果を挙げるとは限らない。「競走は
足の早い人のものではなく・・」の通り、早ければ100%勝つわけ
でもない。成果を発揮できない事もある。オリンピック選手が本番
で、手痛いミスをする例をしばしば見る。その日心身の不調や、余
りの緊張によるかもしれない。又、「戦いは勇士のものではなく・
・」優れた兵士がいるから、必ずしも戦いに勝つわけではない。

職場で能力があり、懸命に努力した場合も、必ず出世するとは限ら
ない。世襲があり、コネで後の者が先になり、上との関係や様々な
要因が加わって来る。又、知識や知恵があるから、正しく見合う結
果とも限らない。収入や財産も、知識、知恵に正比例しない。この
世では、強欲者が不正手段で莫大な財を築いていたりする。時に不
条理を認めざるを得ない。

しかし、神からのものがある。「すべての人が時と機会に出会う」
とあり、成功のために、どうしても必要なものがあるが、それが
「時と機会」だと。能力や努力と共に、様々な要因がからまり合う
が、そこには「時と機会」が不可欠だと。まさにこれを握っておら
れるのが、主だ。人の手の中には無い。絶対的な主の主権と支配の
もとにある。

時と機会が、主の御手に握られていると認める時、人は心に安堵と
平安を得る。主は、一人〃にふさわしく「時と機会」を与えられ
る。だから大切な事は、「時」を主にゆだねることだ。そして絶対
的主権を持たれる主に従って生きる事が、私たちの最善の生き方
だ。今、もし主からの「時と機会」が来ているなら、逃さず従お
う。
------------
時と機会は主の御手にある。それでも自分で何とかしようと四苦八
苦してしまう。失敗を通してでも、恵みに満ちた主の最善の時があ
ることを知らされる。焦らず主の時を悟れるように祈りたい。


2023年06月05日(月)

「そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟 をなさらなかった」マタイ13:58



主は、生まれ故郷のナザレに向かわれた。安息日に会堂で、イザヤ
書の御言葉を読まれた。「捕われ人には赦免を、盲人には目を開か
れ事を、虐げられている人を自由にし・・」これは奇跡のみわざだ
そして「今日、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり
実現した」と。何千年も前からの預言が、今日実現し、メシアが今
ここにいると。

聞いた人々は、主の口から出る恵みの言葉に驚き、感動し、主をほ
め讃えた。しかし同時に「この人は大工ではないか」「この人は、
ヨセフの子ではないか」と信仰を消し去る冷ややかな言葉は、冷水
をかけるように、人々の心から恵みを消した。主を拒むので、恵み
が消えて、冷めた不信仰となった。

主は、預言者は誰でも自分の郷里では歓迎されないと、その不信仰
に驚き、嘆かれた。このナザレの人々から学ぶ事ができる。御言葉
を聞く態度だ。「愛している」「赦す」「すべての必要を満たす」
・・自分に心地よい、耳ざわりのよい言葉には、主は素晴らしいと
喜び、主をほめ讃える。

しかし、罪を指摘されたり、悔い改めを迫られたり、自我に触れて
来る途端、拒んでしまう。だが、心を閉じ、逃げてしまうと、主が
見えなくなる。変えられて、成長して行くことがない。痛い言葉は
無意識に避けているかも知れない。心の底を御霊に探って頂こう。
心の奥の不信仰に気づかされ、信仰へと導いて下さる。成長して行
ける。
------------
愛している、赦すと言われると感謝が溢れるが、耳に痛い御言葉は
心を閉じて通り過ぎたい。でも御霊を通して心の底に触れている。
今一度、従えない御言葉に向き合ってみよう。祈ろう。


2023年06月04日(日)

「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれ る人がいません・・ほかの人が先に降りて行くのです。」ヨハネ5:7



ベテスダの池に、38年も病にある男性がいた。38年とは何という長
い歳月だろう。最初は、あちこちの医者に行き、何でも試し、あり
とあらゆる方法を試みた事だろう。何をしてでも治りたい。しかし
何をやっても、どうにもならない、何の手立ても無い現実にぶち
当たる。今度こそはと期待しては、裏切られ、それの繰り返しだっ
た事だろう。

段々、心が折れて来る。その最後にベテスダに池にたどり着いた。
だが、そこでも同じ事だった。水が動いた時、最初に入った者は、
どんな病でもいやされる。ひたすら動く時を待ち、今度こそ〃と思
うが、他の人が先を越してしまう。期待しては、打ち砕かれ、挫折
の繰り返しだ。

どんどん心が疲へいし、期待すると傷つくので、もう期待する事自
体をやめてしまう。これ以上傷つきたくない。主は、この38年の言
葉に尽くせない苦しみ、悲しみ、嘆き、何もかもをご存じで、この
男性に関わられた。「よくなりたいか」と。すると彼は、自分は介
助者がいないから、ダメなのだと。介助者のいる人が先に行くと。

私たちもどうだろう。あれが無いこれが無い、だからだめ。又、自
分がこうなのは、状況のせい、周囲のせい・・自己憐憫、自己正当化
にいる限り、何も変わらない。周囲や状況でなく、自分はどうなの
か。「あなたは、よくなりたいのか」と問われている。「はい、よ
くなりたいです」と答えよう。主は臨んで、みわざをして下さる。

・・・・・・・・・・・・
主は「では、介助して池の中に入れてあげよう」と言われたので
なく、直接、「起きて・・歩け」と言われた。アルファでありオメガ
であり、全主権を持つ万物の支配者だ。そのお方が、私たちにも向
き合って下さっているとは、何と驚くべき恵みだろう。


2023年06月03日(土)

「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打 ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう」士師記6:16



ギデオンは、敵であるミデヤン人を逃れて、恐れて酒ぶねに隠れて
いた。しかし、主はそのギデオンに「あなたのその力で行き、イス
ラエルを救え」と告げられた。驚いた彼は、どうして自分にそんな
大それた事が出来ましょう。とんでもないと。私の分団は最も弱く、
私はその中でも一番若い。自分には到底無理だと言い訳をする。

すると主は「わたしはあなたといっしょにいる。あなたはミデヤン
人を打ち殺す」と。その時、ギデオンは、私と話しておられるのが
あなたであるというしるしが欲しいと願った。本当に主から出た事
なのかを知ろうとした。二度のしるしを求めた。それにより、彼は
主によるものと確信した。

恐れて隠れている彼に「勇士よ」と語られ、今の彼ではなく、先を
見、勇士として戦うギデオンを見据えられた。又「あなたのその力
で行き」と、彼がどんなに弱く、若くとも何の問題も無い。主が共
におられる事、主が遣わされる事がすべてだ。私たちも、自分の弱
さを嘆き、無力におののき、自分などに何ができようと、たじろい
でしまう。

主からの示しにも、自分を見るなら、能力は不足、時間も富も力も、
何もかも不足だ。しかし主は「あなたのその力で行け」と言われる。
あなたの力の問題ではなく、どなたが共におられるかの問題だ。主
が示され、遣わされるなら、知恵、能力、必要はすべて主から来る。
今、あなたにも「あなたのその力で行け」と語られている だろう
か。
・・・・・・・・・・・
「わたしはあなたといっしょにいる」これが、すべてではないだろ
うか。これさえあれば、恐いものはない。何度も反すうし、心にし
っかり刻んでいたい。「その力で行き」と、あるがままで行けば、
主が必要な力を与えて下さる。示された御心を行なおう。


2023年06月02日(金)

「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受け なさい。」黙示録22:17



サマリヤの女性は、5回結婚し、5回離婚し、現在は結婚ではな
く、同棲していた。彼女は心に空洞があり、その穴は、男性によっ
て埋められるものと信じた。そのため結婚を繰り返した。離婚を繰
り返すのは、この相手だからうまく行かないのであって、別の相手
ならうまく行くに違いないと信じたためだった。別の男性ならと、
5回の結婚を重ねた。

しかし心の穴が満たされる事は決して無かった。「この水を飲む者
はだれでも、また渇く」。主は彼女の空洞を、深い渇きをご存じ
で、彼女のために「サマリヤを通って行かなければならなかっ
た」。永遠のいのちへと湧き出る水を与えるために。そして彼女は
主を信じた時に180度変わり、渇きが止まった。

ザアカイも富が自分を幸せにしてくれると信じ、トップにまでのぼ
りつめた。莫大な富は手にしたが、心に描いたものは得られなかっ
た。虚しく、孤独で、満たされる事は無かった。富は自分を幸せに
はしてくれなかった。ひたすら主に会いたい一心で、木にまで登っ
た。主は、そのザアカイの渇き、虚無、孤独、切なる求めをご存じ
であった。「ザアカイ」と名を呼ばれ、向き合って下さった。

人々に嫌われ、さげすまれ、誰にも向き合ってもらえなかったザア
カイは、どんなに驚い事ただろう。主を心に迎え入れた彼は、喜び
と平安に満たされた。主はザアカイを選んでおられた。主はあなた
に目を留め、あなたを極みまで愛し、「高価で尊い」と言われる。
渇きがあるなら、主はあなたのその心をすでにご存じだ。主のもと
へ行こう。
------------
心の底にある渇きや欠乏を主は知っていてくださる。そして責め
る事なく呼びかけて、渇かないいのちの水を与えてくださる。主
の招きに素直に従おう。


2023年06月01日(木)

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、 あなたの計画はゆるがない。」箴言16:3 



ある人が、主にあって、一つの志が与えられた。正しい、良い事で
あるし、祈りの中で、主の御心だと確信できた。そこで、尚も祈
り、具体的に実行しようとしていた。しかし当時、身体面の問題を
持っていた。持病があり、かなり兆候が出ていたが、自分自身はや
れると思った。だが、家族、親族は、身体面を大変心配し、不安に
思い、皆、反対した。身体を気遣うゆえだった。

だが本人はどうあっても進もうとする。周囲は心配でならず、更に
強く反対する。御心を行なおうとしているのに、皆の反対に会い、
行き詰まり、せっぱ詰まった状況だ。主のもとに行き、ありのまま
を告げ、ことごとく打ち明け、祈った。御前にじっとしずまってい
ると、心の奥を照らされた。

自分は正しい事を行なおうとしているのに、余りに皆に反対される
ので、意地になっている自分、反発し、むきになって進もうとして
いる姿に気づかされた。ショックだった。何と御心どころか、自我
ではないか。心から御前に悔い改めて、今一度、主に何もかもを明
け渡した。すると主がされるがままでOKと思え、主が止められる
なら、それも良いと思えた。

とがった心がすっかり平安になってしまった。するとその後、目に
見えて体調が落ち着いたのだった。それで親族も了承してくれ、与
えられた志を行なうことができた。自分が、自分が、との姿を見せ
られ、主にゆだねることの大切さを教えられた経験だった。
------------
全てを主に委ねることは難しい。思い通りに進まなければ、無理を
通してしまいたい。気づきを与えられることは感謝だ。様々な事を
通して主の聖さ、正しさに触れ、謙遜にさせられる。主に委ねよ
う。