2024年01月31日(水)

「彼は礼をして言った。『このしもべが何者だというので、あなた は、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。』」 Uサムエル9:8



メフィボシェテは、ダビデの大親友ヨナタンの息子で、サウル王の
孫だった。通常は、前王の一族は皆殺しにされた。生かしておく
と、反乱を起こす危険があるためだった。ましてサウル王はダビデ
殺害に燃えて、ダビデを付け狙い続けた。ダビデは何度も殺されか
けた。メフィボシェテもそれをわかっていて、ダビデに殺されても
当然であり、身を潜めていた。

しかしダビデは、ヨナタンとの約束があり、約束を果たしたいと、
メフィボシェテを王宮に招き入れた。ヨナタンはサウル王の息子
で、王子の地位にあり、困難な立場にありながら、父からダビデを
守り、命を助けてくれた恩人であった。ダビデは、彼にサウルの土
地を全部返して、その生活を保障し、王宮で生活し、王の息子たち
と同様に、自分と共に食事をするよう言い渡した。

「私の食卓で食事をしてよい」とは家族の一員にするという事だ。
ダビデ殺害に血なまこになったサウル王の子孫で、更に両足が不自
由で、王のために何の役にも立たない彼は、何で自分が?殺されて
当然の、何の資格も無い、無価値な自分が?余りの戸惑いで驚い
た。このメフィボシェテは、私たちの姿だ。神を神とも思わず、敵
対し、罪を犯し、「罪の支払う報酬は死」であり、永遠に滅んで当
然の私たちだ。

それが、ただ御子の十字架の贖いのゆえに、無罪放免とされ、永遠
に神の子とされる。そして主の食卓で食事ができる者とされ、御父
との豊かな素晴らしい交わりに入れられた。メフィボシェテは、ダ
ビデの一方的な愛顧を受け取った。同様に私たちも、ただ主から受
け取る時、自分のものとなる。
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御子イエス・キリストは十字架で私たちの罪を引き受け、救ってく
ださった。神のご愛とこの恵みに深く感謝して、ますます神との親
しい交わりの中を喜びをもって生きていこう。


2024年01月30日(火)

「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのお しえは私の心のうちにあります。」詩篇40:8



あなたにとって、幸せとは何だろう。順風満帆の人生だろうか。家
内安全、商売繁盛、受験は合格、畑は豊作、病気やけがが無いこと
だろうか。とにかく悩みや問題の無い、平穏無事な人生だろうか。
自分の願望が叶い、したい事を成し遂げられて行くなら、幸せだろ
うか。だが、どうだろう。

ザアカイは、富が幸せをもたらすと信じ、同胞からの嫌悪もわかっ
た上で、取税人のトップに昇りつめた。金持ちになったが、心は空
虚だった。喜びも平安も無かった。サマリヤの女性も男性が幸せを
与えてくれると、男性を求め、5回の結婚離婚を繰り返した。しか
し決して満たされる事は無かった。

自己実現や生きがいを求めて、仕事に趣味にと、様々な事柄を巡る
人々を見る。あれなら、これならと、心の隙間を満たそうとするの
だが、心は埋められず、更に渇くばかりだ。人が強く求めるのは、
「愛、喜び、平安」だ。これらが喉から手が出るほど欲しい。しか
しそれ自体を、どんなに求めても得られない。これは御霊の「実」
であり、「結実」であるからだ。

「神の国とその義とをまず第一に求めよ」自分の欲望、願望第一で
なく、主を第一に求める時に、与えられる「実」だ。自分の欲望を
充たして行くのでなく、その自分を明け渡して、主の御心を求め、
歩む時に初めて、心の満たしを経験して行く。そして求めているも
のが、与えられて行く。主のお心を求めて行く時に、自分が満たさ
れて行く。
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自分の欲望に従って生きられたらと思っても、肉の欲望に満足があ
るだろうか。引っ張られ流されていく。主に守られ、主と共に歩む
生活はいのちと平安だ。神の国と義を求め続けよう。


2024年01月29日(月)

「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った・・彼は、 えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って・・」T列王19:3


エリヤは、バアルの預言者たちと、正面切っての対決をした。
エリヤ1人で、バアルの預言者は450人。大胆に力強く戦い、
エリヤの大勝利となった。しかしその勇者が、一転、イゼベル
のエリヤ殺害命令の言葉に、恐怖に支配され、怯えて落胆し、
うつ症状に陥った。そして死を願ったのだった。イゼベルの言
葉に飲み込まれてしまった。

あれだけ勇敢に戦い、死闘を繰り広げたのに、何も変わらない
との失望感。又「私は先祖たちにまさっていない」と、先祖と
比較して落ち込む。だが、その根は高ぶりだ。又、「ただ、私
だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っている」
自分だけが残ったとの間違った思い込みの中で、恐れと孤独に
陥った。

しかし実際はそうではなかった。「わたしは七千人を残してお
く」と、決して一人残ったのではないと。そんなエリヤに、主
は慈しみを持って対応された。「何を不信仰な事を言っている
のか。しっかりせよ」との叱咤激励、又、「そんな事でどうす
る」と責められたのでなく、まず十分な睡眠と食事をとらせら
れた。

心身消耗し、疲れきったエリヤを深く眠らせ、第一に休息を与
えられた。充分な睡眠と食事で体力を取り戻し、力を得たエリ
ヤは、ホレブの山まで歩けた。「すると、彼への主のことばが
あった」。心身回復した時に、主の言葉が臨んだ。エリヤの問
題はネガティブ思考であった。

自分はだめ人間、又、殺害の恐怖、何の希望も持てない絶望感
・・しかし、主は、彼の間違った思考と情報を正され、「ハザエ
ルに油をそそいで・・エフーに油をそそいで・・」と新たな使命を
授けられ、再び立ち上がらせて下さった。もし心身疲れきって
いたなら、まずは充分な休息が必要だろうか。
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「起きて食べなさい。旅はまだ遠いのだから」と御使いを通し
て主は慰め、怖れに動けなくなった者に主はあたたかく優しい。
自分の弱さしか見えない時もあるが、主を信じていよう。


2024年01月28日(日)

「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い 倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているも のを話すからです。」ルカ 6:45



口が語る言葉で、その人の心に、何が満ちているかを知れると言
われている。つまり、心に満ちている事を口が話すからと。私たち
は、通常、どんな言葉が出ているだろう。感謝、祈り、主への信頼、
親切な言葉だろうか。

それとも、いつもネガティブな言葉、ぐち、不平不満、不信仰、当て
こすり、嫌みだろうか。もし人が主にとどまり、信仰に立っているな
ら、喜び、平安、主への感謝、賛美、前向きな、信仰的な言葉が
出て来るだろうか。御霊に導かれているからだ。もし、肉にある時
は、どうだろう。

何かにつけて、否定的な言葉が出る。不信仰な言葉は周囲にも
伝染させて行く。又、とげのある言葉が出るだろうか。その言葉
は周囲の、心を暗くし、重くし、落胆させる。主にとどまっている
事が大切だ。主にとどまっている時に、主の良い倉から、良い物
を、良い言葉を取り出せる。

肉にある時は、生まれつきの性質で生きるので、肉から、肉の
言葉が出て来る。肉の言葉に良いものは一つもない。主の栄光
をふさいでしまい、証しとは逆の害毒を流してしまう。心に満ちる
ものが、口から出る。心が問題なので、心を御霊に支配して頂け
るよう、献げて行けるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
対人関係で、良い倉から良い言葉を出すと、相手の良い倉から
良い言葉を引き出す。自分の悪い倉から、相手に悪い言葉をぶ
つけると、相手の悪い倉から悪い物を引き出させてしまう。自分
だけにとどまらないので、御霊に支配して頂けるよう求めよう。


2024年01月27日(土)

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですが。 ここにはおられません。よみがえられたのです。」ルカ24:5



主が葬られた墓に、女性たちが香料を持って来た。すると、大
きな石が墓に立てかけられていたのだが、それが転がされて
いて、中に、主の遺体が無かった。彼女たちが。途方に暮れて
いると、そこに御使いが現われ、主がよみがえられたと告げた。
「ここにはおられません」と。

「ここ」とは、墓の中で、死人を葬る場所だ。主は、死人の中に
はおられないと。死から、よみがえられたからだ。私たちは「生
きている方を死人の中に捜し」ていないだろうか。あたかも、主
に力が無いかのように、死人であるかのように、主を横に追い
やり、「自分が、自分が」と自分の力で信仰生活をやりくりして
いないだろうか。

決してうまく行かない。すべてが自分の肩にかかるので、重圧
で苦しくてたまらない。焦り、いら立ち、思い煩い、恐れ不安で、
疲れ果ててしまう。まるで主は生きておらず、死んでおられる
かのようだ。自分が、やり遂げなければならないかのように。
墓とは、人が主イエスの遺体を葬った所だ。

人が、主に対して、して差し上げた場所だ。しかし、その所を打
ち破って、よみがえられた。もう「ここ」にはおられない。よみが
えりとは、主が全主権を握られ、主の支配によって、事がなさ
れる場所だ。

今、まさに生ける主であり、私たちが主のためにではなく、逆で、
主が、私たちのためにわざを成して下さっている。生きて働か
れているのだから。よみがえりの主のいのちは、今日の信仰生
活に生き生きと溢れ流れている。そこには喜びと平安が満ちて
いる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分が、自分がと、まるで主が死んでおられるかのように、自分
の知恵、力で、自分が事に当たる。自分が主を助け、支えるか
のようだ。そこに主はおられず、主を離れては、実を結ぶ事が
無い。内に生きていて下さる主を絶えず覚えよう。


2024年01月26日(金)

「・・主は誠実な者を保たれるが、高ぶる者には、きびしく報いを される。」詩篇31:23



私たちは新生し、主によって罪が赦された。しかしまだ天に帰るま
では、肉の性質があり、主に拠り頼まなければ、すぐに罪を犯して
しまう。血潮により、罪は完全に赦されているが、しかし今後、罪
を犯さなくなるわけではない。だからこそ、主に拠り頼んで行く。
私たちの犯す罪の内、最たるものは何だろう。

ある著者は、その罪を他人の中に見つけるなら、非常なる嫌悪感を
持つが、その同じ罪が、自分の中にあると気づく人はほとんど無い
と言う。その罪とは「高ぶり、プライド」といったものだ。明けの
明星が天から落ちたのは、この高ぶりだった。高慢は、サタンの最
たる特徴だ。アダムとエバが犯した罪も「あなたがたは神のように
なり」という高慢への誘惑だった。

カインは、弟アベルの献げ物だけが受け入れられた事を激しく妬
み、弟殺害にまで及んだ。プライドが傷ついたためだ。人々が「天
に届く塔を建て、名をあげよう」とバベルの塔を建てたのも高慢の
ゆえだった。サウルがダビデをつけ狙ったのも、「サウルは千を打
ち、ダビデは万」との女たちの言葉がプライドに触れたゆえだっ
た。プライドは、主を愛する事の対極にある。

プライドは自らを高め、自らを神とし、人より上でなければ気が済
まない。しかし、自らの破れた状態を知り、無力を認め、へりくだ
り、ただ主の愛ゆえに今ある事を知る人は、主を「愛して」行く。
それらは決して相容れないものだ。高ぶりに気づかせられ、砕かれ
る事は、実は大きな恵みだ。主に砕かれる事によって、高ぶりから
守られる。
------------
神のようになりたいなど思うはずがないという自分の中に簡単に御
霊に従わない高ぶりがある。気づけることが祝福だ。自分で謙遜に
はなれない者だ。破れを示され認め主に感謝していこう。


2024年01月25日(木)

「元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は 神によって信じています。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げら れます。」使徒27;25



パウロは主から、エルサレムで証しをしたように、ローマでも証し
をするよう、ローマ行きを示されていた。するとその通りに、パウ
ロの思いとは異なり、囚人としてではあったが、イタリヤ行きの船
に乗る事になった。それが強風のために進めず、良い港という所に
着いた。パウロは、もう季節的に航海は危険だと主張したのだが、
百人隊長により、クレテの港へ行き冬を過ごす事になった。

すると何日も続く激しい暴風に会い、船はほんろうされ、積み荷を
捨て、船具まで捨てた。太陽も星も見えない日々が続き、もはや絶
望的で、最後の望みも断たれようとしていた。だがパウロは「命を
失う者は一人もない。失われるのは船だけ」と確信に満ちて告げ
た。主は、信仰人生、失うものは何もないとは言われない。ヤコブ
も「私も、失う時には、失うのだ」と言った。

私たちは、様々失うものがあるだろう。「主は与え、主は取られ
る。主の御名はほむべきかな」と。ヨブは、主は与えられると同時
に、取られるとも証しした。しかし失う事はあっても、必ず私たち
は、堅く守られ、信仰の生涯を全うする事ができる。船を失う事は
あるが、信仰人生は必ず守られ、確実に安全な島に打ち上げられる
事を覚えよう。

誰しも得る事は嬉しいが、失う事は嬉しくなく、痛手だ。だが振り
返る時、あの時、この時の損失、大きな心痛だったが、それにより
自分自身が練られきよめられ、成長させられたのではないだろう
か。痛手を通ってこその、今の自分がある。実際に、色々な形で損
失を通るが、思いを遙かに超えた祝福に至る。船を失う事はある
が、いのちは守られる。
------------
特別な取り扱いは大きな苦痛であっても主に最も近づけられる時
だ。必ず主は守ってくださるとパウロのように言おう。失うことが
あっても主は新しい祝福も備えていてくださる。


2024年01月24日(水)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互い に人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」ピリピ2:3



ある人が、仕事上で大きなプロジェクトに関わっていた。だが議論
を詰める中で、自分のプランと異なる意見が出て来て、まさに真向
からの反対意見だった。各々が自分の意見こそは絶対に良いと思っ
ているので、もろに意見が対立し、衝突した。議論になると、自分
は正しいと思っているので、負けたくない。自分の意見が通らない
と、イライラし、怒りが出て来る。どうしても相手を打ち負かそう
としてしまう。

しかし心は重く、平安が無く、暗い。帰宅して、まっすぐ主の御前
に行き、祈りの時を持った。いら立つ心、人への怒り、人を裁き、
責める心の内も告げて、祈っていた。その時に、「すべての事につ
いて感謝しなさい」と、日頃よく知っている御言葉が心に浮かんだ
が、心に響いて来て、主が語っておられるのがわかった。

「すべての事」について感謝せよなので、今のこの事態にも、反対
する人々をも感謝せよと。腹が立って、感謝など無理と思ったが、
しかし思い直し、やはり主に従いたいと、心を決め、感謝しますと
祈った。すると不思議に、荒れた心がすーっと落ち着いた。主に焦
点が合い、心が平安にされた。自分が変えられた。

「自分が、自分が」と、主も、人も、差し置いて、へりくだりなど
全く無く、何と恐ろしく自己中心で、高ぶっていたかを見せられ
た。悔い改めて、主にすべてを委ねることができた。結果的に、大
変祝福して下さって、そのプロジェクトは大成功をおさめた。しか
し自分が主に取り扱われ、変えられた事が何より嬉しかった。
------------
主に祈らずにはおれない。そして祈ると悶々と真っ暗な中に御霊の
導きによって光が差し込む。主はいつでも教えてくださる。人では
なく自分自身が変えられたい。


2024年01月23日(火)

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信 頼すれば、あなたがたは力を得る。」イザヤ30:15


当時、強大な勢いのあるアッシリヤが、北王国を滅ぼし、南王国ユ
ダにまで攻め下り、エルサレムを包囲しようとしていた。この緊急
非常事態にどうすればよいのか。恐れで、パニックだ。様々な対応
策「はかりごとを巡らし」、「わたしによらず」、何とエジプトに
助けを求めようとした。まず、主に助けを求めるのでなく、目に見
える所で何とかしようと、肉の思いと知恵で動いて行った。

それでエジプトと同盟を結ぼうとする。しかし、神無しのはかりご
とであった。それは「罪に罪を増し加えるばかりだ」と。そしてそ
れは「反逆」だと言われている。「わたしの言うことをないがしろ
にし、聞こうとしない」と。私たちもどうだろう。突然アッシリヤ
の脅威が迫るかも知れない。それは経済的苦境、仕事上の行き詰ま
り、対人関係の悩み、病気やけが。

その際、主の指示を仰ごうとせず、自分の思い、判断で、動き回る
なら、それは小さな事ではないと。とにかく何とかしなければと、
焦り、自力と思いで動いてしまう。では、どうすれば良いのだろう
か。「立ち返って静かにすれば、救われ、落ち着いて信頼すれば、
力を得る」と、言われている。まずは静まれと。やめよ、動くな
と。

動かずに、まず祈り、主を見上げ、信頼せよ。そうすれば必ず救わ
れると。何よりも、主を信頼する事を願っておられる。今、神無し
で、自分のプランで、思いで、動こうとしているだろうか。立ち止
まって、主を仰ごう。そして導きを求めよう。豊かな祝福が備えら
れている。
------------
人の知恵で動き回って手にしたものは、主からのものではないの
で、いつまでも完全な勝利はない。焦りパニックになるが落ち着い
て主に助けを祈ろう。自分の思いやプランが主を妨げるかも知れな
い。


2024年01月22日(月)

「そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連 れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた」 ヨハネ6:15



主が、5千人の給食の奇跡をされた後、それを見た群衆は、主を王
にかつぎ上げようとした。だが主は、大勢の群衆が主を信じると言
い、主について来て、主を追いかけ回しているのは、主ご自身を求
めての事ではないと言われた。しるしを見て、そこに霊的な恵みを
見、神を見て、この方こそ主キリストと信じ、ついて来たのでない
と。

パンが欲しくて、そして更なるパンを求めて満たされたい。自分の
願望が満たされたいがゆえに、ついて来ていると。満腹とは、自分
の欲望が満たされる事であり、自分の満足、自己実現だ。自分の喜
び、自己満足を得たいばかりで、そこに主がまことの神である事
や、永遠の恵みを見る事はない。主は、「求めよ」と言われる。そ
して豊かに私たちの祈りに答え、私たちの必要を満たして下さる。

しかし気をつけていないと、私たちの祈りは、ひたすら自分の欲望
充足だけに向かってしまう。その手段となってしまう。そしてそう
であれば、欲望が叶えられないなら、遅かれ早かれ、大勢の群衆の
ように、主のもとを去る事になる。主は、そんな私たちをあわれ
み、主の御心へと導くために、時に、思い通りでない答えが来る。
よく考えさせ、動機を探らせ、省みさせて下さるためだ。

又、「ノー」の答えがあり、すぐに叶えられない祈りがある。その
中で心を探り、取り扱い、主の御心に適った者へと変えられ、成長
させて下さる。思い通りにならない状況は、受け入れ難いが、しか
し実は大きな恵みだ。その時こそ、主に近づき、主のお心を尋ね求
めよう。動機が探られ、祝福と成長へと導かれる。
------------
すぐに叶う祈りもあれば長く祈らされる祈りもある。祈りの中で主
から導かれるその時々の気持ちの変化こそ恵みだ。主との交わりが
喜びで今日を歩める。


2024年01月21日(日)

「獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたい のです・・今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっ ています」ピレモン10



神の摂理、ご計画、神視点を見ることができる。オネシモは主人
の物を盗んで、逃亡した。奴隷が自分の主人の物を盗み、逃亡
とは、大罪だ。あってはならない悪事だ。しかし神の側から見ると、
別な見方になる。神は、このような災いをも益とされて、ご自身の
栄光へと変えて行かれる。

オネシモが逃亡した事により、ローマに行く事に。そこでパウロと
の出会いが与えられ、回心した。否定的な、害であるような事柄
さえも、神は益と変えられる。いっさいの起こる出来事が、神の
許しの中であり、主権のもとである事を認める時に、物事の見方、
人生の見方が変えられてしまう。

神視点で見る時、オネシモが一時、主人ピレモンのもとを離れた
のは、彼が永久に主人のもとにいるためだった、となる。神視点
で、目の前の事態を見、人生を見るなら、どんなに幸いで恵まれ
る事だろう。ヨセフも、兄たちの悪意でエジプトに売られたが、兄
たちと再会した時に同じ事を言った。

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことの
ための計らいとされた」と。兄たちは悪意であったが、神はその
悪意すら良い事の計らいとされた。エジプトの総理大臣とし、大飢
饉の中、ヨセフによって一族は命を取りとめた。今、目の前の事
態を、単に出来事だけでなく、それを神視点で捕らえよう。豊かな
恵みとされる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今、目の前に、悩み、問題があるが、神視点に立てばどうだろう。
「すべての事を益に」「しようとしている事を知っておられる」「あな
たのために立てている計画」相手の悪事悪意すら良き事の計らい
とされる。そこから動かず、どこまでも主を信じたい。


2024年01月20日(土)

「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、 かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者 は自分も潤される。」箴言11:25



ガリラヤ湖と死海の有名な例えがある。死海は、ガリラヤ湖から
の水が流れ来て、溜まる一方で流す先がない。死海からの川が
ないからだ。受けるのみ、溜め込むばかりだ。流れ込む水は蒸
発する。それで死海の塩分は非常に濃くなる。この塩分濃度のた
め、魚が生息できず、周囲も砂漠で緑がない。

それにひきかえガリラヤ湖は、その上のフーレイ湖から流れて
来る水を受け、その水をどんどんヨルダン川に流している。受け
た水を常に出して、絶えず水が流れるので、ガリラヤ湖の水は
生きている。そのため様々な魚類が生き生きと生息し、周囲も
草木が茂り、緑が豊かだ。

私たちはどうだろう。受けるばかりだろうか。溜め込むだけなら、
腐って死に絶えて来る。与えられたものを流すと、又、次々と与
えられて、いつも新鮮で、生き生きと霊的喜びが流れる。与えら
れた恵みを証しすると、人の益となり、自分自身にも喜びがあり、
又、証しすべき恵みが加えられる。

与えられている富、時間、賜物・・握りしめて溜め込んでいるなら
腐って来る。喜びも無い。それを、神に、人に献げて行くと、又、
更に増し加えられ、霊的喜びの流れが止まる事がない。人生何
のために生きているのだろう。蓄えるためだろうか。

それとも主の素晴らしさを知るためだろうか。溜め込んで煮詰ま
っていないだろうか。主の御心にそって、手にあるものを献げよ
う。又与えられて、人にも自分にも祝福とされる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二人の主人に仕えられない。肉とサタンは不安を与え握りしめさ
せる。与えられた、任されているもの、賜物を、御霊の導きの通
りに献げて行く時に、主の栄光が現われ、必ず主を新たに知り、
霊的な祝福にあずかる。


2024年01月19日(金)

「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽 くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立 って、この悪魔に立ち向かいなさい。」Tペテロ5:8



エステル記の中で、王に重んじられていたハマンに、家来は、皆、
ひれ伏した。しかしモルデカイはそうしないので、ハマンは激怒し
た。それでモルデカイのユダヤ民族を根絶やしにする事を画策し
た。王に、巧妙に取り入り、ユダヤ民族皆殺しの、王の命令を取り
付けた。悪魔が、このハマンを使って、神の計画を阻止しようと働
いた。

結果、ユダヤ民族殺害の勅令が出された。モルデカイは祈り、王妃
エステルに、王にあわれみを求めるよう伝えた。だが、召されない
で、王のもとへ行く者は死刑だ。エステルは、この30日間王に召さ
れていない。しかし、この危急の事態に、自分は命をかけるので、
民にも断食の祈りを要請した。民で切なる祈りが献げられた。

ハマンはモデルカイを殺害すべく、柱まで用意したが、主は祈りに
答え、介入された。主は、王を不眠にし、年代記を読むようにしむ
け、モデルカイの手柄を見つけさせた。結局、主が、ハマンが裏で
仕組んだ邪悪な企みを、明るみに出された。モルデカイ殺害のため
の柱に、ハマン自らがかる事になった。ブーメランのごとく自分の
身に返った。

悪魔の企みは、主が光に出された。隠れたものは明らかにされる。
神はモルデカイに知恵を与え、なすべき事を示し、民は皆で祈りを
献げ、エステルは命を献げ、行動し、悪魔は打ち破られた。私たち
にも、悪魔の攻撃は絶えずあるが、まず祈り、主に示された通りに
従って行く時、悪魔は打ち破られる。
------------
小さな世界であっても常に悪魔との戦いがある。状況は最悪に見え
ても、否定的な思いに陥らないよう主に向かい祈り、何より主の力
とご計画を信じよう。示された事に従い悪魔に勝利しよう。


2024年01月18日(木)

「また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜな ら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているか らです。」Tヨハネ3:22


好きになれない人がいるだろうか。口を開けば人の悪口、噂話、
又、自慢ばかりする人、人のあら探しをする人、常に不満と愚痴ざ
んまいの人。好きになるのは無理と思うかも知れない。しかし、聖
書には相手を好きになれとは書かれていない。好きにならなくとも
よい。「愛しなさい」なので、愛することはできる。

聖書の中の「愛」はすべて「意志的愛」で、感情的な「好き」では
ない。愛するというと、どうしても感情を連想してしまうが、感情
の事はいっさい言っていない。そうでなく、意志で愛する事だ。感
情はコントロールできない。しかし、意志はコントロール出来る。
意志で、御霊に示された事を行なう事が、愛することだ。

毎日の生活の中で、困っている兄弟がいるなら、自分に出来る事を
し、自分の持っているものを分けることだ。「世の富を持ちなが
ら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者
に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」。自分に出来るこ
とをすればよいと。現実の人生では、例えば塩狩峠のような、実際
に命を捨てるような事は、余程でないと起きない。

困っている目の前の人に、あわれみの心を閉ざさない事、自分に出
来る事をする事、それなら出来るのではないだろうか。そしてその
示しに従う時、自分が真理に属するものである事を知り、御前に心
を安らかにされる。大胆に神の御前に出る事ができ、求めるものは
何でも神からいただくことができる。何と祝福だろう。
--------------
私達もそうして兄弟姉妹から愛されているのではないか。愛が自然
に生まれて来ない事を認めて、愛せるようにと主に祈っていこう。
互いに愛し合う事は主の御心だ。必ず与えられる。


2024年01月17日(水)

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたい と思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている からです。」ローマ7:15


結婚したある女性が、夫は、自分が思っていた男性とは全く違う事
がわかって来た。今まで異なる背景と環境で過ごして来たわけで、
考え方、価値観の違いに驚き、好みの違い、習慣の違い、様々な違
いにギクシャクした。この結婚は、間違いだったのだろうか。悶々
状態の中にいたが、夫は仕事が多忙で、語り合う時間も無かった。

イライラが募り、不満で一杯になり、相手を責めてしまう。相手を
変えようとする。話し合い、理解し合えたら良いのだが、言い合い
になり、顔を合わすとけんかになる。しかし自分の非は認めたくな
い。そんな強い自我に苦しみ、又、自己嫌悪にも陥る。平安が無く
なり、主の御前に赦しを求めるが、すぐに相手を責め立てる思い
が、噴き出す。悶々の日々を経て、疲れ果ててしまい、もうこれ以
上やって行けない状態になった。

夫とは争いが絶えず、もう結婚生活を続ける事に限界を感じるまで
に、追い込まれた。「主よ、助けて下さい。自分自身を、もうどう
にもできません。心底の叫びだった。この結婚を委ねます」とギブ
アップした。その時初めて、理解していると思っていた主の十字架
が、自分の事として迫った。

罪しか犯す事ができない自分だからこそ、十字架がある事がわか
り、涙ながらに悔い改めが与えられ、今まで味わった事のない平安
に包まれた。祈りながらも、ずっと自分で、自分の力で、何とかし
ようとして、もがき、あがいていた事に気づかされた。どん底こそ
が、実は最大の恵みの場所であり、主と出会える場所だった。
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一生懸命にやっていると自分の実態がわからなくなってしまう。我
慢している自分だけしか見えない。自分の真の姿を示されることは
感謝だ。自分からも解放される。主が導き返してくださる。


2024年01月16日(火)

「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなので す。」詩篇73:28


詩篇記者は、悪者が栄えるのを、妬んだと言っている。彼らはあぶ
らぎって、死にも苦痛が無く、他の人々のように苦労など、無いで
はないか。何の苦労もなく、あぶらぎっている。彼らは高慢で、暴
虐だ。彼らはあざけり、悪意で語り、上から見下す。なぜこんな悪
者が安らかで、富を増すのか。理不尽ではないか。なぜこんな神を
信じない者が栄えるのか。

それに引き換え自分と言えば、苦しみばかりではないか。何の良い
こともない。足はたわみそうで、歩みはすべるばかりだ。むなしい
ではないかと。彼は、悪者を妬んだとあり、それらの思いは妬みか
ら来ていた。そして妬みは、人との比較から来る。主を見上げるの
でなく、人を見ている事による。しかし、彼が聖所に入った時に変
わった。

自分の不満、愚痴、いら立ち、悶々の思いは、状況も、人も関係な
く、「自分と主との関係」の問題だと悟った。自分が主から離れて
いるから、平安がなく、不平不満、人への妬み、羨望でイライラす
るのだと。主から離れているので、主以外のもので心を満たそうと
する事が原因だと。そして自分にとっては、神の近くにいること
が、自分の幸せなのだと、悟らされた。

私たちもどうだろう。人が気になって仕方なく、妬みや羨望が湧く
時、又、いら立ちや不満がある時、目が主から離れていると言われ
ている。私たちの幸せは、主の近くにいることだ。主に立ち返り、
主で心を満たして頂こう。
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絶えず主の助けに拠らなければ、様々な事ですぐに喜びが無くなっ
ていく。心が苦くなるときは主の傍に行こう。主に祈り、神のみこ
とばに、聖霊の導きにしっかりと耳を澄まそう。


2024年01月15日(月)

「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、 私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを 私たちに下さるだろう。あの地には、乳と密とが流れている。」 民数記14:7



エジプトを出たイスラエルの民は、約束の地カナンに向かった。そ
の時に、12人の斥候がカナンに偵察に入った。戻った10人は占領で
きない、民は私たちより強いと言い、ヨシュアとカレブは占領でき
るから、上って行こうと言った。10人の斥候は、相手の力と自分た
ちの能力を比べ、自分たちは敗北すると考えた。相手は強大で、こ
ちらはいなごのようだと。

この判断は妥当に思えたので、全員が従った。彼らは恐れ怯えて、
エジプトで死んだら良かった、この荒野で死んだ方がましだとネガ
ティブ思考に陥った。占領できると言ったヨシュアとカレブには、
何と自分たちの親族さえつかなかった。彼らが占領できると言った
根拠が、主が「カナンを与える」と言われたからだ。見えるところ
ではなく、主の言葉に、約束に立った。

そして、結果的に、主の約束の地カナンに入ったのは、御言葉を信
じたこの2人だけだった。信じなかった皆は、荒野で滅んでしまっ
た。「信じる」ことは重要だ。不信仰とは神を見ずに、神以外のも
のを、問題を見ることだ。信仰とは、状況でなく神を見て、御言葉
を見つめ続けることだ。

約束の御言葉を一心に見つめ続ける時、心に信仰が湧き、不信仰を
退ける。信仰とは主と御言葉を見つめ、不信仰とは問題を見るこ
と。今、どちらを見ているだろう。御霊の助けを求めて祈ろう。信
じない者にならないで、信じる者とされよう。
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見えるものは強烈で気持ちはあっという間に引っ張られてしまう。
御霊の助けを祈ろう。そこから主の御約束に導かれる。今見えて
いる環境は主によって一瞬で変わる。信じよう。


2024年01月14日(日)

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自 分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるので す」U歴代16:9



「その心がご自分と全く一つになっている」とは、どんな人々なの
だろう。ダビデは、主から、「主の心にかなう者」だと、主と一つ
なる者と言われていた。だが、そのダビデは、完璧だっただろう
か。決してそうではない。彼はバテシバとの姦淫の罪を犯し、更
にその隠ぺいのためにウリヤ殺害という大罪を犯していた。

それがどのように、主と一つだったのだろう。ダビデの素晴らしい
ところは、自らの罪を示される度に、主の御前に罪を認めて、悔
い改めた事だった。そのため、主と一つになっているという事は、
完璧に主の御心に従い、決して罪を犯さないという事ではない。
弱さゆえに、主の御心を痛め、主の道をそれて、罪を犯してしま
う事がある。

しかし、御霊は、その罪を指し示され、悔い改めに導かれる。そ
の時に、心を頑なにせず、逃げず、突っ張らずに、主と自分に正
面から向き合う事だ。そして心砕かれて罪を認め、悔い改める時、
完全な赦しが、すでに備えられている。それが主と一つになって
いるという事だと言われる。

日々の生活の中で、御霊が教え、気づきを与え、信仰生活を導か
れるので、主のお心に従おうとする態度で、その御霊の示しに、
促しに、従おう。そうできるよう祈ろう。その時、主と心が一つだ。
もし今、御霊の示しを受けているなら、その導きに従おう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
完全な人は一人もいない。罪を犯さない人もいない。弱さのゆえ
に失敗を重ねてしまう。しかし御霊の示しの度に、心砕かれて、
悔い改め、主の血潮による赦しを受け取る時に、主と一つだ。
そして悔い改める度に、主の深い愛を経験して行く。


2024年01月13日(土)

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」 箴言 18:12



ダビデは王だった。権力を持ち、自分がトップだ。何をしても、
部下は何も言わないし、言えない。権力に逆らうなど、どうなるか
わからない。周囲は本音を隠して黙し、ただへつらうばかりだ。
自分の一人天下であり、どんなに心地良い事だろう。

しかし、これほど危険な場所は無い。簡単に道を踏み外してしま
う。ダビデは権力があったがために、バテシバを思いのままに
出来た。そして、更に都合の悪いバテシバの夫ウリヤを殺害し
てしまう。罪の上に罪を、二重の大罪を犯してしまった。トップの
位置にいる者は、気をつけなければ、サタンの格好の標的だ。

餌食になってしまう。誰も何も言えない、自分の思いのままの
状況下ほど危険なものはない。教会の責任を持つ者が、信者
になったばかりの者はいけない、高慢になり悪魔の罠に陥り、
悪魔と同じ裁きを受けることにならないためと。

人生で、何もかもがうまく行っている時も、同様だ。主に頼る事
を忘れ、自分でやって行けると高ぶってしまう。成功した時は、
非常に要注意だ。感謝とへりくだりを忘れ、慢心してしまう。人
間は罪の性質があり、弱いので、よくわきまえていなければ、
悪魔の罠に陥ってしまう。

又、高ぶりは、対人関係で様々な摩擦と問題を引き起こす。明
けの明星が天から落ちたのも、高慢の罪だった。悪魔は絶えず
働き、高ぶりへと誘惑して来る。よくわきまえ、祈って主に助けを
求め、拠り頼んでいよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高慢は、自分の罪を認めない。又、主のみわざを、自分が横取り
する。高慢は、自分を神とし、自分を崇める。明けの明星は、高
慢によりサタンとなった。最大の罪である高慢はなかなか気づけ
ない。御霊の気づきを祈ろう。


2024年01月12日(金)

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。 そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」ヤコブ4:7



「悪魔は偽り者であり、偽りの父」だと言っている。悪魔は嘘つき
であり、悪魔の内には真理が無いと。悪魔は、盗んだり、殺した
り、滅ぼしたりするだけのために存在する。黒を白、白を黒と言
い、何でも自由自在だ。平然と嘘を言うというか、嘘しか言えな
い。絶えず偽りへと誘惑して来る。

間違った動機を正当に見せ、正しい動機を間違ったものに疑いを入
れ、混乱させる。真実の中に、嘘を混ぜる。すると、なかなかその
嘘に気づけない。悪魔の誘惑は、自分の肉の欲望にピッタリと合致
するので、なかなか気づかず、見分けられない。エデンの園で、エ
バが見事に悪魔の誘惑に引っかかってしまったように。

善悪を知る木の実を食べると、「神のようになれるよ」との誘惑
が、「神のようになりたい」との自分の願望に合致し、沿っている
ので、悪魔の誘惑だとわからない。又、自分の強い思い、自分の偏
見が底にある時、ものの見方が偏っているので、間違ったものが正
しいとしか見えない。つまり、心に偏見がある時、物事を正しく判
断する事が出来ない。自分は正しく見ているつもりだが、歪んでい
る。

悪魔は偽りを真理に見せかけ、だまそうとする。悪魔のこういう誘
惑と攻撃をよく踏まえて、自分は間違う者だと認識し、自分に頼ら
ず、祈りをもって御霊の判断を仰ごう。主に拠り頼もう。神の御心
へと正しく導いて下さる。
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何でも自分で判断してやってしまいたい者だ。主に従いたくない肉
がある事を認めていたい。あの手この手で妨害してくる悪魔を覚え
いつも主に正しい判断を仰ごう。主が守ってくださる。


2024年01月11日(木)

「私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。夕、朝、真昼、 私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。」 詩篇55:16



ダビデが、「私の心は、うちにもだえ、死の恐怖が、私を襲ってい
ます」と訴えた。悪者の迫害があると。「恐れとおののきが私に臨
み、戦慄が私を包む」と。非常に苦しい状況にあった。この状況か
ら逃げ出したいが、逃げる事ができず窮地であった。迫害も苦しい
が、更にダビデを苦しめたのは、同輩や親友の自分への裏切りだっ
た。

「私をそしる者が敵ではない、それなら忍べた、そうではなく、私
の同輩、私の友、私の親友のお前が」。ダビデは、自分の気持ち
を、心の状態をありのまま言い表している。私たちも、苦しみの中
で、自分の殻に閉じこもるのでなく、主に気持ちを率直に素直に叫
ぼう。ダビデは、苦しみから逃避したい思いもそのまま告げる。

「鳩のように翼があったら、飛び去って休むのに。のがれ場に急ぎ
たい」と。苦しみには忍耐しなければならないのでは。いやダビデ
は、まずありのままの気持ちを、主に告げている。死の恐れ、孤
独、受け止められないほどの辛い状況、それらを認めた時、ダビデ
は上を見上げた。自らの行き詰まりと厳しい状況の中で、「重荷を
主にゆだねる」というところへ導かれて行った。

負い難い重荷を、主に明け渡し委ねる時、目の前の事態が導かれて
行く。苦しむのは委ねられない時だ。問題に押しつぶされそうで、
主も見えなくなる。明け渡せるように、助けを求めよう。「主は心
配して下さり、決して正しい者がゆるがされるようにはなさらな
い」と。
-------------
愚痴のような弱音も恨み言もダビデのように弱いままで支えてくだ
さる主に告げよう。ありのままを祈っていると不思議に次の一歩が
整えられる。主の慰めを受け取り思いを委ねて行ける。


2024年01月10日(水)

「ルツは言った『・・あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住ま れる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神 です。』」ルツ1:16



飢饉の際に、エリメレクとナオミ夫婦は、糧を求めて、偶像の地モ
アブへ移住した。そのモアブでエリメレクは死に、二人の息子は妻
を迎えたが、息子たちも死んでしまった。やがて故郷の飢饉が去
り、ナオミは帰郷の決心をする。モアブの地から「帰ろうとし
た」、神に立ち返ろうとした。

その時、嫁のルツが自分の郷里を捨て、まだ見ぬ異国の地へ、ナオ
ミと共に行く決心をした。それは、ナオミの背後のまことの神を見
て、神に従う決心であった。故郷に戻ると、女たちが「まあ、ナオ
ミでは」と言うと、「私をマラ(苦しむ)と呼んで」と言った。ナ
オミは、家族の幸せのために、神から離れ、偶像の地へ移った。

しかし、「私は満ち足りて出て行ったが、主は素手で帰された」
と。主が私を辛い目に会わせられたと。ナオミは砕かれへりくだら
された。しかし主に立ち返ったナオミには、ルツが与えられてい
た。主に従った二人には、すでに豊かな備えがあった。帰郷時が、
丁度ピッタリに大麦の刈り入れの時だった。

その時を狙ったわけではない。その「時」に導かれたのは主であっ
た。落ち穂拾いで、生活の糧が与えられた。ルツとボアズの結婚が
備えられていて、素手で帰った手に、孫を抱く事になる。どんな時
でも、主に立ち返ることができる。主は豊かに祝福して下さる。
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主のご計画も摂理も十分に理解できない者だが、失敗しても逃げ出
しても主はいつも愛をもって心配し関わり続けてくださる。どこか
らでも立ち返れる。主を頼ろう。


2024年01月09日(火)

「父ヤコブは彼らに言った。『あなたがたはもう、私に子を失わせ ている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして 今、ベニヤミンをも取ろうとしている。」創世記42:36



ヨセフは兄たちにエジプトに売られたが、父親ヤコブは、ヨセフが
獣に殺されたと聞き、そう思っていた。どんなに嘆き悲しんだろ
う。今、大饑饉で食糧も底をつき、ヤコブはエジプトへ食糧調達の
ため、息子らを送った。するとヨセフにシメオンを人質に捕られ、
食糧を売る代わりに、弟ベニヤミンを連れて来るよう要求された。

可愛い末子ベニヤミンだ。愛するヨセフを失い、シメオンが捕らわ
れ、その上ベニヤミンまでも失う事になる。次々と襲う苦しみに、
ヤコブはなすすべのない絶望的状況だ。ベニヤミンは放したくな
い。しかし食糧が無ければ、一族は餓死してしまう。もう限界だっ
た。しかしヨセフもシメオンもベニヤミンも失うなどと、こんな悲
惨な事が、我が身にふりかかっている。真っ暗だったろう。

ルベンが進言した。必ずベニヤミンを連れ帰るので、任せて欲しい
と。だがヤコブは余りにも辛くて出来ない。その内、食糧も尽き
た。ユダが父親を説得する。ついにヤコブは「全能の神がその方
に、あなた方をあわれませてくださるように・・私も、失うときに
は、失うのだ」と決意した。

するとその結果は、驚くべき事に、何と死んだと思っていたヨセフ
が生きていて、エジプトの宰相となっていた。シメオンも無事で、
全員がエジプトに呼び寄せられ、一緒に住めるとの夢のような事態
に。今、光が見えず、目の前は真っ暗だろうか。だが神にはご計画
があり、万事益とされる。必ず良くして下さる。トンネルは抜け
る。主を信頼していよう。
-------------
神の備えられたご計画のもとでも辛い試練はある。生涯を通して波
乱の連続だったヤコブのように、試練のたびに全能の神への信頼を
養われてトンネルを抜けたい。


2024年01月08日(月)

「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり 信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」コロサイ2:7


「満ち足りる心」というのは、どんなものだろう。満ち足りる心を
伴う敬虔が、大きな利益を受ける道と言われている。満足とは、環
境から来るものでなく、心の問題だ。経済的必要は十分に、溢れる
ほど与えられているのに、それでは足りず、まだまだ不安で仕方が
無い。「もっと〃持たなければ不安だ」。

幾ら所有しても、もっと欲しい、これは「貪欲」の罪だ。貪欲は心
の問題で、際限がない。持っても〃更に欲しい。それは所有するほ
ど、心が囚われてしまう。これで良い、満足という事が無い。神無
しの世界だ。「満ち足りる心」は、感謝することから来る。「すべ
ての事について感謝」「溢れるばかりに感謝せよ」、これが秘訣
だ。

今、与えられているものを主に感謝して行く時、貪欲の罪から守ら
れる。そして競争心等からも守られる。今、与えられている境遇を
感謝する時、妬みから守られる。不平不満や妬みは、自分に無いも
のを数える事から来る。「あれが無い、これも無い」と不満で一杯
になる。無いものを数えていないだろうか。主から与えられている
ものに、目を留めてみよう。数えてみよう。

あふれるばかりに感謝を献げよう。感謝する時、サタンの足場を無
くしてしまう。パウロはどんな境遇であっても、満足する事を「学
んだ」と言っている。自然にあるものでなく、「学ぶ」ものだと。
少しづつ〃御霊に従う中で、学びつつ身につけて行った。今、無い
ものを数えていないだろうか。ありのままを主に祈ろう。感謝に変
えて下さる。
-------------
なんと新しい年のスタートにふさわしい御言葉だろう。主は今年も
あふれるばかりの恵みを備えていてくださる。それはすでに私たち
の手の中にある。曇りがちな信仰の目を主にむけ恵みを受け取って
いこう。

*主が与えてくださった新しい年を感謝します。
また共に主を賛美しながら歩めることにも感謝します。
2024年もどうぞ宜しくお願い致します。配信係