2024年07月31日(水)

「イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の 薄い人だな。なぜ疑うのか』」マタイ14:31



有名なペテロの海上歩行だ。嵐の中でパニック状態の弟子たちのも
とへ、主が湖の上を歩いて来られた。その時、ペテロは、自分も主
のもとに行きたいと願った。「私に、水の上を歩いてここまで来
い、とお命じになってください」と。ペテロは、主の言葉さえあれ
ば、できると信じた。水の上をも歩けると。すると主は、「来なさ
い」と御声をかけて下さった。

主の言葉は100%成就する。御言葉があれば、すべては可能で、そ
の通りになる。ペテロは、歩ける事を信じたので、舟から出た。
そして水の上に足を置いて、一歩を踏み出した。ペテロの信仰だ。
するとペテロは水の上を歩けて、主の方へと、歩を進めた。その
時、風が吹いて、ふっと風に目をやると、突然恐怖が来た。

水の上を歩くなどと有り得ない・・。自分は何をしているのか。主か
ら目を離して、風を見た途端のことだった。ぶくぶくと沈みかけ、
恐れで叫んだ。「主よ。助けてください」。主は「すぐに」手を伸
ばして、ペテロをつかまれた。ペテロが水の上を歩いた時も、沈み
かけた時も、状況は全く同じだった。何も変わらない。

状況の問題ではなくて、違ったのは、ペテロが何を見ていたかだっ
た。主を見ていた時は歩けて、主から目を離すと沈みかけた。私た
ちは、ある時突如として、大きな試練にぶち当たる。何をどうして
よいのかわからない。理解もできない。なすすべも無い。余りに巨
大で飲み込まれそうだ。

しかしこの一点だけだ。主を見ているか、問題を見ているか。いつ
も学ぶが、「神視点」に立つ。そしてそれが信仰だと言われてい
る。そこに立つ時に、問題の見え方が変わって来る。水の上を歩い
て行ける。幾度も〃学ばせられる。
-------------
主に従っていても風は吹いてくる。突然のことに動揺しても、主が
おられると神視点に立ち戻ろう。問題の中に共におられる主を見る
なら心が守られる。波に飲み込まれず主を見よう。


2024年07月30日(火)

「 あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が 口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」 箴言27:5



人は誰しも、必ず欠点はあるのだが、他人から自分の欠点や、それ
に関する事を指摘されたら、どうだろう。ムッと来るだろうか。内
心カチンと来て、怒りがわく時などは、まさにその指摘が的を射て
いるからだろうか。当たっているので反応している。わかってい
て、触れられたくない所だ。自我にぶつかるので、不機嫌になった
り、又、相手に食ってかかったり、相手を攻撃する行動に出る。

まさに、認めたくない、固い部分がある。痛いけれど、逃げずに、
そこにしっかり目を留めよう。何度も同じ事が起きているはずだ。
主は、人を通して教え、警告して下さる。主からの警告だ。その指
摘が、自分の内側の何に触れるのか、心探ろう。御霊の光で探って
頂こう。プライド、体面、虚栄心・・だろうか。でなければ、サタン
に足場を与えてしまう。

自分の弱さをはっきりと認め、それを主の御前に置いているなら、
人から言われても、自分が認めているので動揺がない。ある人は、
親しい友人が間違いを指摘してくれた。その友人も、祈りに祈った
上の事で、御霊に示されたゆえだった。しかし激怒してしまった。
それは急所を突いていて、余りにも痛く、受け止め難く、けんかを
吹っかける形になって別れた。

怒りがおさまらなかったが、しかし時間と共に冷静になり、よくよ
く考えてみた。言われる通りだった。自分が間違っていた。心から
主に悔い改め、すぐに相手に電話し、詫びて、言いにくい事を言っ
てくれた、主に在る愛に心から感謝した。
--------------
真実だから痛いのだろうか。主の前に謙遜になり御霊の導きに従い
たい。薄々気づいている変わらなければならない部分なら認めて、
成長したい。大きな祝福を逃さないよう学ぼう。


2024年07月29日(月)

「ルツは言った・・『あなたの民は私の民、あなたの神は 私の神です』」ルツ1:16


ナオミは、ききんで移住したモアブで、夫と二人の息子も亡くな
り、帰郷を決めた。その時、息子の嫁のルツはナオミについて行く
決心をしていた。実家に帰る事を勧めるが、ルツの決心は変わらな
かった。「あなたの神は、私の神」と、ルツの信仰による事だっ
た。ナオミは、共に帰郷した後、ルツの将来の事を祈り、真剣に考
えた事だろう。

ルツから、ボアズの親切な対応を耳にし、ナオミはルツとボアズの
結婚を考え、祈った事だろう。ルツに「ボアズが寝た時に、足もと
をまくり、そこに寝るように」と指示した。ルツはその通りに従
い、買戻しを願った。ボアズは非常に驚いたが、ルツに好意を示
し、「あなたの望むことはみな、してあげましょう」と。

だが法律で、買い戻しの権利のある親戚がいて、差し置いてはでき
ないと、正式な手順を踏んだ。そのボアズの態度は、彼の言葉通り
「主は生きておられる」だった。どうなろうと、主の御心に従うと
いう事で、自分を委ねていた。ルツもナオミの指示に、「おっしゃ
ることはみないたします」と、全面的に、自分を明け渡している。

「姑命じたすべてのことをした」と。ナオミも、ルツのボアズへの
結婚の意志表示後、「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで
待っていなさい」と。結果を主に委ね、主の御心を待った。各自
が、自分の思いを通すのでなく、結果を主に委ねている。そして主
はその信仰を大いに祝福され、二人は結婚に導かれた。主を信じ、
身を委ねて従う者を、素晴らしく祝福して下さる。
--------------
先を知らず委ねるのは大きな不安を感じるが、主に委ねるなら一
歩、一歩と確実に次へと導かれていく。主の最善を信じる者を、主
は必ず祝福してくださる。信仰を持って主の備えを見張っていよ
う。


2024年07月28日(日)

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになり ますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みに まいりました」マタイ2:2



ユダヤ民族は、旧約の預言で教えられていて、自分たちの救い主
であるメシヤ到来を長い間、待っていた。切実に待ち望んでいたは
ずだ。東方の博士たちがエルサレムに着いて「ユダヤ人の王として
お生まれになった方はどこにおいでになりますか。」と問い、「その星
を見たので、拝みにまいりました」と言った。

それを聞いたヘロデは、ひどく戸惑い、恐れた。ヘロデが恐れ惑う
のは理解できる。新しい王が来たなら、自分の地位が危うくなる。地
位のためには、身内まで殺害して来たヘロデだ。ヘロデ王はわかる
が、「エルサレム中の人も王と同様であった」と、エルサレム中の一般
人も、恐れて惑った。

なぜユダヤの一般の人々が、救い主誕生を恐れ惑うのか。当時は
ローマ帝国が、大きな勢力を誇り、大帝国となり、ほとんど地中海一帯
を支配していた。ユダヤも、ローマ帝国に占領されていた中、一帯は、
それなりの平和が保たれていた。自分の生活も安全も、それなりに
保たれていた。そうであれば、それが乱される、余計な侵入者は脅威
であるし、嫌なのだ。拒否反応だ。

私たちも同様で、肉はそうかも知れない。何が正しくて、真理であるか
より、何が楽で、平穏に生きて行けるか、安楽な方へ〃と、流されてし
まう。楽に、安穏に生活して行きたい、心乱されたくないし、生活も乱さ
れたくない。関わらないで欲しい。今、楽な方を選ぼうとしているなら、
立ち止まろう。主を見上げ、主の御心が一番大切であることに立ち返
ろう。    

・・・・・・・・・・・・・・・・
人生が順境、安穏であって欲しい。生まれつきの性質は、家内安全、
無病息災を願う。しかし御言葉は生涯、試練はあると言っている。
試練により、砕かれ、練られ、成長成熟へと導かれる。それも必ず
乗り越えられる試練だ。受け止めて行けるよう祈ろう。


2024年07月27日(土)

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は 自分の羊をその名で呼んで連れ出します」ヨハネ10:3


この世からは、色々な声が聞こえ、それらは混線している。肉
からの自分の欲望の声、サタンの神から離す誘惑の声、テレ
ビラジオ、新聞雑誌の世の価値観の声、そしてその中に、何よ
りも最も大切な、主の御声がある。

主は羊飼いで、私たちは羊との、たとえがあるが、羊は目の前
の事しか見えない。方向音痴で、目の前の美味しい草をあさって
いる内に、すぐ迷子になる。自分が、どこにいるかわからない。私
たちも羊のごとく、迷いやすい者だ。目の前の美味しいものに、祈
りもせず、よく考えず、すぐ食いついてしまう。

そして、それは自らの欲望と合致しているので、なかなか気づけ
ない。自分が興味が無く、利得の無い話には惹かれないが、物
質的、精神的に、利得になる話は受け入れてしまう。美味しい話
に釣られてしまう。自分が中心で、自分の損得で判断するので、
道に迷い込んでしまう。そこでまず祈りがあり、神中心なら、主の
御心は?主の判断は?が基準になるので、霊的に守られる。

自分に心地良い、都合良い声だけを聞くなら、痛い、厳しい、い
さめる声は聞きたくない。拒んでしまう。主は甘い言葉で、釣られ
るのでなく、はっきりと語られる。「自分の十字架を負って、わた
しについて来ない者は、弟子になることはできない」。だが主の御
声を聞き分ける羊は、主について行く。主の羊は、主の御声が
わかる。どんなに痛くとも、愛の御声であるのでわかる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主からの罪の指摘や、弱さの照らし、矯正してくれる御声は、なか
なか素直に聞きにくい。弱さは認めたくないし、罪を認めるのは非
常に痛い。しかし愛の御声を受け取れるよう祈ろう。又、巧妙に主
から離そうと、今、悪魔が来ていないか、気づけるように。


2024年07月26日(金)

「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は 『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです」 マタイ5:37



日頃、信仰生活で、遊びや食事の誘い、残業の依頼、種々の頼まれ
事・・。様々な打診や依頼が来る。その時に、どうだろう。心の内
では、時間的、労力的、気持ち的に無理で、したくないのに、ずる
ずると引き受けてしまうだろうか。「ノー」が言えない。段々、心
が辛くなり、重荷になって来る。断れば良かったと後悔する。又、
断れない自分に、自己嫌悪で悶々となる。

はたまた、クリスチャンは、喜んでできない自分を責める。そうな
ると、相手を恨みに思い、怒りも湧いて来る。そして又、そんな自
分を責める。なぜ「ノー」が言えないのだろう。相手が嫌な思いを
すると、思ってしまう。又、相手に嫌われたくない。恐れがある。
波風も立てたくない。又、断るのは、愛が無いのではと思ったり。

しかし嫌々、義務からであれば、そこに愛はない。ある人が、入社
先で毎日のように飲み会に誘われた。夜遅くなり、体調にも影響
し、又、自分は飲酒せず、全く楽しくなく、嫌でたまらなかった。
彼らは飲酒好きで、飲む事が目的だった。段々苦痛になり、しかし
付き合いもあり、どうすればよいのか。主のもとに、祈りに持って
行った。様々な思いを吐き出して祈った。

すると「ノー」を、きちんと言うようにと、示された。主の示しに
従い、翌日は断った。するとスムーズに受け入れてもらえ、特に、
どうという事もなかった。もっと早く断れば良かった。休息もで
き、体調も良くなり、何より夜の時間を有意義に使えて、大変祝福
とされた。まず主に祈り、示しに従おう。
--------------
ノーを言うより人の期待に応える方がいいと思ってしまうが、納得
できていない「イエス」は辛い。軽々しく答えないよう、主に助け
を求めたい。主に心を向け、御霊に従おう。


2024年07月25日(木)

「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、 あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの 所に帰らせる」エレミヤ29:10



エレミヤの時代、イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、アッシリヤ
は、バビロンに倒された。バビロンはどんどん侵攻し、国々を滅ぼ
し、とうとうユダの民も、バビロンに捕囚の身となった。当時のユ
ダは神から離れ、偶像礼拝に陥り、堕落していた。預言者たちは人
受けのする、耳ざわりの良い言葉だけを語り、平安が無いのに「平
安、平安」と言っていた。

しかし神の人であるエレミヤは、主に従い、混ぜ物をせず、真っ直
ぐに神の言葉を語った。そのために迫害を受け、苦しめられた。そ
して敵であるバビロンに捕らわれの身となる、真っ暗な状況の中
で、エレミヤは神の言葉を語り続けた。今は、「災い」としか見え
ないが、この事は「平安と将来と希望」のためのものだと。必ず平
安へと導かれると。

すぐに解放にはならないので、その地に住みつき、腰を据えて生活
せよと、そして、その町の繁栄を祈れと。それは自分たちの繁栄に
なるからと。私たちも苦しみの時は、一番欲しい言葉は「即、問題
解決」「即、悩みからの解放」だ。しかし口先だけの励ましは、更
に傷を深くする。

思い通りではない現実を受け入れる時、その中で主からの支え、励
ましにより生きて行ける。現実を受け入れる事が大切だ。いつまで
もそのままではなく、「70年の満ちる頃・・あなたがたを帰らせ
る」。現状の中で主に従って行こう。そこには「平安」が約束され
ている。そして御心の時に、主が解放して下さる。
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現実を直視し、その中で主のご計画を信じ、地に足をつけて暮らし
ていたい。明日の事はわからなくても主がご存じだ。全てを委ね
て、時が満ちるのを待とう。


2024年07月24日(水)

「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、 押し流されないようにしなければなりません」へブル2:1



罪に関して、私たちはストレートな罪はわかりやすい。偶像礼拝、
泥酔、姦淫、憎しみ、妬み、偽り等はすぐにわかる。だが一見罪で
はなく、むしろ良いものが要注意だ。気をつけなければ、その良い
もので、主との間が隔てられてしまう。食物は大切で、身体を健康
に保ち、楽しみを与えてくれる。しかし過ぎると暴飲暴食となり、
健康を害し、逆に身体を壊す。

他のものも同様だ。仕事、音楽、スポーツ・・は良い事であり、趣味
や余暇を楽しむ事は良い事で、決して罪でない。主は、楽しみを与
えて下さっている。しかしそれが過ぎると要注意だ。趣味は、生活
に活力と喜びを与えてくれるが、のめり込み過ぎ、逆にそれに支配
されてしまう。熱中の余り、主のための時間が失せるなら、本末転
倒だ。

点検ができる。それをする事が、更に主に近づく事になるだろう
か、それとも霊的食欲が減退して行くだろうか。それなら問題だ。
人は、ある日突然主から離れるのではない。少しづつ〃流される。
そしてそれに気づかない。いつしか霊的食欲が全く失せ、他のもの
で心がいっぱいになっている。

悪魔が様々なものをもって誘惑して来る。罪ではない、良いもので
誘惑して来る事を踏まえていよう。知らず知らずの内に、他のもの
で心が占められていて、主の余地が無いだろうか。食欲減退気味だ
ろうか。ふと気づくなら、すぐ主のもとへ行こう。 
--------------
目に見えない霊的な部分は少しずつ失われていく。もし流されてい
るものがあるなら気づきたい。霊的なものに触れる機会が失われて
いるなら、すぐに主に祈り、立ち返ろう。


2024年07月23日(火)

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、 信頼すれば、あなたがたは力を得る。」イザヤ書30:15


アッシリヤが強大になり、北王国を滅ぼした後、ヒゼキヤ王のユダ
王国にまで攻めて来た。エルサレム包囲となってしまう危急の事態
だ。するとユダ王国は、肉の「はかりごとを巡らし」、エジプトに
助けを求めた。まず主を仰ぎ、主に祈り、主に助けを求めるのでな
く、目に見える所で、人間的思いと知恵で動き、エジプトと同盟を
結ぼうとする。

しかし「わたしの霊にはよらず」とあり、主を無視したはかりごと
であり、それは「罪に罪を増し加えるばかり」だと。そしてその行
為は「反逆」であり、「わたしの言うことをないがしろにし、主の
教えを聞こうとしない」と。私たちもどうだろう。突然アッシリヤ
の強大な力に襲われるかも知れない。それは突如の経済的苦境、仕
事の手痛い失敗、難しい対人関係の悩み、進路の困難だろうか。

その際、まず主を仰がず、自分の思いと判断で動くなら、道をそれ
てしまう。主が飛んでいれば、自分の肩に全重荷がかかり、それは
どうにもならず苦しくてたまらない。私たちは、突如の事態にパニ
ックになり、すぐ思い煩い、焦り、自分で動いてしまう。とにか
く、何とかしなければと急いて焦ってしまう。しかし「立ち返って
静かにすれば、救われ、落ち着いて信頼すれば、力を得る」と。

まずは、静まれ、動くなと。これは信仰の練習だ。サタンもからん
で来て、主を仰がせず、自力で動き回らせようとする。そうすれば
サタンは成功だ。まず祈ろう。動かずに主の導きを待とう。導きが
臨む。その時に従おう。今、自力で、自分の思いで動こうとしてい
たら、立ち止まろう。
--------------
焦り動き出そうとする時には気づき、まず主に祈り導きを待とう。
主の力が私たちを守り勝利を与える事をいつも覚えていたい。落
ち着かず焦りやすいからこそ主に祈り主を仰ごう。


2024年07月22日(月)

「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照 らされます。」詩篇18:28



信仰生活で平穏に歩んでいる中、ある日突如、大きな問題が起きて
悩みが生じる。すべての事は主の御手の中であり、ご計画があり、
主のしようとされている事があり、平安と将来と希望のためのもの
だと。頭ではよくわかるのだが、目の前の問題がどうなってるの
か、わけがわからずパニックになってしまう。このトンネルは本当
に抜けるのかと不安になる。

しかし、主が通しておられて、人は試練、悩みの中でこそ練られ、
鍛えられ、自分の本当の姿を知る。順境の時には決して経験できな
い事だ。それは苦しみの時に、自分の内の考え方や価値観、思考が
現われ出るからだ。問題が来て驚き慌て、心重くなり沈んでしま
う。その時、問題の無い事、平穏無事が善で、問題は悪と思ってい
る自分の価値観に気づく。

事態が自分の思い通りにならなくて、イライラし、焦り、思い煩
う。その時、自分の思い通りになる事が善だとの思いに気づく。普
段、自分の中に顧みる事も、考える事もなく潜んでいる思考パタン
に気づかせられる。祈れば良くなるはずなのに、問題が更に悪化す
る。信仰すれば悩みが無くなるはずなのに、次々問題が起こる。

その時に、信仰生活はスムーズであるはず、問題が起こるのはおか
しいとの、自分の潜在的価値観に気づく。信仰生活で一番素晴らし
い事は、御霊の気づきが与えられる事だ。「聖霊は、あなたがたに
すべてのことを教え・・」聖霊は私たちの内側を照らし、気づきを与
え、神のみこころを教えて下さる。成長は気づきから来る。御霊に
より、気づかされ、気づかされて成長して行く。
-----------
信仰生活、御霊により主に気づかされながら歩みたい。痛い事は避
けてしまうが、避けられない事を通して主は教えてくださる。受け
入れて委ねる事、手放すもの。主は闇を照らされる。


2024年07月21日(日)

「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに 着せてくださった」創世記3:21



エデンの園で、アダムとエバは裸でいたが、罪が入った途端に、裸
でおれなくなった。ありのままの自分で、おれなくなった。これは
アダムの罪以来、私たちも同様だ。本当の自分を、人に見せる事
が出来なくなってしまった。誰にも言えない。心の奥に潜む、あの
妬みや、この憎しみはどうだろう。

誰かへの恨み、赦せない思い、又、プライド、虚栄心、人を見下げ
る優越感、コンプレックス、又、恥や罪意識、人には言えないが、
自分の心は知っている。皆が、ひた隠して生きている。本当の自分
の弱さ、劣等感、様々な恥は、知られたくない。そのため、いちじく
の葉で隠す。そのいちじくの葉とは、名誉、地位、功績、富・・。

何とか虚勢を張り生きているが、本当はもろい自分。そこを認め
ると、自分が崩れてしまうので、必死で立っている。しかし主は、彼
らに皮の衣を着せて下さった。動物の血が流され、作られた皮の
衣は、主の十字架のあがないの予表だ。この主のみわざにより罪
の赦しが与えられ、主の義が着せられる。

いちじくの葉で幾ら隠しても、その葉はすぐに枯れる。主は血を流
す事で作られた皮の衣を着せて下さった。十字架による罪の赦し
により、心底の平安が与えられる。そして、あるがままを受け入れ
られているので、突っ張る必要も、隠す必要もない。主の赦しに
おおわれている

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人には言えなくても、まず、主にだけは、繕うことなく、心の本音を
告げてみよう。主はさばかず、真実に受け入れて下さっていることを
知るので、あるがままの自分が愛されていることを、実感する。
主には何でも言えるようにされて行く。


2024年07月20日(土)

「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また 渇きます』」ヨハネ4:13



サマリヤの女性は、カンカン照りの昼間に井戸水を汲みに来て
いた。女性たちは皆、普通は涼しい夕方に井戸に来て談笑を楽
しんだ。しかし彼女は人目を避けての事だった。主は彼女に、水
を求められた。男性から話すのは異例の事で、それに、サマリ
ヤ人とユダヤ人は敵対関係だった。

そして主は、ご自身こそが生ける水を与え、真の心の満たしを
与えると言われた。新聞に、ある女性の投稿があった。毎日〃
同じ電車に乗り、同じ机に座り、同じ仕事をし、心が虚しくてたま
らず、結婚を求めた。結婚を夢に見、心満たされると信じた。しか
し満たされる事なく、次には子どもを求めた。子どもさえ持てば満
たされるのではと。

しかし子どもができると、毎日〃の育児に疲れ果てた。家で息が
詰まり、外に出たいと切に願った。仕事を得て、外に出て、息を
吹き返したと思った。しかしそこでも毎日同じ事の繰り返しで、虚
しく心は決して満たされない。仕事帰りの夕暮れ、屋台が並び、
これはどこかで見た光景と思うと、若い時の帰宅時の光景だった。
一周回って同じ所に戻っているではないか。自分は一体何をして
いるのか、というものだった。

主は、「この水を飲む者はだれでも、また渇く」と。世のものは、
決して私たちの心を満たすことができない。ますます渇くばかりだ。
主が「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがな
い」と言われ、サマリヤの女性はその水を求め、主から虚無から
の救いを頂いた。主に求めよう。決して渇かない水を、真に心満
たされ、喜びが与えられる水を与えて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
喜びや心の満たしを求めて、世のものを求めると、結果的には、
必ず裏切られる。決して満たされることがないだけでなく、更に
渇いて行く。主の言葉の通りだ。主ご自身を求めよう。心の
渇きをご存じで、求めを喜ばれ、必ず満たして下さる。


2024年07月19日(金)

「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その 私に悪が宿っているという原理を見いだすのです」ローマ7:21



原理と言うのは、法則のことだ。世界に様々な法則があるが、法則
とは、一つの例外も無く当てはまる事だ。一つでも例外があるなら
法則にならない。御言葉は、私たちの中に一つの法則があると言
う。「善をしたいと願うのに、悪が宿っているという法則」だ。パ
ウロは新生したので、善をしたい願いがあった。

信仰者には新しい性質があり、主に喜ばれ、主の御心に歩みたいと
願う。主を求め、主に従いたい。そのように私たちも、主に従い、
主の喜ばれる事をしたい。だが、それに逆行する法則が存在する。
「悪が宿っているという法則を見いだす」と。私たちの内には、罪
の性質がある。幾ら善をしようとしても、悪をしてしまう。どうに
もならない。

自力で、少しは善行をするが、必ず落下し、自己中心に歩んでしま
う。どんなにあがいても主に従えない。それを徹底して経験した、
パウロは「私は惨めな人間、誰がこの死のからだから救い出してく
れるのか」と叫んだ。「誰が」自力では不可能だと悟った。落ちる
ばかりだ。しかし、主を仰いだ時、解決を見た。

主は、悪が宿っている法則を、別の法則によって解決して下さっ
た。それは、「命の御霊の法則」だ。御霊に導かれる時に、積に落
下せずに、生き生きと喜んで主に従って行ける。御霊によって歩む
ことが答えだ。平安と喜びもって歩んで行ける、自分を明け渡し、
御霊に満たされて歩めるよう、祈ろう。
------------
頑張っても出来ず、また頑張ってしまう。出来ませんと御霊に従え
るよう祈ろう。自分の願わない事をしているなら、そこを明け渡し
なさいとの導きではないだろうか。主が喜んでくださる。


2024年07月18日(木)

「しかし、弟子たちはイエスに言った。『ここには、パンが五つと 魚が二匹よりほかありません』」マタイ14:17


男性だけで五千人、女性子どもも入れると大変な数の群衆が、主の
話を聞きに集まっていた。時刻も過ぎて来て、弟子たちは主に、解
散し各自食物を買いに行かせて欲しいと願った。すると主は、あな
たがたで食べ物を上げるようにと。弟子たちは、ここにはパンが五
つと魚が二匹しか無いと答えた。

その時、主は「それを、ここに持って来なさい」と。結果的に、主
は、そのごく僅かな物を用いて奇跡をされた。たったそれだけの物
で、大勢の群衆全員が満腹した。主は、私たちの手にある物を、主
のもとへ持って来るようにと。私たちの手にあるものは、5つのパ
ンと2匹の魚であり、極めて小さなものかも知れない。

だが、どんなに無きに等しいようなものでも、それが自分の手か
ら、主の御手に渡る時に、主の栄光を現わすものへと用いられる。
私たちは、こんな微少のものが、何になろうと思う。何の役にも立
たないと。しかし主が受け取って下さり、用いて下さる。そして主
は、食物をご自身で配られたのではなく、弟子たちに渡された。彼
らが、それらを群衆に配った。

主が奇跡をされたが、実際に配ったのは弟子たちだ。主は弟子たち
にその働きを任された。人々に糧を届けるために、私たちをも用い
て下さる。自らの知恵、資源、力でなく、人々に与えるものを、主
が与えて下さるということだ。主から渡されたものを、人々に渡
す。主が下さる証しを人々にする。主が下さる物を、人々に届け
る。そして通り良き管として、喜びに満たされる。
-----------
自分の持っているものの価値を自分で決めて判断してしまう。何と
不自由だろう。主に渡すなら主の力が働くことを信じていきたい。
主に手渡せない思いも祈りたい。


2024年07月17日(水)

「パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ 人の国の道には導かれなかった」出エジプト13:17


モーセに率いられた民がエジプトを出る際に、主はカナンへの行程
を、ペリシテの国を通る近道に行かせず、困難な荒野の道へ導かれ
た。その理由が、「民が戦いを見て、恐れてエジプトに引き返さな
いよう」にとの事で、主の配慮であった。長年の奴隷生活で、戦闘
訓練など全く無い民が、ペリシテや強敵との戦争に、恐れ怯えて戦
いなどできず、逃げ帰ってしまうからと。

私たちの価値観に、とにかく近道、合理的、早い事が善との思いが
ないだろうか。遠回りは延々と時間がかかる。そんな面倒な、困難
な道は避けたい。さっさと進みたい。しかし主は近道でなく、あえ
て厳しい苦しい荒野を通される。それが主の方法で、主が苦難の道
を通される。私たちも祈りの答えを、目の前の問題解決を、一気に
下されば良いのにと思う。

遅々と進まず、まさに遠回りさせられていると感じる状況がある。
自分の思いや計画と違う道を通される。だが、そこを通ってこそ忍
耐と信仰が養われる。まさにその渦中でこそ、主のご愛や真実を経
験する。砕かれ、練られ、明け渡す事を経験し、成長が与えられ
る。そこを通らずしてあり得ない。

そして民のその荒野の道には、雲の柱、火の柱が伴い、ずっと主の
臨在があり、行くべき道が示される。荒野で灼熱の太陽から雲の柱
で守られ、夜の暗闇を火の柱に照らされる。道中一度も「民の前か
ら離れなかった」。今、苦しい荒野なら主を信じよう。決して離れ
ずに、ずっと共におられ、豊かな実を結ばせて下さる。
-------------
物事が思うように進まない時、もっと良い方法はないかとさらに自
分の計画へと向かう。そこに主の御心があるのかを祈りたい。
主の御思いこそを求め、主のご計画が実現していく事を祈ろう。


2024年07月16日(火)

「ヤコブはレアよりも、実はラケルを愛していた。それで、もう 七年間ラバンに仕えた。主はレアがきらわれているのをご覧にな って、彼女の胎を開かれた」創世記29:30



姉レアと妹ラケルがいたが、ヤコブはラケルを愛していた。だがレ
アもヤコブを慕い、ずっとラケルと比較し、嫉妬や劣等感で生きて
きただろう。ヤコブはラケルとの結婚のために、7年間働いた。し
かし、父親から習慣との事で、姉が先とレアと結婚させられた。ヤ
コブとの結婚により、レアは更に劣等感にさいなまれた。ヤコブの
愛はラケルにあり、レアがどれほど渇望しても得られない。

主はそんなレアをあわれまれ、胎を開かれた。「ルベン」と名づ
け、主が悩みをご覧になったと。赤子誕生で、夫の愛が自分に向く
と思ったが、それは無かった。第二子シメオンは「主は私が嫌われ
いるのを聞かれて」とレアが主に祈った結果だった。そして次々と
産み、最後はユダ「主をほめたたえよう」と名づけた。

どんなに求めてもヤコブの愛を得られない、孤独や寂しさ、苦しみ
の中で、主に向くようにレアは変えられて行った。苦しみ抜いたそ
の時に、主を見上げ、ヤコブから主へと求めが移り、主により満た
されて行った。レアの奴隷が男児出産時は、アシュルと名づけ、
「なんと幸せなこと。女たちは、私を幸せ者と呼ぶ」と言った。

ヤコブは晩年、神の約束の地カナンにある先祖の墓、アブラハムと
サラ、イサクとリベカの墓にレアを葬った。自分もそこに葬るよう
にと。最終的にレアはヤコブの妻として尊ばれた。自分の願い通り
では無い場にいる時、他のものではなく、主に求め、主に心を埋め
て頂こう。主は豊かにあわれんで下さる。
--------------
自分の努力ではどうしようもない事に向き合わされるとき、心底、
主を求める。その心を主は受け止め、豊かに守り導いてくださる。
何と幸いだろう。主に向き、求め、委ねていよう。


2024年07月15日(月)

「「あなたがたがのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわな いなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。」 ヨシュア7:12



モーセの後を継いだヨシュア率いる民が、主の指示の通りに従う
と、雪解けの水が溢れるヨルダン川を渡る事ができた。まさに主の
奇跡であった。カナンに入るや、目の前に立ちはだかるエリコの城
壁。それも主の示しの通りに行動すると、主が城壁を崩された。一
方的な主の奇跡であった。次にヨシュアは、アイへ偵察隊を遣わし
た。

すると彼らは戻り「二、三千人で大丈夫です」と言った。そこでヨ
シュアは三千人を戦いに出した。ところが何と敗北したのだ。想定
外の事実に、民の心はしなえて、水のようになった。勝利を疑わな
かっただけに、衝撃であり、大きな動揺だった。奇跡のヨルダン渡
渉、エリコ城壁崩壊は、大いなる主が共におられるという、その事
がヨシュアの拠って立つところだった。

そのため、敗北の事実自体が、それらをなし崩しにしてしまう事
だ。主の御名はどうなるのか。周囲の敵の前で、この敗北はどうな
るのか。何よりも敵は主の御名も、ヨシュアたちも、もう恐れる対
象では無くなってしまう。ヨシュアは、事の深刻さに「なぜです
か」とひれ伏した。「大いなる御名のために何をされるのか」と。

だが「大いなる御名」こそがこの敗北を与えられた。全能の神は、
聖い神だ。「聖さ」ゆえに、罪あるところに働かれない。妨げは民
の側にあった。主は罪を示され、アカンの罪が発覚した。罪は主と
の仕切りとなる。すぐ主のもとへ行き告白しよう。罪を対処した時
に、再び主は勝利を与えられた。
--------------
主の十字架により、アカンのように滅ぼされることは今はないが、
主は罪を赦されても、見過ごされることはない。示されているなら
告白して悔い改めよう。そして赦されて主の前に立とう。


2024年07月14日(日)

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。 労苦はその日その日に十分あります」マタイ6:34


あなたも、心配症だろうか。あれやこれやが心配でならない。不
安は不安を呼び込み、幾ら大丈夫だと言われても、不安が泉の
ごとく噴出して来て、どうにもならない。あなたも経験があるだろ
うか。周囲から、どんなに大丈夫だからと励まされても、どうして
もだめなのだ。

頭ではわかるのだが、どうにもならない。主はそれもご存じで、
「今日」を考えてごらんと、言われている。今日、今、何か不足が
あるだろうか?常に、今日は、必要が与えられている事に、気
づかないだろうか。その「今日」の連続が一生だ。果てしない明日
を、その連続である未来を、心配し恐れるより、まず今日、満たさ
れている事に感謝してはどうだろう。

独り身の熟年婦人が、リストラ後の仕事がなかなか無かった。祈
っていると、「だれが心配したからといって、自分のいのちを少し
でも延ばすことができますか」の御言葉が、心に迫り、心が定まり、
心の底から納得できた。平安が与えられた。その通りで、心配や
不安、思い煩いが、何かを成し遂げるだろうか。全く有り得ない。

それどころか、今日、飢えていない。すべての必要が与えられてい
る。弱いはずの身体も支えられている、何と感謝な事だろう。「今日」
を心底感謝していると、喜びが溢れ、将来の不安、煩いが無くなった。
「不安が全く無いのです」と。明日は委ねて、とにかく今日は、感謝
ではないだろうか。主に目を向けて、そこに立とう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「明日の心配無用」とは、何という恵みであり、溢れる感謝な事だ
ろう。御言葉をかみしめ、心で握る時、明日の心配がストップし、
消える。毎日、明日はゆだねて、「今日」を生きて行ける。すると
沢山の恵みに気づかせられる。


2024年07月13日(土)

「あなたが繁栄していたときに、わたしはあなたに語りかけたが、 あなたは『わたしは聞かない』と言った。わたしの声に聞き従わ ないということ、これが、若い頃からのあなたの生き方だった」 エレミヤ22:21


エレミヤは、ずっと主からの警告を民に語り続けた。しかし民は
「繁栄していた」ので、心が鈍くなっていて、主を必要とせず、耳を
傾ける事はなかった。「苦しい時の神頼み、楽しい時の神離れ」と
言われるが、その通りだった。人は試練の時は、苦しくてたまらず、
主に拠りすがる。

だが、順境の時は、主に頼らずとも問題なく、自分の力でやって
行けるので、主から離れてしまう。心が少しづつ〃霊的に鈍くな
って行く。ある日突然、鈍くなるのでなく、少しづつ〃流されるので、
気づかないままだ。主の語りかけに、どうあっても聞き従わない民
に、主は、バビロン捕囚という厳しい試練を与えられた。

エルサレムは滅び、神殿は破壊され、ユダの民は敵国へ連行さ
れるという、苦しい試練であった。同様に、主は、私たちにも「わた
しはあなたに語りかけた」と、ずっと御声をかけ続けて下さっている。
メッセージを毎週〃聞いているのに、なぜ自分の事として聞こえな
いのだろう。物理的には、耳に聞こえているのだが、心の耳には
聞こえていない。他人事として聞いているだろうか。

傍観者としてだろうか。もし聞いても従う気が無いなら、御言葉は心
に聞こえて来ない。御言葉が心に迫る時は、自分が主の言われる
事に聞き従おうとしている時だ。御声に従い、自分が変わろうとの
思いがある時、御言葉が心に力強く響いて来る。自らの心の態度
はどうだろう。御霊に照らして頂こう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
人は繁栄により、成功により、主から離れてしまう。主に頼らずとも、
自力で生きて行けてしまう。御言葉が、右から左へと流れる。頭の
信仰になり、心に入って行かない。気づきから始まる。主の愛は
主との交わりへと、私たちを導かれる。


2024年07月12日(金)

「わたしのくびきを負って・・たましいに安らぎが来ます。わたしの くびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」マタイ11:30



よく耳にするように、くびきとは畑を耕す時に、同じ方向へ二頭の
家畜を進ませるために、板に二つの穴を開けたものだ。家畜が二頭
だと、それぞれ別の方向へ向くので、仕事にならない。それを二つ
の穴に一頭づつ首を入れるなら、二頭を同じ方向に進ませられる。
畑をうまく耕す事ができる。その時、どうだろう。その穴にきちん
と頭を入れるなら、不都合は無い。

しかしくびきを嫌がって、抜けようともがくなら、首が締め付けら
れ苦痛でたまらない。自分で自分の首を締める事になる。私たちも
どうだろう。主に与えられたくびきである、今の環境を受け入れる
なら、それは快適で、安らぎをもたらし、軽い荷だと。しかし避け
て逃がれようとする時、もがいて首を絞め、痛くてたまらない。苦
痛しかない。

バビロン捕囚の時に、主が言われた。この捕囚はすぐ解放されるの
ではなく、長くなるから、家を建てて住みつき、畑を作り、その実
を食べよ。結婚し、子どもを産み、そこで地に足をつけて、しっか
り生活するようにと。70年後に帰国させるからと。そして「バビロ
ンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える民を、わたしはその土
地にいこわせる」。

いこわせると言われた。今の現状をしっかり受け入れて、そこで仕
えて行くなら、平安に生きて行けると。私たちにとって肝心な事
は、状況が問題なのでなく、与えられた境遇を主からのものとし
て、しっかり受け入れる事で、くびきを負う事だ。その時、心は、
世のものでない、主の平安に満たされる。
--------------
主が今ここに置いておられ、これが御心と見ていくなら、注がれて
いる恵みも見えてくるのではないか。不安は主に祈りながら、時が
来るまで主と共に落ち着いていよう。


2024年07月11日(木)

「・・健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを 言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを 自分たちのために寄せ集め」Uテモテ4:3



人は誰しも、自分の聞きたい言葉を聞いていると、言われるが、信
仰者も、時に陥ってしまう。どうしても、何があっても、手に入れ
たいという強烈な願望がある時、その願望しか見えなくなってしま
う。すると、その願望に合致した御言葉を取ってしまい、無意識
に、願望に合致しない御言葉はシャットアウトしてしまう。

願望に合わず、あってはならないからだ。それを意識的にするな
ら、むしろ罪であり気づくが、無意識なので、気づかない。無意識
というところが要注意で、意識していれば、それは間違っているの
で、とがめがあり出来ない。信仰人生が長くなると、振り返って、
思い当たるかもしれない。あの時の、この時の事、御言葉を自分で
取ってしまっていた。

しかし失敗を通して、訓練され、学ばせられる。後の、大きな失敗
から守られることになる。そのため、正しく御心に導かれるため
に、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて
くださる」とある。まず、右でも左でも御心のままでOKですと、主
にゆだねることが大切だ。

自分の願望も一旦明け渡して、御心のままでOKですと、祈って行く
時に、御心の道へと導いて下さる。願望が強いと、どうしてもこう
でなければとの強い思いがあるので、明け渡せない。そこを認め
て、明け渡せるように助けを求めて祈ろう。なぜなら主の御心の道
が最善であり、決して後悔の無い道だから。
-------------
強い願望が主の御声を簡単に無視させている。認めていたい。こん
なことは無理だ、出来ないと思うと流していく御言葉もある。御心
を歩みたい。主に明け渡せるよう祈ろう。


2024年07月10日(水)

「ヨシャパテを見つけたとき・・彼のほうに向かって行って戦おうと した。するとヨシャパテは助けを叫び求めた。それで戦車隊長たち は、彼がイスラエルの王でないことを知った」T列王22:32



イスラエル王アハブは、ユダ王ヨシャパテを誘い、アラムからラモ
テ・ギルアを取り返そうとした。400人の預言者に問うと、上って
行くようにと皆が言った。しかし預言者ミカヤだけは、反対の預言
をし、アハブ王が悪霊に惑わされている事、殺される事を告げた。
そんな中、アハブとヨシャパテはアラムと戦う事になった。

アハブは巧く逃れようと画策し、ヨシャパテに王服を着せ、自分は
変装した。敵を欺き、自分は助かろうとした。しかしアラム王は、
アハブだけを狙えと命令していた。ヨシャパテは、敵にアハブだと
間違えられたが、彼が主に叫んだ時、敵は彼がアハブでない事を知
り、引き返したのだ。神の介入だった。

そして一人の兵士が、何げなく放った矢が、何とアハブを射抜き、
彼は死んだ。別にアハブを狙ったわけではない。何げなく放った矢
だ。それがアハブに的中とは、驚くべき事だ。主が働かれた。まさ
にミカヤの預言が実現した。主の完全な主権と支配を見せられる。
人が何をどう画策しようと、主の御心が成る。

厳粛な事だ。それゆえ、その主を信頼し、自分の人生も、持てるも
のも、自分自身も委ねよう。委ねるなら、あなたの人生に最善のご
計画を成し遂げて下さる。そして、平安でいる事ができる。「あな
たの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださ
る」。
--------------
何気なく放った矢は、完全な主の支配のうちからくる。主に信頼
し、主を頼ろう。どんな時でも、主の御約束が頼りで力だ。主を愛
し、頼る者を守ってくださる。


2024年07月09日(火)

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわた しを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満 腹したからです。」ヨハネ6:26


大勢の群衆が主のもとで、御言葉を聞いていた。男だけで五千人と
いう大変な数の人々に、主は、五つのパンと二匹の魚で奇跡をされ
た。大勢の人々が、全員満腹した。その奇跡を見て、群衆は大歓声
で、主をかつぎ上げ、王とするために連れて行こうとした。しかし
その時に、主はひとり、山に退かれた。

人々は奇跡を目の当たりにし、満腹した時に、「まことに、この方
こそ世に来られるはずの預言者」と言った。だが、主はその心の内
をご存じだった。群衆は、主を崇め、主に従って生きて行きたいと
思ったのではなかった。主について行けば、ずっとパンがもらえ
る。生活の心配がなく、良い暮らしができる、自分の利得のための
主であった。

私たちもどうだろう。何かがもらえるから、主について行くのだろ
うか。それは自己充足、自己実現かもしれない。何のために、主に
従っているのだろう。主は満腹を下さる。自分の願いが叶えられ、
欲望が満たされる。しかし、もしそれがすべてなら、自分の願望が
叶えられる間はついて行くが、一旦、思い通りでなくなると、主を
離れ去る。ついて行く意味が無いからだ。

主は必ず必要を与えて下さる。しかし何でもかんでも、私たちの思
い通りに動かれるのではない。人々が主を「むりやりに連れて行こ
う」とした時に、主は退かれた。私たちはどうだろう。今、自分の
願いを通そうと、「むりやりに」主を連れて行こうとしているだろ
うか。そうでなく、何のために主に従っているのかを、御霊に探っ
て頂こう。
--------------
思い通りをと祈るが一見、喜べないものも、その中で主が働かれ祝
福としてくださる。主の最善はすぐに消えてしまうものではなく、
生き生きとした主との交わりが続く。感謝だ。


2024年07月08日(月)

「そこでイエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしてほし いのか。』すると、盲人は言った。『先生。目が見えるようになる ことです。』」マルコ10:51



バルテマイは目が不自由だった。当時は福祉も無く、物乞いをして
生活をしていた。人々から金銭や物を、恵んでもらって、生きて行
くことができた。だから、常に人々に物を求めていた。しかし、主
に出会った時に、求めたものは、金銭や物ではなかった。「わたし
に何をしてほしいのか」と問われた主に、一生不自由しない富を求
める事が出来たが、そうでなく「目が見えるようになること」だっ
た。

この方には、それができると信じなければ、はなから求める事など
しない。彼には信仰があった。その信仰は「私をあわれんで下さ
い」との叫びを生んだ。大勢がたしなめるが、ますます叫び立て
た。又、もし、主が受け止めて下さると信じられなければ、どこま
でも叫び続ける事などしない。彼は必死だった。この時、このチャ
ンスを逃す事ができない。もう二度とチャンスは無いと、全身で叫
んだ。

ザアカイも同様だった。今を逃してチャンスは二度と来ないと、木
にまで登った。もし、ここであわれみをもらわなければ、生涯目が
見えないまま、又、ザアカイは一生虚しい喜びのない暗い日々があ
るだけと、絶対にこのままでは帰れなかった。主はその叫びに答え
て下さった。私たちはどうだろう。バルテマイの求めがあるだろう
か。

与えられても、与えられなくても、どっちでもよい程度のものだろ
うか。又、諦めてしまっているだろうか。彼はいっさい何も「でき
なかった」。しかし、あわれんで下さいと叫ぶ事が、「できた」。
止められても、叫びはますます大きくなった。この求めを、主は待
っておられる。主のもとに行こう。
-----------
いつの間にか、現状に慣れて諦めたり、つぶやいたり、また自分の
強い意志で頑張ってしまう。主よあわれんでくださいの態度で主に
すがろう。そして主が何をしてくださったかを知っていこう。


2024年07月07日(日)

「・・だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が 芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりするこ とのないように」へブル12:15


私たちの心にある、苦い根を問題にしている。芽を出して悩まして
来る「苦い根」を捨てるようにと。又、御言葉が心に入るように、「す
べての汚れやあふれる悪を捨て去り」とも言われている。私たちの
心の内はどうだろう。汚れや悪があると、苦い根があると、御言葉
が心に入る事をふさいでしまう。そのため「捨て去る」必要がある。

捨て去るとは、自分サイドの罪があれば悔い改める事だ。主の血
潮のゆえに、主は赦して下さる。憎しみや妬み、高ぶり・・苦いもの
が心に無いだろうか。いつも悩まされてしまう。御霊の光で照らして
頂こう。悔い改めが、心を耕す事になり、御言葉が入る下地を作る。
デボーションや説教や学びや、色々な場で語られる御言葉に耳を
澄まそう。

語られる言葉を、「素直に」受け入れよと。語られる言葉は、真実な
神の言葉だ。又、御言葉を聞く時に、同時にサタンがからんで、肉
の思いを持って来る。「無理だ」「人には出来ても、自分には出来な
い」・・自分の思い、価値観の方を優先するように仕向けて来る。そ
のままの思いを主に、打ち明けよう。

「素直に受け入れられない」と祈ろう。「理解できません、教えて下さ
い」「わかっていますが、自我が拒みます」ありのまま祈って行く時
に、御霊が助けて下さる。又、自分には無理と決めつけていない
だろうか。出来ないからこそ「祈り」がある。従えるように、助けて
下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
肉の欲や、人から受けた傷が、憎しみ、恨み、敵意となって苦い根
となる。それは自分だけでなく、周囲に影響をもたらすとある。自分
で気づけない苦い根を、御霊の光により気づきが与えられるように。
祈ろう。傷を、主のもとに持って行き、主により癒して頂こう。


2024年07月06日(土)

「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようとも せず・・『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』」ル カ18:13



パリサイ人と取税人の祈りが、出て来る。当時、パリサイ人は、
外面は宗教的であり、道徳的な人々だった。戒めは守り、姦淫
はせず、断食し、よく祈り、十分の一の献げ物を忠実に行なっ
ていた。外側は品行方正で、紳士的で、大変立派な人物に見えた。
しかし心の中は、自分は正しく立派である事を誇り、人々を見下
していた。

常に人との比較で、自分を量っていた。主に対してでなく、人に対
しての自分だった。そこに神は無かった。絶えず人との比較がある
ばかりだ。比較は、人より優ると優越感、劣ると劣等感となる。生
涯、優越感と劣等感の間を行ったり来たりする。このパリサイ人は、
主の御前にいると思っているが、見ているのは、ただ、人だけだった。

あの人よりはましと自分を量り、自分の正当性を保っていた。取税
人は、誰が見ても明かな罪人だった。ローマの手先となり、同胞か
ら税金を取り、私服を肥やしていた。そんな彼には、ただ主と自分
だけが見えて、他人の事など思いも及ばなかった。主に向き合う時、
自分の罪がはっきり見える。見えるので、悔い改めることができる。
その罪は完全に赦される。

主ではなく、人に向くなら、自分の罪は何も見えない。暗闇の中だ。
だから自分を誇り、高ぶるばかりだ。しかし、主に向くなら、愛の無
い自分、人をさばく自分、高慢な自分、自己中心な自分、それが見
えるから、悔い改める事ができる。絶えず「私をあわれんでください」と、
主のもとに行ける。主のあわれみは尽きず、罪を赦し続けて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
罪につき、義につき、裁きにつき、教えて下さるのは御霊だ。御霊
により罪を示されると、悔いくずおれる。周囲も見えず、ただただ
自分の罪が見える。悔い改めることが出来て、その罪は赦され、
消し去られる。心に平安が来る。


2024年07月05日(金)

「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが 御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそ あなたは人に恐れられます。」詩篇130:3



人は、皆、必ず失敗する。どんなに注意していてもミスしてしま
う。自分がこんなミスをするとは、信じられないが、人間だから
だ。あなたも信じられない失敗をした事があるだろうか。こんなミ
スを、自分ではないと思うほどだ。しかし大切な事は、その失敗か
ら「学ぶ」事だ。何度転んでも立ち上がって、再び、前に進んで行
ける。悔い改めて、主に従って行ける。

人生には、ある時、つまづいて倒れてしまう事がある。深い挫折を
経験する。つまずいた事の無い人はないだろう。主は時に、人が転
ぶ事を許され、深い水の中、火の中を通される。しかし、必ず立ち
直らせて下さる。ペテロは、信じられないような大失敗をした。自
分は絶対に大丈夫、自分は命をかけても主に従うという決心が、試
みの前に、もろくも崩れ去った。

何と、主を裏切ってしまったのだ。しかしその罪も赦され、「あな
たは立ち直ったら、兄弟たちを力づけなさい」と、主の愛により回
復され、力強い主の証人とされ、殉教した。主の御心にかなった者
と言われた、ダビデも姦淫と殺人という大失敗をした。だがそれで
人生が終わったのではない。ダビデも罪赦され、回復させられた。

私たちも皆、信仰が試される。そして、時に失敗してしまう。自分
に絶望し、無力を思い知らされる。だからこそ、主に拠りすがらな
ければ、生きて行けない事を身をもって知る。それこそが「立ち直
った」という事だ。自分の力が砕かれて初めて、間に合う器として
用いられる。主は罪を、失敗を豊かに赦され、私たちを建て直し、
建て上げて下さるお方だ。
--------------
赦しを受けとる時、どれ程主に愛されているのかを実感する。主の
聖さ、正しさ、ご愛に触れて、また立ち上がれる。何度も失敗し、
倒れてしまいそうになるが、それでも主に従っていける。


2024年07月04日(木)

「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。」 詩篇119:24 


信仰生活の中で、悩みが起きて、問題にぶち当たる。思い煩い、不
安になり、暗闇の中にいるように感じる。何がどうなっているの
か、わけがわからない状況だ。その混乱状態の中で、大切なこと
は、「御言葉」を真剣に、信仰生活の土台、指針としているかどう
かを確認することだ。

自分の思いで右往左往し、動き回っていないだろうか。ああでもな
い、こうでもないと思いを巡らしては、煩う。しかし、どれだけ思
い煩ったところで答えは出ない。真っ暗な中では、方向もわから
ず、動きようがない。どこに向けばよいのかもわからない。暗闇で
必要なものは、光だ。例えば、停電の時、真っ暗闇で全く何も見え
ない。そんな中も、ろうそくの火や懐中電灯があれば、足元が照ら
される。

足元が見えるので、歩を進める事ができる。暗闇の中でも、光さえ
あれば大丈夫だ。歩くことができる。私たちに必要なものは、その
光だ。その光が御言葉だと言っている。「みことばは、私の足のと
もしび」であり、「道の光」だ。もし、今、悩みの中に、問題の中
にいるなら、足のともしびであり、道の光である「みことば」を主
に、真剣に、本気で祈り求めよう。

主は祈りに答えて、御言葉を与えて下さる。御言葉により、主の御
心が解き明かされ、指針が示される。進むべき方向がわかる。なす
べき事がわかるので、その示しに従おう。進路について、どの方向
に進むべきかわからないなら、御言葉を求めよう。又、なすべき事
がわからないなら、御言葉を求めよう。主は御言葉を与え、進むべ
き道を示し教えて下さる。
--------------
悩みや混乱の中にいる時、じっとしていられず動いてしまう。自分
の経験や気分に流れていく前に、祈り、御言葉を求めよう。一歩が
照らされると、主の導きの中を確信をもって歩める。


2024年07月03日(水)

「・・霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずか らせようとして、懲らしめるのです。」へブル12:10



私たちの救われた目的は何だろう。この世の幸せや、悩みの無い、
問題の無い生活を得る事だろうか。しかし、家内安全、商売繁盛、
無病息災、五穀豊穣ではない。主の御前で聖く、傷のない者とされ
るためだ。キリストに似る者とされ、聖められるためだ。それが目
的であり、結果的に幸せになるが、それが目的なのではない。

主は、私たちが新生するや、私たちを握り、どんどん取り扱われ
る。霊的に成長させて下さるためだ。ハウツーやテクニックで成長
するのではない。成長のためには、痛みが伴う。数々の失敗や挫折
を通る。又、理不尽な目に会う事や、誤解される事がある。どうし
てこんな事が、というような事に出くわす。

又、色々な面で失う事があり、損失を経験する。あたかも、主に放
って置かれているように感じることがある。そのような中で初め
て、私たちは練られ、鍛えられる。それは楽しいことでなく、辛
く、苦しい経験だ。頑なな部分が削られ、砕かれて行く。それはプ
ライドや虚栄心、貪欲、自己中心・・自我が取り扱われる。キリスト
に似る者と少しづつ〃造り変えられて行く。

それが成長だ。今、それらの悩みの中にあれば、あなたの願う霊的
成長を与えようとの、まさに祈りの答えだ。試練の渦中は苦しい
が、しかし、後に必ず苦しみに会った事は幸せだったと言える。も
しそれが無ければ、主をこれほど知る事は出来なかったと。
--------------
思い通りに行かない事にぶつかると、本当の自分が見える。あの人
を、この状況をと、どこまでも外側の変化を祈ってしまう。自分が
変われるように祈りたい。いつか必ず平安の義の実を結べる。


2024年07月02日(火)

「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところ に来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」 マタイ19:14



親たちは、主に祝福していただきたく、子どもたちを主のもとに連
れて来た。ところが、弟子たちがそれを見て、子どもを叱った。弟
子たちにとり、小さな子は、騒いで、うるさい存在だった。教えも
わからないし、役に立たない者だった。しかし主は、「止めてはい
けない」と言われ、幼子たちをみもとに招かれた。

そのような幼子は、自分では何もできない、受け身だけの弱い存在
だ。親の保護と世話がなければ、一日たりとも生きて行けない。そ
んな子どもの無力さ、弱さに対して、主は「神の国はこのような者
たちのもの」だと言われた。幼子は無力そのものだ。力も、知恵
も、判断力も無い。ただ受けることによって、誰かを頼ることによ
ってしか生きられない。自力で生きる事ができない。

しかしだからからこそ、素直で、「来なさい」との声に、何もため
らいも無く従う。親の腕の中で、身も心も預けきって、すやすやと
安らかに心地良く眠る。親を信頼して、身を任せきっている。主は
そんな幼子の無力さ、弱さを、そのまま受け止め、祝福された。
そして、私たちに、幼子のように神の国を受け入れる者であれと、
言われた。

親の腕の中で、何の不安も恐れもなく、安らかに眠る幼子は、何と
幸せだろう。親に全面的に頼らなければ生きて行けないからこそ、
親さえいれば、どんな状況下でも、安らかだ。環境など関係無い。
私たちも御父に、素直に、全面的に頼ることを、御父は喜ばれる。
また、その時こそ、私たちも、心底安らかだ。
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主の慈しみを受けて生かされているのに、いつまでも自分の知恵
に頼り、迷ってしまう者だ。分かった振りをせず、主の子供らし
く、主よあわれんでくださいと大声でついて行きたい。


2024年07月01日(月)

「兄はおこって、家に入ろうともなかった。それで、父が出て 来て、いろいろなだめてみた。」ルカ15:28



兄は、一日の畑仕事から帰ると、家から宴会騒ぎが聞こえて来た。
しもべに何事かと聞いた。すると放蕩ざんまいの弟が無事に戻り、
父親が宴会を開いて、大喜びしている事を知った。兄は怒りの余
り、家に入ろうともしない。父親は出て来て、兄息子を色々となだ
める。

しかし激怒の兄は、食ってかかる。「自分は、長年、毎日〃大変な
畑仕事をし、あなたの下で働いてきたのに、一度のほうびも、もら
った事がない。なのに好き放題をして、もらった全財産を使い果た
した弟の帰りを喜び、宴会までするなどと」と、もう怒り心頭だ。
兄には、父の言葉もいっさい入らない。

弟は、父のもとでの生活は窮屈で、嫌で面白くなく、自由に好きな
ようにしたかった。肉のおもむくまま、好き放題をし、お金を使い
果たし、死にかけた時に、初めて父との生活が、いかに恵まれてい
たかに、思いが至った。しかし真面目に毎日〃働く兄も、実は同じ
だった。強いられた義務であり、嫌なしたくない事であった。

義務で、嫌々働いているだけで、何の喜びも無かった。だから、弟
が好き勝手をし、またそれを赦し、受け入れる父に、激しい怒りで
震えた。兄は、我慢に我慢を重ねていて、本音は弟のように、好き
放題に生きたかった。父と共にいる事に何の喜びも無かった。

しかし、父はその兄をいっさい責めず、叱らず、私のものは、全部
おまえのものだと、兄に対しても深い愛と慈しみしかない。霊の目
が開かれて、この父の無条件の愛を知れたら、どんなに喜びと感謝
が溢れる事だろう。
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自分に与えられた主の愛やあわれみ、慈しみの全てを、自然に当た
り前としか思えないなら、何と味気ない弱々しい日々だろうか。
いつも主にありのままを祈り、主と生きている喜びを受け取ろう。