2025年02月28日(金) 「だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通り で施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いては いけません」マタイ6:2
「だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通り で施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いては いけません」マタイ6:2
施しをする時、又、祈る時には、偽善者のようであってはいけない と言われた。「偽善者」とは、「役者、俳優」のことだ。つまり演 技をする者のことだ。俳優とは何をするのだろう。俳優は、脚本家 が書いた通りに、その人物を演じる。脚本通りに、監督が指示し、 演技指導する。俳優は、そこに描かれた人物を、監督の指示通りに 従って演じる。それをいかに巧く表現するかで評価される。 いかにその人物になりきるかが勝負だ。それは自分ではなく、完全 な別人だ。偽善者とは、自分ではない人物を演技する者のことだ。 それは「彼らは人に見られたくて」とあり、人の賞賛、評価を得た いがためだ。人に認められたい。エデンの園でアダムが罪を犯し、 主から離れた時から、主との麗しい関係は、しゃ断「された。その ため人は、人の愛情を求めるようになった。 目に見ない主ではなく、目に見える人の愛を求めてしまう。誰もが その弱さを持っている。人に受け入れてもらいたくて、良い人を演 技してしまう。それは、自分ではない別人物だ。嫌われたくなくて、 人に気に入られる言葉しか言えない。これが偽善だと。それが祈り になると、きれい事の祈りになる。 演技の祈りであって、いっさい天に届いていない。主は、あるがま まの正直な気持ちを受け止めて下さる。それを待っておられる。あ るがままの私たちが愛されているので、主も別人をどうにも出来な い。あるがままのを祈りを、主に持って行こう。 --------------- 人の目を気にせずに何かをすることは難しい。その弱さを持ってい るから常にありのままで主に向かっていたい。偽善が身について、 自分自身が欺かれないよう、弱さを覚えていたい。
2025年02月27日(木) 「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなに してはならない。」ヘブル4:7
「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなに してはならない。」ヘブル4:7
ある人の証しだ。若い時だったが、世に心が向いてしまい、世を楽 しみ、少しづつ教会から足が遠のく内に、全く礼拝に行かなくなっ た。だが、問題が起きた時は、ふと御言葉を思い出したり、何かの 時には以前の信仰が見え隠れしていた。しかし、好きなように生き る事は楽しく、遊びほうけて、弾けていた。そんな中でも、ギクシ ャクする対人関係や、将来の進路や、勉強の事やら、悩みやトラブ ルも起きていた。 そんなある日、「今日」教会へ行くようにとの、何か強い心の促し を感じたのだ。「今日」だと。なぜかその時、何かに背中を押され るように、行かなくてはと、素直に思った。なぜか不思議に行こう と思えた。何かに引っ張られるように礼拝に行った。その後、不思 議なのだが、自分の頑張りとかでなく、強いられてでなく、その日 からずっと教会へ自然に行けたのだった。 「今日、もし御声を聞くなら、心を頑なにするな」と言われている。 御霊の導きがある時、一歩従うなら、御霊に乗せられたように、導 かれて行く事を経験する。ある人は、御霊の強い促しが、はっきり とわかったが、ぐずぐずして、一歩が出ず、御霊の示しに従えなか った。するとその促しが消えて、その時に平安が失せた。 自分の頑なさ、強い自我に気づかされ、心から悔い改めた。従えば よかったと後悔した。すると主のあわれみは尽きず、時を経た後に、 主はチャンスを下さった。御霊の導きに一歩従うなら、主が手を取 り導いて下さる。今、もし示しがあれば従えるよう祈ろう。 --------------- 御霊の導きを受けたなら感謝だ。従えるように祈ろう。一歩、従わ なければ次の一歩は見えてこない。今は閉じているように見えても、 御霊の促しを信じて行動しよう。
2025年02月26日(水) 「・・あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを 国々への預言者と定めていた」エレミヤ1:5
「・・あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを 国々への預言者と定めていた」エレミヤ1:5
主はエレミヤに、あなたを胎内で形造るその前から、あなたを知り、 あなたを国々へと預言者と定めていたと言われた。主はエレミヤの 出生以前から、彼を選んでおられた。私たちもどうだろう。「神は 私たちを世界の基のおかれる前からキリストにあって選び、御前で 聖く、傷のない者にしよう とされた」とあり、天地創造以前に、 すでに選ばれていたと。 モーセやイザヤ、パウロやペテロもそうだったが、私たち一人〃も 同様だ。生まれる前から選ばれた。主の意志と選びにより、今ここ にいる。偶然生まれたのでなく、主のご計画による事だ。若いエレ ミヤは恐れの余り「まだ若くて、どう語ってよいかわからない」と、 とんでもないと尻込みした。が、主が遣わす所へ行き、主が命じた 言葉を語れと。 「わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すから」、彼らを 恐れるなと。「わたしがともにいる」との確たる保証がある。主は、 エレミヤを選び、彼にしか出来ない働きを与えられた。同じく私た ち一人〃にも使命があり、それぞれ違った能力、賜物が与えられて いる。 長い歴史の中のこの時に、この国で、今の場で、境遇で、生を与え られたのは、主によることだ。それはご計画であり、遣わされたの は、主だ。たまたま今の場にいるのではない。今の境遇が、主から のものと受け取る時、違う視点に立つ。いつも見える所でなく、御 言葉視点に立って従って行けるよう祈ろう。 ------------ 生まれる前から知ってくださっている主が、一つ一つの出来事を構 成し導いている。先のことはわからなくても、振り返ると主のもと に来る一本の道になっている。この主を頼り、恐れず従いたい。
2025年02月25日(火) 「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたに わたしの平安を与えます」ヨハネ14:27
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたに わたしの平安を与えます」ヨハネ14:27
私たちの信仰人生はどうだろう。大きな困難、深い悩み、小さなト ラブル、次々とやって来る。天に帰るまで、この世にいる間は、問 題が無くなることは無い。ずっと来る。振り返っても納得だ。誰し も、問題が解決するとひと安心だ。しかし解決するまで、問題の最 中は、不安で不安でたまらないだろうか。思い煩いと恐れにさいな まれる。 それなら世の人と同じだろうか。問題は次々と起きる。私たちの主 は、その嵐のまっただ中で、「平安」を約束して下さっている。主 と弟子たちは、湖で大嵐に会った。、弟子たちは大パニックだった が、主は、大揺れする舟の中で、熟睡されていた。なぜなら主の言 葉は100%成就する。「向こう岸に渡ろう」と言われたからには、 途上に何があろうと渡れる。主の言葉は霊であり、命だ。 その主が、「わたしは、わたしの平安を与える。わたしが与えるの は、世が与えるのとは違う」と、世の安心とは全く違う、主の平安 を約束して下さった。問題の解決が、まだ見えないまっただ中で、 主に委ねて祈って行く時に、主が共におられるから、思い通りでな くても、どうであれ大丈夫だと思えて来る。「不安です。恐れてい ます」とそのまま祈ろう。祈りは、心が主に向く。 目が問題と自分に向いている時には、平安が無い。又、この世のも のに心がある時、焦り、イラ立ち、思い煩いでいっぱいだ。今、不 安だろうか、経済的必要に、対人関係に悩んでいるだろうか。心を 主に向け、ことごとくを打ち明けよう。一つ〃委ねて行く時、問題 はまだあるが、不思議に心が落ち着いて来る。大丈夫だと思えて来 る。 --------------- 主の平安が失われると真に心細い思いがする。自分と問題だけに捕 らわれている事に気づきたい。主に助けを祈ろう。御霊は御言葉を 思い起こさせてくださり、恐れの中でも主の深い平安を受けとる。
2025年02月24日(月) 「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。 わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10
「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。 わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10
大きな難題を前にすると、私たちはどうだろう。恐れ、戸惑い、尻 込みしてしまう。モーセも、ある日突然、主から驚くような事を言 われた。「あなたをパロのもとに遣わすから、イスラエルをエジプ トから救い出せ」と。主からの、突然の思いもよらない召しに、な んで自分がそんな、とんでもない事をしなければならないのか、わ けがわからない。 そんな大それた事が、今の自分に出来るわけがない。まるで絵空事 だ。そして、過去に痛手を負っている。若い王子であった時に、イ スラエルを救い出そうとして、見事に失敗した。何を今さら、能力 も、気力も、体力も、財力も、人脈も何も無い。しかし「わたしは あなたとともにいる。これがしるし」だと。しるしとは保証だ。 こんな確かな揺るぎない保証が与えられている。だが、モーセは、 自分は口下手だと尻込みする。すると主は「わたしがあなたの口と ともにあって、言うべきことを教える」と約束される。だが尚も 「どうか他の人を」と。すると、兄のアロンを口の代わりにすると。 モーセの一つ一つの問題に、次々と答え、主は説得され、モーセは 主の申し出を受け止めて行く。 私たちにも「わたしはあなたとともにいる」、主はこの保証を与え て下さっている。今、困難に会っているだろうか。新しい事を示さ れているだろうか。主が共にいるとの保証のもと「わたしがあなた を遣わすのだ」に立って踏み出そう。 ------------- 主は導きに従う者を豊かに導いてくださる。踏み出してみて知れる 事だ。先はわからず不安だからこそ主の保証に頼れる。一歩一歩、 主の備えておられる恵みと祝福を受け取り進もう。
2025年02月23日(日) 「あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜った良い地について、 あなたの神、主をほめたたえなければならない・・気をつけなさ い・・あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがない ように」申命記8:10
「あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜った良い地について、 あなたの神、主をほめたたえなければならない・・気をつけなさ い・・あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがない ように」申命記8:10
モーセにより、苦難のエジプトを出たイスラエルの民は、主の約束 の地カナンを目指した。そして厳しい荒野での40年を経て、とう とう乳と蜜の流れる地に入った。入ってしまえば、何もかもオーライ で、もう信仰は必要無いのかというと、決してそうではない。良い 地に入って、食べて満ち足りた後も、「主の命令を守って、その道 に歩み、主を恐れよ」と。 主を信じ、主を礼拝し、信仰を持って生きるのは、何かをもらうた めではない。利得のためでなく、それ自体が目的だからだ。例え ば、何が何でも、欲しいものがあれば、どうだろう。喉から手が出る ほど欲しい。命をかけても欲しい、そんなものがあれば、どうだろ う。「わたしに求めよ」「願え」と言われる主に、祈りに祈り、一心 に願い求める。 しかし、与えられなかったなら、どうだろう。どうあっても、自らの 欲望を遂げようとするなら、もし叶えてくれるなら、主以外のもの でもよくなってしまう。偶像でも、サタンでも、もし、それをくれる なら、欲しいとなってしまう。余りにも強烈な欲求があると、道を 誤ってしまう。 目的さえ果たされるなら、手段は何でも良くなってしまう。そこに 高ぶりが生じ、神や信仰が、自らの欲望を叶えるための手段に なる。神をも利用する、恐ろしい事になってしまう。「あなたの神、 主を心に据えなさい」。御霊に助けられて、軌道修正されながら、 主の愛に応答し、主を愛し、従って行けるよう、祈っていよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 良い時も、苦しみの時も、主を心に据えて生きることを覚えさせら れる。もし願いが叶わないなら、そこに主を認め、受け入れる事が 大切だ。高慢から守られる。自分を通して行くと、どこに向かうか わからない。
2025年02月22日(土) 「アサは・・両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、 その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を 求めた」U歴代16:12
「アサは・・両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、 その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を 求めた」U歴代16:12
アサ王は、最初は、主に従順に従った。偶像を捨て去り、主の祭 壇を新たにした。主に従うアサ王の心は、主と一つであった。しか し、アサ王とイスラエルの王バシャとの間で戦闘があり、バシャ王 にラマという土地が奪われた。包囲状態となり、その時に、アサ王 は、アラム王ベン・ハダデに同盟を求めた。 その前に、クシュ人が100万の軍勢と100万の戦車で、攻撃して来 た時は、主に拠り頼み、主により勝利を経験した。それなのに主に 拠り頼まず、財宝を提供してアラム王に頼った。アラム王は町々を 打ち、ラマを打ち取り、ユダ側に要塞を作った。戦いは勝利し、大 成功だった。だが預言者ハナニは「あなたは主に拠り頼まなかっ た・・今から数々の戦いに巻き込まれる」と。 主は、人が間違っている時に、他者を遣わし警告される。表面的 に見れば、大成功に見えたが、主の御心からは、全くはずれてい た。私たちも外面的に、うまく行っているかに見えるが、主の御心 からは、それている事がある。アサ王は重い病気にかかったが、 その時も「主を求めないで、医者を求めた」。結果、死んでしまっ た。的はずれの方向に向かった。 間違いを悔い改めないなら、ますます罪を重ねてしまう。私達も、 危機的状況に際して、主でなく、人を頼るだろうか。又、祈りでは なく、肉の方法に頼っているだろうか。誰しも、危機には目に見え るものにすがりたい弱さがある。今、どうだろう。まず主に向かい、 主に頼もう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 目に見えるものは、非常に大きな影響力がある。主は目に見え ず、人は目に見える。目に見えるものに頼ってしまう、弱さがある。 今、主を求めないで、医者を、別のものを、求めているだろうか。 御霊が、気づかせて下さるように。
2025年02月21日(金) 「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、 わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け」 ヨシュア1:2
「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、 わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け」 ヨシュア1:2
イスラエルの民は、エジプトを出て、40年間、荒野を旅をした。そ れが、とうとう約束の地カナンを目前にする所まで来た。モーセの 死後、主は、新しい指導者ヨシュアを立てられた。そして「今、あ なたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしが ・・与えようとしている地に行け」と命じられた。 「あなたがたが足の裏で踏む所は・・モーセに約束したとおり、あな たがたに与えている」と。主は、その地を民にすでに与えていると 約束されたが、実際に自分のものとするには、「足の裏で踏む」つ まり、具体的な行動が必要だった。彼らは、その土地に進み入り、 戦い、勝ち取って行かねばならなかった。 ただ待つだけで、祈るだけで、もし行動が無ければ、それを所有す ることが出来ない。実際に入って行って、足の裏で踏む必要があっ た。これは、私たちの信仰生活も同様だ。主は、私たちに溢れるば かりの祝福を備えておられる。それを実際に、自分のものとするに は、約束を受け取り、主を信じ、立ち上がって前進しなくてはなら ない。御言葉に従った行動が必要だ。 その時、約束のものを手に入れる事になる。約束は与えられている のに、このところに欠けるために、多くのものを、まだ所有してい ないだろうか。あなたも、主が与えようとしている地に「今、立っ て、行け」と言われているだろうか。祈りの座から立ち上がって、 実際に行動を起こせと。信仰もって歩み出そう。主の約束が現実の ものとされる。 --------------- 主が行動するように導いておられるなら、躊躇わず前進しよう。主 の導きを悟ったなら立ち上がり進もう。その力も主は豊かに備えて いてくださる。主の祝福を受け取ろう。
2025年02月20日(木) 「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て 行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」 ヨハネ8:9
「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て 行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」 ヨハネ8:9
パリサイ人や律法学者たちが、姦淫の場で捕えた女性を引きずり出 した。そしてその女性を利用して、主を罠にかけようとたくらんだ。 愛のかけらもなく、何と冷ややかな事だろう。この場合、律法では 石打ちの刑だが、あなたはどうするのかと。主は黙ったままであっ たが、彼らがしつこく問い続けて止めないので、「あなたがたの内 で、罪の無い者が、最初に石を投げよ」と言われた。 すると一人また一人と、結局、一人も残らず、全員が出て行き、誰 も石を投げる者がいなかった。つまり彼らは、自分の心の内を見た。 そして、何と罪を認めたのだ。内側を照らされ、真実に向き合うチ ャンスだった。自分の姿に正面から向き合う事ができた。又、逃げ る事もできた。しかしその時、彼らは向き合うことを避けて、逃げ たのだった。 主に導かれて、自分の罪を見たのに、向き合おうとしなかった。だ が、女性は逃げなかった。そのままそこにいた。裁きからも逃れよ うとせずに、今からどうなろうと、主のもとにとどまった。彼ら全 員の冷たい見下した裁きの中で、主の愛のまなざしを全身に感じた。 その主の愛に身を委ねた。その時「あなたを罪に定めない」との主 の赦しを受け取った。十字架の赦しだった。 私たちはどうだろう。御霊が罪を照らし出される。その罪を認め、 悔い改める時、赦される。何という恵みだろう。真に救われ、新し い歩みを始める事ができる。目をそらしてしまうなら、闇の中であ って、ますます見えなくなる。罪がわかるなら、御霊の光によるこ とだ。悔い改めて、新しい歩みに入れて頂こう。 --------------- 罪は表に出なければ誰にもわからず、見ないふりも出来るが、御霊 の平安はない。示されているなら悔い改めよう。主の御心の内を歩 みたい。主のあわれみを受け取ろう。
2025年02月19日(水) 「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思い なさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなた がたは知っているからです」ヤコブ1:2
「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思い なさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなた がたは知っているからです」ヤコブ1:2
主は、私たち一人〃に試練を与え、訓練して下さる。私たちの益の ため、霊的成長のためだ。だが訓練として受け取らなければ、痛い だけで何も学べない。逆に、心を屈折させ、反抗しひねくれてしま う。何度も試練を通っても、成長が無い事があり得る。それは自我 が砕かれていない事による。 この自我を取り扱われるために、訓練を与えられる。嫌な相手を目 の前に送られる。相手にも非があったりすると、自分を正当化し、 相手が悪いとしか見えない。相手のせいで自分は苦しいと思い、ま すます憎しみが募る。そして心の中で相手を責めて行く。しかし自 分の心に平安が無い。 その辛さをも、相手が悪いせいと思ってしまう。この状況を去らせ て欲しいと、幾ら祈っても答えが無い。状況も、相手も、自分も、 全く何も変わらない。祈りが聞かれず、状況も変わらず、段々と、 「もしかして、これは自分の問題?」と気づき始める。相手でも、 状況でもなく、自分の内に砕かれない頑ななものがある。強い自我 に気づく。 「私を変えて下さい」の祈りにたどり着く。そして御心にかなった 祈りは聞かれる通り、この祈りは聞かれる。変わらなかった自分自 身が、変えられて行く。苦しかった心に平安が来て、解放される。 成長へと導かれて行く。 ----------- 自分を変えてくださいの祈りができる事は祝福だ。試練の渦中は辛 いばかりだが、主に頼りながら試練を通っていこう。どんな中にあ っても主が最善に導いてくださる。
2025年02月18日(火) 「アブシャロムとイスラエルの民はみな言った。『アルキ人フシャ イのはかりごとは、アヒトフェルのはかりごとよりも良い』」 Uサムエル17:14
「アブシャロムとイスラエルの民はみな言った。『アルキ人フシャ イのはかりごとは、アヒトフェルのはかりごとよりも良い』」 Uサムエル17:14
アヒトフェルはダビデの議官であったが、その彼がダビデの息子ア ブシャロムの謀反に荷担しているとの知らせが来た。その時にダビ デは主に祈った。ダビデが祈ったのは、アヒトフェルが知恵に満ち た助言をするからだった。当時、その助言は、人が神の言葉を伺っ て得る言葉のようであり、ダビデにもそのように思われた。 彼は、アブシャロムが、ダビデのそばめの所に入るなら、父に憎ま れるような事をしていると、従う民は勇気を出すと。それでアブシ ャロムは全イスラエルの前で、父のそばめ達の所に入った。これは、 ダビデのバテシバとの姦淫の罪が赦されたが、厳しい刈り取りであ った。「白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。 あなたは隠れてそれしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽 の前でこの事を行おう」。続けてアヒトフェルは作戦をアブシャロ ムに告げる。今夜ダビデを襲い、王だけを打ち殺し、すべての民を 連れ戻すと。しかしアブシャロムはフシャイの意見も聞いた。フシ ャイはアヒトフェルの作戦に反対し、うまくダビデに良いように計 った。 アブシャロムは、フシャイの作戦を取り入れた。これは神がダビデ の「アヒトフェルの助言を愚かなものに」の祈りの答えだった。 主が彼の優れた謀り事を、打ち壊されたからだ。私たちも窮地に立 つ時、まず祈ろう。祈りには大きな力があり、神は働かれる。 ----------------- ずる賢い人の知恵の前に何ができるだろうと不安になるが、目の前 の情報しか頼るものがない人の力は、神の前には無力だ。心を注ぎ だして、神に祈ろう。
2025年02月17日(月) 「王は言った。『あれは自分の家に引きこもっていなければならな い。私の顔を見ることはならぬ。』それでアブシャロムは家にひき こもり、王の顔を見なかった」Uサムエル14:24
「王は言った。『あれは自分の家に引きこもっていなければならな い。私の顔を見ることはならぬ。』それでアブシャロムは家にひき こもり、王の顔を見なかった」Uサムエル14:24
王の前に出られないアブシャロムは、ヨアブに仲立ちを頼もうと、 二度使いを送るが、ヨアブは動かない。それでアブシャロムはヨア ブの畑に火を放つ。自己中心で、自分の事しか考えられない。ヨア ブはダビデ王に執り成し、ダビデは息子に会った。アブシャロムは ダビデ王の前に出てひれ伏し、王は彼に口づけした。 しかしそれは表面的な和解だけだった。何の解決にもならなかった。 ダビデは、再び迎え入れた息子に、尚も裏切られて行く。息子は巧 妙に狡猾に民に働きかけ、父ダビデに反乱を起こす。しかし結果的 にダビデの軍に破れ、アブシャロムは死ぬ事になる。ダビデは、ア ムノンを殺したアブシャロムを赦せなかった事で、結局二人の息子 を亡くしてしまった。 ダビデは表面上、息子を迎え入れ、赦した形に見える。しかし、し ばしば私たちもそうかも知れない。「主よ。赦して下さい。しかし この心は見逃し、そっとしておいて下さい。このままでいたいので す」自分は赦して欲しいが、恨みと赦せない思いで、赦したくない 心は手放さない。何とも矛盾しているが、肉の姿の現実だ。 息子の心も、ますます歪み頑なになってしまった。罪は、更に罪を 生んで行く。息子と戦えず、泣きながらひたすら逃げたダビデだっ たのだが。しかし主のご計画の中で、悲しみ、痛み、苦しみが、ダ ビデの砕きと訓練とされて、ダビデは造り変えられて行った。主の 愛は変わらず、主の憐れみは尽きることがない。 ----------- 表面ではつくろっていても、心の中にはまだ裁く思いや憎しみが来 るなら、赦せない事を認めて本音で主に向かいたい。心にあるもの は、いつか表に出る。主の前に祈ろう。主が助けてくださる。
2025年02月16日(日) 「王は、先のようなことを語られて、ご自分を罪ある者とされてい ます。王は追放された者を戻しておられません」Uサムエル14:13
「王は、先のようなことを語られて、ご自分を罪ある者とされてい ます。王は追放された者を戻しておられません」Uサムエル14:13
ヨアブは、テコアから知恵のある女を連れて来た。ダビデは、アム ノンの死をいつまでも嘆き悲しみ、アムノンを殺害したアブシャロ ムを追放したままだった。ヨアブはその女を用いて、ダビデに何と かアブシャロムを戻させるよう画策する。女は知恵のある事を言 った。「私たちは必ず死ぬ者」だと。 地面にこぼれた水は、もう決して集めることはできない。元には 戻らない。死んでしまったアムノンは、もう戻っては来ない。しかし アブシャロムは生きている。彼まで失ってもいいのかと。「追放さ れたままにしておかないよう、ご計画をお立て下さい」アブシャロ ムを何とか戻すよう、考えて欲しいと。 女はダビデに言った「あなたさまには、神の使いのような知恵が あり」と。知恵とは、相手を赦すことであり、和解することだ。ダビ デはアブシャロムが戻る事は許すが、「私の顔を見ることはなら ぬ」と決して会おうとしなかった。「二年間、エルサレムに住んで いたが、王には一度も会わなかった」との、アブシャロムの言葉 の通りだ。 この後も、父子の間に、もめ事が起こって行く。子は父に謀反を 起こす。ダビデは、悲しみと苦しみを更に重ねる事になる。赦せ ない心は、害を広げて行く。まず赦せない心を、主に持って行き、 助けて頂こう。「追放されたままに」している、赦せずに放置して いる事態は無いか。主に助けを仰ごう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 赦すことは難しく、人間の力では出来ない。不可能だ。しかし、 人に出来ないことが、主にはできる。御霊によって、赦すことを させて下さる。出来ないと、認めることから祝福は始まる。主 のもとへ行き、助けていただこう。
2025年02月15日(土) 「サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の 御名によってダビデを力づけた」Tサムエル23:16
「サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の 御名によってダビデを力づけた」Tサムエル23:16
ダビデは、戦いに勝利に次ぐ勝利で、女性たちの大きな賞賛を 受けた。サウルは、自分よりも賞賛されるダビデをひどく妬み、 それは憎しみとなり、ダビデ殺害に燃えて執ように狙った。そん な時、ダビデは、ケイラをペリシテの攻撃から救った。サウルは それを耳にし、ケイラに下り、ダビデを封じ込めようとした。 ダビデは、主からケイラの人々が、ダビデを裏切る事を告げられ、 再び荒野へ逃亡する。ダビデが逃げた事を知ると、サウルは討 伐を止めた。サウルは執念深く追い回すが、主が決して、ダビデ をサウルの手に渡されなかった。ダビデは荒野に潜伏し、命を つけ狙われ、いつ殺されるかわからない、まさに絶えず死と隣り 合わせの恐怖だ。 サウルは、全権を持つ一国の王であり、ダビデは僅か600人の 部下を持つだけだ。いざとなれば、サウルは国民全体をも招集 できる。しかしその時、ヨナタンがダビデのもとへ来て、「神の御 名によってダビデを力づけた」。「恐れることはない。父の手が あなたの身に及ぶことはない。あなたこそイスラエルの王となる」 と。主が、ダビデをサウルの手に渡される事はないと。 ヨナタンは状況でなく、主の約束を見ていた。王の息子が、ダビ デに、あなたこそ王で、自分は次に立つ者と言った。普通では あり得ない事で、ヨナタンの信仰だった。「神の御名によって力 づける」とは、自分の思いでなく、主の約束と御心に基づいて力 づけることだ。主の御旨が成就する。どんな危機的状況であって も、主の主権と支配の中だ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 主に不可能は一つもなく、サウルの息子のヨナタンを用いて、 ダビデの命を守られた。主の御心が成し遂げられて行く。状況 でなく、主を見て、主を信じ、安んじていよう。絶えず御言葉の 約束を握り、御言葉に立っていよう。御言葉には力がある。、
2025年02月14日(金) 「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、 御前で聖く、傷のない者にしようとされました」エペソ1:4
「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、 御前で聖く、傷のない者にしようとされました」エペソ1:4
主からの「祝福」というと、どのように連想するだろう。嬉しい事、 喜ばしい事、良い事、ラッキーでハピーな事。例えば、受験合格、 商売繁盛、無病息災、家内安全・・つまり順風満帆、自分の思い通り になる事だろうか。自分の思考の中に、そんな価値観が無いだろう か。だが「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの 道は、あなたがたの道と異なる」と、主が言われる。 それなら、自分の思いとは、かなり異なっているはずだ。私たちに は「自分の思い」という強固なものがある。自分軸で物事を考え、 視点を自分において判断する。だから自分中心だ。しかし事態は神 中心に展開する。だから、自分中心の物差しでは量れず、わからな い。私たちの信仰人生の中で、主を信じ、みこころに従いたいと主 のみこころを求めて歩む。 その時に、もし、自分の願いや思いと異なる状況が来たら、それは 主からの答えかもしれない。又、試練が来たなら、それは答えだ。 試練は良いものだと言われている。それを主からのものと受け止め、 従って行く時に、思いを超えた豊かな「祝福」にあずかる。 人間は自己中心なので、主を幾らでも利用して生きて行く。肉は主 を利用してしまう。時に、自分の思いと主の御思いのずれ、違い、 それこそが実は祝福だ。自分の利得ではない、主の御心に自分を合 わせて、受け入れて行く。そこで少しづつきよめられ、自分中心で なく、神中心に生きる者へと変えられて行く。 ----------- イライラと平安が無くなるとき、思い通りではない状況を知る。な お自分を通そうしていくところから、主の道を求め、御心へと明け 渡したい。神中心に立ち返る時だ。
2025年02月13日(木) 「・・『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と 主は言われる』ローマ12:19
「・・『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と 主は言われる』ローマ12:19
対人関係でどうだろう。陰口を言われ、又、面と向かって攻撃され、 傷つけられたり、裏切られたりするどうだろう。恨み、憎しみがわ くだろうか。肉は、仕返しがしたい、復讐したくなる。むしろ復讐 が正当のように思える。又、言葉で傷つくと、何倍にもして言い返 したいと思う。言い返せば、すっきりする。言わなければ、相手は 図に乗ると思う。 しかしこれは肉から出ていて、言い返すと争いになり、険悪になり、 平安が失せる。やられたらやり返して行くと、これはとどまる所な しだ。だが、主は「自分で復讐するな」と言われる。「神の怒りに 任せよ」と。「復讐はわたしがする」と。この事が信じられず、主 は何もしてくれないと思うので任せておけないと、自分で報復する。 それは、主の前に、自分が立ちはだかり、主のみわざをとどめるこ とになる。主に委ねることで、主の怒りに任せることだ。何もかも ご存じで、完全に正しい方が、正しい裁きをして下さる。主は相手 に、同じような状況を通らせ、同じ痛みを経験させられる。相手は 痛みを知る。又、更に主は言われる。攻撃して来る相手に、愛で立 ち向かえと。 「もしあなたの敵が飢えたら食べさせ、渇いたなら飲ませよ」と。 悪に悪で報いず、親切をもって報いよと。そうするなら、彼の頭に 燃える炭火を積むことになる。愛で返す事によって、相手は良心の かしゃくにさいなまれ、罪を示される。悪に負けるな。善をもって 悪に勝てと。私たちが拠り頼むなら、そうできるよう助けて下さる。 ----------------- 悪に対して祝福を祈ることは本当に難しい。けれど主は、正しく裁 かれる。主を信じ、主にお任せしたい。自分にも非があるかもしれ ない。主の前に立たず主に助けを祈りたい。
2025年02月12日(水) 「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださ いました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷 のくびきを負わせられないようにしなさい」ガラテヤ5:1
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださ いました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷 のくびきを負わせられないようにしなさい」ガラテヤ5:1
アブラハムとサラは、主から子どもを与えるとの、約束を受けてい た。だが長い間、何の兆候も無いため、サラは、奴隷により子ども を得るよう夫に提案した。夫は妻からの提案のため、奴隷ハガルに よりイシマエルを得た。その後に実子イサクが与えられた。すると イシマエルがイサクをからかった。サラはその子を追い出すよう、 夫に迫った。 彼はイシマエルも実子であり、非常に悩んだが、主によりハガルと 子を出すよう示された。奴隷の子どもは、相続人になってはいけな い。自身から生まれて来る者が跡を継がねばならないと。奴隷でな く、子どもが跡を継ぐ。私たちの信仰生活は、どうだろう。決して 奴隷ではない。神の子どもであり、自由の女の子だと。 イシマエルは肉を表わし、奴隷には自由は全く無い。すべてが「ね ばならない」の世界だ。良い行ないによって、天国を勝ち取り、主 の愛顧を勝ち取る。自分の力だ。私たちはどうだろう。聖書を読ま ねばならない、礼拝出席せねばならない、人を愛さねばならない・・ 奴隷であり、強いられた辛い窮屈な信仰生活だろうか。 そうでなく、私たちは約束の子であり、自由、恵みの中に置かれて いる。主の十字架ゆえに、主に愛されて嬉しいから、愛する方の御 声を聞きたくて、聖書を読む。礼拝する。もし、そう出来なかった 時も、主の愛は全く変わらずに、受け入れられ、愛されている。だ からこそ、とんな時も、心からの安心感を持って、主のもとに行け る。 --------------- 自分の内にも来る、ねばならないに気づきたい。主が十字架の死に よって代価を払って自由にしてくださった。その主のご愛を信じる 信仰で義とされている。主のご愛に自由に応答していきたい。
2025年02月11日(火) 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、 あなたがたの道と異なるからだ・・」イザヤ55:8
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、 あなたがたの道と異なるからだ・・」イザヤ55:8
主の御心は、時に自分の願いや期待とは異なり、それも非常に異な ることがある。自分の強い願いである進路を、祈り求めるが、その 切なる願いにかかわらず、目の前で道が閉ざされる。その時は、願 いが断ち切られたようで、辛く悲しい。「なぜ?どうして?」と思 う。しかし、主が下さるのは「良いもの」だ。必ず更に良い道、ふ さわしい道が備えられている。 神の道は、自分の思いとは大きく異なっている。今まで、振り返っ てみてどうだろう。願いが断たれたが、更に良いものを与えられて 来たし、これからも同様だ。又、病気のいやしを求めて祈る時に、 それが御心ならいやして下さり、又、御心なら病気のいやしでなく、 心に平安を与えて下さる。その病の中で、御霊の平安と喜びが与え られ、感謝しつつ生きて行けるようにされる。 身体でなく、心の方に奇跡をして下さる。パウロとシラスは、捕ら えられ投獄された。主は、投獄を免れさせる事もできた。しかし、 むち打ちの上に、更に投獄という苦しい状況の中で、状況を変える のでなく、彼らの心に喜びと平安を与えられた。「パウロとシラス が神に祈りつつ賛美の歌を歌っていた」。その事で、周囲に大きな 証しとなり、看守家族の救いへと導かれた。 私たちの思いと神のみ思いは異なるが、確かな事は、常に最善のも のを与えて下さることだ。そして、神は愛であり、善い方だ。最善 しかされない。主のお心を信じよう。思い通りでない事態を、受け 止めて行けるよう祈ろう。 ----------------- 今、思い通りではないのは、別のものや別の時に神の最善があると いうことだ。落ち込まず続けて信仰を持って祈っていこう。そして 平安の中で最善の神の道を求めて行こう。
2025年02月10日(月) 「御霊がピリポに『近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。』 と言われた」使徒8:29
「御霊がピリポに『近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。』 と言われた」使徒8:29
エチオピア人の高官がいて、女王カンダケに仕えていた。彼は、礼 拝のためエルサレムに上り、今、エチオピアへ戻る途中だった。馬 車の中で、イザヤ書を読んでいた。その時、ピリポに御霊が「近寄 って、あの馬車といっしょに行け」と言われた。そこでピリポは御 霊に従い、馬車に近寄り、並んで走りながら、「あなたは、読んで いることがわかりますか」と声をかけた。 彼は「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と答え、そし て馬車に乗るよう頼んだ。ピリポは、そのイザヤ書からイエスのこ とを彼に伝えた。彼は、書いてある意味はわからなかったが、主を 求めていた。そのためイザヤ書を読んでいた。この出来事を見て、 もし、主を求めるなら、必ず主を知れるようにされると、見せられ る。求めるなら、与えられるのだと。 求める者は受ける。自分ではわからずとも必要な導き、及び、導き 手が与えられる。高官にピリポが備えられていたように、あなたに もふさわしい導き手が備えられている。そして、主を知り、喜びに 満ちる。主は、「求め」を喜ばれる。あなたに「求め」があるなら、 必ず主がわかるようにして下さる。 又、ピリポは、御霊の導きに、従順にすぐに従った。どうしようか と、ぐずぐずしていたなら、高官は去ってしまっていただろう。ピ リポは、主の働きに用いられた。あなたも御霊の導きがあり、ぐず ぐずしているなら、今すぐに従おう。主のみわざのために用いられ る。 ----------------- 主は求める一人を追い求めてくださる。なんと行き届いた慰めだろ う。祈ると不思議によくわかるように導き手を与えられてきた。主 の導きがあるなら、主の働きのために用いられたい。
2025年02月09日(日) 「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由 になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか」使徒 5:4
「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由 になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか」使徒 5:4
アナニヤとサッピラは所有物を売り、使徒たちの足もとに置いた。 しかし、一部を取っておいた。献げるのも、献げないのも自由だっ た。その前にバルナバが畑を売り、代金を献げ、人々に大変賞賛 されるのを見ていた。その賞賛を求めただろうか。しかし、聖い御 霊が力強く働き、皆が心と思いを一つにしていた時だった。主を力 強く証しし、大きな恵みがすべての者の上にあった。 誰一人その持ち物を、自分のものと言わず、すべてを共有にして いた。そこに全部の振りをする偽りが入った。偽りはサタンからの ものだ。ペテロは、その事はサタンに心を奪われ、聖霊を欺いた と言った。人ではなく神を欺いたのだと。アナニヤが息絶えた時、 すべての人に、非常な恐れが生じた。それは、とっさについ嘘をつ いてしまったような類でなく、夫婦で計画的にしたことだった。 罪を悔い改めないまま進むと、いつしか罪に鈍感になってしまう。 そして人の評価、人の目を気にし、人にどう見られるかで行動し、 主の目を意識する事から離れて行く。アナニヤとサッピラは、肉 に従った信仰生活だった。皆が聖霊に満たされ、心から喜びに 溢れて、感謝をもっ献げているのを知らず、主への献げ物を、 自分の賞賛のために使った。 いつも目の前に肉と御霊の二つの選択がある。例えば腹が立つ と、肉はすぐ相手を攻撃しようとし、御霊は「まず祈れ」と言う。選 択だ。この肉を選択し続けると、いつしか霊的に鈍くなってしまう。 目の前の一つ一つそに御霊の方を選択できるよう祈ろう。主は祈りに 答え、助けて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ サタンは絶えず働いていて、主から離そうとし、あらゆる攻撃、 誘惑を持って来る。肉に働いて来る。各人の弱い所に誘惑が 来る。今も気づかないまま、来ているだろうか。目をさまし、見 張はり、気づけるよう、助けを求めて祈っていよう。
2025年02月08日(土) 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。 わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのち です」ヨハネ6:63
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。 わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのち です」ヨハネ6:63
対人関係で心がザラつき、又、辛くなる事があるだろうか。人か らの一言が、ひどく気になり不安になる。又、面と向かって攻撃 され、責められる事があるかも知れない。心暗くなり、落ち込み、 立ち上がれなくなってしまう。よく考えてみて、もし自分サイドに、 落ち度があるなら、悔い改めること、相手に謝ることが必要だ。 しかし幾ら考えても、自分に非が思い当たらず、理不尽なものなら、 御言葉に目を向けよう。心落ち込むのは、自分の中で、人の言 葉が第一になり、最重要になっているからではないだろうか。神 の言葉と人の言葉と、どちらが大切で、重きを置くべきなのだろ う。御言葉でなく、人の言葉に振り回されていた事に気づいたり する。御言葉を受け取り、御言葉を握っていよう。 御言葉を通して、人からの批判や目の前の状況を見る時に、神 視点で、人の言葉や状況を見ることができる。心に平安が無い なら、心が辛く苦しいなら、神の言葉を脇に置き、人の言葉の方 を受け入れていないだろうか。「すべての人は草・・」人からの辛 くなる言葉は草のようだと。草は枯れてしまう。「草は枯れ、花はし ぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」。 今、心が辛かったり苦しかったり、平安が無かったなら、自分の 言葉や人の言葉に目を向けていないだろうか、心探ってみよう。 それらから目を離し、御言葉に目を向けよう。霊であり、いのち である御言葉は私たちを引き上げてくれる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 御言葉は霊であり、いのちだ。そこに御霊が働かれる。人の 言葉で不安や思い煩いに襲われる時、主の言葉で自由にさ れる。主の言葉には大きな力がある。御声に耳をしっかり傾 けて行こう。
2025年02月07日(金) 「さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道である ペリシテ人の国の道には導かれなかった」出エジプト13:17
「さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道である ペリシテ人の国の道には導かれなかった」出エジプト13:17
モーセに導かれた民が、エジプトを出た時に、主は、約束の地カナ ンへ行かせるのに、荒野の道へと導かれた。ペリシテの道が、カナ ンへの近道だったが、そちらへ行かせられなかった。それは「民が 戦いを見て、心が変わりエジプトに引き返すといけない」からで、 そこに主の配慮があった。 長年の奴隷生活で、戦いの訓練も、経験も全く無い民が、戦闘訓練 を受けた敵との戦いなど不可能だ。恐怖で怯えて、引き返してしま うだろう。私たちの思いの中に、近道、早く着ける道が善との価値 観があるだろうか。回り道は面倒だし、又、苦しい道、困難な道は 避けて通りたい。しかし主は、あえて厳しい荒野の、困難な道へと 導かれた。主が、苦しい、延々時間のかかる道を通されるのだ。 主に不可能は一つも無く、今すぐに、願っているものを与えて下さ れば良いのに。長々と時間がかかり、事は動かず、まさに遠回りさ せられていると、感じる状況がある。自分の思いと全く違う道を歩 ませられる。しかしそこを通ってこそ、学べる事柄がある。主に無 駄は一つも無い。忍耐や信仰が培われ、神の愛や慈しみ、真実を経 験する。ゆだねる事を学ばせられる。そこを通らずしてあり得ない。 そしてその通り道には、雲の柱火の柱が伴い、進べき道が絶えず示 される。決して道を見失う事はない。荒野での灼熱の太陽から雲の 柱で守られ、夜の暗闇を火の柱が照らした。それは、道中決して 「民の前から離れなかった」。今、荒野にいるなら、主を仰ぎ、従 って行こう。片時も離れず共におられ、導いて下さる。 ----------------- 明日のことを知ることはできなくても、主に委ねて歩める。 何という慰めだろう。目には見えなくても主の鉄壁の守りがある のだから。思い煩いを主に渡しながら、信仰をもって歩もう。
2025年02月06日(木) 「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサ レムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」ルカ9:51
「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサ レムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」ルカ9:51
主が、エルサレムに向かおうと、御顔をまっすぐに向けられた。 「まっすぐに」つまり、十字架への決意を固め、定められた。サマ リヤを通過するので、宿のために、使いを先に遣わし、準備させら れた。しかしサマリヤでは、主を受け入れず、協力もしなかった。 その時、弟子たちが「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼ら を焼き滅ぼしましょうか」と言った。 敵対する者たちは、裁かれてしかるべきだと。当然のことだと。し かし、主は、彼らを戒められた。人の思いと、神の思いには大きな へだたりがある。弟子たちは、主と自分たちが軽んじられたことに、 腹を立てた。プライドが傷ついたためだ。しかし主が、エルサレム へ向かわれるのは、多くの苦しみを受け、十字架にかかるためだ。 神のあり方を捨てられ、ご自分を無にし、自分を卑しくし、すべて の罪を身に引き受け、あがないを成し遂げるためだった。主は、御 父に徹底して従われた。しかし、弟子たちには、全く通じず、理解 できず、その少し前には、この中で誰が一番偉いかと議論していた。 何と、かけ離れた、方向違いだろう。 主は、一番小さな者が一番偉いのだと諭された。主が、まっすぐに 御顔をエルサレムに向けられたように、私たちの進む道も、十字架 の道だ。自分の思いを遂げるのでなく、自分の肉の思いを捨てて、 主の御心に歩む道だ。しかしその時、主とひとつで、それは平安の 道であり、主に喜ばれる道だ。 ----------------- 自分を低く、無にすることは難しい。自分が軽んじられないように と意識し、またそのような祈りをしてしまう。決して低くなれない 事を認めて、主に従いたいと祈りたい。
2025年02月05日(水) 「あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられるよう に、私を生かしてください」詩篇119:156
「あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられるよう に、私を生かしてください」詩篇119:156
ある人が、負の現状が、良くなるようにと、切に祈り続けていた。 尚も祈り続けるが、その願いは答えられない。その後、様々な出来 事が起きて、このマイナス状況は変わらないのだと、確信になって 行った。その時に、自分のとらえ方が変化している事に気づいた。 この状況は悪いものではなく、主が自分のために備えられた最善な のでは、と受け取れた。 すると、苦しくてたまらなかった心が、落ち着いて、平安にされた。 気持ちが楽になって驚いた。自分が思う、自分が決めた歩みでなく、 主が、決められたように生きることが、こんなにも安らかで、心落 ち着くものだとは、本当に驚きであった。この変化も、必死に祈っ た祈りに、答えて下さったと感謝した。 振り返って、自分は自分の思いが強く、自分の願望が中心になって いた事に気づかされた。自分の願望が叶う事が、平安で喜びなのだ と、思い込んでいた。だからそうならない時に、心は不満や怒り、 又、思い煩いでいっぱいになった。そうでなく、自分の思いを明け 渡して、主の導きに従うところに真の平安と喜びがあることを、体 験させられた。 主も、十字架を前にした時に、祈りの中で「できますならば、この 杯を去らせて下さい。しかし、わたしの願うようにではなく、あな たのみこころのように」と思いを告げられた。私たちは、自分の力 では委ねる事もできない。祈るからこそ、その祈りが答えられ、自 分の思いを、自分自身を委ねて行くことができる。自分で不可能だ からこそ、祈りが備えられている。 ----------------- 強い思いがあるとその一進一退が気になり常に不安だ。主に思いを 委ね、御心を待ち望みたい。想像をはるかに超える主の祝福が備え られている。平安を受け取ろう。
2025年02月04日(火) 「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて 行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽く されてしまおう」創世記19:15
「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて 行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽く されてしまおう」創世記19:15
主が、ソドムを「彼らの罪はきわめて重い」と言われ、争い、不道 徳、堕落、ひどい罪深さのために滅ぼされようとされていた。だが アブラハムのロトのための執り成しにより、主は二人の御使いを送 られた。家族を連れ出せと。一刻を争う、限界状況だった。ロトは 娘婿に伝えるが、彼らは「はあ?罪?滅び?」、冗談、戯れ事にし か思えなかった。 ロトの普段の生活や価値観を見ていた。神と世と二股かけて、世を 愛し、世の名誉、地位を求めて生きる人物に、突然、神の裁き、滅 びと言われても「何の冗談」と。何とロト自身ですら、滅びが迫る 中、逃げる事を「ためらった」。所有物への強い執着、未練で、財 産、名誉、地位、世のものを放したくなかっただろうか。 御使いが、もう間に合わないと、彼と彼の妻、二人の娘の手をつか んで連れ出した。「命がけで逃げよ。後ろを振り返るな」と言われ たのに、ロトの妻は途上で、世への執着で、後ろを振り返った。す ると塩の柱になった。その後、二人の娘は父親と近親相姦を犯した。 ソドムの堕落した罪の影響を、娘たちも受けていた。 ロトは最初ソドムの「近くに」住み、次にソドムの町に「入り込 み」、 住人になり、次に「町の名士」になった。世に少しづつ〃引き込ま れて行った。結局、家族をも救えなかった。私たちにも世のものを 手放せない「ためらい」があるだろうか。又、自分は大丈夫と、世 に近づくだろうか。知らず〃影響を受けてしまう。御霊に導いて頂 こう。 ----------------- 誘惑は戦うのではなく、避けて逃げることだとロトから学べる。誘 惑には本当に無力だ。うかつに近づかず避けたい。御霊の導きに敏 感になり祈っていよう。
2025年02月03日(月) 「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」詩篇103:2
「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」詩篇103:2
私たちはどうだろう。心配性だろうか。「ああで、こうで、ああで もない、こうでもない」と思い煩うだろうか。過去をいつまでもく よくよし、先を心配し、あの悩みの対人関係、この出来事の思い煩 いでいっぱいだろうか。そんな状態を変えるには、どうすればよい のだろう。 方法は3つで「状況を変える」「人を変える」「自分を変える」だ。 状況は変わらないし、人を変える事など不可能だ、しかし自分を変 える事なら可能だ。どのように自分を変えるのだろう。「わがたま しいよ。主をほめたたえよ」と、主が良くして下さった事を思い出 す事だと。思い出し続ける時、主に向き、信仰が引き上げられる。 主がして下さった事を感謝し続ける時、自分は変えられて行く。 私たちに主の好意を受ける資格があるから、良くして下さるのでは ない。何の資格も無い者に、良くして下さっている。無代価で罪が 赦され、その罪を永遠に忘れて下さるゆえだ。決して当然ではなく 驚くべき恵みであり、どんなに感謝な事だろう。「あなたのすべて の咎を赦し」、過失も失敗も赦し、益とし祝福に変えて下さる、そ の主の愛を信じて生きる時、心に安堵と喜びが湧く。 私たちは、その主の愛によって、変えられて行く。「失ったもので なく、今、与えられているものを数えよう」無いものを数え、思い 煩っているだろうか。あれが無い、これも無い、過去の失敗にくよ くよしているだろうか。今、有るものに、与えられているものに目 を留め、感謝を献げよう。感謝する時、主に目が向いているので、 信仰に立てて、自分の見方が変えられて行く。 ----------------- 肉の感情はいつも否定的だ。けれど主が今までにしてくださった事 はどうだろう。その時、その時にふさわしい解決が与えられて来た。 信仰に立って、主の恵みの中にしっかりと立っていよう。
2025年02月02日(日) 「・・御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」 Tヨハネ1:7
「・・御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」 Tヨハネ1:7
草抜きをする時にどうだろう。根っこから抜けばよいのだが、なか なか大変だ。そのため浅く抜いて、何とかきれいにしようとすると、 又、すぐに草がはびこる。根があるからだ。霊的生活も同様だ。 根がある限り、悪い実がなり続ける。根は隠れていて、表からは 見えない。心に潜む様々なものはどうだろう。「苦い根が芽を出し て悩ましたり・・」とあるように、憎しみ、妬み、赦せない思い、裁く 思い、悔い改めていない罪だ。 その苦い根があると、その根から悪い実が結実する。表面を信 仰者らしく、整えようとするのだが、いつも同じ問題で、つまずい ているだろうか。まず、その事を主のもとに持って行き、根っこの 部分を、御霊に探っていただこう。ある人が、自分も相手を傷つけ、 相手からも傷つけられた対人関係を、根っこに持っていた。 恨んでいて、赦せない思いがある。平安が無く、心は辛い。この苦 い根を主の御前に出て、ことごとく打ち明け、祈った。その時に照ら された。相手を幾らでも責めるが、自分の側の非は言い訳し、正 当化している事に気づかされた。アダムやエバのように、こうなっ たのは相手のせい、相手が悪いと。心の底では、自分は悪いと 思っていない。 この自分の姿を認めて、心から悔い改めた。「もし、私たちが自分 の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、 すべての悪から私たちをきよめてくださいます」。その時、心に安 堵が来た。そして光に照らされ、自分の醜さを認めた時に、不思議 に相手の弱さを赦すことができた。御霊の働きであった。心に苦み がある時は、まず主のもとへ行こう。ありのままの心を告げよう。 主が取り扱い、導いて行って下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 何か心に平安が無い時、心が重い時、時間を取って主と交わろう。 自分では全くわからない場合もあるし、うすうす気づいている場合 もある。何か苦みがあるかもしれない。思い煩いかも知れない、御霊 は導いて下さる。常に平安の道筋へと、手を取り導いて下さる。
2025年02月01日(土) 「しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた」 ルカ5:16
「しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた」 ルカ5:16
主は、よく御父に祈っておられたが、私たちも祈りと聖書を 読むこと、デボーションの大切さを繰り返し教えられるのだが、 なかなか難しいと感じる。悩んでしまうだろうか。聖書を読もう、 祈ろうとは思うのだが、時間が無い。又、気分が乗らずに、他 の事をしてしまい、ぐずぐすして先延ばしにする。 朝の時間は追い立てられるように、「あっ」という間に過ぎる。 バタバタと大急ぎで朝の支度をし、職場へ、学校へ飛び出す。 主婦は、聖書を読もうと思うが、まずは、朝のの食卓を片づけて からと思う。すると、ついでに掃除機をかけて、その間に洗濯機 も回し・・すると次々となすべき事の思いが来る。洗い上がった 洗濯物を干さねば、すると友人から電話がかかり・・、 昼食に買い物に、気がつくと、もう夕飯の時刻だ。夜は、テレビ を観て、ああ、今日も聖書を読む時間が無かった・・。「ベスト」の 一番の敵は「ベター」だと言われる。次善のものに忙殺される。 そして気づく。自分の心の内にも、頑なな固い石がある。デボー ションを持てないのでなく、持とうとしない自分がいる。自我だ。 ある人が、ハードな仕事に追われる日々、時間が無いから、静ま る時間が持てないと思っていた。ああ時間が欲しいと。そんなあ る日、突然の休暇が来た。しかし大喜びで行楽に出て行き、全く 主との交わりを持たなかった。その時、時間の問題などでなく、 自分の問題だと気づかされた。 頑なな自分を認めて、悔い改め、御前に出たその時に、幸いな 交わりが上から与えられた。常にサタンは、主の交わりを強く妨 害して来る事を覚えよう。助けを求めよう。 ・・・・・・・・・・・・・・ サタンは祈りと御言葉が恐い。祈りなしに、幾ら動き回り、労さ れても平気だ。祈りを奪い取ろうとする。しかし主はすでにサタン に勝利して下さった。サタンからの重いが来る時、それを主への 対話として行こう。祈りとなる。