2024年11月30日(土)

「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだ も同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、 その信仰は弱りませんでした」ローマ4:19



アブラハムが75歳の時に、「生まれ故郷を出て、わたしの示す
地に行け」との召しを受けた。彼は、神に従い、カナンに向け
て出発した。それはカナン人との戦いの日々だった。そして歳
月を経るが、子どもが与えられなかった。それで、しもべエリエ
ゼルを相続人にと考えた。「子孫を下さらないので、家の奴隷
が跡取りになる」と。

すると主が「その者ではない。あなた自身から生まれ出る者が
継がねばならない」と語られ、主は、彼を外に連れ出された。
天を見上げさせ、子孫は、この星のようになると告げられた。
その時、「彼は主を信じた」とあり、神の約束を信じた。現に、子
どもはまだおらず、全く見ていない事であり、見えるところだけ
を見るなら、到底受け入れ難い事だった。

しかしアブラハムは、神を信じた。神ご自身に信頼を置いた。
「彼は望みえない時に、望みを抱いて信じた」。望み得ない時に、
望みを抱くからこそ、信仰だ。目に見えないから「信仰」なので
あって、見えたなら、信仰は必要無くなる。人間の五感による、
実感など、どこにもない。状況に頼り、感覚に頼るなら、信仰
は持てない。何も感じないからだ。目の前の状況から出る結
論は「不可能」で、不可能が答えとなる。

その望み得ない状況から、どうやって希望が湧き出るのか。
それは約束の御言葉だ。神が語られた言葉を、そのまま真っ
直ぐ受け入れる時、「彼の義とみなされたと書いてあるのは、
ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです」。私たちも、
アブラハムと同じ祝福にあずかる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
信仰とは、主が語って下さった御言葉を受け取ること、その
通りに受け入れることだ。御言葉が根拠であり、土台だ。
心に植え付けられる主の言葉を、そのまま受け取れるよう
祈ろう。そこに豊かな主のみわざを見せられて行く。


2024年11月29日(金)

「もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることが でき、また求めるものは何でも神からいただくことができます。 なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なって いるからです」Tヨハネ3:21      


  
悩みの時、苦しみや悲しみでどうにもならない時に、まず頼るは主
であり、避け所だ。そして祈りによって、主のもとに行ける。何が
あっても、頼ることができて、駆け込める先があるとは、何と幸い
な事だろう。何と、安堵できる、嬉しい事だろう。しかし御言葉は
言う。自分が困った時に、大胆に確信を持って祈ろうとするなら、
普段から「神の命令を守り、神に喜ばれることを行っている」こと
が大切だと。

すなわち、それは、兄弟が困っているのを見た時に、あわれみの心
を、閉ざしてはならないと。人が困っているのを見て、助けること
ができるのに、あわれみの心を閉ざすなら、自分自身が困った時に、
どうして心が責められずに、大胆に主の御前に出る事が出来ようか
と。「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに
答えられない」。

他者の苦しみに対して、自分にできる事があるのに、耳を閉じ、自
分が困っている時には、助けて欲しい、それならどうだろう。心に
平安無く、とがめが来て、御霊によって祈る事ができない。心にと
がめがあるなら、それが妨げとなり、祈ろうとするが、確信もった
祈りができない。

祈りが妨げられないために、いつも大胆に御前に出られるように、
普段の生活で御霊に従う事が大切だ。御霊に示される事に、一つ
〃従おう。そうできるよう祈ろう。その時、とがめが無いので、
大胆に祈る事ができて、求めるものは何でも神から頂くことがで
きると。豊かな祝福にあずかって行ける。今、もし耳を閉じてい
るなら、そのまま主に祈ろう。  
--------------
互いに愛し合うことは主の命令であると頭では理解していても、具
体的な行動に移せていない事を示される。無関心は、御霊の導きに
耳を閉ざしているからではないか。祈って主に従いたい。


2024年11月28日(木)

「彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。『風や湖までが言 うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう』」 マルコ4:41



主が「向こう岸へ渡ろう」と言われ、弟子たちは、舟で主をお連れ
した。すると途中で激しい突風が起きて、舟は波をかぶって、水で
いっぱいになった。だが主だけは、嵐の中で平然と熟睡しておられ
た。弟子たちは、主を起こし、「私たちが溺れて死にそうでも、何
とも思われないのか」と叫んだ。弟子たちは、すねた、屈折した物
言いだ。

その態度は、主を主として崇め、愛し、へりくだった求めではなく、
「自分たちの願いを、自分たちの思い通りに叶えよ!」と、まるで
主に命じているような、言い方だ。私たちはどうだろう。自分の願
望通りに叶えてくれる神、都合良いようにしてくれる神、それを求
めて、神に従っているのだろうか。自分が主人で、自分の願望充足
の神を求めているだろうか。

神に仕えるのでなく、神に仕えさせようとする。「主よ、何とも思
われないのか」は、自分たちを助けるべきだ、助けて当然だ、助け
ろよ、と言う事だ。罪の性質のため、信仰においても、自己中心に
なってしまう。しかし、どうであろうと、主の愛は決して変わらず、
愛し続けて下さっている。

そのような中で、湖をひと言葉でしずめ、大なぎにし、自然界をも
支配する、主であることを現わされた。弟子たちはどんなに驚いた
ことだろう。私たちも、突如の試練により、様々な出来事により、
自らの本当の姿を見せられる。砕かれ、御霊の気づきが与えられる。
正され、変えられて行く。いろんな出来事の中で、成長させて下さ
っている。
--------------
様々な願いを持って日々、祈っている。主は何とも思われないのか
でなく、主はこの思い、辛さを知っていてくださると見ていきたい。
主は必ず気づかせてくださる。成長していこう。


2024年11月27日(水)

「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。 初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと 進み、シオンにおいて、神の御前に現われます」詩篇84:6



信仰人生には、日々の生活において、問題や、悩み、悲しい事や苦
しい事、理解できない事が起きる。それらは、未信者にもクリスチ
ャンにも同じように起こる。クリスチャンには起きないという事は
無い。同じように起きて来る。しかし、そこに違いがある。神を信
じる人は、どんな悲惨な事が起きても、どんなに悲しい苦しい事が
あっても、そこに神を認めて行く。

「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とする」そのま
っただ中に神がおられ、神の愛、慈しみ、助けを実際に体験して行
く。その涙が祝福へと変えられて行く。しかし、神を信じない人は、
どんな奇跡的な素晴らしい事があっても、そこに決して神を認める
事は無い。そこの違いだ。

信じる人は、何を見ても、どんな出来事が起きても、そこに神を認
め、神の愛を認める。どんな問題や悩みが来たとしても、神を信じ
ているから、そこを泉の湧く所とし、その悲しみ、苦しみの中に神
を見、神に新たに新たに出会って行く。沢山の霊的祝福を、学びを
与えられて行く。信仰とはそういう事だ。

だから、もし思い煩い、焦り、恐れ、不満でいっぱいなら、神以外
のものを頼り、見ていないだろうか。問題を見て、自分を見て、主
が飛んでいて、心は暗く、重く、平安が無く、ネガティブな思いで
いっぱいだろうか。そうなら、ありのままを主に告げよう。祈ろう。
そして、その所こそ、泉の湧く所である事を、味わい知り、御霊の
平安と喜びを経験させて頂こう。
--------------
なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、だ。何があ
っても感謝できる。悲観ではなく力から力へと進めるのは、悩みの
中でも主と深く交われて、霊的な祝福が備えられているからだ。


2024年11月26日(火)

「ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、 一晩中、地に伏していた」Uサムエル12:16


ダビデの愛する我が子が、病気になった。ダビデは、断食していや
しを求め、地に伏して、切に祈り続けた。家の長老たちがダビデを
起こそうとするが、ダビデは食事を取ろうともしなかった。しかし、
一心に祈った祈りは叶わず、七日目に子どもは死んでしまった。家
来たちは、とてもダビデに伝えられずにいたら、ダビデはその死を
悟り、家来からわが子の死を聞いた。

するとダビデは、身体を洗い、身に油をぬり、着物を着替え、主の
宮に入り礼拝した。そして、家に帰って、食事を取った。家来たち
は驚いた。子どもが生きている間は、断食をして、泣いて祈ったの
に、亡くなると起き上がり、食事をするとは。私たちは、このダビ
デから学ぶ事が出来る。

自分の願いは、願いとして、率直に主に祈るべきだ。しかし、しば
しばその結果が、自分の願いと異なる場合がある。それは、どんな
に強い願いでも「ノー」が、主の答えであり、それが主の御心なの
だ。その時は、その主の「ノー」をダビデのように、受け入れられ
るよう祈ろう。

今、あなたも「ノー」の答えを受け取っているだろうか。受け入れ
難いなら、主の御心として、受け入れられるよう祈ろう。主が助け
て下さる。そこで自分が変えられ、主を新しく知って行ける。霊的
に成長して行ける。その事の答えは「ノー」だが、霊的には「イエ
ス」で、一段階前進して行ける。霊的に大きな祝福とされる。
--------------
主からの答えが出たなら、受け入れがたくても、主の最善を疑わず
祈りつつ前進しよう。悲しみはあるが、主が心も守ってくださる。
ダビデのように主を信じて立ち上がろう。


2024年11月25日(月)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、 それに加えて。これらのものはすべて与えられます」 マタイ6:33



日々の生活で、次から次へと問題が起きる。様々な悩みや苦しみを
経験する。それは経済的苦境や、健康問題や、対人関係の悩みだっ
たりする。問題に会った時に、どうだろう。まず不安に襲われ、驚
き慌て、パニックになるだろうか。何とかしなければと思い、ずっ
しり重荷が来て、思い煩いに押しつぶされそうだろうか。とにかく
目の前の苦しみを何とかしたくて、解放されたくて、必死になる。

しかし、主は根本的な指針を示しておられる。「神の国とその義と
をまず第一に求めよ。そうすれば、それに加えて、これらのものは
すべて与えられる」と。根本の問題は、主とあなたの関係にあると。
主との関係はどうだろう。日々、親しく主と交わっているだろうか。
日々に、主をわが主として認め、従おうとしているだろうか。

まず主との関係に目を向けない限り、問題を何とかしようとしても、
空回りするばかりだ。神第一無くして、対人関係をどうこうしよう
としても、更に糸がからまり、もつれるように、ますますこじれる
ばかりだ。神第一にするならば、それに加えて必要は与えられる。
しばしば、逆をしてしまう。この世のものに欠けが生じると、まず
第一にその必要のために駆けずり回る。

そのため神は、ますます後回しになる。本末転倒になってしまい、
順序を逆にすると、「神の国」も、「これらの必要なもの」も両方
共失うことになる。今一度、主のもとに立ち返り、優先順位を正す
よう導かれているだろうか。その時、目の前の問題が導かれて行く
のを見る。
--------------
諸々の問題の中に主を求めていなければ、何度でも同じ悩みに直面
させられる。自分にとって重要だと見えていたものも、主を一番に
すると、その重荷は軽くなった。御心の優先順位を求めていこう。


2024年11月24日(日)

「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを 引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」ヘブル 3:7



彼らが安息に入れなかったのは、不信仰によると続くが、不信仰
とは、信仰が足りない事ではなく、自分の力、判断により頼み、主
を信頼しない事だ。車の運転席に座り、人生の主導権を自分が握
る。主は助手席だ。主の御心を求め、従うのではなく、自分の思い
に従って歩む。

イスラエルの民が、荒野を進む途上で、モーセは、カナンの地を
探るようにと、12人の斥候を遣わした。するとヨシュアとカレブは、
乳と蜜が流れる、豊かな果実がなり、素晴らしい地で、「ぜひとも、
上って行って、そこを占領しよう。必ずできるから」と言った。しか
し、彼ら以外の10人の斥候たちは、悪い知らせをもたらした。

あの地の民は、自分たちより「強い」「攻め上れない」「背の高い
者たちで、自分たちはいなごのようだ」と。全面的に、否定的報告
をした。すると全会衆は、大声を上げて泣き、泣き明かした。まさ
に不信仰による失望落胆だった。その落胆は、反抗へと進んで
行く。「ひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」と。主が与えた
指導者モーセとアロンを否定、無視し、新しい指導者を立てようと。

モーセたちを、石で殺しかねない状況だった。主は、彼らを疫病
で滅ぼされた。自分の思いで判断し、自分の思いで行動すること
が不信仰であり、主の御声を聞き、主に信頼すること、従うことが
信仰だ。日々の地道な主との交わりを積むことにより、主への信
頼を培われて行く。そして不信仰に気づかせられて行く。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何も問題が無い時、自分の力で歩みがちだ。主に頼らずとも、や
って行けるからだ。又、突如の事態が起きると、パニックになり、
自分で何とかしようとしてしまう。地中で根が張るように、日々の地
道な主との交わりに、生きて行けるよう祈ろう。



2024年11月23日(土)

「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、 そのために祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるの だから」エレミヤ29:7



エレミヤの時代、イスラエル王国はアッシリヤに滅ぼされ、その
アッシリヤはバビロンに滅ぼされ、バビロンはどんどん侵攻した。
そして、ついにユダ王国もバビロンに捕囚となった。当時ユダの
民は神から離れ、堕落し偶像礼拝に陥っていた。

預言者たちは、人々に都合の良い、心地良い言葉だけを語り、
平安など無いのに、見せかけの「平安、平安」と言っていた。だが
神の人エレミヤは真っ直ぐに神の言葉を語った。そのため迫害
を受け、ひどく苦しめられた。バビロン捕囚中の暗黒の中で、エレ
ミヤは神の言葉を語り続けた。その捕囚は、大きな挫折、屈辱、
悲惨、苦しみ、災いとしか見えないが、「平安・将来・希望」のため
のものだと。

そして、すぐに解放にはならないので、その地で落ち着いて、腰
を据えて生活せよ、そして敵であるその町の繁栄を祈れと。それ
は自分たちの繁栄になるからと。私たちも苦悩の時、一番欲しい
言葉は、即、問題解決、即、解放だ。しかし、口先だけの慰めは、
更に傷を深くする。思い通りでない、かせのごとき現状を受け入
れるなら、その中で神からの支え、励ましがあると。

現実を受け入れられるよう祈ろう。いつまでもそのままではなく、
「70年の満ちる頃・・あなたがたを帰らせる」。現状の苦しみの
中で、主に従って行く時、そこに「平安」が約束されている。「その
土地に憩わせる」と。そして神の時に、そこから解放して下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最も難しい事の一つが、「受け入れる」ことだ。なかなか、受け入
れられない。受け入れる時、平安にされる。苦しい状況、目の
前の問題、難しい相手・・主からのものと、受け入れる時、心が
変えられる。できないので、助けを求めて祈ろう。


2024年11月22日(金)

「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませら れた全行程を覚えていなければならない」申命記8:2



モーセに導かれたイスラエルの民は、いまだかつて見た事のない、
主の偉大なる奇跡により、出エジプトを果たした。苦難の民が叫ん
だ主への求めへの、答えであった。彼らがエジプトから出た先は、
広大な、何も無い厳しい荒野だった。近道があったのだが、強敵ペ
リシテがいるため、突然戦闘となると、民は心が折れて、引き返す
といけないからと。

そのため荒野に導かれ、主はこれを民への訓練の時とされた。カナ
ンへの到達だけでなく、その「プロセス」を大切にされた。「主は、
あなたを苦しめ、飢えさせて」とあり、主が苦しめられるとある。
試練により、御言葉によって生きる事を、体得できるようにされた。
私たちも問題解決のプロセスにより、多くの霊的学びを得る。

紅海横断の大賛美、大感謝で、喜び踊った民たちは、その大感謝も
束の間で、目の前の厳しい現実に、手の平返しで、すぐに水が無い、
食べ物が無いと不平不満、愚痴に変わった。そんな民に、主は水を
与え、日々に天からのマナを与え、養い続けられた。そして主は、
道中をずっと、昼は雲の柱、夜は火の柱を備えられた。

主はずっと共におられ、守られ、その雲と火の柱により行くべき道
を示された。時には、それが動くまでずっととどまった。信仰生活
で、前進したいが、じっと待つ事が、導きである事を経験する。そ
して信仰歴の長い信仰者は、必ず苦しみを通っている。それも、多
くの苦しみを通っている。

心が変えられて、主の御前に砕かれ、素直にされて行く歴史だ。民
が旅路にある間「いつも」主の臨在があったように、私たちも、い
つも主が共におられたから今があり、又、これからも世の終わりま
で、いつも共におられる。
--------------
今、感謝したと思えば、すぐに落胆し不安になる者だが、様々な取
扱いを経て、主の恵みを具体的に味わい、明け渡すことが少しずつ
楽にできるようにされた。主は共にいて導き続けてくださる。


2024年11月21日(木)

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったまま でいてはいけません」エペソ4:26


日常生活で、様々な怒りを経験する。怒りには二種類あり、すべて
の怒りが罪なのではない。主も怒られた。正しい怒りがあり、悪に
対する怒りだ。主はパリサイ人の偽善に怒られた。「忌まわしいも
の」偽善の律法学者」「白く塗った墓」「蛇ども、まむしの末すえ」
と。又、神殿で商売をしている事に、ひどく怒られた。

罪を憎まずして、主を愛する事は出来ない。神を愛するとは、罪を
憎む事だ。そして、二つ目の怒りは、肉の怒りだ。マルタは、主へ
のもてなしで、食事時刻も迫る中、ピリピリイライラした。マリヤ
が手伝わずに、座している事に怒りがわく。私たちも、時に経験す
る。日常の様々な局面で、あの事、この事に、怒りがわく。

こんな肉の怒りは、どうすればよいのだろう。まず、自分の怒りを
認める事が大切だ。怒っていない振りをしてはいけない。しばしば
怒りは良くない事と、心に抑え込んでしまう。しかし抑え込まれた
怒りは、無くなるのでなく、そのままそこにある。その怒りは溜ま
り上げて行く。

それが容量オーバーになると爆発する。又、心の病気になってしま
う。怒っている事実を認め、怒りの原因を考えてみる。なぜ怒り、
自分の何に触れるのか。プライド、虚栄心、名誉、体裁、思い通り
にならない事か。自我から来る怒りだろうか。その怒りは、感情的
なままで表現すると、相手を傷つけ自分も傷つき、必ず後悔する。

まず人ではなく、自分でどうこうでなく、主に助けを求めよう。主
に怒りを、気持ちをそのまま告げよう。祈ると、全く違って来る。
祈りに、主が働かれ、関与して下さる。導いて下さる。
--------------
怒りも主に向かって告げるなら祈りになる。主に知っていただき、
主と交わり委ねていこう。御霊は導いてくださる。すぐに傷つき、
腹もたてる者だが、主が聞いてくださる。何と感謝だろう。


2024年11月20日(水)

「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、 あなたの全身が明るいが・・」マタイ6:22


からだのあかりは目であって、目が健全なら、窓口である目から、
光が十分に取り込まれるので、身体全体が明るいと言っている。心
も明るい事になる。しかし目が悪いと、そこに光があっても、目で
しゃ断されてしまうので、光を身体に取り込めない。だから身体は
暗く、心も暗い事になる。

外には十分な光があるのに、窓から光が入らない状態だ。光が無い
のでなく、光は十分あり、輝いている。光の問題では無く、目が悪
いという、目の問題だ。目が見えないので、すぐそこに光がある事
がわからない。太陽が光輝く中で、目を閉じていたらどうだろう。
太陽は輝いているのに、真っ暗闇だ。

問題は目にある。だから、目が暗闇にならないようにせよと。光は
主だ。主は常に輝いておられる。そして健全な目とは、「単一の目」
との意味だ。それは、光である主だけを見続ける目だ。だが、主に
対して目を閉じ、主ではなく、名誉、地位、富・・この世のものに、
又、心配事や思い煩いに、又、偏見、思い込み、独りよがり、又、
激しい憎しみや妬み、怒りに、目が釘付けならどうだろう。

それは目を閉じた状態になり、光が入らない。心は真っ暗になる。
見ているものを「よく注意せよ」と。赤い警告ランプが、目が悪く
て、青に見えていたらどうだろう。生死に関わってくる。主を見つ
めているなら、光が目の窓から豊かに入り、自分自身はすみずみま
で輝く。そして、それは自分だけでなく、周囲の人々をも照らして
行く。
--------------
本当の光を受けていない内側の暗さ、その暗さはどんなでしょうと
主は言われた。この世の物も、自分の内側にも光はなく、主を見て
いないとすぐに失望してしまう。主の光を受け輝いていたい。


2024年11月19日(火)

「イエスは・・ピリポに言われた『どこからパンを買って来て、この 人々に食べさせようか』」ヨハネ6:5



男性だけで五千人の群衆に、主はピリポに、彼らにどのようにパン
を食べさせようかと問われた。ピリポは、頭で計算して、手持ちの
金では到底不足で、無理ですと答えた。所持金と大勢の群衆、目に
見たところで、不可能だと結論を出した。どうだろう。ピリポは、
見えるところだけで判断し、そこには主が抜け落ちていた。

見えるところは絶対に無理で、不可能だが、主になら、どうだろう。
主に不可能だろうか。自分には出来ないが、主には出来る、これが
信仰だ。「人にはできないことが、神にはできる」。主は、その信
仰を求められた。なぜなら、主はすでに、何をするかを決めておら
れたからだ。「しようとしていることを知っておられた」。

詩篇記者は、軍力の大きさによっては救われない、人は力の強さに
はよらない、軍馬も軍勢も救いにはならないと言う。通常、戦争に
勝つには、兵力だ。百人対一万人なら、一万人が勝つだろう。とこ
ろが詩篇記者は、兵力は救いにならない、救いは主によると。主に
信頼し、主の指示に従って戦う時に、勝利を得る。

私たちはどうだろう。現実生活においては、兵力の多い少ないがす
べてだろうか。ピリポのように、見える所で決めつけているだろう
か。目の前の困難、問題、悩みに、見える所を見て、失望落胆して
いるだろうか。主が抜け落ちていないだろうか。今、あるがまま、
そのままの気持ちを、まず祈りに持って行こう。信仰を与えて、導
いて下さる。主は、しようとされている事があり、すでに決めてお
られる。
--------------
初めは困難だと思われていた問題が、主によって勝利に終わった経
験はないだろうか。目の前の状態はネガティブに働くが、主と共に
超えていける。主を信じて祈ろう。


2024年11月18日(月)

「あなたが主に拠り頼んだとき、主は彼らをあなたの手に渡された のです。主はその御目をもって・・その心がご自分と全く一つになっ ている人々に御力をあらわしてくださるのです」U歴代16:8



主は、全地を見渡して、その心がご自身と一つになっている人々に
御力を現わす、と言われる。素晴らしい御言葉だが、ここで失望落
胆してしまうだろうか。なぜなら、主と全く一つになど、とてもな
っていない。すぐに罪を犯してしまい、失敗してしまう。すぐに自
己中心に歩んでしまう。しょっ中だ。全く一つにと言われると、そ
うありたいが絶望的だ。不可能に思える。

しかし主と一つになるとは、自分の願いがあり、自分のプランがあ
り、それは自己中心かも知れない、それを祈りの中で、軌道修正さ
れ、主のお心に合わせて行くことだ。自分の願いを祈って行く時に、
御霊により、その願いの動機を探られる。時に「自分の快楽のため
に使おうとして」悪い動機がある。

祈りの中で、その事に気づかせられる。御心を行なう者に変えられ
て行く。ダビデは、主から「わたしの心にかなった者」と言われた。
その心が主と一つだ。しかしダビデはどうだったろう。バテシバと
姦淫をし、彼女が妊娠したので、その隠ぺいのために、彼女の夫を
殺害してしまう。トップなので何でも有りだ。

しかし主はナタンを送られ、ダビデは悔い改める。王が悔い改める
という事は、民の前で小さな事ではない。ダビデは主の御前にへり
くだった。その罪は完全に赦された。罪は犯すが、その罪を認めて、
悔い改める時、主と一つだと言われる。
---------------
失敗をしても悔い改めがあり、全知全能の主を見上げると問題の中
で一筋の光が来る。失敗も弱い信仰も、すべて主はご存じで、全く
一つとみていてくださる。主を頼り御心を求めて歩もう。


2024年11月17日(日)

「パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを 聞き入れなかった。主の言われたとおりである」出エジプト8:15


苦難の民の叫びを聞き、主は、民の救出を計画され、モーセを
遣わされた。主は、次々と超自然の奇跡を起こし、モーセは、パ
ロに立ち向かった。パロは、苦しみが臨むと「私は罪を犯した」
「私の罪を赦してくれ」と言う。一見、悔い改めのようだが、その
災いが収まると、手の平返しで、再び強情で頑なな姿に戻る。

これは、それらの言葉は口先だけで、心では思ってはいない。真の
悔い改めは、方向変換なので、行動が変わり、実を結んで行く。主
は「わたしが主であることを、あなたがたが知るため」に、しるし
を行なうと。しかし、強情なパロにとっては、次々と起きるしるしが、
主を知る事にはならず、脅しのようなものであった。

だから、その脅しが取れたなら、再び強情になり元に戻った。私た
ちはどうだろう。もし高ぶっていたなら、主は、へりくだるようにと、
私たちに苦しみを送られる。これこそ主の愛だ。しかし、その苦し
みをパロのように、単に脅しと取るなら、余りの苦痛に神妙になる
のだが、その苦しみが去ると、元に戻り、そのままだ。

罪を犯した時も、結果がまずいと思うだけで、口先の悔い改めなら、
変わらない。本音では、自分は悪いと思っていない。結果が痛く、
又、体面が悪いだけだ。真の悔い改めに至らないので、実を結ぶ事
がない。しかし御霊に導かれた悔い改めは、必ず実を結ぶ。砕かれ
た、悔いた心を祝福し、御霊は豊かな実を結ばせて下さる。へりくだり
を求められているだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・
悔い改めは、御霊から来る。御霊の働きだ。御霊が与えて下さる
ものだ。自分では悔い改められない。御霊の示しがある時には、従おう。
一歩従う時に、今まで見えなかったものが、見えて来る。次の展開へと
導かれ、一歩づつ成長させて下さる。


2024年11月16日(土)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来 なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」マタイ11:28


ある夫妻の証しだ。ある時期に、次々と厳しい試練が臨んだ。仕
事上の大きなミス、家の経済的困窮、こじれた対人関係の悩み、
更に家族の入院まで重なった。心は動揺し、もう不安しか無く、思
い煩いでどうにかなりそうだった。更に対人関係では、怒り、赦せ
ない思いにも、さいなまれる。

解決の糸口も見えず、心は重荷におしつぶされそうだった。そん
な時に、忙しさにかまけて、行かなくなっていた教会の事を思った。
夫婦で足を運んだ。何の手だても無い中、何らかの指針、支え、
助けが欲しかった。必死な思いで出た礼拝だった。椅子に座った
時に、以前喜んで通っていた時の事がよみがえった。心が落ち
着いた。

乾ききったスポンジのように、以前、親しんだ賛美歌が心にしみた。
御言葉が心に響いて来た。牧師に導かれ、祈りの時を与えられた。
一つ一つの問題を具体的に、御前に祈って行った。あれほど、不
安と恐れで、いっぱいであった心が、落ち着いて行った。そして、
何だか大丈夫だと思えた。試練を通して、主に立ち返れた事が、
何より感謝なことだった。

続けて祈りつつ、主の示されるままに従って行った。すると突然、
以前、友人に用立てた、まとまったお金が返済されて来て、必要が
満たされた。仕事上の解決策が見つかった。対人関係のもつれ
は、へりくだりを示された。どうであれ、従う決心をしていたので、
示されたまま実行して行った時に、驚くべき和解へと導かれた。
まさに新しくされた。一連の試練は、主のもとへ連れ戻すための、
主の愛だったと、心から感謝した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「主はその愛する者を懲らしめ」と、愛する者に試練を与えると。
しかし、試練としてを受け入れない、頑なな自我がある。いら立ちと
不満でいっぱいだ。そのまま主のもとへ行こう。状況は同じでも、
見え方が違って来る。そして休みへと導いて下さる。


2024年11月15日(金)

「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたので す。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに 仕えなさい」ガラテヤ5:13



主が、十字架で罪について解決して下さったので、私たちは罪が完
全に赦され、律法からも解放され、自由にされた。しかし与えられ
た自由とは、自分の思うがままにする自由ではない。自分の思い通
りなら、それは肉のわがままで放縦だ。自由にはルールが伴い、秩
序があり、責任が伴う。その上に立っての自由だ。

ルールを度外視する事が自由なのではない。魚は水中で自由であっ
て、陸では不自由だ。魚は、水中という拘束の中でこそ、自由だ。
例えば楽器を演奏する時、楽譜に縛られないだろうか。しかし譜面
通りに練習して行くと、曲を演奏できるようになる。スポーツもル
ールを守る事により、持てる力を発揮し大いに楽しめる。

しばしば思い違いをする。すべての縛りから解放される事が自由だ
と。そうではなく、拘束を受け入れて従う事、つまり戒めに従い、
御霊の導きに従うところに、真の自由がある。例えば、嫌いな人が
いると、肉は嫌っていたい。関わりたくない。嫌う事が、自由だと
思ってしまう。しかし人を憎むと平安を失い、心は苦しく辛く、非
常に不自由ではないだろうか。では、どうする事が自由なのだろう。

愛が無い事を認めて、主に愛を求める時に、主は取り扱って下さる。
その示しに従う中で、主からの愛が与えられて行く。憎むのではな
く、愛して行く時に、心は解き放たれ、自由にされる。平安と御霊
の喜びを経験する。自分を明け渡して、御霊に従って行く時に、自
由に、自由にされて行く。
---------------
自我の思うままに生きる不自由さはもう十分に経験済みだ。愛がな
いから主の光の元にいき、主から力を受ける。絶えず主に行き御霊
に従おう。御霊は折々に導いてくださる。


2024年11月14日(木)

「『さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。』する と、ちょうどその時、そのしもべはいやされた」マタイ8:13



ある百人隊長が、主に、中風のしもべのいやしを求めて来た。この
隊長は異邦人であり、しもべとは当時は奴隷であって、奴隷のため
に心を砕く人で、神を畏れる愛情ある人物だった。自分の家に来て
もらう資格もないので、お言葉をいただく事ができれば、しもべは
直ると。へりくだった態度で、彼は何より神の言葉は必ず成就する
と信じきっていた。

主は、彼の信仰に「驚かれ」た。感心し「このような信仰を見たこ
とがない」と言われた。主が驚かれたのは、彼の「信仰」だった。
立派な善行ではない。彼も権威の下にあり、権威がよく理解できた。
例えば警官は車を誘導し、停止させ、移動させる事ができる。又、
違反すれば切符を切られる。運転者はそれに従う。それは、職業と
しての警官に権威が与えられているからだ。

そして軍隊では、上官の命令は絶対だ。百人隊長は、その上に、更
に最たる神の権威を認めていた。だからその神の言葉の権威を認め
た。主は「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」
と言葉を与えられた。すると丁度その時に、しもべはいやされた。
神の言葉には、驚くべき力と権威がある。霊であり、いのちだ。神
の言葉は必ずその通りに完全に成就する。100%だ。

私たちはその権威と力ある言葉をどのように聞いているだろう。ぼ
んやり聞いて、適当に受け止めているだろうか。右から左へと、い
い加減に聞いているだろうか。祈りをもって真剣に聞き、語られた
言葉に信仰もって応答する時、主が働かれ、みわざをされる。今一
度、御言葉への自らの態度を省みよう。又、もし、語られていたな
ら、従えるよう、祈ろう。
---------------
主の御約束はその通りに必ず成就する。信じて待ち望める事は感謝
だ。今、見ていなくても実行される。確信をもって歩もう。主の御
言葉を聞いたなら従おう。


2024年11月13日(水)

「主はサタンに仰せられた。『では、彼のすべての持ち物をおまえ の手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない』」 ヨブ1:12



ヨブが、一夜にして子供たち全員を失い、財産、家財すべて失った
時の言葉が、「主は与え、主は取られる」だった。そして主の御名
はほむべきかなと。「主は与えられる、主の御名はほむべきかな」
とは、誰でも言えるが、「主は取られる、主の御名はほむべきかな」
とはなかなか言えない。神はいじわるだ、私から奪い取る、どこが
愛なんだと言いそうだ。

ヨブは、これらすべてが、子どもたちも、しもべたちも、家も、家
財も、主から出ていると、はっきりと認めた。それは、主の絶対的
主権を認める告白だ。その上で、主の御名はほむべきかなと、主を
称え崇めた。この事には舞台裏があって、悪魔が、主にヨブを中傷
した事が出て来る。人は、利得も無いのに神を信仰などしない、利
益があるからこそだと。

そこでヨブの信仰をご存じの主は、彼の持ち物を取る事を許された。
しかしヨブの態度と言葉は、その悪魔の中傷と、神への訴えを無力
なものとした。この世界には、利得でなく、神が神であられるゆえ
に信じて行く信仰が存在するという事を、ヨブは証明したのだった。
神は愛なる良いお方で、私たちに最善しかなさらない。どんな時に
も、そこに立とう。

なかなかできないので、それを祈って行こう。私たちの生涯が、神
が神であられるから、神を崇めて行くことを証しして行けるとは、
何と幸いだろう。難しければ祈ろう。少しづつ〃主は、私たちの手
を取って、わかるように教え、導いて下さる。
---------------
ヨブのように激しい試みにしっかり立っていられなくても、与えら
れた困難を受け止められるよう、正直な思いを祈っていこう。瞬間、
瞬間の祈りで平安を受け取ろう。必ずふさわしい思いに導かれる。


2024年11月12日(火)

「彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした・・エリヤを通して 言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなく ならなかった」T列王17:15



エリヤは、ききんの時に、主にケリテ川へ行くよう命じられた。そ
こで養うと。主の言葉の通りに、エリヤは川の水と烏が運ぶ食べ物
で養われた。その川が日照りで枯れた時、次に、シドンのツァレフ
ァテへ行くようにと。そこで、やもめ女に命じて養うと。主に従い、
その町へ行くと、やもめ女に出会った。それで彼女に水とパンを求
めた。すると彼女が置かれている悲惨な状況が発覚する。

人を養える資産家などではなく、最後の一握りの粉でパンを作り、
母子で最後の食事をして死のうとしていると。何という事だろう。
目の前の人物は、人を養う事など不可能だ。しかし求めなければな
らない。人間的に考えるなら、その最後のパンを自分にくれとは、
とても言えない。しかし、エリヤは目に見えるところでなく、人の
情でも、思いでもなく、信仰に立った。そのため、ただ主の言葉に
従った。

まず自分のためにパンを作り、その後にあなた方のために作るよう
にと。そうするなら、ききんの間中、粉は尽きず油は無くならない
と。人の思いや情は、主のみわざを妨げる。彼女はエリヤの言葉に
従った。すると母子はききんのまっただ中で、豊かに養われた。そ
れは母子のためでもあり、大きな祝福であった。主を第一にして従
う時、主の栄光を拝する。

自分の思いや情、見えるところが真逆であっても、主の言葉を選択
し、信仰によって従おう。その時、主が責任を取って下さる。必ず
豊かに祝福し報いて下さる。今、示されている事があるなら、信仰
に立って、御心に従おう。そうできるよう祈ろう。
---------------
私達には今しか見えないので、すぐに情や自分の常識が先行してし
まう。主にはその先の大きな祝福のご計画がある。主の邪魔をし
ないよう、へりくだり御言葉に従いたい。


2024年11月11日(月)

「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除 してやった」マタイ18:27



信仰人生で、人を赦す事の難しさを経験しただろうか。人を赦せな
い事ほど辛く、苦しいものはない。心が重く、鉛を抱えているよう
だ。どんなに楽しい時も、喜びの時も、その事が頭をよぎった途端、
心は辛く、暗くなる。喜びがぶち壊しになる。ペテロが何度まで赦
すべきかと、主に問うた。その時に、主は7度を70倍するまでと言
われ、王としもべの話をされた。

6000億の借金の返済不可能なしもべを、王はかわいそうに思い、赦
し、免除してやった。主の大きなあわれみだ。ところが、そのしも
べが、100万を返金できない仲間を決して赦さず、牢に投げ入れた。
それを聞いた王は非常に怒り、そのしもべを借金全額返済まで投獄
した。私たちはどうだろう。主の十字架により、すべての罪を無罪
放免にされた。何という驚くべき恵みだろう。

自分はその大きな恵みを受けていながら、人を赦さないとはどうだ
ろう。そして赦さない心は、牢獄の中だ。獄につながれ、暗闇の中
で、がんじがらめだ。苦しいのは相手ではなく、自分自身だ。主は、
獄から光へと出して下さる。救って下さる。しかし、自分の側の意
志と決意が必要だ。罪の性質は、赦せないのではなく、決してどこ
までも赦したくない。

主は赦せるようにして下さるが、心の底ではそうしたくない自分が
いる。「どうにもできません」と祈ろう。目の前の相手から逃げて
も、次の環境で、又、別の相手がいる。自分が変えられる事が御心
だ。主は自由にして下さる。まず正直に「赦したくありません」と、
ありのまま主に祈ろう。主は手を取って、ひと足ひと足と導いて下
さる。いつか赦せるようにして下さる。
---------------
赦せないのではなく、赦したくないのではないか。いつまでも憎ん
でいたいのは罪ではないか。開放されよう。赦せるよう祈ろう。自
分には出来なくても、御心にかなう祈りだ。主がしてくださる。


2024年11月10日(日)

「彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうと しない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとす る」イザヤ30:2



北王国を滅ぼしたアッシリヤが、南王国に侵攻して来た。その時、
ユダ王のヒゼキヤは、アッシリヤに対抗するために、何とエジプ
トと同盟を結んだ。エジプトの軍事力に頼ったのだ。主はそれを
「ああ。反逆の子ら」と言われた。はかりごとを巡らすが、主によら
ず、同盟を結ぶが、主の霊によらず、それは罪に罪を加えるばかり
だと。

エジプトへ行く事にも、主の指示を仰がず、パロに身を避けるとは、
と。私たちは、どうだろう。突如の悩み、問題、困難に出くわした時
に、パニックになってしまうだろうか。不安と思い煩いがどうにもな
らず、飲み込まれてしまう。とにかく、何とかしなくてはと、焦りでい
っぱいになる。よく考えもしないで、動いてしまうだろうか。

いつも、「まず祈れ」と学んでいるので、祈ろうとするのだが、心が
どうにもならない。心が立ち騒いでしまい、座しておらず、祈るのだ
が、不安でたまらない。目に見えない神に頼れず、目に見える。人
に頼ってしまう。悪魔は、恐れと不安、思い煩いをあおり立てて来
る。自分ではどうにもならない。祈りが対抗手段だ。まず。あるが
ままを主に祈ろう。

そのままの思い、状態、気持ちを主に持って行こう。心が騒ぎ、ど
うにもならない事を告げよう。必ず主が助けて下さる。「立ち返っ
て静かにすれば救われ、落ち着いて信頼すれば力を得る」と。こと
ごとくを告げ、祈り、落ち着かせて頂こう。主に信頼を寄せられる
よう、助けを求めて祈ろう。祈りは聞かれている。

・・・・・・・・・・・・・・・
突如の事態が起きると、まさに、主の指示を仰がず、自分で思い
煩い、自分で不安になり、不安なので何とかしようと動き回って
しまう。目に見えるものに頼ろうとする。「わたしを呼べ」と、繰り
返し〃学ばされる。


2024年11月09日(土)

「ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごして くださった。あなたは死なない。」』Uサムエル12:13



ダビデ王が、大罪を犯してしまった。バテシバを見て、姦淫の罪へ
と進んだ。姦淫の誘惑が来た時に「主よ!」と助けを求める事がで
きた。しかし、肉に巧妙に働く悪魔の誘惑に屈してしまった。そして
バテシバの妊娠を知った時に、隠ぺいを画策し、夫ウリヤを殺害し
て、罪に罪を重ねてしまった。御霊と良心を無視した結果だった。

そのウリヤは、ダビデ王に忠実で誠実な良い部下だった。王である
ダビデは罪を隠していた。「一日中うめいて、骨々は疲れ果て、骨
髄は、夏のひでりでかわききった」。主の御手が昼も夜も重くのし
かかったと。苦悶の日々だった。主は、ダビデを立ち返らせるため
に、預言者ナタンを送られた。

ダビデは王であり、絶対的権力を持ち、ナタンも簡単に殺害できた。
ウリヤを殺したように。しかし彼から罪の指摘を受けて、ダビデは
悔い改めた。ダビデは重罪を犯してしまったが、へりくだりの心が
あった。ナタンの言葉を受け入れ、自らの罪を告白し、悔い改めた。
その時、罪は完全に赦された。私たちが道をそれる時、主は警告
のために、人を送られる。

あなたにも今、忠告や助言が来ているだろうか。それは人ではなく、
主からのものだ。高慢とプライドは忠告を嫌う。受け取れない。だ
が向かう先は滅びだ。ダビデのようにへりくだり、耳に痛い言葉を
聞こう。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わり
は死の道」と。死から守られ、正しい道に戻される。愛なる忠告を
受け止めよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
信仰人生で、失敗するし、罪を犯してしまう。しかし悔い改める時、
完全に赦して下さるとは、何という恵みだろう。その罪は、二度と
思い出さないと言って下さる。どんな時も、赦されて、平安に歩ま
せて下さる。驚くべき恵みだ。


2024年11月08日(金)

「彼女は・・子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油を ついだ・・『もう器はありません』と言うと、油は止まった」 U列王4:5



エリシャは預言者の集団を従えていたが、その一人が亡くなった。
その彼の妻が叫んだ。夫が借金をしていて、貸し主が二人の子ども
を奴隷にしようとしていると。エリシャは「何をしてあげようか」
と、家に何があるかと尋ねた。何も無く、油の壺一つだけだと。
彼は隣人皆から、からの器を借りて来るようにと言い、一つや二つ
でなくと。

そして戸を閉じて、すべての器に油をついで行くようにと。彼女は、
言われた通りに多数の壺を集め、次々に油をついで行った。その一
つの油の壺から、油は幾らついでも、無くならず、器の数の分だけ
出て来た。そして、壺が無くなった時に、油は止まった。エリシャ
は、それを売って、負債分を支払うようにと。主が、彼女の子ども
たちを守られた。

ここでは、空の器が満たされた。主は虚しい、空の心を満たして下
さるお方だ。しかし私たちは、からの心を様々なもので、主以外の
もので満たそうとしてしまう。人、仕事、趣味、名誉、地位、人か
らの賞賛・・しかし決して満たされない。主のもとへ、その虚しい
心を持って行く時に、からの器を御霊で満たして下さる。

主以外のもので、幾ら満たそうとしても、心は空虚なままだ。私た
ちはどうだろう。御霊に満たされるところを、他のもので満たそう
としていないだろうか。又、器に、余分なものが詰まっていないだ
ろうか。プライド、虚栄心、貪欲・・それらを認めて、明け渡そう。
「からの器をもってきなさい」。からの器を御霊で、喜びで、満た
して下さる。
---------------
何かで満たしたとしても、主から離れていたなら、人生は虚しく、
また渇いていく。喜びも平安も長くは続かない。主の前にからの
器をさし出そう。主がすべてのものを備えてくださる。


2024年11月07日(木)

「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けま で彼と格闘した」創世記32:24



ヤコブは、父イサクと兄エサウを欺いて、長子の権利を奪い、祝福
の祈りを受けた。エサウは激怒し、ヤコブは家におれず、遠く伯父
の家に身を寄せた。そこで結婚し、財産を築いた。多くの労苦の後、
ついに主から帰郷を告げられる。しかしだました兄の怒りが、恐怖
でならない。家族皆殺しにされるだろう。不安がどうにもならない。

まず、しもべたちを列の先頭に、2番目に家族、そして最後に自分
がついた。ヤボクの渡しを渡らせ、自分ひとり残った。ヤコブは、
神には祈るのだが、どこまでも自己中心で、自分の利得、自分の幸
せのためだけだった。しかし恐怖がもう限界で、どうにもならず、
心底の助けを求めて、叫び祈った。

するとある人が夜明けまで彼と格闘した。ヤコブは祝福してくれる
まで放さないと、必死にしがみついた。その時、もものつがいがは
ずされ、つまり、彼は砕かれたのだった。ヤコブは悔い改め、初め
て神のみ顔を見た。心が神に向き平安を得た。すると、列の最後に
いた彼が、何と先頭に立ち、兄との再会を果たし、和解できた。
兄はすでに赦していた。

私たちも信仰人生で、辛い試練に会い、砕きが臨む。どこまでも頑
なな自我がある事を見せられる。自我が主に従うことを妨げる。試
練に、自分の罪に、ぶち当たる時、苦しいので主に向かわざるを得
ない。新生していても、自分中心で、自分の利得、喜びを求めてい
た事に気づく。

頑固な心が砕かれ、初めて自分の思いでなく、主のみ思いに目が向
く。御心を求めるようにされる。その結果、御霊の喜びと平安を経
験する。砕きは非常に痛いが大きな祝福だ。
--------------
無力を認められないまま、あちこちに不満を抱え行き詰る。主に砕
かれなけれえば、いつも問題の中だ。何処にいても主が支えてくだ
さる。御心を尋ね求めて、主に従い進もう。


2024年11月06日(水)

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」 へブル13:5


信仰人生で、時に窮地に陥る。何の手立ても無くなり、万事休すに
思える。だが、どんな時も、天の門は大きく開かれている。何も
「できないが」祈る事が「できる」。あわれみ深い主は、窮地にあ
る者の叫びを、受け止めて下さり、その祈りをないがしろにされな
い。決して放っておかれない。「わたしを呼べ」と。だから目の前
の問題、悩みを、思い煩わずに、祈りに持って行こう。

ある女性が、転居先で、仕事を探さねばならなかった。子どもを抱
え、夫と死別、仕事がどうしても必要だった。祈りつつも、特に選
びさえしなければ、何かあるだろうくらいに思っていた。家も落ち
着き、職探しを始めた。不採用が続く中、次々応募した。しかし次
々と不採用で、段々焦りが出て来る。不安と思い煩いしか無い。生
活はどうなるのか。せっぱ詰まり、もう涙で、主にすがりついた。
そして委ねて、翌日の面接に。

すると面接の社長が、境遇を考えてくれて「頑張りなさい」と言い、
その場で採用となった。主のあわれみを感じた。ある女性も、異国
の地で小さい子どもたちを抱え、突然、家主から家を出るよう言わ
れた。しかしお金が無く、何をどうして良いかもわからず、大きな
恐れと不安に襲われ、ただただ泣いていた。主に在る友人たちが一
緒に御言葉を読み、祈ってくれた。

泣いて不安を吐き出し祈った後、不思議に心が落ち着いた。涙も乾
いて、友人たちと共に笑顔になった。主を信じて行こうと思った。
すると大きな家のクリスチャン夫婦が、家の仕事の手伝いと共に、
一緒に住んで欲しいとの申し出。主の導きを確信し感謝し、受けた。
主は決して私たちを捨てられない。
---------------
主の守りと慈しみは何と力強い事だろう。不信仰にも主の御力を過
小評価し、すぐにパニックになってしまう。主に頼より求めよう。
必ず道が開かれる。主に身を避けて、助けを待とう。


2024年11月05日(火)

「イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たい と思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について 来なさい』」マタイ16:24



主は、ついて来たいなら自分を捨て・・と言われ、これは「自分の何
かを」捨てる事ではなく「自分を」捨て、と言われる。捨てるのは
自分自身だと。私たちの自我を日々に十字架につけて、従って行く
必要がある。私たちは主イエスの十字架により、主に在って義人だ
と、神は見て下さっている。

すでに義人であり、神の目から見たなら肉の中にはいない。古い人
は、キリストと共にすでに十字架につけられた。しかし同時に、天
国に帰るまで、自分の内には肉がある。そのため日々自分を捨てて、
歩む事になる。新生した時に、肉を取り去られるのでなく、天に帰
るまで置かれている。霊と肉があるからこそ葛藤の中で、成長、成
熟が与えられて行く。

泥酔や賭博、妬みや憎しみ等はストレートな罪でわかりやすい。し
かし、醜い自我だけでなく、心を占めている偶像は、良いものかも
知れない。そんな時は気づきにくい。サウル王はすべてを聖絶せよ
との命令に、「最も良いものを惜しみ、つまらない値打ちのないも
の」を聖絶した。私たちもどうだろう。最も良いものを惜しみ、ど
うでもよいものを捨てているだろうか。

時間や労力を献げて懸命に奉仕するが、実は、肉を喜ばせる誇りや
プライド、自己満足、つまり自我がますます肥え太っているかも知
れない。「山を動かすほどの完全は信仰」があっても、自分の栄光
のためだろうか。自分を捨てなければ、無に帰してしまう。御霊は、
具体的に自分に死ぬ事を、そして御心を行なって行く事を、気づき
を与えつつ、示して下さる。一歩一歩従おう。
---------------
心に様々なものを持ちながら、そして片方では、主に明け渡すこと
を祈っている。なんと複雑な生き方だろう。御霊の示しに気づける
ことは祝福だ。素直に主を信頼し御霊に従い一つ一つ明け渡そう。


2024年11月04日(月)

「モーセはヨシュアに言った。『・・出て行ってアマレクと戦いなさ い・・』ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った ・・アマレクとその民を剣の刃で打ち破った」出エジプト17:9


アマレクが出てくる。アマレクは「肉」を表わし、肉は信仰に歩む
中で、私たちを攻撃し、戦いを挑んで来る。その背後に悪魔がいて、
主から離そうとする。自力ではこの強敵は、どうしようもない。し
かし主イエスが十字架で死なれた時に、この肉も十字架につけられ
た。

私たちが新生以前は、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むま
まに行ない」、この肉のままに生きて来た。しかし新生した時に、
新しい命が与えられ、新しい性質が入って来た。その新しい性質は、
肉と正反対で、主を喜び、主に従おうとし、罪を悲しみ、憎む。そ
れため信仰者には、今までに無かった新しい心の願いがある。罪を
悲しみ、主の御旨を喜び、行いたいと願う。

信仰者は自動的に肉を退け、御霊に従い、御心を行なうのではない。
オートマチィクではない。自動的にはそうならない。御霊に従うか、
肉の望むままに流されて生きるか、私たちの意志、選択、決断がか
かっている。だから「出て行って、アマレクと戦いなさい」と言わ
れている。

主がすでに勝利を与えて下さっているから、御霊に従い、拠り頼む
時、勝利する事ができる。肉をそのままにし、放任しているなら、
新生した後もずっと肉によって歩む。肉が出て来る時、「自分には
出来ません。助けて下さい」と主求めるなら、主が助けて下さる。
自らの無力を認めて祈り頼む時、主が助けて下さる。御霊に従える
ようにして下さる。
--------------
御霊によって肉の思いに気づかされる。何度も教えてくださる。肉
に従わず、御霊に従えるように祈ろう。出来る出来ないは問題では
なく、祈りによって主に頼ることが大切だ。


2024年11月03日(日)

「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは 人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく」伝道4:4



憤りも怒りも残忍で、あふれ出ると言っている。悲惨なものだが、
しかし妬みは、更に悲惨で誰が立ちはだかれようと。誰もどうにも
出来ない、手に負えないものだと言っている。妬みはそれほどの、
破壊力を持つものだと。それの重大なところが、誰の心にもあり、
又、自分の内にありながら、気づいていないものだ。

カインは献げ物の事で、アベルを妬み、殺害に及んだ。ヨセフは父
親の偏愛で、兄弟たちの激しい妬みを買った。サウル王は、民に称
賛されるダビデを妬み、殺害すべくつけ狙った。放蕩息子の兄は弟
を妬んで、怒りで身体を震わせた。主は祭司長たちに妬まれ、引き
渡された。ぶどう園の早朝の労働者も5時の労働者を妬んだ。

「あらゆる労苦と仕事の成功は、人間同士の妬みによる」とある。
妬みは強烈なエネルギーとなり、様々な分野に成功を収めさせる。
しかし、それは虚しいことだと。どうだろう。あなたのあの行動、
この言動、行為の動機に「妬み」はなかったか。密かなライバル心、
張り合い、敵対心、が見え隠れしないか。御言葉は追求している。
この「妬み」の解決はどこにあるのか。

それは、主を見上げ、主の愛と恵み、慈しみ、主からの賜物が、自
分にも豊かに注がれていることに、目が開かれること、そっちを見
ること、気づいて行く事にある。それは人を見、比較するなら見え
なくなり、平安を失ってしまう。目を天に向けて、主に視点を向け
る時、御霊によって導かれる。
-------------
人が優れている事のゆえに自分に兆す苦い思い。この妬みは誰にも
解決できない。妬みを持っていることを認めよう。主の恵みを覚え
る時に心は喜びと平安に満ちる。罪を認めて悔い改めよう。


2024年11月02日(土)

「彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すか ら』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を 返すまで牢に投げ入れた」マタイ18:29


あるしもべに6千億の負債があった。どうやっても到底返済不可
能だ。しもべは猶予を願い、主人はかわいそうに思い、何と全額
免除にしてやった。しもべはどんなに驚き安堵した事だろう。押し
つぶされそうな重荷がきれいに取り去られ、消えた。すると、その
帰りに、百万円の貸しのある相手に出会った。

相手はすぐに返せず、ひれ伏して、少し猶予を乞い願った。しか
し、容赦せず投獄した。それを聞いた主人は怒り、しもべを牢に
投げ入れた。私たちも、もし人を赦さないなら、このようになると。
6千億の負債が免除された。同様に、私たちは主の十字架の贖
いにより、すべての罪がきれいに赦された。「わたしは、彼らの罪
を二度と思い出さない」と、何という驚くべき恵みだろう。

こんなに大きな恵みを受けているのに、少しばかりの他者の負
債を赦せない。それは牢獄に入る事になる。牢獄の中は、四六
時中、憎しみと復讐心で、真っ暗だ。憎しみに囚われ、そこから
出る事ができない。心は苦しい。楽しい時も、楽しめない。結局、
一生その相手に拘束されてしまう。牢獄から出るにはどうすれ
ばよいのか?解決は一つで、赦せない相手を赦す事だ。牢獄
から出る道はそれだけだ。

よくわかるのだが困難だ。自分には出来ない事を、神がさせて
下さる。赦そうとの意志を向けよう。ある人は相手を、「赦しま
すから、私も赦して下さい」の祈りから、主の取り扱いが始まり、
時間をかけながら導かれ、相手を赦すことができた。牢獄か
ら解放された。あなたも赦せない相手がいるなら、祈って行こう。
自分には出来ないが、主が取り扱い、導いて下さる。

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救われても、古い罪の性質、肉があるので、なかなか赦す事
は難しい。自分の力では赦せない。しかし新しい性質が与え
られていて、御霊がおられる。御霊によって可能だ。できない
事を認めて、祈りに持って行くことから、祝福が始まる。


2024年11月01日(金)

「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうした ことです」マルコ4:40



ある50代半ばの男性が、会社の業績不振で、リストラが迫っていた。
夫婦で不安にさいなまれた。家や他、様々ローンはどうなるのか?
再就職などあるのか。路頭に迷う不安に眠れない日々が続いた。先
が見えず不安で、食事も喉を通らなかった。御言葉は何と言ってい
るか。「日々私たちのために、重荷をになわれる主」「あなたの重
荷を主にゆだねよ。

主は、あなたのことを心配して下さる」「重荷を負っている人は、
わたしのところに来よ。わたしがあなたを休ませる」「あなたがた
の思い煩いを、いっさい神にゆだねよ。神が心配して下さる」。
主が心配しているから重荷をゆだねよ、思い煩いをゆだねよと言わ
れている。不安と恐れはどこから来るのだろう。

弟子たちが、湖での嵐に恐れ、怯え、うろたえた時に、主は「なぜ
恐がるのか、信仰の薄い者たち」と言われた。嵐が問題なのではな
く、「不信仰」が原因だと。ゆだねられない心の奥に、不信仰があ
る。主を信じられないので、任せる事が出来ない。自分が握り締め
ているものを、放す事ができない。自分が放すと、何もかもが、だ
めになると思う。決して放さない。

重荷を放さないので、すべてが自分の肩にかかり、思い煩い、不安
に押しつぶされてしまう。それらを、ありのままを主に持って行こ
う。ゆだねられない事、信仰薄いことを、正直に主に祈って行く時
に、主は祈りを聞かれ、取り扱い、助けて下さる。弱さの中に、主
の力が働いて行く。
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本音は自分の望む結果が欲しい。だから不安で怖い。その弱さを主
は支えてくださる。信じよう。自分の想定をはるかに超える主の解
決がある。信仰をもって待ち望もう。