2023年07月31日(月)

「神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださ るからです。耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。」 詩篇17:6



ある人が、自分は肉の思いが来た時に、例えば、妬み、憎しみ、怒
り、さばく思い・・そんな時、クリスチャンなのにこんな思いを持っ
てはよくない、こんな事を思うなんて自分は何と罪深い、思っては
いけない〃と、その思いを否定し、心に抑え込んでいたと。そして
心に抑え込んで、悪い態度を表に出さないのだから、むしろ良い人
間と思っていた。

しかし、その抑え込んだ思いは、無くならず、どんどん蓄積されて
行く。それは許容量オーバーになると、必ず爆発していたと。そし
て救われた後も、ずっと自分はなかなか変わらないと思っていたの
だが、しかしそこが違っていて、主のもとへ持って行く事だと教え
られた。ずっと自力で何とかしようと、我慢しようとしていた。
そうでなく、一つ〃祈って行く。

「妬んでいます」「怒っています」「こんな思いを持っています」
主に告げて行く。そのように祈ると、ある時はすうっ〜と思いが消
え、ある時は、悔い改めに導かれ、様々な仕方で主が働かれる事を
経験した。何より様々な思いを自分で否定し抑え込むのでなく、主
に告げて行く時、心が平安になる事を知った。

「絶えず祈りなさい」とあるが、しょっ中、主に語りかけ、主が近
く感じられるようになった。共におられることがわかるようにされ
た。とにかく主に持って行き、ことごとく主に告げよう。主が働か
れ、導かれて行く事を経験して行く。主は、絶えず耳を傾けて下さ
っているので、主を呼び求めよう。
--------------
怖れや不安や思い煩いの全てを主に告げて行くとき、折々に主から
の導きを受け取る。どこへでも主が共におられる喜びを感じる。何
でも親に告げていた子供の頃のように、安心して主を呼び続けよ
う。


2023年07月30日(日)

「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔 かれます」ヤコブ3:10 


平和をつくる人は幸いで、神の子どもと呼ばれると言っている。平
和をつくる人となるためには、まず平和が、自分自身の中に、つく
られていなければならない。自分の内側が、憎しみ、妬み、敵意、
復讐心に燃えていたらどうだろう。又、思い煩いや不安で、悶々状
態ならどうだろう、とても人の事など考えられず、周囲に平和をつ
くり出す事など不可能だ。

そのため、何よりもまず重要な事が、神と自分との平和だ。神との
個人的関係において、妨げを取り除くことが必要だ。罪が示されて
いるなら悔い改めよう。心にひっかかっていて、示されているのだ
が、なおざりに、伸ばし伸ばしにしている事があるなら、実行しよ
う。誰かに謝罪が必要なら和解しよう。

神から離れていたら、今すぐ立ち返ろう。両手を開いて待っていて
下さる。放蕩息子が、父親のもとへ帰った時に、責めも、さばきも
されず、喜んで受け入れられたように、どうであれ、神のもとへ帰
ることを喜んで下さる。まず、自分と神との縦の関係が、平安であ
るように、自分の側でなすべき事を正そう。

その時、平和の子として、横の関係である周囲に平和をもたらすた
めに、用いられる。肉はどこまでも自己中心だ。その罪の世界で、
平和は自然にしているならできない。肉に流されるからだ。それは
「つくるもの」だと言っている。自分では出来ないが、御霊の導き
に一歩〃従う時に、義の実を結ばせて下さる。

・・・・・・・・・・・
まず神との平和が第一のことだ。罪は悔い改め、赦しを受け取り、
主との平安な関係にいよう。平安が無くなる時は、御霊に心を探っ
て頂こう。主との間が平安であれば、隣人との間に平和をつくって
行ける。平和の子として用いられる。


2023年07月29日(土)

「毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、 彼は死ぬほどつらかった。それでついに・・自分の心をみな彼女に明 かして言った」士師記16:17


サムソンはナジル人で、力の賜物を与えられていた。それは主のた
めに用いるよう、与えられた賜物だった。だが、彼はデリラに好意
を持ち、彼女の誘惑に勝てなかった。誘惑は少しづつ〃、しかし粘
り強く執ように、欲望に働きかけてくる。最初は、少しなら大丈夫
と油断してしまう。アルコールやギャンブル、薬物依存の人も、少
しならと思い、深みにはまって行く。

デリラはペリシテの領主達に、多額の金銭を提示され、彼の力の秘
密を探るようにと。デリラは彼に力の秘密を尋ねるのだが、3回も
だまされる。しかし、しつこくサムソンにせがむ。毎日、しきりに
せがみ、責め立てたので、サムソンは死ぬほど辛かった。デリラを
失いたくない彼は、ついに力の秘密を明かしてしまう。

髪の毛に秘密があったが、その髪の毛をそり落とされ、ペリシテに
捕らえられてしまった。「毎日、しきりにせがみ」、私たちもどう
だろう。毎日しきりに執ように聞く言葉が、肉の言葉、悪魔の言葉
ならどうだろう。悪魔は、私たちの弱い所を的確に知っていて、毎
日しきりに攻撃して来る。それは妬み、憎しみ、貪欲、不安、思い
煩いかも知れない。

ずっと聞いていると、サムソンのように心の中で熟して行き、行為
へと及んでしまう。日々しきりに来ている悪魔の思いに、要警戒だ。
悪魔を拒否しよう。「彼は主が自分から去られたことを知らなかっ
た」、何と悲しい事だろう。悪魔の言葉に聞くのでなく、主の教え
を喜びとし、昼も夜も口ずさむなら、どんなに祝福で幸いだろう。
祈っていよう。

・・・・・・・・・
サタンの誘惑、攻撃は執拗だ。何度も何度も、繰り返し繰り返し、
延々と攻撃、誘惑が来る。心をガードし、拒否する事が大切だ。
受け入れると罪を犯してしまう。サタンからのものだとよく踏ま
えて、御霊の気づきを祈っていよう。


2023年07月28日(金)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、 ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、 歩き回っています」Tペテロ5:8



罪は、真っ黒な、嫌な、苦いものに思えるが、そうではない。罪に
は一時の快楽があって、罪は楽しく、快く、甘いものだ。肉を喜ば
せる。もし罪が苦い、不快なものであれば、こんなにも罪の問題は
起こらない。苦いものになど誰も近寄らない。罪は心地良く、甘い
からこそ、人は容易に罪に陥ってしまう。そこに悪魔の働きがあ
り、私たちを巧妙に誘惑し、惑わす。

エデンの園でエバに来た誘惑、「食べるのに良く、目に慕わしく、
賢くする・・いかにも好ましい」の通り、罪を素晴らしい、魅力的
な、麗しいものに見せて欺く。そして悪魔の言葉を受け入れて行く
と、もう、言われる通りにしか見えなくなる。エバが、蛇の「決し
て死なない」「神のようになり、善悪を知るようになる」と、一つ
〃の言葉を受け入れ、その目で見ると、その木は素晴らしく良いも
のに見えた。

行動に移る事は時間の問題だった。エバは禁じられたその実を取っ
て食べた。悪魔は、罪を麗しい、素晴らしく魅力的なものに見せ
る。罪は快適なため、そして肉と合致しているため、欺かれていて
気づかない。悪魔の策略だ。良いものと思い、何の問題もなく、う
まく行っていると思ってしまう。

悪魔は、とにかく主から離そう〃と、攻撃して来るので心していよ
う。悪魔に、聞いて行ってはならない。飲み込まれてしまう。拒否
する事だ。誰しも、自分は大丈夫と思っている。罪を軽く見てはな
らない。はっきり拒否し、避け、退けよう。いつも狡猾な敵を覚
え、祈っていよう。
--------------
自分の力で抵抗できない事をいつも覚えていたい。誘惑が来たこと
にも気づけない弱い者だ。身を慎み、目を覚まし、狡猾なサタンに
気づけるよういつも主に頼っていよう。


2023年07月27日(木)

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、 あなたのことばを守ります」詩篇119:67



普通、逆のように思ってしまう。つまり、苦しみに会う前は、特に
問題もなく、平穏無事に過ごしていたので、あやまちを犯すことも
無い。しかし苦しみに会って、辛さの余り、いろんなあやまちを犯
してしまうのではと。だが、順境の時には、問題も無く、人は、自
分で生きて行けてしまうので、主を頼らない。主を忘れてしまう。

高慢とは偉そうにする事ではなく、主を頼らない事だ。自分を神と
し、自分の力で、自分に頼って生きて行く。この恐るべき高慢に陥
ってしまう。そして、高慢の行き着く先は、滅びだ。明けの明星
も、高慢に陥ってサタンとなった。主は、私たちをこの高慢の罪の
危険から守るために、様々な行き詰まりや、苦しみ、問題を送られ
る。

悩みや苦しみは、嬉しくない。「懲らしめは、そのときは喜ばしい
ものではなく、かえって悲しく思われる」と。しかし「後になる
と、これによって、訓練された人々に平安な義の実を結ぶ」と。実
を結ぶ。人は、自分の力でどうにも出来ない時に、主に頼る。何の
手立てもなく、何もどうしようも無い中で、初めて主のもとに行
き、拠り頼む。

逆に言えば、絶望的な状況があるから、主に頼れるわけで、信仰を
与えるために、困難な状況を通される。苦しみは嬉しいものではな
いが、しかし「苦しみに会ったことは幸せでした」と詩篇記者は言
っている。主のことばを守る者と変えられて行くからだ。
--------------
順境の中にいれば主に頼ることは少ない。少なくて済むと思う気持
ちがすでに傲慢だった。主の守りも恵みも当たり前になっていく。
苦しみ悲しみは辛くても、主にすがりつく。隠された祝福がある。


2023年07月26日(水)

「一タラントを預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あ なたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい 方だとわかっていました』」マタイ25:24


 
1タラント預かった者は、それを地に埋めた。そのまま返せば、減
らさなかったのだから、文句無いだろうと。しかし主人は「悪い怠
け者のしもべ」と叱責した。「良い忠実なしもべ」と誉められた他
の2人と、どこが違ったのだろう。2人は、主人が愛深い、良い主
人だと知っていた。

そのため主人に対する愛と尊敬があり、主人を喜ばせたい思いでい
っぱいだった。だから「すぐに」行って商売した。主人のためにベ
ストを尽くして、もし失敗したとしても、主人は心を見てくれ、
又、懸命に労した事を認めてくれる事を知っていた。だから、のび
のび、生き生きと喜び持って働けた。

しかし1タラントの者は、主人に対する愛も敬意も、主人を喜ばせ
たい気持ちも無かった。こんなひどい主人とは、とにかく関わりた
く無いとの思いだけだった。主人のために、何かをしたい思いなど
全く無かった。又、1タラントは、他と比べて不満だったろうか。
私たちもどうだろう。主を見上げるのでなく、他と比べるだろう
か。

他の人はあんなにも素晴らしく奉仕出来るのに、自分はうまく出な
い。あの人、この人と比較して、劣等感で、やる気を無くしてしま
うだろうか。しかし主はそこを見られない。与えられた賜物を「忠
実に」主のために用いて行こうとする心であり態度だ。どうだろ
う。主が与えて下さっているものを、地に埋めたまま一生を終える
だろうか。なすべき事があるだろうか。
--------------
どうせ駄目だと何もしなければ楽で失敗もないが、土に埋めてしま
えばどうだろう。主にある喜びも知れない。失敗も赦され、祝福し
ようとしておられる主に応えて生きたい。主の恵みが先行している
から。


2023年07月25日(火)

「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを 尋ね求める者をお見捨てになりませんでした」詩篇9:10


ある夫婦が、事情があり毎月多額の返済をしていた。しかし返済出
来る事も感謝だった。ある月、給料日前に、手持ちが底をついてし
まった。赤ん坊のミルクが無くなり、どうしても必要だった。夫
が、ちょっと友人に借りて来ると言った。すぐ給料が入って、返せ
るからと。

だが自分はクリスチャン、まず人に頼るのでなく、主に頼りたく、
何より祈りたかった。心の中で、主を求めた。すると夫が、「その
前にちょっと親父を見て来る」と出た。近くに父親宅があり、体調
崩し伏せっていた。夫が出た後、主が下さった恵みの時間と感謝
し、主が必要を与えて下さるように祈りに祈った。

数10分経た頃、ふと後ろを振り向くと、夫がミルク缶とおしめの袋
を両手に持って立っていた。もうびっくりして、聞くと、父親のも
とに、丁度知人が来て、見舞金を渡された。それでとりあえず必要
な物を買って来たと。驚いて、主に感謝が溢れた。別の人も経験し
た。突如の金銭的必要が生じ、貯えの無い中困って、親しい親戚に
借りようと思った。

しかしその時に「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そう
すれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」を与
えられ、即、人に頼るのでなく、まず主を求めようと。それで切に
祈っていた中、昔にまとまったお金を貸していた相手から、突然返
済されて来て驚いた。もう全く忘れていたものだった。主に頼る者
に、豊かに報いて下さる。
--------------
主が聞かれない祈りはないことは何と感謝なことだろう。主がいつ
でも小さな者の祈りを聞かれ、心を配ってくださる。何でも率直に
主に求め祈ろう。主の豊かな養いに感謝は尽きない。


2023年07月24日(月)

「そこで、彼は、『確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、 それを食べることはできない。』と言った」U列王7:19



エリシャの時代に大飢饉があり、人々は餓死して行った。そんな危
急の事態の中、エリシャは主から示されて、明日、小麦や大麦が溢
れるばかりにあると語った。すると王の侍従が「たとい主が天に窓
をつくられても、そんな事があり得ようか」と言った。それを聞い
てエリシャは「あなたはそれを見るが食べられない」と言った。

そんな時、サマリヤの門に四人のらい病人がいた。町は酷い飢饉、
どうせ自分たちは必ず死ぬ。それなら敵の陣営へ入ってみようでは
ないか。あるいは食料があるかも知れないと。すると敵の陣営で、
主が敵に、大軍勢の騒ぎを聞かせ、襲撃と思わせた。主の関与であ
った。敵は驚き、陣営を置いたまま、即、逃亡した。

それで入ってみると、山ほどの金銀と食料があり、彼らは、王家に
知らせた。王は信じなかったが、偵察させ事実を知った。すると大
勢が殺到し、門のそばで管理をしていた侍従は、踏みつけられ死ん
だ。預言通りになった。事実、溢れる食料を主は用意された。しか
しそれを信じなければ、自分が手にする事は出来ない。溢れる食料
にかかわらず、飢えて死ぬ事になってしまう。

私達もどうだろう。十字架の救い、神の愛、恵み、罪の赦し、義と
される事、御霊による歩み・・溢れる食料の中にいながら、信じなけ
れば餓死するように、溢れる恵みの中で、不信仰のため、虚しく歩
んでいないだろうか。侍従は自分の姿だろうか。信じようとしてい
ない自分に気づく事から始まる。ありのまま祈りに持って行こう。
信仰を、一段階〃成長させて行って下さる。

・・・・・・・・・・・・
侍従長は、信じずに、受け取れなかったが、しかし主に向いて、あ
りのまま祈ることができる。「信じることができません」「目に見
えるところに、常識に、経験値に頼っています。助けて下さい」と。
主は助けて下さり、次の展開へと導かれる。


2023年07月23日(日)

「・・あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。 そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやす く、わたしの荷は軽いからです」マタイ11:30



主を信じ、救われた私たちは、主に従って歩みたいと思う。そのた
め、職場や学校、近隣で、嫌な相手がいると「愛さなくては」「受
け入れなくては」と思う。相手を嫌い、憎むと平安が無くなるから
だ。気持ちが辛くなる。だからますます愛さねばと頑張る。だがど
れだけ頑張っても愛せない。愛そうとすればするほど、ますます嫌
いになる。

その感情は無くならないし、平安も無い。苦しくて祈る中で、自分
の力で、肉で頑張っていると気づく。気づくのだが、又、尚も自力
で頑張っている。肉はどこまでも根深い。苦しい中、何度も同じ事
を繰り返し、頑張れば、頑張るほど失敗し、疲れ果てる。そんな私
たちに、主は「疲れた人は、わたしのところに来なさい。わたしが
あなたがたを休ませてあげる」と。

どうにもなりませんと、御前に認める時に、委ねるように導かれる。
肩の力が抜けて、安堵が来る。自分が頑張るのは、出来ると思うかめ
らで、無意識にも心の底では出来るはずと思っている。主のもとに
行く時「休ませてあげます」の通り、荷を下ろし、平安が広がる。

そして「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と。主
が共に負って下さっているので、決して重荷とならない。主と共に
御言葉を行なって行ける。そこには御霊の喜びがある。疲れている
なら、そのまま主のもとへ行き、ありのままを告げよう。

・・・・・・・・・・・・
絶えず〃主は、疲れた人は、来なさいと招いて下さっている。休ま
せて下さると。その通りに主のもとへ行き、ありのままを告げて、
祈って行くと、平安にされるから不思議だ。そこに主の愛があり、、
あわれみがあり、更に主を味わい知って行く。


2023年07月22日(土)

「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」マタイ 6:13



私たちが罪を犯した時はどうだろう。悔い改めるなら、主は十字架
の血潮により、どんな罪でも赦して下さる。無罪放免とし、二度と
その罪を思い出さない、「あなたがたの罪が緋のように赤くても、
雪のように白くなる」と言われる。何という驚くべき恵みだろう。
しかし、何をしてもどうせ赦されるのなら、いいではないかと、安
易に罪を犯すならどうだろう。

「善を現わすために、悪をしようではないか」と、「もちろんこの
ように論じる者は、当然罪に定められる」のであり、決して恵みを
放縦に変えてはならない。罪を侮り、軽く見て、もてあそんではな
らない。主は罪を赦して下さるが、蒔いたものには、必ず刈り取り
がある。傷害事件を起こすなら、法律に即して、罰を受け、刑務所
に入る事になる。

罪は、主により赦されるが、蒔いたものを刈り取り、償なわねばな
らない。対人関係で、害を与えたなら、悔い改めにより、赦される。
だが相手に謝罪し、償いをし、関係修復への努力が必要だ。罪は、
相手も自分も、周囲をも、思う以上に深く傷つける。決して恵みを
放縦に変えてはならない。

だからこそ、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい」
と祈っている必要がある。この祈りが不可欠だ。私たちは救われた
が、肉の性質がまだあるので、弱さのゆえに、罪を犯してしまう。
そのために祈っていなくてはならない。肉に来るサタンの誘惑から
守られるよう、いつも祈っていよう。

・・・・・・・・・・・・・
主が飛んで、ぼおっ〜としていると肉で歩んでいる。放っておくと
自分が中心になり、自分の思いで歩んで行く。絶えずサタンが主か
ら離そうと働いている。だからこそ、主に拠り頼み、祈っていよう。
主を仰いでいよう。主は助けて下さる。


2023年07月21日(金)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時 がある」伝道3:1


御言葉は「神の時」の事を言っている。すべての事において、神が
定められた「時」があると。又、「私の時は、御手の中にありま
す」とあり、主も又「時」を非常に重要とされた。「わたしの時が
まだ満ちていないからです」「わたしの時はまだ来ていません」と
「わたしの時」があると。そして「見なさい。時が来ました」と。

私たちの信仰生活でも、あらゆる事に「神の時」がある。自分では
「最善の時」「今こそが時」と思う事がある。自分の強い思いはあ
るが、しかしそれが「神の時」でないなら、事態は動かない。自分
では何とかしようと懸命に動くのだが、空回りするばかりだ。振り
返って経験あるだろうか。神の時では無かった・・あの時、この時
〜。どうやっても、道が開かれず、事が動かない。

又、逆に、神の時には、ひとりでに門が開かれて行く。戸を自分で
叩き割って進むのではない。主が開かれるので、微動だにしなかっ
た事態が、目の前でするすると動いて行く。驚くばかりだ。その時
には機会を逃さずに捕らえる必要がある。「すべての人が時と機会
に出会う」。しかし、祈っていなければ、せっかくの主からの機会
も悟れずに、逃してしまう。

主の機会を逃さず捕らえよう。教えられる事は、「神の時」を焦ら
ずに待てば良いという事だ。必ず神の時に、事態は動いて行く。前
進して行く。その神の時が満ちるまで、待っていれば良い。その時
を待てずに、しばしば自分で、肉で動いて失敗してしまう。「神の
みこころを行ない、約束のものを手に入れるために、必要なのは忍
耐」。必ず主の時が来る。主の定められた時を待ち望んでいよう。
--------------
待つことは難しいが、神の時を認める生き方は焦りや愚痴から解放
された希望がいつもある。失うときも神の悲しみと共に慰めがあ
る。主の定められた美しい時を待ち望もう。


2023年07月20日(木)

「どうしてそんなにこわがるのです。信仰が無いのは、どうしたこ とです」マルコ4:40


夕刻になって、主は、湖の「向こう岸に渡ろう」と言われた。弟子
たちと共に舟に乗り込まれると、主は疲れのため、とものほうで熟
睡されていた。その途上で大嵐に会い、弟子たちはもう大慌てで、
パニックに陥った。舟は波をかぶり、水で溢れ、このまま行けば沈
没、転覆だ。自分たちは溺れ死んでしまう。

ベテラン漁師の彼らが身の危険を感じたほどだ。しかし主はそんな
中、全き平安の中で何事もないかのように、安心して眠り続けてお
られた。弟子たちは「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思わ
れないのか」とすねた屈折した物言いをした。だがそんな彼らのた
めに、まず主は「黙れ、静まれ」と風を叱りつけ、湖を静められ
た。

主の一言で大なぎになり、弟子たちはびっくりした。その後「信仰
がないのはどうしたことです」と言われ、問題は嵐でなく、不信仰
だと。主は「向こう岸へ渡ろう」と言われ、弟子たちは「おぼれて
死ぬ」と言った。主が言われたからには、途中で何があろうと
100%渡れる。そして主が同乗の舟が、沈む事などこれも100%あり
得ない。

嵐の問題でなく、御言葉を信じられない不信仰が問題だった。嵐の
中でこそ、「向こう岸へ渡ろう」との御言葉を握り、信じているべ
きであった。状況でなく、御言葉を信じない事が問題だ。目の前の
状況に飲み込まれ、主と御言葉が飛んでしまっているだろうか。主
の言葉に目を留め続けていよう。そのように祈ろう。
-------------
問題が起きると平安をくださいと祈るが、すぐに波風を見ては怖れ
る。主は聞いておられないのだろうかとまた祈る。自分がどこを見
ているかに気づきたい。向こう岸に渡ろうとの主の御約束を握って
いよう。


2023年07月19日(水)

「するとイエスは彼に言われた。『だれでも、手を鋤につけてから、 うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。』」ルカ9:62



この箇所に、主に従おうとする人々が出て来る。一人目は「おいで
になる所、どこにでもついて行きます」と主に全面的に従うと言っ
た。しかし主は、狐には穴、空の鳥には巣があるが、人の子には安
心して住める家は無いと言われた。多くの苦労があり、多大の犠牲
が伴うと。喜びと同時に幾多の苦難もあり、覚悟と決心が必要だと。
中途半端な気持ちなら、こんなはずではなかったと、すぐに止めて
しまう。

二人目は、「わたしについて来なさい」との、主からの明確な示し
にもかかわらず、父を葬った後にと答え、父親が亡くなった後に従
うと言う。ぐずぐずしていて優柔不断で、従おうとは思うのだが、
結局は従う事の無期延期となる。それなら必ず従わないまま終わっ
てしまう。御霊の示しに対し、ぐずぐず延ばしていると、幾らでも
言い訳や弁解が出て来る。そして結局従わずに終わる。

三人目は、「あなたに従います」と、主に従う事を決心していた。
だが、その前に家族に、いとまごいに帰りたいと。前進しようとし
つつも、後ろを振り返る。捨てたつもりのものに未練を持ち、後ろ
髪を引かれ、断ち切る事が出来ない。足を引っ張られる。その未練
は、神の国にふさわしくないと言われたが、捨てるものへの執着が
断ち切れない。結局、従えないままに終わる。

主に従おうとする時には、必ずサタンが来る。従わせないように様
々な誘惑、攻撃、かせを持って来る。心の内からも、外側の環境か
らも、妨げが来る事を踏まえ、よくよく祈ろう。必ず悪魔の妨害が
来る事に、しっかり心していよう。そして御心への一歩を踏み出そ
う。

・・・・・・・・・・・・
「つぶやかず、疑わずに行ないなさい」とあるが、御心を行なおう
とすると、必ず妨害が来る。サタンがつぶやきを起こしてくる。「
何で自分なのか。都合が悪い」又、疑いが来る。「本当に御心なの
か」、妨げて来るサタンに気づけるよう、祈っていよう。


2023年07月18日(火)

「しかしペテロは、『あなたの言うことは私にはわかりません。』 と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が 鳴いた」ルカ22:60



ペテロは、主が捕らえられ、これから十字架に向かわれる時に、主
を三度も否定してしまった。何があってもついて行くと豪語したの
に、主を裏切ってしまったのだ。しかし実は、サタンがふるいにか
ける事を、主が許されたゆえの事だった。そして、主はペテロの信
仰がなくならないように、祈っておられた。

苦しい試練のペテロの背後に、主の祈りがあった。ペテロは以前に、
他の者たちが皆、主を捨てても、自分は大丈夫と言い切った。どこ
までも主について行くと。主はその心に潜むペテロの弱さをご存じ
であった。しかしペテロは知らずに、自信に溢れていた。だが、そ
の自信は粉々に砕け散った。

「信仰がなくならないように」主は祈られたが、信仰が無くならな
いとは、罪を犯し失敗するが、悔い改めに導かれるという事だ。ペ
テロは悔い改めて赦された。私たちも必ず失敗する。失敗しない人
は一人もいない。しかし、常に主は私たちのために執り成して下さ
っている。だからこそ罪を認めて、悔い改める事ができる。そして
その罪は完全に赦される。

ペテロは砕かれ練られ、主の器として整えられて行った。私たちも
今、試練の中にあるなら、砕き、練られ、整えられるためだ。私た
ちは、もうだめだと思うが、失敗は赦して下さり、尚も益とされる。
そして自分の力が砕かれ、自分でなく、主に、拠りすがる者と造り
変えられて行く。

・・・・・・・・・・・・・
ペテロが主を裏切ってしまうという、人生最大の危機に、主は御言
葉を与えて下さっていた。主のお言葉を思い出し、ペテロは号泣し
た。そして主は、祈っていて下さった。失敗しないようにではなく、
信仰が守られるようにと。主の祈りと主の言葉が、試練と共にある。


2023年07月17日(月)

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。 そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」ヤコブ4:7


主の御心を求め、示されて、行なおうとする際に、必ず悪魔の妨げ
が来る事を覚えよう。悪魔は、主の祝福にあずからせたくないの
で、妨害して来る。「自分には無理、難しい」との思いだろうか。
その声について行くと、心が重くなり、負担に感じてしまう。又、
したくない思いも湧いて来る。「面倒だなあ」「嫌だなあ」「回避
できないか」。

例えば、私たちの生命線である、祈りと御言葉についてはどうだろ
う。少しの空いた時間が出来た時に、御霊はその時間を生かして用
いるよう、祈りの時にせよと言われるだろうか。御霊が、今、祈れ
と言われるのは、わかるのだが、祈ろうとすると、なぜか心が重く
なって祈れない。祈る前はどうも無かったのに。

そして悪魔のささやきが来る。「また後で祈ればよい」「気分転換
も必要だ」「今は疲れているから休め」。その内、眠気が来て、せ
っかくの静かな良い時間を逃してしまう。聖書を読もうとする時
も、どうだろう。この世の本は幾らでも読めるのに、なかなか聖書
が読めない。つい気楽な雑誌に手が伸びてしまう。

又、何とか聖書を開くも、他の思いが次から次へと湧き、気づく
と、他の事を考えてしまっている。思いがさまようのだ。ぼおっと
して、何を読んだのかわからない。読むのを止めてしまう。又、御
言葉に向かうと、睡魔に襲われる。これらは、悪魔の妨害だ。悪魔
の様々な妨害に気づくだろうか。天に帰るまでは、この世では、
日々悪魔との霊の戦いである事を覚え、主に拠り頼んでいよう。
-----------------
祈るより、自分の頭で考えて動き回る方が早く思える。失敗から学
びたい。自然に任せていると常に御心から離されていく。サタンに
押される弱さを認識していよう。意思をもって選択しよう。


2023年07月16日(日)

「何も思い煩わないで・・あなたがたの願い事を神に知っていただき なさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あな たがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピ リピ4:6



しばしば悩まされるものに「思い煩い」があるが、どうだろう。あ
の事、この事、しなければならない事が、重荷となると、思い煩い
になってしまう。又、将来の進路の事や果ては老後の事、健康や経
済的な事。又、対人関係の事、あの人の一言、この人の態度、思い
煩いになってしまう。

主は、悩みや思い煩いがあるなら、そのまま逐一、主のもとに持っ
て来るように、ことごとくを告げるようにと。どうだろう。あの不
安、この心配、気に病んでいるあの一言・・何もかも、余すところな
く、主のもとに行き、告げよう。そうすれば、つまり告げるなら、
「人のすべての考えにまさる神の平安」が与えられると。

ある人が、様々な問題が次々と来て、もうどうにもならず、八方ふ
さがりで、心は暗く重く、胸が苦しくてたまらなかった。思い煩い
でふさがれていた。御言葉に従い、一つ〃を具体的に、主のもとに
持って行った。ハンナのように感情も吐き出し、募る憂いといら立
ち、苦しみ、心の叫びを涙ながらに主に告げて、委ねて行った。

すると、何だか不思議だが、心が段々と落ち着いて来て、あの胸が
ふさがれ圧迫されるような苦しい思いは軽くなっていた。そして
「神に知っていただきなさい」とあるが、一番には、神に知ってい
ただいたと思った時に、心の重い鉛が取れて、平安になった。目の
前のその悩みを主のもとに持って行こう。

・・・・・・・・・・・・
主は「何も思い煩うな」と言われている。「何も」「いっさい」心配
するなと。その言葉と主が飛んでしまう途端、いっさいの重荷が自分
の肩にかかる。その結果、心が重苦しく、暗くなり、平安が無くなっ
てしまう。どんな小さな煩いも、主のもとに持って行こう。


2023年07月15日(土)

「ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。 彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。」使徒14:8


片手のなえた人がいた。その片手は、今まで一度も動いたことが無
かった。主は、なえた片手を持つ人に「手を伸ばしなさい」と言わ
れた。これは、普通に考えて不可能な事であった。どうやっても動
かせないで、今まで生きて来たわけであり、その手が動くなど、有
り得ない事であった。そこに主は、完全に不可能な命令をされた。

彼は、「無理です。今まで一度も伸びたことがありません」と言う
も出来た。又、もし、主がいやす事ができると信じないなら、はな
から手を伸ばそうとしないだろう。なぜなら、それは全く意味の無
い、無駄な事なのだから。彼は、主の言葉に応答し、手を伸ばそう
と、意志を向けた。

するとその時、腕に主からの力が臨んで、手を伸べることができた。
奇跡が起きた。この人自身には何の力も無かった。ただ、主の言葉
に、言われた通りに従った時に、奇跡を見た。足のきかない人も同
じだった。生まれつきの足なえで、一度も歩いた事がなかった。彼
は、丁度目の前で、パウロが宣教していて、その語る言葉に耳を傾
けていた。

真剣に聞き入っていた。その時パウロが「自分の足でまっすぐ立ち
なさい」と言った。彼もパウロの語る言葉に心を捕らえられていた
ので、その言葉に従った。すると一度も歩いた事のない足で立ち、
歩き出したのだ。主は、私たちにも御声をかけられる。

自分では不可能な事を命じられる。しかし彼らと同じように、自分
には何の力も無いが、その通りに聞き従う時に、主から力が臨む。
今、何かを示されていたら、従おう。力は主から来る。

・・・・・・・・・・・
足のきかない人は、パウロの語る言葉をじっと聞いていた。そして
パウロの「自分足で立て」との言葉を受け、無視せず従った。耳を
傾けるので、御言葉が聞こえてくる。その御言葉を信じて、従って
みよう。主のみわざを経験する。


2023年07月14日(金)

「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。 」出エジプト25:8 



創世記では、ヨセフが宰相となり、一族を飢饉から救ったが、出エ
ジプト記は、ヨセフを知らない新しい王が、民を苦しめるところか
ら始まる。民は苦役にうめき、叫び、その叫びは神に届く。そして
記事の最後は「主の栄光が幕屋に満ちた」と終わる。主は幕屋を作
るように命じられた。

「わたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」と。
それはアロンとアロンの子たちを祭司として任命し、聖別し、その
所で、罪のための全焼のいけにえを献げさせるためであった。律法
を与えると同時に、律法が示す罪への解決、罪のための贖いを備え
られた。そして幕屋は、彼らの間に住むために与えられた。

主が、民の間に住むことが、民を苦難のエジプトから救い出された
目的だと言っている。「彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼
らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者である
事を知るようになる。わたしは彼らの神、主である」と。苦難の地
から出されたのは、主が民と共に住むためであった。

新約では「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」そして
「この方の栄光を見た」と。また「わたしにとどまりなさい。わた
しも、あなたがたの中にとどまります」、「わたしはぶどうの木
で、あなたがたは枝」と。「とどまる」=「住む」、主と一つであ
ると。

そして将来の私たちの最終的行き先、新天新地で「見よ。神の幕屋
が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる」
と。エジプトで苦役の奴隷の民、つまり罪の奴隷の私たちが救い出
され、主が共に住まわれる。何という光栄、喜びだろう。
--------------------
備えられている御約束はどれほど力強くまた偉大であることか。新
しい契約によって主は今、私たちと共にいてくださり、新しい天地
が現れる日には神の幕屋が人の間にあって共に住まれる。もはや死
も悲しみもない。


2023年07月13日(木)

「さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた・・『アナニヤよ。』 と言われたので、『主よ。ここにおります。』と答えた。」 使徒9:10


ダマスコに、主の弟子であるアナニヤがいた。そのアナニヤは、主
からの御声を聞いた。サウロという人物がいるから、ユダの家に尋
ねるようにと。彼は、アナニヤという者が来て、自分の上に手を置
くと、再び見えるようになると幻で見たからと。アナニヤにしてみ
れば、大変な勇気の要る事だったろう。

あのサウロは、クリスチャンをひどく憎悪し、激しく迫害し、情け
容赦なく縛っては、捕らえ続けていた人物だ。あの恐るべきサウロ
が、回心したのだろうか。本当に?そんな事があるのだろうか。も
し、それがまやかしなら、間違いなく自分は死ぬ事になるだろう。
命がかかっている。しかしアナニヤは、祈っている時であり、いつ
も親しく聞いている主の御声に間違いの無い事がわかっていた。

アナニヤは従った。そして主も、アナニヤが必ず従うことをご存じ
であった。サウロもまた、「彼は祈っています」とあり、盲目の3
日間、全く飲食をしなかった。つまり断食して祈りに専心してい
た。サウロにもまた、アナニヤという人物が来て、見えるようにな
る、との示しを与えられていた。

双方が共に、祈りの中で、主により御心を示されていた。アナニヤ
の主への従順により、サウロは目からうろこのような物が落ち、目
が見えるようになった。アナニヤは、主により用いられた。私たち
も祈りの中にいる時、主は御声をかけ、御心を示し、用いて下さ
る。
------------
答えられず無視される祈りが一つもないことは何と感謝だろう。主
は祈りを通して豊かに御心を示してくださる。自分の狭い価値観を
超え誰かのために用いられる。主の導きに従おう。


2023年07月12日(水)

「彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』 という声を聞いた」使徒9:4


サウロはクリスチャンを迫害し、殺害すべく捕らえていた。それが
神の御心であり、正義だと信じきっていた。エルサレムだけでな
く、ダマスコまでも追跡した。その途上で突然、天からの光が来
て、彼は地に倒れた。圧倒的な強烈な光だった。そして主の御声を
聞いた。

「なぜ、わたしを迫害するのか」「あなたが迫害しているイエス
だ」と。起き上がると、目が見えなくなっていた。天地がひっくり
変えるばかりの衝撃だったろう。その後3日間、目が見えない状態
で、飲食せず、真っ暗な中で、彼は今までの事を考え、今、起きた
事を考え、祈りに祈った。彼は「地に倒れた」時に、主の御声を聞
いた。主が倒されて、聞かせられた。へりくだらされた。

私たちも全力疾走の時は、周囲の事も自分の事も、何も見えず聞こ
えない。前進のみだ。行き詰まった時、失敗した時にやむなく立ち
止まる。疾走する私たちにも、主は、立ち止まらせたく、挫折や失
敗、行き詰まりを通される。そこに主の意図とご計画があり、豊か
な祝福へと導かれる。今、行き詰まって暗黒状態なら、主は祈らせ
たい。

自らを振り返り、現在の状況を見据え、又、今後について祈りに祈
ろう。「そこで、彼は祈っています」サウロの真剣な祈りの中で、
主から遣わされたアナニヤにより、再び見えるようにされた。180
度人生が変えられた。私たちも、暗黒状況を通過後、主が見える
ようにして下さり、そして一段階成長させて下さる。
-------------
全力疾走で通過していたら主に出会う事はなかったかも知れない。
留められ、激しい落胆の中には主の大切な導きが必ずある。本当
に信頼できる主が見える。祝福を受け取ろう。


2023年07月11日(火)

「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」 ローマ8:6



肉の思いとは、どんなものだろう。自己中心的な考え、ネガティブ
な考え、肉的欲望だとは想像がつく。だがもし礼拝に毎週出席し、
奉仕をしていたとしてもどうだろう。自分が人から良く見られ、信
仰深く見られたいがため、自分の誉れ、自分の栄光のためなら、肉
的な事になる。

又、御霊に属する事とは、御霊からくる思いであり、信仰的、創造
的、肯定的なものだ。そこには喜びと平安がある。主への愛があり
感謝がある。私たちは自分の思いを、コントロールすることは、な
かなか難しい。思いはしょっ中、何かある度に、動揺し、又、さま
よう。人からの一言で、落ち込み、真っ暗になってしまう。どうす
れば良いのだろう。主に自分をおゆだねし、御霊に自分の心を支配
していただくことだ。

その時、御霊が正しく導いて下さる。信仰生活が喜びであり、幸福
感をもって歩む人々がいる。又、愚痴と不満、批判や非難で一杯の
人々もいる。どこが違うのだろう。いつも喜びのある人は、喜びに
目を向け、その事をひたすら考えている人であり、愚痴だらけの人
は、愚痴に常に目を向けている人だ。

環境は関係なく、環境が原因なのではない。その人が思いをどこに
つけるか、による。いつも恵みを数え感謝している人は、その人自
身が幸せだ。何に目を留め、何を考えているかで、生き方が決ま
る。「現在の状況は非常に困難だが、主は必ず良くして下さる、信
じていよう」これは御霊による思いだ。

御霊の方を選択して、従う事が、御霊に従って歩む事だ。肉の思い
と御霊の思い、いつも二つの思いが目の前にある。どちらの思いを
選択しているだろう。
------------
信仰による喜びはすぐに奪われてしまう。愚痴がこぼれそうになる
時は、助けてくださいと主を見上げれば祈りになり、山場を越えれ
ば主の助けに感謝をささげよう。御霊によって歩むとき、いつも心
に喜びがくる


2023年07月10日(月)

「・・ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの所に帰らせるー主の 御告げーわたしがバビロンの王のくびきを打ち砕くからだ。」 エレミヤ28:4



エレミヤの時代、イスラエルは、強国アッシリヤに滅ぼされ、捕虜
として連行された。だが、そのアッシリヤはバビロンにより滅ぼ
さ、バビロンはどんどん侵攻し、とうとうユダ王国も、バビロンに
捕囚となった。当時のユダは神から離れ、堕落し、偶像礼拝に陥っ
ていた。そして預言者たちは、人々に耳ざわりの良い、都合の良
い、心地良い言葉だけを語っていた。

平安が無いのに、見せかけの「平安、平安」と言っていた。だがエ
レミヤは真っ直ぐに神の言葉を語った。そのため迫害され苦しめら
れた。捕囚中の暗闇の中で、主の言葉を語り続けた。その捕囚は、
一見まさしく「災い」としか見えないが、災いではなく「平安・将
来・希望」のためのものだと。すぐに解放にならないので、その地
で腰を据えて生活せよと。

そして敵であるその町の繁栄を祈れ、それは自分達の繁栄になるか
らと。私たちも苦難の時、一番欲しい言葉は「即、解決」、「即、
悩みからの解放」だ。しかし口先だけの言葉は、更に傷を深くす
る。思い通りでない、かせのような現状を受け入れるなら、そのま
っただ中で、主からの支え、励ましにより歩めると。

現実を受け入れる事が大切だ。受け入れられるよう祈ろう。いつま
でもそのままではなく、「70年の満ちる頃・・帰らせる」。厳しい現
状で主に従うなら、その中で「平安」が約束されている。そして神
の時に、必ずそこから出される。
------------
「即、解決」「即、解放」だけを望んでいくと、都合のよい解釈が
御心に思えてくる。目の前だけを見て動かず、主の御言葉に従お
う。災いに見えても主の確かな土台の上には平安がある。


2023年07月09日(日)

「悪魔に機会を与えないようにしなさい。」エペソ4:27


悪魔に機会を与えないよう、よく自らの心を見張っている必要があ
る。ユダに、主を売る思いを入れたように、私たちの心に思いを入
れて来る。又、悪魔は種である御言葉を聞いても悟らないと、心に
蒔かれた種を奪って行くとあり、心がどのように御言葉を聞いてい
るかも見ている。その悪魔は、私たちの心に、足場を得ようと、や
っきになって狙っている。

妬みや憎しみ、敵対心であおって来る。創世記で、人類最初の殺人
が起きたが、カインは弟アベルへの妬みにより、悪魔に足場を与え
てしまった。その結果、アベル殺害に至った。ダビデは、連戦連勝
で女たちから賞賛を受け、大人気だった。それを激しく妬んだサウ
ル王は、その妬みが殺意となりどこまでもつけ回した。

祭司長律法学者たちも、主が民の人気と賞賛を博した事で、ひどく
妬み、主を殺害すべく、十字架へと追い詰めた。ダビデはバテシバ
を見た時に、悪魔に機会を与えた結果、姦淫の罪を犯してしまった。
誘惑が来た時に、主に助けを求めて叫べばよかった。又、ダビデは
高慢になり、自らの力を誇るため、御心に反する人口調査を行なっ
た。ユダは悪魔からの、主を売る思いに従ってしまった。

「悪魔に機会を与えるな」と言われている。それぞれの妬みを、そ
のままにせず、主のもとへ持って行き、悔い改めて、助けを求める
事ができた。主は助けて下さる。主のもとに持って行かなければ、
悪魔に機会を与えてしまう。あなたはどうだろう。その怒り、妬み、
憎しみを、即、主に持って行こう。悪魔につけ入るすきを与えない
ように。思いがいつしか行動に移ってしまう。主のもとに、祈りに
持って行こう。

・・・・・・・・・・・・
「悪魔は・・ユダの心にイエスを売ろうとする思いを入れた」思いを
入れたのは、ユダでなく悪魔だ。悪魔からの思いを受け入れて行く
と、罪へと誘われてしまう。主を仰ぎつつ、御言葉から離れないで
いよう。御霊の気づきが与えられ、悪魔に気づかせて下さる。


2023年07月08日(土)

「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうこと なく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めた とき、聞いてくださった。」詩篇22:24 



ある人が、経済的苦境に陥り、家に貯えも無く、手持ちも底をつい
てきた。大変な思い煩いに襲われる。心が苦しくて、どうにかなり
そうだ。更に、夫は自分勝手に思えて、涙が出る。育児の悩みや問
題も、様々目の前にあり、もう許容量オーバーになり、とにかく一
人になりたくて、車で家を飛び出た。

家から離れるべく、幹線道路をひたすら走った。涙がにじんで来る。
数時間走りながら、苦しい心で、心底主に叫んだ。すると、「私た
ちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方
が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んで
くださらないことがありましょう。」との御言葉が迫って来た。

しかし心が辛くて、尚も走り続けていると、「私たちすべてのため
に〜」「私たちすべてのために〜」と御言葉がどんどん追いかけて
来る。「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方〜」どこま
でも、どこまでも御言葉が追い続けて来て、主の愛が迫り、主に捕
らえられ、とうとう「神様ごめんなさい」とUターンし、家へと引
き返した。

どこまでも追いかけて下さる主の暖かい愛が心に迫り、今度は恵み
の涙が溢れた。あれほど荒れすさんだ嵐の心が、すっかりなぎにな
り、平安になってしまった。帰宅すると、夫が心配し、何と夕食を
作って待ってくれていた。家族で食卓を囲み、恵みの涙がにじんだ。

叫びに答えて下さる主を間近に感じ、心が満ちた。主を呼び求め、
助けを求めて主に叫ぶ時、主は聞いて答えて下さる。主に呼ばわろう。

・・・・・・・・
主は、悩む者のどんな悩みもさげすまれず、嫌がることもされない
とは、何と有難いことだろう。どんな悩みも受け止めて下さるとは。
人に言えないことも、一人で悶々とする事も、すぐに主に持って行
こう。愛し、受け止め、平安へと導いて下さる。


2023年07月07日(金)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありま せん。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」 ガラテヤ6:7



神は、主イエスの十字架の血潮により、私たちの犯した罪を完全に
赦して下さる。悔い改める時、二度と思い出さないと言われ、緋の
ように赤い罪も雪のように白くなると。無罪放免にして下さる。だ
からと言って、どうせ赦してもらえるのだからと、安易に罪を犯し
てはならない。それは恵みを放縦に変える事になる。

罪は赦されるが、刈り取りがあると。警察沙汰を起こした子どもた
ちは施設で厳しい矯正訓練を受ける。親は、謝罪して回り、破損を
弁償し、あらゆる償いをして回る。大人も、傷害事件を起こし、悔
い改めるなら、完全に主は赦して下さる。しかし法律上の刑罰を受
けなければならない。法に即して罰を受ける。

又、対人関係で相手を傷をつけてしまったなら、悔い改めにより、
主は赦して下さる。しかし一度壊れた信頼関係を取り戻すには、大
変な努力が要る。罪のもたらす傷や害は、思う以上に大きい。罪の
結果は、自分だけでなく、家族や周囲をも巻き込み、悲しみ苦しみ
を負わせる。罪をもてあそんではならない。

弱い者だからこそ、主に拠り頼み、祈っていよう。逆に自分を献げ
て、御霊のために蒔くなら、豊かな祝福を刈り取る。必ず刈り取
る。周囲への証しとなり、主の栄光が現われ、人々の救いに用いら
れて行く。御霊の導きに聞き従い、示された事に一つ一つ従おう。
今、示しがあるなら、一歩踏み出そう。
------------
気づかなければいつでも自分の欲望を満たそうとして動く者だ。主
の恵みを忘れている。肉の欲を押し返すのは御霊の力だ。主に祝福
される生き方を選ぼう。主が見ていてくださる。


2023年07月06日(木)

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」 箴言29:25 


「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めない・・」とも
出て来るが、私たちの心を動揺させ、乱して来るものに、人の目、
人からの評価がある。人の評価が気になって仕方がない。良い人に
見られたい、嫌われたくない、人に認められたい。そのため人目を
非常に気にし、すぐ反応してしまう。

振り返ってどうだろう。落ち込んだ時、心暗くなり、思い煩いに陥
った時はどうだったろう。人の言葉や態度に、振り回されていない
だろうか。自分への批判に反応し、心穏やかでおれない。憎しみや
怒りを持つ。人が向けて来る憎しみに反応し、憎しみで返すなら、
愚かなことになる。

そんな時は、御言葉がどう言っているかが、最も重要だ。御言葉に
目を留め、主の評価を見上げよう。「人の語ることばにいちいち心
を留めてはならない」「人を恐れるなら罠にかかる」売り言葉に買
い言葉、いら立っている時に、人から出る言葉にいちいち心に留め
ないことだ。

人からの評価に、大きな価値を置いている自分が問題で、プライド
という肉が問題だ。少しでもプライドが傷つこうものなら、大変な
事になる。自我に触れた途端、反発心が起きる。又、深く根に持
つ。人の評価で一喜一憂し、アップダウンし、人依存で生きてしま
う私たちを、御言葉は正しく導いてくれる。

まずそんな自分の姿を認め、主の言葉に従って行こう。すると、人
の評価に反応する自分に、御霊の気づきが与えられる。気づくと、
祈りに持って行ける。その祈りは聞かれるので、人ではなく、主に
反応して生きて行けるよう、少しづつ〃自分自身が変えられて行
く。
------------
刻々と変わる人の顔色に左右される。主を知らなければどうなって
いただろう。気づいたところから祈れるのは感謝だ。どこを見てい
たのか、主が正しい位置に導き返してくださる。


2023年07月05日(水)

「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されるこ とを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光の ほうに来る」ヨハネ3:20




ある時、パリサイ人や律法学者たちが、姦淫の現場で捕らえられた
女性を、主のもとに連れて来た。主を試して問うた。律法では、石
打ちの刑だが、あなたはどうされるのかと。主は黙ったまま、身を
かがめ、指で地面に書いておられた。彼らは、問い続けてやめない
ので、主は「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を
投げよ」と言われた。

すると、一人〃と出て行き、全員が去り、誰も、いなくなった。つ
まり彼らは、主の言葉により、内側が照らされ、自分を見た。そし
て罪を認めた。真実が現わされようとしていた。本当の自分の姿
に、
向き合うのか、それともそれを拒んで、逃げるのか。しかし、彼ら
は逃げた。主に導かれて、自分の罪を見たのに、誰も向き合おうと
せずに、全員が逃げてしまった。

しかし姦淫の女性は逃げずに、そこにいた。さばきからも逃れよう
とせずに、主のもとにとどまった。自分の罪に向き合い、認めたの
だ。その時主から「あなたを罪に定めない」との全き赦しを受け取
った。私達はどうだろう。主と自分に向き合い、自らの罪を認め、
悔い改め、新しい歩みを始めるだろうか。

見たくないものから、目をそらし逃げるなら、闇の中で、ますます
見えなくなる。罪がわかるなら、それは主による事で、御霊の光が
臨んでいる証拠だ、悔い改めよう。平安といやしが臨み、そこから
新たに歩める。
------------
罪を自分で何とかしようとすると逃げるしかないが、主に向き、悔
い改めるなら、主が赦しを与えてくださる。主に留まっていよう。
必要な力や新しい歩みが主からくる。


2023年07月04日(火)

「・・生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストの すばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかな っているのです。」ピリピ1:20



ヘロデ王がヤコブを殺害した。するとそれがユダヤ人に大変に気に
入られたのを見て、次はペテロ殺害に手を伸ばした。ペテロを捕ら
え、投獄し、処刑しようとした。しかしペテロは、奇跡をもって、
主が遣わされた御使いにより、牢から救い出された。「教会は、彼
のために、神に熱心に祈り続けていた」とあり、教会ではヤコブの
時も、ペテロの時も同じく熱心に切に祈った。

その結果ヤコブは処刑され、ペテロは救出された。「なぜ?」「こ
の違いは?」と思う。しかしこれは、ヤコブとペテロそれぞれへ
の、主のご計画であり、召しだ。ヤコブは殉教により主の栄光を現
わし、ペテロは更なる福音宣教の任務を遂げる事により、主の栄光
を現わす事となる。

ヘブル11章にもある人々は「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、
剣の刃を逃れ、強くされ、戦いの戦士となり、陣営を陥れた」と驚
くべき奇跡により進軍し、同時にある人々は「牢に入れられ、石で
打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され・・」と殉教して行っ
た。

見える結果は全く異なるが、どちらもが「信仰によって」歩んだ。
一人〃に主のご計画が違う。各々に使命、召しがある。自分に備え
られた御心を歩む事が、一番の喜びであり、そしてそれは主の栄光
を現わして行く。
------------
苦難はやはり不幸に思え、主のご計画から自分を見ていく事がなか
なか出来ないが、信仰によって受け取りたい。自分に与えられた信
仰生活を喜び感謝するのは自分にしかできない。どんな時にも主を
賛美したい。


2023年07月03日(月)

「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築 き上げたのだ。』と言わないように気をつけなさい。」申命記8:17



イスラエルは主の選びの民とされた。それは、まずイスラエルが祝
福され、彼らを通して諸国民が祝福され、救われるようにという事
であった。民は、苦難のエジプトから救い出され、水も食物も無い
荒野で、主の奇跡をもって養われ守られた。そして主が約束された
通り、乳と蜜の流れる地カナンに導き入れられた。

ところがその良い地で、生活が豊かになると「この私の力、私の手
の力が」、この富を築き上げたのだと高慢になった。主は、何度も
警告された。「主が」あなたに富を築き上げる力を与えられたのだ
と。その事を決して忘れるなと。人は、何不自由無い、平穏な日に
は、主を忘れてしまう。自分の力で生きて行けると思うからだ。

主を忘れ、恵みを忘れ、高慢になってしまう。「苦しい時の神頼
み、楽しい時の神離れ」と言われるが、順境の時には、恵みが飛ん
で、何もかもが当り前となり、感謝が無くなる。こんな時、主は愛
ゆえに試練を送られる。懲らしめは愛だ。民も、バビロン捕囚とい
う非常に厳しい試練に会った。砕きであった。

エルサレムがバビロンによって攻められ、国土を失い、家を失っ
た。異国へ捕囚の身となり、苦難を受けた。やがて次世代になった
頃、人々は暮らしは、それなりに成り立っているが、信仰心は失
せ、何を拠り所に生きて行けば良いのか、心は空虚だった。そんな
時に、諦めていた祖国帰還のメッセージが語られた。

労苦は終わり、慰めの時が来たと。私たちも状況が悲惨でも、主は
決して捨てられない。必ず朝は来る。何よりもいつも主を心に据え
て、高ぶらず、主が祝福の与え主である事を心に刻んでいよう。
-------------
苦しい時にも希望があり、主は今、平安の地に導いてくださった。
幸せは見えにくいが主のあわれみは尽きない。主が良くしてくださ
った事を何一つ忘れず、へりくだり主に感謝をささげたい。


2023年07月02日(日)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださ る」詩篇37:5


ある人に、どうしてもよく思えない相手がいた。実際、そばにいて、
しばしば迷惑をこうむっていた。そんな事をすれば、当然そのよう
な結果を招く。なぜ、そういう事をするのか。いつもどう見ても、
自業自得にしか思えなかった。心の中では、さばいていた。その相
手に、突如の大変な事態が起きた。そのための祈りの要請も来た。

しかしそいういう事態になるのも、原因となるものがあり、どうし
ても自業自得だとしか見えない。納得が行かず、祈れない。祈れず
に悶々としていた。頑なな自我とのかっとうだ。しかし、祈りの要
請が来ていて、自分はこのままでよいはずはない。心が悶々で、平
安も無い。

とうとう主のもとへ行き、「祈れません。助けて下さい。自分自身
をゆだねます」と拠りすがった。御前に祈っていると、一つの思い
が臨んだ、「自分が相手の立場だったらどうだろう」と。御霊の働
きだった。自分に置き換えた時、「絶対に無理、有り得ない。こん
な状況、自分なら絶対に耐えられない」と思った途端、涙が出て、
気づくと自分が熱心に相手のために祈っていた。

どうにもできず、明け渡した時に、御霊により祈りが与えられた。
そして平安にされた。その直後、事態が見事に解決したと、祈り感
謝の連絡が来た。愛して行くということは「自分だったらどうだろ
う」と、相手の立場に立つことだと言われているが、それも、自分
の力ではどうにもならない。できない自分を、主にゆだねて行く時
に、主が成し遂げて行って下さる。

・・・・・・・・・・
どうすればよいかがわかっても、従うことができない。肉があるか
らだ。肉はどこまでも頑なだ。どうにも出来ない。しかし、どうに
も出来ませんとギブアップし、明け渡して行く時に、不思議を経験
する。そこに主が働かれ、みわざを自分自身が経験する。、


2023年07月01日(土)

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由がありま す。」Uコリント3:17

信仰は、窮屈で不自由、縛りつけられるのではと、思う人々がいる。
あれはダメ、これはダメ〜、窮屈ではないかと。たばこ、飲酒はダ
メ、ギャンブルはダメ・・と。しかし、真の信仰は決して窮屈ではな
い。むしろ逆だ。「ねばならない」の窮屈な重圧の、かせから解き
放たれて、自由にされる。魚は水の中で、自由自在に泳ぐことがで
きる。もし魚が「水の中だけなんて嫌だ。なぜ水に限定されるのか。
窮屈で不満だ。陸に自由に上がりたい」と言えばどうだろう。

それは即、死を意味する事になる。又、楽器演奏者はどうだろう。
楽譜にそって演奏するが、その譜面は拘束で、不自由だろうか。自
分を忠実に楽譜に合わせて、演奏する事によって、素晴らしい曲が
奏でられる。約束事に、ルールに、縛られる事が嫌で、自分の好き
なように、やりたい放題する事が自由だと勘違いするが、それは自
由なのではない。それはわがままで、放縦だ。

肉の欲望が遂げられること、欲望が叶えられることが幸せだと、勘
違いするが、しかし心に平安は無い。御霊の実を結ぶ事もない。自
由とは、御霊に従うところにある。御霊に従えば、従うほど、ます
ます〃自由になって行く。喜びに満ちる。愛する事が自由で、平安
があり、憎む事は不自由で辛い。

肉の性質は、嫌いな相手は憎んでいたいが、しかし心は重く苦しい。
喜びは無い。御霊はそこから解放して下さる。ありのままを祈り、
御霊の示しに一歩従おう。すると次の一歩が示され、自由に、自由
にされて行く。肉の喜びでなく、御霊の喜びを経験して行く。

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自分の思い通りに、好きなように、したいようにする事が自由だと
思ってしまうが、それは肉の欲望だ。しまう。しばしの快楽はある
が、平安は無い。ますます欲求不満となる。御霊に解決がある。御
霊の示しに従ってみよう。