2024年08月31日(土)

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリ ストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ5:4


教会で「信仰義認」と聞くが、善行によらず、信仰によって義と
認められる。しかし、根深い生れつきの、この世の価値観があ
り、頑張る事が善とすり込まれている。何かしなければ、行動
しなければ、怠けているとの罪悪感があるだろうか。又、人は、
じっとしている事が難しい。

動き回り、何かをしていると、安心する。動く事で、充足感、達
成感を得ようとするためだろうか。この世の宗教は、行ない
を要求し、難行苦行も求める。しかし、肉には、それが合致す
るようだ。「人間の教えと戒め・・は、人間の好き勝手な礼拝とか、
謙遜とか、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見える」と。

しかし「肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもない」。
そのため信仰において、主と雇用関係になってしまう。雇用主
に賃金をもらうために、時間と労力を提供し、報酬を得る。そこ
に行ないが不可欠だ。しかし主と私たちは、労使関係ではない。
つまり主は、私たちが何も提供できないのに、給料を下さって
いる。ただで無代価で。

これが恵みであり、プレゼントだ。プレゼントをもらう時に、お金
は払わない。苦行も、頑張りも必要なく、ただ主の贖いを感謝し、
信じる時に義と認められる。何と言う驚くべき恵みだろう。世の
価値観は言う。そんな甘い事だと、人は働かず、放縦に、わが
ままになると。しかし、それは無い。逆に、主の真実なご愛に触
れる時、義務でなく、主の愛に応えたく、心から従って行きたい
と思うからだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この世の価値観があり、頑張ることが善、そうでなければ、怠け
ていると、とがめが来たりする。深く培われている。そこに向か
う度に御霊の気づきを与えられることが感謝だ。肉の頑張りでなく、
主への信頼の中を歩むように導かれる。


2024年08月30日(金)

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、 雄羊の脂肪にまさる」Tサムエル15:22



サウル王は、主から王位を与えられたのだが、不従順の罪の結果、
退けられてしまった。何が不従順だったのか。主に「アマレクを打
ち、すべてのものを聖絶せよ」と命じられたが、「サウルと民」は、
最良のものを惜しみ、値打ちの無いものだけを聖絶した。主に言わ
れたことに、従わなかった。叉、それはサウルが、民と一緒に犯し
た罪だった。

サムエルは、主から言葉を受け、サウルに会いに行く。サムエルに
罪を指摘されたサウルは「私は主のことばを守った」と。「では羊
や牛の声は何か」と問われ、「民が、惜しんだ」と、民のせいにし
た。そして、尚もそれは「主に、いけにえをささげるため」だと。
あたかも主のためだと、正当化する。自分の間違いを正当化して行
くなら、幾らでも、どんな言い訳でも出て来る。

サムエルは「そむくことは占いの罪、従わない事は偶像礼拝の罪」
だと言った。主の言葉に従わない事は罪だと。そして「主のことば
を退けたので、主もあなたを王位から退けた」と。聞き従うことは、
いけにえにまさると。私たちはどうだろう。主の言葉には、従いた
くないので、他の都合の良い善行で、埋め合わせをするだろうか。

又、主の言葉に従うのでなく、主が喜ばれるであろうと、「自分が」
思う事をしてしまうだろうか。それなら自分の思いだ。主は、示さ
れた事に従う事を喜ばれる。それ以外の善行で、帳消しにならない。
そのために、まず主の示しに、主の言われる事に、しっかり耳を傾
けよう。
-------------
御言葉に誠実に向き合い、従いたいと祈っていなければ、簡単に都
合の良い方へ向かってしまう。言い訳も巧みに出てくる。自分の知
恵がいかに御言葉に逆らってくるのか、よく学びたい。


2024年08月29日(木)

「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのお しえは私の心のうちにあります」詩篇40:8



寒暖計の対応と言われる言葉がある。つまり外気温の通りに、その
ままの温度を表示する。寒ければ低温を、暑ければ高温を表わす。
相手が親切であれば、こちらも親切に、相手が冷たければ、こちら
も冷たく、批判されれば、こちらも批判する。これは反応する生き
方だ。相手にコントロールされている事になる。

すべてが相手次第で、自分が無い。主は、反応するのではなく、父
の御心を行なわれた。ここ数日を振り返って、どうだろう。他人の
態度で、アップダウンし、その評価で一喜一憂しているだろうか。
ある人が途中入社したが、何かトゲのある相手がいた。自分が嫌い
なのだろうか。傷つくが、自分はクリスチャンであり、礼儀正しく
接していた。

何だか冷ややかで、辛くなるが、しかし祈りに持って行き、祈って
いた。そんなある日、夕方に、かなりの書類処理を、彼女が抱えて
いた。急な事で明日までに必要だった。退社時刻も回っていて、彼
女と自分が残っていた。大変そうだ。御霊から彼女を手伝うように
との促しが来る。自分も非常に疲れていて、早く帰りたかったが、
心の中で祈ると、はっきり御霊の示しだった。

従う決心をし、彼女に手伝いを申し出た。相手は驚いて、しかし大
変感謝された。二人なら半分の時間で済む。残業で遅くなったが、
仕上がった。それは喜ばれ、自分も平安だった。翌日、お礼にと食
事に誘われ、打ち解ける事ができた。まさに祈りの答えで、主の導
きであったことに感謝し、御心を行なえた事に感謝した。
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人の態度でどれ程の時を不機嫌に過ごして来ただろう。主を知って、
相手に関わらず御心に従いたいと思える恵みに感謝だ。いつも平安
に守られる。御心に従いたいと祈っていこう。


2024年08月28日(水)

「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」 詩篇23:2



大勢の人々が、絶えず主のもとに押し寄せていた。病気のいやしを
求める人々、虚しさ、孤独、寂しさにある人々、悩みや問題を持つ
人々、御言葉を求める人々が、主のもとに来た。五つのパンと二匹
の魚の奇跡の時には、男だけで五千人、女、子どもだと一万人以上
だろうか。主は、四六時中、人々に囲まれていた。

又、悪霊との戦い、重病のいやし、どんなに霊の力を使われ、心身
共に消耗された事だろう。「向こう岸に渡ろう」と舟に乗られた途
端、大嵐の中も熟睡された事を見ても明らかだ。そんな目まぐるし
い日常の中で、主は、よく寂しい所に退かれた。群衆や弟子たちか
らも離れ、御父と交わられた。その時間を大切にされた。

どんなにか疲労された翌朝も、「朝早くまだ暗い内に起きて、寂し
い所へ出て行き、そこで祈っておられた」。主は、よく祈られた。
御父との交わりが、主の力の源であった。「わたしは、自分からは
何事も、行なうことができない。聞くとおりに・・」「わたしは自分
から話したのではない」「父ご自身が、何を言い、何を話すべきか
をお命じになった」、絶えず御父から導きを受けておられた。

弟子たちも、同様に群衆に囲まれていた。そのため、「寂しい所へ
行って、休め」と。独りの時間を持ち、休むようにと。休息と共に、
霊を新たにされるようにと。私たちも、目まぐるしい日々だろうか。
なすべき事は山積みで、ヘトヘトに疲れているだろうか。しばし、
仕事や人から離れて、心身を休め、主と交わるようにと。休息は必
要不可欠だ。リフレッシュされるために。
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祈りの時間がないときは、それだけ自分に頼って動き回っている。
それさえ気づかない。普段から静まり祈りの時を守りたい。穏や
かな主からの安らぎが必要だ。


2024年08月27日(火)

「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私 の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に 私を導いてくださるように」詩篇143:10



「主のみわざに目を留めよ。主が曲げたものを、誰が真っ直ぐにで
きよう」と言われているが、時に、私たちは、主が曲げたものとわ
からず、真っ直ぐにしようと、どれほど戦う事だろう。私たちは時
に、どうやっても思い通りにならない事態に出くわす。又、対人関
係で、思い通りでない相手が必ずいるものだ。

その時に、相手を変えよう、変えようと戦う。何とか変えようと、
骨を折るのだが、相手は全く変わらない。一人相撲で疲れ果て、も
はや力尽きて来る。どうやっても、どうにもならずに、主にギブア
ップだ。その時に、主が立ちはだかっておられる事に、目が開かれ
る。主がその状況を与えておられるのだ。受け入れようとの姿勢に
変えられる。

御霊に導かれ、受け入れた時に、状況は変わらず同じなのに、心に
平安が臨む。あれだけ苦しんだ心に、何にも代えられない、主の平
安が臨む。今、悪戦苦闘しているだろうか。どうやっても道が開か
れず、疲れ果てているだろうか。目の前の状況から、目を離し、主
を仰ごう。そこに主を認めて行く時に、あらがい続けた状況が違っ
て見える。

もし、主が道を閉ざしておられるなら、その事を受け入れよう。そ
う出来るように祈ろう。その時に、予想もしなかった、別の道が開
かれて行く。そして、自身の内側も照らされて、動機や内側にある
ものに気づかされて行く。主は、常に導きの主であり、平安の道へ
と導かれて行く。
--------------
主がこの状況を支配しておられるとの思いに導かれたら、恵みが見
えてくる。自分でしなければ何事も変わらないと頑張ってきたが、
主に明け渡す平安の道を進もう。


2024年08月26日(月)

「・・彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人と その妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」 創世記3:8


私たちは罪を犯した時に、どうだろう。本能的に、主の御顔を避け
てしまうだろうか。合わせる顔が無いと、隠れてしまうだろうか。
アダムとエバは、取って食べてはならないと命じられていた、善悪
の知識の木の実を食べた。それで善悪の知識が入ったがために、罪
を犯すと、主に顔向けできないことを知った。そのため、主を避け
て、遠ざかる。

そして御顔を避けて、主から離れ、逃げると、正しい判断、思考が
出来なくなる。そんな彼らに、主は御声をかけられた。「あなたは、
どこにいるのか」と。全知なる主は、彼らがどこにいるのかご存じ
だ。しかし、彼らのために、問いかけられた。罪を犯したり、失敗
すると、どうしても主を避けてしまう。善悪の知識により、自分で
まずいと判断するからだ。

しかし、御子の十字架の血潮による贖いがある。そして、恐れなく、
大胆に恵みの御座に近づくことができる。まさしく、私たちの罪の
ための十字架だ。「あなたは、どこにいるのか」は、主が私たちを
裁くため、責めるための問いではない。全面的に赦すため、主に立
ち返らせるためのものだ。「あなたは・・木から食べたのか」と、主
は問われた。

「はい、食べました。ごめんなさい」と、悔い改めの機会のためだ
った。主は、どこまでも私たちを愛して下さっている。「あなたは、
どこにいるのか」もし今、主と距離があるなら、今すぐに、主のも
とに帰ろう。「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあ
わせなのです」と。
--------------
罪を犯してしまったら遠ざかり隠れようとするが、それが見当違い
であることに気づきたい。主は「あなたは、どこにいるのか」とあ
われみ声をかけてくださるお方だ。自己判断せず御声に従いたい。


2024年08月25日(日)

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てる ことができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿 をとり・・」ピリピ 2:6



ある人が、職場で対応が難しい相手がいた。話すと、どうしても意
見が合わず、ことごとく反対しているのでは、と思ってしまう。相手
にトゲを感じ、話すことも苦痛になり、心が重く、主に祈り始めてい
た。祈っていると、相手の欠点ばかりが目につき、そういう見方し
かしていない自分に気づかされた。

相手が悪いと、絶えず相手を責めて裁いていた。相手にトゲを感
じていたが、トゲを出していたのは自分だった。丁度、学び会で「高
慢」について学び、その中で「ご自分を無にして、仕える者の姿をと
り」「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われ
た」キリストのへりくだりに、心が刺された。自らの高慢、プライド、
愛の無さを、嫌というほど示された。

悔い改めて、自分には無い、へりくだりを与えられるよう祈った。自
分には不可能と祈り続けていた。そんな時、相手と打ち合わせが
あったが、不思議が起きて、嫌な気持ちが無かった。いつもは嫌で、
仕方が無かったのに。話していた時、相手との関係が変化している
事に気づかされた。

和やかに対話でき、自分のトゲが消えていた。こちらが心を開いた
ので、相手の態度も変わってしまった。対人関係は、どちらかが変
わると、変わると言われているが、驚いた。これらの事は、全く自分
には不可能で、まさに御霊の働きであった。祈りに持って行こう。

・・・・・・・・・・・・・・
へりくだること、愛すること、自分を捨てることは、自分では不可能
だ。自我は対極にある。自分、自分で、どこまでも自分だ。御霊に
よってのみ、造り変えられる、そして与えられた愛で愛して行ける。、
まず現状を祈りに持って行こう。必ずみわざをもって導いて下さる。


2024年08月24日(土)

「私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがない ために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感 謝します」詩篇30:12



しょっ中、くよくよ〃と、思い煩う自分がいるだろうか。思い煩
うと落ち込み、暗く沈む。過去をああすれば、こうすれば良か
ったと、くよくよし、又、先の事を、ああなったら、こうなったら
どうしようと、起きてもいない事を心配し、不安でたまらない。
絶えず思い煩っているだろうか。

結局、思い煩いを自分が選んでいて、思い煩いが無くなると
不安になり、次の思い煩いを取り込む。ある人が「心の
奧を探ると、思い煩いが好きなんですよね。思い煩いが無いと、
不安になる自分がいる」と。自分の姿を認めて、変えていただこう。
「何も思い煩うな」「明日の心配は無用」御言葉に向き合い、
御言葉に従えるよう助けを求めて祈ろう。そして、「感謝する
こと」に、大きな力がある。感謝する事も難しい時には、主が
良くして下さった事を思い出そう。

思い出して、思い出して、思い出し続けよう。その時、不思議
だが、感謝が、じわじわと湧いて来る。主がして下さったことを
思い起こして感謝すること、それをし続ける時、自分が変えら
れて行く。全く何の資格も無い者に、助けや、祝福が与えられて
いるのは、罪を無代価で赦し、その罪を二度と思い出さないと
言って下さるゆえだ。

決して当然ではなく、どんなに恵みであり、感謝な事だろう。「あ
なたのすべての咎を赦し」、過失も失敗も、すべて赦し、益として
下さり、祝福に変えて下さる、その主の愛を信じて生きる時、心
に安堵と喜びが湧いてくる。私たちは、その愛によって、平安へ
と変えられて行く。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ずっと主に感謝できれば、どんなに祝福で喜びだろう。しかし、
思い煩いや恐れ、心配で、感謝が消えてしまう。すると不安や
不満となる。感謝は選択だ。感情は横に置いて、感謝を選ぶ
事が信仰だ。恵みを数えて、感謝を献げてみよう。


2024年08月23日(金)

「・・神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの 試練に会わせることはなさいません・・試練とともに脱出の道も備 えてくださいます」Tコリント10:13



信仰人生において、担いきれない重荷を抱え、どうしてよいかわか
らない、重苦しい、暗い夜を経験する。心は押しつぶされて、もう
だめだと思ってしまう。苦しい試練の時だ。しかし、ずっと夜のま
まではあり得ない。夜は明けて、必ず朝が来る。これは何と慰めだ
ろう。夕暮れには涙しかなくても、朝明けには全く違って、喜びが
用意されている。

試練には、定められた期間がある。トンネルは必ず出る。主が定め
られた時から、1分たりとも延びる事はない。すべてに神の時があ
り、試練の時も定めておられる。逆に、人は、成功が続く時こそが
危ない。莫大な遺産を相続して、人生を滅ぼしてしまう人々がい
る。成功の中で、自らを律っする事は非常に難しい。悪魔から来る
高ぶりの誘惑にやられてしまう。

高ぶりによって、失敗した人は少なくない。主ではなく、自分を誇
ってしまう。又、順境で、主を求めなくなる人も多い。人が、ひた
すら求めるのは平穏無事だ。しかし、神無くして、やって行けてし
まうので、主から離れてしまう。それにも、高ぶりの誘惑が来てい
る。そのため主が送られる試練は、必ず私たちの益だ。

試練の時は、何もかもが真っ暗闇に思える。が、主のよみがえりを
覚えよう。十字架で弟子達はつまづき、落胆絶望した。何もかもが
終ってしまった。しかし、その時に世界が一変した。死から命へ、
暗闇から光へ、悲嘆から大きな喜びに変った。今の苦しみは喜びに
変わる。信じて立とう。
--------------
失望落胆で泣いていても、三日待てば主は復活された。今日辛くて
も、明日は新しい一日を主が備えてくださっている。主を信じよ
う。共におられる主が今の祈りを聞いていてくださる。


2024年08月22日(木)

「ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまと って、主の宮に入った」イザヤ37:1


ヒゼキヤ王の時代に、アッシリヤ王セナケリブが、ユダを攻め取っ
た。セナケリブは、ラブシャケを送り、ヒゼキヤと人々を脅して来
た。大軍を伴い、挑んで来る。ラブシャケはユダの人々に、ヒゼキ
ヤは、主が救うというが、そんな言葉にだまされるな、救えないと
信仰を動揺させて来る。

これを聞いたヒゼキヤ王は、どうしたのか。衣を裂き、荒布をまと
って主の宮へ行き、祈りを献げた。そしてイザヤにも祈りを要請し
た。イザヤは祈り、アッシリヤ王について、主の答えを告げた。
「彼はもと来た道から引き返し、この町には入らない。わたしはこ
の町を守ってこれを救おう」と。

私たちにも、悪魔が攻撃をしかけて来る。信仰の迫害や経済的苦境
や様々な問題。圧倒的な勢力を持つこの世を前に、自分の無力を見
せつけられる。祈っても無駄だ、神を信じて何になる、しょせん無
力だと、心を萎えさせる。神を信じて立たないように、この世に妥
協して生きるようにと、誘惑して来る。そうすれば、楽に生きら
れ、世の成功を得られるからと。悪魔の巧妙なささやきだ。

このような時には「祈り」が強力な対抗手段だ。ヒゼキヤもイザヤ
も祈った。すると主は答え、奇跡をされ、主の使いを遣わし、アッ
シリヤは皆、倒れた。その結果、アッシリヤ王は去った。耳元に来
る悪魔の誘惑に気づけるように。今、信仰からそれさせようとす
る、悪魔の誘惑が来ているだろうか。「祈り」によって立ち向かお
う。主が働いて下さる。
--------------
問題が起こるたびに、祈るより行動せよと悪魔の誘惑が来る。あち
こち頼れる策をと声が来る。主に祈り、全てを委ね、助けを求めよ
う。悪魔の誘惑を流し、まずは祈ろう。


2024年08月21日(水)

「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を 犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないので す」Tヨハネ3:6



私たちが「神の子」である事の根拠は何だろう。善行、立派な態度
だろうか。信仰的、霊的だから、神の子だろうか。主の言われる事
に、きちんと従っているから神の子だろうか。しかし霊的クリスチ
ャンだから、神の子なのではなく、主イエスを信じ、新しく生まれ
た瞬間に、すでに神の子だ。

母親から生まれたから、その子どもであるように、私たちは、神か
ら生まれたから、神の子だ。良い行ないや態度の事でなく、生まれ
の問題だ。使用人は、主人の財産を相続する事はない。しかし、子
どもは、親の財産を相続する。私たちは、親である神の相続人だ。
子どもなので、何もかもを相続する。キリストとの共同相続人だ。

何という驚くべき、恵まれた地位にいる事だろう。放蕩息子の兄
は、怒り、ふてくされていた。しかしその兄に、父親は「私のもの
は、全部おまえのものだ」と言われた。全部と。御父と私たちは、
雇用関係でなく、無条件で愛され、愛で繋がる親子関係だ。子であ
るなら、親に似て行く。聖くなる事を求めて行く。

キリストにとどまる者は、罪の内を歩まないとある。これは、全く
罪を犯さないという意味でなく、弱さのゆえに罪は犯してしまう
が、故意に罪を犯し続けないと。御霊を宿すと、罪を犯すと苦しく
なり、犯し続ける事ができない。「なぜなら、神の種がその人のう
ちにとどまっているから」神の種は、御言葉だ。

神の言葉が心にととまるので、罪を犯し続ける事から守られる。神
から生まれ、神の種を持っているからだ。サタンにも、罪にも、打
ち勝って行ける。
--------------
私たちはすでに神の子供という立場だ。何という恵みだろう。失敗
したり、力なく落ち込むとき、この主の約束の上に立ち、喜びを取
り戻そう。主を信じた時からこの希望の上に立たされている。


2024年08月20日(火)

「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とと もに、みな捨て去りなさい・・神がキリストにおいてあなたがたを赦 してくださったように、互いに赦し合いなさい」エペソ4:31



ある人が、職場でどうしても受け入れられない、難しい相手がい
た。何かと言葉にトゲがあり、傷ついた。出来るだけ避けて、接触
したくなかった。仕事上のイライラがあると、ぶつけて来た。嫌
な、嫌いな相手だった。トラブルを起こしたくないので、ひたすら
我慢していた。

その相手が部署替えとなり、場所的に、もう顔を合わせる事が無く
なった。解放感に安堵した。だが少しして気づかされた。もう顔を
合わせる事も無いのに、自分の心が縛られている事に。恨みと憎し
みが、根深く心の奥にあり、消えないのだ。ふっと思いに来ては、
心が暗く沈んだ。目の前にいないのに、心はがんじがらめだった。

平安が無く、余りに苦しいので、主の御前に行き、心を打ち明けて
祈った。祈る中で示されたのが、恨みと赦せない思いだった。自我
が握って決して放そうとしない。憎んでいたい、自分の罪だった。
それが平安を奪っていた。人を憎むのは、誰でもなく、自分が苦し
い。余りに辛くてたまらず、主の御前に罪を悔い改めた。

大嫌いな相手を赦す決心をした。すると不思議だが、自分の心が変
えられた。自分には出来ない、御霊の力だった。平安が戻った。今
度は真の解放感と安堵が静かに心に広がった。人を赦すことは、御
霊にしか出来ない。そして真に自由にして下さる。まず主のもとに
行き、ありのままの心を打ち明けよう。必ず導いて下さり、平安を
返して下さる。
--------------
何度も人にされた悪を思い出し憎んでいるとき、肉の自分が喜んで
いるのを感じる。そこを認めて悔い改めよう。主が赦し、解放して
くださる。自分には出来ないが、主がさせてくださる。


2024年08月19日(月)

「彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言 うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」 マルコ4:41




ガリラヤ湖はすり鉢状で、山に囲まれているため、突如の嵐が発生
する。この日、主は「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われ、弟子た
ちは従い、舟を出した。主は疲労のため、舟のともですぐに熟睡さ
れた。そんな時に、突如の嵐が起きた。凄まじい突風で、大きな波
をかぶり、舟は水で一杯になった。今にも浸水し転覆しそうだ。

日頃、漁をする自分の庭みたいな湖で、嵐に慣れている漁師です
ら、驚き慌て、パニックになった。しかし主は、この大騒動の中、
動じる事なく熟睡しておられた。弟子たちは、主が同船しておられ
るのに、恐怖でパニックだ。状況に飲み込まれてしまい、目の前に
主がおられるのに、パニックで右往左往だ。だが、主の舟が沈む事
が不可能で、有り得ない。

主は「向こう岸に渡る」と言われた。舟が沈む〃と怯えているの
は、私たちの姿だろうか。厳しい試練に会うと、すべてがだめにな
ると思ってしまう。少し体調崩すと、このまま寝たきりになる。仕
事で失敗すると、一生がだめになる。子どもに何かあると、子ども
の一生はもうだめだ・・。恐怖しかない。主は「どうして、そんなに
恐がるのか、信仰が無いのはどうしたことか」と言われた。

しかし嵐の中で、主が風を叱りつけ、ピタリとなぎになるのを、目
の当たりに見て驚愕した。もし、舟を出さず、岸を歩いて回ったな
ら、嵐に会わなかった。しかし主が自然界をも支配する方だと、知
る事もなかった。試練は厳しいが、必ず大きな祝福へと結果して行
く。
--------------
いつまでも恐れや不安を克服できない者だ。主はその度に、どうし
て、そんなに怖がるのかと嵐を凪にしてくださる。試練は主の助け
を経験できる時とされる。助けてくださいと祈れる事が感謝だ。


2024年08月17日(土)

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、 進もうではありませんか」ガラテヤ5:25



主の証しの素晴らしさを見せられた。未信者の婦人が、平日の
学び会に初めて来会。夫が米国人で、結婚後米国に居住。異国
の地で言葉もわからず、文化、習慣も違った。大きな戸惑いの中、
義父母がクリスチャンで、何もわからない自分に大変親切にし、
愛情を注いでくれた。

今回、久しぶりに母子で、日本に里帰りの中、突然、義父急死
の連絡。もう大変なショックで、すぐ戻ると言うと、夫が、もう葬儀
は間に合わないから、日本で両親と過ごすようにと。涙が止まら
ず、葬儀の時間に、義父が最も愛した教会に、自分もいたいと
切望した。まだネットも無く、平日に集会がある教会もわからず、
どうしても教会に行きたく、米国の日本人友人のつてをたどり、
ここを教えてもらったと。

「義父は、もうそれは言葉に尽くせないほど、愛してくれたんで
す。良くしてくれて」と涙。「私も同じ神を信じたいです。アメリカに
帰ったら、教会に行きます。」と帰られた。「ことばや口先で愛す
ることをせず行ないと真実をもって愛そうではありませんか」。義父
の愛が大きな証しとなり、彼女は主を求めるよう導かれた。

神を愛する事、隣人を愛する事は自分の力では、到底不可能だ。
肉はどこまでも自己中心であり、「肉の願うことは、御霊に逆らい、
御霊は肉に逆らう」。この二つは対立していて、自分のしたいと
思うことができない。御霊によって歩む事により可能だと。まず祈
りから始める事ができる。主は一歩一歩手を取って、わかるよう
に導き、なすべき事も教えて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
御霊に導かれた人々によって、心に渇きが起こされて、救いや
成長に導かれる。自分には無いものがわかり、心惹かれるから
だ。御霊に導かれることを祈り、求めて、歩んで行きたい。


2024年08月16日(金)

「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者 たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」マタイ25:40



「靴屋のマルチン」という物語を聞いた事があるだろうか。ある
日、主がマルチンに現われ「明日、お前のところに行く」と言われ
た。マルチンは、もう嬉しくて〃たまらず、仕事をしつつ、窓を見
ていた。すると厳寒の中、雪かきの老人がいた。冷え切った老人を
家に迎え、温かいお茶を振舞った。次に、貧しい母親が寒そうに赤
ん坊を抱いていた。彼はその母子を家に招き、すっぽりくるめる暖
かい肩掛けを与えた。

主は、まだか〃と見ていると、少年が盗みをしたのを目にした。彼
は、少年のために執り成し、相手に一緒に謝った。夜になり、とう
とう主は来られなかったと、ひどく失望落胆した。すると主が「今
日、お前のところへ行ったのがわかったか」と言われ、何と主の姿
が、「雪かきの老人」「貧しい母親」「盗みをした少年」に変わっ
たのだ。

目の前の人に、手を差しのべるなら、それはまさに、主にしたのだ
と教えられた。いかに小さなものでも、あなたの手にあるものを、
必要としている人に与えるなら、主が受け取られ、あなたに豊かに
報いて下さる。「最も小さい者のひとりにしたのは、それは、わた
しにしたのです」と。又、「寄るベのない者に施しをするのは、主
に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる」と。

又、逆に、「最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたし
にしなかったのです」とも言われている。そして行ないと真実をも
って愛して行く時、神の御前に心を安らかにされると。そして求め
るものは何でも神から頂けて、祈りが答えられると。
------------
主の恵みと愛ははかりがたく大きい。その恵みに反して人を愛する
ことができない者だ。愛を持って人に接することは簡単には出来な
い。主に求めなければ出来ない。祈ろう。


2024年08月15日(木)

「仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ・・ わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな」ハガイ2:4



私たちの信仰生活の中で、主の「時」と、主の「みこころ」は、非
常に大切な事柄だ。信仰人生に起きる、すべての事に、美しい「神
の時」がある。同時に、主は、私たち一人一人に、「みこころ」を
持っておられる。主のご計画がある。「あなたがたのために立てて
いる計画」だと。

ユダの民は、バビロンから帰還したが、捕囚になったバビロンで生
活し、すでに70年間が経過していた。戻ったエルサレムは、荒れに
荒れ果てていた。ユダの民は、中断したままの、宮の再建につい
て、まだ今でなくてもよいと、言い訳をしていた。その本心は自分
の事と自分の家の事で忙しく、主の宮の事まで、時間も労力も回ら
なかった。そこに主への不従順、不信仰があった。

自分の好む事は快適であり、心地良く、幾らでも時間も労力も割い
て行ける。全く苦にならない。自分の好きな事、生きがいや仕事や
趣味・・一見、罪では無いので、むしろ良い事だったりするので、没
頭していて気づかない。しかしユダの民には、神の時が来ていた。
「宮を建てよ、栄光を現わす」と言われる。「仕事に取りかかれ」
と。まさに「時」であり、「御心」であった。

あなたに、何かの御心を示しておられるだろうか。自分の事に夢中
で、手放したくなくて、見ようとしていないだろうか。中断したま
まの事があるだろうか。言い訳や弁解している事が、何かあるだろ
うか。今、仕事にとりかかれと示されているだろうか。
----------
仕事に取りかかれ、わたしの霊があなたがたとともにいると主は励
ましておられる。やり残している事はないだろうか。主のご計画の
完成のために用いられる。従いますの心でいたい。


2024年08月14日(水)

「しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには 地に落ちることはありません」マタイ10:29



私たちが、信仰生活を送る際に、毎日〃の歩みにおいて、次から次
へと様々な事が起きる。突如の出来事、全くの想定外の事、理解で
きない事態、悩み問題、苦しみ、悲しみ・・誰しもが必ず経験する。
しかし、その一つ一つの、すべての事が主の許しによるのであり、
主の御心であり、意図があり、私たちに必要なものである事を、ど
んな時にも信じ、主に信頼を置こう。

右にも左にもそれないで、信じることを選択する。「主を信じてい
るのに、なぜこんな事が?」「何で何で?私は従っているのに、こ
れが神の愛?」「他の人は皆、幸せそう」「なぜ自分ばかり?」・・
こんなサタンが、吹き込む火矢を受け入れて行くと、自己憐憫に陥
り、不信仰や疑いの闇にどんどん落ち込んで行くばかりだ。

心が沈み込んで、失望落胆、迷いと疑い、暗闇の迷路に入り込む。
とにかくサタンは、主から目を離すよう、状況と自分に目を釘づけ
にさせようとする。順境も逆境も、起きる出来事は、主の許しの中
だと堅く信じて立つ時、「すべての事について感謝しなさい」の感
謝へと導かれる。理解は出来ないのだが、信仰により感謝する事が
できる。

「万事益」「主はご自分では、しようとしていることを知っておら
れ」「立てている計画をよく知っている」「災いではなく、平安と
将来と希望のためのもの」。今、悪魔の攻撃が来ているだろうか。
御言葉を選択して、立てるよう、主に助けを求めて祈ろう。
--------------
心に平安がなくなる時、いつしかサタンと会話している。主から遠
く離れている。主に祈り、問題の中に主がおられる事を信じよう。
何かを教えてくださる。主に委ねたい。


2024年08月13日(火)

「御霊によって歩みなさい・・なぜなら、肉の願うことは御霊に逆ら い、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて・・ 自分のしたいと思うことをすることができないのです」 ガラテヤ5:17



ある人が、バイトの対人関係で、相手の言葉にひどく傷ついた。悪
意では無いと思おうとしたり、様々考えるのだが、言葉自体は、心
に突き刺さった。月数回のバイトで、普段は会わないのだが、痛み
が根深く心に残った。しかし自分はクリスチャンであり、赦して愛
すべきでは。だが、どうしても出来ない、無理で、苦しい。

明日は出勤という夜に、余りに辛くて祈りに持って行った。主の御
前に心を広げ、主と交わり、心の思い気持ちをことごとく告げた。
その中で、相手への恨み、憎しみ、怒り、さばく思いがある事を、
認めて、御前に悔い改めた。そして自分ではどうも出来ないので、
御霊によって導いて下さるようにと、主にゆだねた。

「御霊によって歩みなさい」とあり、御霊こそが、肉に打ち勝たせ
て下さると。自分の力では、赦すことなど不可能だ。それは、肉と
御霊の願う事が、全くの正反対で、肉は恨み続けていたいし、御霊
は赦して愛される。その二つの狭間で、がんじがらめになるからだ
と。だが、御霊によって歩むなら、「肉の欲望を満たすことは決し
てない」と御言葉は断言する。

ゆだねた後、あんなに苦しかった気持ちが楽になり、平安になって
驚いた。翌日出勤し、昼に食堂でバッタリ相手に会った。御霊の導
きを感じた。挨拶すると、ひとしきり会話になり、何と共通の話題
で盛り上がり、心楽しかったのだ。今度食事にと誘われ、快諾し
た。御霊による事を、知らされた経験だった。
-----------
肉は憎い相手はどこまでも憎く、近づきたくないが、御霊によって
歩む生活が確かにあると主は言われる。祈り、自分の思いに固執せ
ず自由にされ、て与えられた御霊に従いたい。


2024年08月12日(月)

「主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は 病気になった。ダビデはそのその子のために神に願い求め、断食を して、引きこもり、一晩中、地に伏していた」Uサムエル12:15


ダビデは、愛する我が子が病気になった時、断食していやしを祈り
に祈り続けた。しかし必死の祈りも叶わず、子どもは死んでしまっ
た。普通なら、こんなに切なる願いが叶えられず、我が子の死を前
に、ダビデはどんなに嘆き、悲しみ、打ち沈んだ事だろうと思って
しまう。だが愛する我が子の死を知ったダビデは、そうではなかっ
た。

身体を洗い、身に油を塗り、着物を着替え、主の宮に入った。そし
て礼拝したのだった。それから家に帰り、食事をした。家来たちは
非常に驚いた。子どもが生きている間は、断食をして泣いて祈った
のに、亡くなると起き上がり、食事をするとは、と。なぜなら、自
分は子どものところへ行くが、もう子どもは私のところに戻って来
ないからだと。

私たちはこのダビデから学ぶ事が出来る。自分の願いは、願いとし
て、きちんと主に祈るべきだ。しかし、しばしばその祈りの答え
が、自分の願いと異なる場合がある。それは、どんなに強烈な願い
でも、「ノー」が答えであり、それが主からの御心なのだ。その時
は、その「ノー」をダビデのように受け入れよう。難しければ、そ
うできるよう主に助を求めて祈ろう。

今、あなたも主から「ノー」の答えを受け取っているだろうか。自
分の思いとは違うが、主の御心として厳粛に受け入れられるよう、
祈ろう。そこで主を新しく知って行ける。その答えは「ノー」だ
が、霊的には「イエス」で、一歩前進して行ける。そこに祝福が備
えられていて、そして成長して行ける。
--------------
主を信頼し御心をされると信じているから祈り求める。それは答え
がノーであっても変わらない。最善を信じ受け取りたい。受け取れ
るよう主が心も整えてくださる。主の最善を信じよう。


2024年08月11日(日)

「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の 上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」マタイ7:24


賢い人と愚かな人が出て来る。どちらも家を建てた。賢い人は岩の
上に、愚かな人は砂の上に。家の外観は全く同じだが、土台が違
った。岩の上に建てるには、地面を深く掘り下げる。大変な労働だ。
一方、砂の上は、そんな手間は必要無く、簡単で手っ取り早い。何
も無い時は、外側は全く同じに見える。

だが嵐が来て、雨風が打ちつけ、洪水になった時に、違いが明白
になった。岩の上に建てられた家は、全くびくともせず、砂上の家
は倒壊してしまった。そしてその壊れ方は酷いものだったと。二つ
の家で、どちらかが御言葉を聞き、もう一方は聞かない、ならわか
りやすいが、どちらも御言葉を聞いている。結果が変わるのは、
その聞いた御言葉を行なうか、行なわないかによった。

聞くか、聞かないかではなく、実行するか、しないかで決まる。今、
示しがあるだろうか。御言葉に従えないで、ぐずぐずしているだろ
うか。困難な事に思えるだろうか。ありのままを告げて、助けを求
めて祈ろう。岩の上は、主を土台とし、御言葉に従うことであるが、
砂の上とは、自分の思い、知恵、力、経験値、世の価値観で歩む
ことだ。

順風の時は、二つの家は違いが無く、全く同じに見えるが、嵐が、
試練が来た時に、大きな違いが出る。自分の思いと自分の力で歩
む結果、倒壊してしまい、その倒れ方はひどいと。一歩一歩御言葉
に従って行く時に、私たちの人生は建て上げられて行き、自分が変
えられて行き、必ず豊かな実を結ぶ。目の前の示しに、従えるよう
祈ろう。
・・・・・・・・・・・・・・・
聞いた御言葉を実行するか、しないかの違いを言っている。示され
た言葉を一つ、一つと、実行して行こう。難しければ、どこがどう難
しいのか、具体的に祈ろう。実行する力も、主から来る。助けが必
ず臨む。従う事に平安に満たされる。


2024年08月10日(土)

「・・父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがた にすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべ てのことを思い起こさせてくださいます」ヨハネ14:24


ある人が、技術を更に伸ばしたいと、習い事に通っていた。だがそ
こに非常に苦手な相手がいた。ずけずけと、トゲのある物言いをし、
傷ついてしまう。状況的に、言葉を交わさねばならず、避ける事も
できず苦痛だった。しかし自分はクリスチャン、相手の失礼な態度
にも礼儀正しく接っしていた。

何とか良好な関係をと祈り、努力するのだが、毎回傷ついてしまう。
心が重苦しく、辛くて祈る日々だった。習い事を辞めればよいのだ
が、講師が、その道で名の通った技術ある人物のため、どうしても
習いたかった。そんな状態で続けていた時に、急遽の事態が生じた。
親の介護、子どもの事、家庭に様々な事情が起きて、とりあえず一
旦、辞めることになった。

それはそれで、もう顔を合わす事も無くなり、気が楽になったはずな
のに、何か心が晴れなかった。相手が人一倍きつい人で、人を傷つ
ける物言いをし、自分は被害を受けていると、ずっと思っていた。しか
し祈りの中で気づかされた。実は自分の方が、相手に心を閉ざし、
受け入れていなかった。

相手を嫌い、さばいていたのだと。被害者としか見えず、自分の内側
など考える事も無かった。自分の側の事として、主に悔い改めた。そ
の時、重くもやもやしていた心が、雲が晴れ、すっきりし平安になった。
この平安は、何ものにも代えられないものだ。

・・・・・・・・・・・・・・・
救われたクリスチャンは聖霊が内におられる。そのため、この世的
には、外側、問題が無くとも、心に平安が無いことを、時に経験する。
平安が無い時は、何かが御心と違っている。祈りにより、御霊が心
を探り、気づきを与え、そして主からの平安へと導いて下さる。


2024年08月09日(金)

「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。」ルカ4:42




人は、人生の中で孤独を感じる時がある。主を信じる以前は、罪に
より、主との交わり断絶のために、孤独で虚しく、生きる目的もわ
からなかった。主のもとに帰った今、時に主は、私たちに孤独を送
られる。家族から離れての一人住まい、誰も知った人のいない地へ
の転居、学校や職場、近隣で心を割って話せる人がいない・・等。

だが、その孤独はむしろ良いもので、私たちを主に近づけてくれ
る。時に、主は私たちを、ご自身に集中させたいがために、孤独を
送られる。ダビデも「わたしは、ただひとりで悩んでいます」と言
った。主からの特別な取り扱いだ。寂しさの中で、心が主にのみに
向けられ、望みが神だけになる。

又、自分自身を深く見つめる時とされる。主との深い交わりを経験
する。今、人との交わりが無く、孤独だろうか。親しい人が自分の
もとを去っただろうか。裏切りがあっただろうか。主も、私たちの
罪を負うゆえに、十字架上で御父に背を向けられた。ゲッセマネの
園では、弟子たちが眠る中、深い孤独の中で祈られた。

主が捕らえられると、弟子たちは、逃げてしまった。誰よりも孤独
を知り、理解して下さる同伴者だ。主ご自身が慰めて下さる。主を
捨てた弟子たちへの言葉が「わたしは決してあなたを離れず、ま
た、あなたを捨てない」。「わたしは、あなたをともにいる」だ。
主は決してあなたを離れず、見捨てられない。

主は時に、孤独を送られる。世の騒がしさから離れ、人の交わりか
らもしばし離れ、主にのみ心を向けさせるために。そうでなけれ
ば、人で満足してしまい、主のもとへは行かない。孤独が来た時
は、主と交わり、主で満たして頂こう。
--------------
目先の様々な事に捕らわれているところから、一人にされ主と深く
交われる時を感謝したい。悩みつつ祈り、主に力を受けてまた立ち
上がれる。主が傍におられる。


2024年08月08日(木)

「また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、 枯れてしまった」ルカ8:6



種が、岩地に落ちた。薄い土があったので、すぐに芽を出した。し
かし、ギラギラと照りつける太陽が昇ると、深く根を張っていない
ため、枯れてしまった。この強く照りつける同じ太陽が、深く根を
張った植物には、逆にどんどん成長させる事になる。同じ一つのも
のが、一方は成長させ、他方は枯らしてしまう。

私たちに必ずやって来る試練も同じだ。ある人にはその苦しい試練
が、更に成長となり、学びを得る。別の人は、試練で、主から離れ
てしまう。御言葉を聞いた時には、喜んで受け入れるのだが、根が
無いのでしばらくは信じていても、試練になると身を引いてしま
う。試練は非常に痛いが、しっかりと受け止めるなら、どんな苦し
みも、私たちを損なう事ができない。

主はそれを用いて、私たちを砕き、練り、きよめて成長させて下さ
る。しかし、心を頑なにしたり、又、こんなはずでは無かったと、
失望落胆の方に向かうと、枯れて行ってしまう。試練で離れて行っ
た人々は少なくない。御言葉に、心を向けよう。愛の御手から送ら
れていて、耐えられない試練は無い事を確認しよう。必ず逃れの道
が備えられている。

何度も御言葉に立ち返り、祈りと御言葉から離れないでいよう。苦
しい、辛い、痛い、そのままの気持ちを、思いを、主に持って行
き、聞いて頂こう。すべて受け止めて下さる。親が、小さな子と手
をつないで歩く時、子どもが石につまずきそうになると、ぐっと手
に力を入れて、子どもを守る。同じように主は苦しみの時には、強
く抱いていて下さる。
--------------
試練の中で主に教えられた経験は、次の試練の時の大きな力にな
る。主が御手をもって守り、試練の中にあって希望を与え支えてく
ださる。決して枯れることがない。主と共に試練を抜けていける。


2024年08月07日(水)

「この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願った からである・・今、わたしはあなたの言ったとおりにする」 T列王3:10



ソロモンは、主から「あなたに何を与えようか。願え。」と問われ
た。その時に、ソロモンは、莫大な富でも素晴らしい栄華、名声で
も、何でも求めることができたが、民を治めて行けるように、「善
悪を判断して、聞き分ける心を」と求めた。すると、その求めは主
の御心にかない、主から、「知恵の心と判断する心」を与えられ
た。

尚もそれと同時に、あなたは自分の長寿や富や敵の命を求めなかっ
たからと、ソロモンの願わなかった富と誉れをも与えられたのだっ
た。ソロモンの求めが、叶えられたのは、主のお心にそっていたか
らだ。自己中心な欲望からの求めではなく、主のお心にそって求め
た。なぜ、御心にそった、求めができたのだろう。

それは、ソロモンが主を愛し、主を礼拝していたからであった。主
を愛し、主に従いたい、御心を行なおうとの思いがある時、主の心
にそった求めをして行く。主を愛しているからだ。主との平素から
の交わりの中で、主の心が少しづつわかる者とされて行く。そし
て、主の心にかなった願いは必ず答えられる。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを
聞いてくださる・・私たちの確信です」そうであれば、「神に願った
その事は、すでにかなえられたと知る」と。「求めなさい。そうす
れば与えられます」と言われている。

主を愛し、主のお心を求めながら、願って行けるよう。神の国とそ
の義を第一に求めて行けるよう、祈ろう。主は気づきを与え、軌道
修正しつつ、信仰生活を導いて下さっている。
--------------
主の御心に叶った祈りはすでに聞かれている。確信をもって祈り続
けよう。一つ一つ導きがあり、祈りの答えがパズルのように埋まっ
ていく。主の御心とそれが実現することを求めたい。


2024年08月06日(火)

「ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込ん で、イスラエルの人口を数えさせた」T歴代21:1



ダビデは、人口調査をしたのだが、それはサタンの誘惑によるもの
だった。普通に人口を調べるために、人口調査は行なわれる。ヨセ
フとマリヤも住民登録のために故郷に行った。しかしこの場合は違
った。物理的に人口を数えるためではなく、ダビデの動機は、自ら
の力を誇りたいがためだった。

サタンが、ダビデを誘い込んで、人口を数えさせたとある。ヨアブ
が止めたが、ダビデは実行した。その結果、主の御心を損なった。
心の底に潜む罪は、普段は外に現われない。だが何かの要因があっ
た時に、以前からあったものが、外に現れ出る。ダビデは、サタン
の巧妙な誘惑に負けて、人口調査をしたが、その根は高慢の罪であ
った。

主によって与えられたものを、自分のものとし、自分の力として、
その軍事力を誇ったのだ。高慢は、霊的な罪だ。外側には見えない
が、その罪により、多くの人が倒れて来た。明けの明星が、天から
落ちたのも高慢の罪だ。私たちの心の底に根深く巣くう罪だ。高慢
を警戒しよう。自らの思い、意志を通す事は、自分を神とすること
だ。エデンの園でエバはサタンの誘惑により、自分が神になって生
きる道を選んだ。

しかし、主の十字架のあがないによって、私たちは正しい位置に戻
され、神を神として礼拝し、あがめて生きて行ける。何という恵み
だろう。かつて大きく祝福されていたのに、高慢になり倒れた人は
少なくない。絶えずサタンの誘惑が臨んでいる。この罪をことさら
警戒し、守られるよう祈っていよう。
--------------
心に芽生えた罪は、サタンによって表に現されてくる。なんと恐ろ
しい事だろうか。自分ではわからない高慢の罪を、へりくだり主に
頼り、警戒していよう。


2024年08月05日(月)

「私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。 そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを 知りましょう」イザヤ37:20



ヒゼキヤ王の時代に、アッシリヤ王のセナケリブが、ユダの町々を
攻め取った。セナケリブはラブシャケを送り、ヒゼキヤと人々を脅
す。大軍の、強大な軍隊を誇示し、挑んで来る。「ヒゼキヤ王は、
主が救うというが、だまされるな、信じるな」と、信仰を大きく揺
るがして来る。これを聞いたヒゼキヤ王はどうしたのか。

彼は衣を裂き、荒布をまとって主の宮へ行き、主に祈りを献げた。
王は、イザヤにも祈りを要請した。祈りが最大の武器だ。悪魔の私
たちへの攻撃も同様だ。私たちに挑み、攻撃をしかけて来る。経済
的困窮や対人関係の苦しみ、様々な悩み問題、信仰ゆえの戦い・・が
臨む。圧倒的な勢力のこの世を前に、自分たちの無力を見せつけら
れる。

目の前の巨大な問題に圧倒されてしまい、祈っても無駄だ、何にな
る、主を信じてもどうにもならない、しょせん無力だ・・。主を信じ
て立たないよう、この世に妥協するよう誘惑する。そうすれば楽に
生きれる、まさつも無く、しかも世の成功も手にできる。悪魔だ。
このような時の対抗手段は祈りだ。

ヒゼキヤもイザヤも真剣に切に祈った。祈りに答え、主は奇跡をさ
れた。主の使いが、アッシリヤの軍勢18万5千人を打ち殺したの
だ。セナケリブは立ち去った。世に妥協させようと、耳元に来る悪
魔の誘惑に気づけるよう。祈りにより立ち向かおう。そして大事な
事は、悪魔の背後に、全権を持つ主の支配があり、主の御手の中で
ある事に視点を置こう。
--------------
主の前にすべて吐き出し率直に祈ろう。すぐに動き始めよとサタン
は祈りを取りに来るが、それでは足元が崩れてしまう。助けを求め
るのは主だ。主の導きを信じて立とう。


2024年08月04日(日)

「ここで、私たちは兄弟たちに会い、勧められるままに彼らのとこ ろに七日間滞在した。こうして、私たちはローマに到着した」使徒 28:14


パウロは、宣教のためにローマ行きを、主から示されていた。エ
ルサレムでと同様に、ローマでも証しをするようにと。だが、第3
次伝道旅行の後、エルサレムで、「除け。生かしておくべきでない」
と、人々に殺されそうになり、大騒動になった。その結果、投獄と
なり、ローマ行きは、絶望的に思えた。

しかし、監禁により、逆に暗殺者から守られる事になった。実の
無い裁判に見えたが、それは、総督のペリクスやフェストに証し
をする機会となった。又、丁度、そこにアグリッパ王が総督フェ
ストに会いに来たため、王にも福音を語る機会となった。そして
パウロは、ローマ皇帝に上訴したため、これがローマへの道を
開く事となった。

パウロの思いとは異なり、囚人としてローマに向かう事になった。
その船が大嵐に会い、幾日も激しく翻弄され、死に直面する大変
な事態となった。だがパウロは、必ずカイザルの前に立つとの、
主の言葉を信じきっていた。船は座礁したが、全員が板や物に
つかまり、岸に辿りついた。「こうして、私たちはローマに到着した」。

パウロは、主の言葉通りローマに着き、福音を伝えた。何があっ
ても、どんな障害があっても、主は、必ず御言葉を実現される。主
が語られた事は100%成就する。あなたは今、途上の紆余曲折の
苦しい中にいるだろうか。「こうして、ローマに到着した」。必ず、あ
なたに約束された主の言葉は成就する。信じていよう。そうできる
よう祈ろう。忍耐が与えられるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
主の言葉は必ず成就する。パウロは思いと違って、囚人として
であったが、御言葉が実現した。自分の思いと違う形で、約束
の言葉が成就しているかも知れない。見張っていたい。


2024年08月03日(土)

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、 律法の要求が全うされるためなのです」ローマ8:4


職場で、学校で、近隣で、どうだろう。「あの人さえ変わってくれ
れば!」私の苦しみは終わり、何の問題も無くなるのに。嫌な相
手が、目の前に現れる。パワハラだったり、いじわるな相手だっ
たり、又、無神経にプライバシーに踏み込んで来る相手だったり、
苦しみが目の前にある。

対人関係で職場を変わったとしても、又、次の職場にも、必ず嫌
な、ギクシャクする相手がいる。相手が謝りさえすれば、相手が
変わりさえすれば、こちらだって態度を変える気持ちはあるのに
と。こちらから先に出る事は、プライドが許さない。相手を変えよ
う、環境を変えようと悪戦苦闘をするのだが、全くうまく行かない。

今も、あなたにも、そんな状況が目の前にあるだろうか。しかし
それは主の取り扱いだ。主からのものと、受け止められるよう
祈ろう。時に、嫌な相手に、自分自身の嫌な部分を見て、相手を
否定している。見ているのは嫌な自分だったりする。しかし、これ
らは、自分の力では、どうにもならない。自分を変える事が、主の
御心である事を悟るのだが、しかし自分を変える事は至難のわざ
だ。ありのまま主のみもとへ行こう。

人を裁く自分、人を赦せない自分、プライドが高く、プライドを捨て
られない自分、これが私ですと、そのまま主のもとへ行こう。主は、
ありのまま愛して下さっている。何も、どうにも出来ない事を、認め
て、ゆだねた時に、御霊が力強く働き、御霊が事を成して下さる。
その時、自分が変えられて行く事を発見する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
敵を愛したり、赦したり、何かを受け入れたり、それは自分の力
では不可能だ。肉の内に善が住んでいないことを知るばかりだ。
いつも自分を明け渡して行く時に、御霊が成し遂げて下さること
を経験させられる、信仰人生だ。


職場で、学校で、近隣で、どうだろう。「あの人さえ変わってくれ
れば!」私の苦しみは終わり、何の問題も無くなるのに。嫌な相
手が、目の前に現れる。パワハラだったり、いじわるな相手だっ
たり、又、無神経にプライバシーに踏み込んで来る相手だったり、
苦しみが目の前にある。

対人関係で職場を変わったとしても、又、次の職場にも、必ず嫌
な、ギクシャクする相手がいる。相手が謝りさえすれば、相手が
変わりさえすれば、こちらだって態度を変える気持ちはあるのに
と。こちらから先に出る事は、プライドが許さない。相手を変えよ
う、環境を変えようと悪戦苦闘をするのだが、全くうまく行かない。

今も、あなたにも、そんな状況が目の前にあるだろうか。しかし
それは主の取り扱いだ。主からのものと、受け止められるよう
祈ろう。時に、嫌な相手に、自分自身の嫌な部分を見て、相手を
否定している。見ているのは嫌な自分だったりする。しかし、これ
らは、自分の力では、どうにもならない。自分を変える事が、主の
御心である事を悟るのだが、しかし自分を変える事は至難のわざ
だ。ありのまま主のみもとへ行こう。

人を裁く自分、人を赦せない自分、プライドが高く、プライドを捨て
られない自分、これが私ですと、そのまま主のもとへ行こう。主は、
ありのまま愛して下さっている。何も、どうにも出来ない事を、認め
て、ゆだねた時に、御霊が力強く働き、御霊が事を成して下さる。
その時、自分が変えられて行く事を発見する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
敵を愛したり、赦したり、何かを受け入れたり、それは自分の力
では不可能だ。肉の内に善が住んでいないことを知るばかりだ。
いつも自分を明け渡して行く時に、御霊が成し遂げて下さること
を経験させられる、信仰人生だ。


2024年08月02日(金)

「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。 あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51:17



あなたも失敗した事があるだろうか。ある人が大失敗をしてしまっ
た。よく考えもせずした罪の行為に、後悔しても、しきれなかっ
た。自分としたことが、何と愚かな、思慮のない事をしてしまった
のだろう。しかし御霊に示された。想定外の事ではなく、紛れもな
く、それが自分なのだと。愚かな者であり、そのような者なのだ
と。

肉で歩むと、生まれつきのまま、欲望のままに歩んでしまう。人
は、自然にしていると、自己中心に歩む。手痛い失敗を通して、自
分が、いかに罪深い者であるかを知り、心砕かれた。主の十字架
が、まさに自分のためだと知らされた。それまで、罪人と言われて
もよくわからず、ピンと来なかった。

しかし、自分が罪を好み、自然にしていれば罪を犯し、又、罪を犯
しても尚且つ平然としている、罪深さを知った。過失を犯してしま
ったが、痛く辛い所を通ったが、初めて十字架が自分のためである
実感が来た。人前にも、隠しようのない失態であった事も益とされ
た。人に知られた事によって、プライドは砕かれ、へりくだらされ
た。

もし、人目に隠しおおせたなら、懲りずに、次はバレないようにや
ろうと、考えたに違いない。バレさえしなければ問題無いと、どん
なに罪深い者であるかを、主は教えて下さる。罪を認めて、悔い改
めよう。罪の深さと共に、主の恵みがそれを覆い尽くしてどんなに
大きいかを知る。
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ひとつ罪を悔い改めても、また次の罪が示される。信仰人生、自分
の罪の恐ろしさを知らされながら歩んでいく。悔いた心を主は、さ
げすまれない。赦される。何と感謝なことか。


2024年08月01日(木)

「そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、 そこであなたを養うように命じた。」T列王17:4



カルメル山でのバアルとの壮絶な闘いの前のこと、主はエリヤをケ
リテ川へと導かれた。「ケリテ川のほとりに身を隠せ」と。悪王ア
ハブから身を守るためであり、誰もいない隠れた場所で、充分な主
と交わり、霊的養い、備え、整えを与えるためであった。密室での
主との交わりが、まさに働きのため、又、信仰生活のための原動力
だ。

植物は、根が地面の下に強く張っていなければ、上に伸びない。人
に隠れた主との交わりはその根だ。人々が、しばしば証しをしてい
る。毎日〃多忙な仕事に追われていた中で、とうとう体調を崩し倒
れてしまった。又、突然の病気発覚で入院の事態になった。最初は
ひどく落ち込んだが、忙しさの余り、ずっと後回しにしていた、主
との幸いな交わりの時とされ、立ち返れたと。

休養が必要となり、ベッドで天井を見ている間に、一番大切なもの
は何なのか、人生このままで良いのかと、立ち止まる時とされ、狂
っていた優先順位を正される時とされた。私たちは、時にケリテ川
が与えられる。

病気のケリテ川、受験不合格のケリテ川、思い通りにならない失望
のケリテ川、とんでもない失敗のケリテ川、大きな問題のケリテ
川、別れのケリテ川、辛さや、悲しみ、痛みの中で静かに主と交わ
ろう。主に向いて御声を聞こう。主は「そこで」そのケリテ川で、
豊かな霊の養いを下さり、新しい力を下さる。
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普段の自分なら知恵と力で困難を抜け出ようとするが、どうにもな
らない時に、改めて自分自身と主に向き合わされる。ケリテ川で深
く主に根を伸ばしていこう。主との深い交わりの時としたい。