2025年07月31日(木)

「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、 砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます」 マタイ7:26



二人の人物が出て来る。賢い人と愚かな人だ。賢い人は御言葉を聞
き、愚かな人は御言葉を聞かない、であればわかりやすいが、どち
らも御言葉を聞いている。両者の違いは、賢い人は「ことばを聞い
て、それを行なう」。愚かな人は「ことばを聞いて、それを行なわ
ない」だ。愚かな人も御言葉を学び、礼拝で喜んで御言葉を聞く。

御言葉を拒否したり、反発しているなら、自分でも認識できるが、
喜んで聞いているので、気づかない。御言葉を聞いて、聞いた事で
満足してしまう。聞いて、わかったつもりになって、自己満足で終
わる。聞くだけで行なわないなら、自分の生まれつきの顔を鏡で見
るようだと。自分をながめてから立ち去ると、すぐに見たものを忘
れてしまうと言われている。

御言葉を聞いて、すぐに忘れてしまい、何も無かったことになる。
結局、聞かなかった事と同じだ。それなら御言葉が血となり肉とな
る事がなく、実を結ぶ事が決してないと。真理の言葉は、行なう時
に初めて、豊かな実を結ぶ。良いお話だと、御言葉を聞いて、それ
で終わりだろうか。しかし、すぐに忘れ去る。何も無い時はよいが、
試練の時に立ち行けず、倒れてしまうと言っている。

「しかもそれはひどい倒れ方」だと。御言葉を実行する時に、実を
結んで行き、どんな試練が来ても決して倒れない。聞いた御言葉を
一心に見つめて離れない人は、事を実行して行くと。今、必要な事
は聞いたままでなく、聞いた言葉を実行することだろうか。実行で
きるよう、祈り求めよう。主は助けて下さる。
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ひとつの御言葉でも、それを見つめて実践していくなら、一日に何度
も助けられる。聞いても流してしまい、すぐにいつもの自分になっ
てしまうが、意識して御言葉を実行したい。


2025年07月30日(水)

「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、 かえって乏しくなる者がある」箴言11:24。


「受けるよりも与えるほうが幸い」であり、「人の益を計り・・惜し
まずに施し、喜んで分け与えるように」「少しだけ蒔く者は、少し
だけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取る」とあり、御言葉
は、与えることの溢れる祝福を伝えている。人は、どんな事が喜び
で、どんな事に幸せを感じるだろう。それは、切なる願望が叶って、
欲しかったものを得た時だろうか。

又、様々なプレゼントや、不意の頂き物や、人からの好意を受けた
時、また、感謝された時かも知れない。生まれつきの肉の性質は、
願いが叶う事、欲望が満たされる事、もらう事に喜びを感じるもの
だ。そして得たものは放したくない。握りしめていたい。損をする
のは嫌で、得をしたい。与えるより、受けたい。

しかし、御言葉は、受けるより、与える方が幸せだと言う。この世
とは正反対の、全く新しい価値観だ。愛するには、時間と労力を、
所有物を、犠牲を献げる事が必要だ。犠牲無くして愛する事はでき
ない。何かを与えるとは、自分自身を与える事になる。主の生涯が
まさにそれであった。何もかも、命までも与え尽くされた。

御心に従って与えて行く時、世への執着、金銭への執着、貪欲から
守られる。天に視点を置く生き方にされる。自分の時間と労力を、
家族に、周囲の人々に、与えられるよう祈ろう。自分のしたい事を
少し脇に置く時、与える事の御霊の喜びを経験し、味わう者とされ
る。
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受ける事だけに喜びを求めていると、虚しさに気づかされる。与え
るための愛がない事にも気づく。愛せるように祈りたい。御霊に導
かれた事を一つ、一つしていこう。


2025年07月29日(火)

「私の時は、御手の中にあります」詩篇31:15




天の下では、何事にも定められた「神の時」がある。そして主のな
さる事は、時にかなって美しい。早くも遅くもなく、ピッタリの神
の時がある。私たちの祈りが答えられる、最善の時があり、私たち
のなすわざにも、最善の時がある。それなら信仰人生において、そ
の「神の時」を待ことが非常に重要だ。

私たちは誰しも、待つ事が困難で待てない。待つ事が苦手だ。動く
方が楽だし、何かしている事で、安心できる。じっと待つ事は、不
安や恐れ、焦りとの戦いだ。アブラハムも待てないで、失敗した。
75歳の時に子を与えると、御言葉を受けたが待てずに、86歳の時に
自分の思いで動き、女奴隷によりイシマエルを得た。

肉の行ないは、秩序の乱れ、混乱と妬みや争い、根深い問題を引き
起こした。100歳の時に、約束の子イサクを得た。エリメレクとナ
オミも、飢饉の時に、忍耐して主を待ち望む事をせずに、自らの思
いで、家族の幸せのため、偶像の地モアブに移住した。家族の幸せ
を求めたが、夫も息子も亡くし、多くの苦しみを刈り取る事に。

今、待つ時なら、「あなたがたの確信を投げ捨ててはならない。そ
れは大きな報いをもたらす」「神のみこころを行なって、約束のも
のを手に入れるために必要なのは忍耐」だ。神の時でなければ、焦
っても物事は動かない。逆に神の時には、微動だにしなかった事態
が、驚くほどにっ動き、物事が実現する。焦らず、思い煩わず、神
の時を待とう。待てるように祈ろう。主は、私たちの心を守り、忍
耐を与えて下さる。
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私たちは主の時の中に生きている。主の導きを信じ、導きがよく悟
れるように祈っていよう。もし今ではないなら、失望せず次を待ち
望める。待っている時も感謝だ。


2025年07月28日(月)

「イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が 見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見える ようになった」マルコ8:25



主は、みもとに連れられて来た盲人に、両眼につばをつけ、両手を
当て、「何が見えるか」と問われた。すると「人が見える、木のよ
うだが、歩いているのが見える」と。見えたのだが、鮮明でなく、
人が木のようにぼんやりだった。主は、再度、彼の両眼に両手を当
て、彼が見つめていると、すべてのものが、鮮明に見えるようにな
った。

つまり、まず目が開かれ、ぼんやりと見え後、更に「見つめて」い
ると、「はっきり」見えるようになった。私たちはどうだろう。主
がぼんやりしているだろうか。人が木のように、ぼやっ〜とだろう
か。まず、ぼんやりしている事を認めよう。そこから祝福は始まる。
そこを、あいまいにしていれば、天国へは行けるが、霊的には、ず
っとぼんやり状態のままだ。もっと鮮明に知りたいと、主に祈り求
めよう。

盲人は、じっと見つめた。そのように、多忙な世にあって、主との
親しい交わりの時が必要だ。この世の事に忙殺されているだろうか。
しかし見えるためには、主との時間がどうしても必要だ。主がぼん
やりのまま進むと、自力で、自分の思いで生きてしまう。そこには
心の満たしが無いので、この世の魅力的なものを求め、この世の価
値観に影響受けてしまう。

しかし更に心の奧は、ぼんやりのままで満たされない。このままで
なく、真に主を、主の愛を、真実を、喜びを、満たしを知りたいな
ら、主は必ず与えて下さる。目の前の一歩に従ってみよう。次に展
開して行く。
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自分の思いで一杯なら、主がぼんやりとしか見えないのではないか。
一歩、一歩、主と共に歩みながら、個人的に受ける励ましや、導き
を通して主を知っていきたい。見えていない現状を認めて、主をし
っかりと見つめていたい。


2025年07月27日(日)

「イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて 行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた」 ヨハネ6:15



主が、五つのパンと二匹の魚で奇跡をされ、大勢の群衆を満
腹させられた。その奇跡を見て、皆が大歓声で主をかつぎ上
げ、王にと、連れて行こうとした。その時、主は一人、山に退か
れた。人々は満腹した時に「この方こそ世に来られるはずの
預言者」と言ったが、主はその心をご存じだった。主を信じ、主
に従おうと願ったのではない。

主について行けば、食物がもらえる。生活の心配なく、良い暮
らしができる、利得のためだった。私たちも自己充足、自己実
現のために、従っているだろうか。何のために、主に従ってい
るのだろう。利得だろうか。主は満腹を下さる。自分の願いが
叶えられ、自分の欲望が満たされる。

しかしそうなら、自分の願望が叶えられず、思い通りにならな
いなら、主を離れる。ついて行く意味が無いからだ。自分を中
心に考えるなら、必ずそうなる。主は必要を与えて下さる。しか
し、私たちの思い通りに動かれるのではない。人々が主を「む
りやりに連れて行こう」とした時に、主は退かれた。

私たちはどうだろう。今、自分の願望を、何が何でも通そうと、
つまり、むりやり主を連れて行こうとしているだろうか。そうでな
く、自分の思いの方を明け渡して、主のみ思いに耳を傾けよう。
そして示された主のみこころに従おう。そうできるよう祈ろう。そ
れこそが、何にも代えられない、御霊の喜びと平安にあずかっ
て行ける。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
物ではなく、目に見えない利得を求めて、従っているだろうか。
気づけなかったりする。主の愛ゆえ、様々起きる出来事の中で、
取り扱い、主に従う動機を照らして下さる。きよめて、軌道修正
し、御心へと導いて下さる。


2025年07月26日(土)

「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルの うちのだれにも、このような信仰は見たことがりません」マタ イ8:10



百人隊長が、主のもとに中風のしもべのいやしを求めて来
た。隊長は異邦人で、当時しもべは奴隷であり、奴隷のた
めに愛を持って心を砕く、神を畏れる人物だった。家に来て
もらう資格は無いと、御言葉を求めた。へりくだっていて、そ
して何より神の言葉は成就すると信じきっていた。主は、彼
の信仰に驚かれた。

感心され、このような信仰を見たことがないと。主が驚かれ
たのは「信仰」だ。善行ではない。彼も権威の下にあり、権
威が理解できた。警官は交通整理で車を誘導し、制止し、
動かす。交通違反すると切符を切られる。運転者はそれに
従う。それは、警官に権威が与えられているからだ。軍隊の
上官の命令は絶対的だが、百人隊長は、更に最たる神の
権威を認め、その神の言葉の権威を認めた。

主は「あなたの信じたとおりになるように」と。丁度その時に、
しもべはいやされた。全能の神の語られる言葉には、力と
権威がある。霊でありいのちだ。神の言葉は、その通りに
成就する。私たちは、その御言葉に対してどうだろう。その
権威と力のある言葉を、どう聞いているだろう。

ぼんやりだろうか。聞き流し、すぐに忘れてしまうだろうか。聞
き方はどうだろう。真剣に主に向き合っている事は、御言葉
に従うか、どうかでわかる。主に従おうとする人は、御言葉に
従って行く。難しければ、そうできるよう求めよう。その祈りは
聞かれて、導かれて行く。

・・・・・・・・・・・・・・・・
「おことばをいただかせてください」しもべのために、真剣に、
全身全霊で、主に求めた。御言葉を頂けたなら、成就する事
を信じていたから。真剣に御言葉を求めて行けるよう、御霊
の助けを祈ろう。


2025年07月25日(金)

「イエスは・・シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように 頼まれた・・舟から群衆を教えられた」ルカ5:3



漁師のペテロが前夜不漁の中、朝に「深みに漕ぎ出し、魚をとれ」
と主の言葉を受けた。だが朝に魚はおらず、骨折り損で無駄だ。
しかしペテロは、あらゆる事が見える所に反するのだが「でも、お
ことばどおり」網をおろし、主の言葉に従った。すると驚くべき大
漁だった。なぜ、魚はいないのに、網をおろそうと思えたのだろう。

その朝、ぺテロは網を洗っていた。その時、群衆が、主の言葉を聞
くのに、押し合いへし合いだった。だが、ペテロは背を向け、聞い
ていなかった。徹夜の漁でヘトヘトに疲れ、一刻も早く帰りたかっ
たろう。そんな中、主は、ペテロに舟を少し出すよう頼まれ、舟か
ら群衆に語られた。すると主の声がよく通り、群衆も落ち着いてよ
く聞けた。

ペテロは自分の舟の中で、聞かざるを得ない状況で、主の計らいだ
った。御言葉に耳を傾けた事で、網を下ろすに至った。ペテロは、
御言葉を聞いた事により変えられた。自分の経験値、自然界の常識
では、朝に魚はいない。まして昨夜は、ベテランの自分でさえ一匹
も捕れなかった。判断材料のすべてが反対方向を向いているが「で
も、おことばどおり」、御言葉の方に従った。

ペテロは自分軸から、主の言葉を軸に従うようにされた。私たちも、
自分の思いでなく、御言葉軸で生かされたい。目の前の状況は難し
いだろうか。しかし主の言葉に従おう。又、伝道はどうだろう。な
かなか人は救われない。しかし主は深みに漕ぎ出して、網を下ろせ
と言われる。お言葉通り、再度、網をおろし続けよう。
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どうせ駄目だろうという自分の枠を超えて、主の御言葉が示される。
でも、おことばどおり・・と主を仰ぎ、御言葉に従えるよう祈ろう。
自分軸から出ていこう。主に力を受け、深みへと漕ぎ出そう。


2025年07月24日(木)

「自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この 最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14


最初は、自分を早朝の者に重ねるだろうか。不公平だと。この世で
あればそうだ。就業時間と賃金によるなら混乱する。だがここは、
地上の事でなく、「天の御国」の事を言っている。天の御国では、
先の者が後になり、後の者が先になると。地上では、先の者が先で、
後の者は後だ。御国の価値観は、地上のものと全く違っている。

全部が恵みにおおわれ、恵みが支配する世界だ。地上は、報酬だ。
労働を提供して、報酬の賃金を得る。御国の価値観とこの世の価値
観が、かみ合わない。この世の価値観では、働きに比例しない報酬
に、腹を立てる。納得が行かない。それはこの世では「正しい」こ
とだ。

しかし御国は、全く質を異にする「恵み」の世界だ。「恵み」とは、
労働しないのに、給料を貰える事だ。この世では、それでは経済活
動が成り立たず、混乱する。つまり御国とこの世は、全く別物だ。
主は、早朝の労務者に、雇用契約通りに1デナリを支払われた。約
束を果たされている。9時の者からは「相当のもの」との契約だ。

気前の良い主は、他の者にも同じように、良くしてやりたいと願わ
れた。肉の価値観は、御国の価値観を受け入れない。神の国が成果
主義でなく、恵みの世界だからだ。しかし5時の者にすれば、どん
なに有難かったろう。家族の糧が無く、不安の中、どんなに喜びと
感謝が溢れた事だろう。御国は、あわれみが支配する場所だ。
-----------------
人と比べて、自分はどれだけ働いたかと、この世の価値観に遮られ
ると、すぐに主の恵みを見落としてしまう。自分自身が、主の気前
の良さに与った者だ。主の恵みの中に生かされている。


2025年07月23日(水)

「それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを  知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです」 Tヨハネ3:19



目の前に困っている人がいた場合、どうだろう。良きサマリヤ人の
箇所の、祭司やレビ人のようだろうか。関わるのが面倒で、とにか
く関わりを避けたくて「反対側を通り過ぎ」、見て見ぬふりをして
しまうだろうか。時間と労力を取られたくない、又、仕事が増える
事が面倒で、経済的な犠牲も払いたくない。「寄るべのない者の叫
びに耳を閉じる」だろうか。

人は、自分が聞きたい事だけを選んで、聞いていると言われる。聞
きたくない事は耳をふさぐ。だから聞こえない。そして聞かなかっ
た事にすれば、自分を正当化できて、悩まずに済むし、とがめも感
じなくて済む。しかし御言葉によると、困っている人の必要を無視
すると、「自分が呼ぶ時に答えられない」とある。自分の祈りが聞
かれなくなってしまう。

「口先だけでなく、行ないと真実をもって愛そう」そうする時、
「自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ」
「求めるものは何でも神からいただける」「なぜなら、神の命令を
守り、神に喜ばれることを行なっているから」だと。行ないと真実
をもって愛する時、自らの祈りが主によって聞かれて行く。

何という恵みで嬉しい事だろう。そして主との間に、とがめや妨げ
が無いので、御霊の平安に満たされる。この、世には無い、主の平
安は、何ものにも代えられない。主は、すべての良いわざに溢れる
者とするために、あらゆる恵みを溢れるばかりに与えて下さる。尚
も恵みに満たして下さる。
------------
してはいけない事は祈れても、するべき事には、なかなか気が回ら
ない。耳も目もふさがず、愛する事が出来るようにと、主に求めて
行きたい。足らないものを、主に満たしてもらおう。


2025年07月22日(火)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで あなたのおきてを学びました」詩篇119:71



試練は痛く、辛く、苦しい。そのため試練に会うと「なぜ?」「ど
うして?」と不満、愚痴が出る。しかし主は、「あなたを苦しめ、
あなたを試み、その命令を守るかどうか、あなたの心の内にあるも
のを知るため」と。主が「苦しめ、試みる」と言っている。「苦し
みに会う前には、あやまちを犯し・・しかし今は、あなたの言葉を守
る」と、人は強情で、自分を正当化する者だ。

だが苦しみにより、自分の本当の姿を見せられ、砕かれる。自力に
頼れず、主に頼るしか、なすすべが無いことを経験する。主に拠り
すがって行く。その時、初めて真に主を知る。拠り頼む事の意味を
知る。幸いな経験だ。涙の谷を過ぎる時も、その中で主に従って行
くなら、必ずそこが泉の湧く所となる。祝福とされる。人は皆、試
練に会う。思い通りにならないから、試練なのだが、その時に、二
つの選択がある。

心を屈折させ、反抗し、不信仰に陥る事もできるし、又、主からの
訓練として、しっかり受け止める事ができる。自らの選択だ。そし
て必ずその結果を刈り取る。訓練として受け止めるなら、測り知れ
ない益を得る。平安の実を結ぶ。後に「苦しみにあったことは、私
にとって幸せでした」と必ず言える。苦しみは私たちを、更に主に
近づけてくれる。ついには、あなたを幸せにするためだ。
------------
避けたり、逃げられない試練でようやく主に向き合える。今、思え
ば、試練はすべて主による取り扱いで祝福だったと言える。主に新
しく出合い、試練の中にある主の平安も知れた。


2025年07月21日(月)

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなこと でもできます」マタイ19:26



若くして資産家の青年が、主のもとに来た。そして永遠のいのちを
得たいが、「どんな良いことをしたらよいか」と問うた。主は、彼
に「良い方は、ひとりだけ」と答えられた。主は、人が何かを行な
う問題でなく、良い方である、主の問題だと言われた。しかし彼は、
行なおうとの思いで満ちていた。

主は、この間違いを導くために、律法を持ち出された。律法は、自
分の力で守れない事、自分では良い事ができない事を、教えるため
にある。律法が、いのちを与える事ができるなら、義は良い行ない
による。しかし、すべての人が罪の下に閉じ込められ、義は、善行
でなく、キリストに対する信仰によるとされた。

青年に、良い事は、自分ではできない事を教えようとされた。「殺
してはならない・・あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」しか
し彼は「守っている」と答えた。だが、守れるはずがない。主は心
の中まで問題にされるから、誰一人守れない。彼は、「何がまだ欠
けているのか」と問うた。主は、財産を貧しい人に施すようにと。

もし隣人を愛しているなら、すでに貧しい人々に施していたはずだ。
自分の力では、律法は守れない事を、主は教えたかった。だからこ
そ「良い方」がおられると。しかし彼はどこまでも自力に固執し、
主のもとを去ってしまった。

私たちも、財産=自分の力、自分の行ないだ。自分を捨てられない
だろうか。自分では不可能だ。しかし人にできない事が、主にはで
きる。主のもとを去らずに、主に祈り、取り扱っていただこう。
-----------------
ただ、主の前にありのままの自分の現実を認めていきたい。そうす
る時、主が次に導いてくださるのではないか。出来ない事を率直に
祈れるのは恵みだ。主がしてくださる。


2025年07月20日(日)

「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわって いる子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに 呼びかけて・・笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった・・」 マタイ11:16



人が、相手をさばくのは、相手が自分の思い通りでないか
らだと言われる。自分の思うようにならないから、相手をさ
ばき、非難する。つまりは自己中心によるものだと。主は、
当時の人々を、遊びをする子どもに例えられた。子どもたち
は、一緒に遊ぼうと他の子に呼びかけた。まず笛を吹いて
「結婚式」の遊びをし、楽しげに踊ったが、誰も相手にしない。

それで次に「葬式」の遊びをした。これにも誰も乗ってこなか
った。このように当時の人々は、バプテスマのヨハネが、荒
野でいなごと野蜜で生活していると、「悪霊につかれている」
と言い、そして主が、取税人や遊女の友となり、罪人と宴会
の席についていると、「食いしんぼうの大酒飲み」だと、「罪
人の仲間」だと言った。

結局、主が何をしても批判し、非難した。つまりは、自分たち
の正しさを誇るばかりだった。相手を正しく見て、受け入れよ
うとの思いなど皆無だった。その時に、主は、「知恵の正しい
ことは、その行ないが証明します」と言われた。必ず主の正し
さは、その行ないによって証明されて行くと。

そして「そのすべての子どもたちが証明する」と。クリスチャン
たちが証明して行く。私たちが悔い改めて、御言葉を聞き、
自分の思いでなく、御言葉に従って行く時に、主の正しさが私
たちを通して、証明されて行く。

・・・・・・・・・・・・・・
人々は、ああ言えば、こう言う、で御言葉を聞いても、受け入れ
ず、応じなかった。もし私たちが、主の言葉を聞いて、受け入れ
御霊に助けられ、従う時、主の正しさが証明されるとは、何と
嬉しい事だろう。


2025年07月19日(土)

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜 びなさい」ピリピ4:4



御言葉は「喜びなさい」と言うが、「主にあって」と。「主
にあって、喜びなさい」と言っている。「外側の状況に
あって」喜ぶのでは無いと。私たちは、ハピーな事、ラ
ッキーな事、自分に益になる事があれば、喜ぶ。しかし、
外側のものでなく、「主にあって」の喜びだ。「あなたの
御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこ
しえにあります」

「主は、私が動かされないように、私の右におられるか
らである」「それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大い
に喜んだ」と。外部の何かではなく、主ご自身を喜ぶ、
御霊から来る内側から湧き出る喜びだ。なぜ、「いつも」
喜べないのだろう。主との間に妨げが入ってしまう。困
難が来た途端、何とかしなければと、主が飛んで、自力
で解決しようとしてしまう。

その時、自分の肩に全重荷がかかり、重くて担えない。
それで思い煩いと不安でいっぱいになる。思い煩いとは
「心が分割されること」だ。主を見るのでなく、あの事この
事、あの人この人が気になり、心が分割状態だ。その結
果、喜びも平安も失せる。又、主は「弱さの内に、神の力
が完全に現われる」と言われたが、プライドが、その弱さ
を決して認めたくない。

その時、内側は、悶々と苦しく辛いものとなり、喜びから
ほど遠い。自らの状態に、御霊の気づきが与えられるよ
う祈ろう。主にゆだね、主に信頼を置こう。今までどんな
に良くして下さったか、その恵みを数えよう。そうして行く
時、喜びが戻り、心の奧の平安に気づかされる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
外側の出来事にそのまま反応し、アップダウンなら、いつ
も喜んでいることは不可能だ。「状況にあって」、でなく「
主にあって」とあり、苦しみの時も、必ず良くして下さる
との御言葉に立って、主を信じて行けるよう祈ろう。


2025年07月18日(金)

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないから です」ヨハネ15:5



又、「人の道は、その人によるのでなく、歩く事も、その歩みを確
かにする事も、人によるのではない」とも言われている、私たちは、
主によらなければ、何一つできない事を、日々の信仰生活で経験す
る。自力で頑張りに頑張り、許容量オーバーになり、力尽きてしま
う。すると、出来ない自分を責め、自分で自分を窮屈にし、がんじ
がらめになる。仕事や学業面で成果が出ない。

又、対人関係で、どれだけ頑張っても相手を愛せないし、赦せない
事で行き詰まる。又、祈り、聖書を読む事は、信仰者の生命線だが、
それも、主によらなければ、主の恵み、主の力が無ければ出来ない。
自力では、到底出来ない事を思い知らされる。主の恵みのもと、主
にとどまる事により、御霊によって祈ることができ、御言葉を聞く
事ができる。

主に拠り頼む事により、自分では出来ない事が、成し遂げられて行
く。日々の歩みにおいて経験する。又、主に頼らず、自分の知恵と
力で歩んでいて、気づかない事がある。主に頼らなくても、祈らず
とも、やって行けるので、主を離れて自力で生きて行く。だが表向
きはうまく行くが、主を離れては何もする事ができない。

御霊の実を結ぶことが無い。それは、キリストから離れ、恵みから
落ちている事だと。今、挫折しているなら、主を求め、拠り頼もう。
立ち止まって、主を見上げよう。主は確かに導いて下さる。
--------------
主を頼らず自力で生きて行くとき、気づくと主への感謝も、喜びも
消えている。主が導き返してくださる事は感謝だ。主から離れない
で、いつも主に祈り求めて行こう。


2025年07月17日(木)

「『私は主に対して罪を犯した。』・・『主もまた、あなたの罪を 見過ごしてくださった。あなたは死なない』」Uサムエル12:13



罪を言い表わすとは、自分の犯した罪を「その通りです」と認める
事だ。その時、主は真実で正しい方ゆえ、その罪を赦して下さる。
だが、肉は、認めたくない。プライドが許さないのだ。言い訳で、
自分を正当化する。言い訳は幾らでも出てくる。仕方が無かった、
状況が悪かった、自分は疲れていた、相手が悪い、相手や状況の
せいだと思いたい。

自我は根強く、罪を認める事は非常に痛い。善行で埋め合わせたい。
だが、それでは主の赦しを受け取れない。平安がないままだ。ダビ
デは、バテシバとの姦淫とウリヤ殺害の罪を重ねたが、王であり、
思いのままだ。しかし「黙っていた時には、1日中うめいて、骨々
は疲れ果て」「御手が昼も夜も重くのしかかり、骨髄は夏のひでり
のように乾ききった」平安も喜びも無く、心は苦しみもだえた。

だがナタンの指摘で、罪を告白した瞬間、ダビデは赦された。私た
ちも、そのまま主の御前に行こう。「認めたくない」「自分は悪く
ないと思いたい」「しかし、平安が無く、助けて欲しい」、その祈
りに主は答え、手を取り導いて下さる。主との関係が回復されたダ
ビデは「主にあって、喜び、楽しめ。喜びの声をあげよ」と。

もし、言い訳と弁解に終始し、自分を正当化しているなら、主に助
けて頂き、自らの罪を認めよう。そう出来るよう祈ろう。全き赦し
が与えられ、喜びと安堵、大きな祝福の中に入れられる。弱さのゆ
えに罪を犯してしまうが、赦されて、赦されて、歩める幸い。
--------------
過ちを犯せばすぐに悔い改めるダビデ王に学びたい。言い訳をせず、
主の前にいき、赦しを受け取ろう。言い訳によって自分自身も欺か
れてしまう。祈り、悔い改めよう。


2025年07月16日(水)

「彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、 および彼女の家族も、長い間それを食べた」T列王17:15



エリヤは飢饉の中、主からケリテ川でかくまわれ養われた。川の水
を飲み、食物を烏が運んで来た。主の奇跡だった。川が枯れた時、
主は「ツァレファテのやもめに、あなたを養わせる」と。主に従う
と、やもめに出会い、水と一口のパンを頼んだ。すると何と彼女に
は一握りの粉と少しの油があるだけだった。

普通なら「残念だが上げられない」だろうか。それは母子の最後の
食事で、餓死寸前の状況だった。しかし、そんな中でエリヤは「私
に、まず小さなパン菓子を作り、後にあなたと子どものために作る
ように」と。主の言葉と信仰に立った。そうする時「かめの粉は尽
きず、つぼの油はなくならない」と。やもめは、信仰を、どんなに
か試されただろうか。彼女はエリヤの言葉を信じ従った。

すると、かめの粉は尽きず、つぼの油は無くならなかった。自分の
食べ残りを献げるのでなく、まず第一に主に献げる時、必ず必要を
満たして下さる。神第一にした時、奇跡が起きて、飢饉のまっただ
中で母子は充分に養われた。「恐れてはいけません」「しかし、ま
ず私のために・・持って来なさい」。

今、目の前の事柄で、信仰を試されているだろうか。心が揺れてい
るだろうか。主に間違いはない。やもめのように心を決めて、まず
主を第一に、主のもとへ持って行こう。そうできるよう祈ろう。そ
の時に「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」を
経験する。
-------------
まず第一に主に献げる信仰を祈ろう。主がその信仰を祝福してくだ
さる。主は私たちと共におられ、必要はすべて満たされる。生きて
働かれる主を経験しよう。


2025年07月15日(火)

「・・あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から 食べたのか」創世記3:11



肉の性質が、言いたくない言葉が「ごめんなさい」だそうだ。プラ
イドに触れて来る。「ごめんなさい」の代わりに、善行で帳消しに
したい。プラスマイナスゼロだ。そして自分を正当化する。自らの
非を認め、謝罪するのでなく、言い訳、弁解に終始する。言い訳な
ら、幾らでも出て来る。エデンの園で罪を犯したアダムに、主の方
から「あなたはどこにいるのか」と語りかけられた。

悔い改めの機会を与えるために、「食べてはならない、と命じてお
いた木から食べたのか」と言われた。「あなたは、食べたのか」の
問いなので、逃れようが無い。「私は食べた」「私は食べていない」
の、イエスかノーのどちらかだ。だがアダムは、「この女がくれた
ので、私は食べたのです」と、くれたエバが悪いと言った。

大きな喜びであったエバを「この女」と冷淡に。エバがくれなかっ
たら、自分は食べない。だから自分は悪くない。エバも、主から
「何ということをしたのか」と言われて、「ごめんなさい。食べま
した」と言えた。ところが、「蛇が私を惑わしたから、食べた」と
答えた。惑わした蛇が悪い。蛇が惑わさなければ、私は食べなかっ
たと。人間の罪の性質だ。

罪が入った結果、神中心だったのが、自分中心の生き方になった。
そのため言い訳し、責任転嫁するように。ある人は「あ!いつも言
い訳をしています。今、気づいた!」と。「ごめんなさい」を主は
喜ばれる。主の血潮で赦して下さり、「二度と罪を思い出さない」
と。回復が始まる。何という驚くべき恵みだろう。主のあわれみは
尽きない。
--------------
ごめんなさいを言うより、犯した過ちに加え、もっと苦い言い訳が
簡単に口から出る。本当に謝れない者だ。主には素直でありたい。
そこから新たにされる。


2025年07月14日(月)

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは 私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み 取られます」詩篇139:1



ある女性が、突然、夫から伝道者に召されているようだと告げられ
た。自分自身も主婦として、主に献身して従っているし、いつも御
心に従いたいと願っている。又、宣教は、尊いすばらしい重大な働
きだと思っている。だが、夫から聞いた時に、心が大きく動揺した
のだ。どっと大きな不安に襲われた。

自分は主を信じているし、そんなはずは無いと思うのだが、心は正
直で、隠しきれない。自分の信仰は、どこへ行ったのか。何が不安
なのかというと、経済的なことだった。今まで勤め人で、必ず毎月
定収入があった。それが無くなるなら、子どもたちを抱えて、どう
やって生活して行けるのだろう。

頭では、必要は絶対に与えて下さると、わかっているのだが、いざ、
現実にぶち当たると、自分が、いかにもろいかを見せられた。しか
し、主の御前に、これらすべてをことごとく祈りに持って行った。
そして不信仰を心から悔い改めた。

「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、
あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」「あなたがたの
うちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ば
すことができますか」「・・ましてあなたがたによくしてくださらな
いわけがありましょうか。

信仰の薄い人たち」「だから、神の国とその義とをまず第一に求め
なさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えら
れます」。祈りの中で、主に語られ、励まされ、信じて行きたいと、
改めて自分をお献げした。「神を信じ、またわたしを信じなさい」。
--------------
自分にもわからない本音を主は知っておられる。御霊によって明ら
かにされることは感謝だ。整え、成長させてくださる主に素直に応
え、委ねていきたい。


2025年07月13日(日)

「 私の祈りがあなたの御前に届きますように。どうか、あな たの耳を私の叫びに傾けてください」詩篇88:2


ある人が、非常に世話好きな、隣人に戸惑っていた。親切
は有難いが、頼みもしないのに、次から次と世話を焼かれ
る。心が重いところに、更にプライベイトな事にまで踏み込
んで来られ、苦痛になっていた。だが、そう思う自分も、心が
狭いのではと、とがめてしまう。ストレスとなり、その事を祈り
に持って行き、ずっと祈り続けていた。

ある日、余りにも行き過ぎの行為に、ついに我慢の限界とな
り、切れて、物言おうとした時、「神様!」と叫んだ。瀬戸際で、
主に助けを求めた。その時、口から、ひとりでに言葉が出た。
「すみません。いつもよくしていただいて」。自分で驚いた。主
のあわれみの介入だった。怒りで、取り返しのつかない言葉
を発するところだった。言葉は、取り消しがきかない。

守られた事に心から感謝し、安堵した。すると相手と和やかな
良い関係にされた。自分自身も心が変えられ、平安に対応で
きて、教えて欲しい事もあり、素直に聞けた。すると相手から悩
みの相談を受け、主のみわざに驚いた。そして何よりも、祈りの
大きな力も教えられ、経験させられた。

どんな事をも、とにかく祈りに持って行けばよい事を教えられた。
「わたしを呼べ」と言われる主のもとへ行き、主に祈ろう。「そう
すれば、わたしは、あなたに答え」と言われている。今、目の前
の事態に主を呼び、主に告げよう。主は受け止めて下さり、答え
て下さる。

・・・・・・・・・・・・・・
普段から祈りが積まれている時、主はその祈りに答えて働い
て下さる。自分にはどうにも出来ない事は、とにかく祈りに持
って行こう。祈りを積もう。主の時に、その祈りに答えて下さ
る。心は喜びに満ちる。


2025年07月12日(土)

「 私の祈りがあなたの御前に届きますように。どうか、あな たの耳を私の叫びに傾けてください」詩篇88:2


ある人が、非常に世話好きな、隣人に戸惑っていた。親切
は有難いが、頼みもしないのに、次から次と世話を焼かれ
る。心が重いところに、更にプライベイトな事にまで踏み込
んで来られ、苦痛になっていた。だが、そう思う自分も、心が
狭いのではと、とがめてしまう。ストレスとなり、その事を祈り
に持って行き、ずっと祈り続けていた。

ある日、余りにも行き過ぎの行為に、ついに我慢の限界とな
り、切れて、物言おうとした時、「神様!」と叫んだ。瀬戸際で、
主に助けを求めた。その時、口から、ひとりでに言葉が出た。
「すみません。いつもよくしていただいて」。自分で驚いた。主
のあわれみの介入だった。怒りで、取り返しのつかない言葉
を発するところだった。言葉は、取り消しがきかない。

守られた事に心から感謝し、安堵した。すると相手と和やかな
良い関係にされた。自分自身も心が変えられ、平安に対応で
きて、教えて欲しい事もあり、素直に聞けた。すると相手から悩
みの相談を受け、主のみわざに驚いた。そして何よりも、祈りの
大きな力も教えられ、経験させられた。

どんな事をも、とにかく祈りに持って行けばよい事を教えられた。
「わたしを呼べ」と言われる主のもとへ行き、主に祈ろう。「そう
すれば、わたしは、あなたに答え」と言われている。今、目の前
の事態に主を呼び、主に告げよう。主は受け止めて下さり、答え
て下さる。

・・・・・・・・・・・・・・
普段から祈りが積まれている時、主はその祈りに答えて働い
て下さる。自分にはどうにも出来ない事は、とにかく祈りに持
って行こう。祈りを積もう。主の時に、その祈りに答えて下さ
る。心は喜びに満ちる。


2025年07月11日(金)

「・・蛇が一番狡猾であった・・『あなたがたは、園のどんな木からも 食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか』」 創世記3:1



悪魔は策略を練りに練って攻撃して来る。人をだます時に、9割の
真実に、1割の嘘を混ぜると言われる。全部嘘ならだまされないが、
本当の事の中に、少しの嘘を混ぜられるとだまされてしまう。エバ
に来た悪魔の誘惑も、無神論、共産主義者で、はなから神否定なら、
警戒する。だが、「神」が出て来て「と言われた・・」御言葉もどき
が出て来ると、心を許し、油断してしまう。

又、悪魔の誘惑は、自分の欲望にピタリと合致する。自分の思いが
通っているので、全く気づかない。例えば、相手の悪意ある批判や
態度で、ひどく傷つく。相手への憎しみや恨みで、心は辛く苦しい。
傷つけられたために、苦しいとしか見えない。こんなに辛いのは相
手が悪いせいと、更に相手を憎む。しかし相手でなく、主と自分の
関係がすべてだ。

「人から出るもの、これがが人を汚す」と。相手を憎み、裁くので
平安が無い。主と自分の間が正しければ、状況は関係無く、平安だ。
誰も主の平安は奪えない。又、泥酔や嘘、ギャンブル、妬み憎しみ
等は、ストレートな罪でわかりやすいが、良い事で誘惑して来る。
仕事や趣味は良いものだが、のめり込むと、時間と労力が、多く奪
われてしまう。

「すべての事はしてもよい。しかしすべての事が有益とは限らない」
罪でないが、有益でもない事で時間を使い、主との交わりの時間が
大幅に圧迫されてしまう。もしその事で、霊的な食欲が減退して行
くようなら、主から離そうとの巧みな悪魔の誘惑が来ていて、要注
意だ。主に、助けを求めて祈ろう。
--------------
いつもサタンの攻撃にさらされている事を覚えていたい。警戒して
いたら主に助けを祈れる。そして、確かな御言葉に、忠実に留まれ
るようにも祈っていよう。


2025年07月10日(木)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている からだ・・」エレミヤ29:11



ジグソーパズルをした事があるだろうか。沢山のピースがあり、各
々のピースはバラバラだが、それをそれぞれ置くべき場所に埋めて
行くと、見事な作品が完成する。一つ〃のピースだけを見ると全く
意味不明だ。だがそれぞれふさわしい場所に置くと、素晴らしい絵
が現われ出る。一つとして無駄なピースが無く、一つ欠けても完成
しない。全ピースが必要不可欠だ。

同様に、私たちの日常に起こる一つ〃の出来事も、無駄なものは一
つも無い。時に突如の想定外の事が起きる。「なぜ、こんな事が?
どうして私に?」と非常に戸惑う。わけがわからない。しかしそれ
ら一つ〃の出来事に、主の計画と意図がある。ピースが一つ〃と埋
まり、少しづつ全体像が見えて来ると、どんな絵かが明らかになる
ように、時の経過と共に、主のお心が見えて来る。

一つ〃の出来事が、繋ぎ合わされ、ピタリとはまって、解き明かさ
れる事を経験して行く。全く理解不能だった事の、一つ〃が繋がり、
主のお心が見えて来る。一つとして無駄は無い。今、あなたは試練
の中だろうか。今は、わけがわからないが、それは主の御手から来
ている。一羽の雀さえ、御父のお許しなしには決して地に落ちない。

又、今は、わからないが、あとでわかると言われる。そして、主の
なさる事は、時にかなって美しい。今はわからないが、信仰によっ
て受け止めよう。時間はかかるが、それがベストだったと、後でわ
かるようにされる。主のなされた最善であり、後の日に感謝できる
ようにされる。
--------------
出来事の一つ一つ、どんな見方をしていくかで全く違ったものにな
る。主の最善への道を歩んでいると信仰で見ていこう。今日の一日
を喜んで歩んでいける。


2025年07月09日(水)

「その石で彼は主の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回り に、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った」T列王18:32



カルメル山に、エリヤとバアルとアシェラの預言者、計850人が集
まった。雌牛を切り裂き、たきぎの上に載せ、神の名を呼ぶ。火を
もって答える神が、まことの神だと、エリヤと偶像の預言者たちが
対決した。まずバアルの預言者たちが、朝から真昼までバアルの名
を「バアルよ。答えて下さい」と呼び続けた。しかし何の声もなく、
答えが無かった。

踊り回り、ますます大声で呼ばわり、剣や槍で自分たちの身体を傷
つけ、血を流して叫んだ。しかし何の応答もいっさい無かった。そ
して次は、エリヤの番になった。エリヤは主に呼ばわる前に、何を
したかというと、まず壊れていた祭壇を建て直した。主の祭壇が壊
れたまま、放置されていたからだ。

バアルの預言者たちは自分たちの力で、火を下すよう求めたが、エ
リヤは、そうではなく主に拠り頼んだ。自分の力でなく、自分の頑
張りでなく、主の力により、戦おうとした。そのためにまず祭壇を
建て直した。そして12の石を取り、その石で一つの祭壇を築いた。
現状は南北に分裂しているイスラエル12部族だ。

そして見事に主の火が天から降り、エリヤは大勝利した。私たちも、
どうだろう。祭壇は今、壊れていないだろうか。礼拝の祭壇、祈り
の祭壇、御言葉を聞く祭壇、信仰の祭壇、主を第一にする祭壇・・
今一度、建て直すように言われている祭壇があるだろうか。従う時
に、豊かな実を刈り取って行く。
--------------
祭壇が崩れていくのは少しずつだ。肉の思いに占められて行く。弱
さを覚えて日々、御言葉に応え、具体的に御霊に従いたい。誠実に
主に従いたい。


2025年07月08日(火)

「そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで 行った。水は彼らのために右と左で壁となった」出エ14:22



モーセの導きのもと、イスラエルの民は苦難のエジプトを出て、海
辺で宿営していた。その時、追跡して来たパロの軍隊が、みるみる
内に追いついて来た。前は海で、後ろからは精鋭軍隊の追っ手とい
う、絶体絶命の危機だ。イスラエルの民は恐怖で、神に叫び、モー
セに文句をぶつけた。

奴隷の苦難から、救出されたにかかわらず、エジプトから連れ出し
たりして、一体何という事をしてくれたのかと、不平不満をぶちま
けた。その時、神は奇跡をされ、海の中に道を造られた。そして安
全に無事に、民は紅海を渡った。あなたは今、断崖絶壁にいるだろ
うか、絶体絶命だろうか、神は必ず、道無き所に道を造られる。

「あなたの道は海の中にあり、大水の中にありました。そのため、
あなたの足跡を見た者はない」と。その道は隠されていて見えない。
しかし、信仰持って前進すると、道が、目の前に現れて来る。海が
分かたれ、道が備えられていたように。ある人は進路において経験
した。受験が全部失敗し、すべての希望が断たれ、真っ暗闇だ。

どうすれば良いのか、祈りに祈った。その時に、道が海の中にあっ
た。目の前に突然道ができて、留学の道が開かれた。思いを越えた
恵みだった。ある人は経済的苦境で、進学を断念しようとした時、
ある方面から突然の援助の申し出が来た。

あなたも振り返る時、海の中に道を経験した事だろう。これからも
主は、水は「彼らのために」右と左で壁となったように、道無き所
に道を造り、私たちを安全に導いて下さる。私たちは困難な中も、
前進して行ける。
--------------
自分の知恵では、どうにもならない場面に追い詰められて初めて、
主の栄光を拝する。主にすがり信じて踏み出す時にわかる海の道
だ。怖れないで、信仰を持って前進しよう。


2025年07月07日(月)

「しかし、イエスは女に言われた。『あなたの信仰が、あなたを 救ったのです。安心して行きなさい』」ルカ7:50



主がシモンの家で、食卓に着いておられた時に、一人の罪深い女性
が来た。「不道徳な女、罪深い女」と言われていた。確かにそのよ
うな生活をしていたが、その女性は、主に出会い、罪赦されて大き
く変わった。だが、人々の偏見の目は、そのような彼女を決して認
めなかった。

彼女は、主のもとに香油のつぼを持って来て、泣きながら主の後ろ
で、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして香
油を塗った。主への限りない感謝が溢れ出たゆえだった。客人の足
を、迎える側は、まずきれいに洗うのが通常なのだが、シモンの家
では、それは無かった。主の足は、ほこりで汚れたままだった。

その汚れをきれいにぬぐったのだが、彼女に対する、皆の目は、冷
たい軽蔑の目だった。罪深い女が、と見下して眉をしかめていた。
しかし主は全く違った。彼女の心を、その愛を受け取られ、「この
女の多くの罪は赦されている」と。そして「あなたの罪は赦されて
いる」と宣言された。尚も「あなたの信仰があなたを救った」と。

彼女の主への信仰を認められ、「安心して行きなさい」と。「安心
して」とは、何という恵みの言葉だろう。恐れも不安も心配も、い
っさい必要無いと。又、罪を持ったままなら、傷があり、罪のとが
めがあるなら、安心などほど遠い。痛みや恐れで、安心など不可能
だ。主だけが、罪を赦し、傷を癒し、心底の平安、安心を下さる。
何と感謝な事だろう。
--------------
どれ程の罪を赦されて来たことだろう。罪を赦され、主の御そば近
くに歩める。大きな愛の行為は出来ないかもしれないが、全き赦し
を受けた感謝をもって主を愛していきたい。


2025年07月06日(日)

「しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう・・それは 主よ、私があなたを待ち望んでいるからです」詩篇38:13



ある時、ふっと心が暗くなるだろうか。そんな時、他者の
態度や言葉に傷ついているだろうか。恐れや動揺が来て、
思い煩い、不安に、又、イラ立ち、怒りにさいなまれてしま
うだろうか。人の言葉に振り回されてしまう。あの言葉、こ
のひと言で、プライドが傷ついたり、猜疑心で落ち込んだり
・・。
人の言葉が、心を占めている状態だ。大切な主と御言葉
が飛んで、人の言葉に飲み込まれ、支配されてしまう。無
意識にも心の奥に、人にどう思われるか、人の評価、賞賛
を求めていないだろうか。人に受け入れて欲しい、良く思わ
れたい。そのため、人の目が気になって仕方がない。

そんな時は、人の言葉でなく、主の言葉に耳を傾け、御言
葉を求めて、心を満たして頂こう。ペテロも、隣のヨハネが
気になって仕方が無いが、主から「それがあなたに何の関
わりがありますか。あなたはわたしに従いなさい」と。「わた
しに従え」と横でなく、上を仰ぐようにと。

又、理不尽な言葉に対しては「人の語る言葉にいちいち心
を留めてはならない。あなたのしもべが、あなたを呪うのを
聞かないためだ」「しかし私には聞こえません。私は耳しい
のよう」耳しいになる必要がある。

人を恐れる心の奧に「わたしは人からの栄誉は受けませ
ん」と主が言われたが、人からの栄誉を求める心があるか
も知れない。心の内を照らし出される時、主を信頼する新
しい歩みへと導かれる。

・・・・・・・・・・・・・・
心には、サタンから投げ込まれる「思い」、沸々とわく肉の
思い、又、御霊の思いが絶えず飛び交い、混線する。サタ
ンからの思いに引き込まれないよう、祈っていよう。祈りと
御言葉が力だ。御言葉を思う時、心が守られる。


2025年07月05日(土)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに 人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


新生した誰もが、生まれつきの古い人、肉がまだある。その肉は、
自我であり、それは「自己中心」と「虚栄」だと。その「自己中心」
と「虚栄」が、教会の一致を妨げるとある。つまり、トラブルが起き、
交わりが損なわれ、混乱がある時、そこに「自己中心と虚栄」があ
ると言っている。「自己中心」とは自分の事しかなく、自分の利益を
求め、他人の事を顧みないことだ。自分勝手でわがままだ。

「虚栄」とは、実質が無いのに、見せかけを誇ることであり、自分
は、他人よりも優れているとうぬぼれることだ。そのためパウロは
「自己中心」や「虚栄」でなく、「へりくだること」「真の謙遜さ」を身
につけて成長することを言う。教会の中に、又、対人関係の中に、
波風、仲たがい、トラブルが起きる時、その自己中心と虚栄の問
題に目を向けよう。

各々が、自分の利得を求め、自己主張して行くと確執が起きる。
その時に、自分は正しく、相手が間違っていると思うので、批判、
非難となる。相手も、同じように自分が正しいと思うので、衝突す
る。この時に、相手を自分よりもすぐれた者と思う、へりくだりが
必要になる。この場合、意見が同じという事でなく、その心の態度
のことだ。

異なった意見を自由に言えて、各々が、相手の立場にも立って考
えられることだ。そこに祈りがある時、御霊が働いて、調和が与え
られる。主の御心を求めて行く時、そこに一致が与えられる。それ
は、主の栄光を求め、相手の立場にもなって考える。相手の賜物
を認め、主の栄光のために用いられる事を喜んで行く。争いが起
きたなら、祈り、もしや自らに自己中心と虚栄が無いかを。御霊に
探って頂こう。

・・・・・・・・・・・・・・
サタンが、絶えず自己中心へ〃と誘惑して来る。肉と合致するので、
肉はそれを喜び、誘惑に乗ってしまう。自分第一だ。しかし御霊は
そうではない。へりくだりを求められる。自分に死ぬこと。しかし豊
かな実を結ぶ。御霊の方に従い、一歩一歩歩もう。


2025年07月04日(金)

「こうして、メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、 王の食卓で食事をすることになった」Uサムエル9:11



メフィボシェテはヨナタンの息子で、サウル王の孫だった。当時は、
王が代わる時に、前王の一族は皆殺しにされた。いつ反乱を起こす
かわからないからだった。まして、サウル王はダビデ殺害に燃えて、
絶えず命をつけ狙われ、追い回され、実際殺されかけた。メフィボ
シェテは、それもわかっており、ダビデに殺されて当然で、身を潜
めていた。

しかし彼の父ヨナタンは、サウルの息子でありながら、親身にダビ
デを守り、命を助けてくれた、ダビデの命の恩人だった。その親友
ヨナタンとの約束を果たしたいと、メフィボシェテを王宮に招き入
れた。サウルの土地をすべて返し、王宮で生活し、他の王子と同様
に、自分と共に食事をするよう告げた。「私の食卓で食事をしてよ
い」とは家族の一員とするという事だ。

サウルの子孫であり、更に両足が不自由で、王のために何の役にも
立たないメフィボシェテは、なぜ自分が、そんな待遇を?殺されて
当然の身であり、非常に戸惑い驚いた。このメフィボシェテは、私
たちの姿だ。御父に敵対し、罪を犯し、永遠に滅んで当然の者だ。

その私たちが、ただ御子の十字架の贖いゆえに無罪放免とされ、永
遠に神の子とされる。そして主の食卓で食事ができ、豊かな交わり
の中に入れられた。何という待遇で、恵みだろう。彼は「いつも王
の食卓で食事をした」通り、私たちもいつも主の食卓で、溢れる恵
みと祝福を味わおう。
--------------
ただ、主の恵みによって罪が赦されて、考えも及ばないような主と
共に歩む人生を与えられた。主のご愛に感謝し、恵みを無にしない
よう、味わいながら生きたい。


2025年07月03日(木)

「ヤロブアムの奧さん。なぜ、ほかの女のようなふりをしている のですか。私はあなたにきびしいことを伝えなければなりません」 T列王14:6



ヤロブアム王の子どもが、病気になった。そこで王は妻を変装させ
て、預言者アヒヤのもとに、子どもがどうなるかを聞きに行かせた。
だが、主は、アヒヤに前もって、その妻が来る事、変装の事を知ら
せておられた。だが、なぜ、王は妻を変装させる必要があったのだ
ろうか。それは王が、主により高くされ、君主とされたのに、従わ
ず、偶像礼拝をしていたからであった。

自分のために鋳物の像を造り、主を捨て去った。それで自分を隠す
ために、変装する必要があった。都合が悪いからだ。私たちも、本
当の自分を隠すだろうか。弱さをひた隠し、変装する。弱みを知ら
れたくない。だが、弱く無い振りをする事は、自分でない他人のよ
うになり、変装する事になる。「なぜ、ほかの女のようなふりをし
ているのか」。

主の御前に自分を隠さず、正直に自分の本当の姿を認めることが、
大きな祝福の始まりだ。弱さをありのまま認めて行く時に、自分で
ない、他人の振りをする必要がないので、自由にされる。プライド
の重い荷が肩から落ちて、楽になり、あるがままでおれる。信仰生
活が生き生きと喜びとなる。

あなたはプライドゆえに、自分でない振りをし、窮屈な喜びのない
日々だろうか。まず変装し、良い人の振りをしている事を認め、あ
るがままの姿を主に告げよう。その時、全面的に受け止められてい
て、どんなに愛されているかを知って行ける。
--------------
何が生き生きとした信仰生活を妨げているのだろう。様々な取扱い
を通して気づかされる。主の前に、本音の自分になり、弱さのまま
で愛してくださるその恵みに感謝し、喜んでいよう。


2025年07月02日(水)

「しかし、みこころは一つである。だれがそれを翻すことが できようか。神はこころの欲するところを行なわれる」 ヨブ記23:13



ヨブは、ある日突如、10人の子どもたちを亡くし、しもべたちや家
財、家畜等、すべての財産を失った。更にヨブ自身も、全身に悪性
の腫物ができ、極度の苦痛に襲われた。だがヨブは、御心は一つで
あり、主が欲する事をされると信じていた。主の欲するところは、
しばしば私たちの思いと大きく異なる。時に理解できず、納得が行
かない。

しかし主は、私たちが理解できなくとも、従う者と造り変えるため
に、ある時、理解を越えた事柄を送られる。「前へ進んでも、神は
おられず、後ろに行っても神を認める事ができない」右に行っても、
左に行っても主がおられないと。余りにも厳しい試練の中で、時に
、何がどうなっているのか、どうしてこんな事がと、わけがわから
ない。

本当に主がおられ、主は愛なのかと、思うかもしれない。そのよう
な状況の中で、信仰により「神は最善をされる」「神にはご計画が
ある」「益とされる」「愛されている」と、尚も信じ従う者と造り
変えられて行く。疑いや不安、恐れや思い煩いが来る。悪魔の火矢
が飛び交う。

「しかし、神は、私の行く道を知っておられる」。私たちには見え
ないが、主は先をもご存じだ。それを信じる者へと少しづつ成長さ
せて下さる。時に厳しい試練だが、テストであり、心の内にあるも
のが、調べられ、自分で自分を知る時とされる。そして金のように
出て来る。練られて一段階成長させられる。
-------------
試練の中で、何度も主に問いかけ、答えを求めて祈り続ける。そし
て、どちらに行っても最善だとの平安を得る。主は応えてくださる。
どんな時にも、まっすぐに主を仰いでいたい。


2025年07月01日(火)

「信仰の試練は、火を通して精練されつつなお朽ちて行く金よりも 尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至る こと・・」Tペテロ 1:7



人生には、順境があり、逆境がある。そしてそのどちらも主がなさ
ることだ。しかし、この世の価値観は、順境だけが欲しい。家内安
全、商売繁盛、無病息災、五穀豊穣、受験は合格・・、順境が善で、
逆境が悪との思いが無いだろうか。しかし、逆境も主のなさること
であり、主から来ている。順境は祝福されていて、逆境は祝福され
ていないとの思いが無いだろうか。

受験合格は祝福で、不合格は祝福されていないと。心寂しくなり、
愛されていないのではと。しかしそうではない。逆境の時こそ、む
しろ沢山の霊的学びを得て、成長へと導かれる。愛されている。順
境も逆境も、神のなさることであれば、無意味なものは一つも無い。
逆境に意味があり、目的がある。そして、「それは後の事をわから
せないため」とあり、主は、後の事を伏せておられる。

いついつ病気になる、経済的困窮が来る等、先の事は告げられない
。私たちに、将来の事はいっさい見えず、わからない。それは主に
信頼させるためだ。一足一足、信頼を学ばせられるためだ。先の事
が見えたなら、信仰は必要ない。見えない中で、主を信頼する事が
信仰だ。

逆境の時には、早く解決したい、悩みから逃れたい思いで一杯にな
る。その背後にある主のみ思いに、なかなか思いが至らない。しか
し今、逆境にあれば、主がなさっている事であり、主のみ思いに思
いを向け、教えて下さっている事を悟れるよう、祈ろう。
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主が順境もつくり、逆境もつくられる。主を中心に見る時、闇もま
た光になる。送られてくるものは全て主からと信仰で見ていたい。
必ず、意味があり恵みだ。主を信じていよう。