2023年12月31日(日)

「子よ。あなたの罪は赦されました。」マルコ2:5



ある父親の証しだ。ある頃、息子の様子がおかしく、いじめでは、
と思えた。服が汚れ、持ち物が無くなり、普通でなかった。腹痛で
寝込み、食欲失せ、不登校になった。父親は息子に、勉強を強い
た。悪い成績だと、怒鳴りつけた。自分が、受け入れられなかっ
たのだ。息子は心が荒れて、うっ積が爆発した。父親に暴力を振
るった。

家の中は物が壊れ、滅茶苦茶だった。父親は職場で責任ある立
場にあり、仕事量も半端無く、、仕事でも悩みを抱え、もう限界だ
った。飲酒に逃げた。ただただ現実を忘れたかった。もう、心が
どうにもならなかった。そんな時、親しい友人から聖書カウンセリ
ングを勧められた。何のすべもなく、八方塞がりの中、受けてみ
ようと思った。

学びが進む中、自分の姿が見えて愕然とした。余りの苦しみに、
この子さえいなければと思ってしまう自分、仕事人間で、野心で
いっぱいで、家庭の事など、妻任せで、全く頭に無かった。息子と
話した事もなく、自分のプライド、虚栄心、世間体、自分しかない
ではないか。息子の気持ちなど考える事もなく、自分の思いを押
しつけて来ただけではないか。

涙が溢れて止まらなかった。心から悔い改めた。十字架が、自分
のための身代わりである事がわかり、赦しを受け取れた。又、感
謝の涙が溢れた。導き手に共に祈ってもらい、息子に向き合った。
涙と共に心から詫びた。赦しを乞うた。父子の間に、暖かいものが
流れた。主が働いて下さった。

・・・・・・・・・・・
この一年も、お祈りと沢山のお励ましを頂き、有難うございました。
お一人お一人の上に、主の豊かな祝福を祈りつつ、今年も続ける
事ができた事に感謝します。スタッフの都合で年始はお休みを頂き、
1月8日より再開予定です。良いお年をお迎え下さい。主の豊かな
祝福がありますように。配信係より


2023年12月30日(土)

「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるの ですか・・いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らねば ならないのでしょうか」詩篇13:1


この詩篇13篇の中には、4回の「いつまで」が出て来る。「主よ。
いつまでですか」「いつまで御顔を私からお隠しになるのですか」
「いつまで私は・・思い計らなければ」「いつまで敵が・・勝ちおご
るのか」。主は御顔を隠しておられて、私は悲しい。「私の心には、
一日中、悲しみがあり」と。敵は高ぶって攻撃してくる。厳しい試
練の中だ。

人は、試練の終結の時が、解放される時がわかっていれば、い
つまでかがわかっていれば、忍耐できる。しかしいつまで続くの
かわからない、先が全く見えない状況ほど苦しいものはない。私
たちも試練の最中は、真っ暗闇のトンネルの中で、全く出口が見
えない。光が見えない。いつ終わるのか見えないと、更に苦しみ
となってのしかかる。

ダビデはこの苦しみを、率直に、ありのまま主ににぶつけている。
こういう時は、苦しみや悲しみ、嘆きを主に吐き出す事だ。「自分
のたましいの内で思い計る」、自分が、自分の思いの中で計り、
自分の思いに立つ所から苦悩が来る。「私の目を輝かせてくださ
い」と祈っている。自分でどうこうでなく、御霊の光が来る時、視点
が変えられる。自分中心の視点から、主に焦点が合ってくる。

主の視点で見た時に、状況は変わらないが、突然変化した。「あ
なたの恵みに拠り頼みました」と。そして「私の心はあなたの救い
を喜ぶ」「主に歌を歌う」と。喜んで賛美できた。大転換だ。視点
がどこにあるかだ。今、あなたが厳しい試練の中なら、主の視点
に立てるよう祈ろう。「私の目を輝かせて下さい」と。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
祈りが飛んでしまい、自分で何とかしようとする時に、落ち込んで
行く。平安が失せ、喜びが消え、暗く、不安の中だ。すぐに主のも
とに行き、正直に交わる時、必ず引き上げられ、導かれて行くこと
を繰り返し〃経験して来た。ありのままを告げてみよう。


2023年12月29日(金)

「 人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成 る。」箴言 19:21



私たちの思いには、様々な計画が浮かんで来る。しかし、それら
は、主からの思いと、主以外からの思いが混在する。すべてが、主
からのものなのではない。「神はみこころのままに、あなたがたの
内に働いて、志を与え」とあり、神からの志がある。又、自分の肉
からの思いも湧き上がる。

又、悪魔からの思いも来る。「悪魔はすでに・・ユダの心にイエスを
売ろうとする思いを入れていた」とあり、悪魔がユダに思いを入れ
た。ユダはそれを受け入れてしまった。プランに関する思いが来た
なら、まず祈ろう。祈りによって、どの源から来ているか、御霊が
教えて下さる。様々な思いが来るが、その中で、主の御心と一致す
るものなら、必ずその計画は成し遂げられる。

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成
る」。もし御心で無いなら、どんなに願っても成就しない。主の御
心だけが成る。すべての主権は主にあるので、私たちの側とすれば
「何も思い煩わないで・・願い事を神に知っていただきなさい」とあ
るように、心にある願い事は、まず主に申し上げ、知っていただい
て、その結果はお委ねすればよい。そして、平安でおればよい。

「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が・・」となる。
もし御心ならその計画は進んで行くし、御心でないなら主が閉ざさ
れる。それで平安だ。御心だと思ってしまう事が、そうでない場合
もある。まず祈りに持って行くなら、御霊は教え導いて下さる。
-------------
祈っていてもイライラと平安がないのは、委ねたつもりでも、結果
は握ってしまっているからかも知れない。早く良い結果を得たい。
よく祈りすべてを主にお任せたい。今日示されたことを喜んでして
いこう。


2023年12月28日(木)

「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。 なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか」伝道7:16


「正し過ぎてはならない」「知恵があり過ぎてはならない」とあ
り、日常生活において、この言葉は知恵と指針を与えてくれる。何
事も「過ぎるな」と教え、戒められている。親の子どもへの過干渉
や過保護が、どんなに子どもを損ない、妨げるかはよく知られてい
る。

子どもを保護する事は親の義務で、重要で大切な事だが、「過」保
護は違う。子どもを転ばせたくないために、親が先回りし、石を取
り除く。親が子どもが転ぶのを、見るのが痛いためだったりする。
それなら、子どものためでなく、自分のためだ。

転ぶ事を知らない子どもは、失敗への免疫と耐性が無いので、大き
くなった時に、小さな失敗すら耐えられず、乗り越えて行けない。
若い時に転ぶ事を、失敗や挫折を経験する事は良いことだ。又、過
干渉は、子どもを親の思い通りにし、子どもの意志を奪い、子ども
は、自分がわからなくなる。

絶えず親が口を出し、「ああしろ、こうしろ」と指図する。実は親
が不安なので、自分の不安を解消するために、口うるさく言う。親
の「保護」は必要で良い事だが、過ぎると害になる。又、自分の信
念に従って、意見を言える事は良い事だ。わがままとは、相手の事
も状況も、いっさい考慮せず、ただ単に自分の我を押し通すこと
だ。

だが注意が必要なのが、正しく意見を述べる良い事も、「過ぎる」
と正しくなくなってしまうと。自分の意見を述べていたはずが、過
熱すると、どうしても自分を押し通したい、自我がむくむくと出て
来る。議論に負けたくない。又、正論だが、そこに愛が無い、とい
う間違いも犯しやすい。過不足の無いように、祈って、へりくだっ
て、御霊に導いて頂こう。
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謙遜にならなければ、御霊の導きが聞こえない。正しいと思うとき
大きな罪に迷い込む。それに気づけない。自分は弱く間違いに気づ
きにくい者だと覚えて、主の前にいつも謙遜を祈っていたい。


2023年12月27日(水)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時 がある。」伝道3:1


すべての事に「神の時」があり、主も「時」を非常に重んじられ
た。「わたしの時がまだ満ちていないからです」「見なさい。時が
来ました」。私たちの信仰生活にも、何事においても「時」があ
る。カナの結婚式の真っ最中に、欠かす事の出来ない、ぶどう酒が
無くなった。これは大変な失態で、新郎新婦の顔は丸つぶれだ。そ
の時、母マリヤは、何よりもまず主に告げた。

主ならすぐに何とかして下さると思った。だがその時、主は「わた
しの時はまだ来ていません」と答えられた。私たちはとにかく
「今、すぐに」答えを期待する。即、答えが欲しい。すぐに!〃と
思う。しかしマリヤは、自分で動こうとせずに、この事態を主にゆ
だねた。その結果、主は奇跡をして下さった。

サウル王は、時を待てずに失敗した。ペリシテの攻撃が来た時に、
遅れたサムエルの到着を待てず、自分でいけにえを献げた。だがい
けにえは、祭司しか献げる事ができない。この事のためにサウル王
は、王位から退けられた。アブラハムも、神の時の事で失敗した。
子孫を与えると神の約束を受けたが、待てども〃実現しないので、
女奴隷ハガルにより、子どもを得た。

自分で、事を成した。しかし肉で行なうと、秩序が乱れ、大きな問
題と混乱を生み出した。神の時を、待つ事が信仰だ。忍耐して待ち
望もう。必ず神の時が満ちると、目の前でスルスルと、ひとりでに
事が動き出す。
-------------
早ければ早い方が良いとの価値観で動いてしまう。失敗してはじめ
て神の時ではなかったと示される。逆に絶妙なタイミングで全ての
事が運ぶとき、これが神の時だと知る。神の時をよく悟れるように
祈っていたい。


2023年12月26日(火)

「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明ら かにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。」 エペソ5:13



ある人が、夫の転勤で引っ越す事になった。夫は職務の事で、先に
現地に移動した。家の荷物を整理し、荷造りし、トラックを見送
り、自分は新幹線で引っ越し先に向かった。一人で向かう中で、こ
れまでの様々な事が脳裏を巡った。今まで過ごした地を去るに当っ
て、万感の思いがあった。沢山の数えきれない思い出がある。何よ
り主の守りを感謝し、心で祈りつつ、主との交わりの中で、色々考
えた。

一番大きな事は、隣家との関係の事だった。実は、隣家の主婦が苦
手だった。ズバズバと物を言い、どんどん入り込んで来る。お節介
に感じて、正直、非常に苦痛だった。苦手意識がどうしても出てし
まい、相手との関係がギクシャクしてしまう。しかし自分はクリス
チャンであり、主のみこころは愛する事だと思い、相手の物言いや
態度にも我慢してしまう。それがストレスとなった。

言い方にとげを感じると、傷つくので、相手を避けるようになっ
た。顔を合わさなければ、傷つくこともない。だが顔を合わさなく
ても、心は悶々で重かった。そんな時、夫に辞令が来て、どんなに
ほっとし、安堵した事だろう。これで楽になれると、内心嬉しかっ
た。そんな経緯があり、その車内で、ありのままを主に打ち明け、
祈った。

その時に、突然光が射して、とげを出していたのは、自分だと気づ
かされた。相手が嫌いで、相手の嫌な面しか見ておらず、心では相
手を裁き、責め、憎んでいた。紛れもなく、とげは自分にあった。
心から悔い改めた。心に平安が広がって、御霊の喜びが来た。新し
くされて、新しい地へと進める事に感謝した。
-------------
以前は暗闇でも今は主にあって光となった。光に照らされ明るみに
出されることが感謝だ。暗闇の業を自覚し、認めることが出来る。
示されて、示されて、光の中を歩んでいこう。


2023年12月25日(月)

「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたの です」ルカ1:30



マリヤはナザレの田舎で暮らす、ごく平凡な女性だった。ヨセフと
婚約中で喜びの中にいた。そんな中、突然、御使いガブリエルが現
われ、みごもって、男の子を産むと告げられた。余りにも唐突な事
態に、「どうしてそんなことになりましょう」とマリヤは、まだ結
婚もしていないのにと問う。「聖霊があなたの上に臨み」と聖霊に
よる事と告げられる。

突然の事で、それがなぜ、自分なのかと大きな戸惑い、恐れ、不安
に襲われたろう。結婚前に妊娠するなら、石打ちの刑だ。又、ヨセ
フはどうなるのだろう。聖霊によりみごもったなどと、信じられる
のだろうか。この結婚はだめになるだろう。周囲は白い目で見るだ
ろう。これはマリヤが望んだ事でも、選んだ事でもない。

一方的に、主がマリヤを選ばれた結果だった。しかし、主は、マリ
ヤが従う事を知っておられた。マリヤは、周囲に説明も、弁解も出
来ない立場を受け入れ、覚悟を決めた。受け止めて、主に命を差し
出した。私たちはどうだろう。マリヤのような大きな事は来ないか
もしれないが、日常生活で、様々な出来事にそうぐうする。私たち
が望んだ事でも、選んだ事でもない状況にでくわす。

その時に、思い通りでない事に、自我はあらがうが、主はマリヤ同
様、私たちにも、最善のご計画をもって臨んでおられる。私たちを
選び、主のわざを成そうとされている。「この身になりますよう
に」と、お献げして行けるよう、なかなか難しいからこそ祈って行
こう。
-----------
御心の天になるごとく地にもと・・祈りながら、自分の生活のあれ
こればかり計画していく。この世界に御子を与えてくださった主の
ご愛を覚え、ご計画の最善を信じてへりくだり与っていこう。


2023年12月24日(日)

「カレアハの子ヨハナンと、すべての将校と、すべての民は、『ユダ の国にとどまれ。』という主の御声に聞き従わなかった。」エレミヤ 43:4    

                

民は、エレミヤに、自分たちは、多くの民からごくわずがだけ残っ
た。主のみ声に従うから、歩むべき道、なすべき事を主に伺うよう
願った。すると、主の示しがエレミヤに臨み、この国にとどまるよ
うにと。バビロン王を恐れるな。わたしがあなた方を救い出すから
と。エジプトに行くなら剣とききんと疫病で死ぬ事になると。

彼らは、良くても悪くても主の言葉に従うと言ったのに、とどまれと
の示しに従わなかった。実は、エジプトへ行く事をすでに決めてい
て、その承認が欲しかったのだ。私たちはどうだろう。主の御声に
従いますと言い、そのために御心を求めると言いつつ、実は心で
は自分の強い願望があり、すでに決めていたりする。

それを保証し、後押ししてくれる御言葉が欲しい。願望が強いと、
無意識に御言葉を自分で選んでいて気づかない。自分の思いで
進み、失敗してしまう。ユダにとどまるなら、バビロンに殺されるの
ではと、民は不安と恐怖におののいていた。主が「わたしが救う」
「わたいが救い出す」と語られたにもかかわらず、御声に従わず、
エジプトに逃げるという目に見える安易な方向へ進んだ。

私たちも、自分の内から、肉の声が湧き上がる。見た目に、都合
良く、楽な道だ。主の御声は時として厳しい。目の前に二つの道
があるだろうか。不安や恐れ、思い煩いをありのまま祈ろう。主に
従えるよう、助けを求めて祈ろう。自分では出来ないが、御霊が
必ず従えるよう助けて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
様々な声が聞こえる。地に属し、肉に属し、悪霊に属する声が来
る。そして上からの声がある。それらが絶えず混線している。祈り、
主に頼って行く時に、御霊が識別させて下さる。平安のある無し
や御言葉や、環境の閉じ開きによって正しく導いて下さる。


2023年12月23日(土)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに 人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」ピリピ2:3



ある牧師が証しした。若い神学生の頃、学生仲間とトラブルが
起き、議論となり、それが高じて言い争いになってしまった。気ま
ずくなり、互いに口もきかない状態になった。相手が間違ってい
ると、腹が立って仕方がない。赦せない思いは、重苦しく、心悶々
であったが、絶対に赦したくないのだ。

しかし、賛美指導や説教の当番があり、順番に回って来る。こん
な怒りまみれの状態で、説教の準備など出来るはずもないのだが、
しかし怒りはおさまらない。とうとうせっぱ詰まり、主の御前に出て、
率直にあるがままを告げて祈った。いら立ち、さばき、赦せない
思い、敵対心・・何もかも打ち明け、主の御前にいた。

その時、主の十字架が、目の前に浮かび上がり、迫って来た。何
の罪も無い方が、罪を犯した者がかかる十字架にかかっておられ
る。代わりに罪を負われ、こんな自分のために、何もかもを、すべ
てを捨てて下さった。それにひき替え、自分はというと、自己主張、
自己防衛、自己憐憫、自己正当化、どこまでも、ただ〃自分、自分、
自分の事しかない。

議論になると自分の正しさを主張し、相手をねじ伏せたい。相手に
勝ちたいばかりだ。そこに愛など全く無かった。何という事かと涙
が溢れ、心から悔い改めた。心がすっきりし、赦されたことがわか
った。あれほどの悶々の心が、すっかり平安になってしまった。仲
間に謝り、和解できた。「・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十
字架の死にまでも従われた」主。その主を絶えず見つめ続けよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しょっ中、ムクムクと自我が顔を出す。自己主張、自己正当化、自
己顕示、自己憐憫、日常生活で平安が失せる時は自分、自分に
なっている。まずはそれに気づけた事に、御霊の気づきに感謝し
よう。主の十字架を仰ぎ続けよう。


2023年12月21日(木)

「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。 あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」 詩篇 4:8




ある人が、対人関係で行き違いがあり、相手と何となくギクシャク
した関係になっていた。日常生活の中で、忙しい時は忘れているの
だが、ふっと思いが来ては暗くなり、心に影を落とす。そこに思い
が行くと、心が重く平安が失せた。その部分で平安が無いという事
は、自分の側にも、主の御心ではない、何か非があったはずだ。

祈りに持って行き、あれやこれや祈りつつ考えていた。くせのある
相手だと思い、相手が悪いとしか思えなかった。が、気づきが与え
られ、自分にも、配慮の足りない、悪い態度があった事に思いが至
った。そんな時、聖書を読む中で、「おまえの全きいこいに戻れ」
との御言葉が心に迫って来た。主が語って下さっていた。いこいに
戻りたい、平安になりたいと切に思った。

その夜、そんな思いを主に告げ、祈ることができて、主とよく交わ
れた。祈る中で、相手に謝りたいと思えた。その事も祈って寝た。
そして翌朝、出社した時に、何と一番最初にその相手に出会ったの
だ。そんな事、今まで一度も無かったのに。祈りの答えだとわかっ
た。主が働いて下さっていると。それでためらわず、相手に、率直
に配慮の無かった態度を詫びた。

祈りがあったからそうできた。すると驚いた事に、相手も、いえい
え配慮が足りなかったのは、こちらだと、悪かったと謝ってくれ
た。心がすっきりし、晴れやかになり、主の下さる平安の素晴らし
さを今一度経験させられた。
-------------
平安がなくなると祈りへと導かれ、祈りの中で折々に御霊の導きが
臨む。何と愛されている事だろう。信仰生活、主の平安に留まれる
ようにといつも主が守っていてくださる。


2023年12月20日(水)

「その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、 高ぶることのないように、肉体に一つのとげを与えられました」 Uコリント12:7



パウロは、とげが与えられていた。とげは痛い。少し指の先にとげ
が刺さるだけでも、痛みが走る。どのようなとげかは、記されてい
ないが、激痛が伴うものであったようだ。これさえ無ければ、働き
がもっと自由に出来ると思ったろう。それでこのとげが取り去られ
るようにと、一心に祈り求めた。すると主からの答えは「否」であ
り、取り去られない事がみ心であった。

とげは残されるが、主の臨在がいつも共にあると。そしてその弱さ
の内にこそ、主の力が完全に働くと。パウロは、第三の天にまで引
き上げられる経験をした。パラダイスに引き上げられ、誰も語る事
が許されていない言葉を聞いた。人類史上、誰も経験した事のな
い、極めて特別な霊的経験だ。この事が余りにもすごいので、高ぶ
る事のないために、与えられたとげだと言った。

高慢は破滅とあり、恐ろしい罪だ。ある男性は、非常に若くして大
成功した。へりくだりが大切で、へりくだらなければと、頭ではよ
くわかっている。しかし、余りにも大きな成功を手にして、自分で
はどうにもならなかった。幾ら高ぶるまいと思っても、もうどうに
もならず、高慢に陥ってしまっていたと。

パウロのとげは、高慢から守られるための恵みだった。高慢ほど恐
ろしいものはない。私たちも、受け入れがたいあの事、この事、実
は恐るべき高慢から、守られるための恵みだろうか。
----------
健康にも能力にも全ての事に自信があればどれ程良いかと思うが、
弱さがあるから高慢にならず主に頼れる。信仰も主が与えてくださ
る恵みだ。あの弱さ、この弱さは主からの恵みだ。


2023年12月19日(火)

「・・神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのこ とを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」 ローマ8:28


バビロン捕囚は、ユダヤの民にとって大きな厳しい試練だった。祖
国を追われ、捕虜となり、敵国に移される。状況を見るなら、絶望
のどん底だ。どんなに悲惨で、真っ暗闇な事だろう。艱難、苦しみ
であり、混乱だった。しかし、結果的に見れば、それは御言葉の通
りに、平安を与える計画であり将来と希望のためのものであった。

なぜなら、ユダヤの民は、捕囚の苦しく辛い試練により、悔い改め
て主に立ち返れたからだ。厳しく辛い出来事であったが、信仰を回
復する事ができた。預言通りに、70年後にエルサレムに帰還する事
になる。主の大きな奇跡が成就する。「あなたがたのために立てて
いる計画」、バビロン捕囚は不運で起きた事でなく、たまたまで
も、人間による事でもなく、主の御手による計画だと。

それも目に見えるところは、絶望と動揺、恐れ、混迷にかかわら
ず、将来と平安と希望のための計画だと。縦糸と横糸が織りなされ
て、きれいな織物が完成するように、主は艱難の中で、苦しみの中
で練り込み、御霊と一つにして行って下さる。私たちにも、平穏に
暮らしている時に、突如の試練が降りかかる。ある日突然気がつく
と、厳しい苦しい辛い事態の中にいる。

しかし、信仰人生で起こる一つ一つの出来事は、偶然でなく不運な
のではなく、サタンにほんろうされているのでなく、すべて主の綿
密なるご計画だ。それは、私たちのためであり、偶然でなく完璧な
る主の配慮のもとで来たものだ。私たちも後に、それこそが主の深
い愛である事が必ずわかる。
-------------
どうしてこんな事がという問題があったからこそ今の自分があると
確かに言える。主はみこころのご計画に導くために試練を用いてお
られ、それは必ず益となる。信じていよう。


2023年12月18日(月)

「主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上 げて、地を受け継がせてくださる」詩篇37:34


信仰生活で、「時」に関して学ばされる。「天の下では、何事にも
定まった時期があり、すべての営みには時がある」の通り、すべて
の事に「神の時」がある。そして「時を待つ」ことは厳しい試練に
感じる。すぐに結果が欲しくて、なかなか待てない。しかし待つこ
とを通して、信仰が試され、練られ、培われて行く。待つこと無し
には不可能だ。

アブラハムは、子供を授けるとの約束を与えられたが、待ち続ける
事ができず、自分の力で女奴隷によりイシマエルをもうけてしまっ
た。しかしその後に、アブラハムが100歳の時に、とうとう神の約
束は成就した。息子イサクが与えられたのだ。しかしその時は、
「自分のからだは死んだも同然」であり、サラの胎は死んでいた。

だが「それを認めても、信仰は弱らなかった」。反対に信仰がます
ます強くなって、神は必ず約束を成就されると堅く信じた、アブラ
ハムは失敗した後、神を信じ、神を信頼し、神に望みを置いた。神
は、奇跡のみわざをされた。同様に、神を待ち望む時に、私たちを
通して、みわざを成して下さる。

もし、自動販売機にお金を入れると、即、飲み物が出て来るよう
に、即、結果が出て来るなら、私たちは信じる必要が無くなる。信
仰によって歩まない。待つ期間を通して、信仰が試され、神に委ね
ることを学んで行く。そして信仰が鍛えられて行く。神に委ね、信
頼する時、時間は問題で無くなって来る。
-----------
主が最善の時に最善をしてくださる。そう信じ待ち望む者を主は喜
んでくださる。そして支え続けてくださる。主の御心がわからなく
て不安が来るときもあるが、全てを主に告げて、主を待ち望もう。


2023年12月17日(日)

「すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その 人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです」ヨハ ネ10:4



先日、スーパーでの事。幼稚園児が大声で泣き出した。どうもキ
ッズ広場で遊ばせ、母親は買い物のようだ。そばの客たちが声
をかけると更に大声に。店員が助けようとすると拒否し、大号泣
になった。どうにも出来ず、店員が館内放送をかけた。急ぎ来た
母親が、遠くから名前を呼んだ。すると何と子どもはピタリと泣
き止んだ。

他の誰の声もだめだったが、母親の一声で問題は解決した。子
どもと母親は、私たちと主との関係だ。羊の牧者が自分の羊を
その名で呼んで、連れ出すと、羊は、彼の声を知っているので、
彼について行く。しかし、他の人には決してついて行かない。かえ
ってその人から逃げ出す。

その人たちの声を知らないからだ。主は私たちの牧者で、私たち
は主の羊だ。主のみ声がよくわかるようになるために、親しい交
わりの積み重ねが大切だ。地道な日々の主との交わりの中で、
聞く耳が培われて行く。御言葉を通して、礼拝メッセージを通して、
兄弟姉妹との交わりの中で、御霊の下さる内なる思いや志によっ
て、様々な方法を用いて、主は語りかけて下さる。

祈りの中で、主の御声が確信できたなら、従おう。従えるよう祈ろ
う。一つ一つと御声に従い、御心を行なって行く時に、その人には、
神がわかって行く。御声を聞いて、その御心に従う時に、神を更に
新たに知って行ける。「羊はその声を聞き分ける」と言っておられ
る。主の御声を聞き分ける事ができるよう、そして従えるように祈
ろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
色々な声が聞こえて来る。周囲の人の声やメディアからの声、内
側から肉の声、サタンの声、様々だ。サタンが光の御使いに偽装
して来る声もある。日毎に地道に主との交わりを重ねる中で、少し
づつ主の御声がわかって行くと。主との交わりを実践して行こう。、


2023年12月16日(土)

「さあ、逃げよう。そうでないと、アブシャロムからのがれる者はい なくなるだろう。すぐ出発しよう。彼が・・剣の刃でこの町を打つと いけないから。」Uサムエル15:12



以前にダビデは、家来たちが皆、命がけで戦いに出ている時に、
夕方に起き出すという怠惰な生活の中、バテシバを呼び寄せ、
姦淫の罪を犯してしまった。サタンの誘惑に乗ってしまった結果
だった。どんな重罪も、主の御前に悔い改める時に、主の血潮
のゆえに完全に赦して下さる。

主のあわれみは尽きない。だが罪は赦されるのだが、自分が蒔
いたものは、必ず刈り取る事になる。蒔き刈りの法則だ。実子ア
ブシャロムが自分に敵対し、王位を奪おうと、密かに謀反を企て
ていた。多くの人々が彼になびいた。ダビデにとって実子であり、
どんなに心痛く、辛い事だったろう。

彼は、主に委ねて、民たちに害が及ばないよう、逃げる道を選択
した。逃げて、逃げ回った。祭司ツァドクとエブヤタルも、契約の
箱をもってエルサレムを出ようとした。が、ダビデが止めた。理由
は、「主の恵みにかなうならば、私を連れ戻して下さるだろう」。
御心なら主が、自分をエルサレムに再び戻して下さるからと。
「もしそうでなくても、主が私に良いようにして下さる」と。

ダビデは、信仰に立つダビデに戻っている。自分で自分を守ろう
とせず、自分に関する事をすべて主に委ねた。そして武力で立ち
向かうのでなく、主に祈り、主に拠り頼んでいる。「私は声を上げ
て、主に呼ばわる。すると聖なる山から私に答えて下さる」と。私
達も問題が起きる時、決して自分で動かず、主に導きを求めよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
ダビデは、いつも窮地にある時、祈って祈って、祈り続けた。苦し
み悩みを前に「祈るばかりです」と。主に持って行った。愛する
実子相手に戦えず、逃げる事を選択し、逃げ回った。主に自分も
状況も明け渡して、主に信頼して行った。そしてダビデは守られた。、


2023年12月15日(金)

「もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがた にとって、何の益もないのです。」ガラテヤ5:2


主に従い、御言葉に従おうとする時に、いつも衝突して来るものが
ある。この世の価値観や、習慣、経験値、考え方だ。又、人にどう
見られるか、どう言われるかとの、肉の思いが来る。世の価値観
は、妥当に見え、常識的に見える。例えば、今まで叱咤激励の中で
来たので、自力で懸命に頑張る事が善であり、美徳だ。

新生し、まことの神を知るや、更に真面目に、忠実でなければと、
信仰生活とは厳しい修行のように思ってしまう。自分の力で従うな
ら、辛く苦しいばかりだ。しかし苦労は美徳で、修行している気に
なる。日本人気質に合致する。これら世の価値観から来ている。

しかし本音は苦しいばかりで辛いし、平安も喜びも無い。それは真
理と逆の方向に向いているからだ。主からのものではない。ここで
は割礼の事が問題となっている。割礼によって義と認められようと
するなら、恵みから落ちてしまっていると。何かをする事によっ
て、主に認められようとする事は、もはや恵みではない。

恵みから落ち、キリストから離れてしまっている。信仰生活は、主
に受け入れてもらうための、苦しい修行でなく、すでに丸ごと受け
入れられ、100%の愛を受けているゆえに、喜んで、感謝して自由
意志で、主に従って行くものだ。

「ねばならない」義務ではなく、「愛によって働く信仰」で、愛が
動機であり、自発的な自由意志で仕えて行くものだ。もし辛く重荷
であれば、主に行き、ありのまま告げよう。主が正しく導いて下さ
る。
---------------
「ねばならない」と頑張り続けることは、今日は出来ても明日は出
来ない。弱いままで100%主が支えてくださるから主を喜び主に
従っていける。主の恵みに与り主を頼っていよう。


2023年12月14日(木)

「ミカがこのレビ人を任命したので、この若者は彼の祭司となり、 ミカの家にいた。」士師記17:12


ミカという人物が、エフライムにいた。家は非常に裕福であり、家
に宮を所有し、後には祭司を雇うほどだった。ミカの母親が、銀千
百枚が盗まれたが、その時、盗んだ者を呪った。だが、盗んだ犯人
が息子だと知ると、一転、態度を変えて、息子を祝福する。一貫性
が無く、自分の都合次第でコロコロ変わり、何でも有りだ。

ミカが盗んだ銀を返した時に、母親は、その銀を聖別して主に献げ
ると言った。しかし、二百枚献げただけで、何とその銀で彫像を作
った。それがミカの母親だった。ミカもミカで、自分の家に宮を作
り、エポデを作り、テラフィムという偶像を作り、何と自分の息子
を祭司にしていた。そこに丁度レビ人が来たので、富の力で、自分
の家の祭司にした。

レビ人も、お金に目がくらみ、アロンの家系しかなれない祭司にな
った。王が無い時、このように、神に対する恐れがなく、偶像礼
拝、秩序の乱れ、混乱、ぐじゃぐじゃだ。「自分の目に正しいと見
える」とは「自分に都合の良い」だ。主の義も、主の御心も無く、
ただ自分に都合の良いように、判断もその場の都合次第で、変えて
行く。

それは「王がない」ためだと。王が無い時に、自分中心、自分の都
合、自分の思いのままに歩んで行く。恐ろしい状態になる。主を自
分の王座に来ていただかないなら、自分自身も同じだ。イスラエル
のように、口では「神」「神」と言いつつも、自分の都合のままに
それて行く。主を心の王座にお迎えし、主の御声に耳を澄まして、
主に従おう。
--------------
本当に迷いやすい者だ。神、神と言いつつ都合の良い事だけが祝福
だと自分の声ばかり聞いているのではないか。謙遜に祈り、御霊の
導きにより神の目にはどうなのかを正していただこう。


2023年12月13日(水)

「エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほ ら穴の入口に立った。すると、声がきこえてこう言った。『エリヤ よ。ここで何をしているのか。』T列王19:13


エリヤは、主の示しで、450人のバアルの預言者たちと、し烈な戦
いをする。それぞれの神を呼び、天から火で答える神が、真の神だ
と。その戦いでエリヤが大勝利をした。そのエリヤが、イゼベルか
ら殺害の脅しが来た時に、ひどく恐れ、怯えて、逃亡した。霊的勝
利の後は、特に危険と言われる。全身全霊で戦い、心身激しく消耗
しきったところに、悪魔の攻撃が来る。

又、戦いの最中は全身で主に拠りすがり、真剣に主を求める。しか
し勝利すると、安堵して油断してしまう。ここに悪魔の誘惑が来
る。そのため勝利の後こそ、更に身を引き締め、へりくだって主に
拠り頼む必要がある。あれほど勇敢に戦ったエリヤが、恐怖で、自
分の命を救おうと逃げた。この事の原因はイゼベルの言葉だった。

主でなく、イゼベルの言葉の方を受け入れた。どの言葉を受け入
れ、又、拒否するかは非常に重要だ。言葉には力があり、多大な影
響を受ける。私たちはどの言葉を入れているだろう。そんなエリヤ
に、主は休息を与えられた。まず身体の回復を与え、ホレブの山へ
行き、山上で主の前に立つよう命じられた。

激しい大風、地震、火の後に、かすかな細い声があった。エリヤは
その御声に耳を傾けた。主はエリヤの間違いを正し、新たなる使命
を授けられた。再び、使命を遂げるために立ち上がる事ができた。
スランプから脱出するために、心身の休息が大切だ。そして御前に
じっと静まり、細い御声に耳を傾けよう。主との交わりから、新し
い力が湧き出る。
--------------
心身が疲れてしまうとき、ネガティブな言葉が湧いてくる。あれ程
主に頼っていたのにと主が遠くなっているような経験をする。駄目
だの声を自分のものにせず、主の御声だけが聞こえますようにと祈
っていよう。


2023年12月12日(火)

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエス にあって神があなたがたに望んでおられることです」 Tテサロニケ5:18


コーリーたちが収容されたバラックは、ノミだらけだった。姉は
「すべての事について感謝しなさい」とあり、感謝を探そうと言っ
た。「私たち姉妹で一緒におれる事」「主の奇跡で聖書を持ってお
れた事」更に、「ノミを感謝!」と言った。コーリーは、ノミに感
謝だけは同意できない。間違いだと心の中で思った。

その中で、姉妹は看守の目を盗み、聖書を読む集会を開いていた。
聖書は禁じられいて、看守に見つかれば殺される。しかし、一日二
回、聖書を読む会は続いた。初めの内は怯えながらだったが、看守
が決して寄って来ないとわかると、そこでの集会は、大人数になっ
て行った。

皆で讃美歌を歌い、姉妹が順番にオランダ語の聖書を読む。すると
いのちの言葉が、何とドイツ語、ロシア語、フランス語、ポーラン
ド語と順次通訳されて、再びオランダ語となって、通路を伝わっ
た。まさに天国のようだった。絶望の中で、心荒み、自暴自棄にな
っていた女性たちは、み言葉を聞き、助け合うようになった。すべ
てを失った女性たちに、希望の光が与えられた。

そんなある時、姉が嬉しげに言った。「ノミが感謝である事がわか
った!」と。このバラックだけ、どうして看守や作業監督が来ない
のかがわかったと。「ノミのお陰なのよ」と。ノミを嫌っていっさ
い来ない。だから自由に安心して、聖書の集いが持てるのだと。や
はり主に間違いは無かった。すべての事が感謝だった。
--------------
今は理解できない状況でも驚くべき主の配慮と備えの中に置かれて
いる。信仰の目で感謝していこう。気づかないで手にしている恵み
に感謝しよう。どんな環境の中でも主は支えてくださっている。


2023年12月11日(月)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、 もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生き るのです。」ローマ8:13



コ−リ−・テン・ブ−ムは、ナチスからユダヤ人を家にかくまった
ため、政治犯として逮捕され、姉と共にドイツの強制収容所に送ら
れた。過酷な労働と扱いで、父は死に、日々100人の人々が死に、
された。しかしその中でも聖書を伝え、祈りと信仰で過ごす中、身
体の弱い姉は衰弱死した。コーリーだけその収容所を出されたが、
それは書類上のミスだった。

他の人々は殺害された。戦後、そこでの体験、主の愛と奇跡を世界
中で講演して回った。ドイツでの講演の後、握手を求めて通路を歩
いて来る人々の中に、かつての収容所での残忍非道な軍人を見た。
相手は覚えていないが、残虐な仕打ちを受けた顔を覚えている。身
体が凍りついた。「主よ。無理です、絶対に赦せない」講演で主の
赦しを語りながら、心も凍りつきどうにもならない。

相手は言った「私は主を信じ、赦され、嬉しくてなりません」。
「私は赦す事が出来ません。主よ!助けて!」と心で叫んだ瞬間、
意志で相手の手を取った。するとまるで電流が走ったかのように、
神の愛が心に溢れ、圧倒された。主は、従おうと意志を向けた時に
愛そのものを与えて下さる事を体験した。コーリーの「選択」だっ
た。

赦さずに憎み続ける道と、古い自分に死に、新しい御霊の導きを選
び取る道、常に二つの道が目の前にある。自我は、姉と自分を虐待
した相手を憎んでいたい。決して赦さない。しかし御霊は赦される
「できません、助けて下さい」と心から叫ぼう。その時、選択でき
るよう御霊が助けて下さる。
--------------
理屈ではなく、問題が起こるたびに、助けが必要になるたびに「主
よ、助けてください」と祈り、新しい光が与えられる。何という恵
みだろう。肉に従いたくないと選択しよう。主が助けてくださる。


2023年12月10日(日)

『その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっ ていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた」 ヨハネ5:3


ベテスダの池で、38年もの間、病気で伏せっている男性がいた。
主は、彼に「よくなりたいか」と聞かれた。38年の長い間、病気
だった人に、「よくなりたいか」は不思議に思える。当然、よくな
りたいに決まっているのではと。しかし、ある日突然、健康体に
なるなら、働いて、社会生活を営んで行く事になる。

仕事を探し、住まいを探し、突然多くの責任が生じて来る。大き
な喜びである反面、非常に厳しい現実になるかも知れない。私た
ちも、どうだろう。日常で変化を好まない面があるだろうか。現状
に甘んじていれば楽なのだ。変化には大変なエネルギーが要る。
霊的状況に関してどうだろう。

主は「よくなりたいか」と問うて下さる。自分の弱さを直視したく
なくて、惨めさを認めたくなくて、突き詰めるのが恐い。非常に痛
みを伴う事だ。肝心な所はあいまいにしていたい。はっきりさせる
なら、従って行く決心をするなら、払うべき犠牲にうすうす気づい
ている。

その犠牲は困るだろうか。そこで、ふたをしておく事になる。主に
従っては行きたいが、そこまでは、と思う。だがそれなら主の事
も、もやがかかったままになる。生涯、どっちつかずになってしま
う。もっと生き生きした、満ち溢れた喜びの生活に進みたくないだ
ろうか。「よくなりたいか」と主は常に問いかけて下さっている。
強制ではなく、そうしたいかと問われている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「よくなりたいか」と問うて下さる。主は、私たちの内側の罪も、
闇も、又、病気も、すべてご存じだ。本当に良くなりたいだろう
か。あいまいな中に、うやむやな中に、いたいだろうか。自らの内
側を照らされて、主に応答し、よくしていただこう。


2023年12月09日(土)

「そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、 そこであなたを養うように命じた。」T列王17:4


エリヤは主の示しを受け、アハブに雨が降らない事を宣言する。
悪王アハブの事だ、気に入らなければ、その場で打ち首も不思
議はなく、勇気が要った事だろう。信仰により従った。すると主
はエリヤに、ケリテ川に行き、身を隠せと指示された。カラスによ
り養うと。エリヤをかくまうためだった。

カラスに自分の命の糧がかかっているなど、何と心もとない事だ
ろう。しかし、これはカラスに頼るのでなく、主の言葉に頼る事の
訓練だった。私たちも、訓練を受ける。何に頼っているのだろう。
働く事のできる身体だろうか。生活の安定を保障する富だろう
か。いつも慰め、励ましてくれる人だろうか。拠り所としている
ものは何だろう。

又、「身を隠せ」から、密室での主との交わりを教えられる。目に
見える成果や成功等は、誰しも大好きだが、全く見えない地道な
事は好まないだろうか。しかし豊かな実は、根が、誰にも見えな
い地中で張ってこそ結ばれる。大木の根は地中深く張り巡らされ
ている。

隠れた主との交わりこそが、生き生きとした歩みの原動力だ。そ
れが主にとどまるという事だ。ある人が突然の入院となり、ベッド
で意気消沈した。懸命に力を注いだ企画の、完成直前だった。
「なぜ、どうして」と受け入れられない、反抗的な思いに気づき、
祈りに持って行った時に、悔い改めることができた。

すると、入院が、主との静かな交わりの時とされた。心に平安が
満ちた。多忙でひたすら駆け回っていた日々だった。主が幸いな
交わりに引き戻して下さった。そして病室で、執り成しの奉仕とさ
れ、その企画は大成功を見た。祈りであずかれたことに感謝した。

・・・・・・・・・・・・・
「そこで」と言われている。主の御心の中にいるなら、烏を遣わし
てでも、必ず必要が与えられる。奇跡をもって養って下さる。主の
御心を求め、御心に従って行きたい。又、一日〃主との交わりを
重ねて行けるように。


2023年12月08日(金)

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、 あなたがたが、非難されるところのな純真な者となり・・彼らの間で 世の光として輝くためです」ピリピ2:14



私たちはほとんど、無名で有名人ではないし、大きな影響力はな
い。しかし、毎日の同じ事の繰り返しの中で、単調な同じ仕事の中
で、信仰を実践して行く事ができる。私たちの大方は、同じ事を繰
り返す平凡な毎日だ。だがその中で、いのちの御言葉をしっかり握
って、日々キリストと共に生きるなら、必ず周囲にキリストを現し
て行く事ができる。

主からの発想や態度、価値観、行ないが生活の中に現れ出て、愛、
喜び、平安、寛容、親切、柔和・・御霊の実を結んで行く。その時、
あなたを用いて、主が周囲に影響を与えて行かれる。あなたの置か
れている場所が、どんなに小さくても、目立たなくても問題ない。
仕事がどんな種類であれ、それも問題ない。

今、置かれた場所で、御言葉に忠実に従って行くなら、自分で輝く
のでなく、主があなたを輝かせられる。又、その場がどんなに暗く
ても、問題ない。暗ければ暗いほど、闇が深いほど、光は明るく輝
く。環境が悪いと、愚痴、不平不満で、つぶやきそうになるが、
「つぶやかず、疑わず」その環境の中で、とにかく主を見上げ、示
された御言葉に一歩従ってみよう。

するとそこに主が働かれ、自分に変化が起きる。心に平安や喜びが
来る。又、次の一歩を進めてみよう。従う者に、御霊の力が働き、
主の栄光が現わされて行く。それは周囲に証しとされて行く。
--------------
御言葉や御霊の示しを通して、また兄弟姉妹の素晴らしい証しを通
して、主は日々様々に信仰生活を励まし導いてくださる。心に示さ
れた導きに素直に従おう。自分自身がまず豊かに恵まれる。


2023年12月07日(木)

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、 あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです・・また 偽りの父であるからです」ヨハネ8:44



サタンは嘘つきだ。偽りの父であり、私たちを巧くだます。黒を
白、白を黒、有るものを無いものに、無いものを有るものに、何で
も自由自在だ。真理がない。絶えず嘘で誘惑し、攻撃して来る。間
違った動機を正当に、良い動機を間違ったものにと混乱させる。
又、9割の真理に、1割の嘘を混ぜて来る。9割がまともなだけ
に、一見識別しずらい。

又、誘惑は自分の欲望にピッタリと合致してやって来るので、自分
の思いと一体化しているので、気づかない。自分の思いと違ってい
たら、わかりやすいが、だまされてしまう。エバが「神のようにな
り・・」の誘惑が来た時に、自らの強い欲望に合致するため、引っか
かってしまったように。酔酒やギャンブル、妬み憎しみのようなス
トレートな罪ならわかるが、良い事で一見合法的な事で、誘惑して
来る。

自己実現や、自己啓発、見た目には良いように見え、罪に見えな
い。しかし、その動機の裏に、自らの栄光が隠れている。見続けて
いるのは、どこまでも自己であり、根は自己愛だ。又、仕事、趣
味。好きな事、それらは悪くなく、良いものだが、そこに落とし穴
がある。時間が取られ過ぎて、霊的な事柄への時間が無くなり、少
しづつ霊的食欲が減退させられて行く。

「すべてのことはしてもよい。しかし、すべてのことが有益とはか
ぎらない」、罪ではないが、有益でもない事で、ダラダラと時間を
使ってしまい、後悔が来る。主との交わりの時間が圧迫される。悪
魔の誘惑に要注意だ。判断の基準は、それをする事で霊的食欲が増
進するだろうか、又、反対に減退するだろうか。見分けて行きた
い。
--------------
日々、無意識のうちに多くのものを浪費している。本当に必要なも
のは何か、忙しい中で謙遜に祈っていよう。自分、自分とすぐにサ
タンに乗せられてしまう。警戒していよう。祈ろう。


2023年12月06日(水)

「彼らは言う。『どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろ うか。』見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安 らかで、富を増している。」詩篇73:11


詩篇記者は、悪者が栄えるのを見て、ひどく落ち込んだ。彼らは楽
しげで、豊かで肥え太り、何の苦しみも無さそうだ。悪者は問題も
なく安らかで富を増す。それに引きかえ、主を信じる自分は惨め
で、苦しみばかりで、何の良い事もない。虚しく心をきよめてい
る。この足はたわみそうで、歩みはすべるばかりだ。なぜ、どうし
て神を信じない者が栄えるのか。イラ立ちと不満で一杯だ。

その彼が、神の聖所に入り、光が与えられた。実は、彼の不満や妬
みや愚痴、様々な悩みの原因は、目に見える状況の問題でなく、自
分が神の近くにいなかった事によるとわかったのだ。「神の近くに
いることが幸せ」なのだと。本当の問題は、様々な事柄や状況では
なく、自分と神との関係であった。神から離れ、その関係が崩れて
いた事だった。それが根本的な事だ。

私たちも同様だ。愚痴や不平、イラ立ちで一杯になる時、本当の問
題はその状況でなく、自分と神との関係にある。主から離れている
から、平安無く、喜び無く、心が満たされずに、荒んでイライラし
ている。それに反して、主との親しい交わりの中にいる時、状況が
どんなに苦しくても、大嵐の中でも、心は霊の平安に守られる。

主の近くにいる事が、平安であり幸せであるので、問題が問題でな
くなってしまう。一番大切な事は、主との関係だ。今、主との関係
はどうだろう。主から離れているなら、すぐに立ち返ろう。主から
の平安が戻る。そして、状況に関係なく、どんな中でも、幸せであ
る事ができる。
-------------
人から見ると辛そうな状況でも主の近くにいる者は常に満たされて
いる。主が満たしてくださるからだ。不平不満が湧いてくるとき、
気づきたい。神なる主は我が避け所。主を喜び主の近くにいよう。


2023年12月05日(火)

「私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めま す。」詩篇 116:17



ある母親の証しだ。朝は、自身の出勤用意と共に、家族を送り出す
のに一刻を争い、非常に慌ただしい。その時に子どもが騒ぎ出す。
「宿題が無い、無い」と。今日提出しなければならない。登校時刻
が迫って来る。母親も出勤時刻だ。懸命に探すが見つからない。母
親はイライラし、怒りが湧いて来る。いつも前日にちゃんと準備す
るように言っている。「何で、昨日にちゃんと準備しないのよ!」
腹が立って仕方がない。

時間が無い。その間も時間はどんどん過ぎる。子供も焦り、泣きべ
そをかいている。だが「すべての事が感謝なんだ」と、ふっと主と
み言葉が頭をよぎる。この事も感謝なんだと思う。しかし一方では
怒りがおさまらない。心で子どもを責め立てている。信仰により感
謝だという思いと、同時にいら立ちが交錯する。

いよいよタイムリミットとなり、もう思いを定めて「神様!この事
態を感謝します!」と主を選び、信仰を向けた。すると同時に、子
どもが「あった!」と叫んだ。思いもよらぬ所に置いていた。主を
感じた瞬間だった。一見不都合な事柄の背後に、必ず主の素晴らし
いご計画がある。感謝する事は、その事柄に主を認める事であり、
信仰を献げる事になる。

主はその信仰に働かれ、信じた通りになって行く。不信仰はすべて
の道を閉ざしてしまう。今、目の前に非常事態があれば「感謝でき
ませんが、しかし感謝します」と意志を向け、信仰による感謝を献
げよう。御霊の方を選択しよう。そうできなければ、できるように
助けを求めよう。
--------------
感情を無視して「感謝します」と祈ってしまうが、本当は感謝して
いない。「感謝できませんが、感謝します」と祈りたい。主が心配
してくださっているのだから。信仰による感謝によって主に問題を
渡そう。


2023年12月04日(月)

「それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を 守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」 申命記8:2 

 
      
「主は、あなたを苦しめ、あなたを試み、あなたを飢えさせ」とあ
る。信仰人生で、私たちは誰しも、様々な苦しみを経験する。それ
は主によるものであり、主が苦しめるのだと。信仰者は、悩み苦し
みに会うと、戸惑い、いぶかる。「なぜ、こんな事が」「どうし
て、私に」主は、祝福して下さるはずではないのか。

病気にならず、健康を与えて下さり、経済的には満たして下さり、
良いものを与えて下さるのでは。しかも最善のものを下さるはずな
のでは。そんな思いがあるだろうか。しかし現状では、様々な状況
を見る。病気が奇跡的に治る人もいれば、生涯、病を負ったままの
人もいる。非常に裕福な人もいれば、極度に貧しい人もいる。その
中で、主はあなたが飢え、苦しむ時は幸いだと言われる。

なぜなら、その時こそ、主を深く知り、天からのマナを食する恵み
にあずかるからだ。対人関係、経済的、環境的等が、問題なく「安
定」している時、人は主を求めない。求めなくとも、やって行ける
からだ。その「安定」が崩される時、人は、初めて目に見えないも
のに目を向け、見えないものを求め始める。ある夫婦に生まれた子
どもが、命に関わる重度障がいがある事が判明した。その時、夫婦
で悩み、絶望の淵に突き落とされた。

しかしその苦悩のゆえに、見えないものに、目を向けるようになっ
た。結果的に、夫婦共に、神に出会う事ができ、感謝に溢れ、平安
と喜びが与えられている。もしこの試練が無かったなら、神に目を
向ける事など絶対に無かったであろうと。試練の時こそ、神を真に
知る時だ。御言葉が、いのちそのものである事を経験的に知り、御
言葉によって生きるという事を学んで行く。 
--------------
問題だけに目がいき、すぐに希望が見えなくなる者だ。感情に流さ
れそうになるが、祈りのうちに主が最も近くにおられると感じる。
試練の中を主の平安に包まれる。何と感謝だろう。


2023年12月03日(日)

「あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼は。 きっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」ヨブ1:11


サタンは、「兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で
訴えている者」と言われているが、主に、ヨブの事を訴え、中傷した。
ヨブが、主に従っているのは、見返りがあるからで、そうでなけれ
ば、従うわけがないと。ヨブは自己中心な動機で従っているのだ
と訴えた。

主はヨブを、そしてその信仰を認めておられたので、サタンが、ヨブ
を試すのを条件付きで許可された。私たちが、主に従っているのは、
家内安全、商売繁盛、交通安全のためだろうか。そうであれば、こ
の世のご利益宗教と同じになってしまう。もし、自分の利得に合わな
ければ、いつか主に従う事を止めてしまう。従う理由が無いからだ。

あなたはなぜ、主に従っているのだろう。もし、自分のためなら、
順境の時は良いが、苦しい試練の日に、身を引く事になる。得る
ものが無いからだ。御言葉のために困難や迫害が起こると、すぐ
つまずいてしまうとある。こんなはずでは無かった、になってしまう。
しかし、そうでなく、利得があるからでなく、私たちは、神が神であら
れるから、神を礼拝して生きて行く。

人生には必ず良い時も悪い時もあるが、その中で、主に従って行く。
クリスチャンも未信者と同じように、順境と逆境がある。逆境の中でも、
主を崇め、従って行く。主は良いお方であり、変わる事のない愛を注
いでいて下さり、人生で与えられる様々な出来事を通して、主を更に
深く親しく知って行ける。これこそが私たちの喜びだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
試練は好きではないし、決して望まないが、振り返る時、あの苦しみ、
その悲しみ、この痛みにより、今の自分が形造られたとわかる。砕か
れ、練られ、何より、主と近くされて来た。主の真実、あわれみ、主の
主権を知らされた。


2023年12月02日(土)

「 人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが 成る」箴言 19:21



ある人が、習い事をしたくて、自分の予定から、空いている曜日と
時間を申し込んだ。高額の入学金と前期分を前納した。楽しみに
していた中、丁度、申し込んでいた仕事が来て、曜日がピッタリ重
なり、習い事は取り止めになった。仕事の空きは、まだまだ先だ
と思っていた。

そこですぐに費用の返却を問い合わせたが、規約により、いっさ
い無しとの事。事を始める前に、祈らなかった事に気づき、自分
の思い、肉で始めた事を教えられた。費用は痛かったが、大切
な学びを得て感謝した。別の人は、夫婦旅行を計画したが、突然
の用が入り、キャンセルになった。その後、再度の計画も又、中止
になり、幾つも計画したが、すべてがことごとくキャンセルになった。

全く道が開かれず、閉ざされた形だった。しかし楽しみにしていた
であろう本人たちは、全く平安だった。信仰人生で、夫婦で心に
据えていた事が、自分の願いを通す事ではなく、主の御心が成る
事であり、いつもそこを見つめ、基盤を置いていたからであった。
又、主の時に、与えて下さると信じる事ができた。

私たちも、しばしば計画通りに行かない事態が生じる。しかし、主
の計りごとだけが成るのであれば、その事を受け止め、受け入れ
られるよう祈ろう。そこで真の平安を経験し、新たに主をを知って
行ける。必ず、主の考えたとおりに事は成り、主の計ったとおりに
成就する。そしてその御心に従う時、主の素晴らしい栄光を拝する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主の御心だけが成る事に、深い平安が与えられる。自分が良か
れと思う事は、時に間違っている。御心のままにとの祈りにより、
御心でない事は閉じられ、間違いから守られる。御心へと、最善
へと導かれることに感謝だ。


2023年12月01日(金)

「かつて、神々を神々でないものに、取り替えた国民があっただろ うか。ところが、わたしの民は、その栄光を無益なものに取り替え た。」エレミヤ2:11



私たちは心を満たそうと、様々なものを追い求める。ある人は富
を、ある人は、やりがいのある仕事や趣味、又、別の人は名誉や地
位、人からの賞賛を求める。人により様々違うが、それらはすべて
「こわれた水ため」だと言っている。「多くの、こわれた水ため
を、自分たちのために掘った」のだと。

どんなに水をためようとしても、壊れているので、水がもれ出てし
まう。水をためる事ができず、つまり決して心を満たす事が出来な
い。何が問題なのだろう。それは「湧き水の泉であるわたしを捨て
て」とあり、主を捨てた事による。泉は、水が湧いて出る。どんど
ん幾らでも湧き出て、決して無くならず、尽きる事がない。主こそ
が湧き水だ。

その湧き水である主を捨てるなら、何を持ってしても満たされる事
がない。あなたの心はどうだろう。主以外のものに、拠り所を置い
ていないだろうか。有形でも無形でも、もし主以上に大切なものが
あるなら、それは「偶像」だ。「あなたの力とするもの」「栄えに
満ちた喜び」「愛するもの」「心に慕うもの」・・それらは、主との
関係を妨げ、離してしまう。

非常に魅力的で心奪われるもの、喜ばしい、慕わしいもの、しかし
実は、それは「壊れた水ため」なのだと。大きな魅力があり、心惹
かれるが、そっちへ行っても決して心を満たされる事はない。湧き
水である主のもとに、真の喜びが尽きる事なくあり、平安に満たさ
れる。今、何か心が虚しければ、主以外のものを求めていないだろ
うか。御霊に心を探って頂こう。
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主以外の何かを頼みとしても、いつかそれは無くなり枯れる。主を
頼みとして歩もう。いつも主が共におられ、たとえ一人でも孤独で
はない。日々に豊かな水によって養われていく。