2024年04月30日(火)

「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不 品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、 そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、 人を汚すのです。」マルコ7:21



み言葉は、悪はみな、人の「内側から出る」と言う。それが人を汚
し、心から出るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人・・と。外か
ら入るのでなく、肉の欲は、内側から出て来るのだと。外側から入
って来るものは、人を汚すことはない。しかし例えば対人関係で悩
みが生じると、どうしても相手が悪いと思う。

相手のせいで、この苦しみの中にいるのだから。相手次第で、問題
は解決すると思う。相手が変わるべきだと。しかし御言葉は、その
苦しみは相手の問題でなく、自分の内側から悪が出ていると。根深
い恨み、裁き、見下す心、憎しみ、敵対心、復讐心・・それが自分の
心から喜びと平安を奪い、苦しくしていると。

「隣人を愛しなさい」との律法からそれているので、心が辛くなっ
ている。しかし自分の事は見えないので、相手の問題だとしか思え
ない。しかし相手は、相手と主との間の問題で、罪を犯し、間違っ
ていれば、主から裁かれる。ある人は、ずっと自分は真面目で良い
人間と思っていた。だがこのみ言葉により、心の内側を見ると、醜
い汚れた思いで一杯な事に、気づかされた。

その前の「その心は、わたしから遠く離れている」と言われたパリ
サイ人と同様に、なかなか自分の内側には気づけない。しかし御霊
を宿す私たちに、御霊は絶えず、気づきのために働いて下さってい
る。罪が赦され、きよめられ、平安にされて行く。そして信仰人
生、心の底にしっかりと御霊の平安を経験して行く。
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自分の罪を見ない事にして生きるのは何と不安なことだろう。自分
の醜さや罪を御霊に示されると、主に悔い改め、謙遜にさせられ
る。弱さのままで支えてくださる主に感謝して歩める。


2024年04月29日(月)

「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに 約束したとおり、あなたがたに与えている。」ヨシュア1:3



イスラエルの民は、モーセにより苦難のエジプトから導き出され、
40年間、荒野を旅をした。そしてついに約束の地カナンを目前にす
る。そこにまで到達した。モーセの死後、主は、ヨシュアをリー
ダーに立てられ、そして命じられた「今、あなたとこのすべての民
は立って、このヨルダン川を渡り、わたしが・・与えようとしている
地に行け」と。

「あなたがたが足の裏で踏む所は・・モーセに約束したとおり、あな
たがたに与えている」と。主は、その地をすでに与えていると約束
されたが、約束はあるが、実際に自分のものとするには、「足の裏
で踏」まねばならなかった。つまり具体的な行動が必要だった。民
は戦って、その土地を勝ち取らねばならなかった。

ただ待つだけで、祈っているだけで、もし具体的行動が無ければ、
所有する事が出来ない。実際に入って行き、足の裏で踏まねばなら
なかった。これこそが「信仰」だった。私たちも同様だ。主は、私
たちに約束を下さる。それを所有するには、約束の言葉を受け取
り、実際に行動しなくてはならない。その時、現実に手に入れる事
になる。

約束が与えられているのに、この実行に欠けるために、多くのもの
を未だ所有していないだろうか。あなたも「今、立って、行け」と
言われているだろうか。祈りの座から立ち上がり、実際に行動を起
こすようにと。信仰をもって一歩踏み出そう。そうする時、主の約
束を現実のものと受け取ることができる。
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示されているのにぐずぐずしていると、導きに靄がかかって信仰が
揺らいでくる。自分の確信より信仰ではないか。示されたなら行動
しよう。一歩、また一歩、主の祝福を受け取りに行こう。


2024年04月28日(日)

「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。 でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」ルカ5:5



プロのベテラン漁師であるペテロが、一晩中漁をして、一匹の魚も
とれなかった。漁の事なら何でもわかる。だが、何がどうなったの
か、こんな日は引き揚げるしかない。徹夜で身体もクタクタだった
ろう。漁獲無く、疲労は倍増だった事だろう。網を洗っていた。

そこに主が、舟を少し出すよう言われ、先生の言う事なので従うと、
その後「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとれ」と言われた。
その時、様々な思いが巡っただろう。徹夜をしてだめだった。常識
と経験値では、こんな時間帯に魚はいない。有り得ない。又、徒労
に終わる。ヘトヘトで家に帰って早く休みたい・・。

しかし、ペテロは、直前に主に頼まれ、少し出した舟の中で、主の
言葉を聞いていた。御言葉を聞いた事は大きかっただろうか。「でも、
おことばどおりに」と主に従い、網を下ろした。「そして、そのと
おりにすると」驚くばかりの大漁であった。奇跡だった。

私たちは、「諦め」についてはどうだろう。夜通し労して魚はいな
かった。今まで何度やってもだめだった。今度もだめだろう。あの
事、この事、思い浮かぶだろうか。しかし主は、諦めないで「網を
おろして魚をとれ」と言われる。救霊に関してはどうだろう。今ま
で、何度証しをしても、トラクトを配っても、ずっとだめだった。

しかし「網をおろして魚をとれ」と。主は励ましておられる。又、
主は「深みに漕ぎ出せ」と言われる。浅瀬にいるままで、言い訳し
ているだろうか。又、岸をうろうろしたままで、ごまかしているだ
ろうか。主から「深みに」とチャレンジされているだろうか。一段
階づつ成長が与えられている。

・・・・・・・・・・・
ペテロが舟の中で、主の言葉を聞いていた事が、影響大で。従えた
だろうか。よく経験する。御言葉が心にある時は、全然違う。御言
葉によって動かされて行き、従う力が臨んで来る。日々に御言葉を
求めて歩みたい。


2024年04月27日(土)

「そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の 欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいの ことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです」ローマ 16:18



分裂とつまずきを引き起こす人々から「遠ざかれ」と言っている。
すべての人を愛すべきではないのか?いや、「警戒せよ」と言っ
ている。遠ざかれ、離れよと。分裂を起こす人々が、現に起きる
と言っていて、現実問題だ。そんな人は、見るからに粗暴、凶悪
人物のように連想するが、そうではない。

「なめらかな言葉、へつらいの言葉をもって」純朴な人たちをだま
すと、御言葉が言っている。見るからに良い人で、優しく、へりく
だった、温和な顔をして来るのだと。だから純朴なクリスチャンが、
邪悪な人々にだまされてしまう。「彼らは自分の欲に仕えている」
と、パウロが涙をもって語った。

多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる。彼らの本当の
神は、彼らの欲望だと。つまり心の奥底は、主に従うのでなく、自
分の思い通りに、自分の欲に従って生きて行きたい。その自分中心
のゆえに、教えに背いて行く。自分の欲望がすべてだ。今の時代、
様々な聖書もどきの教えが氾濫しているので、要警戒だ。

「自分に死に、十字架を負い」の教えが無い福音には、気をつける
必要がある。「自分の欲に仕えている」人々から「遠ざかれ」と、
はっきりと教えている。分裂を引き起こす人々から離れよと。離れ
る事により、主は、私たちを守られる。まず、自分にそのような自
己中心が無いかをよく自戒し、祈りつつ主に拠り頼んでいよう。祈
りは力だ。気づきが与えられる。

・・・・・・・・・・・・・・
この世の支配者悪魔、闇の世の主権者悪魔を、忘れている時が、最
も攻撃に会っている時だ。戦う相手が血肉でなく、悪魔である事を
覚えてよくよく祈っていよう。自分の考えや思いでなく、御言葉に
従おう。自己中や欲に振り回せてないか自戒したい。


2024年04月26日(金)

「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。」箴言19:22



私たちは、人の目が気になり、他人の評価が気になって仕方が無い
という、根深いものがあるだろうか。肉の性質があるので、どうし
ても人に認められたい、受け入れて欲しい、との強い思いがあるだ
ろうか。「人の望むものは、人の変わらぬ愛」とあり、私たちは生
まれつき、人の愛を求めていると言っている。

アダムとエバが、神に逆らい、罪の方を選び、罪を犯した。その罪
により、主との関係が断たれてしまった。それまで主の豊かな愛を
受けて、主との交わりの中で、充分に満ち足り、喜びに溢れていた
のが、その関わりを失ってしまった。それゆえ、人は、人の愛を求
めるようになった。これは普段、無意識で、認識していないだけ
で、自分が思う以上に根深い。

人からの愛が欲しいので、良い人と思われたいし、人に嫌われたく
ない。これが高じて行くと、人の顔色ばかりを気にし、「ノー」が
言えなくなる。心は「ノー」なのに、嫌われたくないので「イエ
ス」の行動をして行く。信仰によってでなく、嫌々、強いられて、
建前で生きると、本当の自分を生きる事ができない。「ノー」が言
えず、嫌々、強いられて、相手に合わせて行く。すると相手を嫌
い、憎むようになってしまう。

そのためにも、きちんと「ノー」を言うことが大切だ。思うところ
があれば、主のもとに行き、御霊に心を探って頂こう。心の内をこ
とごとく告げて、主と交わろう。様々な気づきを与えて下さり、御
心へと導いて下さる。自由に、自由にして行って下さる。
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ノーが言えない自分を認めず、かといってイエスも言えず、相手を
敬遠してしまう。よく経験する。主に祈り、本音の部分を明らかに
されて、主の導きの中で手放していきたい。


2024年04月25日(木)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる。」箴言3:6


ジョニーという女性の証しを聞いた事があるだろうか。水泳の飛び
込みに失敗し、命は助かったが、脊髄を痛めた事で、その結果、一
生身体は動かないと宣告された。その時に、死を決意した。彼女の
証しだ。「鏡に映る自分の姿は、人間ではない。窪んで落ち込み、
血走りどんよりした2つの眼球。36キロの身体は、黄疸で黄色い皮膚
に覆われたがい骨だ。

太った頭は不気味で、話をする時、見える歯も薬物治療のためどす
黒い。とても生きて行けない」。若い女性には耐え難い事だった。
が、周囲の愛に励まされて行く。「神がどう見ておられるかが大切
人がどう見るかは重要でない。人の基準で自分を見ると惨めにしか
ならない。神からの価値だけを考えよう」と。

周囲の祈りとサポートに、段々、自分が、主の似姿に造られた事に
目が向いて行った。そして自分の身体、格好、能力が、自分で自分
がどう見えたとしても、信仰に立とうと。「すべての事について感
謝しなさい」自分の事を主に感謝する事に、決心した。そして主に
向かい、感謝を続けていると、パズルのように、すべてのものをふ
さわしい場所に置くよう助けられた。

そんな中で、良く主に仕え、より幸せにされるように、主がこの身
体を与えられたと理解して行けた。もし、この事が無かったなら、
自分は人生最後まで、主を無視し、自己中心に生きていたであろう
と。主の関与に心から感謝した。今、心に御霊の喜びが与えられ、
幸せそのもので、他のものになりたいとは全く思わないと。
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辛い現実を受け入れるのにどれ程の苦しみがあったことだろう。
受け入れがたい問題に直面したとき、主がおられる事を知ってい
る者は幸いだ。御心とご計画を信じられるように、主がしてくだ
さる。


2024年04月24日(水)

「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避 ける者の盾。」詩篇18:30


主の言葉は、足元を照らすともしびで、道の光だ。もし、車のガソ
リンやオイルの警告ランプが無ければどうだろう。又、飛行機や船
が、人間の目だけに頼って運行されたらどうだろう。悪天候で視界
がぼやけると、どこに向かえば良いか、全くわからない。だが正確
な計器があるなら、正しい方向へ進んで行ける。

私たちの人生も同様だ。どの道を進めばよいのか、進路がわからな
い時がある。そんな時の確かな計器が御言葉だ。ある女性が職場
で、チーフに抜てきしたいが、どうかとの打診を受けた。自分の能
力で出来るのだろうか。管理職であり、部下を持つなど不安だ。自
信がない。思いが巡る中、そんな恐れもすべてことごとく主に告
げ、御前に祈っていた。

すると御言葉が臨んだ。「恐れるな。わたしはあなたとともにい
る。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強
め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」。その
言葉で、不安や恐れがすうっーと消えて、平安になり、受諾の決心
ができた。別の女性は、携帯の無い時代に、初めての地を自転車で
走行、日没で、街灯もなく真っ暗になった。

そこは海の近くで倉庫が並び、人影無く、それだけでも不安だっ
た。一方は先が海で、もう一方は住宅街だ。真っ暗で先が見えず判
断がつかない。迷子だ。もし海に向かっていたら・・。又、変な人に
会っても恐い。真っ暗闇の中で、あんなに恐怖はなかったと。

その経験により、信仰人生において、み言葉が足の灯火であり、道
の光である事を身を持って、身にしみて理解できたと。問題に、様
々な岐路に、判断のためにみ言葉の光を求めて、歩むようにされ
た。
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迷いやすく主の導きがなければ何処へ向かうかわからない者が、御
言葉により、祈りにより、小さな事でも主に教えられて歩める。な
んと心強い事だろう。正しい選択ができるよう祈り求めよう。


2024年04月23日(火)

「しかし今、子どもは死んでしまった・・あの子をもう一度、呼び戻 せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私 のところに戻っては来ない。」Uサムエル12:23


主から愛され選ばれたダビデだったが、バテシバとの姦淫の罪を犯
してしまった。そこで悔い改めれば良かったのだが、その罪を隠ぺ
いしようとし、更にバテシバの夫ウリヤ殺害の罪を重ねてしまっ
た。王であり、トップだ。物を言える者など誰もいない。だが主
が、預言者ナタンを遣わされた。ナタンの罪の指摘に、ダビデは罪
を認めて告白した。

「私は・・罪を犯した」。王が、罪を認めるなど大きな事だ。主はそ
の罪を赦された。罪は完全に赦されるが、しかし罪には刈り取りが
ある。蒔いたものは必ず刈り取る。「あなたに生まれた子は必ず死
ぬ」と言われ、刈り取りだった。するとバテシバが、ダビデに産ん
だ子が病気になった。ダビデは切に祈り、断食し、一晩中地に伏し
た。子のいやしを祈りに祈った。

しかし叶わず、その子は死んでしまった。それを聞いた時、ダビデ
はどうだったろう。混乱し、嘆き、怒り、わめき、主を責めただろ
うか。そうでなく、何と、起きて身体を洗い、身に油を塗り着替
え、宮へ入り礼拝したのだった。主の御名を崇めた。ダビデは切に
願ったが、それが叶わなかった時に、その事を受け入れた。

願わなかったのでなく、切に願った。心底主に祈り、交わったから
こそ、それを受け入れる事ができると教えられる。今、厳しい状況
だろうか。あるがまま受け止めて下さる主に、心の内を告げ、苦し
いならそのままを打ち明けよう。その時、どうであれ、主との交わ
りの中で、主の御心を受け止めて行ける。
------------
祈ったが結果は叶わなかった。ダビデのようには出来ないが、主の
赦しを受け止めるように、その刈り取りも主からのものと受け止め
たい。委ねられない思いを祈っていこう。


2024年04月22日(月)

「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい』 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」 ヨハネ5:8



大勢の病人が、ベテスダの池に集まっていた。そこは、主の使いが
降りて、水を動かした時に、一番に入った者は、どんな病気でもい
やされた。そこに38年間、病気の男性がいた。主は、大勢いる中
で、長い病にある彼に目を留められた。そして「よくなりたいか」
と問われた。

彼は「よくなりたい」と答えたのでなく、池に自分を入れてくれる
人がいない、いつも先を越される、と答えた。介助者のいる人が、
先を越して入ってしまうので、自分は直らないのだと。「よくなり
たい」と、真っ直ぐに主に向かい、求めるのでなく、人のせいに
し、言い訳をしていた。

その心を見られた主は、「わたしが池に入れて上げよう」と言われ
たのでなく、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われた。
主が、いやし主である事、そして人に責任転嫁するのでなく、しっ
かり自分の足で立って、自分の責任で歩めと。彼は、主と主の言葉
を受け取り、信じた。その信仰のゆえに、すぐに立って床を取り上
げて歩き出した。みわざが成された。

もし、主の言葉を信じなければ、そんな事不可能だと思ったなら、
決して起きようとしなかった。意志を向けて、起き上がろうとした
時に、主の力が臨み、奇跡が起きた。私たちはどうだろう。責任転
嫁ばかりしているだろうか。ああしてくれない、こうしてくれな
い、だから自分はこうなのだと、人のせいにし、いつも言い訳し、
愚痴と不平不満、自己憐憫の中にいるだろうか。

自分の足で立って、主に拠り頼んで歩めと言われている。その時、
生きている事の喜びと実感が与えられる。主と共に生き生きと生
きて行ける。主に信仰を向けて行けるよう、助けを求めて祈ろう。
--------------
変化するより、今のままでいいかと諦めているところはないだろ
うか。どうせ駄目だろうと祈らなければ、諦めている事も忘れて
しまう。よくなりたいところは何処だろう。主に助けを求めよう。


2024年04月21日(日)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配して くださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさら ない。」詩篇55:22



人は自然な状態では、大方が、悲観的な方に思いが傾いて行くと
言われている。日々の生活の中で、突如の事態が起きた時に、不
安と恐れに襲われるだろうか。困難が、まるでエリコの城壁のよ
うに、目の前にそびえ立って、立ちはだかり、膨大な事に見えて
しまう。その問題に取り込まれ、その悩みの中では、出口の無い
真っ暗なトンネルのように感じる。

トンネルの中は真っ暗なので、主が飛んで、御言葉が飛んでいると、
心は真っ暗になる。だが、トンネルには必ず出口があるように、試
練はトンネルなのに、その渦中では永遠に続くように思えてしまう。
出口が見えない。苦しくて、必死に祈るのだが、とにかくその苦し
みから救い出されたいばかりで、助けを求めてあがき、もがく。

苦しみを何とかして欲しい一心だ。主に委ねる時に、解決への道筋
に導かれるのだが、一番の問題は、委ねられないという事だろうか。
委ねられない自分がいる。祈りながらも、自分で何とかしようと必
死で、あれこれと頭は巡り、考え、方策を模索し探り回る。しかし
その問題を、自分自身を主に明け渡して行く時に、光が射し、導か
れて行く。

御言葉通して、環境通して、問題自体が解決へと導かれるが、それ
以前に、すでに心が平安にされる。今、あなたも難しい問題にぶち
当たっているだろうか。心が悶々状態だろうか。「委ねる事ができ
るように」が祈りだろうか。そうできるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・
問題を自分が握っていると、悪戦苦闘してしまう。不毛の戦いとな
る。疲弊するばかりだ。ゆだねられないものが、自分の内にあるな
ら、御霊の示しが与えらるよう祈ろう。内側から照らし出し、平安
の道筋へと導いて下さる。


2024年04月20日(土)

「ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産 んだその男の子をイシュマエルと名づけた。」創世記16:14



奴隷ハガルは、サラの代わりにアブラハムの子を宿した時に、子が
産めないサラを見下した。そのためサラの怒りを買い、いじめに会
い、逃げ去った。荒野に逃げたハガルに、主の使いが泉のほとりで
語りかけた。ハガイは自分に語りかけた主の名を「エル・ロイ」と
呼んだ。それは「ご覧になる神」という意味だ。

「ご覧になる方の後ろを私が見て、なおもここにいるとは」と言っ
た。ハガルは、逃げて来た女主人のもとへ帰るように言われた。そ
して、生まれる男の子にイシマエルと名付けるようにと。「彼は野
生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべ
ての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう」
と。

「女奴隷の子は肉によって生まれ」とあり、肉は、もろに自己中心
で、奔放に自分の思うがままに生きようとする。しかしどうであれ
遣わされた場で、身を低くして、試練を甘んじて受けることが大き
な祝福へと繋がる。エル・ロイ「ご覧になる神」主が見て下さって
いる。信仰人生を歩む時、私たちは試練により造り変えられる。

練られ、鍛えられ、真に自分が変えられて行く。忍耐が培われ、見
えない主を信じる信仰が強められて行く。忍耐は、試練の中でしか
生まれない。今の環境に愚痴と不満が一杯で、逃げる事しかないの
なら、環境を変えても、又、逃げる。しかし、自分が変えられるな
ら、同じ環境が来た時に、乗り越えて行ける。

・・・・・・・・・・
逃げたハガルは、主から女主人のもとへ帰って、へりくだるように
言われた。男の子を与えるからと。どうであれ、主の御心の内にい
る事が一番の祝福で安全だ。状況から逃れたい時、主を仰ぎ助けを
求めよう。示しに従おう。絶えず目を留め愛して下さっている。


2024年04月19日(金)

「『サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くの か。』・・『私の女主人サライのところから逃げているところです。』」 創世16:8



アブラハムとサラに、約束の子がなかなか与えられず、サラの申し
出により、当時の習慣であった女奴隷により得ようとした。だが、
奴隷ハガルがみごもると、優越感で女主人サラを見下した。すると
怒ったサラはハガルをいじめ、ハガルは辛さの余り荒野に逃げた。
その時、主の使いが彼女を見つけ、高ぶった彼女に告げた。

「女主人のもとへ帰り、身を低くせよ」と。悩み、問題から逃げま
くっていても、何の解決もない。常に逃げ回っている人々もいる。
しかし、信仰者には、主がその悩み問題を通して、新たに主の素晴
らしさを知り、様々学びを下さり、成長へと導かれる。祝福とされ
る。問題を受け止め、主に身を委ね、忍耐することだ。

ある人は人に好かれたい、嫌われなくない一心で、ずっと良い子に
振る舞って来た。常に人の顔色を見、結局、全く自分を生きておら
ず、人にコントロールされている、心が辛い歳月だった。主は、そ
の苦しみから解放するため、取り扱われた。ある事態が起きて、周
囲の人々の批判、非難を受けた。

厳しい試練であったが受け止め、その中で身を低くし、自らを主の
手に明け渡した。主は彼女を砕き、練られた。事態が解決後、自分
が変えられたとわかり、人からも変わったと言われた。人が気にな
らず、素直に生きられるようにされ、喜びが湧いた。

あなたも今、取り扱いの中だろうか。身を低くして受け入れる時、
必ず豊かな所へ、喜びへと連れ出して下さる。問題から逃げずに、
力強い御手の下にへりくだる事を祈ろう。主が高く上げて下さる。

------------
人の前に自分を高く見せようとし嫌われまいとするが、高くなると
今度は人を見下していく。何と醜い者だろう。主が愛し、救ってく
ださり今がある。そこを誇り、御前にへりくだりたい。


2024年04月18日(木)

「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、 信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたこ とを成就する力があることを堅く信じました。」ローマ4:20



アブラハムは75歳の時に、主の示しに従いカランを出て、カナンの
地に移り住んだ。しかし子どもが無く、家の奴隷エリエゼルを相続
人にと考えていた。その時に、主により、あなた自身から生まれ出
る者が、跡継ぎとなると言われ、満天の星を見せられた。そして子
孫はこのようになると告げられ、アブラハムは主を信じた。

主は、それを彼の義と認められた。その後、子どもは尚も生まれ
ず、サラの申し出のもと、彼自らの思いと判断により、奴隷ハガル
によりイシマエルを得た。86歳だった。が、それは肉による行動で
あった。その肉で失敗した後、約束はあるが、状況は何一つ動か
ず、何も見えない13年の歳月が流れた。厳しい忍耐の時だった。

それから99歳の時に、主が彼に再び現われ、子を与えると告げられ
た。そして100歳になり、とうとう実現した、イサクを得た。アブ
ラハムは、常識的には不可能である、厳しい状況の中で、主ご自身
を信じた。全く望みえない時に、望みを抱き信じた。目に見えたな
ら信仰は必要ない。見えないものを信じるから、信仰だ。

それは厳しい状況を見るのでなく、約束を下さった主を見続け、御
言葉を信じる信仰だった。アブラハムは信仰の父と言われ、主はそ
の「信仰」を喜ばれた。あなたも今、「胎の死んでいることを認め
ても」の厳しい状況だろうか。もし信じられないなら、あるがまま
を祈ろう。主が取り扱い、信仰を与えて下さるから。
------------
厳しい状況に気持ちを取られると、自分の弱さばかりが見えてく
る。それも主はご存じだ。その上で備えていてくださる約束を信じ
よう。日々の不安は主に祈り、御言葉を信じて従おう。


2024年04月17日(水)

「もう航海は危険であったので、パウロは人々に注意して、『・・私 たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます』と言 った。」使徒27:10



パウロが証しのためにローマへ導かれるが、思いとは違い、囚人と
してローマへ向かう事になる。護送の途中、船はクレテの良い港に
着いた。人々は越冬に、ここより良いピニクスまで進もうとの意見
だった。だがパウロはこの航海は危険で、命にまで危害が及ぶと強
く反対した。しかし人々はパウロの言葉を信じず、百人隊長も、パ
ウロより航海士や船長の方を信用し、出帆した。

すると案の定、大暴風に会った。私たちもどうだろう。常に二つの
声が聞こえ、二つの思いが湧き上がる。一つは御言葉による御霊の
声であり、もう一つは自分の思い、知識、経験による肉の声で背後
にサタンだ。世の価値観に基づき、判断する声だ。結局、どちらを
選択するかにかかる。彼らはなすすべなく積荷、船具も捨て、もう
最後の望みも消えようとしていた。

その時に初めて、人々はパウロの言葉に思いが至った。パウロは
「全て私に告げられた通りになると、私は神により信じている」と
皆を励まし、結果的に皆その通りに助かった。事態が生じた時、
「御言葉」と「自分の思い・常識・経験値・人の言葉・世の価値
観」が、しばしば相反する。

又、とっさに起きた時に、主を忘れていたら、御言葉以外のものに
流され、反対方向に向かってしまう。感謝な事に、御霊が気づかせ
て下さる。何かが起きた時、とっさに肉は、どうしよう、何とかし
なければと思ってしまうが、まず主を仰ぐこと、祈ることをしよ
う。信仰は練習だ。繰り返しの中で身について行く。
--------------
早く行ってしまいたい、安心したいと自分の思いを主の前に立たせ
てしまう。よくやってしまう失敗だ。自分の考えを主に委ねられる
ように祈りたい。主の御心こそを求めて祈ろう。


2024年04月16日(火)

「あなたは、数の多い民で大きな力を持っている。あなたは、ただ 一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。」 ヨシュア17:17



ヨセフ族が、ヨシュアに不満を訴えた。「なぜただ一つの割り当て
地しかないのか」と。しかし実際は、広い土地を与えられている。
だのにカナン人を追い払わないので、狭くなっていた。それに答え
てヨシュアは告げた。「森に上って行き、カナン人と戦い、自分で
切り開け」と。カナン人を追い払い、きちんと占領しないので、カ
ナン人は彼らの地に住みついた。

与えられた地を「占領せよ」と主は言われる。そのままでなく、し
っかり占領する必要がある。余りにも降って与えられた恵みが大き
過ぎて、その恵みがわからない、その価値に気づかない。そのた
め、きちんとそれを受け取り、生かして行く事ができない。そうす
るのは、おっくうであり、現状に流されているばかりだ。そして、
彼らが鉄の戦車を持っている事を恐れた。

私たちはどうだろう。求めも労苦もなく与えられると、すべてが当
然で、その有り難みがわからない。だから、それを大切にし、生か
して行く事が出来ない。私たちもいろんな面で、そのようだろう
か。与えられた恵みに感謝が無いと、感謝どころか不満とぐちばか
りになる。心が満たされず、もっと〃と欲に支配され、更に所有し
ようとするばかりだ。

恵みがわかると、主からのものと感謝して受け取り、その賜物を尊
び、大切にし更に生かそうとする。それが占領するという事だ。
又、恐れはどうだろう。恐れによって、前進できないだろうか。主
を信じ、主に頼る事ができる。様々な賜物を、今一度、感謝して、
受け取り直そう。そして主の栄光のために用いて頂こう。
------------
安定した恵みが当たり前のものになってしまうと感謝も管理も怠っ
てしまう。与えられている地の恵みに感謝して、信仰をもって主の
使命を果たそう。


2024年04月15日(月)

「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。 そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるの か。」ルカ12:20



金持ちの畑が大豊作となり、保管場所が無くなり今の倉を取り壊
し、もっと大きな倉を建て、そこに納めた。そして「これから何年
分もいっぱい物がためられた。さあ安心して、食べて、飲んで、楽
しめ」と言い、これから安楽な人生を大いに楽しもうとの矢先に、
何と死んでしまった。その彼に対して、主は「愚か者」と言われ
た。

大間違い、大誤りしていると。どこが間違いだったのか。財産が、
人生を保障してくれ、命までも保障してくれると錯覚をした。財産
に依存し、物が心に安心を与えてくれると。又、彼の人生には、神
が無かった。神を認めず、神無しだった。そのため自己中心で、自
分の事しかなかった。

別訳では「私の倉]」、「私の穀物」、「私の財産」「私の作物」
どこまでも「私の」「私の」で、すべては自分の所有、自分だけだ
った。貧しい人々に分け与えようとの発想も、天候を支配し、作物
の生育を守り、豊作を下さった神への感謝も皆無だった。そして更
に大きな間違いが、「命」が自分の手中、支配にあり、自分のも
の、自由にできるものだと思っていた点だ。

主は「今夜、取り去られる」と言われ、「今夜」だった。これから
もずっと長く生きるつもりだったろう。人の生き死には、人の手に
は無い。絶対的な主の主権の中だ。大きな誤りだった。財産よりも
重大な「命」は誰のものだろう。そして更に永遠はどうだろう。主
の御前に富み、天に宝を積めるならどんなに喜びで幸いだろう。
------------
主がなければ、私が、私が、と一刻も安心できない人生だっただろ
う。すぐに主を忘れ貪欲に陥ってしまう。与えられた時も、いのち
にも感謝し、主に助けを求めて歩みたい。


2024年04月14日(日)

「あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正し いさばきをしてくださいます。」ルカ18:8


ここに出て来る裁判官は、神を恐れず、人を人とも思わない人物だ。
しかし、裁判官である職務と立場は、法律に乗っ取って裁くという
事だ。人格的にはこんな人物だが、やもめが、余りにもひっきりな
しにやって来て、うるさい。これ以上うるさいのはへきえきで、
うっとうしく、自分が困るので裁判をする事にした。

ここで言っているのは、こんな人物だが、嫌気が差し、面倒だから
の理由で裁判をする。であれば、ましてや完全な愛と完全な義を持
っておられる主が、正しい裁きをつけずに、放っておかれるわけが
ない。その事を言っている。つまり、こんな人格的に問題のある裁
判官でも、動くのだから「ましてや神は」という事を言いたい。

完全な愛と配慮を施して下さり、常に私たちのベストを考えて下さ
っている主なので、失望は決してあり得ないと。祈りの熱心さ以前
に、祈る相手が、どんなお方かが重要だ。神はすみやかに彼らのた
めに正しいさばきをして下さる。

「パンを三つ貸してくれ」と決して諦めず、しつこく頼み続けて、
パンを手にした人も、友達だからでなく、執ようさのゆえに勝ち取
った。この箇所でも、しかし神はそうではなく、子だから良いもの
を下さると言っている。ガンガン頼むからでなく、子だからだと。

だからこそ御子を賜うほどに愛し、最善をして下さる神に、決して
失望する事なく信頼し続けられる。祈りの量でなく、子だから、愛
しているから、いつも必要をご存じで、祈りに答えようと待ってい
て下さる。何と幸いで、平安な事だろう。

・・・・・・・・・・
しつこくガンガン、長時間祈るから、祈りに答えて下さるのでなく、
子として愛して下さっているから、与えて下さる。そこに信頼感
がある。どうであれ良いものを下さる、最善をして下さると主を
信じる時、自分自身に平安が来る。


2024年04月13日(土)

「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ 私の神であられますから。」詩篇 143:10



「主のみこころなら〜〜をしよう」と、いつも「主のみこころなら」
という意識は大切だ。そして自分の人生のあらゆる時と場合に、主
を認めて行く事が大事だ。何かをしようとする時に、自分の思いと
主のみ思いはどうだろう。又、その動機の部分はどうだろう。ある
人が、高い技術を持っていて、それを用いてボランティアをしよう
と思った。

しかし御言葉に「主のみこころなら、この事を、又は、あの事とを」
とあり、主の御心はどうなのかと気づかされ、心探られた。単に自
分が良い事をしたいと思っているのか。自己満足なのか。人に認め
られ、人の賞賛の得たいのだろうか。見栄なのか。もっと別に本当
にやるべき事があるかもしれない。

何かをしようとする時に、主の御心を求める事は大切だ。人には、
自己実現という欲もあるので、良い事だとしても、神の栄光でなく、
自分のため、自分の欲を満たすためかもしれない。自分の計画が、
「主のみこころなら」それをしようとの姿勢が大切だ。箴言19:21
"人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る"
とある。

自分の計画をまず祈りに持って行こう。そして「主の御心なら、私
たちは生きていて」明日〜しようと言っても、明日の事はいっさい
わからない。明日生きているかどうかもわからない。主の御前にへ
りくだり、主の御心を求めて生きることが大切だ。

・・・・・・・・・・
主のお心を求めず、祈らずに、自分の思いで始めた事は、中途で
行き詰まったり、止めてしまったり、失敗することを幾度も経験
する。主の御心によって行なう時、どうであれ、主と共に歩む安
心感があり、結果をゆだねて行ける。


2024年04月12日(金)

「すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。 「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」 民数記22:28



ろばが、しゃべったという有名な箇所だ。バラムがろばに乗ってい
たが、ろばが立ち止まった。だが実際は、主の使いが、ろばの前に
抜き身の剣を持ち立ちふさがったのだ。そのため、ろばは進めず、
うずくまってしまった。バラムは怒りでろばを3度打つと、ろばは
抗議した。

その時、主の使いが「敵対して出て来たのはわたしだ。あなたの道
がわたしとは反対に向いていたからだ」と言った。阻止は、主であ
った。私たちは苦しみや痛い事は避けたい。何とか逃れたいと思う。
しかし主は、私たちが間違った方向へ進む時、行く道を阻まれる。
立ち止まらせるためだ。それは、主の取り扱いだ。

そこに関わる相手や周囲を責めるのは、ろばを責めるのと同様で、
主の取り扱いを認める事が大切だ。その状況の中で、主のメッセー
ジを受け取ろう。何を教え、何に気づかせたいのか。もし今、あな
たの行く手が阻まれているなら、状況に右往左往でなく、まずそこ
に主を認めよう。主が立ちはだかっておられる。御心は別の道なの
だろうか。

主はバラムに「彼らと一緒に行ってはならない。その民を呪っても
いけない。祝福されているからだ」と言われた。しかし強行に出て
行くバラムに、主の使いが立ちはだかった。目の前に主の阻止を認
め、自分の思いを通すのでなく、そこで主の御心を尋ね求めよう。
幸いなベストの道に導いて下さる。
------------
目の前のものに曳かれて何処までも行ってしまう、迷いやすい者だ。
主は導き返してくださる。立ち止まらされるとき、主に祈り、間違
いであれば引き返そう。御心を歩みたい。


2024年04月11日(木)

「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうす れば、そのとおりになります・・だれかに対して恨み事があったら、 赦してやりなさい。」マルコ11:24



主は、祈りについて素晴らしい約束を与えて下さっている。私たち
が信じて祈り求めるなら、信じた通りに与えられると。「何でもす
でに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」。
だが、次に言葉が続く。あなたが被害を与えられ、恨みを持ってい
る相手を赦しなさいと。赦す事が大切だと言われている。

赦さない心は、祈りをさえぎってしまう。まず、主があなたを赦し
て下さったのだから、恨みのある相手を赦しなさいと。私たちは、
しょっ中、失敗する。しかし主はどこまでも赦し続けて下さる。
私たちは罪を犯さないのではなく、弱さのゆえに犯してしまうが、
赦されて〃生きている。

まず恨みや憎しみ、赦さない心があると、祈れなくなってしまう。
平安が無くなり、主と私たちの間に、隔たりができてしまう。ある
働き人が、大きな集いの説教を依頼され、準備のために切に祈っ
た。しかし、幾ら祈っても御言葉が与えられない。期日は迫り、尚
も与えられず、徹夜祈祷を決めた。主と交わる中で、心の奥に潜ん
でいた恨みを示された。ある人々の言葉に傷つき、敵対心、赦せな
い思いを抱いていた。

この妨げに気づかされ、心から悔い改めて、御前でその人々を赦し
た。すると見事に祈りが答えられ、説教準備が御霊に導かれた。赦
さない心は、祈りをさえぎる。恨みがあれば、ありのまま主のもと
に持って行こう。自分では出来ない。主が取り扱い、教えて下さり
ながら、赦せるように導いて下さる。  
------------
相手のした悪をくり返し思い出すのは牢獄だ。主に一番に求めるの
は赦せますように、ではないだろうか。赦さない罪を認め、主に助
けを祈り求めよう。 必ず聞かれる。


2024年04月10日(水)

「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている・・ ほおっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたの だから。」Uサムエル16;11



シムイという男が、ダビデに石を投げ、「血まみれの男、よこしま
な者」と呪いの言葉を投げつけた。ダビデがバテシバの夫であるウ
リヤを殺害した罪をののしった。部下が、「あの者の首をはねさせ
て下さい」と申し出たが、ダビデは「放っておけ、呪わせておけ、
主が命じられたのだから」と、主がされている事だと、部下に報復
を許さなかった。

ダビデは主を見上げ、信仰に立ち、主から来たものと受け取った。
主からの懲らしめ、訓練と受け止め、受け入れた。「私の身から出
た私の子さえ、私の命を狙っている」、シムイどころでなく、実子
アブシャロムすら自分に敵対して、歯向かっている。それゆえシム
イの呪いも、主から出たものと受け入れた。何とへりくだった心と
態度だろう。

「今日の呪いに代えて、幸せを報いて下さる」。状況に飲み込まれ
るのでなく、状況に主を認め、主を信頼している。どんな悲惨な中
も、状況を変えようともがくのでなく、主の前に正しい心でいるな
ら、呪いをも主が良い事のために計り、幸せを与えて下さる。
ヨセフの「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良い
ことのための計らい」とされたとの通りだ。

相手は悪意であるが、その悪意すらもあなたのために益とし祝福と
変えて下さる。状況に反応するのでなく、主を通して状況を見る
時、必ず主により導かれて行く。主のお心に従う時、どんな苦しく
辛い状況でも、心を主の平安で守って下さる。
-------------
ダビデから学びたい。罪を悔い改め、主に赦された平安は人に非難
されても揺るがない。大きな罪であっても、王であっても、いつも
見ているのは主の前にいる自分だ。謙遜にさせられる。


2024年04月09日(火)

「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、 ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」 Tペテロ 5:6



日常でどうだろう。物事や対人関係が、何だかかみ合わず、イライ
ラピリピリし、平安が無い時、周囲を攻撃して行く時、それは主の
力強い御手の下から出て、主が飛んで、自力と自分の思いで歩んで
いるだろうか。高慢になってしまっている。しかし自分の思い通り
にならないので、あちこちに頭をぶつける。

痛いばかりで平安は無い。そんな中で御霊により、自我に気づかさ
れる。ある人が、理不尽に思え、納得が行かない状況にいた。誹
謗、中傷を受けるのだが、自分に非は無いと思う。陰で悪口を言わ
れ、辛くてたまらない。怒りも沸くし、悶々状態でいた。苦しく
て、主のみもとに行き、祈っていると、主の御手の下にへりくだり
なさいと語られた。

更に心を吐き出し、ずっと主と交わる中で、主の十字架を示され
た。100%正しく、何の非も無い方が、犯罪者がかかる十字架にか
かっておられる。こんな理不尽があるだろうか。「キリストは、神
の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができるとは
考えないで、ご自分を無にして」、我に返れて、涙が出た。

ご自分を無して、神のあり方をこの自分のために捨てて下さったと
は。「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従
われたのです」、今まで頭でわかっていた事が、真に迫り来た。主
にゆだねて祈り終えた時、心が平安にされていた。そしてこの取り
扱いを通して、更に主のご愛、あわれみを知れた事に心から感謝し
た。
------------
主の恵みに気づかされ、力強い御手の下に謙遜にさせられる。相
手がどうであれ、自分自身が変われるならどれ程感謝だろう。相
手ではなく主を見ていたい。


2024年04月08日(月)

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、 神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」 ヤコブ1:12



試みには二種類ある。一つは、神から来る試みで、ご自分の聖さに
あずからせるために、与えられる試練だ。これ自体は喜ばしいもの
でなく、痛くて辛く悲しいが、必ず平安の義の実を結ぶ。良いもの
だ。私たちの頑なで、強情な心が砕かれ、柔和にされて行く。主に
間に合う器と変えられて行く。一段階〃と信仰の成長が与えられる
ものだ。

もう一つは、悪魔から来る試みであり、これは誘惑だ。良いもので
はなく、罪へと誘うものであり、私たちの欲望に餌を投げ、おびき
寄せ、食いつかせるようにさせる。最も弱い所に来る。弱い所なの
で、餌が来るとすぐに飛びついてしまう。誘惑にならない所へは来
ない。

あなたに来る誘惑はいつも同じ部分だろうか。そこがあなたの急所
だ。よく誘惑を見張っていよう。誘惑は受け入れてはならず、抵抗
して、拒否しなくてはならない。これは主からのものではない。主
は決して悪に誘惑される事はない。誰かを誘惑される事もあり得な
い。主からの試練は受け入れ、忍耐する。悪魔からの誘惑は、受け
入れずに拒否する。

これを逆にしてはならない。自らの弱い部分をよく知り、認め、自
覚して祈っている事が大切だ。平素から祈って備えている時、悪魔
の誘惑が来た時に気づける。即、主に助けを求める事ができる。主
は祈りに堪えて助けて下さる。祈りで備えていよう。祈りが力だ。
--------
自分の弱さをよく知らなければサタンに警戒できない。また主によ
る新しいチャレンジにも応答できない。何処に弱さがあるのか、見
たくないけれど認めていきたい。信仰をもって選択しよう。


2024年04月07日(日)

「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの 間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊 によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるよ うなことはありません。」ガラテヤ5:15 主を信じ新生した後も、生まれつきの肉の性質があり、互いに愛し 合い、仕え合うことは、なかなか難しい。相性の合う、好きに思え る相手ならよいが、気難しい相手はどうだろう。ズケズケと批判し 非難してくる相手、攻撃的で、敵対心を持って向かって来る相手は どうだろう。自分の力では、到底愛する事など出来ない。 心のひねくれた、屈折した人もいるし、悪意を持って傷つけてくる 人もいる。ややこしい相手と接する事になると、「なんで、この人 と」「今の環境から逃げ出したい」「だいたい、何で出会ったのか」 「この人さえいなければ、良い人生なのに」心は重く沈み、悶々状 態に陥る。 それだけでなく、愛するべきだと思うので、悩みは更に深まる。し かし相手を非難、批判、憎しみは肉であり、サタンの攻撃が来てい る。あれこれ〃過去の嫌な出来事を持って来ては、嫌な思いにさせ る。しかしいつも学ぶように、あなたをそこに置かれたのは、主だ。 環境は主の支配の中だ。その所で、悩みや問題を通して学ばせたい と思っておられる。 練り、鍛え、成長させて下さる。まず、ありのままの気持ち、思い を、主に祈ろう。「この事さえなければ、どんなにか楽なのに」と の思いをそのまま、主に持って行こう。主は受け止めて下さる。そ して一つ一つなすべき事を示し、導いて下さる。その示しに一歩従 う時に、次に展開して行く。一歩づつ手を取り、解決へと導いて下 さる。御霊が働いて下さる。 ・・・・・・・・・・・ 信仰生活で、様々な問題は、次々と起きて来る。とにかく主のもと へ持って行こう。どう解決して下さるかは、その時々で異なるが、 必ず導いて下さる。導きに従う時、肉を満足させる事はない。平安 安の落とし所へと導いて下さる。

「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの
間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊
によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるよ
うなことはありません。」ガラテヤ5:15

主を信じ新生した後も、生まれつきの肉の性質があり、互いに愛し
合い、仕え合うことは、なかなか難しい。相性の合う、好きに思え
る相手ならよいが、気難しい相手はどうだろう。ズケズケと批判し
非難してくる相手、攻撃的で、敵対心を持って向かって来る相手は
どうだろう。自分の力では、到底愛する事など出来ない。

心のひねくれた、屈折した人もいるし、悪意を持って傷つけてくる
人もいる。ややこしい相手と接する事になると、「なんで、この人
と」「今の環境から逃げ出したい」「だいたい、何で出会ったのか」
「この人さえいなければ、良い人生なのに」心は重く沈み、悶々状
態に陥る。

それだけでなく、愛するべきだと思うので、悩みは更に深まる。し
かし相手を非難、批判、憎しみは肉であり、サタンの攻撃が来てい
る。あれこれ〃過去の嫌な出来事を持って来ては、嫌な思いにさせ
る。しかしいつも学ぶように、あなたをそこに置かれたのは、主だ。
環境は主の支配の中だ。その所で、悩みや問題を通して学ばせたい
と思っておられる。

練り、鍛え、成長させて下さる。まず、ありのままの気持ち、思い
を、主に祈ろう。「この事さえなければ、どんなにか楽なのに」と
の思いをそのまま、主に持って行こう。主は受け止めて下さる。そ
して一つ一つなすべき事を示し、導いて下さる。その示しに一歩従
う時に、次に展開して行く。一歩づつ手を取り、解決へと導いて下
さる。御霊が働いて下さる。

・・・・・・・・・・・
信仰生活で、様々な問題は、次々と起きて来る。とにかく主のもと
へ持って行こう。どう解決して下さるかは、その時々で異なるが、
必ず導いて下さる。導きに従う時、肉を満足させる事はない。平安
安の落とし所へと導いて下さる。


主を信じ新生した後も、生まれつきの肉の性質があり、互いに愛し
合い、仕え合うことは、なかなか難しい。相性の合う、好きに思え
る相手ならよいが、気難しい相手はどうだろう。ズケズケと批判し
非難してくる相手、攻撃的で、敵対心を持って向かって来る相手は
どうだろう。自分の力では、到底愛する事など出来ない。

心のひねくれた、屈折した人もいるし、悪意を持って傷つけてくる
人もいる。ややこしい相手と接する事になると、「なんで、この人
と」「今の環境から逃げ出したい」「だいたい、何で出会ったのか」
「この人さえいなければ、良い人生なのに」心は重く沈み、悶々状
態に陥る。

それだけでなく、愛するべきだと思うので、悩みは更に深まる。し
かし相手を非難、批判、憎しみは肉であり、サタンの攻撃が来てい
る。あれこれ〃過去の嫌な出来事を持って来ては、嫌な思いにさせ
る。しかしいつも学ぶように、あなたをそこに置かれたのは、主だ。
環境は主の支配の中だ。その所で、悩みや問題を通して学ばせたい
と思っておられる。

練り、鍛え、成長させて下さる。まず、ありのままの気持ち、思い
を、主に祈ろう。「この事さえなければ、どんなにか楽なのに」と
の思いをそのまま、主に持って行こう。主は受け止めて下さる。そ
して一つ一つなすべき事を示し、導いて下さる。その示しに一歩従
う時に、次に展開して行く。一歩づつ手を取り、解決へと導いて下
さる。御霊が働いて下さる。

・・・・・・・・・・・
信仰生活で、様々な問題は、次々と起きて来る。とにかく主のもと
へ持って行こう。どう解決して下さるかは、その時々で異なるが、
必ず導いて下さる。導きに従う時、肉を満足させる事はない。平安
安の落とし所へと導いて下さる。


2024年04月06日(土)

「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはい ません。幼子なのです。」ヘブル5:13



乳ばかりを飲む者は、幼子であり、乳とは「神のことばの初歩」だ
と言う。乳児は、固い食物は消化できないので、乳を飲むが、柔ら
かい心地良い言葉だけを求めるのが、幼子だと。主を信じ救われた
時は、誰しも生まれたての赤ん坊だ。その時に必要なの乳だ。固形
食を食べるなどあり得ない。神の愛、慈しみ、罪の赦しを受け取り、
喜びに溢れる。

しかし赤ん坊は、必ず離乳食、固形食へと進み、大人へと成長して
行く。幼子は、神の愛、赦し、受容、だけを聞きたくて、固い義の
教えは聞きたくない。神に愛されている、それは最も大きな事であ
り、重要であり、大切なものだ。大切な神の愛と同時に、主は、厳
しく苦しい、砕き、訓練、鍛錬、そして少しづつ聖められて行く聖
化、又、その過程を備えておられる。

幼子は自己中心だ。赤ん坊はお腹がすくと泣き、おむつが濡れると
泣く。その場合、母親の都合はいっさい考慮しない。絶えず自分中
心に世界が回っている。赤ん坊はそれで良い。正常だ。しかし霊的
赤ん坊はどうだろう。自分の思い通りにならなければ、わめき、自
分を通したいばかりだ。又、乳児が固い物を口から出すように、従
いたくない御言葉は吐き出す。

とにかく「自分が」「自分が」と、認められたい、愛されたい、中
心になりたい。最初は赤ん坊で当然だが、いつまでも赤ん坊ならど
うだろう。大人に成長して行くのが通常だ。大人とは自分を捨てる
事、主を愛し他者を愛する事、自分の栄光でなく、主の栄光を求め
て生きる事だ。幼児性はどうだろう。自分ではできないが、御霊が
働き、導き、助け、大人へと成長させて下さる。祈りから始めよう。

・・・・・・・・・・
生まれた頃は乳が必要であり、乳を飲む事が重要で大切だ。しかし
赤ん坊のままでなく、子ども〜成人へと、主が成長させて下さる。
自分で砕く事はできない。主が自己中心を砕き、訓練して下さる。
目の前の苦しみも、大人へと成長のために、祝福とされる。


2024年04月05日(金)

「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包 皮を取り除け。」エレミヤ4:4


ステパノが頑なであるユダヤ人に対して「頑なで、割礼を受けてい
ない人たち。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている」と言った
が、心の割礼とは、冷たい石の心でなく肉の心、柔らかい、教えら
れやすい心を持つことだ。極みまでの愛して下さった主の御前で、
自らの心の頑なさを示されるだろうか。

固い心を開き、主の愛を受け取れるように、主は、私たちを助けて
下さる。心の頑なな部分を示し、砕いて下さる。あなたにも、主に
触れられたくない部分、心の包皮があるだろうか。固い自己中心の
部分があり、それこそが主の愛がをわからなくしている。それを認
め、主のもとへ持って行こう。

「もううなじのこわい者であってはならない」と、主が、取り扱い
切り取って、砕かれた柔らかい心にして下さる。ある人は非常に苦
しい試練を通った。毎日〃泣いて暮らした。これほど泣いて、涙が
よく枯れないと思うほど、泣いた。生きている心地も無いほどの状
況だった。しかし砕きに砕かれて、自分がいかに高慢であったかに
気づかされたと。

まさに苦しみを通して、皮を一枚はがれたようだと。心柔らかくさ
れ、へりくだらされ、恵みがわかる者とされた。以前と全く違っ
た。今。生かされている事が恵みだと、わかるようにされた。心の
包皮は、主と私たちを隔てる。包皮に気づくなら、そのまま主のも
とへ行こう。どうにも出来ない頑なな心を、主が取り扱い、柔らか
くして下さる。
------------
心を覆っている硬い自我は自分ではわからず、何かにぶつかり気づ
かされる。主は何を教えようとされているのだろう。痛くても、
主には目的があることを信じていよう。


2024年04月04日(木)

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪 を犯してはなりません。」ヨハネ8:11



パリサイ人たちによって、姦淫の場で捕らえられた女性が、主の前
に引き連れて来られた。それは主を試し、攻撃し、追い詰めるため
であった。もし姦淫の女性を赦すなら、律法に違反する事になる。
しかし、もし律法に従うなら死刑だ、ならば主が説いている愛やあ
われみはどうなるのか。

問い詰めるが、主は、その問いには答えられず、「あなた方のうち
で、罪のない者が、最初に彼女に石を投げよ」と言われた。すると
年長者から去り、人々は次々と去り、結局、誰もいなくなって、主
と女性だけが残った。つまり彼らは、皆、良心に触れられ、自分の
罪がわかった。だが、罪を認めたくなく、向き合いたくないので、
主のもとから逃げた。

その女性だけは逃げずに、そのままそこにとどまっていた。皆から
何もかもを暴き立てられ、もう恥辱にまみれたボロボロ状態だ。隠
すことも出来ないというよりも、隠すものすらない状態だ。もう裸
そのものだ。そんな彼女は、砕かれてきっていた。

砕かれた心で、自分を断罪されない、自分を受け止めて下さる主
を、信じた。すると「わたしもあなたを罪に定めない」との主の赦
しを受けた。女性は罪が完全に赦され、「わたしに従う者は、決し
てやみの中を歩むことがない」光の中を歩んで行く者とされた。

正しいパリサイ人たちは罪を認めず、闇の中におり、罪深い姦淫の
女性は罪赦され、闇から光に移され、光の中を歩んで行く。まさに
対照的だ。罪が照らされる時、非常に痛いが逃げずに認めよう。光
の中を歩み続ける者とされる。
------------
罪に目を背けていると主の赦しも受け取れない。ボロボロの状態で
隠さず御前に出たい。そこに主がおられ十字架がある。幾つになっ
ても新しくされるとは、何という幸いだろう。


2024年04月03日(水)

「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」 詩篇23:2



その前の節に「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」とある。
別訳では、私は必要なものはすべて持っている、私は欠けるものが
何も無いとある。しかし欠け自体は、人生で幾らでも経験する。様
々な事が欠けて行く。親を見送って失い、愛する人々との離別、リ
ストラで職を失う。経済的困難で金銭に欠ける。年と共に体力に欠
けて行く。

欠けるものを見ていると、あれやこれやと欠けている。だがダビデ
はそうでなく、主に目を留めた。羊飼いの主、羊である自分。私に
は羊飼いが常に共におられる。小さな子どもは、どんな厳しい中で
も、親がいれば十分だ。そこは幸せで安心の場所だ。どんな境遇で
あろうと、親が一緒なら心は満たされている。

私たちもどんな時にも、羊飼いである主がおられる。ダビデは失っ
たものを数えたのでなく、与えられているものに感謝した。今、現
在すべての必要は与えられている。明日の心配は無用で、明日は、
また明日の必要を与えて下さる。羊は近視眼で、すぐ迷子になる。
しかし羊飼いが見守り、軌道修正し、正しい道へと導く。羊飼いが
いる限り、私たちは平安に歩める。

だが、しばしば私たち自身が羊飼いになってしまう。するとすべて
の重荷が自分の肩にのしかかり、不安、心配、恐れ、思い煩いで身
動きが取れない。羊飼いがおられる事が飛んでしまっている。今、
自分が羊飼いになっているなら、立ち返ろう。荷を主にゆだねて、
主の示しに従おう。その時緑の牧場で平安であり、いこいへと導か
れる。
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もし主を認めなければ、先の不安が押し寄せ、不毛な心配で一日が
終わってしまう。主が共におられる今を感謝して生きよう。備えら
れている恵みを待ち望み、生き生きとした信仰で歩んでいきたい。


2024年04月02日(火)

「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築 き上げたのだ。』と言わないように気をつけなさい。』」 申命記8:17



イスラエルは神の選びの民とされた。それは彼らを通し、諸国民が
救われるようにとの事であった。主は民をエジプトから救い出し、
水も食物も無い荒野で奇跡により守られた。そして御言葉通り、乳
と蜜の流れる地に導き入れられ、約束を成就された。

だが良い地で祝福され豊かになると、民は「この私の力、私の手の
力が」、この富を築き上げたのだと高ぶった。主は、何度も警告さ
れた。「主が」あなたに富を築き上げる力を与えられたのだと。そ
の事を決して忘れるなと。人は、何不自由無い順風の日には、主を
忘れる。

自分の力で生きて行けると錯覚し、恵みを忘れ、高慢になってしま
う。「苦しい時の神頼み、楽しい時の神離れ」と言われるが、何も
かもが当り前となり、感謝が失せる。こんな時、主は愛するがゆえ
に、主に頼るようにと、試練を送られる。懲らしめは愛だ。

民もバビロン捕囚という厳しく苦しい試練に会った。砕きであっ
た。エルサレムがバビロンによって滅ぼされ、国土を失い、家を失
った。異国への捕囚の身となり、苦難を受けた。時を経て、次世代
になった頃、人々は暮らしはそれなりに成り立っているが、信仰心
は失せ、何を拠り所に生きれば良いのか、心は空虚だった。

そんな時に、諦めていた祖国帰還の言葉が語られた。労苦は終わ
り、慰めの時が来たと。私たちも状況が悲惨でも、主は決して捨て
られない。必ず朝は来る。何よりもいつも主を心に据えて、主が今
の祝福の与え主である事を、心に刻んでいよう。
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主の祝福がなければ全ては虚しい。主に感謝を忘れず、日々主に信
頼して歩みたい。高ぶったり、逆に落ち込んだりする時、自分の手
の力を頼りに歩んでいないかと、祈りたい。


2024年04月01日(月)

「彼は言った。『その人にあわれみをかけてやった人です。』する とイエスは言われた。『あなたも行って同じようにしなさい。』 ルカ10:37



当時ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係にあった。そのサマリヤ人
が、傷を負い倒れていた敵ユダヤ人を助けた。サマリヤ人の動機は
「同情」であり、それ以外の何の下心も無かった。あわれみ=かわ
いそうに思う心プラス行動だ。単に感傷的な同情で終わらず、そこ
に行動が伴う。彼は、目の前で倒れ、助けを必要とする人に出来る
事をした。

関わりたくないと逃げず、「近寄って」、ぶどう酒は消毒に、オリ
ーブ油は薬として惜しげもなく使った。自分の家畜を使い、自分の
予定を急きょ変更し宿に同行。尚且つ一泊し、親身に介護の上、費
用も全額負担した。どこまでも至れり尽くせりだ。愛するとは犠牲
を払う事だ。自らの金銭、労力、時間を急きょの必要のために、彼
は惜しまずに献げた。犠牲を払わずして愛する事は出来ない。

そしてその後、彼はきちんと自分の仕事をするために出向いた。自
分の仕事をし、再び帰りにお世話をした。自分のなすべき責任を放
り投げて世話するのではない。自分の責任である家族を顧みず、人
の世話ばかりにかけずり回るのは違う。まず自分の責任を果たすべ
きで、尚且つ、助けを必要とする人に、自分に出来る事をして行く
ことだ。

御霊が導いて下さる。今、御霊の示しがあれば「近寄って」、従お
う。祭司とレビ人は関わりたくなくて、遠ざかった。自らの何かを
献げて、仕える事を、今、示されているなら従おう。それが隣人に
なるという事であり、そこに豊かな祝福が備えられている。
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かつて主が近づき、どんなに親身に関わり続けてくださっただろう
か。主が今、導かれているなら、一つ一つ具体的に祈り、主が完成
させてくださる事を信じて従おう。