2024年09月30日(月)

「アヒヤは戸口に入って来る彼女の足音を聞いて言った。『おはい りなさい。ヤロブアムの奥さん。なぜ、ほかの女のようなふりをし ているのですか・・』」T列王14:6



ヤロブアム王の子どもが病気になった。その時、妻を変装させて、
預言者アヒヤのもとに行かせ、子どもがどうなるかを聞いてくるよ
うにと。だが主は前もってアヒヤに、その妻が来る事、変装の事を
告げておられた。だがなぜ、王は、妻を変装させる必要があったの
か。それは、王が神に従わずに、偶像礼拝をしていたからだった。

自分のために鋳物の像を造り、神の怒りを引き起こし、神を捨てた。
それで自分を隠すために変装する必要があった。私たちも都合の悪
い時には、本当の自分を隠すだろうか。弱さを隠し、不都合を隠し、
変装してしまう。弱みを決して知られたくない。しかし弱く無い振
りをする事は、自分でない他人に変装する事になる。

「なぜ、ほかの女のようなふりをしているのか」。主の前に、正直
に自分の本当の姿を認める事が、大きな祝福の始まりだ。弱さをあ
りのまま認めて行く時に、自分でない他人の振りをする必要がない
ので、解き放たれ、自由にされる。プライドの重いよろいが落ちて、
楽になり、自分でおれる。信仰生活が生き生きし、喜びとなる。

プライドゆえに、自分でない振りをして、窮屈な喜びのない信仰生
活だろうか。まず変装し、良い人の振りをしている事を認め、ある
がままを主に告げよう。その時、全面的に受け入れられていて、ど
んなに愛されているかを知って行ける。
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本当の自分を示されていく事は大きな祝福だ。ふりをしていても祈
れるし生きてもいけるが、いのちとなる主との交わりがなければ、
主が遠くに思えてしまう。ありのままの本音で主と交わろう。


2024年09月29日(日)

「アハブは不きげんになり、激しく怒りながら、自分の家に入った ・・彼は寝台に横になり、顔をそむけて食事もしようとはしなかっ た」T列王21:4



アハブ王が、ナボテのぶどう畑が欲しくてたまらず、彼に畑を譲
るよう言った。更に良いぶどう畑を与えるか、又、代価を支払う
と。だがナボテは断った。これは正当な事だった。先祖から継い
だ土地は売ってはならないと、定められていたからだ。もし貧しさ
ゆえ土地を売る場合も、細かい規定があり、買い戻しの権利のあ
る親族が買い戻す事になる。

ナボテは正しい事をした。すると、わがままなアハブ王は、ふて
腐れて不機嫌になり激怒した。ベッドに横になり、顔をそむけ、食
事もしなかった。自分の思い通りにならないので、むくれて、何も
したくない。アハブは自分が正しくない事はわかっていた。間違い
だとわかっていても、要求が通らない事に腹を立て、欲望を押し通
す。

間違いを認めない時、更に罪に進み、罪を重ねて行く。結局、妻
のイゼベルのそそのかしと悪巧みにより、畑を手に入れるために、
ナボテを殺害してしまう。私たちも、自分の間違いは、はっきり認
めよう。でなければ、罪に更に罪を重ねてしまう事になる。又、自
分の思い通りで無い場合、そこに門を閉じておられる主を認め、
へりくだって、主の御心を受け入れよう。

別の、更に良い門を開いて下さる。いつも最善の道が用意されて
いる。自分の欲望中心でなく、主の喜ばれること、主のお心を求め
よう。主と主の御心を第一にする時にこそ、自分自身にも真の満足
と喜びを得る。その平安は、この世の何ものにも代えられない。

・・・・・・・・・・・・・・・
信仰生活で思い通りにならない時、主のテストだ。思い通りになら
ない事態によって砕かれる。別の道が備えられていること、益とさ
れる事、すべての道で主を認め、受け入れること、様々学ばされ
る。主のお心を問うて行こう。


2024年09月28日(土)

「主は、あの地をことごとく私たちに渡されました。そればかりか、 あの地の住民はみな、私たちのことで震えおののいています」 ヨシュア2:24

モーセに率いられたイスラエルの民は、主エジプトを果たし、厳
しい試練の荒野を通り、ついに約束の地カナンを目前にした。
指導者も、モーセから後継者のヨシュアに代わった。カナンの目
の前にはヨルダン川が横たわっていた。春先で雪解けの水が岸
に溢れ、とうとうと流れていた。

そこに橋も船も無くどうすればよいのか。難題が立ちはだかった。
ヨシュアが斥候を遣わすと、戻り、「主は、あの地を渡されました。
住民は、私たちの事で震えおののいています」と。その翌日、ヨシ
ュアは、民とヨルダン川の川岸まで行った。そして民に「あなた方
の身をきよめよ。明日、主が不思議を行なわれる」と。主はヨシ
ュアに「民全体の見ている前で、あなたを大いなる者とする。モー
セと共にいたように、あなたと共にいる事を、民が知るため」にと
言われた。

そして主の指示の通りに、契約の箱をかつぐ祭司が、まず水に
足を入れ、とどまると、水が完全にせき止められた。水はせきを
なして立ち、民は全員ヨルダン川を渡った。奇跡が起きた。私た
ちも信仰人生で、何をどうすればよいのかわからない、なすすべ
もない困難、苦しみに直面する。

そんな時はどうすれば良いのか。主は、まず「あなたがたの身を
きよめよ」と言われる。主の御前に静まり、御霊に心を探って頂
き、主とよくよく交わろう。そしてその中で気づかされる罪を一つ
一つ悔い改めよう。その時、御言葉を与えつつ、なすべき事を示
し、解決策へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
紅海横断の時は、主が後にも先にも無い、大奇跡をされた。道
の無い所に、道を造って下さった。ヨルダン川では、身をきよめ
よと。天の雨で潤っている地へ、更に喜びに満ちた信仰生活へ
と、主は前進させようとして下さっている。


2024年09月27日(金)

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから 『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く」 イザヤ書 30:21



主は私たちに、語りかけられる。ご自身のみ思いを示され、私たち
の進むべき道筋を教え、導いて下さる。でなければ、私たちはどう
進んでよいかわからない。どのように語りかけられるのか。まず御
言葉によって。「あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし」
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」

礼拝説教や聖書の学び、各自で読む聖書の言葉により、語りかけて
導かれる。祈り、御言葉に向かう時、深い印象を持って心に臨んで
来る。又、御霊によって語りかけられる。「聖霊はすべてのことを
教え、あなたがたに話したすべてのことを思い起こさせる」祈りの
中で、日常で、この事は、このようにとの知恵やアイデアが平安
の内に思いに示される。

又、指導者や人々の助言によっても語られる。主は時に、人を用い
られる。助言者の助言を通して語られる「多くの助言者によって勝
利を得る」。又、環境を通して語られる。御心なら必ず戸が開かれ
る。自分で戸を壊して進むのでない。目の前で、主が戸を開かれる。
もし、門が閉ざされたなら、それは御心ではなく、別の導きが備え
られている。

導きを求める時は、よく祈り、アンテナを立てて、耳を澄まし、目
を開いていよう。主は様々な事を通して、御心を示される。御言葉
が与えられる事、祈りの内に平安がある事、環境が開かれている事、
それらが必ず一致する。その時には、前進しよう。
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自分の思いを静めて、主に委ね、御心に耳を澄まそう。「これが道
だ」との確信が与えられたなら、どれ程心強く前進できるだろう。
御言葉に従いますの態度で主に尋ねていこう。


2024年09月26日(木)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、 ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、 歩き回っています」Tペテロ5:8


対人関係で、思い通りにならない時、相手に腹を立て、責めてしま
う。しかし「私たちの格闘は血肉に対するものではなく」と言って
いる。「悪霊に対するもの」と。いっさい人間とは戦っていない。
人間の背後に隠れる悪霊との戦いだと。だが悪魔は目に見えないた
め、どうしても目の前の、目に見える相手に向き、いら立ち責めて
しまう。

今、人に対して怒り、憎しみ、妬みがあるなら、背後にいる悪魔の
攻撃と誘惑が来ている。人に悪い思いを抱くよう誘惑されている。
気づかずに乗ってしまうと、自分の罪となる。「悪魔の策略に対し
て立ち向かえ」とあり、悪魔は策略を練りに練って攻撃して来る。
行き当たりばったりではない。明確な目当てがあり、緻密な計算が
ある。ぼお〜としていると、やられてしまう。

目的は神から離す事だ。どんな方法であれ、離せば良い。病気や苦
しみに会うとどうだろう。「神が愛なら、なぜこうなのか。愛され
ていない」と悪魔は疑いへと誘惑する。又、逆に順境なら、自分で
生きて行けてしまうので、主を頼らず、離れてしまう。順境の時の
神離れだ。自分は離れているとは思わず、気づかない。

又、成功すると自分の力だと錯覚し、自分を誇り、栄光を自分に帰
してしまう。一人〃に的確な策略を練り、襲って来る悪魔を識別で
きるよう祈っていよう。御霊が気づきを与えて下さる。
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心が暗くなり、また苦々しい思いが来るとき、サタンを疑おう。気
づくと長々とサタンと会話している。捜しまわり食い尽くそうとし
てくるサタンを警戒し、目覚めていたい。主の守りを祈っていこう。


2024年09月25日(水)

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえっ て悲しく思われるのですが、後になると、これによって訓練された 人々に平安な義の実を結ばせます」へブル12:11



多くの信仰者から、試練に会った事は感謝だったとの証しを聞く。
あの苦しみがあったからこそ、ぼんやりしていた状態から、主に真
剣に向き合えた。砕かれ、練られ、自分が変えられた。余裕がある
間は、自分を繕っておれるが、試練は、外側のものをはぎ取り、自
分の本当の姿をあらわにする。

ある婦人は、姑と難しかったが、良い嫁を頑張った。懸命に家事を
こなし、姑にも精一杯仕えた。しかし辛く当たられ、涙を流す日々
だった。ほとんどいじめの辛い日々であった。だが自分はクリスチ
ャン、証しにもなるようにと、懸命に仕えた。外面的には、きつい
姑に仕える、けなげな良い嫁に見えた。

しかし御霊は心の奥を照らし出された。心は、姑に対する憎しみ、
恨み、怒り、敵対心で渦巻いていた。そして密かに、巧く、わから
ないように仕返しし、復讐していた。良い嫁を繕った、内奥の恐ろ
しい罪を、御霊は照らし出された。まさに自分は罪人であった。心
から罪を悔い改めた。今まで確かに罪人だとは認めるが、ましな罪
人で、罪がピンとこなかった。頭の中での罪だった。

主の十字架が迫り来て、まさに自分のためであることが真にわかっ
た瞬間だった。いかに闇の中にいたかを知り、光に照らされ、罪赦
される喜びを経験した。御霊の喜びだった。苦しみに会った事を心
から感謝した。姑にも心が開けなかった事を詫びた。自分の心が変
えられ、姑のとの関係が変わった。声を上げて、心から笑い合える
間柄にされた。
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試練の闇の中で一人でもがいていると、隠していた本音の自分が明
らかにされる。決して相手のせいにできない闇だ。御父の聖さに触
れ、闇から抜け出る。ご計画を信じ、感謝する日を信じて進もう。


2024年09月24日(火)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方 ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださ います」Tヨハネ1:9



イスカリオテのユダが主を裏切った。ユダが主を裏切ったのだが、
「ユダにサタンがはいった」とあり、サタンの関与だった。その結
果、ユダは主イエスを裏切ってしまった。しかしサタンは、ユダの
意志を無視して勝手に入る事はできない。自動的に入れるわけでは
ない。ユダがサタンに心を開き、サタンの方を選択し、受け入れた
結果だ。

ユダのメシヤ観や価値観が、主と相容れない事が、明白になって行
ったのだろうか。又、「彼は盗人であって、金入れを預かっていた
が、盗んでいた」とあり、ユダは罪を犯し、ずっとサタンに足場を
与えていた。すべてをご存じの主は、ユダに何度も悔い改めの機会
を与えられた。

主は、あなた方の内の一人が、わたしを裏切ると言われ、「まさか
私では」と言ったユダに、はっきりと「そうだ」と言われた。あな
た方は全身きよいが、皆がそうではないと言われた。主の愛による
悔い改めの促しにも、ユダには届かなかった。主を裏切った後も悔
い改めはなかった。

どんな罪も悔い改めるなら、完全な赦しが与えられる。何という恵
みだろう。罪を軽く見てはならない。これ位とおろそかにしている
罪はないだろうか。聖霊が悔い改めを促しておられるだろうか。罪
を重ねるなら、やがて取り返しのつかない事態となる。日毎に悔い
改めよう。サタンに足場を与えないためにも。
----------------
誰しも罪は認めたくないが、自分には問題はないとして歩んでしま
うなら、いつかサタンに心を開いていく。恐ろしい事だ。聖霊が折
々に示してくださる。立ち止まってよく祈り、悔い改めていこう。


2024年09月23日(月)

「ダビデは主に伺って・・『あの略奪隊を追うべきでしょうか。追い つけるでしょうか。』するとお答えになった。『追え。必ず追いつ くことができる。必ず救い出すことができる。』」Tサムエル30:8


ダビデは、サウル王にずっと狙われていた。ダビデは、心身追い詰
められ、何と敵であるペリシテの地に逃げ込んだ。すると、ペリシ
テと同胞の戦いとなり、ダビデは同胞と戦うという、どんでも無い
状況になった。しかしそこで、首長たちがダビデが裏切るといけな
いので、一緒に戦いに出すなと言った。間一髪、主の関与だった。

それでダビデが引き返すと、何と町がアマレクに攻撃され、焼き払
われ、彼らの妻子が皆連れ去られ、町は廃墟になっていた。ダビデ
も部下たちも大声で泣き、ついには泣く力も失せた。ダビデの妻た
ちも連れ去られた。部下たちは衝撃が大き過ぎ、ダビデを殺そうと
言い出した。ダビデは、サウル王からは逃れたが、今、まさに部下
たちに殺されそうになる。

ダビデはその窮地にどうしたのか。「しかしダビデは彼の神、主に
よって奮い立った」。彼は主に伺った。「略奪隊を追うべきですか」
主は「追え。必ず追いつける、救い出せる」と。そこで主に従い、
追撃すると、途上でアマレクの奴隷に会い、奴隷の手引きで、彼ら
の居場所を突き止める事ができた。主の計らいだった。

敵を討ち、妻子や奪われた物全部を取り戻した。何一つ失わなかっ
た。ダビデは、非常に悩んで、どうしてよいかわからない時に、「
彼の神、主」によって奮い立った。まず祈り、導きを受けて、従っ
た。窮地では「自分」でなく「私の神、主」に奮い立たせて頂こう。
主は目の前の事態を引き受けて下さる。
---------------
自分の判断は常に揺らぐが、最悪の苦境にあっても、主が与えてく
ださる確信だけが、たましいを底から奮い立たせてくださる。主の
御心を求めて祈ろう。御言葉に聞こう。必ず追いつける。


2024年09月22日(日)

「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自身を弟子たち に現わされた。その現わされた次第はこうであった」ヨハネ21:1


ペテロと弟子たちは、最も重大な時に、主を否み、裏切り、逃亡した。
その後、主に言われ、ガリラヤに戻った彼らの心は、どんなものだっ
たろう。命をかけて従うと、ペテロの満々の自信は粉々に、粉砕され
た。心暗く重く、なすすべなく、捨てた網をもう一度取り、唯一自信の
ある漁をする。しかし一匹も捕れない。虚無感、後悔、心痛、落胆、
挫折感だったろうか。

夜明け頃、岸辺の見知らぬ人が、「子どもたちよ。食べる物があり
ませんね」と叫んだ。誰かはわからないまま、「はい、ありません」
と答えた。すると直ちに「舟の右側に網をおろせ。そうすればとれ
る」との指示。その声に従い、網を下ろした。すると何と驚くばかり
の大漁だった。以前の全く同じ光景を、ヨハネが思い出し、瞬間
「主です!」と。

ペテロは、主に会いたい一心で、湖に飛び込んだ。上がるとそこに
主がおられ、彼らのために、魚とパンの朝食が用意されていた。
「なぜ、裏切ったのか」と一言も、叱りも責めもされない。三回の後悔
してもしきれない裏切りは、「わたしを愛しますか」の。主の三回の問
いかけにより、いやされて、おおわれて行った。

そして「羊を飼いなさい」と今後の牧会の働きを委ねられた。主の御
心に添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ
る。悔い改めにより、罪は完全に赦され、信仰を回復させて下さる。
弟子たちへの慈しみとご愛は、私たちへも同じように向けられ、注が
れている。豊かな赦しが備えられている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間なので、どうしても失敗してしまう。しかし、悔い改める時、その
失敗を赦して下さるとは、何という恵みだろう。自分では意識に残っ
ているが、神は二度と思い出さないと。あわれみの中で、赦されて
〃、更に主の愛を知って行ける。


2024年09月21日(土)

「ヨナは、主の御顔を避けて・・彼は、タルシシュ行きの船を見 つけ・・主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こ うとした」ヨナ1:2



ヨナは、主からニネベ行きを命じられた。だが極悪非道な敵国
アッシリヤの首都ニネベになど行きたくない。すると丁度反対
方向行きの船があり、主の御顔を避け、渡りに船でそれに乗
った。私たちも、どうだろう。御心に従いたくない時に、そこに
都合良く、別方向の船があるものだ。ヨナはその船に乗った。

ある人は御心を示されていたが、それをしたくなくて、「御顔を避
けて」、自分のしたい事のため、車で出た。するとパンクしたのだ。
単にパンクで、タイヤ交換をしたのだが、はっきりと、主だとわかっ
た。すぐに帰宅し、御心を行なう事ができた。それは大変祝福され、
主の阻止に心から感謝した。

別の人は、進路で御心がわかったのだが、ぐずぐずしていた。丁度
そんな時に、高額の報酬と地位という、別の船が来た。又それが自
分の好きな事で、才能が生かせる仕事だった。誘惑に負けて、その
仕事を選んだ。すると内容は高レベルで、日々残業で、心身の疲労
は半端無く、教会に行けなくなり、主から離れてしまった。家族の
問題で、我に返り、主に立ち返る事が出来た。御心がわかり、ぐず
ぐずしていた時に、丁度魅力的な船が来て、御心からそれてしまっ
た。

だがあわれみ深い主は、導き返して下さった。事柄の大小にか
かわらず、御心から逃げたいと思う時、丁度そこに反対方向の船が
ある。それに乗りたい誘惑にかられる。しかしそれはサタンが用意
したものだと覚え、主の御心の方に従おう。豊かな素晴らしい祝福
を刈り取る事になる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主の御心が、自分の願いと合致している時は、問題ないのだが、
時に好きでない事がある。その時に、祈ればよいのだが、目の前
に反対方向の、好みに合致した道を、サタンが持って来る。心して
いよう。そしてどうであれ、まず祈りに持って行こう。


2024年09月20日(金)

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。 そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」ヤコブ4:7



悪魔は絶えず誘惑し攻撃してくるが、その目的は、とにかく主から
離す事だ。真逆の事を巧妙にささやく。エデンの園で、主は、善悪
の知識の木の実から食べると「必ず死ぬ」と断定された。だが、悪
魔はエバに堂々と「決して死にません」と言い放った。エバにはそ
の前段階からの誘惑があり、少しづつ〃巧妙に、各々の弱さの核心
へ、欲のある所へと誘って行く。

主の御心からそらせようとする。「もっと楽な道があるよ」「それ
は面倒だよ」「時間も労力も取られるよ」「大変だよ」と。「神の
国とその義とをまず第一に」の正反対である、「自分をまず第一」
に、と誘惑して来る。主の御心でなく、自分の思いとプランを第一
にと。しかし主は、「信仰に立ち、悪魔に立ち向かえ」と言われる。

悪魔に「ノー」と言うようにと。私たちが拒絶する限り、悪魔はど
うも出来ない。悪魔の誘惑を受け入れ、同意する時にだけ、悪魔は
足場を得て、自在に働ける。拒否するなら、悪魔にはすべがない。
まず悪魔に気づかせない事が、悪魔の常套手段だ。釣り針に餌がつ
いていて、それが私たちの欲に合致する餌だ。

「プライド」「虚栄心」「貪欲」「名誉欲」「自己顕示欲」・・自ら
の欲と合致していて、悪魔だと気づけない。自分が思っているとし
か、思えない。餌に食いつき、同意する時に、心で妊娠させてしま
い、罪を生んでしまう。絶えず主を仰いで、悪魔に「ノー」を言お
う。そのために、悪魔の識別を日々祈っていよう。
-------------
誘惑をずっと見ていれば次々に言い訳が浮かび、ついに罪を犯して
しまう。振り返ると幾つもの失敗が浮かぶ。主を呼び、すぐに祈ろ
う。ノーと遮断しよう。


2024年09月19日(木)

「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であ ることを行ないました」詩篇51:4



ダビデは、主に従っていた素晴らしい信仰者だった。しかし、バテ
シバとの姦淫の罪を犯してしまった。すぐに悔い改めれば良かった
のだが、罪を隠ぺいするために、バテシバの夫ウリヤを殺害すると
いう、罪の上に、更に罪を重ねてしまった。王であり、すべて自分
の思うがままであり、口をつぐんでいた。

しかし主は、何もかもを見通しておられる。預言者ナタンを遣わし、
ナタンによって、ダビデの罪を真っすぐに指摘された。その時にダ
ビデは、即座に「私は主に対して罪を犯した」と認め、悔い改めた
のだ。すると「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さった」とダ
ビデの罪は赦された。

サウル王は、口先だけの悔い改めだったが、ダビデは真実に悔い改
めた。ダビデの素晴らしいところであった。「私はあなたに、ただ
あなたに、罪を犯し、悪であることを行なった」と。そして主は
「砕かれた、悔いた心をさげすまれない」と。ダビデは、自分が蒔
いたものを刈り取って行く。

バテシバとの子どもが病気になり、切に祈り、断食し一晩中、地に
伏した。どんなに痛み苦しんだ事だろう。しかし亡くなった時に、
彼は起き上がり、主を礼拝した。ウリヤを殺したが、その命がどん
なものかを、身をもって知った。

子どもたちが姦淫を犯し、実子は自分に敵対し、苦しく辛い刈り取
りをして行った。ダビデは残る生涯、悔い改め〃、主に従順に従っ
た。失敗してしまうが、人生何もかも終わったのではない。悔い改
めて、主により前に進んで行ける。
---------------
主の前に罪を認めるというのは、その刈り取りも謙遜に受け入れて
いく事ではないだろうか。何度も失敗し、罪を犯すしかない者が、
主の赦しで前に進める。主がその刈り取りも祝福してくださると信
じよう。


2024年09月18日(水)

「エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、 つぼの油はなくならなかった」T列王17:16



エリヤは、主からききんの際に、ケリテ川に行くように命じられた。
アハブ王から守り、身を隠すためだった。そこの水を飲み、カラス
に養わせるからと。貪欲なカラスが自分が食べずに、運ぶのだろう
か。奇想天外な導きだが、主を信じ従った。すると御言葉のその通
りに養われた。私たちも心配無用だ。何があろうと養って下さる。

川が枯れると、即座に次の導きが来た。シドンのツァレファテへ行
けと。そこでやもめ女により養うと。その通りに従うと、やもめに
出会い、そこで彼女に水とパンを求めた。すると彼女は資産家など
でなく、残り一握りの粉で、最後のパンを作り、母子で死のうとし
ていると。

何という事だ。極貧のやもめで、悲惨な状況だ。エリヤはどうだっ
たろう。この人物は、人を養うなど不可能だ。だが助けを求めねば
ならない。人間的に考えるなら、最後のパンを自分にとは、とても
言えない。しかしエリヤ自分の思いでなく、主の言葉通りに従った。
彼の信仰だった。

まず私に小さなパンを、その後にあなた方に作るようにと。ききん
の間中、粉と油は尽きないからと。御言葉に立ち、彼女は従った。
すると、彼女と子どもはききんの間、豊かに養われ、命を守られた。
主に従ったエリヤも彼女も、二人共、主の奇跡を見、主の栄光を拝
した。

私たちも、ギリギリの気力体力や時間を主を第一に、主に献げる時、
溢れるばかりの豊かな祝福にあずかる。見た目や自分の思いでなく、
主の言葉の方に従おう。そうできるよう祈ろう。
----------
御言葉に従おうとするとき、いつも自分の価値観が邪魔をしてくる。
だからこそ見えるところではなく、御言葉に従う信仰を主は豊かに
祝福してくださる。主に従えるように祈ろう。


2024年09月17日(火)

「アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、 ソドムの近くまで天幕を張った」創世記13:12



ロトは伯父アブラムにずっとついていた。双方、家畜が増え、同行
困難になった。伯父は、別行動を決断、先にロトに良い場所を選ば
せた。自分は残りの場所にと。ロトは祈らず、肉の思いと判断で、
見た目に潤うソドムとコモラを選んだ。しかしそこは、後に滅ぼさ
れる不道徳、暴力、堕落の町だった。

ロトはソドムの近くまで天幕を張った。「近く」でも、自分さえし
っかりしていれば、大丈夫だと思った。しかし後には、ソドムの門
に座っていた。門に座るのは、町の有力者だった。堕落した町の中
に、しっかり入り込み、世の地位名誉を持っていた。主は、その町
の罪深さに、滅ぼすと決められ、すぐに逃げるよう主の使いを遣わ
される。

しかし娘婿たちは、ロトの言葉を信じず、妻までも、世に執着し滅
ぼされてしまった。娘二人しか救えなかった。ロトは自分は大丈夫
だと思ったが、少しづつ〃世の影響を受け、流され、世に染まって
行った。自分にとり大きな誘惑となるなら、「近づく」ことは危険
だ。主は「避けよ」と言われる。もし飲酒に弱いなら、酒店のある
通りを避けよ。そこを通るなと。

健康上甘味を控えているなら、ケーキ店が並ぶ道を行くな、避けよ
と。自分の弱さを認めることが大切だ。自分は大丈夫だと思うので、
近づいて行く。そして誘惑に負けて、失敗し、大きな痛手を負う。
わざわざ誘惑に近づいて、そこで祈るのではない。「それを無視せ
よ。そこを通るな。それを避けて通れ」と。今、避けよと、主から
言われている事があるだろうか。
------------
自分は大丈夫としか思えないのが自分の限界だ。簡単に誘惑され、
馴染んでしまう。主に留まっていよう。危険を危険だと示される。
いつも主に頼っていよう。


2024年09月16日(月)

「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩 んでいます」Uコリント5:7



ある人が、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」との御言葉は、
何と素晴らしい恵みの言葉と、頭ではわかるのだが、どうしても自
分の事として受け取れなかった。自分が高価で尊いなどと、思えな
い。生い立ちから培われた価値観に妨げられる。主を信じているの
だが、何か心寂しい、孤独感もある歳月だった。

頭では、神は愛だと思うのだが、実感が全く無かった。しかし苦し
い時に、すがる祈りが何度も答えられた。確かに主はおられると思
うのだが、何かさえぎるものがあり、もう一つわからない。そんな
時を経る中、ありのまま洗いざらいを、告げて祈っていた。その時
に、心照らされ、自分が高価で尊いと、全く信じていない事を示さ
れた。

主の言葉を受け取らない、信じていない自分。なぜかと思うと、自
分が、そう思わないから、そう感じないからだった。結局、御言葉
を退け、自分の思い、感覚を上に置いていた。それなら、主の真実
を否定する事になる。主の事がもう一つわからず、実感がないその
底に、自らの「不信仰」が横たわっている事に、初めて気づかされ
た。

心から悔い改めた。感じる感じないでなく、御言葉をそのまま受け
取ります、信じます、愛を感謝しますと祈った。その時から、自分
が変えられた。主の愛が頭でなく、心でわかり、御霊によってわか
るようにされた。以前とは全く違い、御言葉がしみ入り、響いて来
て、力とされた。主の愛がわかるようにされて、大きな変化だった。
-----------
気持ちが御言葉を弾き飛ばすように思える時があるが、その時々の
自分もまた示され、平安がくる。主が共におられ、いつも愛されて
いる。だから心強い。主を愛して歩もう。


2024年09月15日(日)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには 時がある」伝道3:11



すべての事に、「神の定まった時」があると言っている。又、神の
される事は、全部が「時にかなって美しい」と。「かなって」は、丁
度ピッタリ当てはまるという事だ。「美しい」は、感動、感銘を与え
る様、調和が取れて心地良い、快適な様だ。主のなさる事は、定
まった神の時に成り、そして、それだけでなく、そこには感動があ
る、という事だ。

私たちも、これまでの信仰人生で、振り返ると様々経験して来た
事だろう。ルツ記で、ナオミ夫妻が飢饉の際に、離れるべきでな
かった祖国を出て、偶像の地に移住した。しかし時を経て、夫も
二人の息子も亡くなり、帰郷を決意する。その時に、嫁ルツが従
い、同行した。その帰郷は、時ピッタリに、どんどん祝福され、導
かれて行った。

落穂拾いが、生計の手段に備えられていて、たまたま、そこが遠
縁のボアズの畑で、普通、所有者は来ないのに、ボアズがそこに
いて、懸命に働く姿に、ボアズの好意を得た。すべてがジャストタイ
ミングで、ボアズとの結婚へと大きく祝福されて行った。エステルも、
ハマンのユダヤ民族絶滅計画の時に、丁度そこに、時ピッタリ王
妃として置かれた。

伯父モルデカイの指示で、王に助けを願い出るが、エステルにしか
出来ない事で、彼女のみが可能な事だった。エステルは、命をか
けて従い、ユダヤ民族は絶滅から救われた。モーセも40才の時に
同族を救おうと行動するが、失敗した。神の時は、その40年後の
80才の時に到来した。民をエジプトから救い出した。神の時を踏ま
え、時が悟れるよう祈っていよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
時々経験する。バッタリ人に会ったり、必要なものが、時ピッタリに
与えられたり、全く動かなった状況が、突然スルスルと動いたりする。
主の時を待てば良いことを、何度も教えられる。又、今、この時に置
かれている場所を覚え、主の御心を行なえるよう祈ろう。


2024年09月14日(土)

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださ いました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴 隷のくびきを負わせられないようにしなさい」ガラテヤ5:1



私たちが、就職試験を受ける時はどうだろう。「何が出来るか」
「何が得意か」「特技は?」「資格は?」、これらが就職試験で問
われ、有利になる。もし、「何も出来ません」「あれも、これも出
来ません」「特技は何も無し」と言えばどうだろう。この世では、
能力のある者、出来る者が尊ばれる。

しかし主の目はどうだろう。主の目は、何を見ておられるのだろ
う。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言われる。「わたし
はあなたを愛している」と。何が出来るか、出来ないか、何を持
つか、持たないかは、いっさい関係が無い。「わたしの目には、
あなたは高価で尊い」と、付加価値をつけたあなたでなく、今、
そのままのあなたの事を言っておられる。

この世の価値観は、良い子が愛され、悪い子は認められない。悪
い子が、良い子になれば愛される。私たちも、培われた根深い価
値観があり、良い子になれば認められ、受け入れてもらえるの
だと思う。そのため、クリスチャンになってからも、愛してもらいた
くて、主に認めてもらいたくて、そのために善行を行なおうとする。
これは主から離れ、恵みから落ちていて、間違っている。

律法の下に身を置く事になり、平安も喜びも失う。愛をもらうため
に善行をするのでなく、すでに愛されているから、その愛に感謝の
ゆえに、善行をする。これが恵みだ。いつもこの恵みにとどまるよ
うにと。主から目を離すと、古い価値観に、律法に陥る。この恵み
に目が開かれるよう、御霊によって教えられるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
御言葉の価値観は、この世の価値観と相反する。根深い価値観
があり、常に御言葉によって、繰り返し〃立ち返り、根づかせられ
るように。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」、主の言葉を
かみしめ、握りしめ、反すうし、目に焼きつけよう。


2024年09月13日(金)

「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たち の前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませ んか」へブル12:1



走り続けようとあり、長距離マラソンのようだ。まず重荷と、まと
わりつく罪を捨てる必要があると。マラソンに出る時に、リュック
を背負い、重いバッグを持って走るだろうか。身軽でないと走れな
い。「まとわりつく罪」を捨てるようにと。一人〃常にまとわり、
からみつくものがある。それぞれ異なるものだ。

ある人は人一倍心配症で、思い煩いが絶えずからみ、走れないかも
しれない。ある人は妬みだろうか。誰かが特に妬みの対象かもしれ
ない。又、なすべき事がわかっているのに、ずるずる引き延ばす怠
惰や、思い通りでない事に出て来るつぶやき、文句、愚痴不満、又、
与えられているのに、もっと〃と際限のない貪欲、神に頼らない高
慢、人をさばいてしまう事・・絶えずまとわりついて来る罪は何だろ
う。

御霊に照らされ、心探られ、その自我からの罪に、気づけるよう祈
ろう。御前に悔い改め、新しくして頂こう。自分の重い荷物は、何
だろう。いつも心を暗くする、担いきれない荷だろうか。主に明け
渡せるよう祈ろう。そして何より自分自身を、明け渡せるように。

主の手に渡る時に、自分が変えられ、見方が変えられる。目の前に
起きる一つ〃の事が、主の許しによるもので、主からのものであり、
無駄は一つもない事、自分の成長のためのものと、神視点に立つよ
うになる。そして、私の前に置かれている自分のルートを、走り続
ける事ができる。
-------------
日々の信仰生活、御心の中を喜びをもって完走したい。主の祝福の
中にあっても、何が心を暗くし、重く不安にするのだろう。示され
た罪を悔い改め、御言葉と御霊の導きに沿い走り続けよう。


2024年09月12日(木)

「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を 正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう」詩篇50:23



「あふれるばかりに感謝せよ」と言われているが、私たちは、病気
やけがの時は、どうだろう。とにかく痛みを何とかして欲しい一心
で、必死に祈るだろうか。主に拠りすがり、切実な祈りとなる。そ
して祈りが答えられ、いやされて回復すると、あんなにすがりつい
て必死に祈ったのに、段々祈りは省略となって行く。

伏せっていた間の仕事の遅れを取り戻さねばならない。業務は山積
みだ。あのいやしの感謝は、どこへ行ったのだろう。苦しい時の神
頼みで、答えられた時は大喜びで、感謝に溢れるのだが、一時的と
なってしまう。問題が無くなると、自分の力で生きて行く。自力で
生きて行けるからだ。主が飛んでしまう。すぐに感謝を忘れる。

十人のらい病人の箇所で、主は感謝のために戻ったサマリヤ人を大
変喜ばれた。「イエスの足もとにひれ伏して感謝した」。九人はど
こにいるのかと。九人はもう奇跡が起きて大喜びで、どこかへ散っ
てしまった。病の時は、普段、普通に生活できているのは当たり前
でなく、実は大変な恵みだとわかる。

しかし元気になった途端、すべてが当然で、感謝がどこかへ失せて
しまう。入院した人を見舞った時に「朝毎に、ああ今日も目覚める
事が出来て、生かされている、感謝だなあと、心底の感謝に溢れま
す。そんな事思った事もないのに。病気になった事も感謝です」と。

「感謝が足らない者です」と、主の御前に祈って行こう。感謝して
行く人に、感謝すべき事を、次々と与え、増し加えて下さる。そし
て感謝には、大きな力があって、サタンの足場を砕く。感謝してい
る人に、どうにも出来ない。
--------------
足りない事ばかりが目につき祈りの課題はあるのに、何と感謝の少
ない者だろう。平穏な朝が迎えられる恵みに心から感謝をお献げし
たい。まだ見ていない恵みもあわせ、感謝し喜んで今日を歩もう。


2024年09月11日(水)

「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ 豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることがで きるように・・」ピリピ1:10



ニーバーの有名な祈りがある。「主よ、変えることのできるものに
ついて、それを変えるだけの勇気を与えたまえ。変えることのでき
ないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものと
を、識別する知恵を与えたまえ」と。

信仰人生でしばしば、変えられないものを、変えようとし、変える
べきものを、変えない。逆をしてしまうのだが、悲惨な事になる。
変えられないものを、変える戦いは、大変な悪戦苦闘となり、消耗
戦となる。時に、これをしてしまう。しかし不毛の戦いとなる。
疲れ果て、力尽きてしまった時に気づくだろうか。

「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにで
きようか」と、主が曲げておられるのだと。変えられないものは、
受け入れられるように祈ろう。受け入れる事は至難のわざで、これ
は自分には出来ない。しかし御霊によって可能だ。御霊によって、
受け入れる事ができる。祈ろう。御霊が助けて下さる。

受け入れるのは、目の前の状況だろうか、境遇だろうか、難しい相
手だろうか。受け入れた時に、苦しく、悶々であった心が、自由に
され、解放される。平安にされ、解決へと導かれる。主が変えるよ
うに導かれている事は、必ず、変える事が出来る。目の前の事態に
ついて、識別する知恵が与えられるよう、祈ろう。
-----------
疲れ不平不満がいっぱいになる時、同じ過ちをしている事に気づく。
自分自身が豊かに変えられたい。受け入れる事と変えていく事、
御心にかなった正しい判断を主に祈ろう。


2024年09月10日(火)

「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同 然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信 仰は弱りませんでした。彼は・・反対に、信仰がますます強くなって、 神に栄光を帰し」ローマ4:19



信仰とは、目には見えないものだ。触れる事も、感じる事も出来な
い。日頃、慣れている五感では、感じる事の出来ないものだ。しば
しば、五感で感じようともがくのだが、決して感じることは出来な
い。そうでなく、主の語られた御言葉を信じ、御言葉に立つことが
「信仰」だ。五感では感じる事が出来ないのだが、御言葉に立って、
つかむ事ができるものだ。

第六の感覚であって、それによって、「死者を生かし、無いものを
有るもののようにお呼びになる方」のみわざを経験して行く。その
信仰が最も大きく働き、成長するのは「不可能」の土壌においてだ。
人間的に困難で、可能性がより少ないという状況ではなく、絶望的
であり、全く可能性ゼロの状況においてだ。あなたも経験あるだろ
うか。

今、可能性ゼロの状況なら、人間のものではない、主ご自身のみわ
ざを見る時と機会だ。感謝しよう。それこそが、「もしあなたが信
じるなら、あなたは神の栄光を見る」場所だ。ラザロは死んだ上に、
四日が過ぎ、もう身体は臭くなっていた。更なるだめ押しだ。目に
見えるところの現状か、それとも主の言葉か、どちらを選択するか
にかかってくる。

「不可能」の土壌において、奇跡は起きる。目には、何も見えず、
感じる事が出来なくても、御言葉に立って、信じることを求められ
ているだろうか。祈ろう。主の栄光を見る。
-------------
自分の感覚、判断では不可能は、不可能でしかない。目に見える状
況は強烈でも、そこから主に向き、信仰により御言葉に立とう。主
が共におられる。瞬間、瞬間、選択しよう。


2024年09月09日(月)

「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御 前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」 詩篇 16:11

       
ある男性が、丁度、思春期の頃に、両親の離婚を通った。目の前で、
親が大声でののしり合い、けんかをする。見たくない、聞きたくな
い。いつも父親の暴力と母親の悲鳴、大きな物音、家中の物が壊れ、
悲惨極まりない状態となる。そんな中で、両親は離婚した。自分の
内側で、父親と母親が裂かれ、自分の心も壊れた。何も感じなくな
ってしまった。何をしても、何を見ても無感動だった。

どうなったのかもわからないが、心が動かないのだ。身体ごと虚無
感でおおわれ、息はしていても、死んでいる生ける屍だった。富も
名誉も何もいらない、ただ一つ、生きている実感、生きる喜びが欲
しかった。様々な経緯があり、感謝な事に、主に立ち返ることがで
きた。ただただ、主の愛が嬉しかった。嬉しくてたまらなかった。

その時に、心に暖かい灯がともった。心が暖かさに包まれて、ただ
一つだけ欲しかったもの、あの生きる喜びと生きている実感が湧き
上がったのだ。今は、牧師として主に仕えている。心を満たす「生
きる喜び」は、御霊によるもので、神のみが与えることができ、神
にしか出来ないものだ。

私たちも、その喜びが与えられている事に、まず感謝しよう。日常
の、ささいな一つ一つの恵みを数えよう。目の前の恵みを数えて、感
謝を献げよう。恵みを見る時、神を見ている。感謝する時、神に焦
点が合っている。今日も恵みは豊かに溢れている。
------------------
主が愛し、守っていてくださる。これ以上の喜びがあるだろうか。主
が測って与え導かれるこの一日もゆるぐことはない。主に心を定め、
恵みを感謝して歩もう。


2024年09月08日(日)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があり ます」Uコリント3:16



律法主義は、心が無く、伴わず、形だけ、表面的に物事を行なっ
て行く。するといつの間にか、心がまひしてしまい、外側の目に
見える形、つまり規則や習慣に安心感を得るようになる。外側の
形だけなら、人は幾らでも行なう事ができるのだ。信仰深い、霊
的な人を演じる事ができてしまう。演じながら、礼拝やデボーショ
ンも、奉仕もできてしまう。

しかしそこに主への愛が無いなら、いっさいが無益であり、無価
値だと言われている。律法主義の中にいる時、自分の醜さや弱さ
が決して見えない、気づけない。だから、人も裁いて行く。高慢に
なっていて、全く気づかない。しかし、主に向く時、おおいが取り
除かれるので、自分のありのままの姿が見える。

ふたをしておきたい、決して見たくない自分の醜さ、汚れ、弱さ、
傷、それらがはっきりと見える。そこに御霊の光があり、神に触
れている証拠だ。律法主義は、暗闇の中だ。暗闇では、光が無
いので、自分の本当の姿が見えない。そのため自分は、常に正
しいと思っている。だから人をさばいて行く。

御霊の光の中で、ありのままの自分が見えて、それを認める時、
律法主義から自由にされる。解き放たれる。神と人に対して、自
由にされ解放されるので、ありのままの自分を素直に生きて行く
事ができ、信仰生活に自由な喜びが湧き上がる、主の愛の中で
のびのびと、喜びを持って、生きて行ける。

・・・・・・・・・・・・・・・・
律法で歩むと、形は幾らでも整うが、心は不満でいっぱいだった
り、荒んでいたりする。喜び無く、平安も無い。しかし立ち止まり、
主に向き、ありのままを祈る時、御霊に触れて、心が生き生きと
喜びが出て来る。真に御霊のあるところ、自由だ。


2024年09月07日(土)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があり ます」Uコリント3:16



律法主義は、心が無く、伴わず、形だけ、表面的に物事を行なっ
て行く。するといつの間にか、心がまひしてしまい、外側の目に
見える形、つまり規則や習慣に安心感を得るようになる。外側の
形だけなら、人は幾らでも行なう事ができるのだ。信仰深い、霊
的な人を演じる事ができてしまう。演じながら、礼拝やデボーショ
ンも、奉仕もできてしまう。

しかしそこに主への愛が無いなら、いっさいが無益であり、無価
値だと言われている。律法主義の中にいる時、自分の醜さや弱さ
が決して見えない、気づけない。だから、人も裁いて行く。高慢に
なっていて、全く気づかない。しかし、主に向く時、おおいが取り
除かれるので、自分のありのままの姿が見える。

ふたをしておきたい、決して見たくない自分の醜さ、汚れ、弱さ、
傷、それらがはっきりと見える。そこに御霊の光があり、神に触
れている証拠だ。律法主義は、暗闇の中だ。暗闇では、光が無
いので、自分の本当の姿が見えない。そのため自分は、常に正
しいと思っている。だから人をさばいて行く。

御霊の光の中で、ありのままの自分が見えて、それを認める時、
律法主義から自由にされる。解き放たれる。神と人に対して、自
由にされ解放されるので、ありのままの自分を素直に生きて行く
事ができ、信仰生活に自由な喜びが湧き上がる、主の愛の中で
のびのびと、喜びを持って、生きて行ける。

・・・・・・・・・・・・・・・・
律法で歩むと、形は幾らでも整うが、心は不満でいっぱいだった
り、荒んでいたりする。喜び無く、平安も無い。しかし立ち止まり、
主に向き、ありのままを祈る時、御霊に触れて、心が生き生きと
喜びが出て来る。真に御霊のあるところ、自由だ。


2024年09月06日(金)

「主は彼に向かって仰せられた。『あなたのその力で行き、イスラ エルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではな いか』」士師記6:14



ギデオンは、敵ミデヤン人が恐くて、酒ぶねに隠れていた。主は、
そのギデオンに「あなたのその力で行き、イスラエルを救え」と告
げられる。「わたしがあなたを遣わすのだ」と。非常に驚いた彼は、
どうして自分がそんな事をしなければならないのか。とんでもない
とばかりに、自分の分団は最も弱く、その中でも自分は一番若く、
到底無理だと。

すると、主は「わたしはあなたと一緒にいる。あなたはミデヤン人
を打ち殺す」と。その時、彼は、あなたであるとの、しるしを見せ
て欲しいと願った。本当にこれが主からの事なのかを知ろうとした。
二度のしるしを求め、確かめた。その結果、主による事だと明確だ
った。恐くて隠れている彼に、主は「勇士よ」と語られた。ギデオ
ンが「勇士」だと。

今の恐れ怯えて隠れている彼ではなく、勇士として戦うギデオンを
見られた。又「あなたのその力で行き」と言われ、彼が弱く、若く
ても何の問題も無く、「あなたのその力」で良いと言われる。「主
が共におられること」「主が遣わされること」がすべてだ。

私たちも、自分の弱さと無力を嘆き、自分に何ができようかと、ひ
るんでしまう。主からの示しに対しても、自分を見るなら能力不足、
時間も富も力も何もかも不足だ。

しかし主は「その力で行け」と。あなたの力の問題ではなく、どな
たが共におられるかの問題だ。主が遣わされるので、必要な資源は
すべて主から来る。今、あなたも「その力で行け」と御声をかけら
れているだろうか。
-------------
するべき事や求められるものに気づいていても、自分にあるものを
見て「ああ主よ、今は出来ません」の思いが来る。「その力で行け」
と主は言われる。主の御言葉を握り、主を信じて進もう。


2024年09月05日(木)

「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼ら を照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた」 出エジプト13:21


モーセに導かれたイスラエルの民は、後にも先にもない偉大な奇跡
により、エジプトを出た。すると彼らが出た先は、広大な荒野だっ
た。主は、この荒野を民への訓練とされた。紅海横断の大歓声、大
賛美で喜び踊った民は、それも束の間だった。目の前に広がるのは、
想像もしない厳しい現実だ。何も無い荒野で、すぐに水が無い、食
べ物が無いと不満、愚痴に変わった。

ほんの少し前に大奇跡を見たのだが。しかしそんな民に、主は水を
与え、天からのマナを与え、養い続けられた。そして道中を導く、
昼は雲の柱、夜は火の柱を備えられ、荒野においてずっと導かれた。
民はいつもそれを見ていた。主は導きの主だ。ある人が進路の事で
主の導きを切に求めていた。導きが来たなら、すぐ行動しようと祈
っていた。

すぐに答えが来ると思っていた。ところが数週間が過ぎるが示しが
来ない。「なぜ?どうなっているのか?」段々、焦りが出て来る。
本当に示しが来るのだろうか。焦りや不安、思い煩いをあるがまま
祈った時に、民を導く雲の柱火の柱の箇所を示された。雲が動く時
に、自分も動く。雲が動ないなら、自分もとどまる。主に従う信仰
の試み、忍耐の訓練と教えられた。

雲が動くまで、主をじっと待つ事を決心した。その時、不安も恐れ
も消えて、平安にされた。そして神の時に、導きが来て、進路が素
晴らしく祝福された。このプロセスを通しての霊的学びが感謝だっ
た。あなたも、今、雲が上るのを待っているだろうか。神の時に、
必ず動く。主を待ち望めるよう祈ろう。
--------------
主の示しが悟れるように祈ろう。平安のないまま動き回らず、御言
葉に、御霊の導きにしっかりと耳を澄ませ、主に従いますの信仰を
持って待ち望もう。主はいつも守り導いてくださる。


2024年09月04日(水)

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」 箴言 29:25




日々の生活で、私たちの心を乱し、ざらつかせるものは何だろう。
その一つに、人の評価があるだろうか。人の自分に対する評価が気
になって仕方がない。他人の目が気になり、反応してしまう。振り
返ってみてどうだろう。落ち込んだ時、心暗くなった時、思い煩い
が来た時はどうだろう。人の言葉や態度が気になり、振り回されて
いないだろうか。

又、人からの批判に反応し、心乱され、憎しみや怒りを抱いてしま
う。人が向けて来る憎しみに反応し、憎しみで返すなら、とどまる
事がない。根に、人に認められたい、人からの評価が欲しい自分が
いる。そんな時は、主を見上げ、御言葉はどう言っているかに、を
留めよう。「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない」
「人を恐れるなら罠にかかる」。

相手がイラ立っている時に、口から出る言葉を、いちいち心に留め
るなと。スルーせよと。そして主に信頼する時に、人を恐れる事か
ら守られると。プライドという肉が問題だ。少しでもプライドが傷
つこうものなら、怒り、恨み、憎しみが湧き起こる。自我に触れた
途端、反発心が起きる。又、それを深く根に持つ。

人の評価で一喜一憂し、アップダウンしている事を、まず認めよう。
人の目に敏感に反応する自分に気づく度に、そのまま祈りに持って
行こう。主が受け止めて下さり、御言葉を与え、導き、心を変えて
行って下さる。人ではなく、神に反応して生きるように、少しづつ
変えられる。自分の内にあるものに、気づく事から、豊かな祝福が
始まる。
--------------
人の評価を気にして動いてしまう古い生き方から自由になりたい。
平安がなくなるときは気づき、主の元にいこう。聞き流せる言葉は
ないか主に祈り流していこう。主が守ってくださる。


2024年09月03日(火)

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民 イスラエル人をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10




モーセはエジプトの王子であったが、40歳の時に、同胞が虐げられ
ているのを見て、救出しようとした。だが肉の思いであった。自分
が良かれと思う計画であって、主から発したものでは無かった。そ
の時に看守を殺してしまい、計画は失敗し、ミデヤンの地に逃れる
事になった。何も無い見渡す限りの荒野で、40年間、羊飼いの日々
を送った。

何と言う事だろう。天と地の差だ。以前は王子であり、世の栄華、
地位、富、何もかもを手にしていた。能力があり、文武両道、あら
ゆる人脈を持ち、脚光を浴び、何の不自由もなく、輝かしい将来も
約束されていた。一転、何もない荒涼とした荒野だ。人々の賞賛も、
人気も、スポットライトを浴びる事も、何も無い。来る日も〃、羊
を追い、華麗さと対極の、何の変化も無い平凡な日々が、40年だ。

その中で妻子を持ち、それなりの幸せの中にいたかも知れない。し
かしこの荒野こそが、主のご計画であり、モーセへの砕き、厳しい
訓練であった。自信に満ちたモーセは打ち砕かれた。自分の計画で
なく、主の計画に従えるように、主のわざはなされ、モーセを造り
変えられた。モーセ80歳で、主の時は満ちた。

今更、自分に何ができよう、完全無力だと思ったモーセこそが、主
にはふさわしい。出エジプトの指導者として召し出された。もし今、
こんなはずではない場に、置かれているなら、主のご計画だ。あな
たを取り扱い、砕き、整えておられる。主の御手の中だ。時が来た
なら、豊かに用いて下さる。
--------------
主は、いつも用いようとする者を完全無力にさせられる。自分の知
恵や力やプランが主のご計画の邪魔をしているのかもしれない。祈
りながら、時が満ちるのを待ち望みたい。


2024年09月02日(月)

「『主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むち を加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい」 へブル12:5



主は「その愛する者を懲らしめ」とある通り、主は、愛する者を訓
練し、取り扱われる。懲らしめるのは、愛する者であり、愛ゆえの
事だと。しかし、病気けが、不合格、不作、リストラ、倒産・・一見
マイナスの事が起きると、主に祝福されていないと思ってしまうだ
ろうか。がっかりして、落ち込んでしまうだろうか。

だが御言葉は、逆の事を言っている。愛しているから取り扱うと。
ヤコブは、主に取り扱われた。彼は、父と兄をだまし、祝福を奪い
取ってしまうような、自己中心で狡猾な者だった。その結果、兄の
激怒で、家におれなくなり、遠方の伯父ラバンのもとに身を寄せる。

ところがそのラバンは更にずる賢く、ヤコブは結婚においてラバン
にだまされる。愛する妹ラケルとの結婚を、姉レアにすり替えられ
た。ラケルのために、更に7年の労働を課せられた、ラケルへの愛
により、全うしたが、20年の労働は厳しく辛いものだった。昼は暑
さに、夜は寒さに悩まされ、眠ることもできない有様だった。

主は、ヤコブを苦しみと困難の中で、訓練し、練られ、聖められて
行かれた。自我が強く、ずる賢いヤコブが、主によって砕かれ、造
り変えられた。私たちも必ず試練があるが、主の計画の中で、霊的
成長のためであり、御霊の実を結ぶためだ。更に主を親しく知って
行けるためであり、必ず祝福に結果する。
----------
逃げる事ができない状況によって私たちは変えられて行く。我が子
へと、主が送られたものを正しく受け取り、成長へ向かいたい。今
はわからなくても主のご愛を信じていたい。


2024年09月01日(日)

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやり なさい」Uテモテ 4:2


私たちは、人々が滅びから救われ、天に移されるように、どうに
か証しをしたいと願う。しかし人を恐れてしまう事が、大きな弊害
だろうか。人への恐れたのめ、証しをちゅうちょしてしまうかもし
れない。だが主は、人前で主を認める者は、主もまた、その人
を神の御使いの前で認めると言われる。

そして「恐れなければならな方を、教えよう」と。身体を殺しても、
それ以上何も出来ない人間を恐れるな。人は、私たちに何も出
来ない。だから殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持つ方を
恐れよと。真に恐れるべきは、このお方だと。一羽の雀すら忘れ
られず、御前に覚えられていて、主の許しなしに地に落ちること
はない。

当時、雀は価値の無いものの代名詞だった。無価値な雀でさえ、
主の主権と配慮の中にあるなら、ましてや私たちを守って下さ
らないわけがない。そして証しをする時には、「何をどう弁明しよ
うか、何を言おうかと心配するに及ばない」「言うべきことは、そ
の時に聖霊が教えて下さる」と。ある人が、職場で同じフロアの
男性の突然の自死に、大きな衝撃を受けた。日々挨拶し書類を
届ける相手だった。

全員がショックで、沈痛な空気におおわれた。心が辛くてたまら
ず御前に祈る日々だった。彼女は1ケ月後退職予定だったが、
主に示され、広いフロアの全員に、一人〃お礼の挨拶と共に、
自分がクリスチャンである事を告げ、トラクトを手渡した。全員
が受け取ってくれた。周囲の女性方には証ししていたが、難し
い男性方にも、最後に証しができて、主と共にできた事が感
謝だった。

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人々は都合の良いことだけを聞きたい中、パウロが人生の最後
に来て、死を覚悟した中での言葉に、身が引き締められる。御霊
に導かれて、御霊の示しに従って、みことばを伝え続けることが
できますように。