2003年03月31日(月)

「私は黙っていたときには一日中、うめいて、私の骨は疲れ果てました。それは御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです」(詩篇32:3)


 罪を犯した結果、ダビデは神と交わり
を失った。神と交わろうとするが、それ
が閉ざされていた。罪が神と彼との間を
離れさせたのだ。
「私を見捨てないでください。主よ。わ
が神よ。私から離れないでください」神
が遠く離れておられるようだった。
バテシバを手に入れたが神との交わり、
平安を失った。私達が罪を犯すとき、神
との交わりを失う。悔い改めるなら赦さ
れ回復される。悔い改めない限り、魂は
ひでりとかわきの中で、もだえ苦しむ。
大切な事は、罪は神との交わりを失うが、
神の愛を決して失う事はない。
神の愛は決して変わらない。同じように
愛して下さっている。罪を犯したならす
ぐ悔い改めよ。神は豊かに赦して下さる。
回復する。


2003年03月30日(日)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」(ヤコブ1:14)

ダビデはバテシバを王宮に招き入れて、姦淫の
罪を犯した。しかし、バテシバも無罪ではない。
ダビデを誘惑しようとしたのでは無いかも知れない。
しかし、中庭で湯浴みをするなど、誘惑を招いて
いるようなものだ。誘惑の原因を作っておいて、
自分は知らない、自分のせいではないと言って
いるようなものだ。自分の言葉、態度、行動が
人に及ぼす影響をよく考えるべきだ。責任が
ある。サタンは餌をつけて罠を張っていたが、
彼らは二人共見事に引っかかってしまったのだ。
私達の欲望にサタンは誘惑してくる。うまい最適
の餌を持ってくる。欲望と合っているのでその餌
に食いついてしまう。その結果、取り返しのつか
ない損失、大きな悲惨を刈り取る。苦しみと悲し
みを周囲にまで及ぼす。常に神に拠り頼め。そう
するなら、罠に陥ることから守られる。


2003年03月29日(土)

「ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた」(Uサムエル11:2)

夕暮れ時に、ダビデは起き出した。何という事だ。
部下達は命をかけて戦いに出て、戦場で戦って
いるというのに、トップである彼は安逸を貪ってい
たのだ。怠けていたのだ。からだを洗っている女性
を見た、その時にすぐ誘惑から離れるべきだった。
事はいとも簡単、その場をすぐに離れれば良いのだ。
それを彼はそこにとどまり続け、誘惑を楽しみ、もて
遊んだのだ。その結果、誘惑に飲み込まれてしま
った。誘惑と戯れ、長い時間自分をさらすと、抵抗
不可能になるのは、誰にでも容易にわかることだ。
誘惑は、自分の内にすでに存在する欲望に、餌を
持ってくる。欲望があるので、おびき寄せられる。
心で妊娠させてしまい、罪を生み出す。ダビデは
この通りにサタンの誘惑の罠にはまってしまった。
サタンは狡猾巧妙。侮ってはならない。


2003年03月28日(金)

「王たちが出陣するころ、ダビデは・・家来と全軍を戦いに出した・・しかし、ダビデはエルサレムにとどまっていた」(Uサムエル11:1)

 年が改まり、春になると王たちは出陣
した。冬の間は、移動できないからだ。
イスラエルはすでにシリヤ軍に勝利して
いたので、残りのアモン人との戦いは楽
勝と考えていただろう。
彼は王として最高指導官として、戦いに
出て指導を取るべきだった。
しかし、彼は戦場へは出ず、エルサレム
にとどまっていた。責任を果たしていな
かった。これから彼は誘惑に会い、悲惨
な状況に陥るが、私達への教訓だ。
みこころの場所に、私達がおるべき所に
いないと、誘惑を招いてしまう。
みこころの中心が一番安全なのだ。
したくないゆえに、怠惰のゆえにみここ
ろをそれると、危険な場所にいる事にな
る。サタンは誘惑に牙をむいて来る。
みこころを行おう。それが一番の祝福で
あるゆえに。


2003年03月27日(木)

「しかし、満ち足りる心を伴なう敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」(Tテモテ6:6)


 満足の罪がまんえんしている。
自分の仕事、自分の家庭、自分の収入、
自分の住居・・に満足が出来ない。
隣のサラリーマンがよく見え、専業主
婦は働きたいと思い、働く主婦は専業
主婦を羨む。隣人の他のものがいつも
良く見える。自分の持っているものに
満足する事が出来ない。心はいつも虚
しく不満で他人が羨ましい。パウロは
どんな境遇でも満ち足りることを学ん
だ。境遇や環境、状況の問題ではない。
貪欲は持てば持つほど、ますます貪る
ように境遇がどんなに良くても満足す
る事が出来ない。境遇でなく心の問題
だ。まず不平不満は罪だと認め、心が
変えられる必要がある。
神の恵みによって初めて、私達はどん
な境遇でも満ち足りる事が可能だ。
満足を与えて下さるのは神だからだ。
心を満たす事が出来るのは神以外にな
い。


2003年03月26日(水)

「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」(創世記3:6)

「食べるのに良く」「目に慕わしく」「賢くする」これら
の誘惑は、Tヨハネ2:16の「肉の欲」「目の欲」
「暮らし向きの自慢」に合致する。サタンの誘惑
の常套手段だ。肉の欲とは、自分の思い通りに
したい、好きなように生きたいという欲望、目の
欲は人に自分を印象づけたい、自分の方を向
かせたいという欲望、暮らし向きの自慢は、持ち
物を多く所有したい、必要が与えられているのに
もっと持ちたいという欲望だ。「人は自分の欲に
おびき寄せられて、誘惑される」心の底に潜む
欲望にサタンは誘いかけてくる。各自の欲望に
誘惑が来るので、自分の願望と合致するので
欺かれ、だまされてしまう。サタンからだとわか
らない。誘惑に乗ってしまう。乗っていても尚も
わからない。自分の欲望をよく見張っている
必要がある。誘惑を受けていて、全く気づかな
いという事のないために。


2003年03月25日(火)

「悪魔は初めから人殺しであり・・彼が偽りを言う時は、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」(ヨハネ8:44)


 エバがエデンの園でサタンの誘惑を受けた時、
神の御言葉を完全に否定した。神は「必ず死ぬ」
と言われたのに「決して死にません」と。
正反対の嘘だ。更に「あなたがたたは神のよう
になり」と偽りを言った。決して神のようになる
事などなく、実際は正反対だった。
罪が入り彼らはだいなしになった。サタンは、ま
ず私達の心に疑いを入れる。「本当に神は言われ
たのですか」そして、御言葉を曲げ、さらに否定
してくるのだ。誘惑に会う時は「それを無視せよ
。そこを通るな。それを避けて通れ」が鉄則だ。
エバは誘惑を避けるどころかもてあそんでしまっ
た。罪を犯し、サタンの約束した神のように賢く
なるは大嘘で、死と悲惨が彼らをおおった。
サタンの誘惑をもてあそぶな。


2003年03月24日(月)

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ・・」(ヘブル12:5)

 神は愛する者を懲らしめ訓練される。それは子で
ある証拠だ。私生児ではないという事だ。
懲らしめを受ける態度が問題だ。
三つの態度がある。一、「軽んじる」無視し、認
めず受け取らない。二、「弱りはてる」意気消沈
し落胆し、もうだめだと落ち込む。しっかりと受
け入れるのでなく、打ちひしがれてしまう。
三、「訓練される」しっかりと懲らしめを受け入
れる事。それによって訓練されるなら「平安な義
の実を結ぶ」と約束されている。
私達はどうだろう。試練の時は、父なる神にしっ
かりと焦点を合わせ、愛の御手から来ている事を
受け入れるのだ。そうするなら、その懲らしめに
より豊かな実を結び、更に成長する。
ただ苦痛だけか、成長を望むか、態度しだいだ。


2003年03月23日(日)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:3)

もし、人が集まった二人の間に、柔和や謙遜が
無ければ、意見がぶつかり合った時、すぐ争い
になってしまう。一致を保つ事は不可能だ。私達
の罪の性質の中に高慢や強情、プライドがある。
それは自己中心そのもので、「私が」「私の」「私を」
常に、私、私、私だ。人の益を計るなどの態度は
全く無い。イエスはどうであられたか。ご自身を無
にされ、すべてを捨てられ、ご自分の事をいっさい
求められなかった。何と違っている事だろう。
自分自身の奥底を聖霊の光に照らし出してもらう
なら、どれほどの自己中心を見い出すだろう。
私達の古い人、罪、肉は十字架につけられた。
すでに主は解決の道を備えて下さっている。日々
御霊に導かれて歩む時、助けが豊かにある。


2003年03月22日(土)

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために・・肉において罪を処罰されたのです」(ローマ8:3)

イエスを信じて、罪を意識し出すと、様々な罪を見
つけ出す。実際に犯した多くの罪を意識する。神が
それらの罪をことごとく赦して下さった事を知る。
しかし、信仰生活に進んで行くと、もっと根本的な
ものがある事に気づき始める。多くの罪は根から
出て来た枝葉であり、根っこがある事に。人間の
性質の中にある罪そのものが根源である事を
知る。罪の源があるから、罪を犯しては赦され、
犯しては赦され、それを繰り返す事に。そして、
素晴らしい福音を知る。肉において、その罪の
根源を処罰されたと。複数の罪の源である
単数の罪を取り扱い、処罰して下さったのだ。
何という喜びであろう。真にすべての罪が赦され
たと理解する時に初めて、真の平安を持つ事
が出来る。


2003年03月20日(木)

 「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」(箴言27:5)


 誰しも、他人に嫌われたくはないので、
間違った行ないをした人を注意するのは
勇気がいる。公共機関で礼儀や道徳に外
れた事をしている人々、また、不明朗な
商売行為をしている人達、不道徳をして
いる友人達・・。神がそれらの行為に対
して、何と思っておられるかを語る事が
出来るだろう。あるいは、救いに導かれ
る機会になるかもしれない。罪を犯した
ダビデは、まっすぐに罪を指摘したナタ
ンによって、悔い改めに導かれた。
エリヤもアハブの罪をはっきり指摘した。
もし、アハブがエリヤに聞きさえしてい
たら、どんなに違っていただろう。
語る時には愛が必要。愛がなければ、
うるさいシンバルだ。御霊に満たされ、
柔和な心で正すなら神が働いて下さる。
愛する者に、警告できるようそれが真の
親切だ。


2003年03月19日(水)

「主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった」(詩篇116:6)

この詩篇記者には、悪意ある相手がいた。偽りと
噂で、彼をおとしめた。余りにも不当で、その苦し
みと辛さで、もう誰も信じられないと思った。恐怖
と悲しみの中で、神を求めた。すべての者が嘘
を言うと思えた。試練の中で、屈折して物を見る
と、神も人も正しく見えなくなり、関係を壊して行っ
てしまう。不思議な事に屈折すると、祝福が何一つ
見えなくなり、すべてが悪く見えてしまうのだ。
最悪に見える。焦点が神からはずれると、すべて
が歪んで見える。自己中心にしか見えない。
神を責め、人を責める。すねて、ひがんで自己憐憫
に陥る。気をつけよ。詩篇記者はこの危険に気
づき、神に感謝をささげ、主の御名を呼び続けた。
神は彼を助け出して下さった。十分気をつけよ。
自分か、神か、あなたの焦点はどちらにあるのか。


2003年03月18日(火)

「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・キリスト・イエスの贖いのゆえに価なしに義と認められるのです」(ローマ3:24)


 テレビや新聞、雑誌でよく身の上相談がある。
新聞の身の上相談を見た。
若い人々が生きる目的がわからないで虚しい状
態でいる。何をしても意味を見出せないで、目
の前の快楽をあさっている。カウンセラーの答
えは全く的はずれだ。内なる自分を見つけて、
未来の可能性に目を留めて・・。しかしここでの
真の問題は、罪という事だ。
罪の解決がない限り、虚無の解決はない。
神を受け入れない限り、何の解決もない。
問題の解決は、単に自分を見つめる事でなく、
自分の罪と真正面から向き合い、キリストを
心に受け入れる事だ。罪赦され、真の平安を
与えられる。私達が罪を犯した時も、その罪
から逃げたり避けたりせず、その罪を認め告
白する事だ。神は赦して聖めて下さる。
罪を認めることが大切。


2003年03月17日(月)

「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです」(マタイ6:25)

 人生は家のようであり、土台の上に建てられる。
その土台で全てが決定される。あなたは何を土台に
して人生を建てているか。
多くの人々は「自分の思い」を土台に建て上げてい
る。自分の思いがあらゆる判断の根拠だ。ある人々
は、ただ自分のしたい事、好きな事。善悪でもなく
好きな事。自分のしたくない事、好きな事だけをし
て行くと、どうなるかが容易に察しがつく。
幼児がそうなのだから。富、野心、名誉、様々な土
台がある。しかし、暴風雨、嵐が来た時にどうなる
か。人生の試練の時に持ち堪える事が出来ない。
また、死を前にする時なんの力もない。
人生の土台を、キリスト、神のみ言葉の上に建て上
げるなら、永遠に至まで決して倒れる事はない。
確かな土台だ。


2003年03月16日(日)

「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)

「貧しい」という語源が、単に所有物が不足してい
る、充分でないという意味でなく、全く何も持って
いないという意味だ。旧約聖書の中で、貧しい
人を表わす意味は、圧迫され、虐待され、踏みつ
けられた人々だ。彼を助けてくれる人が誰もいな
いので、神に全面的に頼る人々だ。このイエスの
教えでは、最も幸福な人は、自分が何者でもない
こと、全く何も持っていないことを真に知り、神が
避け所であり、神に拠り頼み、すべての信頼を
神においている人だ。その人が何にも増して平安
であり、幸せなのだ。私達はすべてを失っても、神
を持っている。つまり、すべてを持っているのだ。
自分の弱さを知る人、自分に何も無い事を知る人
が真に祝福された人である。肉やこの世と正反対だ。


2003年03月15日(土)

「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です」(Tテモテ4:8)

ある女性が健康のためにウォーキングがジョギ
ングを日課としていた。身体のために、それは
毎日欠かす事がなかった。ある時、余りの忙しさ
にイライラして、子供達をひどく叱ってしまった。
自分のイライラを子供達にぶつけてしまい、ひどく
後悔の念で心が痛んだ。多忙の余り、祈っていな
い事に気づいた。子供達のためにも祈っていない。
そうだ、毎日のウォーキングを身体の鍛錬のため
と、共に祈りの時にしようと決心した。その日から
歩きながら、子供のために祈り始めた。家族のた
め、教会のために祈った。多くの祈りの答えに
感謝している。ある婦人は草抜きをしながら、祈り
の時としていた。あるサラリーマンは昼休憩に
一人になり、祈りの時としていた。忙しい人々のた
めに、神は知恵を与え、祈りの時を導いて下さる。


2003年03月14日(金)

「わたしが来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)


 隣の芝生は良く見えるものだ。他の人が持って
いるもの、他の人の人生が自分のものより、素晴
らしく見えるものだ。しかし、神があなたを造ら
れ、今あるように造られたのだ。今持っている物
を与え、今いる場所に置かれたのだ。あなたに、
させたい事があるからだ。私達の成すべき事は、
他の人や他の人の人生をうらやむ事ではなく、私
達自身の人生をしかり生きることだ。私達の持ち
物には満足すべきだ。しかし、私達自身には満足
することなく、更に主に似る事を求めるべきだ。
今あるもので満足するのは正しいが、自分自身は
更に主に近づくべきだ。更にイエスに似るように
と熱心に望むべきだ。他人をうらやむのではなく、
自分の人生を求めよう。


2003年03月13日(木)

「神のことばは生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」(ヘブル4:12)


田舎に行くと、木片を斧で切り分け、
焚き付けにする。様々な木片を斧で切る。
柔らかい木、堅い木、木も様々だ。
しかし、どの木も節だけは、固い。
節を切るには、力を入れて振り下ろさなけ
ればならない。私達の心にも頑固な節があ
る。しかし、御言葉はその節を刺し通すこ
とできる。聖霊を通して御言葉は私達の罪
を指し示す。御言葉は私達の心を照らす鏡
のごとく、自分でも気づいていない罪をあ
らわにしてくれる。また、心の動機をも明
らかにする。その事をしたのは、実は神の
ためではなく、自分の賞賛のため、虚栄心
のため、プライドのため、自己満足のため
・・心の動機を判別させてくれる。
神の言葉が生きているからだ。日毎にこの
み言葉に向かえ。


2003年03月12日(水)

「わたしは・・あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト19:2)

昔から自然を神としたり、像を造り、その前にひれ
伏して拝んで来た。が、形のない偶像も沢山ある。富
や物が偶像になる。若い役人は富に執着し、イエ
スのもとを去った。富が幸せと、安定、安心を約束
すると錯覚して、偶像になる。又、快楽が偶像にな
る。富も時間も労力も無駄に浪費してしまう。何も
残らない。又、自分自身が偶像になる。自分中心
に生きることは、自分を神として生きていることだ。
地位や名誉や他人からの賞賛も求めることも偶像だ。
行動する時、その動機は何か。自分の欲望、自分
の損得、自分の思いか。それとも、神のみこころ、
だろうか。神の御前で「あなたが喜ばれることは
何ですか。憎むべきことは何ですか。罪から離れる
ために、どうすることを望んでおられますか」これが
神のお心に適った正しい態度だ。


2003年03月11日(火)

「ですから、私たちは勇気を失いません・・内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難なんは・・側り知れない重い永遠の栄光をもたらすからです」(Uコリント4:16)


 ある婦人が結婚生活で大変苦労していた。
夫と良い関係を築こうと懸命に努力していた。
それでも、夫婦間の問題は次々と起こり悩まさ
れていた。この苦労は永遠に続きそうに思えた
しかし、諦めないで、良い関係を築こうと努力
を続けていた。別の婦人は鬱病と戦っていた。
カウンセリングに通いながら、薬も飲んでいた。
落ち込みそうになる時、戦った。神を信頼し神
に頼った。絶望する代わりに神を誉めたたえた。
私達は明確な解決や答え、結末を望む。
しかし、明らかな答えが見えない時に神に信頼
して行くのは、神の喜ばれる信仰だ。パウロは
様々な困難を軽い患難と言った。
重い永遠の栄光をもたらすものだと。答えが見
つからない時も神に信頼し続けよう。
諦めず勇気を失わず。


2003年03月10日(月)

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です」(哀歌3:22)


 子供に問題行動が起きたら、親は悩む。
子供に問題が生じたのは自分のせいで、自
分が親として不完全だったから。弟子があ
る時イエスに質問した。生まれつき目が見
えない人は祖先が悪かったからか、それと
も本人のせいか。イエスは、祖先のせいで
も本人のせいでもなく、神の栄光が現れる
ためであると答えられた。私達が完全でな
い事に罪意識を持たなくてもよいのだ。
過去の失敗や過ちを元に戻す事は出来ない。
時計の針を逆に回す事は不可能だ。
神のあわれみは尽きる事がない。あわれみ
は、さばきに向かって勝ち誇る。
欠点があっても尚、愛して下さり、どんな
時にも、再度立ちあがらせ新しく歩ませて
下さる。神のあわれみは尽きず、朝毎に新
しいのだ。


2003年03月09日(日)

「わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(ヨハネ15:8)

聖霊なる神が私達の信仰生活を助けて下さり、
人を悔い改めに導かれる。ある青年がずっと以前
から、クリスチャンの友人より、聖書の話を聞いては
教会行きを誘われていた。ある時、特別集会に行って
みた。御言葉がどんどん心に迫り、今まで聞いていた
事が解き明かされるように、わかった。光を感じた。
その心をどうしてよいかわからず、戸惑った。招きが
始まり、前に出たいと思ったが、自分からは踏み出せ
なかった。その時、青年のリーダーが近づき、「いかが
ですか」と優しく声をかけてくれた。その励ましによって、
招きに出ることができ、その日、新生した。求める
人々のために、的を射た手助けが必要だ。聖霊様は
働かれる。そして、あなたも聖霊様と共に、他の人を
助けるために用いられる。


2003年03月08日(土)

「神よ・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」(詩篇139:23)

サタンの誘惑は、私達の欲望と合致するので、誘惑
に会っていながら全く気づけないでいる。欲望を満足
させられると、心地良いので、みこころをそれていな
がら気づかない。自分の欠点、短所を示されるよう
祈らなければならない。そうでないと、進歩、成長が
ない。気づくことから始まるからだ。ある人が欠点を
教えられるよう祈り始めると、シャープな物の見方だ
と思っていたものが、実はさばきと批判だと気づかさ
れた。きれい好きと信じていたのが、家族に押し付け
我慢を強い、いかに居心地悪い思いを与えていたか
に気づかされた。様々な過ちを見せられ、傷つけた
相手に謝り、神に自分を変えて下さるよう祈った。
自分の真の姿に気づかない限り、きよめられようが
ない。









2003年03月07日(金)

『アブラハムは、その場所の名を、アドナイ・イエルと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている』(創世記22:14)

 「主の山の上には備えがある」これは力強い慰めと
励ましだ。ある家庭持ちの男性が、牧師になるよう召
しを受けた。職場を辞して神学校へ入る事、その神学
校のために、家族の引越しが必要だった。経済的な事、
住まい、家族の事、これからの事、大きな変化を前に、
真に神に拠りすがり、頼んだのだった。アブラハムの
信仰を思い、力づけられた。御父に従い、生まれた故
郷を出、親族に別れを告げ、父の示すみこころに従っ
たのだ。同じチャレンジを受けた。慣れ親しんだ土地
や友人と別れるのは優しい事ではなかった。
しかし振り返る時、主の山にはすべての備えが、物質
的にも霊的にも精神的にもあった事を証しできると。
あなたは新しい環境に導かれているか。恐れるな。
すべての備えがある。


2003年03月06日(木)

「また闘技をする者は あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるため」(Tコリント9:25)


 最近健康ブームで運動している人は多い。朝に
夜にジョギングやウォーキングをしている人々を
見かける。日々の日課に欠かさず運動を取り入れ、
減量し運動と規則正しい食生活により、以前より
はるかに健康体になったという人々は多い。
運動と規則正しい生活の訓練が身体に極めて益す
るなら、霊的訓練はどれほど益する事だろう。
身体に気をつけるように、霊的健康に心を配って
いるか。日々の祈り、御言葉の糧、礼拝出席、証
し、信者との交わり、人々に使える事、これらは
運動が身体を強くするように、霊を強くする。
あなたは霊的不健康状態か。栄養が不足している
か。霊的運動を実践せよ。生き生きと霊の健康を
取り戻すだろう。霊の健康にしっかり心を配れ。


2003年03月05日(水)

「信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました」(Tテモテ1:18)

台所からピーピーという音が聞こえる。冷蔵庫が
閉まっていない知らせだ。車を降りる時、ピイピイ
と警報が鳴る。ライトの消し忘れだ。もし、警報が
鳴らなければ、バッテリー上がりだ。私達の良心
も同じように警報を鳴らす。聖霊様が罪を教え
警告して下さっているしるしなのだ。もし罪を犯す
と、平安が失せ、とがめが来る。重苦しい不快感
が来る。罪を神の御前に告白し、悔い改めるなら
神は赦し、良心をきよめて下さる。正しい良心は
大切だ。良心が機能しなくなれば、罪を知ることが
できない。ゆえに、良心を無視して行くなら、罪を
認識できなくなり、信仰の破船に会う。良心が警告
を発する時には、耳を傾けよ。罪から離れよ。
信仰と良心を守れ。


2003年03月04日(火)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)

 
 ある家族が転勤で海外に住む事になった。
言葉が不自由で、習慣も違い、事情もわから
ず、知り合いも全くいなかった。孤独感と寂
しさで、落ち込んだ。
ただただ、帰りたい一心であった。しかし、
神に祈り、御言葉に触れた後、不安、心配で
一杯だが、思い煩うのではなく神の御声に耳
を傾けようと思えた。神がここに導かれたの
だから、ご計画があるはず、沢山の事を学べ
るはずだと気づけた。逃げるのではなく、新
しい環境を受け入れるなら、大きな祝福が備
えられており、神を更に親しく知れることに
気づいた。新しい生活に馴染もうと心の態度
が変えられた。すると喜びと平安が与えられ、
恐れと不安が失せた。新しい状況を神と共に
楽しめるようになった。


2003年03月03日(月)

「この方こそまさしく神。代々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる」(詩篇48:14)

 イスラエル旅行をする時、羊の群れと羊飼いを
見かける。ある羊飼いは、絶えず振り帰り羊達を
確かめながら、言葉をかけ、羊を連れて行く方向
へ歩かせていた。他の国では、訓練された犬が、
主人のもとで羊を追っていた。
羊を導く事と、追う事とは全く違う。神は私達を
追いたてるのではなく、導かれる。
追いたてるとは、強いて強制する事だ。上から押
し付け、無理やり従わせる。導くとは、言葉と行
ないにより、模範になる事だ。
自らが模範となって、信仰を伝えて行く事だ。
人々に接する事においてどうだろう。神は決し
て強いられない。強制されない。自由意志で、自
発的に従う事を求められる。人々を決して強いる
のではなく模範となって、導くべきだ。


2003年03月01日(土)

「神よ・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」(詩篇139:23)

サタンの誘惑は、私達の欲望と合致するので、誘惑
に会っていながら全く気づけないでいる。欲望を満足
させられると、心地良いので、みこころをそれていな
がら気づかない。自分の欠点、短所を示されるよう
祈らなければならない。そうでないと、進歩、成長が
ない。気づくことから始まるからだ。ある人が欠点を
教えられるよう祈り始めると、シャープな物の見方だ
と思っていたものが、実はさばきと批判だと気づかさ
れた。きれい好きと信じていたのが、家族に押し付け
我慢を強い、いかに居心地悪い思いを与えていたか
に気づかされた。様々な過ちを見せられ、傷つけた
相手に謝り、神に自分を変えて下さるよう祈った。
自分の真の姿に気づかない限り、きよめられようが
ない。