2024年05月31日(金)

「・・御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべて の祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」 エペソ6:17



信仰生活で忘れてはならないのが、天に帰るまでは、霊の戦いだと
いう事実だ。日毎に悪魔との戦闘だ。朝、目を覚ました瞬間にも、
悪魔の火矢が飛んで来る。心に思い煩いの案件が突き刺さり、ネガ
ティブな思いが吹き込まれる。又、あれやこれやと、様々な思いが
駆け巡るだろうか。1日の予定か、問題か、悩みか、主に心を向け
るより先に、瞬発的に悪魔が襲って来る。

心していなければ、悪魔に思いを自由自在に持って行かれてしま
う。まず悪魔の言葉に聞いて行くと、巧妙に説得されてしまう。悪
魔の巧みな誘惑は、私たちの肉の思いと合致しているので、同意し
てしまい、ほんろうされてしまう。人間の力では太刀打ちできな
い。エデンの園で、エバは悪魔の誘惑に会い、罪を犯してしまっ
た。「神のようになり」の誘惑だった。

自分の思い通りに、好きなように生きて行けるとの願望に合致し
た。間違いは、エバが悪魔と会話を始めてしまったことだった。言
葉巧みに、どんどん引き込まれて行った。エバのうろ覚えの御言葉
は間違っていて、自分の思いであって、剣である、力ある神の言葉
ではなかった。

神の言葉には力がある。主は、荒野での悪魔の誘惑に、御言葉で立
ち向かわれた。悪魔は退かざるをえなかった。祈りと共に、御言葉
を握り、御言葉に立とう。「恐れるな」「いつもあなたがたととも
にいます」「神を信じ、またわたしを信じなさい」「恐れないで、
ただ信じていなさい」。主の言葉には力がある。反すうしよう。
------------
サタンが思いに来ることを自覚していよう。サタンとの不毛な会話
に一刻も早く気づけるよう祈り備えてたい。自分にとっての剣であ
る御言葉を蓄え、主と主の御言葉にすがろう。


2024年05月30日(木)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、 ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、 歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさ い。」Tペテロ5:8



悪魔はお腹をすかせたライオンだ。常に食い尽くすべき獲物を狙っ
て歩き回っている。悪魔の目的は、どういう形であれ、私たちを神
から離すことだ。とにかく離してしまいたい。離せたなら成功だ。
その悪魔の強力な攻撃手段の一つに、「失望」というものがある。

私たちを、神から離すために、「失望落胆」を持って来る。失望さ
せてしまえば、大成功だ。放っておいても、失望で気力が失せる
と、気持ちが萎えて、主を信じる事を止めて行く。信仰していて
も、何も良い事がないという失望。辛い事、苦しい事ばかりではな
いか、という落胆。信じていても何も変わらない。

又、罪しか犯せない、何も出来ない自分自身に対する無力感による
失望。こんな思いは、信仰を失わせてしまう。「失望」は、悪魔の
強力手段だ。今、がっかりしているだろうか。悪魔の攻撃が来てい
る。気をつけよう。又、「偶像」はどうだろう。神と富に仕えるこ
とは出来ないと言われた「富」はどうだろう。お金が生活を保障
し、楽しみを与え、夢を実現させてくれると思わせられてしまう。

地位、賞賛、愛する人、仕事、趣味・・悪いものではないものに心を
奪われてしまい、少しづつ神から離れてしまう。もし、それにより
霊的食欲が減退して行くなら、要注意だ。突然、主から離れること
はない、少しづつほんの少しづつ世に流されて、いつしか離れてし
まう。悪魔の誘惑に心して、祈っていよう。不安があれば、その事
により、霊的食欲が増すか、減退するかで量ろう。
------------
サタンはいつも主の恵みから目を離させるものを持ってくる。失望
や落胆は、備えられている恵みよりも大きく見えてくる。不信仰に
傾くとき、気づけるよう朝毎に主の恵みに感謝し祈っていたい。


2024年05月29日(水)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時 がある。」伝道者の書3:1



主は、私たちの人生のスケジュールを持っておられる。例えば、種
まきをして、芽が出て、茎となり、花が咲く、そこにも時間的スケ
ジュールがある。まず芽が出て、茎、花、実と、一つ一つのそれぞ
れの「時」があり、秩序がある。もし、これを無視したらどうだろ
う。早く芽が出るようにと、種をいじくり回したなら、又、出た芽
を早く伸びるようにと、引っ張ったなら、だめになる。

咲く花も咲かず、実も望めない。私たちの霊的成長もどうだろう。
主は、私たち一人〃にスケジュールを持たれ、時も定め、霊的に成
長させて下さる。私たちに与えられた人生の中で、喜びの時、悲し
みの時、苦しみの時、様々な時を、しっかり受け入れ、向き合って
行く時、そこに成長が備えられている。

もし切なる願望があり、必死に祈り続けている時、欲しいものが、
願望の実現だけならどうだろう。実現に時間がかかる場合、来る日
も〃ただただ失望の連続になる。なぜ与えられないのかと、落ち込
み、落胆と嘆きの日々となる。しかしもし主が「忍耐」を培おうと
されていたらどうだろう。主のプランを邪魔し、逆に忍耐を受け取
れなくしてしまう。

人生の「時」を受け止め、「この事の中で、何を教えて下さりたい
のですか」と問おう。そして、焦らず、思い煩わず、主を見上げ
て、示されたことに従って行こう。そう出来るよう祈ろう。その
時、御霊の実を結んで行く。そして更に深く主を知って行けるよう
にされる。
------------
主のご計画の素晴らしさを十分に理解することはできない。ただ主
の最善を信じて待ち望むだけだ。自分の目に良いと思える事ばかり
を追いかける時、気づかされ主の導きを求めよう。


2024年05月28日(火)

「イエスは彼が伏せっているのを見・・言われた 『よくなりたいか。』」ヨハネ5:6


アルコール依存症の人は、どこに行っても、飲酒の誘惑があるか
ら、止められないと言い、ギャンブル依存症の人も、ギャンブルが
ある事が悪いと言う。つまり環境が悪いのだと。しかし全く同じ環
境にいて、アルコール依存症にもギャンブル依存症にもならない
人々が大勢いる。これは環境のせいでは無いという事だ。何が問題
なのだろう。

私たちも形は違うが、同様の事があるだろうか。止められない習慣
の底にあるものは、実際は止めたくない。止められないのではな
く、止めたくない。特に思い煩いの強い、心配症の人々もいるが、
思い煩っていたい。不思議だが、思い煩いがないと不安で、思い煩
いを拾っては安心する。思い煩い依存だろうか。

思い煩いが好きなわけないと思うが、心の底を正直にみると、思い
煩いを次々取ってくる。主はいつでも「よくなりたいか」と問うて
下さる。「〜できるか」と問われない。「〜たいか」だ。本当に良
くなりたいか、どうだろう。そこが問題だ。建前でなく、本音はど
うだろう。良くなりたいのだろうか。楽な、肉の好むままにしてい
たいのだろうか。

環境のせいや、人のせいにせず、自らの罪を認め、正直に自分の肉
を認めて行く時、主は、いやしを与えて下さる。しばしば、罪を憎
んでおらず、罪を楽しんで、愛している。罪には快楽があるから心
地良い。しかし罪を憎まなくては、主を愛することはできない。

そして罪をもてあそんでいると、いつしか罪に飲み込まれてしま
う。本音の部分を御霊に照らして頂いて、そのまま主に向き合お
う。主はいつでも助け、導いて下さる。
------------
本当は、立ち上がらず弱さの中でゴロゴロとしていたいのではない
か。その弱さも主はご存じだ。悔い改め、良くなりたいと主のご愛
を信じて委ねていこう。


2024年05月27日(月)

「看守は・・パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏し・・ 『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。』 と言った。」使徒16:30



苦しみの中で、私たちの願いとは何だろう。「目の前の状況が変わ
るように」が切なる祈りだろうか。しかし信仰というもの自体が、
状況が変わらない中での生き方だ。状況さえ変わればとの考え方
は、苦しみが過ぎるならそれでOKなので、それなら繰り返し同じ問
題で悩む事になる。

試練から逃げていると、学ぶ事ができない。その状況の中で、「ど
う生きる事が、主の御心なのか」との祈りが大切だ。そこに焦点を
合わせて行く時に、自分が変えられて行く。状況が変わるのでな
く、自分の方が変えられる。それがクリスチャンの成長だ。問題の
中で学んで行く時に、次に同じ問題が来た時に、乗り越えて行け
る。

パウロとシラスは、主の御心に従った結果、試練に会った。何度も
むち打たれて、冷たい暗い牢に入れられた。足かせをかけられ、む
ち打たれた背は、どんなに激痛だった事だろう。否定的な方向へ向
かえば、幾らでも悲観的になり、自己憐憫、不満、愚痴、怒りに陥
った事だろう。しかし、それを選択しなかった。彼らは、主を選
び、賛美と感謝を選んだ。主の御心を選択した。

これらすべての事に主を認め、主のご計画を認め、最善をされる主
を信じたのだ。その背景に、その地に至る前に、真剣な祈りが積ま
れ、祈った上での事と、受け入れる事ができた。彼らが主に従う
と、他の囚人たちは、彼らにただならぬものを感じ、聞き入り、従
った。これが証しとされ、看守一家が救われた。試練の中で、主の
御心を求め従おう。周囲への証しとされる。
------------
祈り導きに従っているという確信があるから、次々にくる心配事か
ら守られ、今するべきことができる。迷いやすい者だからこそ、ど
んなどんな中にも主を認め、今を見ていきたい。


2024年05月26日(日)

「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは キリストにあずかる者となるのです。」ヘブル3:14



人は主から目が離れ、不信仰になると、恐れに支配される。すると
目前の問題が、恐ろしい巨人に見えて、自分はいなごに見える。城
壁は巨大で人々は強く、食い尽くされそうだ。自分たちは小さく、
弱く、到底太刀打ち出来ない。自分は惨めで哀れで、消え入るばか
りだ。

素晴らしい喜びの約束は、み言葉は何一つ見えず、恐れと不安、憂
い、恐怖心でいっぱいになってしまう。カナンを偵察した10人の斥
候は、見て来たものを「悪く」言いふらし、民を扇動した。だがヨ
シュアとカレブは、全く同じものを見て「上って行って占領しよう。
必ず出来る。」と全く正反対の事を言った。民は双方の意見を聞い
たが、否定的な方を受け入れた。

不信仰を選んだのだ。その結果、民は大声で叫び泣き明かし、あの
悲惨なエジプトの方が良かったと言う。そしてモーセとアロンへの
怒りが爆発する。主はこの地に連れて来て、剣で倒そうとするのか
と。ここまで導かれた主を、悪意の神とする。不平不満と愚痴、自
己中心の心には、御心が何一つ見えない。何と、新しいリーダーを
立てて、エジプトへ帰ろうと言い出し、堅く信仰に立つカレブとヨ
シュアを殺そうとするのだった。

主はカナンの地を与えると約束されたのに、その約束を捨ててしま
った。彼らは皆、カナンへ入れず、滅ぼされた。不信仰でなく、
「信仰」を選択しよう。目に見えるところでなく、「御言葉」の方
に立とう。約束を堅く握る時に、「上って行って占領しよう、必ず
できる」が実現して行く。

・・・・・・・・・・・・
いつも〃毎回〃実地訓練される。目の前に、目に見える現実と約束
の御言葉があり、どちらを選ぶのかと。見える所は、サタンの影響
力が凄まじい。失望落胆で攻撃が来る。絶えず御言葉を選び、握り、
立てるよう祈ろう。


2024年05月25日(土)

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさ い。病気にかからず、すこやかでいなさい。」マルコ5:24


長血を患った女性が、主のもとに来て、主の衣にさわった。彼女は
12年もの間、病に苦しみ、どんなに辛く悲しい、嘆きの歳月だっ
たろう。絶望した事だろう。悪徳医師にかかり、治療のために全財
産を使い果たしていた。しかし、直るどころか、ますます悪化して
行った。経済的にも、身体的にも、精神的にも、もう限界だったろ
う。
又、当時、長血は「汚れたもの」とされ、社会的にも受け入れられ
ず、人生に何の希望も持て無かったろう。この苦しみのゆえに、真
剣に必死に、主を求めた。主の着物にでも、触れる事ができれば直
ると信じた。主には可能だと。大勢の群衆のごった帰す中、人混み
をかき分け、隠れて主の着物にさわった。

すると、主のいやしの力が流れ来て、彼女は瞬間的にその場で直っ
た。「きっと直る」と信じ続けていた。すると主は「誰がさわった
のか」と見回し、探し、面と向かって、関わろうとされた。隠しお
おせないと思った、彼女は恐れおののいて、主の前に出た。辛さ、
苦しみ、悲しみの真実を余すところなく、主に話した。彼女の病を
直したのは、紛れもなく主だが、「娘よ」と呼びかけられ、「あな
たの信仰があなたを直した」と言われた。

彼女がこのまま人混みに紛れて、隠れて去ってしまっていたらどう
だろう。身体は直ったが、それだけだ。しかし主は彼女の身体だけ
でなく、全人格に関わられた。そして「安心して帰りなさい」と、
何という安ど、平安だろう、たましいの救いも与え、全人格の救い
を与えて下さった。真剣に、一心に、主を求める者に、主は向き合
い応えて下さる。

・・・・・・・・・・・・
なすすべの無い望みの無い状態だからこそ、一条の光を信じる事が
できたのだろうか。財や、体力があれば、あちこち渡り歩いただろ
うか。無力の中に、神の力が働き、みわざを見て行く。無力こそ
恵みだ。


2024年05月24日(金)

「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら 豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」 ルカ12:15



金持ちの畑が、大豊作となり、保管場所が無いほどになった。それ
でもっと大きな倉を建てた。そこに作物を納め「これから先、何年
分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、
楽しめ〜」と言った。何の心配もない、溢れる食物が用意された。
しかしその夜に、何と、彼は死んでしまった。神は、彼を「愚か
者」と言われた。大間違いをしていると。

どこが愚かだったのか。彼が、財産で、物で、幸せになれる、そし
て命まで保障されると勘違いした事だった。彼は、普通に命はずっ
と安泰だと思ったことだろう。しかし人の生き死には、神の主権に
あり、神の手の中にあった。その神を認めることが無く、彼の人生
には、神が無かった。

金銭に依存している人は多い。金持ちほど、更に富に執着し、富を
追い求める。幾ら得ても足りず、更に増やしたい。これは心の問題
で、心に横たわる「貪欲」という罪から来ている。「貪欲」は、ど
こまで行っても満足するという事がない。富が幸せを与え、夢を叶
え、安心を与えてくれると勘違いする。

新生した私たちの内にも、根深い古い生まれつきの価値観がある。
金銭に依存し、頼りとしていないだろうか。富を握り締めると、容
易に偶像になってしまう。又、この金持ちは、別訳では「私の」
倉、「私の」穀物、「私の」「私の」だ。すべて自分のもので、貧
しい人に分け与える発想も、神への感謝も無い。あるのは、「自
分」だけだ。

私たちも、自分のためだけに貯えるだろうか。しかし神に向く時、
神に喜ばれるように、富を用いる事が出来る。その時、神の前に富
む者とされ、天に宝を積む者とされる。何よりも、働く事のできる
健康も、天候を支配し豊作も与えて下さるのも、神である事を覚え
たい。
-----------
もっともっとと思わなくても、せめて現状維持をしたい、失ってし
まうのは怖いと思う。そこに貪欲があり。主に頼る思いが抜けてい
る事を覚える。明日を思い煩わず主の恵み心から感謝してたい。


2024年05月23日(木)

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」 ピリピ4:4



「喜び」に二つの種類がある。一つは周囲に全く左右されないもの
だ。すべては主から来るので、状況にはいっさい関係が無い。それ
は、泉から水が湧き上がるように、内から湧く喜びだ。そして湧き
水なので、幾らでも湧き、尽きることがない。それは外部に全く影
響されない喜びだ。もう一つの喜びは、湧き水は存在せず、内側か
らは来ないので、絶えず外部からの刺激が必要だ。

何かの要因がなければ、喜びは感じられない。回りの状況により常
に左右され、アップダウンする。自分にとってラッキーな、ハピー
な出来事があれば喜びがあるが、その出来事が無ければ、喜びは感
じられない。又、外部の刺激が要るので、人からの評価や、人から
の称賛が必要だ。そのため、人が自分をどう思っているかのか、常
に人の目が気になる。

しかし、主にある喜びは、人がどう思おうと、人の評価がどうであ
ろうと、自分自身は十分幸せで喜びがあるので、人が関係ない。主
にあって、自立して生きて行ける。新生した後も、湧き水が、充分
に流れ出るために、障害を取り除く事が必要だろうか。罪があれ
ば、悔い改めよう。

又、主の示しを受けながら、なおざりにしたり、ぐずぐずしてい
るだろうか。そんな時、自らの心も、もやもや状態だろうか。主の
示しに、思いきって従ってみよう。妨げが除かれ、心すっきりし、
湧き水があふれ流れ出る。
--------------
主にあって喜ぼう。自らの内にはない、常に喜びの湧き出てくる泉
を求め主にいこう。祈ると御霊に助けられ、重たい心に感謝と喜び
が湧いてくる。本当に不思議だ。主に導かれ歩もう。


2024年05月22日(水)

「それは、彼がこう言ったからである。「私は自分の手の力でやっ た。私の知恵でやった。私は賢いからだ・・」イザヤ書 10:13


日々の中で、思い煩いが増す時、心が重く、何かイライラして落ち
着かない時、つまり平安が無い時があるだろうか。それは「神の力
強い御手の下にへりくだれ」との示しがあるが、その神の御手の下
から出てしまっている。そこを出て、自分の力と思いの中にいるだ
ろうか。そのため平安が無く、思い煩いやいら立ち、不安に襲われ
る。

自分の思い通りに進むのだが、うまく行かず、あちこちに頭をぶつ
け、周囲ともぎくしゃくする。ふと我に返り、自分が主人になって
いる事に気づく。底にある肉は、どこまでも自分を誇りたいし、認
められたい、評価されたい。主の御前にへりくだる時、平安が戻
る。時に経験するかもしれない。水は高い方へは決して流れず、低
い方〃へと流れる。

主の恵みはへりくだる人に、溢れるばかりに流れる。高ぶった途端
に、恵みが止まる。主が飛んで、自力で歩もうと、自分に頼ってい
る時、高ぶりに気づく度に、悔い改め、へりくだろう。山歩きに原
則があり、山で道に迷うと、迷った地点にまで引き返す事だと。
だが、なかなか難しく、引き返す労力をいとい、又、何とかなると
思い、進んで行き遭難してしまう。

霊的生活もそのまま行かずに、立ち止まり、主を仰ごう。へりくだ
りは肉が一番嫌う事だと言われる。又、それは神と人への「ごめん
なさい」だ。プライドはその一点を回避したい。今、へりくだる事
を示されているだろうか。神と人の前にへりくだりを祈ろう。溢れ
る恵みにあずかろう。
------------
全てを自分自身のものだと思っている事にさえ気づけない者だ。
主に気づかされたら感謝だ。どこからでも初めに戻れる。溢れ
る恵みは主からの賜物、主にささげて歩みたい。


2024年05月21日(火)

「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその 上、どんな重荷も負わせないことに決めました。」使徒15:28


信仰生活で、私たちは種々の問題、悩みを経験する。個人生活でも
そうだが、それが、教会の人々の間で起きた場合はどうだろう。意
見の相違がある。イベントを行なう際に、様々な意見が出る。意見
は十人十色で、10人いれば、10の意見がある。皆、違う。又、対人
関係のもめ事はどうだろう。互いの言葉で傷ついたり、考え方の行
き違いが起きたり、又、人の集まる所、妬みや羨望もあるかも知れ
ない。

主を信じて新生した後も、私たちは皆、古い性質がある。天に帰る
まで、主は古い性質をそのまま置かれている。成長のためだ。それ
は、主を信じる以前の生まれつきの性質で、そこで培われたこの世
の価値観、習慣、因習が根付いてしまっている。各人の背景が違
い、生い立ち、経験値が違い、皆、異なる。そのため問題を解決す
るには、各人の肉の思いでなく、皆が主に向いて、主を仰ぎ、主の
御心を求める事だ。

よく祈り、御言葉に向かい、主からの示しを受けよう。まず自分の
思いを脇に置いて、主のお心を求めよう。当時、使徒たちが宣教す
る中で、問題が発生した。救われた異邦人に割礼が必要なのか、ど
うかという問題で、福音の本質に関わる重大な事だった。

そこで話し合いがなされ、結果的に聖霊により、異邦人信仰者の自
由を認め、且つユダヤ人信仰者も配慮した決定がなされた。「聖霊
と私たちは・・決めました」が重要で、祈りの中で、聖霊に導かれて
決定するよう学べる。今、どうだろう。何かの決め事があれば、
「聖霊と私たちは」を心に留めよう。
------------
問題、課題を感情で片付けず、まず祈って主の導きを待ちたい。
委ねられるよう祈っていると、自分の価値観や願望から徐々に自
由にされる。主の最善は何か、平安の中で待ち望みたい。


2024年05月20日(月)

「まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼し ている。」詩篇 33:21



ある若い神学校を卒業した働き人が、地方に開拓宣教に出た。田舎
の非常に固い地であり、宣教は困難で、なかなか人は来ない。チラ
シを配っても〃人は来なかった。又、人が来ても、続かなかった。
頭では、田舎伝道は大変だと聞いていたし、理解していたつもりだ
が、実際に経験し、心が折れそうだった。

そんな中、働きの成果が出ると喜び、成果が無ければひどく落胆し
た。人が来れば喜び、人が来なければ、がっかりし、落ち込んでし
まう。そんな歳月を経て、ある時、気づかされた。目に見える伝道
の成果で一喜一憂、アップダウンし、自分はいつも不安定この上な
い。それなら、常に成果を見つめ、成果を喜びとしているのであ
り、主を喜びとしているのでは無いと。

見ているのは、成果であって、主ではない。だから、ひどく落ち込
んでしまう。そうではなく、与え主を絶えず仰いで、どんな時にも
主を喜んで行くなら、どのような状況の中でも、結果がどうであ
れ、喜びがある事を教えられた。主が与えて下さったものを、祝福
を、喜ぶのでなく、与え主である、主ご自身を喜んで行くからだ。

そして主を喜んで行くなら、もし自分の思い通りに、事が運ばない
としても、そこに不満は無い。主を信じているからだ。主のご計画
があることを信じ、主のしようとしておられる事がある事を信じ、
万事が益になる事を信じて行く。そんな中で、主は信仰を訓練し、
鍛え、更に信仰を強めて行って下さる。今、主を見ているだろう
か、主の与えて下さるものを見ているだろうか。
------------
ころころと変わる状況に左右されず、ただ主を見上げて喜んでいる
だろうか。単純に目の前の成果で主の御心をはかり落ち込んでしま
う。主の御心を信じて、確かな信仰で今日を歩もう。


2024年05月19日(日)

「私の時は、御手の中にあります。」詩篇 31:15



ヨセフを通して、様々な「時」について教えられる。ヨセフは、
父親から特別にひいきされ可愛がられ、その事で兄たちから強
い妬みを受けていた。そのためエジプトに奴隷として売られる
事になった。だが、そこで、大変良い主人のもとに導かれ、ヨ
セフも忠実に懸命に働き、主人から全信頼を受け、その家の何
もかもを任せられるまでになった。

奴隷の身ながら、素晴らしい祝福に、ヨセフのさあ「神の時」
だと思ったかも知れない。しかし主人の妻の誘惑に会い、その
事で無実の罪で投獄された。奴隷より更に悪い囚人となってし
まう。それもヨセフに何の非も無いのに。しかし牢で、腐らず、
失望せず、自分に出来る事を忠実に行ない、そこでずっと「忍
耐の時」を過ごす。

やがて牢から出され、王から総理大臣に任命され、全権を任さ
れる事になる。長い忍耐の末に、とうとうヨセフの「時」到来
だ。あなたは今、苦しみや悲しみの「時」だろうか。目の前が
真っ暗で、何の希望も持てない「時」だろうか。しかしヨセフ
のように、主のスケジュールがあり、「主の時」がある。主を
信頼して、主を待ち望もう。

私たちの信仰が、練り鍛えられる時であり、強めて行って下さ
る。あなたへの「時」がある。今は、先が全く見えないかもし
れないが、必ず時満ちて、主があなたを引き上げられる。主の
「時」は完璧だ。決して間違いが無い。素晴らしいみわざを見
る。最悪の状況の中で、自らの力が尽きるところにこそ、弱さ
の中に、主の力が現われる。主みわざを見る。どの「時」でも、
あるがままの思いを、気持ちを主に告げて、受け止めて頂こう。

・・・・・・・・・・
試練のトンネルの中にいる時に、一番苦しいのは、先が見えな
いことだ。この苦しみが永遠に続くのではと思える。予め期間
がわかっていたなら、まだ忍耐できるが。しかし見えないが、
主の御手の中にあるなら、祈り、ゆだねていたい。


2024年05月18日(土)

「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のため のものです。」ヨハネ11:4



マルタとマリヤの弟ラザロが、病気で危篤状態であった。そこで
姉妹は、主のもとに使いを送り、ラザロが病気だと伝えた。伝え
さえすれば、愛して下さっているので、主は、すぐに来て下さる
と思っただろう。しかし病気が知らされた時、主はすぐに行かれ
なかった。なお2日とどまられた。

それはマルタとマリヤとラザロを愛しておられたからこそ、2日
とどまられたとある。即、動かれなかった理由が「愛しているか
ら」だった。私たちも、愛しているなら、何もかも置いて、飛ん
で行くのではと思いそうだが。主には意図があられ、病気のいや
しより、遥かに大きな死からよみがえらせるという、ご計画を持
っておられた。

ずっと祈り続けているが、なかなか祈りが答えられないだろうか。
その祈りが、もし主の御心でないなら、どれだけ祈っても答えら
れないが、主の御心に適った祈りは、必ず答えられる。しかし、
答えられる「時」がある。非常に長く感じられるかもしれない。
しかし主が「神の時」をすでに備えておられる。「神のなさるこ
とは、すべて時にかなって美しい」。

それはしばしば私たちの思いとは異なる。主の思いは、いつも高い。
その「時」は、一番美しく神の素晴らしさが現れる時だ。あなた
が祈り続けているその祈りは、一番ふさわしい時に答えられる。
主の御心にかなった祈りは、必ず答えられる。遅れているが、そ
の答えを通して、神の栄光が現わされる。失望しないで、信じて
その祈りを祈り続けよう。主はあなたを愛しておられる。

・・・・・・・・・・・・
すべての事柄に、「神の時」がある。前でも後ろでもなく、ピッ
タリの時だ。そして「神のなさることは、すべて時にかなって美
しい」。神の時に、実現するだけでなく、それは美しいと。感動
があると言われる。待ち望もう。


2024年05月17日(金)

「今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなた がたが悲しんで悔い改めたからです。」Uコリント 7:9


「悲しんだ」からでなく、「悲しんで悔い改めた」から喜んでいる
とある。悲しむ事と、悔い改める事とは別だ。悔い改めとは、心を
変える事だ。後悔ではなく、方向変換であり、神に立ち返る事だ。
そして後悔とは、罪自体を悲しむのではなく、罪の結果を悲しむ事
だ。罪の結果は、秩序の乱れ、破壊、悪い実を結び、周囲も巻き込
み苦しめ、悲しませる。その結果がまずかったことを悔やむ。

つまり、結果が悪くなければ、そのままだ。罪は結実があり、悪い
実を結んでしまう。それが、目に見えて人前に現れることが、体裁
悪く、恥ずかしい。結果がまずかっただけで、罪を悔いているわけ
ではない。つまりは悪いとは思っていない。だから「世の悲しみ
は、死をもたらす」と言う。

「神は、いのちに至る悔い改めを・・お与えになった・・」とあり、い
のちに至る悔い改めは、神から与えられるものだ。それは御霊の働
きだ。罪を悔い改める事ができるのは、神の愛、主の十字架の救い
と赦しがあるからこそだ。放蕩息子は、財産をもらい受け、父のも
とを離れ、したい放題、好き勝手をし、最後には何もかも失った。

雇人にまで、愛深く接する父親を思い出し、自分の愚かさに気づい
た。「罪を犯しました。子と呼ばれる資格はありません。雇い人に
して下さい」との言葉を用意した。しかしそれを言う前に、父親が
走り寄り、息子を抱きしめた。無条件で受け入れられたその時に、
真の悔い改めが起きた。御霊は主の愛により、悔い改めに導いて下
さる。
------------
子と呼ばれる資格はないと後悔ばかりしているのではなく、父親に
立ち返った息子のように、御父に向かおう。そこには赦しがある。
主に悔い改め平安を受け取ろう。


2024年05月16日(木)

「すると、イエスは言われた。『それを、ここに持って来なさ い。』」マタイ14:18



私たちは、諦め思考、マイナス思考が無いだろうか。ネガティブな
面ばかりを見てしまう。「こんなに大勢の未信者の中で、私が少し
ぐらい証ししても、何になろう。何もならない」「こんな微々たる
献金、焼け石に水だ。何の足しにもならない」「こんなに大きな問
題に、私が、祈ったところで何になろう。

こんな微力の祈りが聞かれるわけがない」「どうせ、私一人など何
の役にも立たない」・・ふっと心に湧いて、入り込んで来ないだろう
か。サタンのささやきだ。「無駄だ」「そんな微小が何になる」
「意味がない」と失望感、無力感を持って攻撃が来る。

少年の5つのパンと2匹の魚、幼稚園のお弁当ぐらいの微々たるも
のだが、こんなもの何になる、何にもなりはしないと、はなから否
定して、主のもとへ携えなければ・・少年は用いられるという、彼の
人生における量り知れない喜びを経験できなかった。又、皆もこの
素晴らしい奇跡を見る事は出来なかった。

主は、全能の力を持っておられる。主にできない事は一つもない。
「パンが5つと・・ほかありません」「それをここに持って来なさ
い」。その微々たるものを、自分に何が出来ようと思う、あなた
自身を、主のもとへ持って来るようにと。主は大いに祝福される。
献げられたものを用いて、奇跡をされる。

どんなに僅かであろうと、小さかろうと、問題無い。主は祝福さ
れ、周りの人々は十分満ち足りて、満腹する。周囲の祝福の器とさ
れる。微々たるものを用いられる。おくせず主のもとに携えよう。
--------------
いつも、こんなものが何になろうと自分を見てしまうが、主のお心
はどうだろう。主を信じよう。落胆したままで終わってしまわず、
主に持って行き、新しい祝福を受け取りたい。


2024年05月15日(水)

「ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。 彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。」使徒14:8



ルステラに、生まれつき足なえの男性がいた。生まれて一度も歩い
た事がなかった。パウロが御言葉を語っていた時に、その人が丁度
そこに座っていて、じっと聞いていた。彼は生まれつき歩けず、自
分の足に関して、何もどうする事もできなかった。どうやっても歩
く事は不可能だ。完全無力の状態だった。

自分で何もする事ができない。だからこそ、「自分の足で、まっす
ぐに立ちなさい」とのパウロの言葉にすがる事ができた。もし自分
に力があれば、さっさと何でも自分でしていたであろう。彼にはこ
の言葉しかなかった。すべての望みを託して信じて賭けた。この言
葉がすべてだった。自分が完全に無力だからこそ、そうできた。

その信仰に、主の力が働き、奇跡が起きた。かつて、ただの一度も
歩いた事のない彼が、飛び上がり、歩き出した。私たちも自らの徹
底無力を知る時こそが、信じる時だ。何の方策も無く、何もどうに
も出来ない。信じるしか道がない。その時に初めて信仰が働く。信
仰を働かせる事ができる。自分の力、方法に頼り、自分に頼ってい
る限り、主への信仰は無い。

信仰半分、自分の力半分というのは有り得ない。幾ら御言葉があっ
ても、肉は必ず自分の力、方法でやって行く。そこに信仰の入る余
地はない。信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を明け渡して行く
事だ。それゆえ、自らの無力を知る事が、大きな祝福であり、幸い
だ。無力に落ち込む事など全く無い。むしろ恵みだ。
------------
自分の無知、無力を知らされる時は、最も苦しくどん底の時だ。
何もないから主のひかりを求めていける。主を信じて立っていこ
う。幾度も経験する取り扱いを恵みと受け止めたい。


2024年05月14日(火)

「この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分の したいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によ って導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」 ガラテヤ5:17


私たちの前に、いつも二つの道がある。一つは、生まれながらの古
い性質で、この世の価値観の中で生きる肉であり、悪魔がその肉に
働き、強く引っ張る。自我を主張する道だ。もう一つは、新しい性
質で、新生した時に与えられた性質だ。御霊が引っ張り、それは自
我に死ぬ道だ。どちらも私たちを引っ張る。

いつも目の前に二つの道があり、自分が選択した方が自分の行為と
なる。その結果が後ろについて来る。周囲に害を流すか、又、神の
栄光を現わすか、どちらかになって結実する。ある人が途中入社し
た時に、配置替えがあり、自分の部署にいた人が、隣の部署になっ
た。その人は、ひどく不満で不快感をあらわにした。失礼な態度に
も、きちんと接していた。

ある時、目に余る言葉と態度に傷つき、腹立ちで一瞬、言い返そう
と思った。しかし瞬間、「これは自我!」との思いが来て「神
様!」と助けを叫んだ。その瞬間、出た言葉が「ごめんなさいね。
私が来たばかりに、配置が替わって」と。すると相手はさっと表情
が変わり、驚いて「いえいえ、あなたのせいじゃないわ」と言い、
それ以後、相手の態度が一変し、和やかな関係になった。

彼女は一瞬、主を仰いだ。「主を選べないから助けて!」と。悪魔
は狡猾で、肉の欲に絶えず誘惑して来る。「一言言い返せば、すっ
きりする」しかしそれは肉だ。一瞬快感はあるが、後悔が来て平安
を失う。瞬間々、自我か主かの選択だ。瞬間、主を呼ぼう。その信
仰に応えて、助けて下さる。
------------
いかに素早く反撃できるか、肉の要求はいつもそう働きかけてく
る。そういうところから救い出されたことが感謝だ。御霊の導きに
従おう。自分の内にはない主の平安と喜びに満たされる。


2024年05月13日(月)

「侍従で・・神の人に答えて言った。『たとい、主が天に窓を作られ るにしても、そんなことがあるだろうか。』」U列王7:2


当時、非常に深刻な飢饉で、人々は餓死していた。食べ物が全く無
い中、エリシャが「明日、小麦や大麦が溢れるばかりにある」と言
うと、それを聞いた侍従は、「主が天に窓を作られたとしても、そ
んな事があるだろうか。」と言った。主にも不可能で、有り得ない
と。するとエリシャが「あなたはそれを見るが、食べられない」と
預言した。

そんな時、サマリヤの門に4人のらい病人がいた。町はひどい飢饉
でどうせ死ぬ、それなら殺されるかもしれないが、敵の陣営へ入ろ
うと。もしや食糧があるかも知れない。それでアラム陣営へ行く
と、主がアラムに大軍勢の騒ぎを聞かせられた。彼らは急襲だと思
い、驚き恐れ、陣営を置き去りにし、一目散に逃げ出した。

そこに入ると、山ほどの金銀、食糧があった。一歩踏み出した時
に、驚くべき祝福を得た。彼らは王家に知らせたが、王は信じなか
った。が、偵察の者により事実を知った。主の言葉は見事に実現し
たのだ。すると大勢の人々が我先にと殺到し、その侍従は門で、群
衆に踏みつけられ死んだ。

実際、主は、溢れるばかりの食糧を用意された。しかしそれを信じ
なければ、受け取れず、自分のものにならない。溢れる食糧がある
にかかわらず、餓死する事になる。私たちも同様だ。十字架の救
い、神の愛、恵み、罪の赦し、義とされる事・・、溢れる恵みの食糧
の中にいる。

しかし信じなければ、餓死してしまうように、溢れる恵みの中で、
不信仰でいないだろうか。それなら自分のものにならない。莫大な
食糧が目の前に置かれている。信じて、有難く受け取ろう。大きな
溢れる恵みにあずかろう。
------------
溢れるばかりの恵みは既に備えられているのに、恵みをください
と求め祈っているのかも知れない。踏み出して受け取りに行きた
い。信仰を持って従おう。


2024年05月12日(日)

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえ を口ずさむ。」詩篇1:2



幸いな人は、水路のそばに植えられた木のようだ。その木は、みず
みずしく葉が茂り、決して枯れない。そこで豊かな実を結ぶ。木は
動き回るわけでなく、何かを頑張るわけではなく、そこに立ってい
る。しかし、葉は青々と生い茂り、豊かな実がなる。それは、絶え
ず水路から、水分が流れ来るからだ。

結実は、水路からの豊かな水分による。木は自分で環境を変える事
が出来ない。その場で実を結ぶ。私たちも同様だ。実がなるのは、
自分で頑張るのでなく、ただ、主にとどまり続ける事によってだ。
実とは、「愛、喜び、平安、親切、善意、誠実、柔和」だ。同様に、
水路のそばに植えられた私たちは、このような実を結んで行く。

日々の生活で、イライラピリピリしたり、不満だらけで、腹が立っ
たり、人をさばいたり、平安が失せる時があるだろうか。又、こ
の事、先のあの事と、思い煩いと心配でいっぱいになるだろうか。
そんな時は、水路から豊かな水分を受けることが必要だ。今、主と
の交わりが薄れているだろうか。時間を取って、主と交わろう。

主との交わりから、豊かな水分を溢れ受けて、心が新たにされる。
不満、イラ立ちは感謝に変えられ、思い煩いは、主への信頼により
平安にされる。「時が来ると実がなり、その実は枯れない」と。私
たちは、必ず遣わされた場で、実を結ぶ。その場がどうであろうと、
忍耐により、主が、枯れる事のない実を結ばせて下さる。

・・・・・・・・・・・・
木が、生き生きしているのは、水路による。絶えず水があるので
枯れない。主と交わる時間を取ることが大切だ。思いを告げつつ、
ふっと御言葉が来たり、こうすれば良いと御霊の志が与えられた
り。慌ただしい中、少しでも時間を取ろう。生き返る。


2024年05月11日(土)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔 が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めな がら、歩き回っています。」Tペテロ5:8



悪魔は飢えたライオンのように、襲いかかるものを探しながら歩
き回っている。獲物を見つけるや、飛びかかろうとしている。悪
魔は行き当たりばったりではない。必ず綿密な策略を用いる。特
に身体的、精神的疲労状態にある時に、要注意だ。アマレクは、
イスラエルが疲れて弱っている時に襲い、また後ろの落伍者を皆、
切り倒した。

悪魔は、あなたが疲れ切って、弱っている時を狙っている。悪魔
の攻撃にさらされている事を覚えていよう。疲れている時は、周
囲にも、霊の敵に対しても、無防備状態になってしまうからだ。
エサウは野での猟から戻り「飢え疲れている」時に、長子の権と
豆を交換した。飢えと疲れでヘトヘトで、長子の権などどうでも
良いと思えたのだ。

私たちは疲労が重なると、判断力を失い、重大な事がうまく判断
できなくなってしまう。主の言葉や約束が飛んでしまう。疲れた
時に経験するだろうか。エリヤはバアルとの熾烈な戦いで、心身
消耗し切り、極度の疲労状態だった。その上に、イゼベルの預言
者殺害命令を聞いた時に、許容量オーバーで耐えきれず、死を願
った。

疲れて、弱る時、気力が萎えてしまう。バアルと勇敢に激しい闘
いをし、大勝利したあのエリヤでさえだ。人は皆、非常に弱い。
疲れて弱る時に、攻撃が来る事を覚え、主を見上げていよう。振
り返る時、思い当たるだろうか。拠り頼んでいよう。主に身を避
ける者の盾、私の回りを囲む盾となって守って下さる。

・・・・・・・・・・・
天に帰るまで、日々霊の戦いであることを、わきまえていよう。
相手は食い尽くそうと狙う悪魔であり、心身弱っている時に襲い
かかる。とにかくネガティブな思いを持って来る。疲れている時
は、主に拠りすがりつこう。御腕の中にしっかり守って下さる。


2024年05月10日(金)

「するとイエスは言われた。『ああ、愚かな人たち。預言者たちの 言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。』」ルカ24:25



エマオ途上の弟子達は、主が十字架上で死んでしまい、不信仰と失
望に飲み込まれてしまっていた。絶望状態だ。そのため、かたわら
を歩き、話しかけて下さっている方が、主だとわからなかった。
主を信じない時、また、失望落胆の中にある時、主が見えなくな
る。すぐそばを歩かれる、その主が見えない。

逆に言えば、私たちがどんなに主が見えない時も、感じない時も、
すぐそばにおられるという事だ。仮に、自分が主を見えず、聞こえ
ず、感じずとも、共に歩んで下さっているという事実、これは何と
いう慰めであり、嬉しい事だろう。主が近く感じられる時には共に
おられ、感覚が無い時には、おられないのではない。

又、不信仰は、主を見えなくする。主が彼らに言われた。「愚かな
人たち・・信じない、心の鈍い人たち」又、別の箇所では11人の弟子
たちに「彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった」、主は不
信仰は、はっきりと責められる。それは間違っていると。「信じな
い者にならないで、信じる者になりなさい」と。

あなたも今、失望の中で、不信仰に陥っているだろうか。自分の思
い通りでないからだろうか。しかし、信じようとしない、頑なな、
自分の心はどうだろう。自らの不信仰と認めて、御前に悔い改めよ
う。「信じる者になりなさい」と信仰を与えて下さる。祈ろう。苦
況の中で、主を仰ぎ、信じて行く時、主の栄光を拝することにな
る。主の素晴らしさを見せられて行く。
------------
怖れや失望に出会うと、すぐに光が見えなくなる弱く不信仰な者
だ。でも主を見ないでおろおろしている傍にも主はおられる。信じ
る者になろう。


2024年05月09日(木)

「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、 かえって乏しくなる者がある。」箴言11:24



ある人の証しだ。主に在る兄弟が、経済的苦境にある事を知り、重
荷が与えられた。祈りを続けていた中、その日、礼拝メッセージを
通して、御霊の強い導きを感じた。用意していた礼拝献金と別にそ
の兄弟への指定献金として、財布の中身を全額献げた。心が平安で
満ちた。

するとその帰り、用事を済ませに回る中で、何と不注意で財布を落
としてしまったのだ。その時、御霊の導きに従えた事に心から感謝
した。もし献げなかったなら、財布を紛失して、それで終わりだっ
た。御霊の導きに従う事の祝福を強く教えられた。ある人は、御霊
の示しにかかわらず、どうしても十一献金ができず、ぐずぐずして
いた。すると、なぜか病院通いが続き、想定外の出費が次々かさん
だ。

日頃、健康がどんなに守られ、生活の必要が満たされているかに改
めて思いが至った。恵みに感謝がなく、当り前としか思っていない
態度を心から悔い改めた。感謝と喜びをもって献げる者と変えられ
た。ある人は集会で恵まれて、喜びが満ちて、主への感謝を表した
くて、財布を開いて、ひっくり返してパンと全部献げた。更に心が
満ちた。

帰りの電車賃も献げてしまったので、歩いて帰ろうと思っていた。
すると集会後の交わりで、ある家族と同じ方向だとわかり、何と、
帰宅途上だから家まで送ってくれると言う。主が働かれた。また、
その祝福が嬉しかった。御霊に従う事の祝福に浴した。
------------
献げたあと満ち足りた喜びをいつも経験する。主からのものだ。献
げるものも主が与えてくださり、決して乏しさを覚える事がない。
もっと良いものを主から受けるためにも、祈り、献げていきたい。


2024年05月08日(水)

「・・曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くた めです」ピリピ2:15


私たちのほとんどは、無名で、有名人ではないし、普通の人々だ。
しかし、毎日の繰り返しの中で、単調な日々の、毎日の同じ仕事の
中で、信仰を実践して行く事ができる。会社員は、毎日同じ時刻
に、同じ電車に乗り、同じ道を歩き、同じ時刻に出社し、同じデス
クで仕事をする。主婦は、毎日々食事を作り、掃除、洗濯をし、洗
濯物をたたみ、買い物をし、家事を切り盛りする。

同じ事の繰り返しで、時に、うみ疲れてしまう。平凡な毎日かもし
れない。しかし、いのちの御言葉をしっかり握って、日々キリスト
と共に生きて行くなら、同じことの繰り返しの日々の中で、キリス
トの栄光を現わして行ける。キリストの発想や、態度、考え方、行
ないが生活の中に現われ、それは周囲に影響を与えて行く。主の恵
みをもたらして行く。

置かれている場所がどんなに小さくても、目立たない場所でも問題
ない。仕事がどんな種類であれ、それも問題ない。今いる場所で、
御言葉に忠実に従って行くなら、主が、必ずあなたを輝かせられ
る。周囲に、御霊の喜びを伝染させて行く。又、その場がどんなに
暗くても、構わない。光は暗ければ暗いほど、明るく輝く。

御言葉に従おう。態度、行動、判断が御言葉によってなされる時、
周囲に証しとされて行く。「やみが地をおおい、暗やみが諸国の民
をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があ
なたの上に現われる。」今、示されている事があれば、従おう。実
行しよう。
------------
昨日と同じ今日は何と感謝だろう。主に愛され祝福されている恵み
は昨日も今日も十分に注がれている。不幸ばかりに目を取られず、
感謝して御言葉を生きよう。主の恵みを輝かす者になろう。


2024年05月07日(火)

「イザヤは・・『イスラエルの神、主は、こう仰せられます。あな たがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、 わたしは聞いた。』」イザヤ37:21



ヒゼキヤ王の時代に、アッシリヤ王セナケリブがユダの町々を攻め
取った。セナケリブ王はラブシャケを送り、ヒゼキヤ王や民に脅し
をかける。大軍を伴い、強力な軍隊を誇示し、挑んで来る。ヒゼキ
ヤ王は、主が救い出すというが、ヒゼキヤの言う事に「だまされる
な、信じるな」と、信仰を揺るがして来る。

これを聞いたヒゼキヤ王は衣を裂き、荒布をまとって主の宮へ行
き、この大きな脅威に対する祈りを献げ、イザヤにも祈りを要請し
た。私たちも同様だ。サタンは、大きな脅威をもって、私たちに挑
み、攻撃をしかけて来る。経済的苦境や、信仰の迫害、様々な苦
難、試練が臨む。

圧倒的な勢力を持つサタンの支配するこの世を前に、小さな自分た
ちの無力を見せつけられる。祈っても無駄だ、神を信じて何にな
る、解決など無い、しょせん無力だ・・。神を信じて立たないよう
に、この世に屈し、妥協して生きるように誘惑する。そうすれば楽
に生きれるし、世の栄華、成功も手にできる。

このような時は祈りが大きな力であり、武器であり、対抗手段だ。
ヒゼキヤ王もイザヤも祈った。その時、主は奇跡をなされ、主の使
いを遣わし、戦わせた。その結果、アッシリヤは立ち去った。世に
妥協させようとする、楽な道を選ばせようとする、耳元に来るサタ
ンの誘惑に気づけるように。祈りによって、立ち向かおう。
------------
問題が起こるとすぐに頭で解決策をめぐらしてしまう。「わたしは
聞いた」と言われる主に祈らせないのが悪魔の策略ではないか。主
に解決を祈り求めよう。主の導きを待とう。


2024年05月06日(月)

「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、 キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びませ ん。サタンさえ光の御使いに変装するのです。」Uコリント11:13


悪魔は偽りの父であり、黒を白、白を黒と平然と嘘を言うので、
何でも有りだ。悪意を持って、人をだます。邪悪な嘘つきだ。そこ
には真理がなく、真っ暗闇だ。絶えず偽りに誘惑し、攻撃して来
る。間違った動機を正当に、良い動機を間違ったものにと混乱させ
る。悪魔の誘惑は自分の欲望にピッタリと沿うので、肉の願望と合
致しているので、なかなか気づかず、見分けられない。

又、100%嘘ならすぐにバレてしまうので、真理の中に、巧く嘘を
混ぜて来る。真理もあるので、だまされてしまう。悪魔は偽使徒、
偽働き人、偽クリスチャン、神に変装すると。エバがエデンで、誘
惑を受けた時、会話に乗せられ、見事に引っかかってしまった。
「あなたがたは決して死にません」との、主の言葉と正反対の大嘘
も、もはや見抜けなかった。巧妙な誘惑だ。

又、自分の肉の思い、自分の偏見が底にある時、ものの見方も歪ん
でいるのだが、正しいとしか見えない。悪魔はそこにも働いてく
る。つまり、心に偏見がある時は、自分は正しく見ていると思って
いるが、視点が歪んでいる。だが、自分は正しいとしか思えないと
ころがやっかいだ。

悪魔は、嘘を真理に見せかける。悪魔のこういう巧妙な誘惑と攻撃
をよく踏まえて、自分は間違う者だと認識し、自分に頼らず、常に
主に拠り頼み、御霊の判断を仰ごう。御霊の助けにより間違いも気
づかせられ、守られ、主のお心へと正しく導かれる。
------------
騙そうとして近づいてくるサタンに簡単に騙されてしまう。間違い
やすく偏見で見ている事にも気づかない者だ。いつも祈っていた
い。いつも主の聖さ、正しさ、愛に触れ、主の真実な光を知ってい
たい。


2024年05月05日(日)

「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者と するのです。神のみことばは私たちのうちにありません」Tヨハ ネ1:10



時に、こういう事があるだろうか。心に妬みや憎しみがあるのだ
が、それは決して外に出さず、相手にも向けないで、心の内で我
慢し抑え込む。外に出さないのだから、自分は良い人ではないか。
これは信仰者にもあるだろうか。様々な罪の思いを内に抑え込む。
出さないので、対人関係のトラブルは無い。そのため周囲の皆に
良い人だと言われる。しかし内側、煩悶状態だ。

しかし長年良い人だと言われ続けると、自分が自分に欺かれ、自
分は良い人だと勘違いしてしまう。御霊は、そうではない、良い
人ではないと、示され続けるが、自分で良い人間と信じ込むので、
何を言ってるのかわからない。これは信仰が機能しなくなってし
まう。別の場合は、信仰者が罪の思いを持ってはならないと、思
いを抑え込んでしまう。

抑え込むが、もぐら叩きでこっちから、あっちから幾らでも出て
来る。尚もそれを無理に抑え込んでいると、いつか爆発する。信
仰とはそうではない。自力で悪い思いを抑え込むのでなく、思っ
ていない振りでごまかすのでなく、又、弁解や言い訳に終始し、
絶えず自己正当化するのではなく、それが自分の思いである事を、
あるがまま認め、告白し、そのつど主に渡して行こう。

それをずっと繰り返し続けて行く時、常にありのままでおれて、
且つ。主が変えて行って下さる。「あくまでもそれを続けなさい」
続けて行こう。自力でなく御霊によって、変えられて
行く自分を、必ず見い出す。

・・・・・・・・・・
自分でどうこうせず、まずありのままの負の思いを主に告げよう。
自分に欺かれる事から守られる。又、自分には出来ない事も、そ
のまま告げよう。その時に、主が成し遂げて下さることを、一つ
一つと身をもって経験して行く。


2024年05月04日(土)

「今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心 にはおおいがかかっているのです。しかし、人が主に向くなら、 そのおおいは取り除かれるのです。」Uコリント3:15



ある人が証しした。主イエスを信じ、救われたのだが、救われる
や「ねばならない」の律法に囚われてしまった。正しい事をしな
ければならないと、頑張って、頑張って律法を行なった。自分の
力と努力で、信仰生活を送っているので、喜びなどほど遠く、疲
れるばかりだ。しかしこれは良い事、正しい事とばかり、更に自
分の力で突き進んで行く。

しかしそうしていると、自分は頑張っていて、そしてそれは辛い
事なので、頑張っていない人を見ると、腹が立って裁いて行く。
心の内では、人を裁きまくり、喜びも平安も無い。先輩クリスチ
ャンと話すと、それは律法主義で、主の愛によるものでない、聖
書の信仰ではないと言われた。

しかし主の愛が、恵みがわからない。頭では、行ないでなく恵み
による救いが理解できて、理屈ではわかるのだが、恵みと言って
も、行なわなければ、としか思えない。その時は、主の愛や恵み
が頭の知識でしかなく、実際には律法だけで、辛いばかりだった。
とうとう疲れ果て、行き詰まってしまい、ギブアップ状態になっ
た。
その時に、「わたしの恵みはあなたに十分である」の言葉が光の
ように臨んで来た。恵みは、あなたに十分注がれているのだよと、
主が語って下さった。そして、主の力は、私の「弱さのうちに現
れる」のだと。弱くて良い、弱いままで良いのだとわかった瞬間、
力が抜けて、解放され、平安に包まれた。

自分の知識でなく、御霊がわからせて下さった瞬間だった。「主
の御霊のあるところには自由があります」の通りだった。自由な
喜びを下さった。

・・・・・・・・
肉で行なうと、義務で喜び無く、油の切れた状態で、重いばかり
だ。又、成し遂げても、自分を誇り自分の栄光にし、高ぶってし
まう。主に頼る時、御霊に導かれ、生き生きし、軽くて喜びがあ
る。御霊に導かれることを祈って行こう。


2024年05月03日(金)

「かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はも うそのような知り方はしません」Uコリント5:16


信仰生活を送る中で、何だか心が辛くなり、苦しくなる時は、「人
間的な標準」で、自分や状況、周囲の人々を見ているだろうか。パ
ウロは、以前は、主キリストを人間的な標準で見ていたと証しして
いる。王の王、主の主である人類の救い主が、華麗で豪華な王宮で
なく、宿屋の部屋もなく、家畜小屋で生まれる事に、まずつまづく
かも知れない。

貧しい大工であるヨセフの息子で、財産も無く、地位も名誉も何も
無い、何の見栄えもない。最期は最も惨めで、悲惨、残虐、辱め
の、極悪人がかかる十字架上での死で、とても受け入れられない。
しかしその「人間的な標準」のメガネをはずした時に、主を知って
いることの素晴らしさのゆえに、いっさいの事を損と思うようにな
り、すべてのものを捨てて、ちりあくたと思うようになった。

「人間的な標準」でなく「キリストの標準」で、人を、状況を見て
行く時、どんな人にも、どんな状況にも、主の恵みが見えて行く。
主の光の内に、光を見て行く。主の内に自分を見る。自分で、自分
を見るなら受け入れられないが、主に受け入れられ、愛されている
自分を見て、その自分を受け入れて行く。

だれでもキリストの内にあるなら、新しく造られた者だ。古いもの
は過ぎ去った。今、問題があるなら「人間的な標準」で、この世の
価値観で、肉のメガネで、目の前のものを見ていないだろうか。
主の視点のメガネにかけ変えよう。同じ事が、全く違って見えて来
る。様々な負の事態が起きるが、すべてが祝福に結果して行く。
------------
日々、環境の影響を様々にうける者だが、主の力によって生かされ
ている。この立場に立ち信仰の目で判断していきたい。光なる主の
元には希望だけがある。


2024年05月02日(木)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い 煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないか を見て、私をとこしえの道に導いてください。」詩篇139:23



信仰生活の中で、よく経験するのが、状況を変えよう、人を、相手
を変えようとしてしまう事だ。何とか変えよう、何としてでも変え
ようと、不毛の戦いをしてしまう。そして力尽きてしまう。思うよ
うにならず、不満でいっぱいで、ストレスだらけの辛いだけの日々
になってしまう。経験あるだろうか。そして何も全く変わらない現
実を見る。状況は、主の御心なら変えられ、御心でなければ変わら
ない。

しかし自分自身は変える事ができる。ある人の子どもが不登校にな
り、最初は叱ったり、なだめすかしをしていたが、何も変わらなか
った。又、励まして、ちょっと背中を押してみたりもするが、押し
ても引いても、何をしてもだめだった。自分としても、出来るだけ
の事はしようと、担任と意思疎通を図り、役員の手助けもし、お母
さん方とも交流を持った。

数ケ月を経て、自分自身も時間と労力を使い、クタクタだが、しか
し状況は全く何も変わらなかった。空回りするばかりで、やがて心
身共に疲れ果ててしまった。もう疲へいし切り、主のもとへ行き、
何もかも洗いざらいを告げて祈った。主の御前に静まっていたその
時、心の奥底に、育児ができていないと見られるとの人の目、体
面、又、自分はこうしたい、自分はこうでなければとの強い思い、
頑強な自我を示された。

子どもの事ではなく、自分の事ではないか。涙ながらに悔い改め
た。そして主に自分も、子どもも明け渡した。その時に、心に平安
が満ちて、思い煩いが消えた。学校に行かなくても良いと思えた
中、子どもが登校し出した。
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苦しい中で主に祈っていると御霊に導かれ不思議に思いが正しい所
に治まる経験をする。主に出会うとき自分自身が変えられる。問題
は変わらなくても平安がくる。主に聞き、導きを受け取ろう。


2024年05月01日(水)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、 ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、 歩き回っています。」Tペテロ5:8



信仰生活の中で、誰しも悪魔の執ような誘惑、攻撃に会った経験が
あるだろう。その誘惑を自分で何とかしようと、戦えば戦うほど、
がんじがらめになり、更に深みにはまって、身動き取れなくなって
しまう。自分の思いを無くそうと、消そうとすればするほど、誘惑
がますます強力になる。モンスターになって行く。

それは、自分で誘惑と戦って行くと、逆にその誘惑に、思いを集中
する事になってしまうのだ。思いに丸ごと捕らわれてしまい、どん
どん消耗し力尽きる。「思ってはいけない、いけない。してはいけ
ない、だめだ、だめだ」と必死になるのでなく、思いの向きを変え
てしまうのだ。さっさと用事をするとか、家事を始めてしまうと
か、行動する事も有効だ。悪魔は、もう無駄だと思うと離れる。

又、必要も無いのに、あえて誘惑の場に近づく事は、誘惑に自分か
ら乗って行く事になる。そのため、はなから避けて、誘惑には近づ
かない事だ。具体的行動が必要だ。テレビや本が誘惑になるなら、
消して、閉じる。そこから離れる。ある店が誘惑になるなら、例え
ば身体のために酒店、スイーツ店なら、店に行かない、近づかな
い。

誘惑になるもののそばを離れる。何よりも大事な事は、積極的に御
言葉や賛美、祈りで心を満たすことだ。空いた心には、必ずサタン
が来る。心を霊のもので、いつも満たしておく時に、悪魔の攻撃か
ら守られる。
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心配事も祈る前に考え込んでしまうと、次々にネガティブな思考
になり、起こりもしない事に時間を取られてしまう。よく経験す
る。祈り、立ち上がろう。悪魔の攻撃から立ち去ることが必要だ。