2024年10月31日(木) 「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、 私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32
「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、 私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32
二人の弟子が、エルサレムをあとにし、郷里エマオに向かっていた。 主は死んでしまわれ、エルサレムにいても、する事が無い。そのた め郷里へ帰る途上であった。彼らは「暗い顔つき」だった。主がロ ーマ帝国を倒し、王国を打ち建て、王となって治めると信じていた。 自分たちの強い思いの中にいた。その主が無惨に死んでしまった。 自分たちの希望、喜び、期待のすべてが破れ、砕け散った。絶望、 失望落胆、無力、空虚の中にいた。主は幾度も、「十字架につけら れ、三日目によみがえる」と言われたが、自分の思いと全く異なる 事であり、その言葉は全く入らず、信じていなかった。主のよみが えりを信じていたなら、エルサレムにとどまっていたはずだ。弟子 たちは主の言葉でなく、自分の思いの中にいた。 御言葉でなく、自分の思いが一番だった。そんな彼らに、主の方か ら近づかれ、彼らの思いを吐露させられた。この方に望みをかけて いたと過去形であり、しかしだめだったと言った。主は、彼らの暗 さの原因を「信じない、心の鈍い」と、不信仰によると言われた。 その彼らに、主は何をされたのか。御言葉を解き明かされたのだっ た。すると耳を傾ける彼らの心が、内に燃え上がった。 沈んでいた心がよみがえり、赤々と燃えて来た。御言葉に真剣に耳 を傾けた時に、彼らは180度変わった。すぐにエルサレムに戻って行 った。御霊によって心に語られる御言葉に大きな力がある。心を燃 やしてくれる。御言葉に聞こう。そして信仰ダウンする時に、「イ エスご自身が近づいて」、主の方から近づいて、語りかけて下さる。 ----------- 刷り込まれた価値観や思い込み、また日々の感覚で、気持ちはすぐ 元気を失う。聖書の中にはっきりと記されている主の御約束に立ち 戻ろう。祈り、聖書を開き御言葉に聞こう。力を受ける。
2024年10月30日(水) 「・・すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに 心を動かされた」Uサムエル21:14
「・・すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに 心を動かされた」Uサムエル21:14
ダビデの時代に、3年間続いた飢饉があった。その時にダビデは、 飢饉があったという事実だけでなく、「この飢饉はなぜですか」と 主に御心を問うている。ただただ豊作になるようにと、求めたので なく、この事の原因を問うた。この祈りは、主の心にかない、すぐ に答えられた。 「サウルとその一族に、無実の血を流した罪がある。彼がギブオン 人たちを殺したからだ」と。イスラエルはギブオン人と盟約を結ん でいたのに、サウルは熱心の余り、彼らを殺すという罪を犯してい た。その罪を主が明らかにするために、ききんを起こされた。そこ でダビデは対処するために、ギブオン人たちを呼んで、何をすれば よいのか、何を償えばよいのかと問うた。 そして彼らの願い通りに、ダビデはすべての償いを果たした。「そ の後、神はこの国の祈りに心を動かされた」。ダビデが御心を尋ね ると、サウルと一族の罪が示され、その償いをきちんとした時に、 主は祈りに目を留められた。罪は祈りの障害となる。 「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りと なり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないように した」と言われ、罪が、祈りをさえぎってしまう。幾ら祈っても答 えが無い時には、立ち止まって、主の御心を伺おう。主はその祈り に答えて、御心を示し、祈りを軌道修正し、正しく導いて下さる。 そして祈りは答えられて行く。祈りを点検してみよう。 --------------- 主は必ず最善の答えをくださる。今、叶えられない祈りは、私達の 側の受け取る準備が整っていないためかもしれない。主に尋ね求め ながら、示されたことに従って行こう。
2024年10月29日(火) 「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが 御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそ あなたは人に恐れられます」詩篇130:3
「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが 御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそ あなたは人に恐れられます」詩篇130:3
聖書は、信仰者の失敗、信仰の偉人の失敗をもありのままに記して いる。世の書物なら、必ず都合悪い部分は隠す。だが赤裸々に記さ れている。アダムとエバは罪を選んで、主に背き、失敗し、隠れた。 ノアは酔っ払って失敗し、アブラハムは妻を妹だと偽り、又、神の 時を待てずに奴隷により、イシマエルを産み出してしまった。 イサクも父と同じく、妻を妹と偽る。ヤコブは、父と兄をだました。 モーセは40歳の時に人を殺してしまい逃亡した。又、出エジプトの 後、荒野では、怒りで岩を打つ罪を犯し、約束の地に入れなかった。 アロンは、金の子牛の像を作る罪を犯した。ダビデは、姦淫に殺人 の罪を重ね、ペテロも弟子たちも主を裏切り、逃げてしまった。 主はそれらを失敗をことごとく悔い改めに導き、赦され、尚も決し て変わらない愛で、愛し続けられた。どんな失敗をしても、決して 見捨てられる事はない。アブラハム、イサク、ヤコブは大いに祝福 され、モーセは出エジプトの大役を果たし、ダビデは素晴らしい恵 みに満ちた詩篇を記し、ペテロは主の赦しを受けて、主の昇天後、 諸教会のリーダーとして大活躍した。 失敗の時は、問題の原因を考えてみよう。自分のどこの弱さから来 ていて、自分の何に触れているのか。御霊の光の中で照らして頂こ う。プライド、虚栄心、貪欲・・だろうか。そうする時、繰り返す事 から守られる。主の赦しを受け取ろう。主のあわれみは尽きず、豊 かにあわれんで下さる。主は、再び立たせて下さり、もう一度やり 直させて下さる。 --------------- くり返す失敗の原因は何処にあったのだろう。委ねられない思い煩 いや、自分を過信し祈らずに走ってしまったあれこれ。赦された恵に 感謝すると共に、よく自分自身を吟味したい。
2024年10月28日(月) 「彼が・・のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、『イスラエ ルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』 と言った」出エジプト32:4
「彼が・・のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、『イスラエ ルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ』 と言った」出エジプト32:4
モーセが、主とまみえるためにシナイ山に上った。モーセが不在の 間に、民は、神がわからなくなってしまい、アロンに偶像の神を造 るように頼んだ。彼らは周囲の偶像の民と同様に、目に見える神を 求めた。人は目に見えない神よりも、肉眼で見る事のできる偶像を 求める。それは木や石や金で造ったいわゆる像だけではなく、お金、 仕事、趣味、人であったりする。 又、名誉や地位、人からの賞賛が偶像にもなる。目に見えない神を 信頼できないので、確かな手ごたえのある、目に見えるものを求め る。アロンは、モーセを助けるために、主によりそこに置かれた。 モーセ不在中の出来事に、主に頼り、導きを受け、民を治めるべき であった。それが民の言いなりになってしまった。 アロンは鋳物の子牛の像を造り、彼らは「これがあなたをエジプト の地から連れ上ったあなたの神だ」と言い、礼拝した。主はモーセ に「すぐ降りて行け。民が堕落してしまった」と。主の栄光を現す べき聖なる民が、偶像を崇め、礼拝し、主を辱めてしまう。私たち は木や金の像を拝みはしないが、心の奥で、主よりも大切にしてい るものはどうだろう。 主よりも愛し、主よりも頼っているもの、それが偶像だ。「このむ さぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」と、偶像礼拝は、心の欲望、 貪欲にあると。又、満たされない心を埋めたくて、偶像に走る。偶 像でなく、主ご自身が満たして下さる。愛なる主に求めよう。 --------------- 目に見えない神より、目に見える確かな手ごたえに安心してしまう。 そして、いつしか執着していく。この不信仰がある事をいつも認め ていたい。真に必要なものを主に求めよう。
2024年10月27日(日) 「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことば をそこで混乱させたから」創世記11:8
「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことば をそこで混乱させたから」創世記11:8
よく知られているバベルの塔の箇所だ。最初、全地は一つ言葉だ った。そのため互いに、自由に意思疎通ができた。人々はシヌアル に平地を見つけ、定住した。彼らは、石の変わりに、れんがを作り、 粘土の変わりに、瀝青を作った。しかし、それらは神による技術で あった。建造物を作ることができたが、それは、神からの知恵と 恵みであった。 対話ができ、交流でき、肥沃な地に住み、祝福されていた。しかし、 「そのうちに彼らは」「天に届く塔を建て、名をあげよう」と言い出し た。「神のようになろう」とした、アダムとエバと同じだ。主の恵み に感謝し、へりくだって、主に栄光を帰するのではなく、その逆で、 自分の名をあげ、自分の栄光、名誉、賞賛、「自分」が神の位置 に取って変わった。 神に与えられた能力を、自分の栄光のために使い、「自分が、自 分の、自分を・・」、これがアダムからの罪そのものだ。そして「生 めよ。増えよ。地に満ちよ」との主の御心に反し、散らされないよ うにしようと。「そのうちに」とあり、最初は良かったのだが、段々 と、向きが狂って来た。そこに主が介入された。言葉を混乱させ、 意思疎通を不能にした。 その結果、塔建築が不可能になり、「彼らは建てるのを止めた」。 主が阻止された。そして人々は全地に散らされた。原因は「高慢」 であった。私たちもどうだろう。言葉が通じず、気持ちが通じない 時、そこに「自分、自分、自分」という「高慢」がないだろうか。まず 御前にへりくだり、肉を退ける時に、そこには御霊の一致がある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 罪の性質、肉は、自分の思い通りに生きたい。誰にも干渉されたく ない。支配したい。自我であり、自分が神だ。主は、思い通りになら ない事を与えて、私たちを砕いて下さる。練り、きよめ、造り変えて 下さる。思い通りにならない事の中に、主からのメッセージがある。
2024年10月26日(土) 「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちの負い目の ある人たちを赦しました」マタイ6:12
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちの負い目の ある人たちを赦しました」マタイ6:12
信仰生活で、様々な出来事の中で、赦せない相手が出て来る。 だが赦さない心は、相手ではなく自分が辛い。憎しみは重い鉛と なり、心をふさぐ。日常の事に忙殺されている間は、忘れている が、思いに上ると、ふっと心が暗くなる。楽しい時も、頭をよぎっ た途端、辛くなる。さばく心を持ち続けると、祈りの障害となり、 又、「御霊によって歩め」の命令に従えず、肉の歩みとなってしまう。 苦しく、委ねるべきだとわかるのだが、憎しみを握って放せない。 自分ではどうにも出来ないので、まず、あるがままを主に告げよ う。主は、手を取って一歩〃と導いて下さる。多くの人々がその プロセスを様々経験して来た。ある人は、自分を批判、中傷した 相手への根深い恨みが、どうにもならず、祈り続けていた。 すると「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているか自分で わからないのです」との言葉が、心に響いて来て、当然、相手の 事だと思った。相手は、自分のしている事が、わからないのだか ら赦すようにと。しかし御霊により、そうでなく、自分の事だと示さ れた。相手が悪いせいと、憎しみ恨み怒りを正当化しているが、 しかしそれは紛れもなく自分の罪だと。 言われる通り、憎しみは、自分の罪だと認めさせられた。そして 続いて自分の罪の赦しが祈られている事に、大きな驚きと共に、 目が開かれた。自分が赦されている恵みにおおわれて、解き放 たれ、御霊により相手を赦すことができた。主の大きな恵みであ った。主は助けて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 多くの人々が、赦せない思いが、御霊により解決された経験を持 つ。一人〃、その取り扱いが異なり、それぞれに導かれている。 ある人は時間をかけながら、ある人は短い中で。祈りに持って行 こう。主は必ず導いて下さる。
2024年10月25日(金) 「あなたの恵みによって私の声を聞いてください。主よ。あなたの 決めておられるように、私を生かしてください」詩篇119:149
「あなたの恵みによって私の声を聞いてください。主よ。あなたの 決めておられるように、私を生かしてください」詩篇119:149
ある人が、色々予定があり、ボーナスを当てにしていたところ、思 っていたより少なかった。がっかりし、落胆すると共に、何だか不 満が募った。小さな会社ではあるが、「なぜ、どうして?」自分は 会社のために懸命に働いている。残業もして、犠牲も払ってる中、 報われない思いでいっぱいになった。 うつうつとした、晴れない気分の中、主を仰いで、祈っていた時に、 「あなたの決めておられるように、私を生かして下さい」との御言 葉が来て、これは、人ではなく、主が決められた事との思いが臨ん だ。その時に、非常に不思議であったが、さあーっと雲が晴れるよ うに、心が平安になった。主が決められたことなら、それで良かっ た。すると、平安な心に感謝が湧いて来た。 何より、自分の賜物が生かせて働けていること、小規模のため、む しろ自由に才能が発揮できていること、楽しく、生き甲斐を持って 働けていることに、改めて思いが至った。必要はいつも与えられて いる事、家族が養われている事、家庭が主に守られて日々暮らせて いる事に、感謝でならなかった。逆に、改めて感謝が溢れたのだっ た。 私たちもどうだろう。主から目を離し、見える所だけを見た途端、 無いものばかりを数え、不満と愚痴に落ち込んでしまう。しかし主 を見上げる時に、主にはご計画がある事、主が決められたことがあ る事、そして主のご愛の中で、豊かなあわれみによって生かされい る事に、思いが至る。 --------------- 主に与えられた今だと主を仰ぐとき、注がれている恵みが見えて くる。足らないものは大きく見えるが、主を仰ぎ主の決めておら れるようにと祈っていこう。備えられている恵みを受け取ろう。
2024年10月24日(木) 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩篇37:5
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩篇37:5
私たちは、日常生活で、様々な事柄を計画する。そして、これこそ 最高のプランだと思い、自分の考えでは必ずうまく行くと思う。今、 現在も、計画している事柄があって、着手しようとしているだろう か。御言葉には「計画」について、様々記されている。「人の心に は多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」。 人には、多くの計画があると言っている。その通りに、心は、ああ で、こうでと、あれやこれと思いが巡りに巡る。しかし、「主のは かりごとだけが成る」と。御心のみが成就すると言う。そして「主 のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」。つま り肉の思い、肉の計画は立ち行かず、必ず途上で頓挫する。 「主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくさ れる」と。どんなに完璧な計画に思えても、人から出たものは立ち 行かない。主が無効にし、むなしくされる。そうであるので「あな たのしようとすることを主にゆだねよ」と勧められている。その計 画を主にゆだねよ、主に渡すようにと。私たちはどうしても、自分 の計画があり、したい事がある。 口では御心のままになのだが、本音では、自分の願い通りに、であ ったりする。しかし主にゆだねるなら、それが御心であれば、きよ められて返って来る。堅く揺るがないものとされ、成就されて行く。 「そうすれば、あなたの計画はゆるがない」と。それがどんなに不 可能に見えても、主は道の無い所に、道を造って必ず成し遂げられ る。だから、計画を一旦主にゆだねよう。 --------------- 自分を委ねていく者に、主は必ず最善をしてくださる。最善以下が ないとは、何と感謝で安全な歩みだろう。自分のプランを主に知っ ていただき御心を求めよう。主に導かれ進もう。
2024年10月23日(水) 「アブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日 でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている」 創世記22:14
「アブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日 でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている」 創世記22:14
アブラハムは、長い〃忍耐の末、約束の子イサクを得た。しかし彼 らも弱い人間であり、主の時を待てずに、奴隷によりイシマエルを もうけた。だがヘブル書で、アブラハムは信仰の人として称えられ ている。そして主ははっきりと、アブラハムを試練に会わせたと言 い、モリヤの地の山上でイサクを全焼のいけにえとして献げるよう にと。主による試練だった。 25年も待って与えられた、最愛の息子だ。イサクから子孫が増え広 がるのであり、イサクが死んでしまったら、この大いなる祝福はど うなるのか。アブラハムの心中は、どうであったろう。しかし「翌 朝早く」、アブラハムは従うべく、若い者たちと出かけた。そして その場所が見えた時、若者たちは残るようにと。 自分たちは礼拝をして、戻って来ると言った。「私と子どもは戻っ て来る」と。主を信じる信仰に立った。イサクが「いけにえの羊は どこに」と問うと、「神ご自身が備えて下さる」と答えた。彼はこ の事において、全き信頼を主に置いた。しかし、いけには無く、イ サクをいけにえとし、刀を振り下ろす瞬間、手をその子に下すな、 と止められた。主を恐れる事がよくわかったと。 そこに代わりの羊が備えられていた。これは彼も知らなかった事だ。 主は「あなたが、このことをなし、あなたの子、ひとり子を惜しま なかったから、確かにあなたを大いに祝福し」と大いなる祝福を受 けた。私たちも先は見えず、明日もわからない。しかし主はご存じ だ。一歩〃この主に委ねて歩む時、一生涯の間、「主の山の上に備 え」を確かに経験し続けて行く。 --------------- 主の御約束は徹頭徹尾すべて成される。なのに状況に飲まれてしま う。その中でも主の山の備えを経験すると、確かに主が備えていて くださったと感謝が溢れてくる。主は備え、また守られる。
2024年10月22日(火) 「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことが できません・・あなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を 結ぶことはできません」ヨハネ15:4
「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことが できません・・あなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を 結ぶことはできません」ヨハネ15:4
私たちは、心に安らぎ、平安があるだろうか。いつも山積みの仕事 に、なすべき事に追い立てられ、イライラ、ピリピリしているだろ うか。しかし何かをしていないと、動いていないと不安で、何かを する事で、心の充足を得ようしているだろうか。何かをする事で安 心感を、充足感を得ようとするなら、それは忙しいのではなく、自 分が忙しくしている事になる。 止む事ない仕事や趣味や、奉仕を自分で取り込み、取りつかれたよ うに、のめり込む。だが、何かをする事で満たされるのではない。 主は仕事や奉仕で、充足感を下さるが、それはあくまでも結果であ って、満たされるために行うのではない。私たちに満足が与えられ るのは、何かをする事ではなく、主にとどまる事によってだ。 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝」「わたしにとどまりな さい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」とどまるなら多 くの実を結ぶと。そして、「わたしを離れては、あなたがたは何も することができない」。自分の力では、御霊の実を結ぶ事ができな いと。主を離れて、肉であれやこれやと動き回っても、結局、何の 実も無い。 今、焦りやいら立ち、疲れがあるだろうか。重荷に感じているだろ うか。自力で頑張っていないか、行ないで満たされよう、認められ ようとしていないだろうか、まず立ち止まろう。主と交わり、主の 憩いに帰ろう。そこから平安が来る。そして主の平安の中で、主と 共に行動して行く時に、豊かな実を結んで行ける。 --------------- 今、何かで満足を得たとしても、祈りに答えてくださった主を認め ていなければ、信仰は枯れてしまう。主に留まっていよう。御言葉 と御霊に導かれ主の深い平安に守られる。実を結んでいこう。
2024年10月21日(月) 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分 のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」1コリント 6:20
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分 のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」1コリント 6:20
時に主のみ思いと、私たちの思いが大きくかけ離れ、異なる事があ る。主は、私たちの祈りを喜ばれ、どんな小さな祈りも、耳を傾け、 聞いて下さっている。だが、祈りの答えは、自分の都合の良いよう に来るのではない。私たちは、自分の思い通りにしたいとの、強い 肉の思いがある。 自分の思い通りに、願いを叶えて欲しい。それが時々、主のみ思い は異なっている。例えば、私たちは、生まれつき身体が不自由なら、 自由になる事がいやしであり、祈りの答えだと思う。しかしもし不 自由であっても、御霊の喜びと平安が与えられ、生き生きと感謝の 人生を送れるならどうだろう。それが答えであるかも知れない。祈 りが聞かれるとは、自分の思い通りではない事もある。 しかしもし、自分の思いではない道だが、主の栄光が現れるならど うだろう。私たちの目標は、どんな場合にも、私たちにより、主の 栄光が現れる事ではないだろうか。パウロは、トゲが取られるよう 3度も、つまり徹底的に祈ったが、主からの答えは「ノー」だった。 主は、それがある方がより栄光が現れると言われた。 ある人はトゲが取られ、ある人はそのまま残される。どちらも主の 栄光のためだ。私たちの「なぜ?なぜ?」と、不満と愚痴の部分を 今一度、御霊の光に照らされて、受け取り直そう。今、目の前のそ の事は、あなたを通して、主の栄光が現われるためではないだろう か。 --------------- いつでも、どんな事にでもそこに主を認め、主の最善を信じて、失望 せずに歩むなら、それが主の栄光を現わすことになる。大きなことは 出来ない者だが、今日も主に感謝して、喜んでいたい。
2024年10月20日(日) 「また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、 喜んで耳を傾けていた」マルコ6:20
「また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、 喜んで耳を傾けていた」マルコ6:20
ヘロデ王は、ヨハネを正しい人と恐れ、保護し、教えを聞いていた。 だが、ヘロデの誕生日の祝宴で、ヘロデヤの娘が踊りを踊った ので喜び、何でも欲しい物を与えると誓った。娘の願いが「ヨハネ の首」だった。すると、ヨハネを殺してしまった。なぜこんな事に、 なってしまったのだろう。 「王は非常に心を痛めたが・・人々の手前もあって」と、ヘロデは ヨハネを正しいと知りつつ、人目を気にして、人の手前、ヨハネを 殺害した。ヨハネの語る教えを聞くも、自分の体面を保つために、 ヨハネを抹殺してしまう。ヘロデは、ただ神の言葉を喜んで聞くだ けで、御言葉に真剣に応答し、悔い改める事は無かった。 又、神の言葉に従い、方向変換するという事が無かった。彼は トップで権力があり、娘の間違った願いを退ける事ができた。 だが、娘の言う事に従ってしまった。ヘロデは神を恐れず、人を 恐れた。体面が最優先だった。私たちは、どうだろう。人の目に、 自分が思う以上に囚われているものだ。人を恐れると罠にかか り、事を大きく誤って行く。 人への恐れは、根深く培われていて、気づきから始まる。ヘロ デはヨハネの言葉を喜んでいたが、悔い改める事はなく、従う事 も無かった。どんなに聞いても、従わないなら、実を結ぶ事がない。 ピラトも主が正しいとわかっていたのに、保身のために、優柔不 断で、主を十字架に追いやった。御霊の示しに一歩一歩と従う 時に、必ず実を結んで行く。目の前の示しに従えるよう祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・・ 人が気になり、人への恐れは根深くあるものだ。御言葉よりも、 目に見える相手に、良い人に見られたい。嫌われたくない。そ うすると、御霊に示された御言葉も捨ててしまう。弱さを認めて ありのまま、主の助けを求めて祈ろう。従えるよう助けて下さる。
2024年10月19日(土) 「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、 人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることがで きないと、争ったり、戦ったりするのです」ヤコブ4:2
「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、 人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることがで きないと、争ったり、戦ったりするのです」ヤコブ4:2
人は、なぜ戦い、争うのだろう。「羨んでも手に入れる事 ができないと、争う」とある。自分の欲求が満たされない 時に、問題行動を起こすと。争いの裏には、満たされない 心がある。主からの平安に満たされた心が、あえて争いを 起こす事は無い。 「妬みや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる 邪悪な行いがある」とあり、欲求不満があり、妬み、いら立ち、 怒りにより、相手を攻撃して行く。自分の欲しいものを得るた めには、人殺しまですると言っている。ニュースで、目にする犯 罪や事件も、個々の対人関係で起こる出来事も、しかりだ。 邪悪な行いがある時、幾ら自分を正当化しても、その心の奥 に、自分が欲しいものを持つ相手への、妬みがあると言って いる。その時に、自分で得るのでなく、主に拠り頼み、祈れと 言われる。「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが 願わないから」だと。肉の思い、肉の力で、得ようとする時、そ こに神も、祈りも無い。 まず、主に向かう祈りが大切だ。主に求めよと。そして祈っても 与えられない時は、心の内の動機を探って頂くようにと。動機 は何だろう。自分の評価や、自分が信仰的に見られたいがため、 自分の栄光のためだろうか。未信者の夫が、親が、救われて 欲しい事の動機は、「自分が」楽になれるからだろうか。 心の底にあるものを御霊は探り出し、軌道修正して下さる。そし て「すべての良い贈り物は、上から来る」、恵みを豊かに与えて 下さる。主にのみ期待し、望みを置いて行く時に、心が変えられ て行く。状況にかかわらず、平安が与えられるので、人を羨み、 妬む事から守られる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ けんかや争いの裏に、満たされない心、不満がある。その心 が問題だと。良い贈り物は天から来る、人も物も、満たすこと の出来ない心を、主のみが、満たすことがおできになる。主 ご自身に求めよう。
2024年10月18日(金) 「というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じること は、神のみこころだからです」Tペテロ2:15
「というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じること は、神のみこころだからです」Tペテロ2:15
「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい」と言われている ように、私たちは、異邦人の中で生きている。そして周囲は、私た ちの生き方を見ていないようで、しっかりと見て、観察している。 その中で、立派に振る舞えと言われる。信仰は、常識を超える事は あるが、決して非常識ではない。愛は礼儀に反する事をしない。信 仰者としてマナーを守って行く。 人々は聖書は読まないが、クリスチャンの生き方は観察している。 その生き様を通して、聖書を知る。信仰者は「歩く聖書」だ。「御 霊の実は、愛、喜び、平安・・」、世の人々が求め、欲しいものが、 「愛、喜び、平安」だ。人が求めるものは愛であり、誰しも愛し、 愛されて生きたい。それが得られないので、他のもので心を満たそ うとする。又、世には、外部からの刺激による喜びしか無い。 何かラッキーな事、嬉しい事があるから喜べる。しかし、私たちの 喜びは、外部のものに依存していない。外側に何も無くても、内側 から湧き上がる御霊の喜びだ。又、恐れと不安の、不安定な世の中 にいる人々にとって、平安は何と魅力的なものだろう。誰しもが欲 しいものだ。主にゆだねて、主を第一として生きる時、心は、この 世のものではない、主の平安に満たされる。それらは内側から溢れ 出て来る。 御霊の愛、喜び、平安がある時、私たちに様々な弱さがあっても、 何かが違うと人々は思う。私たちの振る舞いを見て、人々が、神を 誉め称えるようになると。この世では、辛い事も多々あるが、祈り つつ主に従って行こう。御霊は助けて下さる。そして主が豊かに報 いて下さる。 --------------- 信仰のことで嫌な思いをすることも、また気落ちすることもあるが、 様々な弱さを主に預けて祈ることが出来る。この世の闇から光の中に 招いてくださった主に感謝し、この感謝を証したい。
2024年10月17日(木) 「主はモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人に、引き返すよ うに言え。』」出エジプト14:1
「主はモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人に、引き返すよ うに言え。』」出エジプト14:1
モーセのもとにエジプトを出た大勢の民を、主は「荒野」へと導か れた。だが、荒野を進み行く時に、途上で、主は「引き返すように」 と言われた。引き返して、海辺で宿営するようにと。「え!なぜ? どうして?」まさに追っ手が迫るやも知れず、少しでも遠くへ、一 刻も早く進まねばならないのに。引き返せとは、「なぜ?」。 そうこうしていると、パロの考えが変わった。壮年男子だけでも60 万、エジプトとしては、膨大な労働力を失う事になるのだ。自ら精 鋭部隊を率い、エジプト軍の全戦車で、民を追跡した。民が目を上 げて見ると、何とパロの軍勢が迫っていた。引き返せとの命令に従 ったがために、追いつかれてしまい、一体どういう事なのか。民は 「非常に恐れて主に向かって叫んだ」。 すぐ背後に精鋭部隊の追っ手が迫り、どんなに不安で恐怖だったろ う。なぜ、主は途中で引き返せと言われたのか。「彼が彼らのあと を追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし」と、 「栄光を現わすため」と言われた。私たちもどうだろう。「主に従 ったのになぜこんな事が?」「どうしてこうなるのか?」と厳しい 試練を通る事があるが、深いご計画があり、「主の栄光のため」だ と。 その苦しみを通して、主の栄光が現わされる。その時に「恐れるな。 しっかり立って、主の救いを見よ」と。「主が戦われるから、あな たは黙っていよ」と。恐怖におののく民に「恐れるな」。民が戦う のでなく、「黙っていよ」と。主に信頼して、静まる時、主の救い を見る。主ご自身が戦われるからだ。 ------------------- いつも見えるところでなく、主の御言葉に従う訓練をさせられる。 どれだけ、完全な主の戦いを待ち望んでいるだろうか。自分の知恵 や経験で動かず、主を信じて待ち望もう。
2024年10月16日(水) 「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、 まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え 物をささげなさい」マタイ5:24
「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、 まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え 物をささげなさい」マタイ5:24
ある人が、友人と口論になって、ひどい言葉で傷つけてしまった。 つい言ってしまったというものではなく、自我から出た、紛れもな く自分の醜い罪であった。御霊により罪を指摘され、御前に悔い改 めた。御霊は、友人にも謝罪するよう示された。自分の愚かさであ り、相手に謝る事は恥ずかしい、したくない事だった。 しかし自分の犯した罪であり、このままでは胸にしこりが残り、辛 い。決心し、御霊の示しに従い、傷つけた相手と周囲の嫌な思いを させた一人一人に謝る事にした。赦してもらえなくても、仕方の無 い事だ。だが勇気を出して謝った時に、相手は快く赦してくれた。 他の人々も同様だった。神にも、人にも、赦される事の大きな喜び と平安を経験し、心が満ちた。 御言葉は、こちらが恨んでいるのでなく、「兄弟に恨まれている」 事を言っている。何か、相手に恨まれていると思うなら、まず自分 の方から謝るようにと。それは、こちらが悪くなくても、相手と平 和な関係を築くようにと。時に、こちらは和解したいし、良い関係 を築きたいと願っていても、相手のある事で、相手はそうしたくな い場合もある。 それは、こちら側ではどうする事もできない。そのため、「あな たがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と あり、「自分に関する限り」であるので、その場合は主におゆだね して、平安でおればよいと。何か示されている事があれば、すぐに 従おう。 --------------- 自分が傷つくのも痛いが、人を傷つけてしまう事はもっと痛い事だ。 もし解決しなければならない対人関係が示されたのなら、主の導き に従おう。平和を追い求めよう。
2024年10月15日(火) 「彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らに は水が見つからなかった」出エジプト15:22
「彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らに は水が見つからなかった」出エジプト15:22
モーセに導かれたイスラエルの民は、エジプトを出て、荒野に出た。 荒野の厳しい環境で、炎天下を3日歩いたが一滴の水も無かった。 民は、のどが渇いて死にそうだった。皆の心は、嘆き、挫折、絶望 状態にあった。そんな時、マラで水を見つけて大喜びしたが、その 水は苦くて飲めなかった。 人々は失望落胆で、不満が爆発し、その怒りをモーセにぶつけた。 3日前に紅海で、後にも先にも無いほどの、偉大な奇跡を見たばか りだ。その主への賛美と感謝は、きれいに吹っ飛んでいた。まさに 手の平返しだ。その時、モーセはどうしたのか。モーセは主に叫ん だ。民に向かうのでなく、主に向いた。 すると一本の木を示され、それを投げ入れた。すると苦い水が甘く なった。私たちも何かが起きると、不満、怒り、失望となってしま う。それが心の中で、苦い水となり、渦巻き溜まる。苦々しい心だ。 私たちにも一本の木である十字架を備えて下さった。苦い水はどう やっても、甘くできない。それを十字架が成し遂げてくれる。 色々な人が、理不尽な目に会う事を経験した。上司は自身の失敗に だんまりで、周囲から自分のせいにされた。又、自分のミスではな いのに、上司と皆から決めつけられた。怒りと悔しさを主にぶつけ ると、目の前に十字架が示される。 完全に正しい方が、黙って十字架にかかられている。それにひきか え、自分は正しいと激高している、自分の姿を見せられる。十字架 から赦しといやしが流れ、平安にされる。苦い水が甘い水に変えら れる。 --------------- 苦い水を誰かのせいにしたい感情が沸き起こる。感情が爆発する前 に、主に叫び備えよう。助けを求めよう。主が平安をくださり、一 瞬一瞬の思いをいやし、次へ導いてくださる。
2024年10月14日(月) 「すると突然、主の使いが現われ・・ペテロのわき腹をたたいて彼を 起こし、『急いで立ち上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の 手から落ちた」使徒12:7
「すると突然、主の使いが現われ・・ペテロのわき腹をたたいて彼を 起こし、『急いで立ち上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の 手から落ちた」使徒12:7
ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようと、ヤコブを剣で殺 害した。それがユダヤ人に、気に入られたのを見て、次にペテロを 捕らえた。ペテロは投獄され、二本の鎖につながれ、二人の兵士の 間で寝ていた。しかし何と引き出される日の前夜に、突然、主の御 使いによって、牢から救い出された。 「教会は、彼のために、神に熱心に祈り続けていた」、教会ではヤ コブの時も、ペテロの時も同じように熱心に祈った。その結果ヤコ ブは処刑され、ペテロは救い出された。何が違うのだろう?これは、 ヤコブとペテロそれぞれへの神のご計画であり、召しによる事だっ た。ヤコブは殉教によって、神の栄光を現わし、ペテロは更なる宣 教の使命があり、それにより神の栄光を現わす事となる。 ヘブル11章に、ある人々は「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、 剣の刃を逃れ、強くされ、戦いの戦士となり、陣営を陥れた」とあ り、奇跡に次ぐ奇跡により前進して行った。そして同時にある人々 は「牢に入れられ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺さ れ、乏しくなり、苦しめられ」と、殉教して行った。 見えるところは、全く違うが、どちらもが「信仰によって」歩んだ。 私たちも、一人一人に備えられた神のご計画が全く違う。そのため 隣との比較ができない。主から自分に与えられた人生、自分に委ね られた御心を全うする事が、一番の喜びと平安の道であり、幸せの 道だ。 --------------- 私達へのご計画と御心が、十分に成されるよう祈り、主に自分自身 を明け渡していこう。隣を見ても一人として同じ境遇の人はいない ように、主に与えられた自分の信仰生活を感謝しながら全うしたい。
2024年10月13日(日) 「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない」申命記5:7
「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない」申命記5:7
偶像と聞くと、金銀の像、木や石の像、人の手で作った像を思 い浮かべるが、無形の偶像もある。私たちは、神以外のものに 心を奪われ、執着すると神が見えなくなり、心が持って行かれ てしまう。太陽の前に10円玉を置くと、太陽が全く見えなくなるよ うに。そして神の前に置いた、神以外のものは偶像となってしまう。 主を裏切ったユダは、お金を置いただろうか。又、自分の思い を置いて、主が自分の思いと違っただろうか。主が見えなくなっ てしまった。もし金持ちになりたがるなら「誘惑と罠に陥り、破滅 と滅びへ向かう欲に陥る」とある。「金持ち」になるとは金銭だけ でなく、地位、名誉、人からの賞賛評価、野心であり、自分が認 められたい欲だ。偶像となってしまう。 その欲は、悪魔の誘惑と罠に陥るとあり、気をつけなければ、こ れらのもので、悪魔の罠に陥り、信仰から迷い出てしまう。クリ スチャンになれば、石や木の偶像を拝む人はいない。しかし一 見喜ばしいもの、良いものであると偶像と気づかない。「彼らの 力とするもの、栄えに満ちた喜び、愛するもの、心に慕うもの」と ある。握りしめて放さないものがあるだろうか。 神より大切になっているだろうか。自分の内に偶像がないか、御 霊に探って頂こう。そのままにしておくと命取りになってしまう。偶 像を主のもとに持って行こう。渡せるように祈ろう。10円玉が除け られると太陽がはっきり見えるように、主の御声がはっきり聞こえ、 信仰に前進できる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一見、罪では無いものに、のめり込んで、時間も労力も奪われ、 心も持って行かれてしまう。霊的食欲はどうだろう。増進している だろうか。霊的食欲が減退していたら、要警戒だ。御霊の導き の内にいるなら、必ず食欲が増進して行く。
2024年10月12日(土) 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたし を信じなさい」ヨハネ 14:1
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたし を信じなさい」ヨハネ 14:1
10月12日 不信仰とは、信仰が足りない事のように思ってしまうが、そうでなく、 不信仰とは、主を仰がず、自分の思い、自分の力、自分の判断、 自分の知恵を信じることだ。つまり、主を頼らず、自分の力を頼 って生きる事だ。不信仰とは、自分の人生の全主導権を自分が 握って生きる事だ。つまり、車の助手席に主を置いて、運転席に 自分が座る。 自分のプラン通りに、思い通りに生きる事だ。しかし自分主導の ため、問題が起きると、すべてがずっしりと自分の肩にかかる。 それは重くて負いきれず、思い煩いに落ち込む。しかし真面目 に生きているつもりなので、気づかなかったりする。不信仰とは、 あくまでも軸が自分であり、見ているのは、主でなく、いつも自 分自身だ。そして自分のための神で、自分が良く生きるための 神だ。 不信仰とは、信仰の量の不足でなく、主に頼らないことだ。信仰 とは、自分の思いを捨てて、主の判断、知恵、主の心を求めて、 主に信頼して生きることだ。自分は車の助手席に座り、主に運 転席に座っていただくことだ。つまり、自分自身と自らの人生を 明け渡して行くことだ。主に、自分自身をゆだねる時に、奇跡が 起きる。自分中心にしか生きることの出来ない者が、少しづつ 少しづつ変えられて行く。 主を喜び、主に感謝し、自分の損得ではなく、主のお心を求め て生きるようにされる。たとい自分の損になったとしても、主の みこころを行なって行こうとする。自分の願望と欲が満たされる 事が、喜びであった者が、主の栄光を喜ぶ者に変えられて行く。 これは奇跡だ。主が変えて行って下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 突如の事態が起きた時に、パニックになり、どっと不安に襲わ れ心が騒ぐ。まさに主が飛んでいる。自分で考えるので、自分 に全部がかかっている。主を仰ぐ時に、ふっと我に返る。御言 葉に立ち返れて、心が落ち着いて来る。主を仰ぎ、祈ろう。
2024年10月11日(金) 「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」 箴言29:25
「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」 箴言29:25
私たちは、新生した後も古い性質があり、どうしても人の目が気に なる。気になって仕方が無い。良い人に見られたいし、嫌われたく ない。救われる前はこの世の価値観で、ずっと人との比較で生きて 来た。他人との差異でしか自分を量れないからだ。人の目に自分が どう映っているかが気になる。主の御目でなく、人の目に映る自分 を意識してしまう。 しかしそれは本当の自分ではなく、つくろい、演じている自分だ。 人によく見られようと、自分以上の自分に見せようとする。比較か らは、必ず優越感と劣等感が生じる。又、比較から妬みが生じる。 自分がどうしても欲しいものを、持っている相手がいたらどうだろ う。解決は、比較を止める事だ。 比較をしなければ、優越感や劣等感、妬みから守られる。まっすぐ に主だけを見ておれたら、どんなに平安で幸いだろう。しかしそれ が出来ない。だが、主が備えて下さった道がある。それは、比較す る自分、演技する自分、背伸びをし、自分以上によく見せようとす る自分、ごまかす自分、それらをまず主の御前にそのまま認める事 だ。 それが主の御前にへりくだる事だ。主に隠さず、自分の本当の姿を、 ありのまま主に告白する事だ。その時、主は受け止め、働いて下さ る。人でなく、主を見上げるよう助けて下さる。主が導いて行って 下さる。人の目にがんじがらめの自分が、段々と変えられて行く。 自分でどうにも出来ない事を、主がみわざをし、自由にして下さる。 --------------- 人目を気にして良い人のふりをしても、それは何処までも偽物だ。 主に認めて祈ろう。弱さのまま主は支えてくださる。主の御前を 正直に生きていきたい。主に明け渡していこう。
2024年10月10日(木) 「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みこと ばに聞き入っていた」ルカ10:39
「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みこと ばに聞き入っていた」ルカ10:39
主が来られた時、マルタはもてなす準備をし、マリヤは主の足もと に座し、み言葉に聞き入った。その後、主が過ぎ越しの祭りの6日 前に、又、ベタニヤに来られた。人々は晩餐の用意をし食卓につい た。その時にマリヤが、非常に高価なナルドの香油の石膏の壺を持 ってきて、その壺を割り、主の頭に香油を注いだ。 300グラムだった。家は香油の香りで満ちた。 するとイスカリオテのユダが言った。「何のために香油を無駄にし たのか。なぜこの香油を300デナリで売り、貧しい人々に施さない のか」と。しかしこのユダは、貧しい人々の事を思っていたのでな く、収められたものを盗んでいたからだと。当時の給料が1日1デ ナリであり、給料300日分で、300万円位だろうか。非常に高価なも のだった。 マリヤはその壺を割ったので、もう元に戻る事なく、全部を使い切 った。一滴も残さず主に献げきった。マリヤの主への献身だった。 主はマリヤをかばわれ、そのままにと。「わたしのために立派な事 をしてくれた」と。埋葬の準備にと、わたしのからだに前もって油 を塗ってくれたのだと。世界中で福音が語られる所では、マリヤが した事も語られると称賛された。 マリヤの行為は、今から十字架に向かわれる主を、どんなにお慰め した事だろう。なぜマリヤだけが、主の贖いの十字架を理解でき、 時も悟れたのだろう。マリヤが主の言葉に「聞き入って」いたから だった。一言も、もらすまいと真剣に。私たちも、ます御声をよく 聞く事により、主が望まれる時に、主が喜ばれる事を行なって行け る。 --------------- 無くてはならないただ一つのものを大切にと主は言われる。日々、 忙しく思いがめぐる中で、主の御心を悟るために静かに主のそば に座ろう。新しい心で御言葉に聞き、導かれていきたい。
2024年10月09日(水) 「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられる と、マルタという女が喜んで家にお迎えした」ルカ10:38
「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられる と、マルタという女が喜んで家にお迎えした」ルカ10:38
主が、マルタとマリヤの家に来られた。その時に、マリヤは、弟子 たちと共に主の足もとに座り、主の語るみ言葉に聞き入っていた。 一方マルタは、非常に忙しく立ち働いていた。主と12弟子の食事 のお世話は大変だ。段々と夕刻が迫って来る中、準備は思うように はかどらず、マルタはイライラし出した。 そして何と主に、自分だけに食事の世話をさせて、妹は何もしない で座っている、それを何ともお思いにならないのかと、主を責め、 嫌な物言いをする。妹に、私を手伝わせるように、言うようにと。 初めは良いのだが、段々疲れてくると、何で自分ばかりがと、不満 タラタラになる。そこに何もしていない人を見ると、怒りがわく。 喜びも感謝も吹っ飛んで、重荷と義務ばかりとなる。イラ立ちで、 本末転倒となる。喜んで始めたはずが、時に経験するだろうか。 マルタは、主からの愛をもった諭しを受けた。色々と思い煩ってい る事、だが、どうしても必要なものは、一つだけと。それはマリヤ がした事、まず座って御言葉に耳を傾ける事だと。 それらの後、過ぎ越しの祭りの6日前に、主はベタニヤに行かれた。 人々は主のために晩餐の用意をした。その時に「そしてマルタは給 仕をしていた」と出て来る。マルタは、主の言葉で学んだ事だろう。 私たちもどうだろう。喜び無く義務感で、不満が募る時、まず必要 な一つの事に立ち返り、静かに主と交わろう。主を見上げる時、主 の霊に触れ、必ず新しくされる。感謝と喜びに返される。 --------------- 主が来られたのに、給仕することを止めて主の足もとに座るのには、 大きな決断がいるが、選択を間違えないようにしたい。主との交わ りをもち、そこから喜びをもって次の仕事にかかりたい。
2024年10月08日(火) 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与 える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」 ヨハネ4:13
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与 える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」 ヨハネ4:13
私たちは、何を喜びとするだろう。自分の願望が叶い、思い通りに なる事が幸せだろうか。自分の欲望が満たされると心地良い。これ は肉の価値観であり、主を知る以前はこの価値観で生きて来た。そ れで心満たされたいために、願望を遂げようとする。人からの誉、 地位、仕事、趣味、愛する人・・次々と求めて行く。 しかし欲するものを得た時に、一瞬の快楽はあるが、それで真に満 たされる事は無い。又、渇く。心は虚しく、更に別のものを求める。 「この水を飲む者はだれでも、また渇く」とあり、この世のものは、 願望が叶っても、心が満ちる事はなく、又、次々と追い求める。 サマリヤの女性は、5回の結婚と5回の離婚を重ね、現在同せいし ていた。彼女は、男性が自分の心を満たし、自分を幸せにしてくれ ると思った。だから結婚がうまく行かないと、この相手だからうま く行かないのであって、別の相手ならと、5回繰り返した。しかし 決して満たされる事はなかった。 今も多くの人が、欲望が満たされる事が幸せであり、人生の目的だ と思っている。しかしそこに満足は決して無い。主がそう言われて いる。真の幸せと満足は、自分の欲望を満たす事でなく、主ご自身 にあり、主を信じ、その御心を歩むところにある。 主に、御言葉に従って行く時に、自分に真の喜びである、御霊の喜 びが与えられ、心が満たされる。そして目の前の一つ一つの御心に 従って行く時に、自分が変えられて行く。この世のものではない、 主からの平安と喜びを経験して行く。 --------------- 欲望を満足させるのが充実した人生だと刷り込まれていく。そして、 また渇く・・を繰り返す。主との愛の交わりがあり、平安に満ちて いるなら、心は喜びに溢れる。感謝を献げて歩める。
2024年10月07日(月) 「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、 雄羊の脂肪にまさる」Tサムエル15:22
「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、 雄羊の脂肪にまさる」Tサムエル15:22
主が王位を与えられたサウル王であったが、不従順の罪で退けられ てしまった。何があったのか。主に「アマレクを打ち、すべてのも のを聖絶せよ」と命じられた。「すべてのもの」だったが、「サウ ルと民」は最良のものを惜しみ、値打ちの無いものだけを聖絶した。 主の言葉に従わなかった。それは王と民が、一緒になって罪を犯し たものだった。サムエルは主からの言葉で、サウルに会いに行く。 サムエルに罪を指摘されたサウルは「私は主のことばを守った」と。 「では羊や牛の声は何か」と問われ、「民が惜しんだ」と民のせい に、責任転嫁した。そして「主に、いけにえをささげるため」だと、 あたかも主のためにと正当化する。 自分の間違いを正当化しようとするなら、どんな言い訳でも出て来 る。「そむくことは占いの罪、従わない事は偶像礼拝の罪」とサム エルが言った。従わない事が罪なのだと。そして「あなたが主のこ とばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」と。聞き従うこ とは、いけにえにまさるのだと。 私たちも、どうだろう。主の示しに従わず、それには従いたくない ので、他の善行で、他の何かを献げる事で、埋め合わせにするだろ うか。主は、示しに従う事を喜ばれる。それ以外の善行で、決して 帳消しにならない。そしてまず主の御声を聞くこと、「耳を傾ける こと」を喜ばれる。 自分の思う善行をすることではない。自分の思いを横に置いて、ま ず主の御声に耳を傾けて行こう。そして従えるよう祈ろう。従うこ とを主は喜んで下さる。 --------------- 素直に御言葉に聞き従えないときも、従えない自分を認めていたい。 サウルのようにいつの間にか主の上に自分をおいて言い訳していく。 主に明け渡しながら、御言葉の導きに聞き従おう。
2024年10月06日(日) 「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも 尊いのであって、イエス・キリストの現われの時に称賛と光栄と栄 誉に至るものであることがわかります」Tペテロ1:7
「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも 尊いのであって、イエス・キリストの現われの時に称賛と光栄と栄 誉に至るものであることがわかります」Tペテロ1:7
イスラエルの民に、バビロン捕囚という最悪の事態が臨んだ。 大 きな厳しい試練だ。祖国を離れ、敵国に捕らわれの身となり、連行 される。国は滅ぼされ、何と辛く、悲しく、屈辱的で苦しい出来事だ ろう。金は、高温の火を通して、精錬する。そこで不純物を取り除 く。高温の熱で溶かし、浮き出た不純物を除去し、それを続けて精錬 する。 高温であればあるほど、よく不純物が浮き上がる。そのように主は、 私たちを信仰の試練で、精練すると言われている。試練が厳しい ほど、私たちの内の、様々な肉や、罪、不純なものが浮き上がる。 それを主が精練し、聖めて行って下さる。試練が臨む時に初めて、 普段、順境の生活、平穏で問題の無い時には、知る事のない自分 自身の内側を見せられる。 嫌な相手が出て来た時に初めて、自分はそこそこ愛深い人間と思 っていたのが、砕かれ、こんなにも人を恨み、憎み、人を赦せない 人間である事を思い知らされる。何倍にもして報復したいし、決し て赦したくない。罪を憎むなど、飛んでしまう。自分は良い人間と思 っていたのが、こっぱみじんに吹っ飛んでしまう。 信仰の試練を通して、砕かれ、練られ、造り変えられ、聖められて 行く。そして、それは主の栄光のために行なうと。自己中心な者を、 主の栄光を現わす器へと造り変えて下さる。試練の炉を通って初 めて、砕かれ、心素直にされ、御言葉に耳を傾けるようにされる。 主への感謝と賛美が溢れて行く。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 聖書の沢山の箇所に、試練があると言われている。精錬されるた めと。試練の時に本当の自分の姿があらわになり、こんなはずで はない思いがわき上がる。自我は痛いが、認めて〃行く時に、成 長させて下さり、そしてかの日には報いて下さる。
2024年10月05日(土) 「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によっ てでもなく、ただ、神によって生まれたのである」ヨハネ1:13
「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によっ てでもなく、ただ、神によって生まれたのである」ヨハネ1:13
新生した私たちが「神の子」である事の根拠は何だろう。善行, 良い態度だろうか。信仰的で霊的だから神の子なのだろうか。 御言葉にきちんと従っているから、神の子なのだろうか。だが 霊的クリスチャンで、成長しているから神の子なのではなく、主 イエスを信じ、新生した瞬間にすでに神の子とされた。 母親から生まれたから、その子どもであるように、神から生まれ たから、神の子だ。これは教えの問題でなく、生まれの問題だ。 生まれ出たので、母親のお腹には戻れない。そして雇い人な ら、主人の財産を相続する事はないが、子どもは、親の財産を 相続する。私たちは、親である神の相続人だ。すべてのものを 相続する。キリストとの共同相続人だ。 何という恵まれた地位にいる事だろう。放蕩息子の箇所で、父が、 怒る兄息子に「私のものは、全部おまえのものだ」と言われた。 御父と私たちは、労使関係でなく、無条件で愛される親子関係だ。 そして、子であるなら親に似て行く。聖くなる事を求めて行く。キリ ストにとどまる者は、罪の内を歩まないとある。 これは、全く罪を犯さないという事でなく、弱さのゆえに罪を犯して しまうが、故意に犯し続けないと。罪を犯すと、心が辛く苦しくなり、 犯し続ける事ができない。神の種がその人のうちにとどまってい るからと。神の種は、神の言葉だ。神の言葉が心の内にととまる 時、罪を犯し続ける事から守られる。神の子にされたという事は、 何という、驚くべき恵みであり、特権だろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 一旦生まれたなら、二度と母体には戻れない。血統でなく、自分 の意志や欲求でなく、神によって新生したとは、何と驚くべきこと で、何という喜びだろう。そして雇用関係でなく、親子であり、すべて を相続する、愛されている子どもだ。
2024年10月04日(金) 「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」 へブル13:5
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」 へブル13:5
大災害に会った牧師が、会堂も住居も失ったが、自分も家族も全員、 命が助かった。主の守りに、心から感謝した、だが、持ち物は、全 部失ってしまった。特に自分には、何よりも大切な聖書や学びの資 料、今までの膨大なファイル、注解書や信仰書の何もかもを失った。 家族で避難所に身を寄せたが、一体、何が起きたのか、呆然状態だ った。 とにかく主を仰ぎ、主を求め、心の内の状態を主に告げて、一心に 祈った。不安、恐れ、虚脱感の中、御前で御言葉が光のように臨ん だ。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」。まさ に主からの語りかけだった。その瞬間、不思議だが、心がすうっー と平安になった。主に包み込まれたようだった。 「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう」、 アーメンであり、全部失ったが、主が共におられ、この状況を、今 後をすべて導いて下さると確信できた。そして結果的に、災害復興 と共に主は教会も復興させて行って下さった。人生で、突如に、ど うしてこんな事が、という事が起きる。 特に問題もなく平穏に過ごしていた中、突然試練が臨む。想定外の 事が起きる。しかしそれは主の想定内だ。「しっかりしなさい。わ たしだ。恐れることはない」「わたしがともにいる」と決して見捨 てず見放されない。 --------------- 決してあなたを離れずとの御約束に立とう。目の前の現状は強力で 不安、心配は尽きないが、主に繋がっている限り心は平安に満たさ れる。主と御約束に立とう。
2024年10月03日(木) 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々の ためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、 私たちは知っています」ローマ8:28
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々の ためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、 私たちは知っています」ローマ8:28
ある人の子どもが、様々問題があった中、進路での挫折から、うっ 屈を爆発させるかのように道をはずして行った。非行に走り、警察 沙汰を起こした。親は悩み、苦しみ、どうしてこんな事にと心裂か れる思いと、同時に怒りもわき、心の内で子どもを責めてしまう。 又、自分を責め、自己嫌悪にも陥って行く。 苦しみと嘆きの中で、とにかく主のもとへ行き、ことごとくを、御 前に打ち明け、悲痛な思いで祈りに祈った。絶望、怒り、悲しみ、 落胆・・、心はぐじゃぐじゃだった。涙も出る中、ありのままを主に 告げて行った。気持ちも吐き出し、そのままじっと御前にいた。 その時に、不思議だったが混乱した心が、少しづつ〃収まって行っ た。 そんな時、いつも聞いている御言葉が、心に浮かんで来た。「神を 信じ、またわたしを信じなさい」「見よ。わたしは、世の終わりま で、いつも、あなたがたとともにいます」「恐れるな。わたしはあ なたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」普段、 聞く御言葉が心に響いて来て、特別に励まされた。そして「神がす べてのことを働かせて益としてくださる・・」を信じようと思えた。 これをどのように益にして下さるのか、期待したいと思った。あれ ほど波風逆巻いた心が、すうーと落ち着いた。色々考える中で、自 分の思いが強く、子どもを変えよう〃、としていた自分に気づかさ れた。心砕かれて、あるがままを受け入れることができた。自分を 変えて下さった。 --------------- 解決が与えられていなくても、神がすべてのことを働かせて益とし てくださる、それを知っていると言える幸いを感謝したい。この 試練を通し、必ず主の最善のへと変えられる。希望がある。
2024年10月02日(水) 「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを 尋ね求める者をお見捨てになりませんでした」詩篇 9:10
「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを 尋ね求める者をお見捨てになりませんでした」詩篇 9:10
信仰人生で、時に窮地に陥る。何の手立ても無くなり、万事休すだ。 だが、どんな時も、天の門は大きく開かれている。何も「できない が」、祈る事が「できる」。あわれみ深い主は、窮地にある者の叫 びを、受け止めて下さり、その祈りを決してないがしろにされない。 放っておかれない。祈りを、大切に受け止めて下さる。 だから目の前の問題を、思い煩わず、心配せずに、祈りに持って行 こう。ある婦人が、転居先で、仕事を探さねばならなかった。夫と 死別し、子どもを抱え、どうしても仕事が必要だった。祈りつつも、 仕事は特に選びさえしなければ、何でもあるだろうと、楽観的に思 っていた。住まいも落ち着き、職探しを始めた。 不合格が続く中、次々と応募して行った。ところが受けても〃、不 採用だった。どうにかなると思っていただけに、焦りが出て来る。 今度こそと応募するが、尚も叶わず、最初の余裕はきれいに失せて、 不安と思い煩いしか無い。もし職が無ければ、生活はどうなるのか。 恐怖となる。せっぱ詰まり、もう涙が出て、主にすがりついた。 必死に真剣に祈った。そして主に委ねて、翌日の面接に臨んだ。す ると面接の社長が「私も、同じ境遇で育った。ここで頑張りなさい」 と、その場で採用となった。主が真剣に、主に向くよう、拠り頼む ように取り扱って下さった。主に近づけて下さるためであった。 主を知る機会とされ、その事が嬉しく感謝があふれた。 ---------------- 祈りによって主と過ごす時間は大きな慰めと力だ。主に近づこう。 必ずわかるように答えをくださる。主の愛ある応答は試練の後も いつまでも心に残り、更に主に近づけられる。
2024年10月01日(火) 「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、 七回も地に伏しておじぎをした。エサウは・・彼をいだき、首に抱き ついて口づけし、ふたりは泣いた」創世記33:4
「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、 七回も地に伏しておじぎをした。エサウは・・彼をいだき、首に抱き ついて口づけし、ふたりは泣いた」創世記33:4
ヤコブは父イサクを欺いて、兄エサウの長子の権利を奪い取り、祝 福の祈りを受けた。その後、ヤコブは激怒のエサウから逃れて、遠 く伯父の家に身を寄せた。そこで結婚し、尚も、巧く財産を築いた。 多大な苦労をした中、ついに主から帰郷を示されるも、エサウの怒 りが恐怖だ。まず、しもべたちを列の先頭に、2番目に家族の列、 一番後ろに自分がついた。エサウに襲われても自分は助かるように と。 ヤコブの大きな恐れと不安ゆえだった。ヤコブは神に祈るのだが、 助けが欲しいばかりで、どこまでも自分の利得、自分の幸せのため だった。とうとう瀬戸際で、どうにもならず、心底の助けを求めて、 神に祈った。するとある人が、夜明けまで彼と格闘した。ヤコブは、 祝福してくれるまで放さないと、しがみついた。その時、もものつ がいがはずれ、彼は砕かれた。 ヤコブは悔い改め、初めて神の顔を見たと。初めて心が神に向き、 平安を得た。すると、一番後ろにいた彼が、列の先頭に立ち、兄と 再会し、和解が与えられた。私たちも信仰人生で、砕きが臨む。 辛い苦しい試練に会った時だ。どこまでも頑なな自我がある事も、 教えられる。自我が主に従うことを妨げている。 苦しみに、又、自分の罪にぶち当たる時、心が神に向く。新生して いても、自分が中心で、自分の利得、自分の喜びを求めていた事に 気づく。主が頑なな心を砕いて下さり、自分の思いでなく、主のみ 思いに目が向き、御心を求めるようにされる。神が変えて下さる。 ---------------- 主に目が向くとき、自分の助けを求めるばかりでなく、主の前に正 しくなかった事も示され、真に悔い改めていける。自分で頑張らず、 へりくだり、主に委ねていける。なんと感謝だろう。
2024年10月06日(日) 「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも 尊いのであって、イエス・キリストの現われの時に称賛と光栄と栄 誉に至るものであることがわかります」Tペテロ1:7
イスラエルの民に、バビロン捕囚という最悪の事態が臨んだ。 大 きな厳しい試練だ。祖国を離れ、敵国に捕らわれの身となり、連行 される。国は滅ぼされ、何と辛く、悲しく、屈辱的で苦しい出来事だ ろう。金は、高温の火を通して、精錬する。そこで不純物を取り除く。 高温の熱で溶かし、浮き出た不純物を除去し、それを続けて精錬 する。 高温であればあるほど、よく不純物が浮き上がる。そのように主は、 私たちを信仰の試練で、精練すると言われている。試練が厳しい ほど、私たちの内の、様々な肉や、罪、不純なものが浮き上がる。 それを主が精練し、聖めて行って下さる。試練が臨む時に初めて、 普段、順境の生活、平穏で問題の無い時には、知る事のない自分 自身の内側を見せられる。 嫌な相手が出て来た時に初めて、自分はそこそこ愛深い人間と思 っていたのが、砕かれ、こんなにも人を恨み、憎み、人を赦せない 人間である事を思い知らされる。何倍にもして報復したいし、決し て赦したくない。罪を憎むなど、飛んでしまう。自分は良い人間と思 っていたのが、こっぱみじんに吹っ飛んでしまう。 信仰の試練を通して、砕かれ、練られ、造り変えられ、聖められて 行く。そして、それは主の栄光のために行なうと。自己中心な者を、 主の栄光を現わす器へと造り変えて下さる。試練の炉を通って初 めて、砕かれ、心素直にされ、御言葉に耳を傾けるようにされる。 主への感謝と賛美が溢れて行く。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 聖書の沢山の箇所に、試練があると言われている。精錬されるた めと。試練の時に本当の自分の姿があらわになり、こんなはずで はない思いがわき上がる。自我は痛いが、認めて〃行く時に、成 長させて下さり、そしてかの日には報いて下さる。