2025年06月30日(月)

「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、 助けと救いがユダヤ人のために起ころう」エステル4:14 



当時の王妃であるワシュテイが退けられ、エステルが、その代わり
に王妃とされた。エステルは、父母と死別し、養父モルデカイに育
てられた。悪人ハマンが、ユダヤ民族絶滅の陰謀を企てた時に、モ
ルデカイの指示で、この新しい王妃エステルが王のもとへ行った。
そして、自分の民族のために、王にあわれみを求めたので、ハマン
の邪悪な企みは阻止された。

王妃であり、黙っていれば、命は助かり、地位も安泰だ。しかし彼
女は同胞を救うために、「死ななければならないのなら、死にます」
と、自らの命をかけて、王に同胞の救いを求めた。エステルにより
学べる。捕囚の民として異国で生まれた事も、時ピッタリに王妃に
なった事も、このユダヤ人の重大な危機のためだった。

同胞を救うために、主の完全な配剤であり、時も、環境も、支配の
もと今の場に置かれた。私たちも成育歴が、皆、違う。だが、どう
であれ、今までの過程は、神の摂理であり、ご計画だ。今、思いと
違い、厳しい現実であっても、今の場で主の御心があり、ご計画が
ある。あなたへの使命がある。

エステルは困難な中で、死を覚悟し、自分を全く主にゆだねた。危
急の時には、方策や手段を必死に捜し回る。しかし方法でなく、主
が、全く明け渡した人を通して、ご自身のみわざをされる。今の場
は、主が遣わされた場だ。目に見えるところでなく、主の視点と御
言葉に立ち、自らのなすべき事を祈っていよう。
--------------
方法や手段を探して動く前に、主に明け渡し、御霊に導かれる事を
していくなら、どれ程のことが出来ただろう。今の場所に、主を認
めて、今するべき事をしよう。


2025年06月29日(日)

「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行 なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じない のか」民数記14:11



せっかく出エジプトを果たしたイスラエルの民が、不信仰になり、
カナンに入れず、荒野で滅びてしまった箇所だ。場所はカデシ
ュ・バルネア、部族から1人づつ12人の斥候たちが、カナンの
地を偵察に出た。戻ったヨシュアとカレブは、「素晴らしく良い地だ。
上って行って占領しよう。必ずできるから。彼らは私たちのえじ
きとなる」と言った。

しかし他の10人は「あの地には攻め上れない。民は私たちより
強いから。私たちは自分がいなごに見えた」と恐れて怯えた。別
々のものを見たのでなく、全く同じものを見て、正反対の反応が
出た。どこが違ったのだろう。10人は「あの民は私たちより強い」
と、アナク人と自分たちを比較した。そして攻め上れないと結論づ
けた。しかしヨシュアとカレブは「主が」と、主とアナク人を比べた。

主が共におられる。彼らはえじきとなる。占領できると。2人はま
ず「主」を考え、状況を見た。しかし、10人はまず「自分」を考
え、状況を見た。その結果、民に不信仰がまん延し、その夜、全
会衆は、恐れて大声で泣き明かした。死んだ方がましだ、エジプト
へ帰ろうと。この不信仰に陥った民はカナンに入れず、荒野で滅
でしまった。

五千人の給食の箇所で、ピリポも主に試された。「どこからパン
を買い、人々に食べさせようか」と。ピリポは、所持金を見て、不
可能と結論した。しかし、主は、所持金でなく、主には出来る、と
の「信仰」を求められた。あなたにも、今、その信仰を求めておら
れるだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・
目の前に難題がそびえ立ち、解決不可能に見え、どうにもならな
いだろうか。しかし、主にはどうだろう。自分には不可能だが、主
には可能ではないか。その視点に立って、主に信仰をお献げしよ
う。主に解決して頂こう。


2025年06月28日(土)

「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装す るのです」Uコリント11:14


悪魔の特に巧妙さは、誘惑する時に、光の御使いに変装する事
だ。「サタンさえ光の御使いに変装するのです」。つまり神に見せ
かけ、霊的な事に見せかけ、正しい、良い事、麗しい事に見せる。
そしてクリスチャンと同じ者だと。目的のために手段を正当化さ
せる。目的が正しければ、手段は構わない、目的さえ遂げれば
良いのであって、結果オーライだと、誘惑して来る。

子どものためだと、過干渉、過保護の、親のエゴを突き進める。
家族に楽をさせるため、豊かな生活させるためと、神を離れ、金
銭的にどんどん貪欲へと向かう。巧妙に、誤った方向に誘導され
てしまう。これは悪魔の誘惑だ。主は、目的も手段も、聖い、正し
い事をされる。主は、人間に自由意志を与えられた。

この自由意志は、神も、悪魔も関与できない。悪魔は、人間の
この自由意志に触れる事ができず、強制はできないので、巧
妙狡猾な手段を取って来る。強制の代わりに、何度も〃繰り返
し〃執ように誘惑する事により、罪に引ずりき込む。絶えず〃
欲望をかき立てられ続けるなら、いつしか、行動に移る事は目
に見えている。又、悪魔は偽り者であり、偽りの父だ。

悪魔は嘘つきであり、嘘をついて、誘導する。私たちを神から離
そうと、絶えず虎視眈々と、獲物を狙っている事を覚えよう。悪魔
が策略を持って、臨んで来ている事に心していよう。あなたに今、
誘惑が来ているだろうか。悪魔に気づけるように祈っていよう。御
霊が気づかせて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一見、良かれと思うことに、光の御使いが働いて来る。つまり、
サタンはストレートなわかりやすい罪でなく、良いことを持って
来る。平安が無かったらり、出て来る実がおかしければ、主に
尋ねて祈ろう。主は正しく軌道修正し導いて下さる。


2025年06月27日(金)

「ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、 その頭をおおい、はだしで登った。彼といっしょにいた民もみな、 頭をおおい、泣きながら登った」Uサムエル15:30



ダビデが最も信頼を寄せていた議官の一人が、アヒトフェルだった。
「私をそしる者が敵ではない。それなら私は忍べた。私に向かって
高ぶる者が、私を憎む者ではない。それなら私は、彼から身を隠し
た。そうでなく、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえ
が。私たちは、一緒に仲良く語り合い、神の家に群れと一緒に歩い
て行ったのに」と。

反対者が敵対してくるのは、当然で、対処できるが、信頼している
同志、親友に裏切られるのは、こんなに苦しく辛いものはない。だ
がダビデは、目の前の様々な出来事が、バテシバとの姦淫、ウリヤ
殺害の罪の刈り取りである事がわかっていた。ダビデは自ら蒔いた
ものを受け止め、主と共に刈り取って行った。

親友の裏切りである、この件も、「アヒトフェルの助言を愚かなも
のにして下さい」と主に祈り、委ねた。自分で対抗せずに、祈りに
持って行った。更に実子アブシャロムが、ダビデに歯向かい、戦い
の準備を進めていると聞く。息子とは戦えない。ダビデは逃げる事
を決意をする。ダビデはオリーブ山の坂を登り、泣きながら、その
頭をおおい、はだしで登った。

彼と一緒にいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。ダビデ
は泣いた。どれほどの苦しみ、辛さ、痛みだったろう。オリーブ山
は主を礼拝する場所だった。これらの事を、主の御心と受け止めた
ダビデは、更に主に拠りすがり、近く歩む者とされた。
--------------
愛する我が子に背かれる事も辛いが、我が子が主に背くという事は、
どれ程、辛く恐ろしい事だろう。辛さ、痛みの全てを主に委ねて、
主を礼拝するダビデを、主は愛された。大きな慰めだ。


2025年06月26日(木)

「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰から出て 来る愛を、目標としています。ある人たちはこの目当てを見失い、 わき道にそれて無益な議論に走り」Tテモテ1:5



ある時、青年会の集いで、集会後、数人で雑談していて、他愛ない
事で議論になってしまった。議論になると、自分が正しい事を主張
したいし、相手に負けたくない。相手を打ち負かしたい。皆が主張
し合い、どうでも良い事なのに、えらく険悪な雰囲気になってしま
った。

そのまま帰宅するも、嫌な、ザラザラした気持ちで、平安が無い。
主にことごとく気持ちをありのまま告げて、祈った。御言葉に向か
うと、「果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないよう
に・・そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の
救いのご計画の実現をもたらすものではない」と、もうピッタリだ
った。

議論になると平安が失せる。以前も経験した事を思い出した。自分、
自分になり、自分の正しさを通したい一心になる。相手を押さえ込
みたくなり、何が目的なのかが、わからなくなる。「自分の言って
いることも、強く主張していることについても理解していません」
の通りだ。ここから徒党や分裂が生じる。自己中心の肉に気づかさ
れた。

一番大切なことも教えられた。「信仰から出て来る愛を、目標とし
ている」、愛など全く無い状態であった事にも気づかされた。
兄弟姉妹と交わっているのに、愛から遠く離れていた。心から悔い
改めて、教えられたことを、電話し、詫びて、分かち合った。他の
人々も、帰宅して平安が無かったと。主は、失敗をも益として下さ
り、一緒に主を新たに知れたこと、平安に戻されたことを喜び、感
謝した。
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自分が、自分がと肉に心地よい暮らしをしているとわからなくなる。
きよい心と正しい良心と偽りのない信仰から出てくる愛を目標とし
ているか、対人関係の中でいつも学んでいきたい。


2025年06月25日(水)

「イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の 中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」 ルカ24:27



私たちはどうだろう。失望落胆の時は主が見えなくなる。経験ある
だろうか。失望は、悪魔の大変有効な攻撃手段だ。エマオへの弟子
たちは、絶望の中にいた。主がローマ帝国を倒して、王国を建てら
れると信じ込んでいた。主が、王となり統治されるのだと。だが現
実は最悪で、最も残酷で惨めな辱めの十字架刑で死んでしまわれた。

自分たちの大きな望み、期待、喜びが無惨に砕け散った。復活は信
じないので、絶望と虚しさで真っ暗だった。信仰の目がふさがれ、
不信仰に陥っていた。私たちも、自分の思いと全然違う現実に出く
わす時、受け入れる事が困難だ。主と自分の間に距離が出来てしま
う。

例えば、職場が困難で苦しく、別の場を求めている時に「忍耐が大
切、訓練であり、今の状況でなければ学べない事がある」と言われ
ても、辛いばかりだ。苦しい経済的困窮の中で、「わたしに頼るこ
とを学ばせるため」と言われるが、必要に迫られる中、厳しいもの
がある。しかし落胆した弟子たちが、心が赤々と燃やされ、喜びに
溢れたのだ。急転直下、即、もと来た道を引き返した。

なぜ、突然変わったのか。主の語られる言葉だった。解き明かされ
る御言葉に聞き入った時に、「信仰」が復活した。私たちも厳しい
状況の中で、御言葉により救われる。御言葉に一心に耳を傾けよう、
御言葉は霊でありいのちだ。そこに御霊が働かれ、信仰を取り戻さ
せくれ、更に心が熱く燃やされる。
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主の真実なご愛を信じる信仰を保っているなら、どんなことがあっ
ても揺るがない、とわかっていても、現実は弱く簡単に心は鈍くな
る。約束の御言葉をもう一度、聴いてみよう。主が語ってくださる。


2025年06月24日(火)

「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって 歩んでいます」Uコリント5:7



よく知られた例えがある。聞いた事があるだろうか。「事実(御言
葉)」を先頭に、真ん中に「信仰」、最後尾を「感覚」が順番に、
山の上を歩いていた。先頭の「事実」は、どんどん進んで行く。
その後ろの「信仰」は、目の前の「事実・御言葉」だけを見ている
と、問題なくスムーズに前進できた。そしてその後ろの「感覚」も
順調について来た。すべて調和をもって進めた。

ところが「信仰」が、前を行く「御言葉」から目を離して、後ろの
「感覚」を振り返った。その瞬間、「信仰」と「感覚」はもろとも、
谷底へ転落してしまった。そして「事実」だけは一向に関係なく、
前進して行った。信仰生活の正しい順序は、「御言葉」「信仰」
「感覚」だ。感情はあくまでも、御言葉と信仰の後について来るも
のだ。

しばしばこの順序を変える。「感覚」を先頭にして、真ん中が「信
仰」最後が「御言葉」だ。すると途端に、迷路に迷い込む。感情に
振り回されて、激しいアップダウンを繰り返す。私たちは、この世
界で生きているので、感覚である五感に深く拠り頼んでいる。それ
は必要な事で、五感で危険を察知しなければ、命を落とす事になる。
しかし信仰は霊の分野であり、通常の五感では感知できない領域だ。

信仰を五感で、人間的領域でつかもうとすると、霊的事柄がわから
ない。その場合も、感じなければ信じないし、信じようとしない。
そうでなく感じようと、感じまいと、御言葉を真実、事実として、
信仰で歩む時、必ず後ろから感情がついて来る。感情を先頭にして、
混乱していないだろうか。気づけて、御言葉に立てるよう、祈ろう。
--------------
感情が上向きだと主は近くに感じられ、下向きになると逆転だ。天
気にさえ左右される感情に振り回されず、立ち上がって、御言葉の
後ろをついて行こう。


2025年06月23日(月)

「しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、 立って、ヨッパに下った」ヨナ1:2


ヨナは、主から、敵国アッシリヤの首都ニネベへ行けとの命令を受
けた。しかし気に入らず、「主の御顔を避けて」、預言者なのに逃
げて、渡りに船で、そこにあった反対方向の船に乗った。すると嵐
になり、ヨナは自分のせいだから、自分を海に投げ込むようにと。
主は、その海で、大きな魚を備え、飲み込ませてヨナを守られた。

その中で、ヨナは祈り、魚の腹から出た後、今度は素直にニネベに
行った。すると、ヨナの言葉に人々は悔い改めた。主は災いを思い
直され、それがヨナには納得が行かない。町を出て、小屋を作り、
その陰に座った。どうなるか、見てやろうとの態度だ。主はとうご
まにより、日陰を作られたのでヨナは喜んだ。しかし翌日、虫によ
り、とうごまは枯れた。

焼け付くような太陽が照りつけ、衰え果て「死んだ方がまし」と死
を願った。苦い思いから、機嫌が良くなったかと思うと、又、ぐっ
たり衰え、死にたいと思う。私たちも、ささいな事で一喜一憂し、
信仰が揺れる。うまく行けば喜び、行き詰まれば落胆し、思い煩う。
外的状況に振り回される事が問題だ。

状況に関係無く、内側に、確固とした信仰、喜び、確信を持つ事が
大切だ。主は、ヨナを大きな愛で慈しみ愛しておられる。御心をそ
れても、決して見捨てず、見放さず、愛は変わらない。忍耐をもっ
て導かれる。この同じ愛で、あなたも愛されている。状況でなく、
主のこの変わらない愛に礎を置こう。
--------------
気分は些細なことで下向きになり沈む。ヨナのように主に告げたい。
気分に引きずられるところから、主を見上げられる。主は変わらな
い平安をもって常に支えてくださる。


2025年06月22日(日)

「心を尽くして主に拠り頼め・・あなたの行く所どこにおいても主 を認めよ」箴言3:5



あなたの行く所「どこにおいても」主を認めよと言われている。
「この所」なら「あの所」なら、ではなく。又、大きな事態、小さな事
柄とも言っていない。すべての出来事において、主を認めよと。
私たちは、特別な事、大変な事、非常事態は、主のもとへ持っ
て行くが、あとは自分の力で、自分の知恵、判断でやって行っ
てしまうだろうか。

つまり、自分の悟りに頼って生きてしまう。自分で出来ると思っ
てしまうからだ。しかし物事の大小で無く、すべてにおいて、主
を認めよと言っている。そうすれば、道をまっすぐにして導かれ
ると。突如、何かが起きると、すぐ自分で解決しようとしていな
いだろうか。又、物事がうまく行かなかった時、失敗してしまっ
た時は、どうだろう。自分の悟りに頼った結果ではなかったか。

目の前の一つ〃を祈りによって対応しよう。それが喜びであろ
うと、悲しみ、苦しみであろうと、「主を認めよ」。主が目の前に
置かれている事に、主を認めよう。苦しい事、辛い事、理不尽
な事等は、非常に受け入れ難いが、そこに主を認める時に、
「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」。

まず心に平安が与えられ、守られる。困難な状況の中にも平安
が与えられ、そしてその事態が導かれて行く。続けて「自分を
知恵のある者と思うな」とあり、自分の判断は正しい、自分は物
事をよく見極められる、なすべき事をする事ができると自己過信
するなと。絶えず主に拠り頼み、祈れと。そうするなら、主は目
の前の一歩一歩を確かに導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
「どこにおいても」とあり、目の前の一つ一つの事柄に、主を
認めよとあり、そうできるよう祈ろう。そう出来ないので、思い
煩い、不満と鬱屈になり、逆方向へ向かう。主を認めおる時、
道をまっすぐに=まず心を平安にして下さる。


2025年06月21日(土)

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足さ せるようなことはありません」ガラテヤ5:16



肉と御霊が出てくるが、「肉」とは、肉体の事でなく、神なしで生き
る性質だ。それは高慢であり、神に反抗し、真理を憎み、罪を求
める性質で、神に敵対する生活原理だ。肉は、改良するもので
はなく、捨て去るべきものだ。「肉によって生まれた者は肉です。
霊によって生まれた者は霊です」。初心者の頃、肉が、改良されて
霊になって行くように、勘違いするが、そうではない。

肉が、霊になる事はない。どこまでも肉は肉、霊は霊だ。全く別
のものだ。新生した時に、新しい性質を受ける。それは神の性
質だ。しかし、肉もまだ置かれていて、且つ新しい性質も宿すの
で、私たちの内に「二つの性質」がある。霊と肉の二つが葛藤
する中で、成長が与えられて行く。肉で歩むと、そこに戦いがな
い。自分の好きなように歩むので、葛藤が起きない。

しかし御霊に従って、歩もうとする瞬間、肉との戦いが生まれ、葛
藤が生じる。肉は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう。この二つは
対立し、自分のしたい事が出来ないと言っている。例えば、嫌な
相手がいると、肉はずっと嫌っていたいので、肉で歩むと葛藤は
ない。ところが御霊により、歩もうとすると、相手を愛するように言
われる。

すると肉と御霊の導きが、対立して、そこに大きな葛藤が起きる。
パウロも経験した。善をしたいのに、したくない悪を行なう。善を
したいのに実行できない。本当にみじめな人間だと。そして苦し
んだパウロは、解決を得た。自分の力でなく、御霊によって歩む
ことだと。御霊に歩めるよう祈ろう。主が一歩一歩取り扱い、御
霊の歩みへと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私の肉のうちに善が住んでいない」とパウロが言ったが、肉に
は善は無い。どれだけ頑張っても、善は無い。そこを認めて
主に頼る時に、御霊の力によって、善を行なわせて下さる。
御霊によってのみ、従って行くことができる。


2025年06月20日(金)

「各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルづつ、 あなたがたの人数に応じてそれを集めよ」出エジプト16:16



イスラエルの民はエジプトから、荒野に出た。主は、何も無い原野
で、民たちを40年間、養われた。天からマナを降らせ、毎日1日分
だけを集め、6日目だけは、2倍集めるようにと。7日目は安息日
で、集めることができないためだ。しかしある人々は、命令に背き、
翌日分まで取り込んだ。が、それは虫がわき、悪臭を放った。

又、ある人々は、6日目に2倍集めず、安息日に取りに出たが、安
息日には、何も無かった。主はこの事を通して、「わたしの教えに
従って歩むかどうかを試みられ」た。40年もの間、1日たりともマ
ナの無い日はなく、主は荒野で民を顧み、養い続けられた。これは
「日ごとの糧」を表わしている。

主は、その日の必要を「必ず」与えて下さる。だから、明日の心配
はいっさい無用だ。明日、明後日の糧ではなく、「今日」の糧を与
えると。明日のことは明日が心配する。今日1日の糧を感謝し、明
日は、明日に与えて下さると信じる練習だ。それが信じられなので、
明日の分も取り込もうとする。しかしそれは不信仰であり、腐って
しまう。

明日の心配無用だ。能天気でよいとの意味でなく、主が心配し、配
慮して下さるから、私たちは心配不要なのだ。愛して下さっている。
神の愛を信じ、平安に歩む道と、常に明日が不安でたまらず、常に
思い煩う歩みと、どうだろう。主に心の内を祈り、御言葉を信じる
信仰を祈って行こう。
--------------
様々な恐れや心配事が来る。明日の心配のために、大切な今日を虚
しく過ごしてしまわないように、不安の中にも主を信頼し、守りを
信じて委ねていこう。


2025年06月19日(木)

「彼らはイエスに答えて、『わかりません。』と言った・・『わたし も、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話す まい』」マタイ21:27




主が宮で教えておられた時、祭司長、長老たちが「何の権威による
のか」と言い、誰が権威を授けたのか、越権行為だと。特権階級の
彼らは、主に脅威を感じていた。その前に、主は、宮で売り買いす
る人々を追い出し、両替人の台や鳩売りの腰掛けをひっくり返され
た。彼らは、自分達こそが、教える権威と資格があると思うので、
主に詰め寄った。

主は、その質問には答えず、逆に問われた「ヨハネのバプテスマは
天からか、それとも人からか」。彼らは互いに論じた。もし「天か
ら」と言えば、そのヨハネ本人が、神から遣わされたと、証しして
いるのに、なぜ信じないのか。又、彼が指し示す主をなぜ信じない
のか、となる。

又、もし「人から」と言えば、群衆はヨハネを神からの預言者だと
認めており、群衆が恐い。それで彼らは「わからない」と逃げた。
わからないのではなく、天から遣わされたヨハネも、主も、信じな
いし、決して認めたくなかった。彼らのプライド、保身だろうか。
彼らが答えないので、主も答えられない。

誠実に、正直に、主に向き合い、自分に向き合って答えるなら、主
は必ず答えて下さる。自らの罪と、プライドと保身と、欲も、主に
ありのまま告げる時、真理へと、必ず導いて下さる。逃げるなら、
主がわからないまま終わってしまう。私たちの態度はどうだろう。
気づきが与えられるように。
----------------
罪や弱さに向き合わず、わかりませんと言いつつ歩むことも出来る
が、何も変わらない。示され、気づかされるのは感謝だ。本音で主
に向き合い、主との交わりを深めよう。


2025年06月18日(水)

「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、 押し流されないようにしなければなりません」ヘブル2:1



信仰生活で、少しづつ〃流されて行く事に、気をつけよう。まるで
漂流のようだ。流されている事に気づけると、仕切り直しが出来る
が、気づけないまま流され、離れて行ってしまう。日曜に礼拝で、
世に流された1週間だったと気づく。なまぬるいまま、主を求めず、
過ぎてしまった。試練が無いなら、自力で生きて行けてしまうので、
主との交わりもおろそかなまま、流されてしまう。

又、「少しぐらい」は、巧妙なサタンの誘惑だ。主に従おうと思っ
ているが、「ちょっとぐらい、自分の好きにしていいのでは」と。
強い欲望ある時に「少しなら〜大丈夫さ」と、サタンの誘惑が来る。
そして乗ってしまい、御心からそれて行く。又、祈らずに、事を行
ってしまい、手痛い失敗をする。後に、必ず蒔いたものは、刈り取
る事になる。

ある日突然、主から離れるのでなく、少しづつ〃、知らず〃の内に
流されて、漂って行く。気がつくと、世にどっぷり浸かり、霊的食
欲も失せてしまっている。そうならないためには、「聞いたことを、
しっかり心に留めよ」と。「心に留める」は「錨を下ろす」ことで、
船がしっかり錨を下ろさないなら、波に流されてしまう通りだ。

主に祈り、御言葉に聞き、主と交わる生活、信仰の人々と交わり、
励まし合う歩み、この基本を、今一度、確認しよう。漂流は気づか
ない内に起きている。今、楽な方へと漂っていないだろうか。
----------------
押し流す力があることを覚えていたい。信仰の漂流も、さまよって
いることも気づかない。日々、折々に主に祈り、御言葉を聞こう。
主に留まっていよう。


2025年06月17日(火)

「すると、ダビデは自分の衣をつかんで裂いた。そこにいた家来 たちもみな、そのようにした・・サウルのため、その子ヨナタンの ため・・いたみ悲しんで泣き、夕方まで断食した」Uサムエル1:11



人を赦せない事があったろうか。傷つけられた相手に、怒りと恨み、
憎しみで、がんじがらめだ。どんなに楽しい時も、ふと心に影を落
とす。心がずっと囚われ、牢獄の中だ。しかしダビデはどうだった
ろう。サウル王に殺意を持って、ずっと付け回された。女たちが、
「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と笑って歌った。

サウルはプライドがひどく傷つき、ダビデを妬んだ、しかしダビデ
はサウルに対して、何の悪い事もしていない。むしろ逆で、忠実に
仕える有能な良い部下だった。しかしサウルの妬みはおさまらず、
燃え上がり、ずっとつけ狙われた。本気で殺害をもくろみ、2回も
ダビデを狙い、槍を投げつけられ、突き刺されそうになった。

一国のトップであり、いつでも軍隊を招集できる相手だ。野山を逃
げ、常に死と隣り合わせで、不安と恐怖は、いかばかりだったろう。
サウルを打つ好機があったが、神に選ばれ、油注がれた王に手を下
す事などできないと。妬みによる余りにも理不尽な攻撃にも、ダビ
デは驚くべき事に、サウルを憎んでいない。復讐心はおろか、サウ
ルの死を心から悼んでいる。

なぜだろう。ダビデは主に何もかも委ねていて、すべての信頼を主
に寄せていた。そして恐怖、不安も、思い煩い、嘆きも、怒りも、
苦しみ、悲しみ、あらゆる思い、感情を主に持って行った。そこで
主と交わり、主に受け止めて頂いたので、心が守られた。私たちも
ダビデにならい、主に引き受けて頂こう。どんな中も心を守って下
さる。
----------------
相手に捕らわれているのは苦しい。くり返し、された悪を数えてし
まう。過去のことに、今、関わらなように主に思いを上げて、平安
を受け取ろう。今の平安を喜ぼう。


2025年06月16日(月)

「主は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しに なり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者を ご自分に近づけられるのだ」民数記16:5


よく知られているコラの反乱だ。コラとその共謀者達が、250人の
イスラエルの民と一緒に、モーセとアロンの権威に反逆した。モー
セはどうしたのか。立ち向かったのか。そうでなく、即、主のもと
へ行き、御前にひれ伏し、祈った。そして結果的には、主ご自身が、
この反逆に決着をつけられた。

何と地面が割れ、反逆者たちは飲み込まれてしまい、主ご自身が裁
きを下された。その後、主は明白なしるしを与えられた。12部族に
各々、1本づつ杖を持たせ、神が選ぶ者の杖は芽を出すというもの
だった。するとアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、アーモンド
の実を結んだ。主ご自身が民の不平を静められた。

私達も各々に割り当てられた、分をわきまえる事は、とても大切だ。
主が、今の場で、一人〃に与えられた分がある。各々立場や役割は、
主からのものだ。分を越えたのは、コラや共謀者たちだった。今の
場で、他の人々への羨望、又、自己憐憫はないか。他の立場への不
満や妬みは恐ろしい背きの罪へと増幅して行く。妬みから、陰険で
邪悪な行ないが生まれる。

今の場に置かれたのは、主だ。「自分の領域を守らず、自分のおる
べき所を捨てた」のが悪魔だ。分をわきまえ、今の場を主からのも
のと、今一度受け取り直そう。感謝しよう。主はその所で大いに祝
福して、あなたを用いられる。あなたでなければならないと。
---------------------
妬みに気づいたらありのままを主に祈ろう。サタンの攻撃から守ら
れる。自分の恵みから目を逸らさす悪魔を退け、与えられている道
を喜んで歩もう。主が共にいてくださる。


2025年06月15日(日)

「すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、弟子たち のところに行かれた」マタイ14:25



五つのパンと二匹の魚の奇跡の後、群衆は主を政治的な王に祭
り上げようと、無理やり連れて行こうとした。そのため、主は
すぐに弟子たちを向こう岸へと、強制的に舟に乗り込ませ、群衆
を解散されられた。そしてご自分は祈るために、一人で山に登ら
れた。その湖で、弟子たちは夜中に激しい嵐に会った。真っ暗闇
の嵐の中で、悪戦苦闘とは、どんなに恐怖だったろう。ここで学べる。

弟子たちは、主に強制的に舟に乗せられ、従った結果、大嵐に会
った。どうだろう。自分が御心をそれるなら、うまく行かないだろう
が、御心に従ってさえいれば、スムーズに行くのではないかと。し
かし御心に従う中で、試練に会う。弟子たちは真っ暗闇の中で、
波風と格闘していた。「風が向かい風なので、波に悩まされていた」。

私たちも、様々な難しい問題に悩まされる。弟子たちは、主が吹
っ飛んでしまい、大嵐への対応で右往左往、パニックになってい
た。自分の力で頑張るので、すべては自分の肩にかかり、重く、
苦しく、先も見えない。更に恐怖だ。私たちも、突如の試練に、自
分が、自分がと、何とかしなければと必死になるだろうか。そんな
真っ只中に、何と水の上を歩き、主が来られ「しっかりしなさい。
わたしだ。恐れることはない」と。

「わたしだ」とは、主がモーセに語られた「『わたしはある』という
者である」と同じだ。「まことの生ける神」と、ご自身を現わされた。
弟子たちはどんなに驚いたろう。私たちにも、どんな状況の中も、
「わたしだ」「恐れることはない」と常に御声をかけて下さってい
る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
水の上を歩かれている主が、まさに、生けるまことの神である
ことを現わされ、弟子たちはどんなに驚いた事だろう。その同
じ主が、いつも私たちと共にいて下さる。何と嬉しく、力強いこ
とだろう。


2025年06月14日(土)

「ヨハネが来て、食べても飲みもしないと、人々は『あれは悪 霊につかれているのだ』と言い・・」マタイ11:18


私たちは、人を裁いてしまう弱さを持っている。だが、人を裁く
のは、相手が、自分の思い通りでないからだと、言われている。
自分の思いがあり、それに合わないので、相手を非難する。
それは自己中心によるものだ。主は、当時の人々を、遊びを
する子どもたちに例えられた。子どもたちは、他の子たちに一
緒に遊ぼうと呼びかけた。

「笛を吹いてやっても、踊らない」まず「結婚式」の遊びをし、楽
しげに笛を吹いたが、誰も踊らず相手にしなかった。それで次
に弔いの歌を歌って、「葬式」の遊びをした。これも、誰も悲しま
ず、乗ってこなかった。同じように人々は、バプテスマのヨハネ
が、荒野でいなごと野蜜で生活していると「悪霊につかれている」
と言い、そして主が取税人や遊女の友となり、罪人と宴会の席
にいると、「食いしんぼうの大酒飲み」、「罪人の仲間」だと言った。

つまりは、何をしても非難した。自分の思いがあるばかりで、そ
れに合わないから、批判し、自分の正しさを誇っていた。相手を
公正に見て、受け入れようとの思いなど全く無かった。その時に
主は、知恵が正しいかどうかは、その行ないによって証明される、
行ないを見ればわかると。

どう行なったとしても、人は悪口を言い、何やかや言う。それをい
ちいち気にすることはない。私たちは、主の御心に従うことによっ
て、知恵の正しさがよくわかる。身をもって経験して行く。そして
ますます主の素晴らしさがわかって行く。そして人々に主の正しさ
を証明して行く。

・・・・・・・・・・・・・・
人の目を気にしていたら、どこに向かうかわからない。人の言葉
にいちいち心を留めるな、とも言われている。人目を気にする根
深い肉があるが、主の御心を行なって行く時に守られる。御心
を祈り求め、従えるよう祈ろう。


2025年06月13日(金)

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、 あなたのために祈りました」ルカ22:32



聖書の中には、信仰者の失敗が、ありのまま記されている。世の本
なら、不都合な部分は隠す。だが、罪も失敗も、赤裸々に記されて
いる。まずアダムとエバは悪魔の誘惑を受け、失敗して罪を選び、
それは原罪となった。カインは献げ物のことで、弟を妬み、アベル
殺害に及んだ。ノアは酔っ払って、娘たちと姦淫を犯した。

アブラハムは妻を妹だと嘘をつき、又、神の時を待てずに奴隷ハガ
ルによりイシマエルを得て、重大な失敗をした。ロトは肉で歩み、
この世の名誉賞賛を愛し、娘婿も妻も、滅びから救えなかった。イ
サクも父と同じく嘘をつき、ヤコブは父と兄をだまして、祝福を奪
い取った。モーセは人を殺して逃亡し、出エジプトの後には、怒り
で岩を二度打つ罪を犯した。

アロンは金の子牛の偶像を作った。ダビデは姦淫と殺人、ペテロも
弟子たちも主を裏切って逃げた。主はそれらを失敗を悔い改めに導
き、赦され、尚も変わらない愛で、愛し続けられた。どんな失敗を
しても、決して見捨てられる事はない。アブラハム、イサク、ヤコ
ブは祝福され、モーセは主エジプトの大役を任され、ダビデは、皆
が素晴らしく恵まれる詩篇を記し、ペテロは主の昇天後、諸教会の
リーダーとして大活躍した。

失敗した時は、問題の原因を御霊に探って頂こう。自分のどの部分
の弱さで、何に触れるのか。そうするなら同じ事を繰り返さない。
主の赦しを受け取ろう。主のあわれみは尽きない。主は、ペテロの
ために「失敗しないように」でなく、「信仰がなくならないように」
祈られた。いつも、再びやり直すことができる。
-----------------
失敗をするとぐずぐずと落ち込むが、主に向かい、そこから学びた
い。真実な主の祈りに、信仰を持って応えたい。主のあわれみと赦
しの中で生かされて、歩める恵みに感謝だ。


2025年06月12日(木)

「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります・・ わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません」 ヨハネ14:23



主を愛するとは、具体的に、主のことばを守り、行なうことだ。主
の御心を一つ一つと実行することだ。それが、主を愛することだと
言っている。その時、そこに感情がついて来なくても構わない。感
情は横に置いて、意志を主に向けて、祈りつつ、意志で御心を行な
って行けばよい。それを主に従い、主を愛した事として、受け取っ
て下さる。

聖書の中の愛とは、感情の愛でなく、すべて意志的愛だ。主の喜ば
れる事を、御心を意志で行なって行く事だ。人は感情はコントロー
ル出来ない。しかし意志は出来る。好きでなくとも、愛することが
出来る。たとえ話で、二人の息子が、父にぶどう園で働くよう言わ
れ、兄は「行きます」と答えたが、行かなかった。一方、弟は「行
きたくない」と言ったが、悪かったと思って出かけた。

父の願いに答えたのは、弟の方だった。口先でなく、実際に行動す
る事が大切だ。感情はアップダウンし、その感情に従い、信仰生活
を送ると、どこに向かうかわからない。いつも不安定で、迷走する。
感情ではなく、意志で御言葉に従った時に、感情は後からついて来
る。

挨拶してくれない人がいて、御霊により、こちらからは挨拶するよ
う示される。感情は嫌で、拒むが、意志で実行して行くと不思議に
自分は平安にされる。自分は嫌だと認めているので偽善ではない。
御霊の実を結んで行く。感情は置いて、従ってみよう。
-----------------
愛のない者に、感情での愛を求められない事が感謝だ。一時の感情
を超えて、主が結実させてくださる。主を愛し、御言葉に従おうと
すると祈りになり、具体的な愛の行動へと導かれていく。


2025年06月11日(水)

「ダビデはナバルが死んだことを聞いて言った。『私がナバルの手 から受けたそしりに報復し、このしもべが悪を行なうのを引き止め てくださった主が、ほめたたえられますように』」 Tサムエル25:39



ナバルとアビガイルの夫婦がいた。「ナバル」という名は、「愚か
者」との意味だ。ダビデには600人の部下がいて、大量の食糧が必
要だった。丁度祝いの時だったので、ダビデは、ペリシテの襲撃か
らナバルの羊飼いたちを守っていたので、その報酬として、自分た
ちにも祝いの食糧を分けてくれるよう頼んだ。当然の妥当な事で
た。

しかしナバルは「ダビデとは何者か」とさげすみ、「私のパンと私
の水」と自己中心の所有欲で、それをなぜ素性の知れぬ者にわける
必要があるのかと、申し出をはねつけた。ダビデは激怒で、復讐心
で、部下400人に剣を持たせ、こわっぱ一人も残さないと、ナバル
のもとへ向かった。その時に若者が、ナバルの妻アビガイルに、
その危機的状況を伝え、進言した。

アビガイルは聞き入れ、即、大量の食糧を用意し、ダビデのもとに
行き、地面にひれ伏した。「あの罪は私にあるのです」と、すべて
を自分が引き受ける覚悟で出た。そしてへりくだって、ダビデが自
分の手で復讐する事を止めるよう願った。ダビデは彼女の言葉に耳
を傾け、血を流す罪を犯す事から守られた。

止めてくれたアビガイルに感謝し、主が彼女を遣わされた事に感謝
した。ナバルに自分で復讐せずに、主の御手に委ねることの実地訓
練を受けていた。その通りに、主ご自身がナバルを裁かれた。私た
ちも「復讐するな」と言われている。主にすべてを任せよと。理不
尽な目に会い、怒りが沸くが、主に委ねて、主に対応して頂こう。
--------------
怒りを抑えるのは難しいが、ダビデのように、ありのままを祈り、
主に委ねたい。必ず主の時に、主が報いてくださる。そして平安
を受け取ろう。怒りのままに肉で動くことから守ってもらおう。


2025年06月10日(火)

「すると、イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には 巣があるが、人の子には枕する所もありません。』」ルカ9:58



三種類の人が出て来る。一人目は、主に「どこにでもついて行きま
す」と、全面的に従いたいと言った。しかし主は、狐には穴、空の
鳥には巣があるが、主には、安心して住める家さえ無いと言われた。
つまり厳しい苦労があり、大きな犠牲が伴う。喜びと同時に苦しみ
があり、覚悟が必要だと。中途半端な気持ちだと、こんなはずでは
なかったと、挫折してしまうと。

二人目は、「わたしについて来なさい」と主からの召しを受けたが、
ぐずぐずしている。従おうとは思うが、その前にあれをして〜と、
しかしこれは優柔不断であり、従う事の無期延期だ。ずるずると最
終的には従わずに終わる。御霊の示しに、即、従わずに、言い訳や
弁解をし、結局は従わない人々だ。三人目は、「あなたに従います」
と、主に従おうと、決心していた。

しかし前進しようとしながらも、後ろを振り返る人だ。捨てたつも
りのものに未練があり、後ろ髪を引かれ、きっぱりと断ち切れない。
その未練は、神の国にふさわしくないと言われた。捨てるべきもの
への執着が強く、どうしても断ち切れない。そうなら、最終的には
従えないまま終わってしまう。

主に従わせないよう、妨げて来る多くの誘惑、攻撃、かせがある。
背後にサタンが働いている。主から離そうと妨害して来る。ぐずぐ
ずしていると、様々な方面から誘惑と攻撃がある事を踏まえ、心を
定め、従えるように祈ろう。御心に従おうとする時、必ず、サタン
と肉の妨害が来る事を心していよう。
-----------------
従おうと決心して立ち上がると、すぐに他の事に気を取られてしま
う。従わせないようにと妨害が来ている。示された思いを心に留め
て、素直に従いたい。


2025年06月08日(日)

「すべての人が時と機会に出会うからだ」伝道9:11



信仰人生において、「時と機会」は非常に大切だ。振り返って、あ
れやこれやと、機会を逃してしまった経験があるだろうか。時と機
会は主から来る。ベタニヤのマリヤは、時と機会を悟った。食卓
の主に、大切なナルドの石膏のつぼを割り、すべてを主のみ頭
に注いだ。300万とも言われる高価な香油だ。よく女性は、結婚
の時のためにと、少しづつ貯えるようだ。

彼女は、主への感謝と愛が溢れ出る余り、惜しげもなく、主に注
ぎ尽くした。今から十字架へと向かわれる主を、どんなにお慰め
した事だろう。弟子たちは無駄な事だと憤慨した。貧乏な人達に
施せば良いのにと。彼女を厳しく責めた。だが、主は彼女を弁護
れた。「わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです」と。主
はその愛の行為を受け取られた。愛は計算しない。

肉は損得であり、計算だ。しかし愛には損得勘定が無い。「上
からの知恵は、第一に純真であり・・」、御霊に動かされる時、損
得でなく、主をお喜ばせしたい一心だ。貧しい人々はいつもあな
た方と共にいるが、わたしは共にいるわけではないと。いつでも
出来る事と、この時にしか出来ない事がある。主の言葉通り、そ
の時と機会を逸したなら、彼女は香油を塗ることができなかった。

機会は逃げて戻らない。御霊の示しがあるなら、二度とない機会
を捕らえよう。「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だか
らです」と。そして彼女はなぜ「時と機会」を悟れたのだろう。主の
足もとに坐り、全身で御言葉を聞いていた。主の言葉により、時と
機会を悟らせて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今まで、時を逸し、機会を逃す、失敗を繰り返して来たかもしれ
ない。あの時、この時の失敗から学べる。御霊の促し、導きがあ
る時には、従おう。そうできりうよう祈ろう。示しをキャッチできる
よう、アンテナを張り、普段から祈っていよう。


2025年06月07日(土)

「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたが たは、柔和な心でその人を正してあげなさい」ガラテヤ6:1


他人が過ちに陥った時、御霊の導きのもと、柔和な心で正すよ
うにと言われている。過ちを犯した人に、いら立ったり、自業自
得と裁いてしまったり、受け入れ難くなりがちだ。自分にも肉の
性質があるからだ。しかしそのままに放っておかずに、その人
を正してあげなさいと言っている。

「御霊の人であるあなたがたは」とあり、その時は、まず自分自
身が、御霊に導かれている必要がある。自分の肉の思いで、正
すのではない。「また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつ
けなさい」とあり、自分もいつ誘惑に陥るかわからない弱い者で
ある事を覚えよう。自分がその立場になれば、同じようになって
いたかも知れない。

へりくだって、自分の心を御霊に探って頂き、まず自分の罪を
悔い改め、よくよく祈り、御霊からの導きを受け取ることが大切
だ。その時、自分の思いや自分の力でなく、御霊が、この対応
を導かれるとの平安が来る。そしてよく整えられ、「柔和な心で」
が大切だ。ただ罪を責めるのでなく、「愛をもって真理を語」れと。
その人の立場に立って考えることだ。

相手を思いやる気持ちで接する時、御霊が働かれて、初めて相
手の心に届く。御霊が、相手に罪を示し、悔い改めへと導かれる。
姦淫と殺人の罪を犯したダビデに、ナタンが対応した。ただ責め
たのでなく、例え話によりダビデに考えさせた。御霊が、罪を指
し示され、ダビデは悔い改めへと導かれた。もし御霊の示しが
あるなら、従おう。自分の力ではなく、御霊が働かれる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
御霊が、相手に忠告するよう示されるなら、御霊が事をされる。
相手の心にも働かれる。すぐその場で解決にならなくとも、相手
は考えることになり、導かれる。御霊の導きがすべてだ。示され
るなら従おう。主の素晴らしさを見る。


2025年06月06日(金)

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかり やりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、 また勧めなさい」Uテモテ4:2 



あらゆる時に、みことばを宣べ伝えるようにと言っている。「風を
警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしな
い」と。言い訳をしていると、種が蒔けないと。そして「あなたの
パンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見
いだそう」と。

「パンを水の上に投げよ」などと、不可解に思ってしまう。パンが、
だめになる。食べられず、無駄になり、流されてしまう。意味の無
い無益な行為に見える。しかし御言葉は、それが決して無駄ではな
いと言う。歳月がたってから、後の日に結果が現れるのだと。伝道
し、証しすることは、パンを水に投げるように、虚しく感じる事が
あるだろうか。

チラシを配っても〃、幾ら証しをしても、反応が、結果が見えない。
パンを水に流しているように、徒労に感じるかもしれない。すぐに
結果は現われないが、「ずっと後の日に」見い出すと。だから「堅
く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励め。あなたが
たは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているの
だから」

「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。こ
れが、どこで成功するのか、知らないからだ」。悪魔はあらゆる手
段で、福音宣教を阻止したい。そのため失望落胆で攻撃が来るが、
「堅く立ち、動かされることなく」と言っている。主ご自身が豊か
に報いて下さる。主に期待し、あらゆるチャンスに「種まき」をし
て行こう。
---------------
私たちが救われたのは、主のご計画によって、具体的な誰かの尊い
働きによってだ。パンを水の上に投げるようなものだと思われても、
結果は主に委ねて、せよと主は言われる主に従おう。


2025年06月05日(木)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思 い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、 ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」詩篇139:23


信仰人生で、様々な悩みに出くわす。時に、どれだけ努力しても、
うまく行かない対人関係がある。糸がもつれるように、関係はこじ
れるばかりだ。心が辛く苦しい。相手が何とかなってくれたらと思
う。「相手が変わりますよう」「苦しいこの環境が変わりますよう」
と祈る。相手の欠点、嫌な所が、ここ、あそこの部分が変わってく
れたらと思う。相手を責めている自分がいる。

しかし幾ら祈っても相手は変わらず、状況も変わらず、そして自分
も変わらない。何も変わらない。辛さは続くばかりだ。どうしてい
いのかわからない。職場を変わればよいのか。苦しい状況から解放
されて、ほっとするのだろうか。しかし次の職場でも、同じ事が起
きるのではないか。又、同じ光景が。

悶々で、祈る中、「これは、もしかして自分への取り扱い?」とい
う事に初めて思いが至る。何も、どうにもできず、主のもとへ行く
時、変わるべきは、自分ではと気づかせられる。あれだけ祈っても、
何一つ動かなかったのに、「私を変えて下さい。導いて下さい」の
祈りは答えられて行く。自分自身が変えられて行く。

思いが、捕らえ方が変えられ、そして自分自身の内側に潜む、全く
気づかなかった罪に気づかせられる。相手が悪いとしか見えなかっ
た、その所に、御霊の気づきが与えられる。成長へと導かれる。と
にかく、祈りに持って行こう。
----------------
何に傷つき、何を恐れ、何に怒っているのだろう。祈りの中で主に
尋ね、自分に向き合いたい。内側を主に照らされて、いつまでも変
わっていきたい。


2025年06月04日(水)

「ふたりはロトに言った。『・・彼らに対する叫びが主の前で大きく なったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされた のです』」創世記19:13



ソドムの町は宗教的堕落、不道徳、不品行、混乱、と極めて罪深く、
主から滅ぼされるところだった。その直前に主は、二人の御使いを
ロトに送り、家族を連れ出すよう命じた。もう一刻を争う危急の状
況で、緊急事態だ。ロトは娘婿たちにその旨を伝えるが、何と彼ら
はそれを冗談だと思った。彼らは普段のロトの生活や価値観を見て
いた。

世の栄誉、地位、賞賛を求め、世にどっぷり浸かり、存分享受して
いるロトに、今、世が滅びると言われても「何の冗談か」としか思
えなかった。そしてその婿たちだけでなく、ロト自身すら、逃げる
事を「ためらった」のだ。自分の財産は?今まで築き上げた名誉、
地位は?世への強い執着で踏み出せない。いよいよ差し迫り、御使
いが、彼と彼の妻と二人の娘の手をつかみ、連れ出した。

主の彼らへの深いあわれみだった。「命がけで逃げよ。後ろを振り
返るな」と。しかしロトの妻は途中で、後ろを振り返った。その結
果、塩の柱になってしまった。この世への強烈な執着、未練を断ち
切れなかった。そして二人の娘はソドムの罪深い影響を受けて、父
親と近親相姦の罪を犯した。

最初ロトは、堕落した地でも「自分さえしっかりしていれば大丈夫」
と思ったろう。だが少しづつ〃影響を受けて、いつしか命取りにな
ってしまった。悪魔は少しづつ巧妙に世に引きずり込む。決して自
分は大丈夫ではない事をわきまえ、主に拠りすがり、絶えす祈って
いよう。
-----------------
自分が一番、危うい存在だ。いつの時にも主に頼り、聴いた御言葉
に立っていることが、大きな証しとされる。家族の救いのためにも、
主のあわれみにすがり、祈っていたい。


2025年06月03日(火)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答 え・・」エレミヤ13:3


祈らずに事を行ない、失敗した経験があるだろうか。ダビデも、あ
る時、祈らずに失敗した。ずっとサウルにつけ狙われ、死と隣り合
わせの日々だった。サウルの執ような追跡に、窮地に陥り、事もあ
ろうに敵地に逃げ込む決心をする。しかし祈らずに行動した事によ
り、失敗してしまった。アキシュのもとに身を寄せるのだが、何と
イスラエルと戦うはめになってしまった。

結果的に、主の関与で守られるが、祈らずに行動し大失態を招いた。
バテシバの誘惑が来た時も、そこで主を呼び、祈れば良かった。主
に助けを求めていれば違ったろう。祈りは何より大切だ。祈りによ
り、あらゆる面で守られる。ある女性が家計の必要のため、パート
の仕事を祈り求めていた。面接でフルタイムはどうかと打診された。

断ろうと思ったが、まず夫に相談すると、賛成し、家の事は協力し、
応援するとの事。環境は開かれたが、仕事内容に全く自信が無い。
自分には無理だと思う。主の御心を求めて祈りに祈った。その時、
この仕事が、職を求めて祈りを積んだ、祈りの答えである事の確信
が来た。主から来たものだと。それで、委ねて受諾の決心をした。

だが、自信なく、主に頼って祈りに祈り、主にすがる日々だった。
泣きながら祈り続け、主にすがりついた。祈りにより、日々の仕事
をして行った。すると自分は不得手なのに、驚くほどの成果が出て、
周囲も驚くほどだった。祈りの答えであり、自分でなく、主の力だ
った。ただただ主によるものであり、周囲も祈りの力を、主の栄光
を見せられた。
-----------------
祈らずに動いてしまうのは、既に決めていることばかりだ。失敗し
て気づく。どんな時にも主を認めて、祈り、行動したい。いつも与
えられた確信に立ち返れる。どんな時にも主の平安がある。


2025年06月02日(月)

「ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわって いた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった」 使途14:8



ルステラで、パウロが御言葉を語っていた。その時に、生まれつき
足のきかない男性が、丁度座っていて、パウロの語る御言葉にじっ
と耳を傾けていた。彼は、生まれた時から一度も歩いた事がなく、
自分の足に関して、何もどうする事もできなかった。完全に無力の
状態だった。自分で何もする事ができない。だからこそ、「自分の
足で、まっすぐに立ちなさい」とのパウロの言葉にすがりつけた。

自力で出来ないからこそだった。彼にとっては、この言葉が真っ暗
闇の中の一筋の光であり、唯一の望みだった。彼は、信じて賭けた。
この言葉がすべてであり、無力だからこそ、そうできた。その信仰
に神の力が働き、奇跡が起きた。全く歩いた事のない彼が、飛び上
がり歩き出した。もし自分で何かが出来るなら、あちこちと方策を
探り回り、自分で何とかしただろう。

私たちは、頼らなくても、自分で出来てしまうので、主に頼らない。
自分で生きて行く。自らの無力を知る時こそが、信じる時だ。何の
方策も無く、信じるしか道がない。その時にこそ信仰が働く。自分
の力、方法に頼っている限り、自分を信頼しているので、主への信
仰は難しい。信仰半分、自力半分というのは有り得ない。幾ら御言
葉があっても、必ず自分の力、方法でやって行く。

信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を任せて行く事だ。それゆえ、
自らの無力を知る事が、実は大きな祝福であり、幸いだ。無力に落
ち込む事など無い。
-----------------
落ち込むとき、恐れが来るとき、必ず握っている御言葉に頼り祈れ
る。弱さを知っている事は感謝だ。弱さを覚える度に主を近く感じ
る。何と実り豊かな歩みだろう。


2025年06月01日(日)

「イエスは・・収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、 『わたしについて来なさい。』と言われた。すると彼は立ち上がっ て、イエスに従った」マタイ9:9



マタイは取税人だった。当時、ローマに代わり税金徴収をした
のが、ユダヤ人取税人だ。マタイは富を求め、仕事についたの
だろうか。同胞から不当に取り、私腹を肥やしていたため、皆か
ら、売国奴、裏切り者と嫌悪、軽蔑されていた。不正をし、心は
暗く、虚しく、自己嫌悪にも陥ったろう。財は築いたが、決して喜
び無く、幸せではなかった。

皆から拒絶され、軽蔑され、仲間はずれにされ、心に闇を抱え、孤
独と虚無の中にいただろう。そんな時に、心の中をすべてご存じ
の主が、マタイに「わたしについて来なさい」と言われた。すると、
彼は立ち上がり、仕事を捨て、即、従った。彼の心に深い渇きが
あったのか、いっさい迷いが無い。

一生に関わる重大な決断だが、聖い方が、自分のような者を招か
れた事にどんなに驚き、嬉しかった事だろう。彼は生涯、忠実に
従い通し、マタイの福音書を記する栄誉にあずかった。彼は自身
の事を「取税人マタイ」と言い、隠さずに明記し、へりくだっていた。
又、ルカは、マタイが「何もかも捨て」従ったと記したが、マタイ自身
は記していない。

どんな中から救い出されたのか、闇から光に移された、その恵
みの大きさ、重みを、主の愛の深さを味わい知った。私たちも主が
「ご覧になって」呼んで下さったから、今がある。心の何もかもを
ご存じで理解して下さっている。どんな中から救われ、もし救われ
ていなかったなら、どうなっていたのか、今一度、思い起こし、主
に感謝を献げよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
マタイの心の闇、虚無、渇きをご存じの主が、従う事も知って
おられて、主の方から声をかけられた。私たちの心もすべて
ご存じだ。、「御覧になって」おられる。主の御声に耳を傾け
よう。御言葉を与えて管さる。