2025年04月30日(水) 「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」 詩篇23:2
「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」 詩篇23:2
前節に「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」とある。別訳で、 「わたしには何も欠けることがない」「必要なものはみな与えて さる」と。そして、主は、誰かの羊飼いでなく、「私の」羊飼いと。 人生で、欠けること自体は、幾らでも経験して行く。様々、欠けて 行く。年齢と共に確実に体力は欠けて行く。経済的困難でお金に欠 ける。親を見送る。リストラや倒産で職に欠ける。 欠けるものに目を留めていると、あれこれと欠ける。しかしダビデ は現状でなく、主に目を上げた。羊飼いである主、羊である自分。 羊飼いが自分と常に共におられる。小さな子どもは、いかに厳しい 環境の中も、親がいれば十分だ。そこは平安で幸せの場所だ。私た ちもどんな時にも、羊飼いである主が共におられる。 その主が、私たちを平安に休息できる場所に、渇きが潤され心満た される所へと導いて下さる。そんな羊飼いが飛んで、現状を見、飲 み込まれて、あたふたしているだろうか。ダビデは無いものを数え たのでなく、今、与えられているものに感謝した。今、現在すべて の必要は与えられている。明日の心配は無用で、明日は、明日の必 要を与えて下さる。 羊は近視眼ですぐ迷子になる。しかし羊飼いが進路を導き、軌道修 正し、正しい道へと導く。羊飼いがいる限り、私たちは決して道に 迷うことはない。ところが、私たち自身が羊飼いになってしまう。 すべての重荷が自分の肩にかかり、不安、思い煩いで身動き取れな い。絶えず羊飼いに目を向けよう。何と安心なことだろう。 -------------- 欠けていくものは目につき、備えられてる恵みは見えにくい。何を 見ているだろう。主なる羊飼いに守られていて、何処へ行っても恵 みは追ってくる。主を仰いでいこう。
2025年04月29日(火) 「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負いめの ある人たちを赦しました」マタイ6:12
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負いめの ある人たちを赦しました」マタイ6:12
人を赦すことは、非常に難しい。なかなか出来ない。自分を傷つけ た相手をどうしても赦せない。だが、ある人が「相手を赦さないな ら、その相手に何かを求め続けているのであり、その人に永久に縛 られて、コントロールされる事になる」と言った。赦さない事は、 結局は相手に求めている事になる。 生涯、その相手に自分の人生をコントロールされる事だ。相手を憎 むなら、憎しみの奴隷となり、結局、相手に拘束され続ける。それ も四六時中だ。どんなに楽しい時にも、恨みの思いが、ふっと来て、 暗い影がよぎる。苦しいのは、どこまでも相手でなく、自分だ。憎 しみは、心が、どんなに辛く苦しい事だろう。一人相撲であり、真 っ暗闇の中だ。 「赦しなさい」は、自分を解放する事になる。牢獄から出て、自由 にされる。赦さない心は、自分をがんじがらめにする。ある人が、 他人にコントロールされる人生は耐えられず、心底自由にされたい と願い、赦す決心をした。御前に祈り、意志で、赦しを選択した。 今、赦せない相手、傷つけられた相手・・具体的に名を挙げ「赦しま す」と祈った。その時「赦しなさい。そうすれば、自分も赦されま す」を、身をもって経験した。 人を赦す事により、自分が、主から全く赦されている事、深く慈し まれ、愛されている事を、御霊によって知れた。大きな平安に包ま れた。人を赦すからこそ、自分が赦されている事を知る瞬間だった。 人を決して赦さないなら、自分が赦されている事を、どうして知る だろう。赦せるよう、祈ろう。主が、働かれみわざをして下さる。 まず祈りから始まる。 --------------- 傷つけられた過去は忘れられず、何度も思い出すが、捕らわれてい る事に気づきたい。ありのままを主に告げ、主に助けを求めよう。 自分がどれだけの赦しを既にうけているかを知っていきたい。
2025年04月28日(月) 「ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして・・ヨハネの 兄弟ヤコブを剣で殺した。それがユダヤ人の気に入ったのを見て、 次にはペテロをも捕らえにかかった」使徒12:1
「ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして・・ヨハネの 兄弟ヤコブを剣で殺した。それがユダヤ人の気に入ったのを見て、 次にはペテロをも捕らえにかかった」使徒12:1
ヘロデ王がヤコブを殺害した。するとユダヤ人に気に入られたのを 見て、次はペテロ殺害に向かった。ペテロを捕らえ、投獄し、処刑 しようとした。しかしペテロは、主の御使いにより、奇跡をもって 牢から救出された。「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けてい た」とあり、教会ではヤコブの時も、ペテロの時も同じく必死に祈 られた。 その結果ヤコブは処刑され、ペテロは救出された。「なぜ?」と思 う。しかしこれは、ヤコブとペテロ、各々に対する、主のご計画で あり、召しだ。ヤコブは殉教により、神の栄光を現わし、ペテロは 更なる宣教の任務により神の栄光を現わす事となる。ヘブル11章に も「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、強くされ、 戦いの戦士となり、陣営を陥れた」ある人々は、驚くべき奇跡によ り進軍して行った。 そして同時に、ある人々は「牢に入れられ、石で打たれ、のこぎり で引かれ、剣で切り殺され、乏しくなり、苦しめられ」と殉教して 行った。結果は大きく異なるように見えるが、どちらもが「信仰に よって」歩んだ。私たち一人〃も、神から与えられたご計画が全く 違う。それぞれ全く別々の使命、召しがある。 「あなたは、わたしに従いなさい」のように、隣の人は関係無く、 「わたしに」、主を見て、主に従おう。自分に与えられた人生、自 らに備えられた御心を歩む事が、私たちの最大の喜び、平安であり、 主の栄光が現われて行く。 --------------- 生まれた場所も与えられた環境もそれぞれに違う。人を見て羨まし いと思えても、やはり自分に注がれる主のご愛と恵みをしっかりと 感謝していたい。主を見上げて従いたい。
2025年04月27日(日) 「しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、 私の隣人とは、だれのことですか』」ルカ10:29
「しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、 私の隣人とは、だれのことですか』」ルカ10:29
当時ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係にあった。その敵のサマ リヤ人が、傷を負い倒れたユダヤ人を助けた。その彼の動機は 「同情」であり、それ以外の何の下心も無かった。あわれみとは、 かわいそうに思う心プラス行動だ。単に感傷的な同情でなく、そ こに行ないが伴う。彼は、目の前で痛み苦しみ、助けを必要とす る人に自分に出来る事をした。 関わりたくないと逃げずに、「近寄って」ぶどう酒は消毒用に、 オリーブ油は薬として、惜しげもなく使った。愛するとは、近寄るこ とだ。自分の家畜を使い、自らの予定を変更し、宿に同行し、更 に一泊し、親身に介護の上、費用も全額負担した。もう至れり尽 くせりだ。愛するとは、犠牲を払う事だ。自らの労力、時間、金銭 を突如の必要のために、彼は惜しまずに献げた。 犠牲を払わずして愛する事は出来ない。そしてその後、彼はきち んと自分の仕事をするために出かけた。自分の仕事を済ませ、再 び戻り、お世話をした。自分の責任を放って、人の世話するので はない。又、自分の家族を顧みず、他人の世話にかけずり回る のは間違っている。自分の責任は果たすべきで、尚且つ、助け を必要とする人に、自分に出来る事をして行くことだ。 御霊がなすべき事を教えて下さる。御霊の示しがあれば「近寄 って」従おう。祭司とレビ人は関わりたくなくて、避けて逃げた。 自らの何かを献げて、仕える事を、今、示されているなら従おう。 できるように祈ろう。それが主が喜ばれる、隣人になるという事だ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 主は混乱の神でなく、秩序の神だ。いつも秩序をもって、自分に できる事を与えて下さる。人に与えるための時間、労力、金銭を、 主が与えて下さる。御霊の示しがあれば、一つ一つ従おう。自分 自身も恵まれ、喜び平安を経験して行く。
2025年04月26日(土) 「イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、 マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを 食べた」出エジプト16:35
「イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、 マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを 食べた」出エジプト16:35
イスラエルは、モーセに導かれ、出エジプト時に、目の前 で紅海が分かれるという、主の偉大な奇跡を見た。後に も先にも無い、驚くべき輝かしい奇跡だ。民は大歓声で、ど んなに喜びの叫びだったろう。しかしそれも束の間、荒野に 入った途端、水が無い、食べ物が無いと、不平不満噴出 で、モーセに食ってかかる。 さっき主の全能の力を見たばかりで、その主が共におられ るのだ。信じておれば良いだろうと思うが、しかし民の姿は 自分の姿だろうか。自分に都合良く、順調に行っている間 だけの感謝で、ちょっと状況が厳しくなると、不平不満、愚 痴、恨み事が出て来る。感謝も恵みも吹っ飛んで、更には 主をも責め始める。 その後は、「どうして荒野になど連れて来たのか」「飢え死に させるためか」「エジプトにいた方が良かった」「エジプトに帰 ろう」とまで言い出す始末だ。何が問題なのだろう。常に自 分を中心に、物事を見ていて、自分軸で世界が回っている ので、「自分の思い」「自分の感情」が第一になる。そして 「自分の損得」で動く。厳しい状況になった時に、主はどう思 われてるのか、主のお心は、御言葉は何と言うか。 ここが大事だ。「自分は」〜でなく、「主は」〜に、主語を置き 換えて、神視点に立つ時、見方が変わる。主を仰ぐ事で心が 落ち着き、我に返る。主は善い方で、愛して下さっていて、最 善をして下さることに目が向き、信仰を働かせて行ける。主は 荒野の間、毎日マナを降らせ、うずらを与えて下さった。今、 自分軸になっていないだろうか。主の言葉に目を向けよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ つぶやきや不満で、いっぱいになる時、肉の、生まれつきの 自分にいる。自分軸になる途端、主を見失う。主に目を転じ る時、我に返る。御霊の助けのもと、御言葉は大きな力が ある。御言葉を思い起こそう。
2025年04月25日(金) 「パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道である ペリシテ人の国の道には導かれなかった」出エジプト13:17
「パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道である ペリシテ人の国の道には導かれなかった」出エジプト13:17
主は、民をエジプトから導き出された。その時に、約束の地カナン へ向かうのに、近道であるペリシテ人の国の道ではなく、「荒野の 道」へ向かわせられた。「民が戦いを見て、心が変わりエジプトに 引き返すといけない」との、主の配慮であった。近道なら、即、ペ リシテ人との戦闘になる。長年の奴隷生活で、戦闘訓練も、戦いの 経験も何も無い、その民が、敵との戦いなど恐怖で、おじけずいて、 引き返してしまうだろう。 私たちの思いの中に、平らな道、困難の無い道を好み、近道、早い 到達、順調が善との思いがないだろうか。苦しみや困難な事はでき たら避けたい。だが、主は近道ではなく、あえて荒野の、困難な道 を通された。主が苦しい道を通されるのだ。私たちも、時に思う。 主に不可能はなく、今すぐに、願いを一気に叶えて下さればいいの に。 延々と時間がかかり、まさに遠回りだと感じる、自分の思いと全く 違う道を歩ませられる。しかしそこを通ってこそ、忍耐や信仰が培 われ、主の愛や慈しみ、真実を身をもって経験する。委ねる事を学 ばせられる。そこを通らずして、あり得ない。そしてその通り道に は、雲の柱火の柱が常に伴い、進べき道が示される。 灼熱の荒野を、雲の柱で守られ、夜の暗闇を火の柱が照らした。 それは、道中「民の前から離れなかった」。今、荒野を通らせられ ているだろうか。主を信じ主に従って歩もう。そう出来るよう祈ろ う。雲の柱、火の柱で、片時も離れず、行くべき道に守りつつ導い て下さっている。 --------------- なぜ遠回りや時がかかるのか、祈りを重ねる度に思うが、待つこと も従う事も、信仰が必要だ。片時も離れない主が守ってくださる。 無駄はないと信じて歩もう。
2025年04月24日(木) 「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子 たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった」 ヨハネ21:1
「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子 たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった」 ヨハネ21:1
ペテロと弟子たちは、主が捕らえられた時に、主を裏切り、否み、 逃げてしまった。その後、主の指示で、ガリラヤに戻った彼らの 心は、どんなものだったろう。死んでも従うとのペテロの自信は、 こっぱみじんに砕け散った。空虚で、何のなすすべもなく、一度 捨てた漁師の網を、もう一度取り、漁をする。 他の弟子たちも従う。しかし何もとれない。心は深い無力感、痛 み、後悔、落胆、虚無、挫折感だったろうか。夜明け頃、岸辺の 見知らぬ人が「子どもたちよ。食べる物がありませんね」と叫ん だ。声の主は、不明なまま、「はい、ありません」と、ありのま まを答えた。すると直ちに「舟の右側に網をおろしなさい。そう すればとれます」との声。 その声の言う通りに網を下ろした。すると、何と驚くべき大漁だ った。以前にあった全く同じ光景を思い出したヨハネは、瞬間、 「主です!」と叫んだ。ペテロは、主のもとに行きたい一心で、 湖に飛び込んだ。岸に上がると、そこに主がおられ、魚とパンの 朝食が用意されていた。なぜ、裏切ったのか」と、一言も言われ ず、叱りも、責めもされない。 ペテロの3回の裏切りは、「わたしを愛しますか」の3回の問い により、深い傷がおおわれ、癒されて行った。そして「羊を飼い なさい」と、牧会の働きを委ねられた。「神の御心に添った悲し みは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせる」。罪は赦 され、信仰を回復させて下さる。弟子たちへの深い慈しみとご愛 は、私たち一人一人へも同じように向けられている。 --------------- 問題に出会うたびに、醜く不信仰な自分の姿を知ってしまう。そ れでもさらに強く主に結びつけられるのは、主の深い愛と赦しの ゆえだ。主のあわれみは尽きない。
2025年04月23日(水) 「いのちを与えるのは御霊です・・わたしがあなたがたに話したことば は、霊であり、またいのちです」ヨハネ6:63
「いのちを与えるのは御霊です・・わたしがあなたがたに話したことば は、霊であり、またいのちです」ヨハネ6:63
ある人が非常に苦しい試練の中にいた。気持ちは、暗く辛いばかり で、どうする事もできなかった。何も考えられず、暗い穴にいるよう だった。祈る事も、聖書を読む事もできなかった。そんな真っ暗な日 が経過する中、ふと机の上の友人知人の手紙やカードに目が留まっ た。もらっていたのだが、全く読めないでいた。不思議だったが、手 が伸びた。 背後の、切なる執り成しのゆえだった。色々な人が励ましてくれてい た。苦しい中も、有難いと思えた。その中に、二人から詩篇の同じ言 葉があり、目に留まった。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せ よ。主が成し遂げてくださる」。御言葉を眺めていたのだが、不思議 に、これは主が、自分に語りかけている言葉だと思えた。 そこから主を仰ぐ事ができ、御言葉により、立ち上がって行けた。別 の人も、大きな厳しい問題が起きて、うつ症状にまでなってしまっ た。休息が必要で、何もできず、仕事からも退いていた。やはり祈る 事も聖書を読む事もできないでいた。気力が無かった。心身を休めて いた。かなり日を経た時に、少しづつ回復のきざしが見えて来た。手 にも取れなかった聖書が、手に取れて、ぼんやり見ていた。 するとその中から、この事が益とされる事、この事を通して、主の栄 光が現されるという御言葉が、心に響いて来た。光が射し込むようだ った。その時、立ち上がる事ができた。やはり、背後に家族や周囲の 祈りが積まれていた。御言葉は霊であり、いのちであり、力だ。真に 生きる力が与えてくれる。 --------------- いつも読んで知っていた御言葉が、試練の中でいのちをもって立ち上 がって来るとき、主が語ってくださっている事に喜びと力が生まれ る。御言葉は霊であり、いのちであり、力を経験として知る。
2025年04月22日(火) 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて くださる」詩篇37:5
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて くださる」詩篇37:5
信仰生活で問題が起きる時に、いつも学ぶように、委ねる事が大切 なのだとわかる。頭では、よくわかるのだが、なかなか委ねられな い。そこが問題だ。「ゆだねる」とは、石を転がすという事で、主 の上に重荷を転がしてしまう事だ。主にきっぱり渡してしまう。す ると、どんなに平安だろう。委ねたつもりが、実は、しっかり握っ たままだったりする。強い自我が放さない。 そんな時、自分では、もうどうにも出来ない。それをあるがまま祈 ろう。「委ねられないから、助けて下さい」と。助けを求める祈り に答えて、御霊が、手を取り導いて下さる。主は、別の箇所で「何 も思い煩わず」と言われ、「何も」「すべて」「いっさい」思い煩 わなくていいと。あなたの目の前の、その問題も含まれる。いっさ い思い煩うなと。その悩みをことごとく祈れと。 祈りにより、主のもとへ持って行けと。その事も、そのままを祈れ ばよい。「思い煩うなと言われるが、無理です」「どうしてもでき ません」その正直な祈りを、主は喜んで下さる。自我は問題を決し て手放さない。自分が放すと、事態がだめになってしまうと思う。 何もかもが崩壊してしまうと。自分がコントロールしていたい。 しかし、人に出来ない事が、主には出来る。そんな事も、正直にあ りのままを祈ろう。出来ない事を認めて、主を仰ぐ時、不思議だが 主の御力により、委ねることができるようにして下さる。そして主 の平安へと導いて下さる。 --------------- 祈りながらも問題を手放せないで、長く不安が続くときは、ありの ままの状態を主に告げたい。祈り中でも主が導いてくださる。主の 最善を信じて、主に重荷を渡そう。
2025年04月21日(月) 「・・あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、 食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」Tペテロ5:8
「・・あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、 食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」Tペテロ5:8
ある人が仕事に関し、御心を示され、確信与えられ、職に就いた。 ずっと導かれていた仕事に、行き詰まったのだ。その時に苦しか ったのは、仕事は御心では無く、自分が御心を間違ったのでは。 主のみ思いからそれていて、こうなっているのでは。滅入ってた まらず、主のもとへ行き、思いをことごとく告げた。 祈って、申命記8章を読んでいた時に「主があなたに富を築き上 げる力を与えられるのは・・」「この私の力、私の手の力が富を築 き上げたのだと、言わないように」「主を心に据えなさい」と。 確かに今まで、自分の力でなく、主が導いて下さったこと、主が 築き上げて下さったこと、その確信が来て、心平安にされた。 そして、この疑い、悶々は、サタンの攻撃だと気づいた。行き詰 まりを、試練として受け止める事を示された。ある人は、対人関 係で、何か自分に冷ややかだと感じる相手がいた。嫌われている のか、何か気に障る事をしたのか、気になって仕方がなく、心が 暗く、重くなっていた。とにかく祈ろうと、そのまま祈った時に、 主に信頼するよう示されて、この事を主に委ねた。 すると何だか気持ちが軽くなって、楽になった。翌日社員食堂で、 その相手の隣が空席で、そこに座るよう導きを感じた。祈ってい たので、そう出来た。何と話が弾み、趣味が同じである事がわか り、又、今度一緒にとなった。そして、相手は悪い思いは何も持 っておらず、サタンの攻撃だと気づかされた。疑心暗鬼にさせ、 落ち込ませる悪魔を、よく警戒していよう。今も、攻撃が来てい るだろうか。 ------------ イライラすると、イラつかされると相手を心で責めていく。サタ ンの煽りに気づくためにも、いったん祈ろう。主の御心ではない なら悔い改められる。苦い思いを自分のものにせず、主に渡そう。
2025年04月20日(日) 「ヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保 護を加えていたからである・・ヘロデはヨハネの教えを聞くと き、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」マルコ6:20
「ヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保 護を加えていたからである・・ヘロデはヨハネの教えを聞くと き、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」マルコ6:20
ヘロデ王と兄嫁ヘロデヤの結婚は不法であり、ヨハネはその 事を糾弾していた。そんな彼を恐れつつも、ヘロデは教えを聞 いていた。その中、ヘロデヤの娘が踊った時に「何でも欲しい 物を与えよう」と誓った。娘は母親に言われ「ヨハネの首を」と 願った。王は非常に心を痛めたが、誓いと人々の手前、体面 のためにヨハネを殺害した。 ヘロデは、神の言葉を喜んで聞くだけで、御言葉に向き合い、 悔い改める事は無かった。神に従い、自分を変えて方向変換 する事をしなかった。ヘロデは最高権力を持ち、心痛むなら、 娘の願いを退けられた。その立場にいた。しかし言われるが ままに従った。ヘロデは、神を恐れず、人を恐れた。 めんつを取り繕うことが最優先であった。そのために大きな 過ちを犯してしまった。私たちはどうだろう。自分が思う以上 に、人の目を気にし、縛られているものだ。人への恐れのゆ えに、事を誤ってしまう。そうであれば、神の言葉を喜んで聞 いていながら、御言葉には従わない事になる。人への恐れ は、古い性質に根深く培われている。 人にどう思われるかが、気になって仕方が無い。まず気づき から始まる。絶えず御霊の気づきが、与えられるよう祈り、無 い振りせず、認めて行こう。御言葉を喜んで聞いていても、従 わないなら、実を結ぶことがない。実を結ぶ生涯とされるため に、今、目の前に示されている一歩を踏み出せるよう、祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 御言葉を喜んで聞くが、聞くだけで行なわないなら、自分を 欺いていると言っている。聞くだけで終わると、欺瞞に気づ かなくなってしまう。祈って、御霊の助けを受け、一つ一つと 示しに従って行こう。
2025年04月20日(日) 「私は、神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った。まことに、 あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とさ れます」詩篇73:17
「私は、神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った。まことに、 あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とさ れます」詩篇73:17
詩篇記者は、悪者が富を増し、安らかであり、栄えるのを見て 落ち込んだ。「なぜ?悪者が?」彼らは楽しげで、安泰で、豊 かで、何の苦しみのなさそうだ。それなのに、主を信じる自分 は苦しみばかりで、辛くて、惨めで、何の良い事もない。この 足はたわみそうで、歩みは滑るばかりだと。一体どういう事な のか。 なぜ神を信じない者が楽しく、栄えるのか。だが、そう思うのは 「誇り高ぶる者を妬んだ」からであり、自らの「妬み」から来てい た。そしてその妬みは、人との比較から来るのであり、主から目 を離して、人を見ていたからだった。信仰生活で、平安や喜びが 失せるのは、負の状況の問題ではなく、目が主以外のものを見 ている。問題、人、自分を見ている。 その底には、富への欲求、人からの賞賛を求め、それを愛する 心がある。それが羨望となって出る。それは、主に焦点が合っ ていないので、その結果、様々な不満や愚痴、イラ立ちでいっ ぱいになる。喜びがなく虚しい。しかし彼は聖所に入った時に、 光が臨んだ。心荒み、悶々状態の原因は、目の前の状況では なく、主と自分の関係にあると悟った。 主から心が離れているから、喜びと平安が無いのだと。今、平 安が無いなら、目の前の苦しい問題のせいと思ってしまうが、 それは関係無い。心が主以外に向いていないか。逆にどんな 困難な中でも、主との親しい交わりにいるなら、不思議な平安 に守られる。主を信頼しているからだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 主を知りながら、世をも求めて行くと、心は平安も喜びも無く 辛い。世の人はそれなりに平安の中、中途半端の信仰者が 最も惨めだ。主のもとへ行こう。主が御霊の喜びと平安を 下さる。真の幸せを下さる。
2025年04月18日(金) 「モーセはガド族とルベン族に答えた。『あなたがたの兄弟たちは 戦いに行くのに、あなたがたは、ここにとどまろうとするのか』」 民数記32:6
「モーセはガド族とルベン族に答えた。『あなたがたの兄弟たちは 戦いに行くのに、あなたがたは、ここにとどまろうとするのか』」 民数記32:6
ルベン族、ガド族が、非常に多くの家畜を持っていた。そしてヤゼ ル、ギルアデの地が、家畜用に素晴らしく適していた。そのためモ ーセに、自分たちはカナンに入らず、ヨルダンのこちら側にいたい と願った。それに対し、モーセは、どういう事なのか、皆は戦いに 行くのに、あなた方はとどまろうとするのか。なぜ、民の意気をく じいて、主が約束された地へ渡らせないようにするのか、と。 カデシュバルネヤの時もそうだった。カナン偵察から戻った斥候の 言葉で、ひどい不信仰に陥り、それは民に伝染した。主は怒られ、 ヨシュアとカレブ以外の20歳以上の者は、約束の地に入れないと。 又、同じような事をしようとするのか。家畜を増やされたのも、約 束の地に入り、生活するためだ。 主の御心はカナンなのに、自分たちの都合で、こちら側に定住した いとは、と。私たちもどうだろう。自分の都合、利得、願望を満た そうとするだろうか。主のプランが示されているのに、自分のプラ ンで動くだろうか。根本的に、私たちが救われたのは、自己実現の ためでなく、主の似姿に変えられ、聖められるためだ。主の御心が 成し遂げられるためだ。 しかし、この世の影響は凄まじく、肉の欲求があるので、方向が違 ってしまう。背後にサタンの攻撃があり、流されてしまう。楽な道 を選び、自分に都合の良い道を選んでしまう。御心の道は、間違い の無い、後悔の無い祝福の道だ。そちらを選べるよう、御霊の助け を求めて祈ろう。 --------------- 初めの目的を忘れ、危険のない方へ、自分が思う安全な方へを御心 と、舵を切ってしまう。大きく道を外れてしまっていないか、いつ も主に尋ね、御心の道に立ち返りたい。
2025年04月17日(木) 「ペテロは彼を見て、イエスに言った。『主よ。この人はどうです か・・』イエスはペテロに言われた『・・あなたは、わたしに従いなさ い』」ヨハネ21:21
「ペテロは彼を見て、イエスに言った。『主よ。この人はどうです か・・』イエスはペテロに言われた『・・あなたは、わたしに従いなさ い』」ヨハネ21:21
人は心の底では、自分に無いもの、持たないものを、欲していると 言われる。「自分も、誰々のようであれば〜」と、違う境遇、成育 歴や才能、性格を求めていると。しかし、それなら、今の自分を否 定することになってしまう。いつも言われるように、スミレがバラ になりたい、足の裏が目や口になりたい・・と。 しかしスミレとバラは、好みの違いで、優劣は無い。足の裏と目も 優劣は無い。役割が違うことで、どちらも必要で、無くてはならな い。一流レストランは、その良さがあり、一般食堂はおふくろの味 の良さがある。比較が無意味だ、頭ではよく理解できるのだが、心 でしっかり受け止めているだろうか。誰かと比較し、羨んでいるな ら、まずそれを認めよう。 無いことにせず、ごまかさずに、自分の妬みをきちんと認めよう。 そこから、新しい歩みが始まる。自分が、羨む誰かのようになるの でなく、主が慈しんで創造して下さった、唯一無二の自分自身を生 きて行けるように、祈り求めよう。かけがえがないとは、代わりが ないという事だ。人を羨み、人のようになるという意味では、自分 を変える必要はない。 しかし主のかたちへと、近づく意味では、決して今のままでなく、 造り変えられなければならない。人との差異で自分を量るのでなく、 御言葉を鏡として、自分を量る時に、自らの本当の姿を見せられ、 取り扱われ、主のかたちへと、成長させて行って下さる。そしてい つでも心に平安があり、喜びを持って生きて行ける。 --------------- 苦い妬みが湧き上がる時は、ひがんだり自己憐憫におちいる。主に 感謝をもって祈り、御言葉を開こう。平安が帰ってくる。主は誰の ためにも十字架にかかられた。何というご愛だろう。
2025年04月16日(水) 「あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられる ように、私を生かしてください」詩篇119:156
「あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられる ように、私を生かしてください」詩篇119:156
ここに「あなたが決めておられるように、私を生かし」とあり、又、 「わたしの口から出ることばも、虚しく、帰らない。わたしの望む 事を成し遂げる」との言葉がある。私たちは、自分の思いがあり、 ああなって欲しい、こうなって欲しいとの願望がある。しかし「主 の望む事」が「主の決められたように」成就する。 そして、主の語られた言葉が成就する。主の御心が大切だ。しばし ば自分の思いが強いと、自分の思いを、主の御心だと勘違いしてし まう。願望が余りに強いと、御心だと思い込んでしまったりする。 しかし実現しないので、不審に思う。申命記に「預言者が主の名に よって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主 が語られたことばではない。 その預言者が不遜にもそれを語ったのである」とあり、自分の思い 込みであったとわかる。ある人が、これこそ御心だと強く思ったが、 実現しなかったと証しした。後に、それは「主が」望まれる事でな く、「自分が」主のために、良かれと望んだ事であったと、気づか された。気づけた事に感謝した。 主のお心を求める時には、まず自分自身を、自分の思いを明け渡そ う。そして右でも左でもOKですとの、スタンスに立つ時、自分の思 いをゆだねているので、願い通りでなくとも、願いと真逆であった り、別の道であっても受け入れて行ける。そして「主が決めて下さ った」事に、御霊の喜びと平安を経験する。 ------------ 主が決めておられることが成就するなら、既に備えられている豊か な恵みがあるのではないか。自分の思いをおいて、主が導いてくだ さる人生を受け取っていきたい。何と平安で喜びだろう。
2025年04月15日(火) 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によって お遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え・・」 ヨハネ14:26
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によって お遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え・・」 ヨハネ14:26
例えば、祈りに関してどうだろう。聖書から教えられるように、 「主の御心が成りますように」と、祈るだろうか。実は自分の強い 思いと願望でいっぱいで、口では主の御心なのだが、本音では、自 分の思いに固執していたりする。しかし、主に反抗する気など無く、 一応は御心がなりますようにとは、思っているので、それだけに自 分でも気づかない。 自分では、御心をと思っているつもりだが、後で振り返ると、委ね る事の意味もわかっておらず、主を信頼もしていなかったとわかる。 説教で、学びで、主に委ねる事の重要性を、しょっ中教えられるの で、良い事と思い、そうしている「つもり」だ。が、実は自分の思 いと自分の願望を、しっかり握って放そうとしない。しばしば、自 分がそうあればいいと思っている事を、実際そうだと勘違いする。 ストレートに反抗し、逆らっていればわかるのだが、逆らっている つもりはないので、返ってわからず、気づかない。何かが漠然とし ている感覚だ。心に膜があり、確信と満たしが無い。平安が無い。 それで自分でも、何かが足りないと感じている。この問題点は、主 に委ねることにあるだろうか。心の底を御霊に照らされる時に、委 ねていない、委ねられない自分を見い出す。 この事を認めることが、まず一歩だ。握っているものは何だろう。 執着していて放せない。まず、委ねることができないと祈り、助け て下さるように求めよう。取り扱い、一歩々手を取り導いて下さる。 聖霊が、心の内を照らし出し、平安を与えたり、取ったりしながら、 御心へと導いて下さる。 --------------- 問題が起こる時に、主と自分の間を遮るものに気づかされる。実現 したいのは自分のプランであったり、保身であったり。御霊を通し て主が導いてくださる。そのために一切を主に委ねて御心を聞こ う。
2025年04月13日(日) 「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらって いる・・ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に 命じられたのだから」Uサムエル16:11
「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらって いる・・ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に 命じられたのだから」Uサムエル16:11
シムイが、ダビデを呪った。ダビデが、バテシバと姦淫した時 に、その夫ウリヤを殺害した。その罪を罵倒し、ダビデに石を 投げつけ、「出て行け。血まみれの男、よこしまな者。お前は 災いに会う」と。部下が、シムイの首をはねる事を申し出たが、 ダビデは許さなかった。主が、彼に言わせているのだから、呪 わせよと。 ダビデは、その罵りを主が命じられた、主から来たものと受け 止めた。ダビデは罪は赦されていたが、主からの訓練と甘ん じて受けたのだ。「私の身から出た私の子さえ、私の命を狙っ ている」、シムイどころか、実子アブシャロムすら自分に敵対し て、歯向かっている。シムイの呪いも訓練として受け入れた。 敵対して来るシムイではなく、彼を置かれた背後の主の主権を 認め、その下にへりくだった。 そして主にゆだねた。「今日の呪いに代えて、幸せを報いて下 さる」。どんな苦しみの中でも、ただ状況を変えようとするので なく、主の前に、正しい心でいるなら、それをも用いて万事益 に、主が良い事のための計らいとされる。ヨセフの「あなたが たは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための 計らいとされた」と。 相手の悪意すらも、あなたのために祝福と変えられる。状況 に対して、感情で反応するのでなく、主を見上げ、状況を見る 時に、御霊に導かれて対応できる。主のお心にそって行く時、 どんな苦しく辛い状況の中でも、主が下さる平安を経験して行く。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 行く所どこにおいても、主を認めよ。目の前の事態を、それだ けを見るのと、主に焦点を当てて、その事態を見るのでは、 天と地ほど違って来る。この事の、主の、み思いは?に立つ 時、主の御心が見えて来る。辛い出来事に、まず主を仰ごう。
2025年04月12日(土) 「立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に 対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました』」ルカ15:18
「立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に 対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました』」ルカ15:18
弟息子は、父親の財産の生前贈与を要求し、父親を足げにし て、家を出た。窮屈な父親のもとが嫌で、好き放題をしたかっ た。放とうの限りを尽くし、湯水のように金銭を使い、ついに一 文無しに。これでは餓死してしまうという状況で、使用人にも愛 深い父親を思い出し、とにかく帰ろうと決心する。 父親が「息子は、死んでいたのが生き返り」と言い、死んでいた 息子が生き返ったと。つまり彼は家を出る以前、父のもとにい た時からすでに死んでいた。心は、父から離れていた。父は常 に息子を愛して来たが、一緒に暮らしていても、息子の心は父 には無かった。それがわかっていた父は、息子のしたいように させた。息子は好き放題をし、身を滅ぼすまで行った。なすす べなく、どん底で我に返った。 その時、父のもとへ帰ろうと決心した。私たちもどうだろう。御 父のもとを離れて、自分の思いを通してしまう。好きにしたくて、 欲望を遂げる。自我は、誰にも邪魔されず、自分の思い通り にしたい。罪を犯すと、なかなかすぐに御父のもとに帰れない。 少しましになってから帰ろうと思う。しかし御父は、何を喜ばれ るのだろう。我が子が「帰る」ことだ。 父は、子が帰ることをひたすら忍耐し待ち続け、姿を見るや、 父の方から走り寄り、抱き口づけした。父は、ただただ待つ。 力づくで連れ戻しに行かず、説教もせず、ただ待つ。私たちは 何度も主を離れる。しかし、私たちの弱さをご存じだ。何度でも 立ち返ろう。御父はずっと待っておられる。立ち上がって、父の もとへ行こう。喜び迎えて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 神の愛は、無条件の愛だ。父は、放蕩した息子が、帰ったこと を無条件に喜んだ。父の方から走り寄り、抱いた。息子は謝罪 の言葉を練習していたが、この時、父の愛に触れ、心からの真 の悔い改めが起きた。窮地は、真に神に出会える時だ。
2025年04月11日(金) 「ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏 のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ」 マルコ14:3
「ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏 のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ」 マルコ14:3
マリヤは、主が語られる言葉を全身で聞く中、主が十字架に向かわ れる事を知った。その中、彼女の持てるすべてを主に献げた。今ま で、少しづつためた香油を、その石膏のつぼを割り、すべてを主の 頭に注ぎ切った。その香油は300デナリで、1デナリが労働者1日 分の給料であり、給料10ヶ月分だ。非常に高価な物だった。 それを見た弟子たちは、貧しい人々に施せたのにと、マリヤを責め て憤慨した。しかし主は、マリヤのその行為の意味を理解し、受け 止められた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしのために、り っぱなことをしてくれた」のだと。主の埋葬の準備にと、前もって 油を塗った。そしてそれが、主に油を塗ることの出来る最後の時と 機会であった。 その後、主は十字架へと、向かわれたのだから。週の初めの明け方、 女性たちが香料を塗りに墓に行ったが、もうご遺体は無かった。主 は復活され、誰も油を塗れなかった。まさにマリヤだけが油を塗れ た。主を、どんなにお慰めした事だろう。マリヤは、高価な香油は 無くなったが、その犠牲の大きい分、心が主に向かい、晴れやかな 気持ちだったろう。何と幸いな事だろう。 「宝のある所に、心もある」と主が言われた。私たちも教えられる。 つまり、心が主にあるためには、自らの「宝」を主に献げればよい という事になる。握りしめているものは何だろう。マリヤのように 後悔の無い、晴れやかな確信が深められる。 --------------- 日々、主に焦点を当て間に合う者になりたい。主から、愛も恵みも 豊かに受けている。握っているものを惜しみながら歩む道より、 感謝をもって献げる歩みを選びたい。
2025年04月10日(木) 「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を 歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血 はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を 歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血 はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7
ある女性が、隣家の主婦に悶々状態であった。何かにつけて、自己 主張や自慢が苦手だった。自分自身も嫌なのに「ノー」が言えない 弱さがあり、ずるずると引きずられ、隣人が苦痛になっていた。き つく、はっきりした物言いに、しばしば傷つき、隣家で顔を合わせ るので、逃げることも出来ず、心重い日々だった。 しかし自分はクリスチャンであり、相手の言動にかかわらず、礼儀 正しく接するようにしていた。良い関係をと祈るのだが、やはり傷 ついてしまい、涙ながらに祈る事もあった。そんな中、夫に転勤辞 令が出た。突然の事だった。目まぐるしく準備し、業者のトラック を見送り、自分は列車で向かった。 あれやこれや溢れる思いが巡り、今までの事を思い返していた。苦 しい状況に終止符が打たれ、解放され、安堵のはずなのに、自分の 心は、なぜか晴れなかった。曇ったままだった。その心の内を、祈 りに持って行き、洗いざらいを告げながら、祈っていた。その中で、 相手に対する、赦せない思いがある事を示された。 ずっと傷つけられていて、心の奥は憎しみと、恨みと根深い赦せな い思いでいっぱいだった。はっきりと憎んでいた。相手が相手だか ら、自分にこういう思いが出て来ると、自己正当化したいのだが、 平安が無い。平安の無い状態は苦しい。主の御前に祈り、心から悔 い改めた。深い安堵が来て、心がすっきりした。主の赦しの恵みを 豊かに経験させられた。 --------------- 言葉に出さなくても、心にある苦い思いは外に現れていたかも知れ ない。自分の内は状況に反応しすぐに闇の中だ。平安がない。主の 下に罪を悔い改め、光の中に留まりたい。
2025年04月09日(水) 「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、 同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」 ピリピ2:2
「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、 同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」 ピリピ2:2
この世の会社組織や各種サークルやチーム等、一致のためにあらゆ る努力をする。交流を深めるために、親睦会や社員旅行や楽しい時 を作る。様々な企画を懸命に企てて、それは意思疎通、一致を作る ためだ。しかし、教会はそうではない。一致を造り出し、造り上げ るのではない。信じた一人一人には御霊が宿られていて、その御霊 により、すでに一致が与えられている。 造り出すのでなく、すでに与えられている一致を保てとの命令だ。 それを妨げるのが、古い罪の性質だ。つまり肉は、どこまでも自己 中心だ。自分の思いを遂げ、自分の栄光を求める。しかし誰もが、 自分の思いを主張して行くなら、容易に分裂分派が起きる。各々の 「自分の思い」「自分が誰よりも正しい」という、肉が砕かれて行 く時に、皆が御霊の一致を保てるようにされて行く。 フィラデルフィヤの教会で、兄弟愛が保たれていたのは、主の言葉 を重んじたからだ。「なぜなら、あなたには少しばかりの力があっ て、わたしのことばを守り」とあり、教会が御言葉を土台とし、第 一とし、御言葉に従って行く時には、そこに一致があり、教会には 愛と喜びと力があった。 皆が自分の思いを通して行くなら、各々の意見は十人十色で、全員 違う。不一致は火を見るより明らかだ。しかし皆が、自分の思いを 捨て、御言葉に立ち、御言葉に従う時、一致が保たれて行く。日々 の判断が、自分の肉の思いか、御霊の思いか、主を仰ぎ、導きを求 めて歩もう。 --------------- 自分の思いや考えはそれぞれにあるが、皆、主の思いやご意志を求 めて一致しようと祈っている。御霊の導きに従いますの態度でいた い。主の御心を実現していきたい。
2025年04月08日(火) 「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配して くださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさら ない」詩篇55:22
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配して くださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさら ない」詩篇55:22
日常で、私たちは幾度も困難や問題にぶつかる。その問題は壁のご とく、目の前に大きく立ちはだかる。ああでも、こうでもないと悩 み、思い煩い、四六時中その問題に飲み込まれ、囚われてしまう。 その悩みの最中は、真っ暗なトンネルのように感じる。悩みのトン ネルの中にいると、ずっとこのまま永遠に続くと思える。出口など あるように思えない。 遠くにだとしても、もし出口の一条の光が見えたなら、どうだろう。 それは光で、希望で、耐えることができる。真っ暗闇の中で、主に 祈るのだが、苦しみから逃れたいばかりだ。苦しみが早く無くなっ て欲しい、助けて欲しい一心で、すぐに解決をと、もがく。この辛 さを取り去って欲しい。主に委ねる事だとわかるのだが、頭だけの 事で、委ねることができない、ゆだねようとしない頑なな自我があ る。 ある人が苦しい状況に陥り、頭では委ねる事が大切とわかる。そこ で「委ねます」と祈る。少し心が楽になった気がする。しかしすぐ に、ああでもない、こうでもないと、悶々と対策を考えている。気 持ちは苦しい。そこで再度「委ねます」と祈る。しかし思い煩いは 去らず、胸の苦しさも消えない。それを繰り返す中で、初めて、自 分は委ねる事が出来ないと悟った。 それで「委ねる事ができません。助けて下さい」と祈った。その時 に、今まで延々堂々巡りだったのが、何と委ねる事ができたのだ。 すると胸が楽になり、その後、問題解決の糸口が見つかった。委ね られないなら、そこから始めよう。 --------------- どうしても自分の望む結果がほしく、祈っても平安が来ない。委ね るまでが試練のようだ。結果を手放せるように祈りたい。主に委ね られた時、問題の中で平安を受け取る。
2025年04月07日(月) 「彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。 彼らには水が見つからなかった」出エジプト15:22
「彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。 彼らには水が見つからなかった」出エジプト15:22
エジプトを出たモーセと民は、荒野を3日間歩き続けた。炎天下に 水が無い。民は喉がカラカラで死にそうだ。そんな民は、大賛美大 歓喜から一転、失望落胆、不満、嘆きに180度変わった。その時に マラで水を見つけた。大喜びしたが、苦くて飲めなかった。それで 「マラ」(苦いもの)と言った。そこで主に求めるのでなく、民は 落胆し、不満、怒りをモーセにぶつけた。 あの主への大感謝は見事に吹っ飛び、手の平返しだ。そこでモーセ がした事は、怒る民への対応でなく、まず主に向かい、主に叫び祈 った。すると一本の木が示され、投げ入れると苦い水が甘くなった。 私たちも日常で何か事が起きると、不安、恐れ、不満、怒りに襲わ れる。それが苦い水となり、心に苦みが渦巻く。 主は一本の木を備えられたが、私たちにも備えられている主の十字 架だ。主を離れると、必ず不満、つぶやきとなる。私たちも今の状 態はどうだろう。その不満、愚痴は主を離れていないだろうか。十 字架は苦い水を甘くする。マラの苦い水は信仰の試練だった。今、 苦い水があれば、信仰が試されている。 主からの苦い水であり、主がその水を甘くして下さる。十字架のも とへ行こう。ある人は、理不尽な目に会い、不満と怒りで悶々だっ た。しかし主のもとへ行った時、理不尽そのものである、十字架の 主を見せられた時に、その主のご自身を捨てられたへりくだりに、 涙が出て、自分は何なのかと、悔い改めと感謝に変えられた。まさ に苦みが甘みへと。 --------------- 主は、悲しみを知っておられ、病む者や苦しむ者を癒し、慰め、 最後は私たちの対のために十字架で死なれた。不平、不満の苦い 水が湧いてくるときこの主を見上げよう。主の下に行こう。
2025年04月06日(日) 「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし ・・」詩篇 103:3
「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし ・・」詩篇 103:3
ある男性の証しだ。夫婦の子どもが、未熟児で出生後、育つこと ができず亡くなった。その時、彼は、後悔に胸が締め付けられ、 涙が出て仕方がなかったと。若くして結婚したので、したい事が 沢山あり、まだまだ遊びたかった。子どもはずっと先と思ってい て、妻の妊娠を喜べなかった。あの旅行、スポーツ、このイベン トが全部ダメになった。 行動の制約に、不満が募り、出産に拒否反応だった。そのため 子どもが死んだ時、自分のせいだと、自分を責め、涙が止まら なかった。何というひどい自己中心、苦しくて辛くてたまらなかっ た。周囲からどんなに慰められても、だめなのだ。心に突き刺さ るような罪責感はどうにもならなかった。 その後、主に出会い、心の何もかもを吐き出し、悔い改めが与え られ、初めて心の平安、安堵を経験した。十字架の血潮で赦さ れ、受け入れられている、暖かい愛に包み込まれるようだった。 あれほと苦しかった心に、安らぎが来た。ある人は、辛い対人 関係があり、余りに攻撃されるので、それは相手への憎しみと なって積もった。人を憎むと、苦しく辛いのは自分だ。 主により、相手は関係なく、憎しみは自分の問題と教えられた。 自分の問題として受け止める事を導かれ、悔い改めが与えら れた。その時「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は 真実で正しい方ですから、その罪を赦し・・」と御言の葉通り、赦 された平安が来た。あの胸の辛さが消えた事に驚き、心が軽く なった。主の真実に感謝し、御名を崇めた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ どんな時も、主のもとに行こう。主は受け止め、平安へと導いて 下さる。犯した罪は赦して下さる。罪赦される平安は、何にも代 えられない。主の流された血潮のゆえだ。平安が失せる時は、 主のもとに行き、御霊に心を探って頂こう。導き返して下さる。
2025年04月05日(土) 「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にも そのようにしなさい。これが律法であり預言者です」マタイ7:12
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にも そのようにしなさい。これが律法であり預言者です」マタイ7:12
ある男性の証しだ。難易度の高い大学を目指し浪人中、丁度友 人も目指していて、共に予備校に通っていた。互いに刺激となり 励ましとなり、頑張れた。やがて受験となり、発表時、友人は合格、 自分は不合格だった。自分では、やれたと思っただけに、ショック は大きく、打ちのめされた。落胆で、起き上がれなかった。友人の 合格を喜ぶ事など、とても出来ない。 羨ましいばかりで、妬みでいっぱいだ。「喜ぶ者といっしょに喜び・・」。 自分にも、主は必ず祝福を下さるから、人の祝福を喜ぶのだと、 頭では祝福すべきとわかるのだが、絶対に無理だった。全然喜 べない。又一年、同じ事の繰り返しと思うと、心は暗く沈んだ。頑 なな自我が、どうにもならない。しかしこのままで良いはずもなく、 平安も無い。辛い中、主に、「出来ません。無理です」とありのまま 祈った。そして「助けて下さい」と。 すると、ふっと心に微妙に変化が来て、一言メールを入れようと 思え、「良かったね」と一言だけ送った。それがかろうじて出来る 事だったが、自分でなく、主だった。すると友人はそのメールを 驚くほど喜んでくれ、沢山のメールの中で、君のメールが一番 嬉しかったと。良い証しになったようで、嬉しく感謝だった。 そして翌年自分も合格が与えられた。不可能の壁にぶつかる時、 自分で何とかしようとせず、主に正直にありのまま持って行こ う。弱さの中に恵みは十分で、そこに主が働き、みわざをして 下さる。そして主を崇めて行ける。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 肉は、主の言葉に従えない。従いたくない強固な自我がある。 肉はどうにもならない。まず主を仰ぎ、助けを求めて祈ろう。 主は、求める者に答えて下さる。肉はキリストと共に十字架 につけられた事を覚えさせ、助けて下さる。
2025年04月04日(金) 「・・聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしが あなたがたに話したすべてのことを思い起させてくださいます」 ヨハネ14:26
「・・聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしが あなたがたに話したすべてのことを思い起させてくださいます」 ヨハネ14:26
ある人が、平穏無事な日々の中、突如の事態が起きた。仕事で行き 詰まり、過労で体調を崩した。その中、家族が入院、又、急な経済 的必要が生じ、窮地に陥る。自分は動けず、状況は思い通りになら ず、どうにも出来ない。この先どうなるのか、大きな不安と思い煩 いに襲われる。 どうにもならない中、御前に行き、ことごとくを祈りに持って行き、 主と交わっていた。その中で「うまく行っていたのに、問題だらけ」 と心沈む事を考えた時に、順風満帆が善で、良い事との価値観に気 づかされた。又、思い通りでない状況が受け入れられず、いら立ち、 もがき、不安になり、落ち込んでいる。それは思い通りになる事が 善、との価値観による事に気づかされた。 又、「なぜこんな事に?」と不満に思う自分に、信仰すれば、何も かもスムーズに、順調に行くのでは、それが祝福との思いにも気づ かされた。順境が神の祝福であって、逆境になると、祝福されてい ないと感じてしまう。御霊の光に感謝した。私たちもどうだろう。 突如の出来事を通して、今まで気づかなかった、心の底にある思い に気づかされる。 何も無い時は、気づかずに生活している。想定外の事を通し、御霊 の気づきが与えられる。自分を知り、新しくされる。肉の価値観を 御言葉に代えて行くことで、私たちは思考を変えられて行く。思考 が変わる時に行動が変えられる。自分の肉の価値観に気づける事に 感謝しよう。気づきによって、変えられ、成長して行ける。 --------------- 主を信じても、不安や恐れ、いら立ちなどは消えてなくならないが、 御霊の導きに従う自由が与えられている。何と感謝だろう。想い通 りに行かないから気づける。変わっていきたい。
2025年04月03日(木) 「イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んで いたからである。リベカはヤコブを愛していた」創世記25:28
「イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んで いたからである。リベカはヤコブを愛していた」創世記25:28
イサクの妻リベカが妊娠し、お腹にはエサウとヤコブの双子の兄弟 がいた。その時、主は御心を告げられた。「兄が弟に仕える」と。 主がアブラハムに約束された祝福は、イサク、ヤコブにより成就し て行くと。だが兄弟が育つ過程で、父親は兄エサウを、母親は弟ヤ コブを偏愛した。兄弟も霊的な面での心が違った。 兄は長子の権より、目の前の自分の腹を満たすものが大事であり、 空腹なら、まず食物を欲し、長子の権利などどうでもよかった。し かしヤコブはずる賢く、狡猾な人間だが、神に関する事柄に心が向 き、価値を見い出していた。そのため長子の権も祝福も欲した。 母リベカにそそのかされ、母子で共謀し、父と兄を欺いた。 母子の間違いは、神がヤコブに与えられるものを、自分の力と画策 で奪い取った事だった。父親も、「兄が弟に仕える」との御心を知 りつつ、偏愛する兄の方に祝福を与えようとした。それも肉による 事であった。皆が主に従わず、御心をそれて秩序が狂い、夫婦間も 兄弟間も、皆が満たされなかった。主を仰ぎ、御心に従ったなら、 家庭に愛と和合、一致、豊かな祝福があったろうに。 その後、父親はヤコブを呼び、祝福し命じた。母親の兄ラバンのも とへ行き、妻をめとるようにと。イサクも主の御心に立ち返っただ ろうか。主の計画だけが成就して行く。今、自分の思いが強いだろ うか。とどまって、主を仰ぎ、御霊の導きを求め、それに従おう。 その時、自分も周囲も、主の栄光を拝することになる。 --------------- 肉の思いに引っ張られると夫婦の関係も親子関係も全てが不自由に なる。何度も経験済みだ。自分の画策を捨てて、主の愛なる御霊の 声に従い自由に歩みたい。
2025年04月02日(水) 「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、 むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい」 ヘブル12:6
「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、 むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい」 ヘブル12:6
信仰人生において、苦しみや悲しみ、悩み、問題は必ず来る。来な い人はいない。懲らしめは愛だと言われ、それらを用いて、主は私 たちを訓練し鍛え、成長させて下さる。しかしその場合に、大切な 事は、試練として正面から受け取り、くびきを負う事だ。しっかり 負うと、それは負えるのだと。 だがくびきを嫌い、抜けようともがくと、首がくびきに締め付けら れ、苦痛だ。そして苦しいのみで、何の益も学びも得られない。 ある人は苦しい事態に、ただただ頭をおおいうずくまっていたと。 祈る事も、主を求める事もせず、試練として受け入れておらず、た だ流されるままだった。そのために、痛いだけと。今から、向き合 い受け入れて行きたいと。 苦難に際して二つの選択肢がある。一方は事態を受け入れ、信仰を 働かせて行く。他方は愚痴と不満で、屈折し反抗し、周囲をも責め て行く。が、その結果、周囲に害毒を流し、証しを壊し、自分も平 安が無く、ますます怒りとうっ屈に向かう。だが主を見上げ、信仰 により試練を受け入れる時、そこに主が力強く働かれ、祈りが聞か れ、多くの学びを得る。 試練の向き合い方で、天と地ほどに違って来る。過去のあの時、こ の時、どうだったろう。信仰人生、今後も次々と試練が来る。私た ちが救われたのは、問題の無い、平穏な生活のためではない。自我 が砕かれ、練られ、御子のかたちに変えられ、聖くされるためなの だから。試練への対応を、自分では出来ないので、切に祈ろう。 --------------- 主は、その愛する者にとある。どうして自分だけがと思えるような 試練は必ずくるが、試練の中で対処の方法を間違えないようにした い。弱いままで支えてくださる主を頼り、祈りながら歩もう。
2025年04月01日(火) 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知って いるからだ・・」エレミヤ29:10
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知って いるからだ・・」エレミヤ29:10
バビロン捕囚は、ユダヤの民にとっては、国を追われ、捕囚の身と なる事であり、それ自体を見るなら絶望だった。暗黒であり、どん なに悲惨な事態であったろう。困難、苦悩、混乱、悲嘆であり、災 いとしか見えない。しかし結果的に見れば、御言葉の通りに、それ は「災いではなく、将来と平安と希望」であった。 なぜなら、民は、捕囚の苦難により悔い改めて、主に立ち返れたか らだ。非常に厳しく辛く苦しい試練であったが、信仰を回復する事 ができた。エレミヤの預言通り、70年後にエルサレムに帰還する事 になり、主の奇跡が成し遂げられる。「あなたがたのために立てて いる計画」、バビロン捕囚は不運でなく、成り行きでなく、人間的 なものでなく、主による計画だと言われる。 それも見える所は絶望と暗黒にかかわらず、将来と平安と希望のた めの計画だと。縦糸と横糸が織りなされ、見事な素晴らしい織物が 完成するように、主は艱難の中で、練り込み、御霊と一つにして行 って下さる。同様に、私たちにも、突如の試練が降りかかる。平穏 無事に生活している中で、ある日突然、苦難に遭遇する。 しかし信仰人生で起こる一つ〃の出来事は、偶然でなく、不運でな く、サタンにほんろうされているのでなく、すべて主の綿密なるプ ランだ。それは「あなたのため」であり、完璧なる主の配慮のもと で来たものだ。必ず益に結果する。御霊の実を結ぶ。後に、それこ そが神の深い愛であった事がわかる。 --------------- 振り返ると、いつも山場山場に主の助けがあり、最後は主の導きに 感謝を献げるばかりだった。今は確かではない中でも、主の完璧な ご配慮を信じて歩める。喜びをもって歩もう。