2024年02月29日(木)

「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出か けることにした」使徒16:10



パウロがアジアで宣教しようとすると、聖霊に止められた。それで
ビテニヤへ行こうとすると、又、止められた。切に祈り続けていた
事だろう。それでトロアスに下った時に「マケドニヤへ渡って来て
私たちを助けて下さい」との幻を見た。この幻を見た時、パウロは
確信した。マケドニヤ行きが導きであり、主が招いておられる!
と。

パウロは「確信した」ので「ただちに」マケドニアに向かった。こ
こで学ぶ事ができる。主は環境を用いて、御心でない道を閉じられ
る。もしこの聖霊の阻止が無ければ、パウロは御心に反する方向へ
向かっていた。私たちが願っていた進路が閉ざされた時、落胆し、
落ち込む。しかし、それは主があなたのために、更に良いふさわし
い道を備えていて下さるという事だ。

又、「確信した」とあり、御心を求める中で、祈り続ける時、主は
「確信」を与えて下さる。今、御心だと感じていて、今一歩前進を
ちゅうちょさせるものがあるなら、「確信」を求めよう。「確信す
る」事によって、前に一歩を踏み出すことができる。そして、主か
らの確信が来たなら、「ただちに」行動に移そう。

この時、パウロが「マケドニヤに行こうか、どうしようか、止めよ
うか」とぐずぐずしていたらどうだろう。これはヨーロッパ宣教と
いう画期的な大きな御心であった。もし、今、あなたが御心を確信
していたなら、必要な事は、ぐずぐずせずに「ただちに」実行する
ことだろうか。
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一つ一つの出来事が閉じられたり開かれたりして、一本につなが
る。祈っていよう。祈って主からの確信を得たら、ただちに従お
う。主が最善のご計画に導いてくださっている。


2024年02月28日(水)

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女 よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫の ある女の子どもよりも多いからだ」イザヤ54:1


ある人が牧会していた教会で、問題が起きて、皆の意見が不一致
であり、人々が対立し、騒然となった。自分の力不足のせいと、
自らを責めた。苦しい悶々の日々であった。そんな中、信頼を置い
ていた人物が去り、大きな打撃を受けた。落ち込みの日々であっ
た。

それに続いて去る人々も出て、問題に次ぐ問題で、心労で体調を崩
してしまった。なすすべなく、まさに窮地であった。意気消沈し、
立ち上がる気力も無かった。どうする事もできず、何をどうしてよ
いかもわからなかった。ぼうっ〜と日を過ごしていた中、心に語り
かけて来る主の御声を聞いた。「子を産まない不妊の女よ。喜び歌
え。喜びの歌声をあげて叫べ」紛れもなく主からの語りかけだっ
た。

子を産まない不妊の女は、まさに自分であった。しかし、「喜び歌
え」と言われる。「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの
幕を惜しみなく張り伸ばし・・あなたは右と左にふえ拡がり」主から
の御声を聞いた時、状況と自分にしか向いていない目が、ふと主に
向いた。「喜びの歌声をあげて叫べ」視点が変えられた。

打ち沈んだ、無気力な心に、主を見上げる力が与えられた。ふっと
顔を上げることができた。御言葉を心に反すうした。「わたしがあ
なたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」主の言葉
には霊がありいのちがある。私たちがどんな状態であれ、立ち上が
らせることができる。主を仰ごう。新しい力が与えられる。
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たった一言の御言葉が心に触れるとき光が差し込む。主からの慰め
だと自分を祝福してくださる主を感じて立ち上がれる。御言葉は霊
であり今を生きていくいのちだ。


2024年02月27日(火)

「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けま で彼と格闘した。」創世記32:24



ヤコブは「押しのける者」の意であり、自我が強く、周囲を押しの
けて、自分の思いを押し通す者であった。父と兄をだまし、祝福を
横取りして、兄の怒りで家におれなくなった。逃亡し、遠方の伯父
宅に身を寄せる。更にしたたかな伯父ラバンに、結婚の事で、姉娘
を妹娘だとだまされ、押し付けられた。かつて自分がした事だ。

蒔いたものは必ず刈り取り、自分に返る。ラバンの下で、非常に辛
く苦しい訓練を受ける。しかし狡猾なラバンのもとで、尚かつ、巧
みに家畜を増し加え、財産を増やす。どこまでも知恵が働き狡猾だ
った。やがて伯父やその息子たちの態度が微妙に変わり、おりずら
くなった頃、主から故郷へ帰るよう示しを受ける。

20年の歳月が流れていた。帰郷となると、あの兄に会わねばならな
い。殺されるので逃亡したわけで、その兄が恐怖でならない。家族
も、皆殺しにされるのでは。極度の不安と恐れが、何とかするに
も、もうどうにもならない。しもべも家族も渡らせ、一人残ったヤ
ボクの渡しで、ある人が、夜明けまで彼と格闘した。

ヤコブは死にもの狂いで、もがきにもがいた。どうにもならないの
で、その人はヤコブのもものつがいを打った。人を押しのけ、自分
の利得のために生きて来た、エゴのかたまりであるヤコブ、自我が
砕かれた。ヤコブは変えられ、主の前にくずおれ、自力で歩めなく
なり、びっこになった。杖が無いと歩けない。

主に拠りすがらなければ、一歩も歩めないヤコブになった。そのヤ
コブは恐れから解放された。逆説的だが、主に全く捕らえられる時
に、私たちは自由になる。喜びと平安に包まれ、不安と恐れから解
き放たれる。 
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自力で出来ないと示されるのは苦しい過程だが、実は大きな祝福
だ。自分で守り手に入れなければ幸せになれないとの恐れから自由
にされる。主に手渡し、主にある喜びの中を生きたい。


2024年02月26日(月)

「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を 正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」詩篇 50:23



ある女性の夫が、ギャンブルがどうしても止められず、給料にも手
をつけるようになり、前借りまでするようになった。家計はどんど
ん圧迫され、生活苦だった。止められるように祈り続けた。夫は妻
の勧めで教会へも行き、主を信じた。夫は止めなくてはと思うのだ
が、誘惑に負けてしまう。

妻は、経済的困窮に追いつめられ、心に余裕が無く、主に従わない
夫に、腹が立って仕方がない。夫への怒りが増幅し、ある時、もう
許容量オーバーで抑えられず爆発し、その辺の物を壁に思いきりぶ
つけてしまった。すると自己嫌悪に陥るは、怒りといら立ちで、わ
けがわからなくなり号泣した。心の底から主に叫んだ。限界だっ
た。

「もう無理です。何もどうにも出来ません。助けて下さい」。それ
が、常々ずっと学んでいた御言葉が「すべての事について感謝せ
よ」で、そのどん底で、日頃慣れ親しんだ、その言葉が臨んだ。そ
れで「この事態を感謝します」と祈れた。すると不思議に、あれほ
ど荒んだ感情が、すうーっと落ち着いて行った。どん底の叫びに、
主が答えて下さったのがわかった。

心がなぎになり、夫への怒りが落ち着いていた。心に御霊の喜びが
与えられた。あれほどの夫を責める気持ちが失せた。教会へ一緒に
行けるだけでも、心から感謝だと思えた。妻の変化に驚いた夫は、
心が主に向き、悔い改めへと導かれた。妻は、夫を裁く心が、ます
ます夫をギャンブルに追いやっていた事に気づかされた。
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状況がどうでも主と交われば心が満たされる。何という恵みだろ
う。喜びも感謝も自分ではできない者だが、感謝して行くときに主
が、いつも私たちの歩みを祝福してくださっている事に気づける。


2024年02月25日(日)

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。 あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」 ヤコブ4:1



人間の欲望それ自体は悪ではない。食欲が無ければ死んでしまい、
知識欲は御言葉を知りたいと願い、様々な意欲は生きる原動力だ。
しかし反面、欲望はコントロールが効かなければ、容易に罪に傾
いて行く。欲しいと思うと、自制が効かず、何が何でも持ちたく
なる。人と戦ってでも得ようとし、自分のものにならないなら、
人殺しまですると。

それほど、欲望とは貪欲で強烈だ。しかし、願うものを手にでき
ないのは、「あなたがたが願わないから」とあり、主は私たちに、
欲しいものがあるなら、主に求めて祈れと言われている。自力で
奪い取るのでなく、主に願えと。主が与えて下さるとは、何と喜
びであろう。「すべての良い贈り物は、上から来る」と。

そして主と交わり、祈りを重ねる中で、それは本当に自分に今、必
要なのかがわかって来る。神から離れたこの世では、人は欲望のま
まに生きる。「私たちもみな・・自分の肉の欲の中に生き、肉と心の
望むままを行ない」と。しかし主との交わりの中で、自分でもわか
らなかった、心の底の本当の願いや、本当に必要なものが、わかっ
てくる。

ある人は、進路について自分の願いがあり、主と交わり祈りを続け
ている中で、それは人の目を意識し、賞賛が欲しくて、願っている
事だと気づかされた。本当の願いでは無いと。そして自分の本当の
気持ちは、そうでなく、主に喜ばれる選択をしたいという事だとわ
かった。平安ある進路変更に導かれた。祈るなら、時に自分の思い
と異なるが、必ず「良いもの」を下さる。

・・・・・・・・・・・・・・
祈り続ける中で、時に自分でも気づかなかった動機に気づかされる。
動機が間違っていると、みこころとは反対方向へと向かってしまう。
祈りの中で、間違った動機を正して下さり、みこころにかなった祈り
へと導いて行って下さる。


2024年02月24日(土)

「道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、 葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその 木に『おまえの実は、もういつまでも、ならないように。』 と言われた」マタイ21:19



当時、道ばたの野生いちじくは自由に食べていた。主が、いち
じくを食べようとすると、葉のほかには何もなく、実がなか
った。「いちじくのなる季節では無かった」ので、当然と言
えば当然なのだが、一つの実も無かった。いちじくは。イス
ラエルの象徴だった。

エレミヤ書でも「この良いいちじくのように、わたしは・・良
いものにしようと思う」「わたしは、良くするために彼らに
目をかけ」と。立ち返るようにと、熱い愛を注がれたのに、
「葉のほかに何もない」と、ユダヤ人への嘆きだった。指導者
たちが、メシヤを受け入れない事への警告で、さばきであった。

細かい儀式は、きっちり行なうが、その心は神から遠く離れて
いる。形式はあるが中身がない。「葉」ばかりがおい茂って、
「実」がない。祈りの家が強盗の巣になっている。イスラエル
の現実であり、生きた信仰がない事実を教えようとされた。そ
して「神を信じなさい」と、信じるなら、山もが動くと。生き
た、実を結ぶ信仰について語られた。

山は不動のものであり、動くわけがない。しかし、主を信じ、
祈りが聞かれると信じて行く時、私たちの不可能と思っている、
絶対に無理、どうにもならないと思っている、その目の前の山
が動くと。あなたの山は何だろう。又、その時に「赦さない心」
が妨げとなる。赦さない心があるなら実を結ぶことができない。
赦すべき相手があれば、御霊に助けて頂こう。取り扱い、導い
て行って下さる。
・・・・・・・・・・・
葉っぱばかりが生い茂るような者だが、主は、実を結ばせよう
と絶えず導いて下さり、様々な事柄の中で、信仰を成長させよ
う〃として下さっている。日々に経験するところだ。あわれみ
の主の取り扱いに、あずかって行こう。


2024年02月23日(金)

「さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトの ほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききん は激しかったからである。」創世記12:10


カナンの地に入ったアブラムは、厳しいききんに会い、そのために
エジプトに下った。「あなたの子孫に、この地を与える」と言われ
たのに、目先の事で約束の地を離れてしまった。み言葉でなく、状
況に動かされた。どんなに厳しい状況でも、主の御心の中心におれ
ば、必ず守られたであろうに。その時に、エジプト人は美しいサラ
イを見て、自分を殺すだろうと恐れた。

そのため、サライに自分の妹だと言うようにと画策した。そうすれ
ば自分は生き延びられると。異母妹ではあるが、故意に妻である事
を隠すのであり、それは嘘をつく事であった。そのサライはどうな
るのか。我が身を守るだけの、何よりも身勝手で、卑怯な保身であ
った。案の定、サライはパロの宮廷に召し入れられた。

パロは、サライのゆえにアブラムに特別待遇をし、沢山の羊、牛、
ろば、奴隷、らくだを与えた。しかしそこに主が介入され、パロと
その家をひどい災害に遭わせられた。サライは守られ、難を逃れ、
アブラムと一族は送り出された。後にヘブル書では信仰の人と言わ
れたアブラハムにも、このような失敗があった。

飢饉という危機に際して、主に祈らず、自分の思いで、自分の判断
で動いた結果、エジプトへ下ってしまった。又、そこで主を見上げ
る事が無かったので、罪を犯してしまった。まず大切な事は、問題
が起きた時に、まず祈ることだ。その時、主が進むべき道に、御心
の道へと導いて下さる。
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目先の事に動揺し何度も不信仰になる。そんな失敗のたびに主は守
り、導き続けてくださる事は感謝だ。ご誠実な主を信じ、御心の道
を誤らないよう、どんな時も祈りつつ主と歩もう。


2024年02月22日(木)

「すると、その人は、『導く人がなければ、どうしてわかりましょ う。』と言った。」使徒8:31



女王カンダケに仕えるエチオピア人高官がいた。彼は礼拝のためエ
ルサレムに上り、エチオピアへの帰途だった。馬車で、イザヤ書を
読んでいた。丁度その時に、御霊がピリポに「近寄って、あの馬車
といっしょに行きなさい」と言われた。そこでピリポは御霊に従
い、馬車に近寄り、並走しながら、「あなたは読んでいることがわ
かりますか」と声をかけた。

彼は「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と答え、馬車
に乗って、一緒に座るよう頼んだ。ピリポは、その箇所からイエス
のことを彼に伝えた。彼は、書いてある意味がわからなかったが、
主を求めていた。だからイザヤ書を読んでいた。この箇所による
と、求めがあれば、主を知ることができる。

主を求めるなら、必ず応えて下さる。切に求める者は受ける。必要
な導き手を送って下さる。高官にピリポが備えられていたように、
あなたにもふさわしい導き手が備えられている。そして、喜びに満
ちる。主は、「求め」を求めておられ、求めを喜ばれる。「求め」
があるなら、必ず主がわかるようにして下さる。

又、ピリポは、御霊の導きを受けた時に、素直にすぐに従った。
ぐずぐずしていたなら、すでに高官は行ってしまったろう。ピリポ
は、主の働きに用いられるという、幸いな恵みにあずかった。あな
たも御霊の導きが来ているなら、ぐずぐずせずに従おう。主のみわ
ざのために、豊かに用いられる。チャンスを逃してしまう前に。
------------
御言葉をもっと理解したいとの思いに主は必ず答えてくださる。聖
書を知り、信じている主の事をもっと知りたい。そして自分が変わ
りたい。求めよう。主は豊かに導き養ってくださる。


2024年02月21日(水)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる 祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきな さい」ピリピ4:6


思い煩いは、誰しも経験する。まだ起きていない事を、ああでもな
い、こうでもないと不安と心配にさいなまれる。それは有意義に過
ごせる時間を、無駄に捨ててしまう事になる。御言葉は「何も思い
煩わないで」、主に「願い事を知っていただきなさい」と言ってい
る。「思い煩うな・祈れ」と。それも「大きな事」は、でなく「あ
らゆるばあいに」と。例外無くすべての時に、「思い煩うな・祈
れ」
と。

この主の言葉に従うためには、思い煩いを「ストップ」する事が必
要だ。煩い続ける事を「止め」なければならない。「止め」て、
「祈る」ことだ。これは練習だ。繰り返し〃、そうする事で身につ
いて行く。放課後、生徒たちがテニスや卓球の部活で、素振りをし
ているのを見る。延々同じ動作を繰り返す。バレエも同様だ。基本
動作を繰り返し〃練習する事で、自然に身について行く。

「思い煩い」が来ると「祈り」へ。これを繰り返そう。なぜ問題が
起きると、辛く苦しくなるのか。それは自分で何とかしようと思う
からだ。全重荷が、自分の肩にかかる。だが解決どころか、どうに
も出来ないので、恐れと不安に飲み込まれる。又、自分が握り、主
に渡さないので、主もどうにも出来ない。主に委ね、明け渡す時
に、主が働かれる。

状況が変わるかもしれない。又、状況が変わらずとも、忍耐する力
を与え、平安を与えて下さる。どちらにせよ、そこに主が働かれ
る。「思い煩い」が来る度に「祈り」に持って行こう。そうすれ
ば、まず主の平安で、心が守られる。
------------
ああでもない、こうでもないと自分で考えているだけでは少しも良
い方にいかない。いつも経験する。考え込む前に主に知恵も助けも
祈り求めよう。必要なのは委ねる訓練ではないだろうか。


2024年02月20日(火)

「ですからあなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは 大きな報いをもたらすものなのです。」ヘブル10:35



信仰生活の中で、特に難しい事の一つが「待つ」事だと言われる。
約束の成就をなかなか待てない。待つことは、非常に厳しい訓練
だ。私たちは誰しも、すぐに目に見える結果が欲しい。すぐに祈り
の答えを得たい。忍耐が持てず、なかなか待てない。アブラハムは
「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければ
ならない」、天の星を数えられるなら、数えてみよ。

「あなたの子孫はこのようになる」と、子どもを与えると言われ
た。しかし、待てども待てども、なかなか子どもは与えられなかっ
た。アブラハムは待てずに、サラの申し出を受け入れ、女奴隷ハガ
ルにより、イシマエルを得た。主は子どもを与えると約束された
が、アブラハムは、待てずに、自分の思いと自分の方法で動いた。

アブラハムは86歳で、まだその力があった。その後、時を経て、ア
ブラハムは100歳になり、自分のからだが死んだも同然になった時
に、主の奇跡によりイサクが与えられた。約束は必ず成就する。し
かし、それは自分の思う「時」ではなく、主が思われる「時」だ。
自分の思い通りではない。祈りが答えられる「時」を、人が決める
ことはできない。今すぐにして上げようとは、言っておられない。

「神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要な
のは忍耐です」そして、「あなたがたの確信を投げ捨ててはなりま
せん」と。確信を投げて、捨ててしまうなと。大切な確信だ。それ
は遅くなることはない。そして大きな報いをもたらすと。今、待ち
望むよう導かれているなら、忍耐しよう。忍耐により、大きな祝福
にあずかろう。
------------
主の御約束があっても待っている間には動揺もし、もう駄目だ無理
だと不信仰がやってくる。その弱さを主はご存じだ。最初の確信に
立ち返り留まろう。諦めずに祈り続けよう。


2024年02月19日(月)

「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに 刈り取ります」Uコリント9:6


ある人の証しだ。ある時、礼拝メッセージを通して、経済的苦境に
ある人の事を覚えさせられた。御霊の強い促しを感じ、その日、財
布の中身を全部、指定献金にして献げた。すると、何とその帰り、
不注意で財布を落としてしまったのだ。献金しておいて良かった。
御霊の導きに従えた事に、心から感謝した。もし従えず、献げなか
ったなら、紛失して、がっかりして終わりだった。

喜びに満たされて、御霊の導きに従順に従う事を強く教えられた。
ある人は、御霊の示しにかかわらず、どうしても十一献金ができ
ず、ぐずぐずしていた。すると、何だかんだと、次々と病院通いが
続き、想定外の出費がかさんだ。日頃、健康がどんなに守られ、生
活のすべての必要が満たされているかに、改めて思いが至った。

豊かな主の恵みであるのに、そこに感謝がなく、当然としか思って
いない態度を心から悔い改めた。感謝と喜びをもって献げる者へと
変えられた。ある人は集会で恵まれて〃、喜びが満ちて、財布を開
いて、ひっくり返してパンと全部献げた。帰りの電車賃も献げてし
まい、歩いて帰ろうと思っていた。

すると集会後の交わりで、ある家族と同じ方向だとわかり、途上だ
から家まで送ってくれると言う。主の働きだった。心に喜びが満ち
た。御霊に従う事の祝福にあずかった。
------------
与えることは失う事だと思ってしまうが、主が十分に恵みを備えて
くださることを覚えていたい。そして献げる度に喜びに満たされ
る。献げることで豊かにされる。経験していきたい。


2024年02月18日(日)

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなの を知って、彼に言われた。『よくなりたいか。』」ヨハネ5:6


アルコール依存症の人は、どこに行っても、飲酒の誘惑があるから、
止められないのだと言う。又、ギャンブル依存症の人も、ギャンブ
ルがあるから悪いのだと言う。つまり、環境が悪いのだと。しかし
同じ環境にいて、アルコール依存症にもギャンブル依存症にもなら
ない大勢の人々がいる。

これは環境のせいなどでは無いという事だ。何が問題なのだろう。
私達も形は違うが、同様だ。止められない習慣の底にあるものは、
何だろう。止めたくない自分なのだ。止められないのでなく、止
めたくない。心配症、思い煩い症の人がいるが、思い煩っていた
い。思い煩いがないと不安で、思い煩って安心する。思い煩い依
存だ。

おかしな話だが、心の底を正直にみると、そうなのだ。主はいつ
でも、ベテスダの男性のように「よくなりたいか」と問うていて
下さる。出来るかとは問われない。「そうしたいか」だ。本当に
良くなりたいかどうかだ。建前でなく本音はどうなのだろう。良
くなりたいのだろうか。

環境のせいにせず、人のせいにせず、自らの罪を認め、無力を認
める時、主は癒しを与えて下さる。しばしば、罪を憎んでいない。
罪を楽しんで愛している。罪には快楽があるので心地良い。罪を
憎まなくては、主を愛することはできない。本音の部分を御霊に
照らして頂いて、そのまま主に向き合おう

・・・・・・・・・・・・
良くなると労働しないといけない。人々の見方も変わり、社会的責
任も生じ、楽でない面も出て来る。形は違うが、霊的な面であいま
いにしておきたい心があるかも知れない。突き詰めたくないだろう
か。主を求める心へと導かれるよう祈りたい。


2024年02月17日(土)

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできま せん。」ヨハネ3:27



主イエスが、群衆からもてはやされ、群衆の人気が、ヨハネから主
へ移って行った。ヨハネの弟子たちは「みなあの方のほうへ行きま
す」と、自分たちの師の人気が落ちて来た事に、やっかみや、いら
だち、寂しさを感じていた。しかしヨハネは動じず、態度は立派だ
った。

自分はキリストではないと言明し、主が花婿であり、自分は花婿の
友で、花婿の声を聞いて喜びに満たされていると。ヨハネは喜びを
もって主に仕えていた。真に、主に仕える者は、喜びに満たされる。
そして、ヨハネの謙遜は学ぶべき姿だ。人との比較に生きる時、必
ず優越感と劣等感が生じて、その二つの間を行ったり来たりする事
になる。

職場の同僚の昇進、学生間での成績や人気、又、ライバルの成功な
ど、人と比較すると相手が優ると嫉妬する。肉のプライドが傷つく
のだ。人の成功は、自分の失敗のように感じてしまい、人がほめら
れると自分がけなされたように感じる。根にある高慢から来る。ヨ
ハネは主を認めて、へりくだった。

人の栄誉も、賞賛も、成功も、すべて主から来るものであり、主の
主権を認めたのだ。そして、自分の欲望を満たす事、誇りを満足さ
せる事でなく、主の与えて下さるもので満足した。ここが平安の秘
訣だ。不平も不満もなく満ち足りた心だった。御霊に支配された人
は、たとえ自分が認められず、評価されずとも、主の栄光が現わさ
れるなら、それを喜ぶ。
その人には、主ご自身からの溢れる喜びと、満ち足りた平安が与え
られるからだ。充分なのだ。

・・・・・・・・・
心がザラついたり、穏やかでなくなり、平安が失せる時、プライド
から来ていないか、御霊に探って頂こう。自分が心の王座にいるゆ
えの事だろうか。主は平安を与えたり、取り去ったりして教え導い
て下さる。造り変えて行って下さる。


2024年02月16日(金)

「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなか った・・すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。」 ルカ24:16


エマオ途上の弟子達は、主が十字架で死んでしまい、深い失望落胆
にあり、「暗い顔つき」であった。喜びも平安も希望も失ってしま
っていた。主が、かたわらを歩き、話しかけて下さっているのだ
が、それが主だとわからなかった。失望落胆にある時、主が見えな
くなる。すぐそばに、かたわらにおられる主が見えない。

サタンが、人間を信仰から離すために、心に蒔くために、効果的な
種は「失望」だと言った。人が失望してしまう時、祈る力も奪わ
れ、失せてしまう。しかし事実は、私たちが、どんなに主が見えな
い時も、わからない時も、主はすぐそばにおられる。自分が主を感
じられなくても、見えなくても、共に歩んで下さっている。何とい
う慰めだろう。

主を感じる時には共におられ、感じられない時は、共におられない
のではない。そして不信仰は主を見えなくする。「愚かな人たち・・
信じない、心の鈍い人たち」「彼らの不信仰とかたくなな心をお責
めになった」主は不信仰は、はっきりと間違っていると言われる。
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。

あなたは今、失望しているだろうか。不信仰に陥っているだろう
か。自分の思い通りにならないせいだろうか。しかし、問題は、信
じようとしない、かたくなな、自らの心だろうか。自らの不信仰と
認めて、悔い改めよう。その時、導いて下さって、今の状況を、境
遇を通して、必ず主の栄光が現れるようにして下さる。
-------------
失望し一人でとぼとぼ歩いているように思える時がある。心は塞が
れていても主が共におられる事を覚えていたい。御言葉を開き、主
との交わりを始めよう。


2024年02月15日(木)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを 聞いてくださる・・と知れば、神に願ったその事は、すでにかなえら れたと知るのです。」Tヨハネ5:14


なかなか祈りが答えられない事を経験するだろうか。祈りは学校だ
祈りの実践の中で、祈りを学ばされて行く。祈りには明確な原則が
あり、御心にかなう祈りだけが答えられる。御心でない祈りは、幾
ら祈っても答えられない。つまり、御心にかなった祈りを知るため
に、祈ることになる。

祈りの実践の中で、自らの祈りが、御霊によって軌道修正され、御
心にかなう祈りへと導かれて行く。又、祈りの中で、動機も照らさ
れ、教えられ、砕かれ、ふさわしい者へと整えられて行く。ある人
がセミナー企画のために祈りに祈って、あるアイデアが生まれた。
良い案であり、御心を確信し、進めようとするがなかなか思うよう
に行かない。皆の一致が得られない。

しかし祈りで得た案であり、更に祈りを積んだ。そんな中も、事は
なかなか進まない。思うようにならないイラ立ちの中で、ある時祈
っていて、自分の頑なな自我を示された。確かに主から示された企
画だが、意見を異にする人々に、心の内で反発し、どうしても自分
が遂げようとする強固な自我があった。心から悔い改め、そして自
分自身も企画も主にゆだねた。

その時、イラ立っていた心が、すうーっと落ち着いた。それから、
不思議に事が動き、前進し、着々と成就して行った。祈りの答えと
共に、私たち自身も整え、成長へと導いて下さる。祈りの学校で導
かれるので、まず主に向いて、祈って行こう。
------------
祈りの学校で私たちはいつでも学べる。自分の考えでしか判断でき
ず御心がわからない者だ。主に祈り、祈りの答えを見張っていよう
備えられている恵みに気づいていこう。


2024年02月14日(水)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い 煩いを知ってください。私のうちに傷のつた道があるか、ないかを 見て、私をとこしえの道に導いてください。」詩篇139:23



今、目の前に、難しく苦しい対人関係があるだろうか。なぜか攻撃
対象にされてしまう。御霊に自らを探って頂いて、非があるなら悔
い改め、非が無ければ立っておればよい。ある人は、自分への風当
たりの強さを感じる中、祈りとみ言葉に支えられ、相手にかかわら
ず、挨拶し続けた中、心は不思議な平安に守られた。

又、心身壊れるほどに苦しい状況なら、そこから出て、離れる事も
導かれる。又、時に、主は訓練として、辛い環境に置かれる。そり
の合わない相手が、目の前にいるだろうか。家庭、学校、職場、近
隣で、悶々状態だろうか。この相手さえいなければ、幸せなのに、
なぜ、いるのか。環境を変えて欲しいと祈る。相手が変わるように
祈る。

相手のあの言葉で傷つけられた。あの言葉さえなければ、私は傷つ
かないわけで、相手が悪いとしか見えない。いつしか相手を責め
て、憎み恨んで行く。相手が、状況が変わるようにの祈りは、時と
して、なかなか答えられない。経験するだろうか。嫌な相手のため
職場を変わるが、又、次の職場にも同じような相手がいる。主は、
何かを教えたくて、その状況に置かれている。

しかし一つ、必ず聞かれる祈りがある。それは「私を変えて下さ
い」だ。相手のその言葉に、態度に反応するその裏に何があるの
か。自らの自我、隠れたプライド、劣等感、不安、恐れ、密かな虚
栄心、様々な内にあるものを示し出して下さる。きよめて行って下
さる。そこから出るようになら、そのように、又「私を変えて下さ
い」なら、そのように祈ろう。
------------
「わたしを変えてください」の祈りをしよう。知らず知らず握って
離せないものを示される。感謝だ。主の導きは傷ついた道にさす一
筋のひかりだ。


2024年02月13日(火)

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配 します。」マタイ6:34


主は、モーセに導かれてエジプトを出た民たちを、荒野に導かれ、
そこで40年間養われた。何も無い荒野で、天からマナを降らせられ
た。それを毎日1日分だけを集めよと。今日の分だけだ。6日目だ
けは2倍集めたるようにと。翌7日目は安息日で、集める事ができ
ないからと。しかしある人々は、命令を聞かずに、翌日の分まで取
り込み、残しておいた。が、それは虫がわき、悪臭を放った。

又、ある人々は、6日目に2倍集めないで、安息日に取りに出た。
しかし安息日には、全く何も見つからなかった。主はこの事を通し
て、「わたしの教えてに従って歩むかどうかを試みられ」た。40
年の間、1日たりともマナの無い日はなく、荒野で、主ご自身が民
を養われた。これは「日ごとの糧」を表している。

主はその日の必要を必ず与えて下さる。明日の心配は無用だ。明
日、明後日の糧を求めよとは言っておられない。今日の糧だ。明日
のことは明日が心配する。今日1日の糧があれば充分だ。明日の心
配は無用だ。能天気でよいという意味ではなく、主が心配していて
下さるから無用なのだ。

「あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神が・・心配
してくださるからです」の通りに。今日、糧が与えられている事を
精一杯感謝して、明日は主にいっさいお任せしよう。主を信頼して
行く時、主はどんな中も平安と喜びの中に守って下さる。
------------
今日のいっさいの祝福は主から来る。そう認めていても明日の心配
がやってくる。この弱さをご存じで、主は今を支えてくださってい
る。主を信頼し、明日の祝福を信じていよう。


2024年02月12日(月)

「主はサムエルに仰せられた。『彼らの言うことを聞き、彼らにひ とりの王を立てよ。』」Tサムエル8:22


イスラエルの民が、サムエルに自分たちに王が欲しいと、自分たち
の王を求めた。これは主の御心に反した事であった。主は、彼らに
厳しく警告し、王の権利を彼らに知らせよと。しかし民はそれらを
聞いた上で、尚且つどうしても王が欲しいと。その時、主は、民の
声を聞き入れよと言われた。

サムエルを退けたのではなく、主を退けたのだと。民は王を求め
て、主に逆らい、主を退けたのだ。民は、王の強権のもと奴隷にな
るだろうと。そしてその時に主の助けを求めても、主は答えて下さ
らないと。主は、どうしてもと言い張る民に、王を立てられた。私
たちもしばしば、自分が肉で計画した事がうまく行き、画策通りに
なる時に、これは主が成功させて下さったと勘違いする。

主が認めて下さったものだと思い込みたい。だが、それは大きな誤
解だ。私たちが頑なに、どうしても行くといって聞かないので、主
は、自分勝手な道を行く事を許された。どれだけ止めても、忠告し
ても聞かない時、行かせられる。そして、自分がした事の結果を刈
り取らせられる。苦い刈り取りになる。その刈り取りを訓練とし、
学ばせられる。自我を通すことが、いかに愚かであるかを身をもっ
て知る。

蒔いたものは必ず刈り取る。例外はない。肉のために蒔くと、必ず
苦しい刈り取りがある。今、自分の道に行こうとしているなら、立
ち止まろう。方向変換して御霊に従おう。御霊に蒔くなら、大きな
祝福を刈り取る。主の栄光が現わされる。どんなに感謝な事だろ
う。
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肉の性質は強く私たちは弱い。慎重に主の御心を祈り待つことより
自分の願いを優先させてしまう。強い思いをいったん主に委ねて、
吟味してみよう。迷いやすい者を主は守り導いてくださる。


2024年02月11日(日)

「それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして 帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふ らせなさったのですか。」ルカ15:30



家を出て、遊びほうけて好き放題をした弟息子が、父のもと
に戻って来た。毎日〃待っていた父は大喜びで、家までは遠
かったのに、彼を見つけ走り寄って、抱き口づけした。「か
わいそうに思い」と、父の心はあわれみで、溢れ返っていた。
身も心も、ぼろぼろになって戻った息子を抱きしめて、喜び
祝おうと宴会を開いた。

「死んでいたのが生き返り」放とうしていた間の事を、その
挫折と孤独、うちひしがれた心の状態を父は理解し、父の心
は、愛と慈しみで溢れ返っていた。しかし、兄息子は、行方
不明の弟が戻ったのだが、全く喜べない。怒りが湧く。怒っ
て、家に入ろうともしなかった。放とうざんまいして、帰っ
て来て、宴会を開くとは、と抗議する。

兄は「私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もあり
ません」と。毎日〃きつい労働をし、遊ぶこともせず、ずっ
と仕えて来た。しかし兄の心に喜びは無かった。義務であっ
た。ほうとうした弟が帰宅した時に、兄の心の奥にあった本
当の姿が現われ出た。

はめをはずす事もせず、毎日〃重労働をしている自分は、一
体何なのか。しかし父親は彼を一言も責めていない。動機が
間違っていると、叱ってもいない。むしろ気持ちを受け止め、
なだめている。いつも私が一緒にいる。私のものは全部お前
のものだと。

最大限の愛情だ。父は、兄息子へ何もかも与え尽くしたい、
愛と慈しみで溢れている。今、兄息子の状態なら、そばに
ある父の溢れる愛に気づけるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・
兄息子は父の近くにいて、言いつけ通りに働くが、父への愛
は無かった。父の愛もわかっておらず、喜びも無く不満でい
っぱいだった。父は、兄へも無条件の溢れる愛でいっぱいだ。
あるがままを、御父に告げて行く事から始まるだろうか。


2024年02月10日(土)

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりく だりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高く してくださるためです。」Tペテロ5:6



平安が無く、心重く過ごす時間があるだろうか。何だかぎ
くしゃくし、イライラピリピリし、心が騒ぎ、荒れている
時、主の力強い御手の下から出て、自分の力と自分の思い
で、肉で歩んでいる。高慢になってしまっている。自分の
思いで進もうとし、思うようにならないので、あちこちあ
つれきが生じる。不満がたまる。

御霊の気づきが与えられ、主の御前にへりくだる時、軌道
修正され、心に平安が戻る。日常生活でしばしば経験する。
水が低い方、低い方へ流れるように、主の恵みは、御前に
へりくだる人に、溢れるばかりに流れて行く。高ぶった途
端に恵みがストップする。

水は高い方へは流れない。高ぶりに気づく度に、悔い改め
へりくだろう。山歩きに原則があると聞く。それは山で道
に迷ったなら、迷った地点に引き返す事だと。なかなか、
それが出来ない。何とかなると思い歩き回り、更に迷う。
又、引き返すのは面倒と、先に進み、方向を見失い、死に
至ってしまう。

霊的生活も同様だ。そのまま行かずに、立ち止まり、へりく
だる事だ。へりくだりは、肉が一番嫌い、したく無い事だ。
それは、神と人への謝罪であり、「ごめんなさい」だ。プラ
イドは、その一点だけは何としても回避したい。それ以外な
らどんな事でもする。

しかし、主が求められるのがその一点だ。今、へりくだる事
を示されているだろうか。御霊の示される事を認め、主と人
の前にへりくだろう。そうできるよう祈ろう。必ず豊かな祝
福を経験する。

・・・・・・・・・・・・・
平安が失せる時、むくむくと自我が出ている。思い通りにな
らない不満でイラ立つ。又、自分で動き回る。肉で歩むと失
敗し、主に頼っていない事に気づかされる。悔い改める時、
平安が戻る。頼るように〃と導いて下さっている。


2024年02月09日(金)

「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。」 Tサムエル1:10



ハンナは、苦しみの中にいた。子どもが欲しいのに、与えられない
不妊の苦しみだった。当時は迷信があり、不妊は神の祝福が無い事
と思われ、周囲からそういう目で見られる辛さもあった。そして、
もう一人の妻であるペニンナからの陰湿ないじめがあった。夫がハ
ンナの方を愛していたため、激しい妬みによる事だった。

四方からの圧迫に、真っ暗な苦悩の中で「なぜこの事態が?」「な
ぜ自分に?」と必死に主に問う中で、まっすぐに主に向いて行っ
た。切なる祈りの中で「この時に、この場に、この状況に」自分を
置かれている主を見い出した。胎を閉じられたのは主であり、ペニ
ンナからのいじめも主の御心の内であった。苦悩の中で、主に向
き、主にすがり、お心を悟って行った。

主は、祈りの器としてハンナを選び、ハンナを用いられた。当時、
人々は神から離れ、放縦に歩んでいた。社会は腐敗し、正義はな
く、堕落し、祭司はおらず、神殿で不品行が行われていた。霊的な
暗黒時代であった。神は、民を神に立ち返らせる霊的指導者を起こ
そうとされた。その指導者であるサムエルを、祈りによって産み出
す事を計画された。ハンナはそのために用いられた。

あなたも、今、何もかもが閉じられた状況だろうか。今の環境の中
で、あなたへの神のご計画がある。祈らせたいと思われ、祈りによ
って環境を開こうとされているだろうか。状況でなく、主の方に向
き、焦点を合わせ、主のお心を悟れるように祈りを重ねよう。主は
祈りに答えて下さる。
------------
ただ状況を嘆いているより、それを祈ってみよう。主に視点を合わ
せ日々の悲しい思いを率直に主に告げよう。全てを知っておられる
主が時を定めて必ず最善をしてくださる。祈りは聞かれている。


2024年02月08日(木)

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るの であって、光を造られた父から下るのです」ヤコブ1:17 


         
「だまされないようにしなさい」とあるが、悪魔は偽り者であり、
偽りの父だ。悪魔は嘘つきなので、私たちをだます。誘惑する時
に、麗しい、良い、素晴らしいものに見せてくる。エバがエデンの
園で、誘惑が来て、悪魔の言葉を受け入れて行った時、その禁じら
れた木は、食べるに良く、目に麗しく、好ましく見えた。

悪魔の言葉を受け入れて行くと、素晴らしいものにしか見えなくな
った。よくわきまえたい。言葉を受け入れると騙されてしまう。巧
妙な惑わしだ。そうなれば、取って食べるのは時間の問題だ。悪魔
の目的は私たちを神から引き離す事だ。神から離そうとありとあら
ゆる手段を用いてくる。

誘惑自体は罪ではない。主イエスも誘惑を受けられたが、全く罪は
犯されなかった。悪魔の言葉に同意し、受け入れ、行動に移した時
に罪になる。私たちの欲望に働きかけて来る。欲に誘惑が来る。欲
に引かれ、おびき寄せられて、行為に及んでしまう。あなたの一番
欲望の強い箇所に要注意だ。酔酒、ギャンブル、憎しみ、妬み、嘘
などはすぐにわかる。

しかし仕事、趣味、娯楽、愛する人、自己実現、生きがい・・それら
は一見悪くない。むしろ良い事だ。しかし悪魔は巧く誘惑して、そ
れを偶像にしてしまう。その時、罪になる。紛らわしい誘惑が来
る。良いもので誘惑が来ていないか。それをすると霊的食欲が減退
するか、増進するかで判断できる。減退しているなら誘惑が忍び寄
っている。要警戒だ。祈ろう。
------------
一見、悪くないものには警戒がないので、歯止めがない。頭がいっ
ぱいになり、気づくと主との交わりが遠のき、昨日の感謝も思い出
せないことがある。良いものは光のもとである主から来る。覚えて
いたい。


2024年02月06日(火)

「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置か れている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰 の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」 ヘブル12:1



救われた私たちは、天に帰るまで信仰人生を走り続ける。それはマ
ラソンコースだ。マラソン競技をする時にはどうだろう。重いコー
トを着て、かさの高いブーツをはいて、重い荷物を持っていたなら
どうだろう。そんな人はいない。良い競技をするために、「いっさ
いの重荷を捨てる」ことが必要不可欠だ。

同様に信仰生活に邪魔になる重荷がある。「思い煩い」はどうだろ
う。思い煩いがあると、重い荷に押しつぶされ、座り込む状態にな
り、全く前に進めない。心は不安や恐れでいっぱいで、他の事が考
えられず、落ち込み、心は暗い穴の中だ。又、「律法主義」はどう
だろう。大変な重荷となる。「ねばならない」に入り込み、信仰は
義務になり、辛く苦しいばかりになる。喜びが無く、苦痛でたまら
ない。

もし、自分の力で歩んでいて、喜び無く、信仰生活が辛いなら、そ
の自分を明け渡して、主に拠り頼もう。その時、律法でなく、恵み
の下にいる事になる。又、「まつわりつく罪」はどうだろう。足元
に何かが、からみついたらどうだろう。走る事など到底出来ない。
罪はまとわりついて、前進させない。常にまつわりついて、悩まさ
れる罪があるだろうか。

赦せない思い、憎しみや妬みはどうだろう。握りしめて決して放せ
ないだろうか。神以外に執着し、愛するものがあるだろうか。それ
らを「捨てて」とあり、心に上るまつわりつく罪を捨てられるよう
祈ろう。自分では出来ないが、主が取り扱って、捨てられるよう
に、献げられるようにして下さる。
------------
信仰生活において重荷やまつわりつくものは何だろう。偽善や憎し
み、妬み、主は必ず示してくださっている。一つ一つ祈ってみよ
う。脱ぎ捨て、解放されて身軽になりたい。


2024年02月05日(月)

「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しな さい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいま す。」ピリピ4:9



ある人が、途中入社した時に、職場で辛い対人関係となった。先輩
が仕事の手順を教えてくれていたのだが、仕事が進むと、途中入社
の彼女の方が、その仕事にかなりの技術を持っている事が判明し
た。慣れていてテキパキと良く出来た。段々わかって来ると、他の
社員たちも自然に、彼女の方に聞くようになった。即、的確な答え
や指示が返るからだった。仕事がスムーズにはかどった。

その仕事が時間との勝負の局面があり、皆が非常に助かった。そん
な中で、先輩社員が面白くないのがわかった。言葉にトゲを感じる
ようになり、挨拶しても返されない事もしばしばとなった。先輩の
立場からすれば、嫌だろうなと思った。心辛く、重苦しく、出社の
足も重かった。そんな中、主のもとに行き、現状を告げて、祈っ
た。

苦しみを告げていた時に、「すべての事について感謝しなさい」の
み言葉が臨んだ。これをどう感謝するのか。こんな状況をどう感謝
すれば良いのか。しかしみ言葉は変わらず、迫った。とうとうギブ
アップで、「感謝します」と祈った。すると不思議だが、状況は変
わらなのだが、痛んだ心が、何だかすーっと落ち着いた事に驚い
た。

圧迫が消えたのだった。翌日、先輩に、何もわからない自分に、最
初に丁寧に教えてもらった感謝を告げた。相手は驚いた様子だっ
た。だがそれ以後、不思議だったが双方のわだかまりが溶けた。普
通に気持ち良く接する間柄とされた。主が働いて下さった。主のも
とに行き、祈り、示しにとにかく従ってみよう。素晴らしいみわざ
を見る。
------------
この世の常識や価値観で解決を得るのではなく、与えられた御言葉
や示しを素直に実行していこう。そのとき主から最善が与えられ
る。平和の神が共にいて守ってくださるからだ。


2024年02月04日(日)

「私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に 隠しておおきました」マタイ25:24



信仰者の神観は、信仰生活に大きな影響を及ぼす。一タラントの
しもべはどうだろう。彼の神観は「蒔かない所から刈り取り、散
らさない所から集めるひどい方」だった。それで「恐くなり、あ
なたの一タラ ントを地の中に隠した」だった。彼は、いい加減
な人ではない。むしろ真面目で、一タラントを絶対に減らす事は
できないと考えた。

ひどい、恐い主人だ、減らしでもすれば、どんなに恐ろしい事に
なるか。失敗を恐れる余り、いっさい何もせず、地の中に埋めた。
そのまま返せば、減らしていないのだから、文句は無いだろう。
彼は主人を信頼しておらず、主人への愛も無かった。彼の主人観
は、恐い厳しい主人、常に要求され、奪い取られ、失敗や過失は
赦されない。罰っされるとの怯えと恐れに支配されていた。

そんな主人のために、何かをしたいなどと思わない。最低限すべ
き事は、きちんとするから、後はいっさい関わらないで欲しい。
これはパリサイ人そのものだ。律法を几帳面に細かく守り、人か
らもいっさい非難されないよう、真面目に生きる。しかし問題は、
しもべを愛し信頼し、失敗のリスクも承知の上で、多額の富を預
けてくれた主人の心が、全くわからない事だった。

主人の心は、愛と慈しみで満ちていて、何よりしもべと喜びを共
にしたい。あとの二人は、主人を喜ばせたい一心で、留守中、精
一杯労した。主人は愛なる方、万一失敗しても赦して下さる。主
人の愛を信じていたので、思いきり喜び勇んで働けた。失敗を恐
れて、一歩が踏み出せないだろうか。主は賜物を預けて下さった。
示しがあるなら、主のために一歩踏み出そう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主は喜びを与えたい、喜びを共にしたいと、タラントを与えて下さ
った。任せて下さっている。どこまでも喜びのためだ。それが重荷
となり、しんどいものになっているなら、主を仰ぎ、御霊に導いて
頂こう。今一度、新しくして下さる。


2024年02月03日(土)

「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に、『黙れ、静ま れ。』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。」マルコ 4:39


日常生活の中で、不安や恐れは、誰しも経験する。突如の事態が
起き、恐れでいっぱいで、どうにもならない状況を経験した事が
あるかもしれない。心配で眠れず、食事もとれず、何も手につか
ない。幾ら大丈夫だと思っても、だめなのだ。心は、地に足つか
ずの状態で、立ち騒いでいて、恐れに支配されてしまう。

目の前にある問題や悩みそのものより、「恐れ」に飲み込まれて
しまい、どうにもならない。湖で、小舟が木の葉のように揺れ
て、舟は波をかぶって、今にも沈みそうだろうか。様々な悩み問
題が襲って来るが、問題が、問題なのではなく、それに向かう私
たちの態度が問題だ。

主は湖の嵐を静め、大凪にされ、「どうしてそんなに恐がるので
す。信仰がないのはどうしたことです」と言われた。恐れの原因
は、「信仰がないのはどうしたことです」との不信仰からだと。
主は「向こう岸へ渡ろう」と明言された。主がそう言われたのだ
から、途中に何があろうと、100%向こう岸へ渡れるのだ。

弟子たちは、突風に、目の前の状況に飲み込まれてしまい、主も、
その言葉も、嵐と共に吹っ飛んでしまった。その時、必ず恐れに
支配されてしまう。「恐れないで、ただ信じていなさい」「心を
騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」。

今、恐れがあるなら、まずそのまま主に持って行こう。ありのま
まを主に告げよう。主に向くことだ。「黙れ、静まれ」の、主の
ひと言葉が、揺れ騒いだ心をなぎにする。
・・・・・・・・・・
恐れは来るが、恐れるたびに主を呼ぼう。「黙れ、静まれ」と
心を落ち着かせて下さる。信仰へと導き返して下さる。その主が
同船していて下さり、いつも共におられる現実に、何と感謝だろ
う。


2024年02月02日(金)

「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。あなた がたのうちひとりが、わたしを裏切ります。』」マタイ26:21



「ユダにサタンがはいった」とあり、サタンはユダに入り、主を裏
切ろうとする思いを入れた。ユダはその思いを受け入れ、同意し、
サタンの思い通りに、主を裏切ってしまった。サタンはユダの意志
を無視して、勝手に入る事はできない。自動的に、人に入るわけで
はない。ユダがサタンに心を開き、受け入れた結果であった。

ユダのメシヤ観、価値観が、主とは相容れない事が、段々と明らか
になって来たのだろうか。又、「彼は盗人であって、金入れを預か
っていたが盗んでいた」とあるように、ずっとサタンに足場を与え
続けていた。主は、ユダに、何度も悔い改めの機会を与えておられ
た。

主は「あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります」と言わ
れ、「まさか私のことではないでしょう」と言ったユダに、「そう
だ」と言われた。弟子たちに、あなた方は全身きよいが、皆がそう
ではない、とも言われた。主の愛による、悔い改めの促しにも、ユ
ダは応じなかった。主を裏切った後も、悔い改める事はなかった。

悔い改めは非常に重要だ。どんな罪も悔い改めるなら、帳消しにさ
れ、完全な赦しが与えられる。何という驚くべき恵みだろう。罪を
軽く見て、見くびってはならない。サタンに足場を与えてしまう。
日々、これぐらいどうって事ないと、おろそかにしている罪はない
か。聖霊が悔い改めを促しておられないか。

罪を重ねて行くと、やがて取り返しのつかない重大な事態に至る。
日ごとに、御霊に心を探って頂き、悔い改めよう。罪はことごとく
赦され、平安にされる。悔い改めて行く時、足場を崩してしまい、
サタンに足場を与えない。
------------
自分の罪にはどこまでも甘くなかなか認められない。御霊を通して
示されているなら悔い改められるように祈ろう。出来る、出来ない
ではなく祈ろう。主は弱いままで支えてくださる。


2024年02月01日(木)

「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているな ら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなた がたは何もすることができないからです。」ヨハネ15:5



ある人が習い事に通っていた。そこでの対人関係に辛いものがあっ
た。その中の一人の言動が、心に刺さった。嫌な思いをして帰宅し
ていた。心悶々状態だった。そんな日々が続いた。自分は何とか愛
をもって接っそうとするが、出来ない。尚も悶々で、辞める事も考
えた。しかしその教室の指導者が、ちょっと名の通った、技術を持
った人物だったので、習い続けたかった。

それで主の御前に、ことごとく打ち明け、さらけ出し祈った。その
時に、自分は一方的に被害者だと思っていたが、自分も相手の言葉
や態度を根に持ち、怒り、恨み、憎しみがある事に気づかされた。
主の御前に心から悔い改めた。その時、悶々が消えて、心がすっき
りした。主を感じた。自分では愛することは出来なかったので、主
にゆだねた。心は平安だった。

そして次に教室に行った時に、自分でも驚いたが、何と、自分から
話しかけたのだ。自分でなく御霊の働きだった。不思議が起きた。
心楽しく話せて、趣味が同じである事がわかった。本を貸し合う仲
とされた。この事を通して、すべては御霊による事を強く教えられ
た。

私たちも同様だ。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によ
って」の通り、御霊によらなければ、何一つ出来ない。主の栄光を
現して行くのは、御霊によることだけであって、主を離れた、肉の
力で行なう事は、栄光を現わすことができず、実を結べないことを
教えられる。
------------
主との交わりの手応えを感じると、自分では到底できない事も主が
喜ばれる方へいこうと思いが変えられる。主が導いてくださる事が
嬉しい。主にとどまり実を結んでいこう。