2025年05月31日(土) 「バラクは戦車と陣営をハロシェテ・ハゴイムも追いつめた。 こうして、シセラの陣営の者はみな剣の刃に倒れ、残された 者はひとりもいなかった」士師記4:16
「バラクは戦車と陣営をハロシェテ・ハゴイムも追いつめた。 こうして、シセラの陣営の者はみな剣の刃に倒れ、残された 者はひとりもいなかった」士師記4:16
当時、イスラエルは主の目の前に悪を行ない、そのため主 は、カナン人の王ヤビンに渡した。ヤビンの将軍はシセラだ った。20年間、イスラエルはひどく圧迫されたので、主に叫ん だ。すると主は、女預言者デボラを通して、主の言葉をバラ クに告げられた。1万人でタボル山に進軍せよと。戦車900両 と大軍を率いるシセラを、キション川に引き寄せ、バラクの手 に渡すと。又、「シセラをひとりの女の手に売り渡す」とも。 敵は大変な戦車部隊だ。イスラエルには武器もなく、見えると ころ、人間的考えなら、敵の圧倒的戦力に到底不可能に思える。 しかし主権は主にあり、シセラを渡すと言われた主は、みわざ をされた。それは、「キション川は彼らを押し流した」とあり、キ ション川の氾濫により、戦車が全く役に立たなかった。「主が」 シセラの軍隊を剣の刃でかき乱したので、シセラは戦車から飛 び降り、徒歩で逃げた。 それを女性ヤエルが招き入れ、討ち取った。主の言葉のその 通りに成就した。これは主の戦いであり、主が戦われる。自分 たちの力では断じてない。私たちがする事は主を信頼し、主の 言葉通りに従うことだ。紅海が目の前で分かれたのも、岸に溢 れる水かさのヨルダン川が渡れたのも、エリコの城壁が崩れた のも、すべて「主が」成されたみわざだ。 伏兵を設けて不思議をされる。目の前が絶体絶命で、行き詰 まりだろうか。主に頼る訓練を与えておられる。何よりまず祈 ろう。主の導きを求め、御声を聞こう。そしてその導きに従お う。その時、「主が」先立たれ、主の戦いを戦って下さる。主が 私たちを愛しておられるからだ。大きな、又、小さな訓練を、主 を信頼する練習を与えて下さっている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これまでも、信仰人生で、数知れない主のみわざを見て来た。 試練は必ずあるが、試練と共に、脱出の道が備えられていた。 一回〃が、主に頼る訓練で、信じる訓練だ。戦いのために、 手を鍛え、青銅の弓をも引けるようにされている。
2025年05月30日(金) 「そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を 彼らに負わせないでください。』こう言って眠りについた」 使徒7:60
「そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を 彼らに負わせないでください。』こう言って眠りについた」 使徒7:60
使徒を助けるために選ばれたステパノは、信仰と聖霊に満たされた 人物で、不思議なわざとしるしを行なっていた。気に入らない律法 学者達は、彼と議論するが、「知恵と御霊により語っていた」ので 全く歯が立たなかった。そこで画策し、偽証人を立て、神を冒涜し た罪で議会に引き出した。ステパノはイスラエルの歴史を語る。 民は事あるごとに偶像礼拝に陥り、主は預言者を送り、立ち返らせ ようとするがそれも拒み、最後にはキリストを殺してしまったと。 すると人々は怒りに震えた。聖霊に満たされたステパノは、人々の 石打ちに「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言い、 「この罪を彼らに負わせない」ようにと叫び、息絶えた。 主の十字架上の言葉だ。「主よ彼らをお赦しください」。ステパノ は、なぜ自分を殺す人々を赦せたのか。まず彼は、聖霊に満たされ ていて、主に従おうと自分を明け渡した人だった。自分の生涯に主 の栄光が現される事だけを求めていた。だからこそ聖霊に満たされ ていた。そして、主だけを見つめていた。 「天が開けて・・人の子が・・見えます」。私たちはどうだろう。赦せ ない相手だけを見続けているだろうか。思い煩いや不安、怒りの事 象だけを見ていないか。又、一番大切な、「御霊によって歩みなさ い」は、どうだろう。これは勧めでなく、命令だ。祈り求めて行こ う。主は取り扱い、一歩〃導いて下さる。 ------------------ 聖霊に満たされ、天を仰ぐとき、恐れも怒りもなく「彼らをお赦し ください」と祈れた。御霊によって歩むとき、主のご栄光だけを見 つめていける。御霊に助けられ歩もう。
2025年05月29日(木) 「その町の名は、バベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで 混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散ら したからである」創世記11:9
「その町の名は、バベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで 混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散ら したからである」創世記11:9
最初、全地は一つ言葉だった。相互交流でき、意思疎通ができた。 その頃、人々は移動し、平地のシヌアルに定住した。主かられんが を作る技術が与えられ、れんがと瀝青で建築物を作る事ができた。 巧く対話でき、肥沃な地に建築技術も与えられ、すべてが主の恵み であった。だが「その内に彼らは、天に届く塔を建て、名をあげよ う」と言い出した。 主に感謝し、栄光を主に帰するのでなく、自分の名をあげ「自分」 が神の位置に座ろうと。主を締め出し、与えられた能力を、自分の 使い、自分が、自分の、自分のため・・。主に信頼するのでなく、自 分の力を誇って行った。これがアダムからの罪だ。「その内に」と あり、最初は主を覚え、良かったのだが、少しづつ向きが狂った。 自分の知恵と力でやり始め、更に主は、ノアの洪水後、「地に満ち よ」と言われたのに、その逆の「全地に散らされるといけないから」 と。主に背き、一つ所にいるためだった。そこで主は言葉を乱され、 意思疎通を不可能にされた。その結果、混乱し、塔建築は出来なく なり、「彼らは建てるのを止めた」、失敗した。主が介入され、阻 止された。 そして人々は、結果的に全地に散らされた。原因は高慢あった。私 たちもどうだろう。言葉が、気持ちが通じない時、そこに主を忘れ、 「自分が〃」の高慢がないか。「主のみ思い」が第一でなく、「自 分の気持ち」が第一だろうか。そこから分裂と争いが生まれる。ま ず主の前にへりくだり、主を第一にする時、必ずそこに御霊の一致 がある。 ------------------- 同じ言語であっても、気持ちが通じない事が多い。相手にも自分が があると、分かり合おうとするときに謙遜にさせられるのではない か。主に頼り御霊により一致を祈ろう。
2025年05月28日(水) 「ここで、私たちは兄弟たちに会い、勧められるままに彼らの ところに七日間滞在した。こうして、私たちはローマに到着した」 使徒28:14
「ここで、私たちは兄弟たちに会い、勧められるままに彼らの ところに七日間滞在した。こうして、私たちはローマに到着した」 使徒28:14
パウロは、御霊により、宣教のためにローマ行きを示されていた。 しかし伝道旅行後に寄ったエルサレムで、群衆の騒動、混乱に会う。 千人隊長がパウロに弁明を許すと、人々に「こんな男は、地上から 除いてしまえ。生かしておくべきでない」と殺されそうになり、大 混乱に陥った。パウロは捕らえられてしまい、一見、ローマに行く 事は全く不可能に見えた。 ところが監禁により、逆に暗殺者から守られる事になった。又、不 毛の裁判に見えたが、それは総督ペリクスやフェストに証しをする 機会となった。又、丁度、アグリッパ王がフェストに会いに来たた め、王にも福音を語る機会が与えられた。パウロは、更にローマ皇 帝に上訴したため、これがローマへの道を開く事になった。 パウロの思いとは異なり、囚人としてであったが、ローマに向かう 事になった。するとその船が、幾日も厳しい大嵐に会い、皆で、生 死をさまようほどの絶望状況となった。だが、パウロは、必ずロー マへ着く事ができ、必ずカイザルの前に立つとの、主の言葉を信じ、 皆を励ました。船は座礁したが、主の言葉通りに、全員が無事に岸 にたどり着いた。 「こうして、私たちはローマに到着した」。ローマ行きが見事に実 現した。そこで証しし、福音を伝えた。どんなに障害があり、妨害 があっても、主は、必ず御言葉を実現される。主が語られた事は10 0%成就する。あなたは今、苦しい状況だろうか。「こうして、 ローマに到着した」。必ず、あなたに約束された御心は、成就する。 信じていよう。 ------------------- 主がこれまでにしてくださった恵みの経験を覚えて、突然の問題と 思えても、何かのご計画の途上と恐れずにいたい。必ず益となると 主に焦点を合わせていよう。
2025年05月27日(火) 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべて の武具を身に着けなさい」エペソ6:11
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべて の武具を身に着けなさい」エペソ6:11
ユダは、主を裏切ったが、「悪魔は、ユダの心に、イエスを売る思 いを入れた」とある。ユダは自分で思った事ではなく、悪魔が思い を入れたのだと。ユダは、悪魔のささやきを心に受け入れ、同意し てしまった。悪魔の声を拒否できるし、同意もできる。常にどちら かを選択する。私たちにも、しょっ中、思いに悪魔からの火矢が飛 んで来る。 拒めばよいのだが、それを受け入れ、同意してしまうと、罪を犯す ことになる。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、 誘惑される」とあり、人の欲のある所に、悪魔の誘惑の手が伸びる。 そこに肉の欲望がある。欲が無ければ、誘惑にならないからだ。 その悪魔の吹き込む思いに同意して、受け入れてしまうと、「欲が はらむと罪を生み」と、その思いを心の中で妊娠させてしまい、熟 成させてしまう。 すると実際に罪を犯して行く。ダビデも、部下は命がけで戦ってい る中、夕方に起き出すという、怠惰な生活をしていた。その時に、 身体を洗っているバテシバを見た。誘惑を拒否する事が出来たが、 呼び寄せてしまい、姦淫の罪を犯した。人は弱く、誘惑に負けてし まう。だからこそ、主は祈りを与えて下さっている。 「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」と。主 との交わりの生活の中にいる時に、主により堅く守られる。祈りは 力だ。ダビデは、バテシバを見た時に、まず主を呼べば良かった。 私たちも誘惑が来た時に、主の助けを求めて、即、祈ろう。主は助 けて下さる。 -------------------- 誘惑が来ている事に気づくためにも、自分の弱さを覚えて、目覚め ていたい。サタンを警戒して、主に守りを祈り、思いの中にくるサ タンの声を識別したい。
2025年05月26日(月) 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありま せん。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」 ガラテヤ6:7
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありま せん。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」 ガラテヤ6:7
「思い違いをするな」とあり、私たちは思い違いをしてしまうが、 人は蒔いたものを、刈り取ると言っている。蒔かないものは、刈り 取りようが無い。これは法則であるので、例外は無い。コスモスの 種を蒔いて、朝顔の花が咲く事は決して無い。コスモスの種はコス モスの花だ。蒔く種は正しく、その花が咲く。 霊的な原則も同様だ。例外は無い。そして「時期が来て、刈り取 る」とあり、すぐにその場で結果が出るのではない。そこを思い違 いをしてしまう。それは悪い種を蒔いても、すぐに悪い実が出ず、 時間がかかるので、主を侮ってしまう。私たちは日々の生活で、絶 えず、御霊か肉に蒔いている。御霊に従って生きるか、肉の欲に従 い、自分の思い通りに生きるか、どちらかをしている。 人へ愛と親切の種を蒔けば、喜びと主からの報いを刈り取り、自分 にも愛が返る。祈りの種を蒔けば、祈りの答えを刈り取る。宣教の 種を蒔けば、魂の救いを刈り取る。献金の種を蒔けば、豊かな物質 的祝福を刈り取る。又、肉に従い、悪意と憎しみの種を蒔けば、そ の実を刈り取る。「善を行なうのに飽いてはいけない」「失望せず にいれば、時期が来て、刈り取ることになる」と。 善を幾ら行なっても目に見えるところ、結果が無いように見えて、 時にうみ疲れるかもしれない。しかし「時期が来て」必ず刈り取る。 宣教の種は特にそうかも知れないが、神の時が来た時に、豊かに刈 り取る。だから見えるところでなく、御言葉に立って、失望せずに、 蒔き続けるようにと。祈りの種も蒔き続けよう。答えを見る。 ----------------------- 良いものを蒔けば良いものを刈り取る。何と感謝な約束だろう。何 も変わらないように見えても、蒔いたものは結実する。厳粛な事実 だ。主に導かれ、良き種を蒔き続けよう。
2025年05月25日(日) 「アハブはナボテに次のように言って頼んだ。『あなたのぶどう 畑を私に譲ってもらいたい・・その代わりに、あれよりもっと良い ぶどう畑をあげよう』」T列王21:2
「アハブはナボテに次のように言って頼んだ。『あなたのぶどう 畑を私に譲ってもらいたい・・その代わりに、あれよりもっと良い ぶどう畑をあげよう』」T列王21:2
アハブ王は、宮殿の隣にあるナボテのぶどう畑で野菜畑を作 りたくて、欲しくてたまらず、不機嫌になっていた。ナボテに、代 わりにもっと良い畑を与えるからと、譲るよう要求した。しかし ナボテは断った。これは正当な事であり、律法に先祖から受け 継いだ土地を売ってはならないと、定められていた。 もし窮乏ゆえ、土地を売った場合も細かな規程があり、買い戻 しの権利のある親族が、買い戻さなければならない。神の定め であり、ナボテは神に従った。するとアハブ王は激怒し、すねて 不機嫌になった。「寝台に横になり、顔をそむけて、食事もしよ うとしなかった」。自分の要求が通らず、思い通りにならないの で、ふてくされる、子どものようだ。 アハブは、神の御心が自分の思いと違う時、自分を捨てて従う のでなく、正しくないことはわかりながら、怒り、欲望を通そうと する。間違いを認めない時、更に罪に進み、罪に罪を重ねて 行く。妻イゼベルは夫を支配していて、彼女の画策により、ナ ボテを殺害してしまう。 私たちも、もし自らの間違いを認めるなら、罪に罪を重ねる事 から守られる。又、思い通りにならない時は、門を閉じておら れる主を認め、受け止めよう。御心を受け入れる事を学ぼう。 主は別の良い道を備えておられる。自らの欲望でなく、主の 御心を求める時、肉の快楽でなく、御霊からの満足と喜びを 経験する。 ・・・・・・・・・・・・・ 自己中心でわがまま、欲望が通らなければ、ふてくされる。 肉は、まさしくこのようだ。信仰生活長年経ても、これなら悲 しい。砕かれ、自分に死んで行くことが成長だ。自分ではでき ないので、目の前の御霊の導きに一歩づつ従おう。
2025年05月24日(土) 「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません・・ 神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み 深い考え方をしなさい」ローマ12:3
「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません・・ 神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み 深い考え方をしなさい」ローマ12:3
「限度を越えて思い上がるな」と言われているが、それは偉そう に、いばることでは無い。「思い上がる」と聞くと、偉ぶって人を 見下す姿を思うが、そうではなく、「思うべき限度を越え」た態度 のことだと。そして、つまりは、与えられた「信仰の量りに応じて 慎み深い考え方」をしないことになる。 それが高慢で、不健全な態度だと。逆に、本当の慎み深い考 え方とは、各々が与ええられ、御霊に示され、導かれた霊の 賜物を用いて、主と、人々に仕えて行くことだと。つまり「慎み 深い考え方」は、下座でウロウロし「いえいえ、自分などは、何 もできない」と卑下することではない。 自分に示され、与えられた賜物が、主からのものと感謝して受 け取り、それを主と人々のために用いて行くことだ。又、自分に は苦手で、出来ない分野も、各々にある。それをわきまえること、 それが慎み深い考え方だ。賜物を持つ人を通して受けることが できる。そこに豊かな祝福がある。 又、私たちは、「信仰の量り」によって、一人一人がさじ加減 ピッタリに、各々がふさわしく導かれている。十把一からげ、 誰もかれも一緒くたというのではない。一人一人、主よりの成 長が与えられて行く。それは皆が違うので、隣の人と比較が できない。御霊に示された賜物により、奉仕をお献げして行こう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 皆、それぞれが、主の恵みにより聖霊の賜物を与えられている。 一つ一つが無くてはならない重要な器官だ。皆、異なっている。 与えられた賜物を、祈り、御霊によってお献げして行く時、祝福 され、成長へと導いて下さる。
2025年05月23日(金) 「主は再びシロで現われた。主のことばによって、主がご自身を シロでサムエルに現わされたからである」Tサムエル3:21
「主は再びシロで現われた。主のことばによって、主がご自身を シロでサムエルに現わされたからである」Tサムエル3:21
当時、主のことばは、まれにしかなく、幻も示されなかった。祭司 エリがサムエルを養育していた中、突然ある日、少年サムエルに主 の御声が臨んだ。サムエルはエリに問い、その指示通りに「お話し 下さい。しもべは聞いております」と答えた。すると、その最初の 主からのメッセージは、何とエリの家への裁きであった。「彼の家 を永遠にさばく。自分の息子たちが呪いを招くような事をしていな がら戒めなかった罪による」と。 とんでもなく厳しい辛い言葉だった。相手は自分の師であるエリだ。 サムエルは、エリに語ることを恐れたが、しかし主の言葉をありの まま伝えた。預言者とは、神から受けた言葉を、忠実にその通りに 民に語る人のことだ。どんなに痛い辛い言葉であろうと、その通り に語らねばならない。これから預言者として立てられるサムエルへ の、最初のテストであったかも知れない。 私たちも、主の御前で「しもべは聞いております」と言いつつも、 罪の指摘や、自我の強い、自己中心の姿を指摘される痛い言葉、又、 自分の思いやプランと異なる言葉、矯正される言葉は、聞きたくな くて耳をふさぐだろうか。しかし痛い言葉こそが、実は聞くべき恵 みの言葉だ。それは真実な愛の言葉であり、自分が変えられ、主の 似姿へと一歩〃成長させてくれる。 御言葉が霊であり、命だ。私たちは御言葉により変えられて行く。 主は、絶えず御声をかけ、慰め励まし、指針を与えて下さる。私た ちは主の言葉によって、主を知って行く。「しもべは聞いておりま す」とのへりくだった姿勢で、祈りを持って耳を傾けよう。 ------------ 示された耳の痛い御言葉は、無理だと思えても、しっかり受け取り、 自分の内にとどめて、実現できるように祈ろう。示されることが感 謝だ。主が豊かに導き祈りを叶えてくださる。
2025年05月22日(木) 「『この人は大工ではありませんか。マリヤの子で・・その妹たちも、 私たちとここに住んでいるではありませんか』こうして彼らはイエ スにつまずいた」マルコ6:3
「『この人は大工ではありませんか。マリヤの子で・・その妹たちも、 私たちとここに住んでいるではありませんか』こうして彼らはイエ スにつまずいた」マルコ6:3
主は、郷里ナザレに行き、安息日に会堂で教えられた。御言葉を読 まれ、「わたしの上に主の御霊がおられる・・貧しい人々に福音を伝 えるようにと。捕らわれ人には赦免を、盲人には目を開かれ事を、 虐げられている人を自由にし・・」素晴らしいみわざだ。そして「今 日、聖書のこのみことばが、実現した」と。 何千年も前からの預言が実現し、メシアが今、ここにいると。それ を聞いた人々は、主の口から出る恵みの言葉に驚嘆し、主をほめ讃 えた。しかし同時に、「この人は大工ではないか」「マリヤの子で、 兄弟も私たちとここで住んでいる」と人々はつまずいた。ナザレは 小さな村で、どう見ても主はヨセフの子で、大工としか見えず、信 仰の対象などでは無かった。 そのため、主からの御言葉を受け入れられない。「ヨセフの子」 「この人は大工」の言葉は、人々の心から恵みを奪い、消した。メ シヤとして受け入れないので、御言葉が受け取れず、信仰が生じる 事が無かった。預言者は、自分の郷里では歓迎されないと、人々の 不信仰に嘆かれた。 私たちも、どうだろう。自分の価値観、肉の見た目、判断によって、 御言葉を聞くなら、受け入れる事ができない。肉の思いと判断が優 先し、御言葉を打消し、捨ててしまう。そこに気づけて、御言葉に 立てるよう、御霊により気づきが与えられるよう、いつも祈ってい よう。 ------------------ 自分の価値観や直感が大切な主の御言葉の邪魔をする。主は何を語 られているのだろうか。素直な心で聞きたい。豊かな御言葉の意味 を知り、悟れるように祈りつつ御言葉に向かおう。
2025年05月21日(水) 「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に はいって来る物は人を汚すことができない、ということがわから ないのですか」マルコ7:18
「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に はいって来る物は人を汚すことができない、ということがわから ないのですか」マルコ7:18
この世の考え、生まれつきの価値観では、外側から入るものが、人 を汚すと思う。生い立ちが不幸だった、ひどい境遇だった、親が悪 い、社会が悪い・・だから、子どもは非行に走り、大人は犯罪を犯す と。環境さえ良くなれば、社会さえ良くなれば、人は良くなり、悪 い影響を除けば良いのだと。特に日本人は性善説だ。 しかし親が幾ら愛を持って育てても、又、環境は良くとも、人は罪 人であるので、ある人は欲望のために生きるかも知れない。聖書は、 環境が人を汚すのでない、環境は人を汚すことができないと。人は 罪を犯すから、罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのだと。環 境さえ良ければ、善人になるのではない。 「義人はいない。ひとりもいない」「善を行う人はいない。ひとり もいない」と。環境は関係無く、人の心から出るものが人を汚す。 「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不 品行、盗み、殺人・・これらの悪はみな、内側から出て、人を汚す」。 様々な問題がぶつかり合い、争いが起きる。 それらは、人々の心から湧き出て来る問題だ。すべてが内側から出 て来て問題を起こす。心に原因があり、内側から出る「罪」が人を 汚す。主はそのところに十字架で解決を下さった。主の流された血 潮により、私たちの心も良心もきよめられる。 主は罪を赦し、心をきよめて下さる。そして自我まみれ、欲まみれ の古い人は、キリストと共に十字架につけられたと。信仰によって 受け取って行ける。主の血潮によってのみ、私たちの内側はきよめ られる。 ------------------ 父なる神は、主キリストの十字架によって信じる者を義としてくだ さった。どんな環境に置かれても、自分の内から出てくるものは何 も変わらない。神に赦され、きよめられるとは何という恵みと慰め だろう。
2025年05月20日(火) 「神はバラムにに言われた。『あなたは彼らといっしょに行っては ならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されて いるからだ』民数記22:12
「神はバラムにに言われた。『あなたは彼らといっしょに行っては ならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されて いるからだ』民数記22:12
バラク王は、イスラエルが、どんどん勢力を増す事に、恐れをなし た。そのためバラムを雇い、イスラエルを呪わせるよう画策した。 その時に、主はバラムに「呪うな」「行くな」と命令されたのに、 報酬に目がくらんだバラムはバラクと共に行く。進んでいると突然、 主の使いが、抜き身の剣を持って現われ、行く手を阻んだ。 ロバには見えたのだが、バラムには見えなかった。ロバが止まらな ければ、剣で、命が無かったところだ。主の停止だった。ある人が、 念願の進路があり、どうしても進みたい。手を尽くし、懸命に道を 模索した。しかし環境的に閉じられていた。その事で祈っていた時 に、この箇所を通して、御心と反対方向を向いていたので、主が立 ちはだかれたのだとわかった。 思い通りでなかったが、不思議に、心には主の平安が臨んだ。そし て別の遙かに良い道が開かれたのだった。あなたも、もしや反対方 向に向かっているため、主が阻んでおられるだろうか。それはあな たへの愛であり、更に良い道が備えられている。そして又、バラム の道に従うなと言われている。ある人は、目の前の好条件の転職に、 目がくらんでしまったと証しした。 高給で、自分の才能が生かせる条件に心惹かれ、転職した。しかし 仕事は高度で、連日の残業、心身疲労し教会へ行けなくなった。後 に立ち返れたが、肉は、富、地位、自己実現、世の欲に向かってし まう。主のストップを見張り、又欲望でバラムの道に従わない事を、 心して、祈っていよう。 ------------------ その時はわからなくても、後々この道に行くためだったのか、と感 謝した経験はないだろうか。先のことは知らなくても、主のご愛は 信じられる。主の導きを待とう。
2025年05月19日(月) 「・・しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません」 Uコリント12:5
「・・しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません」 Uコリント12:5
パウロは、主から、とげが与えられていた。とげは、身を突き刺す 痛いものだ。どんなに苦痛だったろう。主は求めよと言われるので、 パウロは取り除かれるよう切に求めた。とげは働きの妨げとなり、 これが無ければ、もっと主のために自由に仕えられるのにと。真剣 に徹底的に祈った。しかし主からの答えは「ノー」だった。とげは 除かないと。 なぜなら、主の恵みは十分であり、除くよりそのままの方が、より 主の栄光が現われるのだと。自分ではどうにもならない「弱さ」の 中にこそ、主の力が完全に現れると。古い価値観は弱さを嫌う。こ の世の価値観は、強さこそが善であり、優れていることだ。そのた め強くありたい。だが神の力は「強さ」でなく、「弱さ」の中にこ そ働くのだと。 私たちにも、弱さがあるだろうか。「これさえ無ければ、私の人生 違っていたのに」「こうでなければ、私は幸せだったのに」「この 人さえいなければ苦しまずに済んだのに」「何で、この人が目の前 に」困難に、何度も「これを、あれを取り除いて欲しい」と祈る。 難しい相手を、又、苦しい状況を変えて欲しい。辛くてたまらない、 その中で、パウロは切なる祈りをささげた。徹底的に祈った。 とげが与えられた時には、とにかくまず主に祈ろう。もし御心なら 取り除かれるし、御心ならそのまま置かれる。そしてその弱さの中 で、神の力と栄光が現わされる。その弱さに逃げずに、向き合う時、 キリストの力におおわれ、強ければ決して知ることのできない、主 の大きな恵みを知る。 ------------------ あの弱さも、この問題も、苦しむうちに、これがあるから高慢にな らず主に頼れていると確信をもって言える。多くのことからも守ら れている。主の最善を信じていこう。
2025年05月18日(日) 「私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたの ためにキリストの御前で赦したのです。これはサタンに欺かれ ないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではあり ません」Uコリント2:19
「私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたの ためにキリストの御前で赦したのです。これはサタンに欺かれ ないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではあり ません」Uコリント2:19
ある人が職場で、面と向かって批判され、ひどい言葉で攻撃さ れた。それが筋違いで、なぜ自分に言われなければならない のか、ひどく傷ついた。更に、人々の前でもあり、プライドが傷 つき、怒りが沸き、赦せない思いで一杯になった。しかし人を憎 むこと、赦せない思いは、自分自身が苦しい。 心が重苦しく、悶々状態だ。そんな中、異動があり、その相手は 顔を合わせる事も無くなった。内心ほっとした。正直嬉しかった。 だが、しばらくして気づいた。憎しみは消えない。目の前にいなく なっても、赦せない思い、恨みは強く、辛くてたまらなかった。頭 では、赦せば自由になる事がわかる。 それなら赦せば良いのだが、どうしても赦せない。忙しい時は紛 れて、思いに無いのだが、空いた時間があると、ふっと来て、心 に暗い影を落とす。楽しい時も楽しくなく、牢獄の中の囚人のよう だ。サタンの攻撃も感じる。心重くて、主の御前に行き、ありのま まを打ち明けた。 赦せない事、憎しみ、恨み・・しかし苦しくて、もし解放されるなら そうしたい事・・葛藤があったが、このままではおれない。ずっと 御前で思い巡らし、考え、祈り、赦すことを決意した。意志を持 って行った。「赦します。助けて下さい」と祈った。するとあれほど 苦しかった心が、落ち着いて驚いた。主のみわざだった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 赦すことは非常に難しい。しかし、苦しいのは、相手でなく自分 だ。人にはできない事が、神にはできる。いろんな人々が、赦 す事を、主の取り扱いのもと経験していて、そのプロセスも、 人により様々だ。主に求めよう。自分にふさわしく導いて下さる。
2025年05月17日(土) 「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは 私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるよう な暑さを辛抱したのです」マタイ20:12
「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは 私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるよう な暑さを辛抱したのです」マタイ20:12
一人暮らしの女性が、歳末になり、街が華やかに輝き出すと、 寂しくてたまらなくなると言った。巷がにぎわい、家族団らんが 溢れる年末年始は、ひどく孤独に感じた。周囲の楽しげな光 景を見ては、主は不公平だと、又、なぜ与えて下さらないのか と、不満と共に心が沈んだ。 主にぶつけて、祈っていた時に、ふと、ぶどう園の労務者の 箇所で、気づきが与えられた。早朝からぶどう園で働いた人た ちは、賃金を契約し、満足だった。仕事にありつけて、報酬も 約束され、一日の労働を終えるなら、糧を得て帰宅できる。 妻子の喜ぶ顔も思い、励みになったろう。賃金の保障により、 暑さの中も平安もって働けた。 ところが賃金支払い時に、隣と比較した途端、感謝と平安が すべて吹っ飛び、不平不満と怒りで、一杯になった。もし比較 が無ければ、与えられた報酬に、感謝し満足して帰れただろう。 彼女は、外側の事でなく、自分の心の態度の問題と気づいた。 人との比較でなく、また自分の理想や、思いとの比較でもなく、 境遇を主からのものと受け止め、そこで上を仰ぎ、主に従って 行くなら、来る日も〃平安でいる事ができるのではないか。 主に出会う以前、自分を量るためには、人との差異でしか量り ようが無い。そのため、比較は、誰しもに根深く培われている世 の価値観だ。主は少しづつ〃変えて行って下さる。まず比較に 気づけた時に、その事に感謝しよう。御霊は気づきを与えて下 さる。心を自由に〃して行って下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 比較に目が行くと感謝が失せ、不満でいっぱいになる、平安は 消え、妬みに捕らわれる。比較が、自分自身も根深い価値観に ある事を、まずわきまえて、その度に御霊の気づきが与えられ、 導かれるよう祈っていよう。少しづつ〃変えて行って下さる。
2025年05月16日(金) 「見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた・・今、行け。 わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人 をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:9
「見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた・・今、行け。 わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人 をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:9
羊飼いのモーセが、突然、主から「パロにもとに遣わす、イスラエ ルの民をエジプトから連れ出せ」との言葉を受ける。突如の難題に 会う時、誰でも大きな恐れと不安に襲われる。モーセは、なぜ自分 が、そんな事をしなければならないのかと問う。モーセは今や80歳 であり、以前40歳の時に、同胞を救出しようとして失敗し、こりて いる。 この年老いた者に、今さら何を?今の自分には何の力も無く、更に 老齢で、体力も衰えている。だが主は、40年前でなく、今のモーセ こそがふさわしいと言われる。尻込みするモーセに「わたしはあな たとともにいる。これがあなたのためのしるし」だと説得して行か れる。「しるし」とは、証拠であり保証だ。主が共におられるとは、 これ以上の保証は無い。 これが現実なら、これにまさる強みはない。これがすべてだ。私た ちの信仰人生も同様だ。どんな時も「わたしがあなたと共にいる」 と主が一緒におられ、「わたしがあなたを遣わす」と、今の場に遣 わして下さっている。私たちが、自分ですべき事を決めて、自分で 行き、自分の力で成し遂げるのでは無い。主が、私たちを遣わされ ている。たまたま、偶然、今の場にいるのではない。 その場で、主からの使命があり、それをも、主が成し遂げて下さる。 そして主は、モーセが血気盛んで、何でも出来ると思っていた若い 時でなく、栄誉も地位も富も人脈も、何も無い一介の羊飼いである、 80歳のモーセを選ばれた。無力な、ただ主にすがる者を用いられる。 ------------------ どんな時も主が共にいてくださることを喜ん進もう。自分では計り 知れず、想定外ばかりだが、主が定められた場所や時だ。主を認め て明け渡したい。主は、いつも共にいると語ってくださる。
2025年05月15日(木) 「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり 信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい」コロサイ2:7
「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり 信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい」コロサイ2:7
主は「感謝せよ」「あふれるばかりに感謝せよ」と言われる。私た ちは問題が起きた時、どうだろう。とにかく悩みを解決して欲しく て、必死だ。祈りは切実となる。そして祈りが聞かれ、問題が解決 すると、あんなにしがみついて祈ったのに、祈りは省略となる。 感謝はどこへ行ったのだろう。 苦しい時の神頼みで、答えられた時に感謝はするが、一時的だ。問 題が無くなった途端、自分の力で生きて行く。主が飛んでしまう。 人間の弱さで、すぐに感謝を忘れる。十人のらい病人の箇所で、主 は感謝するのために戻った、サマリヤ人を大変喜ばれた。「イエス の足もとにひれ伏して感謝した」。「九人はどこにいるのか」と主。 九人はもう大歓喜で、大興奮で主のもとを去り、どこかへ行ってし まった。私たちも、病気の時は、普通に生活できている事が、実は 大変な恵みだとわかる。しかし元気になった途端、すべてが当然と なり、感謝が失せてしまう。入院した人を見舞った時に「朝毎に、 ああ今日も起きることが出来て感謝だなあと、心底の感謝に溢れま すと。 普段は当り前で、そんな事思った事もないのに。病気になった事も 感謝です」と。」「感謝が足らない者です」と、主の御前に祈って 行こう。感謝して行く人に、感謝を増し加えて下さる。そして感謝 はサタンの足場を砕く。 ----------------------- 夜には朝までの守りを祈っても目ざめと同時に動き始める。本当に 感謝の少ない者だ。今、守られている環境、与えられているもの、 溢れている恵みに感謝し、一日を始めたい。
2025年05月14日(水) 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに 落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった」 マタイ13:3
「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに 落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった」 マタイ13:3
主は、私たちに御声をかけ、御言葉によって、御心を示して下さる。 ところが、私たちはメッセージを毎週聞いているのに、なぜ自分の 事として、聞こえないのだろう。物理的に耳に聞こえているが、心 の耳に聞こえていない。聞きたくないというわけではない。むしろ 拒否するならわかりやすいが、拒否するのではなく、聞いている。 しかし、傍観者のように聞いているだろうか。それなら悪魔が、御 言葉の種が心に落ちる前に、奪って行くと言っている。道ばたに落 ちた種だ。御言葉を拒否する気は無いので、気づかない。右から左 に流れて行く。なぜ聞こえないのだろう。真剣に受け取ろうとして おらず、従うつもりが無い。ぼお〜っと聞いている。 聞く事は支障がないので、良いお話と聞くが、犠牲は払うつもりは 無いので、心が受け取らない。そこで他人事のように聞いてしまう。 犠牲が必要な御言葉は、無意識に退ける。御言葉が、心にぐいぐい と入る時は、自分が従おうとしている時だ。御声に従い、自分が変 わろうとの思いがある時に、御言葉が心に刺さり、響いて来る。主 の言っておられる事がわかる。 種蒔きの例えの土地は心だ。自分の側の心の態度は非常に重要だ。 表向きは聞いているが、心の奥では拒んでいたりする。無意識か、 うすうす感じているかも知れない。あなたの心はどうだろう。聞こ えては困るだろうか。成長は気づきから始まる。気づきは御霊の働 きであり、愛だ。従う時に、自分が変えられて行く。 -------------------- 受け取りたくないから流している。気づけたところから変わりたい。 主の前に弱さを認め、そこに力をくださる主に信頼していこう。出 来るか、出来ないかより自分の事として御言葉を受け取りたい。
2025年05月13日(火) 「『だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか』と言って人々が 拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現われた御使いの手によ って、支配者また解放者としてお遣わしになったのです」 使徒7:35
「『だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか』と言って人々が 拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現われた御使いの手によ って、支配者また解放者としてお遣わしになったのです」 使徒7:35
私たちの人生で、最も危険な時とは、私たちが無力の極みで、弱っ ている時ではなく、自信がある時だと言われる。自信満々の時が最 も要注意だと。モーセも40歳で、地位も富も権力も能力も、何もか もを持ち、我こそはと、同胞の救出に立ち上がったが失敗した。 ペテロも自信満々だった。 主が、皆、つまずくと言われた時、全部の者がつまずいても、自分 は大丈夫と豪語した。決してつまずかないと。ペテロは知らなかっ たが、自分の力に頼り、又、自分の弱さを知らなかった。主の言葉 通り、ペテロは三度、主を呪いをかけてまで誓って否定した。主を 裏切ってしまった。しかし主は、ペテロが失敗しないようにではな く、信仰が無くならないようにと、祈っておられた。 モーセは老人になった80歳の時に、栄華も地位も力も、何もかも失 せた時に、民を解放するために、指導者として立てられ、用いられ た。自分では、今更何ができようと思ったろう。主が用いられるの は、屈強な軍馬でなく、ろばの子だ。号泣したペテロは、自分の本 当の姿を見せられた。情けなく弱い、惨めな自分の姿、もう弟子の 資格もなく、ふさわしくないと思ったろう。 しかし主は、その砕かれたペテロこそふさわしいと、ペテロを回復 させ、建て直し、諸教会のリーダーとして用いられた。「立ち直っ たら、兄弟たちを力づけるように」と。自分に何も無い、無力を知 る時こそ、実は恵みの時だ。豊かな祝福へと導かれる。 -------------- 有り余る力があると、何かに追われるように動き、働いてしまう。 失敗を通して主に教えられる。弱さの中で、主に頼れる恵みに感謝 し、主に導かれていこう。
2025年05月12日(月) 「ユウオデアに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主に あって一致してください」ピリピ4:2
「ユウオデアに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主に あって一致してください」ピリピ4:2
この前の節で、ユウオデヤとスントケに、主にあって一致するよう にと勧めている。教会宛の手紙に、個人名を出してまで勧めている。 その具体的な状況はわからないが、何か争いがあったのか、一致が 無かったようだ。周囲にも彼女たちを助けるようにと懇願している。 そしてそのような中で、「喜びなさい」と繰り返し二度言っている。 状況的には喜べない問題の最中にあって、状況がうまく行っている から喜ぶのでなく、「主にあって」喜べと言う。状況でなく、主だ。 ラッキー、ハピーな事、喜ばしい事があれば、誰でも喜べる。だが、 誰しも悩みの中では、落ち込み、重苦しく、暗くなり、沈み込んで しまう。教会内でも仲違いがあり、喜びとは真逆の感情に向かって しまう。しかし、主にあって、信仰によって喜べると。 そして「寛容な心をすべての人に知らせよ」と。十人十色で、十人 いれば、皆、意見や考え方は違い、好き嫌いも違う。生い立ちがや 境遇が違い、価値観が違うから当然だ。しかし皆、背景の違う人々 が、「主に在って」なら一致できる。主が接点だから。主は一つ、 信仰は一つだ。自分の思い、肉の思いを捨てて、皆が、主の御心を 求め、御言葉を求めるなら、そこには必ず一致がある。 そしてそこに立つ時に、違う人々が受け入れ合える。そして、「何 も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもって」祈れと。こ とごとく問題を、悩みを、そのまま主のもとに持って行き、主に打 ち明けてよと。何があろうと、何も思い煩わなくてよいとは、何と いう恵みだろう。今、抱えている問題をそのまま主に持って行こう。 --------------- お互いに妥協して一致を、との肉の思いではなく、主にあって、共 に主を仰いで、御霊によって一つ思いになりたい。裁いたり、赦せ ない思いがあれば、主に祈っていこう。
2025年05月11日(日) 「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚 の民に。家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ」エレミ ヤ29:5
「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚 の民に。家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ」エレミ ヤ29:5
エレミヤの時代、イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、捕虜として連 行された。そしてアッシリヤは、バビロンに滅ぼされた。バビロンは 侵攻し、国々を滅ぼし、とうとうユダもバビロンに捕囚となった。当時 のユダは神から離れ、偶像礼拝に走り、堕落していた。預言者たち は人に取り入るため、耳ざわりの良い、心地良い言葉を語り、平安 が無いのに「平安、平安」と言った。 しかしエレミヤは、真っすぐに神の言葉を語った。それは人々には 痛い言葉であったので、エレミヤは人々から苦しめられた。バビロ ン捕囚のさ中、状況は真っ暗な中で、エレミヤは、一見「災い」とし か見えないが、しかし「平安と将来と希望」のためのものだと。すぐ に解放にならないので、その地で腰をすえて地道に生活せよと告げた。 そして敵である「その町の繁栄を求め、そのために主に祈れ」それ は自分たちの繁栄になるからと。私たちも苦しい時、一番欲しい言 葉が「即、解決」「即、悩みから解放」だ。しかし口先だけの励ましは、 更に傷を深める。足かせである苦しみ受け入れる時、その中で主か らの支え、励ましにより生きて行ける。 現実を受け入れられるよう祈ろう。いつまでも苦しみのままでなく、 「あなたがたを帰らせる」と。現状を受け止め、主に従って行こう。 そこに「平安」が約束されている。そして主の時に、苦しいかせから 解放して下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 悩み、問題に遭遇するが、問題と自分から目を離し、主に焦点が 合うと、心が落ち着いてくる。そして祈りと御言葉により、問題に当 たって行く時、違う見方で見え、自分の見方が変えられる。問題に 向き合うようにして下さる。
2025年05月10日(土) 「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一 羽でも、神の御前には忘れられてはいません」ルカ12:6
「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一 羽でも、神の御前には忘れられてはいません」ルカ12:6
当時、雀は小さく、価値の無い、無力なものの代名詞だった。誰 にも気に留められないような存在だ。アサリオンは一番安い値で あり、最も安値で売られている雀だが、そんな雀の一羽でも、主 に忘れられていないと。又、主の許しがなければ、地に落ちるこ とがないと。主の目に留められ、常に堅く守られている。 ましてや雀より遙かにまさっている私たちの事を、片時も忘れられ る事はなく、ずっと主のまなざしが注がれている。何と嬉しい事だろ う。時に挫折感に襲われ、自信を失い、自分の無力を憂い、役に 立たない者と思う事があるかも知れない。しかし主の深いご愛が 注がれ、その愛は、どうであろうと、決して変わる事が無い。不変 だ。そして「あなたがたの髪の毛さえも、みな数えられている」と。 何と髪の毛の数まで知り、あなたの髪の毛の数をご存じだ。つま り、主は全知であり、全主権を握っておられる。主の許し無くして、 何一つ起きないので、あの事も、この事も、偶然は一つも無く、た またま起きたのでは無い。主の計らいだ。ご計画の内だ。だから 「恐れることはない」と。 私たち一人一人の何もかもをご存じで、私たちの一日一日を、人 生を支配し、慈しみ、見守り続けて下さっている。突然、何かが起 きようと、どんなに厳しい状況になろうと、大丈夫だと。主の許しの 中で、主権の中で、ご計画の中で、起きていることを覚えよう。主の まなざしが注がれていることを覚えよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 何という恵みの中だろう。御父の許しがなければ、雀一羽さえ地 に落ちない。次から次と様々、事が起きるが、すべてが御手とご 計画の内である安心感。ほんろうされているのでなく、主のプラン の中に堅く守られている。そこを見つめて立っていよう。
2025年05月09日(金) 「あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っ ている者たちや隠れている者たちを、あなたの前から滅ぼされる」 申命記7:20
「あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っ ている者たちや隠れている者たちを、あなたの前から滅ぼされる」 申命記7:20
主は、国々を「徐々に」追い払うと言われた。すぐに滅ぼすことは できないと。野の獣が増して襲われることのないようにと。主は、 私たちの生まれつきの根深く培われた性質や、習慣を「徐々に」変 えて行って下さると。今すぐに、自分が変わっていなくても、常に、 私たちには希望がある。主が「徐々に」キリストのかたちへと造り 変えて行って下さる。 ある人が、祈って仕事に就いたが、なかなかうまく出来なかった。 どうしてもミスをしてしまう。出来ない事に落ち込んでしまう。先 輩に相談した。すると、すぐには無理で、時間がかかると。時間を かけながら、少しづつ出来るようになれば良いと。主が「徐々に」 と言われた言葉と合致し、平安にされた。 ある人は、やはり同様に、仕事が難しく自分に合ってないのかと、 悩みながらの日々だった。なかなか成果も出ず、悶々の中、祈りに 祈っていた。主に拠りすがりついた。祈りの中で、「徐々に」と教 えられ、少しづつ技量を身につけさせて下さり、必ず出来るように して下さると信じれた。すると結果が出るようになった。 そして、つまずき無く、すべてがスムーズに行っていたら、こんな にも祈り、主に拠りすがることは無かったと感謝した。「野の獣が 増して襲われることのないように」自分が高慢になることから守ら れるためであることも知った。今すぐ変われず、今すぐ出来なくて も、主が必ず「徐々に」成し遂げて下さる。 ------------- 失敗ばかりで、大きなことは何も出来ないが、一つの導きに従い、 御霊の結実をみたなら、自分の中に大きな喜びが生まれる。その 喜びは主が与えてくれる信仰生活の糧だ。大切に味わい歩める。
2025年05月08日(木) 「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう 年寄りですし、妻も年をとっております」ルカ1:18
「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう 年寄りですし、妻も年をとっております」ルカ1:18
夫のザカリヤは祭司であり、妻エリサベツもアロンの家系で、共に 主に従う人であった。だが、大きな悩みがあり、エリサベツは不妊 で、夫婦共に老齢であった。長い間、夫婦で切に祈って来たことだ ろう。突然、主の使いが現われ「あなたの願いが聞かれた」と告げ る。妻に、男の子が与えられると。そして、その子はイスラエルの 人々を神に立ち返らせ、メシヤのために道を備えると。 突如の驚くべき事で、大きな喜びだ。子どもが与えられ、更に、長 く待ち望んだメシヤがもうすぐ来られるとは。しかし、ザカリヤは、 信じる事ができない。状況的に、常識的には考えられない、不可能 な事であり、何によって信じれるのかと、証拠を求めた。すると彼 は、不信仰のため口がきけなくなった。私たちも主の言葉と状況が 相反する時に、信じられないだろうか。 だが、「不可能」の土壌だからこそ、奇跡が起きる。奇跡のために は、「不可能」でなくてはならない。主はザカリヤをおしにされた。 彼はその期間、主を仰ぎ、主の言葉を思い、握りしめ、反すうした 事だろう。不信仰が信仰へと導かれ、子どもが生まれた時には、主 の命令通り「ヨハネ」と名付けるように伝えた。 その途端に「彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるように」なっ た。主に従ったからであった。彼は「神をほめたたえた」。目に見 える所と御言葉が相反する時には、主の言葉に立とう。難しければ、 そうできるよう祈ろう。御霊は助けて下さる。「主によって語られ たことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」 。 --------------- 不可能が、奇跡のための土壌とは何と感謝なことだろう。必ず祝福 に代えられる。目の前のことは強い影響があるが、主の御約束を握 り、必ず主のご栄光を拝することを信じ待ち望みたい。
2025年05月07日(水) 「というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じること は、神のみこころだからです」Tペテロ2:15
「というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じること は、神のみこころだからです」Tペテロ2:15
信仰者である私たちは異邦人の中で生きている。主は、「異邦人の 中にあって、立派に振るまうように」と。ノンクリスチャンは、私 たちの生き方を見ていないようで、しっかり見て、観察している。 主は「立派に振る舞え」と言われる。信仰は、常識を超える事はあ るが、決して主は非常識なお方ではない。愛は礼儀に反する事をし ない。信仰者として法律を、社会のマナーを守って行く必要がある。 人々は聖書は読まないが、クリスチャンという人がどんな生き方を するのか、その生き様を通して、聖書を知る。クリスチャンは「歩 く聖書」と言われる。「御霊の実は、愛、喜び、平安・・」、世の人 々が、渇望しているのが、「愛」「喜び」「平安」ではないだろう か。人が求めるものは愛であり、誰しも愛し、愛されて生きたい。 それが得られないので、他のもので心を満たそうとする。 又、外側からの刺激による喜びしか、世にはない。何か嬉しい事、 楽しい事があるから喜べる。しかし、私たちの喜びは、外側に依存 していない。内側から湧き上がる御霊の喜びだ。又、恐れ、不安、 思い煩いの中にいる世の人々にとって、平安は何と魅力的だろう。 これこそが欲しいものだ。主を第一として、ゆだねて生きる時、こ の平安が与えられる。 又、厳しい試練にあっても、世のものでない「主の平安」を経験す る。それらは内側から湧く。御霊の愛、喜び、平安がある時、私た ちに弱さや失敗はあっても、何かが違うと人々に思わしめる。振る 舞いを見て、神を誉め讃えるようになると。辛い事もあるが、従っ て行こう。報いて下さる。 --------------- すぐに外からの刺激に右往左往してしまうが、主を知り、主の光の 中に招き入れられている。混じりけのない御言葉を求め、従い、変 えられて行きたい。良き証しとされる。
2025年05月06日(火) 「しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった」 マタイ15:23
「しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった」 マタイ15:23
カナン人女性が、悪霊につかれた娘のいやしを求めて、主に叫んだ。 「主よ。ダビデの子よ〜」と。しかし主は無言であった。余りにも 叫び続ける女性に、弟子たち皆が閉口し、何とかするよう、主に願 ったほどだ。そんな必死な女性に、主は「イスラエル以外には遣わ されていない」と冷淡に見える対応をされた。女性は異邦人であり 「ダビデの子よ」と言う立場にはないからだ。 実は、主は、彼女を正しい道筋へと導いておられた。女性は決して 引き下がらず、「ダビデの子」をはずし、尚もひれ伏し助けを求め た。次に主は「子どもたちのパンを小犬にやれない」と、拒否され た。しかし実際は、彼女の信仰を試しておられた。それに対し彼女 の反応は「主よ。その通りです」と何と受け入れ、認めたのだ。 怒りや突っぱりや、ひねくれず、不信仰にもならず、諦める事もせ ず、自分は異邦人であり、資格のない事実を、まっすぐに認めた。 彼女のへりくだりだった。そして「小犬でも食卓から落ちるパンく ずはいただく」と。彼女は与えられる資格の無い者だが、主はあわ れみのお方と心底信じた。必ずあわれんで下さると。だから絶対に 諦めず、尚もすがりついて行けた。 主は、拒否されても〃、尚も信じ求める「信仰」を見られた。その 信仰を立派だと賞賛され「願い通りに」と、娘はいやされた。「そ の通りです」と認めるへりくだり、又、まっすぐにどこまでも、主 のあわれみを信じる「信仰」を教えられる。主は、私たちをも、あ われんでいて下さる。どんな状況下でも、あわれみを求める事がで きる。 --------------- 彼女の謙遜で力強い信仰に教えられる。本当に主のあわれみを求め る他に術のない者だ。へりくだり、主の恵みを受け取りたい。 導きを信じて求めていこう。
2025年05月05日(月) 「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、 まずああたの兄弟と仲直りしなさい」マタイ5:24
「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、 まずああたの兄弟と仲直りしなさい」マタイ5:24
ある人が友人と喋っている時に、ひどい言葉が出てしまい、友人を 傷つけてしまった。悪気が無かったというものではなく、醜い自我 から出た事であり、はっきり自分の罪だった。御霊に罪を示され、 御前に悔い改めた。御霊は、友人にも謝罪するよう言われた。しか し自分の自己中による恥ずかしい失敗であり、愚かさであり、プラ イドがひどく傷つく事で、したくない、回避したい事であった。 しかし、これ又、更に醜い自我であり、肉そのものだった。このま までは苦しく、平安も喜びも無い。ついに示しに従い、傷つけた相 手、嫌な思いをさせた周囲の人々にも謝る決心をした。赦してもら えなくても当然だった。だが、勇気を出して詫びた時に、相手は快 く赦してくれた。赦される事の嬉しさ、飛び上がるばかりの喜びを 経験した。 平安が溢れ、心が満ちた。自己中により、人を傷つけ、辛い経験だ ったが、それをも益とし、大きな喜びを下さった。「兄弟に恨まれ ている」事を語っている。何か争い、行き違いがあり、相手に恨ま れているなら、まず「自分の方から」謝罪するようにと。相手の立 場に立ち、考える態度だ。 争いになると自分を正当化したい。相手から謝るならまだしも、こ ちらからなど有り得ないと思う。しかし相手がわだかまっているよ うなら、こちらから行って解決せよと。それは、大切な礼拝を後回 しにしてでも、まず和解を優先と。今、和解すべき相手が浮かぶな ら、祈って行こう。主が力強く導いて下さる。 --------------- 強固な自我がしっかりと自分を守っている。そこを主は礼拝を後に しても和解せよと言われる。自分の思いではなく、主に従えるよう 祈ろう。主が導いてくださる。
2025年05月04日(日) 「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいる なら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての 罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7
「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいる なら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての 罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7
よく「他人と過去は変えられない」と言われるが、日常生活の中で、 目の前の事でなく、過去を思い、くよくよする事があるだろうか。 普段は目の前の生活に追われ、忘れているが、何かがあると、 過去のあの失敗、この過失、その傷が思い出されるだろうか。 フラッシュバックし、心が暗く、重苦しくなり、落ち込むだろうか。 すでに主の御前に悔い改めたその事は、主の十字架の血潮に よって、完全に赦されている。「御子イエスの血はすべての罪か ら私たちをきよめる」にかかかわらず、又、ほじくり返しては悶 々とする。あの判断ミス、この時の選択の失敗、もしあの時、こ の時、別の選択をしていたらと。又、逃してしまったチャンスに くよくよする。 あの時・・、この時・・こうしていたら、今、自分の人生は全く違っ た結果になっていたのでは・・堂々巡りしては後悔する。しかし、 心の奥にとがめや後悔、不安がある時、前進が出来ない。足を 引っ張られ、感謝と喜びが消されてしまう。過去のその所に主を 認めよう。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出 すことはしない」と主は宣言されている。 罪は完全に赦され、主が思い出さないと。全き赦しを受け止め、 感謝しよう。くよくよの後悔を、きっぱり赦しの感謝に変えよう。 それが主の喜ばれることだ。主の摂理と御心を認め、信仰もっ て受け入れよう。受け入れた時、後ろのものを忘れ、前に向か って、ひたむきに前進して行ける。頭の罪の赦しなら、しっかりと 今一度受け止められるよう祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」「罪を二度と思 い出さない」と主は言われる。自分の記憶に罪はあるが、悔い 改めた罪は、主には真っ白で、二度と思い出されない。主の 視点に絶えず立てるよう祈ろう。
2025年05月03日(土) 「彼は・・『私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った』と言 った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た」ヨハネ1:41
「彼は・・『私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った』と言 った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た」ヨハネ1:41
ある人が証しした。若くして結婚し海外転勤となり、見知らぬ地に 住んだ時、隣家の夫妻が大変親切にてくれた。何もわからず不 安の中で、様々必要な店や、諸事務的な対応、近所の様子や 情報を教えくれた。常に、快く対応してくれた。その夫妻がクリス チャンで、よくお茶や食事に招いてくれた。教会で特別集会があ り、誘われると、行きたいと思い夫婦で出席した。 その日、目を閉じた祈りの中「信じたい人は手を上げて下さい」の 招きに、夫婦共に手を上げていた。集会後に知り、双方で驚いた。 隣家の夫妻の愛情に、心が耕されていた。別の人も同じようだっ た。引っ越し先で、隣家のクリスチャン夫妻の親切を受けて、様々 助けてもらい、大変有難かった。教会に誘われた時に、自分は無 宗教と思っていたので、普通なら行かないが、親切の恩義があり、 お返しのつもりで行った。 その日、御言葉はよくわからなかった。しかし教会の人々はやさし く、隣家はずっと温かく接してくれて、聖書はわからないが、嫌で は無いので、続けて通っていた。わからないまま聞いていた、ある 時、突然心に御言葉がぐいぐい入り、罪が示され、悔い改めに 導かれた。主を信じ心に喜びが満ちた。 私たちは、人々を主のもとに連れて行くことができる。主に喜ばれ る、尊い働きだ。愛の行ないも、そのために用いて下さる。誰かを、 主のもとに連れて行けるよう、又、主からの機会を捕らえて、主に 喜ばれる事を行なって行けるよう、まず祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 知人に誘われて、何気なく教会に行ったが、御言葉にとらえられ、 救われたとの証しを、時折耳にする。求めて〃辿りつく人やら様々 だ。聞いたことの無い方を信じることができない。伝えたい人の 名前を挙げて祈ることから始めよう。
2025年05月02日(金) 「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動か ずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ・・恐れてはなら ない。気落ちしてはならない」U歴代20:17
「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動か ずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ・・恐れてはなら ない。気落ちしてはならない」U歴代20:17
ユダ王国がアモン、モアブ、セイルの大軍に攻められ、絶体絶命の 緊急事態となった。ヨシャパテ王は、主を求めて全国に断食を布告 し、民も主を求めた。この大軍勢に当たる力は、自分たちには無い と告白し、主に目を注ぐのみだと。その時、主の霊によりヤハジエ ルが告げた。 「大軍に恐れるな、気落ちするな、この戦いは神の戦い、主が共に いる。あす、彼らに向かって出陣せよ」と。王はその言葉を受け、 民に、主を信じ前進するよう励ました。その時に、賛美隊が軍の先 頭に立ち「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と賛美の声を 上げた。そして戦う前に、すでに得たりと感謝した。 すると主は伏兵により、攻めて来た敵の大軍を襲わせたので、彼ら は打ち負かされた。敵の死体が野に転がり、逃れた者は一人もいな かった。主の奇跡により、大勝利した。出陣の際には、見えるとこ ろは、敵はおびただしい大軍だ。100%勝ち目はない。敗北が見え ていて、恐怖でおののいてしまいそうだ。 だが、見えるとことでなく、主を信じ、賛美の声を上げた時に、実 際に奇跡が起きた。「地のすべての王国が、神がイスラエルの敵と 戦われたと・・聞いた時、神の恐れが彼らの上に臨んだ」。今、困 な問題があるだろうか。それは主の戦いで、主が成し遂げて下さる。 主を信じ感謝を献げ、主の示しに従おう。主は伏兵を備えて、勝利 を下さる。見える所と主の言葉と、どちらに立つだろうか。 --------------- 困難に遭遇するとき、祈り助けを求める以外に何ができるだろう。 困難がすべて感謝に変えられることを信じ、主の御言葉に立とう。 一歩踏み出す前に、主が働かれている。
2025年05月01日(木) 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく 者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方 であることとを、信じなければならないのです」ヘブル11:6
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく 者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方 であることとを、信じなければならないのです」ヘブル11:6
ある人が、まとまった費用が必要になり、すぐ返せるからと、よく 考えもせずに、軽い気持ちで金融機関から借金をした。ところが大 きな利息になり、又、諸事情も重なり、返済できず大変な事態にな った。とうとう自分ではどうにも出来なくなり、恥ずかしくて誰に も言えなかったが、牧師に告白し、祈りもせず軽はずみであった事 を悔い改め、一緒に祈ってもらった。 主は祈りに答え、奇跡的に必要を備えて下さり、無事に完済できた。 その事を通して、様々教えられた。すぐに金融機関から借金をせず に、まず祈るべきこと。主は必ず必要を与え、又なすべき事、導き を与えて下さったであろうこと。 「神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あな たがたの必要をすべて満たしてくださいます」の言葉を、頭ではよ く知っているが、自分は信じていない事を思い知らされた。 主が与えて下さることを、信じられないから、自分が動き回り、自 分の思い、判断で行動したこと。主を信頼する事ができない、不信 仰な自分の姿を見せられた。 非常に手痛い、恥ずかしい失敗であったが、主は益として下さった。 この取り扱いを通して、主のあわみによる奇跡を経験して、どんな 状況であれ、祈るなら、主に頼るなら、助けて下さると、今は、信 じることができるようにされた。大きな一歩前進であった。主は、 私たちの内側を照らし、成長へと、手を取って導いて下さる。 --------------- 自力でできる事はまずやってしまおうと動きがちだが、大きな問題 でなくても、日々、祈り、小さな思い煩いもその度に主に渡してい きたい。主に近づき信仰をささげていこう。