2025年01月31日(金)

「ダビデは言った。『主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれ る。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされ るかだ』」Tサムエル26:10



サウル王は、ダビデを妬みのゆえに、殺害のためつけ狙っていた。
ダビデは、サウルが追跡して来た事を知り、斥候を遣わして探らせ
た。するとサウルは陣営で寝ている事がわかった。それで行ってみ
ると、サウルや兵士たちも皆、眠っていた。アビシャイは、「今こ
そ神が与えた絶好の機会、自分が槍で刺し殺します」と進言した。

しかしダビデは許さなかった。決してサウルに手を下さなかった。
その理由は、サウルが「主に油を注がれた王」であったから。だが、
サウルの行動は、主の御心に反する事も知っていた。それで、「主
は生きておられる。主が、必ず彼を打たれる」と言った。ダビデは、
裁きを全面的に主にゆだねていた。そのため、決して自分で復讐し
なかった。

そのしるしとして、サウルの枕元にある槍と水差しを持ち帰った。
「主が、彼らを深い眠りに陥れられたので」、全員、誰一人として
全く気づかなかった。主は眠りをも支配し、主が彼らを眠らせた。
すべてが主の全き主権の下にある。サウルはダビデが二度までも、
機会がありながら、自分を殺さなかった事を知る。

サウルは「わが子ダビデ。おまえに祝福があるように」と、とうと
うダビデを祝福した。そして、サウルは、二度とダビデを追わなか
った。自分で復讐せず、主に信頼し、主に全面的に任せて行くダビ
デの命を、主が守られた。「復讐はわたしのすること・・わたしが報
いをする」と言われる主に、裁きはゆだねよう。
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絶好のチャンスが来ると、これが御心だと思いたいが、ダビデのよ
うに、全てのことに主の主権を認めているなら、誤った判断から守
られる。主は必ず正しく裁いてくださる。委ねていこう。


2025年01月30日(木)

「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。 パリサイ人ではありません」ルカ18:14


パリサイ人と取税人が宮で祈った。パリサイ人は、自分は罪人のよ
うでなく、ことにこの取税人のようでない事を感謝した。ゆする者、
不正な者、姦淫する者でなくて感謝だと。そして律法を守り、善行
をしていると。週に2度断食をし、すべての収入の十分の一を忠実
に献げていると。そのパリサイ人は自分を義人と自任し、他の人々
を見下していた。

彼は細心の注意を払い、律法を守っていた。見たところ立派な行な
いをしていた。しかし遊女や取税人を、見下し、軽蔑していた。外
側、正しい事を行っていても、心の中で、罪人を裁き、見下し、赦
せないなら、「この人が、義と認められて家に帰りました。パリサ
イ人ではありません」との通りで、自分を義人だと自任していたが、
主からは義と認められなかった。

他の箇所に、資産家である青年が出て来る。主のもとに来て、戒め
について「そのようなものはみな、守っております」と言った。
「隣人を愛せよ」と言われ、「守っている」と答えたが、実際は貧
しい人に施す事ができず、主のもとを去った。放蕩息子の兄も「戒
めを破った事は一度もない」と言い、放蕩して戻った弟に怒りが湧
き、赦せない。怒りで家に入ろうともしない。

外側善行をしている人々は、義人だと思うので、内側の罪がわから
ない。だが取税人もザアカイも自分の罪がわかった。ザアカイは大
喜びで主を迎え、罪の償いをした。この取税人も「私をあわれんで
下さい」とあわれみを求めて祈り、「義と認められ」帰った。
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信仰を持っていることも、何か人より少しはましだと考えてしまう
ような者だ。高ぶりは気づかない。主のあわれみを受けて、赦され
て、今ここにいることを覚え感謝したい。


2025年01月29日(水)

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌ってい ると、ほかの囚人たちも聞き入っていた」使徒16:25


パウロとシラスは、宣教活動で捕らえられた。着物をはいで、むち
打たれ、何度も打たれて投獄された。暗い牢獄の中で、足かせに拘
束され、むち打たれた身体に走る激痛。その中で、彼らは、わめい
たのでなく、不満や落胆、ぐち、いら立ちでも無かった。彼らは
「神に祈りつつ賛美の歌を歌って」いた。

すると他の囚人たちが聞き入っていた。その状況で、不平も不満、
怒りではなく、湧き上がる賛美に、囚人たちは、驚いたことだろう。
ただ者ではない。いまだかつて見たことのない光景だった。すると
地震が起きて、戸が開き、鎖がはずれた。しかし囚人たちは誰一人
逃げず、彼らに従った。星野富弘さんは、脊椎損傷のため、首から
下は動かない身体になってしまった。

深い苦しみと悲しみ、絶望の中にいたが、聖書に触れ、救いに入れ
られた。主に出会い、人生が一変した。ある時、口は動くので、絵
筆を口にくわえて、花の絵を描き、花々の絵を描き続けた。この絵
と心から湧き出る詩が、多くの人々の心に響き、深い感動を与えて
いる。傷ついた人々の心を癒し、温めている。神を信じたからと、
奇跡的いやしがあったわけではない。状況は何も変わらない。

神を信じても良い事はないのか。いや、そうでなく、逆に彼が不自
由な身体という御心を受け入れ、その中で感謝して精一杯生きてい
るから、人々を励まし、引き上げて行く。十字架を嫌い、避け、逃
げるのでなく、十字架をしっかり負い、御心を受け入れて生きる時、
それは周囲の人々への証しとなり、誰かの心を捕らえて行く。
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時が良くても悪くても、主によって変わらない喜びがある。外から
来る喜びではない御霊による喜びだ。主に従っていくとき、いつで
も自分の十字架があるが、主は恵みをもって支えていてくださる。


2025年01月28日(火)

「どうしても必要なことは・・一つだけです。マリヤはその良いほう を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」 ルカ10:42



私たちは余りにも多忙だろうか。主の前に静まる時が削られている
だろうか。世の中では、忙しく活動している事が生産的であり、評
価につながるだろうか。自分自身も満足できるのだろうか。御言葉
は、主の御前に座すること、静まることが大切だと言っている。

「神である主の前に静まれ」「全地よ。その御前に静まれ」「やめ
よ。わたしこそ神であることを知れ」と。日々、次々と出来事は起
き、又、様々な対人関係があり、ストレス、プレッシャーに見舞わ
れる。心は騒ぎ、不安になり、恐れ、いら立つ。そんな時、自分の
感情のままに、言葉を発したり、行動すると、取返しのつかない結
果となり、ひどく後悔することになる。

主は、まず自分で動くことを「やめよ」と。そして、御前に静まれ
と。今、最も必要なことだろうか。しばし世の騒音、又、自分の思
いの騒音から逃れて、いっ時、主の御前に身を置こう。思いの丈を
告げて、主の御声に耳を澄まそう。主との交わりは、私たちをリフ
レッシュさせ、新しい力を与えてくれる。御言葉が与えられる。

マルタは忙しく主と弟子たちのもてなし準備をし、マリヤは、主の
足元に座って、御言葉に聞き入っていた。そして主はマリヤは良い
ほうを「選んだ」のだと。これは決意して選ばなければ、できない。
時間に流され、多忙に流され、流されたままで日々が過ぎてしまう。
今日、主のもとで静まろう。
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気持ちばかり焦るより一度静まって祈ろう。いつもならわかる事も
忙しくなると飛んでしまう。祈りが少ないのは、それだけ自分で走
り回っている事ではないか。動く前に祈ろう。


2025年01月27日(月)

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。し かし今は、あなたのことばを守ります」詩篇119;67  


 

信仰人生にも、様々な問題がき起きる。問題や悩みは、誰しもいや
なものだ。できるだけ、痛い目には会いたくない。できれば、避け
て通りたいし、出来る限り順境であって欲しい。平穏な日々が、私
たちの心からの望みだ。しかし、御言葉はそう言わない。正反対の
ことを言う。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。
しかし今は、あなたのことばを守ります」

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで
あなたのおきてを学びました」。一見、苦しみに会うと、あやまち
を犯すふうに思う。だから、平穏でいたい。しかし、逆で、苦しみ
に会う前は、あやまちを犯したと言っている。つまり、苦しみを通
ったからこそ、あやまちから守られ、御言葉に従い、御言葉を守る
者とされいると。

そして、苦しみに会ったことがしあわせだったと言っている。私た
ちは、苦しみに会うことは、不幸だと思っている。しかし、信仰人
生で一番神に近かった時は?との問いに、皆が、試練だった時、苦
しかった時、と答える。あんなに主に近い時は無かったと。これは
苦しみにより、主に頼り、拠りすがる者とされる。

真剣に、本気で、主に向かい、切に御心を問い、自らの本当の姿を
照らされる。普段順境の時には、決して知ることのない、自分の不
信仰や、エゴに気づかされる。悔い改めて、新たにされる。そして、
主との交わりが深められて行く。これこそが、一番の幸いだ。
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試練の時は、一息一息が祈りながら通るようだ。小さな事にも主の
慰めを認め、御言葉を思い起こさせてくださる御霊の励ましを受け
る。何と主に近づけられる事だろう。


2025年01月26日(日)

「主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、 また盾である」詩篇115:11



仲良しの友人がいるだろうか。もし、食事の待ち合わせをして、相
手が遅れている場合はどうだろう。何かすぐに連絡できない、急な
事が生じたと思うだろうか。又は、もしや事故にでも?と心配する
かもしれない。その時に、相手に裏切られた、捨てられた、もう愛
されていないと思うのだろうか。人間相手ですら思わないのに、まし
てや極みまで愛して下さっている、主に対してはどうだろう。

祈りの答えが遅れている時、物事が自分の思い通りにならない時、
すぐに主の愛を疑い、真実を疑い、不信仰に陥ってしまうだろうか。
ある男性が経済的苦境にあった。支払い期日が迫り、どうにもなら
ず。祈ると「栄光の富をもって必要をすべて満たす」と言われた。
だが、心は騒ぎ、不安で不安でたまらない。

その時、親友から電話で、突然の収入があり、役立てて欲しい。振
り込んだからと。もう天にも上る心地で、喜び満ち、感謝した。する
と御霊の声が。「なぜ不安が消えた?」「え!振り込んでくれたので」
「それは見たのか?」「いいえ、まだ。でも友人が言ったので」「主も満
たすと言われたね」。

友人の言葉は信じ、主の言葉は信じられなかった自分に気づかさ
れた。心から悔い改めた。信じる者に、主を信頼して行く者に変え
られて行きたいと祈った。そして友人を通して、主がすべての必要
を満たして下さったことに、心から感謝した。

・・・・・・・・・・・・・・
目に見える人は信じれて、目に見えない神は難しいだろうか。「信
じます。不信仰な私をお助けください。」と、叫んだ父親のように、
不信仰な私を助けて頂きたい。主は助けて下さる。まず、信じよう
との意志を向けて行こう。御霊がそこに働いて下さる。


2025年01月25日(土)

「ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、 何を申し上げることができましょう」ヨシュア7:8



信仰生活で、成功し、大きな祝福があった後に、よく失敗する
と耳にする。大きなイベントを無事成功に終えたり、困難な問題
を解決した時に、ほうっとして、油断してしまうからだ。その時に
サタンの誘惑に陥ってしまう。成功や勝利の後には、意識して
心を引き締め、更に主に拠り頼む必要がある。イスラエルは、
エリコ陥落に大成功した。

勝利の進軍だった。それが何と小さな町アイに敗北した。人口も
少なく、堅固な町でもなく、即、勝てる余裕の戦いのはずであった。
しかし、事実、破れて逃げ帰った。この動揺は大きかった。ヨルダ
ン川を奇跡で渡り、エリコの城壁が、目の前で崩れるという大きな
奇跡を見て、当然このまま大勝利だと思っていた。それが突然の
敗北で、「民の心はしなえ、水のようになった」。

勝利に神の力が現われていたから、敵は自分たちを恐れた。しか
し一度の負けはそれをなし崩しにしてしまう。「なぜ?」今まで勝利
が当たり前、恵みを恵みとせず、肉の判断と力に頼ってしまった。
それは高慢であり、その結果だった。私達も順調に行く時こそ、
気を引き締める必要がある。主に頼らず、自分でやって行く。これ
が高慢だ。

主はヨシュアに原因を明らかにされた。彼らの中に罪があった。私
達も失敗する時、相手が、状況が悪いと、自分は棚上げだろうか。
自分に思いが至るなら、必要なら悔い改めに導かれ、その失敗が
祝福へと変えられる。

・・・・・・・・・・・・・・・
主は、罪がある時に、そのまま行かせられず、敗北させられる。
失敗した時は、心を御霊に探って頂き、罪があれば悔い改めよう。
失敗により、主は沢山の事を学ばせ、成長させて下さる。尚も益
とし、祝福へと導かれる。


2025年01月24日(金)

「主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多 すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラ エルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって 誇るといけないから」士師記7:2



ギデオンの当時、イスラエルは絶えず侵略を受け、苦しい状況にあ
った。主はギデオンを用いて、民を率い、諸国と戦わせようとされ
た。呼びかけに32.000人が集まった。だが、敵は135.000人の大軍
だった。どう見ても圧倒的に不利で、勝ち目はない。しかし、主は
非常に不思議な事をされた。ギデオンに、兵士の数が多すぎるから、
減らすようにと命じられた。そして最終的には、たった300人の兵士
が残された。

ところが、この戦いは、何とギデオンの大勝利に終わった。この時、
主はギデオンに、兵士を減らす理由として「大人数だと自分の手で
自分を救ったと、自分を誇るから」と。この戦いの勝利は、人間の
力ではなく、主の力によるものとわかるように、あえて兵士の数を
減らされた。私たちも自分が強ければ、主の働きを自分が奪い、自
分を誇り、自分の栄光にしてしまう。

肉は強く、信仰的体験さえも、肉が誇ってしまう。パウロは、素晴
らしい啓示を受けた。第三の天にまで引き上げられるという、誰も
経験した事のない特別のものだった。パウロも、自分を誇る弱さが
あり、それゆえ、余りにも特別過ぎる大きな恵みに、高ぶる事がな
いように、肉体にとげが与えられたと言っている。

厳しく苦しく辛いとげであったが、それにより、高ぶる罪から守ら
れた。そして尚も素晴らしい啓示を受けた。「わたしの力は弱さの
うちに完全に現れる」と。この世では誇れるのは強さだが、私たち
は弱さを誇れるとは何という恵みだろう。
-----------
無力を認めていけることは祝福だ。自分を誇っていることも気づけ
ない者だから。主が何をしてくださったかを大切にしたい。いつで
も主を待ち望める。感謝だ。


2025年01月23日(木)

「女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。 『来て、見てください。・・』」ヨハネ4:28


このサマリヤの女性は、暑い昼間に水くみに来た。普通は、涼しい
夕方に水をくむ。人目を避けての事だった。主は、彼女に飲み水を
求められた。そして会話の中で、夫を呼ぶようにと言われた。彼女
には、触れられたくないセンシティブな部分であり、「夫はいない」
とごまかし、やり過ごそうとする。

すると主が、夫が5人いたが、今いるのは夫ではないと、真実を告
げられた。彼女は罪の生活をし、傷を背負っていた。5回結婚し5
回離婚し、今は同棲中だ。その過去と現在のため、隠れた縛られた
生活をしていた。人々の噂の的であり、軽蔑されていた。この罪の
原因は、彼女の心の渇きであった。愛を求め、男性が自分を幸せに
してくれると信じ、次こそはと、結婚を何度も繰り返した。

しかし、渇きは決していやされず、暗い過去にふさがれ、喜びも平
安も希望も持てないでいた。主は、彼女の心の空洞をご存じであり、
彼女に会うために、わざわざサマリヤを通られた。主は、彼女に、
決して渇く事のない、生ける水を与えられた。その時、人から隠れ
ていた彼女が、人前に出て行き、主を伝えた。彼女の心はいやされ
、解き放たれた。

彼女に目を留めたれた主は、あなたにも目を留めておられる。どん
な過去であれ、赦されいやされ、縛りから自由にされる。新たな視
点、神視点で見るようにされる。痛みがあったゆえに、主に出会え
た、高慢から守られた、十字架の意味が知れた。痛み、苦しみは、
必ず後に感謝に変えられる。
-----------
誰でも十字架に自分の罪を赦され、主が与えてくださる溢れるいの
ちの泉を内に持つことが出来る。なんと感謝な事だろう。満たしを
外に求めてしまうが、心の渇きを主に認めていきたい。


2025年01月22日(水)

「戦闘隊長たちはヨシャパテを見つけたとき、『確かにあれはイス ラエルの王に違いない。』と思ったので・・戦おうとした。すると、 ヨシャパテは助を叫び求めた」T列王22:32



イスラエル王アハブは、ラモテ・ギルアデを、アラムから取り返す
ために、ユダ王ヨシャパテを誘った。ヨシャパテは、アハブの申し
出に乗り、主の言葉を聞くよう要請した。アハブは預言者400人を
集め、伺いを立てると、彼らは、上って行くようにと口を揃えて言
った。しかし、預言者ミカヤだけは、正反対の預言をした。

アハブが悪霊に惑わされている事、殺される事を告げた。アハブと
ヨシャパテは共に、アラムと戦う事になった。アハブは巧く逃れよ
うと画策し、ヨシャパテに王の服を着せ、自分は変装した。何と敵
をごまかし、ヨシャパテを襲わせ、自分は助かろうとした。しかし、
アラム王の命令は、イスラエル王アハブだけを狙えというものだっ
た。

ヨシャパテは、イスラエル王アハブと間違えられたが、彼が祈った
時、敵は彼を追うのを止め、引き返したのだ。主が関与された。そ
して一人の兵士が、何げなく放った矢が、何とアハブに刺さり、彼
は傷を負い、死んだ。別に彼は、アハブを殺そうとしたのではない。
主の関与だった。ミカヤの預言が成就した。

主の完璧な主権と支配を見る事ができる。人がどう画策しようと、
主の御心が成就する。厳粛な事だ。そうであれば、主に、人生も、
生活も、自分自身も任せよう。そうすれば、あなたへの最善のご計
画を一つ違わず、成し遂げて下さる事になる。そうできるよう祈ろ
う。それこそが平安の道だ。
-----------
自分がどんなに計画を立てても、その主導権は主にある。ありのま
まを祈ったら、主に主権を委ねよう。自分の思いが強い者だから、
いつも主の御心を仰ぎ、委ねますの態度でいたい。


2025年01月21日(火)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してく ださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」 詩篇55:22   


幼児が、口の狭いキャンディボックスに手を入れ、幾つものあめを
握りしめ、手が出ないと泣き叫ぶ。飴を放すと手が出るよと言うが、
絶対に嫌だと泣くばかり。こっけいな光景だが、私たちの霊的生活
に似ているだろうか。心が悶々と苦しいだろうか。その時は、何か
を堅く握りしめている。それは憎しみや妬み、さばく思いだろうか。
思い通りにしたい事柄だろうか。

憎しみや妬みやさばく心は、相手でなく、自分が苦しい。平安が無
い。喜びも無い。飴を手放すなら、ボックスから手が出て、自由に
なる。憎しみや妬みを手放す時、心は解き放たれ、喜びと平安が戻
る。しかし強烈な自我は、決して放したくない。苦しいのに、憎ん
でいたいし、妬み続けたい。罪の性質だ。「出来ません」「したく
無い者です」とありのままを認める事から、祝福が始まる。

ある人が子どもの難病を、どうしても受け入れられないでいた。
「なぜ?どうして?」「自分の子が?」と涙は溢れ、グルグル思い
は回り、苦しみ、つぶやき、主に対して反抗している自分がいた。
同年齢の子どもを見れば涙が出る。悶々の心は苦しくてたまらず、
とうとう限界で、ギブアップした。

行き詰まり、煮詰まり、そうせざるを得ない状態だった。自分自身
も、子どもも、将来も、不安も、恐れも、何もかもを、主に明け渡
した。その時、状況は全く変わらないのに、心に初めて安堵と平安
が臨んだ。委ねられないで握っているなら、その事を主に告げて、
ありのままの心を祈ろう。
-----------
肉はいつまでも憎んでいたいし、明日を心配していれば安心だ。こ
のままでは解決がない事に気づきたい。肉の思いを認め、主に助け
を祈ろう。主が心配し、悔い改めも打ち勝つ力も与えてくださる。


2025年01月20日(月)

「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたの おしえは私の心のうちにあります」詩篇40:8


信仰生活が続くと、一つの事に気づく。それは信仰人生は、自分の
思い通りにはならないという事だ。全く思い通りではない。「わた
しの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたが
たの道と異なる」と。自分の強い思いがある。しかし、肉の自分の
考えるプランより、遙かに素晴らしい、主の最善の道が用意されて
いる。

門の閉じ開きで道が示される。念願の進路、学校や職場の道が閉ざ
されるなら、主のご意志と受け止めよう。そこで、主のみ思いを尋
ね、御心を求めよう。主はあなたのために、遙かにふさわしい、別
の良い道を備えておられる。結果的に、後に、それが最善だったと
知る。

一人の女性の証しだ。病を得て、どうしてもいやされたい。祈って
祈って、祈り込んで行った。更に祈りを積んで行った。祈りに祈り、
これ以上祈れないほど祈った。しかし病がいやされる兆しはない。
そこで主の御心を求めて祈った。祈っていると、自分の思いは強く
あるが、主のみ思いはどうなのか。自分への、主の願いは何なのか。
初めて主のお心に思いが至った。

主のお心を祈り始めた。すると自分自身を主にゆだねる事を示され
た。明け渡すという事は、いやされても、いやされずにこのままで
もOKですという事だ。大きな決断が要った。しかし祈りの中で決心
し、もしこのままが主の最善なら、受け入れますと祈った。不思議
に心に平安が広がった。驚いた事にその後、少しづついやされて行
ったのだった。
-----------
自分の強い思いがあれば、そうでない答えなら、と常に不安だ。祈
る度に自分を主け渡そう。明け渡せたときに初めて平安が来る。主
の御心が成る事に安堵できる。


2025年01月19日(日)

「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえの ものだ」ルカ15:31

有名な放とう息子の箇所に、兄息子が出て来る。放とうし尽くして
戻った弟息子を、父親は大いに喜び迎え、宴会を開いた。そこに
一日の仕事を終えた、兄息子が帰宅する。するとこの状況を聞き、
怒りで震えた。自分は今まで遊ぶ事もせず、我慢に我慢を重ね、
懸命に働いて来た。それを好き勝手して、財産を持ち崩し、遊び
ほうけて戻った弟。それを宴会とは一体どういう事か。納得できず、
怒りが収まらない。

世の価値観なら、兄の方が常識的に見えてしまう。こんな父親が
いたらどうだろう。そんな甘い事でどうする。世の中は厳しい。又、
同じ事になるだろう。まず使用人として、本気度を試すべきだ。弟
も弟だ。どの顔で帰れるのか。家に入る前に一言あるだろ。世の
価値観だ。だから兄に納得してしまう。

だが主の価値観は全く違った。父親は戻った息子が何をして、ど
んな状態であれ、丸ごと受け入れる。どん底で、ぼろぼろで、打ち
のめされた、無力なままを抱きしめた。又、弟息子だけでなく、激
怒し反発する兄息子も、いさめも、責めもしていない。兄息子も、
そのまま受け入れ、「私のものは全部おまえのものだ」と言う。

兄は、父親のすぐそばにいるが、父の愛がわからず、心は全く離
れていた。弟より問題だったかも知れない。神の私たちに対する
愛はこういう事だと。罪しか犯せない、どんなにダメ人間でも、打ち
のめされて、ぼろぼろでも、心底受け入れ、包み込んで下さってい
る。いつも主のもとへ行こう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
自分の力で、我慢しながら労していると、必ずしていない者を見る
と腹が立ち、さばくと言われている、自分は、こんなにしているのに
と。主から離れ、恵みから落ちてしまう。気づける事が感謝だ。気
づく度に、主を仰ぎ、常に恵みの中に、立ち返れる。


2025年01月18日(土)

「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげま した。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子 をささげたのです」へブル11:17


アブラハムは、主が与えられた約束を25年間待って、我が子イ
サクを与えられた。アブラハムが100歳、サラ90歳であった。気
が遠くなるような長い忍耐の末だった。だが、彼らもスーパーマ
ンでなく、私たちと同じ弱い人間であり、数々の失敗があった。
主の時を待てずに、肉によって、イシマエルを産み出してしまった。

しかしヘブル11章によると、彼は信仰の人として賞賛を受けて
いる。その後、その最愛の子イサクをモリヤの山の上で、全焼
のいけにえとして献げよと、厳しい大きな試練が臨んだ。だが彼
は「翌朝早く」イサクと二人の若者共に出発した。決心ができて
いた。従順に従った。3日目に若者たちにその場で待つようにと
告げた。

「私と子どもとは、礼拝をして、戻って来る」と。二人で戻って来
ると告げた。その途上でイサクが「いけにえの羊はどこに」と問
うた時、彼は「神が備えて下さる」と答えた。彼はこの事におい
て神を全く信頼した。神には人を死者の中から、よみがえらせ
る事もできると。しかし山の上のその場には、いけには無く、イ
サクをいけにえとし、刀を振り下ろす、その瞬間だった。

主が、止められた。するとそこに羊が備えられていた。これは彼
も知らなかった事だ。私たちも一歩先は見えず、明日の事もわか
らない。しかし、主は知っておられる。一歩を踏み出す時、そこに
必ず備えがある。一歩一歩、この主に信頼し委ねて歩む時、一生
涯の間、「主の山の上に備え」を経験して行く。

・・・・・・・・・・・・・・
主は「試み」を与えられる。しかし結果的に、代わりの羊を備え
て下さっていた。主は試練と共に、脱出の道を備えて下さる。彼
は、試練の中で祈りに祈り、主と交わった。それにより信仰もっ
て臨めた。主にことごとく告げて交わろう。


2025年01月17日(金)

「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの 良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」 Tペテロ 4:10



動物学校の例え話を、聞いた事があるだろうか。動物学校で「空を
飛ぶ、泳ぐ、走る、木を登る」の訓練があった。まずリスは、木登
りは好きで得意だが、空が全く飛べない。すると劣等感で落ち込み、
得意な走りも自信を失いそうだ。次に、うさぎも、走りは得意だ。
しかしどんなに頑張っても、やはり空は飛べず、ひどく落ち込んだ。

次に鷲は、飛ぶ事は大得意だ。大空を自由に飛べる。だが他の事は
うまく出来ず、がっかりし自分を責めた。何とか走ろうとして、足
をけがした。アヒルは、水泳が得意だ。だが飛べないので、鷲が羨
ましくてならず、妬みを覚え、自己嫌悪に陥った。これらを、こっ
けいだと笑ってしまうが、私たちもどうだろう。それぞれ造られ方
が、全く違っている。

各々の良さ、得意分野がある。それを他者と比較し、他者のように
なろうとするなら、自分の賜物も生かせないまま、自分で自分を損
ない、終ってしまう。主は、私たち全員を「異なって」造られた。
各々得意と不得意分野がある。違っていて良い。比較でなく、自分
の賜物を見い出し、主が遣わされた場で、御霊に助けられて、主の
ために用いて行こう。その時、喜びと楽しみの中で、生きて行ける。

与えられた各々の個性が全開して行く。周囲を見て、落ち込んでい
るだろうか。その原因は比較だろうか。比較は、優越感と劣等感を
グルグル行き来し、アップダウンし、虚しさで終わる。主を仰ぎ、
与えられているものを持って、仕えて行こう。
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それぞれに違う賜物が主から与えられている。なんと感謝な事だろ
う。ともに喜んで仕えていける。横の人を見るより、与えておられ
る主を仰ぎたい。


2025年01月16日(木)

「あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなた がたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人の ように歩んでいるのではありませんか」Tコリント3:3


信仰生活で、妬みや争いはどうだろう。誰かに対する内心の妬みや、
又、けんかし、敵対し、恨みや憎しみを抱いている問題があるだろ
うか。それは肉による事だと言っている。そして、肉的な信仰者の
問題は、心が満たされていないので、不平不満が周囲に向かう。相
手のせいにし、人を批判し、責めて、自分の心を落ち着かせようと
する。

生まれつきの肉の性質は、自分中心で、「キリストにある幼子」と
も言われている。幼児は、自分の思うようにならなければ、泣き叫
ぶ。よく店の前で、ひっくり返って泣きわめく姿を見る。肉は、自
分軸で思考し、判断して行くので、自分を正当化して行く。又、妬
みは、自分と同じようなレベルで、少し上とか、自分が持っていな
いものを持つ相手に向かうと言われる。

自分とかけ離れた、相手を妬むことは無い。同性間、同世代間、能
力もかけ離れず、少し上の相手に向かうと。そして妬みや争いがあ
るなら、ただの人のように歩んでいると。ただの人なら、世の人と
同じだと。では、どうすればよいのだろう。前の節に「御霊に属す
る人」が出てくるが、御霊に導かれて、御霊によって歩むことが大
切だと。

まず主のもとに行き、妬み、恨み、自己中心、虚栄、嘘、あるがま
まを認めて祈ろう。悔い改め、御霊の導きを求めよう。主は一つ一
つと手を取って導き、なすべき事を示し、御霊によって歩んで行け
るよう、教え助けて下さる。
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苦い思いが来るとき、御霊により気づけることは感謝だ。ありのま
まを祈り、導きに従い悔い改めよう。肉のままに流されてしまうが、
御霊に従う方を選べる。祈って従おう。


2025年01月15日(水)

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる 祈りと願いによって・・願い事を神に知っていただきなさい」 ピリピ4:6



主は「何も思い煩うな」と言われる。「何も」「いっさい」思い煩
うなと。私たちを思い煩いから守り、解き放とうとして下さってい
る。それは、思い煩わずに、「祈れ」と。思い煩いから解放される
のは、「神に知っていただく」=「祈り」による。ある人は祈って
いるのに、思い煩いが、無くならないと嘆く。

それは四六時中、その思い煩いの原因となる、悩みから目を離さず、
見続けているからだ。一日中その問題を、繰り返し、繰り返し思い
続ける。すると、その思い煩いで要塞を築き上げ、ますます強固に
なり、その問題はモンスターになって行く。原因となるものから目
を離し、約束の御言葉と主ご自身を仰ごう。

そして思い煩いに囚われているあるがままの心を祈って行こう。そ
の時、主が働いて下さり、状況は変わらず、問題はそこにあるが、
その中で、不思議に平安にされる事を経験する。ある人が会社が倒
産し、収入が途絶えた。貯えはほとんど無く、次の仕事が無い。当
座の生活費に困窮した。

親しい友人に頼めば、快く貸してくれるだろう。「いや、神が与え
て下さる。神に拠り頼み、神に祈ろう」と励まされ、信仰に立つ事
を決心し、切に祈った。「神の国とその義とをまず第一に求めなさ
い。そうすれば・・すべて与えられる」に立って祈り続けると、不安
が薄れて行った。

そして突然、昔、知人にお金を貸したものが戻って来た。全
く忘れていたものだ。当座の必要が満たされ、やがて職が与えられ
た。主の真実に心から感謝した。
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問題を抱え、まだ来ない先を思い煩うと明日が怖くてならない。
あるがままを主に祈ろう。人知を超えた主の平安に守られるとの御
約束だ。今日ともにいてくださる主は明日も傍にいてくださる。


2025年01月14日(火)

「そこで、彼らは主のことばに聞き従い、ヤロブアムを 目ざして進む行軍を中止して、引き返した」U歴代11:4



レハベアムは、ユダとベニヤミンの選抜戦闘員18万人を集め、王国
を取り戻すために、イスラエルと戦おうとした。すると、神の人シ
ェマヤに主の言葉があった。「上って行くな。あなたがたの兄弟た
ちと戦ってはならない。各々自分の家に帰れ。わたしがこうなるよ
うにしているのだから」と。

イスラエルが、ダビデの家にそむいたのは、主の主権と支配の下の
ことであると。それで、人々は主の言葉に聞き従い、北王国への行
軍を中止して引き返した。「わたしがこうなるようにしむけた」。
神から出たことであった。今、あなたに問題が起きているだろうか。
「わたしがこうなるようにしむけた」。「私は黙し、口を開きませ
ん。あなたが、そうなさったからです」

「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさ
ってください」主から来たものは、しっかり受け入れよう。それが
大きな祝福とされて行く。主の言葉を無視して立ち向かい、戦って
行くなら、更なる問題と混乱を引き起こし、秩序を壊し、自分も大
きな痛手を負う。今、もし、厳しい試練にあるなら、それも「わた
しがしむけたのだから」との主の御心だ。

私たちの益と祝福と成長のための訓練だ。「霊の父は私たちの益の
ため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめる
のです」必ず豊かな結実を見る。又、今、ハピーな事が臨んでいた
ら、それも主がしむけられたものであり、感謝し、喜ぼう。
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目の前に来ているものは、全て主を通ってのこと。そうなら全能の
主が必ず全てを益にしてくださる。信仰をもって見つめていたい。
今することは何か、常に主に尋ねていきたい。


2025年01月13日(月)

「主はヤコブに仰せられた。『あなたが生まれた、あなたの先祖の 国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる』」創世記31:3



ヤコブは父と兄をだまし、祝福を奪い取り、兄の激しい怒りに家に
おれず、遠く伯父のもとに向かった。孤独と寂しさの中で野宿して
いた時、主が、そばに立たれ「あなたと共にいて、どこに行っても
あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう」と約束された。

だがその約束の成就に、1年2年でなく、20年もの歳月を要した。気
が遠くなる歳月だ。私たちは、「待つ事」が難しく、大変苦手だ。
しかし、主は、即、ではなく、地道に長い時間をかけながら、私た
ちを導かれる。今の時間は、練られきよめられ、造り変えられる途
上にあり、1日も決して無駄な日は無い。

ヤコブにとっても厳しく苦しい辛い訓練の日々であった。「神の時」
は必ず到来する。時は満ちる。約束が、成就して行く時には、見て
いると兆候があり、状況が少しづつ変化して行く。ヤコブの周囲の
状況も変わって行った。ラバンの息子たちが、ヤコブが父の物を、
みな盗んだとの言い方をする。ラバンの態度も以前のようでなくな
った。好意的でなくなり、このままなら争いが生じ、問題が起きそ
うだ。

ヤコブへの態度、対応が違って来て、微妙な空気を感じ取る。そん
な状況の中、はっきりと主の御声が臨んだ。「あなたの先祖の国へ
帰りなさい」「さあ立ってこの土地を出て、あなたの生まれた国へ
帰りなさい」。約束の時が来た。私たちも、状況の変化を見落とさ
ないでいよう。そして、明確な主の御言葉が臨む時、行動を起こす
べき時だ。今、主からの示しがあるだろうか。
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小さな事でも、何ごとか起これば、対処を探りたく自分の思いでい
っぱいになる。主がこの背後におられ動かしておられる事をいつも
覚えていたい。主の御心と時を悟れるよう祈りたい。


2025年01月12日(日)

「神の神であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」 詩篇 136:2



ある本に、こんな例え話があった。サタンが倉庫に、色々な「種」
を保管していた。それは、サタンが、人々の心に蒔くための「種」
であり、これから蒔こうとしていたところだった。様々な種があっ
たが、一番大量にあったのが「失望」という種だった。この種が
一番効率が良かったのだ。人々の心に蒔くと、すぐに芽が出て、
いとも順調に生育する。

そして、この種は多くの実を結ばせる。人々を主から離すことが
できる。これを蒔きさえすれば、後は放っておいても大丈夫だ。
だが、この種が、一つだけ何の効き目もない領域があった。幾ら
蒔いても〃、だめなのだ。育ったためしがない。「それはどんな種か
」の問いに、サタンは「感謝」、「感謝する心」と答えた。「失望」は
信仰者にとって、最強の敵だ。希望を奪い、期待させず、気力を
喪失させ、心を萎えさせてしまえば、どうにも出来ない事をサタン
は知っている。

逆に「感謝」のある所は、サタンが何もどうにも出来ない。サタンの
足場が無い。良い事、ポジティブな事を感謝するのは簡単だが、
一見不都合な事も、感謝するする事は、信仰であり、力だ。そこから
逆転、祝福へと繋がっている。なかなか感謝できないので、あるが
ままの気持ちを、まず告げよう。告げて、告げて行こう。

ある人が苦しい状況に、感謝できない事を告げ、そのままの気持
ちを主に吐き出し続けた。すると不思議に、何だか心が落ち着い
て、あったかくなり、御言葉が心に浮かんで来た。「何で?何で?」
の疑い不満でなく、主がいつも言われるように、感謝して行こうと
思えた。

・・・・・・・・・・・・・・
「感謝できない、無理です」と、まず、ありのまま祈ろう。御霊が働
いて助けて下さる。もし、感情がついて来なくても、意志を向けて
意志により、主に感謝を献げてみよう。そんな中で、一つ一つと
御言葉が浮かび、心が変えられて行くことを経験する。


2025年01月11日(土)

「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪の ために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によっ て伺いを立て、主に尋ねなかった」T歴代10:13


サウル王は、ペリシテとの戦いの事で、不信の罪を犯したと
言われたが、それ以前にも、主に従っていなかった。アマレ
クとの戦いで「すべてのものを聖絶せよ」との命令にかかわ
らず、最良のものを惜しみ、どうでもよいものだけを聖絶した。
主の言葉を捨てたので、主もサウルを王位から退けられた。

サウルは罪により、主との関係が絶たれてしまった。
彼は「罪を犯しました、しかし、私の面目を立てて下さい」と。
罪を犯したと言うが、これは罪の悔い改めではなかった。自
分の体面を守るためであった。私たちも、罪とは、人前で面
目を失う事と思うだろうか。それなら人前で面目を保てば良
しとなる。

そうでなく、人は関係なく、罪とは、主と自分の関係のことだ。
サウルはペリシテとの戦いで、主に伺ったが、主からいっさ
い答えは無かった。それで霊媒に向かった。何よりも主との
関係が、第一で大切だ。その関係修復がなされておらず、悔
い改めが無いのに、伺いを立てても答えが無いのは当然だ。
主との間が損なわれているのに、自分本位に願ってもどうに
もならない。

「主に尋ねなかった」と言われ、尋ねた事にならないと。主と
の関係はどうだろう。ダビデは姦淫の上に、殺人の罪を犯
したが、真実に御前に悔い改め、完全に赦された。しかし、サ
ウルに悔い改めは無かった。主の赦しは豊かで完璧だ。関係
はいつでも回復される。今、主との関係はどうだろう。主のも
とに行こう。

・・・・・・・・・・・・・・・
「神へのいけにえは、砕かれた悔いた心」主はそれをさげす
まれない。十字架の血潮により、赦して赦して赦して下さる。
赦しを受け取る度に、更に主の愛を知って行く。へりくだらさ
れて行く。主のもとに行こう。


2025年01月10日(金)

「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しま した。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました」 ヨナ2:7



主は、ヨナにニネベに宣教に行くよう命令を与えられた。しかし敵
の救いは、ヨナの気に入らない。主に従わずに、反対方向タルシシ
ュの船に乗り、逃亡した。まさに「肉の願うことは御霊に逆らい、
御霊は肉に逆らう」だ。ヨナの自我が、御霊に逆らう。しかしそん
なヨナに、主は尚も変わる事なく愛を注ぎ、見捨てられなかった。

主は大嵐を起こし、船内で、誰のせいかと、くじを引く事になり、
ヨナに当たった。その結果、ヨナは海に投げ込まれる事に。主は
大きな魚を備え、ヨナを飲み込ませ、ヨナの命を守られた。この後、
ヨナはニネベに宣教に行く事になるが、人々が悔い改めると機嫌を
損ねる。これぞ肉、自己中心、わがままだった。

私たちはどうだろう。思い通りにならない事に、文句を言い、すね
ているだろうか。ヨナは自分の姿だろうか。自分を明け渡す時に、
御霊に従って生きる事ができる。3日3晩魚の腹にいた。すべてが
神のご計画の内であった。主はヨナを魚の腹に隔離され、そこで一
人きりであった。人からも外界からも、すべてのものから離され、
主の御前に置かれた。

私たちもまた、多忙のため祈る時間、考える時間すら失せると、世
の凄まじい勢いに飲み込まれ、自分を見失ってしまう。主の御声が
飛んでしまう。信仰者にとり、御声を聞くために静まる事がどうし
ても不可欠だ。ヨナのごとく強制的隔離の前に、自ら静まって愛の
御声に耳を傾けよう。これが今一番必要な事だろうか。
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肉体が疲れるように、霊的に弱っている状態に気づくことが必要だ。
主は御霊を通して日々慰めや励まし、導きを与えてくださっている。
静かに耳を澄まそう。御声を聞く時間を守ろう。


2025年01月09日(木)

「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。 この人ですか。その両親ですか」ヨハネ9:3



目の前に問題が起きる時、必ず「なぜ?どうして?」という問いが、
心に湧き上がる。対人関係の悩み、重病の発覚、経済的苦境、登校
拒否、別離、様々な問題に出会す時、答えが欲しい。理由を探し出
したい思いに駆られる。「なぜ?」、しばしば無意識にも自分以外
のところに原因を、落とし所を探し出そうとしてしまう。そうする
と、誰かのせいになる。そして犯人探しをする。

弟子たちも盲目の人を見て、犯人探しをした。「この人が盲目なの
は、この人の罪か、それとも両親のせいか」と。「誰のせい?」な
のかと。しかし主は、本人のせいでも、両親のせいでもない、誰の
せいでもない、「神のわざのため」と答えられた。私たちは、人生
において「どうしてこんな事が」「なぜ自分がこんな目に」と思う
ような、不意の突如の苦しみや悲しみを経験する。

皆、必ず様々な試練に会う。苦しく辛いばかりだ。わけのわからな
い所も通る。過去はどうだろう。間違っていたなら悔い改め、しか
し尚も自分を責め、誰かを責め、犯人探しをしているだろうか。だ
がそこには答えが無い。平安も無い。主は、「みわざが現われるた
め」と言われた。主の素晴らしさを知り、主のみわざを見るためと
の、信仰に立てるよう祈ろう。

どんな苦しみ痛みも、必ず万事益とされ、その事で神ご自身を更に
深く知り、神のご愛を、あわれみを知る事とされる。突然の困難に、
「なぜ?」を「主のみわざが現われるため」に立ち、主のわざを見
せて下さい、教えて下さいと求めよう。
-----------
なぜこうなったのか、もっと良い方法がなかったのかと、結果に対
して罪の意識を重ねていく。そこには信仰の光があるだろうか。主
の御約束を信じ、主のみわざだけを見ていよう。


2025年01月08日(水)

「彼らは、感謝のいけにえをささげ、喜び叫びながら主のみわざ を語れ」詩篇107:22



私たちは心配性だろうか。ああでもない、こうでもないと、くよく
よと、思い煩う自分がいるだろうか。過去をくよくよし、この先を
心配し、あの対人関係、この出来事の思い煩いでいっぱいだ。そん
な自分が変わるには、どうすればよいのだろう。方法は3つで、
@状況を変える、A人を変える、B自分を変える、のどれかだ。

環境は変わらないし、人を変える事など不可能だ、しかし、自分を
変える事なら可能だ。どのように自分を変えるのか。「わがたまし
いよ。主をほめたたえよ」と、主が良くして下さった事を思い出す
ことだと。思い出して、思い出し続けること。信仰が引き上げられ
て行く。主がして下さった事を感謝し、それをし続ける時に、自分
は変えられる。

私たちに、主の好意を受ける資格があるから、良くして下さるので
はない。何の資格も無い者に、助けや祝福が与えられているのは、
無代価で罪が赦され、その罪を永遠に忘れて下さるゆえだ。決して
当然ではなく、驚くべき恵みであり、どんなに有難い事だろう。
「あなたのすべての咎を赦し」、過失も失敗も赦し、益とされ、祝
福に変えて下さる、その主の愛を信じて生きる時に、心に安堵と喜
びが湧いてくる。

私たちは、その主の愛によって、変えられて行く。「失ったもので
なく、今、与えられているものを数えよ」失ったものを数え、くよ
くよしていないだろうか。あれが無い、これも無い、過去の失敗に
今もくよくよしているだろうか。今、有るものに目を留め、感謝し
よう。その時必ず、自分が変えられて行く。
--------------
明けましておめでとうございます。今年も朝毎に主への賛美を新し
くし、感謝をもって配信できる恵みに感謝します。お一人お一人の
心に届きますよう、豊かな祝福がありますよう祈りながら配信しま
す。今年もよろしくお願いいたします。