2023年08月31日(木)

「あす、彼らのところに攻め上れ・・この戦いはあなたがたが戦うの ではない・・しっかり立って動かずにいよ。」U歴代20:16


ヨシャパテ王は、モアブとアモンのおびただしい大軍が攻めて来た
時、王は非常に恐れた。そこで行なった事は、全国に断食を布告
し、ただひたすら主を求め、祈る事だった。大変な現状を、苦境を
訴え、祈り続けた。この大軍に当たる力は自分たちには無い、どう
すればよいかわからないと。すると、主はヤハジエルを通して語ら
れた。

この戦いは主の戦いであり、主が共にいるから、恐れず気落ちせ
ず、出陣せよと。これを聞き、ヨシャパテ王はひれ伏して、礼拝
し、主を賛美した。主の言葉を信じ、歌う者たちが、喜びの声、賛
美の声をあげ始めた時、主の言葉の通りに、敵は打ち負かされた。
奇跡的、勝利を与えられた。まさに主の働きであった。

私たちもどうだろう。目の前の悩み、問題だけを見ていると、思い
煩いと不安、恐れに飲み込まれてしまう。又、その問題を避けた
り、逃げたりしても、次に必ず同じ問題にぶち当たる。しかしヨシ
ャパテのように、その問題を主の前に持って行き、祈ることができ
る。自分で何とかしようとせず、まず主に申し上げ、祈り、お委ね
しよう。

単に問題の解決を見るだけでなく、その問題を通して、砕き、練
り、主のかたちへと造り変えられて行く。そこが重要だ。主は祈り
に答えて、御言葉を送り、励まし慰め指針を与えて下さる。その言
葉を信じ、感謝し、賛美して行く時、主が戦われる。

そして私たちは勝利を受け取る。御言葉を信じ、感謝を献げる事
は、目の前の状況に主を認めることになる。それは信仰であって、
主は、その信仰を受け取り、主がみわざをされる。
-------------
その問題になかに自分の未解決の部分が示される。主に委ねていく
中で主が導いてくださる。先へ先へと解決を求めてしまうが、主が
問題を通して取り扱ってくださる。信じていこう。


2023年08月30日(水)

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民 イスラエルをエジプトから連れ出せ。」出エジプト3:10



大きな厳しい難題を目の前にすると、私たちは大きく戸惑い、恐
れ、パニックになり、尻込みする。モーセも、ある日突然、とんで
もない事を告られた。「あなたをパロのもとに遣わすから、イスラ
エルをエジプトから救い出せ」と。主からの、思いもよらない申し
出に、なぜ自分がそんな途方もない事をしなければならないのか。

そんな事、今の自分に出来るわけがない。まるで絵空事だ。更に、
過去に大失敗をしている。若い王子であった時に、同胞を救い出そ
うとして、見事に失敗した。何を今更、地位も、能力も、気力も、
体力も、財も、人脈も何も無い。何が出来よう。だが「わたしはあ
なたとともにいる。これがしるし」だと。しるしとは保証だ。

主からの保証なら、こんなに確固たるものはない。だがモーセは、
自分は口下手だと尻込みする。すると主は「わたしがあなたの口と
ともにあって、言うべきことを教える」と。だが尚も尻込みし「ど
うか他の人を」と。では、兄のアロンを口の代わりにすると。モー
セの問いに次々と答えられ、モーセは説得され、この主の申し出を
受け止める。

私たちにも「わたしはあなたとともにいる」、主は保証を下さって
いる。今、困難の中にいるだろうか。新しい事柄に導かれているだ
ろうか。主が共にいるという、これ以上無い保証のもと、「わたし
があなたを遣わす」の言葉に立って、信仰によって一歩踏み出そ
う。
祈ろう。
-------------
主が味方として傍にいてくださる。これ以上の保証があるだろう
か。弱くて何もできない者でも主に従うときに信仰も強くしてださ
る。不安もありのままに告げながら、主に従って踏み出そう。


2023年08月29日(火)

「今、あなたはどうすればよいか、よくわきまえてください。わざ わいが私たちの主人と、その一家に及ぶことは、もう、はっきりし ています。」Tサムエル25:17


ダビデはサウル王に、絶えず命を狙われ、逃げ回っていた。だがそ
んな状態にもかかわらず、王に不満を持つ者、困窮する者たちがダ
ビデのもとに次々と集まった。それは総勢600人にもなった。荒野
のダビデたちが、ナバルの家畜を守っていたので、ダビデは使いを
送り、その厚意を求めた。食糧を与えて欲しいと。

ところが愚かで思慮の無いナバルは、ダビデを非難し、使いの者た
ちを追い返した。そのためダビデは、400人の部下と報復に向かっ
た。これをしもべが、ナバルの妻アビガイルに告げた。このままで
は主人や一家が皆殺しにされてしまうと。聡明なアビガイルの素早
い判断と機転で、間一髪、事なきを得た。

すぐにダビデに、多くの食糧を贈り、ダビデに復讐しないよう、へ
りくだって、知恵をもって進言した。ダビデは、アビガイルにより
ナバル討伐を思いとどまった。アビガイルの行動が無ければ、肉の
思いで復讐していただろう。それはダビデが、神が、アビガイルを
遣わしたと見ていたからだった。ダビデの信仰だった。

彼女を通して「今日、あなたを私に会わせるために送って下さった
神」、「悪を行なうのを引き止めて下さった主」と言っている。主
がとどめて下さったので、自分は罪を犯す事から守られたと。ダビ
デはこの事に主を見ていた。

私たちも同様だ。御霊が進言し、肉の思いと行動をとどめて下さ
る。そのために、御霊は私たちの心の内に示し、促し、又、ある時
は、人を通して忠告、助言して下さる。御霊の進言に耳を傾け、従
おう。
-------------
なにかあればすぐに感情的になってしまう。弱い者をいつも支え、
導かれる主に感謝だ。肉の働くとき御霊が内にいて導いてくださ
る。内で働かれる御霊の声を聞き、御霊に従おう。


2023年08月28日(月)

「・・アブラハムが、カランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、 栄光の神が彼に現われて、『あなたの土地とあなたの親族を離れ、 わたしがあなたに示す地に行け。』と言われました。そこでアブラ ハムはカルデヤ人の地を出て・・」使徒7:2



アブラハムは、生まれ故郷と親族を離れて、わたしの示す地へ行
け、と主に告げられた。「生まれ故郷、親族」とは、居心地良く、
安定した場所、慣れ親しんだ生活と周囲の人々、自分の居場所だ。
安心できて、助けも受けられ、経済的にも生活の基盤が出来上がっ
ている。そこにいれば、物心共に、特に主に頼らずとも生きて行け
てしまうかもしれない。

そこを出るという事は、一大決心だ。主だけが頼りということだ。
未知の地へ出るわけで、何が起こるかもわからない。身の危険もあ
るだろう。物にも頼れず、人も頼りにならず、自分の知恵も判断も
頼れない。ただ主だけが頼みであり、主の言葉だけが、行く道を示
すともしびであり、光だ。

ある女性が突然、責任ある重要なポストに辞令を受けた。しかし不
安しかなかった。「自分の能力で出来るのか」「部下を持つなど、
大丈夫なのか」「周囲の目も気になる」・・不安や恐れをすべて主に
打ち明け、御心が成るようにと、切に祈りに祈った。その時「あな
たの父の家を出て、わたしが示す地に行け」との御声を聞いた。今
までの安心、安定の場所を出て、新しい地に行けと。

信仰により決心ができた。私たちもどうだろう。「生まれ故郷を出
て」「親族を離れて」、主以外に頼っているものから離れて、今の
場から、次の領域に進めと言われているだろうか。霊的な領域でど
うだろう。信仰をもって、次の段階へ進めと。新しい御心に前進せ
よと。そこで、また信仰を成長させて下さる。信仰の成長こそが、
私たちの願いではないだろうか。
-------------
いつもと同じは毎日は安定の喜びがあり変化は不安だ。でも主を知
り信仰生活が始まった。もう新しく出発しているのではないか。次
の領域に進めとの示しは感謝だ。主を信じて出ていこう。


2023年08月27日(日)

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にも そのようにしなさい。これが律法であり預言者です」マタイ7:12 



これは、具体的にはどういう事なのだろう。 「自分にしてもらい
たい事を、他の人にせよ」とあるが、自分にしてもらいたい事は、
人によって様々だ。ある人は悩みの時、そっとしておいて欲しい。
干渉される事を嫌う。煩わしい。しかし逆に、ある人は放っておか
れると、冷たく感じる。手を貸して欲しい。一人一人違うので、そ
のまま自分の思いを人に適用するなら、的はずれになってしまう。

つまり自分を中心にした肉の思いで、判断するのでは無い。自分の
メガネで判断して行くと、「小さな親切、大きなお世話」、お節介
になってしまう。自分の思いを相手に押しつけるばかりだ。まず自
分のメガネをはずす事が大切だ。そして、よく祈り、御霊の導きを
求め、主の御心によって、相手に対応して行くことが必要だ。主の
導きがベストであるので、御霊の導きが大切だ。

よく祈って、御霊に導かれて相手にした事が、喜ばれない時がある
かも知れない。しかし、それは真に相手の益のためであるので、そ
の結果を見守っていると、必ず御霊の実を結んで行く。主の栄光が
現れる。つまり、「自分にしてもらいたいこと」=「主の御心を」、
ということだ。私たちの真の願いは、それであるはずだ。

その前の「求めなさい。そうすれば、与えられます」の通り、何が、
主の御心かを祈り求めるなら、必ず正しい判断を与えて下さり、な
すべき事を教えて下さる。他の人にそのように対応して行くことが
でき、他の人々を愛して行ける。

・・・・・・・・・・・
愛する事や、寛容である事、赦し合う事、自分を捨てて行く事が
言われているが、これらは誰しも、相手から自分にしてもらいたい
ことだ。しかし幾ら頑張っても出来ない事もわかる。御霊の助けが
必要で、御霊の導きを求めよう。御霊により行なってゆける。


2023年08月26日(土)

「人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集 めると、十二のかごにいっぱいあった。」マタイ14:20



よく知られている箇所だが、主のもとに来た人々が、男だけで五千
人、女、子供を入れると更に大人数になる。時刻も回って来た。弟
子たちの考えは「群衆を解散させ、めいめいで食物を買うように」
だった。それはこの状況では、妥当なプランであり、常識にかなっ
ていた。しかし、主の御心は違った。「あなたがたで食べ物を上げ
なさい」と。

「え?」と、弟子たちは戸惑った事だろう。こんなにも大勢の人々
にどうやって?こんな場所に店など無いし、あってもこれほど大勢
の分など不可能だと。そして手元にあったのは、五つのパンと二匹
の魚のみであった。「これよりほかありません」。私たちも目の前
の状況と自分だけを見て、判断してしまうだろうか。この目の前の
難題に、自分の能力では無理だ、能力も、時間も、経費も何もかも
不足だ。有り得ない。

自分に何が出来よう、自分の力、自分の持ち物など、焼け石に水だ。
何になろう。気が遠くなるほど膨大な必要を前に、手持ちは余りに
も微少だ。しかしそこには、目の前に、主がおられる事、主の御力
が、抜け落ちてしまっている。主に不可能は一つも無い。「それを、
ここに持って来なさい」そのあるか、無いかわからない、僅かなも
のを、主のもとに携えるようにと。

ここが秘訣だ。自分自身を明け渡そう。こんな僅かなものが何にな
ろう、と思うだろうか。主は、献げられたものを受け取り、いかに
溢れるばかりに祝福されるかは、驚くばかりだ。全員が満腹して、
更にパン切れの余りを集めると12のかごが満杯になった。今、主か
ら言われている事があるだろうか。
・・・・・・・・・
自分に、何ができようと思う。能力も、財力も、体力も、時間的に
も、何もかもが不足だ。しかし手元に何があるかと、問われている。
手元にある小さなものを、それを主のもとに献げるようにと。手元
にあるものをお献げしよう。それは周囲の人々を満たして行く。


2023年08月25日(金)

「主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上 げて、地を受け継がせてくださる。」詩篇 37:34



信仰生活で、非常に難しい事の一つが「待つ」ことだ。生まれつき
の性質では、すぐに結果が欲しい。願ったものをすぐに手に入れた
い。今の時代は、ファーストフードがあり、自動販売機にお金を入
れると即、飲物が出て来る。コンビニは24時営業で、欲しい時に手
に入る。各自が携帯を持ち、個人同士で連絡も取れる。世界中リア
ルタイムでメールが行き交う。

便利な時代になり、すぐ欲しい物が持てるので、「待つ」事は非常
に困難だ。信仰生活でも、すぐに行動したいし、すぐに見える結果
が欲しい。しかし主は、主の御前に座し、静まり、じっくり祈り、
御声を聞いて、歩めと言われる。忍耐が培われる。御言葉を求め、
導きを求め、確信を得るには、じっと御声に耳を傾ける「時間」が
必要だ。

そうでなければ、自分の思いと力で、自分の判断で、即、行動して
しまい、必ず失敗してしまう。つまずいてしまう。肉の思いは、自
分のしたいようにやりたい。しかしそれなら肉に従い、悪魔に従う
事になってしまう。主の栄光どころか、逆に悪魔に用いられてしま
う。あなたにも今、待ち望む事が、御心だろうか。悪魔は焦らせ
、急かし、主はじっくりと導かれる。

焦りは悪魔の誘惑だ。肉の思いで動かないために、悪魔に欺かれな
いために、じっくり「主を待ち望め」、御声に耳を傾けよう。「そ
の道を守れ」。必ず御声をかけ、御心の道へと導かれる。「高く上
げて」下さる。それは平安で、間違いのない確かな道だ。
-------------
肉はしたいようにすぐにやりたい。すぐに・・は要注意だ。動き出
したいとき肉の要求に引っ張られていないか、よく祈る時にした
い。落ち着いて主の導きを待とう。


2023年08月24日(木)

「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠を かぶらせ」詩篇 103:4



ある女性の証しだ。夫が海外勤務に。語学ができず、2人の小さな
子どもを抱え、一歩も外に出ない生活だった。外出は、言葉がわか
らず、小さな子を連れて、ストレス以外の何ものでもない。誰一人
知人も、友人もいなかった。話す人がいない。ずっと家の中の日々
は煮つまり、ノイローゼになりそうだった。仕事が忙しく、夜遅い
夫しか、話相手がいない。全ストレスを夫にぶつけ続けた。

そうせずにおれなかった。ひどいいら立ち、うっぷん、不満、全怒
りが夫に向いた。夫も重労働を終えて、もうヘトヘトに疲れ切って
いた。夫のストレスも頂点に達し、妻は殴れないので、柱を思い切
りパンチしていた。夫婦が崩壊寸前だった。そんな時、日本人に出
会えて、彼女はクリスチャンだった。帰省時に教会行きを勧めてく
れ、日本で教会に行った。そこで神の愛を初めて知った。

キリストの十字架の救い、犠牲の愛、一方的な愛、与える愛、見返
りを求めない愛・・こんな愛、知らなかった。自分の事しかなく、相
手の事など考えられず、不満しか無かった。徹頭徹尾自己中心。自
我そのもので、脳天打ち砕かれた。その場で悔い改めが与えられ、
救われた。もっと早くこの愛を知りたかったと。

離婚問題になっていたが、相手に心底謝罪した。もし赦してもらえ
ず、離婚になったとしても、人生途上で、この十字架の愛を知れた
事、自分の姿に気づけた事が感謝でならなかった。しかし主は大き
く働かれ、主のあわれみは尽きず、結婚は建て直され、夫も、主の
救いに入れられた。
-------------
主を知らなかったなら感情のままに動き、どれほど人も自分も傷つ
けただろう。自分の事しか見えない者が、主のご愛と十字架の犠牲
による赦しを受けた。日々、主を賛美し喜び歩める。


2023年08月23日(水)

「イエスは献金箱に向かってすわり、人人が献金箱へ金を投げ入れ る様子を見ておられた。」マルコ12:41 


金持ちが大金を投げ入れていた中で、貧しいやもめが2レプタを献
金した。僅かな額だが、主はその事を大きく評価された。金持ちは
人に見られたくて、賞賛を得たくて多額の献金をしていたが、主は
このやもめに目を留められた。それは彼女の生活費のすべて、全財
産だった。主はそれを重く受け止められた。

主は、何を言われているのだろう。彼女のように全生活費を献げよ
と言うことなのか。それが信仰的で、霊的だということなのか。そ
うではなく、大事な事は、彼女の心の目が見えるところでなく、た
だただ主に向いていたという事だ。目の前の生活や、物や、今後の
必要ではなく、一心に主に向いていた。自分を主に明け渡し、委ね
きっていた。

そしてすべての望みを主に置いていた。その彼女の心は感謝であふ
れていた。その満ち溢れる感謝が献金の動機だった。全生活費=人
生を、主に献げた彼女の心は富にではなく、主にあり、主に自分自
身と将来を任せていた。投げ入れたのは、彼女の所有欲、自我、い
のちそのものだった。それが彼女の信仰だった。明日の必要は、絶
対に与えられると信じていた。

そして、人にどう見られるかもいっさい無く、ただ主だけを意識し
ていた。主は、じっと彼女を見ておられた。主のまなざしがすべて
であり、それで十分だ。翌日の彼女をも、その生活も主は見ておら
れる。私たちも、主に見つめられている。今日も主のまなざしに、
大丈夫だと思える。
-------------
主だけを見られず、他の支えも欲しくて思い煩っているが、他の支
えと思っているものも与えてくださるのは主ではないか。主は必要
に応じて一歩一歩道を開き恵みをくださっている。主に明け渡そ
う。


2023年08月22日(火)

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことば どおりこの身になりますように。」ルカ1:38 



マリヤは、ある日突然、理解を超えた事態に出くわした。御使いが
現われ、驚くべきメッセージを告げた。マリヤがみごもり、男の子
が生まれるので、名をイエスと付けるようにと。その子は神の子で
あり、預言されていた救い主だと。マリヤはその言葉に「処女の自
分にどうしてそんな事が」と尋ねた。

大変な戸惑いであったが、はなから拒否するのでなく、まず受け止
めて対応した。御使いは、聖霊によると答え、不妊のエリサベツに
すでに奇跡がなされていて、神に不可能はないと。これらの言葉を
聞いた後、マリヤは「おことばどおりこの身になりますように」と
身を差し出した。マリヤの信仰だった。

結婚前に妊娠するなら、姦通罪として死刑だ。そしてヨセフの立場
はどうなるのか。聖霊により妊娠したなどと信じられるのだろう
か。信頼関係は壊れ、婚約も破綻し、夢に描いた結婚は消え去るだ
ろう。周囲にどんな目で見られるのだろう。しかし、何より死をも
覚悟しての告白であった。

マリヤは、神の言葉に、何もかも献げて、身をもって応えた。「私
は主のはしためです」とへりくだり、「この身になりますように」
と応答した。私達も突如の事態には、戸惑い、動揺する。しかし、
まず拒否せず、主からのものと、受け取れるように祈ろう。

そして「自分の思い通りに」でなく「お言葉の通りに」と従えるよ
う祈り求めて、ありのままの気持ちを告げて祈ろう。取り扱い、手
を取って導いて下さる。そして従う時に、自分の力でなく、聖霊の
力が臨み、成し遂げられて行く。大きな祝福が備えられている。
-------------
主の確かな導きを知ることは、不安や怖れと同時にわが身に与えら
れた幸いを心から喜べるのではないか。主は必ず守ってくださると
の御霊の励ましを受け、主の支えを信じて従っていこう。


2023年08月21日(月)

「神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だ れもいないのか」ルカ17:18 



らい病人10人が、主に会った。遠く離れた所から、声を張り上げて
「先生、どうぞあわれんでください」と願った。すると、主は「行
きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と答えられた。10人
は、その時は、まだらい病のままだ。らい病のままで、祭司に見せ
るために出かけた。その時は、まだいやされておらず、病気のまま
で、主の言葉を信じて、エルサレムに向かって歩き出した。

すると、「彼らは行く途中でいやされた」。その途上でいやされ
た。現状は何も変わらないまま、ただ主の言葉を信じて、歩き出し
た結果、途上でいやされた。ここで学ぶ事ができる。まず、主の言
葉を聞く。そして見えるところ病気のままだが、御言葉だけを頼り
に、信じて従うと、主が働かれる。

逆に言えば、「行きなさい」の言葉に、その通りに従わずに、直っ
た事実を見てから、行こうとするなら、主の働きを見ることはでき
ない。見えたなら、従うのだがとの思いが来るが、「信仰とは、望
んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確認させるもので
す」。

そして直った10人の中の1人のサマリヤ人は、祭司の所へ行く前
に、まず主のもとに戻った。そして溢れる感謝を献げた。私たちの
救い、罪の赦し、永遠の命、もう感謝でしかない。他の9人は直っ
た事に大喜びで、主から離れてしまう。感謝を献げたサマリヤ人は
「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直した」
と、身体と魂の救いを与えられた。
-------------
御言葉はただ聞くだけでは終わらない。信じて委ねるとき主が働か
れる事を経験する。立ち上がっていきなさいと魂の救いを与えられ
る。何と感謝だろう。生涯主と共に歩める。



2023年08月20日(日)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」 マタイ5:3 



「貧しい」という言葉自体がどうだろう。余り良い印象を受けない
だろうか。普通は、心の豊かな者が幸いなので、むしろ良くない印
象だろうか。私たちは、自分は、まあ貧しいが、そこまで貧しくな
いと思いたい。認めたくないものだ。しかし内側をよく探るとどう
だろう。突き詰めるなら、心底、他人に同情する事など出来るのだ
ろうか。自分の事だけで精一杯だ。身体の激痛で泣き叫んでいる時
に、人の事など考えられないように。

又、他人の喜びを、喜ぶ事ができるだろうか。ある人は同僚の昇進
が決して喜べなかったと。又、ある人は、入試に落ちて、合格した
友人が妬ましくて、どうにもならなかったと。又、別の人は、先の
見えない入院の中で、同室の退院して行く人が羨ましくてならず、
祝福などできなかったと。幸せな人を見ると、本当に喜べるのだろ
うか。自分はと、比較してしまうだろうか。

又、他人の事に真に関われない冷淡さがある。普段考える事なく、
突き詰めずにスルーしている。自分は良い人間であり、愛が無いな
どと認めたくない。そんなに冷たい人間ではないと思いたい。だか
ら、あえて見ない。無意識にそうしているなら、気づかない。しか
し霊の成長は、必ず現状を見せられて、「認める」事から始まる。

愛が無く、嫉妬深く、プライドの高い自分、破れ果てた真の自分の
姿を見せられ、認める時に、変えられて行く。自分がいかに貧しい
者であるかを知る時に、天の御国はその人のものだと。自らの無力
を知る者が、主の豊かな祝福を受け、満ち足らわせられる。

・・・・・・・・・・・・
自らの弱さ、ありのままの虚しい、何も無い姿を認めることが、心
の貧しい人だと言われている。それこそが幸いであり、天の御国を
持つと。そこまでひどくないと思いたいが、様々な時、又、状況の
中で真の姿を見せられる。しかしそれこそが祝福だと知る。


2023年08月19日(土)

「その子どもの手を取って、『タリタ、クミ。』と言われた・・する と、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。」マルコ5:41 

会堂管理者のヤイロが、彼の娘が危篤状態となり、必死になって、
主のもとに助けを求めて来た。足もとにひれ伏し、一生懸命に懇願
した。ヤイロはもう必死だった。幼い娘が瀕死の状態なので、一緒
に来て欲しいと。病気が直って助かるようにして頂きたいと。主は、
彼の願いを聞き入れ、一緒に出かけられた。どんなに安堵し、嬉し
かったろう。主さえ来て下されば、何とかして下さる。もう大丈夫
だ。

するとそこに12年長血を患う女性が来て、中断した。彼女も、主の
いやしを求めての事だった。危篤で、一刻を争うのに、ヤイロはど
んなに気をもんだ事だろう。主が、女性にまだ対応中に、家から使
いが来て、何と娘は亡くなったと告げた。もう来て頂く必要は無い
と。亡くなってしまったなら、いっさいが断ち切られたという事だ、
「遅かった」「もうだめだ」「手遅れだ」「万事休す」だと。

しかし、主は間髪を入れず「恐れないで、ただ信じていなさい」と
ヤイロに言葉をかけられた。ヤイロは御言葉を受け取り、主と共に
家に帰った。そして主は、娘を生き返らせて下さった。信仰を冷え
させ、不信仰にしてしまうのが、否定的な言葉だ。「もうだめだ」
「何もかも終わりだ」「絶望だ」のように。どんどん不安、落ち込
み、恐怖、不信仰へ陥って行く。

私たちも、「もうだめだ」の否定的な言葉を拒否し、聞き流し、主
の「恐れないで、ただ信じていなさい」の言葉を握り、信仰に立と
う。不安と恐れに襲われる時は、ネガティブな言葉を心に入れてし
まっている。主を見上げ「恐れないで、ただ信じていなさい」に立
とう。
・・・・・・・・
サタンが絶えず来る。思い煩い、恐れ、不安を次から次へと持って
来る。何かの思い、言葉を投げかけ、心を暗くする。サタンに反応
している事に気づけるように。主は絶えず「恐れるな」「ただ信じ
ていなさい」と言葉をかけ続けて下さっている。


2023年08月18日(金)

「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある。」 詩篇30:5




人は皆、人生で暗い夜を経験する。それは厳しい時だ。苦しい思い
をし、辛くて涙が溢れて来る。病気やけが、経済的苦境、難しい対
人関係、倒産、離別・・又、自分の手痛い失敗だったりする。まさに
「夕暮れに涙が宿」る。だが、明けない夜は無いように、ずっと夜
のままでは無い。決して涙のままでは終わらない。

どんなに苦しく辛い夜も、必ず明けて、朝が来る。「朝明けには喜
びの叫びがある」、私たちには、どんな時にも希望がある。何と慰
めだろう。試練には必ず主の定められた期間がある。それ以上では
決して無い。しかし試練のまっただ中では、真っ暗闇のトンネル
が、永遠に続くように思える。

そのようにしか見えなくなり、そのため絶望感に陥る。しかし試練
には必ず終わりがある。暗闇のトンネルは必ず出る。夜の後に朝は
来る。悲しみの後に必ず喜びが来る。逆に、人間は成功が続く時こ
そが危ない。成功の中で、自らを律っする事の出来る人はまれだ。
有頂天になってしまい油断する。

順境で、主を求めなくなる人も少なくない。神無しで十分幸せにな
れると思い、必要が無くなる。人が欲しいのは平穏無事だが、それ
で神から離れるならどうだろう。主が送られる試練は、必ず益とさ
れる。試練の時は、真っ暗闇に思えるが、主のよみがえりを覚えよ
う。

十字架で弟子達はつまづき、絶望した。万事休すだ。しかし主はよ
みがえられた。必ず夜は明ける。今の苦しみは喜びに変わる。だか
らこそ、すべての事に感謝できる。
-------------
深い霧に閉じ込められていても主はいつも変わらず共にいてくださ
っている。目の前の闇の怖さを祈りつつ、主に導かれトンネルを通
過する朝を待ち望もう。


2023年08月17日(木)

「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心の ゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」 1ペテロ2:19



信仰者は、「主のゆえにののしられたり、迫害されたり」と信仰の
試練があり、苦しみを受ける。しかし自分の非のゆえに、落ち度で
問題を起こし、苦しむのは主のゆえの試練ではない。信仰以前の問
題だ。礼儀に反する事をするなら嫌われて、苦しみを招く。しかし
そうでなく、クリスチャンという事で苦しみを受ける事がある。

現在なら、迫害されて、即、命を落とすという事はないが、違う形
の苦しみがある。信仰を親や家族に理解してもらえず、反対された
り、地域社会に受け入れてもらえず、よそ者扱いされたり、阻害さ
れる。又、信仰を笑われたり、嘲られたり、辛い思いをする。又、
「ありもしないことで悪口・・」と、理不尽な苦しみがある。

だがそれがキリストのための苦しみなら、あなたは幸いだと。豊か
に祝福された者だと。「喜びなさい。喜びおどりなさい」と。天に
おいてあなたの報いは大きいのだからと。信仰ゆえの不当な苦しみ
や、様々な辛い思いをする時、どうしても意気消沈してしまう。気
落ちして、「喜びなさい」の御言葉を手放してしまう。

だからこそ、信仰によって喜び、喜びおどれと。上を見上げ、主を
期待せよと。又、不当な扱いを受けて、悲しみをこらえるなら、そ
れは主に喜ばれることであり、善を行なっているのに、苦しみがあ
り、忍耐するなら、それは神が喜ばれることだと。共におられる主
が喜んで下さっている。御言葉に心を向け、絶えず信仰を向けて行
こう。
---------------
信仰を喜んで迎えられる事の方が少なく、辛く悔しい経験をする。
自我が痛み反発するが、それが神の前の良心ゆえに忍耐するとき、
良き証しを残せる。主のゆえに信仰によって喜ぼう。


2023年08月16日(水)

「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします ・・回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣 わしになったことを信じるようになるために・・」ヨハネ11:42


ラザロが危篤となり、姉マルタは使いを送り、主に「病気です」と
だけ伝えた。それさえ伝えれば、主はすぐに来て下さると思った。
しかし主は、「この病気は・・神の栄光のためのもの」と動かれず、
尚2日を経て、ラザロの死を確認してから向かわれた。マルタは
「もしここにいて下さったら、兄弟は死ななかった」と。

主は「ラザロはよみがえる」と言われた。だがマルタは将来のよみ
がえりは理解しているが、今、ラザロがよみがえるなどと信じてい
なかった。病気が治る事は信じられるが、死からよみがえるとは信
じることができない。マリヤも全く同じ言葉を言った。すべてが断
ち切られる「死」の前では、絶望で、泣くしかなかった。

しかし「あなたの兄弟はよみがえる」と言われた主は、ラザロの墓
の前で「石を取りのけよ」と。もう腐敗していると言ったマルタだ
が、主に従い、墓の石を取り除けた。言われた通りに従った。する
とラザロはよみがえった。ラザロのよみがえりを通して「わたし
は、よみがえりです。いのちです」と、主ご自身が死に勝利されて
いる事を表明された。そのため病気のいやしでなく、死でなくては
ならなかった。

「神の栄光のため」であり「神の子が栄光を受けるため」であり、
そして「あなたがたが信じるようになるため」のみわざであった。
あなたが今、行き詰まり、絶望的な状況なら、主はその絶望を打ち
破り、みわざをされる。もし信じるなら、あなたは神の栄光を見
る。主を信じよう。
-------------
主の御約束があっても、目の前の不安におびえて全てが暗く見えて
しまう。そして主のみわざを拝して、何と不信仰だったのかと反省
する。支えてくださる主を悲しませないように、信仰の目で今を見
ていたい。


2023年08月15日(火)

「彼らは・・主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御 顔を避けて園の木の間に身を隠した。」創世記3:8


アダムとエバは、主からの、善悪の知識の木から取って食べるなと
の命令に背き、罪を犯した。すると主の御顔を避けて身を隠すよう
になった。罪を犯すと神から隠れる。心にとがめが来て、恐れが生
じるからだ。主の愛と光の中で、妨げのない喜びと平安の交わりが
破られた。だが罪を犯したアダムに、主の方から「あなたはどこに
いるのか」と呼びかけられた。

アダムは「あなたの声を聞き、裸なので恐れて隠れ」と答え、罪に
ついては何も言わない。主は更に、「食べてはならないと命じた木
から食べたのか」 と具体的に問いかけ、悔い改めの機会を与えら
れた。「はい、食べました。ごめんなさい。」と言う事ができた。
だが罪を認めるどころか、自分は悪くないと、責任転嫁をする。

エバが悪いと。自分を正当化し、他者のせいにして行く。これは根
深い肉の性質だ。私たちにもある。日常生活でも、「あの人がああ
したから、こうしたから」、あの人のせい、上司のせい、親のせ
い、学校のせい、社会のせいで、自分は被害者で、自分が悪いとは
絶対に認めない。しかし罪を犯したなら、自らの過失を認め、悔い
改める時、全き赦しを受けて、いつでも再び、光の中を歩んで行け
る。

主が十字架上で身代わりに罰を受けて下さったからだ。いつも主は
「あなたはどこにいるのか」と、あなたのあり方はどうなのか、主
との個人的関係はどうなのかと問い、私たちを正しい方向へ、御心
へと導いて下さる。今、もし平安がなければ、主を避け、隠れず
に、主に向いて、ありのままを答えて行こう。両手を開き、いつで
も受け止めて下さる。
-------------
私のあり方はどうだったのか・・主の問いかけに応答していきた
い。そこに留まるなら、自分の罪を見なくて済むようにと、人を裁
き、人の悪を数え続ける闇から守られる。御神の近くにいたい。


2023年08月14日(月)

「これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がア ヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられた からであった。」Uサムエル17:14


アヒトフェルはダビデの議官であったが、ダビデの息子アブシャロ
ムの謀反に荷担しているとの知らせが来た。その時、ダビデはどう
したのだろう。ダビデは主に祈ったのだった。「アヒトフェルの助
言を愚かなものにされるように」と。そう祈ったのは、アヒトフェ
ルが知恵ある助言をするからだった。

当時、それは、人が神に伺って得る言葉のようであり、ダビデにも
そう思われた。アヒトフェルは、アブシャロムに次のように助言し
たのだ。ダビデのそばめの所に入るなら、父に憎まれるような事を
しているので、従う民は勇気を出すと。アブシャロムは、その通り
に全イスラエルの前で、父のそばめ達の所に入った。ダビデの姦淫
の罪は赦されたが、これは非常に痛い刈り取りだった。

「白昼公然と、あなたの妻達と寝るようになる。あなたは隠れてそ
れをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、この事
を行おう」と。続けてアヒトフェルは告げる。今夜ダビデを襲い、
王だけを打ち殺し、すべての民を連れ戻すと。だがアブシャロムは
フシャイの意見も聞いた。フシャイは良くないと反対し、ダビデの
ためにうまく計った。

するとアブシャロムは、フシャイの意見に従った。これはまさにダ
ビデの「アヒトフェルの助言を愚かなものにして下さい」の祈りの
答えだった。主が彼の優れた謀り事を、打ち壊された。私たちも窮
地に立つ時、動き回るのでなく、思い煩わず、まず祈ろう。祈りは
答えられ、主は御心を成して下さる。
-------------
いかに優れた策略でも主はそれを無しとされる。一番大切なこと
は、全ての事を主に尋ね祈り求めることだと教えられる。自分の力
では太刀打ちできないと認めて主に寄り縋るダビデは主にあってい
つも力強い。


2023年08月13日(日)

「愛する者たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せな さい」ローマ12:19



生きて行く上で、対人関係は避ける事ができない。罪人である人
間同士ゆえ、様々な行き違い、誤解が生じる。ある時は、もろに攻
撃を受けるかもしれない。敵対され、批判され、中傷される。心が
傷つくと赦せない思いでいっぱいになる。ひどく傷つくので、むし
ろ仕返しが正当に思えてしまう。又、ののしられたり、悪口を言わ
れると反撃したいと思う。

言い返して、すっきりしたい。それに、そのままにすれば、相手が
図に乗るのではと思う。だが、これらは肉からの思いだ。そこで言
い返すなら、感情的な争いになり、ますますもつれてみぞが深まる。
一度発した言葉は、取り返しがつかず、冷静になると必ず後悔する
事になる。攻撃に報復して行くと、これはとどまる事がない。

この事に関し、主は「自分で復讐するな」「神の怒りに任せよ」と
言われている。「復讐はわたしがする」と。この主の言葉が信じら
れないので、主は何もしてくれないと思うからこそ、自分で報復し
ようとする。しかしそれは、主の前に自分が立ちはだかり、主のさ
れるわざを阻止する事になる。自分に悪を図る相手への怒りを、主
に委ねよう。主の怒りに任せよう。

完全に正しいお方が、正しく報いをするからと。そして更には、攻
撃して来る相手に、愛で立ち向かえと。「もし敵が飢えたら食べさ
せ、渇いたなら飲ませよ」と。悪で報いず、親切をもって報いよと。
すると、相手の頭に燃える炭火を積み、相手は良心のかしゃくに、
罪を示されると。赦せない思いを、主に渡そう。そうできるよう御
霊の助けを求めて祈ろう。

・・・・・・・・・・・・
対人関係で、こちらに非があれば、悔い改め、相手への謝罪が必要
だ。しかし理不尽な場合がある。悪意をもっての攻撃が来る。主が
復讐するから、仕返しするなと言われている。自分のする事は、自
分で仕返しをせず、主にゆだねることだ。


2023年08月12日(土)

「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」エペソ 4:3

「御霊の一致」を保つようにと言われている。これは人による、人
間的な一致のことではない。好みが合うとか、価値観や考え方が合
うとか、相性が良いとかではない。御霊によって与えられている一
致だ。主を信じた一人々に、御霊が内住されている。各々が、その
御霊に従い、支配される事によって与えられる一致だ。

その一致が御霊により、すでに与えられているので、その一致を保
つようにと。この世の会社や各種組織は、一致を作り出すためにあ
らゆる努力をする。社員旅行をし、懇親会を持ち、様々な企画をす
る。何とか一致を作ろうと懸命だ。だが教会は違う。すでに一致が
与えられているので、なすべき事は、それを保つ事だと。

そして、それを妨げるのが肉だ。自己中心、自分の思いを主張し、
自分の気持ちを第一にして行くなら、一致を壊し、分裂を引き起こ
して行く。各々が「自分は正しい」に立つ時に、起きるのは争いだ。
又、悪魔は巧妙に働いて、「自分の気持ちをわかってくれない」と
感情的な亀裂を作り出す。そのため、まず自分の思い、自分の気持
ちを明け渡して、主のみ心に従って行く時に、御霊の一致が保たれ
る。
フィラデルフィヤの教会で、兄弟愛が保たれていたのは、御言葉を
重んじたからだ。「あなたには少しばかりの力があって、わたしの
ことばを守り」、教会が御言葉を土台とし、第一とする時、教会は
愛と喜びと力があった。皆が、肉の思いを捨て、御言葉に従う時、
一致が保たれて行く。もめ事がある時、自己主張等、自分の肉の思
いはないか、よく心照らして頂こう。

・・・・・・・・・・・・
私たち一人一人に御霊の内住があり、各々がその内住の御霊に従う
時に、御霊は一つなので、必ず一致がある。それを妨害し、一致を
乱すのが、肉の思いなので、自らの肉の思いを退けよう。自己中心
に気づけるよう、御霊に従えるよう祈ろう。


2023年08月11日(金)

「女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ 伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころに いやされた次第とを話した」ルカ8:47



この女性は12年もの長い間、出血が止まらない状態で、どんなに辛
く、苦しい歳月だったろう。律法によると不浄なので礼拝にも出れ
ず、宗教的にも社会的にも疎外されて来た。経済的にも治療に全財
産を使い果たし、良くなるどころか、返って悪くなり、この先どう
すればよいのか。全く光が見えず、まさに絶望状態だ。

もう心身限界で、ぼろぼろだったろう。わらにもすがりたい思いで
いたに違いない。丁度そんな時、様々主の噂を耳にし、せめて主の
着物にでも触れたなら、必ず直ると信じた。必死な思いであった。
そして、主の着物に触ったその瞬間、血の源が枯れて、ひどい痛み
が直った。驚くべき奇跡が起きた。彼女は、誰にも知られず隠れ
て、そっと去りたかった。

しかし主が「触ったのは誰か」と問われた。群衆に紛れて潜んでい
たが、隠しきれないと思い、恐れて震えて進み出た。隠れていた彼
女が、「イエスの前に」出た。どんなに勇気の要った事だろう。
「すべての民の前で」主に触れた理由と、いやされた次第を話し
た。すべての民の前で告白した。とても出来ない事だ。

苦しみ、悲しみ、嘆き、痛み、恥・・暗黒の中に隠れていたのが、主
の愛と光の中へ入れられ、いやされた。主は「あなたの信仰が」と
女性の信仰を認め「安心して行きなさい」と、もう恐れも不安も怯
える事もない、全き安堵と平安と自由を下さった。身体だけでな
く、心もいやし、たましいの救いを下さった。主が告白に導かれた
のは、彼女自身のためであった。晴れやかな喜びと全き平安に包ま
れた。
-------------
主を信頼して告白することで、身体だけでなく心の硬い殻も割られ
主は光を差し込まれた。どれほど心身ともに健やかにされたことだ
ろう。抱えた心の闇に主が来られた。清らかな光が当たる。


2023年08月10日(木)

「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しな さい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいま す」ピリピ4:9



信仰生活の中で、主のみこころを祈り求め、主の示しを受けて、い
ざ行なおうとする時、どうだろう。み言葉に「実行しなさい」そし
て「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに」行なうようにとある
が、逆に言えば、みこころを行なおうとする時には、つぶやきや疑
いが来ると。どうだろう。経験するだろうか。

「本当にみこころなのだろうか?」「間違いではないのか?」「自
分の思いなのでは?」。又、「みこころだとわかるのだが、非常に
荷が重い」「気持ちがなえて、何だか気が進まない」。又、「自分
には、到底無理」「私には難しい」「どうせやっても何も変わらな
い」様々な言い訳が幾らでも出て来る。

理屈が出て来て、つぶやきが出る。出来るなら回避したい。サタン
の攻撃だ。みこころを行なおうとする時、必ずサタンが妨害に来
る。みこころの先に大きな祝福がある事を知っているからだ。祝福
を渡したくないサタンが、あれやこれやと思いに働き、状況に働
き、攻撃をしかけて来ている。サタンを見張っていよう。

「実行しなさい」「行ないなさい」とあるように、主を信じて、実
行しよう。聖書の原則だ。御声を聞いて、従う時に大きな祝福を刈
り取る。ペテロは、主に、沖へ出て漁をせよと言われたが、しかし
朝に魚はいない。「でも」「おことばどおり」網を下ろすと驚くば
かりの大漁だった。もし、今示しに従う事をちゅうちょしていた
ら、信仰持って、一歩踏み出そう。
-------------
朝のデボーションで聞き、学び、祈っても立ち上がるといつもの生
活に戻ってしまう。実行しないならサタンの思うつぼだ。聞いた御
言葉に励まされながら、信仰をもって実行していこう。


2023年08月09日(水)

「すべての懲らしめは・・かえって悲しく思われるものですが、後に なると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」 ヘブル12:11



ある母親が、子どもに、いら立っていた。遊んでばかりいて、勉強
しない。友達が沢山いて、元気であるのはいいのだが、勉強が好き
でない事もあり、幾ら勉強をと言っても出来ず、成績が悪かった。
それが不満でたまらなかった。元気で良いとは思うが、心ではちゃ
んと勉強して、良い成績を取って欲しかった。

子どもに対して、どうしても要求が出て、ずっとモヤモヤを抱えて
いた。そんな時だった。突然、その子が事故に会った。救急搬送さ
れ、即、手術となり、予断を許さない厳しい状況に、医師に「覚悟
をして下さい」と言われた。もう驚いて、何が何だかわからない
中、とにかく命が助かるように、祈りに祈り、手術の間中、ひたす
ら祈り続けた。

その時に、生きていて欲しい、生きていてくれるだけでいい、後は
どうでも良いと心底思った。成績なんてどうでもよい。何も要らな
い。生きているだけでいい。手術の間に、偏差値で子どもを見てい
る自分の姿を見せられ、涙と共に心から悔い改めた。主により手術
は成功し、九死に一生を得て、子どもの命は助けられ、見事に快復
が与えられた。

自分自身が砕かれ、変えられた。子どもの見方も変えられ、あるが
まま受け入れられるようにされた。あのままならどうなっていた
か、子どもをどんなに損なっていた事か。痛い、厳しい試練であっ
たが、感謝した。主に在って、すべての事が感謝であること、心か
ら受け取れた。
-------------
辛くて痛くて、今は何が何だかわからなくても、主は私たちを愛し
ておられ、決して無意味な試練などないと確かな信仰に立っていた
い。主が御霊を通して気づきや力を与えてくださる。感謝だ。


2023年08月08日(火)

「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」 ヨハネ21:15



ある人が失敗し、罪を犯してしまった。周囲の人を傷つけてしま
い、ひどい過失だった。悔い改め、赦していただいたと頭ではわか
るのだが、心が痛くてたまらず、重かった。主に向かい、あるがま
まを申し上げ、祈っていた。聖書を開いた時、ペテロの回復の箇所
だった。自分だけは絶対に裏切らないと思っていたペテロが、主を
3回も、それも呪いをかけ誓ってま、で裏切ってしまった。

何と言う事をしたのか。取り返しがつかない大失敗、ペテロはどん
なに苦しい思いだったろう。そんな中、主が、弟子たちのために、
魚とパンの朝の食事を用意し、招かれた。そこでペテロに、3回
「あなたはわたしを愛しますか」と問われた。主は「なぜわたしを
裏切ったのか」とは一言も言われない。人間的になら、まず問うて
しまいそうだ。

しかし「わたしを愛しますか」だった。ペテロは「私があなたを愛
することは、あなたがご存じです」と答えた。以前のペテロなら、
違ったろう。主を愛する事においても、自分が一番だと思ってい
た。しかしその自信が砕け散った。ペテロは砕かれた。その現実を
前に、精一杯の心を伝え、主に判断を委ねた。ペテロは赦され、使
命を与えられた。

その箇所が、自分自身にも重なり、主の赦しを確信できた。私たち
も問われているだろうか。どうすればよいのかとの、様々問題が生
じる時、その事は、「主を愛する」ゆえにするのだろうか。又、
「主を愛する」ゆえに控えるのだろうか。どうであれ動機は主への
愛だろうか。私たちの動機は、主を愛するゆえだろうか。
-------------
失敗する度に主は私の罪を十字架によって赦してくださる。赦しを
受け取る平安は何物にもかえられない。この主のご愛があるからそ
の愛に応えようと遅い歩みでも変えられて行く。主を愛するゆえ
に。


2023年08月07日(月)

「主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。」 Uサムエル22:29 



ある人の証しだ。職場で、今ならパワハラまがいの上司がいて、し
ょっ中、大声で怒鳴られていた。それだけでも辛いところ、口が悪
く、ミスはこてんぱんに怒られ、仕事が遅いと怒鳴られ、責めら
れ、人格面への暴言まであり、ひどく傷ついた。そういう人なのだ
と思うのだが、辛い日々だった。段々、身体にまで来て、体調を崩
し、仕事を休む事もあり、耐え難い日々であった。

主に助けを求め、祈りに祈っていた。そんな中、人事異動があり、
その上司が、別の部署に配属替えになり、もう顔を合わす事は無く
なった。これは祈りの答えと感謝し、苦しみから解いて下さったと
安堵した。怒鳴られる事も、暴言も無くなり、ビクビクする事も、
傷つく事も無くなった。これからは穏やかな日々と喜んだのだが、
だが現実は違っていた。

上司はいないのに、上司の事がずっと脳裏に浮かび、心が苦しくて
たまらない。そんな中で、気づきが与えられた。上司に対する怒
り、恨み、憎しみ、赦せない思いでいっぱいになっている自分。祈
りの中で、確かに上司は悪いが、御霊は、赦せない思い、憎しみ、
恨み、復讐心は自、分の問題であり、自分の罪であった。

それらを認め、御前に告白し、悔い改めた。その時に初めて、心底
からの平安が心に広がった。その後、上司とバッタリ出会った。す
ると気持ち良く挨拶できて、心の悶々が消えていた。自分は被害者
としか思わないので、自分の罪は見えなかった。もし心がざらつく
なら、主に尋ねよう。御霊が、心を内を照らし平安へと導いて下さ
る。
-------------
外には出さないが確かにある罪の闇に気づかされる。感謝だ。御霊
によらなければ悔い改めることも出来ない。闇を照らされ悔い改
め、赦されてまた前進できる。


2023年08月06日(日)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配して くださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさら ない」詩篇55:22



信仰生活の中で、時に試練に会う。試練は辛く、苦しい。ずっしり
肩に荷がかかっている。心も重苦しい。この重荷をゆだねたら良い
のは、よくわかるのだが、ゆだねる事ができない。「ゆだねる」と
は、石を転がすというような意味で、主の上に、あなたの大きな石
である重荷を転がしてしまう事だ。

するとその転がした重い石はどうなるだろう。それは主の上にあっ
て、自分のもとにはもう無い。そのように、主にきっぱりと手放す
事だ。すると主に渡したのだから、思い煩いが消える。自分のもと
には無く、不安が失せて、心が平安になる。そして平安に、主と一
つに、目の前の物事に対応して行く事ができる。経験した事がある
だろうか。

ところが、委ねた「つもり」でも、自分が握っているなら、いつま
でも不安は消えない。ゆだねたつもりで、実は明け渡していない。
内心では、自分が手を放すと、物事がだめになってしまう、崩壊す
るように思うので、放す事ができない。つまり主を信じることがで
きない。実は問題が「不信仰」「主を信じる事ができない」ところ
にあるなら、その事を認め、主に打ち明け、助けを求めよう。

又、絶対に自分の思い通りにしたいという時も、ゆだねられない。
明け渡すとは、自分の思い通りでなくてもOKです、との態度だ。
その事に執着しているなら渡す事ができない。御霊に心を探ってい
ただいて、主の助けを求めよう。主は助けて下さって、ゆだねさせ
て下さる。

・・・・・・・・・
自分の思いが強ければ、明け渡す事ができない。思い通りでなくな
るのは嫌だからだ。自我が握り締めて、どうしても渡せないと打ち
明け、しかし助けて欲しいと、ありのままを祈って行こう。主は求
める者を助けて下さる。、


2023年08月05日(土)

「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、 ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」 ヨハネ2:11


主が、カナで結婚式に出席、その時にぶどう酒が無くなった。ぶど
う酒が途中で無くなるとは、主催者側の大変な失態で、そこで主は
みわざをされた。手伝いの者たちに80〜120リットルの水がめ6ヶに、
水を汲ませ、その水をぶどう酒に変えられたのだ。彼らにしてみれ
ば、必要なものはぶどう酒なのに、なぜ水を汲むのか。意味もわか
らないまま、主が言われた通りに水を汲んだ事だろう。

その水が、見事に素晴らしいぶどう酒に変えられた。世話役や出席
者たちは、何も知らないまま最高級のぶどう酒を味わい、楽しんだ。
しかしそこに神を認めることは無く、神への感謝も無い。だが弟子
たちは違った。主をじっと見ていた弟子たちは、それが主の驚くべ
きみわざだと知っていたので、「それで、弟子たちはイエスを信じ
た」。

日々主は、私たちの日常生活で、働かれ、みわざをされている。し
かしそこに主を認める事が無ければ、それはただの偶然で、ラッキ
ーで、たまたま運が良かっただけで終わる。主を讃える事も、主に
栄光を帰する事もない。私たちはどうだろう。日々、主のご愛や配
慮を認める事なく、一つ一つの出来事を当然の事、偶然として、流
していれば、世話役や出席者と同じになる。

感謝が無く、感謝が無ければ、不満しかない。弟子たちのように、
この1日に、弟子たちのように、主を見ていよう。主に焦点が合っ
ている時、多くの感謝を見つけ、祈りの答えを見つけ、新たに主を
知り、更に喜びが増す。

・・・・・・・・・
毎日の信仰生活で、どうだろう。主は、様々な時と場面で、無機質
の水を、喜びと楽しみのぶどう酒に変えて下さっている。神視点に
立つ時に発見させて下さる。一つ一つの喜びと感謝を見つけられる
よう祈っていよう。


2023年08月04日(金)

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけ です。」ルカ10:42



ある人の証しだ。職場で、プロジェクトを立ち上げ、責任者だっ
た。いざ進めて行くと、思いのほか難易度高く、苦慮していた。苦
心しつつ、頭を悩ませる日々だった。なすべき事、処理すべき事は
量的にも多く、時間も足りない。思い煩いにも襲われる。イライ
ラ、ピリピリしている自分に気づく。

部下の報告が少し遅れても、ひどくいら立つ自分、又、部下のちょ
っとしたミスにも腹を立て、ずっとイライラしている自分。作業が
経過して行く中で、自分はクリスチャン、こんなに証しに悪い事は
ないと自己嫌悪にも陥る。しかし何もどうにもならず、せっぱ詰ま
って、主のもとへ駆け込んだ。

期日に追われ、残業続きで、余裕無く、デボーションも持てていな
かった。御前にしずまった。心をしずめ、主を仰ぎ、心の内をあり
のまま打ち明けた後、聖書を開いた。丁度マルタの箇所だった。マ
ルタの姿が、ピッタリ自分に重なった。「色々ともてなしのために
気が落ち着かず」「色々な事を心配して、気を使い」、自分だけが
忙しい目をしていると、マリヤを責め、更にはそれを許している主
を責める。

それが「どうしても必要なことは、一つだけ」に、「あ!一つだけ
なんだ」主と交わり、御声を聞く事、一つで良いと思った時、不思
議だったが、すうーと心が解き放たれ、自由になり、肩の力が抜け
て楽になり、平安になった。すっかり心が変えられ、落ち着いて一
つ一つ祈りつつ、主と共に取り組めた。そして成功裡に終える事が
できた。どんな時も、主のもとへ行こう。
-------------
疲れたり、ストレスで狭量になるとすぐに不満や不平が沸き起こ
る。心に主の平和がないと簡単にイライラする者だ。主に向かい、
主に心を整えられる大切さをいつも覚えていたい。


2023年08月03日(木)

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わた しを信じる者は・・その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出る ようになる」ヨハネ7:37



人は、被造物なので、何かに頼らなければ生きて行けない。自分
は、誰にも何ものにも決して頼らず、自主独立だと言う人がいる
が、実は自分に頼っている。人は、正しく神に頼らなければ、必ず
何か別のものに頼る。そしてそれが心の偶像となる。名誉、地位、
富、愛する人、人からの賞賛、仕事、趣味・・何かを握りしめて、
心の安心安定を得ている。

ザアカイは、富が自分を幸せにし、夢を叶え、将来を保障し、喜び
を与えてくれると信じたので、富を握りしめた。不正で財を築き、
トップに昇りつめ、大金持ちとなった。しかし罪を犯していたの
で、喜びも平安も無かった。心は虚しく、頼った富は決して幸せを
くれなかった。更に同胞にも毛嫌いされ、暗い寂しい孤独な日々だ
った。

一筋の光を主に求め、最後の望みを主に置いた。ところが、主はす
でにザアカイを知り、主を求める魂をご存じであった。木にまで登
り、主を求める一途な心を受け止めて下さった。ザアカイは主によ
り罪赦され、心は初めて喜びで満たされた。サマリやの女性も男性
が偶像であった。

5回の結婚と離婚を繰り返し、現在は同棲中だった。心が虚しくて
たまらず、満たしてくれるものを、渇き、あがき求めていた。そん
な心をご存じで、主が近づき、救いを与えて下さった。私たちも心
の満たしを求めて、主以外のものを求める心はどうだろう。心のす
きまを、空洞を、主に隅々まで埋めて下さる。
-------------
主を信じていても、まだ満たされたいと何かを探してしまう。けれ
どまた渇く事も経験済みだ。主以外のものを探しているのに気づい
たら、ありのままを祈ってみよう。祈りを通して主のいのちが流れ
てくる。


2023年08月02日(水)

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない・・主はその愛する 子を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからで ある」ヘブル12:5



ヤコブは、父と兄を欺いて祝福を奪い取り、兄は激怒した。ヤコブ
は、家におれなくなり、遠く伯父ラバンのもとへ逃げる。そこで暮
らす中、娘のラケルを愛し、彼女のために7年の労働をラバンに申
し出た。ラバンは承諾し、約束の7年も、ラケルへの愛ゆえに数日
に思われた。ラバンは祝宴を開き、娘を与えた。

だがそれは姉のレアだった。ラバンにだまされたのだ。その衝撃と
怒りで、ラバンに抗議すると、姉より先に妹を嫁がせる事はしな
い、あと7年働けばラケルを与えると。狡猾なラバンは、14年間の
無料労働力を得た。ヤコブには非常に辛く苦しい期間だった。「こ
の20年間、娘たちのために14年、ラバンのために6年間仕えて来
た。

昼は暑さに、夜は寒さに悩まされ、眠る事もできず」極めてきつい
日々だったと。ラバンにだまされ苦しめられ、不当な扱いの歳月。
しかし、主に無駄は無く、間違いも無い。これらすべて主の取り扱
いであった。だまされた痛みに、自分が父と兄にした事を思ったろ
う。20年の労働も、主からの厳しい訓練だった。「主はその愛する
者を懲らしめ」主は、愛するヤコブ見捨てず、放さず、しっかり握
り、砕き、鍛錬された。

「あなたを守り、この地に連れ戻そう。約束したことを成し遂げる
まで、決してあなたを捨てない」。その通りに成就し、ヤコブは守
られた。目の前の問題は苦しいが、主からの訓練と受け取ろう。耐
えられない試練は無く、必ず守られ、その中で多くの事を学ばせら
れ、霊的祝福にあずかり、そして成長させられる。
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砕かれるのは痛いが、そこを通ることが最善だとの御父のご計画
だ。かつては親の愛によって社会性を学ばされたように、主によっ
て新しく生まれた者として、素直に霊的に成長していきたい。


2023年08月01日(火)

「そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。 『私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのは よくありません』」使徒6:2



初代教会は急成長する中、アナニヤとサッピラの偽りを主が厳粛に
対処された。その後、問題が勃発。ギリシャ語を使うユダヤ人のや
もめ達から、毎日の配給が不公平だと苦情が出た。使徒たちは配給
に多大な労力と時間を要した。祈りと御言葉の奉仕の重大性を考え
た事だろう。後回しになってはいけないと。

そこで12使徒は弟子たちに告げた。この問題の解決のために、神の
言葉と祈りが最優先であり、祈りと御言葉の奉仕を第一にする事、
そして配給のために御霊と知恵とに満ちた評判の良い7人を選出し
この事に当たらせるようにと。この解決法は全員の承認が得られ、
一致の中で行なわれた。皆に平安があった。

御霊に導かれ、問題に良い解決が与えられた結果、「神のことばは
ますます広まって行き」「弟子の数が非常に増えて行き、多くの祭
司たちが次々に信仰に入った」。働きに豊かな実を結んで行った。
使徒たちが御言葉の奉仕に専念できた事が大きかった。私たちの信
仰生活にも適用できる。生活の中で問題は次々と起きる。

その時に「祈りとみことばの奉仕に励み」の通り、まずよく祈り、
御言葉に聞いて行く事が最優先だ。自分で解決しようと画策し、動
き回るのでなく、まず「祈りとみことば」を心にすえていよう。何
かある度に祈り、御言葉を求めよう。その時、主が解決法を導いて
下さり、祝福にあずかる。
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問題解決のために頭はフル回転するが、落ち着いて主の前に行こ
う。祈ろう。聖書を開こう。御霊は必ず御言葉導いてくださる。自
分の上ずった思いがいつも静かにされて、主の助けに与っていく。