2023年11月30日(木)

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからで す。」ヨハネ15:5



ある女性が証しした。「“わたしにとどまり、わたしもその人の中
にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます“とあっ
て主にとどまるという事を、毎日の生活で教えられています」と。
ある朝、疲れが取れず、頭は重く、身体がだるくて、家族の朝食を
作るのが、面倒でたまらなかった。だいたい何で自分ばかりが、毎
朝〃作らないといけないのかと、サタンが来る。

不満、つぶやきを吹き込んで来る。家事が重荷で、心身がだるくて
仕方が無い。そして数日後の事だった。家族のために朝食を作り、
洗濯物を干していて、讃美が湧き、平安と喜びで、幸福感でいっぱ
いだった。ふと気づかされた。全く同じ場所で、同じ事をしている
のに、片や不平不満、“ねばならない”の重圧感。

片や平安と喜び、幸福感・・同じ自分が天と地ほどに違う。主にとど
まることの大切さを実感したと。マルタとマリヤが出て来るが、マ
ルタは、主をもてなすために、料理をしていた。段々、時間が迫
り、焦って来ると、まだまだする事が多過ぎて、イライラピリピ
リ、思い煩いに襲われる。ふと見ると、何もしていないマリヤに怒
りが燃える。

だいたい何で手伝っていないのか。何で自分ばかりが忙しいのか。
マリヤを責め、それを許している主を責める。主のための奉仕が本
末転倒だ。主を離れては実を結ぶことが無い。主が抜け落ちていた
なら、すぐに主に立ち返ろう。
--------------
サタンは感情に寄り添うように来て主の御言葉から離していく。自
分は弱い。イライラさせられてもどんな環境にも左右されない主の
平安を祈れば力を受けられる。主に頼ろう。


2023年11月29日(水)

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てる ことができないとは考えないで・・」ピリピ2:6


あるクリスチャン会社員が、仕事上の事で行詰まってしまった。難
しいプランを抱え、試行錯誤しつつ、何やかやと試してみるのだ
が、暗礁に乗り上げた。糸口が見えず、八方ふさがりの状態だ。途
方に暮れて、心の中で、主に助けを求めて祈っていた。そんな時
に、部下が「こんな方法はどうですか」と説明し、良い提言をして
来た。「あっ」と思ったのだが、決断できず、ちゅうちょして見送
った。

重い心のまま帰宅し、主の御前に祈りの時を持った。心を注ぎ出
し、自分の思いや状況や何やかやと、主に告げながら、祈ってい
た。「神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることがで
きないとは考えないで、ご自分を無にして、死にまで従い、実に十
字架の死にまでも従われ」と、御言葉が心に迫って来た。

部下からの良い提案は、きっと祈りの答えだったと、うすうすはわ
かっていた。しかし、自分は経験豊富なベテランであり、年若い部
下からという事で、素直に受け入れられなかった。それは、自分の
プライドのためである事に気づかされた。それなら高慢ではない
か。御前に悔い改めて、部下の提案を取り入れた。すると、主は素
晴らしく祝福して下さり、難題に見事な解決を見た。

しばしば、主は高ぶった私たちに、へりくだりを求められる。水は
低い方へと流れる。決して高い方へは流れる事はない。恵みはへり
くだった者へと溢れ流れる。今、何かの事で、プライドが妨げてい
るなら、十字架の主を見上げよう。むち打たれ、身体が砕かれ裂か
れ、血まみれになり、身も心もぼろぼろになり、すべてを捨てて下
さった方を仰ごう。
--------------
なかなかへりくだれない者だ。主によって様々な環境に置かれ醜い
自分を示される。気づけるのが感謝だ。主はへりくだりの愛をもっ
て十字架に進まれた。主の十字架を仰ごう。


2023年11月28日(火)

「そこで、彼を黙らせようと、おおぜいでたしなめたが、彼はます ます、『ダビデの子よ。私をあわれんでください。』と叫び立て た。」マルコ10:48



目の見えないバルテマイは、人にあわれみを求め、物乞いをして生
きていた。当時では、目の障がいゆえに、自立できず、人に依存し
て生きて行くしかなかった。人が施してくれるもので、生活してい
た。人が頼みであった。主が、エリコに来られた時、それまで耳で
数々の噂を聞いていたこの方に、大声で必死に叫び求めた。

「私をあわれんで下さい」と。この方に求めた。周囲に制せられる
と、黙るどころか、ますます叫び立てた。諦めるなど無かった。切
に主に求め続けた。すると主は立ち止まられ、呼ぶようにと言われ
た。その時、彼は上着を捨てて、すぐに主のもとへ行った。上着は
生きて行く上の、無くてはならぬ、非常に貴重な必需品であった。

その大切な上着を捨てて、主だけを求めて来た彼に、「何をして欲
しいのか」と問われた。すると「目が見えるようになることです」
と答えた。その彼に、主は「行きなさい」と言われた。あなたは、
もう自分の足で立てる、一人立ちできると。あなたの信仰があなた
を救ったと。すると、すぐ彼の目は見えるようになった。

先に見えて、「行きなさい」ではなく、「行きなさい」の後で、目
が開いた。主は、私の人生を自分の足で立ち、歩むようにして下さ
る。私たちも、人依存でいるかも知れない。何かあると人を責め、
責任を転嫁し、自分で責任を取らない。人がああしてくれない、だ
から私は不幸せ。それなら、すべて相手次第になってしまう。

しかし主への「信仰」は私たちを真っ直ぐに立たせてくれる。主を
見上げ、信じ、主に期待し、主への信頼によって歩むようにされ
る。彼は人依存から、主への信頼に転換、自分の足で立ち、生涯、
主に従って行った。
--------------
自分の足で立っていると思っても何かに寄りかかっている。歩みの
全工程に主を認め、頼るべき方に頼って生きよう。主はしっかりと
立たせてくださる。主の前に自分の足で立ち応答していこう。


2023年11月27日(月)

「咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの 罪を赦してくださいます。」詩篇 65:3



ダビデが、バテシバとの姦淫、彼女の夫ウリヤ殺害の罪を隠してい
た間は、良心のかしゃくで一日中うめき、骨々は疲れ果て、骨髄は
夏のひでりで乾ききった、とある。「御手が昼も夜も重くのしかか
り」と、主が臨んで、良心のかしゃくを与えておられた。その罪ゆ
えに煩悶し、耐えきれず、自らの罪を主の御前に告白し、悔い改め
た。

悔い改めにより、罪が赦された大きな喜びを語っている。「あなた
は私の隠れ場、救いの歓声で私を取り囲まれる」天にものぼる嬉し
さ、喜びであったろう。苦悩にうめき、苦しんだ心の奥が平安にさ
れ、安堵が臨み、そしてその平安は流れ出て来て、喜びが満ち溢れ
た。罪をひたすら隠して、もだえ苦しんでいた時と何という驚くべ
き違い、天と地の差だ。

「幸いなことよ。そむきを赦され〜」この「幸い」は、素晴らしい
幸福、最高の幸福、満ち満ちた喜びとの意味だ。ダビデは名誉も地
位も、富も才能も持った人だった。王であり将軍であり、音楽の才
能を持ち、詩篇を書いた詩人でもあり、文武両道何もかも所有した
人物だった。しかし、ダビデの人生で、何よりの最高の幸せは、罪
を赦された事だった。

主は、罪を悔い改め、赦された人に「悟りを与え、行くべき道を教
えて」下さる。霊的な理解や気づきを与えて、人生を導いて下さ
る。何という幸いだろう。今、良心のかしゃくがあるなら、主の赦
しを受け取ろう。罪は痛みと苦しみだ。最高の幸せは、罪が赦され
る事だから。
--------------
赦しを受け取ると圧倒してくる罪のとがめから解放され、感謝とと
もに主の御前に心底へりくだらされる。謙遜にさせられる。罪を赦
されるとは何という幸いだろう。主の赦しを受け取ろう。


2023年11月26日(日)

「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、 カインはひどく怒り、顔を伏せた。」創世記4:5



カインとアベルは両親から、神の事や、献げ物についてよく教え
られていただろう。アダムとエバは罪を犯したが、主は皮の衣を
着せて下さった。それは罪の贖いのために、動物の血が必要と
いう事であり、主への献げ物は、動物の血が流されなければな
らなかった。

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえをささげ」
とあり、アベルは御心にかなったいけにえを献げた。これはアベ
ルの信仰による事だった。カインは、この重大な事を顧みなかっ
たために、主に受け入れられなかった。だが主に問うて、悔い改
めて、献げ直せば良かった。

しかし、カインは主に対して「ひどく怒った」。そして、受け入れら
れた弟を激しく妬み、彼は「顔を伏せた」。主は「なぜ顔を伏せる
のか。正しく行なったならまっすぐに立っておれる」顔を上げられ
るはずと言われた。彼は正しくない事がわかっていた。なぜ兄弟
を殺したのか。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかった
からだった。悪いとわかっていてなお、自分を通して行った。

弟への妬みは、憎しみとなり燃え上がった。そして殺人へと突き進
んだ。主はカインに御声をかけ、悔い改めの機会を与えられた。が、
彼は無視した。聖霊の促しを無視すると、罪の性質は更に頑なにな
り、更に罪に突き進む。
今、とがめがあるなら、伏せた顔を上げて、悔い改めよう。愛の御
声が聞こえている時に、御心に従おう。豊かな赦しにあずかろう。
赦されるごとに、その度に、更に主の愛を知って行ける。

・・・・・・・・・・・・・・・
カインは方向違いに怒り、憎しみをアベルに向けて行き、弟殺害に
まで至ってしまった。自我を通して行くと、最悪の事態に突き進ん
でしまう。主からの示しを受け止め、認めて行く時、やみから光に
出される。罪は赦され、正しく導かれて行く。何と幸いだろう。


2023年11月25日(土)

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」マタイ14:27


信仰人生の中で、誰しも学ぶ事がある。それは、人生は決して自
分の思い通りではないという事だ。ほとんど思い通りにならないと
言っても過言ではない。しかし、信仰人生で大切な事は、思い通
りに行く事、何事もうまく行く事ではない。そうではなく、人生に突
如の事態が起きても、何がどうなったとしても、外側に嵐が吹き
荒れる時も、心の深いところで「大丈夫」と思える安心感、信頼
感ではないだろうか。

「永遠の腕が下に」申命33:27「その人は倒れてもまっさかさまに
倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」詩篇 37:
24そして万事益とされるお方が、「世の終わりまでいつも共に」い
て下さる。一つも例外なく「万事」だ。今のあなたの思い煩い、不
安も含まれる。私達の身に起きる一つ〃の事に、主の目的があ
り意図がありご計画がある。

何が起きても、「愛なる主が、常に共におられ、私の生涯を確か
なご計画をもって、導いて下さっている」との大きな安心感がある。
わけのわからない運命に、ほんろうされているのでは無い。愛の
主の御手の中にあり、主が人生を支えて下さっているとは、何と
平安な事だろう。

ヨセフは全く思い通りでない、理不尽な、波瀾万丈の人生であっ
た。しかし状況でなく、その中に主を見て、信仰によって歩み続
けた。だから人の悪意さえ、主が良い事のための計らいとされ
たと告白できた。ヨセフにとって最大の力と恵みは「いつも主が
共におられた」事だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
信仰生活が長くなるほどに、自分の思い通りにはならないと学
ばされる。想定外の事が次々と起きる。が、必ず乗り越えて行
けて、主を知る事の更なる恵みを経験して行く。試練自体より
も、恐れに飲み込まれるので、必ず御声を聞き、祈ろう。


2023年11月24日(金)

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがた にわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世 が与えるのとは違います。」ヨハネ 14:27



日常に色々な事が起きる。又、過去にも様々な事が起きた。その結
果が今もなお受け入れられず、不満だろうか。「こうなって欲しく
なかった」「何でこうなのか」「この結果は嫌だ、不満だ、受け入
れられない」と。もし現在、このように思っているなら、心に平安
はあり得ない。あなたの心はどうだろう。

違う結果だったら、良かったのにと、引きずっている事があるだろ
うか。そこには喜びも平安もないはずだ。信仰に立って受け止め、
主は良いお方である事、愛されている事、ご計画がある事、御言葉
に従い「すべてのことについて感謝」する事を、受け入れられるよ
う、祈って行こう。自分では受け入れる事は出来ないので、そう出
来るよう、主の助けを求めて祈ろう。祈って行こう。

主は最善以下の事をされるはずがない。今、目の前の事態に対し
て、「これは嫌だ」「もっと別のものがいい」との思いだろうか。
一つ一つは、神が量り与えて下さったものだ。その状況を受け入れ
る時、状況は変わらないが、自分自身が変えられ、平安が与えられ
る事に驚く。しかし、頭ではわかるが受け入れられない事、又、口
では受け入れると言うが、底に受け入れない自我がある事、正直に
ありのまま祈って行こう。

明け渡して行く時、周囲から見るなら、ほとんど悲惨とも言える状
況の中でも、本人には何にも代えられない平安が与えられる。後の
日に、以前嫌だと思ったそのものが、自分を形造ってくれた事を、
感謝をもって見い出す。
--------------
問題を祈っている中で、全ての動機は主の愛から来ると示された。
主の最善の愛ゆえに発せられている今だと。試練の中で与えられる
不思議な平安と手応えに励まされ一歩一歩進んで行ける。


2023年11月23日(木)

「ろばは主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがってい るのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。」 民数記 22:23



イスラエルがどんどん勢力を増すのを見て、バラクは恐れをなし、
バラムを雇いイスラエルを呪わせようとした。主はバラムに「共に
行くな、呪うな」と言われた。それにもかかわらず、バラムは報酬
に目がくらんだ。"不義の報酬を愛したバラム"とあり、主の命令に
反して、バラクと共に行く。するとそこに抜き身の剣を持った主の
使いが現われ、行く手を阻んだのだ。

ロバには見えたが、バラムには見えなかった。ロバが立ち止まらな
ければ、バラムの命は無かったところだ。ある人が、高額の報酬を
提示され、転職の誘いが来た。引き抜きだった。うすうすは御心で
はないと感じていた。周囲も反対した。しかし才能が認められる事
は嬉しいし、発揮できるのは大きな魅力だった。悩みに悩んだが、
仕事をしてみたいとの誘惑に負けて、受けた。

仕事は高度で、時間も取られ、心身すり減り、神のための時間が失
せてしまった。後に立ち返れたが、痛い刈り取りをした。私たちに
も誘惑は来る。金持ちになりたい。これは単に金銭だけでなく、名
誉、地位、人からの賞賛が欲しい、認められ、注目を浴びたい、
又、自己実現したい思いだ。誘惑に目がくらむが、しかし聖霊が阻
止しようとされる。警告に耳を傾けよう。人を通しての忠告かもし
れない。

又、ぎくしゃくする環境や心に平安が無ければ、向きが違っている
かもしれない。世と世の欲は滅びる。しかし御心を行なう者は永遠
にながらえる。神の御心を行なう事が最も祝福された人生だ。今、
ぎくしゃくする状況なら、心静めて御心を求めてみよう。主は答え
て下さる。
------------
自分の選択が主に祝福されるかどうか、御心を求めて祈っていると
様々に主は御心を示してくださる。思いが強くて主の御言葉が素直
に入って来ない時は気づきたい。そして立ち止まり祈ろう。


2023年11月22日(水)

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来 る。」詩篇 62:1



神には「神の時」がある。私たちはどんな場合も、その神の時を待
ち望む事が大切だ。ヨセフは父親から偏愛され特別扱いのため、兄
弟たちに妬まれ、憎まれる事になる。そのため兄たちにより、エジ
プトへの隊商に奴隷として売られた。しかしそこで良い主人が備え
られ、ヨセフも忠実に仕え、その家のすべてを任せられる事にな
る。

彼は、奴隷ではあったが、主人の家での大きな祝福に、さあ「私の
時」だと思ったかも知れない。しかし主人の妻の誘惑に会い、濡れ
衣で投獄され、奴隷より更に悪い囚人となってしまう。それも理不
尽な無実の罪で。そこで忍耐の時を過ごす。しかしそこでも主を待
ち望みつつ、忠実に仕え、模範囚となり、囚人の管理を任される。

やがてそこから出され、様々な状況を通り、最終的に王から総理大
臣に任命され、全権を任されるまでになる。忍耐を重ね、主を待ち
望み続けた結果、とうとうヨセフの「時」がやって来た。あなたは
今、苦しみの時だろうか。目の前が真っ暗で、何の希望も持てない
だろうか。しかしヨセフのように、そこに神のスケジュールがあ
り、「神の時」がある。

神を信頼して、神を待ち望もう。いつも共にいて、あなたの信仰を
練り鍛え、強めようとしておられる。あなたへの神のご計画の
「時」がある。今は先が見えないが、必ず時が満ちて、神があなた
を引き上げられる。神の「時」は完璧で、素晴らしいみわざが遂げ
られる。最悪の状況の中で、自らの力が尽きるところにこそ、神の
力は現わされる。主を待ち望もう。
--------------
見えない先は不安でも、今この時も全てを主が支配しておられると
思うと大きな安らぎを覚える。私たちは揺らぐが主は揺らがない。
恐れは御前に注ぎだし、主を信じて待ち望もう。


2023年11月21日(火)

「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら 豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです」 ルカ12:15


金持ちの畑が大豊作になり、保管場所が不足し、大きな倉を建て、
そこに納めた。「これから何年分もいっぱい物がためられた。さ
あ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言ったが、彼は、その
夜に死んでしまった。神は「愚か者」と言われた。なぜ愚かだった
のか。所有物が幸せにしてくれる、財産で命まで保障されると勘違
いした事だ。物に依存していた。

物で安心など買う事はできない。彼の人生には神が無かった。富に
依存している人は多い。金持ちほど、更に富を追い求める。幾ら持
っても、もっと欲しい。これで充分という事がない。これは心の問
題であり、「貪欲」から来ている。どこまで行っても満足する事が
ない。富が夢を叶え、生涯の安心を与えてくれると思う。しかし肝
心の命は、神の支配の中だ。

私たちの内にも、古い価値観がある。富に頼っていないだろうか。
握り締め、容易に偶像になってしまう。又、この金持ちは、別訳で
は「私の」倉、「私の」穀物、「私の、私の」だ。人に分け与えよ
うとの発想も、神への感謝も無い。あるのは、ただ「自分」だけだ
った。私たちも、自分のためにだけ貯える者だろうか。

神に焦点を合わせる時、神に喜ばれるように、御心に従って、富を
用いる事が出来る。その時、「神の前に富む」者とされ、天に宝を
積む事になる。働く力も、豊作も与えて下さるのは、実に神だ。だ
からと、主は言われる。命のことで心配したり、何を着ようか飲も
うかと心配するなと。命は食べ物より大切であり、主が良くして下
さるから、心配するなと。
---------------
富に頼っていた古い価値観が今もしっかりある。神に頼らず簡単に
安心を手に入れられる富に欺かれてしまわないよう、豊かさも平安
も神からのものと感謝し祝福を祈っていよう。


2023年11月20日(月)

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけで す。」ルカ10:42


こんな記事があった。「私たちは聖書を読み、祈らなければと思
う。しかし、どうだろう。今はそういう気分ではない。気分が乗ら
ない時にするのは律法的だから、その気になったらしよう。という
ことで先延ばしにする。朝の時間は、すぐに過ぎる。次から次と、
なすべき事が山積みだ。時間がある時にと思っていると、あっとい
う間に昼だ。

雑用、会うべき人々、次々起こる事態の対処、すると、もう夕刻に
なり、夜は、ダラダラと見てしまうテレビ番組、今日も聖書を読む
時間が無かった・・。本当は時間があるのだ」。どうしても必要な
事はただ一つだと言っている。次善の山のような物事に忙殺され
る。本末転倒になってしまい、たましいがやせて来る。

ある人は、仕事に追われ、多忙な日々で時間が無いから、主との交
わりが持てないと思っていた。時間さえあれば、ああ時間が欲しい
と。そんなある時、突然の休暇が入った。しかし大喜びで行楽に弾
け、全く主との交わりどころでは無かった。その時、時間の問題で
なく、自分自身の問題だと示された。

まさに「マリヤは良いほうを選んだ」から、主との交わりを選ばな
い自分に気づかされた。その事を認めて、御前に出た時に、心満た
される幸いな時が与えられた。なかなかデボーションが持てない
時、選ぼうとしていない自分がいるかも知れない。自分を責めるの
ではなく、自分自身の姿を正直に認めて行く時、主が働いて下さ
り、上から与えられる。
--------------
仕事に追われ、多くの情報が溢れぼーっとする隙間もないほどだ。
押し流されてしまう弱さを覚えていたい。意思を持って主との時間
を選択しよう。主が守ってくださる。失敗しても諦めず御言葉を開
こう。


2023年11月19日(日)

「ペテロは言った。『たとい、ごいっしょに死ななければならない としても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。』 弟子たちはみなそう言った。」マタイ26:35


ペテロは、弟子たち皆が主を裏切っても、自分は決して裏切
らないと断言した。「私は」命をかけて、何があっても、どこまで
もついて行く。「私は」あなたを知らないなどと決して言わない。
「私は」何があっても大丈夫。そんな心意気だったろう。自信が
あり、自信満々であった。

ペテロは自分の弱さという事を知らなかった。又、「自分は」他の
弟子たちとは違う、そこに高慢が潜んでいた。「シモン眠っている
のか、まだ眠っているのか」との主の言葉の通り、ゲッセマネで、
主が祈りの厳しい苦闘の中、眠り込んでいた。主はご自分の姿を、
心の内を弟子たちの前にさらけ出され「わたしは悲しみのあまり
死ぬほどです。ここを離れないで目をさましていなさい」と、

弟子たちが一緒に祈ることを求め、願われた。主は、ご自分の弱
さを認められ、御父に拠り頼み、すがり、すべてを祈りに持って行
かれた。弱さを認めた、祈りの苦闘の中で勝利され、「立ちなさい。
さあ行くのです」と、十字架に向かって真っ直ぐに顔を向け、歩み出
された。主とペテロの違いは、ペテロは自分の弱さを知らない事だ
った。

弱さの自覚がないため、祈りが無かった。主は弱さを自覚され、切
に祈られた。眠気が問題なのでなく、「自らの弱さ」を知らない事
が致命傷だった。弱さを認めなければ、祈りの必要性が無い。弱い
からこそ、切に祈り、拠りすがるからだ。自自らの弱さを知ることに
より、初めて主に拠り頼み、祈ることができる。

・・・・・・・・・・・・・・
自分でやって行けると思うので、祈らないで歩んでしまう。そして
手痛い失敗を通して、学ばされる。自らの弱さを知らされ、頼る
ようにされる。砕かれて、主に拠りすがって行ける。主を離れて
自分で進んでいる時に、気づきが与えられたい。


2023年11月18日(土)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに 来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」マタイ11:28


ある人の証しだ。後輩から対人関係の悩みの相談を受けた。
状況を見定め、解決へのアドバイスをしたいと思い、それで相
手が話すしりから、「それは、君もちょっと問題だよ」「君のその
言動はまずいよ」と、良くない点を正すべく指摘し、話を折って
しまった。又、「それは、〜した方が良かったね」「もっと別の言
い方をすべきだったね」と、〜こうすべきだと、次々話す。

自分では、解決を図ろうと助言したつもりだった。しかし、つい
に相手はキレてしまって、「先輩は、何も聞いてくれない!あれ
が悪い、これが悪い。ああしろ、こうしろと、正論ばかりを言っ
て、気持ちが全然休まらない。もうイライラする」と親しい間なの
で本音を言ってくれたのだが、大変なショックだった。

確かに、自分は第三者で、客観的に何が正しいかがわかるの
で、答えを言い続けていた。彼の辛い気持ちに寄り添うなど全
く無く、そこに気づきもしなかった。実際は、正しさを押し通し、
押し付けてしまい、荷を軽くするどころか、更に重荷を負わせて
しまっていた。

これではパリサイ人ではないか。主のお心と何とかけ離れてい
た事だろう。私たちが自分の正しさで、相手を苦しめていない
かと言われる。主は、まさにその重荷を取るために来て下さっ
た。
周囲から「良い人」と言われて生きてくると、いつしか自分は正
しいと思ってしまう。正論は、誰しも言われなくてもわかっている。
しかしそれが出来ない、そこが問題なのだ。共に主のもとに行き、
主を仰ぎ、一緒に祈って行く事を教えられた。

・・・・・・・・・・・・・・・
日常生活で、正しい事、なすべき事はわかるのだが、自我が
あるため、妨げとなり、行なうことができない。そんな悶々の
中で、いつも主が疲れた者を招いて下さる。主のもとで取り扱
われ、休ませられる。平安とされる。


2023年11月17日(金)

「あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられるよう に、私を生かしてください。」詩篇 119:156



競技会では、選手は、誰しも緊張する。オリンピック選手はどうだ
ろう。どんなに緊張する事だろう。平素、苦しさにも耐え、厳しい
練習を重ね、当日を目指してすべての犠牲を払い、準備する。しか
し必ずその日に練習した事が、その通りに発揮できるとは限らな
い。そこが難しいところだ。体調もベストコンディションに持って
行くが、どんな想定外の事が起きるかわからない。精神状態もしか
りだ。

オリンピックのような大舞台だと、余りの緊張でミスをしてしまう
選手を時々目にする。時折り、競技をする他の選手をいっさい見な
いで、心を集中させ自分の番に備えている選手を見る。私たちの身
近な入試や就職試験でも、どんなに緊張するだろう。しっかり準備
しても、成果を確実に出せるとは限らない。ミスをしてしまう人々
もいる。

準備の量や、自分の精神力だけではどうにもならない部分を見せら
れる。「人の歩みは、まさに主によって定められる、人に理解でき
ようか」と御言葉が言う。愛なる主と共に歩み、その結果に主を認
める事のできる私たちは何と幸いだろう。私たちの進路、目の前に
起こる出来事、状況、それらはすべて主が定め、決められた事だ。

それを主が決められたものと受け入れる時、揺るぎない平安と確信
により前に進める。又、振り返る時どうだろう。あの時の、この時
の〜ああでも、こうでもない〜、しかし主がそうされたと、そこに
主を認め、信仰により受け取り直す時、心が平安にされる。喜び持
って前に進んで行ける。
--------------
どんな事にも主を認め、主に感謝して歩む人生は何と平安で幸せだ
ろう。主は恵みのもとにある者を、最も完全に導いてくださってい
る。どれも偶然はなく主によって導かれた場所。感謝だ。


2023年11月16日(木)

「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているの なら、神の国はあなたがたに来ているのです。」ルカ11:20



「神の国」とは、神の支配のことだ。神が支配されている所が、神
の国だ。それなら、どうして悩みや苦しみがあるのだろう。神の支
配の中なら、苦しみや悲しみ、問題の無い、平安と喜びで満たされ
た状態ではと思う。なぜそう思うのだろう。悩みや問題は、苦しみ
や葛藤をもたらすものであり、避けたい嫌なものだ。

人間に幸せをもたらして下さるなら、苦しみや悲しみが無い状態だ
と思う。だから、主は、そのようにして下さると思ってしまう。し
かし、それは人間の勝手な思い込みだ。人間の思う神とは、自分に
都合が良い神で、ハピーな事、自分に利益をもたらしてくれる神
だ。人間中心に考えると、そうなってしまう。

そのため、聖書の神もそうあって欲しいと思うので、主が支配する
所なら、心配も悩みも無いはずではと思う。だが、そうではない。
主の支配は、私たちの自由を拘束する強権支配ではない。又、何も
かも私たちの願い通りになるのでもない。それは、ご自分の独り子
を私たちのために殺され、罪も死も引き受けて下さった、一方的
な、無条件の、犠牲的愛による支配だ。

今、この主の愛のご支配の中に置かれている。だから、辛い事も、
試練も起きるが、それは、愛なる神から送られているのであり、愛
のゆえだ。主にはご計画があり、その苦しみは必ず益とされ、私た
ちが願う霊的成長へと導かれ、主を更に親しく知って行ける。必ず
祝福とされ、御霊の実を結ばせて下さる。
-------------
試練は苦しみだけに目がいってしまうが、幸せと思えるものも悲し
みと思えるものも、全て主のご支配の中でくると試練の中で知る。
主が最も近くにおられ愛されている事を知るからだ。平安の実だ。


2023年11月15日(水)

「そして、その子どもの手を取って、『タリタ、クミ。』と言われ た・・すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた」マルコ5:41


信仰の障害とは何だろう。「遅かった」「もう手遅れだ」「もうダ
メだ」という事がある。だが、「神の時」と「私たちの時」は、し
ばしば異なる。ヤイロは病気で、もう危篤の最愛の娘のために、主
に家に来て頂くよう頼んだ。必死だったろう。主はそれに応えら
れ、一緒にに家へ向かわれた。

するとその途上で、中断を余儀なくされた。長血の女性が、いやし
を求めて、主のもとに来たのだ。主は、その女性に対応され、女性
に救いを与えられた。その事で手間取ってしまった。一刻を争うこ
の時に、ヤイロは。もう気が気でなかったろう。するとそこに使い
が来て、娘は亡くなったと告げた。残念ながら遅かった、手遅れ
だ、もうダメだと。

しかし、主は間髪を入れず、ヤイロに言葉をかけられた。「恐れな
いで、ただ信じていなさい」と。信じているようにと。「神の時」
がある。時もすべてが主の御手の内、主に遅延は決して無い。ラザ
ロの時も、「主の時」を待たれた。時が満ちるまで断固動かれず、
そしてラザロの病気を治すのでなく、死からよみがえらせる事によ
り、主の栄光を現わされた。

決して遅れではない。それは主の定められた「時」であり、栄光の
ためだ。主により語られた御言葉を握っていよう。「恐れないで、
ただ信じていなさい」の言葉にすがりつき、そこに立とう。そして
世の言葉「なぜ、この上先生を煩わすことがありましょう」を聞き
流そう。聞く言葉と、聞き流すべき言葉がある。
----------------
自分の思う時に、思うような結果しか望まないなら不安と恐ればか
りだ。主のご愛を信じ御言葉に立っていよう。主は一番良い時に、
最善を与えてくださる。遅れてはいない。御言葉を信じよう。


2023年11月14日(火)

「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照 らされます。」詩篇 18:28



ある人が証しした。初めて教会へ行った時に「あなたは罪人です」
と説明を受けた。「何と失礼な」と内心、ムッとなった。人一倍真
面目に生きて、人のお世話を懸命にして来た。犯罪など犯していな
い。それがどういう事か?だが聖書の学びを続ける中で、その言葉
がずっと耳を離れず「罪人」という事を考えた。

様々思いを巡らす中で、今まで全く考える事もなかった、心の内側
に思いが至った。自分は福祉の仕事をしていて、職場で人々のため
に、身を粉にして懸命に頑張っていると思っていた。周囲にもそう
思われ、まさに親切な良い人であり、皆にも感謝されていた。しか
し心の内を見た時に、自分は良い人だと思われたい、人に嫌われた
くない、人に評価され、認められたいと思っている。

それなら目の前の人々のためなどでなく、自分のためではないか。
人からの賞賛は心地良い。仕事も自己実現できて、生き甲斐ある仕
事がしたいからだ。それなら自己満足ではないか。物腰は低く、決
して表には出さないが、しかし心の中では自分を良い人間と思い、
人々を見下し、さばいているおごり。自分は正しいと思っている自
己義認。

御言葉を学ぶ中で、自己中心、高慢、プライド、虚栄心が示され
た。御霊の光が無ければ、罪は決してわからない。こんな事、誰で
もしている。当たり前で普通の事だ。何が悪いのかわからない。罪
がわかること自体が大きな恵みであり、御霊が力強く働いていて下
さっている証拠だ。罪がわかる事は感謝なことだ。その罪は赦され
るのだから。
--------------
内側の罪はどこか甘く見て歩んでいたが主に救われ、自分の罪、
内側の闇が明らかにされてくる。示されたら変わっていける。主
の大きな犠牲のゆえに与えられた祝福だ。


2023年11月13日(月)

「イスラエルは主がエジプトで行われたこの大いなる御力を見たの で、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた」 出エジプト14:31



映画やビデオでも観る有名な箇所だ。イスラエルの民は、指導者モ
ーセにより、苦難のエジプトから脱出に成功した。しかしすぐにエ
ジプト軍が追跡。後ろに追っ手が迫る中、前は紅海で絶体絶命だ。
えり抜きの戦車部隊と全戦車が追いついて来る。前進も後退も出来
ない。戦いを知らない民が、精鋭部隊と戦うなど不可能だ。まさに
断崖絶壁の窮地であった。

だが主は、この事態の目的を「わたしの栄光を現わす」ため、「民
は大いなる御力を見たので、主・・を信じた」、「民の信仰が強め
られるため」と言われた。私たちも信仰人生の中で、絶体絶命の窮
地に追い込まれる事がある。どうして良いかわからない窮状だ。パ
ニックに陥る。しかしまず落ち着けと言われる。

「恐れるな」「しっかり信仰に立て」「わたしが戦う」との御言葉
を受け取ろう。御言葉の通りに、主は、何と、海の真ん中に道を造
られた。まさに道無き所に、道を造られる。主に不可能は一つも無
い。主が道を造られるので、必ず前に進める。絶体絶命の事態を導
かれる。耐えられない試練は、決して来ない。

「神の栄光」とは、人間ではなく、神にしか出来ない事が起きて、
それがまさに神であるという事がわかる事だ。ある人は経済的窮地
で、ある人は仕事の中で、ある人は対人関係の苦しみの中で、まさ
に奇跡をもって、道無き所に、道を造られる主を経験した。私たち
の窮地は、神の好機会だ。その中で、私たちの信仰が強められて行
く。
--------------
「恐れるな」「しっかり立て」と御言葉が与えられている。自力で
手出しできない最も辛い時に、従う者だけが神の栄光を経験する。
神にしかできない御力を信じ、待ち望もう。


2023年11月12日(日)

「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」 Tサムエル1:10



私たちは、思い煩いが増す時にどうするだろう。み言葉に「何
も思い煩わないで」とあるが、そうは言われても・・と思うだろう
か。あるいは、考えないようにするだろうか。不安や虚しさを考
えたくなくて、予定をいっぱいにし、走り回る人々がいる。しかし
ふっと心に浮かぶと暗くなる。

そんな時、主は、自分で何とかしようとせず、逃げるのでもなく、
ことごとくを主に告げよと言われている。「願い事を主に知って
いただけ。そうすれば主の平安が臨む」と。祈りの人と言われ
るハンナは、不妊に苦しんだ。又、もう一人の妻で子どもを持つ、
ペニンナのいじめに苦しんだ。

神に祝福されていないという、周囲の白い目に苦しんだ。心が
辛さと悲しみと痛みと嘆き、怒り、いら立ちでいっぱいになり、も
うどうにもならなくなった時、立ち上がって、主のもとへ行った。
そして、ことごとくを祈りに持って行った。自分で抱え込んだまま
苦しむのでなく、祈りのために立ち上がった。

ハンナの心は痛みで、主の御前で激しく泣いた。又、長く祈り、
主と交わった。心を注ぎ出し、つのる憂いといらだちを、主に吐
き出し、思いも感情もことごとくを主にぶつけた。主は、私たちの
感情も、思いも、ありのままを受け止めて下さる。

私たちを極みまで愛し、あわれんでいて下さるからだ。ハンナは
主に受け止めて頂いて、エリの「安心して行きなさい。その願い
が叶えられるように」との言葉で、もはや以前の顔でなく、すっき
りし平安になった。主のもとへ行き、ことごとくを告げよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
問題が来た時に、考えたくなくて、避けたり、逃げたりしていたい。
その瞬間は忘れるが、しかし、それはずっとそこにある。主は、
解決して下さるし、導いて下さる。それをまず主のもとに持って
行こう。祈りの中でゆだねて行く時に、必ず感謝へと導かれる。


2023年11月11日(土)

「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除し てやった」マタイ18:27



人を赦す事の難しさを経験しただろうか。人を赦せない事ほど
辛く、苦しいものはない。心が重く、鉛を抱えているようだ。どんな
に楽しい時も、喜びの時も、その事が頭をよぎった途端、心は辛
く、暗くなる。喜びがぶち壊しになる。ペテロが何度まで赦すべき
かと、主に問うた。

その時に、主は7度を70倍するまでと言われ、王としもべの話を
された。6000億の借金の返済不可能なしもべを、王はかわいそ
うに思い、赦し、免除してやった。主の大きなあわれみだ。ところ
が、そのしもべが、100万を返金できない仲間を決して赦さず、
牢に投げ入れた。それを聞いた王は非常に怒り、そのしもべを
借金全額返済まで投獄した。

私たちはどうだろう。主の十字架により、すべての罪を無罪放免
にされた。何という驚くべき恵みだろう。自分はその大きな恵み
を受けていながら、人を赦さないとはどうだろう。そして赦さない
心は、牢獄の中だ。獄につながれ、暗闇の中で、がんじがらめだ。
苦しいのは相手ではなく、自分自身だ。主は、獄から光へと出
して下さる。救って下さる。

しかし、自分の側の意志と決意が必要だ。罪の性質は、赦せ
ないのではなく、決してどこまでも赦したくない。主は赦せるよ
うにして下さるが、心の底ではそうしたくない自分がいる。「どう
にもできません」と祈ろう。目の前の相手から逃げても、次の環
境で、又、別の相手がいる。自分が変えられる事が御心だ。主
は自由にして下さる。まず正直に「赦したくありません」と主に祈
ろう。

・・・・・・・・・・・・・・
「人にはできないことが、神にはできるのです」と、赦すことは、
人にはできない。自我は決して赦さないし、赦したくない。しか
し、神にはできることを経験して行く。まず祈りから始める時、、
みわざを経験して行く。


2023年11月10日(金)

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者 を救われる。」詩篇34:18



謙遜とは、本当は自分には力があると思っているが、それを人に見
せびらかさない、という事ではない。世の中ではそうかもしれない
が、そうでなく、本心から自分の無力を認めている事だ。パリサイ
人と取税人の祈りの箇所で、取税人は真に自分の罪深さがわかって
いた。それでパリサイ人のように、人と比べる事など思いも及ばな
い。

人の事など目にも入らず、ただただ、自分と主との関係だけがすべ
てで、自分の罪が見えるだけだった。主に赦しを求め、そして彼は
赦された。モーセは40才の時に、自力で、同胞を救うために立ち上
がった。だが失敗し荒野に逃れ、羊飼いとして40年を過ごした。そ
の後、主に召し出された。40年前と違い、老人で、かつての栄光も
地位も財も人脈も何も無かった。

真に自らの無力を知ったモーセは「私は何者なのでしょう」と尻込
みする中、主の説得で押し出された。一番弟子のペテロは、いつも
前面に出て、出しゃばる自信家だった。だが目の前で大漁の奇跡を
見た時「私から離れて下さい。私は罪深い者」とへりくだった。そ
して主を三度否んだ後、大泣きして悔い改め、自らの徹底無力を思
い知った。

自分の無力を知る人こそが、大いに祝福された幸いな者だ。自分を
誇らず、自分に頼らず、頼れず、主に拠りすがって行くからだ。砕
かれて、無力を知って行く歩みこそが、大きな祝福だ。
--------------
主による救いを受けていても、すぐに自分を頼りにし喜んだり悲し
んだりする。自分の無力を知るというのは何と平和なことだろう。
罪を悔い改めれば赦しを受け、御言葉に励まされ主と共に歩める。


2023年11月09日(木)

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足さ せるようなことはありません。」ガラテヤ5:16



主を信じ救われた私たちは、新しい性質が与えられているので、主
に従って行きたいと願う。しかしその時に、古い性質もあるので、
自分の力で主に従おうとする。すると、どうだろう。腹の立つ事態
が生じると「主は柔和なお方」と、怒りを我慢し、抑え込むだろう
か。又、思い通りにならない事態が起きて、イライラすると「忍耐
しなければ」と、ひたすら我慢しようとする。

あちらでも、こちらでも、我慢に我慢を重ねる。しかし抑え込んだ
ものは、底に溜まって行くので、許容量を越えると、必ず爆発す
る。定期的に爆発しては、それまでの証しを台無しにしてしまうだ
ろうか。あなたも経験あるだろうか。我慢というのは、単に抑え込
むだけなので、それが溜まるといつか大噴火する。

主に従うとは、内側に抑え込んで我慢する事ではない。それなら、
表面を取り繕うことだ。クリスチャンである事は、フラストレーシ
ョンのかたまりになってしまう。そうではなく、欲求不満を底に置
いたまま、歯を食いしばって、ひたすら我慢するのでなく、「我慢
できません」「忍耐できません」「腹が立ちます」と主にありのま
まを祈って行くことだ。主に信頼して行く時、主は受け止めて下さ
り、力を与えて下さる。

まず、ありのままの自分を主に打ち明けよう。主は愛して、そのま
まを受け止めて下さる。その時、不思議に心が平安にされる。そし
て御声に耳を傾けよう。主のみ思いを伝えて下さる。その御声に従
おう。出来ないと正直に言い表しているので、御霊が必ず助けて、
働いて下さる。御霊の支配の中に置かれるので、自力でなく御霊に
よって歩むことができる。
--------------
頭でわかっていてもいざ従おうとすると出来ない自分を示される。
肉では出来ないと知ることは感謝だ。出来ませんと主に祈れる。
出来るようにしてくださいと祈ろう。主が備えてくださる。


2023年11月08日(水)

「・・彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ば して、それを押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからで ある。」Uサムエル6:6



サウルに代わり、ダビデが王になった時に、神の箱をエルサレムに
持ち帰ろうとした。その時にアビナダブの子、ウザとアフヨがこの
任に当たり、牛車を御した。その時、牛がよろめいて、神の箱をひ
っくり返しそうになり、ウザが押さえた。すると神の怒りが燃え上
がり、ウザは打たれて死んだ。

このような事態になったからには、ウザに何かの過失があった。当
時、神の箱は、アビナダブの家に運び込まれ、数十年を経ていた。
置き去りにされ、放ったままで忘れられていた。神の臨在の象徴で
ある、聖なる神の箱がこんな形で置かれていた事が、当時の人々の
霊的状態を表していた。

又、神の箱は、移動では、レビ人のケハテ族が棒を通して、肩に担
いで行くよう定められていた。そして箱には決して触れてはならな
かった。箱に直接触れる事は死に値する罪だった。だが、運んだ彼
らはレビ人ではなかった上、ペリシテ人がしていたように牛が引く
牛車に乗せて運んだ。神の定めた方法には無頓着であり、反してい
た。神の定めた方法でなく、自分たちの方法で行なった不従順だっ
た。

だが、み言葉は「不敬の罪」「ウザによる割り込み」と言ってい
る。主のみわざに割り込む事、人が主を支えようとする事の罪だ。
主はすべての主権者であり、主ご自身のご計画がある。人の手に支
えられる必要はない。配慮のつもりが、自分の独善で、思いで、主
のご計画に割り込む事になる。主の上に立ち、主を妨げてしまう。
祈りにより、お心を知り、それに「従う」事を喜ばれる。
--------------
どこか真に主への畏れが失われていないか。問題がなければ自分が
先に出てしまう。簡単に御心だと過信してないかと示される。御前
にへりくだり、日々新しくされ、謙遜な態度で主に従いたい。


2023年11月07日(火)

「・・そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのと げを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打 つための、サタンの使いです」Uコリント12:7


パウロは、とげが与えられて、痛いとげが取り去られるよう、祈り
に祈った。より働けるようにと思っただろうか。その祈りに主は答
えられた。その答えは「ノー」で、取り去らないと。そのとげがあ
る事で、弱さの中に、完全に働く主の力を知れるからと。弱さの中
で、絶えず主の臨在の中を歩めると。

パウロは主の御心を示され、大いに喜んで自らの弱さを誇ると言っ
た。この御言葉は不思議に思えるだろうか。この世の価値観では、
強いことが善であり、弱さとは、劣っているという事だ。だから頑
張って弱さを克服し、強さに変えようとする。弱さは欠点であり、
人前に恥であり、恐れとなる。それが世の価値観だ。

そのため、弱さは知られたくないし、見せたくない。人はそのよう
に生きている。だから弱さは足かせで、重荷以外の何ものでもな
い。
そんなところに、「わたしの恵みはあなたに十分。わたしの力は、
弱さのうちに完全に現れる」との御声が臨んだ。パウロは「私は、
弱さに甘んじている」と、その中にいる事を喜べた。

そして、そのとげは高ぶることがないようにと、与えられ、自らを
へりくだらせるものだと。とげを受け入れる事により、高ぶりから
守られる。弱さ、侮辱、苦痛・・を甘んじて受け入れる事で、私たち
は恐るべき高慢から守られる。高ぶりほど恐ろしいものはない。
--------------
信仰があってもどこか精神的にも肉体的にも弱いより強い方を誇り
たくなる。生きるのが楽な気がするからだ。でも主の御心は違う。
主から与えられるものだけが誇りだ。弱さの内に主の恵みが溢れ
る。


2023年11月06日(月)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い 煩いを知ってください。」詩篇 139:23



信仰生活の中で、「思い煩い」についてどうだろう。よく思い煩っ
てしまうだろうか。思い煩いたくなど無いのに、あの事、この事〜
と抱え込んでは、平安なく、心重く、沈んでしまう。主は「思い煩
い」について教えておられる。明日の事を思い煩うなと。明日の計
画、準備をするな、ではなく「思い煩うな」と言われた。

人は、自分の力量を超えたことに関して思い煩う。明日の事は、人
間にはわからない、いっさい見えず、理解不可能だ。そのため思い
煩ってしまう。しかし、主は、「あすのことは、あすが心配する」
と言われた。明日は、明日が心配するから、今日心配する必要はな
いと。明日、何が起こるか全くわからない。自分の限度を超えてい
る。

明日を悶々と思い煩う事で、今、現在の大切な時間をつぶしてしま
う。それこそが問題だ。今日なすべき御心を行う事ができない。主
を喜び、感謝し、証しするための今日を、暗い、沈んだ、平安と喜
びのない一日にしてしまう。そしてこの大切な一日は帰って来な
い。「労苦はその日その日に〜」の通り、今日一日になすべき御心
があり、「今日」の分は負える。今日を、精一杯主と共に生きるよ
うにと。

そのために、大切な事は、思い煩いを主に委ね、明日を委ねる事
だ。主を信じ、委ねることが、思い煩いの解決の道だ。「あなたが
たの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」。全知全能の愛に満
ちた神が、あなたの事を心配していて下さるからと。ゆだねる事が
できないなら、そうできるよう祈り求めよう。主は助けて下さる。
---------------
思い煩いは、気力を奪い一日ばかりか多くの事を見失わす。心配が
来るとき、繰り返し祈り委ねていこう。主に向かって祈る心に、
主は心配事よりも強い平安を必ず与えてくださる。


2023年11月05日(日)

「彼らが、『私たちをさばく王を与えてください。』と言ったとき、 そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは 主に祈った。」Tサムエル8:6



サムエルの息子たちが、「父の道に歩まず、利得を追い求め、
わいろを取り、さばきを曲げていた」。そのため、民は、他国のよ
うにと、王を求めた。だが、民はこの時にまず祈るべきであった。
主に導きを求めることなく、自分たちの思いで、肉の判断で求めた。

主は、サムエルを通して、人間の王の権利を示し、「あなたがた
は王の奴隷となる」と厳しく警告された。しかし、それにもかかわら
ず、自分たちの思いを通して行った時に、主は、王を与えられた。
肉で蒔いたものは、肉の実を刈り取る。主は、民が願った通りに、
外見的にも、見栄えのする人物を選ばれた。若い美しい男性で、
誰よりも背も高かった。容姿端麗であり、彼らの求め通りの王だ。

サムエルは、そのサウルに油を注ぎ、王に立てた。サウルに主
の霊が激しく下り、預言を始めた。しかし人間的には良い人物で
あるが、霊的資質には問題があった。ダビデのような主との個人
的な親しい関係、主を畏れ、主を愛し、悔い改めつつ、従う、その
ような主への心が見られない。権力の座に座った時に、その弱さ
が段々現れ出て、高慢になって行った。

サウル自身にも、主なる王がおられ、ひれ伏し、従う者である事
を忘れ、欲しいままに振る舞った。私たちも、立ち止まってみよう。
主に祈らず、肉の判断で進んでいないだろうか。どうしても欲しい
と我を通す時、主は与えられる。しかし虚しい結実となる。主の
御心に従うことが、どんなに幸いで祝福だろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
肉の思いが強く、何がなんでも、どうしても欲しいというものを、主
は与えられる。しかし、「主は彼らにその願うところを与え、やせ衰え
させた」とあり、虚しいばかりだ。主の御心を求める時に、主に喜ば
自分自身も喜び満たされる


2023年11月04日(土)

「イスラエル人はこれを見て、『これは何だろう。』と互いに言った。 彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言っ た。『これは主があなたがたに食物として与えてくださったパン です』出エジプト16:15



苦難の中にいたイスラエルの民は、主の偉大な奇跡により、出
エジプトを果たした。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を
収められ」と主を讃え、大いに喜び踊った。だが荒野に出て、3
日間歩いた途端、「水が無い」とのつぶやきに変わった。次には、
食べ物が無いと不平不満をモーセにぶつけた。エジプトで死ん
だ方が良かったとまで言う。

主はそれに答えられ、天からマナを降らせ、夕にはうずらの大
群を降らせられた。このマナは1日分だけと命じられた。従わず
に、朝まで残しておくと、虫がついて腐った。朝ごとに、各自食
べる分だけ集め、残ったものは、日が高くなると熱くなり溶けた。
主は「朝ごとに」「各自」「食べる分だけ」と定められた。

どうだろう。1日分だけと言われても、密かに明日の分も、明後
日の分も、集めるだけ集めたい・・もし、翌日降らなかったらど
うするのか?主を信じられなかったら、そうしてしまう。しかし主
は、来る日も〃、荒野の40年間、毎日〃マナをもって養われた。
これは自分でなく、主によって生かされているという事実を心身
をもって知らせようとされた。

「神が私を生かして下さっている」「私は神により生かされている」
これを心底知る時に、思い煩いから解放される。日々、様々な
形で、主に信頼し、御声に従う訓練が、私たちにも臨んでいる。
信じようとしないなら、いつまでも主を知ることがない。御声に、
言われた通りに一歩意志を向けて、従ってみよう。 

・・・・・・・・・・・・・・・・
主を信じないと、翌日降るかどうかわからない不安で、取っておく。
すると、ずっと心配と思い煩いを揺れ動くままだ。自分の内の、
主の言葉を信じる事を妨げているものを、照らされるよう祈り、
一歩一歩取り扱い導いて頂こう。


2023年11月03日(金)

「しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名 を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選び の器です。』」使徒9:15 


アナニヤは、ダマスコに住んでいた。当時、激しい迫害の中、キリ
スト者はエルサレムからあちらこちらに散らされ、国外にまで散っ
て行った。しかしユダヤ人たちは、彼らを徹底的に、どこまでも執
ように追った。青年サウロは、クリスチャンを捕らえるべく、大祭
司にダマスコの諸会堂宛の手紙を書いてもらった。その途上で、突
然天からの光を受けることになる。

一方、アナニヤは、迫り来る危機に、必死に祈っていた事だろう。
そんな時に、「アナニヤよ」と主の御声を聞いた。主からの御声に
どんなに心強かっただろう。だが、その主の言葉は驚くべきものだ
った。キリスト者に殺害の意に燃えて、迫害を重ねて来た、サウロ
に会いに行けと。そして盲目になっている彼の開眼のために祈れ
と。

アナニヤはとんでもない想定外の内容に、驚き、戸惑い、理解でき
ず、彼は迫害者で・・と問うて行く。主は、彼は宣教のための選びの
器だと、行けと答えられる。アナニヤはどうだったろう。愛する多
くの同胞を殺害した相手だ。その相手を助け、祈れと言われる。

あのサウロが、本当に回心したのだろうか。そんな事があるのだろ
うか。自分も殺されても不思議はない、命がけだった。それに本当
に主の御声なのか。聞き間違いでは?様々な思いがよぎっただろう
か。しかしアナニヤは、主に従った。主はアナニヤをこのために選
ばれ、彼が従うことを知っておられた。

彼は、常々、御声に耳を傾け、主との交わりの中に生き、従い続け
て来た弟子であった。私たちも普段の地道な、主との交わりを大切
にし、「主よ。ここにおります」と答えよう。
-------------
主のご計画はいつも先行している。自分の思いで推し量ることは出
来ないが、主に示されたなら従いますの姿勢でいたい。不安も疑問
も祈りながら主の導きに従っていこう。


2023年11月02日(木)

「群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知る と、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウム に来た。」ヨハネ6:24



人々は、主が、5つのパンと2匹の魚で、群衆を満腹させた奇跡を
見て、主を自分たちの王にかつぎ上げようとした。主は、人々が、
むりやり連れて行こうしているのを知り、一人、山に退かれた。
そして群衆が、主を捜し、湖の向こう岸で主を見つけた。「いつお
いでになりましたか」と問うた時に、彼らが主を捜している動機を
指摘された。

「あなたがたがわたしを捜すのは、しるしを見たからでなく、パン
で満腹したからだ」と。彼らは、皆がパンで満たされた、その驚く
べき奇跡を見た。だが、その奇跡を見て、主を神の子キリストとし
て認め、礼拝するのではなかった。主についておれば、いつも食物
がもらえるのなら、こんなにラッキーな事はない、ご利益宗教であ
り、利得のための信仰だった。

自分の願望を叶えて欲しいばかりで、それだけだ。主がどのような
お方かに、主のみ思いに関心はなく、自分の願望を満たして欲しい
だけだった。主ご自身に関心が無いので、自分の利得になっている
間はついて行くが、自分の思い通りにならなければ、離れ去る。つ
いて行く意味がないからだ。


私たちはどうだろう。自分の願いを叶えて欲しい、それだけだろう
か。主は、必要を与えて下さる。しかし主の側の事はどうだろう。
主のみ思いに心を向けているだろうか。主はみこころをお持ちだ。
その主と交わりを持ち、お心を知り、従って行くことを喜ばれる。
そして、私たちは、自分の利得に関係なく、どんな中でも、主を崇
め、主を礼拝して生きることが、人生の目的だと知っている。
---------------
主のお心はどうだろう。自分の側のことばかりで主との関係は少し
も考えていないのではないか。主が私に与えてくださるのは、主が
喜ばれている事だ。だから最善だ。主を喜び賛美していたい。


2023年11月01日(水)

「・・大麦のパンが五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、 なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。」ヨハネ6:13


主は、み言葉を聞きに集まった、大勢の人々のために、ピリポに
「どこからパンを買って来ようか」と問われた。しかしご自分で
は、しようとしている事をご存じの上だった。ピリポは、手持ちの
お金と人数を見て、「200デナリでは足りない」と答えた。人間
的、常識的判断では不可能であり、「足りません」が答えだった。

ところがアンデレは、何か食物を持っている者はいないかと、大勢
の中を探し回った。そして小さな弁当を持っている子どもを連れて
来た。それは五つのパンと二匹の魚であった。あるいは、もしかし
て主が何かして下さると思ったのかも知れない。しかし、極少の弁
当が、こんなにも大勢では何になろう。主への期待と、だが大勢過
ぎて無理と。

しかし主はこの小さな信仰を用いて、この奇跡をされた。ここで学
ぶ事ができる。「足りない」との判断、答えは、自分を軸にした視
点に立っている。それを自分軸でなく、主を軸にした視点に変える
事が大事だ。自分には能力が足りない、時間が無い、費用も無い、
体力も無い・・だから出来ない。

それはあくまでも自分軸視点であって、主はどう思っておられるの
か。又、5つのパンと2匹の魚、「何になりましょう」こんな小さ
なものが何になろう、あっても無くても同じようなもの。「無
理」、しかし、その僅かなもの、小さなものを、主に献げるなら、
主は受け取って下さり、驚くべきみわざの中に入れて下さる。
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どうせ無駄だとの思いはいつもつきまとう。この手にあるのは小さ
なものでも、主は心のままに用いてくださる。自分軸から主に視点
を移し、主のご計画の前に信仰をもって手を上げよう。