2023年10月31日(火)

「 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているか らだ・・」エレミヤ29:11


ジグソーパズルを楽しんだ事があるだろうか。沢山の小さなピース
があり、それぞれをあるべき場所に埋めて行くと、素晴らしい絵画
が完成するというものだ。一つ一つのピースだけを見ると、断片で
全く意味をなさず、わけがわからない。しかし、それぞれのはまる
べき場所にピタリとはめて行くと、見事な絵が浮かび上がり、完成
する。

一つとして無駄なピースはないどころか、全ピースが一つも欠ける
事なく必要なのだ。そのように、私たちの日常に起こる出来事も、
一つ一つが重要なピースだ。その一つのピースだけを見ると、「な
ぜ?どうして?こんな事が?」と思う事がしばしばだ。わけがわか
らない状況がある。

しかし、一つ一つの出来事に、主の計画と意図がある。一つ〃だけ
を見ると、理解できないが、繋がって来ると、主のお心が見えて来
る。教えようとされている事がわかる。一つ〃の事柄を、後で繋ぎ
考え合わせた時に、ピタッとはまって、解き明かされる事を経験す
る事があるだろう。一つとして無駄な出来事は無い。

今、苦しみや困難があるだろうか。今はわからないが、主の御手か
ら来ているピースの一つだ。一羽の雀さえ、御父のお許しなしには
地に落ちる事はない。主のなさる事は、すべて時にかなって美し
い。今、目の前に一つのピースが来ているだろうか。信仰によって
受け取ろう。主を待ち望み、教えて頂こう。
---------------
全ては今日のためだったと困難な時を振り返れば必ずそう思う。も
っと主にお委ねして平安に過ごせていたらと悔やまれるばかりだ。
主のご計画はわざわいではない。心騒がせず今を信仰で受け取ろ
う。


2023年10月30日(月)

「このミカという人は神の宮を持っていた。それで彼はエボデとテ ラフィムを作り、その息子のひとりを任命して、自分の祭司として いた」士師17:5



ミカという人物の親が、銀千百枚を盗まれた。その時、母親は盗ん
だ者を呪った。しかし自分の息子ミカによる盗みと発覚すると、一
転、息子を祝福する。それならまるで一貫性が無く、自分の思い、
自分の都合次第になる。ミカが銀を返した時、母親は、その銀を聖
別して、主に献げると言った。

だが二百枚を献げただけで、その銀で息子のためにと、何と彫像と
鋳像を作った。それがミカの母親だった。ミカもミカで、自分の家
に宮を作り、自分の息子の一人を祭司に任命していた。するとそこ
にレビ人の若者が来たので、お金の力で、自分の家の祭司にした。
その若いレビ人も、金銭に目がくらみ、それを受け入れた。

王が無い時、このように秩序が壊れ、霊的にも道徳的にも腐敗し、
堕落し、偶像礼拝がはびこり、混沌状態だ。各々が「自分の目に」
正しいと見える事を行なった。つまり自分の都合次第であった。
主の御心を求める事が無く、正義も無く、ただ自分の損得、自分
の欲望で、判断もコロコロ変わる。それは「王がない」ためだと。
人は、王が無い時に、自分中心、自分勝手に自分を王にして、欲の
ままに歩む。

私たちもどうだろう。何かを判断し、決める時に、軸は自分の損
得、自分の善し悪しだろうか。それとも主の御心だろうか。とっさ
の判断には、まず自分の都合が優先だろうか。今までの物事の判断
を振り返ってみよう。主を心に据え、王座に来て頂いて、まず主の
判断を仰ごう。
---------------
自分の物差しと人の物差しで推し量りあう対人関係をみても、気持
ち次第の不安定さは大きなストレスになる。自分の基準から主の基
準へと判断を変えよう。迷わないよう主に聞き、御言葉を信じよ
う。


2023年10月29日(日)

「『その石を取りのけなさい。』死んだ人の姉妹マルタは言った。 『主よ。もう臭くなっておりましょう。四日目になりますから。』」 ヨハネ11:4

                  

ラザロが危篤で、危険な状態となり、マルタは主に来て頂きたく、
使いを送った。ラザロが病気とだけ伝えたなら、きっと主が飛ん
で来て下さるに違いないと思ったろう。だが、主が来られたのは
死後4日目だ。主は病気の治癒ではなく、死からよみがえらせ
る事を意図されていたからだ。

けがや病気なら治療すれば治る。壊れた対人関係でも、努力
するなら、あるいは修復の可能性もある、しかし、死だけは絶対
に元に戻らず、どうにもならない。完全に切り離され、すべては断
ち切られ、絶望だ。

主は、その死をも支配し、勝利されている神の力を現わそうとされ、
そして「あなたがたが信じるため」であった。マルタもマリヤも将来
のよみがえりは信じていた。だが今、現在、という事を信じる事が
できない。頭ではわかっていて、知識もあるが、目の前の現実は
信じられない。

私たちの姿だろうか。主はマルタに「その石を取りのけよ」と言わ
れた。心に不信仰の石がある。見える所、常識、世の価値観で
判断し、不可能で、有り得ないと思っている。見える所は、凄まじ
い力で襲って来て、私たちを妨げる。まず自分の内の、「不可能」
という不信仰を認めよう。

そして、主が語られた言葉を受け取り、信じ、握って立つ時、信仰
が臨む。「主に不可能なことは一つもない」あなたの心の底に、主
にも不可能だとの思い、「不信仰」が潜んでいるだろうか。もし信じ
るなら、栄光を見る。ありのままを祈り、信仰へと意志を向けて行
こう。

・・・・・・・・・・・・・・
サタンの力は凄まじく、目に見えるところを見せて、襲って来る。
そこに、常識、この世の価値観、経験値が加わり、凄まじい攻撃
となって来る。ありのままを正直に祈り、信じられないと、助けを
求めて祈ろう。主の力が働き、信仰へと助け導いて下さる。


2023年10月28日(土)

「子どもらよ。今、私に聞き従い、私の言うことに心を留めよ。」 箴言 7:24 



ある人の車が故障してしまった。見積もりでは多額の修理費が
必要だった。そんな時に丁度、メーカーの呼びかけが報じられ
た。その車種の欠陥が判明したので、直ちに、付近の店に、
修理に出すようにと。呼びかけに応じて、故障車を出すと、きれ
いに修理されて戻った。いっさい無料だった。

呼びかけに応じたので、修理され、気持ちよく使えるようになっ
た。しかし応じなければどうだろう。何も変わらずそのままだ。
神は私たちに、呼びかけられる。それは、私たちを導くためであり、
間違いを正したり、私たちの必要を教えて下さるためだ。

聖霊からの御言葉を通しての語りかけ、又、思いを通しての語り
かけが来る。又、それは人を通して来るかもしれない。家族や
学校、職場の人々からの、私たちへの助言や、間違いに対する
忠告かもしれない。祈っている時に、ふっとなすべき事を示され
たり、又、誤りを示され、気づかされる事がある。

そして、み言葉を読んでいる時に、ストレートに罪を示される事が
ある。ある人は、一人で部屋にいた時に、突然、光のように、過
去の間違いをはっきりと知らされた。まさに御霊の働きであった。
罪を罪と認識もできず、罪だともわからない事だった。御霊の光
に照らされて、主への畏れでいっぱいになり、その場にひざまず
いて、心からの悔い改めの祈りをした。

心が平安に満たされて、新たにされた。主を近く感じ、感謝があ
ふれた。主は私たちに呼びかけられる。導きを与え、又、矯正
のためだ。私たちをキリストの似姿へと造り変え、成長させて
下さるためだ。呼びかけに耳を澄まし、応答して行こう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主は、御声をかけられる。語りかけて下さっている。主からの語
りかけがわかった時が、大切だ。聞くだけでなく、従おう。勇気が
要るかもしれないが、御霊の助けがある。犠牲を払う事も、必要
かも知れないが、一歩踏み出そう。


2023年10月27日(金)

「「主よ。あなたの決めておられるように、私を生かして ください。」詩篇119:149



ある人が、証しをした。ある時、一見不都合な、マイナスの事態が
起きて、非常に苦しい状況になった。その時に、良い状況に変わる
ようにと、祈りに、祈り続けた。切なる祈りを重ねるのだが、その
苦しい状況は全く変わらなかった。祈りが答えられていない。全く
答えられない事に気づかされた。そんな事も含めて、そのままを祈
りに持って行った。

いろんな起きた出来事を一つ一つ、祈りの中で考えて行った時に、
この状況は変わらないのではとの思いとなり、更にそれは確信にな
って行った。尚も祈っていると、状況でなく、自分の思いの方が変
えられて行った。一見悪い事態だが、主に在っては、悪いものでな
く、主が自分のために備えて下さったものであり、良いものなのな
のでは、と。むしろ主の下さった最善なのではと。

そのように思いが至った時に、不思議だが、心が変えられ、あれほ
ど辛く苦しかった心が落ち着いてきて、平安が臨んだ。気持ちが楽
になって驚いた。主が、私たちのために、決めて下さった道に歩む
ことが、一番平安なのだと、教えられた。今までを振り返る時に、
自分の思いが非常に強く、自分の思う道こそが最善だと思ってい
た。

自分の願望が叶う事が、幸せなのだと。自分が中心だった。そうで
なく、それを明け渡して、自分の願いではなく、主の御心が成るよ
うにと、主の決められた道に従う事こそが、喜びで平安なのだと学
ばされた。
---------------
長く祈っていると時間の経過とともに、状況が変わらなければ自分
の思いが変わっていく。主の御心にそってふさわしく変えられる。
主が決めておられるように生きていきたい。


2023年10月26日(木)

「・・高さも、深さもそのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・ イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」 ローマ8:39


この世の人々が、よく言うだろうか。「クリスチャンは弱者だ。
何でもかんでも神に頼り、依存する。人間は、自分の力で生きるべ
きだ。信仰は弱い者のする事で、クリスチャンは人生の敗北者では
ないか」と。だが主は、「私たちは、私たちを愛して下さった方に
より、すべての中にあって、圧倒的勝利者となるのです」と。

私たち信仰者は、何と、人生の「圧倒的勝利者」だと言われる。弱
い人に、自分の弱さは認められない。真正面から自分に向き合い、
主が見ておられる通りに自分を見て、自分の姿を認める事は、自分
が真の自分になる事だ。強いと思っているのは虚栄であって、幻
だ。主が、圧倒的勝利者にされるのは、自分の限界を知り、認める
人だ。

決して強くなどない、人に見せられない、自分のどん底の姿、惨め
で哀れで、裸で、破れ果てた自分、それを知る事こそが大きな祝福
だ。主が働かれるのは、必ず自分の力が尽きた所だ。肉の力が尽き
た時に、主が働かれる。それ以前では無い。その時、主の力を、み
わざを自分自身が経験する。

自らの弱さを認める事こそが、圧倒的勝利への道だ。そこに御霊の
喜びと、何にも代えられな平安を味わう。私たちに、試練があり、
苦しい辛い出来事が起きる。それこそが「圧倒的勝利者」を経験し
て行くためのものだ。
---------------
主の赦しがあるから自分の弱さも罪深さも認め受け止められる。弱
さを知っている事は強い。どんな状況をも益としてくださる主だ。
どんな問題の中でも祝福を得る術を私たちは知っている。


2023年10月25日(水)

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍 耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望 を生み出すと知っているからです」ローマ5:3



ある人が、生まれた子どもに肢体不自由と難病が発覚。最初はもう
パニックで、ただただ涙、涙だった。現実を受け入れられず、「な
ぜ?なぜ?」「どうして、自分の子が?」「これからどうして行け
ば」と、心が真っ暗の悶々の日々だった。しかし、祈りに祈りなが
ら、時を経る中で、不思議が起きた。子どもと関わるにつれ、自分
が子どもから励まされ、慰められ、喜びを与えられている事に気づ
かされた。

世の見方、価値観は、子どもは「不幸」「かわいそう」「気の毒
に」だった。しかし主の目から見ればどんなに尊く、特別な愛の対
象であり、どんなに慈しまれ、目を注がれているかを覚えさせられ
た。自分の肉の目でなく、主がどう見ておられるかに、目が向いて
行った。この世的には、確かに不自由だし、大変だし、実際問題生
きて行く上で、直面する様々な苦しみや悲しみがある。

しかし主は公平な方であり、主に不公平は無く、永遠の報いに目を
向けつつ、今のこの時を生きるよう、心を導いて下さった。そし
て、少しづつ〃主は霊的な面で導かれ、主に決して間違いはなく、
何らかの特別な「ご計画」がある事を、受け取るようにされ、信じ
られるようにされて行った。

目の前の選択にも、一つ〃指針を与えられ、後に振り返ると、確か
に良かったと感謝できた。今まで導かれた主は、これからも必ず守
り導いて下さると信じる事ができる。何よりも主は自分自身を練
り、鍛え、きよめ、成長させて下さっている事に気づかせられた。
主に間違いは無い。辛く、苦しい時も主を見上げ、まず祈って行こ
う。
---------------
なぜ私だけがと人がみんな幸せに見える孤独で暗黒のトンネル。そ
こを通して主はご自身を現される。そしてこの暗黒に主が働かれて
いたこと知る。患難こそ最も主に近いときだ。


2023年10月24日(火)

「私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、この はしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類 ですから。」ルツ3:9



ナオミ夫婦は飢饉のため、故郷から偶像の地モアブに移住した。そ
こで時を経て、夫も二人の息子も亡くなった。飢饉も終わり、帰郷
を決心した時に、嫁のルツがナオミについて来た。ルツ自身も神を
信じ、従った結果であるが、ナオミはそんな嫁ルツの将来のことを
よく祈り考えた事だろう。

ルツが生計のために、落ち穂拾いに出た時に、ボアズが、異邦人ル
ツに目をかけて、よくしてくれた。親戚であり、親切で誠実な人柄
に、ルツの夫にふさわしいと考えた。そこでナオミはルツに指示を
与え、ルツはナオミの言葉の通りに従った。ボアズに買い戻しを願
った行為だった。

するとボアズは、更に近い親戚がいるので、彼がその権利を放棄す
るなら、自分が買い戻すと言い、どこまでも誠実だった。まだ結果
が見えない先に、ナオミは必ずボアズがルツの夫になると信じてい
た。そこでルツに「どうおさまるかわかるまで待つように」と言え
た。動き回らず、そのための行動を取らず、ただじっと待てと。
肉の動きをするなと。

私たちもここで学ぶ事ができる。まず御心を求めて祈ること。なす
べき事が主から示されたなら、その通りに従うこと。そして従った
なら、あとは主にゆだねて待つこと。祈り、従い、待つ。ルツがナ
オミに従い、待った結果、近い親戚は断って来て、ボアズとの結婚
に導かれた。今、なすべき事を果たし、主をじっと待つ時だろう
か。
---------------
自分の思いやこの世で培った身を守る方法などを主の前に捨てる事
はどれほど難しい事だろう。祈り、従い、待つ・・今どの過程だろ
うか。主に委ねていけるよう、時をよく悟れるよう、主の邪魔をし
ないよう、祈っていたい。


2023年10月23日(月)

「私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろう か。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだ ろうか。」ミカ6:6



.私たちは、自分の犯した罪が赦されるために、何か必要なのだろ
う。ミカは、どこまで行なえば、受け入れてもらえるのか、と言っ
ている。何をもって御前に出たらよいのかと。一歳の子牛を献げた
らよいのか。いや、一頭でなく、数千の雄羊、数万の油を献げなけ
ればならないのか。いや、それでも足らなくて、子どもを殺して、
献げる必要があるのか。

私たちの罪意識が強く来る時に、それを何とかしようとするなら、
子どもを殺すところにまで行くと言っている。これが「邪悪な良
心」だ。良心に邪悪なものがあるのかと、不思議に思うが、邪悪な
良心とは、神を認めない心だ。神のして下さった事を認めようとし
ない。

キリストの十字架により、主の犠牲により、決着がつけられ、解決
されている。すでに完了済みで、罪の赦しは成就されている。それ
を受け取らず、認めないで、それでは不足なので、何かをしなけれ
ばと思う心だ。頭ではわかるのだが、完全に赦されている事を信じ
られない。

赦されるはずが無いと思う。ありのままでは、御前に行けないの
で、信じるだけでなく、行ないをプラスして受け取ろうとする。少
しはきれいになって御前に出ようとする。肉の根深い価値観があ
る。そうでなく、無代価で、無償で、いっさいのかたが着けられて
いて、無罪放免だ。

この計り知れない大きなプレゼントを、恵みを、感謝して、受け取
る事が主の喜ばれる事だ。その時、血の注ぎを受け、邪悪な良心が
きよめられ、素直な心にされ、更に神に近づける。「ありがとう」
と受け取ろう。
--------------
神の前には一人も義人はいない。くり返し神の前に悔い改めていく
事しかできない。それが「へりくだってあなたの神とともに歩む」
事ではないだろうか。悔い改めるごとに恵みを確信し感謝して生き
られる。


2023年10月22日(日)

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わた しはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう」詩篇 32:8



信仰人生を送る中で、なかなか自分が変わらない、変えられて行
かないなあと感じるだろうか。そこには、内側に強いものがあり、
自我が砕かれていない事があると言われる。生まれつきの性質、
肉は頑なで、強情であり、自分の思いをどこまでも通したい。思い
の通りに生きたい。肉は、神に反抗する。

肉は、神に服従できない。「肉にある者は神を喜ばせることがで
きません」。神はこの自我を砕こうとされ、様々な状況に私たちを
置かれる。対人関係しかりだ。あえて、自分に批判的な人、又、
どうしてもうまく行かない相手を置かれる。学校で、職場で、近隣で、
経験するだろうか。

嫌な同僚や上司がいて、職場を変わるのだが、次の職場でも同じ
事だ。嫌な相手はどこにでもいる。又、目の前に、どうにも出来ない
状況が起きて来る。これらの時に、状況が悪い、相手が悪い、
あれが悪い、これが悪いと、人を責め、環境のせいにし、言い訳
に終始する。しかし苦しい、辛い状況は変わらない。

尚も状況を変えよう、相手を変えようと悪戦苦闘するが、状況も、
相手も、自分自身も全く何も変わらない。むしろ状況は更に悪化
して行く。その時、これは状況や相手でなく、もしや「自分の問題?
」と気づいて行く。そこに気づくや、道が開かれて行き、解決へと
導かれて行く。

「私を変えて下さい」の祈りは、必ず答えられる。苦しい時は、まず
祈ろう。主は、御心なら状況を変えられ、御心なら自分を変えて、
どんな問題の中でも、平安にされる。祈り続けるよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
問題が起きて、祈りを続けていると、ある時は状況を変えて下さる。
相手が変わったり、閉じられていた門が開いたりする。又、ある時
は、状況はそのままだが、自分を変えて下さる。自分を変えて平安
にして下さるので、問題が問題で無くなってしまう。


2023年10月21日(土)

「わたしは・・あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あな たを国々へと預言者と定めていた。」エレミヤ1:5 



主は、エレミヤが生まれる以前から、エレミヤを預言者として選
んでいた。「神は私たちを世界の基のおかれる前からキリスト
にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしよう とされた」と
あり、天地創造以前にすでに選ばれている。モーセやエリヤ、
イザヤやパウロの信仰の偉人たちも選ばれていたが、私たち
一人〃も同様だ。

私たちが、生まれる前から選んで下さっていた。主の意志と選び
によって、今ここにいる。偶然生まれたのではなく、主のご計画
によって生まれて来た。若いエレミヤは恐れがあり、自分みたい
なものが、「まだ若くて、どう語ってよいかわからない」と尻込み
した。しかし主は「わたしがあなたを遣わす所へ行き、わたしが
命じる事を語れ」と。

そして彼らを恐れるな、「わたしはあなたと共にいて、あなたを救
い出すから」と。「わたしがともにいる」との保証がある。エレミヤ
にしか出来ない働きが与えられたように、私たち一人〃も使命が
あり、それぞれに違った能力、賜物が与えられている。

長い歴史の中で、この時に、この国で、今の場で、生を与えられ
たのは、主によるのであり、ご計画による。たまたま偶然、今の
場所にいるのではない。主から選ばれて遣わされている。それを
受け取る時、全く別の視点に立つ事になる。いつも御言葉視点
に立っていよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
普段、目の前の事にとにかく忙しく、意識しないで生きているが、
主が、自分を今の時代に、今の国に、今の境遇で、今いる場所
に置かれた事を考えてみよう。はかり知れない主のご計画であ
り、主のお心だ。違った見方が与えられる。


2023年10月20日(金)

「アラムの王は、自分の配下の戦車隊長たち三十二人に命じて言っ た。『兵や将校とは戦うな。ただイスラエルの王を目ざして戦え。』 」T列王22:31



イスラエル王アハブは、アラムからラモテ・ギルアデを取り返そう
と、ユダ王ヨシャパテを誘った。ヨシャパテはアハブの誘いに乗
り、主の言葉を聞くよう要請した。それでアハブは預言者400人を
集め、伺いを立てると、上って行くようにと、皆、口を揃えて言っ
た。だが預言者ミカヤだけは、正反対の預言をし、アハブ王が悪霊
に惑わされている事、殺される事を告げた。

アハブとヨシャパテは、アラムと戦う事になり、アハブは、自分は
助かろうとし、巧妙にもヨシャパテに王の服を着せ、自分は変装し
た。敵をだまし、ヨシャパテを追わせ、自分は逃げようとした。
だがアラム王の命令は、イスラエル王アハブだけを狙えというもの
だった。

敵が、ヨシャパテをイスラエル王だと思い、戦おうとした時、ヨシ
ャパテは瞬間、主に祈った。すると敵は引き返したのだった。まさ
に主の関与だ。そして一人の兵士が、何げなく放った矢が、何とア
ハブに命中し、彼は傷を負い死んだ。別に彼はアハブを狙って、殺
そうとしたのではない。何げなく放ったものだ。主が働かれた。

ミカヤの預言が成就した。主の完全な主権と支配を見る。人がどう
画策しようと、主の御心が成就する。厳粛な事だ。それゆえ、主に
日々の生活も、人生も、自分自身もゆだねよう。明け渡して行く
時、あなたへの最善のご計画を一つたがわず、成し遂げて下さる。
そして、平安に守られる。
---------------
いつも主に聞き、明け渡していなければ自分の強い思いで聞きたい
言葉だけを聞いていく。そして惑わされる。全能の主の存在をいつ
も見つめていなければ危うい。主に明け渡そう。


2023年10月19日(木)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる。」詩篇37:5



ある人が仕事で行き詰まってしまった。暗礁に乗り上げ、壁に閉ざ
され、何の方策も無いように思えた。だがその事業は、主に祈り、
主に導かれて始めたものだった。どうしてよいかわからなかった
。自分の限界、自分の無力に打ちのめされた。主の御前に静まろう
と、御前に行き、心を静め、心の思いをことごとく打ち明けた。

御声を聞こうと、御言葉を向かっていた時に「あなたがたがわたし
を選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び・・任命した
のです」の言葉が心に迫った。主がこの仕事に自分を選び、任命し
て下さったことが、確認できて、新たにされた。「それはあなたが
たが実を結び・・」が嬉しかった。

御心ではあったが、自分が何とかしなければと、「自分が」「自分
が」と頑張って、すべてが自分の肩にかかるので、力尽きた姿が見
せられた。「自分が選んだのでなく、主が選んで下さった」「自分
ではなく、主」そこに平安と安堵が来て、その時、自分自身と状況
を今一度明け渡した。

すると不思議な事に、思い煩いが失せた。主が成し遂げて下さると
信じる事ができた。そして、一つ〃を主に従って行けばよいと思え
た。心が楽になった。そうこうしていると、突破口が与えられ、次
々と、目の前の一つ〃と導かれて行った。まことに主のみわざだっ
た。

「主の山に備え」があることを体験して行った。今、もし行き詰ま
っているなら、御前に行き、まず祈ろう。主は御言葉を与え、御心
を示して導いて下さる。
---------------
主に信頼して委ねているつもりでも、どこか自分の努力に頼ってい
る。そんな私たちをいつも御手の中に連れ戻してくれる主に感謝
だ。今日するべき事も主の導きの中で全うしていこう。


2023年10月18日(水)

「求めなさい。そうすれば与えられます・・だれであれ、求める者は 受け、搜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」マタイ7:7



パリサイ人は会堂や通りに立って祈った。それは「人に見られたく
て」、いかに敬虔であり信仰深く、祈る者であるかを見せるためだ
った。それなら、主ではなく、自分を崇めるためのものだ。「祈る
時には、偽善者たちのようであってはならない」人に聞かせるため
に祈るのは、肉であり偽善だと。

自己顕示のために祈る事とは逆に、人前での祈りに尻込みする事が
ある。人を意識し、どう評価されるかと恥ずかしい。人が気にな
り、祈れない。これも同じく肉から出たものだ。又、異邦人のよう
に同じ言葉を繰り返すなと。言葉数の勝負とばかりに、何時間も同
じ言葉を唱える。異教ではよくあるが、これは根本的に違い、私た
ちと主は、取引き関係でなく、信頼関係で結ばれている。

主は祈る前に、私たちの必要をすべてご存じだと。それなら祈らな
くてもよいのではなく、「だからこそ」祈れと。主は「求め」を喜
ばれ「求め」に、答えられるからだ。すでにご存じだからこそ、安
心して求める事ができる。「自分の奥まった部屋に入り、戸をしめ
て」祈れと。

人ではなく、自分でもなく、主を意識して、主に向き合う祈りだ。
環境的に、一人が不可能な場合もある。ある人は通勤の満員電車に
座り、主を意識し祈ったと。公園でも、道を歩きながらでも、主に
心を向けて祈る事ができる。極みまで愛し慈しんで下さっている御
父が、受け止め答えて下さる。信頼し。御前に行こう。
---------------
祈るときやかましい雑念がはれて自分の内側が照らされる。祈りに
よって新しい祈りが生まれる。悪魔の企みの一つは祈らせないよう
にすることだ。祈りの時間を求めよう。


2023年10月17日(火)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があな たがたのことを心配してくださるからです。」Tペテロ 5:7



多くの人は、思い煩いに悩ませられるが、あなたも心配性だろう
か。今、起きていない事を思い煩ってしまう。将来の事を、ああな
れば〜こうれば〜と、必ずネガティブに想像して落ち込む。不安材
料をかき集め、あたかも現実かのようにリアルな最悪のシナリオが
出来上がる。そこにサタンがからんでいる。

だが妄想で現実には起きていない。主は実際に起きている事には関
与し、助けて下さるが、そんな架空のものを、どうにも出来ない。
自分が思い煩う事を選んでいる。先の事は私達には、いっさいわか
らず、誰にも見えない。しかし主を信じる私たちは、明日に恐怖と
不安を見るのでなく、主の愛を見る。明日は、主の愛の御手とご計
画の中にあり、堅く守られている。

得体の知れない恐怖でなく、主を見て、主のあわれみ慈しみを信じ
る。これが信仰だ。主の愛を信じて、そこに立って歩む時に、思い
煩いの亡霊に振り回されない。今、実際の問題を抱えて、悩み、思
い煩っているだろうか。なすべき事は、まずその問題と思い煩い
を、祈りにより、主に知って頂く事だ。そしてゆだねる事だ。

一つ一つ主に知って頂き、それをおゆだねする事で、心に平安が来
る。「何も思い煩わないで・・願い事を神に知っていただきなさい」
そうすれば、主の平安に心が守られると。「思い煩いをいっさい神
にゆだねよ」「主が心配して下さるから」と。主に知って頂いたの
で、心に安堵が来る。平安の中で、主と共に一つ一つのなすべ
き事に当たって行ける。
---------------
先を知ることは出来ない。だから普通にしていると常に心配や不安
がくる。思い煩うとき気づこう。主に祈り心配事を告げよう。得体
のしれない恐怖ではなく、確実な主の平安を受け取ろう。


2023年10月16日(月)

「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」 ヨハネ5:8


38年間、病気にかかり、伏せっていた男性がいた。主は、彼に
「よくなりたいか」と問われた。普通、その答えは「はい、よくな
りたい」か「いいえ、よくなりたくない」のどちらかだが、彼の答
えは違った。「池の中に私を入れてくれる人がいない」だった。

「行きかけると、ほかの人が先に降りて行く」と、つまり自分には
介助者がいないから、自分はどうにもならないと嘆いた。だから38
年の間、伏せったままだと。「よくなりたい」との意欲も失せて、
絶望の中にいた。しかし、主はそんな彼に、「言い訳するな」「人
のせいにするな」と言われたのではなく、「起きて、床を取り上げ
て歩きなさい」と言われた。

すると、彼は「すぐに直って、床を取り上げて歩き出した」と。意
欲の失せた、しかし彼の底にあった「よくなりたい」との思いを、
主は、引き出して下さった。彼は、その主の言葉を信じた。信じた
ので、起きようとし、床を取り上げて歩こうとした時に、主の言葉
が、彼の身に成就した。

主は、あなたにも語っておられる。「よくなりたいか」と。いつも
失敗して、何度やってもだめだった。これからもだめだろう。直る
わけがないと諦めてしまっているだろうか。 しかし意欲が失せ
て、落胆している私たちに語っておられる。主の御声に、耳を傾け
て行く時に、「よくなりたい」との心の奧にある思いに、今一度気
づかせて下さる。
-----------------
過去の生活や今の現状に決して満足していないのに、立ち上がる事
も出来ない。自分を見ればそうでも、立ち上がれば主がおられる。
起きて床を取り上げて信仰をもって歩き始めよう。


2023年10月15日(日)

「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、 ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じ た。」ヨハネ2:11


当時、ぶどう酒は、結婚式において、なくてはならぬ、非常に重
要なものであった。それが、式の最中に無くなってしまうとは、
有り得ない大失態だ。主役である花婿花嫁の面目まるつぶれだ。
後々まで言い継がれるような失態だ。

私たちの信仰人生でも、時にぶどう酒が無くなるという事態が起
きる。ぶどう酒とは、人生に喜びを与えてくれる喜びの象徴だ。
その喜びの象徴であるぶどう酒が、時に、無くなってしまう。失敗
や過失を犯してしまうし、病気やけが、辛い対人関係、経済的
苦境、離別・・。その時に、どうするだろう。

とにかく自分で何とかしようと、パニックになり、あがいてしまう。
まさに、水からぶどう酒を作り出そうとする。悪戦苦闘するが、
自分でぶどう酒など作れるはずがない。行き詰まり、疲れ果て
る。私たちのする事は、自分でぶどう酒を作ることではない。
マリヤのごとく、まず主に向かって、「ぶどう酒がありません」と
言うことだ。

そして、自分で何とかするのでなく「あの方が言われることを」
まず聞き、言われた事に従うことだ。目を向けるのは、主にで
あって、目の前の状況ではない。その時に、主が働かれる。言
われる通りに従う事は、水かめに水をくむ事だ。そうする時、
主が水をぶどう酒に変えられる。

まず主に目を向け「あの方が言われることを」実行しよう。その
時、みわざを見る。今、「あの方が言われること」があるなら、
すぐに行なおう。主の栄光を現わされる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
突然、ぶどう酒が無くなることを経験する。パニックになり、自
分が立ってしまう。何とかしなくてはと、不安と思い思い煩いに
襲われる。「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え」と言われる
主を、まず呼ぼう。


2023年10月14日(土)

「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが 答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしてい るかを話しましょう」マタイ21:24


主が人々に教えておられると、祭司長や長老たちが、「何の権威
によってこの事をするのか。誰がその権威を授けたのか」と詰め
寄った。すると主は「バテスマのヨハネは、天から来たのか、それ
とも人からか」と逆に質問された。

すると彼らは互いに論じ「天からと言うなら、ではなぜ、ヨハネを
信じないのか。更にヨハネが、救い主だと示すイエスを信じない
のかという事になる。人からと言えば、ヨハネを神からの預言者
として認めている群衆の反発が恐い」。そこで彼らは、「天から」
とも「人から」とも答えず、「わかりません」に逃げた。

結局、彼らは真実から逃げて、主にも、自分にも向き合わず、責
任を取る事もせず、自分の都合の良いように生きて行った。真
実はどうかでなく、自分の都合はどうかだった。その時、主は
「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたが
たに話すまい」と言われた。

私たちもどうだろう。何が真実かでなく、実は人の目を気にして
いたり、又、自分の思い通りに歩みたくて、あいまいにしている
だろうか。犠牲は払いたくないだろうか。そこそこでよいと思っ
ているだろうか。しかし、それなら、主を親しく知ることができない。

主を信じてはいるのだが、もやがかかったようで、よくわからず、
中途半端で終わってしまう。「逃げています」「自分の思い通りに
歩みたいと思っています「あいまいにしていたい者です」と認め
て祈って行く時に、前進させて下さる。御霊が導き、御霊の喜び
へと導いて行って下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ありのままを愛して下さっている主に、ありのままを告げてみよ
う。「よくわからないです」「絶対に放せないものがあります」「
世も楽しんでいます」「でも、神様も知りたいです」ありのままを
祈って行く時、何かが変わって行く。


2023年10月13日(金)

「主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。」 Uサムエル22:29



私たちは、思い込みがある時、目の前の物事を正しく見る事が出
来ない。目の前に青色のセロファンを置いて見るなら、景色が青
色に見える。赤色のセロファンなら、景色が赤色に見える。同様
に、もし自分の思い込みや偏見で、物事を見るなら、目の前の事
態がその色にしか見えない。事実ではなく、自分の思い込みだ。

ありのままの景色を見るにはどうすればよいか。景色の問題でな
く、自分の偏った、間違った見方の問題だ。そこに気づきが与え
られる事だ。ある人が対人関係でトラブルが起きたが、どうして
も、相手が悪いとしか思えなかった。自分は被害者であり、何も
悪くない。しかし心に喜び平安が全く無い。心は辛くて、重苦し
く、暗いままだ。

余りにも心が苦しいので、主の御前に出て、あれやこれやと心の
内を、あるがまま打ち明けつつ祈っていた。その時、御霊は示さ
れた。自分は被害者だと思っているので、自分は正しいと思って
いて、全く気づかなかった。だが自分は相手をさばき、敵対心を
抱き、憎んでいる。そこに愛のかけらも無かった。憎しみ、裁き、
高慢、これは紛れもなく、自分の罪であった。

平安が無かったのは、罪を犯していたからであった。相手は関係
無く、自分は自分の罪として、御前に悔い改めた。その時、平安
が戻り、心が安堵で満たされた。この平安は何ものにも代えられ
ないものだ。被害者だと思う裏に、憎しみや妬み、高慢が潜んで
いて気づかない。御霊は、私たちの見えない心の闇を照らし、気
づきを与えて下さる。
---------------
ありのままが見えていないかも知れないと心に苦い思いがくり返
し来るとき、主に祈り聞いていこう。いつも御霊の平和に満たさ
れているよう、主が照らし示してくださる。罪は悔い改めよう。


2023年10月12日(木)

「彼らはヨハネのところに来て言った『・・あなたが証言なさったあ の方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほ うへ行きます』」ヨハネ3:26



ヨハネの弟子たちは、ヨハネへの人々の関心と人気が主に移った事
をひどく妬んだ。我が師びいきのゆえだ。しかしヨハネは違った。
人は天から与えられなければ、何も受ける事はできないと、すべて
の主権が主にあることを信じ、受け入れ、認めていた。そのため、
主が下さるものを受けるだけだと。

他者に人気が集まり、他者が何かを受けるなら、それも主のなさる
事であり、自分がどうこう言う事ではない。ヨハネは与えられた
場、地位、能力をわきまえ、すべてにおいて満足していた。平安で
あった。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける
道」。多くの人々は、不満の中で生きている。満足は主からのもの
だ。

主だけしか与える事ができない。私たちはどうだろう。他者が成功
し、業績を上げたなら、心がさわつくだろうか。今、与えられてい
る境遇、地位、能力に、主を認めて受け入れる時、それに感謝し、
満足する時、私たちの心は、平安に守られる。この平安は何にも代
える事ができない。

「あなたの行く所、どこにおいても主を認めよ」しかし、あれが、
これが無い、ああで、こうであれば良いのに、今の境遇に不満一杯
だろうか。しかし視点を天に向ける時、主が与えて下さった現在の
境遇だ。そこで、主からの使命があり、そこでしか得られない、豊
かな祝福が備えられている。

主を認める時、見方が変わる。そこに御霊の働きがあり、不満が感
謝に変えられる。与えられているものを感謝し、満足できる。その
時、どのような境遇であれ、自分自身には幸福感がある。
---------------
主が導いてくださり現在がある。横を見て羨ましく思うことがあっ
ても、今を心から感謝しよう。どこにおいても主を認めて生きよ
う。それは真に幸福で恵まれた人生だ。


2023年10月11日(水)

「エフライムの酔いどれの誇りとする冠は、足の下に踏みにじられ、 肥えた谷の頂きにあって、これを美しくその美しく飾る花もしぼみ ・・」イザヤ28:3



エフライムは、「肥えた谷」とある肥沃な地を持っていて、「誇り
とする冠」とあり非常に高慢になっていた。「酔いどれ」、酒に酔
いつぶれながら、自分を誇り、自慢していた。主はその酔いどれの
誇りとする冠を、足の下に踏みにじられるために、アッシリヤを送
られた。私たちも同様だ。

何かの成果があると、主の恵みを忘れて、自分の力で得たかのよう
に、高慢になってしまう。主に栄光を帰すのでなく、自分が栄光を
奪い「誇りとする冠」にしてしまう。そんな時、主は私たちを愛し
ておられるので、私たちにもアッシリヤを送り、砕きとされる。
今、もし痛い事、辛い事態が来ていたら、へりくだって、御霊に自
らの内側を探って頂こう。

自らを誇っていなかったか、主の恵みを横取りして、自分の手柄に
していなかったか。主はしばしば、様々な事態を送られて高慢を砕
いて下さる。それは主の愛だ。私たちは、放っておかれたなら、す
ぐに天狗になって、主から離れてしまう。思うようにならない状
況、事態は、主からであり、感謝なことだ。そこでつぶやき、反発
し、不満をぶつけるのは、方向違いだ。

へりくだって、主のお心を求め、悟りたい。過去を振り返る時、思
い通りにならなかった事態が、どんなに感謝で恵みであった事か、
思い知る。それが無ければ、どんなに高慢になっていただろう。主
の守りに感謝しかない。
---------------
強い自我はすぐに自らを誇り、拠り所としてしまう。自分の力が及
ばない状況になってはじめて主に託せる。試練の中で、主に出会う
事は感謝だ。どんな時にも主を誇って歩める。


2023年10月10日(火)

「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたはどこ にいるのか。』彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。 それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』」創世記3:9



命令に背き、善悪の知識の木から実を食べて、罪を犯したアダムと
エバは、「神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」。
主を恐れ、主を避け、隠れた。罪により、「恐れ」が生まれた。主
に受け入れてもらえないと、思ったからだ。主から身を隠すとは、
拒否する事で、関係を持ちたくないという事だ。

人は罪を犯すと、とがめが来て、恐れが生じ、神と人から隠れよう
とする。しかし、主は違う。「どこにいるのか」と御声をかけら
れ、どこまでも私たちを追いかけ、求めて下さる。私たちには、な
かなか信じられないのだが、主の愛は決して変わらない。主の愛は
不変だ。私たちが罪を犯す前も、罪を犯している時も、罪を犯した
後も、主の愛は全く変わらない。

変わらずに愛し続けて下さっている。そして、罪の解決をも備えて
下さり、皮の衣を着せて下さったのだ。動物の血が流された、皮の
衣だ。それで、恐れと恥をおおって下さった。主イエスの十字架で
あり、流された罪の無い血潮が、私たちの罪をおおう。

罪を犯したゆえの恥、恐れ、不安があるだろうか。罪意識のとが
め、痛みがあるだろうか。心に主の血潮の注ぎを受けたので、全き
信仰をもって、恐れなく真心から主に近づく事ができる。赦しを受
け取ろう。罪が赦されるので、恐れが消え、痛みがいやされる。そ
のため心に平安と喜びが来る。
---------------
神の私たちへのご愛を自分の側からしか見られず、罪を犯したら後
ろ向きになり隠れてしまう。神を信じて真っすぐに赦しを受け取ろ
う。神の子として生きる道をいつも示してくださっている。


2023年10月09日(月)

「それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる・・彼 はもと来た道から引き返し、この町には、はいらない・・わたしは この町を守って、これを救おう。」イザヤ37:33


ヒゼキヤ王の時代に、アッシリヤ王のセナケリブがユダの町々を
攻め取った。セナケリブはラブシャケを送り、ヒゼキヤや人々に
脅しをかける。大軍を伴い、強力な軍隊を誇示し、挑んで来る。
ヒゼキヤが、主が救い出すと言うが、ヒゼキヤの言う事にだまさ
れるな、信じるなと言い、皆の信仰を揺るがして来る。

これを聞いたヒゼキヤはどうしたのか。衣を裂き、荒布をまとって
主の宮へ行き、祈りを献げ、イザヤにも祈りを要請した。私たちに
も、サタンは同様に、挑み、攻撃をしかけて来る。経済的な苦境で
は、どうだろう。恐れと不安をどんどんあおって来る。神を信じる
などと言って、どこから降って来るのか。

又、対人関係の深刻な悩みや、他の様々な悩みはどうだろう。心が
苦しくてたまらない。解決のつかない壁が、目の前にそびえている
ようだ。辛いばかりで、行き詰まり、どうにもならない。信仰して
いても、心が重くて沈むばかりだ。何も変わらない。祈っても無駄
だ・・サタンは信仰を大きく揺るがして来る。

しかし、このような時こそ、ヒゼキヤのように「祈り」が何より、
サタンに対して強大な武器であり、対抗手段だ。ヒゼキヤは祈り、
イザヤも祈った。すると祈りに答え、主はまさに奇跡をされた。主
の使いが戦い、勝利した。セナケリブは立ち去った。祈りこそが、
大きな力だ。苦境には、まず祈ろう。
---------------
落ちついて祈ることで、サタンに煽られている心が主に向き、守ら
れる。自分の知恵など及ぶべくもない全能の神の存在をいつも見つ
めていなければ、すぐに揺らいでしまう。考え込む前に祈ろう。


2023年10月08日(日)

「彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、『ダビ デの子よ。私をあわれんでください』と叫び立てた」マルコ10:48


バルテマイはこじきで、人々から物乞いをして生活していた。人々
から金銭や物を恵んでもらい、生きて行くことができた。だから道
行く人々に物を求めていた。しかし、主に求めたものは、金銭や物
ではなかった。「目が見えるようになること」だった。こんな求めは、
この方にはできるとの、信仰がなければ、はなから求めることなど
しない。

彼には信仰があった。その信仰は「私をあわれんでください」との
叫びを生んだ。それを大勢がたしなめても、止むどころか、ますま
す叫び立てた。もし、主が受け止めて下さると信じられなければ、
そこまで叫ぶ事もしない。彼は必死だった。この時で、このチャン
スしかないと、全身で叫び立てた。

ザアカイも同様だった。今を逃してチャンスは二度と無いと、木に
まで登った。バルテマイは、もしここであわれみをもらわなければ、
生涯盲人のまま、又、ザアカイは一生虚しい何の喜びもない暗い
日々のままだ。絶対にこのままでは帰れなかった。主はその心底
からの求めに、応じて下さった。私たちはどうだろう。

バルテマイの叫びがあるだろうか。与えられても与えられなくても、
どっちでもよい程度のものだろうか。又、諦めてしまっているだろ
うか。彼は、いっさい何も出来なかった。出来る事は何もなく、しか
し「あわれんで下さい」と叫ぶことができた。この主への求めを、主
は待っておられる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分が何もできず、何ものでもない事を知ることは、大きな恵みだ。
何のすべもなく、何もどうする事もできない。そんな時に、ただ一つ
だけできる事がある。主に求めること、主に叫ぶこと、必ず受け止め
あわれんで下さる。主のあわれみは、驚くばかりだ。


2023年10月07日(土)

「レハブアムはエルサレムに帰り、ユダの全家とベニヤミンの部 族から選抜戦闘員十八万を召集し、王位をソロモンの子レハブ アムのもとに取り戻すため、イスラエルの家と戦おうとした」T列 王12:2


レハベアムは、イスラエルがダビデの家にそむいたので、戦おう
と。ユダとベニヤミンの戦闘員18万人を集めた。すると神の人シ
ェマヤに、主からの言葉があった。上って行くな、あなた方の兄弟
たちと戦うな。各々、自分の家に帰れ。わたしがこうなるように仕
向けていると。

イスラエルがそむいたのは、主の主権と支配の下での事である
と。それでレハベアムと人々は、主の言葉に聞き従い、北王国
への行軍を中止し引き返した。「わたしがこうなるようにしむけ
た」「こうなるように計らったのはわたしだ」「この事はわたしから
出た」と、主による事であった。

今、私たちに、突如の問題が起きているだろうか。「わたしがこ
うなるようにしむけた」と。「私は黙し、口を開きません。あなたが、
そうなさったからです」ともあり、主から来たものとして受け止め
よう。その中で、主の示しに従って行くなら、その問題が大きな
祝福とされて行く。もし主の言葉を無視し立ち向かい、戦うなら、
更なる問題と混乱を起こし、秩序を壊し、自分も大きな痛手を
受ける。

今もし厳しい試練にあるなら、それも「わたしがしむけたのだか
ら」との御心だろうか。私たちの益と祝福と成長のための訓練だ。
反抗するなら、逆方向に向かい、せっかくの祝福を受け損なって
しまう。試練として、しっかり受け入れる時、学びを得て、主を新
たに知り、自分を知り、成長して行ける。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主が成長のために、さじ加減ピッタリに量って、与えて下さるる試
練が臨む。主から出たこと、こうなるようにしむけた、との御心を
受け取れるよう祈ろう。沢山の学びと祝福がある。しばしば避け
たく、又、屈折するなら痛いだけで得るものが無くなってしまう。


2023年10月06日(金)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、 ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、 歩き回っています」Tペテロ5:8



悪魔は、獲物を捜し回る、腹をすかせたライオンだ。うの目たかの
目で、獲物を狙っている。悪魔は、主の許可内で、ヨブに襲いかか
った。全財産を奪い、子どもたちを奪い、又、ヨブの全身を腫れ物
でおおった。悪魔は、ペテロを襲い、主を3度も否ませた。又、ア
ナニヤとサッピラの献げ物で、聖霊を欺かせた。

彼らは持ち物を売り、全部に見せかけ、一部を献げた。献げても献
げなくても自由であったのに、偽ったのだ。悪魔は、ダビデを誘惑
し、バテシバとの姦淫とその夫ウリヤ殺害の罪を犯させた。悪魔は
最初から人殺しであり、偽り者であり、真理がない者だ。「あらゆ
る獣のうちで、蛇が一番狡猾であった」、人間の知恵を超えたずる
賢さ、悪知恵を持つ者だ。だまされないように祈っていよう。

悪魔は、自在に思いの「火矢」を人の心に吹き込む事ができる。
心に湧き上がる思いを、よくよく見張っていよう。自分の思いでな
く、悪魔からの思いだ。突然誰かへの憎しみ、敵対心が湧き起こ
る。ある種の邪悪な思いや、罪深い思いが浮かぶ。しかしそれは悪
魔からの「火矢」であり、罪を犯したのではない。

悪魔の火矢を止める事は出来ないが、信仰の大盾で自分への被害は
防ぐ事ができる。誘惑が来る事は避けられないが、受け入れず、同
意せず、拒否する事だ。誘惑が来た時に、まず何よりも一番に「神
様!」と助けを求めよう。守って下さる。
---------------
目を覚ましているとは、弱さを覚えて主に祈り、備えている事では
ないだろうか。心に湧き上がる苦い思いに、気づけば悪魔に同意し
ている。気づいて神様と叫びたい。心に主の平和を保っていよう。


2023年10月05日(木)

「さあ、食事の用意ができました・・何もかも整いました。どうぞ宴 会にお出かけください」マタイ22:4



王が、王子の結婚の祝宴を設けた。ところが招待していた客を呼び
に行くと、皆、来たがらなかった。それで再度、別のしもべを遣わ
した。何もかも整ったので、さあどうぞと。だが彼らは気にもかけ
ず、畑に、商売に出て行き、更に他の者たちは王の使いを殺してし
まった。王は怒り、兵を出して人殺しを滅ぼした。

彼らは、神の事、永遠の事より、今の地上の事がすべてだった。
王や祝宴などどうでもよかった。重要で大切なものが、畑、商売、
この世の事だった。そこで王は、大通りで出会った者を誰でも招く
よう命令した。出会った者を皆集めたので、宴会場は満員になっ
た。だが、そこに婚礼の礼服を着ていない客が一人いた。王によ
り、暗闇に放り出された。

大通りで、突然呼ばれるわけで、誰も礼服など持ちあわせていな
い。この礼服はすべて主催者側で用意されていた。だから放り出さ
れた客は、王の礼服を、故意に拒否した事になる。彼は、通りで招
かれ、招きは拒まず、やって来た。だが、王の前に出る「礼服」は
拒否した。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」と。

主からの礼服、つまりキリストの救い、神の愛、義とされること、
永遠の命を不要と拒み、自分の服で、自分を着飾る。自分の功績、
自分の力を捨てず、自分の行ないで、認められようとする事だ。神
より、自分の考えを正しいとする事だ。私たちは、礼服を、主の救
いの衣を着て、従って行こう。そして祝宴の溢れる喜びと楽しみ
に、大きな恵みにあずかろう。
---------------
主の大きな恵みがあるのに、自分の考えでしか事をはかろうとしな
い。この恵みを深く知る者となりたい。自分では用意することので
きない礼服を全ての人に与えてくださっている。


2023年10月04日(水)

「ペテロは『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知 らないと言う。』と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外 に出て、激しく泣いた。」ルカ22:61



ペテロとユダは、同じく主を裏切ってしまった。だがその後が、天
と地ほどに違った。ペテロは、大好きな主を否むという、大々的失
敗をしてしまった。しかし信仰が無くなったわけではない。その証
拠に、激しく泣いている。ペテロは前もって、主から言葉を受けて
いた。「鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言う」と。

ペテロが主を否んだ時に、まだ言い終え無い内に、鶏が鳴いた。そ
の時に、主の言葉を思い出した。まさしくその通りになった。ペテ
ロは大泣きした。主がこんなにも大好きなのに、主を裏切るなどと
いうとんでもない、取り返しのつかない、ひどい事をしてしまっ
た。まさか、自分がこんな事をするなどと。

ごめんなさい〃、との叫びだったろう。ペテロは悔い改めた。しか
しユダは、悔い改めでなはなく、「後悔した」とあり、主のもとへ
行き、立ち返るのでなく、主ではなく、祭司長、長老のもとへ行っ
た。そこで、「知ったことか、自分で始末しろ」と言われ、自殺し
てしまった。

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至らせる悔
い改めを生じさせるが、世の悲しみは死をもたらす」とあり、ユダ
は、主に立ち返るのでなく、世の悲しみであって、単に後悔しただ
けだった。ペテロはこの辛い経験により、人の弱さを思い知らさ
れ、罪人に柔和に向き合い、苦難にある人を慰める事ができるよう
にされた。大変な失敗であったが、主は尚も益として用いられた。
---------------
自分の罪を認め、弱さを認めて主のもとに行ける。何という慰めだ
ろう。主の赦しを見ていなければ、自分のいたらなさしか見えず、
絶望しかない。主を見上げていよう。


2023年10月03日(火)

「イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目 を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。するとレビは、 何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」ルカ5:27



レビとはマタイのことであるが、彼は取税人だった。当時、ユダヤ
はローマ帝国に支配されていて、ローマに代わりユダヤ人から税金
を取り立てたのが、取税人だった。同胞から不当に余分に税を取り
立てて、搾取をしていた。それでローマ帝国の手先、裏切り者と、
憎まれ、さげすまれていた。

財は築いたが、人から軽蔑され、拒絶され、嫌われ、又、罪を犯し
ていたので、心に闇を抱え、寂しさと虚しさの中にいただろう。生
きる意味も見い出せなかったのではないか。そんな時に、主がマタ
イに目を留められ、「わたしについて来なさい」と声をかけられ
た。すると彼は何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。主
が、そんなマタイの心の内をご存じで選ばれた。

マタイは、即、招きに応じている。いっさい迷いが無い。大変な覚
悟だが、聖い方が自分のような者を招いて下さった事にどんなに驚
き、そしてどんなに嬉しかった事だろう。彼は、主に従い通し、マ
タイの福音書を記す栄誉にあずかった。マタイは自分の事を「取税
人マタイ」と言い、罪人であった事を隠さず、きっぱりと言い切っ
た。

闇から光に入れられた、その恵みの大きさを、主の愛の深さを味わ
い知った。私たちも主が目を留めて、招いて下さったから、今があ
る。どんな所から救われたのか、救われていなかったなら、どうな
っていたのか、今一度覚え、感謝を献げよう。
---------------
信仰にはいった時を振り返れば、周囲の状況や様々な事情もある
が、やはり主についてきなさいと呼びかけられたのではないだろう
か。そして与えられた恵みはあまりにも大きく、日々、日々新し
い。


2023年10月02日(月)

「いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づか いと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のこと です」マタイ13:22


種蒔きのたとえで、種が道ばた、岩地、いばらの中、良い地と4つ
の土地に落ちた。この中で良い地に落ちた種だけが、豊かに実を結
んだ。いばらの中に落ちた種は芽が出たのだが、いばらが伸びて、
その芽をふさいでしまい、結実しなかった。そのいばらは「この世
の心遣い」と「富の惑わし」で、それらが御言葉をふさぐと。

人は、心が満たされない時、「この世」のものを握り締め、この世
にしがみつく。人に良く見られたい、認められたい、評価されたい
との思いであり、そのため良い人であろうとし、人の評価を求め
て、人にしがみつく。これが世の心遣いだ。又、満たされないの
で、心を満たすために富を握り締める。富が幸せを与え、夢を実現
させてくれ、生活を保障してくれると思ってしまう。

富の惑わしだ。心の満たしを求めて、ますます目に見えるものに固
執してしまう。そうしていて気づかない。自分にとっては命なの
で、手放すなどとても出来ない。しかし主はあわれんで下さる。あ
われみの主だ。主は決して見捨てられずに、導かれる。試練を与
え、愛する者を懲らしめられる。懲らしめは主の愛だ。

辛く苦しい状況の中で、初めて真剣に主を求め、御心を求め、自ら
の状態も探り、振り返り、考える。自分は、主以外の何に執着し、
握り締めて放さないのか、普段は考えないし、ほとんど気づかずに
いる。試練によって、主に真に向き合い、自分の姿に気づかされ
る。明け渡して行けるようにされる。一段階、成長へと導かれる。
懲らしめは、神の方へ向ける愛だとわかる。
-------------
この世の価値観の中に生まれ、知らずに大切にして生きてきた。主
はそこを取り扱い変えていってくださる。主を信じ、御言葉を正し
く聞き従おう。主の与えてくださる恵みを豊かに知っていこう。


2023年10月01日(日)

「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、 信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し・・」ローマ4:20


アブラハムは、望みえない時に、尚も望みを抱いて信じたと出て
来る。普通は状況が良い方に向かう時に、望みを持つ。しかし望
み得ない時に、望みを抱くのが信仰だ。目に見えたなら、もはや信
仰は必要無い。目に見えないものを信じるのが、信仰だ。望み得
ないという事は、現実には、望みのかけらも無いという事だ。

望みの根拠は主の言葉で、み言葉を信じるのであって、肉の感覚
によるものは、何も無いという事だ。主の真実のみが、私たちの拠
り所であり、保証だ。保証は、主にあるのであって、自分の中の何
かにあるのではない。環境や状況、目に見えるところからは、何も
感じる事が出来ない。そこに求めても、得るところが何もない。

主が約束して下さった言葉の中にのみある。主の言葉をそのまま
受け入れて信じることだ。アブラハムは約束の言葉は与えられてい
たが、現実を見ると、相容れず、相反する状態にあった。その暗闇
の中で、彼は、見える現実ではなく、神の言葉を取った。肉には何
の手応えも、実感も無いが、それで良いのだ。

その中で尚も、約束の言葉を信じて行こう。モーセは、民を約束の
地に導くとの主の約束があったが、民は、エジプト軍の追跡を受け、
目の前は紅海、絶体絶命だった。モーセは主の言葉に従った。す
ると、紅海が分けられ、乾いた道により、民は救われた。荒野で
マナも水も与えられた。主の言葉に信頼を置こう。
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時に、見えるところと、約束のみ言葉が、全く相容れない状況を
経験する。正反対だ。意志を向けて、み言葉を選択しよう。「思い
煩うな」「心配無用」「祈れ」「感謝せよ」等、み言葉の方に立てる
よう祈ろう。